『ヒツジとすてネコ −第四章 第二話「ミサイル」−』 ... ジャンル:恋愛小説 リアル・現代
作者:rathi                

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第一章 −ネコを拾った日−

 雨戸に雨が滴る音がする。梅雨はもうとっくに過ぎ、今は実りの秋だというのに、雨が降る回数は依然として多かった。――いや、実りの秋だからこそ、実りの雨が降り注いでいるのかも知れない。間宮 望(まみや のぞむ)は、暗くなった外を見ながらそう思った。
 つまらない職場から解放される日――休日だというのに、間宮は特に何をするでもなく、部屋の中でごろごろしていた。
 理由は二つある。
 一つは、高校を卒業してすぐに就職し、こちらに来てからかれこれ二年は経つのだが、未だに自宅へ遊びに行ける友人が出来ていないという事。
 もう一つは、この鬱陶しい雨の所為で出かける気力を削がれてしまったという事。
 だから間宮は、今日一日は出掛けまいと決めていた。
 テーブルの上に置いてある時計が短く鳴る。ハトは出てこないが、鳩時計と同じで一時間置きに鳴る仕組みとなっている。何気なく目を配れば、時刻は八時。いつもの晩飯の時間はとうに過ぎていた。
 間宮は立ち上がり、気怠そうに頭を掻きながら冷蔵庫を開ける。
「……ない」
 そう、何もなかった。――いや、正確に言えば調味料と飲料水はだけはあった。ソース、マヨネーズ、ビール……。だが、晩飯となりうるモノが何一つとしてなかった。まぁ、特殊な人々に言わせれば、マヨネーズさえあればどうにかなるのかも知れないが。
 買い置きのカップラーメンは無かったかと、戸棚を開けてみる。結果は予想していた通りで、そこにも何もなかった。無いと分かっていても、探してしまうのが人の悲しい性だろうか。あるものと言えば、実家から送られてきた乾物の椎茸の袋詰めだけだった。間宮は椎茸が大の苦手なので、実家から送られてきて以来一切手を触れてすらいない。送られてきたときは――しかも着払いで――単なる嫌がらせとしか思えなかった。
 少し乱暴に閉め、腕を組んで悩む。悩んでも無駄なのは分かっている。結論は最初から一つしかないのだから。
「……くそっ」
 靴箱を開け、中から折りたたみ傘を取り出す。靴を履き、雨が晴れていますようにと念じながら玄関を開け放つ。
 無情にも、雨はさっきよりも強くなっていた。

 ※

 最寄りのコンビニである、『スターチルド』に入り、間宮はカゴを手に持つ。セブンイレブンやローソンのように大手のコンビニではなく、今時珍しい個人経営のコンビニだ。星印の看板が目印で、大手のコンビニに対して随分と健闘している。
 まずは非常食用にと、カップラーメンを二つカゴの中に放り込む。本当はもっと欲しいのだが、如何せん値段が高いため、近くのスーパーで安売りしている時にのみ沢山買い込むことにしていた。
 出来合いモノのコーナーに行き、間宮は腕を組んで悩み始める。相変わらず代わり映えしない品揃えに、深いため息をはいた。
 高校生の頃、間宮はある野望を抱いていた。それは、出来合いモノの料理を全て制覇するという野望だった。しかし、今となっては、何ループ目に差し掛かっているか分からないほどで、もはや嫌というほど食べ飽きていた。だがそれでも、休日に雨が降るとこうして買いに来ることがほとんどだった。飲食店が無いわけではない。少し遠いが、駅前には山ほどある。だがしかし、間宮はそれすらも面倒に感じてしまうのだ。
 ビーフカレー、サラダ、それと夜食用のサンドイッチ。少しゴージャスに二個入りのショートケーキも入れて、レジへと持って行く。
「あ、こんばんわ間宮さん」
 ここでアルバイトをしている、島崎 稲武(しまざき いなむ)が間宮を客としてではなく、知人として挨拶をした。約一年前、週に三回のペースでここに通っていた所為で顔を覚えられ、それで知り合いとなった。島崎は間宮よりの三つも下――高校二年生だから、当然後輩という事になる。
 これが、女だったら良かったのに。間宮は、度々そういう思いに囚われる。コンビニ弁当漬けになっている間宮を心配し、知り合った女の後輩が自分のために料理を作ってくれる……。そんな夢物語を描くが、このコンビニに来る度にそれは『現実』という絶大なる破壊力を持つ武器によって脆くも砕かれていた。
「1520万円になります」
「お前は駄菓子屋のばあちゃんか。ネタが古いんだよ、ネタが」
 財布から丁度の金額を取り出し、レジに置く。
「足りませーん」
「出世払いで頼むわ」
 利子は十一(といち)ですからね、と言いながら島崎はレシートを手渡す。それから島崎と少し雑談をした後、間宮は外へと出た。
 雨は依然として降り続け、足下に水たまりを作っていく。この辺の道路は、スパイクタイヤで削られた所為かだいぶ窪んでおり、他と比べて余計に水が溜まりやすくなっている。雨の日にこの辺で油断していると、頭から水を被ることになる羽目になってしまう。かく言う間宮も、三回ほどやられた。その度に罵詈雑言を轢き逃げのように過ぎ去っていく車に吐きかけるが、馬耳東風、馬の耳に念仏だった。
 最近気に入った歌を口ずさみながら、間宮は歩き始める。頭の中でメロディーを流し、小さな声で歌う。人差し指で腿を叩いてリズムをとり、足取りもそれに併せてリズミカルに歩く。サビの部分に入り、間宮は眼を閉じて歌に酔い始めた。
 そんな時だった。その、『なきごえ』が聞こえたのは。

――に〜……。

 雨に消えてしまうような、か細い声だった。
「ネコ……か?」
 雨の音、それに小さい声ながらも歌を歌っていたというのにそれが聞こえたのは、間宮が地獄耳だったのか、それとも……。
 間宮は辺りを見渡した。しかし、雨の所為で視界は悪く、何処にネコが居るのか全く分からなかった。

――に〜……。

 まるで間宮を呼ぶように、ネコはもう一度鳴いた。その声はとても弱々しく、助けを求めているように聞こえた。
 今の鳴き声で大体の方向は掴めた。間宮は、横断歩道の向こうの暗闇をジッと見つめる。すると、ぼんやりと石柱のようなモノが浮かび上がってきた。その石柱には、何か文字のようなモノが書いてあった。暗くてよく見えないが、辛うじて『公園』という文字だけは見えた。
 本当にここであっているのかどうか今一つ確証がなかったので、公園に向かって耳を澄ませる。

――に〜……。

 聞こえた。どうやら公園に居るようだ。声からして、子ネコだろうか。すぐに頭を過ぎったのは、捨てネコではないかという考えだった。ついさっきまで捨てネコの感動物語をテレビで見ていたという影響もあるが、公園はネコを捨てるにはもってこいの場所だからだ。公園には、親と子がセットで来ることが多い。だからこそ、その可愛さ、そして同情心に駆られた子供が親に飼うことをねだる場合がよくある。それを想定して、元の飼い主は捨てていくのだろう。誰かが拾ってくれますようにと、ちっぽけな同情心を残して。
 間宮は、つい先ほど買ってきたコンビニ袋をちらりと見やる。そして悩んだ結果、来た道を戻って再び『スターチルド』に入った。
「あれ? なんか買い忘れですか? あ、オカズでしょ? 今日入荷したばっかりのヤツが裏にありますけど?」
「お前はエロビデオ専門店の店長か。来て早々に下ネタ話をするんじゃねーよ」
「じゃ、なんですか?」
「弁当の廃棄、まだあるか?」
 島崎にそう聞くと、肩が上下するほど深いため息をはき、間宮を哀れむような眼で見る。
「間宮さん……。ついにそこまで金に困って――」
 軽いチョップをして、その言葉を遮った。
「言うと思ったよ、このアホたれ」
 わざとらしく頭をさすりながら、島崎は質問する。
「じゃ、なんですか?」
 間宮は親指で外を指す。
「捨てネコだよ、捨てネコ。動物愛護精神で、哀れな捨てネコに人の優しさを教えてやるんだよ」
「間宮さん……」
 島崎から尊敬の眼差しが向けられる。
「へっ、よせよ。当然の事だろ」
「今日の捨てネコ特集見ましたね? それって思いっきりその番組の受け売りじゃないですか。自分もさっき携帯テレビで見ましたよ。単純というか、分かり易いというか……」
 ため息混じり、島崎は言った。尊敬の眼差しと思われたのは、どうやら軽蔑の眼差しだったようだ。間宮は、島崎に天竜張りの逆水平チョップをみぞおちにかます。
「やかましい。それで、廃棄はまだ残っているのか?」
「少しは……残っていると思いますよ」
 本当に痛かったのか、みぞおちをさすりながら奥へと引っ込む。だが、十秒と経たない内に帰ってきた。両手に、カゴ一杯のスパゲッティーを持って。
「忘れてましたよ。今日はスパゲッティー祭りの日だったみたいです」
「なんだ、そのイタリアの祭りみたいな名前は」
 よっこらせ、と島崎はカゴをレジに下ろす。
「自分も分からないんですけど、月に一度、なんでかスパゲッティーが全く売れない日があるんですよ。それで賞味期限が過ぎちゃって、こうして嫌がらせのように余るワケで」
 確かにこの量は、店側にとっても、休憩中に廃棄モノを食べるアルバイト達にとっても、嫌がらせ以外の何物でもなかった。
「……ネコって、スパゲッティー食べるのか?」
 おにぎりなら与えたことはあるが、麺類というのは与えたことも聞いたこともなかった。
「一応雑食だし、食べるんじゃないですか?」
 島崎の言うとおりではあるが、何となくネコに麺類というのはイメージにそぐわない。
「取り敢えず試してみるか……」
 麺と具が別になっているタイプのミートスパゲッティーと、カロリーが高そうなカルボナーラ、それとたらこスパゲッティーをカゴから取り出す。
「温めますか?」
「普段言わないクセに、こういう時は言うんだなぁ……。あ、そうだ」
 間宮は一旦離れ、パック牛乳を持ってレジに戻る。
「冷えた子ネコにはホットミルクが一番だろ」
「確かにそうですけど……」
 島崎は渡されたパック牛乳を、眉をしかめながら見る。
「自分、一年近くこのバイトやってますけど、パック牛乳をレンジで温めるのは初めてです」
「安心しろ。オレも初めてだ」
 苦笑気味に島崎は笑う。パック牛乳をレジに通し、パックの口を開け、レンジに入れてタイマーをセットする。初めてという割には、やけに手際が良かった。
「あ、それと間宮さん。餌付けするのは良いですけど、気を付けてくださいね」
「何をだ?」
「都会のネコは横着者ですからね。餌をくれるって分かると、間宮さんの家に付いていって住むかも知れませんよ?」
「生憎、家のアパートはペット禁止なんだよ」
 そうですか、と島崎は呟いた。雨音を縫うように、レンジの音が店内に響いた。

 ※

 間宮は今、公園の前に立っている。片方の手には傘を持ち、その柄に自分用のご飯をぶら下げていた。そしてもう片方には、子ネコのご飯が入ったビニール袋を持っている。これで子ネコがどこかに行っていたら、本当に笑えないなぁ。ふと、間宮は思った。

――に〜……。

 公園の中から鳴き声が聞こえた。どうやらちゃんと待っていたらしい。心なしか、早くご飯を下さいにゃー、と言っているように聞こえた。よしよし待ってろよ。お前さんのご飯とミルクを持ってきてやったぞ。少しうきうきした気分になり、間宮は足早に公園の中に入っていく。
 夜、しかも雨が降っている所為もあって、周りには誰も居ない。まぁ、こんな夜に、しかも雨の中で遊んでいる子供の方が怖いが。それにしても、誰も居ない公園はどこかうら悲しく感じられる。人が居ないというよりも、誰も使っていない遊具達が自分たちの作られたその意味も果たせずに、滴る雨を拭いもしないでただ子供達を待っているその姿が、悲しみを誘った。

――に〜……。

 急かすように、子ネコの声が聞こえる。そうだ、今は哀愁に浸っている場合ではない。他人の都合で捨てられた、哀れな捨てネコの為に餌をあげなければ。間宮は、声が聞こえる方向に歩き始めた。
 辺りは暗く、ぼんやりと何かがある程度にしか分からない。一応電灯はあるものの、電球は最後の時を迎える寸前で、役には立たなかった。眼を凝らしながら歩いていると、斜めに立っている鉄の棒が見えた。その隣にも同じように斜めに立っている鉄の棒があり、それらは支え合うようにしてそこにあった。間宮は、すぐにそれがブランコだと分かった。こんな形をしているのは、ブランコの他にはないからだ。

――に〜……。

 声は近い。どうやらネコはブランコの側に居るようだ。間宮は更に歩を進めた。しかし、数歩進んですぐに止まった。ブランコの上に、何かが乗っているシルエットが見えたからだ。一瞬、それが子ネコかと思ったが、それにしては大きすぎる。このサイズでは化けネコとしか言いようがない。……なら、これはいったい何なのだ? 雨の降る中、しかも誰も居ない公園に居る謎の物体。嫌な考えが間宮の頭を過ぎる。考えられるのは一つ。これは――。
 薄暗かった電灯が消える。間宮は、思わず息を呑んだ。
 まさか、まさか本当に……?
 電灯は何度か瞬いた後、まるでロウソクの最後のように煌々と輝く。そして、ブランコの上に乗っていたシルエットが照らし出された。
 女性だった。――いや、女の子と言った方が正しいだろう。女の子は傘も差さず、ずぶ濡れになってブランコに座っていた。何処かで見たことのある高校の制服を着ている。詳しくは分からないが、多分この近くの高校生なのだろう。そうでなければ、この女の子は……。馬鹿馬鹿しいと、間宮は頭を振ってその考えを捨てる。……しかし、雨の中、傘も差さずに夜の公園に居るなんて、よっぽどのワケ有りにしか見えない。それとも、何か大きな事件に巻き込まれてしまったのだろうか。あるいは、もう終わった後なのか……。
 間宮に気づいた女の子は、ゆっくりとこちらを見る。女の子の瞳を見て、間宮は心が締め付けられるような思いになった。その瞳は薄暗く、生気が失われていた。いったいどんなことがあったら、こんな瞳になってしまうのだろうか。間宮は思わず、傘の柄を握りしめていた。
 だが、面倒な事には関わらない方が良い。何があったのかも、聞かない方が良い。そう、間宮は決めた。
「……どうしたの?」
 間宮は、自分が濡れるのも構わず傘を差してあげた。知らぬうちに、身体が動いていたのだ。自分自身、馬鹿な事をしていると思っている。関わった所で、どうせ何にも解決出来やしない。けれど、なぜか内心ホッとしていた。
 だが、女の子は間宮の問い掛けに黙ったままだった。警戒しているのだろうか。
「……えーっと。怪しい者じゃない……って言う方が怪しいと思うけど、オレは本当に怪しい者じゃないよ。うん」
 どう声を掛けたら良いのか分からない間宮は、しどろもどろになってそう言った。これじゃまるっきり変質者じゃねーか。間宮は、自分自身でそう思った。
 しかし、意外にもその言葉を信じたのか、間宮の様子が面白かったのか、女の子は微かに笑う。そして口を開き、

――に〜……。

 間宮は思わず辺りを見渡した。子ネコの声だ。近い、というより、すぐ側に居る。ブランコの下を見ても、自分の足下を見ても、全く見当たらなかった。
「悪いけど、この辺で捨てネコを見なかったか?」
 女の子にしてみれば、捨てネコに構っている場合ではないだろう。しかし、さっきの声から分かるように、本当にすぐ側に居る筈なのだ。なのに、姿が見えない。

――に〜……。

 まただ。まるで目の前に居るような近さの筈なのに、姿が見えない。辺りを見渡しても、すぐ近くには隠れられるような場所なんてなかった。
 その時、間宮の頭にある考えが過ぎった。
「……もしかして、今その捨てネコを抱いてる?」
 丁度今日見たあの感動物語のように、捨てネコを飼う許可がもらえなかったから今こうしているのだろうか。あの物語では小学生ぐらいの女の子がこうしていたが、間宮の目の前では高校生の女の子がそれをしている。行動が幼いと言えばそれまでだが、その純朴な思いに間宮は心惹かれた。
 しかし、女の子は首を横に振る。どうやらそうではないらしい。そして口を開き、

――に〜……。

 声はするけれど姿は見えず。透明な子ネコなのか、それともカメレオンのように保護色で隠れているのか、はたまた怨霊なのか。……馬鹿馬鹿しい。間宮はその考えを捨て、今考えられる最も現実的な事を女の子に質問した。
「もしかして、子ネコの鳴きマネをしてる?」
 そうとしか考えられなかった。何の意味があってそうしているのかは皆目見当が付かないが、女の子の口からそれが発せられているのは確かだった。
 しかし、女の子は首を横に振る。どうやらそうでもないらしい。そして口を開き、

――言おうとしたが、止める。

 女の子はポケットから携帯電話を取り出し、片手でボタンを押し始める。どうやら文字を打っているようだ。言葉で伝えればいいのに、わざわざ携帯で伝えるとは、余程の恥ずかしがり屋なのだろうか?
 ようやく打ち終わったのか、女の子は携帯の画面を間宮に見せた。
『私、喋れないんです』
 そう、書かれてあった。
「喋れない……?」
 間宮は呆けたまま言った。そうすると女の子は、そこで初めて頷いた。 
「喋れない……って事は、つまり、声が出ないって事……?」
 女の子は難しい顔をして首を傾げる。イエスと答えるべきか、ノーと答えるべきか、判断に悩んでいるようだった。そして、ゆっくりと首を振った。そして口を開き、

――に〜……。

 女の子は、子ネコのように鳴いた。間宮がネコだと思っていたその鳴き声は、確かにこの女の子から発せられているモノだった。そして、ようやく女の子の言わんとしていることが分かった。
「つまり、声は出るけど子ネコみたいな声しか出ない……。そういうことか?」
 女の子は少し微笑んで頷く。どうやら正解らしい。
 まさか、と一度は頭で否定したが、この状況で嘘をつく必要なんてないし、女の子が嘘を言っているようにも思えない。つまり、この女の子が言っていることは本当で、ネコのようにしか鳴けない障害者という事になる。
 間宮は中学の頃、言語障害(構音障害)の人と同級生になったことがある。だが、喋り方が少しおかしいだけで、言葉での意思疎通はちゃんと出来た。しかし、今目の前に居るのは失語症の人――いや、声がおかしいという事は喉の病気、発声障害の方なのかも知れない。完全に喋れないという事に、やってはいけないと思いながらも哀れむ眼で女の子を見てしまう。喋れないというハンデは、さぞかし辛いことなのだろう、と。
 女の子は携帯の画面を自分に向け、打ち始める。そして、間宮に見せた。
『私は、“すてネコ”なんです。だから、拾っていってください』
 間宮は書いてある意味が分からず、
「は?」
と、素っ頓狂な声を上げた。
 捨てネコ。それは文字通り、捨ててあるネコを指す。にも関わらず、女の子は自分自身を『すてネコ』と言った。おまけに、拾っていってください、とも書いてあった。
 間宮は、心臓が高鳴るのを感じた。それは、遠回しに……。
「い、い、いやいやいや。ほら、何があったのかはオレは知らないけど、アンタとは初めてあったばっかりだし、名前も知らないし……」
 女の子は何かに気が付いたような顔をした後、携帯で何かを打つ。
『未子(みこ)』
「未子、それがアンタの名前?」
 女の子――いや、未子は頷いた。それから再び打ち始める。
『私を何処かへ連れて行ってください。お願いします』
 それを見せた後、未子は間宮に抱きついた。
「ちょっ、ちょっ、ちょっ……!」
 間宮は、これまで女性と付き合ったことはあっても、抱き合ったことはなかった。だから、体験したことがないその柔らかい感触が伝わってきたときは、理性のタガが一瞬にして吹き飛んでしまいそうだった。
 駄目だ!
 駄目だ!
 駄目だ!
 心の中では必死に抵抗を続けるが、身体は至って正直だった。男としての本能が呼び起こされ、間宮の身体は熱中症に冒されたように熱くなっていく。息が荒い。目の前がぼやける。衝動が間宮の中で暴れ回り、一匹の獣に成り果てていく。もう、どうにでもなってしまえ。喰わぬ膳は男の恥。間宮は、未子の背中に手を回す……が、それを途中で止めてしまう。
 泣いていた。未子は声を立てず――泣き声すら失っていた――間宮の服を痛々しいまでに握りしめ、泣いていた。どうして未子が泣いているのか、間宮は分からなかった。――いや、分かるわけもない。ついさっき、本当についさっき会ったばかりなのだから。
 雨は降り続けている。未子の涙に誘発されるように、雨は勢いを増していく。涙雨という言葉が、浮かんで消えた。

 公園に捨てネコは居なかった。代わりに、大きな『すてネコ』が一人居た。

 ※

 間宮は、近隣の住人が辺りに居ないかどうかを確かめてから、未子を部屋の中に入れた。女子高生を部屋に連れ込んだと噂されれば、自ずと尾ひれは付き、芳しいことにはならないからだ。
「ちょっと待ってて」
 未子を玄関口で待たせ、間宮は乱雑に靴を脱ぐ。短い廊下を渡り、部屋側と廊下側を遮る扉を開ける。それからビニール袋をテーブルの上に置き、室内に干しっぱなしだった長めのタオルをもぎ取り、戻って未子に手渡した。
 受け取った未子は微かにお辞儀をする。ありがとう、そう言っているように見えた。
 思えば、この部屋に女の子を入れたのは初めてだった。しかも、自分を“すてネコ”と名乗る風変わりな女の子を、だ。初めて会って、初めて部屋に入れる。初めてが妙に続くことに、間宮は苦笑する。
 未子は受け取ったタオルで髪を拭き、服の水分を取っていく。よく分からないが、その動作に妙なエロティシズムを感じ、間宮はそれに見とれてしまう。その視線に気づいた未子は、首を傾げて間宮を見る。汚れを知らない、その純粋無垢な瞳で。
 間宮は、汚い自分が露わになっていくようで居たたまれなくなり、視線を外した。
「あ、いや、ほら……服……そう、服。濡れたままだと身体が冷えるだろ?」
 に〜。鳴きながら、未子は頷いた。
「サイズ合わないと思うけど、オレのを貸してあげるよ」
 に〜。鳴きながら、未子はまた頷いた。
「着替える……いや、そうだな。ついでだから……」
 その後の言葉を言おうとして、間宮は躊躇った。別にやましい気分があってこういう事を言うんじゃない。身体が冷えているから、温めてきたらという意味で言うんだ。必死で自分にそう言い聞かせ、正当化する。
「シャワー、浴びて来たら?」
 に〜。鳴きながら、未子は何の躊躇いもなく頷いた。
「うん、やっぱり浴びた方が良いよね。うん」
 意味もなく、間宮は何度も頷く。しかし、シャワーを浴びると言ったにも関わらず、未子は動こうとしない。タオルで身体を拭きながら、何かを期待するような眼で間宮を見続ける。
 何で動かないんだ? それに、何で期待するような眼でオレを見るんだ? オレに何を期待しているんだ? ナニを? いやいやそうじゃない。そういう考えを持つな。邪念を振り払いながら、間宮は何を期待されているのかを考え続ける。
 しばらくして、未子は諦めたように携帯電話を取り出す。打ちながらも、何か躊躇っているようだった。
『トイレって何処ですか?』
 そりゃ躊躇うワケだ。納得し、間宮は思わず頷く。
「トイレはここ」
 そう言って、間宮は玄関から一番近い扉を指す。
「その奥がお風呂……まぁ、シャワーも一緒にあるから」
 間宮の指先にある扉を見ながら、未子は微かに頷く。まだ水が滴っている場所はないかどうかを確かめながら慎重に靴を脱ぎ、未子はトイレに入っていった。
 中からは鍵の閉まる音と、衣服が擦れ落ちる音が微かに聞こえる。何となく居心地が悪くなり、間宮は部屋に戻る。部屋側と廊下側を遮るように、その間にある扉を閉めた。
 さて、と気合いを入れ、間宮は未子が着る服を準備し始める。しかし、探そうにも何を着せたらよいのか分からなくなり、すぐに腕を組んで悩み始める。
 間宮の部屋は、良くも悪くも男の一人暮らしの部屋だった。敷き布団は万年床で、読み終わった雑誌が散乱し、空のペットボトルが机の上に何本もあった。小さなテレビの上には埃がつもり、テレビ台の中にはあまり良いタイトルではないビデオがずらりと並んでいる。間宮は慌てて押入を開け、その中にビデオを放り込んだ。室内で干していた洗濯物もそのままになっており、しかも、取り入れた洗濯物は服専用のケースに放り込むだけで、一切たたまれていない。当然、皺は付き放題だ。
 間宮はそのケースの中に手を突っ込み、ほじくり返してみる。まるで抽選箱のように掻き回しながら、間宮は適当に一枚掴んでみた。
 しわくちゃになった、古い白Yシャツだった。一瞬にして未子がこれを来た姿を想像してしまう。あまりにも官能的すぎるその姿に、間宮の身体は素直に反応する。
 間宮は何とかその妄想を振り払い、深い深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。
 Yシャツを床に投げ捨て、改めて手を突っ込み、適当に一枚掴んでみる。
 ゴムがよれよれになった、ハワイアン柄のトランクスだった。一瞬にして未子がこれと、さっきのYシャツを着ている姿を想像してしまう。本来着ることがないモノを着ることによって生まれるエロティシズムに、間宮は言い難い興奮を覚えた。
 間宮はどうにかその妄想を振り払い、自分の頭を壁にぶつけて気持ちを落ち着かせる。
 このままでは埒が明かないと思った間宮は、近くにあった雑誌を手に取り、参考になればと見てみる。女性が着てもおかしくないモノ、という事で間宮は、黒いTシャツとまだ色落ちしていないジーパンで落ち着いた。これなら少々ラフな女性ということで通じるだろう。
 耳を澄ますと、水の音が聞こえる。どうやら今はシャワーを浴びているようだ。これ幸いと扉を開け、お風呂兼シャワー室の前に着替えを置く。
「着替え置いておくからなー!」
 水音にかき消されないように、大きな声で呼びかける。
 に〜。水音に混じってその声が聞こえてきた。
 部屋に戻り、間宮は遮るように扉を閉める。テーブルの上にある買い物袋を見て、晩飯がまだだったことを思い出す。間宮はレンジで温めようと、今さっき閉めたばかりの扉のドアノブを握りしめる。……ふと思えば、部屋側と廊下側を遮る扉はここだけなのだ。そして、間宮と未子の距離は二つの扉しかない。その先には、今シャワーを浴びている未子が居る。近い。――いや、ほとんど無いに等しい。
 間宮は、自分の中で何かが芽生えていくのを感じた。未子に抱きつかれたときにも、コイツがオレの中で生まれたんだ。それは、オオカミだ。相手を貪り尽くそうとする、オオカミがオレの中で欲望をエサに育っていく。
 オレはオオカミだ。自分の欲望を満たすためだけに、相手を蹂躙する浅ましいオオカミだ。肉を食らえ。血のしたった、赤い肉を食らえ。扉を開けて、未子を押さえつけろ。どうせ喋れやしないのだ。助けなど、呼べやしない。泣き叫ぼうと、そのまま……!

――私は、“すてネコ”なんです。だから、拾っていってください。

 ふと、未子の言葉が脳裏を過ぎる。それと同時に、未子が間宮に抱きついて泣いていた事も思い出す。何かに怯えるように、小さな身体を震わせ、間宮の服をギュッと握っていたあの姿を、思い出してしまった。
 オオカミという小さな芽は、間宮の中にあるヒツジによって食べられた。
「……くそっ」
 握っていたドアノブを離す。結局オレは、オオカミになりたいヒツジでしかないだな。間宮は、自分を嘲笑った。
 間宮は、島崎に言われた言葉を思い出す。
『間宮さんは、相手のことを考えすぎるんですよ』
 ついでに、笑いながらこうも言っていた。
『間宮さんは生まれも育ちもヒツジなんだから、血のしたったお肉なんて不味くて食えないハズですよ。ヒツジはヒツジらしく、草を食べれば良いんです』
 ヒツジとオオカミは違う。食べるモノも、そして価値観も。
 ヒツジは草を食べる。大地が育てた草を食べる。無くなったら、育つのを待つしかない。だがそれでもヒツジは待つのだ。きっと、草が好きだからだ。
 オオカミは肉を食べる。誰かが育てた肉を食べる。無くなったら、また違うのを襲えばいい。腹が減ったら、誰彼構わず食べるのだ。きっと、肉が好きだからだ。
 相手のことを考えすぎる間宮は、オオカミにはなれない。草が育つように、愛の芽が芽生えるまで待つヒツジにしかなれないのだ。それを、間宮は悔やんでいた。そんなんだから、オレは未だに経験が無いんだ、と。
 間宮は、ため息をはきながら床に座る。オオカミでなくなった今では、することはない。それに、今は廊下側に行きたくなかった。
 間宮は、泣いていた未子を思い出す。
 なぜ未子は泣いていたのだろうか?
 『すてネコ』と言っていた。それは、彼氏に捨てられたということなのだろうか?
 『何処かへ連れて行って』と言っていた。それは、捨てられた場所に居るのがイヤなのか、それとも、雨にうたれているのがイヤだったのか。
 『拾ってください』と言っていた。それは、オレの家に連れってという意味だったのだろうか?
 間宮は、山のようにある疑問を解こうとするが、どれも明確は答えは出ない。――いや、出せなかった。未子のことを、あまりにも知らなさすぎるからだ。
 しかし、間宮はまた同じ疑問を解こうとする。無駄だと分かっていても、考えずには居られなかった。
 それは、未子が部屋側と廊下側を遮る扉を開けるまで続けられた。

 ※

 買い物袋からビーフカレーを取り出し、レンジの中に入れる。タイマーをセットし、開始のボタンを押す。重苦しい音と共に、それは回り始めた。
 ヤカンがやかましく鳴き始める。間宮は火を止め、コーンポタージュの粉を入れておいた二つのコップにお湯を注ぐ。
「先にこれを飲んでて」
 間宮はテーブルに置き、未子にそう促した。
 に〜。鳴きながら微かに頷き、未子は両手でコップを持つ。何度か息を吹きかけ、恐る恐る飲み始める。しかし、まだ熱くて飲めないのか、恨めしそうにコーンポタージュを睨んだ。
 どうやら『すてネコ』はネコ舌らしい。それを遠目に見ていた間宮が笑う。
 レンジが鳴った。手で触るとかなり熱く、手布巾を使って中身を取り出す。そして今度はミートスパゲッティーを中に入れ、タイマーをセットしてスタートを押した。
 捨てネコに食べさせる予定だった廃棄モノを、オレが食べる羽目になるとは……。中でぐるぐると回り続けるそれを見て、間宮はため息をはいた。別にミートスパゲッティーが嫌いなワケではない。単に、本来捨てるモノだったモノを食べるのに抵抗感があっただけだ。
 手布巾で掴んだままテーブルに持って行き、熱によってぴったりと張り付いたビニールを剥ぐ。
「こんなモンしかないけど、どうぞ」
 に〜。未子は鳴いて返事をするが、まだコーンポタージュを睨んでいる。どうやらまだ飲めないでいるらしい。
 まさか、本物の捨てネコじゃないよな……。化けネコの類を想像し、間宮は眉をひそめながら未子を見た。ネコの耳もなければしっぽもない。変化の術で隠せるという話もあるが、そもそもネコが変化できるのかどうか疑わしい。それに、ネコ舌だからネコだと決めるのは、あまりにも発想が貧困過ぎる。
 レンジが鳴った。間宮はハッとなり、足早にレンジへと向かう。開けて取り出そうとするが、やはりそれも熱く、手布巾を使って取り出す。
 賞味期限は完全に過ぎているけど、大丈夫だよなぁ……。食中毒にならないよなぁ……。不安ばかりが浮かんでくるが、赤々とした具が美味そうで、唾を飲み込んだのも事実だった。それのビニールを剥がし、テーブルに置く。横目で未子を見てみると、ようやく飲める温度まで下がったのか、今は美味しそうに飲んでいた。
 間宮は床に座り、あぐらをかく。手にフォークを持ち、拝むように手を合わせた。それから微かに頭を下げ、
「いただきます」
 そう言ってから、間宮は食べ始めた。一人暮らしになってからこれを言わない人は多いらしいが、間宮は何となく決まりが悪いので今も言っている。
 未子は、珍しいモノでも見たように眼を大きく開いていた。コップをテーブルに置き、携帯を打ち始める。そして、それを間宮に見せた。
『いただきます』
 見せ終わった携帯を箸のように持ち、間宮のマネをするように頭を下げた。そうして、未子も食べ始める。
 間宮は、ミートスパゲッティーをつつきながらぼんやりと未子を見つめていた。ふと思い出してみれば、この部屋で女の子と一緒にご飯を食べたのは初めてだった。女の子を入れたのが初めてなのだから、当然なのかも知れないが。
 今日は初めての事が本当に多いな。巻いたミートスパゲッティーを口に運びながら、間宮はしみじみと思った。
 後で気が付いたのだが、コンビニの廃棄モノを食べたのも、今日が初めてだった。 

 ※

 晩飯も食べ終え、間宮はテーブルにあるモノを全て片づける。使ったコップを洗い、今度はインスタントコーヒーを入れ、お湯を注ぐ。未子が熱くてまたなかなか飲めないのかも知れないので、間宮は少しだけ水を入れて冷ます。
「クリープとお砂糖はお好みでな」
 カップを部屋に持って行った後、戸棚に入っている詰め替え用のクリープと、砂糖が入った容器をテーブルの中央に置いた。
「飲みながらでいいから、答えてくれ」
 に〜。クリープを大さじ三杯、砂糖を大さじ二杯入れてから未子は頷く。
「年は何歳だ?」
 未子は最初に両手をパーに広げ、その後片手にチョキ、もう片方にパーを作った。十七歳。誕生日の早い高校二年生か、誕生日の遅い高校三年生か。どちらか悩んだが、この際どちらでも良いと思い、間宮は質問を続ける。
「住所は?」
 未子は携帯を取り出し、コーヒー片手に打ち始める。
『詳しくは言えないですけど、名取です』
 ここは仙台だから、電車で駅三つ分。時間にすると、ここから約二十分ぐらいだったと思う。思いの外近い。
「……何で公園に居たの?」
 一瞬躊躇ったが、間宮は構わず質問した。やはり言いづらいのか、未子は俯くようにして眼を伏せる。少し間を置いてから、未子は携帯で打ち始める。
『“すてネコ”だからです』
 間宮は頭を横に振る。
「答えになってない。その原因だ。それを教えてくれ」
 だが未子は、眼を伏せたまま答えようとしない。身を縮こませ、小さく身体を震わせた。それはまるで、怯える子ネコそのものだった。質問を変えるべきだろうな。小さなため息をはきながら、間宮はそう思った。
「これが最後の質問だ。……どうしてオレに“拾ってください”なんて言ったんだ? 意味、分かって言っているのか?」
 に〜? 未子は質問の意味が分からないとでも言うように、語尾上がりに鳴きながら首を傾げる。
 どうやらこれは、意味深な言い方でもなく、まして俗っぽい言い方でもないらしい。つまり、ヒッチハイクのようなモノで、泊まる場所がないから泊めてくれ、そういう事なのだろう。この様子だと、“何処かへ連れて行って下さい”というのも、雨が冷たいから違う場所に行きたい、という意味なのかも知れない。
 山のように積まれていた疑問は解け――まだ残ってはいるが――間宮の中で結論が導き出された。
「家出……か?」
 未子は、よく見ていなければ分からない程小さく頷いた。
 間宮はため息混じりに頭を掻く。なんて事はない。『すてネコ』と名乗った謎の少女も、単なる家出少女だったワケだ。
「……今日は泊まってけ。そんで、明日家に帰れ。家出したって、何の解決にもなりゃしないし、親を心配させるだけだ」
 未子は顔を上げ、すがるような眼で間宮を見つめる。その視線を外すようにして、間宮は一滴も飲んでいないコーヒーを持って立ち上がった。
「そこの煎餅布団で寝てくれ。干してないから男臭いと思うが、まぁそんくらいは我慢しろ」
 部屋側と廊下側を遮る扉のドアノブに手を掛けると、服をくいっ、と後ろに引っ張られる。振り返ると、未子が寂しそうな眼で見ていた。
「あっちで寝るだけだ。別にどこに行ったりもしない」
 振り払うように扉を開け、部屋側と廊下側を遮るために扉を閉める。
 これで良い。間宮は、そう自分に言い聞かせる。家出と分かった以上、その理由を詮索する必要もないし、これ以上情けを掛ける必要もない。
 間宮は冷蔵庫からビールを取り出す。こうでもしなければ寝られないような気がしたからだ。おつまみ用にと戸棚からビーフジャーキーも取り出し、トイレとお風呂の扉の間にある壁に寄りかかり、腰を下ろす。
 ビールのプルタブを開けると、炭酸ガスが抜ける良い音がした。缶を傾け、口に注いでいく。のど仏を鳴らし、一気に半分ほど飲む。溜まった疲れを吐き出すように、間宮は深い息をはいた。やはり、ビールは一口目が一番美味い。缶を見つめながら、間宮はそう思った。
 ビーフジャーキーを一切れ口に放り込み、噛む。なぜ固い食べ物がビールと合うのかは良く分からないが、とにかく合うものは合うのだからしょうがないのだろう。
 間宮が『家出』という単語を聞いて思い出すのは、中学三年生にやった自分の家出だ。別に、立派な理由があって家出をしたんじゃない。思春期の青年がそうであるように、疎ましい両親の所為で家に居ることが嫌になって、それで家出をしてしまったのだ。
 嫌になった理由は、高校受験のこと。それが自体が嫌だったワケではない。問題なのは、間宮の両親の対応だった。間宮の両親は、良く分からないメンツを気にして、ハードルの高い高校を受けさせようとしたのだ。勿論、間宮はそれを嫌がった。
 しかし、両親は代わる代わる言った。
『良い高校を卒業するということは、社会人としてのステータスなのよ』
『これは間宮の為に言っているんだ。県職員や政治家になるためには、こういう事が必要なんだ』
『この高校を受かるために、勉強しなさい』
『この高校を受かるために、勉強するんだ』
『勉強しなさい』
『勉強するんだ』
『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』『勉強』……。
 さながらそれは、洗脳のよう――いや、洗脳そのものだった。同じ事を何度も言うことで、一種の催眠状態に陥られることが出来る。宗教などで使われる常套手段だ。両親はオレを勉強マシーンに仕立て上げようとしているんだな。間宮は、本気でそう思っていた。
 秋の終わり――受験を三ヶ月後に控えたある日、身の回りのモノをバックに詰め込み、朝日も出てない深夜に間宮は家出をした。一応、書き置きは残していった。行き先と、出て行った理由を書いて。
 街灯すらないあぜ道を、おっかなびっくりに自転車を漕ぎ、駅へと向かった。車なら二十分近くで行ける距離だが、自転車だと一時間近く掛かった。
 駅に着くと、しんとしており、乗客はおろか駅員すら居なかった。腕時計を見ると、時刻は五時丁度。始発の時間まで一時間以上あった。
 ペンキの剥がれたベンチに座り、間宮は明けていく空を見上げた。不思議な気分だった。あれだけ鬱陶しいと感じていた両親が、今では遠くの人に思える。縛り付ける鎖は何もなく、この電車で何処へでも行ける。オレは、自由になったんだ。そう、間宮は思っていた。
 始発の時間が近づき、人がまばらに集まってきた。そろそろかと思い、間宮はプラットホームに向かった。
 駅内にベルが鳴り響いた。間宮はアナウンス通りに黄色い線の後ろに下がり、ゆっくりと近づいてくる電車を見続けた。
 車内はがら空きで、乗車席に寝転がっている人もちらほら見られた。それから少しして、ベルがもう一度鳴り響き、大きく身を震わせてから発車した。これからオレの家出の旅が始まるのか。間宮は、心躍らせた。
 流れる景色を見ながら、間宮はこれからどうすべきかを考え始めた。
 前日の内に貯金を全て下ろしてきたので、懐は温かい。安いビジネスホテルなら、二週間近く泊まることが出来るだろう。しかし、それでは駄目だ。それではたったの二週間しか保たない。……バイトだ。バイトをすればもっと長く居られる。だが、中学生という身分ではどこも雇ってはくれないだろう。――いや、人手の足りない土木作業ならどうにかなるかも知れない。しかも、住み込みでいける可能性もある。よし、まずはアルバイト雑誌だ。あっちに着いたらすぐにコンビニに寄って、アルバイト雑誌を買おう。
 間宮は、今でもその時の気分を覚えている。一言でそれを表現するならば、楽しかった。皮肉にも、家に居た時よりもずっと生き生きしていたのだ。自分の中で人生プランがどんどん組まれ、可能性が目の前で無限大に広がっていくような錯覚すら覚えた程だ。
 電車は、終点へと辿り着いた。間宮が家出に選んだ場所、それは仙台だった。そう、皮肉にも今住んでいる場所と同じ場所だ。
 アルバイト雑誌を買って、駅前にあるベンチに座った。雑誌を開き、すぐにアルバイト募集欄を探した。この時初めて求人雑誌を見たのだが、思いの外高校生募集中というのが多かった。しかしそのどれもが、コンビニ、レジ打ち、ウェイターといったものばかりだった。日当が欲しい間宮にとっては、それは論外だった。今度は日当という条件だけで絞ってみた。そうすると、いくつかの候補が挙がってきた。
 一つ目は、間宮が考えていた土木作業のバイト。日当で、しかも住み込み可と書いてあった。だが、備考欄を見てみると二十歳以上と書いてあった。しかし、頼み込めばどうにかなるかも知れないと思い、そのページの隅を折って跡を付けた。
 二つ目は、引っ越しのバイト。なぜこれを候補に挙げたかというと、引っ越しのアルバイトをしていた友人からある話を聞いていたからだった。それは、人手が足りない時は中学生でも雇ってくれるという話だ。事実、中学二年生だった時にも関わらず、その友人は何度も引っ越しの手伝いをして日当をもらっていた。雇われる可能性は一番高いと思うので、これは最有力候補だった。
 三つ目は、水商売――つまりはホストのバイト。一番の強みは年齢問わず。しかも、日当で出来高制だった。しかし間宮は、ホストという響きに抵抗感があり、他の候補が全部潰れてしまったときの最終手段として考えていた。
 他にもいくつかの候補を挙げ、間宮は近くの電話ボックスに入った。
 片っ端から電話を掛けていけば、一つぐらいは引っかかるだろう。そう確信して、間宮は受話器を持ち上げ、十円玉を入れた。

