『牛になる』 ... ジャンル:リアル・現代 SF
作者:もろQ                

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 地球上の人間は、みんな牛にすり替わった。人間は俺以外誰ひとりいなくなった。俺は真面目で、働き者だから人のまんまでいるが、あとは全部牛だ。多分地球上の人間はみんな牛になった。全くふざけた話だ。

 いつも通り出勤しようと、一人暮らしの家の玄関に立った時、なんだか外から変な音が聴こえる。もーう、もーうという間抜けな音だ。しかもひとつじゃなく3つ4つ聴こえる。不審に思って早速ドアを開けたら俺も流石に驚いた。
 道路の上、真向かいの児童公園、両隣の家、果てはうちの家の前にも、とにかくそこにもここにも牛、牛、牛だらけだ。白と黒の奇怪な模様の生き物が、眩しい朝の光のもとで、そっちでは道ばたの雑草を食べ、こっちにはやたらと糞をぼとぼと落としている奴がいる。しかもそのどれもがもーう、と間抜けなのに無駄に馬鹿でかい鳴き声を出してやがる。俺は一瞬のうちに言葉を失ってしまった。
 閉じたドアに背中をもたれてちょっと考えた。おかしいぞ、なんだこの牛の群れは。動物園か牧場かどっかから逃げ出してきた奴らだろうか。いやしかし、引っ越して三年になるがこの近くに動物園も牧場もあった覚えが無い。外へはよく出歩く方だから、ここの土地はだいたい把握しているし、仮に引っ越したあとにできた動物園なら、宣伝とか、チラシとかが一枚くらい来たっておかしくはない。とか色々思考を巡らせていたが、ふと視界の端っこに右腕の時計の文字盤が光った。俺はぱっと我に返って、途端に牛の事なんかどうでもよくなってきた。その代わり社会人としての自分が脳裏に浮かんできて、おっと会社に行かなければ、と俺はくるりと後ろを振り返り、何事も無いようにドアの鍵をかけた。
 ところが驚いたのはそれからだ。駅のホームにも、横断歩道にも、坂道にも、曲がり道にもどこにもここにも牛、牛、牛だらけだ。横断歩道では、何百匹もの牛達が赤信号に見向きもせずのそのそ歩いている。もちろん車は通らないからほぼ無法地帯となっているのだが。そして満員電車にいたっては、白黒の毛皮の波が唯一人間の俺の身体を始終押し引きしてくる。ひづめで足を踏まれたり、臭いがきつかったりと大変だが、何よりひどいのは鳴き声だ。車両中もうもうもうもうもうもう。こっちの端からもうもう、あっちの端からもうもう、列車の中がやまびこみたいにわんわん響いている。それは本当にうるさくて耐えられたもんじゃなかったから、俺は自分の悲痛に染まった顔を窓に押し付けたまま、次の駅に着くのをひたすら待った。

