『【創作祭】世界は密室という名の揺り篭』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:覆面レスラー                

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Opening out

“生きる意味はとっくの昔に失っていたのかもしれない”
 
それは紛れもなく、《魔法使い》として生きる僕にとって《初めて齎された生存願望の喪失(ファーストインプレッション)》だった。
初めてその喪失が訪れたのは、春先に建設されたばかりの地上一七七メートル六十三階建て高層マンション《アラウルネ》屋上から見下ろした僕の故郷である浅海町が、光の屑と、黒い塵で寄せ集められて完成した《絵巻物(タペストリー)》にしか見えなくなってしまった瞬間だったと明確に記憶しているわけではない。
が、それ程唐突に、刹那に、崩壊は始まった。

◇◆

時刻は黄昏――
黄金色に輝く太陽がバターのように溶けてオレンジ色に積雲を濡らし、会社帰りのサラリーマンや、学校帰りの学生、買い物帰りの主婦や、帰路につく子供達――そういったもので、街が賑わいを見せ始める頃。産まれ立ての雛のような緩やかさで喧騒に満ちていく街は日が落ちる束の間に、燦然と輝やきを放っていた。
それは僕が《悪魔》を殺した、という行為など到底受け入れてくれそうになどない、表向きの煌きに満ちていて、《魔法使い》である僕にしてみればまるで偽物みたいだった。
僕は春一番の強風にコートの裾を煽られながら、《アルラウネ》屋上の吹き曝しコンクリートに横たえた《悪魔》の隣に佇んでいた。
僕の手によって殺された《悪魔》は、無造作に腹部を裂かれ、真っ赤に熟した《禁断の果実》と呼ばれる内臓を捥ぎ取られ、僕に喰われていた。
一人の《魔法使い》が一匹の《悪魔》を喰らい尽くそうとしていた。
一匹の《悪魔》が一人の《魔法使い》に喰らい尽くされようとしていた。
だが、その行為はカニバリズムでも征服欲でも何でも無く、常習化された行為だ。
《魔法使い》が《悪魔》を喰う。
それはいつしか、《魔法使い》たちが無意識下の元に在った、ありきたりの理屈だ。
抑え難い欲求という範疇では、性欲や、睡眠欲と同義のそれに似ている。
もしかすると、本能に近いのかもしれない。
僕が《魔法使い》になるずっと前から重ねられてきた行為だから。
僕の師匠であるバラック師父――
彼は僕に対して幾度と無く、理由があろうが無かろうが殺生を窘めた敬虔なる神教徒であったが、それでも月に一度は両手と口を悪魔の内臓による血で染め、欲望を満たさなければならなかったのを僕は知っている。
だから、殺す事や、
喰う事に、
まったく罪悪感なんて沸かない。
良心や悪意を通り越して、罪や罰の観念すらも抱かない。
気づくと、握り締めた内臓は、残り僅かになっていた。暫く喰っていなかったせいで、空腹だったのだろうか。ものの数分経たないうちに、僕は《禁断の果実》を食い尽くしていた。
最後の一口を惜しむように指で摘み上げると、口の中に放り込み丁寧に咀嚼し嚥下する。
血で滲んだ果実の旨味に、喉の奥がごくりと鳴った。
そうやって、いつも通りの行為を、いつも通りに終え、満たされた腹具合に溜息を吐きながら指先の血を舐め取った瞬間――

僕にとって致命的な、ソレが――
僕の目によって、捉えられた。

ソレは、強烈な終末のイメージ――

見慣れた浅海町の景色。
世界大戦の戦火を免れた町。
山々に囲まれた、陸の孤島。
ここ十年来における、避暑地。
古来の町並みと、近代が融合したリゾート地。
そして《魔法使い》になる前の僕が幼少期の十数年を生きた町。
今現在暮らしている町。

それが、
自分の足元で明滅するだけの、広大な模型に成り下がっていく。
端から、
中心から、
抽象化がじわじわと押し広がっていく。
閑静な住宅街は粒状になり、
頭一つ高いビルは直方体となり、
隙間を縫う道路は線になっていく。
サーフィスに叩き付けられた水滴が、波紋をあげるように、町の中心に聳える立つ、この高層ビル《アルラウネ》を中心とから、記号化が、崩壊が始まっていく。
やがて視界から飛び抜けた終末のイメージ画像は、瞳の奥で小さな光の点に収束し、頭蓋に鮮烈な映像を焼付けあさっての方向に貫通して消えた。
そして、虚無化のイメージが終わる。
虚無化された町が広がる。
点、線、立体。
ただの白紙に描かれた図形。
人は一人残らず消え、
たった一人の世界に残された僕に、
生きる意味の喪失を残して、
モノクロームに落ちて逝く。
そんな世界に残された僕のイメージはコマ送りのフィルムのように続き、高度百七十七メートルから重力に逆らわずに落下し、水風船が叩きつけられかの如く、身体中を駆け巡る血流が皮膚という皮膚を衝撃によって突き破り、全身の骨が砕かれ、それは表皮を突き破ってはみ出す。
肉体という皮袋が、瀬戸物みたくあちこちに散らばって、僕は毀れる。
死亡と同義の墜落。
虚無化された世界で、僕は地上〇メートルのコンクリートにぶちまけられた。
無機質と有機質。
肉と血のカタマリの悪寒。
強迫観念が、僕を突き刺す。
突き刺さっていたのは紛れも無く僕に齎されたイメージで、
死んでいたのは、僕だった。
現実とイメージが混濁し、その幻想に囚われた僕は無意識に、イメージ通りに墜落しようと、屋上の縁に足を踏み出すが、次の一歩が空を切ろうとした瞬間、死に対するセーフティーロックが猛稼動し、弾かれたように意識が覚醒――体重が残っていた足で体全体を支え、安全地帯に自らの体を引き戻す。
心臓がうねり、けたたましく悲鳴をあげている。
僕の身体は安全地帯に戻ってきた筈なのに、その景色を見てしまったせいか、既に半分以上死んでいるかのような違和感を訴える。
周囲を見渡す。
辺りには同じ高さに並ぶ建物など一つも無く、あるのは薄紫が天球儀を覆うかのように夜のカーテンを引き始めている景色だけだった。
その真下に、一つの死体と
一つの死の傾斜を転がる生命体が
無造作に配置されていた。
だが、まだ生きているのだ。僕は。
それを確認すると、終焉のフラッシュバックから逃れた安心感からか笑っていた膝が重力に耐え切れず、あっけなく地面をついた。胸を撫で下ろし、溜息を吐く。
今更、
今更だが、《魔法使い》にも恐怖なんて人間らしい感情があったのか、と再認識した。
恐怖なんて感情を実感したのは、人から《魔法使い》になった、あの日以来だった。
僕は跪いたまま、震える両手を地面に付き、四つんばいの姿勢をとると、脳裏に恐怖が浮かばないように堪える。
まるで重力に逆らうように。
堪えたまま、それは『魔法使い』として毀れる一歩手前の症状だと、
錬金術の都《ブリュッセル》で、僕に魔法を教えてくれたバラック師父が言っていた、と訴える記憶に意識を任せた。

         ◆◇

僕はまだ産まれて二十年。年月の積み重ねは数えるべくも無いが、数少ない知識の内、聞き及ぶ限りでは『《魔法使い》は毀れない』という説が最も有力、かつ一般的である。
毀れない要因として、
人と言う概念から逸脱し、失われることの無い《魔法》という概念に自らの存在を委ねているが故だとか、人として魂を磨耗させる物理法則から外れ、人として生きることから解脱したからだとか、《魔法》という人には得がたい強烈な意志の発現によって自らの存在定義を失うことがないからだとか、様々な学説が、《魔法使い》を研究する人間達によって論議されているが、その要因については未だ不透明な部分が多く、事実だけが先立ち、はっきりとした要因については得られていないのが現状である。
その反面――
《魔法使い》が毀れてしまう稀有な例については、現在までに毀れてしまった《魔法使い》のカテゴライズ化によって大体の理由が、見当、予測されている。
そこから彼等が導き出した結論は、実に《魔法使い》が毀れる要因として的を得ていた。
なにしろ、壊れてしまった《魔法使い》の内、六十六人中六十五人に当てはまる要因だったのだから。
その導き出された『要因』。
毀れない《魔法使い》が毀れてしまう理由。
それは、《魔法使い》が自分の大切な《定義(モノ)》を失った瞬間だ、といわれている。
《魔法使い》は生きる目的を失った瞬間から、時間をかけて少しずつゆっくりと毀れていくものらしい。溜まった水溜りがゆっくりと昇華し、やがては消え行くように。
そしてそれを僕ら《魔法使い》は、俗に
――“消滅”――
と呼ぶ。 

         ◆◇

そう――
そうだ。
記憶から意識を引き剥がし、ゆっくりと呼吸を落ち着け、緩慢な仕草で立ち上がる。
肌で、風の流れを感じられる程度の冷静さを取り戻してから、僕は、先ほどの消滅について考察する。僕の視覚から脳を貫く洪水のように侵入した圧倒的な情報量は、僕が、正しく“消滅”するシーン以外の何者でも無い。
なら僕は、自分でも知り得ない何処かで生きる意志を喪失してしまっているのだ。
もしかしたら、気づいているのに目を逸らしているだけかもしれないが、喪失の原点を追及すること自体はさして重要じゃない。原点など、どこにもあるし、どこにでも在り得る。
 重要なのは、その喪失が僕自身の存在を失わせていくことなのだ。
 それは、本当――
くだらない妄想で白昼夢に近かったけれど、それでも確かにそれは、僕の中に根付いた初めての乖離だった。
見下ろした町には居場所が無くて、僕の存在なんて無くても――
 そう思った瞬間から、僕は自分の存在が次第に希薄になるビジョンに囚われ始めたのだろうか?
 もし僕に、生きている実感そのものがあれば、町はきっと、こんな顔を見せたりはしない――
 それは、分かる。
 分かるけれど、その程度のモノが、 
僕にとっては大切なモノだったんだろうか?
それはあまりにも有り触れ過ぎていて、ふとした瞬間に気づくまで、決して視線を合わせる事は無い概念。
おそらく『人』なら、一生気づかず終わることも可能だったんだろう。
それが大切なモノになっていたのだろうか?
 自分自身という存在が、
誰も必要としてなくて、
誰からも必要とされていない。
なんて馬鹿げた疑念。
 周囲を流れる人、時間、空間全てから取り残されて後には何も残らない。
そんな曖昧で常に傍にあるモノが失われていく痛みに気づくはずなんて無い。
けれど、僕は『魔法使い』だから、知ってしまった?
 《魔法使い》は死ねないから、生きている人間が壊れてしまう景色を見過ぎてしまったから、
生きるという意志に固着することができないから―― 

だから僕はこうして、
生きる意味の喪失に恐怖しながらも、
やがて訪れる死を、待ち望んでいる?