――結果は、全滅。

 今思えば、それは当然だと思う。なにせ、“何歳ですか”という質問に馬鹿正直に答えていたのだから。嘘をつけば良かったものを、何となく後ろめたい気持ちに囚われて言えなかったのだ。
 間宮は、次の手を考え始めた。
 アルバイトは後に回すとして、宿を確保する必要がある。でも、いくら懐が温かいとはいえ、容易にビジネスホテルに泊まるのは危険だ。あっという間にお金は無くなってしまうだろう。となれば、金のかからない宿を探す必要がある。テレビのように、泊めてくださいと何件も回れば、どうにかなるかも知れない。
 間宮は、自分のプランに恍惚した。案外、どうにかなるかも知れない。オレは両親が居なくたって、生きていく事が出来るんだ。鼻息を荒くし、間宮は意気揚々と電話ボックスを出た。しかし、その勢いを削ぐように腹が鳴った。思えば、家を出てから何も食べていなかったのだ。腹が減っては戦が出来ぬ、ということで間宮は近くのラーメン屋に入り、メニューの中で一番安いみそラーメンを頼んだ。親父くさい表現ではあるが、五臓六腑に染みたというのはこういう事を言うんだろうか。間宮は、存外美味しいみそラーメンに舌鼓を鳴らした。
 店から出て、辺りを見渡した。駅前である所為か、一戸建ての住宅は無く、ほとんどがマンションかアパートだった。さすがにアパートを片っ端から訪ねるのには抵抗があったので、間宮は一戸建てのお店に絞ることにした。これならば、泊めてもらえる条件として皿洗いの手伝い、掃除の手伝いなどを取引の材料に使えるからだ。
 満タンになった腹を叩き、間宮は気合いを入れて歩き始めた。
 一軒目は、寂れたラーメン屋。いかにも繁盛していなさそうな店構えだった。経営しているのは、きっと老夫婦だろうな。孫とか出て行って居なくて、寂しがっているだろうな。孫代わりとして、雇ってもらえたりして。そんな空想を広げ、間宮は希望の扉を開くように、汚れた扉を開け放った。
 中にいたのは、思っていたとおりの老夫婦。ただ、想像していたイメージとは正反対の老夫婦だった。カウンターの中にいる爺さんは、入ってきた間宮をぎらついた眼で睨み付けるように見ていた。奥にある座敷には婆さんが居り、砂かけババアを連想させるようなはれぼったい顔で、日が当たらない窪んだ眼で凝視していた。
「何か用か?」
 嗄れた声で爺さんは言った。用件を告げていないというのに、どこかトゲのある口調だった。
 ここでは絶対に無理だろう。そう思った間宮は、店を間違えましたと告げ、逃げるように外へ出た。
 二軒目は、病院。人助けの職業なのだから、空いているベットを貸してもらえるかも知れない。そんなことを思いながら、受付の看護婦さんに用件を告げた。宿が取れなかったので泊めてください、と。
 受付の若い看護婦さんは、困ったように笑いながら言った。
「君、ここがどこだか分かっている? ここは、産婦人科よ」
 受付の看護婦さんが指す指の方向を見ると、そこには確かに産婦人科という文字が、はっきりと記されてあった。
「君、中学生でしょう?」
 心臓が跳ね上がった。一応、大人びた格好をしてきたから高校生ぐらいには見えるだろうと思っていたのだが、さすがというべきか、一発で見破られた。
「宿が必要な理由は聞かないけど、取り敢えずウチでは無理よ。病院だから、って考えで来たかも知れないけど、病院だからこそそういった人達を泊める訳にはいかないのよ。何が起きるか分からないこの世の中だし」
 別に間宮を“そういった人達”扱いしているのではなく、規則だからしょうがないと言っているように聞こえた。
 ありがとうございます。礼を言って、間宮は玄関を開けた。出る直前に受付の看護婦さんが、
「ちゃんと家に帰りなさいよ。自殺なんかは絶対にしないように。まだまだ若いんだから」
と、言ってくれた。その時は余計なお世話だと反感心を抱いていたが、今ではその言葉のありがたみが分かる。別にその言葉で間宮の人生が大きく変わったワケではないが、自殺だけは絶対にしないと思えるようになったのは確かだった。
 三軒目、四軒目、五軒目と訪ねていくが、訝しげに見られたり、怒鳴られて追い出されたり、面倒臭そうに断られたりと、結局またしても全滅だった。
 日は落ち、灯りが目立つようになってきた。野宿だけは避けたいと思った間宮は、近くのビジネスホテルに入った。一泊三千円と、破格の安さだった。しかしカウンターに向かう途中、『ただ今満室でございます』というプレートが見えた。舌打ちしながら、回れ右してビジネスホテルを出た。
 その後も間宮は安いビジネスホテルを見つけては入ったが、運が悪いのか、それとも誰かの策略なのか、そのどれもが満室だった。
 ウンザリしながらも宿を探していたが、いい加減歩くのも疲れた間宮は近くのベンチにどっかりと座った。偶然にもそこは、間宮が昼間座っていた場所だった。
 間宮は空を見上げた。まるで今の間宮を表すかのようにどんよりと曇った暗闇だった。お先真っ暗。そんな単語が今のオレにぴったりだ。間宮は、自分を嘲笑った。
 これからどうするべきかと辺りを見渡すと、ベンチに横たわっている人が多数見受けられた。お世辞にも綺麗とは言い難いバックと服を着ていることから、すぐさまホームレス達だと分かった。
 アレが、オレの末路なんだろうか。アレが、オレの将来の姿なんだろうか……。そう思っていたら、視界は滲んでいった。
「ごめんなさい……」
 間宮は嗚咽を漏らしながら、誰に言うでもなく呟いた。

 誰かが肩を叩く感触を感じ、間宮は目を覚ました。肉体的にも、精神的にも疲れていた所為か、いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
「望……!」
 間宮は、我が目を疑った。そこには、父さんが居た。一瞬夢かと思ったが、それは紛れもない現実だった。
 偶然。今思えば、その一言で片づけるにはあまりにも確率が低い出来事だと思う。書き置きをしたとはいえ、この暗がりの中、寝ていた間宮を見つけたのだから。これは間宮が後になって聞いたのだが、朝、書き置きを見つけた両親はすぐさま仙台に向かったらしい。だが結局、その時には見つからなかったそうだ。一旦自宅に帰ったのだが、何か予感めいたものを感じてもう一度仙台に来たらしい。その結果、ベンチで寝ていた間宮を発見したのだ。これを、奇跡と言わずして何と言うのだろうか……。
 そこで間宮の家出は終わった。呆然としている間宮の手を掴み、引きずられるようにして終電の電車に乗った。
 家に帰ると、安心感から涙をこぼす母さんが居た。悪かったと謝りながら、間宮に抱きついた。間宮も謝りながら、涙を流した。
 その後、間宮の両親は勉強しろとは言わなくなった。高校も、行きたい所に行きなさいと言われた。家出をしたことによって間宮は、親の有り難みを知り、そして親は間宮が如何に追いつめられていたのかを知った。結果的に家出をして良かったと、今でも思える。家出をしたからこそ、間宮も間宮の両親も身近にありすぎて分からなかったものが分かったのだ。
 長い人生の中で、一度ぐらいは家出が必要なのかも知れない。今まで見えなかったモノが見えてきたり、分からなかったモノが分かるようになるからだ。だが必ず、戻るべき場所に戻る必要がある。それは、心配している両親が居るからだ。自分の子を心配しない親など居ない。だからこそ、未子は家に帰るべきなのだ。
 間宮は飲み干したビール缶を握りつぶす。
「これで……いいんだよな」
 自分の中の決意を固めるように、呟いた。子ネコはやはり、親ネコの元へ帰るべきなのだ。他人がひしめき合うこの都会では、他人に手を差し伸べてくれる人は少ない。いずれ野垂れ死ぬか、もしくは……。最悪な想像を振り払うように、間宮は頭を横に振るった。
 明日の朝、オレが出社するときに見送ろう。そう決めた間宮は、酔いに身を任せ、何も敷かれていない冷たい床に横たわった。
 眠りは、すぐに訪れた。

 ※

 部屋側に置いてある時計のベルが鳴り響く。間宮は慌てて起きて扉を開け、スイッチを切った。
 布団を見てみると、未子は布団にくるまるり、まだ夢の世界を漂っていたようだった。何の警戒心もないその寝顔を見ていると、間宮は自然と笑みが零れる。
 この寝顔を見るのは、今日が初めてで、そして今日が最後か……。感慨深く見つめた後、間宮は掛けてあった背広を取り、部屋側と廊下側を遮る扉を閉めた。
 
 ※

 玄関を出た後、間宮は携帯電話を取りだし、ストラップのように取り付けた鍵で閉める。
「さて、それじゃ行くか」
 に〜。制服を入れた紙袋を抱きしめるようにして持ち、未子は頷く。
「そのジーパンとTシャツはそのまま着ていってくれ。どうせ要らないヤツだしな。親にワケを聞かれたら、親切な人に貰ったとでも正直に言えばいいさ」
 に〜。階段を下りながら、未子は寂しそうに鳴く。
「ちゃんと家に帰れよ。きっと何かが変わっているハズだ。自殺なんかするなよ。アンタはまだ若いんだ」
 間宮は、あの受付の看護婦に言われたことをそのまま未子に言った。少なくとも、これで自殺することはないだろう。
 に〜。階段を下りきるまで、未子は俯いたままだった。まだ、家に帰ることを悩んでいるのかも知れない。
 間宮はポケットから財布を取り出し、五千円札を取り出す。
「……餞別だ。安いビジネスホテルなら一泊ぐらい出来るだろうし、飯だって良いモン食えるハズだ。これ持ってすぐに帰っても良いし、もう一日ぐらい冒険してからでも良い。その後、絶対に家に帰れ。んじゃなきゃ、これを倍にして返してもらうからな」
 突き出すようにして差し出すが、未子は困ったような顔をして受け取ろうとしない。間宮は無理矢理紙袋の中にそれを入れ、後ろを向いた。
「……んじゃな、未子」
 最後に名前を呼んで、間宮は会社に向かって歩き始める。
 に〜。未子は寂しそうに鳴いた。さようなら。間宮には、そう聞こえた。
 幼い子ネコの冒険はこれで終わり、そして未子とオレはいつも通りの日常――いや、ちょっと変化した日常へ戻るのだろう。それで良いんだ。……ふらりと家にやって来て、すぐに自分の家に帰っていく。なんともネコらしい行動だな。間宮は、目頭を押さえて笑う。
 空を見上げれば、昨日の雨が嘘のように雲一つ無い青天井が広がっている。昨日と今日とでは違うんだ。オレも、そして未子も……。そう、間宮は思った。



第二章 -ネコと別れた日-

 会社が終わり、間宮は自分のアパートに帰る。階段を上り、自分の部屋の前に立つ。鍵を開け、扉を開ける。
 部屋に入ると、少しだけ違う空気が混ざっているのが分かった。今まではなかった空気。もう二度と訪れることはない空気。吹っ切れたと思っていたが、まだ無理だったようだ。間宮は玄関を開けたままにし、部屋側の窓も開け放つ。これで、部屋の空気が入れ替わるハズだ。
 背広を脱いでハンガーに掛ける。代わりに一昔に流行った三本線ジャージを履く。流行った当時から履いていたので、裾やらゴムやらもうボロボロだ。
 間宮は、布団の上に腰掛ける。もやは座布団代わりだ。その目の前にあるテレビのスイッチを入れると、選挙に関するニュースを報道していた。間宮は別に選挙に関心があるわけではないが、何となくつけておいた。
『日本を変えるためには、まず皆さんの協力が必要です! 一票! そのたった一票が皆さんの未来を変えるのです!』
 いったい何本くっつけてあるのか分からないマイクの塊を持ち、候補者は市民に向かって叫ぶ。応えてくれるまで、叫び続ける。
 その姿には、確かに感銘を受けるものがある。何かを変えようとする、その姿勢は立派なものだ。オレには到底出来ない事だろう。だがしかし、その一票で何かが変わったことがあるだろうか。一致団結して反対したとしても消費税は結局増え続け、意味のない道路は増え続けている。血税を使っての絶対に売れないとしか思えないテーマパークの建設、国家に従事する者だけが受けられる施し、更には官僚という地位だけで犯罪人なのにも関わらず良い仕事に就ける天下り……。それらが変わると信じて、今まで皆は投票し続けたのだろう。にも関わらず、正義の眼は盲目し、悪行は続けられている。弱い者が頼りにして渡したエサを、強い者は何の躊躇いもなく食べ、もっとくれよとねだり続ける。弱い者は結局エサでしかないのか。弱い者に救いの手を差し伸べるのが、強い者としての道理ではないのか。間宮は世間の不甲斐なさを感じ、歯を鳴らした。
『今日の一票は明日の一票! 私が日本を変えます!』
 そう言った候補者はいったい何人居ただろうか。そして、何人消えていっただろうか。段々見るのが嫌になってきて、間宮はテレビを消した。この部屋の中で何を言おうが吼えようが、結局世間は何も変わないからだ。
 座っているのも嫌になり、間宮は布団に寝転がる。いつもとは違った匂いが、間宮の鼻孔をくすぐる。未子の匂い。それは、ほのかに甘いような気がした。

 ※

 次の日、間宮は有休を使って会社を休んだ。玄関やら窓やら開けっ放しにしたまま寝てしまった所為で、風邪を引いてしまったのだ。間抜けにも程があるなぁ。ため息混じりに、間宮はそう思った。
 戸棚から救急箱を取りだし、風邪薬を手に取る。何気なく注意書きに目を通すと、『空腹時には服用しないで下さい』と書かれてあった。起きてから何も食べていないので、空腹感はないがきっと腹ペコなのだろう。熱っぽい顔を触りながら、間宮は冷蔵庫を開ける。
 中に入っているのは、昨日買ってきたサラダと貰ってきた廃棄モノの余り物――カルボナーラとたらこスパゲッティーの二つ――があった。サンドイッチは昨日の朝食べていったので、冷蔵の中にはこれだけしかない。あとは昨日買ってきたカップラーメンがあるが、それらを食べたい気分にはなれなかった。
 間宮は、カルボナーラとたらこスパゲッティーを手に取り、見定めるように比べる。たらこスパゲッティーで不安なのは、賞味期限だ。もしかしたら保存料が入っているかも知れないが、一応生もの扱いになる。となれば、カルボナーラにすべきか。しかし、カルボナーラは味が濃厚だ。弱った胃では不安がある。しかし、それを言えばたらこスパゲッティーも同じ事だった。
「……くそっ」
 しばらく悩んだ結果、間宮はカルボナーラを電子レンジに入れた。多少濃厚でも、腐っているよりはマシだと考えたからだ。弱り目に祟り目には遭いたくない。
 麦茶をコップに注ぎ、テーブルに持って行く。レンジの残り時間を見ようとすると、申し合わせたように、チンと鳴った。
 ビニールを剥ぎ、フォークで巻き付けて口に運ぶ。
「……濃いなぁ」
 ため息混じりに間宮は呟いた。
 麦茶で口の中の味を薄めながら、間宮はカルボナーラを食べきった。すぐさま風邪薬を飲み、布団に寝転がる。
 眠りは、すぐに訪れた。それが、風邪薬に含まれた睡眠薬の所為だったのか、未子の匂いの所為なのかは分からなかったが、心地よい眠りにつけたのは確かだった。
 
 ※

 目覚めると、部屋の中は真っ暗だった。蛍光塗料を塗った――ブラックライトの時計を見ると、時刻は七時を過ぎていた。
 対して熱くもないのに寝間着は汗まみれで、間宮は身体が冷えてしまう前に着替える。冷蔵庫から飲料水を取りだし、コップについで一気に飲み干す。
 寝る前よりも頭は冴えており、熱も下がったようだった。体調が回復したのを知らせるように、腹の虫が鳴り響く。
 もう一度冷蔵庫を開ける――と思ったが、間宮は途中で手を止めた。中に入っているモノは既に分かっているし、例え開けたとしても、サラダ以外食べられそうなモノが無いからだ。
 たらこスパゲッティーは後で捨てよう。そう思いながら、間宮は部屋に行き、携帯と財布を持つ。そして玄関でサンダルを履き、つまみを回して鍵を開けた。

 ※

 『スターチルド』に入ると、島崎がお馴染みのようにカウンターの中に居た。間宮が見た限りでは、このコンビニに島崎が居なかったことは一度として無い。たまたまなのか、それとも毎日ここでバイトしているのか。真相は島崎に聞かなければ分からないが、別に知ってどうとなるワケでもないので、間宮は聞くのを止めた。
 昨日食べ損なったビーフカレーをカゴに入れ、栄養補給の為にと野菜100%のジュースも入れる。雑誌コーナーを見てみると毎週読んでいる雑誌が発売されていたので、それもカゴに入れてカウンターに持って行く。
「へいらっしゃい、間宮さん」
「ここは八百屋か。再放送のアニメなんか見てないで、サボらず働けよ」
 レジを通しながら、ふと思い出したように島崎が言う。
「そういえば、一昨日の捨てネコはどうでした?」
「捨てネコ? ……ああ、あのでかい『すてネコ』か」
 間宮の頭の中で、未子の顔が浮かんで消えた。
「大きかったんですか? 捨てネコなのに珍しいですね」
 島崎は少し驚いた風に言った。
「ああ、でかかった。多分お前ぐらいでかいんじゃないか?」
「またまたー。嘘ばっかり」
 島崎は、まるで近所のおばさんのように手をしならせる。
「すぐバレるような嘘はつかねーよ。それに一昨日は家まで付いてきて、ビーフカレーを食ってたし」
「マジですか? だから言ったじゃないですか。都会のネコは横着者だって」
「全くだな」
「それで、その巨大なネコは今どこに居るんですか? 間宮さんの家にまだ居るんですか?」
 島崎は間宮の言葉を信じたのか、まるで動物園に来た子供のように瞳を輝かせている。
「いや、追い払った。まだ子ネコだったから、親ネコの元へ帰れってな」
「自分と同じ大きさでまだ子ネコですか!? ハァ〜、親ネコになったらどんな大きさになるんでしょうね〜」
「さぁな。もう会うこともないから、成長したらどうなるかなんて知らねーよ」
 そう、もう二度と会うことはないだろう。何かの縁が有って、たまたま会うことになったと思うが、それももう無い。オレの知らない何処かで、勝手に育っていくんだろう。そう思って、間宮はため息をはいた。
「残念だなぁ」
 島崎がぽつりと呟いた言葉に、間宮は少し動揺する。未子が居なくなって、間宮は残念だったと思っている。それを、島崎は見抜いていたのか。
「自分、ネコって結構好きなんですよ。だから、まだ公園に居たら今日の廃棄を沢山あげようと思ったのに……」
 島崎は本当に残念そうにため息をはく。一方間宮は安堵のため息をはく。どうやら本当にただの捨てネコだと思っているらしい。
「沢山余っているって、またスパゲッティー祭でも始まったか?」
 間宮は冗談交じりに言ったのだが、島崎は頷く。
「祭は祭でも、ちょっと違いますけどね」
 そう言って、島崎は奥へと引っ込む。そして、すぐに出て来た。両手に、カゴ一杯のおにぎりを持って。
「……おにぎり祭か?」
 島崎は顔を横に振る。
「飯祭です」

 ※

 帰り道の途中、行く途中では気にしてなかった公園が眼に入った。まさか、とは思ったが、間宮の足は自然とそちらの方向に向いていく。
 一昨日まで点いていた電灯は完全に消え、公園の中は完全に闇に包まれていた。間宮は公園に入る前に一度立ち止まり、耳を澄ました。何も聞こえない。ここに『すてネコ』は居ないのだから、当然だろう。
 それでも気になって、間宮は中に足を踏み入れた。
 徐々に暗闇に眼が慣れていき、ジャングルジムが黒いシルエットとなって浮かんでくる。足下に気をつけながら、ブランコの所まで足を進めていく。
 間宮は携帯を取りだし、カメラ用のライトを点ける。暗闇に眼が慣れすぎた所為か、その光を直視出来なかった。今度は光に眼が慣れていき、ブランコの周辺を照らし始める。

――に〜。

 その時、ネコの声が聞こえた。聞き違いではない。しかも、このすぐ近くだ。
「未子」
 思わず、間宮はその名前を呼んでいた。必死になって辺りを照らしながら探す。
「未子」
 もう一度、間宮はその名前を呼んだ。出て来て欲しいという、願いを込めて。その願いが通じたのか、ブランコの向こうにある藪からガサッ、と葉のすれる音が聞こえた。
「未子!」
 間宮はその方向を照らす。

――ニャ!

「うぉっ!」
 照らした瞬間、未子がいきなり飛びかかってきた。間宮は突然のことで驚き、身体のバランスを失って尻餅をつく。
「痛てて……! おい未子!」
 しかしそこに居たのは、捨てネコ。外れそうになっている首輪を付けた、本当の捨てネコだった。
「……まぁ、そうだよな。もう未子は、『すてネコ』じゃねーんだしな……」
 まるで自分に言い聞かせるように、間宮は捨てネコを見ながら呟いた。起きあがって尻を払う。そして、その捨てネコを見つめる。
 捨てネコは眼を大きく開き、瞳孔は針のように細い。どうやらこちらを警戒しているようだ。人の手によって捨てられたネコなのだから、人を警戒するのは当たり前なのだが。
 捨てネコはじっと間宮を見つめる。その瞳は、間宮――いや、人に対して何かを問い掛けているように見えた。

……なぜ私を捨てたの?
……捨てるなら、なぜ私を飼ったの?
……飽きたの?
……それとも私を嫌いになったの?
……信じてたモノに裏切られるこの気持ち、人には分かるの?

 次々と問い掛けられるその質問に、間宮はいたたまれなくなって眼を背けた。捨てたのはオレじゃない。恨むなら、お前さんの飼い主を恨んでくれ。
 するとネコは走り出す。時折振り返っては、間宮を見つめる。そして、問いただしてくる。

……人には分かるの?

 分かるワケもない。捨てられたのには同情するが、ネコとオレとでは違いすぎる。それが、間宮の答えだった。
 
……それが、人の答えね。

 ネコは、そのまま走り去っていた。
「……くそっ」
 風邪が悪化したのだろうか。ネコと意思疎通など出来るわけもないのに、まるでテレパシストのように念話をかわしていたなんて。間宮は、額を押さえながら頭を横に振るう。
 未子は親ネコの元へ帰ったんだ。オレも帰って寝よう。もう一度ブランコを見た後、間宮は自宅に向かって歩き出す。
 オレとネコとでは違うんだ。間宮は、その言葉をもう一度心の中で繰り返した。

 ※

 翌日、完治とまではいかないにしろ体調の回復した間宮は、会社へと出勤した。しかし、午前は何ともなかったのだが、午後になってから偏頭痛が度々襲いかかってきた。間宮は短い休憩を挟みながら何とか業務をこなそうとしたが、結果は散々なものに終わった。
 定時の鐘が鳴り響き、まだ少し仕事が残っていたが、間宮は足早に外へと出た。それまであった偏頭痛も、仕事が終わったという開放感からか随分と良くなっていた。
 晩飯はどうしたものか、と間宮は歩きながら悩む。会社から自宅までの間には飲食店関係がほとんど無く、あると言えば飲み屋ぐらいしかない。駅前に行けば山ほどあるのは確かだが、そこまで行くのは少々面倒だった。結局、帰り道の途中にある『スターチルド』に寄る事にした。
 『スターチルド』に入ると、そこには珍しく――記憶の限り初めて島崎が居なかった。店内を歩いて確かめてみるが、カウンターにも、雑誌コーナーにも、雑貨類コーナーにも居なかった。
 島崎も風邪をひいたんだろうか。そんなことを思いながら、間宮はビールコーナーの扉を開ける。
「あ、いらっしゃい」
 ビール缶の間から、島崎の顔が見えた。
「うぉっ!」
 間宮は驚きのあまりに数歩後ずさり、後ろにあったおつまみコーナーの棚にぶつかる。
「やだなー間宮さん。自分ですよ、島崎ですよ」 
 そう言って、エスキモーのような分厚い服を着た島崎は自分を指さす。
「そ、それは分かっている。不意打ちだったんで、驚いただけだ」
 そうですか、と島崎は呟き、奥へと消えていく。ややあって、島崎は定位置であるカウンターに現れた。こっちに来る途中で着替えたのか、いつもの格好に戻っていた。
「改めていらっしゃい、間宮さん」
「ビール缶の補給だったとはな。なんか、やられた気分だ」
 間宮は、出来合いモノを物色しながら悔しそうに言った。
「間宮さんを驚かせたのは今年で……」
 天井を見上げながら、島崎は指を折っていく。
「十回ぐらいですかね?」
「そんなの知らねーよ。それに数えんなよ、趣味悪いぞ」
 間宮はビーフカレーをカゴに入れ、朝食用のサンドイッチもカゴに入れてカウンターに置く。
「相変わらず代わり映えしないメニューですね」
「ほっとけ」
 島崎はそれらをレジに通しながら、ふと思い出したように言う。
「そう言えば間宮さん。昨日言ってた捨てネコ、まだ公園に居るみたいですよ」
「捨てネコ? ……ああ、そっちの捨てネコか」
 昨日見た首輪の外れ掛かったあの捨てネコが頭の中に浮かび、そして消えていった。
「学校が終わってこっちに来る途中、公園から鳴き声が聞こえてきたんです」
「首輪の外れ掛かった捨てネコだろ?」
「そうなんですか? 自分は直接見に行ってないから分からないですけど……」
「昨日見てきたよ。あのでかさからだと、多分大人のネコだろうな」
 島崎は納得したように頷く。
「そっか。それで二匹の声がしたのか」
「二匹?」
「間宮さんは一匹だけしか見なかったんですね。自分が聞いたときには仲良さそうに、にゃ〜にゃ〜鳴いていましたよ」
「ふーん、子連れ……だったのか」
 そうは言ったが、間宮は何か引っかかるものを感じた。昨日行ったときには、あの一匹だけの声しかしなかったし、去っていくときにもあの一匹以外に見あたらなかった。親ネコが子ネコを置いていったとは些か考えづらい。だから、昨日の段階ではあの一匹しか居なかったと考えるのが妥当だろう。となれば、新しい捨てネコが増えたのだろうか。
「間宮さん、今日も捨てネコを見に行くんでしょう?」
 藪から棒に、島崎は言った。
「……どうだろうな」
 正直、あまり行く気が起きなかった。昨日のあの捨てネコは、明らかに人を恨んでいた。仮にオレがエサを持って行ってあげたとしても、歓迎はされないだろう。
「動物愛護精神はどこに置いてきたんですか?」
「自宅」
「……ちゃんと持ち歩いて下さいよ。エサはどうせタダなんですから、公園に寄って下さい」
「でもなぁ……」
「どうせ帰り道の途中にあるんだから、捨てネコのためにも行って下さいよ」
 島崎はヤケに粘る。
「分かった分かった。行けばいいんだろ、行けば」
 不承不承といった様子で、間宮はため息混じりに頷いた。
「さすが間宮さん。それじゃ、ちょっと待ってて下さい」
 そう言って、島崎は奥へと引っ込んでいった。大方、いつものように廃棄モノを持ってくるつもりなのだろう。今日は何祭だろうか。そんな期待感と、何を持ってくるのか分からない不安感が間宮の中で入り交じっていた。
 ややあって、島崎は両手にカゴを持ってやって来る。
「今日の催しは何だ?」
 よっこらしょ、という掛け声と共に島崎はカウンターにカゴを置く。
「卵祭です」
 カゴの中には、十個近くあるラジウム温泉卵を筆頭に、オムライス、親子丼、ピザ卵パン、カルボナーラといった卵を使った商品が有り余っていた。ここ最近は卵嫌いな人しか来ていないのか。間宮は、眉をひそめてそれらを見つめていた。
 しかし、こんなにも祭が行われていて、この店は大丈夫なんだろうか。要らぬ心配だとは思いつつも、間宮はそんなことをふと思った。
 
 ※

 帰り道、間宮は公園に向かって歩を進めていた。この所、立て続けにこの公園に訪れている。今までは縁もゆかりもなく、遠くから眺めることもなかったというのに不思議な事だ。

――に〜。

 鳴き声が聞こえた。トーンが低いので、多分大人のネコだろう。

――に〜……。

 その鳴き声に応えるように、少し高い鳴き声が聞こえた。子ネコだろうか。となれば、島崎の言ったとおり親子と考えるのが妥当かも知れない。たまたま子ネコが違う場所にいて、それが今日帰ってきたと考えるべきだろう。
 入り口の前に立つ。中は暗く、薄暗い月明かりで遊具の黒いシルエットが見える程度だった。またこの中を歩いていくのは、正直少し気が滅入る。ため息をはきながらポケットに手を入れ、携帯を取り出し、カメラ用のライトを点ける。すると、思った以上に光度が強く、黒一色染まった公園に多少ながらも色が戻った。
 辺りを照らしつつ、足は自然とブランコの方に向かっていく。ネコがブランコに集まる習性があるかどうかは知らない。だが、絶対にそこにいるだろうという根拠のない確証はあった。

――シー!

 ネコ特有の威嚇する声が聞こえる。恐らく、親ネコが接近してくる間宮を警戒しているのだろう。血の繋がった、我が子を守るために。
 暗闇には緑色に光る眼が浮かんでいる。その方向を、間宮は照らした。
「…………未子?」
 予想だにしなかった光景に、間宮は素っ頓狂な声をあげた。
 そこには、ブランコに座っている大きな子ネコ――未子と、膝の上には小さな親ネコが居た。服装は別れたときと同じで、眼は初めて会ったときのように薄暗く、生気がなかった。
「……帰らなかったのか?」
 未子はゆっくりと顔を横に振る。
「帰ったのか?」
 少し躊躇った様子を見せた後、未子はゆっくりと頷く。
「じゃあ、どうしてまたここに……?」
 それは、当然の疑問だった。家に帰ったというのに、なぜまたここに戻ってきたのだろうか。また何か嫌なことがあって、家出をしたのだろうか。しかし、未子は俯いたまま答えない。ただ、膝の上に乗っている捨てネコを虚ろな眼で見つめるだけだ。
 捨てネコ……。
 そう、未子は自分で『すてネコ』と名乗っていた。前に質問したが、なぜ自分で『すてネコ』と名乗ったのかは、結局答えてくれなかった。もしかしたら、原因は全てそこにあるんじゃないだろうか。
「未子が『すてネコ』……?」
 間宮が呟くように言うと、未子は驚いたように一度大きく跳ね、怯えるように身を小刻みに震わせ始めた。やはり、何かがある。
 『すてネコ』。それは、未子にとってどういう意味なのだろうか。目の前にいるこの捨てネコと、いったいどういう関係があるのだろうか。
 考えろ。『すてネコ』とは、いったい何なのかを。
 そして理解しろ。その、家出した原因を。
 ふと気が付くと、捨てネコは間宮をジッと見つめている。あの時と同じように、まるで何かを問いだたすように。
 ……似ている?
 間宮はハッとなって、未子の瞳を見た。似ている。この捨てネコの瞳と、未子の哀しい瞳が、酷く似ている。
「…………あっ」
 分かった。――いや、そんな馬鹿な。しかし、そうとしか考えられない。だが……だがそれではあまりにも酷すぎる。導き出したその答えに、間宮は思わず顔を歪めた。
 捨てネコと『すてネコ』。それは文字通り、 
「未子……アンタはまさか、両親に捨てられたのか……?」
 に〜。未子は俯いたまま、沈むように静かに頷く。
 信じられなかった。もしも文字通りの『すてネコ』だとすれば、愛せなくなったから、飽きたから、邪魔になったから、捨てられたのだ。それはまるで、ペットか何かのように。
 間宮は、どうしたら良いのか分からなくなった。悲しみ、同情心、怒り……。それらが激しく混ざり合う。
「――くそっ!」
 空に向かって間宮は吼えた。
 ワケが分からない。なぜ、未子を捨てるんだ。せっかく育てた子を、どうして捨てるんだ。未子は物なんかじゃない。まして、ペットなんかでもない。どうして、どうして――!
 間宮には信じられなかった。子を捨てる親が本当に居るなんて、想像したくもなかった。しかし、それを証明するかのように、未子が目の前にいる。
「どうしてなんだ? なぜ、未子が捨てられなくちゃならないんだ!?」
 声を荒げて、未子に問いただす。それがお門違いだとは分かっている。だがしかし、聞かずにはいられなかった。
 未子は、躊躇いがちに携帯を取り出す。文章を打っているのではなく、何かを操作しているようだった。
 に〜。未子は、おずおずと携帯を間宮に差し出す。
 間宮は受け取り、画面を見る。するとそこには、『親切な人へ・1』というタイトルで文章が綴られていた。そういえば、自分の名前を教えてなかったな。間宮は、ふとそう思った。
 それは、未子の半生を綴ったモノだった。メールにしては長く、そして半生を語るには短い文章だった。
『親切な人へ・1
 初めに謝っておきます。戻ってきてしまって、ごめんなさい。貴方に言われた通り、私は一度家に帰りました。“きっと何かが変わっているハズだ”って私に言ってくれた、その言葉を信じて。でも、何も変わっていませんでした。いえ、悪化していました。なぜかお母さんは私を無視します。お父さんも私を無視します。家出したことを怒りもせずに、声すら掛けてもらえませんでした。捨てられてしまったあの日から、私の居場所は何処にも無くなってしまったようです。お母さんが“あんたなんか生むんじゃなかった”と言った、あの日から。お父さんが“お前なんかどっかに行ってしまえ”と言った、あの日から。私は、“すてネコ”になってしまいました』
 メールの文字数を超えたのか、文章はそこで終わっていた。間宮は、涙があふれ出そうになるのをこらえながら次を開く。
『親切な人へ・2
 あの日に私は家出をしました。そこに居るのが嫌になったんです。全てが嫌になったんです。新しい自分を見つけに、私はいつの間にか仙台に来ていました。もしかしたら、私の新しい居場所も見つかるかも、って思いを抱いて。でもすぐに、それが甘いと分かりました。私は喋れません。この携帯でしか、言葉を伝えることが出来ません。人に助けを求めても、私が障害者だと分かると逃げていくんです。お金もほとんどありませんでした。だから、ご飯も食べられませんでした。途方に暮れました。もう、何もかもが嫌になってきて、自殺でもしようかと本気で考えていました』
 間宮は、無言のまま次を開く。
『親切な人へ・3
 そんな時でした。貴方が、私に声を掛けてくれたのは。障害者だと知っても逃げずに、私に温かい寝床とご飯をくれました。自殺しようとしていた私に、“自殺なんかするなよ”と励ましてくれました。餞別もくれました。貴方を、本当に優しい人だと思いました。どうしてこんな私に優しくしてくれるのかは分かりません。でも、優しいから優しくしてくれたのかな、とも思いました。図々しいお願いだとは承知の上で言います。私を貴方の家に住ませてください。私にはもう、他に頼るところがないんです。私に居場所を下さい。私を拾って下さい。私はもう、“すてネコ”は嫌なんです』
 メールは、ここで終わっていた。
 間宮は画面から眼を離し、未子を見る。未子は、懇願するような眼でこちらを見ていた。
 きっと、オレが最後の灯火なのだろう。血の繋がった肉親に裏切られ、他に頼るところもないのだ。障害者――喋れないというハンデを背負って一人で生きて行くには、あまりにも困難で、幼い未子には重すぎる。
 世間は弱者に冷たい。力無い子ネコは、強者であるオオカミのエサにしか過ぎない。誰も、救いの手を差し伸べようとはしない。誰も……。

……いや、オレが居る。

 そうだ、オレがここに居る。オレ以外に、誰が居ようか。この困っている女の子目の前には、オレしか居ないのだ。それを助けなくて、何が世間は弱者に冷たいだ。そんなことを言う前に、オレ自信が、オレがその救いの手を差し伸べれば良いんだ。未子の両親が未子を見捨ててしまうのなら、世間が未子を救ってくれないのなら、オレが未子を見捨てずに、救ってやれば良いんだ。
「……未子は、『すてネコ』なんかじゃない」
 間宮は、未子に向かって手を差し出す。
「オレが……オレがそれを証明してみせる」
 未子はその手を、おずおずと握る。そして、離さないように強く握りしめる。
 に〜。泣きながら未子は、間宮に抱きつく。それはまるで、自分の居場所を確かめる行為のようだった。
 間宮も、未子の背に手を回して抱きしめる。愛情や欲情からの行為ではない。未子は両親に見捨てられ、世間にも見捨てられたのだ。だったらせめて、オレだけでも未子を見捨てない。オレだけでも、未子を救ってみせる。絶対に。そんな、間宮の決意から出た行動だった。
 
 公園に『すてネコ』はもう居ない。代わりに、未子が家で住むことになった。



第四章 −ネコと暮らし始めた日々−

・一日目(木)

 翌日、間宮は四日前と同じように、何も敷いていない冷たい床に寝転がっていた。間宮は欠伸を噛みしめながら起きあがり、部屋側と廊下側を遮っている扉を開ける。そこには、前と同じように布団にくるまった未子が居た。寝顔も、泣いて腫れた眼を除けばそのままだ。
 間宮は、たった二回しかこの光景を見ていない。にも関わらず、まるでこれが当たり前のような、まるでこれがこの部屋本来の光景のような、そんな不思議な錯覚を覚えた。
 掛けてある背広を取り、扉を閉める。間宮は着替えながら、昨日のことを思い出していた。

 昨日、未子は公園からここに来るまで、ずっと泣いていた。嬉しい涙なのか、悲しい涙なのか、間宮には判断が付かなかった。ともあれ、この部屋に付くなり未子は倒れるように布団に寝転がり、泣き疲れたのかすぐに寝てしまったのだ。それはまるで、子ネコ――いや、子供そのものだった。
 間宮が初めて未子に会ったときは、いろいろと悶々としていたが、今は違っていた。異性に対する思いよりも、未子を守ってあげなくてはという思いが強い。さながらそれは、子を守る父親のように。
 この年でシングルファーザーになるとはな。冗談めいた考えに、間宮は笑う。
 冷蔵庫からサンドイッチを取りだし、壁により掛かって食べる。半ば詰め込むようにして食べ終え、胃に流し込むために牛乳をラッパ飲みする。
 部屋側の扉をもう一度開け、財布と携帯とビジネスバックを取ってすぐに閉める。……が、またすぐに開ける。
 バックから筆記用具を取りだし、内ポケットにあるシステム手帳を一枚破る。
『金を置いていくから、着替えとか必要な物とか、欲しい物を買ってくれ。困ったことがあったらここに連絡しろ』
 そう、間宮は乱雑な字で書いた。そしてその下に、自分の携帯番号を書く。しかし、未子が喋れないことを思い出し、メールアドレスも書くことにした。最後に財布から五千円札を取り出す……が、女性の服の相場が全然分からないし、下着も化粧品も必要かも知れないと思い、念のためにと一万円札を置いていくことにした。
 間宮は、忘れ物はないかと一度部屋を見渡す。その時、布団がもぞもぞと動き、未子が起きあがる。寝ぼけ眼を擦りながら、間宮を見た。
「おはよう」
 に〜。朝の挨拶に答えるように、未子は膝立ちのまま頭を下げる。
「会社に行ってくるから、そこの書き置きを見といてな」
 それだけを言うと、間宮は玄関に向かって歩き始めた。
 革靴を履き、玄関を開けようと鍵のつまみを回そうすると、後ろから肩を叩かれる。間宮が振り返ると、未子が少し寂しそうな笑顔を浮かべている。
 に〜。手を振りながら、未子は鳴いた。いってらっしゃい。間宮には、そう聞こえた。
「ああ、行ってくる」
 そして間宮は、玄関を開け放った。

