『サディスティックな従属』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:恋羽                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
 



*この小説はグロテスクな描写及び暴力的な演出を含みます。そういった描写等を好まれない方、若しくはそれらの表現等によって心身を問わず支障をきたす恐れをお持ちの方の閲覧を固くお断り致します*













 遊具


 指先にナイフを当て、そっと引く。
 傷口がこの胸から送られる血液を吐き出し、僅かに滴らせた。
 白い太腿をその人差し指でなぞると、僕自身の指先に刻まれた傷口が一本の紅く温かい線を引く。途切れ途切れに、官能的に。
「死ぬか?」
 そう問いかけると、鎖に繋がれた全裸の女は身悶えする。もう彼女には言葉など届いてはいないのかもしれない。小刻みに揺する首が、血に塗れた長い髪を小さく揺らした。
「死ね」
 蛍光灯の光に照らされた空間、僕は呟いてみる。おとなしい反応は飽きてしまった。もっと、鳥肌が立つような甘い旋律をくれ。
 ンンン。猿轡の向こうで嘆くような、泣くような声が僕に哀願している。ンンン。鼻から漏れる声が、助けてくれと部屋の外へと助けを求めている。
 それらを僕に訴えかけるべき目は、もうすでに引き抜いてあった。今彼女の傍らに落ちているそろそろ黒味が増し始めた血に塗れているものが、もと彼女の眼窩にはまっていたものだった。彼女のその空白には、今はただ赤黒い暗闇が存在している。
「怖いか」 
 彼女の腕を煉瓦の壁に繋いでいる鎖は、誰かに信号でも送っているようににじゃりじゃりと鳴った。その音が誰にも届くことは無いと、返ってくる手応えでわかりそうなものなのに。僕はそれすらもわからなくなってしまったその玩具に多少幻滅してしまう。
「飽きてきた」
 僕はそう声を掛ける。

 気付けよ。
 ここは地下だって。
 閉ざされた死の空間だって。
 もっと楽しませろよ。
 壊れろ。




 通り魔的



 ジュースを買う為に車を降りて自動販売機に向かう。冷ややかな空気に首を竦めながら歩いていると、脇から男の声が聞こえてきた。
「なあ兄ちゃん」
 夜の、かといって暗いというほど暗くもない高架下。
 後ろを振り返ると、なんでそんなにだらしない服装で街に出歩けるのかというような、一歩歩くたびに首に回したネックレスを鳴らす醜悪で大柄な生物が、まるでこの高架下は自分の世界であるとでも言うように仁王立ちしていた。その奇妙に大きな鎖は、一体何を意味しているのだろうか。もしかしたら、自分自身が家畜であることを暗示しているのだろうか。だとしたらそれは的確に自分をよく理解しているということになるのだろう。
「金貸してほしいんだけど」
 僕は思わず口から笑い声を漏らしてしまった。まるで何年も前の不良の台詞の様に思えたからだ。僕は大笑いしそうになり、それからそれを噛み下した。
「おい、聞いてんのか」
 よく見ると、その暗がりには似たような服装の細身の男が立っている。目が殺気立っていて、その痩せ枯れた肩を精一杯大きく見せようとしているらしい。ああそうか、金が無いから持ってる奴から取ってこよう、もし出さないんならぶっ殺してやればいいじゃねえか、と。今時こんな人間も生きてるのか、この世の中には。
それで、そのくせこういう輩は実は小心者で、実は純情な心を傷つけている、らしい。そんなことが以前に読んだ本の中に書いてあった。馬鹿らしい。
全く、こういう種の人間にはそれ相応の野蛮な世界を用意してやればいいのだ。どうせ一般社会からはあぶれてしまうんだから。下らない。
「おい! 出すのか出さねぇのかはっきりしろや」
 そう言うと、先の大男が僕の首筋を掴み上げようとした。

 救いようがない。
 仕方ない。
 僕が与えてあげよう。
 彼の住むべき世界を。
 彼にとってそれが一番いいだろう。
 腰から瞬時に取り出したナイフを、躊躇なく男の右目に突き刺す。手に、想像よりも硬い眼球の感触が伝わる。ぐにゅり。刃は肉を貫き骨に突き当たる。固い手ごたえに僕は思わず手を離す。
 いいい、悲鳴。
 使い慣れたナイフを引き抜くと、何かで適度に薄まった血が流れ出る。
 地面に倒れこんで目を押さえ転げまわる男の、開いている方の目に再度ナイフを突き立てる。今度は芯を外れ、目の上の骨にすぐにぶつかってしまった。まあ、それもいいだろう。
「おい、なにやってんだよ!」
そうか、こいつもいたか。
 左手で新たにナイフを取り出し、駆け寄る男の顔にナイフを突き刺す。右頬に当たると、頬骨に一度強く当たり、男の首の動きのせいでナイフの刃は横に滑って頬全体を切り開いた。蹲る男の頬からは、鈍く血が溢れてくる向こう側に、白い骨が一瞬だけ見えた。骨の硬さに、反動で右手が軽くしびれてしまった。男は痛みに跪く。が、煮えた腸は元には戻らない。
 その背中に、もう一度ナイフを。何度も。
 男の上着が血と闇の黒さで染められていく。
 踏む。蹲り悲鳴を上げる男を。
 踏む。目を押さえてもんどり打つ男を。
 何度も、何度も。