 まさか、そんなことあるはずがない。
それは、自分を騙すために吐いた嘘だ。

◆◇

だが、その嘘のお陰で僕は少し、“消滅”から遠ざかれたのかもしれない。
以前より、身体に生きる実感が息づいているように思える。
それは故郷をでたからかもしれないし、
魔法を使う機会を減らしたからかもしれないし、
悪魔を喰う量を最低限に留めているせいかもしれない――
が、自分に吐いた嘘と照らし合わせるのなら一番の原因は浅海町を出るときに拾った、一人の少女にあるのだろうと思う。
 僕は、その少女に必要とされ、僕もまた必要としているのだと信じることができる。
 救済の相互関係。 
言葉なんて不自由な術でしか、確かめるしかない絆だけれども、
 僕はそうだと、
信じたかった。



 小銭をコンベアに落として、バスを降りる。
運転手を除けば、誰一人として乗っていない下り線の私営バスは、発車のクラクションを鳴らすと、重たい加速で遠ざかって行く。立ち去るバスの排気ガスに中てられながら、御蔵町を臨む標高五十メートルにある『青梅トンネル前バス停』に、僕は佇んでいた。
小雨のなか傘を差し、コートの裾から取り出した銀製の懐中時計を覗くと、既に午後六時を少しばかり過ぎていたが、約束の時間には十分間に合う。それだけ確認すると、懐中時計を仕舞いこみしとしとと小雨が降り続く山間を歩き出した。
 いつもなら、アスファルトで舗装されたこの青梅山五合地点は見晴らしが良く、ガードレール越しから顔を覗かせた御蔵町の南端に位置する青い水平線が夕暮に鮮やかに染まっていく絶景が拝めるのだけれど、雨が降っているせいで空も海も湿気た灰色で埋め尽くされているだけだった。
 五分も歩くと、待ち合わせ場所の青梅トンネル入り口付近に差し掛かる。が、人の気配は無い。
動の気配一つとしてなかった。
 おそらくこの道路の利用目的が、山の頂上へ向かうためだけにあるせいで、今日みたいな雨の日には利用者が居ないのだろう。それでも、一度だけ用心して背後を振り返り、人の姿が目視できないのを確認してからトンネルの軒下に潜り込んだ。
 傘を閉じ、水滴を払う。
 トンネルは緩やかにカーブしているせいで、向こう側から光がさすことは無く、赤色灯だけでは明るさが足りず薄暗かった。トンネル内部に入り口に足を踏み入れると、急激に湿度と温度が下がる違和感が肌を刺し、触れる空気が鋭さを帯びる。
 全身に痺れが走るような感覚。
この気配を僕は知っている。 
 会う約束をしていた魔法使いが、常日頃から振りまいている気配だ。
 一番近い感覚といえば、悪寒、や恐怖にあたるのだろうか。
 殺意や敵意の方が近いかもしれない。
周囲を探って、待ち合わせをした相手の姿を探すものの、見当たらない。
仕方なく片手に傘を携えたまま、五、六歩進むと姿の見えない待ち合わせ相手に宙に向かって、声を張り上げた。
「ハルヒ、居るんだろう」
 ――だろう、だろう、だろう――
 語尾がトンネルの曲面壁に当たって跳ね返る。
 そして、幾度か反響して――消えた。
 姿の見えない相手の反応は無く、依然人の気配は生まれない。
 仕方が無い。
 もう一度――声を上げようとしたその時、背後に魔法の展開式が産まれる。その圧倒的な質量に肌が粟立つ。
 展開された方向に体ごと振り返ると、二、三メートル後ろに霞がかるシルエットが対峙するように発現していた。やがて、シルエットは残像で歪み、姿をカタチあるものに統合させ、ものの数秒経たずに、黒い三角帽子を目深に被り目線を覆い隠した、全身を黒ローブで固め片手に《魔女ののりもの(ホウキ)》を携えた背の低い人影に集結した。
 発現させた魔法の展開式を閉じるため、少女が詠唱する独特のイントネーションが静謐を毀し――それにつれ、少女の足元で紅い閃光を放ちながら展開式はその質量を緩やかに薄らげていく。
 閃光がほとんど消える頃になって少女はようやく詠唱を終え、顔を上げた。
 トンネルの出口から射す光を背景は、少女の姿と完全に現実と結びついていた。
「久しぶりだね、レン。驚かせたかもしれないから、先に謝っておくよ。すまない」
「いや、別に驚きはしなかったけど……今の《魔法》は――」
 少女が、ああ、と頷いて首を振る。
「覚えの有る感覚からして、君だとは思っていたんだけれど――念のため《閉鎖空間》に隠れさせて貰ってただけだよ」
「隠れる――魔女狩りの追手、まだ全滅させてないのか?」
 ハルヒは口を顰め、疲れたカンジで首を振った。
魔女狩りは、百年ほど前から僕ら《魔法使い》を裁くために救済主によって作られた法則だ。
 それは、木になる林檎が何れは地に落ちるといった具合の自然界における法則を破る《魔法使い》の人数を減らし、世界のパワーバランスを保つために必要な制度と言われている――とはいったものの、基本的に魔女狩りの追手は情報を漏らさないので実情はどうなっているか分からない。
 ただ、その魔法使いが有する力に比例して、追手の人数は増える。
 僕は、おそらく普通程度の魔法使いだったのだろう。十五人殺したところで追手はやってこなくなったけれど、ハルヒ=ファルセットは魔女の中では三本指に入るとも噂されるほどの魔力を有しているので、既に五十人以上は殺しているはずだ。
 本人は数えてるのかもしれない。試しに聞いてみる。
「今度で、何人目?」
「知らない。百を超えたところで数えるの止めた。キリがないから」
「……さすが」
「ほんと、救済主側の連中しつこくてね。この前消した奴で最後かなぁ、って思ったけどどうやら現実はそう甘く無いんだよね……ボクって日ごろの行い悪いしなぁ……。
うんざりなんだけどさ――この前殺した奴がほざいていた言葉を信用するなら、やっと峠半分越えたかな?って勢いだよ」
 まったく……やれやれ、と諦めたように肩を落とすハルヒ。
 彼女が大袈裟なジェスチャーを交えている間は、まだそれ程状況は逼迫していないらしい。
 肩に腕をまわして揉み解す仕草をする彼女と、軽く近況報告を交わし、適当なところで世間話を切り上げると今日僕が呼び出された用件を尋ねた。
 僕の言葉に、ああ、と相槌を打つ。
「そうそう、今日呼び出した用件は他でもない、新しい《悪魔(エサ)》についてなんだ。また新しい奴が出現したみたいでさ。なんと今回は二匹だよ、二匹。片方は少年で、片方は成人男性」
 目深に魔女の三角帽を被っているせいで、彼女の表情は見えないが、彼女の感情を表すかのように口元が嬉しそうに、三日月に歪んでいた。
「一匹はボクが喰う。だから、今回の件に関して君のお節介は無用だよ」
「どうせなら二匹共喰ってくれればいいさ」
多くの《魔法使い》は《悪魔》を喰うことに快楽を覚えるらしく、僕のように行為を他人に譲ろうとする魔法使いは逆に珍しい。もっとも僕の場合《悪魔》を喰う行為に、快楽を覚えてしまう自分を避けたいがために、悪魔嫌いを装っているだけだが。
ハルヒは一瞬だけ悩む素振りをみせる。
「うーん……スゴくそそられる提案なんだけれど、それは駄目だね。悪魔の味がおクチに合わないからって好き嫌いは良くない。無理にでも食べなきゃ、餓死しちゃうじゃないか。ボクらは所詮《生き物》だし、そういう風に創られてる。君には生きててもらいたいしさ。数少ない生き残り同志なんだから――これから先、僕らに残された時間は永いんだよ。話が通じる知り合いが居なくなるのは寂しいじゃない」
「わかった」
 口先だけで、本当はあまり良く分かっていない。
 僕としては、別に餓死(魔法使いの餓死は、どちらかというと冬眠に近い)してもよかった。
 けれど、忠告されながらも、餓死を選択するという行為は後ろめたくて、取り敢えず一匹は自分で始末しておこう、と思った。喰う、喰わないに関係無く。
 僕の素直な返事に満面の笑みで(といっても、口元だけしか見えないが)頷いた彼女は、身体を預けていたホウキを袈裟切りに振って水滴を払った。
 水滴は重力に引かれ、怠惰なカーブを描きながらパラパラとトンネルの薄暗闇に消える。まるで魔法のようだった。乗り心地よさそうなホウキに颯爽と跨った彼女は、右手で柄を持ち、左手で黒のロングスカートを押さえながら、顔だけ振り返えらせる。
「それじゃ、息災と友愛がキミの下にあらんことを」
僕はそれに顎を少し振って返す。
ホウキは放射状の風を巻き起こすと、一瞬で遥か高みに高度を上げ、まるで飛行機のシルエットのように黒く小さく点になり、雲の向こうに消えた。
 雨が嫌いな彼女だ。
 あのまま雨雲を突き抜け、晴天の空を飛び、雨の降っていないどこか遠い場所へ一時的に留まるのだろう。悪魔を喰う楽しみを、後に残しているのかもしれない。
 まぁ、兎も角――
となると、二匹の内の一匹が喰われるのはこの町に振る雨が止んでからだろう。
なら、二匹が互いの存在を知り、共同戦線を張る前に、一匹は始末しておこうか。
 僕はまだ餓死するわけにはいかないみたいだし。それに家では、僕を待つ人が首を長くして僕の帰りを待っているだろうし。
「……六時、か。そろそろ日が沈む」
 夜の帳は町全体を囲っていて、ぽつり、ぽつりとしか街灯が配されていない此処は、一寸先でさえぼやけて見えないが、しとしとトンネルに響く音からして、雨は延々と降り続いているようだった。
入り口で傘を広げる。
その僕の傍を、思い出したように走り抜けた車のヘッドライトに照らされながら、家で僕を待ってくれている少女の事を少し想った。
 