 会社についても同じだった。昨日までピカピカに磨かれていた広いロビーの床が、一晩明けたら茶色い糞だらけだ。俺はうんざりしてなるべく糞を踏まないように歩きながらエレベーター乗り場へ向かった。ようやくエレベーターの前へ立って、「ピンポン」やれやれやっと来たかと思って開いた扉の向こうを覗いたら、またこれだ、むさい牛の大群が狭い空間にぎゅうぎゅう詰めになって暮らしてやがる。満員電車の件もあって絶対乗りたくない、と思った。心底あきれて、俺は12階にあるオフィスまでわざわざ正面階段登ってたどり着いてやった。牛は段差を登りたがらないらしく、階段は幸いすいていた。ぜいぜいやりながらともかくなんとか登り切って、喘ぎ喘ぎになりながらも「どうだ」と声を上げて曇りガラスのドアを開けた。しかし迎えてくれたのは同僚でなくもうもうの鳴き声。いや、こうなる事はちゃんと分かっていた。ああ。
 とりあえず仕事はした。昨日やり残した仕事が少しだけあったから、それをやり、あとはまあ会議の資料とか、お得意先への電話とかを平常通りに行った。ただ平常通りじゃなかったのは、やはり牛どもが俺の仕事の妨害をしたことだった。俺の仕事場は自分含めて10人足らずの小さな所だから、牛もあんまり多くないしやりやすいかと思ったが、全くそんな事はなかった。あっちでこっちで糞するわ紙食うわ歩き回るわで最初は平気だった俺も次第にいらついてきた。俺は仕事するのが好きだから、私語をだらだら話しかけたりする奴や、合コンなんかの話を吹っかけてくる後輩には日頃しびれを切らしていた。今日は尚更ひどい。昼にもなると不満は溜まりに溜まって、午後過ぎくらいに爆発した。俺は近くでうろついていた牛を取っ捕まえて、普段後輩にするのと同じくらいに目を炎のように光らせて、がんと怒鳴りつけた。俺の仕事の邪魔をするんじゃないこの馬鹿野郎と怒鳴った。ところがその牛は謝るどころか、話すらきいていないようにそっぽを向いていた。頭に来たから今度はそいつの額にあるちょうどげんこつぐらいの斑模様めがけて殴ってやった。そしたら牛はぎょっと変な鳴き声を出して、飛び上がってすぐどっかへ走って逃げた。その時後ろ足で俺の机を思いっきり蹴り飛ばしていった。机の上のノートパソコンが、振動でばたんと閉じてしまった。

 殴った拳を左手に象ったまま、俺は一目散に自宅へ走った。町中に群がる牛の間を縫って走った。なるべく下を向いて走った。ドアを開けて、玄関に上がってすかさず閉めた。畳部屋の和室に敷きっぱなしになっている布団に飛び込んだ。冷たい毛布の中で震えた身体に力を込める。手足は、皮膚に触れると氷のように冷たいのに、内側を流れている血液は熱い溶岩みたいに煮えたぎっているような感じがする。俺は部屋で、布団と縦長のタンスと一緒に一人きりになった。電灯が低い唸り声を上げている。信じられない。嘘だ。俺はこんな世界は知らない。こんな世界は教わっていない。俺が教わったのは……。
 タンスの上に母の写真がある。古く黄ばんだ写真の中に、しわだらけの顔で、それでも母はいつでも強くたくましい笑顔を見せてくれる。俺は頭だけ布団から出して、タンスの上の小さな写真を見上げた。俺が教わったのは、頑張った者だけが報われる世界。有能な人材だけが生き残れる世界。母は幼い俺に、毎日のように言い聞かせた。いい大学に入りなさい、いい仕事に就きなさい。お母さんの言うようにすれば、きっと幸せになれるから。俺はひたすら母の言う通りにした。勉強して勉強して、母の理想になれるようにひたすら努力した。結果ももちろん付いてきた。高校、大学では学年トップの成績を常に保ってこれた。会社も母の望む所に入れたし、そこでも優秀な業績を残してきた。苦しくはなかった。むしろ母が喜んでくれて嬉しかった。俺は母の理想像だから。俺は必ず幸せになれる人間だから。母は仏のような人だった。
 そう、言う通りにしていれば、俺は幸せになれる。ねえ、お母さん。

 次の日も俺は7時20分に家を出た。その次の日も、それまた次の日も同じ時間に朝を迎えた。いつものように横断歩道を渡り、電車に乗り、上り坂を歩き、いつものように会社に着いた。働くために。電話の応対をした。書類の作成に取りかかった。資料を集めた。ディスプレイとひたすら格闘した。仕事をした。良い稼ぎを得るために。ボールペンをカチリと鳴らした時、ひたすら牛を無視する事を、ふと思いついた。

