『メーロン』 ... ジャンル:ファンタジー 未分類
作者:笹川かえで                

     あらすじ・作品紹介
主人公の寺沢神奈19歳は活発で協調性もあり気丈に振舞うも同性愛に悩んでいた。決して打ち明けられぬ想いを秘めたまま若くしてこの世を去る。そこで現実的な死など取るに足らない「通過点」だと知る。そして別世界に男として生まれ変わり、人としての幸福を得ようとするが自分の人生を記した小説「メーロン」が原因で宗教的弾圧を受け異端として処刑される事になる。その後も様々な世界を巡った後に、自分の目指す場所、魂の終着点を見出す事になる。

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1・現実と仮想の狭間にある決意と妥協

「姉さん、風呂」
 部屋をノックする音と弟の声で私は目を覚ました。
「あ、うん、わかった」
慌ててそう答えて私は深い溜息をついた。夕食の後、部屋に戻りベッドの上に腰を下ろして考え事をしているうちにウトウトと眠ってしまったようだ。最近は一人になるとこうして考え事をする事が多くなった。私には昔から一つの悩みがある。これは人に話せるような悩みではない。家族にも、親友と呼べる友達にも話せずに今まで生きてきた。それももう限界に達しようとしている。悩みを覆い隠すように気丈に振舞ってきたけど…もう…
「楓…」
 私はベッドの上で膝を抱え泣きそうな顔を伏せて高校卒業後会う機会が減ってしまった友達の名前を小声で呟いた。
「助けて…」
 そう呟くと同時に涙が溢れてくる。泣いている所など今まで人に見せた事がないが泣いた事がない訳じゃない。こうして一人で悩み考え込んではいつも一人で泣いている。周囲のみんなが思っているほど私は強くない。気が強くて活発、協調性があり意志が強い…そう振舞ってはいるものの…もう、壊れてしまいそうなくらいに自己嫌悪が日々増大している。何の解決策も見出せない自分に対して。
「神奈〜、お風呂冷めるわよぉ〜」
「今行く〜」
 階段の踊り場辺りから声を張り上げる母に私はいつもの私の声で答えてから涙を拭い着替えを持って部屋を出た。湯船に入り足を伸ばして肩の力を抜いて目を閉じる。
「どうして…私はみんなと違うの?」
 心の中で自分に問いかける。
どうして…私はみんなと同じになれないの?
 どうすればいいの?
 わからないよ…
 本当に…どうすればいいの?
自問自答を繰り返しても解決の糸口など見えはしない。私は自分の肩を強く抱き湯船の中で身を縮めてまた少し泣いた。
その夜私は夢を見た。楓を強く抱きしめた後、頬に手を沿えて長いキスをした。交わす言葉もなく何度もキスだけを繰り返した。私の願望そのままに。
なぜ、私は男の人を好きになれないの?
なぜ私が女なの?
意味がわからない。
同性愛?ハタから見ればそうかもしれない。でも、そうじゃない気がする。私が女であろうと男であろうと、楓が好き。それは絶対に揺るがない事だから。
いかにそれが私にとって普通の感情であったとしても、この世界はソレを否定こそしても肯定したりはしない。確かに人間も一つの生物である以上、同性愛が有益な結果を産むハズもない。この世界で私のようなイレギュラーな異端者はどうすればいいの?いくら悩んでも考えても…解決策が見出せない。

いっそのこと打ち明けてしまおうかとも考えた。
ソンナコト…
デキルワケガナイ…
嫌われるくらいなら…
今のままでいい…
でも…
苦しいの…

悪循環だ。世の常識という概念にどんどんと自分の魂、心という物が日々削り取られているような気分になる。そんな中私は唯一の逃げ道を夢の中に見出した。夢の中なら、夢の中ならば、誰に咎められる事も無く自分の欲望を満たす事ができる。世の常識が及ばない自分だけの世界、私はソコで僅かばかりの癒しを手にして現実を生きる為の糧としている。だましだましなんとか食いつないでいる…そんな感じだがこの夢と言う世界が無ければ私はとうの昔に崩れ去っていたかもしれない。実益こそ無いものの私の心はそんな薄っぺらい幸福にもしがみつかないと壊れてしまいそうなのだ。
日々繰り返される夢と現実の往復、今になって思えばなぜそんな簡単な違いに気付けなかったのだろう。明らかに現実と異なる空間にいながらソコを現実として認知してしまう。それが夢の持つある種の魔力なのかもしれない。でも私は現在夢を夢と認識する事ができるようになっていた。夢を夢と認知してしまえばソコは私の自由な世界だ。非常に短い時間でしかないがソコでのみ私の願望は満たされる。誰に迷惑をかける事無く…
いっそのこと目が覚めなければいいと思う。
でも目は覚める。ヒトとして、肉体を持つモノとして生きている以上目は覚めてしまうのだ。夢を楽しんでいる最中にも目覚めの気配を感じてくる。徐々に意識が冴え渡り別の場所にある自分の肉体を感じてくる。体を動かそうものなら即座に現実に引き戻される…例えるなら、午後の授業中に襲ってくる耐えようのない眠気、目を閉じようものなら即座に眠りに引き込まれる…アレの全く逆の感覚。
悲しいけどコレ現実なのよね…私は時計を見て余裕があれば再び眠りにつく。レム睡眠短すぎ…
「神奈〜〜!遅れるわよ!」
 階段の踊り場あたりから怒鳴りつける母さんの声で目を覚ました。
夢を見終わる度に目を覚まし一晩に何度も夢を見る。そのうち疲れて夢を見ないほどに深く眠り…安っぽい時計のアラームでは起きられず今日も寝過ごした。
「はーい!すぐいく〜!」
 私はベッドから上半身を起こし大きな声でそう答えて大きく伸びをうつ。手早く着替えを済ませて長い髪を後ろで一つに束ねる。今日は黒いジーンズに胸元に数字の16が青い字でデザインされたグレーのパーカーを着て行こう。今日は、などと考えるほど服のバリエーションが多い訳ではないがとにかく昨日とは違う格好なら問題は無いだろう。学生の頃は朝になって服であれこれ考える必要などなかったが今は一応社会人。バイトだけど。
 黄土色の地味なナップサックを持って階段を下りキッチンに向かう。父さんと弟がテーブルに付き朝のしょうもない番組を見ながらトーストをかじっている。
「おはよー」
 私はそう言いながらいつの頃からか決まっていた自分の席に付く。トーストに目玉焼き、空のコップにパック入りの牛乳とオレンジジュースが卓上に置かれている。代わり映えのしないいつもの朝食だ。
「おはよう」
 もう少し早く起きなさいって顔で母さんがそう言うと弟と父さんも私の方を向き同様に朝の挨拶をしテレビに目を戻す。ニュースが地方局に移り今日の天気予報が流れる。
「振りそうだな。洗車したばっかりだぞ」
「いつもそう言ってない?」
 天気予報を見ながら渋い顔で言う父さんに私はトーストにジャムを塗りながらそう答えた。
「洗車するから雨が振るんだよ。なんかの本で読んだよソレ」
 弟は皮肉っぽく父さんに向かってそう言う。父さんは渋い顔をして大きくため息を吐いて苦笑する。
「気をつけて行きなさいよ」
 私と弟に向けて母さんがそう言う。
「ああ、わかってる、わかってる」
 弟はテレビの方を向いたままそう答えた。天気予報が終わり今日の占いが流れ始める。
「今日の蠍座はどうかな?」
私はいちいちこんな占いを気にしてはいないが気にしているかのように振る舞いテレビに目を移す。
「ははっ、今日はいい事ありそう!」
 私は少し高い声でそう言ってオレンジジュースを口にする。カウントダウンとか言いながら1位から順にカウントアップしていく謎のコーナーで運気ナンバー1に選ばれた所で嬉しくもなんともないけど一応喜んでおこう。
「ごちそうさま」
 弟はそう言って荷物を持って席を立った。洗面所に向かい顔を洗って寝癖を直して家を出る準備をしている。
「いってきまーす」
弟は廊下を歩きながらキッチンに向かって声をあげた。
「純一〜、気を付けていきなさいよー」
 玄関先の弟に向かって母さんが声を上げる。
「あーい」
 弟は大きな声で返事をしてドアが開閉する音が聞こえた。
「さてと、いってきますか…」
 私はそう言って腰を上げる。
「ん、気を付けて行けよ」
「カッパ持っていきなさいよ」
 父さんと母さんが同時に口を開く。
「うん、わかってる、わかってるって。んじゃいってきまーす」
 私は笑顔でそう答えてナップサックを背負い玄関に向かう。黒いスニーカーを履き足元に黄色い蛍光色のズボンベルトを巻き外に出ると今にも振り出しそうな憂鬱な空が出迎えてくれる。
 5月と言ってもまだまだ肌寒い。太陽が隠れていればなおさらだ。車庫の端に置いてある自転車のチェーンキーを外してサドルにまたがる。初任給で衝動買いしてしまった黄色いマウンテンバイクにはまだ泥除けが付いていないので雨が降ると大変な事になる。服の前後に跳ねた泥で線が入るのを最近知った。
勢いで買っただけに私にはマウンテンバイクの知識など無かった。ズボンベルトを裾に巻かないとギアに裾を巻き込む事や最初は泥除けが付いていない事、ベルはおろか夜間用のライトも付いていないし前カゴも無い。まぁそれらのパーツを買い足して行く過程は中々に楽しい物だ。近所のホームセンターのサイクルパーツコーナーをウロウロするのが休日の楽しみになりつつあるが黄色い泥除けがいつも品切れ中で困る。次行って入荷していなかったら注文しようと思う。こんな話を友達にすると神奈は変わってるなどと言われる。
確かに、周りの友達はハヤリの服やブランド物のバッグなんかにお金を使っているようだけど私にはイマイチ興味がない。今の私は自転車のパーツくらいにしか物欲が働かないのだ。泥除けの次は何を買おう。疲労軽減パッド付の快適グローブが気になる。あとはデジタルの速度計なんてハイテク装備も欲しい気がする。フレームに取り付けるドリンクホルダーや細いタイヤも気になる。アレはロードレーサーっていう別の自転車か…虹色に輝く妙なデザインのゴーグルとかパンク直す妙なスプレーとか欲しい物は尽きない。やっぱり私って変かも…
 MDウォークマンのイヤホンを耳に入れ再生する。聞いているのはジャズ名曲集。ハヤリの歌にはイマイチ興味がない。今ハヤリの歌手が十年、二十年後にも現役で活躍しているかと考えれば怪しいモノだ。中学の時に学校であんなに流行っていた歌手は今どこに?などと考えると私は歴史を越えて愛される過去の名曲に手を伸ばす。
ただの反骨精神からの行動ともとれるが…ただ嫌なのだ。流行っているからとか、みんながこうしているからこうしよう、っていうのが。同性愛者というイレギュラーな部分を覆い隠すかのように他人と違う自分を演出しているだけなのかもしれない。こうして自分を冷静に省みるとまた少し泣けてくる。
「笹川流楓式一号発進!」
 心の中でそう叫んで無理やりテンションを上げてペダルを踏み込む。自転車に妙な名前を付けているのは楓にはナイショだ。これもまた、楓を思い通りにしたいという願望の現われなのだろう。自分の所有物に好きなヒトの名前を付けて…パーツを付け替えたりする事で小さな自己満足を得ている…私ってホント…バカ…
テンションを上げるつもりがかなりブルーになってしまった。こんな中で聞くジャズはなんだか心に沁みるモノがある。そんな事を考えながらバイト先のリサイクルショップに向かってペダルを踏み込んで行く。自転車でおおよそ15分の距離だ。朝の渋滞で身動きの取れない車を横目で見ながら国道を走るのは少し気分がいい。信号が少々赤でも容赦なく突っ切って行くのは爽快だ。免許取られる心配が無いのでかなり強気。もしかしたらお巡りさんに捕まったら罰金は取られるのかな?まぁどうでもいいけど。
 
 おおっと!車にはねられた…

そのうちやるとは思ってたけど…つーか二回目だけど…今回は真剣に…危ないかな…前は本当に大した事がなくて自転車のタイヤが曲がってないかどうかの方が真剣に気になった。むしろ車の運転手さんに気を遣わせてしまって悪い事をしたと思った。でも今回は…痛いとかじゃなくて…なんか熱い?
急ブレーキの音?
無重力?
ああ、そうか。今放物線の頂点なのかな…
徐々に重力を感じる…
 地面が近いのかな?
事故?
誰が?

「…ッ!」
 悠長に考え事をしている状態なんかじゃない。
はねられてんじゃん!私!
地面に叩きつけられると同時に夢から覚めた時のように現実が襲ってくる。苦痛で声も出ない。痛い!痛くて通勤どころじゃない!
体からどんどん力が抜けていく。それと同時に全身を包み込んでいた苦痛が不思議と和らいでいく。むしろ…少し気持ちいいくらい…
同時に…すっごく眠い…
意識が…
刈り取られていくのがわかる…
楓…
私がいなくなったら悲しんでくれるかな…
はは…
私、何考えてるんだろ…
当然だよね…
友達…
だもん…ね?