 アリ踏み


 虫を殺すのが好きだった。
「アリは冬の為にせっせせっせと働いたので、冬の間も死にませんでした」
 踏む。靴の下で何十匹かのアリが圧死した。
「キリギリスは夏の間に遊んでばかりいたので、冬になると死んでしまいました」
 火をつける。暴れながら、身を包む炎にキリギリスは焦がされて死んだ。
 
 木製の台の上で。
 足をもいで、触角をもいで。
 腹に針を突き刺して。
 羽をもぎ取って、二ミリ刻みに切断して。
 
 虫は時々反撃を見せた。僕の指先に噛み付いて見せた。
 下等生物の分際で、彼らにとって神同然の僕に。
 そんな時、僕は心の中に満ちる喜びに逆らわず、彼らを叩き潰した。手が汚れるのも構わずに。
 一瞬でも反撃などするからこうなったのだ、そう心で思いながら、しかし喜ばしかった。

 遊戯の対象が大きくなった。猫、犬。捨てられた生き物などどこにでもいた。僕がそうせずとも、いずれは人間の手で殺される生き物たちを、僕が殺すことは罪ではない。
 最初は手で首を絞めた。抵抗する獣の爪が腕に食い込んだが、それもすぐに無くなった。
 次は灯油を掛けて火をつけた。犬は駆け回り、狂ったように叫びながらしばらくすると動かなくなった。
 包丁で切り刻むのも楽しかった。命は切り取るとすぐに生臭い肉になる。前足や後ろ足を一本一本奪っていくのが楽しかった。最初はうまくいかず、足を一本切り取っただけで殺してしまったが、その経験のおかげでどこをどのように切り取れば楽しみを長引かせることが出来るのかがわかった。知識を仕入れる場所などいくらでもあった。そして、その知識を追うことが楽しくも思えていた。
 誰も知らない。生まれて数週間の子犬の足をもぐ快感を。全ての足をもがれたイキモノの叫びを。
 血のぬくもりを血管から送り出す小さな心臓の鼓動を、流れる血潮から確かに感じることが出来た。
 僕はその行為に満足していた。確かに虫を殺すのとは桁違いの快感がそこにはあった。背徳とでも呼べばいいのだろうか、禁じられた快楽は僕の中を駆け巡り、満たした。
 しかしそれ以上を自ら望むことなど無かった。人が思うように、異常者は対象を最終的に人間に定める、というのにも反感を持っていた。
 知っていた。
 確かに下らない人間は数え切れないほどいる。死んだとしても誰も困らない人間など腐るほどいる。
 だがたとえそれが生きる価値の無い人間であろうとも、人間を殺すのは重大な罪なのだと知っていた。動物を殺す「器物損壊」と、たとえ生きる価値のない人間でも、それを殺す「殺人」との重みの違いを知っているつもりだった。
 だが、僕は踏み外した。




 愛玩


 二年前に建てられたばかりだという三階建ての住宅、その地下室。血に塗れたその煉瓦造りの部屋で、一つの命が失われた。両の眼を失い、壁に繋がれたままの手首の先、指はぼろぼろと全て床に落とされている。太腿に真上から突き立てたナイフは面白いほど真っ直ぐに突き刺さったままだ。僕は彼女の苦痛に歪む表情を思い出そうとしたが、何も浮かんでは来ない。そこに何の感慨も無く、ただ単純に肉の塊が置いてある。ただそれだけだった。
 僕はその部屋を後にする。
 地下室の重厚な青銅の扉を抜け、後ろ手でそれを閉める。扉の外部は温かみのあるランプの灯りに似せた光と、それに照らされるコンクリートに満ちていた。
 地下のまとわりつくような血の臭いからようやく開放されると、息をついて僕はコンクリートの階段を上っていく。音がよく響くが、その足音は誰に聞かれることもない。何一つ心配することなど無い。
「お疲れ様。終わったんでしょ? 後の始末は明日でもいい?」
 地下室へと続く階段室と、唯一繋がる厚い木製の扉を抜けると、女がそう問いかける。彼女の手にはお湯で濡れたタオルがある。僕はいつものようにそれを何の感情も込めずにひったくると、手を汚した黒い、乾きかけた血を擦り取る。女はそれを無言で見つめている。彼女の問いかけに、僕が答える余地は存在しない。彼女が口にする時点で、それはすでに決定された事項である。そして僕には彼女と何かの言葉を交わす必然性も無い。
 その女、宗氏梓は十八とは思えぬほど落ち着き払った装いで、パンツルックであっても気品を漂わせるだけの美貌を保有していた。茶系統の地味と判断されかねない色彩に身を包みながらも、まるでそれがそうであることこそが正当であると認識させるほどに、その凛とした立ち居振る舞いには力があった。彼女を包む茶は、時折黄金に似た輝きを見せる。運動を終えたばかりなのだろう、彼女の頬は普段の透き通る白さに自然な紅色を重ねていた。
 タオルが左手の人差し指に触れた瞬間、微かに痛みを感じる。そういえば、ナイフで指先を切ったんだった。なんでそんなことをしたのか、興奮の覚めた僕にはいまいちその理由がわからない。だが、その指先の傷が妙にヒリヒリと心地いい気がした。
「車に載せておいたから。じゃあまた」
 地下室からすぐのところにある玄関の横に立つと、梓は振り返ってそう言う。帰れということだ。
 履き捨てられたままの血が乾いて黒く光っている皮靴を履くと、僕は彼女に何を言うでもなくその玄関を去ろうとした。
「あと」
 扉に手を掛けると、梓は僕を呼び止めた。
「外ではなるべく、人を殺さないで」
 その言葉を聞くと、僕は振り向くことも無く扉を開け、音も無く閉めた。
 殺さない方がいい。
 そんなことはわかっている。
 モノクロームの喜劇の中で殺人鬼が言ったように、屁理屈をこねる気も無い。
 殺さない方がいい。
 劣った存在などに目を向けるべきではない。
 自分の進む道を見つめていればいいのだ。
 殺さない方がいい。
 だが、ある時血の中にいる自分が愛しくなる。
 腐臭に身を染める自分を、抱きしめたくなる。
 殺さない方がいい。
 それでは僕は一体何を愛するべきなのだろうか。
 人を殺さない僕をどうやって愛すればいいのだろうか。
 殺さない方がいい。
 じゃあ一体誰が。
 僕以外の誰が。
 誰も殺さない、何も出来ない僕を、
 ほんの一瞬でも抱きしめてくれる?