 後輩の森川に「やり直し」を言い渡し、少し遅い昼食をとるため一旦会社を出る。ロビーの自動ドアが開いた途端、外からの心地いい風がスーツの内側に飛び込んで、襟元からどっかへ消えていった。煌めくような木漏れ日が顔中に降り掛かる。室内のまどろっこしい大気とは違って、外気は驚くほどすがすがしい。太陽が眩しい。涼しい空気をふっと吸い込んで、歩き出す。
 平日にも関わらず、表通りは人でいっぱいだった。仲間と連れ立って歩く、若いサラリーマン風の男。真夏でもないのに、ハンカチ片手に汗を拭く中年親父。楽しそうに話しているOLの集団。はたまた集団を追い抜いてさかさか歩く真面目な会社員。みんなそれぞれに幸せそうに見える。自分自身の生き方を心から楽しんでいる。なんだか見ているこっちまで嬉しくなってくる気がして不思議だ。歩行者天国の真ん中を、体のどこかで産まれた軽快なリズムを感じながら行く。
 いつもの喫茶店。店のドアの前に立てかけてある小さいメニューに目を留める。黒板に、ピンク色のチョークで「本日のおすすめ バーベキューサンド」。ふむ、今日はこれにしようかな。
 店の中は、いつもよりかなり混雑していた。喫茶店が街のへんぴな所にあるだけに、普段はまばらな客足なのだが、今日はほとんどどのテーブルも満杯だ。そのうち奥から若くて無愛想なウエイターがやってきて、窓際の陽の当たる席へ案内した。椅子に座り、まあしかしこういう日も悪くないなと店の中を見回して思う。誰もそれぞれにタバコを吸ったり、カップルは何かひそひそ話し合ったりしている。普段は活気がなく茫漠とした雰囲気の喫茶店だが、今日に限ってはなんだか楽しげな感じだ。ぼうっと見渡していると、しばらくしてさっきの若いウエイターがメニューを持ってきた。俺は入ってくる時に見た「本日のおすすめ」を思い出し、一言に「バーベキューサンドと、アイスコーヒー」と告げた。ウエイターは、はい、と言って伝票に書き留め、差し出したメニューを再びわきに挟んですたすたと去っていった。
 天井のスピーカーから、眠くなりそうなジャズの曲が流れてくる。窓の光が横顔を撫で付ける。俺はさっきから頬杖をついてる手を右へ左へ取り替えながら、なんとか睡魔を追い払う。向かい側のテーブルで、男がひとり黙々とパスタを食べていた。男の眼鏡が湯気で曇っていた。その隣には親子連れが座っていた。母親らしき女性が5才くらいの子供の口を拭いてやっていた。視界が滲んで狭くなっていく。音が掠れていく。光が形を失っていく。窓の外、道路を車が走っていった。黒の車、白の車……。
 「バーベキューサンドになります」
 声に起こされた。「失礼」垂らしたよだれを裾で拭く。目の前に皿が置かれる。大きめの丸いバンズに挟まれた、レタス、トマト、ピーマン、人間の手。
 椅子が鋭い音を立てて転げる。体が凍り付く。声にならない悲鳴を上げる。周りの客が驚いた顔でこちらを見上げている。真っ赤な血の色がレタスの緑を浸食している。爪が生えている。細い5本の指、皮膚の裏から浮き出て見える骨の筋、滴る血の赤。
「助けて……」
 一目散に店を出た。
 
 夕方、午後5時42分。日がすっかり暮れているのに気が付いて、四角い窓の景色を見た。町の向こう、ビルとビルの谷間に挟まれるように浮かんでいる太陽。赤い光がビルのガラスに反射して万華鏡のように煌めいている。キーボードから指を離して、ふと立ち上がった。夕日を見た。赤い夕日。本当はもう眠りたい。地平線の後ろに隠れて眠ってしまいたい。ところが「そうはさせまい」と言われ挟みうち。頬杖をついて右へ左へ。テーブルに顔を押し付けてしまえば、眠れるんじゃないか。嘘の世界を捨てちまえば、本当の世界に気付けるんじゃないか。太陽がこっちを睨んでいる。見ろ。
 言われるままに視線をそらして部屋を振り返る。牛が居た。沢山居た。紙を食べる口がもそもそ動いていた。立ち尽くした。パソコンが低い音を立てて唸る。ああ、俺はずっとひとりだった。