 『CLOSE』の札がかかったアンティークショップの扉に鍵を差し込もうとドアノブに手をかけようとする。同時に、ガチャリと中からロックを外す音が聞こえ、扉が勝手に開いた。
自動ドアや僕が《魔法》を使ったわけじゃない。
ドアの隙間影から遅れて、舌足らずな声とともに、小さな顔が覗く。
「おかえりなさい、レン」
僕の同居人ユメがドアを開いてくれたお陰だった。ショップ二階にあるいつもの指定席(安楽椅子)に面した小窓から、僕の姿を認め、玄関まで先回りしていたのだろう。
「ただいま、ユメ」
 取り出した鍵をコートのポケットに仕舞いながら、店内に入る。
 ヒーターが薄く掛かっていて、外よりほんのり暖かかった。
 傘を閉じ、外に向かって水滴を振り落とすと、入り口脇の傘居れに差し込む。
「きょうは、いいものあった?」
 ホワイトブルーのスカートフリルを可愛らしく翻せながらキッチンへ向かうユメに問いかけられる。
「いいや、全然なかった……次こそいいのがあると嬉しいんだけどね」
なるべく残念そうに聞こえるように言った。
彼女は振り返って「お疲れ様」と僕を慰めるようと微笑む。
その彼女の微笑みに、僕の胸は僅かに痛んだ。
 僕は、今日外出するための用件は、品物を仕入れに行くためだと嘘を吐いていた。
《劣悪の魔女(ハルヒ=ファルセット)》に会いに行く用件は、彼女には教えていない。
 なるべくなら彼女には、悪魔を殺して食べ、生き永らえている僕ら《魔法使い》の穢れを知って欲しくなかった。殺して喰うことを正しいこととして捉えながらも、それを他人に告げる瞬間、間違っていると考えてしまうねじくれた僕を、見て欲しくなかった。
だから、僕は彼女に自分が《魔法使い》であることも教えていない。
僕は両手を広げて「次は頑張るよ」と力無い笑みを浮かべながら、コートを脱いだ。
ユメは微笑を浮かべながら、頑張ってねと声を掛け、そのままキッチンの向こうに消えた。
僕は《魔法使い》だが、人の群れに紛れ込むために、御蔵町の片隅い位置する古ぼけたアンティークショップの店主を装っている。
そして、彼女も――ユメも、偽装の一つだ。
雨の街を茫然自失のままさ迷い歩いていた彼女を拾った日から、彼女は僕にとって妹という位置づけを獲得した。彼女は僕なんかには勿体無いほど気が利く妹だ。
窓の外をぼんやりと眺める数分のうち既にテーブルにはティーカップが二人分用意されていた。背伸びをして戸棚からティーバックを一生懸命に取り出している彼女の後姿に、「部屋に帰って着替えてくるよ」と一つ声をかけて、二階の自室に向かう。
「うん」
 階段を昇ろうとしたとき、遠くから返事をするユメの声が聞こえた。
 僕は立ち止まり、こみ上げる暖かな感情を、小さく笑うことでやりすごした。 
 
         ◆◇

アクリルのセーターに着替えて、戻ってくるとユメが煎れたのだろうシトラスティーの柑橘系の甘ったるさが適度に満ちていた。廊下の角を曲がって、ユメがティーカップを用意していたキッチンに向かうと――
「おじゃま、レン」
「――サラ」
 ユメは居らず、カップの淵をティースプーンでリズミカルに鳴らしながら、肘をついた手の甲に顎を乗せ不機嫌そうな表情を浮かべたサラが座っていた。
「ユメに聞いたよ。仕入れに行ってたんだってね」
「うん」
 僕は自分の嘘に、素直に頷く。
 彼女は両手を組み、大きく伸びをしてから、あさっての方向を向いた。
「あーあ。この前言ってたのになー、今度アンティークの品探しに行くときは、一緒に連れて行ってくれるって」
 トゲのある声。整った眉根に皺が寄っている。
僕は、サラと向かい合わせの椅子の前に置かれたティーカップを、店内に置いてあるビロード製のソファに運びながら一口飲んで、喉を潤す。
 返事を待つように睨んでくるサラに、ゆっくりと間を置いてから答えた。
「ゴメン、悪かった。完璧に忘れてたよ」
 これも、嘘だ。
僕はサラとの約束を覚えていたけれど、忘れているフリをした。
 サラにも僕の穢れは見せないよう気を払っていた。
 それは、ユメの場合とは多少事情が違っていて――サラに僕の醜い部分を見られたくないのではなく、サラからユメに隠したい事実が漏れないようにと配慮した結果といえる。
「ふーん」
 クチを尖らせたサラは無造作に立ち上がると、キッチンからショーケースの隙間を踊るように擦り抜け、店頭近くのケース前に立ち止まると、たくさん並べられた時計の中の一つを、透き通るように白い指で指した。それは、去年手に入れた、コレクティブルズの腕時計だった。
「これ、この文字盤に正座が象ってあるヤツ、これくれたら許してア・ゲ・ル。初めて目にしたときから欲しかったんだよねー」
「ただでさえ客足の少ない店なのに、十万もする時計をそう簡単にあげれるわけないだろ」
「うん、取り敢えず言ってみただけ。もしかしたら約束破った罪悪感とかでくれるかなー、なんてね」
「僕が破った約束は、サラにとってその時計一つ分くらいの値段?」
僕の言葉を聞いた彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべ、次の瞬間には楽しそうに笑うと、猫の様な仕草で僕が座ったソファーの隣に身体を滑り込ませてきた。
クッションが柔らかく軋む。
肩に手が乗せられ、軽く体重が掛かる。
「ううん、そんなことないよ。きっとね、そういったものにはお金の価値なんて付かないと思うんだ」
 肩越しに僕を覗き込んだサラが上目遣いで囁く。
 僕は、その一言に戸惑って、どう答えて良いのか分からない。
人が、お金で買えないものなんてあるのだろうか。 
手に入れられないモノをある程度まででいいから手に入れるために、人はお金なんてややこしいモノを作ったんじゃないのか。叶えられない夢を叶えるために、魔法を作ったように。
 僕には、彼女の言うお金の価値なんて付かないものに全く検討がつかなかった。
 数秒、いや数十秒かもしれない。
 そうやって向き合ったまま僕が無言で居ると、彼女はポケットから手際良く取り出した二枚のチケットを僕の鼻先に突きつけた。
「今度映画見に行こう。チケットあるから」
「それは何? 今日の埋め合わせ?」
「うん」
「じゃあそれには、金銭的な価値は付かないの?」
「どうだろう?」 
「分からないのかよ」
「レンが、今度こそ、約束を、忘れなきゃいいだけの話」
 彼女は、チケットをひらひら揺らしながら、幼ない子供に言い聞かせるように文節をしっかりと力強く区切って話す。
 僕は軽くホールドアップして、了解と呆れたように笑ってみせる。
 彼女はそれで満足したのだろうか、キッチンの席へと戻ってった。
ユメにも見せてやりたいが――まあ、二回見に行けば良いか。
どんな映画かは、知らないが少し楽しみだ。魔法使いとしてではなく、当たり前の人らしい何気なくて、優しげな感情の温度に、僕は安堵に近い溜息を吐いた。最近の僕のバランスはこうして保たれているのかもしれないな。
 そこまで考えて、改めてユメの不在に気づいた。
「そういえば、ユメは?」
 ソファー越しに、紅茶受けのクッキーを頬張っているサラに問いかける。
「へ? ついさっき、疲れたから休むって言ってたけど……」
 僕の相手をサラに譲ったんだろうか。まだ子供の癖に妙に気が利く奴だ。
 ふいに、この平穏な空気に酔ってしまっている自分を遠くから冷静な目で見つめる自分に気づいた。
 
食べる為に悪魔を殺すときの僕。
 ユメやサラと幸せなひとときを過ごす僕。
 それは、どちらも同じ僕で全く違う僕だ。
 どちらが本物なんだろうか、と
暗い海のように広がる自分自身に、思考を沈めてしまうと
居た堪れない感情が胸を過ぎるけれど
どちらの僕も本物なんだろうな、と言い聞かせることで、
思考に決着を着け、
意識を浮上させる。
だけど、
だけど、もし
両方とも偽物だとしたら、
 本当の僕は何処にいってしまったんだろうか。
 それが無いから僕は《魔法使い》として喪失を覚えたんだろうか。
 分からない。
 僕は静かに目を閉じると、今度の《悪魔》はいつ殺しに行こうか、なんて他愛も無い計画を、これからの予定と照らし合わせることにした。 



僕は二匹の《悪魔》の片割れを見つけに、繁華街へでかけた。
次の日、ハルヒからファックスで送られてきた情報と、最近事件が頻発している地域を特定して絞り込むと、その日のうちに御蔵町一のキャパシティを誇る繁華街に絞り込めた。
理由は大体検討がつく。
《悪魔》は人の悪意を喰って生きる獣だから、多くの人間と戯れたがる。
それは人が集中する繁華街に一番多く蔓延していて、《悪魔》にとって格好の餌場となるのだろう。事実、僕はもう既に《悪魔》を見つけていた。
アーケードの一角で足を止める。
ゲームセンターの入り口でたむろする少年に紛れて一匹。
同じ年頃の子供達と笑いながら戯れながらも、魔法使いの眼には誤魔化し切れないほど、明らかに悪意を振りまいている、それ。
 《悪魔》だ。
 その集団が動き出すまで気配を殺し、待つ。
 動き出したのを見計らって、僕は後をつけ始めた。

