『アインの弾丸 下』 ... ジャンル:リアル・現代 アクション
作者:祠堂 崇                

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 Bullet.X     覚醒


 1


 姫宮恭亜は紫耀学園を出、周囲を全力疾走していた。
 右手に収まる銀の大口径銃、ファイノメイナ。その重さは口径に比例して物凄く重い。
 正直走りにくいが、彼女の大切な相棒であるので捨てるつもりはない。そもそも、よくもまぁこんなバケモノ銃を扱うものだと感心する。素人が使ったら、数発で肩が壊れるだろう。
 だが、恭亜には立ち止まるわけにいかない。
 この銃も、今の保身も、これからの稚拙で即席の作戦さえ、それら全ては彼女を置き去りにして得たものだ。
 蓮杖アインを犠牲にした。恭亜に失敗は許されない。
「くっそ! この辺りなら居ると思ったのに……!」
 彼は紫耀学園に所属している警備学生を捜していた。
 何も警備学生に助けを請うわけではない。いくら銃弾すら避ける特殊訓練生といっても、檜山皓司のあれは異常すぎて絶対に敵わない。
 要は数人の警備学生を掻き集めて檜山皓司の動きを制限するのだ。あとはアインにこの銃を返せばいい。
 ただし、そこへ導くまでに少し問題がある。その方法についてなのだが。
(はぁ〜、俺もついに犯罪者か……銃刀法違反って懲役だっけか)
 極度の睡眠不足から生まれる、下らない思考に没頭して走ること十分。
 厳戒態勢の発令しているせいか、居住空間の密集する場所にも関わらず息苦しいぐらいに静かだ。
 恐らく廃屋街郊外での惨殺死体に加え、檜山宅での死体の通報が行き届いているのだろう。檜山にとって余計な騒ぎを起こさなければならない恭亜としては、これは巧妙な工作だ。
 誰か居ないかと辺りを見回し、住宅の連なる地帯に近づいた。道の曲がり角に差し掛かる瞬間に、一人の少女と出くわして慌てて立ち止まる。
 黒髪をショートに揃え、すらりと背の高い凛とした顔立ちの女子高生。白いシャツと白いプリーツスカート、紫耀学園の夏服と左腕に『警学』と書かれた腕章を着けた健康的そうな姿。特筆すべきは腰元に黒く分厚いベルトが回り、そこに変わったフォルムの銃、警棒、トランシーバー、よく判らない小さな筒などが納まっていて物々しい。
 気分転換のように街中を闊歩していたその少女に、恭亜は見覚えがある顔だけに少し驚いた。
「お前……」
「……、姫宮君?」
 放課後、恭亜に謝罪して打ち明けた三人組のクラスメイト。鵜方美弥乃の友達。
 確か聞いた話ではあるが、警備学生はその歩合制を成績に置き換えるという東京の変わったシステムだ。
 つまり、警備学生として働くとその功績が通知表に振られるというものである。おいしいシステムだと思うが、歩合制にするだけの危険性もあるためになかなか志願が集まらないというのが現状だとか。
 恭亜はさすがに面食らった。まさかこんな身近な人間が警備学生だったとは思わなかった。
 黒髪の少女、桃瀬晴香(もものせ はるか)も切れ長の双眸を瞠らせる。
 しばし二人は驚きに言葉を見失っていたが、先に動いたのは桃瀬晴香だった。
「姫宮君、どうしたの? 今は厳戒態勢だから寮から出たらいけないって言われて――」
 警棒へ忍ばせていた手を離して歩み寄ろうとした広瀬晴香は、恭亜の右手に握られる銃に気付いて立ち止まる。
「……姫宮君。ソレは何かの冗談なのかな?」
 声を少し低めて、窺うように訊いてくる。落ち着いていた表情が強張っている。
 そこまで来てやっと恭亜は判断に移せた。というより、打ち解けた級友に銃を向けるのが躊躇われた。
 じわりと一歩前へにじり寄る恭亜に対して、桃瀬は一歩退がって腰元の銃把を指先で触れる。
「まさか……嘘よね、姫宮君。あんたが猟奇殺人犯、なの?」
 恭亜の持つ銃に視線を定めたまま、桃瀬は言う。
 美弥乃の友達として信じたいのだろう。侮蔑よりも困惑めいた表情で窺ってくる。恭亜は胃を搾られるような感覚に苛まれたが、行動に移すほかなかった。今は一刻を争う。
 恭亜は両手で銃を握り、桃瀬に向ける。拳銃は握りなれないが、別に撃つつもりはない。
 だがそれに反応した桃瀬は反射で銃を引き抜いて燃えるような紅蓮の夕空へと突きつける。
「動かないで! 撃った瞬間、信号弾を打ち上げるわ!」
 鋭い一喝。
 互いに再び停滞し、桃瀬は眉根を寄せて悲しげに口を開く。
「どうして。よりによって何故あんたなの? 美弥乃はあんたのことを……っ」
 不意にばつが悪そうに言葉を濁す桃瀬。一瞬なんのことかと訊きそうになったが、努めて残忍そうでなくてはならない。
 ごめん、と心の中で必死に謝り、恭亜は答える。
「なんのことだ? 俺は何も知らないな」
「っ!」その言葉の意味を深く理解した桃瀬は、やっと怒りに表情を暗くする。「あんたはいい奴だと思ってたのに……悪いけど連行させてもらうわ、姫宮君。厳戒態勢中のシグナルパレットは犯人発見のため緊急集結≠諱v
 恭亜はよし、と口の中で呟く。我ながら話術の達者さは哀しいくらいに巧くいっている。このまま戦闘のプロを続々と呼んでくれれば、いくら檜山でも隙は生まれる。
 突きつけた銃のトリガーに指をかけて、恭亜はトドメの一言を発する。
「だったら呼べば? 友達を裏切るわけじゃないだろうな」
「……あたしを舐めないでほしいわ。あたしは治安のためならあんたは売れるから」
「へぇ……じゃあやってみろよ」
 したり顔を作って挑発する。
 本当は今すぐにでも銃を下ろしたいところだ。桃瀬含む美弥乃達の日常を護るためとはいえ、級友に銃を突きつけるなんて嫌で嫌で堪らない。
 早く撃ってくれと、顔に出さないように切望する。
 そして、彼の思惑通り桃瀬は表情を殺した。完全に軽蔑の毛色を見せた。
「……昼のアレも作り物だっていうのなら、最高で最低の演技ね。あんたなんかに懐いた美弥乃が可哀相」
 一瞬、恭亜にとってこれ以上ないほど辛い、哀しげな顔をした桃瀬はすぐに睨んだ。
「さよなら。せいぜい牢屋で臭い飯でも食って後悔なさい」
 月並みな、だがあまりにも現実味を帯びた台詞。
 白銀の大口径銃を下ろし、打ち上がった直後を見計らって走れるように足に力を入れる。
 恭亜は思わず暗い笑みとは違う、本心からの苦笑を浮かべてしまう。
 まったく最悪な奴だと自分でも思う。そんな風に思えて、桃瀬の指先がトリガーを引き絞るのを見つめていた。

 その桃瀬の背後に一人の人物が立っていることに、気付くまでは。

 空気を吸い損ねた恭亜が、一息遅れて何かを叫ぼうとした寸前。
 すくん、と。
 濡れた障子に指を通すような、人体を刺突するにはあっさりすぎるほど軽い音が小さく響く。
「――あ?」
 桃瀬は焼ける感触に左手の力が抜けた。信号弾用の小銃が零れ落ちる。
 右脇腹から、緑色の無骨なナイフが突き出ている。そこを基点に、白い基調の制服がどんどん紅く染まってゆく。
 込み上げてくる熱に咳き込む瞬間、緑のナイフが引っ込む。操り糸を切られた人形のように桃瀬はその場に倒れこんだ。
 何とか首だけでも振り向く。
 そこには夕陽で翳ってよく顔の見えない男が立っていた。目を細めて男の顔を見定め、桃瀬の表情が戦慄に歪む。
「ひ、や……?」
 呼ばれた男は、血に濡れたナイフを掴む腕をかざす。
 そしてなんの躊躇もなく、それは振り落とされた。
 さくん、と。冗談のように桃瀬の右肩から左腰まで一気に切り裂かれる。
 どぷりと血が弾け、やっとという遅さで桃瀬の口元から鮮血が吐かれる。
 あまりに呆気なく、あまりに鮮やかすぎるほど、桃瀬はその場に仰向けに倒れた。
 その刹那の殺戮の一連を、恭亜は呆然と見つめる。言葉は出ず、思考は停まり、体は動かない。
 どうして檜山がここに居るのか。
 アインはどうしたのか。
 それら、作戦の失敗を意味する思慮は浮かばない。
 恭亜は初めて、非日常的な殺戮を目の当たりにしてしまった。
 傷つけたくなかった人間が、目の前で、恭亜のせいで、檜山に襲われた。
 桃瀬の傷は一見派手に見えるが、出血はそこまで酷くは無い。脇腹を貫通した一撃が内臓を破ってやいないか心配だが、恭亜にはそれを懸念するだけの余裕が取り払われる。
 その向こう。紅蓮を背に、暗がりに表情を悟りにくくさせる、血と砂に塗れた制服姿の茶髪の学生。
 人という日常を被った、非日常の悪魔。
 恭亜は身を震わせて一歩退がる。恐怖のあまり、自然と檜山から遠ざかろうとする。
 だが、檜山はその口元を裂けるほどに歪ませて哂う。
「姫宮ぁ……見つけたよ、見つけたぜ見つけたぞぉおおお!!」
 甲高い絶叫。それだけで恭亜は肩を竦ませる。
「クカハハハハハハハハァッ! なにビビってんだよ姫宮ぁ……テメェにいちいちリアクションする権利あんのかよ、ぁあ?」
 檜山はあろうことか、倒れ伏して浅い呼吸を繰り返している桃瀬を踏み越えて近づく。
 うぐ、と桃瀬の短い呻きを耳にすることなく、檜山はゆっくり恭亜との距離を詰めてゆく。
「いや、いいぜいいぜビビってくれよ。泣いて喚いて許しを求めて、クソみてぇに殺されてろよ! くそったれ!!」
 もはや恭亜の知る檜山皓司は完全に失われていた。外見ですら彼の面影はなく、狂気的に酔いしれる異形。
 恭亜はがたがたと震えだす脚を心中で叱責し、振り向いた。
 桃瀬に背を向けたことに、吐き気を催すほどに苦痛を覚えて。
 途端に、背後から嘲笑が響く。
「ひ、ははははははははっ!! おいおい逃げんのかよぉお! だっせぇ! だっせぇな姫宮ぁ!! 死ぬ間際で見苦しい姿は見せんなよ、一兵卒も背は傷つけさせねぇんだぜぇえ!?」
 直後、ピシュン! という空気の擦れる音が炸裂し、舗装された道が切り刻まれる。
 咄嗟に頭を両手で覆い、姿勢を低くして逃げるように走る。
 アインが負けたとしたら、この作戦は終わりを意味する。
 悪魔の残虐を背に、恭亜は学園へと向かった。