 俺は母の言う通りにした。勉強して勉強して、ひたすらに勉強して、会社に入って、働いて働いて、ひたすらに働いてここまで生きてきた。いい大学に入りなさい、いい仕事に就きなさい。お母さんの言うようにすれば、きっと幸せになれるから。俺は母の理想像だから。俺は幸せになれる人間だから。
 だけどそれは前の世界の話。努力した分だけ報われる世界だった時の話。だけどもう違う。世界は変わってしまった。俺ひとりを残して。人間は俺以外誰ひとりいなくなった。同時に母も居なくなっていた事を悟った。母はもうこの世には居ない。母は仏なんかじゃなかった。それでも今まで、俺の心の中にずっと居てくれた事が有り難かった。

 牛をかき分け、着いた頃にはもう夜だった。いつもの喫茶店。メニューには変わらずピンクのチョークで、「本日のおすすめ バーベキューサンド」。ドアを開けた。
 店の中は乱雑していた。もうもうもうもう。暗い店の中で、何十もの牛達がひしめいていた。かろうじて月明かりが、店内を柔らかく照らす。ドアの前で一度立ち止まって、手すりに手を掛けた。小さな階段を一段ずつ降りる。靴の裏にイヤな感触をいくつも受けながら、牛の耳障りな鳴き声に何度もつまずきながら、昼来た時と同じテーブルを探す。あった、奥の窓側の席。薄暗い店内でただひとつ、白い光をスポットライトのように浴びている。椅子は倒れたままで、まるで時間が止まったように動かない。ふらふら近づいて、両手でゆっくり持ち上げる。光の中で微かにほこりが舞う。座る。テーブルの上に、昼に頼んだバーベキューサンドが置いてある。暗闇で牛が鳴いた。
 もうこの世界では生きていけない。信じた世界はここには無い。ならばもう、牛になろう。見えない目で生きよう。記憶を手放そう。どうせ牛になったら、人間だった自分なんか忘れてしまうんだから。その方が、仕事したり勉強したりするより幸せなんだろうから。その方が、俺は寂しくないから。
 大口を開けてサンドにかじり付く。柔らかなパンの歯触りが心地良い。こってりしたデミグラスソースが口一杯に風味を放つ。牛肉の肉汁が溢れる。その向こうで、トマトの酸味が流れてくる。新鮮なレタスが口の中で音を立てる。全ての具材が絶妙に混ざり合って、俺の胃袋にゆっくり堕ちていく。本当に時が止まったような気がした。月の光が体を包む。暗がりでいくつもの大きな影がうごめいている。鳴き声がまるで気に障らなくなった。空腹が満たされていく。幸福に満たされていく。ああ、こんな美味いモノ初めて食った。俺は月に照らされて思う。

 なんだか眠くなってきた。平らげたバーベキューサンドの皿を端にのけて、テーブルに思い切り顔を突っ伏す。冷たい。だけどなんだか嬉しい。もう眠れるんだ。誰の事も気にせず眠れる。俺は俺じゃなくなっていいんだ。牛に、仲間になれるんだ。頬の冷たさが次第に和らいでいく。スポットライトに一人っきり、俺は死んだように眠った。

2006/01/14(Sat)18:03:16 公開 / もろQ
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■作者からのメッセージ
お久しぶりでございますハイ。ようやくできました。ホントは短編にしてあと2つくらい違うの作ってまとめようかと思ってたんですが、思いの外これが長くなっちゃって、これオンリーで出しました。

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