『異形』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:風間新輝                

     あらすじ・作品紹介
不幸な主人公と異形が……

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 私はこの薄暗い駐車場の片隅で生まれた。いや、自我が芽生えたと言ったほうがいいのかもしれない。産まれた瞬間というものが私にはわからないからだ。気がついたら、ここにいた。それだけのことだ。
「ミィー。フゥーー。シャー」
 黒猫だ。車の下から現れたようだ。なぜ、私を威嚇するのだ。私に敵意はないのに。私は黒猫にそっと近づいた。私とは違う私が私の中にいた。
 ベキ、グチョ、クチョ、グチュ。黒猫はいなくなってしまった。食欲という本能にあがらう術を私は持たなかった。私の体は少し成長したようだった。




 眩しい夏の陽光を浴び、安田彰は布団から体を起こした。くだらない日常を過ごすために今日も起き上がる。まだ幼さなかった時は一度寝たら、二度と起き上がれないのではといつも脅えていた。今となっては起きることだけで、退屈な日常が始まることに嫌気がさし、いっそ楽に死ねるなら、死んでしまいたいと思うようになっていた。狭く汚い部屋を見て、更に現実に嫌気がさす。
 いつもどおり、彰は小さな仏壇に手を合わせる。
 父さん、母さん、なんで死んだんだよ。
 帰って来ない返事を求め、彰は毎朝、手を合わせ、いつも同じことを考える。今年で20になる彰が突然すぎる父と母の死を引きずるのも無理のないことだった。
 去年の暮れ、くだらないバラエティー番組を見て、笑っていた彰に突然の訃報が届いたのだ。両親は飲酒運転のトラックにはねられ、見るも無惨な死体となって、彰の元に帰ってきた。それを彰は未だに立ち直れないでいた。しかし、彰の目から涙が流れることはなくなっていた。どんなに大切な者が亡くなったとしても、悲しいという感情は時間と共に風化してしまうのだった。それでも悲しみ自体がなくなるわけではないのも事実だ。彰が死にたいと考えるようになっ
たのもそれからだった。
 彰は仏壇の扉を閉め、建てつけの悪い窓を開けた。吸い慣れたマイルドセブンをポケットから取り出し、口にくわえ火をつけた。彰は無造作に置かれた皺だらけのジャケットとジーンズを拾った。灰が落ちるのも気にしないで、煙草を口にくわえたまま、着替えた。そして、洗面所に行き、鏡を覗きこむ。そこには、顎髭を少しはやし、長髪で生気のあまり感じられない目をし
た彰の姿があった。
 いつも通り、おかしなところはない。変わらないよな。
彰は溜め息をついた上で、いつも通り狭い部屋から出て、施錠確認をし、ホンダ製のバイクに跨り、バイト先へと走らせた。通路は朝の通勤ラッシュのため、混雑しており、彰はますます、つまらない、死にたいと思うようになっていた。
 高速で最高速に挑戦でもしたら、まだ気が晴れるのにな。
 彰はスピードを上げ、車の合間をすり抜ける。ここでトラックにひかれでもしたら、最悪だな。死ぬ時に苦しみそうだし。実際にはトラックにひかれることもなく、彰はオフィス街に佇む高層ビルの一棟に辿り着いた。そのまま、彰はバイクをビルの地下の駐車場へと走らせた。

