『今を歌う僕たちに act.1〜6』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:十魏                

     あらすじ・作品紹介
 ひょんな事から始まった、青年と少女の奇妙なふれあいの物語。

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 こんな辛い世の中で、それでも僕たちは今を歌い続けるんだ



『今を歌う僕たちに』

act.1


 見た瞬間、超ラッキーって思ったんだ。
 後から考えれば、全くもって馬鹿な話だけど。


 "有望な若者たち、君らには未来がある"

 どこぞかの政治家がテレビで言っていた言葉を思い出し、気分最悪。
 四ヶ月前、三月の終りに19を迎えた俺。同級生の中には20になった奴も居るが、まぁとにかく今年で成人式な俺はきっと、アイツの言う「有望な若者」真っ只中。
 はっきり言って超メーワクなんだよな、あの考え方。確かに世の中不況で、世界に飛び出せば戦争、紛争、内戦、難民。その世界の中心に居る親父達のあの言葉は痛いほど身に染みるけどさ。
 忘れないで欲しい。俺らも、今現在、この世界に居るんだってコト。
 自分達だけ苦しいって思ってるんじゃないのか? アンタの言う「有望な若者」も充分、この苦しい世の中で苦しんでるんだよ。未来なんて、まぁ確かにあるさ。でもそれが明るいなんてだれがわかる、むしろ暗い保証は出来そうだけど。

 "まだ若くて先もあるのにねぇ、何でそんな自分の未来を壊すような……"

 オバサンの言葉が耳につく。
 ふり向いてみて、電気屋の前に設置されたテレビの音と気付く。昼間のワイドショー。二日前に捕まった、連続放火犯の16歳の少年のニュース。
 単なる放火だった、だけど三回目の放火で人が死んだ、二人。6歳の子供が一人で留守番していたところに放火したらしい。夜中の放火事件なのに、一人で留守番している6歳の子供なんて妙な話だ。子供を助けようとして飛び込んだ近所の男性も、大火傷を負い、数日後に死亡したらしい。大して興味なかったニュースだけど、ボンヤリと見てしまっていた。
 少年は進学校のエリート少年。大人しくて、頭が良くて、友人もそこそこ多かった。だけどそれは表の顔で、裏は放火犯だったなんて。まるでこの世の中を象徴してるみたいな話で笑える。表は平和に見えるこの街だって、裏では何が起きているかわからないんだから。
 そんなコトふと思って、馬鹿らしくなってその場から離れた。
 一度も、死んだ子供――6歳の子供を、一人で留守番させてた両親の話は出てこなかった。

 この街は実際、平和でも何でもないだろう。あのテレビだって、いつ盗まれるかわからない。それを思って、前にダチが言ってた言葉を思い出した。

  「なぁ何でこのへんの車屋って外で売ってないんだ?」
  「はあ? 外でってナニがだよ」
  「車屋の車ってさ、フツー外に飾ってあるじゃん」
  「マジで?」
  「俺んトコはそーだった」

 ソイツは地方から大学の為に上京してきた奴だった。俺は大学行ってないけど、バイト先で知り合った。結構イイ奴だし気も合う。俺らのバイト先の居酒屋は飯も食わせてくれて、飯を食いながら奴はそう言いだしたんだ。心底、不思議そうな顔で。

  「そんなんさ、外に車置いといたら盗られるに決まってるだろ」
  「まさかぁ、別に鍵付けとくワケでねーし……あ、付けてあるのもあるか」
  「盗られなくてもさ、傷付けられるジャン?」
  「あー……成る程なー考えた事も無かったそんなコト」

 言って奴は照れたように笑った。
 金髪にピアスに刺青。傍目はめっちゃイマドキな兄ちゃんかもしれないが、その笑顔は純粋だった。それに思わずこっちは苦笑、オイオイおめーそんなんじゃぜってーヤバイって。よくもまぁ恐喝とかされたりしなかったよなぁホントに。
 思ったけど、ソイツの無邪気さは貴重だと思ったから言わなかった。

 奴には純粋なままで居て欲しい、俺のようにはなってほしくないから。

 この街のようにはなってほしくないから。



 そこは、路地裏の道だった。
 一台のまだ新しいワゴン車。何気なく横を通って、ギョッとした。鍵が付いてて、助手席にはブランド物の鞄。
 オイオイ、マジかよ?
 はっきり言って一瞬呆れた。こんなの、盗ってくださいって言ってるようなものジャン。大方どこぞの若奥さんでも運転していたんだろうな。で、買い物終わったあとに、買い忘れか何かで慌てて降りていったってあたりか。助手席に置いてある、表通りの店の紙袋を見て思った。周りは静かで、人通りも無い。

 ――これ、結構……いや、かなり良い車だよな。

 まだ新しいし、上手くすりゃ軽く五十万……七十万は値が付きそうだ。自慢じゃないが、裏稼業に精通な友人は掃いて捨てるほど居る。勿論、幹部とかでその世界の奥深くに潜り込んでいった奴等も。まぁカッコいい言い方しても、要はヤンキー集団とかいうヤツだけど。そして、そいつらに売れば、普通に良い値で買い取ってくれるわけで。

 …………。
 考えるまでも無い。俺は運転席のドアに手をかけた。


 そう、こんなチャンス滅多に無い。
 そう考えた瞬間、俺は超ラッキーって思ったんだ。

 自分のこの先の運命も知らないで。



 思った以上に乗り心地良いシートに沈み込んで、ハンドルを回した。とりあえずは街に出て、雑踏の中を走らせる。
 アシがつくとヤバイ。高速に乗ろうか、それともゆっくりとこのまま田舎の方に向かうか。いずれにせよ、誰かに連絡とって、この車買い取ってもらう段取り付けねぇと。それに鞄の中身も確かめたいし。通帳とかは使うとヤベェし手出したくねえけど、もしかしたら現金が入ってるかも。宝石とかブランド物の時計があったら、それも買い取ってもらうか。

 ……ふと、思う。
 バッカみてえ、なんて。俺は別に金に困ってるわけじゃない。

 平日は居酒屋でバイト、土日はクラブでDJとして雇われている。両方とも割に良い収入だと思う。それに加えて、腕にも覚えがあるからそれも結構金になる。っても脅して金取るとか、そんなダセェことはしないけど。
 いわゆる用心棒……でもないけど、まぁ抗争とかの助っ人ってヤツ。でも弱いからって俺に頼るような奴らには俺は雇われてやんないんだけど。
 本職じゃねぇし、だからやむを得ない事情があるときオンリーって決めている。何にせよ俺は暴れられるだけでスッキリだし金は期待してねぇんだけどさ。でも俺がいらねぇって言っても立派な金額を渡してくるヤツは多い。
 つまりは、あれ。この世界のやつらってさ、強いヤツほど律儀なヤツが多いワケだ。貰った恩は必ず返すってな。そーゆーのは、キライじゃねぇけどな。

 まぁ、そんなわけで収入は充分。普通に暮らしてそこそこ遊んでいける金はある。じゃぁ俺は、何でこんな無茶なことしてるワケ? 
 まだ中学高校のガキだった頃は、金欲しさにそれなりに法には触れてたケドさ。今は金があるのに。金のために法に触れるようなリスク犯す必要は無いのに。

 ――――だってさ、何かムカついたんだ。
 この街が。この世界が。

 何かわかんねぇけど、イライラする。
 完璧なものとか綺麗なものとか幸せなものとか、そういう、俺と遠い世界が。

 全部、見えなくなったらいいのに。


 そして、汚くて醜くて真っ黒な俺たちは、泡のように消えてなくなってしまえば良いんだ。



act.2


 街を少し逸れて車を走らせ、俺は田んぼ道に出た。
 今更バカみてぇと思ってもやっちまったモンはしょうがない。ここに車放置していくのもそれこそバカだから、なら後は行動あるのみ。
 周りを見回した。見渡しのきく道、他の車は前後左右見当たらない。俺は車を止めると、大きく息をついた。とりあえず。誰かに連絡をとるか。
 ポケットからケータイを引きずり出して、メモリを検索する。
 中学以来の悪友や部活の顧問だった熱血体育教師、高校時代のクラスが一緒だっただけの奴や、顔も思い出せない女の名前。俺のメモリは連絡の取る取らないは別としてムダに情報が多い。
 検索結果、俺の目的はコーコーセーのときに知り合った奴。確かコイツとは、グループ抗争の助っ人かなんかで知りあったんだっけ。
 同じ歳の割に幼い雰囲気の。人懐っこくてやんちゃな奴、俺とは何だか気が合って。あまり会った事はなかったけど、会う度に朝まで遊んでた。ぼんやり思い出しながら、番号をコールする。
 ――そういえば。会う度に遊んではいたけど、コイツと“この次会う約束”はしたコトねぇかも。偶然会ったら遊ぶ、そんな仲だったような気がする。まぁある意味、薄っぺらい約束でつながってる関係よりは、そっちの方がよっぽどいい気もするけど。薄っぺらい約束だけで繋がっていたような、過去につきあった女を思い出して、俺はちょっと苦笑した。

 三回、四回。
 呼び出し音が鳴る間、ぼんやり田んぼの風景を眺めていた。田んぼの側にある小さくて古ぼけた神社の方からは、蝉の鳴き声が車の中まで響いてくる。現在、街中に程近いアパートに一人暮らししてる俺にとって、こんな風景は結構新鮮だった。ぼんやり眺めた風景の中で、田んぼと田んぼの隙間にあるあぜ道に腰掛けて、かなり年取ったばあちゃんとじいちゃんが作業着姿でおにぎりを食べている姿が目に入ってきた。他は人っ子一人居ないため、そこだけぽっかりと浮かび上がったみたいで。絵本から切り抜いたようなその風景、思わず見入ってしまったその時。
 RRRRRR……プツッ。
 多分、六回目か。呼びだし音が切れたと思った瞬間だった、

『キョウちゃん!?』

 子犬の吠えるみたいな声が響いて俺は思わず電話を耳から遠ざけた。この声、うん確かに懐かしいけどさ。
 いきなり叫ぶのはダメだろオイ。

「うっせーよ、スグル。叫ぶな」
『あっワリ! え、でもキョウちゃん!? マジで!? めっちゃ久しぶりジャン、どしたのー!?』
 キャンキャンと騒ぐ声は相変わらず。変わらないコイツに何だか嬉しくなる。
「ホント、あいっかわらず犬みてーに元気だなぁスグルは」
『ったりめーだっての、斎藤俊20歳! 元気とバイクの運転だけは任しとけ!』
「元気は特技に入れていーのか?」
『いーの!』
 相変わらずすぎる。俺は思わず笑い出してしまった。でも待てよ、サイトウスグルニジュッサイ……20歳?
「お前、もう誕生日迎えたんけ?」
『あ? 俺の誕生日は十一月。ポッキーの日だよぉキョウちゃん』
「あぁ確か昔もそう言ってたよなぁ……んじゃきくけど、何で誕生日前で20歳なのよ。お前俺とタメだろ?」

 …………。

『間違えた!!』
「自分の歳を間違えんな!」
 ホントに変わらない。コイツと話してると何か色んなことがどーでもよくなる。
 悪い悪い俺タブン早く大人になりたいのよ、なんて笑いながら言ってくるその表情はきっと、昔と変わらない無邪気なもの。だけどコイツは無邪気でも、俺のバイト先の奴みたいに染まってないわけではない。……いや、コイツはもしかしたらこんな穴奥にいても、俺たちみたいに、俺みたいに、真っ黒じゃないのかもしれない。俺と同じ場所に立っていて、それでもコイツは無邪気で居られるのかもしれない。
 それはある意味、最も残酷なだけかもしれないけれど。

『で、キョウちゃんどしたのー? まさか俺とセケンバナシするために電話したわけじゃないでしょー? いやモチロンそれでも大歓迎だけどー』
「あ、そうそう。てゆーか第一スグルとじゃあ世間話成りたたねぇだろ」
『ひでぇ! キョウちゃんのいけずぅ〜』
「はいはい分かったから」
 コイツとじゃ何かイチイチ話が進みにくい。まぁ、もちろんそれも承知ではあったんだけど。
『でー? 何なのキョウちゃん。まさか俺にデートのお誘い!?』
「……ちょぉ車の買取の相談なんだけどさ」
 それでもいいかげん話が進まないので、このさい俺はスグルのボケを無視することにした。
『車?』
 途端に少し真面目になるスグルの声音。こういうところは手馴れているというか、あぁ流石だなぁと感じる部分だ。
「そ。ワケありの車」
『あーはいはい、そゆことね。……珍しいじゃんキョウちゃんが』
「そ?」
『うんキョウちゃんからそっち系の話舞い込むなんて俺けっこぉ意外』
「まぁそうかもなぁ」
 言いながら俺はグッと軽く伸びをした。ガキみたいだけど電話のときの俺のクセ、何かジッとしてらんないだよな。
『うんうん、まー分かったよオッケ。とりあえずお話聞きましょ、現品は?』
「今、手元にあっけど」
『あマジで? んじゃーそれ一回見せてもらおっかな、キョウちゃん車のことサッパリだろ』
「うん、どこの会社のかもハッキリわかんねぇ」
 やっぱりーと苦笑するようなスグルの声、そして今何時だっけと聞かれる。車のサイドに取り付けられた時計は、三時を差していた。
『んじゃぁ〜……六時にいつもの店、っつたら分かる?』
「懐かしいな“いつもの店”、よくそこまでバイクで競争したっけなぁ」
『そーそー! また今度競おっぜっ! で、六時でへーキ? 来れる?』
 あの場所は……渋滞とかの事を計算に入れてもこの辺りからは下道でも車で二時間……掛からないか。そう思って俺はもう一度体を捻った、運転は別にキライじゃない。でも慣れない車はちょっと肩がこるんだよなぁ。そう考えながらシートの肩の部分から後ろに首をそらして、
「ん。ヨユー……」

 答えて、俺は。
 目の前の光景を疑った。

 首をそらした体勢から見えた、逆さまの景色。
 一番後列のシートから、真ん中のシートにしがみつくようにして顔だけを覗かせている、

 小さな女の子と目が合った。



『キョウちゃん?』

 スグルの声が遠くから聞こえた。瞬間凍り付いた俺は逸らした首を瞬間的に戻し、凍結した思考回路をどうにか解凍して、落としかけた携帯を持ち直した。
『ダイジョブ? どぉかしたのキョウちゃん』
「……何か今、見てはいけないもの見た気が」
『え?』
「……いや、まぁうん、別に? うん、まぁとにかく六時にな、じゃーバイバイ」
 怪しんだスグルの声を遮って俺は自己完結型の返事を早口でまくし立てて、電話を切った。思わず電話に現実逃避したくなったけど、ていうかやっぱりそうすれば良かったと切った直後にちょっと後悔。
 でもそーこーしてても始まらねぇ。もう電話を切ってしまった以上、後悔しようが何しようが現実逃避もできない。とりあえず大きく深呼吸、吸ってー吐いてー。そしてもう一度振り返ったら、別にユーレイとか信じないタチなんだけど、まぁこのさいそれでも良いから幻覚かなんかである事を思い。