 ※

 仕事を終え、間宮は帰路に就いていた。途中、コンビニに寄って晩飯を買っていこうかと思ったが、外食も良いかも知れないと思い、真っ直ぐ帰ることにした。
 間宮は、昨日の夜からずっと、これからどうするべきかを考え続けていた。人一人を養うというのは、容易な事ではない。しかも、未子は喋れないという障害を持ち、尚かつ家出少女という身分なのだ。
 高校はどうするのだろうか?
 オレの稼ぎで食わせてやれるんだろうか?
 未子はこれからどうするんだろうか?
 考えれば考えるほど、問題が解決していくどころか増えていく一方だった。勿論、こうなることは分かっていた。しかし、後悔などはしていない。オレは、可哀想だと思ったから未子を助けた。単なる同情心だけで未子を助けたのだ。だが、それの何がいけないのだろうか。同情心であったとしても、人を助けたいという気持ちには変わらない。要は、助けたいか助けたくないか、その二つだけなのだ。それを忘れてはいけない。……しかし、そうは思っていても、今抱えている問題が解決するわけでもないんだよなぁ。間宮は、思わずため息をはいた。
 何一つとして問題が解決しないまま、自宅へとたどり着く。
 間宮は玄関の前に立ち、鍵を付けた携帯を取り出そうとする。しかし、もしかしたらと思いつつドアノブを回してみると、すんなりと開いた。
 玄関を開けると、何かが焦げた匂いが間宮を出迎えた。台所に眼を向けると、焦げたフライパンが洗い場に浸けてある。晩飯を作ったということだろうか。間宮の中に、期待と不安が同時に込み上げてきた。
 間宮は、一人暮らしが長かった所為か、ある言葉を言うのを忘れていた。待っている者に帰ってきたことを知らせる言葉だ。
「ただいま」
 に〜。その声を聞きつけたのか、未子は扉を開け、間宮を出迎える。に〜。そして、もう一度鳴いた。おかえり。そう、聞こえた。
「おう、ただいま」
 間宮もそれに答えるように、もう一度言った。
 に〜。未子は間宮の袖を掴み、部屋の方を指さす。恐らく、晩飯が用意してあるから食べようという事なのだろう。
「分かった分かった。晩飯はオレが着替えてからな」
 そう言って、間宮は床を見る。しかし、朝ここに脱ぎ散らかしていった服が見あたらない。
「未子、ここにあった服を片づけたか?」
 に〜。未子は間宮の袖を掴んだまま頷く。
「そっか。どのみちそっちに行かなきゃならねーか」
 半ば未子に引っ張られるようにして、間宮は部屋に入る。
「うぉっ!」
 一瞬、間宮は違う誰かの部屋に入ってしまったかと思った。今まで住んでいた自分の部屋とは、あまりにかけ離れていたからだ。ここに暮らして二年経つが、この部屋がここまで綺麗になったのは間宮は見たことがなかった。
「はー……」
 感嘆のため息をはきながら、間宮は部屋を見渡す。
 あれだけ散乱していた雑誌は、置いていった金で買ってきたと思われる小さなラックに詰め込まれ、空のペットボトルも無くなっていた。干しっぱなしになっていた洗濯物もきちんとたたまれ、朝脱ぎ散らかしていった服もそこにたたまれていた。そして極めつけが、テレビやテーブル、それにパソコン机が微妙に移動しているのだが、それによって広いスペースを確保していたという事だった。
「未子、これ全部一人でやったのか?」
 に〜。誇らしげな表情を浮かべ、未子は頷く。どんなもんだい。そう言っているようだった。
「偉い! 未子、偉い!」
 感極まって、間宮は未子の頭をぐりぐりと撫でる。未子は、嬉しいような、困ったような、恥ずかしいような、そんな表情を浮かべた。
 に〜。未子は撫でられながらも、テーブルを指さす。そこには、未子が作ったと思われる料理が並んでいた。スクランブルエッグと、ぶつ切りにされた鶏の唐揚げだった。若干焦げが目立つが、思いの外まともで、美味そうに見える。
 間宮は着替えを持って廊下側に行き、急いで着替えた。そして部屋に戻り、背広を掛けてからテーブル前に座る。
 箸を持ち、拝むように手を合わせる。そして頭を下げ、
「いただきます」
 それに続くように、未子も片手に箸を持ち、片手に携帯を持つ。
『いただきます』
 そうして、間宮と未子は晩飯を食べ始めた。
 間宮が鶏の唐揚げに箸を刺すと、未子は興味津々な眼でそれを見つめる。口に運ぼうとすると、追いかけるように未子はそれを見つめ続けた。そして頬張ると、眼は大きく開き、緊張した表情で間宮を見つめる。
 何をしたいのか分からない間宮は、首を傾げた。しかし、すぐにこれが未子の手料理であることを思い出す。そして、求めていることも分かった。
「上出来だな」
 親指を立てて、未子の視線に応える。
 に〜。安心からか、未子は破顔一笑した。それを見ていた間宮も、思わず笑みを零す。
 久しぶりに食べる手料理はとても美味く、そして少しほろ苦かった。

 ※

 ご飯を食べ終え、間宮と未子は食器を流し場に入れる。間宮はすぐに食器を洗おうかと思ったが、フライパンの焦げが擦った程度では落ちそうもなかったので、そのまま浸けておくことにした。
 野菜ジュースをコップに注ぎ、間宮は両手にそれを持って部屋側に行く。それらをテーブルに置き、間宮と未子はほぼ同時に腰を下ろした。
 テレビを点け、何となしに音楽番組を見ていると、間宮は思い出したように未子に質問する。
「そういえば、今日置いていった金で何買ってきたんだ? あのラックと、食材以外に」
 その二つを合わせても、八千円近くは余っているハズだ。もっとも、その八千円で事足りたかどうかは分からないが。
『あの、怒りませんか?』
 未子の携帯には、そう書いてあった。
「怒る? 何を?」
 未子は膝立ちのまま、少し離れた位置にあるパソコン机の後ろから、隠してあったいくつかのビニール袋を取り出した。中身は見えないが、衣類で無い事は確かだろう。なぜなら、ビニールに描かれた文字がそれを物語っていた。
 青色のビニールには、『恵比寿書店』の文字。
 黄色のビニールには、『万博古本屋』の文字。
 白色のビニールには、『スーパーミヤビ』の文字。
 真っ先に買ってくる必要がある、雑貨品や衣類の影すらない。
『どうしても欲しくて、買ってしまったんですけど……』
 それらを胸に抱え、未子はしゅんとなる。恐らく、怒られると思っているのだろう。
「別に怒りゃしねーよ。欲しいモノを買ってこいって置いていった金だからな。それよりも、何を買ってきたんだ?」
 間宮としては、そちらの方が気になっていた。一緒に暮らしていく以上、未子は何が好きで、どんな事をするのかを知っておきたかったからだ。
『怒らないで下さいね?』
 念を押すように未子はもう一度携帯を見せてから、それぞれのビニールから中身を取り出し始めた。
 白色のビニールから出て来たのは、チョコや飴玉といった、甘いお菓子系統。
 黄色のビニールから出て来たのは、『蛙鳴戦争』というタイトルの分厚い文庫本。裏には、『¥100』のシールが貼ってある。
 青色のビニールから出て来たのは、『住宅ワーク☆ワーク』というタイトルの雑誌。
 お菓子は何となく分かるが、他の二つについては聞く必要があるかも知れない。そう思い、間宮は文庫本を指さした。
「この……これ、なんて読むんだ?」
『あめいせんそう、です』
「そう、この『蛙鳴戦争』は何の為に?」
 に〜? 未子は、首を傾げながら語尾上がりで鳴いた。質問の意味が分からないのだろう。
「つまり、これは読むために買ってきたのか、って事」
 未子はさも当然というように頷く。
『勿論ですよ。こういう小説を読むのが好きなんです』
 携帯を見せながら、未子は楽しそうに微笑む。
 なるほど、未子はこういう小説が好きなのか。未子の趣味が分かり、間宮は内心ほくそ笑む。趣味の合わない会話ほどつまらないものはない。オレもこれを読んで、感想の交換が出来れば……。そう思って、間宮はその文庫本を手に取る。ひっくり返し、裏のあらすじに目を通す。

<第三次世界大戦が始まった。それに伴い、一般人に兵士としての徴集が始められる。ソフトウェア会社に勤めていた、青井 秀(あおい しげる)もまた例外なく兵士として徴集された。ろくな訓練も受けぬまま、青井は中国へと派遣された。そこで見たモノは、まさに地獄絵図。人を人して扱わず、人が人を殺していた。辺りに響くは、悲鳴、歓喜の雄叫び、そして断末魔――。自分自身をそこに居させたという、鬼才・青井 秀氏による戦争のうら悲しさを綴った超大作!>

 原稿用紙一枚分にも満たないあらすじを読んだだけだというのに、間宮は自分の顔が引きつっていくのを感じた。パラパラと捲ってみても、あらすじ通り、とんでもなく重い小説だということは分かった。
 女子高生だってのに、なんてもんを読んでいるんだ。明るくハッピーな恋愛話とか、少年が強くなっていくファンタジーとか、そういうのだったら読めるけど、よりにもよって戦争モノとは……。間宮は、深いため息をはきながらそれを床にそっと置いた。オレが読めるようなモノを買ってきたら読もう。未子の文章がやけに丁寧なのは、こういう小説を読んでいるからなのかも知れない。
 次に間宮は、『住宅ワーク☆ワーク』の方を指さした。
「小説は分かったけど、これって……」
 住宅ワーク。つまりは、内職の事だ。手にとって見てみると、予想通り内職の紹介をしていた。他にも、内職のノウハウや、詐欺の注意、SOHO(Small Office Home Office)の紹介もしていた。
「もしかして、内職をするつもりか?」
 に〜。その問いに、未子は怖ず怖ずと頷いた。
「なんで内職なんかするんだよ? オレはちゃんと働いているし、飯ぐらいは食わせてやれるって」
 そうは言ったが、間宮は内心不安だった。二年間一人暮らしをしてきたが、家賃や食費、それに光熱費やら何やらで貯蓄はゼロ。二人暮らしとなれば、単純に考えても食費は二倍に増える。他にも必要なモノを揃えるとなれば、それ以上の出費がかさむだろう。だがしかし、金銭面の不安を未子には知られたくなかった。自分が居候しているから負担が掛かっている。そう思われたくはなかった。未子のことだ。それを知ればきっと、いろいろと遠慮するに違いない。未子と会って日は短いが、それだけはハッキリと分かる。
「ほら、今日みたく部屋掃除をしてもらって、料理を作ってもらって、それだけでオレは充分だからさ」
 に〜。未子は、それは違うとでも言うように、ゆっくりと首を横に振った。それから携帯を出し、文字を打ち始める。長い文章なのか、しばしの沈黙がこの場に訪れた。
『私は決めたんです。親切な間宮さんに甘えるだけじゃ駄目だって。私の力でお金を稼いで、私の力でご飯を食べられるようになりたいんです。私はもう“すてネコ”じゃないと、間宮さんが言ってくれました。その言葉通り、私は“すてネコ”じゃないことを自分自身で証明したいんです。人間であることを証明したいんです』
 未子の決意が、そこに綴られていた。自分が『すてネコ』じゃないことを証明するために、内職をするのだと。
 間宮は画面から眼をそらし、未子の眼を見つめる。その瞳は力強く、昨日までとは違って生きる力に満ちていた。
「……知ってるか? 内職ってのはな、地味で、儲からない仕事なんだぞ?」
 友人の母が内職をしていたので、間宮はその辛さは知っていた。ボールペンの組み立て、一本につき二円三十銭。飴玉の袋詰め、一袋につき三円。そんな世界なのだ。数百個、数千個作ったとしてもその儲けは僅かなものだ。
「それでもやるのか?」
 に〜。未子は、何の躊躇いもなくゆっくりと頷いた。勿論です。そう、聞こえた。
「……そうか。ならこれ以上止めない。未子が働きたいっていうのを止めるのも、変な話だしな」
 精神的に弱いと思っていた未子が、実は強いことに間宮は驚きを隠せなかった。二〜三日はショックでただ呆然としているものだと思っていたが、僅か一日にして立ち上がり、自分の進むべき道を見つけ出しているのだ。明日も見ない――見ようとしない腐った高校生よりも、強く、そして立派だと間宮は思った。
 良い子だ。未子がもし、オレの本当の娘だったら、自慢して回るかも知れない。なのになぜ、未子の両親は未子を捨てたのだろうか?
 に〜。未子は心配そうな声を出し、間宮の袖を引っ張る。
 我に返った間宮の眼に、自分の身長近くある鏡が眼に入った。その顔は険しく、怒りに満ちていた。
「っと、悪い。今日、上司に怒られたのを思い出してな」
 未子は間宮の袖を引っ張りながら、『住宅ワーク☆ワーク』を手に取り、あらかじめ折り目を入れてあったページを開く。そこには、様々な内職が紹介されていた。そしてその中の一つ、『クマのぬいぐるみのパーツ付け』に大きな赤丸で印が付けてあった。
「これをやるつもりなのか?」
 に〜。未子は嬉しそうに頷く。間宮は未子の手からそれを受け取り、詳しい内容を見てみる。

<クマのぬいぐるみのパーツ付け、一体につき二十円。取り付け方は説明書を付属しますので、そちらを御覧ください。こちらの内職をご希望の方は下記の番号まで連絡を下さい。追って、詳細をお伝えいたします>
 
 一体二十円。他のページに載っている内職を見てみても、なかなか割の良い仕事のようだ。
「すぐに電話してみるか」
 間宮は携帯を取りだし、記載してある番号をそのまま打ち込んでいく。耳に当て、ちゃんと繋がったことを確認する。数回のコールの後、担当と思われる人が出た。
「もしもし、こちら内職案内センターですが?」
 四十か五十代ぐらいの、井戸端会議でよく聞くおばちゃんの声が聞こえた。
「すいません。『住宅ワークワーク』という雑誌を見て、こちらの方に電話したんですけど」
「ああ、はいはい。じゃあ新規の方ですか」
「そうです」
「最初に、こっちのシステムを説明しておきますね。まずメンバー登録して、それからこっちに来た仕事をそっちに回す。まぁ、そんな感じね」
「この、『クマのぬいぐるみのパーツ付け』だけじゃないという事ですか?」
「あらやだ、アナタもその仕事がしたいの?」
 電話の向こうでおばちゃんは苦笑した。
「やっぱり、一体二十円て人気があるのねぇ〜。今週だけでもそれをやりたいって人が三人も居たわねぇ〜。でもねぇ、受注があればみんなに回せるかも知れないけど、ちょっと厳しいと思うわよ、やっぱり」
「はぁ……」
「内職歴長い人が優先されるし、新規の人だと結構酷い仕事を回されることもあるのよ、やっぱり。アナタも気を付けなさいよ」
「はぁ……」
 矢継ぎ早に繰り返される言葉に、間宮はただ生返事を返すしかなかった。
「それから――」
「あの、新規登録したんですけど」
 いつまで続くか分からないので、間宮はおばちゃんの言葉を遮った。
「あらそう? それじゃ、お名前をお願いしますね」
 まだまだ喋り足りない。そんな不満が混じった声だった。
「えっとですね、ちょいとワケありでして」
「ワケあり?」
「本当に登録したいのはオレじゃなくて、えっと……一緒に暮らしている子なんですけど、その子がちょっと喋れなくて、こうしてオレが代わりに喋っているんですけど」
 何となしに、間宮は未子に視線を向ける。
「あらやだ、喋れないの? じゃ、障害者で登録ね」
 障害者。喋れないという理由で、このおばちゃんは未子を障害者と断定した。
「ちょっと待てよ。喋れないってだけで障害者って言うのか?」
 一般的に言えば、それが当たり前なのかも知れない。だが、喋れないという点を除けば未子は至って普通の人だ。未子を障害者として扱うのは、腹が立った。
「喋れないだけで、他におかしいところなんてない。普通の人として扱ってくれ」
「でも、喋れないでしょ?」
「分からないかな、喋れないだけで、他は普通なんだって」
「他は普通でも、喋れないんじゃ同じね。素直に障害者登録した方がいいわよ?」
 ぶちりと、堪忍袋の緒が切れる音が聞こえた。
「だから! 喋れないだけなんだ! 他におかしいところなんてない! 何だって、人並みに出来るんだ!」
 声を荒げ、間宮は電話の向こうのおばちゃんに訴えた。未子は障害者じゃない。弾かれ者じゃない。普通の人なんだ、と。
 に〜。未子に袖を引っ張られ、間宮はそこで我に返った。そして、自分の行動を恥じた。見ず知らずのおばちゃんに訴えても、どうにかなるわけでもないというのに。
「……落ち着いた?」
 怒るかと思っていたが、意外にもおばちゃんは冷静だった。
「私もダウン症の子供が居るから、気持ちは分かるわよ。ちょっとした知恵遅れだったけど、足し算を覚えたし、かけ算だってちゃんと小学校の内に覚えた。実年齢より、二歳ぐらい年下って感じかしらね。他は普通の人。アナタの言うとおり、何だって人並みに出来たわよ。でもやっぱり、それでも障害者なのよ。喋れない子だって、立派な障害者よ」
「立派な障害者だって……? 馬鹿にしてるのか!?」
「ほらそれ、アナタが怒っている時点で、その喋れない子を差別しているのよ」
「……あ」
「“『障害者』っていう単語は辞典に載っていない。載っているのは、『差別』という人の心が生んだ辞典の中だけだ”。……ダウン症で悩んでた時、相談しに行った先生の言葉。私の息子を『障害者』として、腫れ物触るみたい扱っているのが差別だって、その先生は言ってたわ。こんな事も言ってたわね。“障害を持って生まれてきたんだから、しょうがないじゃないか。障害があるから我が子として認めないのは、その子供に失礼だ”ってね。その『しょうがない』って割り切るのに、私は十年以上も掛かったけれど」
「……すみません」
 間宮は、ただ謝るしかなかった。心の何処かでは未子を障害者として扱い、差別していたかも知れないからだ。
「謝らなくたっていいわよ。私も数年前まではそんな感じだったからね。障害を持っているだけで奇異な目で見られ続けた息子が可哀想で、よく怒鳴り散らしていたしね。でもね、ある時気が付いたわ。息子は障害を持っているだけだって事に。ただ、それだけだって事にね。それからは周りの視線なんてどうでもよくなったわ。寧ろ、周りの人達に聞きたくなったのよ。“ウチの息子は障害を持っていますが、それがどうかしましたか?”ってね。その喋れない子は障害を持っている。それだけは胸に刻んでおきなさい」
「……はい」
「さて、随分と説教臭くなっちゃだけど、似たような境遇の人と話すのはやっぱりいいものね。いろいろとさっぱりしたわ。……で、話は戻すけれど、その子はやっぱり障害者として登録しておいた方がいいわよ。割の良い仕事が優先的に回ってくるからね」
「そうなんですか?」
「そうなのよ。御上からも散々うるさく言われていることだからね。障害者として扱われるのは癪かも知れないけどさ、これも一つの特権として使った方が何かと便利よ。私もダウン症の子を持っている、って事で有休は多くなっているし、給料も若干高くなっているしね」
「ちょっと待って下さい。本人の確認を取ってみますので」
 そう言って、間宮は受話器を塞ぎ、未子に事の詳細を話した。すると未子は、こともなげに頷いた。
 どうやら障害者という点でこだわっていたのは、オレだけらしい。未子を障害者として扱わないようにしたつもりが、かえってそれが障害者として扱う事に繋がってしまったのだろう。さっきの内職をするかしないかの話もそうだ。障害者なのだからしてくていいと、心の底では思っていたのかも知れない。だからこそ未子は、働きたいと思ったのだろう。自分が、人間であることを証明するために。
「分かりました。それじゃ、それでお願いします」
「はいはい、それじゃその子の名前を言ってちょうだいね」
「未子です」
「未子ちゃんね。名字は?」
 そう聞かれ、間宮は未子にちらりと見た後、その質問に答えた。
「間宮です」
「そう、間宮 未子ちゃん。これで良いのね?」
「はい」
「次に住所と、保護者の……そうね、アナタの名前をお願いね」
 間宮はここの住所と、自分の名前と年齢と携帯番号を告げた。
「これで無事登録終了。仕事が入り次第そっちに連絡するからね。あ、そうそう。私の名前は亀山ね。多分資材搬入の時も私が担当になると思うから、度々顔を合わす事になるかもね」
「はい。……いろいろとありがとうございます」
「いいのいいの。障害を持っている子の親の辛さは知っているからね」
 互いに別れの言葉を告げ、間宮は電話を切った。通話時間を確認すると、おばちゃんと三十分近く話していたようだった。間宮は、亀山のおばちゃんと話したことで、いろいろな問題が解決したような気がした。しかしその反面、見えなかった問題も見えてきて、結局抱えている問題の量は変わらないような気もした。
 に〜。未子は鳴きながらお辞儀をした。それは、未子に代わって内職登録してくれたことに対してなのか、未子を普通の人として扱おうとしていることに対してなのか、判断が付かなかった。
 未子は未子だと割り切ろうとしても、やはり障害者という言葉が脳裏の何処かにこびり付いて離れない。それが、差別に繋がっているようで、酷く嫌な気分に囚われた。そう思うことこそが差別に繋がっていると分かっていても、出口の見えない迷路のように気持ちがループし、何をどう思って未子に接したらいいのか、分からなくなってくる。
 未子を障害者として割り切って扱うべきか?
 未子を障害の持っている普通の人として接するべきか?
 それが頭の中でぐるぐると回り、反芻している。おばちゃんがこれを解決するのに十年以上掛かったと言っていた。今なら、その気持ちが分かる。その接し方によって、自分が差別しているかどうか問われるような気がするからだ。
 答えのない問題。人によって答えの変わる問題。自分の価値観で大きく左右するこの問題は、英語を全部覚えるよりも難しい。じっくり腰を据えて、パズルを作るように一つ一つピースを嵌めていくしかないんだろうか。
 に〜。未子は間宮の袖を引っ張り、ポケットから何枚かのお札と、小銭を取り出す。
『お釣りです。私が余計なモノを買っちゃったから、随分と減ってしまいましたが』
 間宮はそれを受け取り、確認してみる。それでも、五千円近くは残っていた。
「別に全部使っても良かったのに。というより、下着とか服とか買ってくれば良かったのに」
『下着は押入に仕舞いました。服は間宮さんのお古がありますし、別に大丈夫ですよ』
 未子は今着ている服を指さす。いくら未子に合っているとはいえ、男物のお古だ。やはり、女物とはどこかが違う。
「いいから遠慮するなって。儲けたと思って服を買ってこい。出掛けるときとか、オシャレはしたいだろ?」
『でも悪いですよ。これ以上間宮さんに迷惑掛けるのも嫌ですし』
 思っていた以上に未子は頑固者のようだ。これ以上押しても効果はなさそうなので、路線を変えてみる。
「それじゃ、未子が内職で稼いだ金で返してくれ。それまでは借金って形にする。勿論、無利子だ」
 に〜。それも嫌なのか、未子は困った表情を浮かべる。
「未子、あくまで借金だ。金をあげるんじゃない、貸すんだ。未子だって本が欲しいし、お菓子だって食べたいだろ?」
 本とお菓子という単語に反応したのか、未子の表情が少し変わった。
「そこで、オレは未子に金を貸す。そして、内職で稼いだ金をオレに返す。プラスマイナスゼロ。どうだ?」
 に〜。唸りながら未子はしばし考え、不承不承といった様子で頷く。
「よし、それでいい。とりあえず、今回の一万円は未子がここに来たお祝いということで、借金には入れない。だから、それで服を買ってこい。くれぐれも本やお菓子だけで全部は使うなよ?」
 に〜。未子は嬉しそうに頷きながら、嬉しそうに鳴いた。

 とりあえず、頑張ってみるか。悩んでいるだけでは、どうにもならないんだから。そう、間宮は思った。



・二日目(金)

 間宮は冷たい床から起きあがり、首を左右に振って骨を鳴らした。七時間も寝たというのに、頭はさっぱりとせず、視界は曇ったガラスが貼られたようにぼんやりとしている。そうなった原因は分かっている。床に布団を敷いていないからだ。
 引っ越す直前に言われた母の言葉を、間宮はぼんやりと思い出した。
『友人が泊まりに来るときもあるから、敷き布団は絶対に二つ必要よ』
 人生経験豊富な母の言葉を、素直に受け取っておけばよかったと思う。間宮は、その時の自分の判断を悔やんだ。運賃が余計に掛かるということで、結局一つしか持っていかなかったということに。
 後で実家に電話して、布団を送ってもらおう。そんなことを思いながら、間宮は立ち上がって冷蔵庫を開き、野菜ジュースで喉を潤す。
 扉を開け、部屋側にある背広とビジネスバック、それと携帯電話と財布を手に取る。何となしに未子に視線を向けると、それに反応するように未子は低い声で唸りながら寝返りを打つ。その行動に、間宮は始終魅入っていた。未子の静かな寝息が戻ると同時に、間宮は我に返り、深呼吸をして自分を落ち着かせた。父親として未子を見守っていこうと思っていても、時折こうして哀しい男の性が鎌首もたげてくる。その度に間宮はこうして深呼吸したり、違うことを考えてそれを振り払っていた。

 昨日の夜、間宮が寝るために台所に行こうとすると、未子がそれを引き留めた。そして、寂しそうな目をしながら、
『どうしてあっちに行くんですか? 何も敷いていない床じゃ、寝づらくないですか?』
という質問をした。
 間宮が廊下側に行く理由は一つ。自分の理性を保つためだ。しかし、間宮は曖昧な答えを言って質問を濁し、逃げるようにして廊下側に行った。たまにとはいえ、自分が汚れた視線で未子を見ているとは知られたくないからだった。
 未子と扉一枚の距離に寝ていると考えただけで、オレの中に言いようのない高揚感が沸き上がってくる。ヒツジにだって、発情期はある。そしてそれは、自分の意志とは関係なしに訪れてしまう。だから、未子がどんなに望もうと同じ部屋で寝ることは出来ないんだ。それは、間宮に出来る細やかな去勢術だった。

 間宮は廊下側に行き、朝食として昨日の残り物を食べ、それから背広に着替える。ビジネスバックを手に持ち、革靴を履く。つまみを回し、ドアノブに手を掛ける。
 今日は未子の見送りは無しか。間宮は一度振り返り、少しだけ待ってから扉を開けた。

 ※

 会社が終わり、間宮は帰路に就いていた。アパートの階段を上り、玄関を開ける。
「ただい……」
 間宮は口が『い』の形のまま、その光景を見て凍り付いた。まるで間宮の進入を拒むかのように積まれた、段ボールの山々。元々大して広くなかった廊下だが、今は更に酷く、ゴミ屋敷のように狭苦しく感じる。
「な、なんなんだ……これ?」
 段ボールを見てみるが、文字らしい文字は何一つとして書いていない。開けようにもこれの中身が何なのか分からない以上、開ける気にはならなかった。
 そうだ、未子なら分かるだろう。そう思った間宮は、段ボールに触れないように身体を縦にし、ネコしか通らないような狭い路地を通るように潜っていく。
 扉を開けると、そこには未子が猫背気味に正座したまませっせと何かを作っている。テーブルに乗っている部品の一つを取り、持っている人形に針を通し、二重三重と縫っていく。くるくると糸を針に巻き付け、グッと引っ張って結び目を作り、歯に引っかけるようにして糸を切った。その手慣れた様子に、間宮は驚く。
 何を作っているのか気になった間宮は、そっと未子の手元を覗き込む。その独特なフォルムから、内職センターに頼んでいたクマのぬいぐるみという事がすぐに分かった。もっとも、雑誌に載っていたのとはまた違うデザインだったが。
「ただいま」
 間宮が改めて言うと、未子は少し驚いたように間宮を見た。内職に集中するあまり、周りの音が一切聞こえなくなっていたようだ。
 に〜。少し照れたように笑いながら、未子は座ったまま軽く頭を下げる。おかえり。そう、聞こえた。
「内職の仕事って、こんなにも早く来るもんなんだな……。そういや、ここに来たのって亀山っていうおばちゃんだったか?」
 に〜。着替えながら質問すると、未子は手を休めることなく鳴いた。
 着替え終わった後、間宮はテーブルの近くに座り、その上に置いてあった薄っぺらい説明書を手に取る。
 どうやらこのクマのぬいぐるみの名前は、『シャーロッ君』というらしい。その名前の通り、完成品の図には茶色と白のコントラストの帽子と、手にはパイプを持っている。作業工程事態は至って簡単なようだ。目も鼻も付いていない、『のっぺらぼう』な状態のクマに指定された場所に指定された部品を縫いつけていく。たったこれだけだ。しかし、内職の辛いところは他にある。それは、数だ。
 間宮は、廊下側に陳列してあった段ボールを思い出す。数百体、もしくは数千体が、あの段ボールの中に『のっぺらぼう』な状態のクマが敷き詰められるように入っているのだ。そしてそれに、同じ部品を同じ場所に付けていかなければならない。それが、内職。まるで地獄のような単純作業なのだ。
 に〜。未子は嬉しそうに鳴き、出来上がったクマのぬいぐるみを掲げる。説明書に載っている完成品と同じように、目と鼻は元より、胸には蝶ネクタイと、頭には帽子が付いてある。未子はそれを持ったまま部屋の隅にある、『完成品』と書かれた段ボールの中にそれを入れた。
 何かが足りないような気がして、間宮は説明書の完成品の図と未子が作った完成品を見比べてみる。すると、パイプが足りないことが分かった。もしかして、と思い、完成品を全て見てみると、案の定どれにもパイプは付いていなかった。
「未子、全部パイプを付け忘れているぞ……」
 にッ!? 休まず働いていた手は止まり、未子の顔は段々青ざめていく。自分では完璧だと思っていたのだろう。見るからに狼狽していた。
「落ち着け落ち着け。パイプの取り付けはオレがやるから、未子はそのままそれを作っていけ」
 に〜。すまなさそうに頭を下げ、未子は作業を再開した。
 説明書をもう一度手に取り、パイプの取り付け部分を見てみる。なんて事はない。パイプと手を縫いつければいいだけだった。
 テーブルの上にある裁縫道具――家には裁縫道具はないので、内職センターから支給された物だろう――から針と糸を取り出す。パイプはどこだと探してみると、洗濯物の下に隠れていた。袋からそれらを取り出し、間宮は中学校以来の裁縫を始めた。

 ※
 
 未子が作り、間宮がそれをチェックして足りない部分を補うという役割分担をしていた。一時間程こなした辺りで間宮の腹が鳴り、それに続くように未子のお腹も鳴ったところで、作業は一時中断となった。
「晩飯にするか」
 に〜。未子はお腹をさすりながら頷いた。
「んじゃ、よろしく」
 に〜? 何を頼まれたのか分からない未子は、語尾上がりに鳴いて首を傾げた。
「いや、だから晩飯。……もしかして、作ってないのか?」
 何も言わず、未子は凍り付いたように固まったままだった。そして、徐々に青ざめていく。
 どうやら未子は一つのことに集中すると、他に気が全く回らなくなるらしいな。ため息混じりに、間宮はそんなことを思った。
「しょーがない。駅前に安くて美味いラーメンがあるから、そこに行くぞ」
 に〜。嬉しいような、申し訳ないような、そんな感情が入り交じった複雑な表情をした。
「今日でラーメン分くらいは稼いだろ。慣れない内職だから、まぁしょうがないさ」
 間宮は立ち上がり、掛けてあった上着を着る。女の子が着てもおかしくないようにと、白いパーカーを未子に手渡す。もっとも、サイズは随分と大きいが。
「それじゃ、行くぞ」
 に〜。玄関に向かう間宮の後ろを、未子は嬉しそうに付いていく。
 玄関で靴を履いているときに、間宮は二人で出掛けるのはこれが初めてだということに気が付く。別段それほど気にするようなことでもないのだが、初めて出掛けるのに行き先がラーメン屋だということが可笑しかった。
 玄関を開けると、冷えた空気が部屋の中に入ってくる。それは、冬の到来を知らせているような気がした。

 二人並んで歩くと、オレ達はカップルに見えるんだろうか。ふと、そんなことを思った。



・三日目(土)

 固い床から起きあがると、身体が幾分慣れたのか、いつもよりは晴れた気分だった。だがしかし、布団と比べればそれは雲泥の差だ。昨日の内に実家に電話はしておいたので、数日の内に届くだろう。それまではこれで我慢するほかなかった。
 間宮は欠伸を噛みしめながら頭を掻く。水を飲みながら炊飯ジャーの時計を見ると、時刻は十一時を過ぎていた。別に疲れているから昼近くまで寝ているわけではなく、高校生の時からずっと続いている生活スタイルで、休日は何となく昼近くまで寝てしまうのだ。
 扉を開けると、そこには寝ている未子と、昨日の夜に移動させた段ボールが部屋の隅に積まれていた。
「未子ー。もうお昼だぞ」
 間宮が呼びかけると、未子はそれに反応するように目蓋がぴくりと動く。しかし、反応はそれだけで、起きる気配はなかった。
「未子ー。昼飯を作れー」
 近寄ってさっきよりも大きな声で言うと、未子は微かに目を開けた。しかし、まだ夢現(ゆめうつつ)なのか、眼はとろんとしていた。
「起きたか?」
 間宮の問いに、未子はこくりと頷く。だが、未だに眼はとろんとしており、風に揺れる猫柳のように左右にたゆたっている。
 未子は起きあがって天井を見上げ、辺りを見渡す。何かを確信したのか、微かに頷く。
 に〜。今度は間宮に向かって力無く頭を下げた。おはようございます。そう、聞こえた。
「『おはよう』じゃなくて、もう『遅よう』だけどな」
 に〜? 未子は語尾上がりに鳴き、寝ぼけ眼を擦りながらテレビの上にある時計に視線を向ける。呆けたように見つめていたが、今が十一時過ぎという事に気づき、慌てて立ち上がる。
 未子はどたどたと慌ただしく台所に走っていく。しかし途中、『完成品』と書かれた段ボールに足が引っかかり、中身が宙を舞う。そして、未子も宙を舞う。間宮はそれに反応できず、スローモーションのように流れる目の前の光景をただ眺めていた。ゆっくり、ゆっくりと『シャーロッ君』が床に落ちていく。未子もゆっくりと床に落ちていく。そして……。

――ダンッ!!

 激しい音と共に、時間の流れは元に戻った。まるで雨のように、人形達は床に降り注いでいく。弾かれたように間宮は未子に近寄り、ぐったりとしている未子の肩を揺すってみる。
 に〜。ややくぐもった、涙声が聞こえた。余程痛かったのだろう。俯せになって倒れたから、顔面でもぶつけたのかも知れない。
「だ、大丈夫か……?」
 それに応えるように、未子はよろよろと立ち上がり、痛そうに鼻を押さえた。眼には涙すら浮かんでいる。
「狭い部屋の中で走るから、そんなことになったんだ。特に今なんか段ボールで更に狭いんだ。分かったか?」
 狭い部屋で走るとどうなるか? それを身をもって知った未子は、項垂れるように頷いた。

 ※

 少し遅めの昼飯を食べ、すぐに食器を洗って片づける。テレビを点けると、二十年も続いているお昼の顔と呼べる番組がやっていた。間宮と未子は、食事の後の一服をしながらそれを見る。
「そういえば、コイツらの納期っていつなんだ?」
 視界の隅に映る段ボールを見て、間宮はふと質問した。
 に〜。少し悩んだ後、未子は左手を広げ、右手はピースサインをした。
「七日後……来週の土曜日?」
 未子は頷く。
「……まさか、来週までにコイツら全部を仕上げるのか?」
 積まれた段ボールを見上げ、間宮は苦虫を噛み潰したような顔をした。
『出来た分だけ取りに来るそうです』
「出来た分だけ? そりゃまた随分と甘い制度だな。普通は運び込まれた分だけ仕上げなければならないってのに」
 微妙なタイムラグの後、未子は返事を返した。
『最終的には全部完成させて欲しいそうです。納期は納入の翌日から二週間後。それまでにここにある全てのぬいぐるみ、千体を完成させて欲しいそうです』
 千体……。とんでもない数に聞こえるが、日割り計算をしてみると思いの外少ない。一日七十二体ずつ仕上げていけば、余裕で間に合うだろう。昨日は百体近く作ったハズなので、今日は五十四体しか作らなかったとしても、ノルマは達成できる。
「昨日だけでもあんなに作れたんだ。何とかなりそうだな」
 に〜。未子は得意満面な表情を浮かべ、頷く。どんなもんだい。そう、聞こえた。
「ところで、今日も作るのか?」
 さも当然というように、未子はテーブルに内職道具を並べていく。
「まぁ……そりゃそうか」
 間宮にとって今日は、つまらない会社から解放される日なのだ。それと同時に、日頃溜まった鬱憤を晴らす日でもある。そして更に、二人で過ごす初めての休日でもあった。
 一緒に何処かへ出掛けたいと思ったけど、これじゃなぁ……。そんな間宮の思いなど意に介さず、未子は黙々と作業を始めていた。声を掛けようにも、未子の意見――自立したいという思いを邪魔するようで、結局声を掛けることは出来なかった。
 明日があるさ。そう自分に言い聞かせ、間宮も人形と針を手に取る。

 そんな間宮の思いを応援するように、テレビからは懐かしい曲が流れていた。



・四日目(日)

 間宮の希望通り、今日は未子と一緒に外へ出掛けることとなった。本当はそれを憂うべきなのだろうが、来た場所が場所なので、間宮は今一つ喜べないでいた。
 『スーパーミヤビ』。それが、今訪れている店の名前だ。東北のみにあるチェーン店で、CMも東北のみに流されている。地方の人達に根強い人気があるため、下手な大型デパートよりも売り上げがあるそうだ。
 今日ここを訪れた理由は二つある。
 一つは、食料の買い込み。当然のことだが、カップラーメンでもジュースでもコンビニで買えば高く付く。だから、こちらで半端物の詰め合わせや業務用の食品を買い込み、なるべく食費を浮かせようというのが未子の意見だ。
 もう一つは、今日がここのセール日だということ。どうして未子が知っているのか疑問に思ったが、どうやら前に来たときにチラシを貰ったらしい。
 間宮は今日の目玉商品であるサラダ油をカートに入れ、必死に値札と格闘している未子を追いかけるようにカートを押していく。作るのは未子なので買う物は一存してあるのだが、やはりというべきなのか、カートに入れてあるほとんどの食品には値引きのシールが貼られてあった。家計を心配していると言えば聞こえは良いが、女子高生にしてはやけに所帯臭かった。
 カップラーメンのコーナーに差し掛かり、間宮はいつものように五つほどカートに放り込む。少し先にいた未子はそれに気づき、わざわざ戻ってきてカップラーメンを全部棚に戻す。
「おいおい……。全部戻すこともないだろ?」
 未子は頑とした様子で首を横に振る。
「非常食だよ、非常食。未子が内職で疲れて料理を作れなかった時とか、食材がなかった時とか、そういう事態に備えて、な」
 未子は首を傾げて少し悩んだ後、二つだけカートに戻した。
 家計を心配しているのはいいけど、なんだか財布を握ったカカァ殿下みたいだなぁ……。ため息をはきながら、お菓子コーナーに見とれている未子を追うようにカートを押し始めた。

 ※

 買い物を終え、間宮と未子は両手にビニール袋をぶら下げながら帰路に就いていた。
「なぁ、未子。この荷物を家に置いたら、どこかに行かないか?」
 に〜? 未子は語尾上がりに鳴き、間宮の方を向いた。
「ずっと内職ばっかりやっていたからな。たまには息抜きしないと」
 に〜。少し悩んだ後、未子は頷いた。
「そっか。未子は行きたいところはあるか? 遠慮はせずに言ってみな」
 に〜。未子は迷うことなく、遠くに見える看板を指さした。

 ※

 『万博古本屋』。全国に支店を持つ大型の古本屋だ。最近では古本のみならず、新品も取り扱っている為、ますますその規模を広げている。未子が来たかった場所とは、その『万博古本屋』だった。
 棚という棚に敷き詰められた本を見て、未子は目を爛々とさせる。一方間宮の方は、意気消沈していた。
 別に間宮は本屋が嫌いなワケではない。たまに行くし、漫画コーナーならよく立ち寄る。ただ、文庫本コーナーが嫌いなのだ。
 間宮は、教科書並に文章が載っている本を読んだことがない。――いや、読み切ったことがない。例えどんなに面白い小説だとしても、読んでいる途中で『文字』に飽きてしまうのだ。最初は想像しながら読めるのだが、段々想像するのが面倒になり、単なる文字の塊にしか見えなくなってしまう。
「未子、買うなら短編集か薄い本にしとけよ。オレも後で読むから」
 中古の文庫本コーナーに駆けていく未子に、間宮はそう言った。
 未子の後ろ姿を横目に見ながら、間宮は漫画コーナーへと歩き出した。

 ※

 新品コーナーに一通り目を通してみたが、特にめぼしい物はなかった。
 携帯で時間を確認すると、未子と別れてからまだ五分しか経っていなかった。もう十分経ってから未子の所に行こう。間宮はそう決め、携帯を仕舞った。間宮の友人もそうなのだが、小説好きは本を選ぶときにやたらと時間を掛ける。十分などざらで、間宮は最大で三十分近くも待たされたことがある。理由を尋ねてみると、“せっかくお金を出して何時間も掛けて読むんだから、慎重にもなるよ”という答えが返ってきた。きっと未子もその例に漏れず、悩んでいるんだろう。そう思っての判断だった。
 立ち読みでもして時間を潰すか。そう思った間宮は、中古本コーナーへと向かう。
 中古本コーナーの棚の本は出版社ごとに分かれており、そして棚と棚の間の間隔がやけに狭い。人二人分くらいのスペースしかないので、立ち読みしている人が居ると通り抜けるのが困難なのだ。その割に立ち読みする人が多く――少年コミックコーナーに至っては通り抜け出来ないほど密集している。その為、向こうに欲しい本がある時はそこを迂回していくのが、この中古本コーナーの習わしとなっていた。
 間宮が読みたい本はそのコーナーの向こうにあるため、空いている少女コミックコーナーを迂回して行こうと思っていた。しかし、なぜか今日に限って少女コミックコーナーも通り抜けが困難な程密集していた。その隣にある青年コミックコーナーも同様で、空いていたのは一番端っこの児童本コーナーだけだった。
 これは何かの嫌がらせか? 間宮は内心毒づきながらも、やむなく一番遠い児童本コーナーを通ることにした。 
 ふと見ると、棚から飛び出している本があった。まるで自分を読んでくれと言わんばかりに、その本はそこにあった。間宮は、導かれるようにその本を手に取る。本のタイトルは、『すてネコとワタシ』。表紙には、クレヨンで描かれた児童画のようなネコのイラストがあった。
 間宮は、その分厚い表紙を捲った。