 働きアリ


 黒のワゴン車が、僕とかつて人間だった幾つかの肉塊を乗せて闇の降りた山間の道を走る。
 ざらついた音の中で、途切れ途切れにラジオのDJが陽気な声を発していた。聞いたことの無いラテンのリズムが彼の紹介で流される。僕はその音楽を何を想うでもなく聴いていた。
 ほとんど真っ直ぐに続いていく道が、濃紺とわずかな白で構成される冬の寒々しい夜の海の防波堤にぶつかり、左右に分かたれた。僕はその道を左に曲がり、低い塀の下へ降りる階段を見つけて、その傍らに車を止める。
 キーを左に回すと、車内を満たしていた明るい音響は絶え、僕自身の呼吸がうるさく聞こえるほどだった。
 車の扉を開くと、こんなにも悲しげなものなのかというほど静かな潮騒が、冷たい潮風と共に周囲を包んでいる。冬の夜の海は荒れることもなくただ静かに波を寄せては返している。
 僕は車の後部の戸を開くと、高架下で目がグズグズになるまでナイフを突き刺したあの大男の死体の脇に両腕を差し込み、車から引き出した。そうしてそれを防波堤の下、小さな砂浜へと運んでいく。
 運びながら数えると死体は六つあった。腕や足、血に塗れた髪を絡ませたその奇怪な塊を一つ一つの個体に解き運んでいると、その行為が何か異様なパズルのようにも思えてくる。中には殺してすぐに狭い車の中に押し込まれたものもあり、奇妙な体勢のまま死後硬直を迎えていたので、解くのにはなかなか苦労した。血塗れの頭部が僕の口元に触れると言いようの無い不快感が腹の中から突き上げてくる。そして胸の中には何とも言えない緊張感が湧き上がる。この行為は何度繰り返しても慣れないものらしい。
 それらを浜辺まで運び切ると、車にあらかじめ積んであったスコップを降ろし、自分も砂浜へ降りる。その頃には肌を刺すような寒さの中でありながら僅かに汗をかいてしまっていた。
 黒く濡れた砂に、スコップを突き立てる。心地いいほどサクッとスコップは刺さる。すくい上げた砂を脇に放ると、その重さがはっきりと実感できた。重い。六つもの死体を覆い隠せるほどの穴を、僕は掘ることができるのだろうか。腕時計を眺めると、まだ十二時はまわっていない。まだ三四時間は誰も近くを通ることは無いだろう。時間の心配は必要無さそうだった。問題は体力の方かもしれない。
 スコップを振るいながら、僕は何故死体を埋めているのだろうかと考える。考えれば考えるほどこんな仕事は、本来僕に割り当てられるべき仕事ではないはずだという結論に突き当たる。
 思えば、宗氏梓が僕の家に電話をかけてきたのはいつだったろう。あれは、遠い過去に思えるが考えてみればまだ三ヶ月前のことだった。




 記憶


「殺したい奴がいるの」
 梓が電話口に立った僕に突然言ったのは、ただ一言それだけだった。そして僕はその言葉に対して特に何の感想も抱かなかった。
 誰だって殺したい相手の一人や二人いるものだろう。たとえそれが一時的な感情によるものでも、思い返してみれば憎い相手を睨みつける時の自分自身の表情は殺意に満ちたものであるはずだ。誰も殺したことが無いから気付かないだけで。その感情を嫌いだとか、ムカつくとかという一般的な言葉にすり替えてしまっているだけで。彼女の中にある何らかの殺意もそれらに類するものだと、僕は一瞬の内にそう判断した。そしてその殺意を殺意であると彼女自身が知っていることも。だから今まで一度も話したことの無い僕のような人間に電話をかけてきたのだろうから。
 おそらく彼女は知っていた。中学時代誰一人として近付いてくる人間のいなかった僕の噂を。当然友達などいるはずもなかった僕にまつわる、真実を。