 願わくは、誰も居ないことを。

「あのぉ……」
 その願いは、振り向くまでもなく、幼い少女の声であっけなく打ち切られた。間違えても幻覚ではなかったらしい。いや、これが幻聴という多少痛い考え方も可能だけどさ。
 なんて現実逃避もそろそろ無理だろうと判断、俺は意を決して振り向いた。

 栗色の髪でおかっぱの、大きな目をした女の子。シートから覗かせていた顔を一度引っ込ませてから、恐る恐る顔をあげてきた。
 ――客観的に見て、かなり、かわいいと、思う。
 ってそんな、かわいいとか、かわいくないとかは今はどうだって良いっての!
 今、必要なのは。

「いつから、乗ってた?」
 一瞬ビクッとしたようにして女の子はシートにギュッとしがみついたが、小さな声で、さっきから、と呟いた。俺の声が少し厳しかったのかもしれない、そう思って今度は俺なりに少し優しく言ってみた。
「この車は、君の家のモノ?」
「……うん、ママの」
 さっきよりいくらかハッキリした声で返事が返ってきた。少し表情からも怯えが消えたかもしれない。シートにしがみついたまま、こっちを見つめている女の子。
 えーと、正直何だか状況がよく判断できないんだけど、俺。混乱しそうな頭を無理やりフル回転させて、とりあえず残ったのは最大の疑問。
 そう、窓の外から見た限りじゃ、車には間違いなく人影がなかったんだ。
「君は、座席の下に、いたのか?」
「……ビーズ。落としたの。拾ってたの」
 なるほどね。こんな小さな子が座席の下にもぐりこんでいたら、そりゃぁ外からは見えねぇよな。うん、まぁ最大の疑問についてはとりあえず納得したわけだけど。
 ――で。これから、俺はどうしたら良いんだ? 頭を抱えたくなる状況とはこういうことを言うんだろうとマジに思った。
 でも、こりゃないだろフツー。盗んだ車には子供が乗ってましたって……これって俺、誘拐になるんじゃねぇ? 流石に誘拐犯にはなりたくねぇんだけどなぁ。あぁでも、何か今更になって色々納得してきた。鍵がつけっぱなしだったのは、子供が乗っているから、冷房をかけておくためかよ。いくらなんでも、無人の車に鍵つけっぱなしでは放置していかねぇよな。
 …………。
 とりあえず、一人頭を抱えたところでどうしようもない。こうしてずっと、途方にくれてるわけにもいかねぇし。
「こっち、おいで」
 俺は、その女の子を助手席の方に招いた。戸惑ったようにその子供はこっちを見ている。
 ――そりゃぁ困るよなあ。自分の家の車に乗ってたら知らない兄ちゃんが乗ってきて? そいつが勝手に運転して? 挙句、こっちにおいでって? 俺がこの子でも、近づきたくないよ。
 でもこの距離でしゃべってるのもどうかと思うし、この子無視しとくワケにもいかないし。
「怖くないから、こっちおいでよホラ」
 いや充分怖ぇだろ、と自分でさりげなく突っ込みつつ。もう一回、出来るだけ優しい声で言ってみる。そして、ちょっと笑顔なんかも付け足してみる。余計怯えられたかも、とか直後に思ったが。そうしたら、ようやくその子供は真ん中の列のシートによじ登って前のほうに出てきた。
 すげぇ……子供って器用だなぁオイ。
 助手席と運転席の隙間を通り抜け、女の子は助手席にちょこんと座った。そして見上げてくる大きな目。俺も思わず見つめてしまう。

 ――うわぁ……ちっちゃいなー。

 いやいやいやそうゆうことじゃなくて。しかし、ジッと見上げてくる瞳とか。マジで困るんだけど。俺の周り、こんな幼い子供は居ないから、俺は子供に免疫がないんだよ……。
 とりあえずどうにかしようかと思ったけど、ふと目線に入ったのは、パトカー。向こうの国道沿いに走っているのを見かけて、ドキッとする。とにかく車を発進させた方がいいのだろうか……あーもうどうしろってんだよ。この子を元のところに帰してやるにしても、この車で行くのはひっじょーにマズイだろうし。
「……ねぇ、お兄ちゃん」
 悩んで頭をがしがし掻き毟った俺に、その女の子は突然話し掛けてきた。
「え」
「あのね、これからどっか行くの?」
「えー……えっと……」
 純粋そうな目で見つめられて、本気で俺はまごついた。
「あのね、もしどこか行くならママに連絡しないと、怒られちゃうの。黙ってお出かけしたらダメだから」
 多少舌足らずではあったけど、基本的にしっかりした子なのだろう。はっきりした口調でそう言ってきた。しかし、どこかお出かけって……この子今の状況全くわかってないのか? いや、その方が好都合だけどさ。
 ――あ。
「そっか……この手なら……」
 もしかしたら、もしかしたら。これは名案かもしれない。昔から、これでも一応切れ者と言われてきた頭に突如、思いついた考え。名案ってより、単純にこうするしかない気がするけど。
「えっとさ……君のママの電話番号、わかる?」
「……けーたいの? わかるよ」
「んじゃね、今から電話するから。俺さ、ちょっと用事あって、本当はすぐ君をお家に送ってあげたいんだけど無理なんだよ。だから用事の後に送るから、君からもママにそう言って?」
 ここから近い裏系のダチの家にでも行って、この車預けて別の車を借りて、この子をつれていく。で、車のことはもう知らんフリをするっきゃないだろこの場合。今から車お返しします、と言っても立派な窃盗罪だしな。ならいっそのこと裏ルートに回して、足がつかないようにしてしまうべきだろう。
 キーを握るのはこの子なワケで……。

「んじゃぁ、暫くドライブするの?」
 その本人は、そんな事も全く知らず、ワクワクした目で聞いてくる。
「うんまあ……そうかな。一時間ちょいで送れると思うけど……悪ぃな、早く帰りたいだろうけどさ」
「ううん、別にいいの。もっといっぱいドライブしてもいいもん」
「いや、それは君のママが心配するだろ?」
 女の子は小さなポーチから、住所や母親の携帯番号が書かれたビニールのキーホルダーを差し出してきた。俺はその番号を携帯に打ち込んでいく。怪しさに拍車をかける気がして少し迷ったが、やっぱり念のために非通知設定にしておくか。
 俺が携帯に番号を打ちながら言った言葉に、女の子はふるふると首を振った。
「しないよ、ママもそっちの方がいいのきっと」
「まさか」
「だってママはななが悪い子だったら捨てちゃおうかなって言うもん」
「……え」
 一瞬聞こえた言葉の重大さに、俺は手を止めて女の子を見た。でも女の子は笑っていて、すぐに、教育上の冗談みたいなものだと気付いた。俺は女の子に話を合わしてやった。
「ママは怒ったらそう言うの?」
「そおだよ」
「怖い?」
「こわーい」
 目を瞑ってブルブルと女の子は震えてみせた、茶目っ気ある行動に俺も思わず笑ってしまう。

 よく考えたら、このくらいの歳の子供は冒険心や好奇心の固まりだと思う。くわえて自立心やら反抗心も芽生えてくる頃だ。俺が始めて近所の兄ちゃんのバイクに乗せてもらったのもこのくらいだったし、家出を試みて警察に保護されたのも7歳かそこらだった。
 そう考えると、ダチの家にわざわざ寄るのもめんどくさいしな……。いっそのこと多少この子を送る時間は遅くなるけど、店に行って、車を売る段取り付けてしまってからこの子を送ったほうがラクなんだよな。
「あー……えっとさ、ごめん。もう少し長く俺と居ても大丈夫? 8時ごろまで」
「うん、あのね、ななのママが良いって言えば良いよ」
 にこっと笑って見上げてくる。本当に結構かわいいと思う、この子。

 改めて俺は電話のボタンを押しなおした。そして女の子に電話を渡した。何だかすごく緊張する。コール音が、微妙に遠く、聞こえてくる。
「……ママ?」
 女の子がそう言った途端、ドクン、俺の心臓が高鳴った。
「うん、ななよ。ママ、あのね……」
 言ってから女の子が困ったように俺を見上げてきた。俺も困るんだけどな……とりあえず電話を受け取る。電話を持った右手が、僅かに汗ばんできた。
「えっと、すいません……あの、ワタクシ……佐々木といいますが」
 できるだけ、落ち着いた声をイメージして。テキトーに目に付いた、一番近くの民家の表札の名前をそのまま名乗ってみた。
   
『……はい? え、あの、娘は』

 聞こえてきたのは若い女の人の声。酷く不審そうだ。ヤバイ、このままじゃマジに誘拐犯にされてしまう。
「実はお宅の……ななちゃん、が、私の車に間違えて乗り込んでしまったみたいで……すぐにでもご自宅のほうへお送りしてさしあげたいのですが、生憎、今急ぎの用事がありまして……大体八時ごろになると思うんです」
 出来る限りの敬語をフル活用して、俺は丁寧に、怪しくないように喋った。
『あら……じゃあ、娘がもしかしてご迷惑を?』
「あ、いえ……気付かなかった私も悪いので」

 全くだ。子供が乗ってることに気付かず、車を盗んだ俺が悪い。

『ええ……あの、それで……娘を、送ってくださるのですか?』
「あ、はい……先程、大体の住所を聞いたので、最寄の駅まで送りますね」
『まぁ……よろしくお願いします。本当にご迷惑おかけして……』
「いいえ、気になさらずに」
 堅苦しい会話はそろそろ限界だった。俺は女の子に電話を渡し、ちゃんと送って貰うから心配しないで、と言うように勧めた。電話を貰った女の子は、電話の語り口に笑顔で語りかけた。
「ママ、あのね、ななね、お兄ちゃんとちょっとドライブするんだって、あのね、ちゃんとお兄ちゃんに送って貰いますから……良いですか?」
 良いですか、という時に、女の子の表情が真剣になったのが分かった。丁寧に母親に頼む姿に、さっき言ってた“ママが良いって言えば”の意味がわかった。育ちの良さがにじみ出ている。
 電話口から僅かに漏れてくる声は、ご迷惑をおかけしないようにね、と言っているようだった。どうやら、母親はひどく穏やかな、丁寧な感じの人らしい。電話口の声も優しい雰囲気だった。
「うん、わかっています……うん、じゃぁねママ。ありがとう、またね」

 電話を終えた女の子がふぅっと息を吐いた。俺も安堵の息をつく。何だか嫌な汗をかいた気分だが、どうにか上手くいったみたいだ。車のことを怪しまれていなければ。
 いやでも、案外もう警察に届け出てたりしてな。母親としても不安だろうしな、きっと。このまま子供を殺害なんて事件、実際ありそうだし。てゆーか、こうもアッサリ上手くいくって、逆に何だか怖いというか不安なんだけど。
 ――信用、してもらえたのだろうか。
 俺は少しだけ考え込んだ。うんまぁ、普通に考えれば信用は殆どされてないと思うんだが。でも、あとはなるようにしかならないだろうしなぁ。俺の頭の中は、そんな考えで悶々としてきた。と、
「……この車は、ななのお家のものじゃないの?」
 女の子の声に俺はハッと我に帰った。
 ……もしかして、これはチャンス? 車のことを、誤魔化すための。
「そう、実はね。これ俺の車なんだよ、タブン君のおうちの車と同じ種類で、君は間違えて俺の車に乗ったんじゃないかな」
「でもさっきお兄ちゃん、ななのお家の? って聞いたよ」
 うっ。
 思ったよりずっと賢い、この子。誤魔化すことが出来るのか俺……少なくとも、この子が家に帰るまでには、車のこと、そして俺のことを親に言わないように説得しないといけないのに。
 あ〜〜もぅっ!
「……? まぁいいや、ねっお兄ちゃん早くドライブしよお!」
 ここ一年ほど、ロクに働いていない脳みそがまたもフル回転しだした時、それは女の子の声でストップされた。
 ……そうだよな、別に、どうでもいっか。考えても今は多分どうしようもならねぇ。とりあえず今は、いつもの店の方へ向かうっきゃないかな。あぁもう、あとは勢いだ。もぅ考えるのもメンドーになってきたしな。

 よっしゃ、と一発。何だか分からない気合を入れて。
 俺は車を発進させた。


act.3

***

 “世の中はゲームだ。
  だから楽しまないと意味がない。
  辛さや苦しみすらも、大切なのはいかに楽しみを見出すかだ“

 まだ、比較的マジメにガッコウに行っていた頃、国語だったか道徳だったか英語だったかはたまた現社か、それは良く覚えていないが、こういった話を読まされた覚えがある。俺はふぅんと納得して、そうだよなぁと思っていた。
 世の中ゲームだっていうなら、確かに楽しまなきゃ意味無い。辛いこととか苦しいことにまともに向き合うなんて馬鹿みてぇじゃん。そう、世の中楽しんでこそだ。辛さや苦しみの隙間をぬぐっていけば、そういうものに正面から突っ込んでいかなければ、上手く痛みとかやり過ごして楽しいところを見つけられる。物事は一つ、どうやってそれに対応するかだ。
 辛さも苦しみも全部、捉え方だ。上手く隙間をぬぐって、それでもダメなら諦める。そういうものなんだって受け止めて、そうしたら、痛みも苦しみもそんなにない。自分から痛み苦しみを求める必要なんてないだろ? 
 そう例えば、盗んだ車に子供が乗ってたみたいな今の状況も、ありえねぇマジ最悪だしって考え続けるよりはさ、こーゆーこともあるんじゃんって楽観した方がいいじゃん。その中にある楽しみを見つけてさ、流れに身を任せて、まぁなんとかなるって思ってたら、大抵のことはなんとかなってきたんだ。上手く上手く、何か隙間をぬぐって、痛みも苦しみもない、どこか温い感じの場所だけ求めてきた。それは時々、何だか無性に苛立ちをはらむんだけど、でも、この温さは大抵ちょーどいい。
 