私はゆっくりと目を閉じた。
周囲の喧騒はもう聞こえない。
目を閉じて視界は闇に包まれたハズだったのに私は明るい場所に立っていた。
一面真っ白な世界…本当に何もない、一面白だけの世界、遠くに一本の線、地面と空間を分かつ為だけに存在しているかのような無機質な地平線が一本引かれているだけ、そんな感じの場所だ。
ここが現実でない事くらいはすぐにわかった。かと言って普段見慣れている夢の世界とは少しだけ違うような気がする。
夢ほど軽くなく…現実ほど重くない…そんな感じの不思議な場所だ。その気になって肉体を強く意識して強引に体を動かせば目を覚ませそうな感じもするけど…ソレをしなければいつまでもココにいられそうな…そんな感じがする。
「こんにちは、かわいらしいお嬢さん」
 突然後ろから声をかけられた。落ち着いた口調の少し高い女性の声、慌てて振り返るとそこには細身で長身、鋭い目付きが気の強いお姉系の印象を与える。んでもって出るトコ出てる絵に描いたような美人が長い金髪を揺らして立っていた。服装は…青を貴重とした近未来デザイン…としか形容できないような妙な服装だ。
「が、外人さん?」
 思わず声を漏らす。すると目の前の美人さんは少し笑いながら口を開く。
「フフ、貴女がどこから来たのかは知らないけど…ここじゃ生まれた場所なんて関係ないのよ。だってほら…カラダが無いんだから。言葉なんてモノが意味を持たないって事ぐらいはわかるでしょ?言語っていうのはカラダという器で魂が隔てられているからこそ必要な意思疎通の手段なんだから…ね?」
「カラダが…ない?」
 私は自分の掌を見つめながら問い返す。
「そう。貴女のそのカラダは貴女の意思が創り出している一つのカタチにすぎないモノなのよ。貴女はそれに従って…私の意志を目で見て耳で聞いて…自分の意思を口から紡ぎ出している気になっているだけ…まぁ、さっきまでカラダの中で生きていたんだったら慣れるまではしょうがないでしょうけどね」
 そう言って美人さんは優しく笑う。
「…?」
 美人さんの言っている意味がイマイチよくわからない。私が困った顔で固まっていると美人さんは軽く笑って口を開いた。
「私はルキア・ラナ・ラクルード。ただの臆病なおせっかい焼き…そんな所かな。貴女は?」
「寺沢 神奈…」
 ルキアと名乗った美人さんに名を聞かれたのでとりあえず自分の名前を遠慮がちに答える。
「…テラザワカンナ、それが名前なのね。それをしっかり覚えておきなさいね」
 ルキアさんは真顔で私にそう言い放つ。自分の名前をしっかり覚えておけとは妙な事を言う。少し間を空けてからルキアさんは再び喋りだす。
「まぁ…私の知る限りではココには今私と貴女しかいない。貴女がこの後どうするかは別としてとりあえずヨロシクねカンナちゃん」
 そう言ってルキアさんはニッコリと笑うが私にはわからないことが多すぎで正直言って恐れすら感じていた。
「ココって…ドコ?」
「そうね…割と高い所かな?」
 私はひどく動揺しながらも言葉を紡ぎだす。ルキアさんはその様子を半ば楽しむかのようにサラっとそう答えた。
「高いトコロ?」
 現状の把握が精一杯で言われた事をオウム返しにする事くらいしかできない。
「そう。比較的高い所じゃないかな。もしかしたら割と深い所かもしれないし奥の方かもしれないし結構手前かもしれない。ぶっちゃけ私にも良くわからないわ」
 そう言ってルキアさんは笑う。なんだソレは…
「つまり…ドコかわからないって事?」
 私が少々ムッとした顔で問うとルキアさんは苦笑しながらも話を続ける。
「そうね。上か下かもわからない。でもイメージ的には上って事にしておけば話が解り易いと思うの。間違いなく言えるのは…人口が極めて少ないって事と…ここが俗に言う死後の世界って事」
「死後の世界?どうして…他には…誰もいないの?」
「そうね。他のヒトがいないって言うよりは…いたけどいなくなったってトコかな。時間の概念が無いからハッキリとした事は言えないけど…百年か二百年に一度の割合で新しいヒトが来るわね。貴女のように…ね」
「…・」
私が無言でいるとルキアさんは私の意図を汲み取ったかのように話を進める。
「コレは推論だけど…死後の魂はランク分けみたいな感じで色々な世界に振り分けられるんじゃないかしら。ここは…きっと変わり者のくる世界ね」
 そう言ってルキアさんは笑う。変わり者のくる死後の世界?死後の世界って言うのは天国と地獄の2択じゃなかったようだ。
「他のヒトはドコへ行ったの?」
「他のヒト?みんな堕ちたわ…」
「堕ちた?」
「そう、みんな堕ちたの。いくら止めても無駄だった。確かにココで無限の時を過ごすよりは堕ちた先に希望を見出したくなるのも解るけど…アソコはそんなに甘くはないの。堕ちたヒトは二度と戻って来ないもの…」
 そう言ってルキアさんは表情を曇らせる。
「堕ちる…・って?」
「生まれ変わり…って言ったほうがわかりやすいかな。みんな…上を目指す為に常識という名のルールに縛られた世界で生きる事を選んだの。貴女の生きた世界でも似たような概念を語る宗教があったんじゃないかしら?魂は不滅で…何度でも蘇るなんて話」
「うん…」
 私は軽く頷きながらそう答えた。確かに…死んだらソレでオシマイって考えるヒトも多かった。でも数ある宗教の大多数は死後には死後の世界があり、ソコから再びヒトとして生まれるなんて事を言っているような気がする。宗教には詳しくないものの天国なり地獄なりの話はポピュラーな物だろう。悪い事をすれば地獄に堕ちる。善人は天国へってヤツだ。
「みんな自分は特別だ…そう思って堕ちて行くの。ここに来るヒトはみんなそういう考えのヒトなのかもしれないわね…私も昔はそうだった。私はヒトとは違う。群集の中に埋もれて自己を表現する事すらできず、模倣を繰り返すだけの愚民とは…違う。そう思っていたのね。でもソレは思い上がりだったの。次が無いのなら…次に繋ぐ力が無いのなら中途半端な自意識は自分を苦しめるだけ…私には…今の私には生まれ変わる勇気すらないの。だからこうして…何千年も何もせずに…来るヒト来るヒトに話をしてはココに引き止めようと試みているの…でもみんな逝ってしまうの。中には必ず戻ってくるなんて言うヒトもいた。でも誰も帰ってはこない。多分…貴女も逝ってしまうのでしょうね」
 そう言ってルキアさんは悲しそうな顔して下を向く。
「え…?生まれ変わるってそんなに大変な事なの?」
一方的に話をされて勝手に悲しまれても困るが沈黙も耐え難いので話のスジに沿った質問を投げかけてみる。
「ええ。生まれ変わるのは…本当に命懸けなのよ。私も昔一度だけ…生まれ変わりを望んでソレを実行に移したの…でも無理だった。運が良かったのか悪かったのか…あのまま砕けてしまった方が苦しまずに済んだのかもしれないけど…今は…死ぬのが怖くてたまらない。生きる事に死の恐怖を覚えて以来私は進む事も戻る事もできず…この何もない世界でただ語り部として客人の為に生きているの…」
「命懸け?私達は…もう死んでるんでしょ?」
「それは違うの、確かに肉体的な死を迎えた結果ココにいるのだから死んだと言っても過言ではないかもしれない。でも肉体的な死なんてモノには何の意味もないわ。まぁ…下でまだ肉体的に生きている貴女の家族や知人に与える影響は大きなモノかもしれないけど貴女個人の人生って観点から見れば乳歯が永久歯に生え変わる程度の変化にすぎないわ。人生は長いのよ。一度死んだくらいじゃ…何も見えやしない。だからみんな何度でも死にに逝くのよ。本当に命を賭けて…ね。魂が砕けた時、それが本当の死なのよ」
「魂が…砕ける?」
「そう。一つの命が生まれる…そこには一つの死があると思っていいわ。前世がヒトだったかどうかは別としてあの地獄を生き抜くのは…並の精神力じゃムリだわ…」
 ルキアさんは少し強張った表情で声のトーンを落として淡々と語る。
「地獄って…どういう事?」
「生まれ変わる為には地獄を通らないといけないの…母体という地獄をね」
 ルキアさんは真顔で訴えるように呟く。
「母体?」
「そう。母親のお腹の中…生まれる前の赤ちゃんはスヤスヤと眠っている。でもそうじゃないの。あそこでは一つの魂が生存を賭けて必死に戦っているの。生きて日の目を見る為にね」
「え?」
「生まれ変わりを望んだ魂がどこかの母体の胎児に宿り…そこで必死に戦っているのよ。自らの魂、自らの全てを次の肉体に受け継がせる為に…ね。でも全ての胎児がそうとは限らない。これは推測だけど…草木を経て、他の動物を経て…ようやく上の世界、ヒトとして生まれる権利を得た新たな魂かもしれない。
貴女の生きた世界にはいなかったかしら?時代に相応しくない知識や技術を持ったヒトの伝説とか…前世の記憶を全て持っている…なんてヒトの話。そう言った例外を除いて大多数の魂は母体で砕かれ…新品の魂として生まれていくのね。生命の誕生は新たな魂と個性の誕生、そうかもしれないけど…その影では一つの魂が必死に戦い…砕かれていく。例えるなら…母体を栄養にして成長する虫のように」
ルキアさんはそう言ってまた悲しそうな顔を見せる。
「ルキアさんは…どうやってここへ…その、戻ったの?」
「生まれ変わりを望んだ魂が帰って来ないなんて話をしたから私の事が不思議なのね。さっきの話の続きになるけど…運が良かったのか悪かったのかは微妙だけど…私が母体という地獄で必死に自我を保とうと戦っていた時、事故か何かで母体が死を迎えたようなの。それに伴って…私は意識のあるうちに肉体的な死を迎え…無事に戻ってこれたのよ。あの地獄があと三日も続いたら私はダメだったと思うわ」
 ルキアさんはそう言って表情を曇らせる。嫌な事を思い出した。そんな顔だ。
「お母さんのお腹の中って…地獄なの?」
「アソコは…言語に絶する地獄よ…上下逆さまで身動き一つ取れず見える物は僅かな明かりだけ…呼吸をしていないって現実からくる耐えようのない不安感…そのうち自分が眠っているのか起きているのかさえわからなくなっていくの。でも、魂の削り取られていく音が聞こえるのよハッキリとね…」
「…そうなんだ」
 私はサラリと答えた。
「ここも…悪い所じゃないわ。まだ上があるのだろうとは思うけど…ここは妥協してもいい高さよ。私と言う他者が存在する以上完全な自由とはいかなくても…困るほどの不自由はないと思うの」
 白一色で何もなかったハズの周囲が瞬時にして緑豊かな草原に姿を変える。
「悪くはないでしょ?下は…窮屈よ」
 ルキアさんの周りには彩り豊かな小鳥が沢山集まっている。
「なるほど…そういう事…
 ここは…夢の中と同じ…望めば願いの叶う世界…
 意思の力が現実を作る世界…
 個人で見る夢と違う点は一つ、他者が存在するって事なのね」
 私は周囲を見回しながらそう呟いた。
「そう、飲み込みが早いのね」
 ルキアさんは満足げにそう言う。
「生まれ変わる方法っていうのも…なんとなくわかる気がする。ただ…目を覚ませばいいだけなんでしょ?」
「…そうね。凄く簡単な事よ。だからこそ気をつけないと…ね?」
「それでも…私は行きたい。前に進みたいの」
 私は深く目を閉じてゆっくりとそう答えた。
なぜ?
 確かにココは悪い所じゃない。
 以前は…夢から覚めなければいい。
 そんなふうに思っていた。
 でも…違う。
 ここは夢の中じゃない。
 覚めない夢は…夢じゃない
 帰るべき現実があって初めて夢は意味を成す…
 そんな気がする。
 そこがどこであれ…自分の立っている場所が現実なのだから。
「そう…やっぱり逝くのね…私には貴女を引き止める権利も力もない。でも聞いて。もといた世界に戻れるなんて思わない方がいい。世界も時代も…どこに堕ちるかなんて堕ちるまでわからないのよ?それこそ…物語の数だけ世界はあるの。ここに来るヒトはみんな違う世界の話をするわ。中には御伽噺のような話をするヒトもいた。…貴女の持つ常識なんて何の役にも立たない世界かもしれないし…性別が変わる可能性もあるのよ」
「だったら今度こそ…男になりたいな」
 私はそう言って笑う。
「そう…気は変わらないって事ね…
 逝く前に一つお願いがあるんだけど…いいかしら?」
「なに?」
「貴女の生きていた世界について教えて欲しいの。ここにはそれくらいしか楽しみがないの。一人でいると何も得るものがないのよ」
 そう言ってルキアさんは苦笑する。
「うん。わかった」
 どれくらいの時間だろう…色々と話をしたし色々と聞いた。家族の事、学校の事、世界の事とか知ってる事は全部。その結果、どうやら私とルキアさんは根本的に「違う世界」の出身なのだと言う事がわかった。にわかには信じ難い話だけど…冷静に考えれば今いるココがすでに別の世界だった。別に疲れたわけでもないが自分の意思で椅子を作り出して腰を下ろしたり喉が渇いたわけでもないのに飲み物をどこからともなく取り出して口にする。そんな事をしていればここが現実という世界でないのは誰でも気付く。こうしてルキアさんとかなりの時間を談笑して過ごす。どれくらいの時間かは検討もつかない。時計がないというより時間の概念すら怪しいのだから。
「それじゃあ…もう行くね」
「…気を付けてね」
「うん。じゃあまた後で」
「ヒトはみんな堕天使なの。どんなに高い場所まで登っても…
 自分の意思でまた堕ちる…さらなる高みを目指して…ね」
「なんか誌的だね。それ」
 私はそう言い残して「現実」に目を覚ます。ずっと近くに感じていた肉体を強く意識し、まるで寝返りを打つかのように「現実」へとシフトする…
最後に見えたルキアさんの顔は悲しみの色に満ちていたように見えた。二度と会うことの無い人間を見送るような表情だったのを鮮明に記憶している。正直…ムカついた。意地でも帰ってやると決意する反面予想以上の混乱に自分が包まれている事に気付く。
 話には聞いていたけど…予想以上に気分が悪い。薄明るい光しか見えない世界でハンパに浮いているような感覚、手足の存在は知覚できるもののほとんど動かす事ができない。目を覚ました瞬間に痙攣するように一瞬だけ体が動かせた気がするが気のせいかもしれない。
 体中に響くような鼓動音が私を苛立たせる…単調なメロディーの繰り返しは精神衛生上好ましくないように思えてくる。
 肺を満たしているかのような異物感に対し何もできない無力感。無力感ではない。明らかに無力だと確信する。目を閉じているのか開けているのかもわからない。時折暗くなったりするものの自ら目を閉じ闇を得る事すら許されないようだ。
高いトーンの女性の声のようなものが伝わってくるも言語として理解できない。その声に答えるように低い声が遠くから帰ってくる。
こっちは状況を把握するのに必死なのに外では恐らく「あー動いた」「どれどれ」みたいな幸せ家族の会話が行われているに違いない…
確かに…こんな所は一刻も早く後にしたい。
私は僅か数分で逃げ出したくなっていた。逃げ出す事が許されるのであれば二度と戻りたくない場所だ。後悔先に立たずという事か…こうやって多くの魂が削り取られ前世の記憶など持たない新たな魂を宿した普通の人間として産まれて逝くのだろう。生と死は背中合わせ…どこにでもあるありふれたフレーズが今自分に現実として突き付けられている事に気付く。徐々に意識が薄れていくものの完全に失われる事もない。眠りたいのに眠れない。そんな感じの不快感のみがどんどんと増大していく。これがこのまま続けば私も長くはないだろう。  
しかし私はそこに決定的な打開策を見出した。
「夢を夢と認知できる」
 この「能力」というには大袈裟な「特技」のお陰で私はココでも上手くやっていけそうだ。ココが耐えようのない地獄であるという「現実」は揺るがないだろう。だがこの地獄に僅かな時間でも休憩を挟む事ができるとすれば随分と楽な道中かもしれない。
胎児は一日の大部分をレム睡眠で過ごすと保健の授業で習った気がする。そう考えれば勝算は十分にある。もし夢を夢と気付けなければ…この地獄でさらなる悪夢にうなされる事になっていたのだろう。胎児は眠くなって寝るのではない。現実の延長として夢が存在している。それは自室のベッドで目を覚ましたという夢を見ているかのように極めて夢と現実の判別が難しい。夢は夢と気付かない限り「現実」なのだから。
割と早い時期にそれに気付く事ができた私は一時的にだがこの地獄から抜け出す事ができた。
私は優しい風の吹く大平原で長めのソファーにゆったりと腰を下ろし流れていく雲をぼーっと眺めていた。上でルキアさんが自分の周囲を緑豊かな草原に変えたのと同じように。
一日の大半を夢の中で過ごす…ハッキリいって退屈だ。普通に現実を生きていた頃は夢の短さに怒りすら覚えていたものの実際のところ、夢の中でできる事などほとんどない。不自由が無いというのは実に退屈だ。
この世界には私が記憶として持っている物しか存在し得ない。本を読むには本の丸暗記が必要だろう。仮に本を丸暗記していたとしてその本を手に取って読むだろうか?そう考えると他者から与えられる「制約」のような物がない限り何をやっても楽しくない。食欲や性欲といった物は肉体という制約があるからこそ意味を成す物だ。
今の私に出来ることと言えば…こうやってベタな癒しの風景を眺める事くらいだ。肉体的な欲求が満たされない以上、精神的な安らぎを求める他にやる事はない。
そう考えると…ルキアさんは違う意味で強いヒトなのかもしれない。こんな状況で何百年も誰かを待ち続けるなんて私にはムリ。退屈すぎて砕ける前に腐ってしまう。
ここが現実と密接した「浅い」位置である事は母体から伝わってくる心臓の鼓動音から容易に察しがつく。徐々に近づいてくる現実を色褪せていく夢の中で感じていた。
「明日は海にするかなぁ」
 私は行きたくもない部活に強制的に参加させられているような気分で地獄に目覚める。そしてその度に「夢」という抜け道に心から感謝する。地獄の続きが同様の悪夢なら人の魂など跡形もなく砕かれてしまうだろう。この地獄で自我を保つ為にできる事など限られているだろう。一心に何かを想い続ける…それくらいしかこの地獄に耐えうる手段はないだろう。もしかしたら…私の前世は男の人で…この地獄の中で愛する女性の事を一心に想っていたのかもしれない。本人の自我とも言える魂が砕けた後もその「想い」がしっかりと私に受け継がれた結果として私は性の同一性障害に苦しむ結果となったのだろうか。そう考えると迷惑な話だとも思えるが正直感謝しているかもしれない。だって…その想いがなければ私は楓を愛することが無かったかもしれない。矛盾しているような気もするけど…楓の事は好きでいたい。私が男でも女でも…
 私はこうして夢という仮想天国と現実という地獄を往復し続けた。胎児が何時間眠り何時間覚醒しているのかがわからない以上、一往復を現実としての「1日」と数えるのはいささか早計だが往復した回数は百回を越えた。
もう想像し得る癒しの風景もネタ切れ気味だ。肉体が成長を続け、感覚が鋭敏になるに従って地獄で味わう苦痛も大きなものになっていく。住めば都、地獄にも慣れるだろうと考えていた私は甘かったと言う事だ。それに気のせいか…夢を見ている時間が短くなってきているような気がする。恐らく…これからが正念場なのだろう。
 徐々に本当の姿を見せつつある地獄と戦いながらも私は必死に自分の意識を保ち続けた。そして待ち続けた日がついに訪れた。
それはもう往復した回数を数えなくなり考える事を止めようかと思い始めた頃だった。
 狭い場所から強引に引きずり出されるような感覚と突然の肺による呼吸の開始は地獄の最後を締めくくるに相応しい苦しみを私に与えてくれた。
今までは閉ざされた不自由な世界で精神的な苦痛を受け続けていた私が久々の肉体的な苦痛に顔を歪めた。とにかく息がしたい。むしろ息をさせて下さい。喉の奥に何かがつっかえたような異物感が私の呼吸を妨げる。まるでプールで溺れかけた時のような苦しさだ。
つか、正に今私は溺れかけているような気がするのは気のせいですか?精一杯力を込めて呼吸をしようと努力する。その結果私の上げた大声は産声となって私に久々の呼吸をもたらしてくれた。
 呼吸する事に必死で周囲の状況がまるで把握できていなかったが徐々に周囲の状況が見えてきた。目で見たというよりは雰囲気でだ。状況が見え始めると今度は違う苦痛に襲われる。恐ろしく寒い。地獄と現実の温度差だろうか。早く産湯に入れて…頼むから…
 私は誰かに抱えられており薄明るい部屋の中にいる。女性の声のような大声が聞こえたあと私はどうやら産湯に浸けられて体を洗われているようだ。
 大きな音が2度聞こえた。
ドアの開く音と閉じる音のようだった。
男の声が響く。
興奮した様子の声と優しく語り掛ける声…恐らくは私の父親が室内に飛び込んで来たと言った所だろう。私は目が動く範囲で周囲を確認しようとするも何を見ているのかも良くわからない。ひどくピントがズレている感じだ。私は産湯から上げられ柔らかい布を体に巻かれ人の手から人の手へと受け渡される。いや、そんな布じゃ寒いって!マジでっ!
 私はどうやら父親に抱きかかえられ母親の前にいるようだがピントが合わず良く見えない。そのままぐるりと一回転させられ父親と思しき男の方を向かされる。
かなりの近距離で顔を見合わせている状況なのだろうが何も見えないと言ってもいいほどに焦点が定まらない。視界全体が赤っぽく見え僅かな凹凸を認識できる程度の視力しかない。これが生後数分の赤子の一般的な視力なのだと信じたい。
先程から色々な声が室内を飛び交っているものの私には言語として全く理解できない。少なくともコレは私の知りうる言語ではない。これから真面目に言語ってのを学ばないとならないと思うと少し気が重い。私はこれまで他国語と数学は避けて通って来た。テストも赤点スレスレもしくは明らかな赤点だったのを提出物等で補いつつなんとか進級したって状態だった。これからは生きるために一つの言語を極めないといけない。まぁ…外国に一年も住めばソコの言語は喋れるようになるってのも有名な話だ。何はともあれ峠は越したようだ。安心したら疲れがどっと出た。 
少々不安も残るが私は久々に安らかな気分で眠りについた。


あれからどれくらい経っただろう。一週間くらいだろうか?肉体にも少し馴染んできたように思える。とりあえず自分が男として生まれたという事は確認できた。
私は嬉しくてしょうがなかった。これで人並みに恋ができるのかと思うと今までの苦労など吹き飛んでしまう。できる事なら…もう一度楓に会いたい。でも…それは諦めないといけない所。楓の事は決して忘れない。でもいつまでも…引いていてはダメ…それはわかっていても…中々に難しい…
初日に比べれば遠くの物もよく見えるようになってきた。さすがにまだ二足歩行は無理っぽい。平衡感覚うんぬんよりも筋力が明らかに不足しているような感じだ。言葉を発しようと努力するものの未熟な声帯を通した結果それは「だぁだぁおぎゃあ…」といった感じの物になってしまう。とある宗教家は生まれた瞬間に二本足で立ち言葉を発したと言うが私には無理っぽい。
「頼むからトイレに行かせてぇえええッ!」
 私は大声で叫ぶもソレは普通の赤ん坊の泣き声として母親の耳に届く。母親が飛んできて赤ん坊用の小さなベッドから私を抱え上げて笑顔であやしかける。優しい口調で話しかけてくるものの私にはまだ理解できない言語だ。
「違うっ!そうじゃない!トイレよトイレ!まだ出てないってばッ!」
 私をベッドに戻しオムツを確認する母親に向かって私はひたすら声を上げた。綺麗なオシメを確認した母親は自分の胸元を開けて私を抱きかかえる。
「だから違うってばぁ!言っちゃなんだが母乳ってマズい!違う物にしてえぇ!あああ…出ちゃった…」
 それに気付いた母親は私をベッドに戻し嫌な顔一つせず私のオシメを交換する。いくら自分が無力な赤子とはいえ…若くて綺麗な母親にシモの世話をされているという現実はなかなかに苦痛を与えてくれる…むしろこれは屈辱だ。私は日中積極的に体を動かし筋力の増強に努めた。せめて手足が自由に動かせればジェスチャーで現状を伝える事もできるだろう。しかし生まれてすぐの赤子が身振り手振りで便意を伝え授乳を拒否すると考えればいささか気持ち悪いかもしれない。まぁ…天才って言葉で片付く事を祈るしか…

 それから数週間だろうか…ようやく親が気付き始めたようだ。私が今までに一度もオムツの交換の為に泣き叫んだ事が無い事に。
 私は母親に抱きかかえられ父親に声をかけられているものの言葉がわからない。父親は私の尻をポンポンと叩きながら質問するような口調で話しかけてくる。
「ソレ!ソレだよ!多分!」
 私は首を縦に振ろうとするも頭が重い…力を振り絞りなんとか首を一回縦に振ってみる。父親は笑いながらも母親に何かを指示してその場を離れた。母親は私をベッドに戻しオムツを取った。しばらくすると父親が戻ってきたようだ。父親は何かを床に置き私を抱え上げる。父親が持ってきたのは木でできた飾り気のない小型の便器のようだった。表面はツルツルに仕上げられ前方には両手で握るに適した高さにグリップも取り付けられている。俗に言うオマルだろう。
「ナイスっ!」
 私は父親に向かって笑って見せる。父親は私を便器に跨らせて興味深く私の様子を眺めている。横で人に見られている中での排便もどうかと思うが…垂れ流しているよりはずっといい。私は久々に普通に排泄欲求を満たす事ができた。様子を見ていた両親は感嘆の声を上げて拍手し始める…それはいいから紙を…

 それから一年くらい経っただろうか。室内の暖炉では赤々と火が燃え窓の外には雪が見える。この一年色々と苦労は多かった。二本足で歩けるようになるのに半年を要したものの今では走れる程になった。言葉もなんとか覚え両親との会話もこなせるようになってきた。そして今私がいるこの世界、「現実」って物が少し、また少しと見えてきた。
 歴史には詳しくないが文明レベルは中世中期くらいだろうか。そんな時代の比較的裕福な家庭に生まれたようだ。親に連れられ外に出た限りでは格子戸にガラスの入っている家は多くない。むしろウチは明らかに広い。
 私はレクサスと名づけられた。父親の名はデニス、母親の名はフィオナ。父は家では仕事の話は一切しないが母の話では国立の魔導研究所の所長だとか。それが俗に言う魔法使いみたいな物ならば笑える話だ。
魔法ってのが実在するのかどうかは別の話としてソレが大真面目に信じられ国の運営の元で研究されている…そんな時代なのだろう。もしここが剣と魔法のファンタジー世界で町の外には魔物がウヨウヨなんて事だったらそれこそ笑いが止まらない。まさに私が逃げ込む場所に選んでいた仮想現実。ゲームや小説で語られるような世界に今生きている。もしそうならば…最高だ。
 それから暫くしてから…外の世界に魔物などいないと言う至極現実的な答えにたどり着いた。話によると数百年前にどこぞの勇者様が魔王を倒して以来平和が続いているとの事。
その役は私がやりたかったなぁ…などと思いつつもココが自分が主人公のゲームの中でない事くらいは認識しているつもりだ。
母親が読んで聞かせた物語の内容で信憑性という面では余りにも頼りない書物だが魔物がいないのは事実のようだ。
まぁ…私の生きた現実には存在しない見た事もない巨大な野生動物を魔物と位置付ければまだ救いはあるだろう。実際に「探検家」なんて職業がまかり通る世の中なのは確かだ。
あと魔法。これは実在しているようだ。イマイチ釈然としないが多くの人々にそう信じられている以上「魔法」という概念が事実として存在していても何の不思議も無い。ここが、この世界が、人口密度の高い夢の中ならば…信じられている「常識」こそが現実を形作っていても不思議はないだろう。宗教という概念が常識として定着し政治に色濃く反映されているのもこの世界の文明レベルから考えれば当然の事なのかもしれない。

そして数年後、私は「神童」などと呼ばれるようになっていた。実年齢より十九年は余分に生きている私だ。その辺の子供より優れているのは当然だろう。やたらテンションの高い普通の子供と一緒になって遊べるほど若くもない。もう少し長生きしていて自分に子供でもいれば考え方も少しは違ったのかもしれないが…
私は父の書斎で色々な本を読み漁りこの世界に対する知識を少しでも得ようとしていた。勉強熱心と言えば聞こえはいいが実際はタダの本の虫だ。
ハッキリ言って勉強など嫌いなハズの私が新たな知識を得る事に夢中になっていた。やっぱり「やらされている」勉強に比べれば自主的に学ぶ方が格段に楽しい。
未体験の分野である「魔導学」や「精霊学」、町の外を知らない私には「地理」関連の本も実に面白い内容だった。こうしてまだ見ぬ「外界」を夢見つつ私は何不自由ない幼年期を過ごしていった。学問優秀で父親がバルック国立魔導研究所所長。必然的に私の将来も研究所の研究員と言った所だろうか。
言わば国家公務員なワケで俗に言うエリートコースだ。これはこれで悪くない人生だろう。しかしそういった人生ってのは平坦過ぎて退屈な物かもしれない。
私はその後十五歳でバルック国立専修大学への入学を許される。父の推薦もあったのだが学力的にも何の問題もない。むしろテストは簡単なくらいだった。そこでの「やらされる」勉強に対して私は徐々に退屈さを覚えて行った。
試験さえパスしていれば問題ないだろう。そんな普通の学生のような倦怠期に入っているのが私にはよくわかった。住む世界が根本的に違っているにもかかわらず私は以前の現実と同じような道を歩んでいる。大学という環境におおよそ三年半身を置いても結局は同じ事の繰り返し…
記憶なしで生まれてきたのならソレもわかるが記憶を持ち越してしぶとく生きている私はこの世界で一体何をしているんだろう。私はそんな事を考えながら校舎裏の木陰から流れていく雲を眺めていた。こうやって空を眺めているとあの地獄で必死になって「生」にしがみついていた時の事を思い出す。あんなにも「生」を望んでいたにもかかわらず…
何やってんだろうな私は。
夏の風が私の頬を撫でるように通り過ぎていく。この夏の蒸し暑さに時折駆け抜ける涼風の心地よさ。コレを感じる事ができるだけでもココで生きてる意味があるのかもしれない。そんな事を時折考える十九歳の私は比較的小柄で長い黒髪を後ろで一つに束ねている少々女々しい容姿の青年に成長していた。この容姿は明らかに母から受け継いだ物だろう。賢い所は父譲りだとよく言われるがソレは少し違う気がする。私は私なんだ、この「レクサス」が生まれる前から。