『すてネコとワタシ。

 すてネコがいっぴきいました。なまえは、ブチ。ブチがらだから、ブチです。

 ブチはなくことができません。ネコなのに、ニャーとなくことができません。

 ブチはすてネコです。くびわをつけたのらネコなので、すてネコです。

 ブチはろっぴきかぞくでした。パパとママと、おにいちゃんとおねえちゃんと、そしておとうとがいました。

 ブチはなくことができません。うまれたときから、ニャーとなくことができません。

 ブチのパパはブチにききました。

「どうしてニャーとなくことができないんだ? ネコなのに、ニャーとなけないなんてヘンだぞ」

 ブチのママもブチにききました。

「どうしてニャーとなくことができないの? ネコなんだから、ニャーとなけるハズよ」 

 ブチはなくことができません。ニャーとなこうとしても、ガーというおとがでるだけです。

 ブチのパパはブチにききました。

「どうしてニャーとなくことができないんだ? ブチ、おまえはほんとうにネコなのか?」

 ブチのママもブチにききました。

「どうしてニャーとなくことができないの? ブチ、アナタはほんとうにネコなの?」

 ブチはなくことができません。パパとママにことばをつたえようとしても、ニャーとなくことができません。

 ブチはなくことができません。おにいちゃんにも、おねえちゃんにも、おとうとにも、ニャーとなくことができません。

 ブチはいえをおいだされました。パパとママとおにいちゃんとおねえちゃんとおとうとに、ネコじゃないのならでていけといわれたからです。

 ブチはすてネコになりました。パパとママとおにいちゃんとおねえちゃんとおとうとにすてられたから、すてネコになりました。

 ブチはかなしくなってなきました。でも、そのなきごえはだれにもつたわりませんでした。

 <続く>』


 間宮は、ゆっくりとその本を閉じた。
 もしかして、これなのか? なぜ未子が、捨てネコをわざわざ『すてネコ』と書いていたのが分かったような気がした。未子は、この絵本の主人公であるブチと、自分を重ね見ているかも知れない。鳴くことが出来ないブチと、喋ることが出来ない未子。そして、家族に捨てられたという悲しい境遇。まさに、瓜二つだった。
 幸い、未子は携帯で『文字』を伝えることが出来る。――いや、幼いときにはそれすらも出来なかったのだろう。今では小学生すら携帯を持つような時代だが、四〜五年前までは高校生でも持っている人はあまり多くはなかった。四年前――未子が十三歳の時に携帯を使って『文字』を伝えていたとは到底思えない。他に伝える手段として、紙に字を書く、手話などがあるが、どちらも不便利な点が多い。紙に字を書くときは、常に紙とペンを持ち歩かなければならないし、手話は自分が覚えても相手が覚えていなければ伝わらない。未子が携帯を持つまでどんなに苦労していたのか、それは想像を超えるモノなのだろう。障害者の苦労は、その障害を持った人自身にしか分からない。五体満足で生まれてきたことを、両親に感謝した。
 未子は、この『すてネコ』と自分を重ね見ていた。だからこそ、自分はもう『すてネコ』は嫌だと言ったのだろう。誰にも愛されない、誰にも言葉の伝わらない、そんな寂しい『すてネコ』にはなりたくなかったのだ。
 間宮はその本を手に持ち、カウンターへと向かう。買うためではない。続編が出ているかどうか聞くためだ。これほど未子の境遇に似ているブチはこの後いったいどうなってしまうのか、それが気になって仕方がなかった。
 眼鏡を掛けた初老の男に聞くと、少し嬉しそうに話し始めた。
「おや、あんたそれが気に入ったのかい? 若いのに珍しいねぇ。それ、暗くて悲しいからって人気が低いんだよ。ワタシは好きだけどねぇ、なんだか今の世の中を描いているようでさ」
「人気が低いってことは、続編は出ないのか?」
 間宮がそう聞くと、初老の男は無精髭をさすりながら苦笑する。
「続編は一応来月に出るみたいだねぇ。ただ、発行部数が少ないんだ。それに人気も低いから、ウチで仕入れる予定がないんだよ。その本も中古で偶然こっちに回ってきたヤツだし、入荷当時から一冊も売れやしない」
「取り寄せも出来ないのか?」
「多分、それも無理だろうねぇ。ウチに卸している問屋自体、それを取り扱ってない可能性が高いからねぇ。出版会社から直接なら取り寄せ可能だけど、送料が掛かっちまう」
 絵本の裏を見ると、定価は千四百円と書いてあった。送料を八百円と考えると、二千二百円にもなる。だがそれでも、間宮はこの続きを読みたかった。
「それでも良いから、買いたいんだ。出版会社に直接電話を掛ければ良いのか?」
 初老の男は驚いたように目を開く。
「そんなに欲しいのかい? ……だったらワタシが取り寄せの手続きを取ってやるよ。何だがワタシも読みたくなってきたしねぇ。直接届けられるように、あんたの住所を教えてくれないかい?」
 初老の男は、取り寄せ用の紙とボールペンを間宮に差し出す。間宮は言われた通りに住所と自分の名前、それと携帯番号を書き込んだ。 
「あちらさんで発送したらこっちに連絡来ると思うから、そん時にあんたにも連絡を入れるよ」
「お願いします」
 軽く頭を下げ、間宮は絵本を元の場所に戻してからその場を後にした。

 ※

 百円均一の中古文庫本コーナーを見てみると、未子は棚に敷き詰められた本達と睨めっこをしている。手を見ると、薄い文庫本が一冊だけ握られていた。
「未子、買う本は決まったのか?」
 間宮が声を掛けると、未子は本達から視線を外し、躊躇いがちに頷く。間宮は、未子が遠慮していることがすぐに分かった。
「まだ選ぶんなら別に構わないぞ。その辺回って適当に時間を潰してくるから」
 しかし、未子は首を横に振る。
『どっちを買おうか迷って居るんです。間宮さんならどっちが良いですか?』
 未子は二冊の分厚い文庫本を間宮に手渡す。間宮は心の中でため息をはきながらも、二冊の本を見比べた。
 一冊は、『碧の巣窟』というホラー短編集。とある探検家が偶然見つけた、碧い洞窟で起こる奇妙な出来事を綴ったモノだ。
 もう一冊は、『少年はナイフを握る』というサスペンス小説。少年がなぜナイフを握り、人を殺したのか、その半生を綴っていく形式となっている。
 どちらもその分厚さに比例し、重い内容となっているのだろう。間宮は当然読みたくなかったし、ケチをつけるわけではないが未子にもこういったモノを読んで欲しくなかった。
 二冊とも棚に戻し、代わりに薄い恋愛小説を手に取る。『雨』という随分短いタイトルなのだが、去年は映画化され、そして今年はドラマ化するという人気ベストセラー小説だ。タイトル通り、雨を中心にストーリーが進んでいく。女性の方は雨が好きなのだが、男の方は雨が嫌いだった。それは、父が出て行ったのが雨の日で、母が死んだのが雨の日だったからだ。女性から男に近寄っていき、やがて男も心を開いていく。だが、父が帰ってきたことにより事態は一変し、二人は仲違いしてしまう。いろいろあって二人は仲良くなっていき、最後には父とも仲良くなり、ハッピーエンドという話だ。
 間宮は映画の方だけしか見ていないが、女性の喜怒哀楽がころころと変わっていく様と、男の鬱屈さが巧く混ざっていて面白かったので、小説の方も読んでみたいと思っていたのだ。
 しかし、未子は俯き、首を横に振る。
『ごめんなさい、間宮さん。ちょっとそれは読みたくないんです』
「ああ、あれか。人気はあるけど実は面白くないってヤツ。映画の方は面白かったから、多分大丈夫だと思うけど?」
『違うんです。そういった小説は、主人公達があまりにも簡単に報われてしまうのが嫌いなんです。いくら物語りだからといっても、現実感がなさ過ぎます』
 携帯を見せながら、未子は歯を噛みしめた。
 未子が言わんとしていることは、何となく分かる。小説の中で主人公達は最も簡単に幸せを手にしているというのに、現実にいる主人公――未子はいつまで経ってもその幸せを手に入れることが出来ない。――いや、いくら経とうが手にすることなど出来はしないのだ。それが現実。ホラー小説の主人公達が見舞う出来事よりも、何百倍も辛い。小説と違って、終わりが見えないのだから。
「……なら、こっちならどうだ?」
 そういって間宮は、違う本を棚から取る。『長い休日の果てに』というノンフィクション恋愛小説だ。著者の彼女――現在では妻になっている――が交通事故に遭い、脳に深いダメージを受ける。その所為で彼女は酷い痴呆症になり、誰も寄りつかないような隔離病棟に入れられることになった。しかし、著者は彼女を連れ出し、車椅子を押して全国を旅し始めた。かつて自分たちが住んでいた場所、デートで行った場所、行きたいと話していた場所、著者は様々な場所を回り続けた。そんな生活をして三年。それまでの事が嘘のように、彼女は奇跡的に脳のダメージが回復する。まるで、長い休日が明けたように――。
「これなら現実感たっぷりだろ? オレももう一度読みたいから、これを買っとけ」
 間宮は未子にその本を差し出す。不承不承といった様子で、未子はそれを受け取った。
『そんなに私に恋愛小説を見せたいんですか?』 
「……まぁ、な。人生は悪いことだけじゃない。たまには奇跡めいた事だって起きる。そんな奇跡を信じてみるのも良いと思うがな」
 未子は素っ頓狂な顔をした後、 
『間宮さんって、意外とロマンチストなんですね』
 照れ隠しに、間宮は髪をかき上げる。
「島崎にもそう言われたよ」
 未子はそんな間宮を見て笑い、つられるように間宮も笑った。
「ところで未子、その手に持っている本は? そっちもホラーとかそういうのか?」
 未子は首を横に振り、それを間宮に差し出す。
『これは間宮さんに読んでもらおうと思っていた本です』
 手にとってタイトルを見てみる。それは、『ある男の十字架』というフィクション小説で、妻を殺した夫が罪の意識に苛まれていくのを綴ったモノだった。
「……頼むから、もう少し軽いのにしてくれ」
 未子は首を傾げ、不思議そうな顔をする。多分、未子にとってはこれが軽い小説のジャンルなのだろう。

 今度からは自分で選ぼう。そう、心に決めた間宮だった。



・七日目(水)

 晩飯を食べ終わった後、二人はすぐに内職を始めた。テレビを点けたままし、それをラジオ代わりにちくちくと人形を作っていく。
 内職を始めてから一時間ほどで、今日のノルマである七十体を作り終わり、二人は作業を止めた。
 間宮はコーヒーを入れるために立ち上がろうとするが、未子が先に立ち上がって台所に行ってしまったので、やむなく座り直す。
 頬杖付いてテレビを見ていると、車のCMが終わり、ニュースが始まった。のっけから報道されたのは、幼児虐待のニュース。マンションの五階から自分の子供を投げ捨てるという、親とは思えない鬼畜な行為だった。幼児は勿論即死。理由は、“子育てが嫌になったから”だそうだ。間宮は歯を噛みしめ、拳を握りしめる。捨てた親に問いたい。アンタが今そこにいるのは、誰のお陰なのかと。アンタが大人になれたのは、誰のお陰なのかと。アンタの親ではないのか? 親が我が子を育ててくれたからこそ、アンタは今そこにいるのではないのか? 親の権利を投げ捨て、それと同時に我が子を投げ捨てるなんて、アンタはいったい何をしているのか分かっているのか? アンタの親がアンタにそんな仕打ちをしたら、アンタはどう思う? 感謝するのか? 喜ぶのか? だったらオレがそうしてやる。今すぐそこに駆けつけ、同じ事をしてやる。マンションの五階から突き落としてやる――。
 ニュースは切り替わり、まるでさっきの報道を中和するかのように明るい特集が組まれていた。画面には雑種の犬が映され、名前と年齢、そして飼い主が犬を拾った経緯を饒舌に話していく。ニュースの仕組みなど知らないが、暗い報道の後には明るい報道――動物に関する事が多い。人は犬や猫といった愛くるしい動物を見ると、自然と心が和む。アニマルセラピーという治療法があるように、暗い報道で気分を鬱屈させない為の演出なのかも知れない。だが、間宮にはそれが気にくわなかった。単に、辛い現実から逃れているに過ぎない。そんな報道をするくらいなら、もっと犯罪の報道をすればいい。――いや、報道事態を止めた方が良いのかも知れない。犯罪は犯罪を呼ぶという、奇妙な連鎖があるからだ。例えば、クレーン車でATMを根こそぎ持って行くという犯罪。思いつくようで思いつかない大胆な犯行だ。金が欲しいと思う人はこれを知り、そして自分も実行する。現に、それまでは見なかったATM強盗がまるで堰を切ったように起き始め、数多くの犯行が報道された。そして、それの繰り返しだ。犯行の方法を知るという事は、犯罪を実行できる術を知るという事。皮肉なことに、正義の為に報道していることが、結果として多くの悪を生み出しているのだ。そしてそれは、幼児虐待にもいえることだと思う。昔から幼児虐待は存在していた。だがそれは、頻繁に報道されるほど数は多くなかった。しかし今では、一週間に最低一回は幼児虐待の報道を聞く有様だ。幼児虐待に過敏になりすぎているからだ、という話もある。叩いて痣が出来上がれば幼児虐待だと騒ぎ立てるだけだ、と。だがしかし、虐待というレベルを遙かに超え、殺人という行為に及んでいるのも少なくない。銃を規制しない町より、銃を規制した町の方が犯罪が多いという話があるように、幼児虐待に過敏になりすぎて逆に幼児虐待を引き起こしているという、何とも皮肉な結果が出てしまっているのだ。最初から『幼児虐待』という言葉を知らなければ、頭を叩こうが、タンスに閉じこめようが、単なる『お仕置き』で済む。しかし、それを知っていると、頭を叩くごとに幼児虐待という言葉が遮り、ストレスが溜まっていく。ストレスほど厄介なモノはない。目に見えない場所で溜まっていき、限界を超すと自分で自分を制御出来なくなる。そして、そのストレスの『原因』を排除しようとするのだ。例えそれが、血肉を分けた我が子であったとしても……。
 ヤカンが鳴り響く音が聞こえ、間宮の思考はそこで中断された。
 未子は両手に持ったコーヒーをテーブルに置き、一度戻ってお菓子もテーブルに置いてから座った。
 ニュースはいつの間にか終わり、夜九時から始まる動物番組がスタートした。今日の特集をでかでかとテロップで紹介する。『仲の良い動物たち』。それが、今日のテーマらしい。
 画面には大きな柴犬が映る。がっちりした身体の割につぶらな瞳なのが、間宮は好きだった。未子も柴犬が好きなのか、顔は笑顔で緩みきっていた。
 画面の横から現れたのは、柴犬に負けるとも劣らない体格をした猿。犬猿の仲というように、これから喧嘩が始まるのだろう。そう、間宮は思っていた。未子も心配そうな顔をしている。しかし、猿は柴犬の後ろに回り、毛繕いを始めた。柴犬は嫌がることもなく、目を細めて気持ちよさそうにしている。二人は思わず身を乗り出し、感嘆の息を漏らした。
 どうやらこの二匹は生まれたときからずっと一緒に居るらしく、喧嘩など一度もしたことがないらしい。それからこの猿が柴犬の毛繕いをするのも、日常茶飯事のことだそうだ。
 画面は切り替わり、今度は憎たらしい顔をしたブルドックとカルガモの子供が映し出された。どちらが可愛いのかは判断が付かないが、未子は相変わらず笑顔で緩みきっていた。
 カルガモの子供はブルドックの後ろを付いて歩く。いわゆる刷り込みというヤツだろう。生まれたときに初めて見たモノを親と思う習性だ。
 ブルドックは横断歩道で止まる。赤信号だからだ。カルガモの子供もそれに習い、止まる。青信号になると、ブルドックは身を伏せ、カルガモの子供はその上に乗る。何の意味があるのかと思ったが、恐らく信号が切り替わる前に横断歩道を渡るためなのだろう。案の定、ブルドックが渡りきる前に信号は赤になっていた。
 画面はまた切り替わり、大きなブタと沢山の子犬達が映し出された。未子は蕩けんばかりの笑顔でそれらを見つめる。
 大きなブタは横たわり、沢山の子犬達はブタの乳首にかぶりついていく。恐らく、母乳を吸わせているのだろう。多少の違いはあれど、子犬を育てるには母乳が一番だ。それを知ってか知らずか、大きなブタは抵抗することなく、親の代わりになって乳を吸わせている。
 動物たちは自分の姿形など気にすることもなく、時には親友として、時には親として、他の動物たちと接している。生まれ育った環境も違うければ、ほ乳類と鳥類という大きな垣根すらある。にも関わらず、彼らはまるで同種のように付き添っているのだ。
 彼らは考えてそうしているのではない。本能で接しているのだろう。考える力を持っているのは人間だけだと、どこかの偉い学者が言っていた。確かにそれによって人は文化を気づき、ピラミッドの頂点へと立った。だがしかし、それによって人としての本能が薄れていったのも、また事実ではないのだろうか。親は子を育て、子はやがて親になり、親は子を育てるという本能――人としての営みは今、崩壊を迎え、人であることを止めているのかも知れない。
 間宮は横目で未子を見る。何かしらの理由で親に捨てられた未子。家出だから捨てられたとは言えないが、母には“あんたなんか生むんじゃなかった”と言われ、父には“お前なんかどっかに行ってしまえ”と我が子の存在を否定された時点で、捨てられたのと何ら変わりはないだろう。その時未子の母は、どんな想いでその言葉を言ったのだろうか? 傷つくとは思わなかったのだろうか? それとも、人であることを止めてしまったのだろうか……?

 だったらせめて、オレだけでも人として未子を守っていこう。そう、改めて心に誓った。



・九日目(金)

「ただいまー」
 玄関を後ろ手で締めながら、間宮は帰宅の合図を言った。
「……あれ?」
 しかし、返ってきたのはテレビの音だけ。間宮の声は、空しく虚空に消えていった。
 出掛けているのか。そう思いながらも、幾らか低くなった段ボールの山をくぐり抜け、間宮は部屋側と廊下側を遮る扉を開ける。
 未子はそこに居た。ただし、片手に人形を握ったままテーブルに俯せて寝ていた。
「未子……?」
 間宮は不安が混じった声で未子を呼ぶ。
 人形を持った手がピクリと動いた後、未子は勢いよく起きあがった。そして辺りを見渡した後、自分が寝ていたことに気がついたのか、苦々しい顔になる。
『すいません、間宮さん。いつの間にか寝てしまっていて……』
 単なるうたた寝だということが分かり、間宮は胸を撫で下ろす。
「別に謝るような事じゃないだろ。オレだって今日、会議中に何度か意識を失っていたしなぁ……」
 その後上司にこっぴどく怒られたことを思い出し、間宮も苦々しい顔になる。
『だって、人形も晩ご飯も作れていないんですよ?』
「人形はともかく、晩飯が作れてないの確かに辛いな。しょうがない、食いに行くか」
 そう言って間宮は着替えを持ち、いつものようにそちらの廊下に向かう。その途中、未子が間宮の服を掴んで引き留めた。
『怒らないんですか?』
「怒る? 何を?」
『だから、私は人形も晩ご飯も作らなかったんですよ? それを怒らないんですか?』
「寝てしまったモンはしょうがないだろーが。不可抗力だよ、不可抗力。毎日慣れない内職をやっていれば、そりゃ疲れるだろ?」
『それはそうですけど……』
 未子は今一つ釈然しない様子だった。
「分かった分かった。悪い子には『お仕置き』が必要って事か」
 間宮は面倒臭そうに頭を掻き、そのまま手を振り上げる。別にぶつワケではない。軽いチョップをするだけのつもりだった。
 にッ! 悲鳴に近い声で鳴き、未子は怯えるように身を縮めて震える。手を振り上げた後に続く、『お仕置き』を恐れているようだった。その怯えようは尋常ではない。
 ――幼児虐待。その言葉が、脳裏を過ぎった。
 未子の親――母なのか父なのかは、もしくは両方なのかは分からないが――は、『お仕置き』と称して未子をこの体勢から思いっきりぶった事があるのだろう。それも一度や二度ではない。条件反射として身に付く程何度も叩いたのだ。間宮は今すぐにでも未子の両親を殴りたい衝動に駆られたが、歯を噛みしめて心を落ち着かせる。
 間宮は手を下ろし、怯えきっている未子の額にデコピンをした。ぶたれるとずっと思っていたのか、未子は素っ頓狂な顔で間宮を見る。
「オレの『お仕置き』はこれだ。今後は気をつけろよ?」
 に〜。素っ頓狂な顔のまま何度も頷く。徐々に表情は戻っていき、未子は少しだけ笑った。

 ※

 いつものラーメン屋でいつものラーメンを食べ終え、満腹になった腹を叩きながら帰り道を二人で歩く。
「あれ? 今日雑誌の発売日か……?」
 携帯で曜日を確認してみると、金曜日。思った通り、いつも読んでいる雑誌の発売日だった。
「未子、買いたい物があるからコンビニに寄ってもいいか?」
 に〜。未子は頷きながら鳴く。
「んじゃこっちの道を右折な」
 十字路を右に曲がり、二人は『スターチルド』へと向かう。
「そういえば未子って、マンガをあんまり読まないな。嫌いなのか?」
 間宮が思い返してみても、未子が見るのは買ってきた小説ばかりだった。
『嫌いじゃないですよ。ただ、間宮さんの家にあるマンガ本のジャンルが苦手なだけです』
「まぁ……格闘マンガとか、ギャグマンガとか、そういうのばっかりしかないからなぁ……」
『殴り合うのとかは痛くて見られなくて……』
「かといって男の部屋に少女マンガがあるのはどうかと思うぞ? オレみたいなのが、あんな甘ったるい学園生活を送っている美男美女のマンガを愛読してるっていうのも、かなり気持ち悪いし」
『私だってそんな少女マンガは好きじゃないです』
「じゃあ、どんなジャンルが好きなんだ?」
 間宮の問いに、未子は少し悩み、唸りながら携帯を打つ。
『強いて言うなら、4コマでしょうか?』
「4コマぁ?」
 予想だにしなかった答えに、間宮は怪訝な顔になる。
「なんでよりにもよって4コマなんだよ? てっきりホラーとかその辺だと思ったのに」
『読んでみると、思いの外面白いですよ? 4コマ専門の雑誌だって出ているぐらいだし、名の通り4コマしかないから飽きないですし』
「う〜ん……。そういわれると、そうかも知れんなぁ……」
『4コマでアニメ化したのだって結構あるし、馬鹿に出来ないジャンルだと私は思いますけど』
「あぁ、アレか。『少年アッシー』とか、『かりぽりくん』とかもそうだったな」
『随分と古い物をチョイスしてきましたね……』
 他愛もない話をしながら歩いていると、二人が初めて会った場所――公園を横目で見ながら通り過ぎ、二人は『スターチルド』の中に入っていく。そう言えば、しばらく振りに島崎の所に来たなぁ。ふと、間宮はそう思った。
「オレは雑誌を買ってくるから、未子も好きなモンを買ってこい」
 未子は頷き、一目散にお菓子コーナーへと走っていく。一方間宮は、島崎に声を掛けようとカウンターに向かう。しかしそこには、誰も居なかった。
 またジュースの補給でもしているのか。立ち読みでもして待とうと思った間宮は、本コーナーへと歩を進める。
「まぁ、まぁふぁふぁん」
「……あ?」
 口籠もった奇っ怪な声が聞こえ、間宮は眉をひそめながら振り返る。
「おひふぁふぃふりでふぅ」
 そこには、まるでハムスターのように頬を膨らませた島崎が居た。
「ふふぃまふぇん。ふぃま、ふぃーふぇいふゅーふぇ」
「……食いモン飲み込んでから喋れ。何を言っているのかマジでさっぱり分からん」
「ふぁい」
 そう言うと、島崎はまたカウンターの奥へと引っ込み、大きく喉を鳴らしてジュースを飲む。そして、口元を袖で拭いながら出て来た。
「いやー間宮さん、どうもすいません。『お久しぶりです。すいません、今休憩中で』って言おうとしたんですけどね〜」
「オレ、そこまで口に詰め込むヤツ初めて見たよ……。マンガのキャラクターじゃないんだからさぁ……」
 ため息混じりに、間宮は言った。
「休憩中とはいえ、客を待たせるのは失礼だって店長に注意されましてね。“口に食い物入ってても良いからレジをしろ”、って言われたので……」
「逆にそっちの方が失礼だろ。ハムスターみたいなヤツがレジしてる方が不快……というより、不可解だっての」
「そんなに頬膨らんでましたか?」
「ああ、絵に描いたような頬の膨らみ方してた」
 島崎は驚いたような顔になり、自分の頬を撫でる。この頬はそんなに伸びるのか。間宮は、そう考えているような気がした。
「分かりましたよ、以後注意します。それにしても間宮さん。一週間以上ここに来なかったなんて、初めてのことじゃないですか?」
「確かに。食料はスーパーで買い込むようになったし、食事も家で作っているから、ここに来る必要がなかったからなぁ」
 島崎は眼を大きく開き、感嘆の息を漏らす。
「へぇ〜、ついにあの不摂生生活から脱出したんですか。大変でしょ? 会社から帰ってきて自炊するっていうのは」
「そうでもないさ。ウチのネコが食事を作ってくれるんでね」
 島崎は首を捻る。
「あれ? 間宮さんネコを飼い始めたんですか? 確かペット禁止じゃ……?」
「まぁ、アレはペットじゃないから大丈夫だろ。家主にもばれていないし。お前の言うとおり、エサを与えたら付いてきちまってな」
 島崎は更に首を捻る。
「……ん? あれ? さっきネコが食事を作ってくれるって言いましたよね?」
「ああ、確かに言った」
 唐突に島崎の顔は曇り、声をひそめるようにして言う。
「……物の怪ですか?」
「……オレも一度そう思ったから、馬鹿に出来ないのが辛いな」
「それとも間宮さん、『ネコ』っていう名前の人ですか?」
 少なくとも、間宮の知り合いにはそんな名前の人など居なかった。
「論より証拠だな。ウチのネコを紹介してやるよ」
 振り返り、間宮はお菓子コーナーに没頭している未子を呼び寄せる。
「紹介しよう。ウチに今住んでいる、ネコの未子だ」
 紹介された未子は、首を傾げながらも怖ず怖ずと頭を下げた。一方島崎の方は、事態が理解できていないのか、あんぐりと口を開けたままポカンとしている。
「……えっと、どう考えても普通の女の子ですよね。しかも、間宮さん好み――」
 島崎の言葉を、間宮はブッチャー張りの地獄突きで遮る。島崎は痛そうに喉を押さえながら咳き込んだ。
「余計なことは言わんでいい。まぁ、ちょっとした事情があってな。これを聞けば、お前も理解してくれると思うが……」
 この仙台では、間宮に友人という友人は居ない。ただし、最も信頼に値する人物ならば居る。そしてそれは、島崎を於いて他に居ないだろう。いつもおちゃらけた態度をとっているが、相談事には真剣に乗ってくれる。だからこそ、島崎には未子のことを知ってもらいたかった。
「未子、悪いが頼む」
 間宮の意図を理解したのか、未子はゆっくりと口を開いていく。

――に〜……。

 島崎は怪訝な顔をして辺りを見渡す。リアクションがあまりにも自分と似ていたので、間宮は思わず苦笑した。誰だってそうだろう。普通の女の子が喋れず、しかもネコのような声しか出せないなんて、考えるハズもない。
「もしかして、未子さんが言っているんですか……?」
 信じられない、と言った様子で島崎は間宮の顔を見る。間宮は、何も言わずにただ頷いた。
「……ちょっと信じがたいですね。まさか、こんな……」
 そして島崎は、未子を覗き込むように見ながら言った。
「こんな趣味が、間宮さんにあったとは……」
「…………あ?」
「アレですか? ネコプレイとでも言いましょうか、喋るときはネコの鳴き声しかダメとかそういう条件付けなんですか? 間宮さんって意外にもマニアックなんですね〜」

 それは冗談なのか? それとも本気なのか? どちらなのかは、間宮には判断が付かなかった。
 


・十日目(土)

 間宮は布団から起きあがり、大きな欠伸を噛みしめる。やはり、布団があると違うな。冷たい床に寝そべっていた時とでは、月とスッポンぐらいの差があるように思える。
 布団をまとめ、間宮は部屋側の押し入れに仕舞おうと扉を開ける。するとそこには、もう既に内職を始めている未子が居た。
「随分と頑張ってるな、未子。でもな、あんまり無茶はするなよ?」
 に〜。人形からは眼を離さず、未子は頷いた。
 今日は内職センターの人――亀山のおばちゃんが完成した人形を取りに来ることになっている。少しでも稼ごうとしているのか、未子は昨日の夜から――もしかしたら気づいていないだけで、二〜三日前からなのかも知れない――ほとんど休まず人形作りをしていた。深夜になっても止めようとしなかったので、間宮は未子を半ば強制的に寝かせた。だがしかし、扉の隙間からそっと覗いてみると、携帯のライトを使ってまで人形作りをしていたのには、間宮もさすがに驚いた。
 未子が徹夜したとは思えないが、昨日より完成品が増えていたのは明らかだった。間宮はため息をはき、糸と人形を手にとって内職を始める。昼食は、もう少し後になりそうだ。十二時を過ぎた時計の針を見つめながら、間宮はもう一度大きなため息をはいた。

 ※

 玄関のベルが鳴らされたのは、三時を少し過ぎてからだった。
「内職センターの亀山です」
 あのおばちゃんの声が聞こえ、間宮は糸と人形をテーブルに置き、玄関へと向かった。未子は既に会っているが、間宮はこれが初対面となる。声から察するに、恰幅の良い大阪のおばちゃんのような人なのだろう。そう、思っていた。
 玄関を開けると、そのイメージが大きく間違っていたことに気がつく。身体はとても細く、おばちゃんというよりは、おば様と言った方が正しい、気品ある雰囲気を纏っていた。
「どうも初めまして。アナタが間宮さんね?」
「あ、はい。ど、どうも初めまして」
 イメージと合わなさすぎるのに動揺しながらも、間宮は頭を下げる。亀山のおば様も、礼儀正しく頭を下げる。
「ほら、アンタも礼をするの」
 そう言って、亀山のおば様は間宮の死角となっている場所に手を伸ばした。間宮はすぐに、電話で話していたダウン症の子供を連れてきたのだと気づく。そして引っ張り出された子供――いや、男を見て間宮は更に驚く。
 男の身長は間宮よりも高く、肩も張っていた。スポーツでもしているのか、全体的に筋肉は隆々としており、顔は格好良いの部類に入る顔つきだった。それらしい服を着せれば、モデルと言っても違和感はないだろう。――いや、どちらかというと、売れっ子の格闘技選手と言った方が正しいかも知れない。
「は、初めまして……。か、亀山 透(とおる)です」
 透は、恥ずかしそう頭を下げ、吃りながら名乗った。
「ど、どうも初めまして。間宮です」
 そのアンバランスさに大きく動揺しながらも、間宮はもう一度頭を下げた。
「ごめんなさいねぇ〜、透は恥ずかしがり屋なのよ」
 はにかみながら、亀山のおば様は透に眼をやる。すると透は、亀山のおば様の後ろに回り、その大きい身体を縮こませて隠れた。もっとも、身体のほとんどがはみ出ているので、隠れているとは言い難いが。
 行動は人見知りする子供のそれと何ら変わりないが、歳は二十歳近くか、或いは同い年かも知れない。ダウン症の子供がそうであるように、精神年齢の成長が遅いのだろう。
 立ち話も何なので、間宮は亀山親子を中に入れることにした。
「狭い部屋ですけれど、どうぞ」
 亀山のおば様は特に遠慮することなく中に入り、透は更に身を縮こませ、おどおどしながら中に入った。なんだかこの親子、中身と外見が逆のような気がする。ふと、そんなことを思った。
「未子ちゃんは?」
「こっちで作業してますよ」
 間宮は、部屋側と廊下側を遮る扉を開ける。来客が来たというのにも関わらず、未子は一心不乱になって作業を続けていた。
「未子、亀山さんが来たぞ」
 間宮が声を掛けると、未子は驚いたように振り向く。亀山のおば様が居ることに気がつくと、急いで立ち上がり、お辞儀をする。
「お久しぶりね、未子ちゃん。元気してた?」
 に〜。亀山のおば様に頭を撫でられ、嬉しいような、恥ずかしいような、そんな表情をしながら鳴いた。私は元気ですよ。そう、聞こえた。
「うんうん、元気なのね。でもちょっと、肌が荒れているわね〜。夜更かしはダメよ? ……あらやだ、夜が元気ってことかしら?」
 間宮は思わず咳き込む。なんてこというんだ、このおば様は。しかし、未子と透はキョトンとしており、何を言っているのか分からない様子だった。
「亀山さん、お願いですからそういう下品なのは止めて下さい」
「下品って何よ? アナタと未子ちゃんはそういう関係じゃないの?」
 そういう関係。亀山のおば様の言わんとしていることは分かる。間宮と未子との年齢は三歳ほどの差があるが、パッと見れば彼女か同棲相手にしか見えないだろう。
「違います。ワケあって未子がウチに居るだけです」
 亀山のおば様が間宮に近寄り、耳打ちするように言う。
「居るだけ? 何にもしていないの?」
「していません」
「……本当に? キスもしてないの?」
「してません」
「……そっちの趣味かしら?」
 そう言って、右手の甲を左頬にくっつける。
「……怒るぞ?」
 ドスをきかせた声で言うと、亀山のおば様は間宮から離れる。
「じょ、冗談よ。ほら、この年になると恋話とかいろいろ聞きたくなっちゃうのよ、やっぱり。まして同棲しているんだから、こういろいろと詮索したくなっちゃうのよ、やっぱり」
 口早の喋るその様は、やっぱり大阪のおばちゃんのようだと間宮は改めて思った。
 いつの間にか後ろに回っていた未子が間宮の袖を引っ張り、亀山のおば様の後ろに隠れている透を指さす。アレは誰ですか? そう、言っているように見えた。
「亀山さんの息子さんだそうだ。ほれ、未子。挨拶しときなさい」
 間宮は隠れている未子の背中を押し出し、一方亀山のおば様は隠れている透の腕を掴んで引っ張り出す。
 未子と透は向かい合うが、二人とも凍り付いたように動かない。どうしたんだろうか、未子は人見知りするようなことはないと思っていたのに。――いや、これは、未子が透を怖がっているのかも知れない。いくら格好良いとはいえ、未子から見れば透は、さながらヘラクレスの巨像のように見えるのだろう。
「は、初めまして……。か、亀山 透です」
 切り出したのは、意外にも透の方からだった。
 に〜。ビクビクと怯えながらも、未子はお辞儀をする。終わると直ぐさま、間宮の後ろに逃げ込んだ。透も未子が逃げ出してすぐ、亀山のおば様の後ろへと隠れた。
「まぁ……一応、自己紹介は済んだということで」
「そうね。しっかし、久々にウチの息子を情けないと思ったわ……」
 間宮と亀山のおば様は、ほぼ同時にため息を漏らした。

 ※

 完成した人形を受け取ったらすぐに帰るとかと思っていたが、亀山のおば様が間宮と二人っきりで話したいということで、間宮と向かい合うようにテーブルに腰を据えている。残る二人――未子と透は一緒に出掛けており、今は居なかった。さながら魔法のように、二人をいとも簡単に仲良くさせ、尚かつ外へと追いやったのだ。

 “未子ちゃんと透で出掛けておいで”と亀山のおば様は言ったが、それはどだい無理な話だろうと思っていた。しかし、“未子ちゃん、透は小説が大好きなのよ”と魔法の言葉を唱えると、怯える子ネコは少しずつ巨人に近寄っていき、巨人もまた歩み寄った。偶然にも未子が買っていた本、『蛙鳴戦争』はどうやら二人ともお気に入りらしく、さっきまでの余所余所しさが嘘のように意気揚々と意見を交換し合っていた。未子が携帯で『言葉』を伝えていたのには透も驚いていたが、それは最初だけで、すぐに慣れたようだった。どうやら同じ趣味を持つ者同士には、垣根など存在しないらしい。“間宮さんとお話があるから、ね”と言うと、二人とも素直に頷き、出掛けていった。行き先は言わなくても分かっている。十中八九、古本屋だろうな。そう、思った。

「それで、話って何ですか?」
 コーヒー二人分をテーブルに置きながら、間宮は話を切り出した。とは言っても、何となく用件は分かる。未子のことだろう。
「勿論、未子ちゃんのことよ。あの子、何歳かしら?」
「十七歳って言ってましたね」
 亀山のおば様は手で口を覆い、悩むような素振りを見せる。
「分かっているとは思うけど、あの子も少し精神の成長が遅れているようね。何となくだけれど、三歳ぐらい下……かしら。精神年齢は十四歳ぐらいだと思うわよ、やっぱり」
 やはり、と間宮は思った。言葉遣いや意志はともかくとして、行動は幼く、とても十七歳のモノとは思えなかったからだ。だが、例え分かっていたとしても、改めて他人の口から言われると多少ながらもショックはあった。
「確認するけれど、あの子は喋れないだけよね?」
「詳しく聞いたことがないんでハッキリとは言えないですけど、オレが見た限りではそれだけだと思います」
「そうね。私も前に来たときに見てたけど、それ以外は本当に普通なのよねぇ。携帯で話すのにはちょっと驚いたけど、言葉遣いも丁寧だし、お茶だって手際良く入れていたし、喜怒哀楽もハッキリしているしねぇ」
 間宮は、亀山のおば様の洞察力に驚いた。さっきの小説の件もそうだが、二回しか未子と会っていないというのにも関わらず、もう未子の特徴を掴んでいるのだ。
 亀山のおば様は手で口を覆い、再び悩み始める。
「ん〜……。なんか、ちょっと変な感じねぇ」
「変?」
「喋れないだけで精神年齢の成長が遅れるって部分よ。絶対とは言い難いけれど、喋れないだけで成長が遅れるってのは妙だと思わない?」
 思ってもみなかったことだった。口がきけないので、精神の成長が遅れているモノだとばかり思っていたからだ。しかし、言われてみると何か引っかかる部分があった。
「脳に異常があって喋れなくなることもあるらしいけど、未子ちゃんの場合は喉の方だけに異常があるように見えるのよ。ネコのようにしか鳴けないのが良い証拠だと思うわ、やっぱり」
 しかし、ある一つの疑問が浮かび上がる。
「だったらどうして、未子は精神年齢の成長が遅れているんですか?」
 亀山のおば様は三度手で口を覆い、首を傾げる。悩むときに、手で口を覆うのが癖のようだ。
「会って二回目だし、私には結論は出せないわ。精神年齢は普通の人が必ずしも成長するわけでもないし、障害者の人が必ず遅れるわけでもない。成長するなら成長するなりの理由があるし、成長が遅れるなら遅れるなりの理由がある。その理由を知るためにも、アナタ達の関係について知りたいのだけれど?」
 亀山のおば様は、したり顔で間宮をみる。早い話、どうやって知り合って、二人で暮らすことになったのかを聞きたいだけなのだ。このおば様は。どうしてこうもおばちゃん達は、こういった話を聞きたがるのだろうか? ふと、そんなことを疑問に思った。

 ※

 間宮は、少し悩んでから事の経緯を話し始めた。思い出しながらだから、やや順不同だが。
 未子が家出をしてきて、それを間宮が保護しているということ。
 未子の両親が未子の存在を否定して、それで家出してきたこと。
 未子が自分を『すてネコ』と名乗ったのは、とある絵本が元になっているのではないかということ。
 未子が最近頑張りすぎているような気がするということ。
 ともかく、思いついたものは全部話した。亀山のおば様とは一応初対面だというのに、ここまで話して良いものかと思ったが、何らかの打開策を出してくれると信じて話し続けた。
 抱えている問題も話した。この九日間、未子と特に問題なく暮らしているが、実際の所は問題が山積みだった。
 学校のこと。
 両親のこと。
 生活のこと。
 特に、両親のことが気に掛かっていた。いくら存在を否定するような発言をしたとしても、家出してから九日間も経っているのだから、警察に捜索願が出されているのかも知れない。見つかれば、間宮に要らぬ疑いを掛けられ、未子は無理矢理家に帰される可能性があるのだ。帰りたくもない、自分の家に。
 学校もだ。十七歳ということは、高校に通っているハズだ。現に、初めて会ったときにも制服を着ていた。このままここでの生活を続け、学校に行かなければ、出席数が足りずに留年となるだろう。果たしてそれが、未子にとって良いことなのか。
 生活は……分からない。未子が料理を作ってくれるし、内職もしているからだいぶ楽になっているのは確かだ。しかし、このままこれが続くとは思わない。どこかで綻びが出来、破綻してしまう可能性だってある。
 問題は山積みだ。若い間宮では、解決できない事が多すぎる。別にそれらを忘れていたワケではない。あまりにもこの日々が幸せすぎて、その問題を忘れていたかったからだ。目をつぶってでも、間宮は今の生活を続けたかった。未子との、他愛もないこの生活。最後に訪れるのが悲劇だとしても、最後まで幸せに暮らせると信じて……。