 辛いこととか苦しいことなんて、もうたくさんだから。
 

***

「あのね、なな本当は”ななと”って名前なの」
 出発してどのくらい経ってからか。嬉しそうに外の景色を見ていた女の子は、踏み切りでとまった途端、運転しながらもボンヤリととりとめなく考えてた俺を見て言った。
「え?」
 意識が、現実に引き戻される。
「ななね、お兄ちゃんにちゃんと自己紹介してないもの。なな、おにいちゃんのお名前知りたいの。あのね、人にお名前聞くときはまず自分から言わないといけないんだよ」
 俺は女のこの言葉に、目を瞬かせた。――へぇ、本当に育ちがいいんだなこの子は。
 少し舌足らずで幼さの残る喋り方だけど、非常にしっかりした印象がある。ませてるとでもいうか、賢いというか。しかし……ななと?
「なんか、男みたいな名前だな」
 俺の頭の中には、もう今は辞めたけど昔一緒にDJやってたヤツが思い浮かんだ。彼奴の名前もナナト。確か漢字は……「那登でナナトってムリヤリ読ますんだぜ? 無茶な親だろ」
 いつだったか言ってた言葉。

 ナナトと俺はハッキリ言ってそんなに仲良くなかった、まぁ要はライバルだし。いつも人気を競い合う立場ではあったんだけど、俺そーゆーのめんどくて気にしなかった。でもナナトはめちゃくちゃ気にする奴で、俺をすっごいライバル視してやがった。だからきっとコイツとは気は合わねーなとか思ってて。
 結局、大学できちんと勉強に専念したいからとか言って辞めていったんだっけな。
 辞めるその日、偶々俺は会って、そこで長年……いやそんなに長くないけど、まぁ疑問を尋ねたんだ。
「お前の漢字ってシチニン−七人−って書くの?」
 俺の中では質問であって確信だった。だから、そのままナナニン呼ばれたことねぇ? って付け足して聞いたら、ポカンとしてからナナトは長い茶髪を震わせて笑った。そしてチガウチガウって否定して、先の言葉。
 それ聞いて、へぇかっけーじゃん。って思った通りの言葉言ったら、奴はまた笑って、
「キョウってホントおもしれーてゆーか素直ってゆーか……」

 オレさぁアンタとフツーにダチになりたかったよ


 その言葉が、少しだけショックだった、気がしたんだ。ダチになろうって言ったことはないし、ダチだったかって言われたら困るけど。でもトモダチってそもそもさ。宣言してなるモンじゃないだろ。意識してなるモンでもないだろ?
 確かにそんなに仲良かったわけじゃない。きっと連絡取り合うとかもないだろうけどさ。――ダチじゃないって宣言されたみたいで、何かちょっと、さ。
 俺ら、ダチじゃねぇの? って冗談交じりで聞いたら、さぁ? ってまた笑われた。そんで俺も笑って……ほら、こんな感じ。それでその話はおしまい。痛みを少しでも伴いそうなら、こうやってちょっと冗談めかせばさ、上手くやり過ごして済ませられるじゃん? あぁでも何か、今回はちょっと真正面に近い感じだったかな、とかボンヤリ感じつつ。……変な奴で気も合わなくて、でもきっと俺は奴のこともちょっとはダチだと思ってたんだろうなぁ、とか思った。
 その時気付いたんだ、トモダチなんてものはこっちが思ってても向こうが思ってないこともある。トモダチだけじゃない、世の中の関係は全て、一方通行の関係もきっとあるんだろう、なんて。双方の合意の上で成り立つ関係なんて、世の中にどれくらい存在するのだろう。合意のない関係は、もしかしたらこの世の中には存在しないのだろうか。

 存在しては、いけないのだろうか。


 もくもくと意味のわからない僅かな苛立ちが伴って、何か苦いものが、心の奥からこみ上げてくる気がしていた。


   ―――俺が何を思っても、何を言っても、何をしても、意味がないなら

   ―――俺なんていてもいなくても、一緒じゃん

   ―――ねぇ、何で俺は、貴方たちと家族でいるの……?




 頭の中を、何かモノクロがかった映像とくぐもった音声が流れていった気がして、俺は首を振って映像と音を振り払った。あぁくそ、何か微妙に気分が重くなってきた。俺は更に頭を振って現実世界に頭を切り替える。
 ――とにかくまぁ、ナナトのことは置いといて、だ。そこで俺は、自分のさっき言った言葉が失言だとふと気付いた。こんな小さな子供の名前、けなしてどーするんだよ俺。俺って思ったことすぐ口に出してしまうんだな……なんか、自分に呆れてしまう。
 でもその女の子は気にした風もなく、にっこり笑って見上げてきた。
「うん、あのね、ななの名前ねパパがつけたのよ。パパねお星様好きでね、最初はパパが一番好きなお星様のお名前で”ホクト”ってしようとしたらママが男の子みたいって怒って、それでね”ななと”にしたんだって。同じお星様を表すお名前なんだって。ママもまだ男の子みたいって言ってたんだけど”ななちゃん”って呼び名はかわいいからってオッケーしたの」
 一生懸命に話す小さな少女、窓に息を吹きかけて曇らせ、そこにつたない文字で”七斗”と書いた。ホクトは……北斗、か。北斗に七斗、その星ってのはタブン北斗七星をいってるのだろう。
「でね、ななの名前はね皆は”なな”か”ななちゃん”って呼ぶの、だけどねパパだけは七斗って呼ぶの。だからね、ななねこのお名前大好きなの」
 そこまで話したところでようやく古びた電車が鈍い速度で通過していった。車を発進させながら、俺は無邪気に話す女の子……七斗ちゃんの話で分かったことを頭の中でまとめた。
 名前が七斗だけど、ななって呼ばれていること。そして、きっとこの子が父親のことを大好きなんだろうということ。嬉しそうに話す様子を見れば一目瞭然だった。
 父親が好きか……俺とはまるで無縁の世界だな。

「ねぇ次はお兄ちゃんの番だよっ!」
「へ?」
 俺は七斗ちゃんの言う意味がわからずに変な声をあげてしまった。
「お兄ちゃんのお名前」
「あぁ……えっと」
 どうしようか、ちょっとだけ悩む。本名言ったら、車盗んだ身としたら後々ちょっと痛い気もするしなぁ。てゆーか俺、何かわけわかんねぇ考え事してたりして、一瞬自分がこの子の家の車盗んだ身だって事忘れてたよ。
 しかし、ここで偽の名前言って俺がずっとそれで通せる自信もないし……てゆーか、さっき七斗ちゃんの母親に言った名前なんだったけ? 山田、高橋、西本……あぁそうだ、佐々木だ佐々木。
「お兄ちゃん?」
「あぁ……うん、俺はね、キョウだよ」
 無難に、フルネームじゃなく呼び名を言っておいた。ちなみに本名は橘 香平でタチバナキョウヘイって読むんだけど、タブン七斗ちゃんの頭の中で俺は佐々木キョウさんになってるはず。
「……キョウちゃんって呼ばれてるの?」
「え」
「だってお兄ちゃん、お電話してて、お電話の相手の人、キョウちゃんって言ったの聞こえたの」
 改めてスグルの声のでかさが身にしみた。ったく、アイツは本当に。
「ねぇあのね、ななもキョウちゃんって呼んでいい?」
「え〜……えっと」
「ねっ」

 にこ。首をかしげて笑顔ひとつ。
 そして俺は瞬き一つ。
 ――ヤバイ。

「……〜〜いいよ」
「ほんとぉ!? あ、んじゃあねぇキョウちゃんはななのこと”ななと”って呼んでね」
「あー……うん、七斗ちゃん?」
「ちゃんはいらないの! ななと!」
「……七斗?」
「はいっ! なんですか、キョウちゃん」
 満面の笑顔。返事は手まで付いている。
 ――――ヤバイ。なんだこれ。


 ……可愛いんだけど、マジに。


 幼い子供にあまりに免疫の無さ過ぎた俺は、ひいき目を抜いても可愛いだろうこの子のこの純粋な様子にあっというまにやられてしまったわけだ。よく考えりゃこの子とはまだ数時間は一緒にいないといけないんだし、そう思うと、こんな可愛い子で逆にラッキーなんじゃね、とか思うくらいに。少なくともこの子と話してりゃ、何か妙な考えにふけこむことはないだろうしさ。
 まぁ情けないと言えば情けない気もちょっとするが、この際認めるさもう。すげぇ可愛いんだって、この子マジに。やべぇ俺ってもしやちょっとロリコンのケがあるのか? これでも昔から結構クールで普段はイイ奴だけど怒らすと怖いとか言われてたんだけどさ……あぁ何かごめんなさい、俺は何となく心の中で謝った。俺の昔の後輩……舎弟? まぁそうゆう奴らとか、つるんでた奴らにむかって。

 タブン今の俺見たらあいつら泣きそうだな。

 
 ぼんやりと自分で思ってみて、余計に情けなくなってしまった。


 
act.4
 
 車を走らせてから三、四十分。車内には俺が言うのもなんだけど、和やかな雰囲気が流れていた。

「それでね、雄一くんはせっかく先生がみんなをおどろかそうとしたんだから、おどろいてやろうって言い出したの、だからななたちみんな知ってたけどおどろいたのよ」
「ははは……」

 七斗は人見知りなど全くなく、自己紹介してしまうとすぐに俺に慣れて色々喋ってくれた。普段道端で見かけたりとか程度でしか分からないけど、この歳の子どもってまぁ結構よくしゃべると思う。でも彼女はまた特に、しゃべるのが好きなのかもしれない。七斗は本当に色んな話をしてくれた。
 小学校のクラスの話、七斗は一年二組らしいのだが、話を聞いてると今時の子供ってマジでスゴイと思う。生活科の授業で、避難訓練のお話とやらがあったらしいが、隣のクラスでは校長が"避難訓練マン"という変なカッコでやって来て、そんなに面白くなかったけど校長と担任は奇妙にヤル気だったという話を聞いて、一年二組では皆で話し合って驚いて楽しんであげることに決めた、とか。その教師たちは果たして僅か6歳の子どもに気を使われたことに気づいたのかどうか。
 子どもの世界というのは中々面白いんだよな、これが。
 七斗は小学校に入ってからの三ヶ月の間で三人の男から告白されたらしい。一人はさっきの話に出てきた雄一くんでクラス委員長でリーダー的存在。もう一人は三年生で飼育委員の隆介くんで、最後の一人は隣のクラスの昴くん。
「昴くんがね、一番かっこいいの。隆介くんは年がはなれてるから、なな的にはいまいち。だいいち三年生はじゅぎょうの時間が長いから遊ぶ時間が減っちゃうでしょ」
 でも隆介くんはね六年生や五年生のお姉ちゃんたちにちょっと人気あるんだって、かわいいって言われるらしいけどね、ななはかっこいいほうだと思うなぁ。
 いっちょまえに選り好みをする6歳児なんて、なかなか見れないと思う。俺は笑いをかみ締めながら、それで? と先を促す。
「雄一くんはねお友達、特別かっこよくないし」
「うっわ、かわいそうな事言うねー七斗」
「面白い人なんだけどねぇ、だけど別になな、雄一くんのこと好きじゃあないし、雄一くんも今は春日ちゃんのこと好きなんだよ」
 七斗はそう言って、首を少しすくめた。だからね、ななが春日ちゃんに言ってあげたら、春日ちゃんも雄一くんのこと好きだったの。
「そしたら雄一くんにすっごいいっぱいお礼言われてねー、今二人はらぶらぶなのっ!」
 イエイとブイサイン付きで得意そうに言う七斗。本当に子どもというのは恐ろしいなぁと思う、ませてるのに、どこまでも純粋で無邪気だ。
 俺はニコニコ笑ってる七斗をチラリと見た。何だか微笑ましい気持ちで尋ねる。
「七斗はどうなんだ? 昴くんと付き合うことにしたのか?」
「それがね、昴くん彼女居るのにななに好きですって言ってきてたの。しかもね二年生の彼女なんだよ、二年生で一番可愛い女の子なの。昴くんね、どっちも好きだから決められないんだって」
「それはなんとまぁ……」
 俺は思わず絶句する。小一で二股かけるってどうよ、しかも片方は年上。まぁまだ小一なんだから二股という自覚もなければ、好きとかってのも割と曖昧なんだろうけど。
「それでななが昴くんにどうするのって話してるときね、彼女のね明南ちゃんがきてね、昴くんの前で泣き出しちゃったの、"アキはスバルのことだけが大好きなのに、スバルは違うの?" って」
「あちゃー」
 修羅場じゃんかよオイ。
「それでね、ななね、昴くんに"男が一番してはいけないことは大好きな人を傷つけて泣かすことだ"ってななのパパが言ってたよってこっそり教えてあげたらね、昴くんね明南ちゃんにごめんなさいしてね、ギュッとしてあげて、それで二人は元どおりに解決したのっ!」
「……お疲れ様」

 満足そうに笑う七斗を見て俺は思う。
 ホント、今時の子どもってすげぇ。

 ハンドルをきって細い道に入る。七斗は体を少し倒して両手を後ろにつき足をパタパタさせていたが、曲がり角でバランスを崩して少し笑い声を上げた。その様子に無邪気だなぁと思う。こういう子どもってウザイかかわいいか紙一重ってきくけど、少なくともこの子はとにかく無邪気でかわいらしい。……ヤベェ、俺マジこの子にやられてるよな。ちょっと自分に呆れつつも、俺は七斗をちょっと見て話し掛ける。
「んじゃ結局、七斗は今付き合ってる人いないの?」
「えへへ、でも好きな子はいるよぉ」
「へぇ、どんなやつ?」
「えー?」
 七斗は恥ずかしそうに笑った。今の話の流れだと、ひいき目を抜いてやはり七斗はかわいい子なんだと思う。そんな七斗が、上級生に人気ある子や二年生で一番可愛い彼女を持つ子、そしてクラスのリーダーのの子より好きになる相手なんてちょっと気になるじゃん。何だかうわさ話好きなオバサンみたいな気もしなくも無いけど。
 うん、しかし。ホント俺完璧にこの子のペースに乗せられてるよな。と、次は自分に心の中で苦笑した。まぁいいんだけどさ。
 七斗は暫く考えるそぶりをしてから、俺をチラリと見上げてきて呟いた。
「うーん……でもキョウちゃんには特別に教えてあげても良いよ」
「うっそマジで?」
「うん、でも絶対ひみつだからね!」
「わかってるって」
 秘密ってゆーか、誰に話せと言うのかって気もするけど。七斗は少し俯いて、それから嬉しそうにソラくんと呟いた。
「ソラ?」
「うん、ソラくん。二年生の」
「あれ? 七斗、年上ダメじゃなかったのか?」
「三年生はダメだけど、二年生はゆるす!」
「あぁそうなの」
 どういう基準なのか俺にはよくわからないが。俺は信号で止まって、七斗の方を見た。街中から大分離れて今は郊外を走ってる。周りの景色は少しづつ田舎町になってきていた。七斗はさっきから嬉しそうに外を眺めたり喋ったり、色々忙しそうである。
 俺は目の前に広がる空を見た。高層ビルで空が覆われている街と違い、道路の上に空が見える。白い雲が浮かぶ水色の空。ソラくんというのは……空くん、だろうか。
「かっこいい名前だな、ソラって」
「うん! ソラくんのお名前は青いお空からとったんだって。ななとちょっとだけ似てるでしょう?」
 七斗が嬉しそうに言う。あぁやっぱりそうか、と俺は思う。そういえば、七斗の名前は星からって言ってたな、そしてソラくんはこの水色の空からか。へぇ中々。最近の親ってロマンチックだなあと感心してしまう。
「で? ソラくんって、どういう男なんだ?」
 俺はそう聞いて、直後その質問にまるで自分が七斗の父親みたいだなと思った。なんか内心少し複雑だぞ……俺、将来もし娘生まれたら絶対結婚式で泣くタイプの父親になりそうだ、なんてくだらないことを考えてみたり。そんな俺の心中も知らず、七斗は笑顔で話してくる。
「うーんとね……サボり魔!」
「サボり魔ぁ?」
「うん。あんまり授業受けないの。サボり魔なの。いっつも屋上でサボってるのよ」
 サボり魔。小学二年生で、サボり魔ですか。何とも将来が楽しみな子だなオイ。
 七斗は首を少しだけ捻らせ、助手席の窓から空を見上げた。空を見上げながら、七斗は少しだけ小さな声で、語るように呟いた。
「……ソラくんね、不思議な子なの。いつもお空見ているの」