         ◆◇

「見つけた」
 少年が集団から離れ、一人になるタイミング。
路地裏から手を伸ばし、何気なく肩に置く。
 睨むような目つきで、振り返った彼は、僕の姿を――僕の光を反射しない瞳を認めると、一瞬で青ざめ――
「――ッッッ!」
 踵を返すと、即座に逃走した。
 突然駆け出した少年に、何事かと周囲の人間が視線を向ける。
僕は、追いかけるため駆け出そうとした足を止めて、遠ざかる少年の後姿を見送る。
こらえて立ち止まる。
人に見られて注目を集めるのは、拙い。
 僕はその場での追跡を諦めることにした。
 まぁ、いい。
 彼の感覚は覚えた。
 目を閉じると、彼が逃走している経路の景色がありありと目に浮かぶ。
 高架下の薄暗闇。
 数少ない街灯が灯っただけの裏道。
 彼がこの街から逃げ出さない限り、僕は彼を逃さない。

         ◆◇

 逃走経路を計算しながら追い詰めた先は、リゾートホテルの工事現場だった。
 十数階に組み上げられた鉄骨の骨組みは、防音シートで覆われ外から中が見えないようになっていて、又、中の音が漏れないようになっている。
 殺すのには、うってつけの場所だ。
 状況は既に決着がつきかけていた。僕が放った一撃目の魔法で、悪魔の両足膝から下は吹っ飛んでいた。
「やだ、やだ……死にたくないよぉ……やめて、もうやめてよぉ……」
 少年の姿をした悪魔が、懇願するように鉄骨に張られた仮板の上にへたり込み、丸めた小さな拳で目尻を擦りあげながらすすり泣く。それを見下ろす《僕の腕》は、解き放った魔法の余韻に甘く痺れていた。
 僕は腕に刻み込まれた刺青を愛しげに撫でる。
今しがた、少年の内臓を引き摺り出そうと殺意を解き放ち、殺して喰おうと明確な意思を発動させたそれは未だ余韻に酔いしれるかのように皮膚の裏で艶かしく蠕動していた。
年端も行かない少年が、床に血の水溜りを作りながら必死で命乞いをする。
 現実離れした哀れみを誘う姿に、《僕》の心は疼く。
殺さなくてもいいんじゃないか、と。
が、《僕の腕》が下した最終決定は――揺るがない。
これは、正しいのだから。
魔法使いは、悪魔という存在を殺したり毀したりして喰う以外に扱い方を知らない。
それは悪魔がどれだけ命乞いをしようとも、所詮それは見せ掛けだという、魔法使いが代々受け継いできた血に植え付けられた観念に基づくものだと僕は考えているが。
もしかしたら、それは本来人として持ち合わせていた本能なのかもしれない。
他人を蹂躙したいという――
《僕の腕》は懇願されたところで逃してやるつもりは無いだろう。
 仕留めて、一欠け残さず喰らうつもりだ。
 そのために、迷い悩む僕を必ず一方に傾斜させる。
 それはつまり、
 殺して喰うという事。
 僕は『契約』が施された腕の刺青を、ロングコートの裾から晒し、悪魔に向けて差し伸べる。
はっと顔を上げた悪魔の瞳に、じんわりと絶望の色が滲み出していく様子を眺めながら、淡々と魔法詠唱にうつる。

《破壊の至高は、終結に違わず――》

 悪魔が悲痛な叫びを上げ、逃げ場の無い密室の壁に背中を押し付けて、必死の形相を浮かべる。
 背後の壁に爪を立てて、僕から逃げ出そうと、もがく。
「いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない――!!!!!」
 その叫びは、無情にも廃墟のコンクリートを音を微震させるだけで――
どこにも、届かない。
未来にも。
生温く重苦しい湿度が肌に絡む。
『意志ある言葉』で収束させた力を、両腕に刻み込まれた刺青の器に注ぎ込む。
契約として施された刺青はその力を増幅し、『解放の言葉』で魔法として解き放たれるのを待ち焦がれる。
 覚醒した意識の中、刺青が刻まれた契約の両腕だけが、殺戮の意図に震え、僕に迷わず悪魔を殺す魔法を選択させる――

――今だ、放て

刺青の意志に、僕は答える。

《――煉獄となりて、御許に訪れよ》

 歓喜に震える、血脈。 

――解放
 
刺青が本来の黒色から変革し、紫に輝く。
両手に収束した力は、脳内で思い描いた対象に向けて光の刃と化し、狙い澄ましたかの如く正確無比に突き刺さる。
 悪魔の四肢に向けて。
「――――!!」 
断末魔の咆哮を上げる悪魔。
光に貫かれた四肢は胴体の根元から千切れ飛び、半身を血塗れにさせ絶命に至るまで導いていく。
腕と足を無くして、防音シートにたたきつけられた悪魔は、壁伝いにずるずる音を立てて滑り、地面に投げ出され、自らの流した血の池をイモ虫のように這いずり回り、やがて動きを止め、呼吸を止めた。

仮板に落ちた腕と足を跨ぎ、悪魔の身体に近づくと、おもむろに手を突き入れ、内臓を抉り出し、血が滴り落ちるのも構わずに、喰った。
魔法を使う代償として『魔法使い』に強いられた食事方法。
人でありながら人ではないものに近づきたいがために必要とされる代価。
それは正しい方法では、決してありえない。
禁忌には禁忌で応える、道理。
自らを高みに導くのは、綺麗事ばかりではないという現実。
汚くて、残酷で、穢れきっている、それ。
悪魔を殺した日――

         ◇◆

初めて、覚えた痛烈な飢餓感から、
肉を喰おうと、獲物を狩った日。

僕の精神はまだ人で、魔法使いではなかった。
逃げ惑う白い少女を、袋小路に追い詰め、廃墟に浚ってから解体した。
だけど、毀すのに慣れていなかったから、
魔法で食べ易く一瞬の内に切り刻むなんて単純な方法さえ思いつかなくて
巧く毀せずに、無骨なナイフで裂いた。
悪魔は致命傷を負ったせいで動けない癖に
無尽に近い生命力を有していて
僕がナイフを引くたびに金切り声で命乞いをしたけれど、
僕はお腹が空いていたせいで、
喉がカラカラに渇くほどの恐怖を覚えながらも、
内臓を静脈や動脈から切断してバラバラにした。
そして、切り取った内臓にナイフを突き刺し、
僕ら魔法使いが《禁断の果実》と呼ぶそれを、凍傷のように悴み感覚を無くした手で引き千切り、クチに運んだ。
恐る恐る一口咀嚼すると、
口内の血の臭いが鼻腔の奥を突き、脳内を犯した。
それは、余りにも美味しすぎて、
    僕という器を満たしてしまいそうなほど、
    恍惚感を僕に与えた。
それだけで、全てを支配できそうな、
      風や
      空気や
      匂いや
      肌に触れる全ての感覚が
満ち足りた紅に染まっていく。
世界が勝手に色を変えていく。
視えるのは《魔法使い》の景色。
僕は、その圧倒的な質量に耐えられなかったせいで――飲み下した血肉を吐いた。
口から喉から溢れ、零れ落ちるのは
自分の胃液。
悪魔の肉片。
悪魔の血液。
悪魔の脂肪。
悪魔の血管。
魔法使いになるという、醜さを初めて知った。
心臓をぶち抜いて斃され、無残に肉を食い荒らされた悪魔。
その傍の鋭角に砕けたガラスの破片に、
口元を真っ赤に染めて力無く嗤う僕と、
腸を食み出しさせた純白の少女が、映っている。
どっちが悪魔――?
純粋に、嗤える。
醜さを、嗤える。
この瞬間にも、僕には魔法を捨てるという選択肢は浮かばない。
人に戻るなんて、意志は欠片もない。
魔法使いが魔法を失う、なんて在り得ない。
そう、信じていた。
一度穢れてしまえば、二度と純白になることはない。
それがこびり付いて落ちない血液なら尚更だ。
人も世界も穢れきっていて、お互いに依存しあって穢しあう。
人が、魔法使いになる瞬間もそんなものなのだろうと。
分かったフリをして、
悪魔を喰う行為を、自分自身の本質から来る欲求を抜きにして
魔法使いだから、仕方ないんだと
思い込むことにした。
そんな僕に分かるのは、
魔法をえるということは
魔法使いにとって、
醜くを偽って美しさに見せかけるために必要な《置換(エンコード)》だった、
ということだけだった。

         ◆◇

僕は刺青の入った腕を少年の躯へと差し向け、
詩の様に永い分子分解の《魔法》を詠唱し、
全てを空気へと霧散させた。
記憶すら、消滅させてしまうかの如く。
バラバラにされた少年の肉塊は、さらさらとパウダースノウみたいに煌き、やがて風に乗って消えた。
鉄骨、仮板にこびり付いた血も同様にして消失し、あとには何も残らない。
悪魔が殺されたなんて嘘のようで、
毀し方だけは、随分と巧くなった自分を再確認して、
僕はまた、生きたいと願う心を少しずつ削られていく。
 この瞬間に、僕はいつも死にたいと思う。

間違っているんだろうか? 