「またサボってやがんのか?上級専門科の制服が泣くぞ?」
ふいに横から声が飛んできた。声をかけてきたのは同じ大学の別の専門科に属するキティーという若者だ。若者と言っても私は飛び級で高等科を抜かしているので実年齢では3つ年上にあたるが今では数少ない友人の一人だ。
金髪で長身、整った顔立ちは普通に男前、比較的細身だがコレは絞り込まれた細さだ。上半身は黒い肌着のみで下は動きやすい素材で出来た赤いズボン、体育のジャージに近い物だ。首には白いタオルが巻かれている。見た目は完全にスポーツマンタイプの好青年と言った所だ。実際に運動能力では逆立ちしてもかなわない存在だ。正確は単純で直進的、基本的に後先考えずに突っ走るタイプで型にはめられるのを嫌う。誘惑に弱く欲望に忠実。恐らくB型だと思われる。父親が地位の高い騎士であり私の父とも交友があり、そのツテで私との付き合いも長い物になる。私の方が歳下なのは動かせない現実だが事ある毎に論破し、いい様に扱ってきた感もあり実質は弟のような存在だ。
「失敬な…論文のネタ考えてんだよ」
 私はキティーに一瞬だけ視線を向けてから再び流れ行く雲に目を移す。
「論文ねぇ…どっちにしろ今は講義中だろうが」
 我関せずと言った口調で鼻で笑いながらキティーがそう言う。
「お前もサボってんじゃん」
「俺はいいの。もう騎士団に内定決まっちまったからな」
 キティーは得意げにそう言って笑う。前の世界で言う所の体育大学卒業後警察官。そんな流れと言った所か。私の知る「ナイト様」とは少し毛色が違うようだが、この大学に入学するにはそれなりの家柄も必要なのは確かだ。
「それにしたって卒業しなきゃ意味ねえだろう」
「ああ〜…卒業したくねえなぁ…」
 私の言葉にキティーはそう言って大きな溜息と苦い顔を見せる。
「ンな事いってるとオヤジ殿が泣くぞ」
「そりゃお互い様だろうが」
「言えてるな…」
 項垂れるキティーに向かってそう言いながらゆっくりと立ち上がり制服に付いた細かな土を払い落とす。かなり緩くデザインされた白いシャツにスラっとした群青色のズボン。これが私の属す科の制服だ。キティーの属す科も同じデザインで赤い物を使用している。
一応由緒ある大学の制服で街中ではそれなりに目立つし制服着用時は街の人の反応も違うように見て取れる。例えるなら高校生が制服で夜の街を歩いているというのとは逆の反応、とでも言うべきだろうか。
 民間人からはある種の尊敬の念のような物を感じ、ここの学生たちはソレを誇りとし、ある種のエリート意識に包まれているように見える。中には私やキティーのように親の敷いたレールの上を歩まされた結果としてココにいるといったイマイチやる気のない学生も若干名存在するが、基本的には皆勤勉でしっかり将来設計ができている優等生ばかりだ。
「お、ようやく帰れるな」
 午後の講義終了を知らせる鐘の音が聞こえてくると同時にキティーが校舎の塔に目をやって口を開いた。
「いやぁ〜、今日も頑張ったぁ〜」
 私は大きな欠伸をしながら軽くストレッチ体操などしつつそんな事を口にする。
「なぁレクサス、夏期休暇なんか予定あるのか?」
「そうだな。適当にゴロゴロして最後の七日くらいで論文書き上げる予定かな」
 唐突に問いかけてきたキティーに向かって私はそう答えた。明日から待ちに待った夏期休暇に入る。卒業後は研究所に缶詰にされると考えれば恐らくは人生最後の長期休暇だろう。いや冬季休暇もあるか…
「そっか、暇なら一緒に釣りにでもいかないか?2〜3日泊まりでさ」
「別にいいけど俺、釣りの経験なんてないぞ?」
 何気ないセリフだがこの一人称「オレ」は個人的にかなり嬉しいモノだったりする。
「ははっ、俺もねえよ」
 キティーはそう言って誇らしげに笑う。
「ダメじゃんか。ソレじゃ」
「いいんだよソレで。たまにゃ無意味に釣糸垂らして語り合うのも悪くないだろ。卒業しちまったら休みなんざそうそう取れなくなっちまうだろうからな」
「つまり川遊びって事だろ?」
「まぁ…そういう事だな」
 私の言葉にキティーは笑いながらそう答えた。そんな話をしていると横から高い声が聞こえてきた。
「レクサスさん、またこんな所でサボってたんですか?」
 声を掛けてきたのは同級生のオリネアさんだった。この暑いのに真面目に制服の上着もキチンと着用し腰に手を当てた姿勢で眉間にシワを寄せて立っている。細身で長身、肌は色白で薄紫色の長髪を三つ編みにして先端は緑色のリボンで止めてある。これで出るトコ出ていれば典型的なモデル体系なのが悔やまれる。他国の出身者だが、才能と学業成績から推薦で入学した優等生だ。そのツテもあり私の父とも面識がある。責任感が強く信念を貫き通す芯の強さのような物を感じさせる歳上の女性、そんな雰囲気をかもし出しつつも時折何を考えているのかわからないミステリアスな一面が魔導師というよりも魔女の素質を感じさせる。その妙な責任感のような物が私に向けられており私を真面目な学生にしようと画策しているようだが手口がミエミエ過ぎて面白い。
「あ、オリネアさんお疲れ様」
 私はオリネアさんに対し涼しい顔してそう答えた。
「うっす」
 キティーは片手を上げて軽く挨拶する。
「卒業論文の説明今日だったんですよ」
「そうだっけ?で、論文何書けばいいの?」
 私は照れ笑いしながらオリネアさんに聞き返す。
「ンだよ。さっき論文のネタ考えてるって言ったのウソかよ」
「ンなこたぁない。今までの講義の内容とアイツ(教授)らの考えそうな事から推測して何が来ても柔軟に対応できる内容のネタを考えてたんだよ」
 呆れた顔で言うキティーに対して私は得意げにそう答えた。
「論文の内容は世界創造と人の世の成り立ちで百枚以上だそうです」
「よし楽勝」
 渋い顔で言うオリネアさんに対して私はそう即答する。
「教科書の丸写しじゃダメなんですよ?自分なりの意見も入れないと…」
「教授が喜びそうな事書けばいいんだろ?まかせとけって。俺、そういうの結構得意だからさ」
 私はオリネアさんの言葉を遮るようにそう言い放つ。
「もう、レクサスさんは立場上みんなの模範にならないといけない人なんですからもうすこし真剣に取組んでもらわないと…」
「はは、レクサスを模範にすれば青服の連中もちっとは人生楽しくなるんじゃねえか?」
「青服とか言わないで下さい」
 苦笑しながら言うキティーにオリネアさんが少々声を荒げる。
 青服、コレは私の属す魔導専修科全体を指して使われるアダ名のような物だ。ガリ勉とでも訳すべきだろうか。大抵はあまりいい意味では使われない。まぁ私達もキティーの属す騎士道専修科の連中を赤服と呼んでは話のネタにする事もあるワケだが…
 基本的に騎士道と魔導の間は不仲になりやすい。これは国の体制からも伺える。神を頂点とした教会に属し秩序を重んじる聖騎士団と万物の理を力の源とし混沌を繰り出す魔導研究所、両者は水と油のように対立し国王をいかに操るかという点で日々競い合っている。そういった組織的な対立を裏目に私の父、デニスとキティーの父クラウスは酒を酌み交わしながら互いにグチをこぼしあっている。対立し合う組織のトップが酒を酌み交わしグチをこぼしあう。なんだか妙な話だが…人間という名の駒でチェスでも楽しんでいるかのようにも見える。
「ああ、そうだレクサスさん。原稿用紙は自分で用意するようにって事なんですけど今から買いにいきませんか?」
「自腹かよ…しゃあねえなぁ…」
「レクサス、さっきの話考えとけよ。暇ならオリネアも来いよ」
 話を遮るようにキティーが川遊びの話を持ち出す。
「ああ、前向きに検討するよ。いこうオリネアさん」
 私はそう言ってキティーに向かって軽く手を振ってから枕代わりにしていた制服の上着を肩にかけるように片手で持ち大学の門に向かって歩き出す。
「さっきの話って何ですか?」
「ああ、歩きながら話すよ」
 オリネアさんの問いにそう答えまだ日の高いバルック市街へと足を進める。王都バルック、私のセカンドボディー、すなはちレクサスが産まれたこの街は石の切り出しを主産業とし出版や芸術といった分野も近年になって積極的に進められているもののソレが先進的かどうかは他を知らない以上比較できない。一応この国のあるディアメル大陸の首都である以上、大陸では最も進んだ国なのだろう。まぁ…ある日突然海の向こうから大砲を備えた巨大な蒸気船が現れないといった保障はどこにもないのだが…
 この国は周囲数キロを高い石の壁に囲まれたバルック内部と壁の周囲に並ぶバルック外部の二つに分けられる。内部には貴族の邸宅やそれなりの商店が存在し外部には一般の民家、露天商、安価な宿などが存在する。私の自宅や大学もバルック内部に位置する。
身分の分からない旅人などは壁の内部への侵入すら許されないものの外部の方が街としての賑わいは上だろう。むしろ自由気ままな旅人がバルック内部に入った所で何の面白みもないと思う。外にも学校や教会はあるし安価で美味しい物を売り店も多い。
休日キティーと遊びに行くとなれば当然外に行く。バルック内部は景観こそ整っているものの娯楽的な要素は皆無だと言える。オペラハウスやコンサートホールなどと言った私には興味のない娯楽ばかりが立派にそびえ立つ…
バルック内部は退屈な街だ。最近では北バルックと南バルックという呼び方が定着しつつあるが貴族階級などは好んで「内部」という言葉を使いたがる。私としてはどちらでもいいのだが人口の肥大に伴い家屋がどんどん壁の外に作られるようになった結果として今のバルックの形がある。南バルックも周囲を簡素な木の柵で囲んでいるものの、今ではその木の柵の外にも家が建ちつつある。こうしてどんどん都市が肥大し続ければ平野は家屋で埋め尽くされ動物達はどこかへ追いやられてしまうのだろう。街と街との間には壁はおろか平野すら挟まない窮屈な人の世に変わっていくのだろうか。
 私達はバルック内部にある書店へと向かう。中は大理石の柱や無駄に装飾されたテーブルなどバルック内部の店に相応しい見かけ重視の作りになっている。
書店と言っても売っているのは本だけではない。紙やペンといった各種文具や小物なども取り扱っている。奥には印刷所もありこの店に並ぶ本のほとんどをここで生産している物らしい。
「原稿持込歓迎!…か」
 私は文具売り場の壁に張られた広告の内容を口に出して読む。
「作家が足りないんでしょうね」
 同じように広告を見上げながらオリネアさんが呟く。
「つまり…小遣い稼ぎのチャンスか」
「ふふ、レクサスさん本なんて書けるんですか?それより論文が先ですよ」
 私の言葉にオリネアさんが笑いながら答える。
「まぁ…そうだけど。暇ならやってみるさ」
 私はそう言って売り場から原稿用紙200枚入りの袋を2つ手に取り勘定を済ませて帰路についた。私は自宅へ、オリネアさんは大学のそばにある学生寮へと帰った。
 私は帰宅後夕食を済ませてから自室のテーブルで真っ白い原稿用紙を睨みながら考えていた。課題の論文などどうとでもなるが帰宅途中に考えていた「小説」をどうしようかと思い悩んでいた。何を書こうか…と。
 現状で書店に並んでいる本から学問などの専門書を取り除くとそこに残るのは宗教の本と探検家ってのが資金集めの為に書く冒険日誌のような物が大半を占める。どこどこの山の洞窟探検の記録とかどこどこの谷底に眠る財宝なんて内容の本ばかりだ。街の外を知らない貴族達にはいい娯楽なのだろう。そう考えれば…何を書いてもいい。娯楽に飢えている貴族相手の商売だ。小説としての形さえ成していれば問題ない。と思う。
コレで上手く行けば卒業後は薄暗い研究室で専門書に囲まれて怪しげな魔法媒体の研究に明け暮れるという約束された未来を変えられるかもしれない。この時代なら…雲の上の存在と思っていた「小説家」なんて職業も手に入れられるかもしれない。
 などと根拠のない希望と無尽蔵に湧き上がるやる気とは裏腹に何を書けばいいのかがサッパリわからない。
さてどうしたものか…冷静に考えてみれば小説なんて物はほとんど読んだ事がない。子供の頃は知識の習得を優先して「作り話」である物語や小説などを読むのは時間の無駄だと考えていた。知識さえ得られれば良かったので文法や独自の言い回し、話の持って行き方などに関する知識は皆無だ。神奈として生きていた世界でも…本と言えば漫画だった。
これは…まいったな。いや…面白かった漫画やアニメ、ゲームの内容をそのままパクってもいいのか…それらはこの世界には存在しない作品、むしろ今となっては私の記憶の中にしか存在しない世界の中で生まれた話。それって一応オリジナル?と、言っても本にするほど内容を熟知している訳でもなくこの世界で通用する話がどれだけあるだろう。
 むー…先に論文を仕上げるか…
 世界創造と世の成り立ち…だっけかな?とりあえず教授の喜びそうな事を書いておけばいいだろう。優等生の名に恥じないレベルで。適当に神様の名前と人類が味わった苦難について抜粋しつつ自分の意見を加えて適当にシメる。そんな流れでいいだろう。
…そうだ。コレだよ。
コレを小説にしよう。論文だと評価は低いかもしれないけど…私が生きた過程を…胸がすくような冒険活劇なんて書けそうにないけど…ノンフィクション。私の知る本当の事を書けばいい。論文は論文、小説は小説として同じテーマで書いてみよう。
 そう決めた瞬間、等間隔に線を引かれた真っ白い原稿用紙に向かってペンを走らせた。原稿用紙の概ね中央辺りにタイトルを書き込んだ。
 
「メーロン」と。

 神奈として生きた世界で「魂」という意味の言葉をこの世界の文字で綴る。この世界ではメーロンという固有名詞は存在していない。と思う。
本になったとして背表紙に記されるタイトルとしてはそれなりに目を引くものだろう。メーロンって何よ?みたいな感じで。まぁ娯楽が少ない現状では新刊なら問題なく売れるだろうから心配はないだろう。ようは出版に漕ぎ着けるだけのモノにさえ仕上がっていればいいのだ。きっと。
 私はタイトルを書いた一枚目の下のほうにペンネームを記す。
「カエデ・ササガワ」と。
「カンナ・テラザワ」でも問題はないのだけど…なんとなく楓の名前をそこに記した。名前だけでもいいから…この世界に楓を存在させておきたかったから。後は、他人事、物語として描きたかったという気持ちもある。主人公は私。カンナという一人の少女。そうすると作者の名前がカンナじゃちょいと都合が悪い気もする。
 私は二枚目の原稿用紙に向かってペンを走らせる。私の魂(メーロン)を全てここにぶつけようと思った。カンナという名の少女が死を迎え…死後の世界で一人の、いや、ルキアと名乗る一つの魂に出会いソコで現実の仕組みを知り…それを知った上でヒトとして生きる決意をする。そして見知らぬ世界に男として生まれ…多くの苦労を伴いつつ必死に生き抜き…死を迎えた後、ルキアと再会する…そんな話を書こう。
少々脚色するとして…ルキアさんは女神にしちゃおう。魂を導く憂いに満ちた美しき女神。それで…主人公の名前はレクサスじゃマズイだろうから…フレデリックとでもしておこうか。友人の名前は…面倒だしビビらせるつもりでキティーとオリネアさんはそのまま使うとするか…
 とりあえずは…母体の中の地獄とオムツ交換の屈辱をネタに中盤を盛り上げよう。こうして私の執筆活動は朝まで続いた。眠くなったので日の出と共に眠りにつき昼過ぎに起床しては机に向かう。一日ほど徹夜しただけで完璧に夜型になってしまった。ランプの油が凄い勢いで減っているような気もするが気にしない。食事、執筆、就寝そんな生活を繰り返していたある日の夕方キティーとオリネアさんがキャンプの打ち合わせに訪ねてきた。ウチの家族と一緒に食事を取りながらキャンプの話をし、詳しい日程も決まった。
 数日後私達は素人丸出しの真新しいキャンプセットを持って川沿いの草原で無駄話をしながらそれなりに楽しい時を過ごした。
 このキャンプ中に詳しい内容は告げずに小説の中で名前を使わせてもらうと2人に告げるとキティーは笑い出しオリネアさんは呆れた顔をみせる。
 まぁいい、一応許可はもらった。こうして夏休みの八割方を用いて320ページに及ぶ私のメーロンは小説としての形を成した。
 さて…あと10日で論文100枚か…鬱陶しいッ!小説書き上げたらオリネアさんとイチャイチャと遊び呆ける予定なのにッ!睡眠時間を削ればいいか…
 翌日、オリネアさんを伴って原稿用紙を買った書店に書き上げた私の魂を持ち込んだ。
「あのーすいません〜」
「はいはい〜! あ、これはレクサス様にオリネア様」
 店に入り奥に向かって声を上げると店の店主が飛んできた。鼻髭を蓄えた小柄で中年太りの少々頭髪が寂しくなってきているオヤジさんで恐らく青服の学生の顔と名前は全て記憶しているのだろう。現実としてこの店の収入源は青服の学生達なのだから。
「実はさ、あの広告を見て小説書いてみたんだけど見てくれるかな」
 私はそう言ってリュックから厚めの紙で包んだ320枚の紙の束を手渡す。
「そうですか、そうですか!神童レクサス様の本でしたらすぐにでも本にしますよ!話題性バツグンですからね〜」
 店主はそう言って笑う。お金を拾ったかのようなホクホク笑顔だ。
「いや…内容で勝負したいからさ、ペンネーム使いたいんだ」
「内容を検めますので3日ほど預からせて頂いてもよろしいでしょうか?」
 私の言葉を聞いて店主は真顔でそう言う。私達はこうして店を後にした。
「本にならなくても見せて下さいね」
「いやいや。本になるし」
 笑いながら言うオリネアさんに私は強気にそう答えた。そして三日後出版の決定が知らされた。とりあえずは一安心。あとは論文を仕上げれば当面の課題はクリアだ。
 それから数ヶ月…
秋の装いが冬の気配に気圧され始める頃、私の小説メーロンは書店に並んだ。バルック内部の書店だけでなく外部の書店にも私の小説は「最新」の札を貼られ一つの娯楽として提供された。自分の書いた本が書店に並び人々の話題になっているというのも中々に気分がいいものだ。
 本の売り上げの3割が私の取り分になっている。この調子で売れ続ければそれなりの収入になるだろう。案外簡単に小説家って職業に付けそうな気がしてきた。
 キティーとオリネアさんには私がメーロンの作者だと言う話は他人にしないようにと一応口止めをしておいた。2人とも私の書いた小説が出版されたという現実と小説の内容に驚きを隠しきれない様子だった。
 お金はいつもらえるのだろう。そんな事を考えながら今日も寝床に付いた。もうすぐ冬期休暇だ。次は何を書こうか…