 ななの教室からはね、屋上がすごくよく見えるの。そしたらね、屋上によくいる子がいるなぁって思ってね、その子とっても綺麗な子で、屋上の柵に寄りかかって座って、いつもお空見てた。ななね、何だか気になって、よく窓から見てたら、ときどきその子もこっち見ててね。なな、だからある日お昼休みのときに屋上に一人で行ってみたの。屋上の入り口に立ったら、お歌が聞こえてきてね……英語の歌で、とっても素敵だったの。歌ってた子はお空見上げたまま歌ってたんだけどね、ななに気付いて振り向いて、にっこり笑ってくれたの。それがね、ソラくんだったの。

 七斗は一生懸命にそう語った。まるでドラマみたいな状況が俺の頭に思い浮かぶ。しかし屋上で美少年で英語の歌って……何かカッコよすぎないかそれ。
「英語の歌って、一体何の歌? 七斗知ってる曲?」
「うん! メリーさんの羊!」
 ずるっ。俺は本気でずっこけるかと思った。まぁ……所詮は小学二年生か。でもメリーさんの羊を英語で歌ってる姿は本当にカッコいいのだろうか。少なくとも俺みたいのが歌ってたら、正直キモいだけだぞ。
「ソラくんね、パパがイギリス人なんだって。それでね、英語の歌いっぱい知ってるの。七斗に色々教えてくれるんだよ」
「へぇ」
 パパがイギリス人。ハーフか……なんか益々、すごそうな子だな。俺の頭の中ではソラくんとやらの想像図が組みあがってゆく。が、何か一貫性ができないというか、とんでもない想像図になってきたぞ。俺がそう思ってたとき、ふとフロントガラスの方に身を乗り出した七斗が突然叫んだ。
「ソラくんっ!?」
「へっ」
 七斗の叫び声に俺は思わずブレーキを踏む。走っていたのは、左右に古びた家々が並ぶ住宅街の小さな裏道。信号待ちが嫌いな俺は、裏通りを走るのが昔から好きだった。そんな裏通りだけあって、幸い前後には特に車がなかったのだけど。
「キョウちゃん! ソラくん、ソラくんがいる!」
「えー……マジで?」
 七斗が信じられないって顔で指差したのは通りを抜け切ったところに見える土手。土手の道に面した石段に、小さな子どもが座っているのが確かに見えるけど。まぁ俺も特別眼良い訳じゃないけどさ、しかしこの距離で顔を判断できるって……何者だよ、七斗。それともあれだろうか、恋のマジカルってやつだろうか。なんてサムイこと考えた俺をよそに七斗は言う。
「ソラくんどぉしてこんなトコいるんだろう……」
「――うん? あれ、ちょっと待て。このへんって七斗の住んでいるところじゃないよな?」
 先ほど渡されたビニールのキーホルダーには、母親の携帯番号のほか、住所も書いてあった。住所は確か、この辺りとは大分方向が違ったはずだ。
「うん。こんなところ、なな初めて来たよ?」
 ってことは、多分ソラくんとやらもこの辺の子じゃないだろう。まぁ普通に考えて、今日は日曜なんだし、祖父母の家に遊びに来たとかそんな感じだろうな。
「キョウちゃん! なな、ソラくんとお話したい!」
「えー……」
 七斗は目を輝かせてそう言ってきた。……うーん、でもなぁ。俺もソラくんとやらにはちょっと興味あるけど、盗んだ車で七斗の知り合いに接触するのは結構問題なような。
「ねぇキョウちゃん、ちょっとだけでいいから。お願いっ」
 七斗が目を瞑って手をパンッと合わせて言う。何だか必死なその姿は、確かに心に訴えるものがあるわけで。俺は少しだけ考えてみる。
 ――少しなら平気か。所詮相手も小学二年生だ。
「……んじゃ、ちょっとだけな。俺ちょっと自販で飲み物買ってくるから、その間だけ」
「ホントッ!?」
 七斗は目をパッと開けて、俺の顔を覗き込んできた。キラキラと嬉しそうに目を輝かせている。まるで子犬みたいだ。
「ん。ただし一つ約束、俺のことはソラくんに絶対言わないこと」
「えーー?」
「守れないなら却下」
「……はぁい」
 ちょっと不満そうではあったが、七斗は頷いた。良かった、念のために先に釘刺しておいて。この様子だと、この子タブン俺の話する気満々だったんだろう。
 俺は車を少し走らせ、土手沿いの道に出た。さっきの通り同様、相変わらず車通りはおろか、人通りすらない。土手沿いのその通りは空に開けていて、通りに面した土手の逆サイドには昔ながらといった感じの家々や砂利の駐車場と並んで、古びた、しかし大きな寺がどんと建っていた。道路の、その家や寺の側に車を寄せて、俺は車を止めた。土手側に面した助手席の窓から覗くと、道路の向こう側は芝生だけの小さな公園みたくなっていて、そこから土手にあがる石段が続いている。その石段の上のほうに、小さな少年が一人座っていた。
「ふぅん……あの子がソラくん?」
「うん!」
 はっきりとは見えないけど、確かに綺麗な顔立ちしてるかもしれない。ハーフの子供って美形な場合が多いときくが、このソラくんも例外じゃないのだろう。
 七斗が俺をジッと見てくる。俺は、前方にある小さな商店の前の自販機を見て、七斗に五分な、と告げた。七斗が助手席のドアを開けるのを見て、俺も運転席のドアを開ける。少しドアを開けた途端、さっきまではどこか遠くに響いていた蝉の鳴き声が、いきなり現実的に降りかかってきた。ムワッとした、夏らしい少し歪んだ空気も吹き込んでくる。そのことに一瞬顔をしかめつつ、地面に足をついた。七斗も普通の車よりは高い位置にあるワゴンの助手席から飛び降りるようにして外に出ていく。
 蝉の鳴き声がよく響いている。普段聞くジリジリという鳴き声のほかに、聞き慣れないツクツクという鳴き声も混ざっている。あぁ夏なんだなと変に実感をした。街中は、夏だなと実感するものが何だか少ないから。いつも、いつの季節も、街は何だか奇妙に暑くて奇妙に寒く奇妙に涼しいのだから。
 自販機の方に歩きながら、俺はチラリと七斗を見た。道路を渡り芝生公園に立った七斗。
「ソラくん!」
 七斗の声が、蝉の声に混ざって響いた。土手があって河がある。その開ききった場所には、声が反響するように響くのだろう。
 呼ばれた少年は、驚いたように七斗を見た。今の今まで、七斗に気付かなかったようだ。当たり前と言えば当たり前か、あのソラくんとやら、本当に七斗の言ったとおりだった。
 ずっと、空を見つめていたから。
「……ななちゃん?」
 自販機に向き合った俺の背中の方から、不思議でたまらないといった少年の声が聞こえてきた。人通りも車通りもないその場所で、音と呼べるのは蝉の鳴き声ぐらい。だから小さな子どもらの会話は、蝉の声に混じって、俺の耳にも良く響いてきた。
「どうして、こんな所にいるの?」
 ソラくんの声。
「ドライブだよ! そしたらソラくんが見えたの。ソラくんこそ、なんでこんな所いるの?」
 七斗の声が少しだけ小さくなっていく。遠ざかっていくという方がこの場合正しいのだろうけど。自販機から冷えた缶コーヒーを取り出して、俺は自販機の横の古びたベンチに腰を下ろした。自販機が影になって、二人の位置からはほとんど俺の姿は見えないだろう。七斗は話しながら石段を登っていたらしく、いつのまにか、ソラくんの目の前に立っていた。
「僕は、お兄ちゃんについてきたの。お兄ちゃん今日の夜この近くのライブハウスでライブあって、それで僕もつれてきてくれたんだ」
 ソラくんが話す。少年独特の、少し高い幼い声。でも、何だか優しい響きのある、不思議な声だった。
「らいぶ?」
「うん。あれ? お兄ちゃんバンドやってるって、僕ななちゃんに前言わなかったっけ?」
「えっと……あ、律也お兄ちゃん?」
「うんそうだよ。律ちゃんのバンド、結構有名なんだよ。今度インディーズでアルバム出すから、それの宣伝かねたライブなんだって」
「すごぉい! でも、インディーズってなぁに?」
「うーんと……よくわかんないけど、きっと値段が安いCDのことじゃない?」
「へぇ、ソラくんって物知りだね」
「そんなことないよ」
 いや、違うだろ。それはインディーズの人に失礼になるんじゃねぇか、と俺は心の中で突っ込む。まぁ本人たちが満足しているなら別に構わないか。しかし、なんと言うか子供の会話って特別なこと話してなくても何だか微笑ましいというか、全く世界が違うって気がする。その場所だけ、なんか異世界みたいな、そんな感じ。
 俺は缶を傾け、冷えた液体をのどに流し込んだ。俺の子供の頃も、こんな微笑ましい感じだったのだろうか。そんなことふと思い、自分の小さな頃をぼんやりと少し思い出して、すぐに俺は首を振った。
 ――まさか、だ。俺のガキの頃は、こんな素直そうじゃなかっただろう。
 あの頃から、自分でもはっきり自覚していた。自分は本当にかわいくもなんともないガキだって。そして周りの奴らは俺に比べて、きっと何も考えてなく、バカで素直だと思ってた、そして何より羨ましいぐらいにかわいかった。綺麗だった。見た目が、という意味じゃ勿論ない。心、が。考え方とかが。俺とは全く違って――いや、でも違うんだ。それでも俺にも確かに素直なときも、皆みたいに何も考えず周りを信じ、受け入れることができたときもあったんだ、きっと。
 そう、きっと、あの時までは。あの日までは。

「それでソラくんはここで何してたの?」
 七斗の声がまた響いてきた。ハッとし、俺は自分がいつのまにか缶を握り締めていたことに気付いて、そっと力を抜いて息を吐いた。蝉の声が、さっきよりも若干大きくなる。ソラくんの声がした。
「律ちゃんね、リハーサルとか忙しいからね。僕ヒマだったからちょっと散歩してくるって出てきたの」
「ふぅん……それで、お空見てたの?」
「うん」
 もう一度コーヒーをあおる。少し上向いたときに、俺の居る所からでもソラくんが笑っているのが見えた。それはとても小学二年生の笑い方には思えなかった。すごく落ち着いた、柔らかい微笑だった。
 ソラくんがゆっくりとした動作で空を見上げた。七斗もそれにならって空を見上げる。俺はカラになった缶を空き缶入れに放り入れ、自販機でもう一度缶コーヒーと、それから少し悩んでからリンゴジュースも買って、車のところまで戻った。それでもまだ、小さな子どもらは空を見上げたままで。運転席の真横まで来て、俺は車に寄りかかるようにして地面にしゃがみこんだ。きっとこの背中の向こう、車の向こう側ではまだ子供たちは空を見上げているんだろうと思いながら、ポケットを探ってタバコを取り出した。と、また声が響いてきた。
「――ねぇソラくんは、何でいつもお空を見てるの?」
 明るい響きがある幼い七斗の声が蝉の鳴き声に紛れる。響いた直後は、また蝉の声だけ。遠くから微かに車のエンジン音が聞こえたが、それも蝉の声に紛れて。音が、空に吸収されていくようだった。俺も座り込んだまま何となくその空を見上げてみた。蝉の鳴き声は激しいが、七月中旬の割に今日はそんなに暑くない。車から出た瞬間は暑いと思ったが、外にいればすぐ慣れる程度、そんなにムッとするほど暑くなかった。
 でも、空は夏そのものの青さだった。

「ねぇ、ななちゃん知ってる? 空はね、ずっとつながっているんだよ」
 ライターをとり、くわえたタバコに火をつけようとした途端、沈黙を破ってソラくんの声が響いた。それはやはり、不思議な響きのある声だった。
「空はね、遠くまでつながっているんだよ。ずっとずっと向こう、海の向こうにもつながってるんだよ」
 ソラくんが、まるで物語を語るようにそう言う。
「海の、むこう?」
「うん。ほら、今僕らの上にある雲とかもね、ずっと遠くから流れてきたものかもしれないんだよ。雲は、空をゆっくりと世界一周旅行しているんだよ」
「へぇ、すごーい」
 七斗が、感嘆の声を上げる。俺は空を見つめた。雲がゆっくりと動く。――空を世界一周旅行、ね。メルヘンな発想に、俺は何だか少しだけ笑った。
「いいなぁ、お空の旅行かぁ。じゃあね、雲に乗ったら、ずぅっと遠くにも行けるのかな?」
「うん、僕いつもねそういうこと考えながら、空見てるんだ」
 低い唸るような音がした。高い空を小さな鉄の固まりが横切り、飛行機雲を描いていく。俺はそれを見つめた。飛行機雲をこんなにじっくり見るのは、久しぶりな気がした。
 あの子ども達の頭の中では、飛行機なんか必要ないんだ、そう感じた。飛行機を使わなくてもあの子たちは外国へ行けるのだ。そう思うと、本当に彼らは異世界にいるように思えた。
「ソラくんは遠くに行きたいの?」
「うーん遠くっていうか……ちょっと違うんだけどね。あのさ、空がずっと繋がっているでしょ? そうしたらね、空を見ていたら、ずっと遠くにいる人にも会いにいける気がするんだ。ずっと遠くの誰かと、空をとおしてつながっている気がするんだ」
 ゆっくりと、そう語る声。子供らしい発想なようであって、同時にそれはひどく大人びたもののようでもあった。語り方も、幼い子供のものにどこか違う雰囲気を帯びていて。声音も不思議な響き。それを聞きながら、ソラくんという少年は、まるで本当に違う世界の住人のようだと俺はさっきより強く思った。いやソラくんだけじゃない、この車の向こう側は、違う世界のように俺には本当に思えていた。
 また空を覆う飛行機。今度はさっきより少し低い位置を飛んでいるらしく、低い音が辺りを支配した。ソラくんの不思議な声も、七斗の明るい声も暫く遮断された。ごうっと低い音に包まれたとき、一瞬俺は現実でもあの子ども達のいる世界でもなく、まるで見たこともないような真っ暗闇のような世界へ飛ばされた気がし、一瞬ハッと空を見上げた。若干低い位置で飛んでいるといえど、飛行機が視界に映る空を覆い尽くすはずもなく、水色の空は相変わらず目の前に広がったままだった。低い飛行機音を聞きながら、俺はそんな自分に苦笑した。――違う世界って、なに考えてんだよ俺。どうしたんだよ。自分に苦笑して、ぐしゃりと頭をかく。
 違う世界も何もない、俺はここに変わらず、存在しているじゃないか。この世界で、綺麗なものよりもずっと多いクダラナイもので覆われているこの現実で、醜く生きている、俺のままで。

 あの小さな子たちが生きる綺麗な世界とは程遠い世界で。
 痛みや苦しみの散乱した現実の隙間をぬぐった、ほどよく温いだけの今に、

 ほら、こうして今も、そしてこれからもきっと、存在していくんだろ?