 ※

 間宮は、抱え込んでいたモノを全て吐き出した。亀山のおば様は、嫌な顔一つせず、時折相づちを打ちながら聞いてくれた。知らぬところで溜まっていたストレスが、全て無くなったように身体は軽かった。
「……大変だったのね」
 ポツリと漏らした言葉に、間宮の涙腺は緩んだ。涙は流さなかったが、視界は水の中のようにぼやけ、亀山のおば様の顔をまともに見られなかった。
「それにしても、そこまでのお人好しは見たことがないわ。可哀想だったから、見ず知らずの女の子と一緒に暮らし始めただなんてね。……ウチのダンナも、アンタみたいな人だったら良かったのに……」
 亀山のおば様の顔が曇る。その言い草で、何となく分かった。理由は分からないが、離婚してしまったのだろう。間宮は思わず質問しそうになったが、その言葉を飲み込む。
「別にもう吹っ切れてるから、質問しても良かったのに」
 ……鋭い。ほんの少しの躊躇いを読んだのだろうか。
「ウチのダンナとは、透が五歳の時だから……もう、十五年も前になるのね。いつまで経っても喋れない透に嫌気が差して、出て行っちゃったのよ」
 そう言って、亀山のおば様は自嘲気味に笑う。
「透が初めて喋ったのは……っと、今度は私が喋らせてもらうわよ?」
 間宮は何も言わず、ただ頷く。
「初めて“ママ”って言ったのは、七歳の時だったわね。その時は、透を抱いて泣いてしまったわ。透はずっと家に居たの。“障害者”ということで、受け入れてくれる学校が無くてね。有るには有ったけど、遠すぎてとても通えなかった。それで、私は引っ越ししたの。その近くに。それがここ、仙台なのよ」
 亀山のおば様は渇いた口を潤す為に、冷めたコーヒーを一口飲む。
「通えるようになったけど、その時の透はもの凄く不安定でね。特に、深夜が酷かったわ。私が寝ていると、ゴツッ、ゴツッ、って音がするの。眼を開けると隣に透が居なくて、探しに行ったら、玄関に向かってずっと頭をぶつけているの。血が出ても、ずっとね。勿論、すぐに止めさせて、病院に行ったわ。でも、透はずっとそれを続けた。ケガをしないようにって、部屋の中を全部スポンジとかで保護したわ。それでケガはしなくなったけど、十歳になるまでそれを続けたわ。“ご飯”とか、“おはよう”とか、まともに言葉を話せるようになったのは九歳からだったし、文字を書けるようになったのは十一歳から。もっとも、今じゃ漢字検定二級を持っているけれどね」
 天井を見上げ、亀山のおば様は遠い目をする。
「……辛かったわ。女手一つで障害者の子供を育てるっていうのは、半端ないことなのよ。そりゃ何度も挫折をしたわ、やっぱり。……あんまりこういう事は言いたくないけど、殺してしまいたいって何度も思ったわ。でも私は、それをしなかった。立派に……でもないけど、人様に紹介しても恥の無いように育てたわ。何だってもう、人並みに出来るのよ。……透を育てることだけに、私はただがむしゃらに走ってきた。気がつけば、もうおばさんよ。でもまぁ、後悔はしてないし、今ではそれが私の誇りになっているわ。この腕一つで、透を育て上げたって事にね」
 亀山のおば様は、はにかみながら力こぶを作って見せた。細いその腕で、ダウン症の子供を育て上げたのだ。何だが、オレの悩みがちっぽけなように感じる。
「亀山さん……。オレは、これからどうした方が良いと思いますか?」
 俯き、間宮は質問した。正直言って、今のままでは未子と一緒に暮らせる自信が無い。経験者としてのアドバイスが欲しかった。
「……分からないわね」
 さらりと、亀山のおば様はそう言った。思ってもみなかった言葉に、間宮はしばし固まる。
「私が透を育てたのは、私の子供だからよ。せっかく私が生んだのに、せっかく私の子供を授かったのに、育てないのも透に失礼かなって思って育てたのよ。義務とか法律とか、そんなんじゃない。私の子供なんだから、私が育てなくちゃって思ったからなのよ。……でも、アナタと未子ちゃんは違う。血は繋がってないし、知り合ったのはつい先日。別に強制されているワケでもないし、養わなければならない義務もない。結局は赤の他人同士なのよ、やっぱり」
「……何が言いたいんだ?」
「それは――」
 亀山のおば様が言いかけたとき、玄関を開ける音がした。そしてその後、
「お、お邪魔します」
という透の声と、ネコの鳴き声が聞こえた。
 時刻を確認すると、亀山親子が来てからもう二時間近くも経っていた。
「帰ってきたみたいね。それじゃ、そろそろお暇するとしますか」
 そう言って、亀山のおば様は立ち上がる。
「まだ答えは言っていない」
 間宮は詰め寄るが、亀山のおば様はただ笑って誤魔化すだけだった。
「完成品、どのくらい出来たかしら?」
 亀山のおば様は部屋の隅に置いてある、『完成品』と書かれた段ボールを覗き込みながら言った。帰ってきた未子に聞いてみると、七百体近くは完成したらしい。
「随分とハイペースで仕上げているみたいね。この分だと、来週の火曜日か水曜日には終わりそうね。全部終わったら、連絡をちょうだいね」
 に〜。頭を撫でられながら、未子は照れたように鳴いた。
「ん〜、しっかし撫でやすい頭ね。本当、ネコみたいだわ」
 間宮は、同意するように頷く。
「さて、お会計しなくちゃね」
 満足したのか、亀山のおば様は未子の頭から手を離す。
「一体四十円計算だから……二万八千円ね」
 思わず、間宮は自分の耳を疑った。一体四十円と、亀山のおば様は確かに言った。だがしかし、これは一体二十円とあの本で紹介していたハズではないのだろうか?
 未子も同じ思いらしく、間宮の方に不安げな視線を送っている。金額が増えるのは嬉しいが、そうして受け取ったとしても後味が悪い。
「亀山さん、それって一体二十円のハズですよ?」
「え? ……あぁ、これは四十円でいいのよ。アナタ達が電話してきた時のは確かに一体二十円だけど、こっちは障害者限定で作っている人形だからね。売り上げの一部を募金するってことで、若干単価が高くなっているのよ」
「初めて聞きましたよ、そんなこと。それに、障害者限定って言っていますけど、オレも作りましたよ?」
「そんなの単なる名目よ。でもまぁ、障害者が作った人形と謳っている以上、内職センターに障害者登録している人しか貰えない仕事だけれどね」
「……あの時障害者登録しとけって言ったのは、こういう事だったんですか?」
 亀山のおば様は、少し困ったように笑う。
「そういうワケじゃないけど……。結果的には、そういうことになるのかしらね。公共施設とかで売っているんだけど、デザインも良いから結構人気があるのよ? この『シャーロッ君』は」
「でも、これって……」
 なんだかちょっとした詐欺のようで、間宮は嫌な気分になった。障害者が作った人形として売りに出せば、親切な人や優しい人は募金代わりにと買っていくのかも知れない。だがしかし、障害者ではない間宮が作った人形を買っていく可能性だってある。本物と信じて疑わない人に、偽物を売りつけているようなものだ。
「そんな嫌な顔をしないでよ。こうでもしないと、障害者の人はろくすっぽな稼ぎは貰えないのよ。ボールペンの組み立ては一個三円。造花の作成一本六円。一万円稼ぐまでに、ボールペンなら四千個近く、造花なら二千個近くも作らなきゃならないのよ?」
「それは……知っています」
 そう、それは知っているし、理解もしている。障害者なのだから、このぐらい優遇されても良いと頭では思っている。だがしかし、心がそれを理解してくれなかった。障害者というブランドを使って、親切な人達を騙しているみたいで心苦しかった。
「真っ正直な人ねぇ〜、アナタは。本当、ため息が出るぐらいに。……でもねぇ、この仕事を請け負ったのは未子ちゃんだし、人形を作ったのも未子ちゃん。そしてアナタは、それに協力しただけなんでしょう? この二万八千を受け取るのはアナタじゃなくて、障害者として登録してある未子ちゃんなのよ」
 言われてみれば、確かにそうだった。
「でも、オレも何体か――」
「それはあくまで協力しただけ。いいわね?」
 有無を言わさぬように、亀山のおば様は間宮の言葉を遮った。
 亀山のおば様は自分の財布から二万八千円を抜き取り、それを未子に手渡す。
 に〜。先ほどの言い合いもあって、未子は素直にそれを受け取れず、困ったように鳴きながら間宮を見た。どうしましょうか? そう、言っているように見えた。
 亀山のおば様が言ってることは、確かに正論だった。事実、完成品のほとんどは未子が作ったもので、オレは足りないものを補ったり、百体ぐらい作っただけだ。腑に落ちない部分は少しあるが、未子がそのお金を受け取る権利はある。そう思い、間宮は頷く。
 未子は視線を間宮からお金に移し、呆然とそれを見ていた。初めて受け取るお給料。それは、未子にとってどんな思いなのだろうか?
 お金をぎゅっと握りしめ、未子は目尻に涙を溜めて微笑む。感無量、まさにそんな感じだった。それにつられ、間宮も微笑む。
「喜んでもらえて良かったわ。それじゃ、この完成品は持って行くわね」
 一箱に三百体ずつ入れていたので、全部で三箱ある。その内の二つを透が持ち、残り一つを亀山のおば様が持った。
「いろいろと長話とか説教とかしちゃって、ゴメンね」
「いえ、こっちこそいろいろと聞いてもらってありがとうございます」
 に〜? 語尾上がりに鳴き、未子は不思議そう顔をして間宮を見る。いろいろって何ですか? そう、言っているように見えたが、何でもないと合図を送る。
 見送るために、未子と間宮も玄関に向う。靴を履き、亀山のおば様がドアノブに手を掛けたとき、
「それは……の後は、何なんですか?」
 どうしても、間宮はそれを聞きたかった。山積みになった問題を解決する為にも、少しでもヒントが欲しかったからだ。
「……そうね。あの時言いかけた言葉とちょっと変わるけど、答えてあげるわ。アナタはもっと、気楽に生きなさい。いつ訪れるか分からない問題に悩むより、今日の晩ご飯を悩みなさい。そして……」
 未子に眼をやり、そして微笑む。
「未子ちゃんを大事にしなさい。それだけよ」
 そう言って、亀山のおば様は玄関を開ける。透もその後に続き、
「あ、ありがとうございました」
 そうして、玄関は閉められた。

 ※

 未子は相変わらずお金を握りしめたまま、時折思い出すように微笑む。一方間宮はテーブルに頬杖付きながら、亀山のおば様の言葉を反芻していた。
 気楽に生きる。それが出来たら、どんなに楽な事だろうか。気楽に生きたって、山積みの問題など解決するハズもない。寧ろ、事態が悪化するのではないのだろうか? なのにどうして、亀山のおば様は“気楽に生きろ”だなんて無責任な言葉を残していったのだろうか? 単なる慰めの言葉だったのだろうか? 亀山のおば様の意図が理解できず、間宮はひたすら悩んでいた。
 時計が鳴り、間宮はハッとなって時刻を確認する。七時丁度、晩飯の時間だ。
「未子」
 に〜。浮かれた様子で振り向き、握りしめていたお金を間宮に見せつける。どう、すごいでしょう? そう、言っているように見えた。
「……今日の晩ご飯は、どうする?」

 とりあえず、それから実行してみよう。何かが、変わるかも知れない。そう、間宮は思った。



・十一日目(日)

「……って事なんだが、どうよ?」
 聞かれた島崎は、少し困った顔をする。
「どうって言われましても……」
 間宮は生ビールの入ったジョッキを傾け、大きく喉を鳴らす。空っぽになったジョッキを、勢いよくテーブルに下ろした。未子と出会った日以来に飲むビールは、オッサン臭い表現ではあるが本当に五臓六腑に染み渡っていった。
 今、間宮と島崎が居る場所は、仙台の駅前にある『笑。(しょうまる)』だ。店内にはテーブルが六つしかなく、装飾もどこか古めかしい。その所為であまり人気はないが、飲み放題が安いのと、人気メニューの一つである『キムトリ(キムチのタレ漬け焼き鳥)』が、固定客を掴んで離さなかった。
 二人は時折こうして飲み会を催すことがある。かなり不定期で、一週間に一回ある時もあれば、二ヶ月近くも無かった時もあった。誘うのはほとんど島崎からで、間宮がそれに応じるという形であった。しかし、希にではあるが、間宮から誘うときもある。この一年間で、片手に収まる程度ではあるが。
 そして今日は、昨日の事を相談しようと間宮が島崎を誘ったのだ。島崎は今日もバイトだったので、飲み会は九時半からとなった。一旦家に帰ってからここに来たのだと間宮は思っていたのだが、島崎の座席の横に膨らんだバックが見えることから、終わってすぐにこちらへ来たのだろうと思った。間宮は、島崎の家が何処なのかを知らない。訪ねたこともなければ、そういった話題を振ったこともなかった。聞けば教えてくれるかも知れないが、何となく聞く気にはなれなかった。
「気楽に生きろって、あのおば様は言っていったんだ。気楽に生きているお前としては、どうよ?」
 島崎は怒ったような顔をする。本気ではなく、どちらかというと拗ねている感じだ。
「失礼ですね、間宮さんは。自分だっていろいろと悩んで生きていますよ」
 それは知っている。本当に気楽に生きているヤツが、オレみたいなヤツの相談に本気で乗ることもないし、タメになるような事を言えるハズもない。普段は飄々とした様子でお気楽なヤツに見えるが、オレから見れば昼行灯を気取っているようにしか思えない節が多々あった。島崎は、自分のことをほとんど話さない。今日のような飲み会でも、相談するのはオレばかりで、島崎は相談所の人のように――いや、親密に、それでいて的確に答えるだけだ。だからオレは、島崎の事をほとんど知らない。だが、別にそれでも良いと間宮は思っていた。
 少し悩んでから、島崎は答える。
「そうですね……亀山さんの言うとおりだと思います。間宮さんは、物事を真っ正面から受け止め過ぎなんですよ」
「別にいいじゃねーか。右折歪曲して問題をすり替えようとする国会議員どもよりは」
「そりゃごもっともですね」
 追加注文していたジョッキの生ビール二つと、『キムトリ』二人前がテーブルに置かれる。ほぼ同時に二人は『キムトリ』を頬張り、そして流し込むようにジョッキを傾ける。島崎は三分の一ほど飲み、間宮は半分ほど飲んでからジョッキをテーブルに置いた。
「問題を無視しろって言っているんじゃないんです。要は、どんな風に受け止めるかが問題なんです。例えば間宮さん、宇宙から隕石が降ってきたとしますよ」
「いきなり宇宙規模かよ」
「まぁ、例え話ですから。それで、その隕石が地表に落ちるとでかいクレーターを作って、氷河期が訪れるようなとんでもないモノだとしますよ。落ちたら終わりだけど、それを消すか受け取るかすれば助かるんです。間宮さんはどうしますか?」
 その例え話に、笑いながら間宮は答える。
「まるで映画だな。だったら映画みたく、宇宙船ぶっ放してオレがその隕石に爆薬を仕掛けてやるよ」
 間宮はぐいっと生ビールを飲み干し、『キムトリ』を頬張る。それから近くを通った店員に、生ビールの追加を頼んだ。
「残念ながら、今の間宮さんにはその方法はありません。いいですか? 今ここにいる間宮さんが出来る範囲で言ってください」
 念を押すように、島崎は言った。
「そりゃお前……受け取るしかないんじゃないのか? 宇宙服みたいなのをかっぱらってきて、降ってきたところを手でさぁ」
「間宮さん、それ本気で言ってますか? 言うなれば、超高層マンションみたいなのが降ってくるんですよ?」
 島崎の例えはどこか面白く、そしてヤケにリアルティを感じさせた。
「ん〜……。そんなの、絶対に無理なんじゃねーか? 消すことも出来ない、受け取ることも出来ない。ならお手上げだ」
 言葉通り、間宮は両手を挙げてみせる。
「ほら、それです。間宮さんは二通りの考えしか出来ていない。それがイケないんです」
 島崎は自分に勢いをつけるように、残った生ビールを全て呷る。
「自分だったら、混乱に乗じてどっかの基地にでも忍び込んで、核ミサイルを盗みますね」
「核かよ……。それでこそ無理な話じゃねーか」
「そうでもないですよ? 十二〜三歳ぐらいの少年が基地にハッキングして、ミサイルを撃ちそうになったこともありますからね。巧く煽動してそんな人達を仲間に出来れば、可能性はあります」
「可能性があるだけだろ?」
「でも、絶対に不可能じゃない。0%でもない」
 間宮は、それ以上反論できなかった。所詮絵空事だとしても、手で受け取るよりも、隕石に爆薬を仕掛けるよりも、よっぽど真実みがあった。
 押し黙っている間宮を余所に、島崎は生ビールを置きに来た店員に生ビールの追加を頼む。
「……それで、核ミサイルを手に入れてどうすんだ? もしかしたらそれでぶっ壊れないかも知れないし、仮に壊れたとしても破片があちこちに飛び散るぞ?」
「そりゃごもっともですね、そっちの可能性も0%じゃありませんから。もし壊れなかったら、違う方法を取りますよ。もっとミサイルを撃ち込んでみるとか、宇宙ステーション乗っ取って人工衛星をぶつけてみるとか」
 話す内容が徐々に中学生レベルまで下がっている気がする。それでも間宮は、話を続けた。
「とりあえず、何らかの方法で隕石が壊れたとしよう。それで? 飛び散った隕石は、地球を破壊する威力はなくとも、あちこちの都市に壊滅的なダメージを与えるぐらいはあるぞ?」
「それぐらいは仕方がないんじゃないんですか?」
 さらりと、島崎は言ってのけた。
「多くの死者が出たとしてもか?」
「えぇ、勿論。だって、それが直撃すればみんな死んだんですよ? そのぐらいのダメージは覚悟しなきゃ」
「多くの人達が泣くことになったとしてもか?」
「えぇ、勿論。みんなが死ぬよりは……いえ、どんなにボロボロな状態で生き残ったとしても、死ぬよりはマシですよ」
 しみじみと、島崎は語った。まるでそれが、自分の体験談であるかのように。
「ちょっと路線がずれましたね」
 そう言って、島崎は生ビールを呷る。飲み終わった後、たまったモノを吐き出すように深いため息をはいた。
「隕石と同じように、問題はいつ降って落ちてくるか分かりません。でも、隕石が落ちてくるのをずっと心配している人は居ません。……そりゃまぁ、天体観測の人達とかは抜かしてですよ? 間宮さんが抱えている問題も、隕石と同じようなもんだと自分は思ってます。それが降ってくれば、あんまり言いたくはないですけど間宮さんと未子さんが確実に離ればなれになってしまう。でもそれは、降ってきたら、です。さっき言ったように、その問題を砕いてしまえばいいんです。小さな欠片になれば、数はあるけど大きなダメージは避けられます。それでも大きいと感じるなら、もっと砕いてしまえばいい。もっともっとミサイルを撃って、砂になるまで砕いてしまえばいい。隕石が降ってくるのは分かっているんです。それまでに、多くのミサイルを準備しておけばいいだけなんですよ、間宮さん」
 一通り喋った間宮は、喉を潤すために生ビールを飲む。そして、続けた。
「だけれど、一人でミサイルを準備するのはとても大変だ。そりゃー大変ですよ。重いし、盗んでくるのも大変です。でもね、それは一人だからなんです。一人で五十個盗んでくるのは、そりゃ骨を折りますよ。二人だとどうでしょう? 単純計算して半分です。一人二十五個で済みます。今度は三人に増えた。えぇっと、50÷3は……17? いやいや、余る余る。まぁ、一人当たり約十六個ですよね。そうやって人を増やしていけば、どんどん作業は楽になっていく。一人じゃ大変だった問題も、分けることによって楽になってくる。良いことずくめじゃないですかぁ?」
 島崎は随分と酔いが回ってきたのか、言葉の端々のろれつがおかしくなっていた。それでも尚、島崎は続けた。
「とりあえず、未子さんを仲間に入れたらどうでしょうか? そもそも、その問題は間宮さんの問題ではなくて未子さんの問題なワケですし。こうして自分や亀山さんに相談するのも良いですけど、そろそろ良いんじゃないですか?」
「……何をだ?」
 島崎は、五杯目となるジョッキをぐいっと飲み干す。それに負けじと、間宮も七杯目となるジョッキを飲み干した。
「その問題を、未子さんに話すってことですよ。今みたく酒酌み交わして、腹割って話し合うのが一番良い。学校はどうするか? これからの生活はどうするか? などなど、飽きるまで話し合えばいいじゃないですか。というより、是非そうして下さい。それが一番の近道だと自分は思います。問題から逃げちゃいけません。彼女から……逃げちゃダメなんです。逃げたら……もう……」
 島崎の最後の言葉は、口の中で呟くように言ったため、間宮の耳には届かなかった。しかし、逃げているとどうなるか。それは、島崎が身をもって知っているということだけは分かった。
「問題から逃げている……か」
 『キムトリ』を頬張りながら、間宮は呟いた。本当に解決しなければならない問題は、それなのかも知れない。未子との今の距離を保ちたいから、今の関係を壊したくないから、本当に見なければならないその問題に眼をつぶっていたのかも知れない。
「……ありがとうな。なんか、いろいろと分かってきた気がするよ」
 問題を解決するためには、必ず何らかの痛みを伴う。だがそれを恐れていては、何の解決にもならない。その痛みを恐れていれば、やがて取り返しのつかないことになる。そう、島崎は言いたかったのだろう。
「いえいえ、分かってもらえたならいいんです。そんな風に言ってくれるのは間宮さんだけですし、聞いてもらえる自分も有り難いですよ。同い年の友人に今みたいなことを言うと、説教臭いって嫌がられますから。お前はオレの母ちゃんかぁー! ってね」
 そう言って、島崎は力なく笑う。
「……今言うことじゃないってのは分かってるんだが、お前って十七歳には見えないよなぁ。今気づくまでそれを忘れていたし。むしろ年上に見えるよ」
「それって、老けているって意味ですかぁ?」
 もはや限界に来ているのか、島崎はテーブルにしなだれる。一方間宮はまだ大丈夫らしく、大きな声を上げて生ビールの追加をする。
「そういう意味じゃないんだが……でもまぁ、お前は確かに老けている。外見じゃなくて、趣味とかその他諸々な。大体、今時の高校生が携帯を持ってないってのはどういう事だよ? まぁ、コンビニに行けば十中八九居るから良いんだけどな。あとな、聞く音楽も変だ。三味線ってのは、いくらなんでもないだろう?」
「違いますよ。三線(さんしん)ですよ」
「あ? 三振? それじゃアウトじゃねーか」
「野球じゃありませんってぇ。沖縄のヤツですよ、沖縄の三味線みたいなヤツ」
「やっぱり三味線じゃねーか」
「だーかーら、三味線みたいなヤツであって三味線じゃないんですよ。三線ですよ、三線」
「三振が三つでスリーアウトか。交代だ、交代!」
 間宮は、自分でも何を言っているのか良く分からなくなっていた。あとで未子と話し合わなければならないというのに、そんなのは何処吹く風で、今こうして島崎とくだらない会話をしているのが楽しくてしょうがなかった。
 嫌なことがあると、酒を飲んで忘れたくなる気分が良く分かる。しかし、完全に忘れてはいけないのだ。でも、いつまでも問題を抱え込むのではなく、たまにはこうして酒を飲んで馬鹿なことを喋り合って、たまには問題のことをすっかり忘れた方が良いのかも知れない。
「アレだな。すごい握力があれば分身魔球もいけると思わないか?」
「間宮さん……。ネタ……古いです……」
 記憶は、そこで終わっていた。十杯目以降からはよく覚えていない。辛うじて覚えているのは、島崎と肩を組み、歌を歌いながらオレのアパートに向かっていたということだ。

 後日談だが、朝目覚めた時にオレはテーブルの上で寝ており、島崎は蓋の閉まった便座の上で寝ていた。酒は飲んでも飲まれるな。激しい頭痛に悶絶しながら、そう思った。



・十二日目(月)

 ずしりと重い頭を手で押さえながら、間宮は布団から起きあがる。耐えようのない頭痛が襲いかかり、すぐに布団にへたり込む。覚悟はしていたが、完璧な二日酔いだった。こんなにも苦しいんだったら、飲むんじゃなかった。二日酔いに遭う度に、間宮はそう思う。しかし、飲み始めるとそんなことなど微塵にも思わなくなり、結局こうして繰り返してしまうのだ。分かっちゃいるけど止められない。そんな懐かしいフレーズが浮かんで消えた。
 間宮は蹌踉めきながらも立ち上がり、水を飲む。それでも足りず、もう一度飲む。飲みながら時刻を確認してみると、既に午後の一時半。勿論、風邪という名目で会社には連絡を入れているので、別にいくらでも寝ていても構わないのだが、少しだけ罪悪感を感じた。
 部屋側の扉を開け、いつものように内職している未子に挨拶をする。
「おはよう」
 自分の声に、間宮は驚く。これは酷いな、まるでうめき声だ。しかし、集中している未子の耳には届かなかったらしく、何の反応もなかった。
「おはよう!」
 大きな声で、間宮は言った。まるで山彦のようにその声が間宮の頭の中で反芻し、酷い頭痛を引き起こした。あまりの痛さに、蹌踉めいて壁に手をつく。
 に〜。その声でようやく聞こえたのか、少し驚きながらも未子はこちらを向いた。壁に手をついている間宮を見て、心配そうな顔をする。大丈夫ですか? そう、言っているように見えた。
「あんまり大丈夫じゃないが……まぁ、自業自得だからな。それよりも未子、昼食は?」
『作ってありますよ。お昼に間宮さんを起こしたんですけど、“要らない”ってまた寝たんですよ。覚えてないですか?』
 全く記憶に無かった。
「……すまん」
『昼食はラップして冷蔵庫に仕舞ってあるので、温めてから食べてくださいね』
「そうするよ」
 そう言って、間宮はそちら側に行こうとした。しかし、昨日島崎と相談していたことを思い出し、立ち止まる。
「なぁ……未子」
 に〜? 語尾上がりに鳴いて間宮を見る。
「……今日はオレ、二日酔いで役に立ちそうもないから」
 に〜。未子は微笑み、軽い力こぶを作ってみせる。一人でも大丈夫ですよ。そう、言っているように見えた。
「そうか。悪いな」
 力なく笑い、間宮はそちら側に行って扉を閉める。
 情けない。間宮は、歯を噛みしめた。昨日未子と相談しようと決めたのに、いざ本人の前に立ってみると、怖くなって何にも言えなくなる。それじゃ何にも解決しないと分かっていても、最悪の事態を考えてしまい、言葉が出なくなる。これでは、いつまで経っても解決などしないのではないのだろうか。――いや、昨日今日決めたばっかりのことなのだ。そう焦ることはない。昨日、島崎にそれを怒られたのだ。真っ正面から受け止めすぎだと。なら、考えを少し変えればいいんだ。……そうだ、チャンスを待とう。二人でじっくり話せる雰囲気になる時を待てばいいんだ。そう、間宮は心に決めた。
 昼食を取ろうと、冷蔵庫を開ける。そこには、ラップの上にお茶漬けの袋が乗せてあるドンブリがあった。一見手抜きのように見えるが――いや、実際そうなのかも知れないが、胃が弱っている間宮にとっては逆にそれが有り難かった。
 ポットにはちゃんとお湯も入っており、ご飯をレンジで温めてからお茶漬けを掛け、お湯を掛けて啜る。

 急がず焦らず、チャンスを待つか。そう、改めて心に決めた間宮だった。



・十四日目(水)

 それは、帰り道の途中、公園を過ぎた辺りのことだった。どこからともなく流行の歌が聞こえてきたので、間宮は思わず辺りを見渡した。しかしそれは、胸ポケットに仕舞ってある携帯のメール着信音だったということを思い出す。一ヶ月近くもメールが届いていなかったので、間宮はそれをうっかり忘れていた。
 胸ポケットから取り出し、受信ボックスを確認してみる。するとそこには、確かに一通受信した形跡があった。すぐに開こうとしたが、名前ではなくアドレスで表示されていた為、間宮は躊躇う。
 間宮の携帯では、アドレス帳に名前やアドレスを登録してあると、登録してある人に限ってメールの送り主の欄にその人の名前が表示される。つまり、知らない誰かが間宮の携帯にメールを送ったということになる。
 間宮は怪訝な顔をしてそのアドレスを見てみる。

miko-and-cat.homeless@ezweb.ne.jp

 誰のアドレスかは、一目瞭然だった。一番最初にローマ字で『miko』と来ているのだから、未子しか居ないだろう。思えば、未子からアドレスを聞くのを忘れていた。しかし、あんなにも携帯を振り回しているというのに、今まで一度もメールを使っていないとは宝の持ち腐れだな。そう思い、間宮は苦笑する。……ただ、何とも自虐的で、うら悲しいアドレスだろうか。直訳するなら、『未子とネコ。家無し』になる。もしかしたら、あの絵本のタイトルである『ワタシとすてネコ』を自分に重ね見て、それをアドレスにしているのかも知れない。
 後でアドレスを変更するように言っておこう。もう未子は、『家無し』でもなければ、『すてネコ』でもないのだから。
 未子からのメールを開くと、それは呆気にとられるほど素っ気ないものだった。

“帰ってきて”

 間宮の全身に悪寒が走り巡る。そのたった一文が、かえって不気味さを増していた。いつもなら、“帰ってきてください”と文字を打つだろう。しかし、その“ください”という部分を打てないほど切迫した事態なのかも知れない。
 手に携帯を握りしめたまま、間宮は走り出していた。
 問題が起きたんだ。隕石が降ってきてしまったんだ。それを未子と相談する前に、時間切れになってしまったんだ。
「くそっ!」
 嫌な考えしか思い浮かばなかった。こんな時こそ前向きに考えるべきなのに、浮かんでくるのは心配していた問題が現実になったのではという思いばかりだった。
 例えば、未子が警察に保護され、家に強制送還されているとか。
 例えば、実は喉以外のも障害があり、それが発病したとか。
 良くはないが、それならまだ良いかも知れない。最悪中の最悪がまだある。だが、こんな考えが浮かぶオレに嫌気が差す。
 例えば、未子が交通事故に遭い、瀕死の重体とか……。
 そのどれもではないことを祈りつつ、しかしそのどれかも知れないという不安を抱きつつ、間宮はひたすら走った。息が切れても、躓いて転んでも、ただひたすらに。
 神様。全てが平等だというのなら、どうかお願いです。不幸だった未子が手にした細やかな幸せを、守ってあげてください。
 神様。どうかお願いです。大きな幸せは要らないから、せめてこのままオレと未子が暮らせるように守ってください。
 神様。どうか、どうかお願いです。この幸せな日々を、壊さないでください……。

 ※

 アパートの階段を駆け上がり、玄関を勢いよく開け放つ。
「未子!」
 間宮の呼びかけに、反応はない。まるで誰も住んでいないかのように、部屋の中はしんとしており、空気が重い。あまりにも静かすぎて、耳鳴りがする。
 間宮は部屋の中に入ろうとするが、足が重く、動かなかった。まるで金縛りにあったかのように、全身が凍り付いて動かない。拒絶している。これ以上先に進むことを、オレ自身が拒絶している。怖い。この先に進むのが怖い。たった一枚の扉を開ければ全てが分かるというのに、その扉を開けて全てを知るのが怖い。矛盾している。未子を助けなければと走ってきたのに、未子がどうなっているのかが知るのを恐れているなんて。
 扉を開けたら、未子が居なかったらどうしよう?
 扉を開けたら、警察が居たらどうしよう? 
 扉を開けたら、最悪を知らせる着信音が鳴ったらどうしよう……?
 悪い予想だけが頭の中で回り続け、目の前が徐々に暗くなっていく。足が、沈んでいくような錯覚を受ける。ここが何処なのか、分からなくなってくる。酷い吐き気がする。酷い頭痛がする。酷い、酷い……。

――に〜……。

 声が聞こえた。弱々しい、子ネコのような鳴き声。助けを求めるように、か細い声で鳴いていた。
 走っていた。弾かれたように、それまでの思いを断ち切るように、間宮は扉に向かって走り出していた。
「未子!」
 部屋側と廊下側を遮る扉を勢いよく開ける。無事でいてくれと、願いを込めながら。
 そこには、床に俯せている未子が居た。
「未子……?」
 間宮は慌てて駆け寄り、未子を抱き起こす。未子の顔は青白く、呼吸も荒い。寒くもないのに身体は小刻みに震え、虚ろな眼をしていた。
「未子! おい、未子!」
 に〜……。力なく鳴き、間宮の声に応える。それを最後に、身体の力がふっと抜け落ちた。
「おい、未子!? 未子!!」
 未子は応えない。辛そうに、肩で息をしているだけだ。
「……くそっ!!」
 何をどうしたら良いのか、全く分からなかった。腕の中では未子が身体を震わせて苦しんでいるというのに、オレはただ狼狽えているしかないのか。自分の不甲斐なさに、間宮は歯を鳴らす。事前に未子と話し合っていれば、この問題を解決出来たかも知れない。喉以外にも障害があると分かっていれば、未然に防げたかも知れない。なのにどうして、どうしてオレは……!
 後悔ばかりが溢れ出てくる。しかし、今は未子を助けるのが一番大事だ。絶対に、最悪な形で後悔はしたくなかった。……だが、方法が見つからない。こんな時、どうしたらよいのかが全く思いつかなかった。
 路頭に迷った子供のように、間宮は辺りを見渡す。そして、未子の左手の中に光を見つけた。未子が最後の気力を振り絞って使った、携帯電話だ。
「救急車……!」
 オレはなんて馬鹿なのだろうか、一番頼りになる存在を忘れていたなんて。嬉々として間宮は自分の胸ポケットから携帯を撮り出し、119番を押す。――いや、最後のボタンを押すところで、指は止まった。
 気づいてしまったのだ。それが、核ボタンにも匹敵する諸刃の刃だと。
 救急車を呼ぶということは、病院に行くということ。それに伴い、保険証というモノが必要になる。いうなれば、身元を保証するモノが必要になってくるのだ。十七歳の未子では運転免許証があるとは思えないし、家出する時に保険証を持って来るとも思えない。更に、未子は未成年者だし、まして障害者という立場に居る。そうなれば、両親の所に電話がいく可能性が極めて強い。そしてそれは、間宮と未子の別れを意味していた。
「くそっ!」
 天国から地獄とは、まさにこのことだろうか。――いや、どちらかというと『パンドラの箱』に近い。開ければ絶対、オレと未子に不幸が降りかかるとと分かっている。しかし、未子を助けるためには――『希望』を手にするためには、それを開けなければならないのだ。島崎は、問題を解決するためには必ず痛みを伴うと言っていた。しかしこれでは、あまりにも大きな代償を支払うことになる。
 究極の選択が、間宮の眼前に突き付けられる。間違いは……許されない。
 未子が回復することを祈って、オレが看病するか?
 この生活の終わりを覚悟して、救急車を呼ぶか?
「……未子」
 震える未子を、間宮はぎゅっと抱きしめた。悩むまでもない。この温もりを、失いたくはない。
「ごめんな……」
 電源ボタンを押し、先ほど押した番号をリセットする。そして間宮は、改めてボタンを押し始めた。

 ……1。

 悔しかった。結局、オレの力では何にも出来なかったことが、どうしようもなく悔しかった。同情心があっても、救いたいと思う心があっても、頑張ってみても、結局未子を救えなかったことが、悔しかった。

 ……1。
 
 視界が滲んでいく。どうしてこんなにも、オレには力がないのだろう。未子を救いたいのに、何で力が無いんだろう。日本を駄目にする政治家や、平気で人を傷つけるような人には力があるのに、どうしてオレには人一人すら救う力が無いんだ。不公平だ。神様はいつも不公平だ。ちっぽけな幸せを願っているだけなのに、それすらも奪い去っていくなんて。
「くそっ! くそっ……!」
 このボタンを押せば、未子は助かる。代わりに、この生活は終わりを告げる。未子の家出も、父親代わりも、内職も、この幸せな日々も、全て終わってしまう……。
「本当に、ごめんな……」
 そしてオレは、そのボタンを

――に〜……。

 押すことは、出来なかった。
「……未子?」
 押す寸前の所で、未子は間宮の腕を掴んでいたのだ。まるでそれは、この生活の終わりを拒むように。
「未子? 未子!? おい、気がついたのか!?」
 に〜……。辛うじて意識はあるのか、先ほどよりも弱々しく鳴く。そして静かに、未子は顔を横に振った。
「救急車を呼ぶなって言いたいのか? けど、けどそれじゃお前が死んじまうだろ!?」
 に〜……。気力を振り絞り、未子は携帯を握りしめる。震える指先で、ゆっくりと文字を打ち始めた。
『無理をしただけ。身体弱いから風邪かも』
「…………風邪?」
 間宮は見間違いかと思い、改めて見直してみる。だが確かに、風邪と書かれてあった。
「……えっ? あ、単なる風邪なのか? 他に障害があるとか、そういうんじゃないのか?」
 ゆっくりと、未子は頷いた。
「風邪か。単なる風邪なのか。あー、あ〜……良かったぁ……」
 どっと力が抜け落ちた。思わず、安堵のため息を漏らす。
 何て事はない。未子は、単なる風邪だったのだ。オレがただ単に早とちりして、慌てふためいていただけなのだ。
「あぁ、良かったぁ……」
 もう一度、先ほどよりも深い安堵のため息を漏らす。
 今になって手は震えだし、足はガタガタと揺れる。もう心配はないというのに、震えは収まらなかった。――いや、まだ心配はあった。
「……早く布団に寝せないとな」
 死に繋がるような病気ではなかったにしろ、これ以上悪化すると、それでこそ命に関わりかねない。それに、いつまでも抱きかかえているワケにもいかないだろう。……まぁ、もう少しぐらいなら良いかも知れないが。
 未子を一度床に下ろし、押し入れから布団を撮り出して敷く。それからもう一度抱きかかえ、そっと布団の上に寝かせた。エアコンの電源をつけ、温度を一気に三十度まで上げる。念のためにと、間宮の布団を更に被せる。二枚重ねなので少し重いかも知れないが、汗を流させるためだ。少しぐらいは我慢してもらおう。
「未子。もう一度確認するけど、本当に単なる風邪なんだな?」
 間宮の質問に、未子は微かに頷いてみせる。
「……そうか」
 これ以上疑って掛かってもどうしようもないので、間宮は信じることにした。
 熱があるのかどうかを確かめるため、間宮は自分の額と未子の額と比べてみる。……正直、良く分からない。ほんの少しだけ、オレより温かいぐらいにしか感じられなかった。体温計があればそれが一番なのかも知れないが、生憎この部屋にはそんな大層なモノはなかった。
 取りあえず、応急処置として濡れタオルを額に乗せる。これにどのくらいの効果があるのかは不明だが、やらないよりはマシだ。
「後は……後は……」
 病人を看護したことなどなかったので、これぐらいしか分からなかった。その他にするべきことがあるかも知れないと思ってみても、下手にそれをやると病状が悪化しそうで、怖くて実行が出来なかった。
 未子に眼を向けると、相変わらず顔は青白く、苦しそうに呼吸をしている。
「……しょうがない、おば様に相談しよう」
 限界を感じた間宮は、亀山のおば様に相談することにした。子供を一人育て上げたのだ。風邪に対する知識はきっとあるだろう。携帯の番号は知らなかったので、内職センターに直接掛けてみる。
 数回のコールの後、電話は繋がった。
「はい、こちら内職センターですが」
 運が良いことに、亀山のおば様が受け取ったようだ。
「どうも、間宮ですけれども」
「あー、間宮さん。この前はどうもね。出荷が早くて助かるって担当者が喜んでたわよ」
「あ、はい。後で未子に伝えておきます。……って、そうじゃなくて、その未子が今大変なんですよ」
「大変?」
 不安と驚きが混じった声で亀山のおば様は言った。
「風邪……らしいんですけど、かなり酷くて、今日オレが帰ってきたら倒れていたんですよ」
「風邪で倒れたって……それってかなりの重症じゃないの? 他に障害があるとかそういうんじゃないの?」
 間宮同様、亀山のおば様もそれを危惧していたようだった。
「確認しましたけど、違うと未子は言ってました。……今はそれを信じたいと思います。それから、風邪の時はどんな風に看病するんですか?」
 電話の向こうで、亀山のおば様が笑ったような気がした。
「そういうことね。そうねぇ……まず身体を暖めて……それから濡れタオルを額に乗せて……」
 一応、自分のやっていたことは正しかったんだと、間宮はホッと胸を撫で下ろす。
「それからおかゆを食べさせて、風邪薬を飲ませるぐらいかしら? 後は定期的にタオルを交換したりとか、そんな感じね」
「おかゆって、どう作るんですか?」
「……作り方、知らないの?」
 亀山のおば様は心底驚いたように聞いてきた。
「料理しないんで……」
「ご飯に水入れて煮込むだけなんだけど……」
「えっ!? あ、それだけでおかゆになるんですか?」
「……ちょっと待っててくれる?」
 こちらが答える前に、電話は保留になった。二〜三分ほど経った後、保留は解除された。
「オッケー、何とかなりそうよ」
「何がですか?」
「今そっちに透を派遣したから、十分ぐらいで着くと思うわ」
「……へ? ちょ、ちょっと待ってくださいよ。何でまたいきなりそう言う話になっているんですか?」
 ワケが分からなかった。いきなり話が飛躍しすぎている。
「おかゆも作れないような人が何言ってんのよ。おかゆ以外にも、もっと栄養あるモノを食べさせた方が良いに決まってるじゃない。料理の腕は確かだから安心しなさい。あの子、今料理学校に通っているからね。分かった?」
「……はぁ」
 もはや生返事を返すしかなかった。しかし、応援が来てくれるというのは何とも心強いし、未子のことを心配してくれていることが何よりもありがたかった。
「ありがとうございます」
 電話越しにも関わらず、間宮は深くお辞儀をした。
「持ちつ持たれつよ。こっちが困ったときにはお願いするわね。それじゃ、まだ仕事があるから」
 そう言って、亀山のおば様は電話を切った。
「……さて、どうしようか」
 十分後には透が来るという。それまでに何をしておこうかと思ったが、結局することがなく、手持ち無沙汰な状態となった。何となく未子の側に座り、顔を見つめる。
 未子は“無理をした”と言っていた。それはやはり、内職のことだろう。あんなにも頑張って作っていれば、体調を崩すのは当たり前かも知れない。しかし、それが間宮には分からなかった。自分の身体が弱いと知っていながら、どうしてあんなにも頑張っていたかを。
「……なぁ、未子」
 間宮の呼びかけに、未子はうっすらと眼を開けて応える。まだ眠っていなかったらしい。
「人形作り、随分と頑張っていたよな。なんか、鬼気迫るくらいにさ。……どうしてそんなに頑張っていたんだ?」
 未子は何も答えない。答えられないのか、答えたくないのか。
「オレの家計を助けるために頑張っているんだろう。そう、最初は思っていた。……けど、何か違うと後になって気づいた。言い表せないけど、もっと深い所に問題があるんじゃないかと思ったんだ。結局、それが何なのかは分からなかったけどな」
 そう、分かるはずもない。なぜならオレは、未子と一度も話し合ったことがないのだから。互いの傷を知り合うのが怖くて、今の現状を維持したくて、日々を過ごしてきた。そのツケが、これだ。
 未子が直ったら、ちゃんと話し合おう。お互い気が済むまで、飽きるまで、話し合おう。多少傷つけあったってしょうがない。怪我を恐れていては、これ以上先に進むことは出来ないんだ。そう、間宮は決意した。