「彰くん、5分遅刻だよ。大目に見てあげるけどね」
 彰のバイトの先輩である工藤良子は上目づいに彰の顔を眺める。良子は、肩までしかない短めの茶髪で、肌は透き通るように白く、立ち振る舞い一つにも自信が窺い知れるような女性だ。歳はおそらく彰より3歳ほど上だろうが、彰は聞いたことがないので、実際はわからない。良子が言った通り、彰の腕時計は9時5分をさしており、5分の遅刻だった。彰は良子のことを嫌いではないが、意志の強そうな大きな瞳で見つめられると何故か言葉が詰まり、緊張してしまうので、苦手としていたりする。
「すいません」
 彰は少しだけ頭を下げる。その際に良子の黒いミニスカートがちらりと視界に入った。やはり女性としての魅力は相当のものである良子の足は白くて綺麗だった。だが、まじまじと見ているわけにもいかず、彰はすぐに頭をあげた。
「そうそう、私のミーが見当たらないの。今から、駐車の案内役なんだから、ついでに見てきてくれない?」
 そう、彰のバイトとは、駐車場においてのガードマンと交通整理みたいなものだ。ミーというのはこの駐車場に住みついている黒猫のことだ。彰も可愛いと思っていて、可愛がっているが、
良子はミーを文字通り、猫かわいがりしているようで、バイトの前にミルクや缶詰を買ってきて、与えていた。そういう光景を目にした時には、気が強そうな良子の中の優しさを感じ、なぜか気分が晴れるようなことがある。彰にはその感情を抱くわけが自分でもわかっていないが、特に気にすることではないと考えていた。
 良子の配置は駐車場の北出口なので、彰の配置である南出口の方にいないかを見てきてくれということなのだろうと彰は判断し、無言のまま頷き、南出口に向かった。
 駐車場には、クラウン、メルセデスベンツ、BMWといった国内外の高級車が揃いぶみしている。都心の高層ビルの駐車場ともなれば、さして珍しい光景ではないだろう。
 彰はミーが黒猫なために、薄暗い駐車場の黒と同化し、見落としやすいだろうと考えたので、細心の注意を払い、ミーがいないかを探した。しかし、見つからない。まもなく、彰の持ち場である南出口につくというところで奇妙な物を見かけた。地面に血のようなものが付着していたのだ。近づいていくと、それが血だということがわかった。
 ミーの血だろうか? 車にひかれでもしたのか? それとも、他の猫と喧嘩でもしたのだろうか?
 専門家ではないために、彰にはこの血の量が致命傷に該当するほどの量なのか、かすり傷程度なのかはわからないが、かすり傷だと思うことにした。希望を抱けば、打ち砕かれ、いっそうの悲しみや苦しみを味わう羽目になるかもしれないが、それでも希望という甘い蜜のようなものに人間は誰しもすがるものなのだ。彰はミーの事を考えることを放棄し、黙々と交通整理もどきを続けていた。
 時折、寒気がし、何者かがいるような気がし、何度か振り向いたが、何もなかった。更に探
すなり、見回りをすれば、その何かに気づいたのかもしれないが、彰はそうすることに何故か躊躇いを感じ、そのまま交通整理を続け、2時間のバイトを終えた。

「ねぇ、ミーはそっちにいなかった?」
 心配そうな顔をして、良子は彰に尋ねた。
「探したけど、見当たらなかったですよ。猫なんだから、2・3日したら、ぶらっと帰ってきますよ。猫は自由ですから」
 ミーがこの駐車場から出ていったという話は聞いたことがなかった。しかし、血痕のことを話すのは躊躇われたので、その事は話さずに、彰は良子を励ますために笑顔を造り、意識的に明るい口調で答えた。
「なら、いいんだけど……。私、もう帰るわ。彰くん、お疲れ様」
 良子は溜め息をつき、そう告げると、彰に背を向け、歩いていった。嘘をついたことに若干の罪悪感を感じながら、良子の背中を眺めていた。
 そろそろ次のバイトに向かわなくちゃな。彰はバイクに跨り、ますます気温が上がり、恐ろしく熱のこもった道路を進む。この時期になるとテレビで取り上げられる、政治家の打ち水程度じゃ気温は下がんないよな。効果はあるってらしいけどさ。くだらないことを考えながら、彰はピザの宅配のバイト先へと急ぐ。