「じゃぁね、またね。ソラくん」
 七斗の声がやがて響いてきて、俺は再びハッとする。飛行機はいつのまにか過ぎ去っていたらしい。七斗の声は別れるのが寂しいのか、若干先ほどまでよりトーンが下がっているように感じた。このまま、置いていこうか。俺は思わずそう考えた。違う世界にいる七斗と俺が同じ車に乗る、その状態に戻るよりはその方がいい気がして、しかしあの子の母親に電話したことも含めて、やはりそれはそれでまずいだろうと判断するくらいの頭も、どうにか俺も持ち合わせていた。立ち上がって、そしてタバコに結局火を付けそびれていたのに気付く。はは、何やってんだか俺。火のついていないそのタバコをその場に捨て、俺は運転席に乗り込んだ。エンジンをかけながら、考える。

 ――子供たちのペースに巻き込まれるだけなら、まだいい。七斗の話なんかも、ただ子供の世界っておもしれぇなって思って聞いてる分には良いんだ。でも、支配されちゃダメだ。染められちゃダメだ。……染めちゃ、ダメなんだ。あの子は、俺とは違う世界に生きているんだから。
 あの子達もいづれは成長する。そして見たくない現実なんかもいつかはきっと知るだろうけど、でも俺のようにはならないだろう。どこで道を踏み外すかわからない、と世に生きるめんどくさそうな大人たちが言うのはある意味もっともではあるが、それでもあの子どもたちの世界はどこまでいっても俺とは交わらない気がした。それは世界の対極であるような、コインの裏表のような、異種の世界だ。本来俺と接触することもなかった筈のあの子たちの世界が、俺の世界に入り込んではいけない気がした。白はすぐに黒に染まるとよく言うが、それは本当だと思う。でも、それ以上に、黒だって白が入ってきたらやがて色が薄くなる。それはつまり、黒が白に自分の色を分けたということ。そうしてお互いに色を分け合って、お互いに染まりあって、中途半端に黒くなって白くなって、そうして何が残る? 少しでも綺麗なままでいれるなら、綺麗なままでいて欲しいんだよ。綺麗なものは、だってこの世界にはあまりに少なすぎるから。
 昔、絵の具で黒っぽい色を作るのは簡単だった。緑や青や赤なんかをめちゃくちゃに混ぜていけばそれは黒に近くなった。でも白い色は作れなかった。色の仕組みでいけば、作れても良いはずの白い色は作れず、白い絵の具はだからすぐになくなった。白は他の色を緩和するけれど、自分はすぐに他と混ざってしまう。そして黒は自分を主張したままだった。俺もそれと何も変わらない、俺は真っ黒だから、本当は真っ黒で醜い人間だから。だから、白い世界を抱く子供たちと、混ざってはいけないんだ。白い世界を、簡単には作り出すことなんてできないその世界を、大切にしていて欲しいんだ。
 
 染めたくなんかないから。俺のような真っ黒になってほしくないから。


「ワケわかんねぇ……」
 自分の考えがこんがらがってきて、呟く。
 染めたくないって、そんなの。俺がどうこういう問題じゃないっていうか、それ以前に俺は他人をどうこうできるほど偉い人じゃねぇじゃん。どこからか、まるで自分に言い聞かすような声が頭に響いてきた。それに、別に染まろうがどうであろうが、俺はあまり関係ないじゃん。どうせ、あの子たちは所詮俺とは元々違う世界の子たち。その後どうなろうと別に俺には関係ないだろ。響いてくる、声。ウゼェと俺は頭を振る。
 気持ちは悶々としたままで、自分自身にうんざりしてきた。さっきまでの考えにも、それを押さえ込もうとする考えにも、奇妙に感じるのは嫌悪感だけ。はぁと俺はため息をついて車の低い天井を見上げた。ウゼェなんかわかんねぇけどウザ過ぎる。目を閉じて、息を吐いて、俺は必死に自分を整えようとした。どうしたんだよ、俺。俺ってこんなに情緒不安定だったっけ。
 と、不意にパタンと助手席のドアが開き、外から蝉の騒がしい鳴き声と温めの風が車内に流れ込んできた。うっそうとした空気を、まるでぬぐい隠すように、それは本当にタイミングよく。
頭の中が蝉の鳴き声に一瞬埋め尽くされ、何かわかんないうっそうとしたものが瞬間でリセットされ、頭の中が真っ白に戻った。その状態のまま、反射的に俺は振り向く。
「七斗」
 七斗が、高めの助手席によじ登るように乗ってきた。おまたせーと大きな瞳を少し細めて、薄紅の頬を小さな手で覆いながら、ニコリと笑ってくる。その笑顔は、純粋にかわいいと、思った。そう思えた自分に、少し驚いた。あぁでも、この子は本当に無邪気だ、そう感じた途端に先ほどまでの奇妙な嫌悪感が薄れた。そのことにまた驚きつつ、それ以上に何だか安堵し、俺も自然と笑い返す。
「じゃ、行くか」
「うん!」
 七斗は窓を開けて少し顔を覗かせ、土手にまだ居るだろうソラくんに手を振っていた。その姿に、また俺の中の変な嫌悪感は、ゆっくり薄れていって、スッととけるように消えた。車の中の空気が、元に戻ってゆくと感じた。この場所に来る前までの状態に。七斗が一生懸命喋り続け、俺もただ笑って聞いていた、あの状態。何も深く考えないですむ、あの空気に。俺はゆっくりとアクセルを踏んで、車を発進させた。
 七斗は暫く、窓の向こうに手を振り続けていた。バイバイまたね、ソラくん。という七斗の声。外から蝉の声に紛れて微かに、ソラくんの不思議な響きのある声が聞こえた気がした。


act.5

「七斗、10分オーバーな」
 車を走らせながらそう言うと、七斗はちょっと笑った。
「ごめんなさい」
「まぁいいけどね。ほら、これ」
 俺は七斗にリンゴジュースを差し出した。差し出しながら何だか照れくさくも感じたが、七斗はパッと目を輝かせ、ありがとうと言ってそれを受け取ってくれた。少しだけ、安心した。
 ――大丈夫。自分に心の中でつぶやいてみた。深く考えなくても良い。大丈夫。普通にさっきまでどおり、ただ普通に接すれば、染めることも染められることもそんなこと考える必要もない、何も心配なんて要らない。どうせあと数時間だけなのだし。大丈夫、だから考えるな。自分に何度も言い聞かす。
 ふと、七斗が黙り込んでいるのに気付く。さっきはあんなに一生懸命話していた七斗がどうしたのだろうか。見ると、七斗はジュースの缶をジッと見つめている。
「七斗?」
「……キョウちゃん、ななね、ちょっとビックリしちゃった」
「え」
 七斗が少し沈んだ声で話し出した。さっき、ソラくんに「またね」と言ったときと同じくらい、少しだけトーンの下がった声。
「ソラくんがお空見ている理由知ってね、ちょっとビックリしたの」
「……遠くに居る人に会いに行ける気がするから、って言ってたな」
 俺は七斗の様子に少し驚きながら、答える。さっき言っていた言葉だ。ソラくんの喋り方は、幼さに時々怖いまでの大人びた雰囲気が混じって、俺の中にひどく印象に残っていた。七斗が俺の言葉を聞いて、顔を少しあげる。
「――そうなんだけどね。あのね、ソラくんね、お空を見てるとパパとママと繋がっている気がするんだって」
「……え?」
「ソラくんね、パパとママがいないんだよ」
 七斗が、ジュースを一口飲んでそう言った。俺が意味もわからずあげた声をよそに、七斗はジュースの缶を見つめて、そのまま、まるでまくし立てるように切れ目なく話し出した。感情をできるだけいれずに話そうとしているようで、少し早口だった。そうたとえば、試合に負けた後のインタビューをうけるスポーツ選手や監督といった、そういう類のような。自分の中の感情を必死に押さえつけるような。
 ただ早口に、淡々と話す七斗。

「ソラくんね、今はお兄ちゃん二人とお姉ちゃん一人と住んでいるんだけどね、本当はお兄ちゃんたちはもう大人だから遠くでずっと一人暮らししていて、ソラくんはパパとママと三人で住んでいたんだって。でもね、パパとママがいなくなってから、お兄ちゃんたち帰ってきて一緒に住むようになったんだよ。学校でね、先生たちがソラくんサボっててもあんまり注意をしない理由、なな知ってるの。先生たちはね、ソラくんがかわいそうな子だと思ってるんだよ。先生たちはみんな、ソラくんのパパとママがいなくなっちゃったの知ってるの。ソラくんね、一年生の時にある日起きてきたらママとパパがどこにもいなくて、"ごめんね空くん"って一言だけのお手紙だけ机の上に置いてあったんだって。それから次の日もその次の日も、ソラくんのママとパパはずっと帰ってこなくて、どこに行ってしまっていつ帰ってくるのか、全くわかんないんだって」

「それって……」
 捨てられたのか、と言いそうになった言葉を俺は飲み込む。その言葉は残酷だと思った。こんな幼い子供の幼い語り口で語られた残酷な話を、俺は何だか信じられないという思いをぬぐいきれず呆然と聞いていた。信号で止まり、俺は七斗の方を見た。七斗はジュースの缶を見つめたままだったが、やがて何かに納得したように頷き、顔をあげて俺を見ると笑顔を浮かべた。それは、本当に純粋な笑顔であって。
「ソラくんはパパとママに会いたいから、だからパパとママとつながっているお空を見るんだね」
 笑顔で言うその言葉は、あまりに悲しいような気がして、俺は息を飲んだ。素直なその意見は、でもあまりに幼すぎる気もした。信号が青に変わり、黙ってアクセルを踏み直し信号を通り抜けた。相変わらず車どおりの少ない裏通りを抜けて、少しだけ開けた道に出る。とはいっても、郊外の割と田舎の方なだけあって、車通りは日曜といえどそんなに激しくなくて。
 何を言ったらいいか分からず、俺は黙っていた。
 幸せな、優しく綺麗な、俺とは違う世界。その世界に生きていると思っていたあの少年は、でも、もしかしたら、残酷な大人の犠牲になっているのか。自分の子供を見捨てるという親の身勝手を、あの子は経験したのか。そう考えると、やりきれない思いが溢れてきそうだった。
 七斗は、それを全て知っていて、あの子の横であの子と一緒に笑うことができるんだ。それはひどく偉大なような、それでいて残酷なような気もした。そうやって全てを知ったうえで、七斗があの子の横で笑うのは、良いことなのか悪いことなのか、俺にはわからないけれど。でも、七斗があのソラくんの苦しみに思いを馳せることがあるのだろうか。七斗が、こんな幼い七斗があのソラくんの行動を笑顔で語るのは、本当に正しいことなのだろうか。
「ソラくんは、ななとちょっとだけ一緒なんだね」
 俺の考えを遮るように、突然、七斗がそう呟いた。俺は再び驚いて七斗を少しだけ見た。一緒……? 俺がその意味を考え出す前に、七斗はジュースの缶を傾け一口飲み、そして言う。
「ななもね、お空を見るのよ。ななが見るのはお星さまなんだけどね。ななね、パパに会いたいからね、毎日お星さま見るんだよ」
 少しだけ笑顔を浮かべたまま言う七斗の言葉を聞いて、俺はドクンと心臓が鳴ったのがわかった。七斗の言葉、頭が瞬時に分解して、そして俺はその意味を考えた。ハンドルを握る手に少し力がこもった。待て、待てよ、七斗。何だよその言葉、だって、俺の解釈の仕方が間違ってなければ。
 だって、それって……。
「――パパがね、言ってたの」
 七斗は、少しだけトーンを落とした声で、父親と交わしたという話を語りだした。


  『七斗、人はな、いつか死んじゃったらお星さまになるんだぞ』
  『お星さま? ななも?』
  『あぁ。七斗も、パパも、ママも、みんなだよ。
   人はな、みんな、お星さまから生まれてお星さまに戻るんだ』
  『んじゃぁね、パパ。なながお星さまになったら、パパ毎日ななのお星さま見てくれる?』
  『……七斗。人がお星さまになるのには順番があるんだよ。
   パパの方がきっと先にお星さまになるんだ。だから七斗がパパのお星さま見てくれよ』 
  『パパ、お星さまになっちゃうの……? そしたらもう会えないの?』
  『そんなことない、いつでも会えるよ。七斗が会いたいときにお空を見上げてくれれば。
   それにそうなるのは、ずっとずっと先のことだよ』
  『本当?』
  『うん、七斗がもっとずっと一人前の大人になってからだよ』
  『よかったぁ。だってパパ居なくなったらいやだもん』
  『でもな七斗。お星さまになってもな、パパはいなくなるわけじゃないんだ。
   お空から七斗をずっと見ているんだよよ』
  『ずっと見ていてくれる? 本当に? ななが大人になってからもずっと?』
  『あぁ、ずっとだ』
  『約束だからね、パパ』
  『あぁ、だから七斗も、約束だよ。
   パパがお星さまになってからも、ちゃんとパパに元気な顔毎日見せてくれよ』
  『うん、ななも約束する!』


「……でも、パパ嘘つきなんだよ。ずっと先って言ってたのに、パパね3ヶ月前に交通事故でお星さまになっちゃったんだよ」
 七斗は少し怒ったようにそう言って頬を膨らませた。でもまたすぐに笑顔を見せた。
「でもね、ななは嘘つきじゃないから、パパとの約束どおり毎日ちゃんとお空見てパパに元気な顔見せてあげてるの」
 そう言って笑う七斗。そんな姿を見て、俺は頭が整理つかないまま、ぼんやりと呟いた。
「……寂しく、ないのか?」
 言った直後、ハッとした。なんでそんなこと。そんな残酷な質問を、わざわざしなくてもいいだろ俺。でも、七斗は笑って答えた。
「ちょこっとね。でもね、さっきも言ったでしょ? ななお星さま見るの。毎日パパに会ってるんだよ。それにパパはお空からずっとななのこと見てるって言ってたもの。それにね、ななにはママも居るしママも大好きだから、だから平気なの!」
 七斗はそう一生懸命話してくる。その姿は健気としかいいようがなかった。
「七斗……」
 俺はそう呼んで、そして自分が呼んでいるその名の意味を思った。あんなに父親のこと嬉しそうに話した七斗、パパだけが七斗と呼ぶって言っていた。その七斗が、俺に七斗って呼んで欲しいといった、その意味は。そう思うと俺はドクンと心臓が高鳴った。
 
 七斗は、俺を父親と重ねたのだろうか……?