「隣の家で飼い猫がいなくなったのは、ほんとはあいつに殺されたんだって」
 紛れも無く事実だ。どうせ生きていてもろくなことをしない下らない生き物だったし、何より僕の家に忍び込んでくるあの不逞不逞しさには心底腹が立ったのだ。だから僕は奴を嬲り殺した。教室の連中がその話を陰でするのを耳にする度、奴の断末魔が僕の耳に蘇ってきた。
「あいつの部屋の中って、野球もやらないのにバットがあったり、ナイフとかもいっぱい置いてあるらしいよ」
 何故そんなことを知っているのだろう。だがバットやナイフだけではなかった。確かにそれらは好んで使っていた道具ではあったのだが。他にもスタンガンやガス管に接続して使う携帯用のガスバーナー、ナイフよりも鋭い切れ味が気に入った外科手術用のメス、鉄等を摩擦によって切断する小型のグラインダー、変わった物では自作の小型ギロチンなどもあった。グラインダーは音がうるさく肉が飛び散るので一回使ってやめてしまったし、ギロチンは玩具のようなシロモノだったので刃の重さが足りず、動物の首に半分食い込んで終わりだった。とにかく、それらについて教室の連中が知っていることが不思議でならなかった。
「先週の火曜日学校に来なかったのって、動物の死体を埋める為に庭に穴を掘ってたからなんだって」
 これは少し違った。夜の内に犬や猫、鳥の死体は埋め終えたのだが、疲れてしまったので朝起きて学校に行くことが出来なかったのだ。既に僕の行為に気付き始めていたのにそのことに触れようとしなかった両親は、夜の間僕が何をしていたのか知っていながら僕を寝かせておいてくれた。おかげで次の夜にはすっかり元気が戻っていた。
 今思うと、僕の行為の異常性を理解していながら特に何の行動を起こすでもなく、時折思い出したように噂話をする教室の連中を、何故か恐れていた気がする。何を恐れることがあるのか、今の僕にはわからないが。