「……ユメ」
 ユメは僕の囁きに答えない。
 全てを貫くような闇が部屋を暗転させ、月明かりがブラインドの隙間から幽かに差し込んでいた。僕は悪魔を喰った夜、恒常的に赤い寝椅子の上でユメを犯す。
 僕の下で幼い顔に不釣合いな苦痛に満ちた表情で、呻くユメが愛しくて、僕はもっとユメを傷つけたくなる。喉から汗がほつれ、ユメの白い肌の上に水溜りを作り、ユメの身体が僕によって蹂躙される度に涙のように垂れ落ちる。
 僕は息を殺して、ユメの喉に手をかけ、そっと力を込める。
愛しているから、毀したい――?
 片手の掌で包み込めてしまうほど、ユメの喉は可憐に細く、カナビスのように容易く折れてしまいそうで、僕は折ってしまいそうになる。
 
折れ、
折れ、
折れ、
折れ、
折れ、

祈りを捧げるように断続的に続く、声が
脳裏で羽虫が腐肉に集るように、ワンワンと唸る。

僕は失ってしまいたい?
ユメという僕や世界にとってたった一つしかない存在を、無残に散らしてしまいたい?
それは、何故?
失って、失って、全てをゼロにしてしまえば、何もかもを手に入れるしかなくなるからだ。
僕自身にとって、生きるために必要な意志を手に入れられるからだ。

きっと。

「それはユメすらをも代価にして手に入れたいもの?」
 サラが寝椅子の傍らに立ち、僕の醜悪な姿を見下ろしながら、僕に問いかける。
 僕は泣きたいのに、卑屈に嗤う。
「ああ、そうだ」
「じゃあ、ユメを壊してしまえば、必ず手に入るの?」
 僕は寝椅子の布を握り締める。
「……わからない……」
「それは、ユメより大切なものなの?」
 そこで初めて、僕は言葉に詰まる。
……ああ、そうか。
ユメを失ってもいいだなんて。
そんなはずはないんだ。
僕が生きる意志を無くしたから消滅へとゆっくり下っていく坂道の途中で、
見つけた、生きるための意志。
それをくれたユメを、僕は傷つけようとしている。
 傷つきながら生きていかねばならないのは僕の方なのに。
 傷つきたくなくて、ユメを傷つける。
 僕の大切なものだから。
 僕はユメを失ってしまえば、きっと死にたくなるから。
 ただ、
 直接的に生きる意志が傷つけられてしまうのが――
「――怖いんだ」
「……そう」
 サラは寝椅子の上で項垂れる僕の首からそっと手を回し、背中に額を押し付ける。
 僕は甘んじて、それを受け入れ、微動だにしなかった。
寝椅子に掛かる月明かりの束が、そっと影で途切れた。
「それでも、レンは死なないから」
 サラが声だけで、僕を溶かす。
 それとも、声だけでカタチを解けてしまうほどに、僕が脆いのか。僕の心を閉ざした氷はあっさりと融解し、涙となって流れた。
 涙に行き場所なんかない。
 寝椅子の革に吸い込まれ、経過するときを待たずに気化して消える。
 淡い刹那。 
それでも、僕の涙は溢れて止まらなかった。
 表現したくてもできない悲しみを、涙に託して、僕は泣く。
 痒みを訴える頬と喉を伝う生温さに濡れながら、僕は思う。
 あの悪魔だった、少年と、僕が泣く姿は違うのだろうか、と。
 多分変わらない。
 救われたいと願った、この胸が張り裂けそうな想いも――
 死にたくないと願い、身体の奥底から自分自身を無我夢中に叩き続ける、この想いも――


 
 朝目覚めると、僕の隣で眠るユメの頬が目に入った。
 毛布がユメに持っていかれて、肌寒かったけれど、清々しい朝だった。
 寝椅子を静かに抜け出そうとすると、掌を引かれる。
 振り返ると、ユメが僕の掌を、僕の掌より少し小さな掌で握り締めていた。
「おはよう、レン」
「おはよう、ユメ」
 そのままユメは僕の手を離さずに、そっと頬に寄せる。
 ユメの頬は温かかった。
「レンはいつも冷たくて気持ち良い」
 幸せそうに目を閉じて微笑む。
 僕は一度、ユメの髪を空いてる手で梳いてから、握った手を離した。
「朝ごはんの用意するから、適当に降りておいで」
「わかった」
 ドアを後ろ手で閉めるとき、毛布が衣擦れる音がした。
そんな些細な感覚でさえ、僕にとっては幸せだった。

階段を静かに降りると、キッチンに向かい冷蔵庫から卵を取り出すと、ボウルに落とし砂糖と塩を一つまみずつ加えリズミカルに掻き雑ぜる。フライパンに、オイルがわりにバターをひき、香ばしい香りに包まれて鼻歌混じりに、プレーンオムレツを焼き上げる。
手首を返して、オムレツをひっくり返す。
窓の外からは、眩しい程朝の光が燦々と差し、外では木立に止まった雀が囀っていた。
 幸せな朝だった。
 幸せな朝になる筈だった。

頭上で硝子の砕ける破砕音が響き、それは僕の元に届くまでは――

異常に気づき、振り返る一瞬――
フライパンを放り出し、駆け出す一瞬――
様々なケースが脳裏を激しく過ぎっては消える一瞬――

階段を駆け上がるのももどかしく、二階の寝室に向かう。ノブを捻らず、そのまま扉を蹴破った。部屋は朝であるのが、まるで嘘みたいに仄暗かった。窓を見つめる。青ざめてぐったりとしたユメの矮躯を小脇に抱えて、二メートルはあろう大男が、砕けた窓枠に悠然と座っていた。
カーテンのように巨大なマントで身を包んだ大男の両手には、無骨なシルエットを持つ二挺拳銃が握られていた。
ベッドシーツの上には、砕かれた窓ガラスの破片が散乱している。
 何を言うべきか、何をすべきか激しく脳が鬩ぎあっていたが、まず初めに口を付いて出たのは
「ユメを返せ」
 の一言だった。
「聞けないナ」
 大男は、ユメの身体にちらりと目をやってから、視線を僕に戻す。
「こいつは人質に使うんでネ」
「なら――殺す」
 言葉と共に刺青の入った腕を振りかざした僕に向かって、大男は口端を吊り上げた。
「殺せないサ。コレはオマエの《大切なモノ》なんだロ」
 小脇に抱えたユメの身体を揺らす。
 うう……と苦しそうに呻き声をあげるユメ。
 頭に昇った血がすっ、と音を立てて弾いていく感覚。
 この男は、僕ら《魔法使い》の毀し方を知っている。
 最早、目の前の男の正体が何か――僕の頭の中にはたった一つしか思い浮かばなかった。
「……《魔女狩り》」
まさか――僕の追手は全員始末した筈だ。
「なるほど、そういう考え方もあるカ」
 男は身体を揺すって笑った。
「でも、ちょっと種類が違うゼ。アイツらはナンバーで管理されるだけで名前ってもんがないが、オレにはある――レイズってんだ、覚えときナ。いやはや、それにしても悪魔に偽装していたといえ、油断がすぎるんじゃないカナ? 《レン》。アンタみたいな平和ボケした魔法使い、ほっといても全然構わなさそうなもんだけど――まあ、ボスの言う事は絶対だからナ。一つ言っとくが怨恨なら皆無だゼ。だけど、コイツは人質に貰ってイク。必要があるんでね、悪いナ……――っと動くなよ」
 右足を踏み出そうとした途端、レイズと名乗った死神は銃口をユメの額にぶつける。
「この場でドンパチ繰り広げて、魔女狩りの連中に目を付けられるのはオマエだって望むところじゃないだロ? なーに、俺だってなにもコイツを取っ手喰おうってわけじゃなイ。今夜、旧御蔵総合病院跡地のユグドラシルでオマエにとっておきの舞台を用意しとくから、来て欲しいってだけダ。気が向いたら、来い。まぁ、来なかったら《大切なモノ》は帰ってこないけどナ」
「舞台?」
「ああ、舞台だ。終幕がハッピーエンドになるかバッドエンドになるかはオマエ次第だ。とっても楽しい茶番劇を用意して待ってるぜ」
 ばさりとマントを翻して、窓の向こう側に背中から落ちていく、大男の影。
 追い縋り窓枠に手を掛け、下を覗き込んだ時にはもう、大男の姿は消えていた。

◆◇

 寒くなりそうな、夜だ。
 普段着に、黒のコートを一枚だけ羽織るとアンティークショップの扉を開く。
 重々しい軋みを上げる扉の向こうで、『CLOSE』の札がカラカラ音を立てて揺れた。
 出発前に一本だけ留守番電話を入れて置いた。
 この街に居ない、もう一人の魔法使いに向けて。
「ハルヒ――僕のやってるアンティークショップの場所は覚えてるよね。もしそこに、今日から数えて四十八時間以内に帰っていなければ、僕はおそらく消滅させられてしまったんだと思う。悪魔を偽装した、悪魔でもない、魔女狩りですらない――正体不明――な奴が、この町で何かしようとしてるみたいだ。これ以上は僕にも不明。一応、二メートルクラスの大男だけど、魔法や――それなりの擬装法を用いれば背格好なんて簡単に変えられるから、本来の姿は分からない。そっちにも行くかもしれないから、気をつけて。
ソイツは僕から《大切なモノ》を奪って逃げやがった。ハルヒも知ってると思うけど、ユメが浚われた。今から取り返しにいってくる。場所は旧御蔵総合病院跡地にあるユグドラシル――」

         ◆◇
 
 御蔵町の中心部を通る御蔵駅から、二百七十円で東星田駅までの切符を買って、ラッシュの人ごみに紛れて下り線列車に乗り込む。
 窓の外は、陽が落ちて闇。
 車内の蛍光灯が反射して、座席に座る人影を硝子窓にぼんやりと映し出していた。
 こうして人の群れの中に立っていると、僕も人に帰ったような気がする。
 友人達と楽しそうに笑いあい、家には家族が待っている。
 そんなありきたりな日常が取り返せそうな気がして、沸々と湧き上がってくる自分自身を嘲笑う震えをこらえなければならなくなる。
 僕が、遠い昔に投げかけた「魔法使いは人ではないのか」という疑問に答えたハルヒの理屈を思い出す。
「魔法使いだって人の中で暮らせば、人になる。本質的な部分が違っていたとしても、形而上の認識を定めるのは周囲に居る同種族の第三者だよ。コンビニで買い物したり、移動にバスを使ったするレンを誰が魔法使いだと思う? そうやって人の群れに中で、普通を装っているうちは、魔法使いも人なんじゃないのかな。ほら、人も産まれた直後から狼に育てられれば、狼が《群れを成す世界(コミュニティー)》では、狼として認識されるだろう」
「そんなものかな」
「人は人の中にあってこそ、人なのさ――いや、違うね……人の中で生き、人に『人』として認識されるからこそ人になれる――かな。だから、異端に気づくことが出来るのは、種族を越えた第三者のみ、ということになるね」
 列車が、エアブレーキの音を立てて静かに停車する。僅かに乗客の乗り降りがあって、列車は走り始める。
僕はそれを見送った。
 車内の暖房が恋しくなるほど、夜は冷え切っていた。
 コートのポケットに両手を突っ込むと、人気の無いホームを歩き始めた。 