「七斗は、いい子だな」
 考えた末に、俺はただそれだけ言った。我ながら、なんとも情けないというか頭の悪そうなコメントだけど。でも、七斗は嬉しそうに笑った。それに俺も嬉しくなって、そして胸がズキンと痛んだ気がした。
「でもね、ななはママのこと大好きだけど、ママはねパパが死んじゃってから、いつもちょっと悲しそうな顔しているし、お仕事とかで中々帰れないし、もしかしたらななのことそんなに好きじゃないのかなぁ」
 ちょっと笑ってふざけたように七斗は言ったが、寂しそうだった。ふと七斗の母親の電話口での声を思い出した。丁寧な優しい声。ママが居るから大丈夫と言った七斗。それでもやはり、突然母子家庭となった七斗は、寂しい想いをしているのだろう。
「七斗は、ママが好きなんだろ?」
「うん」
「――じゃぁママもきっと七斗のこと好きだよ。大丈夫」
「……うん!」
 七斗は頷いて、また笑って見せた。無責任なことを言ったかもしれないと思ったが、でもあの母親の声や七斗の態度からして、それは真実だと思った。思いたかった。何よりこの子は今、真実より大丈夫だよという声を求めている気がしたから。嬉しそうに笑う姿に健気だなと思った。学校の話などをしているとき、すごく明るかった七斗。学校でもきっとこの明るい性格なんだろうけど。それでもいきなり父親を失って、寂しくないと笑いながらも、寂しいに違いない。それでも寂しくないと言う理由、分かるんだ。俺はその気持ちが分かるから、余計に悲しく感じた。
 寂しくないって言わないと、押しつぶされそうになるから。だから自分に精一杯言い聞かせているんだ。何より、もっと何より、嫌われたくないから。七斗は、母親に嫌われたくないから、だから寂しくないと笑うんだ。寂しいと泣き喚いてもどうしようもないことが世の中にあることを、6歳の七斗は、もう知ってしまったんだ。
 無邪気だと思う。それはただひたすら無邪気な気持ちだ。邪の気持ち、辛い悲しいと人を恨むより、ただ好きでいるほうを選んだその気持ち。ソラくんも同じだ。自分を捨てた親を恨むより、ただ、会いたいという気持ちで空を見つめるソラくん。この子たちは、どうして。なんで、こんなに純粋で。健気で。俺は唇をかみ締めて、ハンドルを少しだけ強く握った。
 何だか、無性な程のやるせなさを感じた。

 七斗やソラくんの健気さを思えば思うほど、やるせなく思えることがあった。
 ソラくんを捨てた両親と、父親を失った七斗に寂しい思いをさせている母親。確かに、仕方ない部分もあるかもしれない。ソラくんの両親には何か深いわけがあったのかもしれないし、特に七斗の母親が仕事忙しいのは七斗を育てるためにも必要なことだろう。夫を亡くして辛いのも当然だ。俺がその親たちの行動を、どうこう言う権利なんて確かに全くないさ。だけど。
 親なんだから、と思ってしまう俺の考えだって間違ってないだろ。親なんだから、子どもにそんな思いをさせちゃダメだ。七斗に寂しい思いをさせているのにきっと気付いていないだろう母親も、ソラくんを捨てた両親も、それでもあの子たちは健気に待っている。好きでいるんだ。そう思うとあまりに残酷だと思う。世の中、マジでおかしいだろ。マジメな顔して平気で子どもに寂しい思いをさせている大人たちの裏で、こうやって子どもたちは健気に親を思っているなんて。
 そんな思いを平気でさせて、それでいて今の子どもは夢がない、冷たいなどと言う大人たち。もし子どもが本当にそうであるとしたら、アナタタチが子どもをそんな風にしたんだよ。
 

「――ねぇキョウちゃん」
 七斗があの明るい響きの声で俺を呼んで、俺はハッと考えを停止した。七斗の声の響きは、本当に不思議だと思う。俺の中に巡るなんかわかんねぇ黒い感情を、七斗の明るい声は何度も遮ってくれていた。少し振り向くと七斗は笑顔を見せた。無邪気な笑顔で俺を見上げている。
「ねぇキョウちゃん、お話して」
「え」
「なな、いっぱいお話して、ちょっと疲れたもの。ななね、キョウちゃんのお話聞きたい!」
「……そりゃ、あんだけ話せば疲れるわな」
「えーー」
 俺のからかうような言葉に七斗は少し不満げに声をあげる。それから俺らは二人で少しだけ笑った。
「しかしお話たってなぁ……」
「何でも良いよ!」
「うらしま太郎でもきかせてやろうか。俺流アレンジの」
「えーそれはやだぁ」
 七斗は俺の言葉に笑いながら言う。俺もまた笑った。笑いながら、ただ楽しそうに笑う七斗を見ながら、それでも俺の中の先ほどの考えは消えきれない。なんで、と頭の中で誰かが言う。なんでこんな良い子に寂しい思いをさせるんだよ。
 結局、大人ってのは、何も分かっちゃいないんだ。

「――今からちょっと前、あるところに一人の少年がいました」
 俺は自分の口が突然語りだした言葉に驚いた。なに俺、何を言おうとしている? オイ。驚いて止めようとする自分がどこか遠くにいて、冷静にその話を進めようとする自分がすぐ近くに居る、奇妙な感覚に襲われた。
 七斗が、興味深そうに、俺を見あげている。
「少年は、お父さんとお母さんと三人で暮らしていました。お父さんは中小企業の社長で、仕事は少し忙しいときもありましたが、日曜日は月に二回必ず、動物園や遊園地などに少年とお母さんを連れて行ってくれました。少年は、お父さんもお母さんも大好きで、本当に幸せでした」
 七斗への嫌味になるかもしれないと、なんだか客観的に思った。それでも止めようという気は何故か起きなくて。父親がいなくなったばかりの七斗にこんな話を何でしているんだ、俺。それ以前に、俺は一体何の話をしようとしている? こんな小さな子に、何を語ろうとしているんだ。必死で止めようとする声は、どこか遠くて。
 頭の中でなる鈍いシグナル。ただ遠くで響いているだけ。止めろという小さな声をよそに、俺は話し続けた。
「少年が5歳のとき、お母さんが少年に言いました。もうすぐで赤ちゃんが生まれるよ、お兄ちゃんになるんだよ、と。少年は、お父さんとお母さんを独り占めできなくなると思うと少しだけ寂しかったですが、それ以上に嬉しかった。お父さんも赤ちゃんの誕生を心待ちにしていて、家族は本当に、幸せの絶頂でした。赤ちゃんは少年が小学校に入学する少し前、二月が誕生予定でした」
「へぇ、いいなぁー」
 七斗は本当に羨ましそうな声をあげた。見ると、七斗は目を輝かせていた。純粋に子どもが生まれる一つの家族を羨ましがっている。腹が立たないのだろうか、と思った。父親も母親も居て、そんな幸せな家族に対して、そういう黒い感情を、この子は感じないのだろうか。最も、この話はただの幸せな家族の話ではないけれど、この子がそれに気付いているとも思えなくて。心の隅でそう考えながら、俺の口は物語の続きを語る。

「でも幸せはそう長く続きませんでした」

 そうなんだ、七斗。これはそんな幸せな話じゃないんだ。一瞬言葉を言うとき、俺は戸惑った。七斗があまりに純粋に羨ましそうだったから、否定するのが一瞬だけ申し訳なく思えた。でも、この物語を幸せに導く考えを俺は持ち合わせてなくて。
 この物語が幸せに導かれれば、だって、俺はきっと――。
 物語の雰囲気の変わり目を感じ取っただろう七斗は、表情を少しだけ曇らせて俺を見上げていた。俺はそれでもただ、先を語る。

「予定日より一ヶ月早く生まれた小さな弟は、生まれてからわずか一週間で、その小さな体に難病を抱えているとわかったからです。そして家族の生活は、突然変わりました。お父さんは、弟にかかる莫大な治療費を稼ぐためにそれまでよりずっと忙しく働くようになり、以前のように遊びに連れて行ってくれるどころか、家に帰れない日々が続くようになりました。お母さんもお父さんの秘書として働きつつ、弟の入院する病院へ通う毎日が続き、少年は家で一人で留守番することが多くなりました。それでも少年は小さな弟が病気に苦しんでいると思うとかわいそうで、だから自分が寂しくても我慢しようと決めました」

 そう、その少年は思ったんだ。小さな弟は難しい病気で痛い思いをしているんだ。だから自分は寂しくても我慢しようって。6歳違いの弟は、綾平−リョウヘイ−は赤ちゃんなのに頑張っているんだから自分もちょっとぐらい寂しくても平気だって。
 6歳の俺は、確かにそう思っていたんだ。

「でも、少年が寂しくても我慢すればするほど、少年は益々一人で留守番することが増えました。入学式には辛うじてお父さんは来てくれましたが、それ以降参観日にも運動会にも音楽会にも、一度も両親は来てくれませんでした。仕事が忙しく日々出張だと全国各地を飛び回り、また、弟の具合が芳しくない、と両親は家にも滅多に帰ってきませんでした。
 少年がいい子にしていても、逆に悪いことをしても、もう両親は忙しくて少年に気を払ってくれない、そして少年は思いました。何で自分は、ココに一人でいるんだろう、何でお父さんもお母さんも俺のことを見てくれないんだろう。寂しくても必死に我慢していた少年は、一人ぼっちの家でそんな事を考え、そして思いました。
 あぁ、あいつが生まれたせいだ。あいつさえ、弟さえ生まれなければ、こんなことにならなかった。あいつが病気を持って生まれたから、こんなことになったんだ。少年は、その日はじめて、ずっとかわいそうだと思っていた弟に、恨みを抱きました。そして思った。自分がたとえ何を思っても、何も変わらない。どんなに寂しい思いをしても、お父さんもお母さんも何も分かってくれない、それならもうどうだって良いんだ。寂しい思いをするなら、そんなぐらいなら、いっそ、」

 みんな、いなくなっちゃえばいいんだ――。


「その日から、少年は家族を嫌うようになりました。自分がいても居なくても変わらないのなら、いっそ嫌いになってしまえばいい。家族なんていらない、みんな居なくなってしまえばいいんだと、少年は考えるようになりました――」
 キシっと小さな音が、俺の声だけの響いていた車内になった。俺はその音のするほうを反射的にみて、七斗がジュースの缶を少し握りしめた音だとわかった。七斗の小さな手が少しだけ強ばっているのを見て、俺はハッとした。頭の中の鈍いシグナル音が消えて、どこか遠くで自分の語り声を聞いてた俺が帰ってきた、そんな感覚。
 ハッとした俺は今の状況を呆然と思う。俺、今、どんな話をこの子に聞かせていた? どんな顔をして、語っていた?
 家族を、大好きな父親を失ったばかりのこの子に、両親に捨てられてもそれでも両親にただ会いたいと思っているソラくんのことを語ったこの子に、俺は。
 
 どんな顔して、家族なんてなくなってしまえばいいと、語ったんだ?
 