 夕陽を遮る豪腕が振り落とされる。
 かろうじてそれを横に転げて、アインは体勢を整えるためにグラウンドの砂利の地面に手を突く。
 完全な失態であった。オーラム・チルドレン同士の戦闘によって深淵に歪みが生じてABYSSが湧き出ることは聞いていたが、ABYSSの発現自体が非常に稀なことだ。こんな最悪のタイミングで出てくるとは夢にも思わなかった。
 咄嗟に身を強張らせていたが、丸太のような腕の薙ぎ払いを受けて、腹部が泥を流し込まれたように重い。
 もしかしたら、肋骨にヒビでも入っているかもしれない。
 口腔に広がる血の味を吐き捨てて、アインはゆっくりと立ち上がった。
 灰褐色の皮膚一色のゴーレム。粘土というよりコンクリートで出来ているようなごつごつとした三メートルの巨躯。
 口からは白煙のようなものを吐き出し、二つの丸い眼光がギンと睨みつけてくる。
 このままではまずいとアインは表情を曇らせる。
 自分が切り裂き魔≠足止めしているうちに付近の警備学生を集め、切り裂き魔≠フ攻撃を封殺するつもりだった。多少のダメージなら考慮の内だったが、これは計算外だ。
 故に、完全な失態。
「……まったく、ウチもアホしとらんと、はよ行かなあかんな」
 手を握ったり広げたりして、両腕の具合を確認する。切り裂き魔≠フ斬撃をモロに喰らったが、殺傷力の乏しい技であったのが幸いして、出血が派手な割には指先まで平常通りに動いた。
 アインは右腕を一振りし、腕に塗れた血を払う。
 ぱたた、と血が地面に落ち、強まった気配に感づいたABYSSはアインを見て巨躯を震わせる。
(さて、どないしようかな。ファイノメイナはアイツが持っとるし、いくらなんでも素手は無理――)
 睡眠不足でなけなしになった思考を働かせるアインは、ABYSSの足元で折れている木刀の残骸を見つける。
 木刀は中ほどから力任せにへし折られている。多分、ABYSSが踏みつけたのだろう。
「……」
 アインはじっと木刀を見つめ、瞬時に作戦を練る。考えて戦うのは苦手だが、愚痴は言ってられない。
 先に動いたのはアインだった。
 左脇を押さえて疾走する姿を捉えたABYSSが、咆哮と共に腕を振り上げる。
 良く見れば、どこかで見た気がして気付いた。こいつ、昨日の廃屋街のABYSSと同形種だ。
 アインは踏み込んだ足を捻るように回転させ、寸分のずれを作る。
 刹那、怒涛の轟音。
 ハンマーのように振り落とされる一撃を、僅かセンチ単位で避ける。背中に衝撃が叩き、忘れていた肋骨が痛む。
 湧き上がる苦痛の吐息を押さえ込み、アインは地を割る豪腕に足を掛ける。
 ABYSSはその腕を上げるが、振り上げる反動を利用してアインは一気に蹴った。
 木の葉のように軽い身体がヒラリと舞い踊る。宙を旋回し、ABYSSの首の無い頭部にしがみ付く。
 ABYSSは自分の顔ごと殴るわけにはいかないことは理解できているらしく、頭を目一杯に振ってアインを引き剥がそうとした。
 アインには、それが好都合。
 左右に乱暴に振り回されるのに、軽やかに身体を振って合わせる。か細い腕を掲げ、その丸い眼を殴った。
 ガラスを割ったように、膜に亀裂が奔り、プシュッ! と血が爆ぜた。
 同時に、悲壮なまでの絶叫が響き渡る。
「ギ、シャアアアアアアアアァァァァアアアアァァァァアアァァアアアアアアアアアアァァァアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
 至近距離でその絶叫を受け、アインはズタズタの両手で耳を塞いで落下する。
 三メートルの落下。激しく背を打ちつけたが、雨でぬかるんでいる砂利の地面で良かった。
 象のような足のふもとに落ちたアインは、それを掴んですぐに立ち上がる。
 ABYSSは憤怒に全身を震わせて、手を降らせてくる。掴まれそうになったアインは再び跳んで腕に乗ろうとしたが、
「――う、ぐっ」
 肋骨の激痛が酷く、一瞬反応が遅れた。
 よろけた体を掴み取ったアインを、人形のように軽々と持ち上げる。
「うあ、うぅ……!」
 綺麗な顔を苦痛に歪ませるアイン。目の前に、右眼を破砕されて紅い血を流すABYSS。
 少しずつ、両腕ごと掴んだ握力を強めてゆくと、比例してアインの表情が青ざめてゆく。
 さらに、ぐん! と圧迫され、白い喉から「かはっ!」と息が吐き出された。
 ぎしぎしと骨が軋む音が漏れ、アインの澄んでいた瞳が濁る。
「う、あ、あ、がっあああああああああっ……!!」
 ピアノの高音キーをまとめて叩いたような悲鳴が響き、意識がスパークする。口の中をわざと犬歯で噛み切って、なんとか暗転しかける視界を繋ぎ止めた。
 だが、上半身をどんどん締めてゆく豪腕に、もう限界が近づいていた。
 このまま握り潰されるのか、とアインが自嘲の笑みを浮かべる。
 せっかく、身を挺してまでアイツを逃がしたのに、失敗してしまった。
 それもこれも、こんなデリカシーもない馬鹿のせいで!
 ギンと強く睨むような笑みに気付いたABYSSが、握力を少し緩める。
 アインは許された呼吸を一度だけして、すぐさま口を開いた。
「今日は踏んだり蹴ったりや……ABYSS討滅で雨ん時に外出て、銃ぶっ放すとこ見られて、アホが契約して暴走して殺害して、それ捜し当てるまで歩き通しで、結局見つけたのに腕ぼろくそ切られて、邪魔されて……」
 強く、
 強く歯を食いしばり、
 ABYSSを睨み、
「おまけに――それら全部やんのに一睡もしてへんのやっ、このアホ!!」
 右手に持っていたそれを強く握り締め、手首を返す。
 ぐじゅり、と肉の裂ける音がする。
 アインの右手には折れた木刀の残骸がある。それを思い切り捻れば、掴んでいるABYSSの手の平が折れて節くれだった部分で裂かれる。
 その痛みに耐えかねたABYSSは、手の力を予想外に緩める。
 開いた手に足を突っかけ、軽く跳躍。
 ABYSSの頭部、本来の人間なら首のある部分に足を乗せ落ちる瞬間に、木刀を折れた方から突き刺した。
 膜の破砕された右眼。
 どちゅん、と生々しい音が内側へと届き、丸い眼に木刀が突き刺さる。
 ABYSSの咆哮。
 その中で、アインは今度は優しく笑った。
 まるで、眠る子をあやす母親のように、柔らかく、総ての者を魅了する天使のような微笑みを浮かべ、
「深淵へお帰り。眠りについて、安らいで、在るべき世界となり人間と交わるその日まで……」

 そして、アインは足を離す。
 重力の落下に従う寸前、身体を回転させて足を薙ぐ。
 中途半端に突き刺さっている木刀の柄尻を、杭を打つ槌のように蹴った。

 頭部に完全に埋まる木刀。脳を破砕されたABYSSはもう絶叫すらできない。
 静かに、力尽きるように、後ろへと傾く。
 無骨な巨躯が、灰燼へと変わる。霧のように虚空へ溶けてゆき、背が地面につく頃には一陣の風すら無い夕焼けのグラウンドの中心で掻き消えた。
 死因となった、おびただしい血を受けた木刀が、カランと地面に転がる。
 耳が痛くなるほどの静寂のなかで、アインは胡乱な眼に強引に光を戻す。
「ほんま、に……厄日や。護らなあかんのはウチの役目ちゃうんか、アイツは……」
 ずるずると、疲労と激痛で上がらない足を引きずるようにして、歩き出す。
「他人のルーチンワークに足突っ込んどいて、偽善者やないか。なんでそない奴なんか羨まし思うんやろな、ウチ……はは、アホや。最低やろそんなん!」
 アインは、歯を食いしばって覚悟を決め、思い切り自分の左脇腹を殴りつけた。
 びりびりと焼け付く激痛で気絶しそうになるが、口の中の噛み切った部分をさらに噛み、耐え切る。
「〜っ……! 行こうやないか。見とれやアホ、今すぐ行って、アイツの偽善者っぷりに呆れさせたる」
 腹部を押さえ、ただ一人残された惨劇の舞台を走り出す。
 最低なまでに優しい偽善者へ、それ以上に最悪な狂気の刃を振るう男を止めるために。





 2


 彼の世界は虚無を意味した。

 いつだって、自分の力は叶うはずの未来の一歩手前で立ち止まる。
 誰かが出来ることが、もう少しで出来なかった。
 彼はいつだって欠けていた。
 誰にでも彼は完璧≠ノ見えた。実際にそうだった。
 彼は赦されていた。天才であることを。
 彼の思慮するところはいつだって理想を現実にするだけの確率を叩き出した。
 彼の行動するところはいつだって相手の意思など無碍するほど崇高であった。
 誰しもが彼を信頼し、誰しもが彼を懇願し、とある者は彼を敬ってこう呼んだ。

 神である、と。

 だが彼は狂った。
 駄目だった。
 人々の描く空想に選ばれて、勝手に神扱いされる。それに応えられなかった。
 いや、違う。
 応えようとしなかった。
 自分が完璧であることなど、どこにもない。
 気付いていたのだ。
 理想を現実にするだけの確率を叩き出せる思慮で、
 相手の意思など無碍するほど崇高なほどの行動で、
 自分は、誰の神にもなれないことを、演算できていた。
 そして、彼の思慮と行動が神がかりであるからこそ、それは的中した。
 故に彼は欠けた。
 未来も過去も、現在でさえも、彼の存在意義は欠いたもので表された。
 完璧なまでに神格化された、究極的に矛盾した無の世界。
 彼はいつだって欠けていた。
 欠けている彼には完璧であることは出来ない。
 だが、誰も気付かない。
 一度信じ、求め、完璧でなければ彼が彼でいる必要性に疑念を浮かべた。
 なんて身勝手で、なんて残酷なものだろう。
 しかし、彼には欠いたものを埋める力はもう無い。それに到達するどころか、己の真意すらも欠いてしまったからだ。
 所詮、彼は神にはなれない。
 ただ単に、人よりも優れたものを神から授かっただけの、同じ受容者でしかない。
 与えるモノなど、何一つ無いのだ。
 生きることは当たり前で、悩み、苦しみ、いつしか汚れるであろう人間なのだ。
 だとしても彼は神とされる。
 彼は決して望まないというのに。
 不可知なものと決められ、
 無価値なものを求まれて、
 ただ彼を孤独へと追いやるだけの、最悪の牢獄。
 彼は、だから己の意義を欠いた。
 人のようにぐちゃぐちゃに堕落してしまえば、誰も見向きもしなくなる。
 それでも孤独であることからは逃れられないが、それでもよかった。
 誰も神など見なくて済む。神がかりのハリボテは、必要がなくなる。
 犠牲の要る神など死ねばいい。それが己なら、いくらでも殺してやる。
 だが、彼は知らなかった。
 人に近づいて、完璧を得ることが出来ないまでに欠き、彼は遅れに遅れて気付いた。
 今度は、人になりすぎることで生まれる欠陥≠ノ溺れた。
 彼の思慮するところはいつだって理想を曖昧にしか確率出来ないものにした。
 彼の行動するところはいつだって無差別的にまで無碍するほど最低になった。
 誰しもが彼に幻滅し、誰しもが彼を否定し、とある者は彼を蔑みこう呼んだ。

 偽善者である、と。

 ふと思う。このとき犠牲の主体になったのは、一体どっちなのだろうか。
 神がかりという牢獄に押し込まれた彼なのか。生きる術であった幻想を殺された者なのか。
 答えは、誰にも判らない。
 神格化から離脱した彼には、それを理解することは出来ても干渉は出来ない。
 だから、
 いつだって、自分の力は叶うはずの未来の一歩手前で立ち止まる。
 誰かが出来ることが、もう少しで出来なかった。
 彼はいつだって欠けていた。

 故に、彼の世界は虚無を意味した。










 ピシュン!

