『博識』 ... ジャンル:ショート*2 未分類
作者:点野もより                

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「ねえ」
 私の言葉に、男は資料から顔をあげる。
「どうやって、見分けるの?」
 手元の資料に微笑みかけて、男は言った。「どうってことはない」
「もったいぶらないで、教えてちょうだいよ」
 男は笑う。資料から顔をあげて、先ほどの笑みとは違う笑いを浮かべる。
でもそれがなんに対しての笑いなのかは、わからない。
「勘だよ。勘だの、雰囲気だの、気紛れで見分けるんだ」
「見分けてないじゃない、そんなの」
 私は目を細め、真一文字に固めた口で「それは、誤魔化しっていうのよ」と結んだ。
真一文字の口は、その言葉を合図にしたように、緩くほどけていく。
「でも七割がたあたる。これは誤魔化しじゃないさ、事実だ」
 耳に蓋があればいいのにと、昼食に食べたビーフストロガノフと少しの苦痛が気持ちの底で混ざり合い
少しの屁理屈を生んだ。大した事はない。
「でも三割は外れるんでしょう。十人いたら三人が、百人いたら三十人よ」
 もっと大きな数を続けようとしたが、男はそれを察したように足を組み替えた。
小さなデスクには、大量の白い紙。乱雑にただ広がっているだけなのだから、鼻をかみ終わった
ティッシュ・ペーパーに間違えられたって、文句は言えない。それにきっとこの惨状だと誰だって、ティッシュ・ペーパーだと思うだろう。
まさかこれが、罷り間違えても過去の逮捕者リストだなんて、誰も思いはしない。
「そうだな、確かに一プラス一は二になる。でもな、そうしかしだ」
 男は実にもったいぶる様に、自分の膝をぴしゃりと一度だけ叩いた。
「君はそこにある二というモノが、なんなのか分かるのかい」
 それは、質問なんかではなかった。それはまるで、フェルマーの最終定理のように思えた。
だから私は、頭が混乱して訝しい顔を作り上げた。
「わからないわ、貴方は分かるの?」
「わかるわけないだろう。二という数字は、本当に存在するかどうかさえ僕には分からない。
僕に分からないんだから、つまりは君のもわからない」
「存在しているじゃない」
 二という数字は、ペンを二本並べればそれが二という数字になる。そんなの、常識だ。
「していないよ」
 彼は言い切った。千円あれば千円のものが買える、と言う様な顔が更に私を混乱させる。
「確かに物を二つ並べれば、それは二だ。紙とペンさえあれば誰だって簡単に二という数字を描くことができる。
けどね、問題はそれじゃあないんだ。君はこの二という数字を現実の物として、実物の物として見ることが出来るかい」
 見透かされたかの様な言葉は、私の中を一直線に通っている芯のようなものを貫いた。
「出来ないわ、でもそんなのただの屁理屈じゃない」
「そうかな。僕はそうは思わないさ。だってそうだろう、僕たちは日常的に二という数字、いや色々な数字を使っているけど
誰がその数字について証明したって言うんだい。
誰も証明なんかしてないだろう。世の中って言うのは、そんなもんなんだ。君が君でいなければならない理由もないし
君の事を証明する、道具もない」
 男は片眉を上げた。別に、悩んでいるわけでもなければ、怒っているわけでもない。
確かに、少しばかり昔までは彼のこの表情は怒っているに適していたが、今はもう違う。ただのクセだ。全く厄介な、ただのクセである。
「でも私がいるっていう証明なら、してくれる人間がきっといるわよ」
「一体どこに? 自分の所在も証明できない奴が、他人のことをかまってられるもんか」
「そんなの簡単よ。貴方にだって出来る。だって貴方は、私のことが見えるでしょう。私の声が、聞こえるでしょう。
それも視覚的証明になるんじゃないの」
 男は盛大な溜息を吐いた。人を馬鹿にするような、そんな溜息だ。彩色スプレーを吹きかけるのだとしたら、黒が相応しいと思う。
「やはり君はただの莫迦だった様だね。どうだい、新しい職業でも探してみるのは。そうだ、それがいい。
なるべくなら頭を使わない職業がいいだろうね、あと口も。重要なのは、その二つだと思う。ぜひ新しい職を探してみてくれ」
「あらあら、随分とご身分の高いご様子で」
「当然だね」男は正確に、五秒の間をあけた。その間には恐らく、何の意味も含まれていない。ただ沈黙がそこにあるだけだ。
「それで、そうだ。君、確か君はこう言ったね」
 そしてまた、三秒の間をあける。焦らされながら、沈黙を続けるには充分すぎる間である。
「視覚的証明なら、誰にでも出来る。のような感じのことを」
 私は無言で一つ頷いた。耳が痛くなるほどの沈黙が私の周りを流れ続けている。
「それはどうだろうか。君が君であるという証明がされていないのだから、ここにいる君は現実のものじゃあ、ないかもしれないだろう。
君が、君であるという証拠がどこにあるって言うんだい」
「でも、それじゃあまるで私が、この世の物でないみたいな言い方じゃない」
「ああ、そうだね。君が、ここにいるかどうかは、誰にもわからないさ」
「歴史の教科書を開けば、徳川家康はいたって書いてあるし、ペリーはちゃんと黒船で日本に来たって書いてあるわ」
 男はまた一つ頷いた。口元にはついでだから、といった感じの笑いが零れている。
「でも君は、実際に徳川家康には会っていない。だから、徳川家康がいたのかなんて、君にはわからない。
そうなると矢張り、君が君であるという証拠は、どこにもないんだ」
 男は先ほどとは違う笑いを浮かべる。厭らしい笑いだ。人を小莫迦にしつつ、更には楽しんでいる。
私は頭から溜息を吐き出して、咳払いをしてその場を収めた。
「いいですよ、どうせ私は存在しません。これで、満足でしょう」
 今度は声をあげて笑い出した。全くもって、不謹慎だ。
「至ってその通り。さあ、三時のおやつにでもするかい」
 男が椅子をひく音と、秒針が三時を差す音とが重なった。
「頭の悪い助手の、不味いコーヒーでも呑みながら、根性の悪い上司について語ってあげてもいいですよ」
 私は、自分の証明をする部品を集めるかのように、少しだけ笑って三時一分の音と共に、立ち上がった。
 そういえば、コーヒーは丁度昨日切れたんだ。肩越しに振り返れば、上司は気楽に踏ん反り返っていたので、何も言わずに急須に湯を注ぐことにした。

2006/01/08(Sun)00:10:37 公開 / 点野もより
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■作者からのメッセージ
色々な物に影響されながらも、本来の私を出すことができた作品かと思います。
究極的なオチを用意しないことを、ミソとしてみた作品でした。
徳川家康のお話は、いつも私の頭の中にあるお話なので、作品中に出せたのは、とても嬉しいと思っています。
”底のないオチ”を楽しんでいただければ、幸いと思います。

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