2・維持する者と乱す者、正義は強者と共にあり

「レクサスッ!」
 本の発売から6日後の夕方、そろそろ夕食かなと思っていたら父さんが血相を変えて私の部屋に飛び込んで来た。息を切らしながら部屋のドアを閉める父さんの手には白いハードカバーに金色でタイトルが刻まれた小説「メーロン」があった。
「これを書いたのは…お前か…・?」
「ははっ、やっぱ読めばわかるよね」
 そう言って私は笑う。
「バカか貴様はッ!」
「な…」
 父さんは息を切らしながらも大声で怒鳴った。褒められる事はあっても怒られる心配などないと思っていただけに正直ビックリした。
「まったく…出来がいいのは認めるが…今すぐ身支度をして街を出るんだッ!ぐずぐずしている時間はないぞ!」
「ちょ、ちょっとどういう事だよ」
 取り乱した様子で私にそう言い放つ父さんを見て私もうろたえる。
「異端審問会が動いている。明日にでもこの本は異端とされ書店の主は逮捕されるだろう。そうなれば作者の名などすぐにでも白状するだろう。これだけの事を書いたのだ。本の回収だけでは済まんぞ。捕まれば間違いなく死罪だ!」
「死罪って…まさか」
「自分で何を書いたかもわかっていないのか?宗教を、この国の正義を乱したのだぞ?死後の世界に魂の存在、それらは教会が民衆に対し振りかざす唯一の武器だ。お前はそれを揺るがしたのだ。ベゼア教には存在しない神の名まで出して」
「そんな…ただの物語だよ…コレは」
 真剣な表情で言う父さんに私は咄嗟にそう答える。
「そんな弁明はいい。本の内容に今までのお前を照らし合わせれば…コレが事実であろうことは理解できる。しかし教会はコレを見逃しはしないだろう。どちらが真実であろうと奴等には関係ないのだ。強い者が正義。これは揺るがない事実だ。力無き者が振るう正義など…無意味なのだ…準備ができたら下に来い。渡す物がある」
 そう言って父さんは足早に私の部屋から出て行った。
 異端?
 私が?いや、私の作品が
 時代に、常識に拒否されたの?
 冷静に考えれば…そうかもしれない。
 地球が丸く、太陽の周りを周回しているという真実、いや誰でも知っている常識を発表した学者が教会の弾圧によって処刑されたなんて話も歴史として存在していたような気がする。
 私は大慌てでタンスを開け服を引っ張り出す。就寝用の柔らかい服を脱ぎ散らかし外出用の服装に着替える。厚手の布で作られたスラッとした黒いズボンを履き赤い肌着の上から襟元の外周に白いラインの入った黒いジャケットを羽織る。黒くて丈夫な皮のブーツに履き替え部屋の隅に放置されていた夏のキャンプで一回使っただけの真新しいキャンプセットに自分の本を加えて背負い上げる。ドタドタと階段を駆け下り居間へと走りこむ。
「来たか…」
 真剣な面持ちで父さんが口を開く。母さんはテーブルに付いたまま泣いていた。
「これを持っていけ。売ればそれなりの金になる」
 そう言いながら父さんは手の上で輝いている彩り豊かな小さな宝石を小さな袋に入れて私に手渡す。
「あと…これだ。これはお前が貰った物だ。持って行け」
 父さんは昔からウチの居間の暖炉の上に飾ってあった小振りな剣を皮製の鞘に収めて私に差し出した。
「剣?」
「そうだ。お前の出産祝いとして国王から頂いた品だ。軽くて丈夫な魔法合金製で魔法も載せやすい品だ。時間があったら磨いておけ」
「うん…ありがとう」
 私は受け取った剣を鞘から抜いて部屋の薄明かりの中にかざしてみる。20年近く抜き身のまま飾られていたせいか輝きは失われくすんだ色を見せているもモノは確かなようだ。同じサイズのショートソードよりは随分と軽い印象を受ける。先端からグリップに向かって緩やかに幅が広がりグリップの手前で一気に広がっている。デザインがそのままガードの役割を果しているという感じの物だが白兵戦となれば普通のデザインの物の方が有利だと思えるが…非力な私には物理的に軽いといった利点のほうが生きてくる。こうやって武器を手にすると神奈の方が腕力があったような気がしてくる。このレクサスでは弟の純一と腕相撲しても負けてしまいそうな気がする。
「そうだ…これも持っていけ。外は冷える。これは水にも強い物だ」
 そう言って父さんは暖炉の横に掛けてあった真っ黒いコートを私に手渡す。冬場は父さんが愛用している皮のコートだ。
「あ、うん」
 私は剣を鞘に収め腰に刺してコートを受け取る。リュックを床に置いてコートを羽織ってみるが身長差の為かかなり大きく感じる。と、いうかタバコ臭い。
「レクサス、気をつけて」
 母さんが顔を上げてそう呟く。
「うん…ごめん」
 私は母さんの涙に濡れた真っ赤な顔を見て思わずそう答えた。
「何を謝るの?私は多分嬉しくて泣いているの。レクサスの書いた本。今は受け入れられない内容かもしれないけど…これはきっと新しい世界を創る物よ。もっと自信を持ちなさい」
 母さんはそう言って微笑みかける。
「急がないと門が閉まる」
 父さんはそう言って窓の外を見る。日は大きく西に傾いている。
「うん」
私は父さんに促されるままに自宅の出口に向かう。大きな玄関のドアを開け一歩外に出た所で父さんが声をかけてきた。
「レクサス…いや、カンナと呼んだ方がいいのかね?」
「今はレクサスだよ」
 微妙に照れ臭そうに問う父さんに私は笑顔でそう答えた。
「そうだな。お前が私の息子である事には変わりがないか…」
「僕はこの国から逃げる。それでいいかもしれないけど…父さん達は大丈夫なの?」
「案ずるな。表面上はお前を敵視してでも上手く纏めて見せる。お前とは二度と会わない事を祈っている。次に会う事があるとすれば…あそこでお前が処刑される時だろうからな」
 そう言って父さんは怪訝な顔で城の方を見る。
「うん。それじゃあ行くよ」
「ああ、互いに二度と会わない事を祈って…気を付けてな」
「父さん達も…」
 そう言って私は南の門に向かって歩き始めた。街の教会にある塔が日暮れの鐘を鳴らしている。間も無く門が閉まる合図だ。なんともやりきれない気持ちで項垂れたままトボトボと門をくぐり賑やかな南バルックの商店街を抜け城から真南にあるゲートに向かう。
「遅いぞレクサス!」
 南ゲートの柱に寄りかかり腕を組んだ姿勢でキティーが声を上げる。赤を貴重としたツナギのような服だろうか?その上から全身鎧の胸の部分だけを装備し茶色い皮のグローブに長めのこげ茶色のブーツを履いている。まるでどこかへ旅に出るかのような格好だ。
「な…何してんだ…お前?そんな格好して…」
「まっさかぁ…お前一人で遊びに行くつもりかぁ?」
 キティーは私の顔を覗き込むように笑みを浮かべた顔で問い詰めてくる。
「遊びにいくワケじゃ」
「わかってるって!俺もな、誰かがブッ壊してくれるのを待ってたって感じだからな。まぁ渡りに船って感じなんだよ。オヤジがお前の本持って騒いでたからな。ソロソロだと思ってここで待ってたんだ」
 私の言葉を遮るようにキティーは笑いながらそう答える。
「本当にわかってんのか?捕まったら殺されるかもしれないんだぞ?」
「お前こそわかってるのか?俺がこのまま寺院の騎士になっちまったら…お前を捕まえに行くのは俺の仕事だぞ。俺は嫌だからな。そういうの」
「…」
 真顔で言うキティーの顔を見て私は言葉を失った。
「そろそろ行きましょう」
「きゃー」
 真横に止まっていた幌馬車の荷台から濃い紫色でツバの大きな尖がった帽子をかぶったオリネアさんがひょこっと顔を出して突然声をかけてきた。
正直すごく驚いて思わず素の声が出た。
「きゃー、じゃないですよ。早く乗って下さい」
「オリネアさん…」
「本の内容を見て…こうなるのは解っていました。と、いうよりも…こうするつもりで書いたんじゃないんですか?」
 そう言ってオリネアさんは少し笑う。
「それじゃ馬車を出すぜ。お前は後ろに乗ってろ」
「あ、ああ。ってこの馬車…どうしたんだ?」
 比較的大きな部類に入る立派な幌付の馬車を見上げながら声を上げる。
「教会からパクってきたんだ。まぁ細かい事は気にすんなって」
 キティーは小声で耳打ちするようにそう言った。
「マジかよ?教会の物って一応国の所有物だろ?反逆罪じゃねえのか?」
「そ。お互い逃げる身で偶々ここで出会って一緒に逃げる。そんな話でいいじゃねえか。な?さっさと乗れって」
「早くしないと逃げる前に捕まりますよ」
「お前らって…ホント馬鹿」
 2人の言葉に私はそう返して少し笑った。普通に嬉しかった。
荷台に荷物を放り込んで後方から馬車の荷台に飛び乗った。それを確認してキティーが前方の席に着き手綱を握る。
「行くでぇ〜!」
 キティーは大きな声でそう言って勢いよく手綱を引いた。馬はそれに応え馬車はゆっくりと進み始める。その時ちょうど北バルックの教会にある高い塔から2度目の鐘の音が聞こえて来た。閉門を知らせる鐘の音だ。おおよそ20年を過ごした街との別れを告げる…それはこの街で聞く最後の鐘のようにも思えた。私は馬車の後部、幌の口から遠ざかるバルックの街をしばらく見つめていた。後ろでオリネアさんがシャッター付のランタンに火を灯し天井からぶら下げる。オリネアさんは帽子と同色の厚手のローブ姿だ。ローブの裾から見えるのは大学での式典等で着用する蒼き衣のようだ。
私は幌の口を布のカーテンで閉ざしてから改めて馬車の中を見回してみる。荷台はがらんとしているが隅には木箱が数個積まれている。それらの箱には見覚えのある烙印が押されている。3箇所から3本の線が渦を成すように中央に向かう紋章…これは魔導研究所の物だ。
「これは?」
「さあ?何でしょう」
 私の問いにオリネアさんは明確な答えを持たなかった。教会の馬車に魔導研究所のロゴ入りの木箱。ハッキリ言って妙な組み合わせだ。同じ国の機関と言えど明らかに対立している組織だけに積荷が気になる。
「ああ、馬車に積んであったモンだ。中は見てねえ」
 前の席からキティーの声が返ってくる。
「とりあえず…開けるぜ」
 私は釘打ちされている木箱の蓋を腰のショートソードを使って強引にこじ開けた。
「瓶ですね…」
 箱の中身をみてオリネアさんが声を上げる。
「こいつは…保存食だな」
 私は箱の中の瓶を手にとって声を上げる。350ミリリットルのジュース缶くらいの丈夫な瓶の中は白濁液で満たされ瓶の口は金属の留め金で固定された蓋がついておりその上からは魔法言語で書かれた怪しげな札で厳重に封印されている。
「食べ物…なんですか?」
 オリネアさんが瓶を見ながらそう呟くもその表情と口調からは納得できない様子が伝わってくる。確かに一見しただけでは何かはちょっとわかりにくいモノだ。むしろ蓋を固める怪しい札が内容物に対して怪しい付加価値を与えているように思える。
「ああ、まだ市場には出回ってないモンだけど…少し前に父さんに見せてもらったんだ。魔導研究所での久々の発明品だって言ってね。キティー、馬車を止めてコッチ来いよ」
「なんだよ。何が入ってたんだ?」
「まぁ見てなよ」
 馬車を止めて荷台にやってきたキティーに私はそう言いながら瓶を荷台の床に置いて両足で挟んで蓋を固める札を切る。
札の切断面から小さな火花のようなものが優しくこぼれ出し…大気に溶け込むように消えていく。この火花からは熱を感じない。熱はこの後、瓶の方から伝わってくる。
「熱つっ…」
 私はそう言いながら蓋を固定している金属の留め金を外し蓋を開ける。瓶からはクリームシチューの香りが立ち昇る。
「おお?」
「これは…凄いですね」
 キティーとオリネアさんが声を上げる。保存食と言えば干し肉や固いパンが主流なだけに温かい料理がそのままの形で携帯できるこの発明には驚かずにはいられないだろう。私も初めて
見た時は正直驚いた。神奈の生きた近代文明と呼ばれた科学の中にもここまでの保存食は存在しなかった。しかも封印さえ解かなければ賞味期限は永遠なのだから。いや、この世界に科学という物が発展し魔法という概念が本来の意味を失った時が賞味期限なのかもしれないが少なくとも私がレクサスとして生きている間は持ちそうだ。
「つーワケでメシにしないか?一回開けるとタダの瓶だからよ。温かいうちに食っちまおうぜ」
 そう言って私は自分のリュックから木でできた深めの皿とスプーンを取り出す。
 こうしてバルックから少し離れた平原で焚き火を囲んでの夕食となった。少々緊張感が足りないような気もするが…これくらいの方が勢い的には私達っぽい。
「さて、街を飛び出したはいいものの…どこに向かってるんだ?」
「手綱握ってるのはお前だろうが!」
 さぞ当たり前に聞いてくるキティーに私は苦笑気味にそう返した。
「このまま道沿いに行くと…スタンウィックの街ですね。東に向かえばベグラートの港町です。ベグラートからはカルドナまで船が出ているようですね」
 大きな地図を広げてオリネアさんが言う。
「追っ手が付く前に船に乗れれば距離を稼げるな」
「そうかもしれねえが…普通に考えれば真っ先に追っ手が来そうだな」
 キティーの言葉に私はそう答え地図を睨む。
「引き返して陸路でカルドナに向かいますか?今ならまだ間に合いますよ?」
「エッカートを通過して北のグンヴォールまで行くか?」
 オリネアさんの言葉にキティーが返す。皆簡単に言ってくれるが…実際にどれくらいの距離があるのかはこの地図からは伝わってこない。大陸がバルック王国によって統一されている以上逃げ場など無いようにも思える。意外と南バルックにでも潜伏していた方が安全なんじゃないかとも思えてくる。馬車を盗んだという事実も良い煙幕になるかもしれない。
「まぁ…俺たちは自分の意思でお前に付いて来たんだ。お前に任せるよ」 
「そうですね」
こうして数十分意見をぶつけ合った結果…最終的な決定権が私に巡ってきた。
「そうだな…とにかく遠くへ行こう。大きな街は避けてとにかく…西へ」
 私はその場に立ち上がり沈み行く太陽を見上げてそう言った。
「そうと決まれば…急ぐか。座り込んでる時間はないぜ」
「そうだな。俺は馬とか扱えないんでソコんとこヨロシク!」
「…偉そうに言うなよ…」
 真顔で親指を立てて言う私にキティーが呆れ顔でそう答える。
 こうして馬車は夜通し走り続けた。遥か西の地カルドナを目指して。そして2日目の昼過ぎ馬車の勢いは徐々に衰え…止まった。
「ありゃ?ハイヨー、セルバンディス!ようよう動けってばヨウ!」
 キティーが手綱を引くも、いつの間にかセルバンディスと名付けられた馬は座り込んで動こうとしない。
「死んだか?」
「まだ生きてますよ」
 座り込んで動こうとしない馬を見てオリネアさんがそう答える。
「つか、エサやってたのか?」
「エサ?そういうのは従者の仕事だろ?」
 私の言葉にキティーはさぞ当たり前にそう答えた。
「どこに従者がいるんだよ…」
「…馬って何食うんだ?」
「…藁とか…人参?」
「…」
 扱い方は知っていてもメンテナンスのできない人間は多い。これはその典型だろうか。話し合った結果…少々無責任だが馬は自然に帰す事にした。馬車の荷物を持てるだけリュックに詰め込んでから馬車は谷底に捨てた。
「今日から歩きだな…」
 バラバラになりながら土煙を上げて谷底に転げ落ちていく馬車を見ながらキティーが残念そうに呟いた。
「俺は最初からそのつもりだったけどな」
 私は頭の後ろで手を組んでそう言うも少々面倒くさい気分になっていた。リュックに詰め込んだ瓶詰めの保存食が思いの他重く両肩にのしかかる。
「まぁ…これで森の中も移動できるワケだし足取りが少しは軽くなったんじゃねえか?」
「気は重いがな…」
 こうして私達は徒歩で移動する事になった。馬車で2日分、割と距離は稼げただろうか?私達は比較的背の低い木が群生する森の中を歩く事にした。
日が傾き始める頃には適当な場所を見つけて火を起こし野営を始める。焚き火の両脇に適当な大きさの石が置かれそれにまたがるように水の入った金属の鍋が置かれる。水はオリネアさんが魔法で大気中から集めた物だ。
「なぁレクサス、よくあんな話思いついたな。正直ビビったぜ」
焚き火を囲んで座り込み食事を始めようとした時キティーがふいにそう聞いてきた。
「思いつくも何も…知ってる事を書いただけさ」
私は木でできた深い皿に封印を解いた熱々のシチューを注ぎながらそう答えた。
「…まさかお前がカンナだなんて言い出すんじゃねえだろうな」
「バカっぽい話かもしれないけど…それが事実なんだよ」
からかうような口調で問うキティーに対して私は真顔でそう答えた。焚き火の中で小枝が軽い音を立てる。
「レクサスさん…中身は女の子だったんですか?」
 困惑気味な表情でオリネアさんが声を上げる。
「今は男でオリネアさんの事は異性としてちゃんと好きだよ。何も問題はないハズだけど?」
「…そうですよねレクサスさんはレクサスさんですもの」
 オリネアさんは無理やり自分を納得させようとしているように見える。私が書いたメーロンの中のカンナには同性愛者という設定を入れておかなくて良かった。
「今まで…なんで黙ってたんだ?」
「言えるかよこんな事…ただでさえ神童だなんだって騒がれてんのにソコで私は異世界で生まれ死を迎えた女の子で記憶を持ったままこの世界で生まれました。なんて事言ってみろ。絶対バカだと思われるだろ」
 真顔で問いかけるキティーに向かってそう答え私は固いパンをちぎりシチューに浸して口に入れる。
「それで正解だったんですよ。そんな事を公言したら…それこそ教会が黙っていませんからね…少なくとも今なら…自分の意思で歩けるだけの力があるんですから」
 オリネアさんは金属製のポットに茶葉を入れながらそう答えた。確かに…メーロンという作品以前に私の存在自体が異端なのだろう。異なった世界観、この世界にそぐわない常識を持った私という存在自体が異端なのだ。
「なぁ…教会の語る死後の世界、天国に地獄ってのは…嘘なのか?」
 キティーはオリネアさんから茶葉の入ったポットを受け取りながら微妙に残念そうななんとも味のある表情で問いかけてくる。一応は聖騎士のハシクレだ。神様全否定とも言える異端の書の内容に対し少しは不安を覚えているのかもしれない。
「それは嘘じゃない。俺が思うにそれも一つの世界なんじゃねえか?」
「どういう意味だよ」
 私の言葉にキティーはますます混乱した様子で聞き返す。
「そう信じてるヤツはソコへ行けばいい。宗教って教科書に従ってみんなで同じ夢を見ていれば…世界として成り立つだけの魂が集まるんじゃねえか?ソコにさ。俺はそういうの嫌いな人間だったから…極端に人口の少ない変わり者の世界に辿り着いたのかもな」
 私はそう言って少し笑う。
「でもよ…この世界、人ってのは神様が創ったモンなんだろ?」
 納得できない、そんな様子でキティーが問う。
「人が神を作ったのかもしれないぜ?聖書にしても…この俺の書いた本と同じ。文字からなる単なる物語にすぎない。それが事実であろうと嘘であろうと…それが常識として定着しちまえばそれは現実となりえるって事さ。バルックには熱心な信者も多いからな。ベゼアの神様ってのは存在するだろうよ。お前がこの世界にしがみついていたいのならこの世界の宗教について行くのもアリさ」
 自分で言っておきながら少し悲しくなってきた。私が神奈として生きていた時に、宗教というものを真面目に学び死後に対する「一般的な」認識を持っていたならば…宗教という教科書に従って元いた世界に生まれる事ができたのかもしれない。
記憶を持ったままもう一度…楓に会えたかもしれない。何度も生まれ変われば…もしかして同じ世界に生まれる事ができるかもしれない。でも、私がここでこうしている間にも楓のいる世界の時間は流れているのだろうか?今となっては私の記憶の中にだけ存在する別世界ともいえる楓の世界は…今も時を刻んでいるのだろうか…
「常識が現実を作る…ですか?」
「ああ、昔から想いも積もれば道理が引っ込むって言うだろ?カンナの生きた世界には魔法なんてものは無かった。それが常識だったからな」
 オリネアさんの問いに私はそう答えながらオリネアさんの入れた紅茶を受け取る。
「ははっ、魔法が無い世界?そんな所でどうやって生きていくんだよ?」
 私の言葉にキティーはそう答えて軽く笑う。魔法。それは限られた人間だけが行使する超能力のような物である反面、多くの人がその力の恩恵を受けている。この世界から魔法がなくなるというのは現代社会から電気がなくなるに等しい事かもしれない。そんな認識がキティーの顔に表れているのだろう。
「昔はあったのかもしれないけどな。その世界では科学と呼ばれる技術が世界を支えていたんだよ。高度に発達した科学は…魔法と相違ない存在さ」
「カガク…ですか?」
 オリネアさんが興味有り気に聞き返す。
「そう。電気という魔力で機械という魔法を…誰でも簡単に扱える世界。そんな感じだな」
「誰でも簡単に?」
 今度はキティーが超反応する。
「ああ、例えば…」
 私は携帯電話に自動車、テレビに冷蔵庫、エアコンにインターネット…私にとってはただの環境として存在していたタダの常識をわかりやすく説明した。2人は私の話を興味深く聞き入っている。一つの事柄を話し終える度に無数の質問を受け私はそれに知りうる限りの知識でそれに答えた。
「まるで御伽噺だな…」
 感心した様子でキティーが言う。
「ええ、でも信じないワケにもいきませんね」
「ああ、これが全部ホラなら違う意味で天才だよな」
 オリネアさんの言葉にキティーはそう答えて大笑いする。
「さて、これくらいにしてそろそろ寝るか…」
「なんだ?もう終わりかよ?」
 私の言葉にキティーは残念そうにそう言って腕を組む。
「今日はもう遅い。明日歩きながらいくらでも話してやるよ」
 私はそう言ってリュックから寝袋を取り出して地面に広げる。
「そうか…ところでお前の持ってる知識の中で、この世界で作れそうなモノってないのか?」
 冷めた紅茶を一気に飲み干しながらキティーが聞いてくる。
「…冷静に考えたら何一つ無いな。そうだ、歌でも歌ってやろうか?」
「それは遠慮しておく」 
 私の言葉にキティーは笑いながらそう答えて自分のリュックから寝袋を取り出す。
確かに私の持つ知識は絵に描いたモチだ。知識だけではハエも殺せない。当たり前に存在していた常識という環境を当たり前に利用していただけ。それが壊れたらお金を出して新しいのを買う。そんな生活が常識として定着していた私には何かを作るなんて芸当はできそうにもない。改めて「専門知識」の重要性という物を痛感した。せめて…味噌か醤油の作り方くらいは知っていても良かったかもしれない。私が持ち込んだ異端と呼ばれる知識の中でこの世界に有益な物は…さっき冗談で言った歌や音楽といったものくらいだろうか。残念ながら楽器を扱うスキルなど持ち合わせていない。私がレクサスとして得た技術である「魔法」など次の人生では何の役にも立たないものだろう。この世界で確立された魔法という一種の技術はこの世界の持つこの世界だけの独立した世界観の上にのみ成り立つ物なのだから。
まぁ…まだ人間2周目なのだ。ゆっくりと積み重ねていけばいい。ヒトを極めるのには途方も無い時間がかかりそうだ。
こうして私達は色々と話をしながら森の中を歩いた。道に迷わぬよう木々の隙間から見える太陽に向かって歩き午後は太陽を背に西に向かって歩き続けた。こうやって豊かな自然の中を歩いているとココがドコでどんな時代かなんて事がどうでもよく思えてくる。
こうして歩きながら私は2人に様々な話をした。科学という分野だけでなくその世界での食事は?娯楽は?といった2人からの唐突な質問にも笑い話を交えながら答えた。
「なぁ…俺は、俺達はお前の言う高い所にいけそうか?」
 カンナの世界について話していたかと思うとキティーが突然話題を変える。まぁ生きているんだ。死後が気になるのも頷ける。
「どうだろうな。難しいとは思うけど…
自分ってのが残っていればそのうち行けるんじゃねえのか?
誰か一人でもこの世界からルキアさんの所へいければ俺のメーロンは成功だろうよ」
「お前みたいに…自分を持ったまま生まれてこいって事か?」
「そういう事だな。今の内に、そう、肉体的に生きてる内に夢を夢と気付けるようになっとけって事さ」
 キティーの問いにそう答えて私は頭の後ろで腕を組んだまま歩く。
「夢を夢と…ですか?気付いた事ありませんね…」
 オリネアさんはちょっと残念そうにそう答える。
「現実をキチンと見るクセでもつければ…ちっとは気付けると思うけどな」
「現実をキチンとですか?」
「そう。今自分はドコにいて何をしている何歳の誰かって事をキッチリ確認しながら生きてみなよ。それができれば夢と現実の違いを見つける糸口になるだろうよ」
 私はサラリとそう答えるがオリネアさんは難しい顔をする。
「そういや昨日は学校で居眠りしてる夢見たな…」
「気付けよソコでさ。今俺達は逃げる身で森の中で野宿しながら旅してんだろ?学校が出てくる要素は無いだろうよ?」
「…目が覚めた後なら気付けるんだけどなぁ」
「ソレじゃ遅いんだよ。何もかもな」
「そうは言ってもよ…難しいぞ?」
「まぁ…自分が死ぬ瞬間ってのをしっかり自覚してりゃなんとかなるだろ。自分が生きているのか死んでいるのかが解れば次は気合でカバーしろ」
「気合でカバーできるのかよ。本じゃお前、ちょっと諦めかけてたじゃん」
「そりゃそうだが…常に動く事だ。金縛りにあったように身動きできない赤子の体で自由に動き回れ。最初は動けないかもしれないけど夢の中なら自由に動けるハズだ。もし、自由に動けたならソコが夢の中だ。後は自分の意思で地獄から抜け出せばいい。俺から言えるのはそれくらいだよ」
 私はとりあえずな説明をするもののコレを言葉で説明するのは難しいかもしれない。「気付けよ!そんくらい!」としか言いようがないのだ。人から教わるのではなく…自分で気付くしかない。そんな感じの問題だ。本を書いたくらいで多くの魂をあそこに導くなんて事は無理なのかもしれない。それこそ宗教という形で厳しい戒律の下ででも修行なりなんなりを強いて自分で気付く環境ってのを作ってやる方が確率的には上かもしれない。
「そこの3人!」
 考え事をしながら歩いていると背後から少し高めの男の声が私達を呼び止める。振り返るとそこには白を基調としたヒラヒラした感じの衣装に身を包んだ長身で短髪の若い男が立っている。その金髪に青い瞳は生粋のバルック人の姿だ。腰に長剣を挿している事から聖職者ではなさそうだがソッチ関係の人のような気配は存分に漂わせていおり大きな荷物を背負い、白いフード付のローブを纏った従者を2名従えている。若い男と中年の男性だ。
「あ?」
 振り返ったキティーが男達に向かって威圧的な視線を送る。威圧的と言うよりは不機嫌そうな顔をしてガンをたれてるだけだ。
「……」
 金髪の男は無言で怖い顔をして震えている。
「アンタ…どっかで…」
「キティー・ベルアレンッ!なぜ貴方がッ!」
 男の顔を見てキティーが口を開くと同時に金髪の男は大声でキティーを怒鳴りつける。その顔には怒りと悲しみの入り混じった失意にも似た感情が見てとれる。
「貴方は…貴方は私達の上に立つべき人のハズだ!なのにッ!いったいドコで間違われたのですかッ!」
「…確か、ジェラルドさんトコの…」
「リッツ・フィル・ジェラルド、教皇の命により騎士として異端者レクサスと反逆者2名の身柄を拘束するッ!」
 思い出したように指を立てて言うキティーの言葉を遮るように金髪の男は名乗りを上げ任務の内容を高らかに宣言する。本物の騎士のようだが「生まれ」によってキティーよりは格下に位置する騎士なのだろう。
「私は…貴方がわからない…なぜ…持って生まれた物を無駄にするような事ができるのですか…」
 そう言いながらリッツは綺麗な装飾のなされた細身の剣を低く構える。
「持って生まれたモノねぇ…ンなモンに何の価値がある?人生ってのは何を成したか…いや…何を成そうとしたか、その過程にこそ価値があるんじゃねえか?それに俺は間違ったなんてコレっぽっちも思っちゃいねえよ」
 キティーは少し笑いながら飾り気のない無骨な剣を抜きしっかりと両手で握って正面に構えリッツをまっすぐに見つめている。
「抵抗しなければ危害は加えない。先に言っておくが…コレは部下にも持たせてある」
 リッツは私の方を見ながらそう言って首元から銀色のネックレスを手繰り寄せその先に付いている物を見せる。メダルと言うには大きすぎるソレには盾の前で交差する剣と斧が描かれている。コレは騎士団の紋章だ。デザインはともかくその淡い光を放つ青色の金属は見覚えのある物だった。魔導研究の副産物で周辺の精霊活性を奪う効果があり魔除けとして珍重されている金属で開発者の名をとってワーグナーの魔除けと呼ばれる物だ。今思えばその化学とも言える製造工程が現実としての魔法を遠ざける効果をもたらしているのかもしれない。
「ワーグナーの魔除け…か」
 私は腰に手を当てた楽な姿勢でそう言って少し笑う。オリネアさんもクスクスと笑っている。
「魔導士ならばコレの効果は知っているだろう。部下は手練れの者だ。理論上、3対1と言っても差し支えないだろう。抵抗は無意味だとわかったか?」
 リッツは真顔でそう言いながら私達を威圧するが…
「ん〜」
 私はそう言いつつ小指の先ほどの小さな石をつまみ上げる。横ではオリネアさんが精霊に干渉し大気中の水分を集め胸の前にバスケットボール大の水球を作り始めている。
「魔法は無駄ですよ」
「そうですか?」
 リッツの言葉にオリネアさんはクスっと笑って右側の従者の少し手前の地面にその水球を勢い良く放った。男は水と土砂に巻き込まれその勢いで後ろの木に激しく体を叩き付けられる。
「うが…」
 男はそのまま地面に座り込んで動かなくなった。
「なにッ!」
「はい、ソッチの人動かない」
 私はそう言って手の中の小石を左側の従者に向かって投げ付ける。ただ投げたのではなく風の力に干渉し勢いよく打ち出した。小石が音速を超える乾いた音が響く。名人の振るう鞭のような軽いが痛そうな音だ。
「…・ッ!」
 小石を太腿部に受けた従者は声を押し殺し苦悶の表情でその場に蹲る。白いローブが赤く染まる。
「ちょっとやり過ぎたかな?まぁ後は1対1で正々堂々やってくれ」
 私はそう言ってキティーの肩をぽんと叩いてオリネアさんと一緒に少し下がる。
「…だ、騙された」
 リッツはワーグナーの魔除けを握り締めてプルプルと震えながらそう言った。
「モノは確かだろうけどよ、魔力と物理を一緒にしたのが間違いなんだよ。ソイツで防げる魔法の方が少ないって」
「普通は捕まえた魔導士の力を奪う目的で使う物ですよね」
 私の言葉にオリネアさんが正しい用途を付け加えて説明する。
「そういう事。近付かれるとちと辛いんで先に仕掛けさせてもらった。悪く思うなよ」
 私はそう言って木にもたれかかって頭の後ろで手を組んで成り行きを見守る。
「で、まだやるかい?帰るんなら止めはしないが」
 キティーは構えを解いて掌を上に向けてリッツに問いかける。
「…退ける訳がないでしょうがッ!」
 リッツはそう叫んでキティーに向かって走り寄る。横なぎに繰り出されたリッツの剣撃をキティーはまるでゴルフボールを打つような強引なスイングではじき返す。
 剣を持ったまま大きく仰け反るリッツに向かってキティーは一流ラガーマンのようなタックルを繰り出した。
「うがッ!」
 リッツは後方に大きく飛ばされ尻餅を付いて声を上げる。
「くッ!」
「動くなッ!」
 慌てて立ち上がろうとするリッツの顔先に剣を突きつけて怒鳴りつけるキティー。
「お前もソイツらの上に立つモンなんだろ?上に立つモンってのは状況に応じて最善の行動をとらなきゃなんねえモンだろうが。一人で勝ち目のない戦いに突っ込むのがお前の最善なのか?勇気と無謀を履き違えるなッ!」
「…」
 キティーに気圧されたかリッツはまっすぐキティーの目を見ながら押し黙る。
「御高説だな」
「学校で習った」
 苦笑いしながら言う私の言葉にキティーは笑いながらそう答える。
「一つ聞きたい。わざわざ森の中歩いてるってのに…なぜこうも簡単に俺達を見つけた?」
 キティーはリッツに向かって問いかける。確かに…最善と思われる進路をとったハズがこうも簡単に追っ手が付いたとなれば今後が気がかりだ。
「…崖下で粉々になっている馬車を見つけました。そこから森に入ってみれば焚き火の跡に見た事のある瓶が散乱している。あとは太陽に向かって歩いただけです」
 リッツの言葉に私達は渋い顔をする。
「ゴミは片付けろ…って事か」
「素人丸出しでしたね…」
 私の言葉にオリネアさんが呟く。確かに…パンの切れ端を落とすかのように瓶を撒き散らしてきた記憶が鮮やかに思い出される。これはモラルの低さが招いた災いだろう。
「俺達は先を急ぐ。お前は自分のすべき事をすればいい。そう言うこった。それとお前はあの本を読んだのか?」
「異端の書など手に取るものかっ!」
 キティーの言葉にリッツは激しく否定する。異端の書とは大袈裟な…まぁこの世界で正しい教育を受けたものなら教えられるがままにダメな物はダメなのだろう。
「そうか。気が向いたら読んでみる事だ。それでどうするかは自分で決めりゃいい。生かされているのか生きているのかをよく考えるこった」
 そういってキティーは地面に投げ出していた自分のリュックから本を取り出してリッツの前に放り投げた。
「中々言うねぇ」
「全部お前に習った」
 リッツに背を向けてこちらに向かってくるキティーに私が声をかけるとキティーはそう言って苦笑する。教えたつもりはないが理解はしてくれていたようで少しだけ嬉しかった。
 こうして私達は何事もなかったかのように先を急いだ。ゴミだけはキチンと片付けるのを心がけながら。一応の目的地こそ決まっているもののそこで終わりの旅でもない。私達は気の向くままに旅を続ける。砂漠の国のわがままな姫様に振り回されたり小さな村で人助けをしたりしながら直進すれば3ヶ月ほどの道のりを回り回って2年以上かけて歩いた。
カルドナの目前中規模の貿易都市で宿を取り休んでいた夜、もう忘れかけていた追っ手が付いたようだ。
 読書に用いていた「明かり」の魔法がフッっと掻き消えた。風で消えるような明かりではないし、それこそ水の中でも煌々と光り続けるものが脈略なく掻き消えた。まるで電力の供給を絶たれた電球のように。
窓の外を見るとボウガンを持った多くの男達が宿を取り囲んでいるように見える。暗くてよくわからないが月明かりで僅かに反射する光が重装備である事を告げる。鎖帷子に金属製の兜だろうか?その統一された装備から賞金稼ぎの類ではなく街の自警団かなにかのような印象を受ける。
恐らくワーグナーの魔除けを複数配した結界のような物で宿全体が包まれているのだろう。精霊への干渉を一切行う事ができない。
「オリネアさん…起きて」
 私は読書に使用していた丸ぶちメガネを懐にしまい先に寝ていたオリネアさんを揺り起こす。
「あ、あい?もうご飯ですか?」
 眠そうに半身を起こすオリネアさんは少し寝ぼけている。
「いいから早く服を着て」
 私は壁にかかっているオリネアさんの服を手にとってベッドに向かって投げる。
「どうせ脱がすんですから着せなくてもいいじゃないですかぁ」
「いや、そうじゃなくて…」
 窓際で息を殺している私を見てオリネアさんも異常に気付く。
「レクサス…起きてるか?お客さんみたいだぜ」
 軽いノックの後ドアの向こうからキティーの声が聞こえてきた。服を着たオリネアさんがドアを開ける。
「ああ、気付いてるよ」
 私は振り返らずにそう言って窓の外を見る。
「面倒だな。パパっとやってずらかろうぜ」
「今回はムリっぽいな…」
 楽観的に言うキティーに私は声を押し殺してそう答える。
「精霊干渉が絶たれていますね…」
「どういう事だ?」
 低いトーンで言うオリネアさんにキティーが高い声で聞き返す。
「魔法は一切使えねぇ。完全にはめられたみたいだ」
「捕まったとしても処刑はバルックだ。移動してる間になんとかなるかもしれねえしな。そいじゃ行こうぜ」
「そうだな。なんとかなると信じて大人しく捕まるか…」
 こうして私達は無抵抗のまま笑顔で御用となった。翌朝まで領主の屋敷の地下に拘留され日が昇ると同時に大勢の護衛付き馬車でバルックに向かって出発する事となった。私達は魔除けの施された手錠をはめられ完全に無力化されていた。
 万全の体制の中どうにかなるハズもなく私達を乗せた馬車は快適に走り続けた。道中は以外にも快適で拘束されているという点を除けば客人としての扱いを受けた。その辺りはキチンとした騎士なのだろうと関心もしたが馬の歩みが一歩一歩と自分の死に向かっているのはいささか気分が悪いものだ。死など怖くはないが痛いのはゴメンだ。異端者は確か火炙りだったと思う。反逆者は斬首か…
「すまねえ。俺のせいで」
「その話はすんなって言っただろ。運が悪かっただけさ。次は上手くやろうぜ」
「そうですよ。みんな同時にこの世界を後にすれば上で待つ手間が省けるでしょう?」
私の言葉に2人はそう言って笑う。
「上か…そうだな。上で会おう」
馬車がゴトンと揺れて地面からの振動が激しくなる。どうやらバルックの舗装された道路に乗ったようだ。それから暫く進み馬車は止まった。突然勇者様が現れて助けてくれる事もなく私達は城の人間に引き渡され私は2人とは別に城の地下牢に放り込まれた。ジメジメしてカビ臭く明かりも通路のランタンのみで昼夜の確認も取れないまま何日かが過ぎた。
食事が4度運ばれてきた事から2日ほどだろうか。私は城の者に命じられるままに真っ白いローブに着替えさせられ久々の太陽を見た。いよいよ処刑かと思ったらまず裁判のようだった。裁判と言っても形式上の物で私の刑はとっくの昔に決まっていたようだ。釈明の場などなく恐ろしいほどすんなりと求刑通りの判決となった。刑の執行は明日の正午と決まり私は再び牢に戻される。
「レクサスさん、起きて下さい。これが最後の食事ですよ」
「あ、ああ。すまない」
 食事を運んできた白装束の若い男の声で目を覚ました私はそう言って食事を受け取る。最後の晩餐と言っても普段の牢獄給食となんら変わりない水とパンだった。
「これを…」
「ん?」
 若い男は私に小さな玉を差し出した。半透明な赤色だろうか。暗くてハッキリはわからないがビー玉のように見える。
「デニス様から貴方に渡すよう言われました。即効性の感覚遮断薬だそうです。口の中に入れておいて噛み砕いて下さい。それでは…」
 そう言って若い男は小走りに地下牢を後にした。
「飴玉の方が嬉しかったぜ…」
 そう言いながらも私は赤い玉を見つめながら父の粋な計らいに少しばかり感謝した。正直言って生きたまま焼かれる苦痛に精神が耐えられるかどうか不安でしょうがなかった。肉体の死よりも精神の崩壊の方が今の私には恐るべき問題なのだから。
 それからしばらくして3人の男が私の前に現れた。それは聖職者の正装で赤い衣装の上から青い貫頭衣を纏い変な帽子をかぶった老人達だった。
「レクサス・ラーウィッド。時間だ」
「はいはい…」
 威圧的なその声に私は2度返事をしつつ赤い玉を口に含む。
「何か言い残す事は?」
横の男が問う。私は無言で首を左右に振った。
「皆、貴様には期待しておるぞ。先の2名は命乞いも絶叫もなく不愉快なほどの満ち足りた顔で刑を受け観客がしらけたからな…」
「…」
私は鼻で笑いながら3人の男に連れられて処刑場まで歩いた。そこは円形の広場で周囲には段々の観客席が設けられている。普段は罪人同士を戦わせたりしているコロシアムだが今日の見世物は人間の丸焼きのようだ。
私はそこで小さな足場の付いた棒に例の金属でできた鎖で縛られる。そして数人の兵士によって地面に掘られた深い溝に沿って垂直に立てられ、溝に木枠を落とし込み固定し周囲に細い枝の束を敷き詰めていく。大勢の軍人が旗を立てる姿は絵になるが当事者としてこれは少々いただけない。そしてそれを囲むように太い棒が積み重ねられていく。まるでキャンプファイヤーの準備のようだ。見れば観客席には多くの人が集まり始めている。
 忘れていたが…この国の数少ない娯楽の一つにこういった「公開処刑」があった。私はそんな物を見たいと思った事はなかったが一般的なこの世界の人間からすれば新作の映画を見に行く感覚で入場料を払ってまで処刑を見ようとする。あっという間に観客席は見物人で埋め尽くされ日の高さが頂点に達するのを心待ちにしているようだ。
 この足元の影の長さがそのまま私の命の長さだと思うと影が何か別の物に見えてくる。ゆっくりと迫ってくる死の影か…なんとなくありふれたフレーズだが…現実として自分に突きつけられていると思うと不思議と笑えてくる。
 太陽が南中に達したのを係りの兵士が確認し大きな金属製のドラのような打楽器を勢いよく叩く。喧騒に満ちていた会場が水を打ったように静まり返る。
 赤い衣装に羽根帽子といった軽装の男達が火の付いた松明をもって会場を周回しているのが見える。見れば全員真っ白で小奇麗な仮面を付けて顔を隠している。罪人に顔を覚えられると祟られるという迷信の影響だろう。
 男達が私の視界から消える。恐らくは私の背後に整列している事だろう。私は口の中の玉を奥歯に乗せて噛み砕く。玉の中から非常にマズイ液体が口の中に溢れる。子供の頃に知らずに食べたウイスキーボンボンを思い出す感覚だ。違うのは中身を包んでいるのがチョコじゃなくてガラスだという事か。口の中は砕けたガラスで一杯のハズだが溶けてしまったかのように無くなっている。どうやら無くなったのはガラスの破片ではなく私の感覚のようだ。見ればもう足元は炎に包まれている。熱くもなんともないが枝の爆ぜる音がなんとも不気味だ。
足元の炎は激しく燃え上がるも私を包み込むほどの大きさではない。恐らくは観客を楽しませる為の拝領なのだろう。もがき苦しみ大声を上げる罪人を見に来た観客には悪いけど…私は涼しい顔をして命の灯火が消えるのを待つとしよう。むしろ服と髪の毛が焼け落ちた姿を衆目にさらしている方が精神的な苦痛だ。
 怖い物見たさに集まった観客がざわめき始めているようだ。足元から業火に炙られながら表情一つ変えない私が不気味なのだろう。少しだけど…眠くなってきた。重度の火傷が生命維持に支障をきたしてきたようだ。ここで力を振り絞って大声で演説してやってもいいがあまり怖がらせるのもかわいそうだ。
 私は口元に笑いを浮かべたまま静かに目を閉じ襲ってくる睡魔に身をゆだねた…