「早くこれを運んでいって」
 脂ぎった40代半ばの店長は甲高い声で叫び、住所の書かれた紙とピザの入った箱を彰に渡した。中年太りし、どっしりとした体格と合わない高い声に彰はいつも吹き出しそうになるが、そうもいかず、店の名前の書かれたピザの箱と住所の書かれた紙を受け取った。彰は昼時のため、戦場へと姿を変えたキッチンに背を向け、裏口からバイクへと向かう。
 絶対に俺のバイクのが速いよな。そう考えながら、彰は店の名前が赤色で書かれた派手なバイクに跨り、灼熱の太陽が照りつける中、紙に書かれた住所へと急いだ。
 都心からそう遠くはない住宅街に、目的地である高層マンションはそびえたっていた。マンション内部のエレベーターの表示には18階まである。一番高い所に住んでいる人はエレベーターを待つのだけでも一苦労だな。彰は届け先が2階にあるため、階段を利用した。彰には現在11階で止まっているエレベーターを待つ気はまったくなかったのだ。彰は一度、紙を確認した上で、205号室のインターホンを押した。
「ピザのミックスパンチです」
 彰はセンスの感じられない意味不明の名前をインターホンに告げる。すぐに扉が開かれ、20代前半の女性が出てきた。短い茶髪に黒のミニスカートが見事にマッチしていた。
「えっ!? 良子さん、なんですか?」
 はっきり言って、彰は混乱していた。以前、ピザ屋でバイトしていることは話したはずだし、店名も教えたはずだが、宅配のバイトをやっているのは彰以外に大勢いる。頻繁に利用していても、結構低い確率のはずだ。まさに……。もの凄く恥ずかしい言葉だったので、彰は途中で考えるのをやめた。
「私、彰くんがバイトしているから、ここに注文したんやけど、まさか彰くんが届けてくれるとは思わへんかったよ。これって運命?」
 運命などという恥ずかしい言葉を惜しげもなく良子は使った。彰が思うことさえ、途中でやめた言葉だった。
「さあ。そんな天文学的数字ではないですし、偶然じゃないですか?」
 上目づかいに彰を覗き込む良子の仕草と自分の考えを読まれているような錯覚に内心、凄く動揺していたのだが、表情は苦心して平静を装った。
「妹がせっかく東京に遊びにきてるんやから、ちょっとくらいまけてよ。良子さんにはやさしせな、あかんで」
 良子は彰の脇腹を肘でつつき、言った。彰は先程から、関西人にいつ変わったんですかと突っ込みたくなったが、我慢した。それに妹が遊びに来たこととピザの値段は関係ないだろと思いながら、彰は玄関に並ぶ2人分の靴が女性のものであることを確認し、ほっとしていた。彰は自身にも自信を持って形容できるほど確かではない仄かな感情を良子に抱いていた。
「わかりました。1400円にしときますよ」
「おおきに! ほんま助かるわ。これが日頃の行いってやつやね」
 良子はかなりハイテンションだった。酒が入っているのかもしれない。
「ほらほら、ボケてだから、なんか突っ込んでよ」
 いや、突っ込みにくいし、ボケとしてもかなり微妙だよな。
「はあ。じゃあ、俺はバイトなんで、さようなら」
「お茶くらい飲んできーな」
「いや、今が稼ぎ時なんですよ。ほら、正午ですし」
彰は自分の腕時計を良子に見せ、良子に手を振り、踵を返した。1階への階段を下りながら、彰は良子に1000円も安くしてしまったことに少し後悔をしていた。彰の時給より高いからだ。彰は決してケチというわけではない。彰は両親の死後、大学をやめて、バイトで生計を立てているのだ。だから、お金に対して、シビアになってしまうのも仕方のないことだ。生来の生真面目な性格のためか、彰は安くした分は自分のバイト代から引くつもりだった。
 次の配達地へ向かうために彰はバイクに跨った。