 突然自分に押し寄せてくる後悔の波。バカみたいな話をした自分に、俺は息をひっそりつく。苦々しい思いで、いっぱいだった。
「あの……七斗、」
「……なんか、かわいそうだね。その子」
 七斗はそう言って、俺を見上げた。少し強ばった表情を少しだけ笑顔に変えて、彼女は俺を見上げていた。俺の心に押し寄せるのは、罪悪感。
「ごめん、七斗。なんか変な……ちょっと面白くない話してしまったな」
「ううん。……何か、ちょっと難しい言葉とかあって、よくわかんなかった。キョウちゃんもね、ちょっと怒ったみたいな顔してたよ」
 七斗はそう言って少しだけ肩をすくめて笑った。その軽い言い方に、七斗が気を使ってくれているのだと分かった。
「ごめんな。別に……怒ってるとかそんなんじゃ全然ないから」
 俺は七斗に謝った。本気で申し訳なく感じていた。何でこんな話をしたんだ俺。こんな、一つも楽しくないような話を、なんで。あぁ本当に、後悔しか感じない。自分が本当、バカみたいだ。もう後悔の念でいっぱいだった。

「ねぇキョウちゃん! んじゃぁね、お友達の話して!」
 思わず唇をかみ締めた俺に、七斗がひときわ明るい声でいきなりそう提案してきた。
「友達?」
「うん! さっきのお電話の、大きな声の人のお話!」
「へ? あぁ……スグルかぁ」
 俺は、一瞬考えてすぐにスグルのことだとわかった。いやしかしスグルの話って……まぁアイツはかなりエピソードの多い男だから、直接に見たのとスグルや他の人から聞いた話と合わせるといろいろあるけど、しかし。
 俺は七斗をチラリとみた。ひどく一生懸命な七斗の表情に、ある意図を感じとれた。俺はワザと軽口で答える。
「いいけど、あいつかなりバカだからバカな話しかないぞ?」
「えぇーそぉなの?」
「うん、たとえばね、あいつ高校生の時にバイクでスピード違反して警察に捕まってさ、その時に”腹が痛くて、早く家に帰ろうと思って”って仮病使って言い訳したら、パトカーで病院まで連れてかれて検査されることになったとか」
「えーー?」
 七斗が楽しそうに笑い声を上げた。俺も七斗と一緒に笑って、そして思い出す限りのスグルの奇妙な行動などを話した。できるだけ明るく楽しそうなエピソードを選んで。だって、七斗が気を使ってスグルの話を振ってくれたのだと気付いていたから。それが意識的か無意識かはともかく。
 でも、一つだけはっきりと分かっていた。七斗は、こんなに小さくて無邪気な七斗は、でも既に他人を気遣うというコトを身に付けてしまっているということ。それがすごいと思うと同時に、切なくも感じた。
 前に何かのテレビで言ってたことを聞いたことがある。本当は小さな子どもの方が大人の何倍も"人に気を使う"ことができる、と。小さな子どもは無意識に、時には"子どもである"ことを利用してまで、周りに気を使うのだと。そんな話が突如、頭に浮かんだ。それは真実なのかもしれないと、強く感じた。子どもは無邪気だという言葉は、そこからきているのかもしれない。七斗をみて強く感じた。そう感じながら、俺はハンドルを切ってスグルの話をできるだけ明るい声で語った。
 七斗の笑い声が車内に響く。話しながら、ふと俺はさっき自分が語った話を、思った。無意識に口をついた言葉。

 "寂しい思いをするならいっそ、嫌いになってしまえばいい――"

 自分が言った言葉に、驚いた。俺は、あの当時の俺は"意識的に"家族を嫌いになろうとしたのだろうか。そうすることで、自分を保とうとしていたのだろうか。
 小さな子どもは、周りに気を使う。
 じゃぁあの当時、俺は何を思っていた? あの当時の俺は何を思って家族を嫌いになった? 嫌いに"なろう"とした? もしかしたらそれは俺の、子どもだった俺の、両親に対する精一杯の気遣いだったのだろうか?
 ボンヤリと頭の片隅に浮かんできたその思いを、俺は振り払った。こんなコト考えてたらまた変なことを口走りそうな気がした。
 今更、自分を正当化する気も理由もない。当初の理由なんて、もういらない。

 俺は家族を捨てたんだ。


 郊外の町並みが少しづつ、夏の夕方の雰囲気を帯びてくる。七斗の笑い声を聞きながら、俺は道路を通り抜けてゆく。"いつもの店"まであと僅か。
 
 様々な深みをはらむ純粋な世界を抱くこの子とのドライブも、
 あともう少しで折り返し地点――。



act.6

 スグルの話は結構盛り上がった。というより、さっきまでの奇妙な感覚を消そうと俺はことさら明るく話したつもりだ。スグルの話題を中心に俺と七斗は色々と軽いノリの話を続けていた。そしてふとその話が途切れたのも束の間、
「わぁ……」
 暫し沈黙が訪れた車内に七斗の感嘆の声が響いた。窓の外を覗き込んだ七斗は、俺を振り返る。
「キョウちゃん! 見て見て、すごぉい!」
 七斗が窓の外を指差す。窓の向こうは田んぼ道だった。俺の目的地、"いつもの店"は街中からけっこう離れた田舎の方にある。田んぼ道に続いてそびえ立つのはうっそうとした木々に囲まれた立派な石段。この石段を登りきったところには、由緒正しいといった感じの神社がある。結構この辺りでは有名な神社らしい。七斗が圧倒されたのは、その石段の両脇に立つあまりに立派過ぎる木々だろう。樹齢何千年とかありそうな木だってある。その木々についた青々とした葉が一斉に石段の上で揺れる姿は、何度となくこの前を通った俺でもすげぇと思う。七斗は目を輝かせて言う。
「木が踊ってるよ、キョウちゃん!」
 やはり子どもの発想というのは無邪気だ。俺はちょっと笑いながら、そうだな、と同意した。
「七斗はこういうでけぇ木に囲まれた神社とかあまり見たことない?」
「うん。ななのお家の近く、こんなおっきな木とかないよぉ。すごぉい、まるでビルみたい!」
 このあたりは都会の子どもって感じがする。俺もそうだけど、七斗もやっぱり、木よりもビルを見て育った子だ。
「まぁビルの方がよっぽど高いけどな」
「んー……でもさ、キョウちゃん。木って自分でここまでおっきくなったんでしょ? でもビルは人が作るから、自分でおっきくなったわけじゃないから、だから木の方がすごいんだよ、きっと」
 七斗がにっこり笑ってそう言う。俺は思わずキョトンとしてしまった。
「……なるほど、確かにそうだな」
 七斗ってすげぇ、俺が思わず呟くと七斗は笑い声を上げてありがとぉと言った。俺の呟きは本心だった。七斗の発想は、何だかすごい。思いがけない角度からの発想を聞いていると、何かまるで違うものが見えるような、そんな感じがした。そう例えば、人が作ったものより自然の力がすごい、当たり前といえば当たり前なような、よく世間で叫ばれるようなその発想を、純粋な目で自分が感じ取ったものとして語る、そんな発想。
 それは七斗がすごいのか、それとも子どもは皆そうなのか、それはわからないけど。でも、子どもはやっぱり多かれ少なかれ、七斗みたいに思いがけない綺麗な発想を持っていると思う。逆にいえば、それを失ったらそれは大人になったということなのかもしれない。そんなことをふと思った。
「ねぇキョウちゃん」
 七斗が俺を呼ぶ。俺が七斗の方に少し視線をやると、七斗は俺はジッと見上げてきた。
「そういえばね、ななたち今どこにむかってるの?」
 おぉ、今更な質問だな。俺は思わず苦笑した。今の今までそこを気にしなかったってある意味すごいと思う。
「もうあと十分ほどで着くかな、フロインディンっていうお店」
 時計は五時を少し回ったところだった。六時よりは大分早いな。スグルはまだ着いていないかもしれない。
「そこで何かあるの?」
「ん。ちょっとな、友達と会う約束してんの。それ終わったら七斗送ってやるからな」
「え」
 七斗が一瞬驚いたような声をあげる。うん? と俺が聞くと、あぁそっかぁと七斗は小声で呟いた。
「忘れてた。そっかぁ、もうすぐキョウちゃんとお別れなんだー」
「ん、まぁそうだな。まぁまだ数時間は一緒に居てもらうことになるけど」
「……もうあとちょっとだけなの?」
「うん。七斗のママにもそう約束したしな」
 七斗の声の様子が少し変わった気がしつつも俺がそう言うと、七斗は暫く黙った。そうして、明らかに声のトーンを落として呟いた。
「……寂しいな」
「七斗?」
 七斗の言葉に、反射的に七斗の名前を呼ぶ。でも七斗はやはりトーンを落とした声で、呟く。
「なな、もっとキョウちゃんと居たいな」
 七斗が下を俯いてそう言うもんだから、俺はそのまま言葉に詰まってしまった。こんな風に言われたら俺どうしたら良いんだろう。戸惑いつつ、一方でボンヤリと七斗はこんなに小さくても女なんだなぁとか思ってしまった。女性は別れ際に男を惑わせる術を本能的に知っている、という本気だか何だかわからない事を俺は昔聞いたことあるが、それが今ふと思い出された。そうだよ、これがもし子どもでも男だったなら"男らしくねぇぞ"の一言で片付くだろうけど、相手が女の子ならそういうわけにはいかない。何て言ってやるべきなんだ? 俺は悩みながら、ハンドルを切る。車内にはどことなく気まずい沈黙。それを破ったのは、意外にも七斗だった。俯いていた七斗は、突然ハッとしたように顔をあげて叫ぶように言ったんだ。
「あっごめん! ごめんなさい、キョウちゃん!」
 え? 突然の謝罪に俺も驚いて七斗を見る。七斗は顔をしっかりあげ、俺のほうを見つめていた。
「あのっ、あのね、ななワガママ言わないからね! 寂しいけど、ママとも約束したし、だからキョウちゃんとのお別れもちゃんと我慢するからねっ!」
「七斗?」
 あまりに必死な様子でそう言う七斗。俺はその状況のあまりの突然さに、ただ呆然と聞いていた。
「なな、わがまま言わない。……ごめんなさい。キョウちゃん困らせて、ごめんなさい」
 七斗は再び俯きかけ、どんどん声を小さくしながらそう呟いた。そうして車内に沈黙が降りた後、俺はまた再び戸惑っていた。わがままって、そんな。ただ寂しいと言ったそれが? さっき、ソラくんに会いたいとねだった時とはまるで対照的なその態度に俺はただ驚いていた。しかも、それをわがままと思った瞬間に、こんなに激しく謝罪するのか? わがまま言わないから、困らせてごめんなさい。そのフレーズがまた頭の中に流れる。未だに突然の状況をよく飲み込めないまま、だが俯いてしまった七斗が何だか俺はかわいそうに思えてきた。結局、最初の考えに辿り着く。何を言ってあげればいいか。俺は何だか奇妙に緊張しつつ、口を開いた。
「……わがままじゃないよ」
「……え?」
「俺も七斗とお別れ、さびしいよ。でも仕方ないから、な? だからお別れまでは、いっぱい話そうぜ」
 七斗が納得してくれるかどうか心配だったけど。俺なりに考えて、でもちゃんと本心でそう言ったら、七斗はおずおずと顔をあげて俺を見て、そして少し引きつったながらも、笑顔を浮かべてきた。
「……うん」
 ちょっと遠慮したように頷いた七斗に、俺も頷き返す。ふとフロントガラスの上空を見ると、まだ明るい夏の夕方の空の真ん中に居座る薄い月が目に入った。俺はまた少し七斗を見て言う。
「七斗、ほら。月見える」
 七斗がチラリと俺を見て、それから俺の視線をたどって身を前に少し乗り出した。
「えっ? あっホントだ!」
 そう叫ぶと、七斗はようやくしっかりとした笑顔を見せた。何だか俺は安心する。身を乗り出したまま、七斗は言う。
「あ、ねぇキョウちゃん。もう五時なのにお空全然明るいね」
「そうだな。月もきっと暗くなるの待ちきれなくて出てきてしまったんだな」
「へへ。慌てん坊さんだね」
 七斗はそう言って笑った。あぁこの子はやっぱ笑ってる顔が良いな、と感じた。とにかく嫌味なく、ただ無邪気に笑う子だと思った。その笑顔を見て、俺も少し笑う。自分が子どもの発想に合わせて、月に対して"暗くなるのを待ちきれなかった"、そう表現したことに少しだけ驚きながら。
 この子と居るこの数時間で、俺、何かちょっと影響受けてる……? 
 そう思って、ふと、それはこの子に対して俺もまた影響を与えているのでは、という不安に変わる。俺の影響。それは、きっと、真っ黒な。黒が白を染める、昼間ソラくんと出会ってた時の自分の何だか重苦しい考えが一瞬頭をよぎりかけ、俺は軽く頭を振って振り払った。駄目だ止めろ、考えちゃいけない。考えたところで何も意味はなさない。意味のない、楽しくもなんともない考えや物事に囚われるのは嫌いだろ? 大丈夫、大丈夫だから。自分に言い聞かせる。
「ねぇキョウちゃん、何でお月さまって毎日大きさが違うの?」
 七斗が少しだけ首を傾げて突然そんな質問を投げかけてきた。俺は一度息を吸って、一瞬頭をよぎった重苦しい自分の発想を完璧に消した後、昔理科の授業で習ったようなことを一応頭に思い浮かべる。でも、そんな特別成績良かったワケでもないので、今更はっきり思い出せない。
「さぁなんでだろ、その日の気分とか?」
「えーー?」
「きっと気まぐれなんだよ。あ、今日は大きくなってみよう、今日は小さい方がちょっとお洒落かな、とか」
「ふぅん。お月さまって意外とわがままなんだねぇ」
 七斗がそう言って納得してしまったもんだから、俺は思わずまぁ冗談だけどなと付け足す。七斗の"えーー"という笑い声の混じった非難の声を聞きながら、俺はふと思った。わがまま。さっき七斗が言った言葉だ。
 わがまま言わないから、ごめんなさい。ソラくんの時には多少強引なぐらいに一生懸命頼んでいた七斗がそう言ってあっさり引き下がった。七斗にとって、ソラくんの時はわがままではなく、さっきはわがままだったのか? いやそれとも、もう既にわがままきいてもらったから、とかそういう感じか? でも、そんな感じじゃなかった。あの態度。あまりに聞き分けよくあっさり引き下がった態度。それはどう考えても、俺が本当に困っているか困っていないかで、わがままかどうか判断したような、感じだった。俺は隣で楽しそうに話す七斗を見た。
 この子にとってのわがままの基準は、人が困るか困らないかなのか? たった6歳のこの子が、どうして、そんなに聞き分けよく判断できるんだ? 俺の考えが果たして本当にあたっているかどうかわからないけど。七斗のあの態度の本当の意味は、わからないけど、でも。
 この子は、もしかしたら。ただ、いい子というよりはむしろ。

 小さい頃の俺と、一緒なのかもしれない。
 早く、早く大人になろうとしていた、あの頃の俺と――。


 何だか、気付いてはいけないことに気付いてしまった気がした。奇妙な罪悪感のような後悔のような、変な思いが胸に絡んできたその時。
 目の前に、"いつもの店"が見えてきて。