 ※ 

 透は予定よりも随分と遅く、約三十分後くらいに来た。片手には買い物袋をぶら下げていたことから、どうやら食料の調達をしてきたらしい。
「悪いな。ちゃんとお金は払うよ」
 そう間宮が言うと、透はレシートを手渡した。どうやら最初から払わせる気でいたようだ。……まぁ、かえってそちらの方が気が楽で済むが。
「み、未子さんの様子はどうですか?」
「ついさっき眠ったみたいだから、多分大丈夫だと思うけど……」
 とはいえ、安心は出来ない。依然として未子は苦しそうにしているのだから。
「ありがとうな。大した知り合いでもないのに、ウチに来てもらってさ」
「い、いえ。ぼ、僕も未子さんが心配だったんで」
 透は、持ってきた買い物袋から材料を取り出す。
「手伝おうか?」
「ぼ、僕が料理をしますんで、ま、間宮さんは未子さんを見ててください」
「でも、未子も寝ちまったし、材料を切るぐらいならさすがに出来るぞ」
「風邪の時って凄く不安だから、み、未子さんの手を握っててあげてください。ぼ、僕もよく風邪をひいていたから分かるんです。でも、母さんに手を握っててもらった時は、不安なんか無くなるんです。信頼している人に手を握っててもらえると、あ、安心できると思います」
 透は、ニッコリと笑いながら言った。
「……まぁ、そこまで言うんだったら」
 手を握るかどうかはさておき、下手に手伝うより看病に徹した方が良いのかも知れない。透は料理学校に通っていると亀山のおば様は言っていたし、餅は餅屋に任せよう。
「それじゃ、頼んだよ」
「は、はい。ま、まま、任せてください」
 ……正直、頼りない。
 透は持ってきた袋から真っ白いエプロンを取り出し、手際よくそれを着る。袖を捲り、髪をかき上げる。その姿は、まさに料理人といった感じだった。これなら、どんな食材もまるで魔法のように調理してくれるに違いない。そう、本気で思えた。
「……あ、あんまりジッと見られると、ぼ、ぼ、僕料理出来ないんですけど……」
「あ、悪い。それじゃオレは、あっちの部屋に行っているから」
 そう言って、間宮は部屋側の扉を開ける。完全には閉めず、隙間からこっそりと廊下側を覗いてみる。普段おどおどしている透が、どんな風に料理するのか興味があったからだ。
 透はまずゴボウを取り出し、ささがきする。それを水にさらし、続いて人参を小さなブロック状に、そして大根を短冊切りにしていく。炊飯器を開け、そこにご飯がなかったことが分かると次に冷蔵庫を開け、タッパーに入れてあるご飯を取り出す。予め火に掛けていた鍋にご飯と野菜を入れ、蓋をした。無駄がなく、見ていて惚れ惚れするような手際の良さだった。
 そこで一段落したのか、透はこちらを向く。間宮は慌てて引っ込み、くるりと回って未子の顔を見つめる。
「間宮さん。椎茸ってありますか?」
「……オレ、椎茸苦手なんだけど?」
「大丈夫です。食べられるように美味しく作りますから」
 そういう問題ではない気がしたが、透の言葉を信じ、戸棚に入っていることを教えた。
 間宮は、もう一度だけ見ようと振り返るが、こちらの視線に気づいていたのか、扉はきっちりと閉まっていた。やむなく、間宮は未子の看病に徹することにした。

 ※

 しばらくして、部屋側と廊下側を遮る扉が開けられ、透は装ったおかゆを両手に持ってきた。
「出来ましたよ。み、未子さんを起こしてください」
「分かった」
 寝ている未子の身体を揺すりながら、
「おい、ご飯だぞ。辛いけど、ちゃんと食わないと直らないからな」
 深い夢から目覚めたのか、未子はゆっくりと目蓋を開けていく。間宮は未子の背中を支え、ゆっくりと上体を起こしていく。
「ご飯は食べられそうか?」
 未子は猫柳のようにゆらゆらと揺れながら、微かに頷く。体調が悪いというよりは、まだ夢見心地のようだった。
「こ、これもどうぞ」
 そう言って透がテーブルに置いたのは、スープだった。小さな物体が浮いていると思ったら、細かく刻んだ椎茸のようだ。匂いを嗅いでみるが、椎茸特有の臭みは感じられなかった。更におかゆを見て、間宮は思わず眉をひそめた。あの白くてドロッとしたおかゆではなく、どちらかというと雑炊に近い感じのおかゆだったからだ。
「さて、冷めないうちに食べようか」
「そ、そうですね」
 間宮と透はほぼ同時にスプーンを持ち、拝むように手を合わせた。
「「いただきます」」
 毒味というわけではないが、まずは最初に自分が一口食べようと、間宮はおかゆをすくって口に運ぶ。
「……あ、うめぇ」
 その美味しさに、間宮は思わず言葉を漏らした。おかゆというイメージが瞬間的に変わってしまうほど味が良く、食欲を増進させた。これをおかゆと呼ぶには、あまりにもおこがましいような気がする。
「さすが、料理学校に通っているだけあるなぁ」
 感嘆の息を漏らしながら、間宮は言った。
「そ、そそ、そんなことないですよ。こ、こ、こんなの簡単な料理ですし……」
 透は顔を真っ赤にし、身を縮込ませ、もじもじと身体を揺する。……悪いとは思ったが、正直ちょっと不気味だと思ってしまった。
「ほれ、未子も食べな」
 スプーンですくい、未子に食べさせる。
 にッ! しかし、余程熱かったのか、舌を出しながら恨めがましい眼で見てくる。未子がネコ舌だったということを、間宮はすっかり忘れていた。
「ま、間宮さん。ふ〜ふ〜して冷まさないと」
「わ、分かってるよ」
 食べさせるだけなら別に構わないが、あのふ〜ふ〜してから食べさせるというのには抵抗感があった。まして、透が居る前でだなんて、余計に辛い。それを知ってか知らずか、未子はまるでエサをねだる小鳥のように口を開けて待っている。
「……くそっ」
 覚悟を決め、間宮は息でふ〜ふ〜しておかゆを冷ます。充分に冷ましてから、未子の口に運んだ。
 に〜。未子は幸せそうな笑みを浮かべ、感嘆の息が混じった声で鳴く。美味しいです。そう、聞こえた。
「透にお礼を言っとけよ」
 に〜。透の方を向き、未子は微かにお辞儀をした。ありがとうございます。そう、聞こえた。
「さて、次は……」
 目についたのは、あの椎茸のスープ。おかゆをここまで美味しくできたのだから、きっと大丈夫だろう。そんな願いを込めながら、間宮はすくって飲んだ。
「……あ、うめぇ」
 文句なしに美味かった。椎茸の味など微塵もせず、後からほんのりと身体が暖まってくる。オレも風邪をひいたら、こういうのを飲みたいなぁ。間宮は、しみじみとそう思った。
 スプーンですくい、間宮は恥ずかしそうにふ〜ふ〜した後、未子の口に運んだ。やはりこれも美味しかったのか、未子は零れんばかりの笑みを浮かべた。

 ※

 結局、未子は全ての料理を完食した。余程美味しかったのか、おかわりを要求したぐらいだ。満腹になったところで風邪薬を飲み、満足な笑みを浮かべながら床についた。
 間宮と透は食器をまとめ、洗い場に運ぶ。透はまたしても一人で良いと言ったが、さすがに洗い物までやってもらうのは気が引けたので、透は食器を洗い、間宮がそれを拭くという分担作業になった。
 しばらくの間は、水が落ちる音と、食器のこすれ合う音しかなかった。透と未子には『小説』という共通の趣味があるが、間宮と透にはそれがない。沈黙に耐えかね、間宮はふと気になったことを質問する。
「なぁ、透。どうして料理学校に通っているんだ?」
 その質問に、透は驚いたように振り向く。
「か、通っている理由ですか?」
「あ、いや、答えたくないなら別にいいんだが……」
 またしても、この場に静寂が訪れた。難しい顔をして、透は黙ってしまったのだ。何か特別な事情があるのか、それとも……。
「……ま、間宮さんは僕がダウン症だってことはき、聞いてますよね?」
「あぁ、亀山さんから聞いているよ」
「……僕、十二歳から下の記憶がほとんどないんです。あ、あるにはあるんですよ。でも、なんかぐにゃっとしてて、よく分からないんです。確かに僕の記憶だってのは分かるんですけど、何というか……ぼ、僕であって僕じゃないような感じなんです。や、やりたいことが出来なくて、したくないことをやってしまう。それで随分と母さんに迷惑を掛けたらしいんですけど……」
「確か……玄関に頭突きをしていたとか言ってたな」
「そ、そうです。それも記憶にあります。で、でも、記憶にあるだけでその時の僕がど、どんなことを思っていたのかは覚えていないんです。ぼ、僕の担当医の人に聞いたら、“自分を証明する為だ”って言ってました。“痛みを知ることによって、自分がここに居ることを実感しているんだ。そしてそれは、周りの人達に自分はここに居るよというサインなんだ”って」
 自分を痛めることによって自分を証明する。それは、リストカッターをするような人達に見られる想いだ。大きな社会の波に飲み込まれ、自分自身が分からなくなったとき、それを実行するという。痛みによって、流れる血によって、自分が生きていると実感するのだ。……あまりにも自虐的で、悲しい方法だ。
「……でも、そんなときでもぼ、僕がハッキリと覚えているのは、か、母さんの料理なんです。一番覚えているのは、シチューです。甘くって、でもジャガイモが大きくて苦戦していたのをハッキリと覚えているんです。今日作ったおかゆも、好きな料理の一つです。か、風邪ひいたときには必ず作ってくれたんです。だから、料理をしたいなって思ったんです。い、一番覚えていることだから、勉強したいなって思ったんです。……へ、変ですかね?」
「……いいや、立派な理由だと思うよ」
 幼少の頃に経験したことは、大人になっても忘れないという。三つ子の魂百までとは言うが、子供の頃にどんな経験をしたかによって、どんな大人になるのかが決定すると言っても過言ではないと思う。勿論、一概にはそう言えない。しかしながら、亀山のおば様の料理が美味しかったから料理人になるという透のように、子供の頃の影響は強い。ダウン症の子供をめげずに、そして立派に育て上げた亀山のおば様を、間宮は心の底から尊敬した。
「良いお母さんを持ったな」
「は、はい! 自慢の母さんですから!」
 透は誇らしげに、胸を張って言った。

 ※

 皿洗いが終わると、透は帰っていった。今度は自分の家の晩飯を作らなければならないらしい。毎日あんな料理を食べられる亀山のおば様が、羨ましく感じられた。
 未子は既に静かな寝息を立てており、今度こそ本当にすることがなくなった間宮は、既に読み終わった雑誌を手に取る。読むというよりは、暇つぶしに眺めていると言った方が正しい。しかし、ものの五分もしないうちに飽きてしまい、どうしたものかと辺りを見渡す。すると、前に買ってきた『長い休日の果てに』が眼に入った。流行った頃に友人から借りて読んだが、覚えているのは名場面と呼ばれる部分だけで、その他は忘れてしまっていた。他にも未子が買ってきた小説はあるが、戦争モノや犯罪心理モノは遠慮願いたかった。
 手に取ってパラパラと捲ってみる。面白いのは分かっているのだが、一度読んだ小説を読むというのには若干抵抗感があった。しかし、気になった台詞が眼に飛び込み、そのページで手は止まった。作者が彼女を車椅子に乗せ、旅を始めて一ヶ月ほど経った頃の台詞だ。夜の海を見ながら、作者は彼女に語りかけるように言う。

“神さまは、君を見捨てたのかなぁ? でも私は、君を見捨てたりはしたくないな”

 読んだ当時は、別段心に残った台詞ではなかった。名場面の一つとしても、数えられてない。でもなぜか、今になってその台詞が心に染みた。
 更に間宮はページを捲り、今度は名場面中の名場面の所で止まった。長い長い旅の果てに、彼女が眼を覚ましたときの作者の台詞だ。当時も涙を流すほど感動したが、その輝かしさは今も失われておらず、より一層心に染み渡った。

“長い休日は終わったのかい? ……もう二度と、眼を開けないと思っていたよ。でも、奇跡って本当にあるんだなぁ……”

 奇跡は本当にある。間宮は、それを信じていた。そして間宮は、一度だけそれを体験していた。そう、あの家出の時に、奇跡としか言いようのない形で父さんに発見されたのだ。だからこそ、奇跡は本当にあるし、そして起こりうる存在なのだと本気で思っている。未子との出会いも、家出したことがあるという奇妙な共通点も、その奇跡の一端なのかも知れない。
 読もうかどうか迷っていた間宮だったが、結局『長い休日の果てに』を読むことにした。あの感動をもう一度。そう思いながら、最初の一ページを捲った。

 ※
 
 十時を過ぎた頃、小説に没頭していた間宮の耳にうなり声のような音が入る。ハッとなって未子見てみると、寝苦しそうにもぞもぞと動き、呼吸も荒くなっていた。急いで額のタオルを水で洗い直し、慎重に乗せる。それでも苦しそうにしていたので、間宮は未子の手を握った。少し気恥ずかしかったが、これで安心出来るのなら安いものだった。
 苦しんでいる未子を見てハラハラしていたが、しばらくすると呼吸は元に戻り、いつもの寝顔に戻っていった。それを見て、間宮はホッと胸を撫で下ろす。それから手を離そうとしたが、未子はまるで何かを求めるように手をぎゅっと握っており、離すことは出来なかった。無理矢理離すことは出来たかも知れない。でも、その握られた手を突き放すのはあまりにも無下な気がして、間宮にはそれが出来なかった。
 慣れない出来事の連続からか、間宮は手を繋いだまま眠りへと落ちていった。

 ※

 間宮は何の前触れもなしに、ハッとなって起きた。時刻を確認すると、十二時を過ぎている。握られていた手はいつの間にか離れており、未子はまるでそっぽを向くように寝返りをうっていた。
 起きたついでにと、額から落ちたタオルを拾う。洗い場で絞り直し、そっと乗せる。しかし、今度はこちらを向くように寝返りをうち、またしてもタオルが落ちた。もう一度拾おうとすると、小さなうなり声をあげながら未子が眼を覚ます。
「あ、悪い。起こしちまったか?」
 に〜。小さく顔を横に振る。それからきょろきょろと辺りを見渡し、未子は何かを探し始める。に〜。もう一度鳴き、間宮にその探しているモノを伝えようとジェスチャーする。両手の人差し指で宙に小さな長方形をなぞる。それが携帯であると分かった間宮は、テーブルから取り、未子に渡した。
『本当にすみません。勝手に無理して、風邪で倒れてしまって』
 いつもの未子の『言葉』に戻り、間宮は一安心したようにため息を漏らす。
「別に……」
 別にそれぐらい構わない。そう言おうとして、間宮は止めた。
「いや、全くだ。勝手に無理して倒れるなんて、かなり迷惑だぞ」
 に〜。心の底からすまなさそうに、未子の眼が潤う。それで少し怯んだが、構わず間宮は続ける。
「いいか、内職を頑張るのは構わない。けどな、自分で身体が弱いって分かっているんなら、ちゃんと自己管理してやってくれ。今回は何とかなったけど、次だってこうなるとは限らないからな」
 に〜。しゅんとなって、未子は頷いた。
「最後に。……もう少しぐらい、オレを頼っても良いんじゃないか? 居候しているからっていろいろ遠慮しているのは分かるけど、オレはそんなに頼りないのか? ……まぁ、確かに給料は少ないし、ろくすっぽ料理も出来ないけど」
 に〜。頭を強く振って、それを否定する。そんなことはないです。そう、言っているように見えた。
「オレをもっと頼ってくれ。代わりに、オレが抱えている問題を未子に話す。オレ一人では片付けられそうもない問題を、未子にも考えてもらう。それで、あいこだ」
『問題ですか? それって何です?』
「後で話すよ。今は風邪を完治させてくれ。……まぁ、こんな話題を出すのも、完治してからの方が良かったかも知れんが。やっぱり、迷惑だったか?」
 未子ははにかんだような笑顔を浮かべた後、
『そんなことはないです。今話してもらった方が良かったと、私は思います。なんか、ちょっと嬉しいです』
「嬉しい? オレの問題を話されることが、か?」
『そうです。間宮さんは気づいてないかも知れないですけど、いつも小難しい顔をしているんですよ? 何か問題を抱えているのかなって、ずっと心配していたんです』
 そんな顔して未子を心配させていたなんて、親失格だな。間宮は、自分を笑う。
『もしかしたら、私が居ることでお金が足りなくなっていたかも知れない。もしかしたら、私が居ることで間宮さんに心配を掛けているかも知れない。そんな心配をしてしまいました』
「そっか、そんな心配させていたか……」
 心配させまいとしてきたことが、かえって未子を心配させていたとは、本末転倒もいいところだ。島崎が言っていたように、腹を割って話し合うことが一番良いのかも知れない。
「……謝らなきゃならないのはオレみたいだな。すまん」
 そう言って、間宮は頭を下げた。
「これからは未子にも相談するよ。いろいろと、オレのことも話していこうと思う。だから、未子のことも教えて欲しい。話したくなかったら……まぁ、話さなくてもいいや。オレにだってそういうのはあるし」
 例えば、エロビデオの隠し場所とか。そういうのは、寧ろ話さない方が良いだろう。……当たり前だが。
「……その、まぁなんだ。まずはオレから話していこうと思う。そうだなぁ……何をどう話したら良いと思う? あんまりこういう話をしたことないから、よく分からん」
『昔の間宮さんは、どんなことをしていたのか知りたいです』
「昔? 昔話なぁ……。あぁ、そうだ。今更になって白状するが、実はオレも家出をしたことがあるんだ。面白いだろ? 変な共通点があるもんだなぁ、なんて思っていたよ。更に面白いのが、家出先がここ、仙台なんだ。あ、そうそう、オレの実家は仙台から電車で一時間ぐらいの場所でな。意外に近いだろ? 機会があったら連れてってやるよ。……何? すぐに行ってみたい? 機会があったら、って今言ったばっかりだろ。で、まぁ家出をしてきたんだがな、中学生のクセに本気で働いて暮らそうと思っていたんだよ。我ながら馬鹿な考えだったと思うよ。……家出した理由? あー……。そっちに比べたらくだらん理由だけど、受験で親がピーピーうるさくてな。それで家出をしたんだよ。それからな――」

 未子が眠りにつくまで、オレの昔話は続いた。自分自身の話なんて、大して面白くもないと思っていた。しかし、未子は笑い、興味津々に聞いてくれた。一方的な想いかも知れないが、何となく未子と分かり合えたような気がする。そう、思えた。



・十五日目(木)

 朝起きると、未子の姿はなかった。間宮は一瞬パニックに陥ったが、テーブルにあった書き置きを見て落ち着きを取り戻す。

“実家に行って、必要なものを取ってきます”

 昨日の一件もあるから、大方、保険証などを取りに行ったのだろう。――いや、ちょっと待てよ。冷静に考えてみれば、未子はとんでもない行動をしている。両親に見つかれば、最悪、その時点でこの共同生活が終わってしまうというのにも関わらず、さも当然のように帰っているのだ。
 その行動に狼狽えながらも、間宮は携帯を取りだし、直接連絡を取ろうとした。だがしかし、迂闊にも未子の携帯番号を聞いておらず、やむなくメールで伝えることにした。携帯を開くと、十数件ものメールを受信していることに気がつく。それらは全て、未子からのメールだった。タイトルは『昔話』となっており、恐らくここに未子の過去が綴られているのだろう。
 間宮は、それを開いた。それは、未子の人生を語るに相応しく、長い長いメールだった。

 ※

 最初に。勝手に実家へ帰ってしまってすいません。でも、今回みたいな事態を避けるためにも、保険証は絶対に必要だと思い、間宮さんが起きる前に実家に向かいました。起きてたら、絶対に止められると思ったので。
 ずっと前から、言おうかどうか迷っていたことがあります。それは、私の過去です。間宮さんに話したとしても、余計な心配を募らせるだけだと思って、ずっと黙ってきました。でも、間宮さんは昨日、私に昔の話をしてくれました。家出のことや、中学校の頃の思い出。他にも、沢山のことを教えてくれました。いろんな間宮さんを知って、嬉しかったです。
 だから、私も話したいと思います。もう過ぎ去ってしまったことだから、私は気にしていません。ですから、間宮さんも気にせずに、これを知った後でも今まで通りに接してもらえると、私は嬉しいです。同情して欲しいんじゃありません。
 私を知って欲しいだけなんです。私の、過去を。

 私は生まれたときから、声帯がおかしかったそうです。普通の赤ん坊のように、オギャーと鳴けなかったそうです。空気が抜けるような、声と言うよりは雑音に近かったと母が愚痴っぽく漏らしていたのをよく覚えています。
 間宮さんは幼稚園には通いましたか? 私は、喋れないという理由で幼稚園から受け入れ拒否をされました。
 幼稚園って、実は義務教育じゃないそうなんです。だから、私はそのまま小学校に入りました。けれど、障害を持つ人達用に編成された、“つくし学級”というクラスに入れられました。金八みたく、何年何組というのじゃないんです。ただ漠然に、“つくし学級”という学年でした。二年生になっても、三年生になっても、“つくし学級”は“つくし学級”のままなんです。他のクラスとも離れていて、まるで隔離病棟扱いでした。クラス替えも勿論ありません。勉強も、算数や国語というよりは、絵を描いたり踊ったりとまるで幼稚園のような感じでした。
 私は喋れないという障害を持っています。でも、他は普通だと思っています。間宮さんも言ってくれましたよね。“何だって人並みに出来るんだ”、って。嬉しかったです。そう、思ってくれる人が居て。
 でも、母は違いました。つくし学級に入れさせたのは、母の考えでした。
 私は喋れないから、よく字を勉強したんです。両親との会話はほとんど筆談だったので、自然と覚えていったのもありますが。
 小学校に通う前にはもう、ひらながも、カタカナも、少しだったら漢字も書けるようになりました。校長先生にそれを見せたら、凄く驚いていました。これなら普通のクラスに入れても良いと、学校側はそう言ったそうです。でも母は、それを断りました。
「あの子は障害者なのですから、つくし学級に入れてください」
 そう、強く言ったそうです。それで結局、私はつくし学級に入れられることになりました。そのことを知ったのは、小学四年生になった頃のことでした。
 私は怒りました。その時の私は、みんなから“特別扱い”されるのが大嫌いだったんです。確かに、つくし学級は“特別な人”達が集められた学級です。でも、つくし学級で過ごした私だから言えます。つくし学級のみんなは、普通でした。舌足らずだったり、情緒不安定だったりするけれど、そんなの、普通の人達にも沢山居ます。単に、つくし学級という“特別な箱”に入れられた人達を特別な眼で見ているだけなんです。……すいません。話がそれましたね。
 怒った私に、母はなだめるように言ったんです。
「アナタは障害者なんだから、普通のクラスに馴染める訳がないでしょう? 最初から障害者の集まるクラスに行っておけば、イジメも起きないし、障害者同士で仲良くなれるでしょう?」
 その時の私は、その母の言葉に、“あぁ、そうなんだ。お母さんは私を心配してつくし学級に入れたんだ”、って思いました。多分、母は本当に心配してそうしたんだと思います。けれど、後になってそれが少し違うということに気がつきました。幼かったから、“障害者”っていう言葉の意味が良く分からなかったんでしょうね。そのまま知らなかった方が、きっと幸せだったと思います。

 中学校に入って、今度は“ひまわり組”というクラスに入れられました。中身は、つくし学級と何ら変わりはありません。小学校で特別なクラスに居たから、中学校でも特別なクラス。何て事はない、普通の流れだと今でも思います。けれど、事件が起きたんです。母が心配していた、イジメです。皮肉にも、母が私のことを想ってしたことは、かえってイジメに繋がってしまったのです。
 いじめられた理由は、“障害者だったから”だと思います。みんなから直接聞いたわけじゃないんで、単なる憶測にしか過ぎないんですけれどね。
 今でも、その辺は鮮明に覚えています。忘れたくても、忘れられません。
 事の始まりは、同級生の人にぶつかってしまったことだと思います。ぶつかって、私は“ごめんなさい”って意味で頭を下げたんです。でも相手は、私が“ごめんなさい”って言わないのが気にくわなくて、突っかかってきました。言えるものならすぐにでも、ごめんなさいって言いたかったです。でも、私は喋れません。
 相手は、私が喋れないと分かると、引きつったような顔をして私から距離をとりました。そして、大声で、
「こいつ、シンショウだ!」
と、言ったんです。最初は何の意味か分からなかったんですけれど、どうやら“身体障害者”の略語みたいです。
 そしたら、周りの教室から沢山の人達が出て来て、口々に、
「シンショウ」
「シンショウ」
と、言うんです。
 何の意味なのか分からない私は、ただポカンとしていました。でも、ぶつかった相手が、
「私、シンショウにぶつかっちゃった!」
と、言うと、
「うわっ、汚い!」
とか、
「シンショウがうつるから来ないで!」
とか、まるで人をバイ菌のように扱うんです。もしかしたら、単なる冗談だったのかも知れません。でも、私は酷く傷つきました。そんなの、誰だって傷つくと思います。
 私は、哀しくなって泣きました。でも、私が“障害者”だから、誰一人として庇ってはくれませんでした。
 その後、根も葉もない噂が広がったんです。“ひまわり組にはシンショウが沢山居て、部屋に入るとうつるぞ”とか、“シンショウに触れられると、一生口をきけなくなるぞ”とか、そんなのです。
 イジメって、何が楽しいんでしょうね?
 ただ何となくその場の雰囲気に流されて、単なる悪ふざけで私をいじめているだけなのかも知れません。誰かを傷つけているとも考えないで、私が傷ついているとも知れないで、いじめ続けるんです。幸い、殴られたり蹴られたりっていうのはそんなにありませんでした。けれども、バケツで水を掛けられたり、毎日のようにシンショウって大声で言われれば、心が痛みます。身体よりも、心の痛みの方がよっぽど痛いんです。
 そんな日々が続き、私はついに限界を超え、学校に行くのをやめました。
 母にその理由を尋ねられても、私は何も言いませんでした。少しだけ、母を恨んでいたからです。あの時、つくし学級に入れなければ、中学校でもひまわり組に入れられることもなくて、こんなイジメが起きることもなかったというのに。そう、思っていたからです。でも、今ではそれを凄く後悔しています。その時にちゃんと母にそのことを伝えておけば、あんな誤解も生まれることはなかったかも知れません。

 学校に行かなくなった私は、部屋に篭もってよく本を読むようになりました。単なる暇つぶしのつもりだったのが、いつの間にかそれが唯一の楽しみに変わっていたんです。
 本の中だと、私は何にだってなれました。ピーターパンにだって、不思議な国のアリスにだって、世界を救うヒーローにだって、何にだってなれることが出来たんです。でも、読み終えると現実の私に戻り、何とも言えない虚しさが私を襲いました。本の中の私はこんなにも輝いているのに、現実の私は現実から逃げ続けている。そう思うと、無性に悔しくなりました。
 でも結局、その術を知らない私はまた本の世界に逃げ込むんです。それが、しばらく続きました。

 そんな日々が続いたある日、私の所に一通の手紙が届きました。ひまわり組の、みんなからの寄せ書きみたいな手紙でした。“どうして来なくなったの?”とか、“みんな待っているよ?”とか、そういった内容でした。
 私以外にも、ひまわり組のみんなは多少なりともイジメにあっていました。それでも挫けずに、学校に通い続けているんです。そんなみんなを、私は羨ましいと思いました。私にも、それが出来たらいいのに。

 そんなことを思い続けていた日々でしたが、ある日、私は逃げている自分に嫌気が差し、勇気を出して学校に行くことを決めました。
 制服に着替え、靴を履いていたとき、後ろから母が私を呼び止めました。
「何処に行くの?」
 その問いに、私は学校に行くって答えました。そしたら、
「学校に行かなくてもいいわよ」
と、キツイ口調で言うんです。今まで学校に行かなかったことを怒っているのかと思ったんですけれど、違いました。そして母は、悲しそうな顔をして言いました。
「先生から聞いたわよ。クラスメイトの一人を殴ったらしいわね」
 母が何を言っているのか、分かりませんでした。私が殴られることはあっても、殴ったことなど一度もなかったからです。
 母は両手で頭を抱え、泣きそうな顔で私に言いました。
「アナタが学校に行かなくなったのは、仕返しが怖いからだって先生が言っていたわ。どうして……? ねぇ、どうして友達を殴ったりしたのよ!?」
 私はすぐに違うと必死に訴えました。でも母は、
「母さんにまで嘘をつくの!?」
 悲鳴に近い声を上げ、母は私の頬を叩きました。叩かれた後、私はただ呆然としていました。どうして私が叩かれなければならないのか、理解出来なかったからです。
 もう一度頬を叩かれ、そこで怖くなった私は身を丸めました。それでも母は、何度も何度も私の頭を叩いてきました。
「分かっているのよ。母さんは……みんな分かっているのよ! ……障害者だものね。その時の記憶がなかったり、虚言癖があったって、おかしくないものね」
 母は、私を叩きながら泣いていました。
「どうして……どうして私はこんな子を産んだんだろう……」
 そう言って、母は床に伏して泣き崩れてしまいました。それでも私は違うと、先生の言っていることが間違っているんだと、訴え続けました。けれど結局、母はそれすらも虚言扱いし、聞き入れてはくれませんでした。

 何ヶ月か振りに学校へ行ったとき、私はどうしても真相が知りたくて、一番信頼しているひまわり組の先生に尋ねました。どうして、そんな話になってしまったのか、と。
 そしたら先生は、今にも泣きそうな顔で私に言ったんです。
「ごめんね、先生の力じゃどうにも出来なかったの。未子ちゃんが来なくなってしまったから、私は校長先生に言ったの。これは、立派なイジメだって。職員会議でも言ったわ。他の先生達も、それに薄々気付いていたみたいなの。……でも、生徒達はみんな違うって言い張ったそうよ。あっちが先に手を出してきた、ワケの分からない事を言って殴ってきた。そう、言ったらしいわ」
 私はそれを否定しました。私は元より、ひまわり組のみんなはそんなことをするはずもないし、したこともない、と。
「勿論、分かっているわ。貴方達は普通の人達よりもちょっと個性的なだけですものね。理由もなしに、そんなことをするはずがないもの」
 先生は私を強く抱きしめ、ゴメンね、ゴメンねと言いながら泣いていました。私も悔しくなって、泣きました。
 どうして、障害者だから暴力を振るうと思うだろう。
 どうして、悪者扱いされなければならないのだろう。
 そう思えば思うほど悔しくって、家に帰ってもずっと泣き続けていました。

 結局、イジメは無かったことになりました。寧ろ、悪いのは障害者の方だ、ということになって、信頼していた先生は責任をとって辞める事になりました。お別れ会の時も、先生は何度も何度もゴメンねと言って、ずっと泣いていました。
 その後、イジメはなくなりました。
 どうしてイジメがなくなったのかは、よく分かりません。でも、ひまわり組を悪く言うのはずっと続きました。辞めてしまった先生の代わりに、他の先生達が一時間ごとに代わる代わるやって来て、小学校のような勉強をさせられました。その度に、嫌な顔をして授業をしていたのをよく覚えています。

 あの日を境に、母の対応は酷くなる一方でした。それに引きずられるように、父の対応も酷くなっていきました。
 完全に、“障害者”扱いでした。
 何をもって“障害者”と位置づけるのかは分かりません。けれど、母と父が時折私に向けるその眼は、私の存在を否定しているような気がしてなりませんでした。
 母と父はいつからか、私には虚言癖があるとか、妄想癖があるとか、ありもしない病状を付け加えていきました。勿論、そんなものはありません。母と父が産んだ妄想なんです。
 障害があるだけで、どうして私は変人扱いされなければならないんでしょうか?
 何もしていないのに、喋れないだけなのに、どうして私は犯罪者扱いされなければならないのでしょうか?
 あの日から、母と父は自分を責め続けています。
 母は、“どうして私は障害のある子を産んでしまったのだろう”と悔やみ続けています。
 父は、“どうして私はこんな子に育ててしまったのだろう”と悲しそうに私を見ます。
 私はいつも心苦しかった。私が生まれてきたことが、いけない事だったみたいで。

 高校に入っても、何ら変わりはありませんでした。障害者を受け入れてくれる学校に行きはしたものの、結局扱いは一緒で、新しい校舎の横にある古い校舎に私たちの教室はありました。今度は、本当に隔離されていました。
 用事で新しい校舎に行くと、普通の人達とすれ違う度に嫌な顔をされました。学校は受け入れてくれても、生徒達は受け入れてくれませんでした。
 イジメもまた起きました。今度の原因は分かりません。いつの間にかそういうムードになっていて、用もありもしないのに古い校舎に入ってきては、私たちに罵詈雑言を吐きかけました。
 私はまた不登校になりました。そして、中学の時と同じようにまたしても私たちの所為にされました。
 その時に、母が呼ばれたんです。そして、こんな問題がありましたと担当の先生から説明されたとき、母は私を見ました。その眼は、哀れみと諦めが混ざったような、悲しい瞳でした。
 母は、机に付くぐらい深く頭を下げて言いました。
「本当にすいません。この子には虚言癖や妄想癖があって、それで勘違いしたんだと思います。その所為で先生方々には大変迷惑を掛けてしまって……」
 内心、あぁやっぱりと思いました。どんなに違うと訴えても、母はもう私の言葉を信じてくれませんでした。だから、こうなることは分かっていました。
 でも、涙が溢れて、私はそこから逃げ出しました。誰も私を信じてくれないし、誰も私の味方をしてくれない。そう思うと、涙は余計に止まりませんでした。

 母は、家に帰ってくるなり私の頬を叩き、泣きながら言いました。間宮さんにはもう、伝えてあるかも知れません。
「アンタなんか産むんじゃなかった……! 私が、アンタを産んだから……」
 まるで自分に責任があるように、母は泣き崩れてしまいました。そんな母を慰めながら、父は、
「お前なんかどっかに行ってしまえ……!」
 そう、吐き捨てるように言いました。
 この言葉を聞いた瞬間、私の頭は真っ白になりました。この時初めて、私はここに居てはいけない存在なんだと実感しました。
 その後は、あんまり覚えていません。ふらふらと家を出て、あちこちを歩いていました。そしたら、いつの間にか駅に着いていて、始発に乗って、この仙台へと来ていました。
 間宮さんは言っていましたよね? 何だか不思議な気分だったって。家出をしたのに、楽しかったって。
 その気持ちは、私にも良く分かります。家出をしたのに、私をいじめるあの学校から、私を否定する両親から解放されたような、晴れやかな気分でした。

 ここからはもう昔話ではないですけれど、見てください。
 私は、間宮さんに拾われて良かった。こんなにも私を想ってくれる人は、今まで誰一人として居ませんでした。両親ですら、私を理解しようとはしてくれませんでした。
 でも、間宮さんは私のために悩んでくれました。私のために、怒ってくれました。
 間宮さんは言ってましたよね? 奇跡めいたことはいつか起こるって。今ならそれを信じられます。私は、間宮さんと出会えたことが奇跡だと思います。こんなにも私を想ってくれる人に出会ったことこそが、私にとっては奇跡なんです。
 今、私は幸せです。とっても。迷惑でなければ、これからも間宮さんの側に居させてください。内職も倒れない程度に頑張ります。私の居場所はここなんだと、今確かに実感しているんです。
 今なら、胸を張って言えます。

 私はもう、“すてネコ”なんかじゃないと……!

 ※

 涙が、止まらなかった。未子のメールを読んでいる内に涙は流れ初め、読み終わった後でも、それは止まることはなかった。
 なぜ、誰一人として未子を理解してやろうとはしなかったのだろうか?
 なぜ、障害者だからといっておかしな行動をすると思ってしまうのだろうか?
 なぜ、未子の両親は未子を信じてやろうとはしなかったのだろうか?
 怒りと悲しみが間宮の中で入り交じり、それが形となって溢れ出てくる。胸の中でそれが爆発し、オレは咆えた。咆えずにはいられなかった。
 社会が、学校が、両親が、未子を否定している。それが、許せなかった。
 社会とは、いったい何なのだろうか? 喋れないという障害を持った子を助けるのが社会ではないのか?
 学校とは、いったい何なのだろうか? 差別というものを教えるために学校が存在しているのか?
 両親とは、いったい何なのだろうか? どうして……どうして子を捨てる両親などがいるのだろうか? 喋れないという障害があるだけで、どうして我が子として受け入れられないのだろうか?
 確かに、未子は喋れないという障害を持っている。だが、それがどうしたというのだろうか? 現に、オレはこうして未子と何ら不自由なく暮らしている。たまに携帯で『言葉』を補足することはあっても、表情や行動で未子が言おうとしていることは何となく察することが出来る。
 未子が喜ぶことや、嫌がること。それに、嬉しいときの表情や、悲しいときの表情。それを、オレは知っている。たった二週間だけしか一緒に過ごしていないが、未子を良く見ていたオレには分かる。きっと、本当の未子を見ようとはしない両親よりも。 
 一緒に暮らしてきたオレには分かる。未子には、虚言癖も妄想癖もない。ましてや“障害者”でもなければ、シンショウでもない。
 喋れないというだけの、立派な人間だ。

 オレの大切な……人だ。



・十六日目(金)

 会社から帰ってきた間宮は、晩飯を食べながら今後について未子と話し合い始めた。
 学校のこと。
 実家のこと。
 生活のこと。
 とにかく、思いつく限りのことを話し合った。そして、次々とその問題が解決していった。一人で悶々と悩んでいたのが、馬鹿らしいぐらい簡単に。
 未子は、学校を辞めても構わないと言った。高校ぐらいは卒業すべきだと間宮は言ったが、行ったとしてもまたイジメに遭うか、小学校のような勉強をさせられるだけだと未子は反論した。更に、
『仮に高校を卒業したとしても、単に経歴に箔が付くだけであって、私にとってそれ以上得られるモノは何もありません。それよりも、ここで内職をしていた方がよっぽど有意義だし、何よりも自分自身が役に立っているのだと実感出来るんです』
 真っ直ぐな瞳で間宮を見つめながら、未子はそう言った。
 反論など、出来るわけもなかった。未子が今最も望む形がここに在るというのなら、それをわざわざぶち壊すような真似だけはしたくなかったからだ。それに、何も学歴だけが全てではない。長い眼で見れば重要なことかも知れないが、今、この瞬間を大事するのもまた重要なのだ。幸せな、この瞬間を。
 実家は、当然というべきか、未子はもう帰るつもりはないと言う。この前帰った時には、両親が外出している時間を狙って入ったので、鉢合わせることはなかったそうだ。必要なモノは全て鞄に入れ、ついでに自分の貯金通帳も持ってきたらしい。それから、書き置きを残していったそうだ。
 間宮は何を書いたのかと尋ねると、未子は少し可笑しそうに答えた。
『私はもうこの家に子供ではありません。親切な人に拾われて、今は幸せに暮らしています。さよなら』
 なかなか強烈なことを書くもんだと、間宮も笑う。
 金銭面で不安があると未子に打ち明けると、節約料理で何とかやりくりしてみますと答えた。確かに、生活費で最も削りやすいのが食費であり、逆に言えば食費さえ抑えればどうにかなるのだ。間宮は、食事のほとんどをコンビニ弁当や外食などで済ませているので、一日約二千円近く掛かっている。単純計算して、一ヶ月約六万円も掛かっているということになる。それを半分に抑えるだけで、約三万円も浮くのだ。昼の外食はともかくとして、朝飯と夕飯を未子が作ってくれれば、そう難しいことではないだろう。
 解決した。山のようにあると思っていた問題が、未子と話し合うことによって糸も簡単に終わってしまったのだ。島崎の言う通り、元より自分の問題ではなく、ほとんどが未子が考えるべき問題なのだから、未子がそれで良いと言えばそれで解決となるのだが。
 根本的な解決にはなっていないと思う。だがしかし、心の重荷は無くなり、身体は軽く感じられる。
 ふと、漫画で言っていた名言を思い出す。どんな漫画かは良く覚えていないが、その台詞だけがやけに心に残っていた。

“辛いことを人に話せば半分になり、楽しいことを人に話せば倍になる”

 今のオレ達には、ぴったりな言葉だと思う。オレは未子が歩んでいた道の辛さを知り、そして未子はオレの抱えている問題を知った。そのお陰かどうかは分からないが、どことなく遠慮していた未子の雰囲気が和らぎ、今では自然体でオレと話している。かく言うオレも、守らなければならないという思いよりも、ただ単に一緒に暮らしていきたいという思いの方が強くなっていた。
 
 きっと、大丈夫だろう。未子と一緒なら、どんな困難なことも切り抜けられるハズだ。そう、心の底から信じていた。



・二十日目(火)

 会社の帰り道、間宮は今日が毎週読んでいる雑誌の発売日だったことを思い出し、『スターチルド』に寄ることにした。とはいっても、買うのではなく、読みたい部分を読むだけなのだが。
 中に入り、何となく店内を見渡す。前と同じように、島崎に驚かされるのが癪だからだ。案の定というべきか、島崎はレジには居なかった。
 何処に隠れた? そう思って右手の方を見てみると、拍子抜けするほど簡単に見つかった。どうやら島崎は、化粧品コーナーで商品の陳列しているようだ。しゃがみ込んでジッと商品を見つめており、こちらには気がついていない。間宮はそろりそろりと近寄り、背後に回る。思いっきり息を吸い、
「島崎ぃ!!」
「ひぇ!」
 島崎は間抜けな声をあげ、驚きのあまりバランスを失って後方に転がった。芸人顔負けのオーバーリアクションに、間宮は思わず吹き出す。そして、腹を抱えて笑い出した。
「び、びっくりしたぁー……。間宮さん、趣味悪いですよ……」
 少し恥ずかしそうに立ち上がり、島崎は汚れた部分をはらう。
「いやー、さすが島崎だ! “うわぁ!”じゃなくて、“ひぇ!”だもんなぁ〜」
 間宮は島崎の驚いた瞬間を思い出し、再び腹を抱えて笑う。今までのお返しだ、ざまぁみやがれ。
「コンビニの店員を驚かして笑うなんて、間宮さん趣味悪すぎです」
「客を驚かして喜ぶお前の方が趣味悪いわ」
「全くもう……。人がまじめに仕事をしているといつも邪魔してくるんですから……」
 島崎は再びしゃがみ込んで陳列の作業を再開する。
「その言い方だと、全面的にオレが悪いように聞こえるのは気のせいか?」
 間宮の質問に、島崎はただ笑って誤魔化した。
「……ん?」
 ふと、柑橘系のような匂いが間宮の鼻孔をくすぐった。間宮は鼻を忙しなく動かし、その匂いの元を辿る。
「島崎、お前って香水つける派だっけ?」
「へ? 自分、香水はつけてませんけど……?」
 そう言いながらも、島崎は自分の衣服を嗅ぐ。しばらくは首を捻っていたが、思い当たる節があるのか小さく頷く。
「多分、これですね。さっきバックでこれの試供品があったから、懐かしくてつい使ってしまったんですよ」
 島崎は化粧品コーナーから香水を取り、間宮に掲げて見せる。透明な小さなプラスチックのケースに入っており、値段は五百円と安い。
「昔の彼女とかがつけてたのか?」
 間宮は冗談交じりに聞く。しかし島崎は、懐かしいような、でも悲しいような、そんな眼で香水を見つめる。
「彼女……ですか。……そうですね、確かに自分の彼女はこれをつけていましたね」
「あ、悪い……」
 間宮はばつが悪くなって、頭を掻く。
 思い返してみれば、飲み会の時に島崎は漏らすように言っていた。“彼女から逃げたら……”、と。あれは、オレに言っているというよりは、自分自身に言い聞かせているようだった。どんな事情があったのかは分からない。だがしかし、島崎は彼女から逃げ出したことがあるのは確かだった。
「……ところで間宮さん、未子さんとはちゃんと話し合ったんですか?」
 島崎は強引に話題を変えた。本当はもっと聞きたかったが、間宮は敢えてその話題に乗る。
「あぁ、勿論な。お前のアドバイス通り、腹割って話し合ったよ。問題から逃げず、闘ってやったさ」
 それを聞いた島崎は、我が身のことのように喜ぶ。
「さっすが間宮さんですね! 自分は信じていましたよ。きっと、間宮さんなら解決出来るって!」
 島崎は満足そうに笑みを浮かべる。ただ、眼だけは哀しそうだった。それが、やけに印象に残った。

 ※
 
 何となく立ち読みする気にはなれず、間宮は何も買わずに『スターチルド』を出た。そしてそのまま何処にも寄ることなく、未子が待つアパートへと帰宅した。
「ただい……」
 間宮は口が『い』の形のまま、その光景を見て凍り付く。まるであの日の再来のように、廊下には所狭しと段ボールの山が積まれていた。もう既に『シャーロッ君』は全て出荷したというのに、何故またこれがあるのだろうか?
 嫌な予感がしつつも、身体を縦にして通り抜ける。そして部屋側の扉を開けると、案の定というべきか、未子は新しい内職を始めていた。
 に〜。間宮が帰ってきたことに気がついた未子は、軽く頭を下げながら鳴いた。お帰りなさい。そう、聞こえた。
「未子、あの段ボールってもしかして……」
『今日のお昼頃、亀山さんに頼まれたんですよ。今度はこれを作ってくれって』
 未子は間宮に完成図を手渡す。どうやら今回もクマのぬいぐるみのようだ。ただし、今回は『ワトさん』という名前で、前回の『シャーロッ君』同様、黒と白のコントラストの帽子を被っており、トレードマークである髭を生やしていた。
 『シャーロッ君』と『ワトさん』。原作をもじって名付けられたのなら、勿論このぬいぐるみはペアということになる。大方、二個セットにして売るつもりなのだろう。そちらの方が多く稼げるし、買う方も何となく揃えたくなるからだ。
「それで、今回の納期と個数はお幾らで?」
 間宮はため息混じりに聞く。
『今回も納期は今日から二週間後で、個数も千個です。聞いた話によると、前のとセットで売るそうですよ』
 どうやら予想通りのようだ。まぁ、誰しもが考えることだし、言わずと知れたゴールデンコンビなのだから、寧ろこうした方が買う人達にとっても良いのかも知れないが。
 間宮は着替え、気乗りしないまま内職を始める。別に内職が嫌なワケではない。若干違うとはいえ、また同じモノを千個作らなければならないと考えると、さすがに嫌気が差してくるのだ。しかし、横目で未子を見てみると、笑みを浮かべながら内職をしている。あの時とは違って鬼気迫るものはなく、純粋にこの仕事を楽しんでいるようだった。……それにしても、凄い。千個も作ったお陰か、速度も、精度も、最初の頃と比べて段違いだ。オレが一体仕上げる間に、未子は三体も仕上げている。達人の域に達するというのは、こういう事を言うのだろうか?