 空気の抜けるような音が耳を掠め、コンクリートの地面もブロックの塀も屹立する電柱も季節芳しき生垣も、視界を流れてゆく全ては彼の視界から外れた瞬間にズタズタに切り裂かれてゆく。
 既に何度か被弾した恭亜の服装は、ところどころが裂かれて薄く血が流れていた。
 それでも致命傷に至らないだけ幸運と言えた。もう恭亜には恐怖と罪悪とで思考が働かず、目の前の悪魔からただ背を向けて逃げることしか出来ずにいたのだ。
 学園への道のりを逆走しながら、背後を恐ろしい速度で追ってくる悪魔から少しでも離れようとする。
 少しでも距離を縮められたら、殺される。
 恭亜の本能はそう告げていた。
 引き攣った顔で銃を抱え、道を曲がる。ぎりぎりのところで曲がり角の塀が斬撃を受ける。
 ひ、と情けないまでの悲鳴を上げて恭亜は逃げる。無様に、彼の罵るそのままのように。
「弱い! 弱い弱い弱い! 神様みたいだった姫宮君さぁ!! 人間ってばマジで脆くてしょうがねぇよなっ!!」
 談笑するような口振りで、だが誰が聞いても戦慄に言葉を失う壊れた雑言。
 圧倒的に人を虐殺する非日常の言葉を背に、それでも恭亜は何も考えられない。
 犠牲を作ってしまった。
 檜山を非日常に追い込んで、
 即席の作戦で桃瀬を傷つけ、
 アインや美弥乃の事もわすれ、
 なのに、自分の身を護ることもできずに逃げ回って、なんて最低なのだろう。
 正義をかざすことすら檜山の暴力には敵わず、偽善ぶりに悲しい。
「ち、くしょう……ちくしょう!」
 泣きたい。
 やっぱり、自分には何も出来ない。誰も護れない。ただ、犠牲にすることしか出来ない。
 込み上げるモノが目尻に浮かぶ寸前、
「そぉら! 格好悪いくせに粋がるなよ人間!」
 背後の声。
 いつの間にか直線を走っていたことに気付いた恭亜がぎょっとして曲がろうとしたが、遅かった。
 曲がり角に飛び込む瞬間、右脚の脹脛に灼熱が滾る。
「ぐあぅ!?」
 斬撃を受けてよろけた恭亜は、拓けた空き地に入り込んだ。
 打ちっ放しのコンクリート製の土管が積まれただけの殺風景な空き地。
 恭亜は片足をズルズルと引きずって、土管の影に隠れた。
 荒い息を無理矢理にでも押さえ込んで殺す。
 少し遅れて、空き地の砂利を踏む音が近づいてくる。
「あははははー、最高に爆笑ものだよ姫宮ぁ……オレを見下すことばっかだったテメェは、誰一人護ることもできずにオレに嬲り殺されかけてきったねぇ空き地でサバイバルごっこしなくちゃなんねぇなんてなぁ……想像してたかぁおい?」
 檜山はゆっくりとした動きを止める。
 流暢に、余裕の喋りを耳に、恭亜は気配を押し留める。気付かれたら、もう逃げ切れない。
「気分転換にリアルかくれんぼでもしながらちょっとした昔話聞かねぇか、姫宮ぁ。テメェは人間だけど、オレが世界を手に入れることんなった根源だからな。特別に時間をくれてやんよ」
 辺りの土管を調べる気配はしない。空き地の中心に立ち、ただ恭亜にともつかぬ語りを始めた。
「むかーしむかし、とある少年がいました。少年の父親は妻を亡くしても仕事を一貫する秀才でしたぁ。少年にとってその父親は人生の鑑でありましたぁ。少年の夢はもはや、父親が自慢に思えるほどのエリートになることでしたぁ」
 だけど、と檜山は嘲りの失せた抑揚の無い声で続ける。
「ある日、父親は新しい女と結婚しましたぁ……そしてやって来た新しい母親に、少年はどうしても好きになれませんでした。でも少年は父親が仲良くしてやってほしいと言うものだから、一生懸命打ち解けようと頑張りました。頑張って頑張って頑張って……その母親が、知らねぇ男とホテル行くのを見てしまうまではなぁああっ!!」
 突然の怒りの奔流に、恭亜の肩が竦む。
「あの女はただ金だの名誉だのが欲しくて親父に近寄ったんだ!! 愛なんてこれっぽっちも無くて! 挙句不倫相手に逃げられて本気で行き場を失ったからって、土下座して家に居させてくださいって泣いて頼んだんだ!! テメェで裏切ったくせに!! ……しかもそれだけじゃねぇ! 今度はあの親父までもが賄賂めいた出世に手を染めやがった! オレはもう誰も信じられなくなったんだよっ……! 気持ちよけりゃ愛もねぇセックスしまくる女と、ずっと信じてたモンをぶち壊した親父と! そんなクソどもの居る家に帰らなけりゃなんねぇ不快感が判るか!? 何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度もぶちっ殺してぇって! ほんとに何度ベッドん中であいつら殺す妄想したか、判るか姫宮ああっ!!」
 理不尽なまでの怒号を恭亜に放ち、歩き出す。土管の影を探し出したのだと気付いた。
「だからオレは誰も信じねぇって決めたよ! 昨日の体育でオレはテメェに親父の権力振りかざしたよなぁ……あれも結局はただのはったりだ。本気に出られたらさすがに手も足も出なかったんだけどな、まさかテメェの親が警視総監だとは思わなかったよ! しかもあの楓鳴帝学院の出身者! テメェはオレ以上のモノばかり持ってる。いいなぁ、羨ましいよ姫宮ぁ……オレはテメェみたいに天才になれないし、秀才にさえなれなかった。だからオレにはテメェは神に感じた……」
 土管の山から下りて探索を続け、下卑た笑みを漏らす。
「でも、もういい。オレは知ったんだ。テメェは神じゃねぇ、ただの人間で……オーラム・チルドレンの切り裂き魔≠ノ人形遊びみてぇに殺されて終わるだけのクズだ」
 恭亜は足の具合を見て、身動ぎする。
 幸い、声の音源は遠い。
 出来るだけ気配を感じさせずに、恭亜は土管から空き地への逃亡ルートを計る。
 だが、不意に檜山は声色を変えて訊いてくる。
「そういやさあ……さっき蓮杖が変な化け物に殺されかけてたけど、テメェ知ってっか?」
 恭亜の身体が、ギクリと硬直する。
 直接見ているわけではないが、檜山ですら化け物と呼ぶのならあれしかない。
 ABYSS。深淵を意味し、まさしく深淵より出現する日常に在らざる異形。
 まさかアインが檜山を逃がしたのは、ABYSSのせいで
「でもま、いいんじゃね?」
 声は、真上から。
 思わず上げた視線の先に、落ち始めている夕焼け空を背負った檜山が土管の天辺に佇んで見下ろしていた。
 血と砂で汚れた服の、右手に緑のナイフを握った、恐怖。
 その顔には、せせら笑う口元が歪んで映る。
「オレの世界は憎悪なんだってよ。だからオレは人間だったときのオレを見下していた姫宮≠ヘ赦さねぇ」
 檜山は右腕を振るおうとかざす。
「死ねよ、人間だったときのオレの神様」
 ナイフが、振られる。
 斬撃の嵐を放つ神器、ジャック・ザ・リッパー。
 恭亜は思考が弾けて白く視界が染まるのを感じて、叫んだ。
「う、ああああああああああああああああああああああっ!!」
 咄嗟に出た手に握られているのは、銃だった。
 他でもない蓮杖アインの神器、ファイノメイナ。
 ぎょっとした檜山は身体を仰け反らせる。
 ズドン!!
 大砲でも火を吹いたのかと思うほどの轟音が炸裂する。
 あまりの衝撃に、腕が折れたかと思った。だが檜山はぎりぎりで避けたために弾丸の波動を受けて足を踏み外した。土管の向こうに倒れる音を聴いて、恭亜は歩腹全身のように逃げる。
「うざってぇえ!! 余計なこたぁしなくていいんだよクズ野郎がっ!!」
 土管の向こう側に倒れている檜山がジャック・ザ・リッパーを振るうが、元より精度の悪い攻撃だ。慣れてきたとはいえまだ正確じゃない。恭亜の周囲を引き裂くが恭亜自身には被弾しない。
 恭亜は空き地を出て、急いで足を踏む。相手は人間じゃない。それにいくら恭亜といえど脚を負傷している。
 塀に沿って走る。
 早く学園へ行かなければならない。
 信じたいのだ、アインはまだ生きていると。
 たった二日だけの知り合いだけれど、恭亜は彼女の知るものを分かっている。
 いつも寝不足気味で、
 いつも面倒臭がりで、
 いつも大胆不敵で、
 だから彼女はまだ戦っている。
 恭亜には、銃を渡す必要がある。
 行かなければならない。
 たとえ偽善だったとしても、どんな逃避だったとしても、もう失敗は許されない。
 ずるずると引きずる脚で、学園の校舎が見え始めた小道を曲がった。

「……きょうあ、くん?」

 そこに、あってはならない存在が立っていた。
 彼の意思ではなく、知識的なものが彼女を誰かと認識する。
 自然な栗毛を左右でおさげにし、丸い栗色の瞳と人より長めの八重歯が愛くるしく覗く。
 今日は服装がとても可憐だった。淡いグリーンの肩から切ったシャツに、赤いロングのスカートと鍔が長いキャップを傾けて被るあたりが可愛らしい。
 思えば彼女は決して悪くなどない、整った顔立ちをしている。
 確かにアインに比べてしまっては差が出るが(むしろ恭亜が美貌云々を問うのは酷いものだが)彼女はとても魅力のある娘だと思っていた。
 でも、
 だからって、
 あんまりじゃないか。
 恭亜は彼女の友達を傷つけている。
 切り裂き魔≠ニいう非日常と戦い、今まさに彼女と遭うわけにはいかないほどの異質となっているのに。
 どうしてこんなときに、彼女が外に出ているんだ?
 厳戒態勢なのに、という思考が生まれて彼も気付いた。
 彼女は、恭亜を心配したのだろうか。
 だとしたらおかしな話だ。
 彼女を護ろうと決めたのは自分のはずじゃなかっただろうか。
 そのために檜山を止めて、この殺戮の戦場を終わらせる必要があったんだ。
 だからアインと共に戦い、桃瀬を犠牲にしてしまったのに。
 ぐるぐる、と。
 恭亜の頭のなかが白濁する。何も考えられなくなる。
 そこに立ち尽くし、どこか息を乱している鵜方美弥乃は彼の格好を見て丸い目を余計に見開く。
 全身血だらけで、脚を裂かれ、砂塗れになって、巨大な口径の銃を握り締める友達の姿。
 固まったままの美弥乃が口を開く。
「恭亜く、ん……いったい、なにが……」
 血を見たことで青ざめている美弥乃を見つめ、恭亜はどうしようもできなくなった。
 日常に彼女の居場所を護ると誓ったのに、彼女に非日常へと足を踏み入れさせた。遭ってはならなかったのに。
 どくりと嫌な心臓の動きを感じ取り、壊れそうな意識を首を振って引き戻す。
「美弥乃……落ち着いてくれっ。今すぐに――」
 銃をできるだけ背に隠して、美弥乃へと歩み寄ろうとする。

 それが、幸いだったのかは判らない。

 ピシュン! という空気音。
 背中に隠した銃ごと背中を何かが裂く。
 白いシャツが一閃され、血が爆ぜた。灼熱が吹き荒れ、銃を取りこぼして恭亜は前へ倒れた。
「っ! き、恭亜君……!?」
 美弥乃の悲鳴。
 だがもう意識が途切れる寸前だった。
 後頭部から、声が交わされる。
「よぉ〜鵜方ぁ……蓮杖に続いてメインヒロインが続々たぁウレシイねぇ。ひひっ」
「ひや、……」
 恭亜以上に狂気的な姿の檜山を見て、美弥乃はついに後ろへ退がる。恭亜の存在で曖昧だった恐怖が、檜山を見たことで確立したのだ。
 檜山は倒れている恭亜の脇を過ぎようとする。
 視界に足が見えた恭亜は、檜山の足首を掴んで引き止めた。
「よ、せ……檜山……美弥乃は、かんけい……ない、だろっ」
 立ち止まり、その足を掴む手を見下ろしている檜山は、どこまで睥睨する視線で哂う。
「はぁ? テメェにそれを決める権利なんざあんのかよ。言ったっけか? テメェの護りたいモン全部ぐっちゃぐちゃにしてから殺して、それからテメェを殺したいってよぉ……そうでなけりゃオレの気が治まんねぇんだよおお!!」
 掴まれていないほうの足で、恭亜の顔を蹴り飛ばした。
 しかも本当に残酷なまでに、足の甲ではなく爪先で蹴ってきた。シューズだったとはいえ、眼の下を蹴られて右眼の視界が火花が散ったように明滅する。
 それでも、恭亜は檜山の足を離さない。
「がはっ……う、ぐ……たの、む……檜山………俺、はどうなっても、いいから……美弥乃に手を、出すな」
 切なる言葉。
 だがその要求は檜山には逆上しかさせない。
「だ、からっ……テメェのその命令口調がムカつくっつってんだろぉがよぉおお!!」
 さらに足が振りかぶられ、鉄球のように顔を襲ってくる。
 三発、四発と顔を蹴られ、耐え切れずに手を離してしまう。
「くっそが! クソ野郎!! ウゼェ! うぜぇんだよ! なんで他人のことなんか心配してんだよ偽善者!! そんなだからムカつくんだっつってんだろうがよ!! このクズが!!」
 鳩尾に爪先がめり込み、恭亜は呼吸を殺されて血を吐く。
 指一本動かすだけで頭に痛みが奔る。
「もういいよクソ野郎……! テメェ殺してから鵜方を殺すよ、メンドクセェなぁちくしょうがああ!!」
 完全に錯乱している檜山は、ジャック・ザ・リッパーを逆手に持ち替える。
 駄目だ、と思った。
 だが檜山が気を取られているうちに、美弥乃だけでも逃げてくれればいいとも思えた。
 もう犠牲なんていやだ。
 失うぐらいなら、無かったことにしてしまえばいい。
 不敵そうな笑みを浮かべてやろうと考えたけど、頬が引き攣って変な顔になったかもしれなかった。
 最期ぐらいは、勝った気分になってやろうと、

「やめてぇぇ!!」

 恭亜の拙い強さは、一人の少女の悲鳴で壊される。
 倒れる恭亜を庇うように、美弥乃が割って入った。
 どうして、と恭亜は言おうとした。
 なんで逃げなかった? 恐いだろうに。一目見て死の交錯する異常だってわかってるくせに。
 言いたいことはいっぱいあった。口を開くことすら血で溢れて叶わなかったけど、少しぐらい怒りたかった。
「何がなんだかわからないけれど……もうやめて!」
 両腕を広げ、檜山を睨みつける美弥乃。
 やっぱり体が震えている。無理しないでいいのに。今すぐ逃げろ。
 だが、言葉は届かない。
 美弥乃にも、檜山にも。
「……だからさぁ――」
 檜山の声が、恐ろしいまでに落ち着いている。
 やばい、と恭亜は身動ぎする。
 温和な声。嵐の前の静けさのような檜山の、右手がギリ、と強まる。
「や、め……ろ」
 その声に気付いた美弥乃は、それでも振り返らなかった。
「――オレを見下す眼ぇすんじゃねぇっつってんだろぉがよぉおおおおおおおおおお!!」
「やめろ、檜

 ピシュン!