旧御蔵総合病院跡地に、立ち入ることの出来る人間はそういない。
御蔵町を支えるユグドラシル――背丈二十メートルの万年桜が咲いているからだ。
旧施設として取り壊される運命にあった御蔵総合病院に芽吹いたユグドラシルは防衛本能で、結界を敷き周囲から自らを隔離した。それからは、ユグドラシルに赦された者と、結界を破れる者だけが、病院跡地の廃墟に足を踏み入れることが出来る。
僕はどうやら、ユグドラシルに赦されている者らしく、大したアクションも無く敷居に踏み込むことが出来る。自らの欲求を満たすために悪魔を殺して回っている僕を、町の守護者として誤認しているのかもしれない。
何しろ大樹の考えることだ。言葉にはならないから、分からない。
「来たか。なら、ユグドラシルを目指し、迷わず進むといい。君の大切な物はその場所で眠っている」
「心で見るといい。そうでなければ、私の破片しか、君達には見えないだろう」
破片――
まさしく、欠片もいいところだった。
二メートルという巨体でさえ、彼にとっては一部でしかない。
途轍もなく巨大な白い闇が、彼の背後で空虚に聳えている。
余りの圧倒に呼吸をする事さえ忘れていて、
胸が苦しくなって初めて、呼吸という行動を思い出した。
酸素を急激に欲し始めた心臓を押さえながら、彼を睨み付ける。
「――……畜ッ生……オマエ――」
「神というのなら、神にあたるが、お前達を創り上げたエグゼキューショナーと呼ばれる類の存在ではない。私は君達に興味が在る。何故、唯一神の意図に背きながらも、在ることを赦されているのか。私ならおそらく、根滅させる。なら、この世界の神は優しいのか。いや、そんなことはない。お前達の粗悪さを見れば分かる」



万年桜は、永遠に咲き続ける。御蔵町という《セカイ》が終わるまで。
病棟の中心部にある中庭に続く扉を開くと、風と共に花びらがこちら側へと舞い込んだ。
「待ちわびたぜ」
 大樹の下に黒く巨大な影が立っている。
「オマエの大切なモノはここだ」
 ユメの身体は大樹の幹に、磔にされていた。
 釘のようなものを打たれた衣服がだらしなく伸びきっていた。

《天より降つる涙を――》

「遅ぇっ!」
 レイズが僕を中心として周囲を駆けながら、死角に入る。
「死ね」
  
《――宛がわん》

 レイズと僕の声は同時。
 おそらく、レイズが発砲した弾丸も同時。
 そして、僕の魔法が発動した瞬間も同時。
 
 ――ガゥンッ

 遅れて、火薬の爆発音が聞こえる。
 それに一瞬遅れること、
 
――ギシッ

空間がひずむ音が周囲を駆け抜ける。
弾丸は、魔法によって僕の周囲に半球状に発動した《壁》に受け止められていた。
《壁》はまるでガラスのように、弾丸を中心として蜂の巣状にひび割れている。
 
「うぜえんだよッ!」

 ――ガゥンゥンゥン

 僕は、新たな魔法を発動させながら、射線から外れる。

《冥府の門司りし三つ首の獣――》

――ピシッ

弾丸の一つが、壁を掠める。
それを無視して詠唱を続け、射線から逃れるため、ジグザグに走りながらユメが磔にされている大樹に迫る。が、広大に広がった病棟の中の中心部まで、残り五十メートル程ある。
縮まらない距離。
僕は今詠唱している魔法を、トドメではなく牽制に使うためにアドリブを入れて半分程の短さに変更する。言葉によって、力を内包しきれていないせいで威力は半減以下になるだろうが、それでも牽制には十分だ。
「そうはいかねぇよ」
ガシャン、と大きな金属物質が地面に叩きつけられる音。
 身を翻す。
 レイズの手には、新たな弾倉と拳銃というには余りに凶悪なサイズの銃が握られていた。
 
《――殲滅と裁きの業火によりて――》

今詠唱している魔法を牽制のために放とうと、レイズに向かって手を差し伸べる。

「死ねッ」
《――薙ぎ払わん》

今度もまた、同時。
 レイズの銃口が赤く明滅し、僕の腕の刺青が赤く光を放つ。
 放たれた魔法はレイズの一寸先の地面に突き刺さり、爆音と砂煙を上げて煙幕と足止めの役割を果たした。
が、レイズの銃から放たれた一撃は、僕の魔法壁を強烈な衝撃で殴りつけ――
「《壁》が――」
 思わず、呻く。 
衝撃力の激しさに、壁が持たない。
 新しい魔法の詠唱も、このタイミングでは到底間に合わない。
やがて壁は無数にひび割れ――
ひずんだ空間を更に歪めて突破した、速度の下がった黒い塊を目で捉えた。
 次の瞬間、僕は腹部を鈍器で殴られたような激痛を覚え、思わず跪く。
「そのまま、じっとしてろ。心臓、ぶち抜いてやるから」




――と……その前に、だな」
 レイズは軽々とユメの小さな身体を喉を掴んで持ち上げる。
「――《大切なモノ》、返してやるよ」
 レイズの掌に喰いつかれた、ユメの喉が離れる瞬間
放り投げられる一瞬――
 レイズの手が。
否、ユメの身体が。
喉が。
絶望的な音で、ゴキリ、と鳴った。
ユグドラシルを閉じ込めたコンクリートの壁面にその音は反射し、共鳴する。
 その中を、放り投げられたユメの身体は桜の花びらを纏わりつかせながら、ゆっくりと天使のように宙を舞う。
僕はユメが重力に叩きつけられて壊れないように、抱きとめようと必死の思いで力を振り絞り、立ち上がると、よろめく足で駆け出した。
が、その駆け寄ろうとした僕の心臓は――
 あっけなく、死神の狙い澄ました銃口によって、喰い破られる。

 ガゥン――

火花と硝煙を切欠に、

 ガゥン、ガゥン、ガゥン、ガゥン、
僕の身体に吸い込まれるように突き刺さる
弾丸、弾丸、弾丸弾丸弾丸。
意に反して身体が踊り、のたうつ。
カンカンカンカン、カラン――
薬莢が金属質な音を立てて、地面を撃つ。
 リボルバー式。
たったの、五発。

「――ぁ」
僕の死だけを的確に選り分け、啄ばもうとする弾丸が僕に突き刺さり、それは致命傷となる。
 最早、全身の感覚は無く、指先が悴んで上手く動かない。
「アンタ達魔法使いを本当の意味で毀す為にゃ、大切なモノを毀すってプロセスが必要らしいからな」
 レイズが僕の心臓に銃口を押し当てられていたを視界で捕らえはするものの、銃口の感覚は無い。

僕が、ユメを失ってしまう事。
僕はそれによって、生きる意志を完全に失い 
ここで消滅することができるのだろうか。
 やっと、ここで終われるのだろうか。
  
 熱いナイフが僕の身体に潜り込んで、凍るような痛みだけを残して掻き消える。 
背中を貫いて、心臓を貫通したのだろう。
ユメの美しく青ざめた人形のような横顔を見つめながら、僕の意識は闇に堕ちていった。

10

「ねぇ、レン。自分の命と引き換えにわたしが救えるとしたら、レンはどうする?」
 熱に魘されて床に伏すユメが、今にも消え入りそうな声で小さく呟いた。
 カランと氷が溶ける音が、氷嚢の奥に消える。
 三十八度を示していた水銀製の体温計を振りながら、僕は答えた。
「――こんなに簡単に言ってしまうと、きっとユメは信じないと思う――けれど、僕は自分の命を犠牲にしてでも、君を救うと誓うよ」 
馬鹿馬鹿しいと呆れるのだけれど、やはり照れてしまう。
ユメは目蓋を閉じて聞いているのか聞いていないのか分からなかった。
 僕はユメの手を握り締めたまま、時が全てを溶かしてしまうのを、待つ。
「レンは綺麗なモノが好きなんだね」
 ふいに、ユメが呟く。まるで独り言のように。
規則的な呼吸音だけが、余韻のように部屋に残響する。
 僕は、それには答えなかった。
 静かに時だけが、壁時計に刻まれていった。
 ユメが閉じていた目蓋をゆっくりと開いた。
「…………ごめん、意地悪だったよ」
 永い沈黙を破って、小さな声でユメが微かに囁く。
「いいよ。熱のせいで疲れてるだけだろ」
 なるべく、優しげな声音になるように僕は静かに告げた。
ユメは、うん、そうかもね、と言ったきり目を閉じ、むこうへ寝返りを打った。
僕の手をしっかりと握ったまま。
窓の外にはもう夜が足音を忍ばせている。
夕暮に染まっていた庭モミジの紅葉が、色を落とし、紫に移り変わっていた。
 僕は、嘘を約束したつもりなんてない。
 約束がいつか嘘に変わってしまったとしても、約束をした一瞬だけでもいいから真実を答えたかった。
 僕は生き過ぎたから、この命に未練なんてない。
だから、ユメのために命が費えようとも、それを惜しいとは思わない。

むしろ、僕は死ぬべき理由を待っているのだから。

11

 そうだった。
 僕は、約束していたんだ。
 だから、消滅を知ったその先にある、
ここまで、
ユメと共にある日を、
生きていたんだろう。
 例え、これから消滅しか待っていなかったとしても。
 生きようという意志は、
捨てられなかったんだ。