 ※

 九時を過ぎ、間宮と未子は何となしにテレビを見る。特にこれといった番組は放送しておらず、大して面白くもない刑事ドラマを垂れ流していた。
「なぁ、未子」
 に〜。
「つまらんからチャンネル変えるか?」
 に〜。
「まぁ、確かに他に見るもんないわな」
 に〜。
「うわっ、この刑事、大根役者だな」
 に〜。
「あ、なるほど」
 に〜?
「通称、地蔵背負いって言ってな。こう……首に引っかけて、一本背負いみたく背負うんだ。これなら力のない女の人でも絞殺可能ってワケさ。まぁ、首に独特な擦り傷が出来るからすぐに分かるらしいんだが」
 に〜。
「……マネはするなよ?」
 にッ!
「分かった分かった。そんなに怒るなっての」
 に〜。
「あっ、やっぱり未子もコイツが犯人だと思うか」
 にッ!?
「なんだ、そっちが犯人か。まぁ、最初っからそうだとは思っていたけど」
 に〜?
「……ごめん。ウソ」

 何だかんだといって、オレと未子はこの刑事ドラマを最後まで見てしまった。つまらないハズなのに、途中から特につまらないと感じることはなかった。この後すぐにお風呂に入って、いつものようにそちら側に布団を敷いて床についた。今日はこれで終わりか。そう、思いながら。



・二十五日目(日)

 間宮はいつものようにお昼過ぎに起き、大きな欠伸を噛みしめた。
 に〜。未子は廊下側の扉を開け、こちらを覗き込むようにして見る。その顔は、少し笑っていた。『遅よう』。そう、言っているように見えた。
「休日なんだから、別にいいだろ」
 布団を片付けながら、間宮は返すように言った。
 に〜。急かすように未子は鳴く。
「分かった分かった。今片付けるからちょっと待ってろ」
 布団をまとめ、持ち上げる。間宮が部屋側に行き、入れ替わるようにして未子が廊下側に入った。
 未子はエプロンを着て、気合いを入れるために袖を捲る。
「残りもんで良いからなー」
 押し入れに布団を詰め込みながら、ここからでは死角になって見えない未子に向かって言った。
 に〜。分かっていますよとでも言うように、部屋側に手だけを入れ、未子は間宮に見せるように手を振った。

 ※

 純和食っていうのは、こういう事を言うんだろうな。間宮は、テーブルに並んだ料理を見ながらそう思った。
 サンマの塩焼きに、大根の摺り下ろし。ワカメのみそ汁に、実家から送られてきた大根の漬け物。まさに、絵に描いたような和食料理だった。
「いただきます」
 に〜。間宮と未子は拝むように手を合わせ、少しだけ頭を下げた。
 間宮はワカメのみそ汁を飲みながら、今日は何処かに出掛けようかと考えていた。少しぐらいは遠出して、テーマパークとかに行くのも良いかも知れないなぁ。
 どうしようかと間宮はしばらく悩んでいたが、やっぱり水族館にしようと、サンマを突きながら決めた。
 
 ※

 片付けも終わり、お昼の顔とも呼べる番組を間宮と未子で見ていた。もう一ヶ月近くも一緒に住んでいるので、別に水族館とかに誘うのは普通だと思っていても、やはり恥ずかしかった。
 なかなかそれを言い出せず、十分、二十分と時間は過ぎていく。ついには番組のスタッフロールが流れ始め、間宮は勇気を出して切り出した。
「なぁ――」

――ピンポーン。

 チャイムによって、間宮の声はかき消された。まるで狙っていたのではと疑うほど、ドンピシャリなタイミングだった。
「……くそっ」
 せっかく灯った火に、水を掛けられたような気分だった。宅急便か新聞屋か、どちらにしてもすぐに追っ払ってやる。そう思って、間宮はけんけんとした様子で玄関へと向かう。
「はいはい、どちら様ですか?」
 そう言いながら玄関を開けると、そこには分厚い青黒のジャケットを羽織った男が立っていた。不摂生な生活をしているのか、顎には無精髭を生やしており、頬は少し痩けていた。冴えないサラリーマンのようにも見えたが、眼だけは、一般人のそれとは大きく違っていた。
「ちょっといいか?」
 その質問の仕方に、酷く嫌な予感がした。間宮は咄嗟に玄関を閉めようとしたが、何かが引っかかって閉まらない。足下を見ると、男の革靴が既に中に進入していた。
「いきなり閉めるなんて、危ねぇ事するなぁ。全く、最近の奴等は何考えてんだか……」
 漏らすように愚痴を言いながら、男は胸ポケットから手帳のようなモノを取り出す。
「こういう者だ」
 それを縦に開くと、下には煌々と光を放つバッチが付いていた。そして上には、男の写真と名前が書かれてある。記憶違いでなければこれは、あたらしタイプの警察手帳だ。つまり、この男は……。
「刑事さん、ですか……」
「そう言うことだ。あんまり緊張しなくていぞ? ちょっとした質問に答えてもらうだけだからな」
 刑事は手帳を胸ポケットに仕舞い、代わりに一枚の写真を取り出す。
「この少女を見たことはないかい?」
 そう言って見せられたのは、予想通りと言うべきか、未子の写真だった。今よりも幼く、そして眼は出会ったときのように、悲しみに満ちていた。
「ちょっと前、この少女……橋波 未子(はしば みこ)っていう名前なんだがな、行方不明届けが出されてな」
「行方不明?」
 家出届けではなく、行方不明届けで出すとはどういう考えなのだろうか?
「見たことはないかい?」
 ジッと眼を見ながら、刑事は質問した。間宮はそれに怯まず、返すように見る。
「いいえ、ありません」
 そう、キッパリと答えた。間宮の答えを聞き、刑事はため息をはきながら写真を仕舞う。
「それじゃ、失礼します」
 間宮は玄関を閉めようとドアノブを握りしめたが、依然として足は差し込まれたままだった。
「まぁ待て待て。聞いた話によるとな、この橋波には喋れないって障害があって、他にも虚言癖、あと……そうそう、その上妄想癖まであるとか言ってたな」
 顎髭をさすりながら、世間話でも話すように刑事は未子の特徴を上げていった。……どうやらオレは疑われているようだ。関係の無い人にそこまで詳しくは話さないだろう。関係があると睨んでいるからこそ、こうして話しているのだ。
「それがどうかしましたか?」
 内心動揺しながらも、それを表に出さないよう冷静を保つ。
「……ふぅむ。実はな、この橋波とお前さんが一緒に歩いているという目撃証言があってな」
 心臓が、一瞬だけ止まった。
 目撃証言? ――いや、それは変だ。事件性があるならまだしも、行方不明届けがあったからといって、未子の写真を交番の前なんかに張り出すだろうか?
「多分、オレの彼女と見間違えたんじゃないですか?」
「そんなことはないと思うんだがな……。なにせ、その目撃証言者ってのが、私本人なのだからな」
 その人を食ったような物言いに、間宮は内心舌打ちをする。この刑事はオレを疑っているんじゃなくて、関わっていると断定しているのだ。
「警察に嘘をつくのは犯罪者のすることだぞ。もう一度聞くが、本当に知らないんだな?」
 強い口調で、刑事は言った。それは遠回しに、脅しているようにも聞こえた。嘘をつけば、公務執行妨害でしょっ引くぞ、と。
「……オレは、この子を……」
 知っている。誰よりも、未子の事を知っている。……でも今は、
「知りません」
 刑事は胸ポケットから煙草を取り出し、マッチで火を点ける。ため息の代わりに、空に向かって煙をはいた。
「なぁ、お前さん。橋波は今ここに居るんだろう?」
 刑事の言葉に、間宮は狼狽える。しまったと思う頃には、もう既に手遅れだった。カマを掛けたのか、それともそう確信していたのか、刑事はその一瞬を見逃さなかった。
「私はな、てめぇみたいなのが一番嫌いなんだよ。家出の、しかも障害者の少女を連れ込むような畜生野郎がな!」
 刑事は隙間から手を突っ込み、無理矢理玄関をこじ開ける。
「違う! そんなんじゃない!」
 間宮の言葉など聞く耳持たず、刑事は間宮の胸ぐらを掴む。
「じゃ何か? 可哀想だったから保護した、とでも言いたいのか!?」
「そうだ。信じちゃくれないとは思うけど……」
 刑事は胸ぐらを掴んだまま、間宮を睨む。
「橋波に会わせてもらうか。話は、それからだ」
 これ以上抵抗しても無駄だと思った。抵抗すれば寧ろ、事態が悪化する可能性がある。だったらこちらの事情を全て話し、納得してもらう他に道はない。
「分かった」
 間宮の返事を聞き、刑事は手を離す。
「……どうぞ」
 間宮は部屋側の扉に手を掛け、刑事を招き入れるように開け放った。

 ※

 テーブルを囲むようにして、三人は座っていた。
 ぴりぴりとした空気の中、間宮は刑事にこれまでの経緯を掻い摘んで説明した。
 未子は、自分の居る環境に嫌気が差し、家出してきた。そしてそれを、偶然公園で出会った自分が保護したんだと間宮は話した。
「未子の居るべき場所はここだと思うんです。だから、未子の両親には連絡しないでください。未子も、そう願っています」
 間宮が未子に視線を向けると、同意するように何度も頷いた。
「……それで?」
 顎を撫でながら聞いていた刑事は、素っ気なく答えた。
「それで、って……。だから、未子の居場所はここであって、両親の元じゃないんです。産むんじゃなかったとか、どっか行ってしまえとか、そんなことを言う親なんですよ? そんな親の元に置いていたって、未子の為になるハズなんてない」
「だから、それがどうかしたのか?」
「えっ?」
 予想だにしなかった返答に、間宮は驚きの声を漏らした。
「さっきも言ったが、この橋波には虚言癖があると両親が言っていたからな。“もしかしたら、あることないこと言うかも知れませんけれど、絶対に信じないでください”、っても言ってたよ。分かるか? つまり、それが全部嘘ってことだ」
 目の下が、細かい痙攣を起こす。
「なんだそれ……」
 はらわたが煮え繰り返る思いだった。わざわざそう言い残していった未子の母親も、弱い者の味方であるこの刑事も、どうして未子の事を信じないんだ? 何が真実なのかすら、あんたらには見分けが利かないのか? 拳に力が入り、掌に爪が食い込むほど握りしめる。
 に〜。未子がそっと間宮の手を握り、顔を横に振った。私のことは別にいいんです。そう、言っているように見えた。
 そのお陰で間宮は落ち着きを取り戻し、大きく息を吸ってから、改めて間宮は刑事に説明をする。
「いいですか? 未子には虚言癖なんかなければ、妄想癖もありません。全部、未子の両親のでっち上げなんです」
「お前は医者か?」
 唐突に、刑事はそう質問した。
「違います。けれど――」
「病院に行って、診察は受けたか?」
 有無を言わさない迫力で、刑事は間宮の声を遮った。
「い、いや……」
「だったら、てめぇにそれを言う資格はない。何もかもを知ったような口を聞くな」
 腹に響く低い声で言い、刑事は鋭い眼光で間宮を睨んだ。
「何の目的があってここに連れ込んだのかは知らんが、子は親に返すのが道理だ」 
 刑事は立ち上がり、胸ポケットから警察手帳と携帯電話を取り出す。
「おい……待ってくれ! 頼むから、連絡はしないでくれ……!」
「私は警察だ。行方不明者を発見したら、保護者に連絡する義務がある」
 刑事は警察手帳を捲りながら、冷徹に言い放った。
「保護者はオレだ! 未子の保護者は……オレ、なんだ……!」
 間宮がすがる思いで言った言葉も、刑事はまるで聞こえていないかのように、手を休めることなく、未子の自宅の電話番号を探し続ける。
「お願いだ!」
 間宮は床に手をつき、擦り付けるように頭を下げる。生まれて初めての、土下座だった。屈辱にまみれたその行為も、未子のためを思えば、苦痛ではなかった。
 刑事は手を止め、そんな間宮を見た。しかし、まるで己を奮い立たせるようにページを捲り、携帯のボタンを押し始めた。
「くそっ!」
 公務執行妨害で捕まっても良い。あんな両親に連絡させてたまるか。携帯と手帳を奪ってでも、絶対に阻止してやる!
 間宮は立ち上がり、刑事に向かって走り出す。しかし、それをいち早く察していた未子が合間に入り、それを邪魔した。
「未子……!?」
 思ってもみなかった行動に、間宮は酷く狼狽えた。
「退いてくれ!」
 にッ! 未子は、絶対に退かないとでも言うように、強く鳴いた。
「退けッ!!」
 怒号のような声をあげても、未子は一向に怯まず、強い意志を秘めた瞳で間宮を見つめる。
 ダメです。そんなことをしても、間宮さんが捕まるだけです。そう、言っているように見えた。
「退いてくれよ……! じゃなきゃ、未子が帰っちまうじゃないか……!!」
 だけど、本当は知っている。そんなことをしても、もう無駄だって事は。刑事に襲いかかれば、事態はより悪い方向に傾いていくのも分かっている。……でも、このまま何もしなければ、未子は帰ってしまう。
 でも結局、何をしても未子は帰ってしまうんだ。
「……くそっ!」
 膝から崩れ、間宮は床を叩いた。オレは、誰一人として助けることが出来ないのか。若いから、力が無いから、愛する人すら救うことが出来ないのか!?
「くそっ! くそっ……!!」
 もう、どうすることも出来ない。――いや、こんな時にこそ奇跡は起こるのではないのだろうか?
 さっきからあの刑事は、携帯を耳にあてたまま何も喋っていない。電話がまだ繋がらないんだ。
 こんな時でも神頼みしてしまう、そんなオレの無力さが歯痒い。しかし、それ以外に方法はなかった。神様に祈るほか、オレに出来ることは何も無かった。
 繋がらないでくれ。頼む。どうか神様、お願いします。このまま繋がらなければ、
「もしもし、こちら青葉区警察署の者ですが……」

 奇跡は、起こらなかった。

 ※

 絶望に打ち拉がれた間宮は、テーブルに俯せ、短い嗚咽を漏らして泣いていた。それを介抱するように、未子は間宮の肩に手を乗せ、何も言わず、ただ寄り添うように側にいる。
 そんな間宮達を余所に、刑事は廊下側で事務的に通話を続け、
「分かりました。それではお願いします」
という言葉を最後に、電話を切った。
 刑事が部屋側に来て、間宮を一瞥してから未子に言った。
「橋波さん、貴女のお母さんがここに来るそうです」
 その信じられない言葉に、間宮と未子は思わず刑事の顔を見上げた。あの母親が来る? いったいどうして?
「……お前さんに謝りたいそうだ」
 間宮の疑問に答えるように、刑事は言った。
「“娘がご迷惑を掛けたから、直接会って謝りたい”……とさ」
「なんだよ、そりゃ……」
 呟いた言葉は、潤んでいた。
「迷惑だと思うなら、来るなよ……。ここは、オレと未子の部屋なんだ……。未子を連れて行くなよ……。どうして、どうして……」
 譫言のように、間宮は誰に言うでもなく言葉を零していた。諦めたくなどない。しかし、事態はもはや諦めるしかない所まで発展していた。
 未子と一緒に居られるのは、未子の母親が来るまでの僅かな時間のみ。別れを言うにしては、あまりにも短い時間だ。
「……くそっ」
 来る途中で事故ってしまえばいいのに。そんなことを思ってしまう自分を、殺してしまいたかった。
 に〜……。未子は、悲しそうに鳴いた。これから母親が来ることに対してなのか、それともオレと別れることに対してなのか、判断がつかなかった。
「私は車の中で待っている。もう警察の必要はなさそうだからな」
 刑事は素っ気なく言うと、踵を翻し、玄関に向かって歩き出す。しかし、途中で立ち止まり、振り返る。
「……そんなに好きなら、会いたいときに直接行けばいいだろ? 名取までは二十分と掛からねぇんだ」
 刑事の言うとおり、会おうと思えばいつでも会えるだろう。だがしかし、問題はそこではない。未子はまた、あの生活に帰らなければならないのだ。
 未子を否定する、あの両親の元に。
 未子を虐める、あの学校に。
 未子を理解する人が居ない、あの名取に。
 帰りたくもないあの場所に、帰らなければならないのだ。
 せっかく自分の居場所を見つけ、理解してくれる人を見つけ、自分自身を見いだしたというのに、あの生活に帰ってしまえば全てが無くなってしまう。そして未子はまた、あの悲しい瞳に戻ってしまうのだ。
「そう簡単な問題でもなさそうだな……。恨むんなら私を恨め。決して他の人を恨むな。……それだけだ」
 刑事は、そのまま外へと出て行った。
 部屋の中に、静寂が訪れる。間宮と未子は何も言わず、互いの視線を合わせることなく、ただ寄り添っていた。
 未子に別れを言わなければと思っていても、絶対に言いたくはないと心が拒否していた。諦めたくはないと思っていても、心は既に諦めていた。オレの身体は、矛盾ばっかりだ。
 こうして居られる時間は、あとどのくらいなのだろうか?
 十分?
 二十分?
 少ない。あともう一日――いや、一週間在ったって足りない。未子と別れることを心に決めろと言われても、そんなことは出来やしない。
 このまま時が止まってしまえば良いのに。
 時を戻して、あの刑事に見つからないように出来れば良いのに。
 考えつくのは、どれもこれも子供染みたモノばかりだった。自分でも、馬鹿げた空想だと笑ってしまう。けれど、この状況をひっくり返すにはそんな魔法みたいな力が必要なんだろう。オレは、そんな力など持っていない。

 だから、もう……。

 に〜……。未子は、寂しそうに鳴いた。それが何を意味していたのか、オレには分からなかった。

 ※

 何一つとして会話を交わさないまま、時計の短い電子音だけが部屋の中に鳴り響いた。
 あの刑事が出て行ってから、どのくらいの時間が経ったのだろうか?
 別れの言葉は何も思い浮かばず、別れたくないという思いだけが浮かんで消えていく。未子との思い出が走馬燈のように過ぎ去っていくこともなく、ただ呆然と、その貴重な時間を無為に過ごしていた。

――ピンポーン。

 別れを告げる鐘が、無情にも鳴り響く。それでもオレは取り乱すこともなく、涙を流すこともなく、ただ、あぁこれでお別れなんだなと思うだけだった。
 オレは立ち上がり、自分でも驚くほどしっかりとした足取りで玄関へと向かう。

――ピンポーン。

 もう一度、別れを告げる鐘が鳴らされた。お願いだから、止めてくれ。もう、そんなモノは聞きたくない。
 間宮は玄関を開ける。するとそこには、目尻に深い皺が寄った女性が立っていた。亀山のおば様と年齢はそう変わらないように見えるが、こちらの方が若干老けて見えた。
「あの……こちらは間宮さんのお宅でしょうか?」
 おどおどとした様子で、未子の母親は間宮に尋ねた。
「そう……です」
 衝動的に、違いますと答えそうになった。そんなことをしても、もはや無駄だというのに。
「そうですか。あの、この度はとんだご迷惑をお掛けいたしまして……」
 そう言って、未子の母親は腰を折りながら箱のようなモノを間宮に差し出す。仙台名物の一つ、牛タンの詰め合わせだった。大方、来る途中に仙台駅で買ってきたのだろう。
 間宮はそれを受け取ることなく、ただジッと見ていた。迷惑など掛かっていないのだから、受け取る必要などないと判断したからだった。
「……あの?」
 そのままの体勢で、未子の母親は顔を上げた。何故受け取らないのかと、怪訝そうな顔をしながら。
「どうぞ」
 それに構うことなく、間宮は踵を翻し、部屋側に戻っていく。
「あ、はい。……あの、お邪魔します」
 未子の母親は、今一つ納得がいかない様子のまま靴を脱ぎ、間宮の後に続いた。
 部屋側に入り、未子の姿を確認した途端、
「未子……!」
 未子の母親は、感動の再会と言わんばかりに走っていき、涙しながら座ったままの未子を抱き寄せた。
「あぁ……良かった! 貴女が無事で、本当に良かったわ!」
 これは……何なんだ? 間宮は、思わず眉をひそめた。
 奇妙な光景だった。未子は俯き、ずっと暗い顔のままなのに、未子の母親は喜びの笑顔を浮かべ、歓喜の涙を流している。
 未子の母親は、未子を本当に心配していた? そうとしか思えない喜びようだった。
 本当にこれが、あの母親なのだろうか? それは、未子の存在を否定し、要らないと言った母親の姿ではなかった。オレが家出して帰ってきた時に見た、母さんの涙に似ていた。
 分からなくなってしまった。未子が語った、あの母親が本当だったかどうかを。
 虚言癖。その単語が頭を過ぎった。もしかすると、未子の母親の言っていることが本当で、未子の言っていることが虚言なのかも知れない。そう、疑ってしまった。
「未子……?」
 間宮は、未子を見つめた。疑いを秘めた、眼差しで。返すように、未子は間宮を見た。あの時見た、悲しい瞳で。
 に〜……。未子は弱々しい声で鳴いた。あの日、公園から聞こえてきた声のように、まるで誰かに助けを求めるように。

 あぁ、思い出した。

「……未子から離れてくれ」
 未子の母親に向かって、間宮は押し殺すように言った。
「え……? ど、どうして!? せっかくこうして会えたのに、それを邪魔しないで!」
「邪魔をしているのはどっちだ! ここは……オレと未子の部屋なんだ!」
 オレは、何を迷っているんだろうか。未子が虚言癖? そんなハズはないと、とうに答えは出しているのに。
「出て行ってくれ! アンタは……アンタは、親なんかじゃない!」
 オレは、あの日の誓いを忘れていた。
 オレだけでも、未子を見捨てないと。
 オレだけでも、未子を守ってみせると。
「未子を認めないヤツなんか、親として認めてたまるか!!」

 『すてネコ』なんかじゃないと、絶対に証明してみせると――!

「な……何を言っているの? この子には虚言癖があって、言っていることは全部嘘なのよ?」
「それが嘘なんだよ。オレには分かる。未子には、絶対に虚言癖なんか無い!」
 キッパリと、間宮は言い放った。もはや、疑いの微塵もない。本当のことを言っているのが未子で、嘘を言っているのが、
「アンタだろ? 未子じゃなくて、アンタに虚言癖があるんじゃないか?」
 信じられない言葉でも聞いたように、未子の母親は眼と口を大きく開く。
「酷い……! 私に障害があるって言うの!? 私は、障害者なんかじゃないわ!」
 未子をより強く抱き寄せ、未子の母親は先程よりも多くの涙を流す。
「じゃあ聞くが、アンタは未子に“あんたなんか産むんじゃなかった”、って言わなかったのか?」
「……そんなこと、言ったことないわ」
 未子の母親は、間宮からの視線を外すように俯せる。
「じゃあ、未子がイジメに遭っていたというのは?」
「それは……この子が相手を殴って、それで……」
「登校拒否になったのも? つくし学級に入ったのも? 全部嘘っぱちだってのか!?」
「……そうよ。全部この子が産んだ妄想で、言っていることは全て嘘なのよ!」
 間宮を睨むようにして、未子の母親は叫ぶようにして言った。
「何よ? 貴方はいったい何様のつもりなのよ? 他人のクセに、何でもかんでも知っているような口振りをして。私は、この子の母親なのよ!? 十数年もこの子を見てきたのよ!?」
 その言葉で、間宮はついにキレた。今まで溜まっていた怒りが、堰を切ったように溢れ出てくる。止まらない。それはさながら、火山のように。
「なら聞くが、アンタは未子の何を見てきた!? 好きなモノは知っているか? 嫌いなモノは? どんなことをされたら悲しむのか、全部言ってみろ!!」
「知ってるからって偉そうに言わないで! 子を育てる辛さを知らないクセに!」
「育てるどころか見捨てたのは誰だ!?」
「見捨てたんじゃないわ! 勝手に家出したのよ!」
「ふざけろ!! アンタがそんなんだから、未子は――!」

――にーッ!

 未子の叫ぶような鳴き声が聞こえ、間宮は我に返った。
「未子……」
 に〜……。未子は涙を流しながら、静かに首を横に振る。もう……止めて下さい。そう、言っているように見えた。
「貴方なんかに分かられてたまるもんですか……。たった数週間一緒に暮らしただけで、この子の何が分かるっていうのよ……!」
 恨み言のように、未子の母親は呟いた。
「分かるわけないわよね……。障害のある子を育てる辛さが! 普通じゃないのよ!? 喋れないのよ!? 貴方にはそれが分かるの!? 絶対に、分かるわけがないわ……!」
 十数年という年月の重みは、オレが体験した数週間の苦労とは比べものにならないだろう。だがしかし、障害があるからといって未子を否定して良いという理由にはならない。
 それだけは、絶対に間違っている!
「……オレの知り合いで、アンタの辛さを分かってくれる人が居る。悔しいけど、オレにはまだその辛さが分からない。……けれど、その人だったら、絶対にその気持ちを分かってくれるハズだ」
「それが、どうかしたの?」
「オレじゃ話になりそうもないから、その人にアンタを説得してもらう」
「……何よそれ。仲間を呼ぶっていうの?」
 未子の母親は、せせら笑うように言った。
「そうだ」
 間宮は、何の躊躇いもなく答えた。その様子に、未子の母親はたじろぐ。
「卑怯者と言われてもいい。オレは、未子と離れたくないんだ……」
 携帯を取りだし、間宮は内職センターに電話を掛ける。数回のコールの後、電話は繋がった。
「もしもし、こちら内職案内センターですが」
 運の良いことに、亀山のおば様に繋がったようだ。
「もしもし、間宮ですけれど……」
「あら、間宮さん。どうかしたの? また風邪でもひいた?」
「実は――」

 間宮は、今日起こったことを全て亀山のおば様に話した。そして、未子の母親を説得する為にも、何とかこちらに来て欲しいと言うことを伝えた。

「分かったわ」
 悩むことなく、亀山のおば様はすぐに了承した。 
「透も連れてすぐそっちに向かうから、二〜三十分ぐらい待ってなさい」
「あ、ちょっと待って下さい!」
 今にも電話を切りそうだったので、間宮はそれを慌てて止めた。通話口を押さえ、
「未子、亀山さんにあの過去を教えて良いか?」
 に〜。少し悩んでから、未子は頷いた。
「亀山さん、そちらのメールアドレスを教えて下さい。未子の過去を送ります」
「過去を送る? 良く分からないけど、メールアドレスを教えれば良いのね?」
「はい、お願いします」
 メールアドレスを書き取るために、紙とペンを用意する。口頭で挙げられていくアルファベットを書き留め、短い別れを告げて亀山のおば様は電話を切った。
 これが、最後の賭だ。もしも、亀山のおば様でもダメだったら、オレは完全にお手上げとなる。
 その時は、本当に覚悟しなければならない。

 未子は、明日もこの部屋に居ることが出来るのだろうか? その答えは、半日にも満たない短い時間で明らかとなるのだろう。

 ※

 チャイムが鳴らされたのは、それから十五分後のことだった。
 未子の母親と半ば睨み合うようにして対面していた間宮は立ち上がり、玄関に向かう。
 玄関を開けると、そこには亀山親子が居た。しかし、亀山のおば様はいつもの違い、険しい顔をしていた。反面、透の顔はどこか哀しそうだった。
「お邪魔するわね」
 そう言いながら亀山のおば様は靴を脱ぎ散らかし、ずかずかと廊下を渡っていく。その迫力に圧倒され、間宮は思わず壁に背を付け、道を空けた。
「か、亀山さん?」
 間宮の呼びかけにも答えず、部屋側の扉を開け放ち、中に入っていく。その後を追うように、透も中に入っていった。
 ただ呆然とその後ろ姿を見ていた間宮も、我に返り、中に入っていった。
 部屋の中では、また新たな睨み合いが始まっていた。亀山のおば様は腕を組み、未子の母親を見下ろすように睨んでいる。一方未子の母親は、まるで外敵から我が子を守るように未子を手で庇いながら、見上げるように睨んでいる。
「間宮さんから全部教えてもらったから、今がどんな状況なのかは分かっているつもりよ」
 厳めしい顔つきとは裏腹に、亀山のおば様はそう冷徹に言った。
「何よ……寄って集って、私達を裂こうっていうの?」
 未子の母親は、まるで自分が被害者であるかのように、潤んだ声で言った。
 亀山のおば様は呆れたようにため息をはき、床に座る。
「貴女は未子ちゃんの何?」
 唐突に、亀山のおば様は身を乗り出すように質問した。
「何……って」
 未子を横目で見ながら、
「勿論、私は未子の母親よ」
「そう、貴女は母親なのね。じゃあ、未子ちゃんは貴女の何?」
「言うまでもないわ。未子は私の子よ」
「じゃあ貴方は――」
 亀山のおば様は質問を続けようとしたが、未子の母親がそれを遮る。
「ねぇ、このくだらない質問は何なの? いい加減、私達を家に帰してくれないかしら?」
 うんざりしたため息をはき、未子の母親は立ち上がろうとする。
「逃げるの?」
 中腰のまま、未子の母親は止まった。
「逃げる? どうして? 私は家に帰ろうとしているだけよ」
 未子の母親の言葉を受け、亀山のおば様は苦笑いをした。そして、もう一度呆れたようにため息をはいた後、
「……じゃあいいわ。この質問に答えられたら、帰ろうが何をしようが、私は絶対に文句を言わないわ」
「ちょ……! か、亀山さん!?」
 間宮はぎょっとなって亀山のおば様を見た。帰っていいということは、未子を諦めるということだ。それも、説得をするでもなく、質問をするだけとはいったいどういう了見なのだろうか?
「大丈夫、任せてちょうだい」
 亀山のおば様は自信ありげに言う。しかし、間宮の不安は一気に増していった。次の質問に答えられれば、未子は、もう……。
「……いいでしょう」
 未子の母親は腰を下ろし、座り直す。
 亀山のおば様は、自分を落ち着けるように何度か息を吸い、それから言った。
「貴女にとって、未子ちゃんとはどんな存在?」
 たった、それだけだった。
「どんな存在……って」
 まるで自分に問うように、未子の母親は呟いた。
「勿論、私の子どもよ。それ以外に、何があるって言うの?」
 答えは、それなのか? これで、この生活は終わってしまうのか?
「……それが、貴女の答えなの?」
「そうよ」
 亀山のおば様は静かに首を横に振る。
「そんなの、答えになってないわ。私が聞きたいのは、未子ちゃんという“一人の人物”に対してどう思っているか、ということよ」
「一人の人物……? それってどういう事よ?」
「そのままの意味よ。貴女の隣には今、未子ちゃんが居る。それは、貴女の子どもであると同時に、“一人の人物”なのよ?」
 未子の母親は、心底呆れ返ったようにため息をはいた。
「何よ、それ。当たり前の事じゃない」
 間宮はその態度にむかっ腹に来たが、歯を噛みしめ、何とか抑える。今自分が出しゃばったら、問題は余計に拗れるだけだ。
「その当たり前の事を、貴女は本当に分かっているの? だったらどうして、未子ちゃんを“一人の人物”として見てあげられないの? 貴女が産んだ障害のある子どもじゃなくて、貴女が育てた“未子”として、どうして見ることが出来ないの?」
 矢次のように、亀山のおば様は質問した。
「私は……」
 未子の母親は、未子を横目で見た後、
「私はちゃんとこの子を見ているわ。未子のことを、将来のことを、ずっと考え続けている。未子にどんなことを吹き込まれたかは知らないけれど、この子の居場所はここじゃないわ。私達の家は、名取にあるのよ」
 未子の母親は未子の腕を掴み、無理矢理立ち上がらせる。
「何をするつもりなの?」
 あくまで冷静に聞く亀山のおば様に対し、未子の母親は声を荒げて答える。
「帰るのよ。説教はもうゴメンだわ!」
 未子の腕を引っ張り、嫌がるのも無視して未子の母親は玄関へと向かう。その横暴さに、間宮の我慢は限界を迎えた。――いや、とっくに突破し、拳を握りしめて走っていた。
「透!」
 亀山のおば様が叫んだ。それよりも早く透が動き、間宮を後ろから抑え、羽交い締めにする。
「くそっ……! 離せ、透! こんな糞野郎は殴った方が良いんだ!!」
「ダ、ダメです! 殴ったって何にもなりませんよ!? 相手は未子さんの母親なんですから、ダメです!」
 手足をばたつかせ、尚暴れる間宮を透は必死に抑える。
「こんなの……母親なんかじゃねぇ! 透もあのメールを見たんだろ!? だったら、こんなヤツに母親の資格なんか――!」

――パァン!

 何かが破裂するような音で、その言葉は遮られた。間宮は、一瞬何が起こったのか理解出来なかった。しかし、やや遅れて左頬に熱っぽい痛みが伝わり、そこでようやく亀山のおば様からビンタされたことに気がついた。
「間宮さん、貴方には場外のある子どもを育てる辛さが分かってないから、そんなことが言えるのよ」
 キッと間宮を睨み、亀山のおば様は強い声で言った。それに怯まず、間宮は反論する。
「だから何だって言うんだよ!? 知らなかったら、言っちゃダメなのか!?」
「そうじゃないの。私にはこの人の辛さが、痛いほど分かるから……」
 亀山のおば様は目を伏せ、打って変わって暗い顔になる。
「頭で分かっていても、どうにもならない時があるのよ。そんなことを言っちゃダメだ、そんなことをしてはいけない。そう思っていても、口と手は勝手に動いてしまうの。……自分の人生を犠牲にして、障害のある我が子と付きっきりで居ると、いろいろぐちゃぐちゃしてきて、何もかも訳が分からなくなってくるのよ」
 その日々を思い出したのか、亀山のおば様は下唇を噛み、苦々しい顔になる。
「育児を止めようと思ったのも、一度や二度じゃないわ。もう……何十回も何百回も、全部投げ捨ててしまおうかとも思ったわ。透を殺して、私も死んでしまおうかって……。子どもを育てるだけならまだいいわ。問題は、その子が障害を持ち、そして産んだのが私だということなの……。そのことが、私に重くのし掛かってきたわ。透にダウン症だなんて要らないモノを付けて産んでしまった、私が悪いんだ。私に責任があるんだ。そう、思ってしまうの。……そんな気持ち、間宮さんには分かるの?」
「また、それですか……?」
 いい加減、うんざりしてくる。未子の母親も、亀山のおば様も、そればかりをオレに問いただしてくる。障害のある子どもを育てる辛さを知っているか、と。
「もう、止めて下さい。それを知っているかどうかじゃないでしょう? 子育ての話じゃなくて、今は未子の話をしてるんじゃないんですか? 亀山さんだって、さっき言ったじゃないですか! 障害のある子どもじゃなくて、“未子”として見ろって! 違うんですか!? 今の未子を見ているだけのオレは、間違っているんですか!?」
 間宮は透に羽交い締めをされていても尚、亀山のおば様に食い掛かるように身体を前のめりにして訴えた。大切なのは過去じゃない。今なんだ、と。
 亀山のおば様は呆気にとられたようにぽかんと口を開けていたが、瞳を潤ませ、哀しそうに笑う。
「貴方って、本当に何処までも真っ直ぐなのね……」
 亀山のおば様は目頭を擦り、
「透、もう離してあげなさい」
「あ、はい。……ま、間宮さん、もう暴れないでくださいね?」
 おっかなびっくりに、透は羽交い締めを解く。解かれた間宮は、一歩近づいて怒りの形相で未子の母親を睨み付けた。また襲いかかるのではと危惧した透は、いつでも抑えられるように間宮の後ろに回った。しかし、亀山のおば様が遮るように間宮の前に出て、振り返りながら言う。
「間宮さん、後は任せて。貴方は何も間違っていない。きっと、この中で一番正しいことをしているのよ」
 ほんの少しだけ間宮に微笑みかけた後、亀山のおば様は前にいる未子の母親に視線を向ける。
「帰るんなら一人で帰りなさい。未子ちゃんの居場所は貴女の所じゃないわ、ここよ」
 そう言って、親指で部屋側を指さす。
「……知らないわよ、そんなの」
 それを否定するように、未子の母親は顔を伏せた。
「まだごねるつもりなの?」
「ごねる? 産んだのも、育てたのも私なのよ? それに、この子はまだ高校にだって卒業していないのよ? 将来をきちんと考えているなら、せめて高校は卒業するべきでしょう? 高校を卒業してない障害者なんて、どこいったって受け入れてくれないわ」
「そんなことないわ。高校に行かなくたって、働く気があれば雇ってくれるところはある」
 未子の母親はせせら笑うように言う。
「どうせ流れ作業とか、製鉄関係なんでしょう?」
 その態度に苛ついたのか、亀山のおば様は下唇を噛み、険しい目になる。
「それも立派な仕事よ。流れ作業だろうが、製鉄だろうが、内職だろうが、仕事には変わりない。働くことに、上も下もないわ」
「そんなの詭弁よ。だったらどうして、役職や給料の違いなんて出るの? 上も下もないのなら、そんなモノが出来るはずがないわ」
 亀山のおば様はため息をはきながら顔を横に振る。
「問題をすり替えないで。私が言っているのは、働くという行為のことよ。役職や給料の差が出てしまうのはどうしようもないわ。でも、何かを得るために働くというのに違いは無いわ」
「安月給でも、働ければ良いってこと?」
「人によっては、ね。どんなに安い給料でも、自分の好きな仕事だったら耐えられるものよ」
 さも呆れ返ったように、未子の母親は肩が上下するほどのため息をはく。
「好きな仕事だったら、でしょう? そんな恵まれたことになるのは、ほんの一握りよ。どうせ障害者なんだからって、辛い仕事を回されて、その上安月給だったらどうするの? そんな境遇に、アナタの子は耐えられるの?」
 そう言って、未子の母親は透に蔑むような視線を送る。
「それを考える必要があるの?」
 意外な言葉に、未子の母親は思わず亀山のおば様を見た。
「働くのは透本人なのよ? 私じゃないわ。そんな職場に入って、耐えられないというのなら辞めれば良いし、耐えられるのならそのまま続ければ良い。そうじゃないの?」
「そんなの……それでこそ詭弁よ。世間はそんなに甘くないわ。アナタの考えが甘過ぎるのよ」
「……かも知れないわね。でも」
 亀山のおば様は振り返り、透を見る。
「自分を犠牲にして、自分を見失うのはもう懲り懲りなのよ。……透に、それを味わって欲しくなんかない……」
「母さん……」
 潤んだ声で、透は呟いた。間宮にも熱いモノが込み上げてきて、泣きそうになる。
 亀山のおば様は前を向き、潤んだ瞳で未子の母親を見つめる。
「貴女だって知っているハズよ、その辛さを。何もかもが嫌になってくる、あの感覚が!」
 その必死の説得にも、
「……知らないわよ、そんなの」
 未子の母親は顔を伏せ、それを否定した。
「まだそんなことを言うの? 自分を否定しないで。ちゃんと自分自身を見つめ直さなきゃ、貴女はいつまで経っても前に進むことが出来ないのよ……!?」
「私はアナタとは違う! 私はちゃんと自分を保って、ちゃんと未子と向き合ってきたわ! ……虐められないようにって、ちゃんとつくし組に入れて、ちゃんと学校に通わせて、ちゃんとした会社に入れるようにって、ずっと、思ってきたのよ!」
 亀山のおば様は弱々しく顔を横に振ってそれを否定する。
「それが全てじゃないでしょう……? 未子ちゃんが満足と思える仕事が出来れば、貴女はそれで充分だと思わないの……?」
「思わないわ! そんな仕事に就いたって、将来どうなるか分からないのよ!? だったら、ちゃんとした会社に入って、安定した生活を望むのが当然なんじゃないの? 親として、当たり前なんじゃないの……!?」
「“自分の子供に完璧を求めるな”。……私の担当医の言葉よ。“自分が完璧と思えることを、子供に押しつけるな”、って。貴女は、未子ちゃんが良い会社に入って、普通に暮らせることを望んでいるのよね? ちゃんと喋れたら、どんなに良かっただろうって思っているのよね……?」
「馬鹿を言わないで! そんなの……そんなの当たり前じゃない! 喋れない子を欲しがる親なんてどこに居るのよ!?」
「そうよ。私だって、それを強く求めたわ。ダウン症じゃなくて、臆病じゃなくて、滑舌良く喋れて、普通に暮らすことが出来たらどんなに良かっただろうって……!」
 亀山のおば様の声は徐々に潤んでいき、最後には涙声になっていた。
「……でも、違う。もう……そんなんじゃなくても良い。私は今ここに居る透で充分だわ。臆病でちょっと変でも、これが私の透なのよ」
 未子の母親は、せせら笑うように言う。
「妥協したってことかしら?」

――パァン!