 空気の裂かれる音。
 衣擦れの切ない音。
 果肉を潰す嫌な音。
 喉からの悲鳴の音。
 鮮血が地に降る音。

 痛いほどの静寂に、それらの『死』へと続く一連の音色が奏でられる。
 聴く者の心すら切り裂かれるメロディ。
 何も言葉が見つからない。
 一瞬の停滞は、それでもすぐに終わる。
 頭上の糸を切られたように、美弥乃の身体が後ろへと倒れてくる。
 力なく、ゆっくりと、ゆっくりと、
 恭亜は両腕を広げて彼女の華奢な体を迎え入れる。
 とさり、と身体を抱きとめる。思っていた以上に軽く、思っていた以上に柔らかい。
 仄かな甘い香りは、続く血の臭いと混ざって鼻腔を掠める。
 美弥乃の顔を覗こうとした瞬間、恭亜は凍りついた。
 淡いグリーンの服は真紅が広がり、足元に帽子が落ちる。
 おさげを留めていた輪ゴムは切れ、栗毛の髪が広がる。
 その、顔。
 白く瑞々しい肌は少し汗ばんでいて、暑い中を走ったんだろうと判る。
 穏やかとは程遠い、苦悶の表情。青ざめていて、どんどん生気が失せてゆく。
「み、やの! 美弥乃……! 美弥乃ぉ!!」
 全身の痛みすら麻痺したように、恭亜は絶望を畏怖しながら叫び続ける。
 呼ばれた美弥乃は薄っすらと目を開けて、恭亜を見つけて、
 笑う。
 弱々しく、でも優しく。
「……き、……あ、君……ご、め……護っ……くれ、る……て、言った……のに……ごめ」
 なんで、
 なんで美弥乃が謝るんだ?
 護るって言ったくせに護れなくて、最低なのは自分なのに。
 涙を浮かべて、
 精一杯に笑おうとして、
 『大丈夫だよ』って言いたげにして、
「ごめんね………ごめん……………ご、め……………―――――――」

 ぱたり、と。
 コンクリートの地面に美弥乃の腕が落ち、美弥乃の瞳に消え入りそうに燈っていた光が途切れる。
 眠っている人間でさえ出来ない弛緩。だらりと胸中に沈み、か細かった呼吸が止まる。
 嫌な静けさに、染み渡るように鮮血が広がってゆく。灰の地を染めれば染めるほど、彼女の命が欠けてゆくように。

 夕暮れの厳戒態勢らしい、寂しいまでの静かな空間が生まれる。
 檜山でさえそれを見て貼り付けたような笑みを浮かべているが、何も喋らない。
 恭亜は、ただ心の中に何か無いかを探した。
 後悔、罪悪、憤怒、憎悪、困惑、恐怖……。
 それらの感情が、どこにもない。
 まったくの、無。
 何も考えられない。
 唯一思考できたのは、美弥乃を犠牲にした自分が在るということだけ。
「……みやの?」
 ことりと落としたような声で呼ぶ。
 胸を締め付けるような苦しみを否定するために、美弥乃を呼ぶ。
 美弥乃は、答えない。
 もう、美弥乃は――、
「あ、ああっ……!!」
 表情が悲壮に染められる。
 嫌だ。
 彼女を犠牲になんて、したくない。
 なのに、
 彼女を、死なせた。
 護るって言ったくせに。
 護れないで死なせて。
 何一つ救えず。
「あああアアああああアアアァァァァアアあぁぁアアああぁぁぁああああぁぁああああああぁぁぁあああ―――――――!!」
 絶叫が、夕暮れの世界を引き裂く。
 日常を逸脱した檜山でさえ、その悲鳴に表情を強張らせて一歩退いた。
 恭亜はただ叫んだ。
 単なる、感情が溢れただけの反応。
 そして、

 恭亜の在るべき世界が、壊れた。
 訪れた世界にさえ、何も無いまま。





 3


 その瞬間、紅蓮と瑠璃とが入り混じり、もうじき夜を迎えるはずだった扇情的な背景が潰され≠ス。

 色は、漆黒。

「な、」
 にが起きたの?
 そう言おうとした口が、底知れない重圧感で閉じられる。
 学園を出たすぐのこと。
 少し離れた場所を、ドーム状の黒い壁が包む。五十メートル強の巨大なもので、そびえ立つように街の一部を呑み込んでしまっている。
 一目見て異常な光景。
 蓮杖アインはそれを視界から外さず走る。道を曲がった先には、小道の途中から黒い壁で遮られて何も視えない。
 ズタズタの片腕で、その壁を掃うように振るう。
 ぶわ、と黒い壁は散って、少ししてまた元に戻る。壁だと思っていたのは、黒色の霧だった。
 蓮杖アインは一瞬戸惑ったが、意を決した。息を目一杯に吸い、黒い霧の中へと突っ込む。
 温度的な違いはない。でもやっぱり遠目から感じていた重圧は双肩にのしかかる。
 躓かないように気をつけながら進み続け霧を抜けると、完全な漆黒から仄かに灯りのある場所へと辿り着く。
「――え?」
 思わず口をぽかんと開けたまま固まる。
 光源は、ガスを用いた西洋風の街灯。東京という街には決してない代物。
 それだけじゃなかった。ブロックを敷いた濡れたような石の車道、均一に建てられた煙突のあるレンガ造りの家、道の脇に置かれた馬車引きの荷台、無駄に高低のない段差としての階段、どこを取っても日本とは違う風景。
 蓮杖アインは知らない街並みに足を踏み入れた幻想感に我を忘れる。
 数秒言葉を失い、やっと気付く。
 広間になっている場所。中央に鳥籠のような造形の彫刻が建つ水の涸れた大きな噴水があり、その周りは人が往来するには賑わしいことだろう。
 だが、暗闇に灯りが燈るだけの静寂すぎる広場に、三つの影だけあった。
 血塗れの制服の男子生徒。
 砂塗れの制服の男子生徒。
 男子生徒に抱かれて眠るように眼を閉じる、可愛らしい服を肢体ごと切られた少女。
 鮮血だらけの腕で抱き寄せる青年と、オーラム・チルドレン、切り裂き魔◇w山皓司。
 そして、全くの部外者である少女。
「鵜方、美弥乃?」
 身を投げ打つ鵜方美弥乃の腹には一閃の斬撃が奔り、淡いグリーンのシャツは前面が紅に染まっていた。
 蓮杖アインは沈黙する。状況は充分に理解できていた。ABYSS襲撃によって逃げた切り裂き魔≠ェ、彼を追っていたのだと。彼の全身が痛ましいほど切り刻まれているのがその証拠だ。
 そして、運悪く鵜方美弥乃が切り裂き魔≠フ攻撃を受けたことも。
 だが、判らないことがある。
 この異質な闇の庭園。
 そして、
「……誰や?」
 思わず口に出してしまった。
 それに気付いた切り裂き魔≠ェ、ばっと振り向いてこちらを見る。彼の表情も、かなり硬直していた。
 そう、切り裂き魔≠ニ鵜方美弥乃は判る。
 だとして、

 鵜方美弥乃を抱き留めている青年だけ§@杖アインは知らない。

 白いカッターシャツと深い紅のズボンを血で汚し、黒髪を汗でくしゃくしゃにした、割かし視線が泳いでしまう美形。
 それだけ=B
 蓮杖アインの記憶から、青年のことだけが抜けている。
 外見的特長は姫宮恭亜のそれで違いない。
 だが、本能的なものが青年を別の存在にしてしまう。
 それに気付いているのか気付いていないのか、切り裂き魔≠ヘあれほど拒絶していた人間のようにうろたえる。
「な、なんだよこれ……蓮杖まで来やがるしっ、なんでこんなっ……どこだよここ!」
 そんなのこっちが訊きたい。
 波紋すら許さない水面のように、暗い濃霧に包まれた広場の下。
 青年は鵜方美弥乃をそっと地べたに寝かせ、立ち上がる。暗闇も助長してか、髪で隠れて表情が読めない。
 ゆらり、と夢遊病患者のように切り裂き魔≠ニ蓮杖アインの元へ近づく。それだけで切り裂き魔≠ヘ怖気付き、アインは出来る限り青年に近づかないようにして迂回し、鵜方美弥乃へと走った。
 倒れている鵜方美弥乃の顔は暗がりでも判るほど青い。
 ある可能性が浮上し、ぞっとした蓮杖アインはその冷たい首元に手を添える。
「――……、よかった。息はある」
 ほとんど停まっているような呼吸を耳元で感じ、ひとまず安堵する。次に傷口を診た。出血が酷すぎるせいで目もくれたくないが、傷口に沿った服の部分を裂く。
 露出した肢体に、蓮杖アインはぎょっとした。
 相当の出血があるにも関わらず、傷口はもう血が固まっている。これほどの傷は、小一時間程度で治るものでもない。異常な回復速度に人為性を感じた。
「なにが、起きとるんや」
 視線を向ける。
 じりじりと後ずさる切り裂き魔≠ヨ、青年は歩く。わざと遅くするのではなく、脱力したようにゆっくりと。
 ぴたりと立ち止まる。
 痛いくらいの静寂。
 彼は、腕をかざす。