3・生き続ける事への報酬

「こんにちは、かわいらしいお兄さん」
「ふふっ、前も同じような事いってたね。ただいまルキアさん」
 私は聞き覚えのある声にそう答える。どうやらまた同じ場所に戻ってきたようだ。
「え?貴方…この感じ…カンナちゃん?」
「神奈ちゃんでーす」
 そう言いながら私はレクサスの姿から初めてここへ来た時の姿に見た目を変える。肉体という物理的な器に縛られない自由な意識である以上、相手に知覚させるだけの「自分」の姿など自由に変更する事ができるのがココなのだから。
「おかえりなさい…本当に戻って来たのは貴女が初めてよ…」
 喜びと驚きが入り混じったような震えた声で笑顔を見せるルキアさん。
「えと…他に誰か来なかった?」
「貴女が出て行った後に来たのは貴女だけよ。それに貴方が堕ちてからまだ1時間くらいしか経ってないように思えるけど?」
「嘘…」
 私は言いようのない悲しみに包まれ膝を落とす。ここでの時間の感覚はリアルタイムと大きな格差があるようだ。そんな事よりも…2人が居ない事の方が私には大きな問題だ。
 覚悟はしてた。人から聞いただけの「知識」で上に行けるなら誰も苦労はしないだろう。本の一冊で多くの人をここへ導けるなんて思い上がりだったのかも知れない。もっと根本的な何かが魂の選別を行うのだろうと予測はしていた。でも…納得できない…むしろ自分に対して怒りすら覚える。私は2人に大嘘を吹き込んでしまったのだろうか…いや、2人が記憶を持ったまま生まれ変わる事ができるのなら…まだ可能性はあるかもしれない。そのうちこの人口の極端に少ない僻地に流れ着いてくるかも知れない。でも…可能性は極端に低い気がして来た。そう考えると…私は声を上げて泣いていた。
「ちょ、ちょっとどうしたの?」
 泣き崩れる私を見てルキアさんが慌てて駆け寄ってくる。
「お願いだから…少し泣かせて…」
 私はルキアさんを抱きしめて胸元に顔を押し付けて泣きながらそう言った。
「…落ち着いたら話してね…」
 そう言ってルキアさんは私の背中に手を回して優しく包み込んでくれた。それからどれくらいだろう。何時間も、何日も、もしかしたら何年も泣いていたかもしれない。その間ルキアさんは何も言わずただ優しく私を抱きしめていてくれた。私は泣きながら…下であった事をゆっくりと話し始める。
「そう…それは辛いわね。でも…失う事を恐れていては前には進めない。それは私もわかってる…でも貴女には先に進むだけの力があるんだから…ね?」
「うん…がんばる。がんばってみる…」
 私はそう言ってルキアさんに笑顔を見せる。今回はダメだった、次頑張ろう。なんて言う風に簡単に切り替えられる問題じゃないのは解ってる。でも可能性という種は蒔けたんじゃないかと思う。その世界に生きる人間の死に対する認識を変える事ができれば…それがたった一人だったとしても可能性はゼロじゃない…一度きりで砕けてしまう魂を一つでも救えたら…それでいいのかもしれない。魂の行き先まで指定するのは傲慢かもしれない。
「もう少し休憩したら…また行ってくるね」
「お土産よろしく」
 私の言葉にルキアさんはそう言ってニッコリと笑って見せる。
「一つだけど…問題解決かな」
 私は笑顔でルキアさんに向かってそう言った。
「ん?何が解決したのかしら?」
 ルキアさんは私に優しい顔で問いかける。
「ルキアさんの事を愛せばいいんだ。それで多分やっていける。いい考えでしょ?」
「いや〜、なんつーか、私そういう趣味は…」
 私の提案にルキアさんはちょっと引いた顔でそう言った。
「ここじゃ性別なんて関係ないでしょ?これなら…問題ない?」
 私はそう言って自らの姿をレクサスへと変える。
「確かにそうなんだけど…そういう問題でもない気がするわね…
でもまぁ…良しっ、合格っ!かわいい男の子はキライじゃないしね」
「ありがとう。じゃあ行ってくるよ」
「いってらっしゃい」
今度は笑顔で送り出してくれた。私はどこかの体に目を覚まし母体という地獄の中で安らかに夢を見ながら釈放の時を待った。次はどんな世界だろう。例によって知らない言語で何かやりとりがされている…音楽も聞こえる…確かに…昔何かの番組で胎児に音楽を聞かせるといいとかなんとか言っていたような気がするけど、確かに悪くはない。この地獄は恐らく何回来ても慣れる事はないだろうけど音楽はいい退屈凌ぎになる。夢の中ならともかく起きている間は空想する事意外にやる事がないのだから…音楽はいい気晴らしになる。
 こうして私は前回同様に胎児の持つ長いレム睡眠を最大に利用しながら生まれ出でるその瞬間までを過ごした。前回の経験からか今回は危なげなく記憶をもったまま3回目の人間としてその世界に生まれる事ができた。
そこでメーロンという名の本を書いて死を迎える。上に戻ってはルキアさんに土産話をしてまたどこかに生まれる。これが私のライフワークというものなのだろうか。
笹川楓の名で書いたメーロンの数7つ。延べ400年は生きたと思うけど…私の帰るべき場所に新たな客人が来る気配無し。人として私が400年を過ごそうともルキアさんの感覚では半日もたっていないという。なんとも気の長い話になりそうだ。
「それじゃあ行ってくる」
「いってらっさい〜」
 例によって土産話をして少々イチャイチャしてから私は8冊目のメーロンを書くが為8回目の母体に向かう。神奈の時を合わせれば9回目の母体だが覚えてないのでノーカウント。
色々と世界を回ったけど…3番目の世界が一番苦労したように思える。恋人は上に確保している。そう思っていたので自分の性別が男でも女でもいいやと思いつつも私はその世界に男として生まれた。それは大した問題ではなく苦労したのは言語の習得だった。
そこは言語が非常に高度なレベルに発達している国でその語彙の多さには正直驚いた。そこで60年ほど生きたがその国の言葉を完全に理解していたかどうかは今でも疑わしい。
言語が高度に発達した影響かこの国の人間は気持ちを態度で表現するのが非常に下手だった。下手というよりはボディーランゲージで気持ちを伝える必要がないのだろう。その言葉には気持ちの全てを伝える勢いがあるからだ。もう少しで言語を介さないルキアさんとの魂の会話に匹敵するだろう。これほどに発達した言語は今のところこの国だけだ。
加えて文字形態も引けを取らぬほどに複雑だった。基本2種類のフォーマットに加え略式記号のような難解な文字、そこへ他国から流入した2種類の文字が複雑に入り混じった独自の文字形態となっていた。一応でも小説家という立場から世界を切り崩そうと思っていたので言語の習熟に全力だった。次の世界で役立つような医療や建築学、その他の知識を学ぶ暇などないほどに言語の習得には骨が折れた。
 言語がそれなりに操れるようになったと思いメーロンの執筆にあたるが高度に発展した文明社会の中では私の作品など取るに足らないタダのダメ小説でしかなかった。
そこは娯楽に飢えている中世とは世界が違う。優れた文学作品が書店に並び毎月のように新たな作家が目の肥えた読者を唸らせるような作品を世に送り出している。
そんな中で私の「日記」と言っても差し支えのないような物が人の目に触れるのかと正直不安にもなった。散々書き直した末に結局本にはならなかったもののインターネットを通じて人の目に触れさせる事が出来たのは不幸中の幸いだろうか。
決して多くの人の目に触れたわけではないがバルックで書いた本に比べれば遥かに多くの人が読んでくれたと思う。その中の一人にでも…私の真意が伝わっていれば目標は達成したと言えるだろう。
その後の世界ではさして苦労はなかった。3番目の世界で学んだ複雑怪奇な言語のお陰で文字による表現力が格段に増した結果だろう。
そう言った余裕がある世界では医療などの分野にも手を出してみた。特に心理学の分野は中々に面白い物だった。面白い反面、それは恐ろしい側面を私に垣間見せた。今までは考えた事もなかったが…私が人として生きる以上、年をとってボケる可能性も無い訳ではないのだから。体は資本という言葉もあるが私にとっては魂こそ全てなのだ。五体満足でも魂と呼ばれる私の意識が痴呆や精神疾患によって破損する恐れもある。
そんな事を恐れていては前には進めないのだろうが…ボケるくらいなら若死にも不幸ではないのかもしれない。あらゆる意味で…生きる事は文字通り命懸けなのだから。
そのついでと言っては「神様」に申し訳ないがそれなりに宗教というモノにも興味はあった。学問としての心理学では定着してしまった「常識」に阻まれ到達できない域にも宗教という分野は容易に到達できる。学問と異なり事実という裏付けが必要でないのだから神様はフィクションでかまわないのだ。そこに事実があるとすれば「自分の信じたい物を信じる」それが事実かもしれない。個人的には宗教の語る死後の世界や精神性などよりも物語としての神話の方に興味があった。
多くの宗教をそれなりに学んだが、人は生まれながらに何らかの罪を背負っていると説く宗教も少なくはなかった。それは本来永遠の命を持つ魂が死を逃れられない肉体に宿る事自体が「罰」でありこの世の全ての人間は終身刑を言い渡された罪人なのだと…死は偶然ではなく定めの下にやってくる。犯した罪の大きさによって刑期という名の寿命が与えられる。脱獄に値する「自殺」には多大なペナルティーが与えられるという物だった。
私は今の所「自殺」という行為で上に戻った事は無いが「自殺行為」と呼べる物には心当たりがあった。例えば喫煙、タバコを吸うという行為が体に悪いと知りながら吸っていたのだから、これは意図的に死期を早める行為にはならないのだろうか?中々に面白い話だが私のように自分の意思で死すべき肉体に宿る魂も存在するのだ。これが真理だとは思わない。私はただ、自分の道を歩いているだけなんだから。