 そんな噂を知っていたのだろう、梓は何の遠慮も無く僕に自分の想いを、怒りを語った。
 自分の部屋、電話の子機から聞こえる梓の声は、怒りよりも映画やテレビに出てくる、少女が恋心を語る調子に感じられた。声がうわずって聞こえてくる。そんな声を聞きたいと望んだ記憶は無いのに、僕は、嬉しいと感じていた。
 自分は世間の誰からも忘れられた存在、そんな気がしていた。教室の片隅にいつもひっそりと何をするでもなくいる男。誰も話しをしたことの無い男。それが、中学の頃の自分だったから。あの頃、僕はまだそんな自分に抵抗を感じていた。しかし彼女から電話を受けた時点ではすでにそんな抵抗すら消えうせていた。
 高校に進学する意思も気力も無かったその頃の僕は、教室の片隅から世界の片隅の暗い部屋へとその住処を狭められた気がしていた。社会の、自室の片隅で、誰にも看取られないままに死んでいくのだと思っていた。そしてその予測を大きく裏切ることなく二年の月日が流れていた。二年の月日は僕の周囲に、僕自身に、何の変化も与えることなく通り過ぎていった。そしてもはや僕にはそんな自分に納得してしまうような怠惰さがあったのだ。
 そんな僕に、彼女は声をかけてくれた。小さい時に母と見た恋愛映画の電話のシーンのように、はつらつと弾んだ声で。僕が生涯聞くことはないだろうというような、女性らしくありながら明るい声で。
 思えば、僕は中学生の時、梓のことが好きだったのかもしれない、そう考えてしまうほど、彼女から電話を受けたという事実は僕を困惑させ、恍惚とさせた。彼女の声をただ黙って聞きながら、僕は中学時代の彼女の瑞々しい容姿を頭に思い浮かべた。長い髪はゆるやかに波打ち、白い肌は常に教室の男の視線を、性欲を、存分に掻き立てていた。僕自身もまた、そんな男達の中に流れる空気に辟易しながらも、彼女をなんとはなしに見つめてしまっていた。それが何故なのかすら知らずに。今の自分に、彼女が好きだったのだと勘違いさせてしまうほどに、僕の中学校の記憶は彼女の顔や姿で溢れている。
 殺したい相手について相談があると言われ、彼女の家に初めて出向いたのは平日の午前中だった。その時間帯に住宅街を十六の男が歩くのは少し不自然ではあったが、そんなことも気にならないほど気持ちは高まっていた。
 背中には大きなバックパックが背負われていた。僕は彼女に言われた通り、家出同然の装いで彼女の家へ向かっていた。二十キロと少しの荷物は、運動不足だった僕の体を地面へと押し付けていた。しかし、初めて家出をする時のような、腹の底が震えるような心地よさが、その時の僕を突き動かしていた。
 彼女の家は住宅街のやや外れ、丘の斜面に建てられていた。その場所に建てられて二三年といったところの非常に新しい、煉瓦造りの欧風な外観の美しい建物だった。三階建てで、敷地をフルに使って豪華さを演出しようとした建築家の中のダイナミズムが見てとれる。
 小さな庭を囲うようにして塀があり、シャッターの下りた車庫へと続くアスファルトの小道の脇に僕の背丈とほぼ同じぐらい、百六十センチほどの門柱が立っている。そこに取り付けられたインターホンのボタンを押すと、小さなモニターに彼女の顔が映り、
「入って」
と僕に声をかけた。
 色の薄いモニターに何秒か映された彼女の顔は、僕を驚かせた。その顔は中学の頃よりも遥かに綺麗に、大人びたものになっている。
 玄関の手前まで行くと、そのドアが控えめに開かれた。そしてその向こうから、太陽の光を恐れるようにして宗氏梓は顔を出した。
 彼女は、ただ美しかった。白く清らかで、少し冷たくも感じられる顔立ち。おそらく部屋着なのだろう彼女には似合わない出で立ちも、そこらを歩き回る女達がいくら着飾ったとしても敵わないような彼女の持つ美しさを、決して覆い隠すことは出来ないようだった。
「いらっしゃい、まず入って」
 彼女の瞳に、笑顔があった。その笑顔は、記憶の中で何人かの人間が僕に向けてきた卑下するような冷笑ではなくて、与えられなかった母の優しい愛情のようなものを含んで僕に向けられているように思えた。
 少なくとも、その時の僕には。
 彼女の家には誰もいなかった。そのことについて聞くと、父親は海外に出張中で、母親もそれに付いていっているのだ、と彼女は事務的に語った。彼女のその口振りに、何か嫌な気分になる。嫌な予感がする。
 それから、そういう理由で両親はいないし兄弟も元からいないので、自分以外でこの家にやってくるのは週に二回来る掃除夫だけだと語った。
 それだけ言うと彼女は、荷物を置きリビングのソファで一息ついていた僕の腕を握る。梓の手のひらが僕の腕を布越しに触れた瞬間、僕は自分がどこにいるのかよくわからなくなった。何故自分が彼女のような人間に腕を掴まれているのか。何故そんな幸運が、自分のような人間に与えられたのか。僕にはわからなかった。ただ呆気に取られ、同時に感動してしまっていた。
「来て」
 その言葉に従い、僕は彼女に導かれるままにリビングを出てあの木製の扉の内へと連れて行かれたのだった。
 地下へと伸びるコンクリートの階段を下って行く時の足音は、やはり異様だった。昼の光を招き入れる窓はその空間にはどこにも無く、階段の下に少し見えている扉を照らしているのは、曇りガラスと金メッキで鈴蘭を模したランプの照明だけだった。
 階段を下りながら後ろを振り返ると、梓は階段の上で立ち止まっていた。
「あの」
 付いて来ない彼女に戸惑いそう問いかけると、梓は腕を組んでこちらを見下ろしていた。そして何の起伏も含まない声で、一言呟いた。
「その下の扉」
 その一言で、彼女がどんな人間なのかということがはっきりと理解できた気がした。彼女は表情を、態度を演ずることができる人間で、その上自分自身でそれを理解し利用している人間なのだと。そして、彼女にとっての自分という人間の価値というものについても。いや、彼女にとって、自分は人間という評価すら与えられていない。今の僕ははっきりそう認識している。
 しかし、その時の僕はまだ、何かに縋り付くように彼女の言葉に従うのだった。彼女は気紛れで、今偶然のこの時、たまたま近くにいた僕に対してそういった態度をとったのだと信じたかったのだろう。
 僕は彼女の言葉の通り、地階に位置するその青銅に似せた色調の扉に、その手を掛けていた。
「開けて」
 言葉に従い扉に付けられた丸い輪の形の取っ手を引くと、そこには薄暗い空間が広がっていた。
 内部に灯りは見当たらないので薄暗いが、そこにははっきりとなんらかのイキモノの尿らしき臭いがした。その呼吸音までも、暗闇であるがゆえに感じることが出来るような気がする。正面に見える壁は黒く、その黒に何色かわからないが、数段明るい色の目地が刻まれていた。その様子からそこがどうやら、この家の外部と同じように、煉瓦造りの内装らしいことがわかる。そして、そこに何らかのイキモノがいる。
 しかし、僕がその部屋に足を踏み入れても、そのイキモノはなんら行動を見せようとしなかった。僅かな気配は僕を窺うでもなく、飛び掛るでもなく、その部屋のどこかから動こうとはしなかった。
 部屋の内側に足を踏み入れると、僕は手前の壁に手を触れた。ひんやりとした煉瓦の感触がある。僕が探そうとした電灯のスイッチは、すぐには見つからなかった。
 暗い中を左の方へ壁伝いに歩いていく。耳を澄ますと、そこには確かにイキモノが呼吸の為に体を蠢かせる微かな音が聞こえてきた。僕は一つ息を吐き、呼吸を整える。
 そして、僕の左手が部屋の角に触れた時。
 部屋の外、階段を誰かが駆け下りる音が爆音のように聞こえてきた。音の排出される場所の無い地下室では、その音が壁に反響し、異常な音響効果を生んでいる。僕は音に驚き、蹲ってしまった。暗闇にその音という組み合わせは、現実にはありえないほど恐怖心を煽る。
 そして、唯一の光源だった扉が、金属の軋む音と共にゆっくりと閉じられたのだった。続いて、鍵が掛けられる音。
 湿った部屋に、暗闇が訪れた。
 僕は立ち上がることも出来ないままにその場で途方に暮れていた。前後左右すら感じることが出来ず、脳内に巻き起こった混乱のせいで、体までが回転しているような感覚を覚える。唯一手に触れる壁の感触だけが、僕が確かにそこに生きているのだと感じさせてくれた気がした。小さく鳴る奇妙な音が、まるで僕に静かに迫る肉食獣の足音のように思えた。
 幻影の中、黒い豹の幻影が今にも僕に食いかかろうとその牙を閃かせた時。
 カチッと小さな音が鳴り、部屋に突然に眩い明かりが点けられた。いや、それは大した光ではなかった。ただ僕の目が暗闇に慣れてしまっていただけだった。そして、黒豹は僕の目の前にはいなかった。
 その明かりの中で、僕はなんとか立ち上がる。
 目を擦りながら僕は部屋の内部の構造を知ろうとする。
 単純だ。煉瓦造りの天井のあまり高くないがらんどう。ただそれだけだ。今考えると、あの部屋はワインセラーとして使われるべき部屋なのだろう。
 あとただ一つ特徴的なのは。
 僕が暗闇で蹲り寄り掛かっていた壁の反対、僕が立ち上がって見つめた壁にもう一人の人間がいるということだけだった。深い緑の塊が、そこでもぞもぞと動いている。
 壁の上の方からボートでも繋ぐような太い鎖が垂らされていて、その先に手首を繋がれた人間がいる。よく見れば、その人間は近くの高校の女子の制服を身に着けている。それがすぐに女だとわからなかったのは、彼女の顔に黒い布の目隠しと猿轡が太い平行線を引いていたからだろう。そして、彼女の頬が異常なほど赤く腫れていたからだ。そんな状況の彼女を見ても、彼女に対して何かの感情を抱くことが出来ない。僕は精神的に追い込まれていた。
「殺して」
 声が、扉の外から微かに、そして突然に聞こえてくる。梓だ。おそらく部屋の外に設けられたスイッチを入れて、もう一度戻ってきたのだろう。僕に指示を与えるために。
「殺して」
 声は繰り返す。僕はすでに頭がおかしくなりかけていた。直前まで僕を包んでいた心の内部を掻き乱す純粋な暗闇への恐怖が、そして心臓を高鳴らせる爆発のような反響音の恐怖が、僕を追い込んでいた。
「殺して」
 この家に足を踏み入れるまで、僕はどこか善人の顔をしてなんとか梓を踏みとどまらせようと考えていた気がする。しかしもはや、僕にはそれを思い返すことすら出来はしなかった。僕にはわからない。部屋の中に響く、繰り返される言葉が、自分の内にある衝動なのか、それともやはり梓が部屋の外から語りかけている言葉なのか。
「殺して」
 殺せ、ではない。声色に命令のような冷たさは無い。寧ろ悲しみに満ちた、苦痛の中で助けを求めるような、そんな声だった。そう、例えば四本の足を全てもがれた子犬の鳴き声ような。
「殺して」
 今までに奪ってきた命を思い出す。いくつの命を奪っただろう。人間は生きる為に他の命を奪う。僕はどのぐらい、必要以上の命を奪っただろう。わからない。それが僕の周りで楽しげに笑っていた人間達よりも多いのかすら。
「殺して」
 目の前で、顔の腫れた女は足を擦り合わせている。靴を履いていない紺のハイソックスの足は、まるでハエが手を擦り合わせる姿の様に見えてくる。僕の視界は天地を逆転しつつあった。それは、だんだんと醜悪で巨大なハエになっていく。
 そして、宣告の声は響いた。