 刹那、

 轟! と光の爆発が起きた。
 姫宮恭亜の姿をした異質の足元。ブロック調の地面を奔る、暗い紫煙の魔方陣。二重の円の内側に、常人では理解し得ない文字と記号で埋め尽くされる。その中心に立つ青年は少しだけ口を開いた。
 ふと、何かを言ったような気がした。
 切り裂き魔≠ヘ異国の景色と方陣の光景とが織り成す畏怖で思考が定まっていない。
 だから、何かを言うにしても聴こえるわけがなかった。
 でも、何かを言葉にしたのだろう。青年の、口腔が切れて血の溢れた唇が、微かに動いた。
 その瞬間、青年の身体を闇が包んだ。まるで荷物を包装するように黒い布のようなものが全身を覆う。
 しゅるしゅると衣の擦れる音と共に、青年の姿は一新される。
 ズボンと長袖のジャケット、くるぶしまで伸びるマント。その全てが一切の妥協のない、黒。
 制服ごと包んでしまう服装ではあるが、肌に張り付く血だけがおぞましい。
 さらに右腕を横へ広げる。
 ブウゥゥゥゥゥウウン!!
 巨大な蛾の羽音の如き音が一瞬。横に伸びる黒い影が固着され、虚空から剣が現れた。
 形状は日本刀に近い。余すことない黒色と、反りの美しい片刃の細剣。柄が諸手持ちのように長く、鍔が無い代わりにその部分を黒い鎖が無造作に巻き付けられている。
 煌々と淡く輝く魔方陣は消え果て、街灯だけの薄暗い光景に戻る。光源が一方になったことで、刀は暗い光を受けて彩りを妖しく放つ。
 その一部始終を傍観していた蓮杖アインは、信じられないと言わん表情で青年の黒い背を見つめる。
「嘘や……オーラム・チルドレンに接触せずに、深淵に自力で干渉しよった……!?」
 漆黒を身に纏い、暗黒を手に持ち、闇に満ちた園はただの少しも生気を持たない。
 故に、蓮杖アインはぽつりと呟く。
「闇の、楽園……」
 そして、青年は一歩踏み出す。
 切り裂き魔≠ヘその一歩でやっと畏怖に固まる体を動かすことができた。何が起きているかは皆目見当がつかないが、このままでは殺されるということだけは直感できる。
「くそ、やろうが……それがテメェの武器かよ……この、クズのくせに……真似すんじゃねぇよぉおお!!」
 『檜山皓司』を捨てた切り裂き魔≠フ、鬼の形相。
 振り上げた手元に緑のナイフ。演算によって指定した座標の空間を圧縮し、元に戻る際に生じる断層反動を利用して視えざる斬撃を繰り出す切り裂き魔≠フ神器、ジャック・ザ・リッパー。
 横に一閃。次の瞬間には空気が一定量へ急速に戻ろうとする、ピシュン! という音が響く。
 霧を裂いて飛ぶ斬撃は次々と青年へと襲い掛かる。しかも、今度は左右にブレがほとんど無い。
(契約した世界が切り裂き魔≠フ憎悪に反応して能力の精度を上げた……!)
 オーラム・チルドレンの強さの生命線は神器。その神器の性能は契約した世界の真意に如何に近づけるかだ。
 彼の真意は憎悪。他者を憎む心こそがジャック・ザ・リッパーを強化する。
「あかん、避けぇ!!」
 蓮杖アインは叫ぶ。周囲の物を今まで以上に強烈な斬撃が猛襲する。

 キン、

 小さな金属音が鳴った。不快感は無いが風流もない音色。
 漆黒のマントに包まれた腕が振るわれる。
 黒い刀が、青年の前方右寄りの虚空を叩いた。
 刹那、
 薄暗い虚空を奔る刀が、何か≠斬った。ガギィィイン! という刃がぶつかり合うような音が悲鳴を上げる。
「……は?」
 振り切った腕をそのままに硬直する切り裂き魔=B
 蓮杖アインも再びぽかんと口を開ける。
 一瞬の静けさ。
 青年は無言のまま歩を進め始める。ジャケットやマントに繁栄してか、履いている物もアサルトブーツだった。
 コツ、コツ、と石の地面を足音が刻む。切り裂き魔≠ヘビクリと肩を竦める。
「う、わあ!」
 恐くて震える声が出る。腕を振り上げ、ジャック・ザ・リッパーの能力を発動する。
 だが、
 青年はなんの予備動作もなく、ただ右腕だけを振る。すると視えない何かが刀とぶつかる音が弾け、刀身が震えた。
「切り裂き魔≠フ攻撃座標を先読みして、斬撃を斬り落としとる……」
 鵜方美弥乃を抱き起こして、ハンカチで傷口の雑菌を拭っているアインは呆然と言う。
 当の本人はそれが判っていないのか、錯乱したまま腕を乱雑に振り回す。
「な、なんだよっ……! なんなんだよぉ!!」
 直後、不可視の嵐が吹き荒れ、青年を呑み込む!

 キン、

 金属音。直後、
 ズガガッガガッガガガガガガッガガガッ――!!
 青年は身体を決して動かさず、右手に握る刀だけで斬撃を弾く。しかも闇雲な迎撃ではなく、足元や頭上、脇などを擦れ違うだけの斬撃には見向きもしない。自身を襲う斬撃だけを正確に斬り伏せて歩き続ける。
 噛み締めるように近寄ってくる青年だが、切り裂き魔≠ノは退くこともできない。せっかくの憎悪の対象をここで逃がすわけにはいかない。
 どうしても、攻撃が当たらない。あの蓮杖ですら避けきれずに両腕を犠牲にして立ち向かうような、切り裂き魔≠フ名を表す防御不能の視えない攻撃。
 だが、斬撃の嵐の中を、平然と突き進む青年。右に左に刀を振り、次々と斬撃を弾く。
 残る距離は、わずか五メートル。ますます激しくなる斬撃は決して青年を傷つけることができない。
 生身への傷はおろか、腕を振るう度にバサリと翻る大きなマントすら掠りもしない。ただの一撃も受けない。
 あまりに近すぎて自分の攻撃に巻き込まれそうになった切り裂き魔≠ヘ思わず身を退く。
 刹那、その後退が幸いした。
 青年の無駄の全く無い一振りが、切り裂き魔≠フ顔を寸前で通過する。茶の前髪が、チッ、と切られる。
 ひ、と悲鳴を上げて尻餅を突いた。青年は立ち止まり、恐怖に怯えきった切り裂き魔≠見下ろす。
 その時、やっと切り裂き魔≠ヘ青年の顔を見ることができた。
 金、だ。
 暗闇に浮かぶ満月を思わせる、金晴眼。漆黒だらけの背景と、その背景となんら違いの無い服を着込む黒髪の中で、白い肌と黄金の眼が幽霊のように輝いている。
 瞳に揺らぎはない。機械的に切り裂き魔≠見下ろす。侮蔑も睥睨も陶酔も、その眼には無い。
「お、まえ……ほんと、に……姫宮、なのか?」
 怖気を押さえ込み、切り裂き魔≠ヘ問う。
 それは、明確な意思を持って訊いたわけではなかった。ただ反射で確かめたかっただけに近い。
 だが、青年はぴくりと反応する。空いている左手を見つめ、手を見ているのか切り裂き魔≠見ているのか判らない視線で数秒立ち尽くす。
 青年の無言の傍観を好機と見た切り裂き魔≠ヘ、すぐさま振り返って這うように逃げ出す。
 息を乱し、汗ばんだ手の平で地面を掴んで背を向ける。
 なんて無様な光景なことか。
 いつしか同じような気分を二度味わった記憶があるが、切り裂き魔≠フ思考は働かない。
 ただ、目の前の脅威から逃げることしか思いつかない。姫宮を殺すという彼の存在意義はもはやない。
 【憎悪世界】のオーラム・チルドレン、切り裂き魔◇w山皓司は脆くも崩れてしまった。
 日常を捨てた彼に、非日常を放棄することは出来ない。後戻り出来ない者の自棄は、死もない消滅を意味する。
 深淵に、真意を否定される。存在を喰われる。
「い、やだ……いやだぁ! そんなのいやだぁあああ!!」
 まるで駄々を捏ねる子供のように、ジャック・ザ・リッパーを突きつける。
 至近距離からの斬撃の射出。いくら青年でも避けられない。直撃して、致死とはいかないが傷を負わせられる。
 そうだ。死ねばいい。死ぬのはコイツだ。
 切り裂き魔≠ヘ狂気の笑みを浮かべる。
 なんで殺されなきゃならないんだ。オレは頂点に上る人間だ。こんなの障害じゃない。
 なんでもいいから℃Eすんだ。この青年を殺さなければ、己の存在意義が無意味に終わる。
 切り裂き魔≠ヘ貼り付けたような笑みを湛えて殺意を叫ぼうとした。

 だから、オレじゃなくてテメェが死

 キン、
 鎖の擦れる金属音が、彼の言葉を殺した。

 ずぐん、と重い砂袋を落としたような音が聴こえた。
 同時に視界を何かが飛んでゆくのが見える。ただ、街灯の燈りだけの暗闇なので、それが何か判らない。
 思わず、それを目で追ってしまった。それが何であるかを知らなければならないと、本能が告げていた。
 長くて、細いモノ。回転しながら液体を撒き散らして地面に落ちる。ぼて、というなんとも聞き苦しい音だ。
 地面に落ちても、少し遠すぎて、それから視界もぼやけて見えない。
 それ≠ヘ、地面に落ちたまま動かない。ゆっくりと液体を広めながら、地面に鎮座している。
 怪訝な顔のまま見やっていると、ふとその向こうに居る蓮杖アインと目が合う。
 おかしな話だ。蓮杖アインは鵜方美弥乃を抱えて、じっとこっちを見ている。聞いたことも無い生物を見るように、目を丸くして、だけど顔を青ざめさせて。
 滑稽だ。嘲笑が溢れそうになる。一体何が落ちたというのだろうか。
 直後、頭上が明るくなった。
 継ぎ接ぎにしか燈っていなかった街灯が、全て点いたのだ。それのおかげで足元に危ない暗さが引き、やっと落ちているそれ≠ェ何かを理解できた。
 腕だった。
 二の腕あたりから見事に斬り落とされている。
 そこから鮮血が溢れ出ていて、それが液体の正体だった。
 誰の腕だろう、と切り裂き魔≠ヘ首を捻った。
 そうだ、姫宮恭亜の腕だ。切り裂き魔≠ヘ明るく考えた。
 きっと今までにない力が出て、姫宮恭亜の腕を吹き飛ばしたに違いない。
 まさに火事場の馬鹿力というやつだ。切り裂き魔≠ヘ万遍の笑みでその腕を睨んでやった。
 そこで、また気になることに気付く。
 どうもその腕は、服を纏っていない。おかしい、姫宮恭亜はこの暑い気温に似合わない長袖長ズボンだった。
 じゃあ、これは誰の腕だろう。
 そういえば、いやに寒いな。
 切り裂き魔≠ヘ両腕で身体を抱きしめようとした。熱がどんどん失われてゆく感覚が恐くなった。
 だけど、
「――あれ?」
 自分の身体を、抱きすくめられない。熱が急速に失せてゆくのに、左半身を擦ることができない。
 なんでだろう。
 そこで、嫌な予感を覚えた。
 思い出せ。確か姫宮恭亜も真っ黒な刀を振り回していた気がした。
 そうだ。
 至近距離で斬撃を飛ばそうとしたのなら、青年もまた刀を振るえば攻撃できる距離にいたんじゃないか?
(やめろ……違う、こんなのは違う! やめろっ……やめ、)
 やがて、増した光に慣れた目が、その腕に握っているものを捉えた。
 緑色の、人を殺せる力を持つことに疑問を浮かべそうな、

 ナイフ。

「ひぃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
 壮絶な悲鳴が、闇の街並みに響いて消えた。
 ばっさりと斬られた腕を見つめ、涙を溢れさせた切り裂き魔≠ヘ虫のようにのた打ち回る。
 痛みへの恐怖に。死への絶望に。
 成す術がないまま終わることへの悲痛が、口から叫びとなって飛び出る。
 漆黒の夜空の下で、青年は金の眼を伏せて切り裂き魔≠見下ろしていた。
 そこに殺意は無い。
 そこに憐憫は無い。
 そこに、在るべきものは一つも無い。