「さて次は…」
 まだ見ぬ世界に期待しつつ地獄からの釈放を心静かに待つ事にした。しかしながら今回は今までと明らかに違う地獄だった。
ちっとも苦しくない。感覚が無いのだ。レクサスが処刑される時に用いた薬の効果に似た感覚だ。肉体を意識することができない。かろうじて外部からの音は聞こえるのだから一応胎児には宿っているのだろうけど…何の苦痛もないまま時間だけが流れ徐々に意識が薄らいで行く。
「あら、お帰りなさい。やけに早かったわね?」
「あ?あれぇ…」
 私はいつもの場所でいつもの声に迎えられながら首を傾げた。
「今回は土産話なしッ!なんか生まれる前に終わっちゃったよ」
「私の時と同じで母体が死んじゃったんじゃない?」
「…そうかもしれねぇな…」
 私はいつの頃からかルキアさんの前ではキッチリと男を演じるようになっていた。レクサスを演じた22年のように。何度人生を繰り返そうと私は私だった。男と女を繰り返しているものの根本的な「私」が希薄になる事はなかった。「三つ子の魂死んでも」という事か…色々な容姿で人生を送りその都度その姿をルキアさんには披露しているが今の所のお気に入りはこのレクサスという少々女々しい少年の姿のようだ。
「気を取り直して行ってくる」
「ういうい」
 ルキアさんは笑顔でそう言って笑う。これは3番目の世界の土産話で登場した万能挨拶だ。私は再びどこかにある新たな肉体へと目を覚ます。楓は何をしているだろう?そんな事を考えながら…
「さっきと同じだ…」
 私は心の中で呟いた。肉体を意識できない。どうやら恐れていた事態が発生したようだ。長年記憶を保有し続けた結果、私の魂は人間の体には大き過ぎる物になってしまったようだ。
人という物理的な器に宿るには物理的な理論で魂を定着させる必要があるのだろう。その物理的な部分が人の「脳」であるとすれば…
胎児の脳には私の魂は大きすぎるのだろう。魂というデータが脳というハードディスクの許容量を超えてしまったようだ。言語学の容量が大きすぎたのだろうか?そんな機械的に考えられる問題ではない。いらない部分を削除するなんて事はできないのだから。
「あ、今ちょっと動いたよ〜」
「マジ?」
 外から…聞き覚えのある言語で聞き覚えのある声が聞こえた。
「ねぇ純、女の子なら名前は神奈でいいかな?」
「うん、いいんじゃないかな。姉さんも喜ぶさ」
 嘘だ…
「男の子でも神奈でいい?」
「まぁアリじゃないかな。そんな時代だし」
 嘘だ、嘘だ…
「楓ッ!私はここにいるッ!楓ッ!」
 全力で叫ぶものの声など出るハズもなく気持ちだけが焦っていく。2度と会えないと覚悟はしていた。でも…
こんな形の再会なんて望んでないッ!
全部いらないッ!
自分以外の全部ッ!
何もかも捨てるから…私を…
私をこのまま生きさせて…
楓…

