『誰かを守れなかった頃、誰かを守りたかった』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:羽乃音                

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――ヒーローのような死に様に憧れた。誰もが放り出した、そんな命を救って、その為に命を投げ打って。そうやって死にたかった。それは本当の英雄なんかじゃなくて、ニセモノで。でも、英雄みたいに死にたかった。
 きっとそれは卑怯なのです。誰かの為に死ぬとか、そんな言い訳を取り繕って、でも本当に私が何を求めていたのかといえば、結局ただの自殺でしかないのです。愛するヒトの為、愛する何かの為、そんなふうに理由をつけて、でもそれは本当に下らない何かの為――。






                誰かを守れなかった頃、誰かを守りたかった





 ただ漠然といつまでも日々が続いていく。あの日、私という少女はそんな考えに酔っていた。春の後に夏が来て、秋が来て当たり前のように冬が来るのだと。父は黙々と仕事を続け、母はいつも通りに家事に追われているのだと。三つ離れた兄は私を優しい目で見つめていてくれるのだと。そして私はそんな当たり前の日々の傍らで、毎日のほんの少ない予定をこなしていく。そんな日常が遠く長い未来に繋がっているんだと、私は絶対に疑ったりしなかった。今の、十年近く経った私よりもはっきりと未来が見えていた気がする。



 父は寡黙な人だった。冷たいとかそういうんじゃなくて、ただ言葉というものがとにかく苦手な人だった。父親は背中で子供を育てるものだ、そんな昔の言い方もあったけど、父はもっと違った。どうしていいのかわからない。自分のたこだらけでごつごつした手のひらで、どうやって私と接したらいいのかがわからない。そんな気持ちがちゃんと私に伝わってきた。不器用な笑顔の中に、そんな気持ちが痛いほど込められているのは、きっと私達家族の誰もに伝わっていた。
 いつの日か、父は珍しく私を連れて動物園に向かった、そんな日があった気がする。小学生の高学年くらいの頃だったと思う。平日は大工の仕事をして、日曜日はその疲れを癒す為に一日じっと本を読んだりして。そんな父が平日の天気のいい日、私を学校から早引けさせて動物園に行った。
 私は、その時の父が怖かった。なんでなのか今もわからない。ただ、私は兄と比べてもずっと成績も悪かったし運動もだめで、顔も自慢するほど良くないし、人見知りもした。だから心のどこかで、ああ、私は捨てられるんだな、そんなことを思ったのかもしれない。平日の日に父が二人きりで私と動物園へ行くというのは、あの頃の私にとってそれだけ衝撃的だったのだと思う。
 でもそんな心配も、色とりどりの鳥達や不思議な生き物達を見つめるうちに薄れていった。
 父はその時、いつもよりもずっとはっきりとした声でしゃべった。きっと仕事に出たならこうしてはっきりしゃべっているんだろう、そう思ったのを覚えている。ほら、あれはアフリカから来た珍しい鳥だぞ、あの象はインド象だ、世界にはもっと大きい象もいるんだぞ、そうやって。記憶は薄く、枯葉色に掠れてしまうけど、その若々しい父の声だけはしっかりと今の私にも聞こえてくる。
 父の大きな手のひらが作る日かげでいつまでも寝転んでいたい、あの時私は父の腕の中でうとうとしながらそう考えていた。



「エナは、将来何になりたい?」
 記憶の彼方、優しい兄が冷たい眼鏡のガラスの向こうからでも伝わる暖かい目で私に問いかけている。あの頃、私は兄になんと答えたのだろう。兄は私の言葉にどんなことを思ったのだろう。私の記憶の中の兄はただ南の島の太陽みたいに私に微笑みかけている。きっと兄は、私がどんなに突拍子もない夢を語ってもあの笑顔で答えてくれたのだと思う。
 兄は完璧だった。カンペキ過ぎて、私のような妹がいてはいけないんじゃないかと何度も考えさせられた。顔立ちも綺麗で、整っていて、女性とよく間違われていた。成績も優秀で、運動もできて、誰からも慕われていた。そして兄の隣にはいつもガールフレンドがいて、その女の人も本当に綺麗で。私はつくづく、みすぼらしい自分が嫌で。大嫌いで、恥ずかしくて。
 でもそんな気持ちはいつも、あの笑顔に消されてしまう。もしも天使が大人になったならきっとこんな顔で笑うんだろう、そんな笑顔に。
 優しい笑顔に照らされながら、よけいにみすぼらしくなっていく少女の自分がそこにいた。



 母は体が弱かった。細い体と白い肌でシーツを干す姿は、どこからどこまでが母なのか、どこからどこまでがシーツなのか、ふとした時にその境目を見失ってしまうぐらいだった。不健康な肌の色、私の目に母はいつもそう映っていた。そして、その白い肌の真ん中を抉るみたいにとりつけられたあの鋭い眼が、いつも冷たく私や兄を見つめていた気がする。
 母は体だけではなくて、心にも冷たいものを持っていた。だから私の中には他の二人ほどの詳しい記憶が残っていないのだと思う。その冷たさはいつも目から私達に吐き出され、痛々しい感触と重い息苦しさを与えた。
 
 そうだ。私の中に存在する何かというのは、きっと父からではなく母から受け継がれたのだ。そしてそれこそがあの頃、在りもしない名誉の為に私自身を殺そうとしたものの正体。




     続く

2005/09/07(Wed)06:49:33 公開 / 羽乃音
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■作者からのメッセージ
 まず、短い期間に二度も投稿をしてしまうこと、それをお詫び申し上げます。それと共に、やや暗い物語になってしまったことも。
 とりあえず、ということになってはしまいますが、お読み頂きありがとう御座いました。ご感想などお聞かせ願えたなら幸いです。

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