 4


 檜山皓司は右腕を斬り払われ地面を転げまわっていた。
 漆黒の衣を身に纏う姫宮恭亜は金の眼を揺らぐことなく見つめる。
「……っ」
 アインは鵜方美弥乃を静かに寝かせ、立ち上がる。
「ひぃいい! い、痛っ……いてぇよぉおおお!!」
 右腕を斬られるという未知の恐怖を受け、檜山皓司は蒼白の表情をする。無意味に左手で地面を掻き毟るせいで、爪が割れて血が滲む。それでも檜山皓司は消失した腕のほうが衝撃的らしい。
 アインもまた、恐怖のせいか身体が動かなかった。
 姫宮恭亜が、なんの接触もなしに深淵に干渉し、世界と契約した。それだけでも異常だ。
 だがそれはまだアインには範疇だ。
 オーラム・チルドレンに共通して、もっとも恐れなければならないこと。
 それは、あの金晴眼。
「『侵蝕』……!」
 実際に見たことはない。だが、とある人物が話してくれたことに、オーラム・チルドレンが精神を世界に喰い潰されると瞳の色が黄金に煌くというものがあった。
 オーラム・チルドレンは世界と契約すると、存在の一部を占領される。まんぱんに水を注がれたコップに、無理矢理油を継ぎ足す要領だ。
 だが、日常という水とは違い、非日常という油は決して相容れない。当然のように、コップの中身は淀む。
 それがどんなものかを想像するのは難しくない。有り体に言うなら、暴走だからだ。
 暴走と一口に言うが、オーラム・チルドレンのそれがどれほど恐ろしいものか。
 オーラム・チルドレンの生命線である世界との契約の証として授かる神器。逆説、神器はオーラム・チルドレンと契約した世界とを繋ぐホットライン。その神器に精神を喰われることは、世界と同一化しすぎて自我がまるごと『侵蝕』される。
 神器の力は、世界との侵蝕率で大幅に増減する。
 つまり、金晴眼はまさに危険を表す。世界との『侵蝕』で爆発的に戦闘能力が高い状態で、自我を失う。
 平常時と比べれば、それは爆竹と核弾頭並の違いだ。素人から成った檜山皓司が、勝てるわけがない。
 圧倒的すぎて、アインでさえ戦慄に身が竦んで動けない。
 すると、ビクンビクン! と痛みで痙攣を引き起こしてる檜山皓司の頭上に、姫宮恭亜は刀を向ける。逆手にし、両手で握り締め、断頭台のように切っ先を突きつける。
 ぞっとする。アインは喉から出かかった声を飲み込み、地面に落ちているそれへと走った。
 ばっと飛び込み、掬うように掴んで前転しながら引き絞った。
 持ち主の手に戻った白銀の銃が、火を吹く。
 姫宮恭亜は気配に気付き、逆手に持っている刀をそのまま振り回した。
 ギィン! と金属の甲高い悲鳴が轟き、銃弾を斬り払われて火花が飛ぶ。
 そこで視線がやっとアインを向く。
 金晴眼がじっとこちらを見据えてくる。なのに、生き物に見つめられている気が一切しない。
 人形か、機械。そこに居るのに存在しないような感覚。
 ぐっと息を呑んで、アインは気圧されながらも叫んだ。
「もうやめぇ! 切り裂き魔≠フ意義はとっくに砕かれとる、トドメを刺す必要なんかない……!」
 切に願う表情。
 そうだ、何を考えてるかなんて知らない。でも、今、彼は檜山皓司を殺そうとした。
 なんの感情も抱かず、ただ、殺す。
 そんな殺戮に、彼を染めるわけにはいかない。
「アンタがそれでどないするんやっ……もうえぇ、やめるんや」
 すると、後ろで走る足音が聴こえた。姫宮恭亜は首だけ振り向く。
 制服の右半身が鮮血で真っ赤に染まっている檜山皓司が、地に転がる手に握られているジャック・ザ・リッパーを掴んで逃げ出していた。といっても、右腕をばっさり斬り落とされているため足取りは酷い。走って逃げられるのも、オーラム・チルドレンとしての身体能力が有ってのことだ。
 アインが叫んで呼び止めようとしたが、合間に姫宮恭亜が立っているためにそれも憚られた。
 檜山皓司は言葉にすらならない奇声を上げて、深い漆黒の濃霧の中に溶けていった。
 薄く警戒しながら、彼へ近づく。話に聞いていた『侵蝕』にしては、背筋が凍るほど穏やかすぎる。
 しんと静まり返った西洋の街並みのなか、アインは早まる心音すら聴こえそうで、声を出した。
「あ、姫み

 キン、

「―――――――、」
 それが、何度も聴いた音であったのがよかった。
 反射的に下ろしていた銃を顔の前に構えた直後、目の前で火花が散った。
 まさに刹那。姫宮恭亜が無機質的な表情で五メートルの距離を詰めて、刀を振るっていた。殺意の無い殺戮の一閃がアインの頭部を遮った神器、ファイノメイナを穿つ。
 突然の奇襲に不意を衝かれたアインは銃で捌き切れずに後方へと吹き飛ばされた。
 背から倒れ、追撃を考慮してそのままごろごろと後ろへ転がる。案の定、地面を裂く音。
 起き上がり様にアインは銃を撃つ。狙うは脚。
 ズドン! ズドン!
 二発の弾丸は、見事に両脚へ飛来するが、ばさりと翻ったマントに呑み込まれた瞬間、鉄を断つ金属の悲鳴が二重に鳴り響く。
 銃弾を斬り落とされては成す術がない。どうするかと焦るアインを見つめている姫宮恭亜は視線を落とす。
 ビィィィン、と刀身が揺れている。腐っても五十口径はある銃弾だ。片腕で斬ったことで反動に負けたのだろう。痺れている右腕をじっと見つめ、収まるのを無言で待っている。
「ひめ、みや……! もうやめるんや! いい加減戻ってこぉへんと還ってこれなく≠ネる!」
 アインは、それが恐い。
 オーラム・チルドレンが保っている人間性を欠落すれば、それは深淵に在るべき者となってしまう。
 それでは、まるでABYSSと同じだ。存在する意味を失って、ただそこに生きるだけのモノになってしまう。
 ただそれが、己の意思であるならばいいのだ。
 でも、彼は違う。彼はオーラム・チルドレンを否定してでも日常を生きたいと願っていた。
 誰でもなれるわけでない適正者でありながら、常光を求めて誰かを護りたいと誓った。
 あれは嘘じゃない。アインにだって判る。
 だからこそ、彼がヒトを失ってはだめなのだ。
「姫宮……っ!」
 アインは再三叫ぶ。彼を、『侵蝕』から引き戻す。

 キン、

「!」
 金属音と共に、暗闇に溶け込む漆黒の姿が消える。
 ヒウン! と空気を裂く音が耳を過ぎり、左へ跳ぶ。
 何かが右肩に触れ、じわりと熱くなる。
 そっと手で触れた。カッターシャツが裂け、血が少しだけ滲んでいる。
 前方に月のような金晴眼が浮かぶ。標的を仕留めることだけを意識するように、刀を構える。
 アインは銃把を強く握るが、人差し指はトリガーに掛けない。
 戻さなければならない。今はアインにしか姫宮恭亜を救えない。
 姿勢を低くして、突進してくる姫宮恭亜。横から水平に奔る一撃を、銃の砲身で捌く。
 アインは姫宮恭亜以上に身体をぎりぎりまで低め、懐に入り込む。なんの捻りもなく、彼の鳩尾へ頭突きした。こふ、と小さく息を吐き出す気配が首筋をくすぐる。
 ゼロ距離なら刀は使えない。これなら――、
 その一瞬の油断が失敗だった。左手で後頭部を掴まれ、姫宮恭亜の膝が昇る。
 鳩尾に膝がめり込む。ヒビが入っているかもしれない肋骨に強烈な一撃を打ち込まれ、今度はアインが呼吸を奪われた。さらに腹を押さえたアインに一歩だけ退がる。
 まずい、と思ったときには遅かった。呼び動作を極限まで省略したハイキックが、アインの側頭部に突き刺さった。
 見事な徒手空拳。白い髪が流れ、暗転しかけた視界のまま地面をバウンドする。頼みの綱のファイノメイナが、手から抜けてしまう。
 口の中いっぱいに血の味が溜まる。
 立ち上がらなければと思うが、身体がまったく動かない。
 コツ、コツ、と。ブーツの重い音が近づいてくる。
 もうだめだ。本能がそう告げた。
 頭上に、姫宮恭亜が立つ。すでに刀を逆手に持っていて、さっきの檜山皓司のときのように両手で握った。
 ふと、アインは笑みを零した。
 いつしか彼は言っていた。自分は結局檜山皓司を救えなかったと。
 鵜方美弥乃も護れなかった。それが契約の理由にはなったんだろう。
 彼はいつだって、自分を卑屈めいて、最低だと決め付けていた。
 本当に、彼は馬鹿だ。
 そんなの、こっちも同じだ。
 今、自分が姫宮恭亜を救えていないのと、同じ。
 だから、これは贖罪だ。せめて彼が自分の死によって戻ってこれたら、それでもいい。
 そう思ってしまった。だから笑った。自嘲気味に、目を閉じて。
 それでも、姫宮恭亜の瞳は揺らがない。
 それが気掛かりで、だけど視界がどんどんぼやけてしまう。ピントがぼけてゆく。
 姫宮恭亜はぎちぎちと柄を握り締め、振りかぶった。漆黒の刀身がアインの眉間へと落ちる。
 全てが壊れる。

「きょ……くん、」

 その時だった。
 小さな声がした。脆弱で、風が吹けば消えてしまう蝋燭の火のように。
 だが、その声が染みるように聴こえた瞬間、姫宮恭亜の腕がピタリと止まった。
 切っ先は、アインの眉間わずか数ミリ。
 その体勢のまま、姫宮恭亜は視線を向けた。
 地面に転がる、血塗れの鵜方美弥乃。こちらを見ているわけでもないし、目蓋は閉じている。
 暗闇に眠る美弥乃の頬から、一筋の涙が垂れた。
 それを呆然とした表情で見つめ、姫宮恭亜はただ一言呟いた。
「……………み、や……の?」
 直後、刀を弾かれた。
 ゆったりとした具合に視線を戻したすぐそこに、アインの顔がある。
 柔らかい唇から血が流れ、だけどアインは最後の力を振り絞って立ち上がり、姫宮恭亜の胸倉を掴んだ。
「起きろアホ!! 生きとる、美弥乃は生きとるんやっ!! アンタが護ろうとした美弥乃は死んでなんかない!!」
 吐息もかかる間近で睨まれ、姫宮恭亜はやっと驚いたように目を見開いた。
「アンタなんて言うた!? 護るんちゃうんかったんか! それなのに、アンタは人殺しをしてまで美弥乃を護ればえぇて思とるんか!? そないこと、美弥乃が頼んだんか!! それを忘れんなや、このアホぉ!!」
「……あい、ん」
 きょとんとした、間抜け顔。
 本当に腹が立つ。こんな馬鹿みたいな顔に殺されてたまるか。
 アインは全員の痛みなど忘れるほど、叫んだ。強く。強く!

「目ぇ覚ませっちゅうとるんや、恭亜ぁ!!」

 その瞬間、姫宮恭亜の金晴眼が見開かれ、ゆっくりと夜色に戻ってゆく。
 同時に暗く広がっていた闇が弾ける。風船に針を刺すように、霧が晴れ、風景が掻き消えてゆく。
 気がつけば、そこは元通りの小道だった。コンクリートの地面に電信柱、前を向けば住宅街で、後ろを見れば紫耀学園が見える、東京都中央区。
 からん、と足元で刀が落ちる。地面に落ちたそれは、背景と同じように黒い霧となって消えていった。
 ぷつりと糸が切れる。
 最後までアインと見つめ合っていた姫宮恭亜は、そのまま前へと倒れこんだ。
 当然、満身創痍のアインがなんとか出来るわけがない。半ば押し倒されるようにして二人重なって地面に突っ伏した。
 視界が、夕暮れも終わりの瑠璃色に染まっていた。一番星が見えたが、いいことなんて一個もないじゃないか。両腕と脇腹は痛いし、頭蹴られたり押し倒されたり、挙句人一人分の重量が乗っかっているので息が出来ない。
 もぞもぞと蠢いて姫宮恭亜の顔を眼前に持ってくる。
 穏やかに、優しく眠るようにして呼吸を繰り返している。
 それを見て拍子抜けしたアインは、彼を退かして仰向けに倒れる。
「あかん……ほんまに動けへん」
 こっちだって気絶したい。いっそこのまま路上で寝てやろうかと思ったが、近づく足音が耳に入って首を上に向ける。
 それは一人の少女。アインのよく知る人物。
 視線を天に戻し、溜息をつく。
「……結局、アホみたいにボロボロにされて終わったな」
 だけど、
「ま、えぇか……それよか眠くてしょうがないっちゅうの」
 そう笑って、もう一つだけ溜息を漏らした。