「殺して」




 切り傷


 スコップは、砂浜を数メートルの深さまで掘り進んでいた。僕は汗を拭い、止め処なく流れ出ていた回想を自ら断ち切った。
 思えばあれが、最初の殺人となった。虫や獣ではなく、人間として手に掛けた、初めての相手。
 僕はもうこれ以上の深さは必要ないだろうと判断し、穴の上に上がる。今度はその穴の中に死体を一つ一つ蹴落としていく。穴の底に叩きつけられた死体はかつてそれが人間であったという事実を感じさせないほど無機質に、ゴム人間のような柔らかさと痛覚を持たない者にのみ可能な体勢で地面にぶつかっていく。首の骨が折れる音は、潮騒に掻き消えていった。疲れる仕事と波の音の中で、僕は再び記憶の中の女性について思い返していた。
 もう一つの意味でも、彼女は初めての相手だった。いや、その表現は少し間違っているのかもしれない。僕が彼女の中で果てる時、包んでいた肉の持ち主である彼女が彼女であったと証明する物は何もなかった。彼女はもしかしたらすでに死んでいたかもしれない。彼女はすでに生臭い肉だったのかもしれない。そしてもしかしたら、僕は冷たくなった死体を抱いたのかもしれない。
 ……残念ながら僕は、彼女の肌に手を触れた瞬間からの記憶が無かった。不思議だが、よく経験の無い男が初めて性交を体験した時、その後どのように事を終えたのかすら思い出すことが出来ない、という話と同レベルの事なのだろう。いや、殺人という段階を経ているのだから、それよりも少し衝撃は強かったのかもしれない。
 気が付いた時僕は裸で、彼女の血に塗れ冷たくなった死体に覆いかぶさるようにして倒れていた。見下ろすと彼女の首筋には傷があった。そこはおそらく頚動脈というのだろう、太い血管の上がぼろぼろの傷となっていて、僕の口元に乾いた血と体液がこびりついていた。彼女の衣服の乱れと自分の格好から、そこで何があったのかを知った。
 それを見た時、僕は何を思ったんだろう。思い出せない。
 だがきっと、「ああ、遂にやってしまったか」程度のことしか感じなかっただろう。そしてどこかで満足感や安堵感を感じていたのかもしれない。
 どこかで僕は、いつかはこうなるだろうことを想像していた気がする。殺人は重大な犯罪だと理解していても、人間以外の生き物を殺すこととは全く違う罪なのだと頭でわかっていても。いつかはそうなるのだと感じていたのだ。意思としてではなく、予測として。
 ニュースで騒がれた凄惨な事件の犯人が歩んだ道と同じストーリーを、自らも辿ってしまっていることを知っていた。知っていてなお、どこかで「ここまでならば大丈夫だ」と引き際を悟っているような振りをしていた。そのラインを越えなければ大した罪にはならないのだと。
 しかし結局。僕はそのラインを越えてしまった。殺すという行為を知ってしまった。
 そして、知られてしまった。宗氏梓という強大な悪魔に。
 僕はあの日から、彼女の望む相手を殺すことになった。僕自身の意思も、もうそれに逆らう意欲を持ち合わせていなかった。