気が付いた時にはいつもの場所に居た。
「どうしたの?今度もやけに早かったわよ?」
「う…」
「神奈ちゃん?」
 私の顔色を見てルキアさんが心配そうな顔で問いかける。
「ああああああああああッ!」
「ど、どうしたの?」
「嘘だ、嘘だ、嘘だぁああッ!」
 私はひどく取り乱しルキアさんには何の説明もしないまま再び肉体を意識する。同じ場所を望み同じ場所に目を覚ます。
望めば…望む世界に生まれる事ができたの?最初から…ただ無作為に生を望むのではなく…望む事によって生きる場所を特定する事ができたの?
「あ、今ちょっと動いたよ〜」
「マジ?」
さっきと同じ世界の同じ時間に私はいる。
「ねぇ純、女の子なら名前は神奈でいいかな?」
「うん、いいんじゃないかな。姉さんも喜ぶさ」
 恐らく胎児が魂を受け入れるタイミングと言うものが決まっているのだろう。
「男の子でも神奈でいい?」
「まぁアリじゃないかな。そんな時代だし」
 私は特定の世界の特定の時間、そして特定の母体を選びそこに宿った。
でも…ただ宿っただけ…
後に神奈と名づけられるであろうこの胎児では私の魂を受け入れるには小さすぎる。もっと早く気付いていたなら…私は…この子で生きて行けたのだろうか?
今となっては全てが遅すぎたのだろうか?私の、神奈の生きた世界には私の魂を受け入れるだけの器など存在しないのだろうか…
ただ一言、愛していると伝えたい…それすらも…叶わない事なの?
楓の生きている時代には…私はもう何も伝える事ができないの?
「どうしたのよ?出たり入ったり…」
 沈痛な面持ちで突っ立っている私を見てルキアさんが声をかける。
「もう一度…行ってみる…」
 私はそういい残してそこを後にする。
 楓の生きている世界の楓の生きている時代、そこなら何でもいい。お願いだから私を受け入れてッ!私が次に目を覚ました場所は意識に大量の情報が連結された空間すらも意識できない世界だった。身動きしようにも私には手も足も、体と呼べる物が一切…無かった。人間ですらない。そう気付くのに大した時間はかからなかった。意識の中を膨大な情報だけが流れて行く。ここはどこだろう…自分の中を通過していく情報に意識を向ける。
 手紙?誰かが誰かに宛てた簡単な手紙?他にも誰に向けた物かわからないが日記のような物から梅干の塩の分量まで…あらゆる情報が私の中を流れて行く。
この感じ…ネット?インターネットの中なの?
徐々にだけど…今まで生きた人の体とは異なる「感覚」にも慣れてきた。オンラインで結ばれている世界中の防犯カメラや人工衛星などが私の目となり電話のマイクは耳となった。
 どこかのコンピューターに私という魂が宿ったのとは違う感じがする。言うなればネットワーク全体が私という意識を紡ぎだしているような気分だ。それに関する内容が記されたファイルをネット上で発見した。
 それは「グリッド」と呼ばれる理論の一つだ。一つの高性能のコンピューターに処理させても莫大な時間のかかる処理を複数の家庭用コンピューターをネットワーク上で並列化して情報を分割一斉処理させる。この情報ネットワークはシナプスのような働きをし、結果的に自発的なAI、個性と呼べるほどに発達した意識が発生する可能性があるって話だが信憑性は低そうだ。国家の機密や極秘実験の類ではなくうそ臭い、オカルト染みた都市伝説のような話だ。本来ならSF映画のネタとしても三流以下の使い古された「機械の反抗モノ」と読み飛ばす内容でも…現に私はここにいる。ネットワーク上のどこともいえないここに。私がどこにいるかなど小さな問題だろう。これから自分のすべき事を考えよう。
 その気になれば今すぐにでも…楓の携帯にメールを送る事もできる。その気になれば…普通に電話をかけて自分の声で話すこともできるだろう。電話から出てくる音など所詮は電気信号なのだから。
 とりあえず私は海の向こうの大国が所有する人工衛星の一つを無断で拝借して私物化する事にした。雲さえなければ最大望遠で地面のタイルの数を数える事もできるモノだ。軍部は慌てているだろう。正常に作動していたハズの衛星が忽然とモニターから消えたのだから。この衛星は機密扱いの物らしく衛星紛失のニュースが私の中を流れる事はなかった。
 しかしながら…普通に考えて死んだ人間からメールがきたり電話がかかってきたりするなんて考えたらマジ怖すぎる。これこそ三流のホラーだ。できるかぎり穏便に、可能であるなら…生前のように普通に話をして一緒に笑いたい。
色々考えを巡らせてもコレといった良い方法が思いつかない。私は退屈凌ぎにオンラインで楽しめるゴルフゲームをプレイするようになっていた。自分という物を見せる事無く文字だけでのコミュニケーションというのも悪くはない。自分が何者であれ…チャットという形式であればヒトとして他人と接する事ができるのだから。
私はそのゲームを「笹川 かえで」という名前でゲームをプレイしていた。無論正規の手続きなど取らずに。何日か特定の時間にプレイしていると知らない間にいつも一緒にプレイする仲間ができていた。
「全然関係ない話なんだけどさぁ…」
 私はゲームのプレイ中にさり気無く話を切り出してみた。
「死んだ人からメールや電話がかかってきたら怖いよね?」
「うん怖い」
「怖い」
 一緒にゲームをプレイしていた「千佳ぽん」と「りーたん☆」は次々にそう答える。
「もしかして来るの?」
「迷惑メールならいっぱいくる〜」
 千佳ぽんの言葉に続いてりーたん☆が文字を綴る。
「仮にだよ。自分が死んだとして好きな人を怖がらせる事なく」
 チャット欄の文字数の上限に達したのでここで一旦区切り、一般的なタイピング速度を考慮しつつ次の文字を表示させる。
「何かを伝える方法ってないかなぁ」
「え?」
「かえでさん幽霊なの〜?」
 少し間を開けてから2人の文字が返ってくる。
「…と言う内容の小説を書いてるんだけど中々難しくて」
 私は咄嗟にそう返した。幽霊か…
確かにその通りなのかもしれない。戸籍上私は3年前に死亡しているし火葬の記録も墓地の場所も確認済だ。
でも俗に言う幽霊とは違うと言い切れる。でも…やっぱり普通に考えれば私の存在は幽霊以外の何でもないのだろう。
 この後も文字によるおしゃべりは続いたが話の方向性が小説という方向にそれてしまい良い案など出るハズもなかった。
とりあえず…楓の周辺情報を集める事にした。各種機関のコンピューターや各種店舗の顧客リストなどからそれなりの情報はすぐに集まった。
三年前に結婚し現住所は…私の家。なぜゆえにウチの愚弟と結婚するハメになったのかは不明…まぁ…どこの誰かもわからないヤツと一緒になるよりは幾分マシだろうか?当時通っていた短大は一身上の都合で自主退学?データベースからは事の経緯までは掴めないがウチに嫁入りしたって事ならそれなりの生活はできるだろう。楓の家の方は姉夫婦がいるので問題は無さそうだし。
死人から何らかの連絡があるって時点でどんな方法を取ろうとアウトのような気もするが自分をぶつけるしかないという結論に達した。回りくどく策を巡らせるのは私らしくない。私らしく行くならば…直球勝負しかないのだから。
私はとりあえず平日の夜、愚弟純一の携帯に非通知で電話を入れてみるが中々電話に出ない。こちらから電話機に信号を送り無理やり通話状態にしてみると声が聞こえてきた。電話のシステムを参照した所、純一はまだ3年前のあの頃と同じ携帯を使っているようだ。カメラ付は当たり前、ラジオやテレビ機能も主流になりつつあるこの時代にメールを送るのが精一杯のモノクロ液晶画面の携帯を未だに使用しているというのは純一らしいといえば純一らしい。何も変わっていないのだと少しだけ安心した。
「いいのいいの、どうせロクでもない電話だろうし」
 純一の声だ。まぁ…ロクでもない電話なのは認めるが…
「ああ、最近は妙な電話が多いからな…」
 懐かしい父さんの声もかすかに拾える。しばらくすると電話会社の留守番電話サービスに繋がった。ここに伝言を残すのもバカっぽいので何も入れずに電話を切った。少々情報を集めてみるとここ最近妙な電話による架空の請求が増えているようだ。電話が鳴ったら誰か友達が携帯でも買ったのだろうと思うような時代ではないようだ。
 私は自分が昔使っていた電話会社の顧客リストのログから自分の携帯の番後をみつけ、その番号で純一の携帯を鳴らしてみる。いつの間にか電話番号のケタ数が増えていたようだが純一の電話の中のメモリーがそのままなら…液晶には私の名前が出るハズだ。こんな回りくどい方法を取らなくても純一の携帯に「神奈」と表示させる事ぐらいはできるのだが…ついつい物理的な手段に頼ってしまう。まぁシステムは利用してナンボだ。
 私は先ほどと同じようにコールと同時に電話を強制的に通話状態にして音を拾う。純一の携帯の液晶に表示された文字は「鬼姉」だった。まぁ私も純一の番号は「バカ」で登録していたのでおあいこだろうか…
「父さん、あの世から電話」
「鬼姉?神奈の事か?」
 純一はどうやら父さんに電話を手渡したようだ。 
「故障じゃない?もう古いんだから買い換えればいいのに」
 楓の声がかすかに聞こえる。マイクの性能が悪いせいか雑音も多い。
「もしもし?」
 父さんが電話に出た。声のトーンは低く得体の知れない電話に対する不安のようなものを受話器越しに感じる。
「あ、父さん?私〜、ワケあってまだ生きてるから電話くらいしようと思ってさぁ」
 私は少し高めの声で普通に話を始めてみた。
「神奈?神奈なのか?」
「先に言っておくけど幽霊とかとはちょっと違うからね。私はちゃんとここで生きてるから」
 大声で私の名前を呼ぶ父さんに私はそう言って受話器越しに笑いのニュアンスを伝える。
「でもお前は…」
「ちゃんとわかってるよ。肉体的には死んだけど…魂はちゃんと生きてるの」
「だからソレは幽霊だろう…」
 これは説明するのに手間がかかりそうだ…
「だぁかぁらぁ〜ソレとは違うんだってばぁ。図を書いて送るからファックス見て」
 震えた声で話す父さんに私はそう言って自宅のファックス宛にこれまでの過程をわかりやすく図解して送信した。
「今出てきてる…3センチくらい出た。今5センチ…」
「ムリに間を持たせようとしなくていいよ」
 どうでもいい事を逐一報告する父さんに向かって私は笑いながらそう言った。純一たちも父さんの言葉を聞いてかなり混乱して騒いでいるように聞こえる。
「あ、ああ、そうだな…父さんちょっと今混乱してるみたいだ。今15センチくらい」
「まぁ…気持ちはわかるけど」
「…口癖の「まぁ」は相変わらずか…少し安心したよ。今ファックスが届いた」
 しばしの沈黙の末父さんが口を開いた。「まぁ」が口癖?そんなに多用してたっけ?まぁ自分のクセって中々気付かないモノだし気にしないでおこう。
「これから家族会議をするよ。すまんが10分、いや15分経ったらもう一度かけてくれ。父さんはこの図で理解したが…他に説明する時間が要りそうだ」
「うん、わかった。あとでかけなおす」
 私はそう言ってスピーカ部から電話の切れた音を流しつつマイク部で音を拾い続けた。私はそのついでに楓を含む家族全員の携帯を通話状態にして少しでも音を拾おうとした。母さんの携帯はバッグの中なのか音を中々拾わない。楓と父さんはポケットにでも入れているのだろか純一の携帯から聞こえるのと同じ内容の音を拾っている。
「…ちょっと複雑だが…神奈は生きている」
「どうゆう事だよオヤジ?」
 父さんの言葉に純一が大きな声で問いかける。
「説明するから母さん呼んで来い」
「あ、ああ…」
 父さんに言われ純一はそう言ってその場から声を消す。
「本当に神奈ちゃんなんですかっ?」
「とにかく落ち着いて…とりあえず座りなさい」
 これまた大きな声で楓が叫んでいる。それを父さんがなだめるような口調で座らせようとしているようだ。
「ちょっとアナタ、どうゆうことですか」
「オヤジ、早く説明しろ」
 母さんの声と純一の声が聞こえる。
「とりあえず全員座れ。楓君、テレビ消してもらえるか?」
「あ、はい」
 楓がそう言うと共に聞こえていた雑音が一つ減る。なんとなくは何が起こっているのかは想像できるがやはり目視できないと少々苛立つものがある。
「まずはこれを見てくれ」
 恐らく父さんが私の送ったファックス原稿をテーブルの上に置く。
「神奈の字…どこから出てきたの?」
「今しがたそこのファックスからだ。送信元は解約済みの神奈の携帯電話だ」
 母さんの声のあと父さんの声が聞こえる。
「まさか…嘘でしょう?」
「事実だ。今さっきまで神奈と話していた。神奈は…生きている」
「だからソレを早く説明しろってばよ」
「なんで代わってくれなかったんですかぁ!」
 父さんの言葉の後に純一と楓が大きな声で叫んでいる。
「今から説明するから落ち着け!15分後にかけなおすように言っておいた。今は黙って説明を受けろっ」
 父さんが若干キレ気味に叫ぶ。
「神奈は3年前に死んだ、これは事実で皆も知る通りだ。その後だが…この図によると俗に言うあの世へ辿り着いた。ここまでは理解できるか?」
「ああ、あの世ってのが実際にあるとすればな…」
 ゆっくりと語る父さんの言葉に純一がそう返す。思えば言葉遣いが偉そうになっているようにも思えるが今の純一は妻を持つ一人の男として父さんと対等に話せるまでに成長したのだろう。ただ純一が無礼になって父さんが温厚になっただけかもしれないが…
「続けるぞ。そこで神奈は…過程はサッパリわからんが…なんせ記憶を有したまま生まれ変わる術を得たとなっている。記憶を有したまま別の世界に生まれ、そこで死ぬ。あの世とこの世…どうやら「この世」という言葉がここだけを指しているのではないようだな。
とにかく何度も生き死にを繰り返した結果…数百年を経て…神奈はこの世界に返ってきた。という事だ」
「数百年?姉さんが逝ったのは3年前だろ?」
 父さんの説明に純一が問いかける。
「そうだ。だが神奈の生きた世界はこことは別の世界であるのなら…時空すら隔てた世界であるのなら…時間的な概念など無意味だ。そうは思わないか?」
「…なんか」
「神奈ちゃんは今どこにいるんですか?」
 何かを言おうとした純一の言葉を遮るように楓が声を上げる。
「その場所なのだが…少々複雑だな。記憶を有したまま生まれ変わりを繰り返した結果、増大する魂の質量が人の体に、物理的な魂の定着環境である胎児の脳に収まりきらなくなった。それで人の変わりになる魂の定着環境を求めた結果、この世界のコンピューターネットワークがそれに適合した…と、書いてある」
「姉さんがそんな難しい言葉を使うか?」
「これが事実であれば…神奈はここにいる誰よりも長い時を生きているんだ。それに今神奈のいる場所を考えれば…ここにいる誰よりも物を知っている事だろうな」
 純一の失礼な物言いに父さんはそう返す。
「詳しい事は本人に聞けばいい。もうすぐかかってくるだろう」
 まだ8分ちょっとなんだけど…まぁいいか。ちょっとだけ待って電話を鳴らしてみよう。
父さんとの通話を終えてからちょうど10分経った所で私は純一の携帯を鳴らす。
「私が出る!」
「俺の電話だぞ!」
「もしもし」
 大きな声を出す楓と純一を差し置いて電話に出たのは父さんだった。
「あ、父さん?説明は終わった?」
「ああ、一応の説明はしたが…まだ納得はできていないみたいだがな。あ、こらっ!電話を返しなさ…」
「神奈ちゃん?神奈ちゃんなの?」
 遠ざかる父さんの声に代わって楓の大きな声が聞こえてきた。
「楓、久しぶりだね」
 私は高ぶる気持ちを抑えつつ普通に会話を切り出した。
「うん…私、私ね…あ〜もぉ〜」
「姉さん?本当に姉さんなのか?」
 今度は楓の声が遠ざかり愚弟の声が聞こえてきた。
「電話の取り合いはやめなさいッ!」
「姉さん…ごめん…」
 私がそう大声で怒鳴ると純一は反射的にそう謝る。
「純一、電話を渡せ!」
「純ッ!私に話させてよぉ〜」
「ちょっと落ち着きなさい!」
 受話器越しに電話を奪い合う家族の会話とそれをなだめる母の声が聞こえる。なんだか帰ってきた…そんな気分になったがコレでは埒が開かない。私はその場の全員の携帯を一斉に鳴らしてやった。
「純一はそのまま電話持ってって。みんなに自分の携帯に出るように言って」
「あ、ああ…みんな自分の携帯に出ろってさ」
 純一は軽く返事をして家族に自分の携帯に出るように促す。
「神奈ちゃん?聞こえてる?」
「神奈?神奈か?もしもし〜?」
「もしもし母さんだけど…」
「姉さん、ドコにいるんだよ?」
 一斉にみんなの声が聞こえてくる。
「みんなちょっと落ち着いて。今しか話せないってワケじゃないんだから」
「神奈?本当に神奈なの?」
 私の声を聞いて母さんが大きな声を出す。
「母さん、だからちょっと落ち着いてよ。一つずつ順番に説明するから」
 こうして携帯電話による5人同時会話が始まった。順に説明すると言っても長くなりそうだ。一番早いのは最新版の「メーロン」を読ませるのが手っ取り早いだろうか。
 結局この日はだらだらと質問に答えながら楽しくおしゃべりをしていた。時刻は深夜の1時を回っている。
「ああ、もっと話していたいが父さんは眠いから切るぞ。本当に大丈夫なんだろうな?」
「うん、私に任せておいて。つかもう注文しておいたから」
 心配する父さんに私はそう返す。話の中で電話は不便だからパソコンを買えと言ったら高いだの操作がわからないなどと言い出したので私からパソコン一式をプレゼントするという事になった。オンラインで最新のノートパソコンを4台と家庭内無線LANなどの出張設定サービスも手配済みだ。かなりの額になったが上手くごまかした。
全国の銀行口座から端数をちょいと拝借して私の名前で口座を作りカードの存在しないカード番号を作り出した。その気になれば無尽蔵に資金は用意できるが、そんな事をしたらただでさえ傾きかけているこの国の経済に失礼だ。
その辺を考慮して流通している金の流れからバレないように少しずつ頂いた。こうして見てみると…実際の現金を用いないオンライン上だけの取り引きが驚くほどに多い。驚くほどの額が私の中を流れているが実際に現金が輸送される量など微々たる物だ。このまま行けば現金が完全にデジタル化される日も遠くないのかもしれない。現物主義者の為だけの見せ掛けの紙幣に…データ化されて電子の海を飛び交うリアルマネーか…私がその気になれば一夜でひっくり返るシステムだ。金持ちが強いというこの世の中なら私は恐らく最強の存在なのかもしれない。経済を巧みに操れば横暴な大国を経済的に破綻させて転覆させる事など造作もない事だろう。そんな回りくどい方法をとらなくとも…ミサイルの発射権限すらも今や手中にある。さすがにミサイルの発射スイッチはオンライン上には存在しないが待機中の潜水艦に指示を送る事はできる。その気になればの話だが…
 どうせならこの国を、楓を守るためにだけにそういう力は使いたい。私は支配者になりたくてここにいるわけじゃないのだから。
「そうか。お前にまかせる。こちらから電話をかける時はお前の番号にかけたのでいいのか?」
「番号とか入れずに通話ボタン押してみて。それで私が出るから」
「そうか、わかった。おやすみ神奈」
「父さんお休み」
「それじゃあ姉さん俺も切るよ。電池切れそうなんだ」
「それもう寿命でしょ?なんならタダ券送るから最新のヤツに買い替えなさいよ」
「新しいの覚えるの面倒なんだよ。タダ券よりコイツの代えのバッテリー送ってくれよ」
「…・在庫無いわね」
 私はネット内を素早く検索しそう答えた。もしかしたらオンライン外の小規模店舗の片隅に眠っているかもしれないが私に見える範囲には存在していないようだ。
「マジかよ…別にいいけどね。じゃあ、お休み」
 そう言って純一は電話を切る。
「神奈ちゃんは時間大丈夫?」
「私には時間とかあんまり関係ないし眠いとか疲れるってのも今はないから全然平気だけど楓の方こそ大丈夫?」
 最後まで電話を切らない楓の問いに私はそう答える。
「うん、私は大丈夫。夢なら覚めないで欲しいって思う事あるよね。だから…この電話は切りたくないの」
「そうだね。絶対の明日なんてどこにもない。この瞬間に隕石一つで滅んじゃうかも知れない世界な訳だし…ね」
「私ね、神奈ちゃんに言っておかなきゃいけない事があるの」
「私も一つだけあるよ。その為にここにいるような物だし…」
「神奈ちゃんから言って」
「うん」
 楓の言葉に私はそう答え少し間を開けてからゆっくりと言葉を紡ぎだす。
「私ね…楓のことが好きだよ」
 ようやく…口に出せた。かれこれ何百年想い続けていたかはもう忘れたけれど…想いは伝えられた。正直言って妙な気分だ。生きていれば恐らく心臓がバクバクいってる所だろう。肉体を持たない今の私にもソレに酷似した変化が訪れている。魂が…揺れているとでもいうのだろうか?
「それは私も同じだよ」
 さらっと返す楓に少々拍子抜けしたがこの反応は当然予想していた。全ての人間に対して楓ならそう答えそうだ。むしろ嫌いな人間の方が極端に限られるような気がする。同性である私のこの「告白」は俗に言う「愛の告白」とは受け止められなくて当然だろう。正直言って今すぐ逃げ出したい気分だけど…きちんと説明しなければ何の意味もない。私は今一度覚悟を決め真意を伝えようと口を開く。
「うん…そうなんだけど…私は楓の事を…愛してる。
そういう意味で…好きなんだよ。
ずっと…抱きしめてキスしたいって想いで一杯だった。それは今も変わらない…言えずに逝っちゃった事をずっと後悔してたし…
何百年生きても忘れる事なんてできなかったの」
 私は少々声を大きくして深く高く爆発寸前の海底火山のように募っていた想いをそのまま伝えた。後の事など考えずただただ正直にぶつかってみた。
妙な達成感にこのまま成仏しちゃいそうな感覚だ。
「それも含めて…同じだよ神奈ちゃん」
「え?」
「言ってくれれば私は…いつでも応えたよ。私も神奈ちゃんの事、ずっと好きだったんだよ。でもね…だから…絶対に嫌われたくなんかなかったの。だから、だからずっと言えなかったの。それは私も…ずっと後悔してたの。
今だって…純と一緒に居るのも神奈ちゃんと同じ匂いがするからなの。ただそれだけなんだよ…」
「楓…」
「わかってる。わかってるつもりだよ。いなくなった人の代わりなんてどこにもない。でも、それでも私はどこかに逃げたかったの。死ぬ勇気なんて私にはないんだもの」
「生きてて正解だよ楓。逃げる目的で自分から命を絶つなんて行為は…植物にも劣る。生きていれば、人としての魂でいられれば…またこうして話ができるんだから」
「…どこかで会えるかな?声だけなんて…辛いよ…」
「うん。楓の帰る場所は私が造るから。今はしっかり生きて、生きてから死んで。今の私にはそれしか言えないと思うから」
 私が自分の想い、自分の意思でここに来られたのなら…楓が自分の意思で私の所に来られても不思議はないと思う。私は楓がこの世界を後にする前に…あそこに戻ればいい。あそこで楓を待てばいいのだろうか。幸いあそこにはすぐにでも戻れそうだ。今私はこの世界にいると言っても窓越しに人の部屋を覗いているような感覚で意識はあそこに近い場所にあるような気がする。
「私ね…純にはホント悪いと思ってるの。あの人に優しくされる度に…胸が張り裂けそうなほどに罪悪感を感じるの…」
「私はちゃんといる。ドコって特定はできない状況だけど私はいるの。だから純に私を重ねる必要はもうないんだから…上手く言えないけど今を楽しんでいればいいと思うよ。思ってる以上にコッチは退屈な所だから」
 そう言って私は少し笑う。
「うん。そうだね…あ、そうだ。一つ聞きたい事あったんだ」
「なに?」
「タンスの中の服、もらってもいい?」
「いいけどスカートとマタニティー用はないよ」
「知ってる。私神奈ちゃんの部屋そのまま使ってるし、あ、ゴミは片付けたけどね」
「あは」
 正直自分の部屋が最後の時点でどうだったのかは正直思い出せないけど…大変な状態だったであろう事は容易に想像がつく。服は脱ぎ散らかしていただろうし…最悪何か腐っていたかもしれない。考えたくもないので考えない事にした。
「つか夫婦で違う部屋使ってるわけ?」
「うん。純も自分の部屋の方落ち着くみたいだし夫婦って言うより姉弟って感じに近いかも。ふふ、もしかして私が神奈ちゃんの代わりなのかな。純にとって」
「それは多分考えすぎ。でもまぁそうだとすればお互い様って事で気が楽になるんじゃない?」
「そっか。そういう事にするね」
 そう言って二人で少し笑った。数百年という月日を生き辛いことも楽しい事もあった。それらは決して忘れる事のできない私という魂の一部である事は間違いない事実だ。でも、今のこの瞬間の為なら全てを失ってもかまわない。そう思えるほどに…満ち足りた瞬間に今私は生きている。短絡的な答えかもしれないけど今が一番幸せなのだと思える。でもここで止まる事はできない。私の理屈が正しければ…まだ先はあるのだから。
「じゃあ、そろそろ切るね」
「もう?」
「長電話は体に悪いよ。妊婦なんだからしっかり食べてしっかり寝ないと」
「うん。じゃあまた明日ね」
「うん、また」
 そう言って電話を切る。さて何しようか。またどっかのオンラインゲームにキャラでも作って時間を潰そうか。肉体を持たず物質的な満足を得ることのできない今の私にとって唯一の楽しみといえば…外部との接触、なんらかのコミュニケーションをとる事くらいしかない。ネット上に散らばる無駄な「知識」を閲覧するのも悪くないが今やそれは私の一部であり欲しい情報を「探す」と言うのとは少し違うように思える。例えるなら「痒い所に手が届く」とでも言うべきだろうか?痒い場所は自分で探すのではなく自然に手が動くものだろう。私の置かれた状況では「見る」のではなく「知る」のが自然な行為なのだから。この世の全てとはいかないもののかなりの情報量と私の魂という物が直結している。
 3日後の昼過ぎに私の注文したパソコン一式が寺沢家に届きお店の人によるセットアップも完了し私の一部とも言えるネットワーク端末が最も必要な箇所に設置された。
 接続回線が細く高価なカメラも性能を発揮できない状況だが回線工事の手配も終わっている。その日の夜にはパソコンの前に家族が集まり私に懐かしい顔を見せる。
「こうか?」
 パソコンに接続されたマイクが純一の声を拾う。携帯のマイクに比べればかなり高性能だと言えるだろう。電話に比べれば遥かにノイズが少ないようだ。
「そこに手を置いたら前見えないでしょ。そそ、もうちょい右、そっちは左っ…下下、そこでストップ」
 ディスプレイの上に置かれたカメラの位置を細かく指示する。私の声はパソコンのスピーカーから伝わっていく。
「お、繋がったのか?」
 そう言って父さんがカメラを覗きこむ。正確には回線を繋いでパソコンに電源を入れた瞬間から繋がっているが、一応はテレビ電話用のソフトで繋がったように振舞っておこう。その方が多分わかりやすいだろう。
「ちょ…お前、それドコにいるんだよ」
「背景なんて気にしなくていいのっ。ここはどこでもない場所なんだから」
 ちょっと笑いながら聞く父さんに私は元気な笑顔を見せて笑った。ちなみに私は「パラダイス」と名前の付いた綺麗な海の画像を背景にして好んで着ていた黒いシャツ姿でそこにいた。
「こうして顔が見れるだけでもなんか安心するな」
 そう言って父さんは優しい顔を見せる。
「そうだね」
 私はそう言って笑うがディスプレイに映し出されている私の顔など、実際には存在しない虚像、ただの合成画像にしかすぎない物だ。しかしそういった「物理的」な何かに安らぎを求めてしまうのもまた「物理的」に生きている人間だからこその概念なのかも知れない。いや、そういった物に何よりも喜びを感じているのは私の方だろうか。
 この後は各々の相手を同時にこなした。ノートパソコンは一人一台あるのでそれらの設定とつもる話を同時に行った。父さんの相手をする私に母さんの相手をする私。純一の話も聞きながら私は楓とも話している。そしてそれらの私達を統括する私がある。これがマルチタスクってヤツかな。ながら族ここに極まるって感じだ。この調子なら世界中の人間だって同時に相手にできそうだ。
自室に移動した楓の背後に見える私の部屋は本当にそのままといった感じだ。無論清掃が行き届いており格段に清潔な印象こそ受けるが壁のポスターやベッドの位置など基本的に何もかもが懐かしい。
「いつからメガネかけてるの?」
「え?あ、うん。純と遊び呆けてたら目が悪くなっちゃって」
「ゲームばっかしてたんでしょ?」
「あはは、うん」
 そう言って楓は笑う。この笑顔、一度は諦めかけていた笑顔を、カメラ越しとはいえ再び見る事ができた事を私は素直に喜びたい。
不思議と…本当に好きな人の顔が中々思い出せない事があり色々ともどかしい思いもしていた。本当に大切なモノってやっぱり奥にしまい込んじゃうモノなのかもしれない。こうして「見る」事ができるって言うのは凄く…優しい事だと思った。写真の一枚でも心の支えに成り得るって事が良くわかった。
などとしんみり考えている裏では純一がオンラインRPGでのレアアイテムドロップを懇願している。ちっとは大人になりなさいよ…
こうして3年前に死んだハズの私は、オンラインでのみ繋がっていられる、言うなれば県外に引っ越した家族と言った感じの位置に返り咲く事ができた。陰ながら家族の役にも立てるであろうポジションだ。パソコン知識ゼロの母さんの代わりにネット上から料理のレシピを探したり父さんの代わりにビデオの録画をしたり…会えないと言う点を除けば昔と大して代わらない生活だ。そう考えると「会う」という行為にそれほどの意味があるとも感じなくなってきた。実際には会いたい。会って抱きしめたい。でもそれはタダの欲のようにも思えてきた。例え会って抱きしめた所で…心の距離には大差は無い。そう考えるようになってきていた。これが心理学で言う現実逃避、「すっぱいブドウのメカニズム」的な言い訳であるような気もするが…私は比較的現状に満足している。少なくとも今は、互いの存在を確認できるのだ。それで十分な気がしてきた。レクサスを始め他の人間として生きて来た数百年の間は楓の事は半ば諦めていた。忘れる事などできないとしても「もう会えない」という現実に魂を縛られていたような気がする。今は凄く…満ち足りている。そう思える。そしてソレは間違いじゃない。そう知っている。
できるなら…このままこうして楓と、その家族をいつまでも見守っていたい。直接触れる事は叶わずともこちら側からの電子的な干渉で十分サポートはできる。特に金銭面などでは存分に役に立てるだろう。でも…私の仮説、憶測が正しいとするならば…ここに長居している場合ではない。別れは辛いものだけどこの先の為に私にはすべき事がある。それがただの妄想、愚考だとしても…何もしなければ全てが手遅れになる。私はもう二度と何もせずに後悔する事だけは避けたいと思う。
 
私はパソコンのメール受信フォルダに書置きを残し上に戻る事を決める。

■件名■ 愛すべき家族へ
 また突然いなくなっちゃうけど許してね。
 私は上でみんなを待つ事にするね。
 私がこの世界に戻って来れたのは私を知る人がこの世界にいたからだと思うの。
 だから、私が上でみんなを待っていれば
 みんながそれを望む限りまた上で会える。私はそう信じてるよ。
ううん、違う。会えると知ってる。
信じるって言うのは疑わしい事を肯定的に捕らえながらも
否定的な気持ちが入っている時に使う言葉だと思うの。
だからみんなも、この私の存在を知っているように
その先も知っていて欲しい。
人と人との繋がりが魂の辿る道になる。
俗に言う「天国」とは少し違う場所だけど
俗に言う「地獄」でもないと思うから良かったら来て欲しい。
私は上で待っているから。

■添付ファイル■ メーロン 

 私は遺書のようにも見える文章と私の「これまで」を綴ったメーロン最新版を残し故郷とも言えるこの世界を後にする。まるでプールの底から水面に向かって浮き上がるようなイメージだった。肉体という楔がなければ世界間を移動するのも比較的容易な事のように思える。これも年の功だろうか。

「ただいま」
「もう。出たり入ったりしてると思ったら中々帰ってこないし。ちょっと心配したじゃないの」
「ごめん。それとありがと」
「へ?」
 そこは思った通りの場所で私の帰りを待つ人がいた。私が何度人として生き死を迎えようとココへ戻ってこれたのも…ここにルキアさんがいたから。私を知る存在がココにいたから。そして私はココを望んでいた。私はココしか知らないのだから。
「私ね、色々考えたんだけど…暫くはドコにもいかずにココにいるね」
「ん?どういう心境の変化かしら?」
「何もしないって事が誰かの役に立つかもしれないって思ってね。ルキアさんみたいに」
「え?」
 私の言葉にルキアさんは少々間の抜けた表情と声で返す。
「私がココにもどって来られるのはルキアさんがココにいるからだと思うの。私を知る人と私を待つ人、人と人との繋がりが魂の辿る道を、ううん、世界を…創るんだと思うの」
「私はずっとココで誰かを待ってるけど…私の知り合いなんて呼べる人は誰も来てないわ。今知り合いと呼べるのは…貴女だけよ」
「ここは天国でも地獄でもない。場所としての定義がないだけに人が来ないのも仕方がない事なのかもしれないよ。天国にも地獄にも属さなかった魂が通過する場所…なのかもね。でも誰かが…ルキアさんを望むなら…ここで待つ意味はあると思うよ」
「それも手遅れかな。みんながみんな貴方の様に何度も死ねる訳じゃない。生まれ変わりを望むなら…魂と呼ばれる意識は失われる。それが大多数の末路だもの…」
 そう言ってルキアさんは少し悲しげな顔を見せる。
「うん。普通は…その世界で一般的に語られる死後の世界ってのに逝っちゃうんだろうね。その死後の世界のルールに従って記憶のリセット、従わなくとも生まれ変わりを望むならあの地獄で魂は砕かれる。一回目の死後で出会えないと特定の人と出会うのは難しいかもね。だからこそ私には待つ義務があるような気がするの」
「義務?」
「うん。私は今まで生まれた世界にメーロンという名の種を撒いてきた。少しでもここに人が増えればと思ってね。でも…ここには誰も来る気配すらない。
だって、本を読んだ人が仮にここを目指そうにもここでその人を待つ存在がいないんだもんね。本に出てくる登場人物じゃなく…その世界に直接かかわった作者としての私の魂がここにいなきゃ…ダメな気がするの」
「そう。そう決めたのならそうすればいいわ。私も退屈せずに済みそうだし」
 そう言ってルキアさんは笑顔を見せる。私はこれからここで何年でも、何十年でも誰かを待とう。それが私にできる、いやしなくてはならない事なのだから。