 漸くピザ屋の宅配のバイトが終り、彰は夕暮れ時の街の中を自分の暮らすアパートへとバイクを走らせていた。彰は、この夕暮れ時の暗さと明るさが混じった不安定な空が一番好きだった。 自宅に近づくと、次第に道路を走る車の量は減っていく。毎日、バイトをして、同じことの繰り返し。やりたいことは諦めてしまったしな。弁護士になるという彰の夢は、両親の死、それによる大学の中退によって潰えてしまっていた。彰は不安定な空を見ると、いつもそう思ってしまう。彰が毎日死にたいなどと思うのは夢の諦めにも原因があるのかもしれない。夢や希望という未知なる道がないことは、人間を人間ではなく、単なる生命体に変えてしまうのだ。見慣れた汚いアパートに着き、彰はその前の道路の隅にバイクを停めた。アパートの所々に明かりがついていた。テレビの音や食事の匂いといった、生活に基づく何かが、明かりのついている部屋にはあるが、彰の部屋にはそのようなものがあるはずもなかった。彰はポケットから鍵を取り出し、自分の部屋に入った。彰はジャケットを脱ぎ捨て、マイルドセブンを取り出し、口にくわえる。暫くは火もつけないでいた。
 何のために生きているんだろう? 何故か、彰はそのようなことを考え、その答えが目の前にあるのに曖昧になり、霞んでしまうことを悲しく思い、そして、答えを出せない自分には嫌気がさしていた。彰は漸く煙草に火をつけた。そして、カップラーメンを台所から持ってきて、ポットから湯をそそぐ。彰は煙草を灰皿にいれ、カップラーメンを口へと運ぶ。
 まあ、カップラーメンなんてこんなもんだよな。味には文句は特になかったが、彰はその手軽さに虚しさを覚えていた。そう感じたのは隣の部屋から聞こえてくる楽しそうな男と女の声が聞こえてくることにも関係があるのかもしれない。彰はカップラーメンを食い終えた。何もする気が起こらなかったので、そのまま布団の上に転がった。そして、そのまますぐに彰は眠りに落ちていた。





 私はここにいるべきなのだろうか? ここは人間の出入りが多い。人間に見つかり、私の存在が広まれば、私は排除される。私が食欲という本能を制御し、人畜無害な存在になろうとも排除されるであろう。私は人間ではなく、異形の存在なのだから。
 猫の血痕を処理したが、人間の男に見られてしまったことだし、やはり移動するべきだな。今は深夜であり、流石にここを出入りするものはいないはずだ。私はゆっくりと移動する。どこにいこうか? 下水道にでも降りようか。それが一番いいのかもしれないな。
「ひっ! 何!? 何なの、これ!?」
 見られた。人間の女だ。何故こんな時間にここにいるのかはわからない。でも、見られたことに変わりはない。どうしようか? ここで殺しておくべきだろうか? 私には、思考から行動へと移す気はまだなかったのに、私とは別の意志が働き、腰が抜けて動けない女へと近づいていた。
「ひぃ、こ、来ないで」
 女は高い声を上げ、逃げようと後ずさる。私は、私の食欲はその女へと向けられ、そして、私は女の首に絡みつく。骨が軋む音がし、鈍い音と共に、首が普通には曲がらない角度に曲がった。
「なんで……」
 その一言がその女の最期の言葉であった。私はゆっくりと食事をした。私の体は更なる成長を遂げ、そして、私の中に、私の意識や意志を凌駕する新たな私が形成されていった。私には私を抑えることもできなくなっていった。そのために、私はここから出ていくことはできなくなっていた。いや、出ていく気がなくなったのだ。ここには餌が豊富に来るのだから。