 いや。
 正直に認めよう。
 僕はすでに梓の働きアリなのだと。
 そしてきっと望んでいるのだ。
 人間を殺すという行為を。
 だから今日、あの二人組を殺したんじゃないか。

 一文字に刻まれた人差し指の傷を口に含み、僕は前歯を強く押し当てた。




 羅刹   


 黒い車体を、冬だというのに日差しが熱していく。その熱のせいで寝苦しく、僕は後ろに倒した運転席で目を覚ます。
 暑い。考えてみれば当たり前のことではあるのだが。季節感の無い汗が、僕の額から眉を避けて顎に伝っていく。
 最前列である運転席の窓まで黒のスモーク・フィルムで覆われているのだから、いくら冬といえども日差しが出ると暑かった。その熱が車に染み付いた血の臭いをより強く感じさせ、僕を苦しめる。
 この車は、梓が自費で買い与えてくれたものだった。その他にも、一人殺す度彼女は僕に謝礼を支払った。
 一人十万。安いのか高いのかはよくわからない。ただ埋めに行く労力を考えると少し安いと言わなければならないかもしれない。その意味で、彼女は僕にこの車を買い与えたのだから。
 こうして今のように車が必要になる以前に車の免許を持っていたことで、僕は少し父に感謝した。僕という存在に何の興味も持たないあの男が、唯一僕を家から連れ出そうと無理やりに取らせたその免許が、こんな形で役に立つとは思わなかった。それを役に立っていると呼ぶべきなのかはわからないが。だがあの父に、今の僕を責めることはきっとできないだろうし、させたくもない。
 この三ヶ月、ほとんどの時間をこの車の中で過ごしている。梓はあの最初の殺人の後僕を家の中に留めようとしたが、僕は断った。彼女としては、僕が警察にでも出頭すると思ったのだろう。何度も僕を引き止めてはこちらの内奥を窺うような瞳で僕を眺めていた。だが僕の落ち着いた態度に安心したのか、最終的に僕は家の外、住宅街に架かる橋の下で一夜を過ごすことができた。
 しかし何度もそれと同じようなことをそのまま凍え死にされても困ると思ったのだろう、彼女は車を僕に与えた。どこからそんな金が出てくるのかはよくわからないが、もしかしたら彼女は僕のこの殺人を、自身の殺意の捌け口ではなく、金銭目的の仕事としてスタートさせているのかもしれない。僕は最近そう感じていた。そう考えれば今まで僕に払われた二百三十万という金の出所についても納得が行くからだ。
 最初に殺したあの女性を思い出す。彼女は誰だったのだろう。近隣の高校生だとして、一体どんな悪事で梓の理性を破壊したのだろう。僕にはわからない。この年頃にありがちだという恋愛関係のいざこざというところだろうか。
 だが考えてみれば、彼女のせいで僕は今こうして梓の望むままに人を殺しているのだ。彼女が梓に何もしなかったなら、梓は僕の家に電話をしてくることもなく、地下室に僕を閉じ込めることも無かっただろう。これは善悪でいうとどちらにあてはまるのだろうか。僕は少しの時間そのことに思考をめぐらせる。
 しかし今更そんなことを考えても、それは無駄だった。もう僕の手は血で汚れていた。梓は人間を地下室に結びつけることに抵抗を失ってしまった。そして、僕の想像ではこの殺人を商売にしてしまっている。
 ……ふと、悪寒が背を過ぎる。
 それが何だったのか、よくわからなかった。
 ただ、よくない想像が一瞬だけ僕の心を支配し、そしてすぐに消えてしまった。
 その想像の正体が一体なんであるのか考えようという時に、携帯電話がダッシュボードの上で小刻みに振動する。発信者は梓だ。この携帯は梓に連絡用として持たされた物だった。
「少し早いけど、また仕事。今夜九時」
 彼女は通話開始と同時に簡単に用件を言った。そして通話は切られる。
 また、か。
 最近は行為の周期がだんだんと狭まってきている気がしないでもない。今回など、つい昨日殺したばかりだ。その上昨夜は死体を埋めてきたのだ、体は疲れ切っている。
 通話の終わった携帯の画面で時間を確認する。現在はまだ六時少し前だ。あと三時間ある。
 風呂に入りたかった。喉もカラカラだったし、腹も減っていた。
 それらの願望を過不足無く処理できるだけの金を僕は持ち合わせていた。だが、今は少しゆっくりとしていたい、そう思う。
 せめてこの瞬間だけでも、人間らしく。