「ひぃ……ひ、は……はぁがあああ……!!」
 切り裂き魔≠ヘただ一人歩道を走っていた。無我夢中で霧から抜けると、あっさりと外へ出れた。だが、それで右腕が帰ってくるわけではない。斬られた傷口は相当の激痛を生むが、血はすでに止まっていた。
 ただ、切り裂き魔≠ェ失ったのは腕ではなかった。
 悲鳴ともつかない喘ぎ声を吐き、涙と涎を垂れ流してぐしゃぐしゃの表情をしている。
 誰がどうみても、切り裂き魔≠ニしても檜山皓司としても終わりを告げた姿。
 猛スピードで走り続け、廃屋街を目指した切り裂き魔≠ヘ草むらの茂る原っぱへ入り込む。
 左手でジャック・ザ・リッパーを握り締め、血走った目で、ただ口から憎悪だけを撒き散らす。
「ぢぐしょうっ……! うぜぇ! みんなうぜぇんだよクソぉ! 死んじまえばいいんだ! どいつもこいつも死ねぇえ!!」
 血を失いすぎて足取りが怪しくなりだしたとき、廃屋街とを境界線にする原っぱに人影があることに気付いた。
 そういえば、廃屋街の近くで父親を殺したんだったと思い出す。
 でも、所詮は警察。邪魔するなら殺せばいい。
 ドロドロとした思考が、切り裂き魔≠フ脳を麻痺させてゆく。
「ひ、っひひ……死ね! みんな死ね死ね死ねぇ!! ひゃっはははははぁあ!!」
 握り締めたジャック・ザ・リッパーを振り上げた。暗くてよく判らない姿も、会話できる距離になってやっと判った。
 切り裂き魔≠ヘ、腕と思考を停められる。
 佇んでいるのは、刑事でもなければ人間かを疑うような雰囲気を放っていた。
 人数はたったの二人。
 片方は少年だ。
 小学生、あるいは中学に入りたてのようで、切り裂き魔≠フ胸元ぐらいまでしか背がない全体は丸みを帯びて折れてしまいそうなほど細い。シャツの上から薄手のジャケットとジーンズ。さらさらの茶髪ごと目深までキャップを被っていて、しかも俯いているから顔までは見えない。
 どこにでもいる少年。そうではなくて、その傍らに立つモノこそが人間であるのか疑った。
 なんせ、甲冑だ。
 西洋の成金趣味の館に陳列してそうな、暗い群青の無骨さが鋼鉄製を模る二メートル大の全身鎧。
 なんら動かず、ただ立っている。まるで切り裂き魔≠待っていたかのように。ここへ来ることを知っていたように。
「う、あ゛っ!? なんだ、てめ」
「飛牙(ふぇいあ)さん、これがさっきの契約したヤツ?」
 怒りの矛先を選べなくなっている切り裂き魔≠フ言葉を、少年が遮る。
 傍らの甲冑は微動だにせず、くぐもった片言で答える。
「判らなイ、適正が失われて判りようが無くなってしまったからナ。たダ、この程度ではとんだ骨折り損だったカ」
「つーか誰なわけ? そのふざけたメール寄越してきたのって」
「我等が同志ダ。もとイ、我よりも先に姫殿に仕えていた者でもあル」
「ふーん……ま、どーでもいいけど」
 本当につまらなそうに地を蹴る少年。
 なんなんだ、と切り裂き魔≠ヘ思わず口を噤んだ。
 道を遮って、談笑して、なんなのか。
「て、め」その一時の虚脱感が、頭を少しだけ冷やした。「わけわかんねぇよ、いいからどけクソども。殺すぞ」
 殺意を漲らせて睨むと、少年はキャップを少し上げて見つめ返す。
「なんかうっさいなぁ〜、こいつ。飛牙さん、殺していい?」
「構わないガ、手出しハ?」
「いいよそんなの、練習になんないし……それにこんな弱いのに負けるわけないじゃん」
「よわ……っ」
 その言葉に、切り裂き魔≠ヘせっかくの冷静を再び欠いた。
 振り上げ直した腕を、力任せに落とす。
 斬撃が、菜の花や雑草を土ごと抉って吹き荒れる。
 それを見た少年は軽い身のこなしで避ける。
 甲冑の男はほとんど動かないためモロに斬撃を浴びたが、鋼の鎧は傷一つ付かない。
 とん、と地面に着地した少年は、すっと右手を軽くかざす。
「さぁて、練習の時間だよ」
 ぐねりと空間が揺らぎ、陽炎の奥から表れたものが少年の手に収まる。
 それは、武器としての形状すらなかった。
 携帯電話より一回り大きい、今時は化石化したも同然のテープレコーダー。
 拍子抜けと、舐められているということへの憤怒が、切り裂き魔≠フ額に青筋を浮き立たせた。
「調子、乗ってんじゃねぇええええ――!!」
 斬撃を飛ばし、それをひらりひらりと木の葉のようにかわす少年を追撃する。
 いかに軽やかでも、近接で鋭い切れ味を誇るジャック・ザ・リッパーを振るえば当たる。
 左腕で拙く持ち替えた逆手の先に、緑のナイフ。切っ先が少年を襲う寸前、
「ねぇ、自分が弱いってことも理解できないわけ?」

 ピシュン!

 おかしな音が聴こえた。
 ぼとり、とナイフが手から零れる。なんせ、その左腕の手首が切られて、鮮血が溢れ飛んでいた。
 頬に鮮やかな紅がこびりつく。熱いくらいの液体に塗れた顔が、絶望に変わる。
「ひ、ぎ……あ?」
 今のは、空気の断裂音。ジャック・ザ・リッパー特有の空圧が戻る反動の音だ。
 なんで、
 呟こうとした瞬間、少年の口元が笑った。
 邪気の有無の判断がつかない、曖昧で、残酷で、楽しそうにせせら笑う口。
 やばい。
 思考が、
 本能が、
 そう告げた。背中を向けても逃げたかった。
 もう嫌だ。戦い以前に、殺し合いの世界が疲れた。
 そして、日常を捨てた者が非日常を拒絶する末路が、何を意味するか。
「自分の弱さをよく知るといいよ、雑魚で三下で場違いのクソ野郎さん?」
 知ったときには、切り裂き魔≠ヘ少年に虐殺された。

「お前が引き裂かれて死ね、――プリレコーディット」

 瞬間、
 空気の乱れる音は、遠く聴こえた。
 ごぱっ! と血が全身を隈なく切り刻む斬撃。
 切り裂き魔≠ヘ言葉を発そうとしたが、喉を斬撃が抉って無理だった。
「   あ゛     、  」
 頭も、顔も、首も、肩も、胸も、腹も、腰も、脚も、腕も、全てが切り裂かれる。
 どさりと地面に倒れた切り裂き魔≠フ腕が落ちる。事切れて、命が尽きる。
 すると、
 ざあ、と切り裂き魔≠フ死体が風化した。紅一色に染まった亡骸が白い灰に分解され、柔らかく薙ぐ一陣の風に吹かれて虚空に消えた。
 後には何もない。死体も血も、緑色のナイフすら消滅した。初めから無かったかのように。
 少年はさして感慨に耽ることもなく、握る神器を腕の振るいで虚空に消す。
 草むらの上を、さくさくと音を立てて歩み寄る一人の女性。
 まるで見計らったような知らない女性の登場に、少年はさすがに驚いた。なんせ、女性の格好はメイド服だった。
「……秋葉原もずいぶんと発展したんだ」
「残念だが真正の侍女だゾ、そもそも我よりも位の高き者ダ」
 黒髪を後ろで束ね、黒いワンピースに白いエプロンドレス、頭上にホワイトプリム。これで一応はとても美しい。少年が言うのも難だが、本当に人殺しに慣れている人間とは思えない雰囲気だった。
 感情がないかのような凛とした口が、ほんの少し切り開かれる。
「……………思っていた以上に少ないですね」
「善悪一≠ゥらは連絡が来ていル。『遠くて面倒そうだし、気が乗らないからパス』だそうダ。不定名詞≠ヘ言うまでもないナ、彼奴の気まぐれは今に始まったことではなイ」
「……まったく」
 辺りを見回して溜息を漏らす女性に、甲冑の男がズシリと重い体を振り返り答える。
「我としてハ、呼び出した本人が来ないことのほうが気になるのだガ?」
「雪嬰様は現在、御嬢様の館に居られます。どうも件の異常適正者は知人ではないかと申されて」
「なニ? ならば魂喰らい≠ェ処理すればいいだろウ。言うつもりはなかったガ、わざわざ呼ばれて迷惑ダ」
「それについて、雪嬰様より言伝を仰せつかっております」
「「?」」
 二人の怪訝な空気などまるで気にせず、女性は続けた。
「『今回の発端はやっぱ煌きの都市≠フ馬鹿ちゃんが仕出かしたんだろぉねぃ。だから傍観してやがります煌きの都市≠ニ、ソイツに遊ばれた%zは殺したってさいいんだってメール追記したべやぁん?』、だそうです」
「……汝が申すと彼奴の口調はおかしく感じル」
「でしたらどうしろと」
 思わずむっとする女性に、甲冑は溜息混じりに苦笑する。どこまで忠実なのはいいが、無機的にことを運ばれると正直言うと面倒くさい。
「……言伝を続けます」こほん、と咳払いで仕切り、「『異常適正者のほうは察しがついてる。だ・け・ど、間違ってもウチの生徒なので生徒会長として護らなければならないので、手出しだめよ〜ん、あっは〜ん♪』、だそうです」
「……………明らかに汝で遊んでいるガ、辛くはないのカ?」
「訊かれる必要が御ありですか? 苦痛に決まっております」
 頬をぴくりとも動かさない、だが言葉の端々で怒りが見え隠れしている。
 今までずっと黙っていた少年は、やっと口を開いた。
「なんで殺しちゃダメなの? 《アマテラス》じゃないんなら居るだけ邪魔じゃん」
「そうもいかン。そうなのだろウ? 鴉=v
「はい。雪嬰様のいらっしゃる紫耀学園には、現在《ツクヨミ》の者が通学しております。しかも何の不運か、《ツクヨミ》の者と異常適正者が同じクラスだとか」
「余計な接触は禁物カ。先方に勢力が増えるとなれば気が休まらないガ、不可侵は破れまイ」
 甲冑が言うと、少年は少し息を飲み込んで黙った。
 女性は空を仰ぐ。時刻は七時、もうどっぷりと暮れていて、瑠璃の色が広がる。
「……あの男を好き勝手にさせるのは、ここいらが潮時でしょうね」
 誰にともなく言うが、甲冑の男は答える。
「その時は我等が動けば良いことダ。汝は姫殿の護衛を全うされヨ」
 すっと視線を向け、なんとなく返答に困った。確かに正論だが、大きなお世話だと思う。
 だから、少しも笑わない顔を憂うように伏せて、スカートの両端を摘みながら脚で会釈した。
「それこそが、私の在るべき【献身世界】」