 彰はいつもより、少し早めに目覚めた。彰は仏壇に手を合わせ、それから、特に理由があったわけではないが、テレビのスイッチを入れ、ニュースを見るため、チャンネルをかえた。普段は朝食を抜くのだが、今日はパンを食べることにし、パンを片手に彰はテレビの前に腰を下ろした。
「本日未明、TDビルディングの駐車場から、血痕が見つかりました。警察は事件、或いは何らかの事故の疑いがあると発表し、その線で捜査している模様です」
 ブラウン菅上の女子アナウンサーが告げた場所は彰がバイトをしているビルの駐車場のことであった。
 血痕って、あれだよな? あれはミーのじゃなかったのか? 
 彰はすぐにパンを口に詰め込み、時間はあったが、手早く用意をすませ、バイト先へと向かった。

「彰くん、早いね」
 良子はすでに来ていた。自分の方が早くから来ていることはお構いなしのようだった。
「良子さんの方が早いじゃないですか。ところで、今日はバイトあるんですか?」
「ああ、血痕が見つかったって話のために、休みになるかってこと? それなら、写真を撮った後だし、一部の場所さえ入らなければ、一般の営業には問題ないんだって。いろんな検査も終わって、警察も帰っちゃったしね」
 良子は先に来て、雇い主から話を聞き出したか、警察から聞き出したかのどちらかをしたようだった。そんなものなんだな。彰はそう思いながら、次の質問をした。
「その血痕ってどこで見つかったんですか?」
 彰には見当がついていたが、念のため、確認したのだった。
「あそこよ」
 良子はその血痕の方向に指を指した。そちらには確かに立ち入り禁止のテープが貼られていた。しかし、問題はそこが彰が見た血痕とは異なる場所だったのだ。
「本当にあそこなんですか?」
 彰の声は驚きのため、少し大きくなっていた。
「ええ。それがどうかしたの?」
 良子は首を傾げ、不思議そうに彰の顔を覗きこんだ。
「いえ、なんでもないです。ところで、昨日の関西弁はなんだったんですか?」
 そう答え、話をそらしつつも、彰は拭おうにも拭えない違和感を覚えていた。
「私、大阪出身だから。言ってなかった?」
「初耳ですよ」
 彰は、良子が東京で産まれたものだと、ずっと思っていた。
「そうだったかしら。とにかく、妹が来てたから、関西弁がでちゃったの。お酒も入っていたし」
 恥ずかしそうに、良子は小さな声で呟いた。
「ああ、やっぱり、お酒入ってたんだ」
 彰は妙に納得していた。いつもの自信ありげな良子と昨日の関西弁で話す明るい良子が彰の中でまったく一致しなかったからだ。
「あっ。彰くん、そろそろ時間だよ。ちょっと気味が悪いけど、仕事に移りましょう」
 良子は自身の腕時計を覗き、そのように言ったが、さして気味悪がることもなく、自分の持ち場へと歩いていった。その後ろ姿を見届け、彰も自分の持ち場へと向かった。
 やっぱりいつもと同じだよな。彰はそう思いながら、高級車の並ぶ駐車場を歩く。そう、あそこだったな。彰は昨日見た血痕のあった場所へと歩いていった。馬鹿な!? なんでだ? ないはずがないだろう。昨日、見たはずの血痕が跡形もなく、消えていたのだ。彰は場所を間違えたのではないかと思い、辺りを見回す。しかし、違っていない。昨日感じた違和感、誰かが血痕を片づけたとでもいうのか? だが、拭いたとしてもここまで綺麗になくなるはずがない。昨日、感じた何者かは人じゃなかったとでもいうのか? 馬鹿げているよな。そう思いつつも、彰は自身の考えに背筋が凍るような感覚を覚えた。そして、今日見つかった血痕へと走り出していた。普段と同じ距離なのに、いつもよりも長い感じがする。彰は肩で息をしながら、漸く事件現場へと向かった。そこは血痕がなくなっているようなことはなかった。俺の勘違いだったのか? そんなことはないよな。
「キャッ」
 一瞬、聞こえた悲鳴。彰には聞き覚えがあった。良子の声だ。彰はそこに何があるのかを考えることもなく、ただ良子の元へと走り出していた。一秒が一秒ではなくなる感覚。急いでいるのに、走っているのに、なかなか良子の元へは辿り着けない。無事でいてください。俺からなら、何を失ってもいいから。彰は走った。痛切な願いを込め、限界など考えることもなく走った。
「良子さん!」
 彰は叫んでいた。同時に良子の上に覆い被さっていた黒い何かが良子から離れた。黒い何かは彰の方へと移動してきた。人間よりも大きな黒い物体。肌にあたる部分には襞のようなものがあり、所々隆起しては陥没を繰り返し、蠕動していた。それはアメーバのようでもあった。目の位置にはガラス玉或いはビー玉のようなものがついていた。人間の形を真似た黒いアメーバ。その姿はまさに異形だった。だが、彰はその異形に恐怖を感じるのではなく、どこか親近感を抱いていた。
「なあ、俺は殺されても構わないから、その女性だけは助けてくれないかな?」
 言葉が通じるかどうかなど、彰は考えていなかった。ただ、通じるような予感めいた何かがそうさせていた。彰は自身の命より良子に助かって欲しかったのだ。異形は意志を汲み取ったかのように、何も言わず、彰へと近づいてきた。
「彰くん、何言ってるの! 早く逃げて」
 異形から解放された良子は必死そうに彰に叫んだ。足を負傷したのか、動けないようだった。良子の願いもむなしく、異形はついに彰に覆い被さってきた。
「なあ、一つ聞いておきたいんだが、お前はなんで死にたいんだ?」
 彰は異形にまたもや話しかけていた。彰が感じた親近感とは死を渇望している点だった。