         ◇◆

「魔法使いが《生きる証》……」 
喉の奥で呟く掠れた自分の声が遥か遠くに聞こえる。
まるで自分の身体が自分のモノではないかのように、乖離していた。
全身が悴み上手く動かせない。
――けれど、僕は構わず震える足に力を込めて立ち上がる。
全身に、ゆっくりと血液が巡る血流を感じながら。
肉体が緩慢に死へと傾斜しながらも、
僕は確かに生きていた。
僕の魂は、まだ終わっていなかった。
その証拠に、完膚なきまでに砕かれた筈の心臓が、僕の意識を現実へ引き戻すかの如く激しい痛みを訴える。 
貫通した胸の傷跡を掌で覆い隠すけれど、流れすぎた血は留まることを知らずぼたぼたと紅いしずくが滴り落とし、水溜りになる。
それでも僕は、
生きている。
生きる証を失って――
守りたいものを奪われて――
生きる意味など、
魔法の存在価値など、
既に消滅したと思っていた。
だから、これでやっと死ねるとどこかで安堵していた。
それが、僕の真実だと思っていた。
消滅を願う、死にぞこないの、醜い魔法使い。
それこそが、自分の本当の姿だと信じていた。
けれど、その感情は偽物で――
立ち上がろうとする僕の魂が、
この瞬間、
本能や法則を超越している。
ユメが僕のために世界を失うなんて、僕は赦さない。
それは正しくない摂理。間違った物理。
でも、それが僕にとっては真実で、
こうして魔法使いという揺るがない事実を盾にし、

――何度でも
立ち上がる――

ユメの心音は微かながらも、僕の掌の下で確かに脈打っていた。
ユメが死なない限り――
僕は死なない。
僕が、ユメのために世界を失ってやる。
心臓に終結する激痛のうねり共に再生していく抉り取られた新たな心細胞の塊に押されて、ずるりと弾丸は抜け落ち、カランと乾いた音を立てる。
 僕は、前方の闇を睨んだ。
 レイズの全身は震えていた。
 僕は闇を打ち払うために、一歩ずつ近づいていく。
 レイズが、よろめきながら後ずさる。
 さらに一歩近づくと、レイズは背を向けて脱兎の如く逃げ出した。
 が、直ぐに、背後にあるユグドラシルの幹に道を阻まれて、逃げ場を無くす。
「お、お、お、おかしいだろう。オ、オレは完全に殺した筈なのに――」
 幹を背中で抱えるようにして怯えるレイズから目を切らず、僕は静かに詠唱を始める。

《永劫、その証――》

それは、終末の詩。

《来たる後には皆無、過ぎる後にも皆無――》

 両手に施された無敵契約の刺青から術式の光が迸る。
 絶対破壊が両手に収束する。
 終末の光。
「う、うおぁぁぁぁぁぁぁっぁぁぁぁ!!!」
 レイズが雄たけびを上げ僕に迫る。
が、僕は避けない。
あえて肉体を、ぶつけるようにして受け止める。
 レイズの槍は再度僕の心臓に減り込んだ。
 銀の冷たさに感覚が途切れて無くなっていくが、僕は決して呪文の詠唱を止める事は無い。

《憎悪の彼方より、欲望の此方より――》

 レイズの銃が撃音を放つ。
 放たれた弾丸は僕の喉を一直線に狙う。
 僕はそれを避けようとして身体を傾ぐが、至近距離のせいで避けきれず右腕を貫かれる。
 上腕を曲げ、槍が抜け落ちるのを拒むが、
レイズが骨を砕きながら無理やり槍を引き抜き、翻す。
銀の一閃が空気を引き裂き、今度は僕の脇腹を深く抉る。
 千切れた飛沫は元在った場所から欠損したまま、埋まる気配は無い。
再生の速度が追いつかない。
狂ったように、槍を振るうレイズが、僕の全身から肉を奪っていく。
 
頬。喉。肩。肘。掌。腹。腿。膝。
 
僕は飛び散った血でぐしゅぐしゅになっていく。
限界を通り越して、痛みは、もう無い。
代償として、肉を引き裂かれ、骨が砕かれる痛みを魔法の原動力に込めようとしても、
それが列記とした痛みとして憎しみの対象にならなければに込める余地はない。
痛みとて、無尽蔵ではない。

《我、彼の契約に誓わん――この地に二度と、選ばれんことを》

誰かに必要とされている限り、魔法使いは死ねない。
それは正しくて間違っていた。
本当は、
魔法使いが誰かのために魔法を必要とする限り、魔法使いは死なない。
そして、僕は今、
ユメを失いたくない。

僕は、
魔法使いとして、
魔法が必要な、
本当の理由を、
手に入れた。

「……道連れだ――死神レイズ」
「ぅ、嘘だ。一介の魔法使い如きが神を超越するなんて在り得ない――
 俺は神に仕えてるんだぞ!? 貴様の創造主と同等の神に!? なのに、何故――」
「神の原罪は、手元(ラクエン)から人を追放した瞬間から、始まっていたんだろう」
 此処に――
 その言葉を言い終わるか終わらないかの瞬間。
 僕はレイズに身体を預け、魔法を完成させる。
「さぁ、逝こうか――《――誰が為に在る――》」

そして、
世界は、
終わる。

 最期の一言(ラストワード)。

《――虚無の世界へ》

「――! ――――!」

 最後に見た景色は、ユグドシラルが僕の刺青から溢れ出す《終末の光》に輝き、美しく呼応する、景色だった――

12

「ここに居たのか――」
 『劣悪の魔女』がホウキに乗って姿を現す。
「今の君は――どっちかな? レンは区別が付いていたみたいなんだが、ボクにはさっぱりでね」
「今は、サラ。ユメは首の骨を折られたショックで、死に掛けてたけど――もう大丈夫。ハルさんサンキューです。人格がわたしに転換される前に治療してくれなきゃ、死んでました」
「礼は言わなくてもいいよ。ボクはコイツのためにやったんだから――」
 ハルヒの目に悲哀の影が、一瞬だけ過ぎる。
 けれど、それは本当に一瞬の事でサラは気づかない。
「レンは“消滅”――いや、死んだの?」
「うん、一度死んだのに、生き返って敵を斃して、また……」

「セカイに慈悲があれば、また蘇るさ。明けない夜に朝日が昇るように。魔法使いは誰かに願われるコトで、明日を生きることができる。
サラ――レンは君が思い続ける限り、きっと無くならないよ。心の中で生きているから、なんて役にも立たない慰めなんかじゃなく――
魔法なんて奇跡がそこら中に徘徊してる町だ――レンが生き返るのぐらい、きっとどうってことないよ」

 サラの顎から喉にかけて伝う小さなシズクの流れがユグドラシルを映し出しながら堕ちる。
 サラのその白くか細い手が冷たいレンの身体に触れる。
レンは、いつものサラよりほんの少し冷たい温度となんら変わりないいつも通りの温度で、今にも目を開けて起きだしそうなほど、安らかな表情を浮かべていた。
 そんな二人を見つめるハルヒは、抑えきれない感情を無表情で押し殺しながら、ホウキに跨って背を向けた。
「……さて、ボクは行くとするよ」
 サラは答えない。
 レンの手を握り締め胸に抱くと、静かに目を閉じる。
 ハルヒは、もう振り返る事はなかった。

 そして、最後に静寂だけが訪れ――
 夜は息絶え――
朝が、蘇生する。

13

 サラが微笑みながら、腕時計を填める。
 それは、いつか約束を破った日に、彼女が欲しがっていたから、誕生日にでもあげようかな、と思っていた、文字盤に描かれた星座がお洒落なコレクティブルズの時計だった。
 まだ、あげるといった覚えは無いのに。
 勝手だよな。
 僕は、諦めたように笑う。
 彼女は、腕時計を顔のあたりに翳して、その場でくるり、と回る。
「どう? 似合ってる」
サラの楽しげな様子に、僕は曖昧に頷く。
「良かった。似合わないから返せ、って言われたら、どうしようかと思った」
 サラはそういって、楽しそうに微笑む。
そんなことあるわけないじゃないか。
そうだね、映画に行こうって約束も破ったしね。
意味ありげに鼻歌を口ずさみながら、横目で不満げな視線を送られる。
 僕は、気まずさからユメが入れた紅茶に唇をつけた。
 サラは、僕の隣に静かに腰を下ろして、僕を上目遣いに見上げる。
 僕はそっぽを向く。
「なんだよ」
 自分でも分かるほど、その声はぶっきらぼうに聞こえた。
「あのさ、レン……例えばさ」
 サラは遠くのモノを探すように目を細め、静かな声で呟いた。
「人間って存在が、神様に創られたモノの中で一番の出来損ない、その上成れの果てだったとしたらどうする?」
「どういうこと?」
 突拍子も無い言葉に驚いて、聞き返す。
 サラは時計の文字盤に目を移す。
 僕もそれを何と無く目で追った。
 星屑のように散りばめられた名も無き石が、不規則に正座を模っていた。
「他の惑星が、本当は宇宙の摂理においては正しい世界で、地球は実は出来損なってできちゃったのかも、って話。可笑しいとは思わない? こんなに幾つも星があるのに、たった一つだけ、命ってモノを持ってる星。人間は自分たちがその星に生きているから地球を奇跡の星と呼んで、他の星を死の世界と呼ぶけれど、本当は間違っているかもしれないんだよ? 出来損なっているのは地球の方かもしれないんだよ?」
「どこが出来損ないなの?」
「地球は、唯一命を持っていて、そして、考える生命体を持ってしまった星だから――その星で繰り広げられる小さな世界に、苦しみや、悲しみが溢れ出してしまうでしょ? ほら人は毎日、悲しまない日はないし、痛みを刻まない日もない。他の惑星は永遠に同じ姿のままで、静寂のままに偽りの無い本質だけで存在することができるのに、人がそれを嫌うせいで人は幸せから少しずつ遠ざかって行っちゃうじゃない。
どうして、いくつもある正しい姿から、どうにかして違う姿になろうと必死で足掻いて、一生を悲しみで終えちゃうのかな?」
 人の一生は、トータルで幸せを得る事は無い。
必ず、トータルにすれば生まれいずる悲しみに始まり、死に逝く悲しみに終わる。
途中の道程でさえ、悲しみは常に付き纏う。
一生涯を賭けて追い求める幸せなど、ほんの一瞬で、粉雪のように淡く消えてしまう。
それでも、幸せを追い求め続けるのだから、
人はきっと不幸の涙で満たされているんだろう。
 それは分かる。
 だって、人は、些細な幸せよりも、
        小さな苦痛を拠り所にする動物だし、
        恒久の平和よりも、
        束の間の争いを選択する。
 エゴのために、自分らしさを欠落させながら誰かを殺す。
 願わなくとも、生きていくためにはそういう姿勢を選択してしまうのが人間だ。
酷く、醜い。
けれど、そんな姿が似合っているのだ、人間は。
正しいことばかりで全てが完成しているわけじゃない。
正しいことと同じくらい過ったものも必要なのだ。
魔法使いであろうとも、それは変わらない。
だからこそ、僕は、
サラの問いに、力強く
違うよ―
と否定し、顔を上げた。
「生きているからこそ、楽しいことや、嬉しいことがある。僕らはその一瞬だけで、生きていける気がする」
生きることに希望が無ければ、人は生きようとはしないのだから。
「レンがそう考えられるのは、きっとレンが永く生き過ぎて世界を、人を赦せるようになってしまったからだよ」
「違う、僕だって悩んで、疲れ果てて、死にそうになって、息絶えた心を過去の自分の中に置き去りにして、明日が見えなくなることだって沢山ある――」
 そのせいで、いっそ終わってしまえばいいと考え続ける空虚な時間を持て余していた。
 けれど、その裏に隠された本質は、
 死にたいと願いながら、それでも、
生きていたいと痛切に願う、