 七斗の無邪気な笑い声が、はっきりと耳に響いた。



 道路の脇に面しているのは田んぼ。少し家が途切れた道の脇に、ぽっかりと浮かび上がるように"いつもの店"こと"フロインディン"は突然現れる。ブロック塀に囲まれた駐車場に、俺は車を入れていく。駐車場といっても、砂利の引かれた広場という感じであまり綺麗に整備されていないこの場所は、数十台は車が止まりそうな程に無駄に広くスペースがある。そしてその同じ空間内、ブロック塀に囲まれたその中のすみっこに、その店はこじんまりと存在するのだ。
 店の向こう側には小さめの森のような、木が茂った空間があって、田んぼの向こう側は木の生い茂った低い山が連なってる。五時といっても七月の五時は大分明るいが、この辺りはその木々山々のせいで少しだけ薄暗い印象がある。駐車場の奥の方の適当な位置に車を停めながら、店の近くに止まっている数台のバイクに目をやると、スグルの愛車が確認できた。なんだ、あいつもう来てるんじゃん。
 この店はこのとおり、けっこう辺鄙なところにある。だが今もバイクが数台止まっているように、結構俺らぐらいの世代の奴らの溜まり場だった。一応アメリカ西部風の居酒屋らしいが、まぁ高校生なんかも結構集まってきたりする。それはこの通りをこのまま抜けていくと横浜の街中への近道になるとかそういう交通の便的な人気もあるが、それ以上にこの店そのものが人気だった。落ち着くんだ、ここは。それはきっと、店のマスターのおかげでもあるんだろうけど。何でかわかんないけど、俺が高校時代とかつるんでた仲間らは皆、この店がすげぇ好きだった。
 車を停めてエンジンを切る。七斗が窓から四十メートル近く離れた店のほうをじっと見つめていた。
「キョウちゃん、あのお店がフ……フロ……えっと……」
「フロインディン。結構いい感じだろ?」
「うん、かわいー!」
 七斗がにっと笑ってそう言った。フロインディンはログハウスのような見た目をしている。こじんまりした感じの存在の仕方と、中からもれるオレンジ色の灯が、懐かしく感じた。鍵を抜き俺が車を降りると、七斗も助手席から飛び降りるように車を降りる。見るからにはしゃいでいるのがわかって、俺は自分でも苦笑なのか微笑ましいのかよくわからない笑いを漏らした。と、俺らが車を降りたとき、店から一人の人間がまるで見計らったように出てきた。
「あれ?」
 俺は思わず声をあげた。その人間はキョトキョトとキョドった感じで暫く辺りを見回した後、こっちに気付いたように俺らのほうで視線を固定し、じっと見つめてくる。俺もそんなに視力良いわけじゃないけど、コイツは相当悪いらしい。じーっとまるで見定めるようにこっちを見ているのがわかる。車の前で思わず立ち止まってしまった俺と七斗をじっと観察するように身を乗り出して見ていたその人物は、突如まるで何か名案でも閃いた時のように両手をポンっとあわせ、そしてこっち向かって駆け寄ってきた。この一連の動き、相変わらずのわかりやすいオーバーリアクション。あぁ本当に変わらない。俺は自分が口許に笑みを浮かべているのを自覚した。
 駆け寄るまでは派手なリアクションだったが、駆け寄り方は何ともやる気なさげだ。少なくとも本気で走る気はサラサラないのだろう。近づいてくるにつれて顔がはっきり見えてくる。が、七斗はソラくんを発見したときにもう証明済みなように大分視力が良いらしいから、もうハッキリと顔が見えてたみたいだ。その人物を目をパチパチさせながら見つめていた七斗が、小さく息をつくように呟いた。
「キレーなお兄ちゃん……」
 本音だろう。七斗は思わず呟いたという感じで、その後目をパチパチさせながら俺のほうを見上げてきた。俺は七斗に対し、軽く笑いながら頷いた。そう、今駆け寄ってくるコイツは見た目と中身のギャップが俺の知る人物の中で一番激しい奴で。
 スグルは、とにかく見た目が特上である。

「キョーォちゃん!」
 ウェーブがかった長めの茶髪をくしゃりと掻き揚げ、その極上の見た目の人物は、頬のあたりを緩めて人懐っこい笑顔を浮かべてきた。七月なのに手が隠れるくらいに袖の長いダボダボのロンTを着たスグルはその袖で俺をペシャリと軽く叩いてきた。
「超・ヒサシブリ! うわーマジでキョウちゃんだぁーうわっ俺マジ感動!」
 スグルはテンション高い声でそう叫んだ。本当に相変わらずだ。俺はその袖を軽く掴んで、笑う。
「ホンット変わんねぇな、スグルは」
 そのテンションどーにかしろよ、と言ってやるとスグルはへへっと笑って俺のトレードマークだからムリ! と宣言しやがった。あぁ本当に変わんねぇ。髪が少し伸びた以外は、小柄な体から繰り広げられる妙に高いテンションも人懐っこい笑顔も、高校の頃とちっとも変わらない。スグルはそれから少し視線を落として七斗に目をやるなり、七斗の前にとんでもない速さでしゃがみこんだ。
「なになにこの子! かっわいーじゃん! なに、キョウちゃんの子ども!?」
「いやいやいや、いくつん時の子だよ」
 食って掛かりそうなスグルから思わず七斗をかばいながら突っ込む。七斗が今小一だから……13で父親じゃん俺。うわ、ありえねぇ。俺の突っ込みを聞いているのか聞いていないのか、スグルは七斗の前にしゃがみこんだままニコニコ笑ってる。
「えー超かっわいー名前なんてゆーの?」
「……七斗、大島 七斗」
 七斗はスグルのテンションにちょっと呆気にとられているようだが、スグルの人懐っこい笑顔に、あまり人見知りのないらしい七斗は少しはにかみながらも笑顔でそう答えた。てゆうか俺、七斗の苗字を今始めて知ったぞ。スグルは相変わらず微笑んだまま、七斗の頭を撫でた。
「ふぅん、七斗ちゃん? かわいー名前だねぇ」
「えへ、ありがとぉ。お兄ちゃんは?」
「俺? 俺はスグル。よっしくねーななちゃん」
 スグルと七斗は何だか既にすっかり和んでいる。スグルが名乗ると、七斗はあっと叫んで俺を見上げた。ん? と俺が七斗を見返すと、七斗は嬉しそうに目を輝かせていた。
「キョウちゃん! このお兄ちゃん、スグルってさっきの……えっと、えっと」
「あぁうん、さっきの話の人だよ」
「ふぇ? さっきの話?」
 俺と七斗が分かり合ってる中、スグルだけ頭の上にハテナマークが浮いている。七斗は必死に何かを思い出そうとしている。
「えっとね、えっとね……あっそうだ! オカマさんがいっぱい乗った車をヒッチハイクして危うく"ていそうの危機"だったお兄ちゃん!」
「うげっ何で俺のそんなデンジャラスな過去知ってんの!?」
 七斗が出し抜けに叫んだエピソード。よりによってそれかよ、と俺は苦笑。そしてスグルは絶叫。色々話したエピソードの中で七斗が真っ先に思い付いたのは、スグルにとっては本気で思い出したくないエピソードらしい。
「えへへ、キョウちゃんが教えてくれたの」
「キョウちゃん!? アナタ何でそんなデンジャラスな話してんのよ!?」
「いや俺らはデンジャラスも何もねぇし。デンジャラスなのはお前だけで」
「ひでぇキョウちゃん!」
 スグルが俺の耳元で叫ぶ。はいはい、うるさいよスグルくん。何だか一気に賑やかしいスグルだが、七斗はキョトンとしながらも楽しそうだ。とりあえずスグルを宥めかしながら俺たちはフロインディンの方へ向かって歩いていった。その間、七斗はジッとスグルを見上げていた。
「どうかしたのー? ななちゃん」
 店のすぐ近くまで来て七斗の視線に気付いたのか、スグルが再び七斗の前にしゃがみこむ。スグルの笑顔に七斗も笑顔を返した。
「ううん。あのねぇスグルちゃんって本当きれぇだねぇ」
「あらぁ褒めてくれるのー? ありがとう」
 七斗のある意味唐突な褒め言葉に、スグルは笑顔を返す。スグルちゃんにななちゃん……いつのまにか二人はもう既に呼び名まで決まってしまったらしい。しかし、七斗の発言に俺はちょっと驚く。スグルは実は容姿のことをあれこれ言われるのあまり好きではない。何を言われても笑顔のスグルだが、本当はキレイだとか女顔だとか、そういう言葉はあまり好きではないらしい。それならヘアピンで髪を留めたり、髪を伸ばしたり、そういうのからまず止めればって言ったら"そういう中にあるカッコよさこそ本物じゃん?"と何だかわかるようなわからないようなことをフザケ口調で言われた覚えがある。でも、今の七斗の言葉にスグルはただ笑っただけだった。その笑顔は何となく作り物じゃない気がした。
 無邪気な子どもから発せられた言葉には、何か力があるのだろうか。
「そのオレンジ色のお星さまもすっごいかわいーね。スグルちゃんにすっごく似合ってる!」
「あ、マジで? 俺もこれ気にいってんのー。あ、んじゃ褒めてくれたお礼にななちゃんに一個あげるよー」
 スグルは七斗が指した、自分の髪の両脇を止めていたオレンジ色の星型のピンを笑顔で一つ外して七斗の栗色の前髪に止めた。七斗はそれを手で抑えて目を輝かせた。
「本当にいいの? スグルちゃん」
「うん。あーななちゃん似合うー。超カワイイ」
「本当っ!? ありがとぉ」
 ――何か、スグルと七斗すげぇ勢いで仲良くなってるんだが。俺はその速さにただ呆気にとられ、どうしたら良いかちょっと戸惑ってしまう。しかし、微笑ましい光景だなとも思う。何かこの二人、雰囲気が似ているんだな。そう感じた。
「あっんじゃぁね、スグルちゃんに代わりにななのピンあげるー。ピンク色のね、キラキラついたやつ今日持ってるの!」
「あっマジー?」
 七斗の提案にスグルもすぐのったが、そこで七斗がまたあっと叫んだ。
「キョウちゃん! なな、車におカバン置いてきちゃった」
「え? ……あー、そういや」
 七斗が車の中で持っていたカバン。スヌーピーの顔の形をしたやつで、その中には俺が車に乗り込んだときに七斗が拾っていたというビーズや、そしてきっとスグルにあげようとしたピンなんかも色々収まっているんだろう。そういや、持ってない。
「とってこいよ、鍵開けれるか?」
「うん」
 七斗に車のキーを渡す。七斗はちょっと待っててねーと笑顔で言って、小走りに車の方へ戻っていった。
「走ったら転ぶよななちゃん、ゆっくり行っておいでー」
 スグルの声を聞いて七斗は振り向いて笑顔のまま頷くと、スピードを落とした。その後姿を俺とスグルで見送る。

「――で?」
 来るか、と思った瞬間スグルが言った。あまりのジャストタイミングに俺は思わず笑いそうになった。分かっているが、なに? と尋ねる。スグルはわかってんだろ、と言う風に俺をチラリと見た。
「すっげぇカワイイんだけど……何ですか? あのお嬢ちゃん」
「お前大分馴染んでたな」
「そりゃぁキョウちゃん、俺どこからどー見ても無類の子ども好きに見えるでしょー?」
「……すっげぇうさんくせぇ」
 俺の言葉にスグルはくくっと笑った。そして、そんで? ともっかい俺の顔を見る。
「――親戚の子とか、そんなんわざわざ連れて来ないだろうと思うんだけどさ」
「……まぁね」
 俺は空を軽く見上げて呟く。何とも予測不能だった七斗との出会いを言ったら、コイツ一体どんな反応するんだか。考えるとちょっと笑えた。
「キョウちゃん?」
「――車にさ、乗ってたんだよな」
「……は?」
 スグルがキョトンと俺を見る。俺はスグルに向き合って、苦笑しながら言う。
「車に、七斗乗ってるの気付かなくてさ。そのまま盗っちゃったワケ」
 スグルはしばらく無言で俺を見ている。ややあって、
「……ジョーダン?」
「マジ」
 スグルは目を瞬かせて、え、でも、気付かないって何で、とかそんな事をガチャガチャと呟いた。俺はため息をついて空を仰ぐ。
「俺だってビビったって。だって車盗んで走らせて、ふと後ろ向いたら子ども居るんだぜ? 幽霊か何かかと思ったって」
「てゆうか気付くでしょ!? フツー。キョウちゃんアナタなにやってんのさ!」
「あんなちっちゃいのがシートの下もぐりこんでたらフツーわかんねぇって」
 俺の言葉にスグルはでもさぁと唸る。キョウちゃんそれビミョーに誘拐じゃない? の言葉に俺は笑った。やっぱ考えることは皆同じか。スグルは、俺の笑い声聞きながら笑い事じゃないでしょうよ、とため息をついて空を見上げた。そして。
「で、その車を売ろうって? キョウちゃん相変わらず大胆だねぇ」
 スグルは軽く笑ってそう言う。
「いや、スグルに電話してからなんだけどな気付いたの。でも今更車返すよか、七斗ごまかして家に返して裏ルート流した方がこの際良いかなって思って。七斗の母親にも何か一応話しつけてさ、七時か八時頃には送ってくつもりだし」
「……ナルホドね」
 スグルは少し肩をすくめた。そして笑う。ホンット、キョウちゃんって時々思いがけない事やらかすよねぇ。俺はその言葉にそうかもなって笑った。思いがけないこと。小さい頃から時々言われてた。思いがけないことをする子に、俺はなりたかったから。
 思いがけないこと、はちゃめちゃなこととか。それをすれば何かが変わると信じていた時期もあった。結局それは俺に、期待しないことと諦めることの意味しか与えてくれなかったけど。
「――そういや、スグル」
 とりあえず七斗の話は理解してもらえたみたいだから、俺もスグルに一つ疑問をぶつけることにした。さっきからずっと思ってた疑問なんだけど。
「うん?」
「お前、わざわざ俺らをお出迎えに来てくれたわけ?」
「へ?」
「いや、お前、早速車の点検するのかと思ったら何もする気配なかったし」
 俺は足元の砂利を足で弄りながらスグルに言った。あぁ、とスグルは頷く。
「うん、まぁちょっと一休みしてからでいいじゃん? 折角久しぶりに会ったんだしさ」
「うんそれはそれでいいけど、んじゃお前何でわざわざ出てきたのかなーって」
 スグルはまた、へ? と声をあげた。そう、いくら久しぶりだからってそんな外に出て待ち構えるってのも……いやスグルならありえるかもしんねぇけど。と、スグルは突然叫んだ。
「そだそだ! 忘れてた!! 俺ちょっとどうしようかと思って!」
「あ? 何が」
 スグルの突然の叫び声にちょっと眉をしかめながら俺が答えると、スグルの方こそ少し眉を寄せて声を小さく呟いた。
「……あのさぁ、」
「うん」
「文ちゃんが来てるのよね」
 最近滅多に来ないのにさ、ちょっとタイミング悪いなぁとか思っちゃって。スグルはそう付け足してどうしよって顔で俺を見た。
「……アヤ?」
 その名前を俺は反射的に繰り返していた。その響きは懐かしかった。
 高校時代、俺に大きな影響を与えた人物。そしてそれ以上に俺もきっと影響を与えていた。一時は、本当にかけがえのない存在で互いに必要な存在だった。
 
 文は、俺の元カノだ。


――続


2006/01/07(Sat)17:54:10 公開 / 十魏
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです。そしてあけましておめでとうございます。新年になっちゃいましたね。年末年始バタバタと色々忙しく、中々こちらに訪れることもできませんでした。てゆうか、二週間後に実はある種の大勝負を控えてて、これからも中々来る事ができないかもしれませんが; まぁ少しづつ更新できたらと思います。
 今回は少し場面が変わって新たな人物も出てきました。スグルくん、ずっと書きたかったのでやっと書けて嬉しいです笑 このあたりから物語の雰囲気も少しづつ変わっていくかと思いますが、それぞれの人物を様々な側面から書いていこうと思うので、そういうのを感じ取って楽しんで読んで頂けたら嬉しいです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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