「なあ、一つ聞いておきたいんだが、お前はなんで死にたいんだ?」
 目の前の男は言った。その男の大きな黒い瞳には、私に対する恐怖などはなかった。私が私ではなくなりつつあるという感覚、その恐怖を抱いて以来、私が渇望しているもの、なのに形を掴めずにいたものについてその男はその一言で形容したのだ。私のすべきことはその男によって示された。もう恐怖は恐怖ではなくなっていた。あとはただ……。



  あれ? ここは? なんだろう? 死ぬってこんなものか。結構あっさりしているな。
「彰くん、大丈夫?」
 誰かの声が上から聞こえた。彰は目だけを動かし、周囲を見渡した。ここは駐車場だよな。何があったんだっけ? あ、そうだ。あれに殺されそうになったんだ。俺、良子さんに膝枕をされているんだ。あれ?
「良子さん、足の怪我は大丈夫なんですか?」
「呆れた。彰くん、殺されかけたのよ。なのに、普通、人の心配なんかする?」
 呆れたと言いながらも良子は笑顔で言った。
「俺は良子さんが好きですから」
 そう、だから、俺は命をかけたんだ。彰は仄かにしか感じられなかった感情が自身の手に収まった気がしていた。
「これが答え」
良子はゆっくりと、笑いながら、唇を彰の唇に重ね合わせた。

「良子さん、あれはどうなったんです?」
 彰は良子とキスをしてしばらくしてから、良子に尋ねた。彰にはあれがどうなって、そして、何故自分が生きているのかわからなかったのだ。
「彰くんが何か言った後、突然消えちゃったの」
 あれがどうなったのかは彰にはわからない。彰は一度は失った生きる目的を新たに見つけていた。それは目の前にある笑顔だった。

2005/09/16(Fri)22:51:45 公開 / 風間新輝
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■作者からのメッセージ
ええとですね。正直、三人称の作品はほとんど書いてないので、チャレンジしました。そのため、誤字(これはいつも?)や視点のミス等があるかもしれません。(いや、きっとある)見つけ次第、ご指摘いただけるありがたいです。
それとですね、便利屋菊島オフィスを楽しみにしていらしゃる方(きっといないんだろうな。はぁ〜)連載を無視して短編書いていてすみませんm(__)m

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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