 SとM


 昨日この部屋に繋いだまま置いて帰った死体は、ここに最初に降り立った時僕が蹲っていた角に、いつもと違って麻袋に詰め込まれて置かれていた。梓は、この異様な空間に踏み込んで鎖から外し、あの麻袋に無残な死体を詰め込んだということだろうか。その姿を想像すると不気味ではあった。何故なら昨日の女性は目玉を引き抜き手足の関節を外した後、手指を一本一本切り落としていったのだから。それを全て集めてあの袋に詰めたというのなら、彼女も相当に壊れてしまっているのだろう。僕と並ぶぐらいに。
 昨日そんな状態で放置して帰ったのは、梓を試してみたかったという意味もあった。いや、そういう風にした方が楽しいというのもあるのだが、彼女は僕がこの地下で行っている行為を本当に理解しているのか、それが気になったのだった。
 だがその疑念も、今考えれば疑うまでも無い。
 僕の目の前で鎖と鉄の輪で壁に繋がれ、目隠しと猿轡の状態で眠りこけている男を見れば、それがはっきりとわかる。こういった状態の人間を、僕は何度見ただろう。
 おそらく彼女は、酒か何かに薬を混ぜて眠らせ、彼女自身の手でここまで運んできて猿轡をし、手首に鉄の輪をはめるのだろう。対象に酒を飲ませるのに、彼女の美しさが役立っていることは容易に想像が出来る。また、彼女自身が最初に僕に言ったように、この家には彼女以外の人間の影は無い。だから彼女は自分であと数時間後に死ぬ人間と杯を交わし、言葉を交わし、そうしてここへ運んでくるのだ。更に、最近では自分の手でその死体を僕の車に積み込んだりもする。
 もしかしたら、彼女は壊れてはいないのかもしれない。むしろ、僕が驚くほどに冷静なのかもしれない。だとしたら彼女にこそ残酷という言葉は似合うのだろう。
 ……今度は別の意味の疑念が過ぎる。
 彼女は何故、僕を必要としているのだろうか?
 彼女は女だから直接手を下すのが大変なのだと最初は思っていた。だが、自分より大柄の人間をここまで運んできて、ある時はここで死んだ死体を車まで運んでいく。その労力を考えれば、ただ眠っている人間の頚動脈に刃物を押し当てて思い切り引くぐらい、大したことではないのではないか。
 あるいはこの一連のことが事件として扱われた時、自らが優位に立ちたいからか、とも考えた。だがやはりそれもおかしい。「殺せ」と指示を出しているのは彼女なのだ。実行犯と主謀者のどちらがより重い罪に問われるか、などということは誰しもが知っていることのはずだ。
 それに、ビジネスとしてのこの殺人には、僕がするような異常な行為は必要が無い。ただ殺せばいいのだ。もっと言うなら、彼女がしているように対象を自分の家に誘い込む必要も無い。そんな危険を冒して人を殺すよりも通りすがりを装って街角で殺す方がよっぽど捕まる可能性は低いだろう。更に、僕がしたように異常な状態で被害者が見つかると、話題性が高まり警察がより本腰を入れてくるということもあるかもしれない。つまり、僕のような人間にもわかるほど、彼女の行動には無駄が多いのだ。僕よりも知能指数が高いであろう彼女が何故その無駄を捨て置くのだろうか。
 先ほど、車の中で感じたあの悪寒を思い出す。
 そうだ、だから恐ろしいのだ。
 彼女がそれらのことに気付いて。
 自分が手を下す方が早いと悟って。
 不要になった僕を彼女はどう処分するのか。
 火の点いた彼女の異常性は想像がつかないから。
 蟷螂のメスは交尾の後、産卵の為オスを食らって栄養を蓄えるそうだ。その行為はどこか、異性間の愛情を超える母性愛を感じさせる。
 だが僕は彼女の伴侶ではない。彼女に食されることで与えられるものは何も無い。ましてや彼女は僕にそれを求めてはいない。
 そう、言うなれば僕は働きアリ。女王に命運を握られ、目の前の獲物を殺して穴へと運ぶ、ただの働きアリ。
 今僕に出来ることは、ただ目の前の男を殺すこと、ただそれだけだ。
 そして僕は、眠ったままの男の口から舌を引き出す。その舌をナイフで思い切り貫く。不安を打ち消すほどの快楽に酔う為に。男は足をジタバタとさせ、体を大きく動かす。
 さあ。何を疑うでもなく、ただ自らの欲求を満たすのだ。時に苦痛を感じ、僕を救わなかったあらゆる人々を呪いながら、しかしある時はその人々に感謝の念を抱いて。
 さあ、いたぶり殺そう。この下らないイキモノを、直視し難いほどに醜い屍に変えるのだ。
 サディスティックな従属の日々に身を委ねる為に。



                    終

2006/01/25(Wed)11:20:12 公開 / 恋羽
■この作品の著作権は恋羽さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
様々な点で見苦しい文章にここまで目を通して頂き、本当にありがとうございます。
今回はより一文一文の濃さを強調し、尚且つ異常とされる存在にどれだけ感覚的に溶け込み得るか、ということを主眼に物語を進めさせて頂きました。こういうものを書いていると、新聞やニュース等で、殺人事件を起こした人間や性犯罪に走った人間が小説として自らの願望を書き付けていた、というよく聞く話がふと頭をよぎります。自分もそうなんだろうか、と考えてはみるのですが、少なくとも僕は血を見るのが怖いのでこんな人にはなれませんし、殺そうと思っても直前で、ああ、ここまで憎んだらもういい、許そう、と考えてしまう部分もありますので、今回もあまり同調し切れなかった部分があるかもしれません。その点で違和感を感じられた方がいらしたなら、深くお詫び申し上げさせて頂きます。
実はグロテスクなシーンをもう一齣含んでいたのですが、性に肉薄した部分を含むのもあり、それを表現の上でモザイクをかけた状態にしてしまうのもつまらないと判断したのもあり、削除させて頂きました。表現力の無さを補わねばなりませんね。



 作者としても色々なものが見えてきた小説でした。それではお読み頂きありがとうございます。ご感想などお聞かせ願えましたら本当に嬉しいです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。