 Epilogue     外れた世界に漆黒は笑う





「じゃあ、美弥乃と桃瀬は大丈夫なんだ」
 カーテンが揺れ、窓から差す柔らかい陽光が目に優しい純白の部屋。清潔感の溢れるそこは、病院の個室だった。
 勿論、他人を心配している本人がベッドの上なので、アインとしてはイラっとしてしょうがない。
「……また美弥乃かい」
 癪なので、わざと呟く。
「べ、別にそんなわけじゃないだろっ! あいつ等は俺のせいで襲われたんだからな、気になってしょうがなかった」
「寝てたくせに」
「それもしょうがない、全く一睡もしてなかったんだから」
「それはウチも同じや」
 溜息をついて丸椅子に腰掛けるアイン。
 恭亜は渡されたリンゴにかじりつく。悲しいかな、傍らの麗しき天使は皮を剥いてすらくれない。
「檜山皓司が切り裂き魔≠ニして死んだんやと思う。起きたときにはもう二人とも襲われたことを忘れとった」アインは報告として、ついさっき起きた馬鹿に説明してやる。「ちなみに質問するけど、アンタは?」
 恭亜はかじるたびに口の中のズキズキと痛むのをこらえてリンゴを咀嚼していた手を止める。
「ああ、覚えている。美弥乃が傷つけられた辺りからは、全く憶えてないけど」
「『侵蝕』された奴に意識なんて無いらしいしな。まあ『侵蝕』もしたし、切り裂き魔≠フ記憶を消去されてへんゆうことは、今やアンタも立派なオーラム・チルドレンや」
「……そうか」
 背もたれて白い天井を見上げ、遠い目をする恭亜。
 アインも見舞いとは名ばかりの果物を頂戴、バナナの皮を剥く。
「で、ウチらの仲間入りした感想は?」
「う〜ん……実感が無いな。今だってこんなとこに居ること自体不思議でしょうがない」
 恭亜は包帯の巻かれていない腕を見る。
 ちなみに、二人の身体には一切治療を施された跡はない。見た目ははっきり言って健康そのものだ。
 ただ、恭亜はまだ立ち上がれず、アインのバナナを剥く手はぷるぷると震えている。
 なんとか皮を剥ききったバナナを頬張りながら、恭亜をちらりと見る。
 黒髪の下の瞳は、夜色。いつも通りの穏やかで利発そうな相貌。思わず見惚れた。
「……、ん?」
 見つめていることに気付いた恭亜が視線を絡めると、アインは咄嗟に目を逸らした。
「そ、それよりどうするつもりなんや?」
「どうするって、なにを?」
 少し間抜けな顔をした恭亜に、アインは疲れたようにむっとした。
「アホ。ウチはあくまで《ツクヨミ》の人間や、ほんでアンタは独立したまんま。別に何もせぇへんならえぇけど、《アマテラス》に寝返るだけは許せへん立場やし」
「それって、仮に《アマテラス》に入ったら――」
「殺す」
 殺気は作らない冗談めいた言い方で答えるが、恭亜としてはそれが本当だと解っているから恐い。
 すると、とす、と重量感を感じた。バナナの皮をゴミ箱にシュートしたアインの、白い頭がベッドに埋まる。
「しゃあないやん、それが組織っちゅうもんやし」
「判ってる。俺だって人を殺すのは嫌だし、今更お前や美弥乃達を裏切るつもりはまったく無い」
「でも、《ツクヨミ》に入れば避けられへん戦いにだって出くわす」
「なら俺は誰の組織にも入らない。俺は俺の意思でオーラム・チルドレンも御しきってやる」
「……別に、ほんならえぇねんけど」
 そして、ぷいっと顔を反対側に向けてしまう。
 恭亜は苦笑した。
「なぁ、アイン」
「……なに?」
「俺は、誰かを護れるだろうか」
 カーテンの揺れる窓の奥を眺めて、恭亜は静かに呟く。
 答えは、すぐに返ってきた。
「他人に決められてえぇんか?」
「……、違うよな。俺が決めるんだよな」
 寂しげに、しかしどこか意志を以って。
 さぁ、と。暑くなり始める風が二人の間を通っていった。
 幾分かの無言が過ぎ、アインの白い頭が起き上がる。
「ほんならウチはやることがあるさかい、お先に退院させてもらう」
 ドアの取っ手に白魚のような指先が届く寸前、恭亜は呼び止めた。
「アイン」
「……なに?」
 背を向けて立ち止まるアインに、恭亜は無表情のまま訊く。薄々判ってはいたが、彼女の口から答えてほしかった。
「オーラム・チルドレンが日常に戻った例は、あるのか?」
 一瞬、アインの顔に陰りが生まれたのを見逃さなかった。
 それでも、待つ。彼女が言いたくないのは気付いていたが、言われなくてはならない。
 四人の人間を犠牲にした日常の姫宮恭亜≠ヘ死んだのか。
 アインはドアを真っ直ぐ見つめたまま、やがて答えた。
「無い」
 姫宮恭亜の死を。
 非日常の始まりを。
 ゆっくりとした沈黙は、恭亜の寂しく笑う気配をアインに伝える。
 アインは取っ手に指を絡める。
 スライド式のドアが、からからとレール音を立てて開く。
 ふと、背後から声が聴こえた気がした。ドアの音で紛れてわからなかったが、ひょっとしたらこう言ったのかも知れなかった。
 よかった、と。





 からから、とレール音を立ててドアが閉じる。
 それを見た一人の少女が、綻んだ顔を上げた。
「あ、アイン。どど、どうでした? やっぱりまだ、い、い、痛がってました?」
 格好は、一言で表すなら異質であろう。
 ここは日本の首都東京の病院の一室の前だ。間違っても廊下の長椅子に腰掛けているのが闇色のシスターだと異常でしょうがない。背格好はアインと同じぐらい、フードを被っていないのでウェーブがかった灰の髪が背中まで伸びている。垂れ気味の目の色も灰で、首元にはシスターとしての秩序をど忘れしたようにシルバーアクセサリをじゃらじゃらと着けている。
 外見もそうだが、物凄く挙動不審だ。何も怒ってないというのに、すでに涙目である。
「大事やないみたいやった。ま、痛みは残ってまうみたいやけどな」
 だがしかし、この挙動不審の少女こそ命の恩人と言えた。
「おおきにな、さすが弔花の諸手≠竅v
「も、もうっ! そ、その名前で、よよ、呼ばないでくだ、くださいよぉ……こ、この子の、おお、おかげですし」
 少女の両手が揺らぎ、手袋が現れる。手甲のように分厚く大きな赤い手袋で、甲の部分に青い水晶が煌いている。
 神器、シャイン・ブレス。傷の因果逆転による治癒が能力。
 傷ついた細胞を変換して元の肉体に戻す力を持ち、機能そのものが死んでなければどんな生物も治癒できる。
 ただし、あくまで因果を逆転させられるのは負傷した肉体だけ≠ナある。それに伴う痛みまでは消せないため、今のアインは腕や肋骨は正常だが、実際は動かしたり呼吸したりするだけで激痛が奔る。
 鵜方美弥乃と桃瀬晴香にも同じように治癒を施しているが、バレるとまずいので怪我していると嘘を吐いて包帯を巻いてもらっている。二人とも痛いは痛いので気付いていない。あと二,三日の辛抱である。
「と、ととところでっ、あの綺麗な顔の人は、どど、どうするんですか? お、オーラム・チルドレンです、よね?」
「うん。でもま、それはおいおいウチがなんとかしとく。マーシャはもう少しここに居るん?」
「い、いけないでしょうかっ!?」
「別にえぇけど、病院で大声はやめぇ」
 あう、と萎れるシスター。
 アインは深く深く息を吐く。そのせいで腹部に激痛が刺すが、溜息の一つも吐かなきゃやってられない。

 姫宮恭亜。
 オーラム・チルドレンの接触なしに深淵に干渉し、神器の初回発動からいきなり『侵蝕』して暴走。
 なによりあの異空間。あのどこか西洋の街並みのような場所はなんだったのか。確かに地形を丸ごと氷漬けにしてしまうオーラム・チルドレンを知っているが、あれは何かが違った。
 自分と同じ、契約した世界もどんな真意か判らない。
 いやむしろ自分よりも不明瞭な点が多すぎる。

「ったく、なにがなにやら……」
 すると、シスターがきょとんとした顔で見上げているのに気付いた。
「……なに?」
「え、あ、いやその〜、どうか、し、したんですか?」
「え?」
 なんのことだろうと首を捻るアインに、シスターは不思議そうに答える。
「た、溜息を吐いてます、けど……な、なんか、笑ってません?」
「――、」
 アインは言葉を失った。
 笑っている、自分が。
 そんな馬鹿な。面倒だと、億劫だと思っているのに。
「顔が、にに、に、にやけてますけど」
 怖々と窺うシスターから顔を背け、廊下を足早に歩いた。
「べ、別になんもないしどぉとも思ってへん……!」
「え、あ、はいっ? な、なんのことですか!? ちょ、ちょっと待ってくださいよぉ〜」
 じゃらじゃらとシルバーアクセサリを奏でて、シスターはアインの背を追った。





「あ゛〜……いってぇ〜」
 アインが奇妙なシスターさんと共に帰った後、恭亜はさっそくリハビリめいたものをして散歩していた。
 とはいえ、完治しているように見える右脚が熱を帯びて痛いため、松葉杖が無いと歩けない。
 寒いぐらいに空調の利いたリノリウムの廊下。厳戒態勢が無くなったことで、想像以上に病院内を行き交う人々は多い。ぶつからないように注意しながら、そろそろ個室に戻ろうとした。
 来た道を振り返ろうとしたとき、広場に居た二人の少女達と目が合った。
「あ……」
 美弥乃と晴香だ。二人とも患者服を着ていて、胸元から包帯が巻かれている。
 談笑に華を咲かせていた二人は恭亜をじっと見る。
 恭亜からすればどれほどのプレッシャーになることか。この二人がこんなことになっているのも、恭亜のせいだ。
 じわりと手の平に汗が滲む。
 緊張が奔る。
 声が出ない。
 どうしよう、と思考が真っ白なまま固まる恭亜に、
 二人は、笑った。
「恭亜君っ……怪我大丈夫なの!?」
 美弥乃の驚きながらもほっとしたような表情に、恭亜は罪悪感を覚えた。
 オーラム・チルドレンの死は、同じオーラム・チルドレン以外の人間の記憶からは消去される。存在がなかったことになる。アインは、そう言っていた。
 頭では解っている。二人は助かったし、日常に生きている。
 なら、心は?
「……恭亜君?」
 目の前で呼ばれて、恭亜は我に返った。
 二本おさげの美弥乃も、少し苦しそうにしながら恭亜の眼前までやって来ている。不安そうな表情。
「君も大怪我したって蓮杖さんから聞いたよ? 大丈夫? 痛い?」
「あ、えと……」
 ずいっと顔を向けてくる美弥乃の向こう、晴香は苦笑する。肩を竦めるジェスチャーで、充分に分かった。
 美弥乃は心配してくれていたのだろう。非日常を知らないがために、日常の人間として恭亜を案じている。
 物理性のない痛みを胸に抱え、恭亜は精一杯に繕った笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。俺もよく判らないけど、ちょっと足が痛いだけ」
 すると美弥乃はとても安堵した顔をした。
 よかった、と小さく呟く声が聴こえる。
 顔を上げる美弥乃は、えへへ、と気恥ずかしそうに笑った。
「なんか変だね。君と晴香ちゃんとワタシとで、三人ともよく分からない内に事故に遭ってたなんて、ビックリだよ」
「そう、だな……」
 八重歯の可愛らしい、日常の女の子。
 これが、彼女の領域。
 恭亜のもう戻れない居場所。
 優しかった%々。
 いつも以上に寂しそうな笑みを浮かべて恭亜は口を開く。
「美弥乃」
「ん? なぁに?」
 頭を横に小さく傾ける美弥乃を見てから、恭亜は言おうか迷った。
 やがて、
「……いや、なんでもない」
 飲み込んだ。
 きょとんとした顔の美弥乃と、仲が良さそうな二人を見て微笑んでいる晴香。
 罪悪に無言の恭亜に気付かず、晴香はこっそりと美弥乃に耳打ちした。え、と小さく呟き、美弥乃の頬が染まる。
 怪訝な顔をした恭亜をちらちらと見ながら言った。
「あの、恭亜君。よ、よかったらでいいんだけど……」
「?」
「……………」
「……、」
 ずっと黙りこくったままの美弥乃の腰の辺りを晴香が小突く。
「美弥乃」
「あぅ、うん……き、恭亜君。よかったら……携帯の番号教えてくれない、かな?」
「携帯?」
 聞き返すと、余計に美弥乃の顔が真っ赤になる。
「な、なんか知らないうちに怪我するなんて気味悪いしさ。も、もしもの時のためにも、」
 少しきょとんとしてしまったが、恭亜はようやく意味を理解した。
「あ、ああ……携帯の番号、ね」
「だ、だめかな……?」
 途端に表情を暗くする美弥乃に、慌てた。
「いや、いいよ携帯ぐらい! 全然構わないけど」
 昨日のこともあって、美弥乃の感情に浮き沈みが起こるのが恐くて仕方が無い。
 背筋の凍る感覚を振り払うように眼前で手を振ると、美弥乃はぱっと顔を明るくした。
「ほ、ほんとっ!? じゃあ、退院したら教えてね!」
 胸の前で手を合わせて祈るように見上げてくる。
 恭亜は、日常にあった頃の寂しげな笑みを浮かべる。
「ああ」
 うん、と頷いた美弥乃。晴香は壁の電光掲示板の脇にあるデジタル時計を一瞥する。
「美弥乃、そろそろ回診の時間」
「あ、そうだっけ。じゃあ恭亜君、あとでね」
 二人はゆっくりとした足取りで向こうへと行く。
 その背をじっと見つめていたら、美弥乃が遠くで振り返って、控えめに手を振った。
 両手に松葉杖を持っているので振り返せないが、苦笑で返した。
 やがて、患者服の二人が廊下を曲がって姿が無くなったときに、恭亜はやっと小さく呟いた。

「さよなら。それと、ごめん」

 その言葉は、誰の耳にも入らないまま番号待ちの人を呼ぶ看護婦の声で紛れた。

 それは彼女達に言ったのか。
 それとも自分自身のためか。
 答えは、誰にもわからない。





                                 FIN



2006/02/02(Thu)22:53:58 公開 / 祠堂 崇
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■作者からのメッセージ
ダークアクション、っぽい感じのものです。物凄く続き物っぽい終わり方をして申し訳ない作品に仕上がりましたが、良かったら一言二言頂けたら至極幸福。
感想・指摘、お待ちしております。では。

恭亜君。事実上、四十時間以上一睡もしてません。

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