「それにしても…退屈だね」
「ふふ、ここはそういう所なのよ」
 私の言葉にルキアさんはそう答えて笑う。正直言って私は待つ事が大嫌いだった。常に動いていたい性分なのだ。昔から。4日で届く荷物を待つくらいなら片道3日かけてでも取りに行きたい性格なのだ。何もせずに待つというのがとにかく苦手だ。 
「退屈だし世界でも創ってみる?」
「世界?」
 私の言葉にルキアさんはちょっと笑いながら問い返す。
「そう、だれか来るのをじっと待ってるのも暇だしね」
「…私もソレは考えたわ。椅子やテーブルみたいに物を作る感でヒトを作れば…ここも賑やかになるかもってね…」
 私の言葉にルキアさんは少し物悲しげにそう答えた。
「それはわかってる。自分の見ている夢のなかで他人を作るのは難しいよ。形を真似ることはできても肝心の中身が伴わない。それはよくわかってる」
 ルキアさんの言う事に私も少なからず心当たりがある。私が夢の中でどれだけ楓を望もうとそこにいる楓は楓じゃない。楓の姿をしたリアルな人形に過ぎない。その気になれば今ここに楓を、オリネアさんにキティー、私の人生を支えてくれた多くの人々の「姿」を作り出す事は容易な事だ。私がここで自由に姿を変えられるようにその形自体には何の意味もない。結局は中身なのだから。
魂という中身を用意できなければ器は器、決して個々の人格を成すことなどない事は私も良く知っている。
「じゃあ?」
「言葉の通り世界を創るんだよ。必要なのはヒトが育つ環境。魂が地獄でリセットされたとしても生まれた環境が新たな魂を作る。それは事実だよね?
ゼロからヒトを育てるのは周囲の環境なんだから、環境さえ整えばソコに新しい魂が生まれても不思議はないでしょ?眺めてるだけでも暇は潰せそうだし…上手くいけば遊ぶ場所くらいにはなるかもしれないよ」
「ふふ、神様にでもなるつもり?」
 少々早口で熱く語る私にルキアさんはそう言って少し笑う。
「神様を造るのはヒトの心だよ」
「そうね。する事もないからやってみましょうか。でも何から手をつけていいかもわからないわね」
「なんとかなるって。一組の男女から世界が始まる神話は山ほどあったから」
「女の子2人だけどね」
「ここじゃ性別も無意味だよ」
「そうね」
 こうして私達の「世界創造」は行き当たりばったりにスタートした。何の知識もないが時間だけはある。試行錯誤の末でもなんでもいい。結果としてそこに人の住む世界ができていれば成功だと言える。
 私はまず白一色だったこの世界を自分達の足元を円形に直径20メートルほど残しを黒一色に塗り替えた。足元の「白」も大理石風にして周囲に低い策を儲けビーチサイドにあるような白いプラスチック風の丸いテーブルと椅子を2脚用意した。イメージとしては宇宙に浮かぶベランダだろうか。そして周囲に適当に小さな星を配した。
「綺麗ね…」
 椅子に腰を下ろし周囲を見回しながらルキアさんが声を漏らす。
「うん。でもまだコレじゃタダのプラネタリウムだよ」
「どれか一つを太陽にして惑星を配置するのね」
「そう。残りは全部飾りでいい。ヒトの文化レベルってのが上がれば観測を通じて飾りの星々にも勝手に意味を見出すと思うの。世界って案外いいかげんなのかもね」
 ルキアさんの言葉にそう返しながら私は席に腰を下ろし適当に配置した星空を見上げる。私は適当な星を前方に四角く区切った枠内に拡大表示する。SF映画に出てきそうなホログラム映像とでも言えばいいのだろうか。テレビの画面だけが宙に浮いているという感じで。
「この星でいいかな?」
「いいと思うわよ。その星がどの星かもわからないけどね」
 そういって画面を見ながらルキアさんは笑ってみせる。
「確かに…。画面で区切ってこの中で作業するんなら周りの星はタダの壁紙だね」
「いいわ。始めましょう」
 ルキアさんはその赤く輝く恒星から少し離れた場所に水と緑の惑星、教科書通りの「地球」を一つ作り出し太陽の周りを周回させてみる。
「なんか、それっぽくなったわね」
「ソレじゃだめだよ。時間はあるんだから急がないで」
「え?」
「これじゃタダの地球の映像だよ。緑色の部分は植物って設定なんでしょ?」
「うん、そのつもりだけど?」
「その植物がどんな花をつけて、どんな実をつけるのか、葉っぱの形や大きさ…そこまでちゃんと考えてる?」
「あ…そうよね。これじゃ私達が見てるだけのタダの緑色よね…」
「原始地球ってのを形なりに作れば…後は適当に作った簡単な生物が環境を作ってくれると思う。タダ分裂して増えるだけの簡単な生物でもね」
 私はそう言ってその星から緑色を取り除く。
「それならちゃんとゼロから始めましょうよ。原始地球に海はいらないでしょ?」
「え?そうなの?」
 ここで私とルキアさんの持つお互いの「常識」がぶつかった。私は学校で原始地球の生物はまず海から生まれ酸素を作り出し植物が育つ環境ができたと習った。最初の世界と3番目、あと7番目の世界でも同様の説明を受けそれが正しいと思っていた。他の世界は文明レベルの都合上世界を創ったのは神という説明に留まったが…
 ルキアさんの生きた世界ではそこからさらに突っ込んだ理屈が定説となっていたようで私が学校でならった原始地球の姿は「古い学問」らしい。
ルキアさんが習い得た知識だと地球には最初海が無かった。内部の水分が、コアとは呼べない浅い深度に眠っていた初期の構成成分である氷が溶け出し海を作った。地球は徐々に膨張しておりそれが原因で表面を覆っていた大地が裂け大陸を海で分かつ形となったと言う。
 ルキアさん曰く人類が生きた「1G」と呼ばれる標準の重力下では恐竜のような巨大生物は身動き一つ取れないという。恐竜は絶滅したのではなく膨張する地球の重力に合わせて体を小さく進化させて生き続けているのだという話だ。
「なるほど…」
「言っとくけど私は学者じゃないわよ。これは中学校で習った知識。地球膨張論って言われてたけど詳しくはわからないわ」
 とりあえずソレでやってみる事にした。地球の内部は熱いとか地殻が動いているとかそういう小難しい事は抜きで氷を土で包んだだけの天体を用意し太陽の周囲に何個か配置した。太陽に熱という概念を与えるとどうなるのか…複数の地球候補を配した状態で実験開始だ。
「太陽の熱エネルギーは距離の2乗に反比例で良かったんだっけ?」
「そんなのは気にしなくていいんじゃないかしら?再現も大事だけど私達は新しい世界を創るんでしょ?」
「そうだね…太陽の温度も適当でいいか。とりあえず太陽は熱い。理由は観測者に考えてもらおっと」
 宇宙空間は低温で無重力、恒星は熱く惑星はその引力で周囲を周回する…そういった知識を設定として組み込み、なんともうそ臭い太陽系は太陽という適当な熱源の周りを周回し始めた。このままちんたらと何千年、何万年と待っているのもバカっぽいので時間をコントロールする。録画したビデオを早送りするように。
 熱源に近すぎた星は土も含めて全て蒸発しガスとなった。そのガスは太陽風によって宇宙空間を漂い続け距離が離れると冷えて固まる。
それらは彗星となって飛んで行ったり他の地球候補の星の重力に捕まって衛星となった。太陽に近すぎた星のいくつか時間差こそあったものの結果的には文字通りの「星屑」となってしまった。ちょうど良い距離にあった星が私達の望む結果を見せてくれた。
熱せられ水蒸気となって溶け出した水分が大気を作り温度調整を担った。熱膨張により海がせり出し大地が押し出されていく。
その過程で大地には無様なシワが寄っているようにも見えたがあのシワの一つ一つが巨大な山となってその星の気候を左右する一因とも成りえるのだろう。
 気が付けば勝手に緑が繁殖し小さな生物が発生していた。
「あれ?種なんて蒔いてないのにね…」
 ルキアさんが首を傾げながらそう呟いた。確かに…海ができたら簡単な生物、自己増殖するだけの寿命を持ったプログラムを放つ予定だったがソレらは勝手に発生し進化を続けている。初期の段階で氷にそういった要素を入れた記憶もない。思い当たる点があるとすれば一つだけだ。
「これが…カオスかな…」
「カオス?」
 私の言葉にルキアさんが声を上げる。
「そう、どこにでもある例外だよ。そこが完全な無でない限り…例外は必ず存在する。
いかに考えを巡らせて可能性を何千、何万と模索しようと例外はその外からやってくる。いい意味でも悪い意味でも人間の期待を裏切るのがカオスなんだよ。
そこに簡単な意識、魂って呼べるような物が芽生え、何度も生き死にを繰り返しながら魂の大きさに適した器に移っていくんじゃないかな。
単細胞生物から多細胞生物へ、多細胞生物が植物と動物に…ってね」
「今回は良い意味のカオスかしら?」
「そうかもね。お陰で手間が省けた」
 私はそう言って軽く笑ってから緑の芽生えた星にさらなる時間を与える。他の星はほったらかしだ。温度が足りず大気が希薄な星や公転の最中にバラけた星もあったが気にしない。環境の微調整は後だ。今は唐突に生まれたカオスの様子を見守ろう。
 それからかなりの時間を進めてみたが人類と呼べる存在が発生する事はなかった。教科書とは微妙に違う進化の過程から様々な種が生まれるものの文明という物が発達するには至らずそのまま星の寿命を向かえ期待していた地球候補はボロボロに崩れ星屑となった。
海に発生した生物が陸に上がり両生類や爬虫類、鳥類そして哺乳類へと変化していく過程は私の知る進化論に沿った物だったが猿が自然と人間になる事はなかった。
「ありゃりゃ」
「上手くいかないわね」
「神は自分に似せて人を創ったってのも間違いじゃないかもね」
「どういう意味?」
「あのサルみたいな生き物をちっとばかり改造するのもアリだよね」
 私はその星の時間を哺乳類発生の時期まで巻き戻し一部のサルに改造を加えた。二足歩行と発達した手、あとは脳の容量をちっとばかし多くして火を恐れないようにプログラムを改竄してみた。擬似的に作り出した類人猿は徐々に知恵を付け経験から学んだ知恵、それを後世に伝えるが為に言語を操るようになっていった。
「これが後にいうミッシングリンクなのね」
 そう言ってルキアさんは苦笑する。
「案外こういう外部からの改竄がカオスって呼ばれるモノなのかもね」
「どこにでもある例外、それがカオス…便利な言葉ね」
「まったくだね。確認できない物にまで名前を付けたがるんだから…」
この後ももうしばらく時間を進めてみた。文明レベルが向上し凄い速さで森が切り開かれニョキニョキと家が建ち街を形成していく姿は理科の時間に見た発芽の早送り映像のスケールアップ版のようで見ていて面白かった。
藁葺の家からなる集落が石造りの国家に発展し科学が生まれ高層ビル群に姿を変えていく。高度に発展した科学は宇宙へとカオスを拡散させていく。ただの土くれだった地球候補の成れの果て惑星も観測者の定義付ける常識によって姿を変え続け彼等の常識に沿う形に落ち着いていく。私達の定めた常識、いやルールと呼べる物意外はそこに生きる人の手によって作り変えられていく。何もかもを彼らに委ねるのも面白いかもしれないが地球は丸い。これだけは守ってもらわないと地域毎に世界がバラバラになりそうだ。永遠に死にたくない、自由に空を飛びたいなどの短絡的な望みを絶つ事によって不自由が生まれその結果私達の望む「現実」が完成しつつあった。
こうして、箱庭と言うには規模の大きい一つの宇宙が動き出す。
 タダの背景だった星空に意味が見出され星雲、銀河と言った彼等の望む常識に沿って世界は回り始める。今までなら私達が知覚する物意外に存在価値はなかった。仮に私とルキアさんが席を立ち椅子とテーブルに背を向ければ椅子とテーブルはそこに存在する必要が無くなってしまう。必要としていないからだ。でも今はそこに誕生した人類から目を背けようとそこに生きる人々が自分の意思で世界を維持できている。これはこの世界に私達以外の意識が存在する明確な証拠に他ならない。
「現実なんてものは案外いいかげんなモノなのかもしれないね」
「そうね。そこに生きる人間には現実でも、私達から見ればタダのプログラムにデータってトコロかしら?」
「うん、例えば…あの銀河。観測者である人間から見れば何億光年と離れているワケだよね?仮に今あの銀河を消し去っても…
観測者の常識から消え去るのは数億年先って事だよね。ありもしない物を何億年も見続けるワケだ。これって凄くバーチャルだよね…」
「そこが仮想か現実かなんてどうでもいい事なのね。問題なのはそこをどう認識しているかって事なのかもしれないわ」
「そうだね…そこがドコだろうと…現実は現実なんだからね」
「さて、何する?」
「そうだね…本を読むのもいいし映画もいいかも。一緒にオンラインゲームでもやってみる?」
「神奈ちゃんの書いた本を読む事のできた人は幸せね…自分の行き先を自分で決められるんだからね」
「どうだろ…死んだ記憶の無い人には鵜呑みにするには怖い話だからね。それに本にはそこまで書いてないの」
「そうなの?」
「うん。そう介錯する事はできるかもしれないけど…私が人と人との魂の繋がりを意識したのは一つ前の世界。自分の生まれた世界に戻った後だから…私がここで待つ事によって仮説が事実になるかもしれない。
私ね、ただ何もせずに待つだけってのが嫌いだったの。生きている以上少しでも、何かして前に進まなきゃってずっと思ってた。
でも今は…何もしないでただココにいるって事が、もしかしたら誰かの役に立つのかもって思えてる。止まる事が前に進む為の手段なら…私はここに留まるよ」
「ふふ、もしかしたら私は神奈ちゃんを待っていたのかもしれないわね」

 こうして私達は一つの世界を娯楽として楽しみながら日々を過ごした。この世界の一日が他の世界の一日に相当するかどうかなんてわからない。でも一つの世界が目の前で動く事によってここにいる私達にもそれとなく時間という概念を感じさせてくれる。空腹も疲労もないこの世界にただ時間だけが流れて行く。
 それから暫く…どれくらいだろう…それは考えないようにしていたけど最初のお客様が現れた。そのお客様が私やルキアさんと同じく用意された死後の世界を拒否したイレギュラーな存在なのか私の書いた「メーロン」という招待状に導かれた客人なのかはわからない。でも私達は精一杯の笑顔でその客人に声をかけた。
「こんにちは。アナタが一人目のお客様だよ」


終章・維持する者と集う者、継がれる意思と進む意思

 ここへ来てどのくらいになるだろう。最初は一つだった「世界」も今では数え切れない程に増えている。そして今後も数を増していく事だろう。最初は足場のみを残した限られたスペースを宇宙が覆っているというイメージだったが今では白を基調とした巨大な映画館のロビーのような姿に変わっている。無数に存在する「受付」の上にその世界の主要都市の映像が映し出され訪れた客人は自分が「生まれ変わり」望む世界の列に並ぶ。ここに訪れる多くの魂は俗に言う「近代」の出身者が多いようで幻想的なファンタジー世界の人気が高い。「生まれ変わり」と言うよりは望む世界に望む姿で遊びに行けるのだ。しかしながら望む人間全てをその世界に送り込んだのではその世界が破綻しかねないので入場制限および世界の増設という形で対応しているものの需要に追いつかないほどにこの世界を訪れる魂の数が増大している。
「ファンタジー世界フェルバール入場の最後尾はこちらでーす。現在の待ち時間はおよそ200人生でーす!赤ん坊からのスタートの場合は容姿、性別、家庭環境等を選べませんが待ち時間無しですぐに入っていただけまーす!」
 と、叫んだ所で赤ん坊からのスタートを望む人は皆無だ。皆自分の望む容姿で遊びに行きたいのだろう。そこに生きる意志と呼べるモノがあるのかどうか疑問だ。
 この長蛇の列に並ぶ魂全てがバカに見える。肉体という呪縛から解き放たれ自由な精神体となっておきながらも物質主義を捨てる事ができない愚か者の列だ。ここはいつからそういう場所になったんだろう。どっちを見ても若き美男美女の列ばかり。何故にその物質主義を棄てる事ができないのだろうか?ここは上なんかじゃない。むしろ下に位置する。そんな場所に文字通り成り下がってしまったように感じる。
「これが姉さんの望んだ世界の姿なのか?」
俺は誰にも聞こえぬ声でそう呟いた。今となっては確認する事ができないのだが…
俺は、俺は違うと信じたい。
「純一さん、交代しますよ」
「あ、オリネアさん。ルキ姉は一緒じゃないの?」
「ルキアさんはまだ生きてるみたいですね。私はちょっとヘマして死んじゃいました」
 そう言ってオリネアさんは笑う。姉さんの小説の描写とは異なり、ギリギリ結べる程度の黒髪を後ろで一つに束ねた小柄で丸メガネの女性の姿をしている。歳は30歳前後と言った所だろうか。茶色いズボンに薄黄色のシャツ、完全に地味なお姉さんと言った姿だ。これもまたオリネアさんの歩んだ人生の一つの姿なのだろう。
「そっか。そいじゃ俺も遊びに行ってくるかな」
「フェルバールは中々面白い世界でしたよ。キティーを誘って行ってみたらどうですか?」
「俺さ、外に行こうと思ってるんだ」
「外…ですか?」
「そう。この世界の外にね」
「正直オススメはしませんよ。外だとこちらからモニターできませんし…」
 オリネアさんはそう言って少し難しい顔をする。
「大丈夫だよ。姉さんにできたんなら俺にだってできるさ。それにオリネアさんやキティーだってココにくるまでに随分遠回りしてんでしょ?」
「それもそうですが…」
「ここにある世界に遊びに行くのも悪くはないけど…本当の意味で少し生きてみようと思ってね。大丈夫、ちゃんと戻ってくるから」
「お気をつけて…あ、戻ったら一緒に遊びに行ってくれますか?」
「ああ、戻ったらね。姉さんの顔見てから行くよ」
 俺はそう言ってオリネアさんに背を向ける。
「じゃあ行ってくるよ」
 俺は楓と抱き合ったまま完全に停止してしまっている姉さんに向かってそう言って深く息を吐く。ルキアさん曰く俺より少し先に来た楓と姉さんは抱き合ったまま止まってしまったと言うことだ。2人が止まってしまった後もメーロン信者はココへ訪れている。止まっていてもその存在はこの世界留め続けその役割は果たし続けているようだ。2人がどういう状況なのかは俺にはサッパリわからないが…それが2人にとっての自己実現ってヤツなのだろうか?
 60年連れ添った嫁さんを姉にかっさらわれるとは夢にも思わなかったが楓が幸せならそれでいい。少々負け惜しみのようにも思えるが…望みがかなった末に待っているのが完全な静止だとは俺は思いたくない。
 単細胞生物が生死の繰り返しの中から何かを学び多細胞生物という「上の」器を得るようにヒトもまた…その上があると思いたい。俺はヒトが霊長などだとは思っていない。止まってしまっては前には進めない。そうだろ?姉さん…
 俺は進み続ける。何度人として生まれようとも道は自分で切り開く。俺の魂がヒトの器に収まりきらなくなるその日までは外で何かを学びたい。
 俺は…止まりたくない。生きている限り進み続ける…そういう性分なんだ。

                                       了

「5月と言ってもまだ冷えるな」
 私は2階のベランダの柵に身を寄せて胸ポケットから取り出したタバコに火を付けながら側の娘にそう言った。
「うん。天気はいいんだけどね」
 娘はそう言って空を見上げる。僅かに雲は見えるがその合間から多くの星が見え月も明るく輝いている。
「今日洗車したからな…明日は雨かもしれんぞ」
「そうかもね」
 苦笑交じりにそう答えながら娘は私の横に移動しベランダから街の明かりを眺めている。
「お前は…私の本は読んでいるな?」
 私は娘に向かってそう口を開いた。言わぬが華という言葉もあるが…話す時期が来た。そう判断し夕食後に娘を2階のベランダに呼び出した。
「うん。メーロンでしょ。何回か読んだ」
 娘は視線をそのままにサラリと答える。これから話す内容に関してある種の覚悟ができている。そんな表情のようにも見て取れた。
「正直…ここまで上手く行くとは思っていなかった」
「私の事?」
 娘はそう言って優しい顔を見せる。
「お前も、純一も…だ。設定通りの誕生日に生まれ望むままの姿に成長した。そしてその容姿までもが…な」
 私は娘の顔をまっすぐに見据えてそう言った。
「それがしたくて…小説家なんて仕事を選んだんでしょ?世の常識、それが現実を作り出す。口癖みたいに言ってるじゃないの」
「まぁ…そうなんだがな」
「その『まぁ』も口癖だよね?」
「そうだな」
 私は苦笑する。娘は私以上に私を知っているような気がしてきた。
「でも…全てが父さんの設定通りでもないよ」
「例えば?」
 私の言葉に娘は少し黙った後、私の方を向いてゆっくりと口を開いた。
「私は女の子が好きなワケじゃないし同級生に笹川って子はいないよ」
「そうだろうな。さすがにお前の同級生までは私にも用意はできんさ。
まぁ…北東の方には笹川って苗字も多いと聞いてソッチに家を建てようかと真剣に考えていた時期もあったがな。それに楓って名前は結構多いんじゃないか?」
「神奈も純一も結構多いけどね」
 そう言って神奈は苦笑する。
「楓はいくらいてもいい。だが…神奈はお前一人で十分だ」
 私は空を見上げながらそう呟いた。
「クラスの男子に興味が無いのは認めるけどね」
「馬鹿しかいないか?」
「うん。自分以外は見下せ、賢者は愚者より学ぶ。そう教えたのは父さんでしょ?」
 そう言いながら神奈は腕を組んで不機嫌そうな顔でそっぽを向く。
「そうだな…自分の価値観で動けばいい。自己中でかまわない。自分以外、それは親であれ子であれ…他者には違いない。全てを利用し犠牲にしてでも…自分の夢、自己は貫くべきだと父さんは思う」
 どれくらいだろう。1分か2分か…少しの沈黙の後神奈が口を開いた。
「私が…クラスの男子に興味がないのは…全部父さんのせいだよ。父さんが好きだから…父さんよりイイ男なんて居ないの知ってるから…恋なんてできないんだよ」
「それでいいんだよ神奈ちゃん…貴女の楓はここだよ」
 私はそう言って優しく微笑みかける。
「父さん…?」
「私は貴女の為なら全てを利用するし犠牲にもできる。私は貴女だけを愛してる」
「父さんが…楓?」
「話の通りのハッピーエンドなら私はここにはいない。それに作者の名前は背表紙に書いてあるでしょ?
貴女を主人公にして書いたのも貴女を得る為の手段の一つ。結婚も同じ。寺沢の苗字が欲しくて好きでもない女の所に婿入りした。そして今まで…必要だから良き夫良き父を演じてきた。ただそれだけだよ」
「…父さんを独り占めしてる母さんに嫉妬してた…でも今は軽く同情してるかも」
 神奈はそう言って苦笑する。
「あの人は…全てを知った上で私に協力してくれた。ただ純粋に私の事を愛してくれた。ただそれだけだと思うよ。私が貴女の為になら何でもできるように…ね?」
「私は…何をすればいいの?」
「そばに居てくれればいいよ。それで…今は幸せだから」
 私がそう言うと神奈は私に顔を寄せキスしようとして…やめた。
「今は母さんに貸しとく。長くても60年我慢すれば…父さんは永遠に私の物だよね?」
「そうだな」
「だったら…我慢しとく。永遠に比べれば1000年だって待てるよ」
 そう言って神奈は笑う。私は喉元まで出かけていた言葉を飲み込んで神奈に向かって微笑み返す。できれば…これで終わりにしたい。
 でも…そんなに簡単な事じゃないんだよ…私の書いたメーロンは8冊。それはそのまま8人の神奈…
 そろそろハッピーエンドにして貰いたい。


2005/12/11(Sun)07:29:26 公開 / 笹川かえで
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