――“祈り”――

それだけがあった。
そのために苦しみや悲しみを手にすることだって、厭わない。
「そうやってレンは、いつか終わる“消滅”に向かって歩き続けるんだろうね。そして、それはレンために必ずやってくる。レンは自分自身で知らないと信じ込んでいるだけで、本当は死ぬ方法にだって気づいていていたんだよ」
 待って、サラ。
どうして君が《魔法使い》を知っていて、
しかも“消滅”まで知っている?
教えたこと、なかったよな?
さあ、どうしてかしら?
と、悪戯に微笑むサラは、サラではなかった。
サラの僕の唇に、彼女自身の感触を委ねる。
それは――

ああ、これは夢なんだ――

確信させるほど刹那の想いが込められていて、
断片の絶壁の深淵に潜む暗闇に、カナビスの白い花が揺れていた。

14

僕は、揺られていた。白に。
――いや、ヒカリに?
ただ、はっきりと僕に理解できること。
それは、世界は絶えず揺れていて、美しいということだけ。
美しいそれは、希望の象徴だった。
僕は、もう一度、それに触れたくて、目を開ける。

僕は座っているのに、周囲に生えた背丈の高い雑草を掻き分けるように身体だけが前に進んでいく。畦道に、キィ、キィと微かに軋む音が反射していた。背凭れに誰かが立っている気配がして、車椅子に乗せられているのだと悟る。
空には、途方も無く青だけが広がっていた。
「いい天気だね、レン」
 誰かが僕に囁く。
 僕はその声の主が誰か、知らない。
 木漏れ日がカーテンの様に射し、僕の掌を温かく包む。
「あれから五十年――長かったよ」
 僕の頬に柔らかな感触が触れる。
「どうしてこんなに世界は残酷なんだろうって、ずっと思ってた」
「世界なんて私とレンのために無くなれば良いと、ずっと思ってた。そうすれば、私はきっとレンを無くしてしまうから、こんなに悲しい想いをせずに済んだのに――」
「ホントに、何度も――なんどもおもったんだよ。でもレンが――」
 途切れる声が涙で滲んでいる。
頬が柔らかさに押しつぶされる感触。
 僕の頬が濡れる。
 誰かが、泣いているのだろうか?
 ――誰のために?
「――レンが居るから、私の世界があったんだね。私の世界はレンが無くなっちゃえば、一緒に消えちゃうんだよね――ねぇ、レン」

……目を、醒ましてよ。

 僕はとっくの昔に目を醒ましている。
 昔の僕が世界と接点を無くしてしまったから、今の僕は世界に触れない。
 だから、僕のために泣いているのだろう君が誰なのかが、わからない。
 きっと、僕にとって大切な人だったんだろう。
 ヒグラシが啼いている。
 座る僕の背丈より少し高い雑草が、延々と小路の脇に続いていた。
 空には、分厚い入道雲が真夏の日差しを反射して眩しく輝いている。
 けれど僕の視界の中、幾ら探しても、君の姿だけがどこにも無いんだ。
 確かに僕の身体に重みは掛かっていて、僕は触れられているのに。

 ああ、そうか。
 五十年。
 魔法使いには、短くて。
 人には――長すぎる。
 時間は、残酷だな。

 なら、この孤独な世界も悪くない。
 僕のために君があって、
 君のために僕があるのに、
 お互いが触れあう事は無い。
 それでも、消滅はなくて、
 ただ君を失うまでの、
永い永い時間だけがある。
毀れたオルゴールのおもちゃみたいな、崩れた和音でできあがったエンドレスの世界。

君を失った僕は、どうなるのだろう。
 今度こそ、本当に生きる意味を無くして消滅してしまうのだろうか?
 
その結末が、一番幸せそうだ――
ただ消滅してしまうまでに、君の事を思い出すために少しの時間さえ、あってくれれば良い。
 
 僕はまた眠りにつくことにした。 

Secret story

「――さて……実験は、これで終わりだよ。どう? ファウスト。結果はお気に召したかい?」
「全とまではいかないが、一を納得するには至ったよ。この世界の創造主が、何故人という存在を許容し、放置するのか……漠然とだが、真理は垣間見えた。その真理を構成する要素の一つとして、この世界の神は幾度裏切られようとも、人間如きに、罰を与えなくとも、罪を宛がう必要性が無いという相関性は不可欠だということ。それだけが、判然とした」
 ファウストと呼ばれる、黒衣のローブを身に纏った男は車椅子を押す老婆と、車椅子で眠ったように動かない青年を眺めながら目を細めた。
「人、いや――彼等は、自らの手で自身の心を無惨に傷つけ、流す血を見て初めて痛みを知る。そして、その痛みから来る全ての過ちを自分のせいだと思い込み、自身の魂を更に抉る。その行為を止めようとしても、それは生まれた瞬間から《インプット》されているせいで、逃れようが無い。児戯にも似た自作自演を繰り返すからこそ、創造主側からすれば余計な手心を加える余地が無い。生きようと願った瞬間から、全ての生物は己に罪を科すのだろうな……それにしても――なんて狂っている」
 男は、二人に背を向け、草薮を重々しい足取りで歩き出す。
 彼が見上げた空には大陸のような白い雲が、無限の青を幾つも流れていた。
「もし彼等を生かすためにその機関を創ったなら、彼等の創造主は狂気と残酷さを併せ持っているよ。痛みで自分を律させるなどという――そこまで救いようの無い自戒を創ってしまうとは、正気の沙汰ではない――」
「それは、ちょっと違うと思うな」
 少年のような声で、隣に立つ全身を黒衣で包み、黒帽子を被った少女が答えた。
「創造主は、多分、誰もが心の底から幸せにならないように、決して満たされることが無い様に、痛みを与えたんだ。そう――人は、痛みが刻み込まれやすいからこそ、誰かを愛することができるようになったんだ。愛し合って、赦し、赦されながら生きていかないと、痛みに毀れてしまうから、誰かと懸命に触れ合って生きていこうとする。自分の手によって欠けさせてしまった何かを、誰かに埋めてもらうために、人は自分自身を傷つけたり、失ったりしながら生きていくんだ」
 ファウストは振り返り、レンと呼ばれた魔法使いとユメ、サラ、二つの人格を有したまま五十年を生きた女性を眩しそうに目を細めて見やる。険しい眉根には、二人へ手向けた悲哀の感情が深く刻まれていた。
「彼等もそうなのか――《劣悪》……彼等がなくしたかけがえのない時間を元通りに戻してやることは、無いのか?」
「いいよ。あれが、レンという魔法使いにとって、一番幸せカタチなんだよ。彼は、もうとっくに壊れかけてたから」
 ファウストは、では彼女にとっては、と聞こうとして口を開きかけたが、少女が彼等を見つめる瞳に浮かんだ悲しみの色を悟って、言葉をカタチにすることを止めた。
少女はホウキを片手に歩きだし、後ろを歩く男に背中を向けたまま告げる。
「また魔法使いを探しに行くんだろ」
「ああ、そうだな」
「――I don’t know heaven.
世界の揺り篭で戯れた実験を繰り返す、業の深いボクらに待ち受けるのは、行くも地獄来るも地獄。なんてね」
 流石に不謹慎かな、と少女は横目でファウストを窺がうが、その言葉に彼は静かに微笑を浮かべて答えた。
「いや、それくらいが丁度良い」
 真夏に似合わぬ黒衣を纏う二人組みが行く先――
 神に成り損ねた男と、神を殺し続ける少女の物語。
 それは、生きる意志を失った男と、目覚めぬ男を待ち続ける少女を置き去りにして短針の歯車が回るようにゆっくりと動き始めた。
 
                    

 ――To be continued――

2005/09/11(Sun)00:00:00 公開 / 覆面レスラー
■この作品の著作権は覆面レスラーさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
まさかこの時期に開催されるとは(吐血)。
祭はないものだと思って、全然作品を書いてませんでしたよー(汗)。
プロットだけは練り上げ居たものの、流石に一日じゃ間に合いませんでした……。
あと三日は欲しかったかなー。
チェック入れてくださる皆様、強制的に不完全作品でさえ読まねばならない参加者様、ゴメンナサイ。後半かなりグダグダです。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。