 またしても、辺りに小さな破裂音が響き渡る。本当は叩く気がなかったのか、亀山のおば様は呆然とその手を見ていた。だけど、あんな事を言われて叩かない方がどうかしている。オレだって今、強く拳を握りしめているのだから。
 叩かれた未子の母親はそのことを気にもせず、亀山のおば様を蔑むように見る。
「図星ってことね。何よ、単に偉そうな事を言っているだけじゃない……」
「いい加減にしなさい! そうやって何でもかんでも見限っていて楽しい……!?」
 亀山のおば様は痛いほどに下唇を噛みしめ、必死に怒りを抑えようとする。
「本当にもう……止めなさいよ……! そうやって全部を否定するのはさぁ……!」
 肩を掴み、亀山のおば様は未子の母親に必死に呼びかける。
「似ているから……貴女と私はよく似ているから分かるのよ……! でも、全部否定していたって何にもならないのよ……!」
「離してよ! 私は否定なんかしてない!」
 暴れる未子の母親を、亀山のおば様はしっかりと抑え、真っ正面から見据える。
「私を否定したって構わない……でも、貴女が産んだその子まで否定しないでよ……! 可能性を、否定しないでよ……! そうすればきっと、未来は明るいハズだから……!!」
「誰も……何も否定なんかしてない! 明るい未来だって……ずっと……ずっと信じて……! 私は……未子の未来は明るいって……信じて……信じたくて……でも……でも……!」
 未子の母親は未子を見る。その眼は、亀山のおば様が透を心配していた時の眼によく似ていた。
「この子は喋れないんだって……障害者なんだって……!」
 亀山のおば様の手からするりと抜け落ち、未子の母親は床に伏して、
「それで、どうやって信じろって言うのよ……!!」
 泣き崩れた。
「貴女が信じなくてどうするのよ……! 貴女が産んだ子でしょう……!? 貴女が信じなくてどうするのよ……!?」
 亀山のおば様の声も、今ある現実も全て否定するように、未子の母親は両手で耳を塞ぎ、頭を抱え込むようにして丸まった。
「無理よ……絶対無理よ……! だって、信じられるモノが何にも無い……何にも……何にも無いのよ! 未子は何にも持ってないんだもの!」
 何も持っていない? 何が無くて、未子の母親は絶望しているんだ?
「そうじゃない……! 持っていないんじゃなくて、貴女は見つけていないだけなのよ……! 何にも持っていない人なんて居ない! 私だってちゃんとそれを見つけたわ! 透は、料理が得意だってことに!」
 あぁ、そうか……。そういうことか。未子の母親は、それを見つけることが出来なかったから、未子の未来を怖がっているのだ。なんて、馬鹿な話だろうか。たった一ヶ月でオレはそれを見つけたというのに、
「どうして……もっとちゃんと未子を見てやらなかったんだよ……? イジメに遭っていたら、身体の傷で分かったんじゃないのか? 嘘をついているかどうか、未子の様子を見れば分かったんじゃないのか!? あんたは、未子を見ているつもりになっているだけなんだよ! 十数年間ずっと一緒に暮らしてきて、未子の得意なことが分からないのは、ちゃんと見ていないだけじゃないか……!」
「私はちゃんと見てきた……見てきたのに……」
 譫言のように呟き、未子の母親は短い嗚咽を漏らす。

「どうして私はこんなに辛いの……?」

 その言葉が、間宮の胸に突き刺さった。それは、嘘偽りのない、未子の母親の心の声だった。
 もしかしたらこの母親は、否定することで自分を保っていたのかも知れない。未子を否定し、自分すらも否定し、偽りの母親を演じることで自我を保ち続けてきたのだ。……なんて哀しい、自己防衛だろうか。
 だけど、それではいつまで経っても前に進まない。亀山のおば様の言うとおりだ。否定していては、何も始まらない。
 可能性は、いつだってゼロじゃないんだ。
「未子は……ちゃんと特技を持っている」
 間宮の言葉を聞き、
「嘘よ……そんなモノなんてないわ……」
 まるで祈りでも捧げるように、未子の母親は顔を上げた。
 間宮は何も言わず、部屋側に戻ってテレビの上に置いてある『シャーロッ君』取り、未子の母親に手渡す。
「それは、未子が内職で作ったヤツだ」
 手の内にある人形を、未子の母親はただ黙って見つめていた。
「……もう一個あるんだ」
 もう一度部屋側に戻り、『完成品』と書かれた段ボール箱から『ワトさん』を取り出し、それも手渡す。
 未子の母親の手には、二つの人形が並んでいた。それを、何も言わず、ただずっと見つめている。
 いったい、どんな気持ちで見ているのだろうか? それを、オレは分かりたかった。でも、想像したモノと実際に体験したモノでは大きな違いが出る。だから、今オレが思っていることとは全然違うことを、未子の母親は感じているのかも知れない。
「……本当に、これが……?」
 そこにあるモノを確かめるように、未子の母親は優しく握る。
「未子が、これを作ったの……?」
 隣に居る未子を見つめ、未子の母親は聞いた。
 に〜。躊躇いがちに、未子は頷く。
「本当に……?」
 確かめるように、もう一度。 
 に〜。そして今度は、何の躊躇いもなく頷いた。
「……私に、私に一つ……作ってくれないかしら?」
 に〜……。戸惑いの表情を浮かべ、未子は弱々しく鳴く。助けを求めるように、間宮の方を見た。どうしたら良いのか、分からないのだろう。
「作ってやれよ。……いつもみたくさ」
 に〜。少し悩んでから、未子は頷いた。頑張ってみます。そう、聞こえた。
 全員部屋側に移動し、間宮と未子はテーブルの上に針と糸、それに『ワトさん』のパーツを並べていく。針に糸を通し、緊張した表情で人形の本体を手に持った。
 間宮は未子の母親に眼を向ける。その光景をジッと見つめており、こちらの視線には気付いていないようだ。それで良いんだ。今度こそ、目を逸らさずに見て欲しい。ここにいる未子を、そして、未子の可能性を。
 大きく息をはいた後、未子は裁縫を始めた。眼、鼻と順調にパーツを付けていく。しかし、本体に蝶ネクタイを縫いつけようとしたところで手が震え始め、思うように針が動かせないでいた。何度も何度も挑戦するが、どうしてもイメージした位置に上手く取り付けられないようだ。
「未子、大きく息を吸い込んで」
 に〜。間宮に言われたとおり、未子は大きく息を吸い、そしてゆっくりとはいた。
「ゆっくりで良い。一針一針丁寧に縫っていけばいいんだ」
 に〜。間宮のアドバイスを受け、未子はゆっくりと、まるで今初めて裁縫をしたかのように一針一針慎重に、そして丹念に縫っていく。徐々にその速度は上がり始め、終わる頃にはもう、いつものスピードに戻っていった。
 そして未子は、出来上がった人形を母親に手渡す。三体の人形を、抱き締めるようにしてその感触を確かめた。
「ねぇ、未子……。アナタは、お裁縫が好きなの……?」
 に〜。未子は困った顔をして、携帯を取り出した。
『好きなのかどうか分かりません。でも、楽しいです』
 未子の母親はジッと画面を見つめ、
「そう……良かった……」
 そう呟き、短い嗚咽を漏らす。俯き、顔を両手で覆い、その隙間からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……ごめんなさい……」
 それは、今まで見た涙とは違い、心の底から溢れ出たような、温かい涙に見えた。
 に〜……。困惑していた未子も、戸惑いながらも自分の母親をそっと抱き締め、ぽろり、ぽろりと涙を流していく。

 互いの肩を濡らし合い、抱き締め合うその親子の間にはもう、壁なんて存在しなかった。

 ※

 あの後、未子の母親が二人だけで話し合いたいと申し出たので、二人だけを残し、オレと亀山親子は外に出ることとなった。外は真っ暗で、今にも雪が降りそうなくらい寒く、息をはくと白い煙となって空に昇っていった。
 待っている間、亀山のおば様と他愛もない話をした。透とも、料理の話とか、就職の話とか、そんなことを話した。
 中ではどんな事を話し合ったのかは分からない。けれど、一時間後に見た未子の母親は、まるで憑き物でも落ちたかのように晴れ晴れとしていた。その顔を見て、二人は分かり合えたんだと間宮は確信した。
 十七年間という長い歳月を得て、二人はようやく親子として分かり合えたのだ。

 ※

 未子の母親は、帰るときにも泣いていた。“本当にごめんなさい”と、まるで子どものように泣きじゃくりながら、何度も何度も謝っていた。亀山のおば様に肩を支えられるようにして、一緒に帰って行った。“後は任せなさい”と、頼りになる言葉を残して。
 結局、未子はここに残ることとなった。未子の母親には悪いが、それをオレは嬉しく思った。未子が、ここを自分の居場所として認めていてくれるのだから。

 ※
 
 未子の母親と亀山親子が帰る頃にはもう、九時を過ぎていた。
 間宮と未子はいつものラーメン屋に行き、いつもの一番安いみそラーメンを頼んで食べた。変な話だが、このラーメン屋ではこの一番安いみそラーメンが一番美味しかったりする。
 帰り道、このまま真っ直ぐ家に帰るのもつまらないと思った間宮は、未子に提案してみる。
「なぁ、これからどこかに行ってみないか? 祝い事の一つでもやっておきたいと思うんだけど?」
 しかし未子は首を横に振り、いつものように携帯で答える。
『いろいろあって疲れたから、今日は早く家に帰って寝たいです』
「……そうだな。正直、オレも疲れたし」
 未子の言うとおり、今日は本当にいろいろあった。今も、その実感が湧かない。何の前触れもなく事が起き、まるで嵐のようにオレを掻き乱し、そしてあっという間に去っていった。でも、何かが変化するときというのは大体こんな感じなのかも知れない。そしてそれを実感するのは、変化が起きた数日後なのだろう。
「んじゃ、帰るか」
 未子は頷き、間宮と未子は自分達の家に向かって歩を進めた。

 ※

 帰ってきた頃にはもう、十一時を過ぎていた。交代で風呂に入り、そしてすぐさま床についた。お祝い事は明日にしようと、心に決めて。
 しかし、眼を閉じてはみたものの、眠気は一向に訪れず、時計の針だけが虚しく時を刻んでいった。寝酒としてビールでも飲むか。そう思ったときだった。

――キィ。

 蝶つがいの軋む音が聞こえ、間宮は扉の方に眼を向ける。月明かりで、ぼんやりと人影だけが浮かんで見えた。それが枕を抱きかかえた未子だと気付くのに、少しだけ時間を要した。
「どうしたんだ……?」
 その問いに答えるように、未子は携帯で文字を打ち、バックライトで光る画面を間宮に見せる。
『怖い夢を見ました』
「怖い夢?」
『間宮さんがオオカミになって、私を食べてしまう夢です』
 間宮は思わず苦笑した。
「そりゃ確かに怖いな」
 未子はギュッと枕を握りしめ、
『一緒に寝ても良いですか?』
 心臓が大きく高鳴った。
「まぁ……今日ぐらいなら別に……」
 言い終える前に、未子は布団に枕を置き、間宮の横に寝転がる。
『やっぱり、あっちに比べて寝心地が悪いですね』
「もう慣れたけどな」
『それに、寒いです』
「一応、電気毛布使ってるんだが、玄関からの隙間風がなぁ……」
『これでよく寝られますね』
「言ったろ? 慣れだよ、慣れ」
 互いの視線を合わせることなく、間宮と未子は布団にくるまり、薄暗い天井を見上げていた。
 変な感じだった。こういうシチュエーションになれば、オレはきっと欲情すると思っていた。しかし、今オレの中にあるのは、ただこうして居たいという願いだった。
『間宮さん、ごめんなさい』
 何の前触れもなしに、未子は謝った。
「なんだよ、唐突に……」

『私、明日には家に帰ろうと思うんです』

「…………え?」
 思わず、自分の眼を疑った。家に帰る? 明日?
「帰るって……。実家にってことか?」
『そうです』
 両親が恋しくなった? ――いや、違う。そんなんじゃない。何か、もっと大きな理由があるはずだ。そうでなければ、未子がここを出て行くハズがない。
「実家に帰って、何をするんだ? 高校に通うのか?」
『高校は自主退学するつもりです。その後、専門学校に行こうかと思ってます』
「専門学校?」
 意外な答えだった。
『そうです。今日お母さんと話し合って、決めたんです。本格的にお裁縫の勉強をして、喋れないっていうハンデを無くしたいんです』
「そっか……でも」
 ここに居るように、説得すべきだろうか? 別に専門学校に通わなくたって、未子は充分裁縫が上手いし、何よりもまだまだ一緒に暮らしたい。離れたくない……。
「でも、もう少し後でも良いんじゃないか? ほら、せっかくこうして親公認になったワケだしな」
 長い文章なのか、ボタンを押す音だけが辺りに響く。
『本当はもっとここに居たいです。でも、これ以上ここに居たら私は、ここから離れられなくなってしまうんです。ここは、私にとって理想の居場所です。ずっと一緒に暮らしていきたいと、今でも思っています。でも、ダメなんです。間宮さんに甘えてばっかりじゃ、逃げてばっかりじゃ、ダメなんです。間宮さんはいつも逃げずに闘っていました。だから今度は、私が闘う番なんです。喋れなくても、何かが出来ることを証明したいんです』
 あぁ、やっぱり。未子は強い。思った通り、大きな理由が存在していた。未子は、自分の見つけた道を歩こうとしているのだ。誰が決めたわけでもない、誰に強制されたわけでもない、自分だけの道を。
 それを、オレが遮る事なんて出来やしない。今、『すてネコ』は立派な“一人の人物”になろうと、ここから旅立とうとしているのだ。
「……頑張れよ」
 オレには、その一言を言うので精一杯だった。電気がついてなくて、本当に良かったと思う。こんな、くしゃくしゃになった顔を未子に見られたくなんかない。
 それを知ってか知らずか、未子はオレの手をそっと握りしめる。
 に〜……。そして、寂しそうに未子は鳴いた。それが、何を意味していたのかはオレには分からなかった。ただ、手を通して伝わってくる未子の体温は温かく、そして心地よかった。

 ※

 奇妙な夢を見た。オレが、ヒツジになっている夢だ。
 ヒツジは何かの鳴き声を聞き、そちらの方角に走っていく。
 辿り着くとそこには、段ボール箱に入ったすてネコが居た。
 ヒツジは自分の背中を指さし、乗るようにすてネコに指示する。するとすてネコは、何の躊躇いもなく背中に乗っかった。
 すてネコはガーと鳴いた。どうやらすてネコはニャーとは鳴けないようだ。
 すてネコはぐーとお腹を鳴らした。どうやらすてネコはお腹が減っているようだ。
 ヒツジはトコトコと歩いていき、仲の良いヒツジにエサは何が良いかと尋ねた。
 すると仲の良いヒツジは、牛乳が良いんじゃないですかと答えた。
 ヒツジはまたトコトコと歩いていき、今度は少し年老いたヒツジに母乳を貰えるように頼んだ。
 すると少し年老いたヒツジは、何の惜しげもなしにその母乳を分けてくれた。
 すてネコは美味しそうにその母乳を飲み、嬉しそうにガーと鳴いた。
 ヒツジは草を食べ、楽しそうにメーと鳴いた。

 それから二匹は、いつも一緒に行動していた。食べるときも、寝るときも、いつも一緒だ。
 そこに種族の違いはない。ただ、一緒に居たいから一緒に居る。そんな感じだった。

 ※

 唇に微かな温かみを感じ、間宮は夢から覚める。

――バタン。

 その時ちょうど、扉が閉まる音が聞こえた。慌てて玄関の方を振り返ってみるが、そこにはもう誰も居なかった。靴も、間宮の分しか残っていなかった。
 あぁ、未子は行ってしまったんだな。妙に覚めた頭で、間宮はそう思った。
 少し遅れて時計のアラームが鳴り響く。今日は月曜日。今月だけで随分と有休を取ってしまったので、もう休むことは出来ない。
 布団を片付けることなく、間宮は部屋側の扉を開ける。掛けてある背広を手に取り、廊下側に戻ろうとしたとき、テーブルの上に書き置きがあることに気がついた。

『私はいつかここに戻ってきます。それまでは、ちょっぴり寂しいお別れです』

「いつか……か」
 戻ってくるのは一年後か、それとも二年後か。ちょっぴりどころの話ではない。今は実感が湧かないが、きっと一週間もしないうちに狂おしいほど寂しくなるだろう。だがそれでも、オレは待たなければならない。未子が歩み始めた道のりを、邪魔してはいけない。だから、いつかここに帰ってくると信じてオレはここで待ち続けよう。それが、オレに出来る唯一の事だから。
 背広に着替え、いつものようにビジネスバックと携帯と財布を持つ。未子が居なくなったという点を除けば、いつもと何ら変わりはなかった。それが、妙に悲しかった。

 ※

 帰宅してきて、玄関の前に立つ。ドアノブを捻ると、鍵が掛かっていた。何でだろうと疑問に思ったが、中には誰も居ないのだから、鍵が掛かっているのは当然だった。
 ストラップに付けた鍵を使い、扉を開ける。すると、玄関の扉に設置してある投函用の入り口から、どさりと何か重いモノが床に落ちた。四角形の、大きい白い封筒だった。
 間宮はそれを拾い、部屋側に持って行く。テーブルに置いてある書き置きをそっと机に仕舞い、その封筒を乱暴に破いて開ける。
 中から出て来たのは、二枚の紙と、『ワタシとすてネコ』というタイトルの絵本だった。
 二枚の紙の内、一枚は請求書で、もう一枚は便せんだった。

<絵本が届きましたので、そちらの方にお送りいたしました。後日で宜しいので、本の代金をお支払い下さい>

 達筆な字で、そう書かれてあった。どうやらあの時、『万博古本屋』で頼んだあの絵本の続きのようだ。
 『ワタシとすてネコ』の表紙には、あの捨てネコのブチと、そのブチを抱きかかえている人の手と身体だけが描かれていた。
 間宮は着替えもせず、魅入られたように絵本の表紙を捲る。

『ワタシとすてネコ

 ワタシは今日、すてネコを拾いました。ブチ柄だったので、ブチと名付けました。

 ブチの鳴き声はとても変です。ガーって鳴きます。ニャーじゃありません。

 ワタシは別にネコの言葉なんて分からないので、別に気になりませんでした。ただ、変なネコだなぁと思っただけでした。

 ブチは毛はボロボロだったので、ワタシは丁寧にブラッシングをしてあげました。そしたら、良い毛並みなりました。ワタシの髪の毛よりも、良い毛質になってしまいました。

 ワタシはネコがあんまり好きではありません。イヌの方が好きだったりします。でも、何となくブチがほっとけなくて、つい拾ってしまいました。今では、ネコも悪くはないと思ってます。

 ブチはエサをねだるとき、エサ箱の前でガーと鳴きます。構って欲しいときは、膝の上に乗ってきます。構って欲しくない時は、隅っこの方で寝そべっています。外に行きたい時は、玄関の前でガーと鳴きます。帰ってくると、玄関に体当たりしてワタシを驚かせます。

 ワタシがある朝起きると、ブチは居なくなっていました。ここに飽きたから、出て行ったのかも知れません。やっぱり、ネコなんてそんなもんです。薄情者です。

 ブチが居なくなって、この部屋はとても静かになりました。ガーという鳴き声も、もう聞こえることはありません。

 ワタシは今、絵本を書いています。ブチが主人公です。ワタシに拾われる前は、こんな辛い思いをしていたのではと想像して書いています。

 ブチはニャーと鳴くことが出来ません。だから、他のネコとは喋れないんじゃないかと、ワタシは勝手に想像しました。だって、ガーと鳴くネコはブチ以外に見たことがなかったからです。

 ワタシは、ブチを拾って良かったと思っています。ニャーというよりも、ガーという方がワタシは好きです。ネコっぽくないけど、それはそれでまたかわいげがありました。

 ブチはもうここには居ません。だから、

 ワタシはブチの絵本を書きます。

 ブチという存在が居たことを、

 ワタシがちゃんと確かめたいから。
 
<終>』

 読み終わって、間宮はホッと胸を撫で下ろした。違っていた。未子とブチはそっくりだと思っていたが、どうやらオレの勘違いだったようだ。生まれた境遇、言葉が通じないという点は似ていても、結末は違っていた。

 だって、ちゃんとここに帰ってくるのだから。



第四章 −すてネコと別れた日々−

第一話「ビール」

 あの日からもう、四日が経過していた。未子が居なくなっても、オレの生活に大きな変化はなく、ただ仕事を淡々とこなし、家に帰って寝る日々を過ごしている。変わったことといえば、自炊をするようになったということだろうか。もっとも、味はいつもほろ苦かったが。
 まだ残っている段ボール箱の山を見ると、どうしてもあの日々を思い出してしまう。他にも、未子が置いていった小説や着替え、最後の書き置き。それらを見る度に、あの時の判断は正しかったのかと自問してしまう。何度も何度も、飽きることなく。
 未子が居なくなった後でも、この部屋には未子の存在が色濃く残っていた。それを嬉しく思うときもあれば、悲しく思うときもあった。その度に、未子のことを思い出してしまうから。
「未子……」
 呟いた言葉も、虚空に飲み込まれ、消えて無くなった。
 
 ※

 帰り道、今まで敬遠していた『スターチルド』に寄ることにした。島崎に未子が帰ったことを伝えるためだ。本当はもっと早く伝えるべきなのだろうが、何となく気が重く、その問題を避けていた。……あれほど苦い経験をしても尚、それを直そうとしない自分に嫌気が差す。だからこそ今日、本当に手遅れにならない内にと決めたのだ。
 店内に入り、レジに眼を向ける。島崎は隠れることなく、そこに居た。
「よっ、久しぶり」
 声を掛けると、島崎はキザっぽく髪を掻き上げ、声のトーンを変えて言う。
「いらっしゃいませ、間宮様。今日はお一人ですか?」
「ここはお水か。まぁ確かに、お前に合ってそうな感じはするがな」
「そうですか? でも自分、お酒あんまり強くないですし」
「そういう問題じゃねーだろ。知人に聞いたが、酒を吐くまで飲んで、それを何日も掛けて耐性をつけるってさ」
「さすが間宮さん。タメになる豆知識ですね」
 感心したように、島崎は何度も頷く。
「……そうか?」
 島崎は一度店内を見渡してから、
「それはそうと、未子さんはどうしたんですか? いつもは一緒に来るのに」
「あぁ、それはな……」
 ばつが悪そうに頭を掻き、間宮は苦虫を噛み潰したような顔になる。
「あ……すいません」
 島崎は申し訳なさそうに俯く。
「喧嘩中……ですか?」
 間宮の態度と、未子が居ないことで島崎はそう推測したらしい。確かに、そう考えるのが妥当だろう。
「いや、帰ったんだ。……実家にさ」
「実家にって……。未子さんの両親の元に帰った、っていう事ですか?」
 酷く動揺しながら、島崎は質問した。未子の家庭環境は前に話したので、驚くのも当然だろう。
「いろいろあってな。……本当に、いろいろとな」

 間宮は、島崎に四日前のことを出来る限り詳しく話した。警察が来て、母親が呼ばれて、亀山のおば様と対立して、未子は自分の道を決めて……。たった四日前の出来事だ。だというのに、もう随分と昔のように感じられる。

「……未子さんは、お母さんと仲良くなって家に帰ったんですか……」
 島崎は複雑な表情を浮かべて呟いた。本当なら、母親と和解出来た事を憂うべきなのだろうが、ここから離れていったことを考えると、素直に喜べないのだろう。それは、オレも同じだ。
「間宮さんは、本当にそれで良かったんですか?」
「……手痛い質問だな」
 それは、オレが何度も自問自答している。それで良かったのか? それで良かったんだと、そう自分に納得させようとしても、心は理解してくれなかった。相変わらず、オレの中は矛盾だらけだ。
「すいません、今の質問は無しにしといてください。自分がそれを言う筋合いなんて、在りませんしね」
「いや、別にいいんだ。……答えたいけど、止めておく。それを言ったら、何だか本当になりそうだからな」
「そうですか。間宮さんって、言霊(ことだま)を信じるタイプなんですね」
「言霊……あぁ、言葉の力のことか。そりゃ、な」
 四日前にそれを痛いほど味わったのだから、尚更信じないワケにはいかない。たった一つの言葉で、人を傷つけることも、感動させることも出来るのだから。
「自分の道を行く……かぁ」
 譫言のように、島崎は呟いた。
「ねぇ、間宮さん。どうして未子さんは今ある幸せを捨ててまで、自分の道を行こうと思ったんでしょうかね?」
 島崎にしては珍しい質問だった。いつもは自分の意見を述べるか、茶化すかするというのに。
「……なんでだろうな。逃げずに闘ってくるとは言っていたが、どんな思いでその考えに至ったのかは分からん。自分を証明したい……そんな風にも言っていた。けどさ、幸せを火にくべて、火中の栗を拾おうとして大火傷をしたら、笑い話にもならないよなぁ……」
 闘う事は良いことだ。それで得られるモノも多い。しかし、沢山の傷を負うこともある。立ち上がれないほどのダメージを受けることだってある。逃げてばかりは嫌だと言っても、その逃げた先に一番の幸せを見つけたら、それはそれで良いのではないのだろうか。幸せというぬるま湯に浸かっていて、何が悪いのだろうか。未子は……もう、止めよう。やっぱりオレは、後悔している。無理矢理納得しても、隙間からそれが漏れてくる。その隙間を塞いで、漏れてきたらまた塞いでの繰り返しなんだろう。未子が、ここに帰ってくるまでは。
「でも、もしもその火中の栗を拾えたら、嬉しいとは思いませんか?」
「思う。……言われんでも分かっているよ。多少火傷したとしても、絶対に欲しいモノが未子には在ったんだろ。そうじゃなきゃ……」
 そうじゃなきゃ、オレが報われない。誰も笑ってくれないピエロなんかには、絶対になりたくはない。
「栗……食べますか?」
 そう言って島崎が取り出したのは、甘栗だった。何処から持ってきたのかと思えば、いつの間にかレジの隣には、天津甘栗のコーナーが設置してあった。
「……貰っとくよ」

 ※

次の日、間宮は携帯の着信音で目覚めた。寝ぼけ眼で画面を確認すると、『亀山のおば様』と表示してある。急いで通話ボタンを押し、耳に押し当てた。
「はい……もしもし……?」
 起きてすぐの所為か、思ったように声が出ない。
「……間宮さん? 風邪でもひいたの?」
「すいません、オレ、朝弱くて……」
 受話器の向こうから、苦笑いが聞こえてくる。
「まぁいいわ。それよりも、今から完成品の方を取りに行きたいんだけど、時間は空いているかしら?」
 眠気が一気に覚める。しまった、亀山のおば様に未子が帰った事を伝えてなかったんだ。
「えっと……」
「空いてないの? ……それとも、まだ完成してないとか?」
「違うんです。実は――」

 間宮は、亀山のおば様に未子が帰ったことを伝えた。自分の道を進むために、実家に帰ったんだと。

「……そう。自分の道を……ね」
 聞き終えた亀山のおば様は、呟くように言った。
「よく我慢したわね。……貴方も、未子ちゃんも」
 目頭が一気に熱くなる。何て事はない労いの言葉。それがかえって心に染みた。
「貴方達二人が決めた道だというのなら、私は何も言わないわ。歩く道ぐらい、自分で決めたいと思うしね。……道に迷ったなら、また相談しなさい。助言ぐらいはしてあげるから」
「はい……ありがとうございます」
 間宮は、電話越しにも関わらず深いお辞儀をした。それは、五日前にお世話になった分と、これからもよろしくお願いしますという意味を込めての礼だった。

 ※

 それから二時間後、亀山のおば様と透は出来上がった分と、残った部品を取りに来た。半分近くは出来上がっていたので、残りは他の人達に回すと言っていた。
 亀山のおば様は律儀にも、出来上がった分だけの給料を払ってくれた。最初は断っていたが、前と同じように“これは未子ちゃんのお給料だから”と押し切られ、結局受け取ることとなった。勿論、オレはこれを使う気など無い。未子がここに帰ってきたら、ちゃんと手渡すつもりだ。
 帰り際、オレはずっと気になっていたことを質問した。それは、亀山のおば様と未子の母親が一緒に帰っていた後の事をだ。
「あぁ、あれね……」
 その時のことを思い出したのか、亀山のおば様は可笑しそうに微笑んだ。
「駅前にある『笑。(しょうまる)』に行って、二人で飲み明かしたわ。あの人って実はすごい泣き上戸でね。出来上がってからは、もうずっと泣きっぱなしだったわ」
 ついさっきまで喧嘩していた相手と飲みに行くとは、さすがというべきか、恐れ知らずというか、とにかく凄いとオレは思った。
 こんな人に出会えたオレは、運が良かったんだろうな。そう、しみじみと感じた。
 人は出会いによって変わる。それを、今なら強く信じられる。未子に出会い、亀山のおば様に出会い、透に出会い、そして未子の母親と出会い……。オレは、変わっていった。どう変わったかなんて、自分では分からない。でも、何かが違っているのは確かだった。
 出会いが全てではない。けれど、その出会いによって何かが大きく変化するのも、また事実だと思う。だからオレは、亀山のおば様と出会えて本当に良かったと、心の底からそう思えた。

 ※

 三日後、いつも読んでいる雑誌の発売日だったので、帰り道に『スターチルド』に寄ることにした。
 店に入り、レジに眼を向ける。毎度お馴染みのように、島崎はそこにいた。やっぱり本当にコイツは、毎日ここでバイトしているんだろうな。確信は無いが、そうとしか思えなかった。
 島崎は頬杖をつき、呆けた様子でどこかをジッと見ていた。視線を辿ってみると、丸い掛け時計に行き着いた。大方、バイトが早く終わらないかと思っているんだろう。そう思いながら、間宮はレジに向かって歩き出す。
「サボってんじゃねーよ。その内、クビになるぞ?」
 間宮は親指で首の辺りに横一文字を描く。
「間宮さん……」
 島崎は意外そうな顔をして、間宮に視線を移した。そして、力なく笑う。

「大丈夫ですよ。今日で……ここを辞めますから」
 
 驚きのあまり、声が出なかった。どうして、と聞きたくても、酷く動揺して、声を出すことが出来なかった。
「……二日前、彼女が自分に会いに来たんです。それで、遠くに行くから付いてきて欲しいって、言い残していったんですよ」
 それを察したのか、島崎は事情を説明してくれた。
「だから、付いていく。……そういうことか?」
「そういうことです」
「そう……か」
 ショックだった。何だかんだといって、島崎との付き合いは結構長かったし、一番の親友だと思っていたからだ。なんだか、友人に突然転校を告げられた時とよく似ていた。
「……寂しくなるな」
「自分もです」
「今日の夜、お別れ会でもするか? オレの奢りでな」
 島崎は少し悩んでから、
「……すいません。明日にはもう行かなきゃならないそうなんで……」
「そっか。そりゃまた急だな……。最後くらい、華々しく見送ってやろうと思ったんだがなぁ……」
「大丈夫ですよ。ここでも充分華々しく出来ますって」
 悪戯っぽい笑顔を浮かべ、島崎は酒のコーナー歩いていく。ドアを開け、500mlの六缶パック入りビールを両手に持った。
「何をするんだ?」
「飲むんですよ」
「飲む? ……ここでかぁ!?」
 そのとんでもない発想に、間宮は思わず叫ぶ。
「そうですよ。前々からずっとやってみたいと思っていたんですよねぇ〜。仕事場でビールを飲むってやつを」
「その気持ちは分からんでもないけど……。でもなぁ……」
 仕事場は仕事場でも、ここはコンビニだ。今は客が居なくとも、当然飲んでいる最中に来るという可能性は十分ある。しかも、バッチリと監視カメラに映ってしまう。
「どうせ今日で辞めるんだし、長年勤めたんだから店長だって笑って許してくれますよ」
「そう言えるお前が凄いよ……」
 痛そうに頭を抱える間宮に対し、島崎は珍しく声をあげて笑う。
 両手に持ったビールをカウンターに置き、島崎はレジに通す。財布を取り出そうとしたところで、間宮がそれを止める。
「待て待て、オレが払うよ」
「良いんですか?」
「さっき奢るって言っただろう? どうせだから、つまみとかも持ってこい」
「おっ、間宮さんもノって来ましたねぇ」
「やけっぱちになっているだけだよ」
 そう言いながらも、間宮は笑う。それにつられ、島崎も声をあげて笑う。
 六缶パックの紙を破り、間宮と島崎はビールを持ち、缶の蓋を開ける。プシュ、という空気が抜ける音が辺りに響く。
「それじゃ、酒祭を開催しますか」
「久々に祭が出たな。最後の祭だ。パッとやるか」
 互いの缶をぶつけ、同時に缶を傾ける。間宮と島崎は、気持ちいいほど喉を鳴らして飲み始めた。

 コイツらしい別れ方だな。オレと島崎に、しみったれた空気は似合わない。馬鹿みたいと笑われるぐらいが、ちょうど良いんだろう。きっと。ビールと共に涙を飲み込みながら、そう思った。



第二話「ミサイル」

 ただ淡々と過ごす日々を、時折オレは虚しく思うときがある。これが当たり前で、これが日常なのは分かっている。けれど、何かが虚しい。
 島崎はコンビニから居なくなり、未子がここから居なくなってもう九日も経過していた。二人は今頃きっと、自分が選んだ道を一生懸命歩んでいるのだろう。それは急な上り坂かも知れない。茨の道かも知れない。何にもない平坦な道かも知れない。けれど、どんな道でも負けずに歩いていると、オレは信じたい。未子も島崎も、オレよりずっと強いから。

 ※

 島崎が遠い何処かへと旅だったその次の日、オレは『スターチルド』を訪れた。本当に島崎が居なくなったかどうか、この眼で確かめたかったからだ。
 もしもそれが冗談だったら、オレは大声を上げて笑うだろう。いい加減にしやがれこの野郎、そう島崎に言ってやりたい。
 自動ドアをくぐり抜け、カウンターに眼を向ける。そしてそれが、本当だったんだとその瞬間に実感した。
 違う誰かがそこに居た。島崎ではない誰かが、愛想良くいらっしゃいませと良い声で言う。ここは本当にあの『スターチルド』なのかと、思わず疑ってしまう。けれど、たった一つを除いて何も変わりはしないこの店内が、本物なんだよと物語っているようだった。これが『現実』なんだと、無理矢理目の前に突き付けられた気分だった。
 オレはすぐに店を出た。逃げた。居たたまれなくなって、その『現実』から尻尾を巻いてオレは逃げ出した。それが、無性に悔しかった。
 未子は言っていた。“いつも逃げずに闘っていた”、と。そんなことはない。オレは、いつも逃げてばかりだ。勉強が嫌で、家出するようなヤツなんだから。
 未子が居たから、あの時は闘ったんだ。
 島崎が居たから、逃げずにいられたんだ。
 亀山のおば様が後押ししてくれたから、あの問題は解決出来たんだ。
 結局、オレ一人では何にも出来やしない。みんなが居たから、『何か』が出来たんだ。しかし、今となってはそのみんなが居ない。居るのは、亀山のおば様だけだ。本当はそれだけでも十分心強い。けれど、寂しい。……あぁ、そうか。オレは、その寂しさを実感するのが嫌で逃げたんだ。ここに来たばっかりの時と同じで、また一人になるのが嫌だったんだ。
 あの心地良い空気は、もう無い。自分の部屋にも、このコンビニにも。それが――『現実』が、オレに重くのし掛かってきた。
 オレは誰かの為には強くなれる。けれど、その『誰か』が居ない。だから、オレは弱い。弱いんだ……。

 ※

 それから五日後の事だ。帰り道の途中、オレは雑誌を買いに『スターチルド』へ入った。ここに入る度に島崎のことを思い出してしまうが、それでもここが一番近いコンビニであり、帰り道にある唯一のコンビニなのだから、それらを考慮すればこれぐらいは我慢すべきだろう。
 まずは雑誌をカゴに入れ、それからビーフカレーとサンドイッチもカゴに入れてからカウンターに置く。
 入ったばかりの新人と思われる、茶髪の若い男が辿々しい手つきでそれらをレジに通していく。最後にサンドイッチをレジに通したところで、男は首を捻り、顔を上げて間宮を見た。
「悪いんだけど、あんた間宮っていう名前?」
 男は、唐突にそう質問した。
「そうだけど……それが?」
 少しトゲのある口調で間宮は返した。明らかに自分より年下の男に呼び捨てにされる筋合いはないし、年上に対する口の利き方がなっていないのも気にくわなかったからだ。
「やっぱり!」
 男は笑いながら間宮を指さす。それが更に気にくわなくて、間宮は男に対して不快な表情を露わにした。
「だから、それがどうかしたか?」
「先輩が言ってた通りだよ! 本当にセットだよ!」
 こちらのことなどお構いなしに、男はゲラゲラと汚い笑い声を上げ続ける。
 最悪だ。こんなのが、島崎の後釜なのか? まるで現代社会を象徴するような、こんな礼儀知らずな野郎が? ここはもうあの時の『スターチルド』ではない。それは分かっている。しかし、これではあまりに酷すぎる。
「……もういい。勝手にしてくれ」
 食欲も、読みたいという気持ちも、この男のお陰で全て失せてしまった。だからオレはそのまま踵を返し、出口に向かう。
「オイッ! ちょっと待てよ! 悪かったって! あんまりにも先輩の言ってた通りだから、つい笑っちまっただけなんだって!」
 あいつが喋る度に、オレはぶちキレそうになる。ワザとオレを怒らせようとしているのではないのかと思えるほどだ。その先輩とやらは、コイツにいったいどんな教育をしてきたんだ?
「……先輩?」
 男は確かに言った。“先輩の言っていた通り”だと。このコンビニで、しかもオレのことをよく知っている人物など、一人しかいないではないか。
 間宮は振り返り、
「もしかして……その先輩ってのは、島崎のことか?」
「そうそう! その島崎先輩から聞いたんだよ!」
 その言葉遣いにはまだ腹が立つが、島崎の知り合いというのなら何とか我慢は出来る。もっと詳しい話を聞こうと、オレはカウンターに戻った。

 ※

 男は大川 啓介(おおがわ けいすけ)という名前で、現在高校一年生らしい。島崎が辞めるということで、つい一週間ほど前に雇われたそうだ。他にももう一人、愛想の良いヤツが雇われたそうだが、まだ会ったことはないと言っていた。
 島崎と組んでバイトをしたのは、たった一回だけだそうだ。その時にオレのことを聞いたらしい。
「良い先輩だったね。冗談言いながら俺に仕事教えてくれてさ。バイト終わって帰る時、先輩が言ったんだよ。“火曜日に雑誌とビーフカレーとサンドイッチをセットで買う冴えない男の人が居たら、それはきっと間宮さんっていう人だから、声を掛けて欲しいんだ。多分、寂しがっているだろうからね”、ってさ。だから、俺はあんたに声を掛けたってワケ」
 余計なお世話だと、啓介に対して、そしてここには居ない島崎に対して言った。
「想像してたのとは全然違うな。なんかもっとこう……頼りなさそうっていうか……引きこもってそうな顔してると思ったのにさ。全然アウトドアな顔してるじゃん」
 そう言って、啓介は間宮を指さす。どうやら指を指すのがクセらしいが、何だか挑発しているようにも見えた。
「アウトドアな顔って、どんなんだよ?」
「え〜? ガッチリしているっていうか……野生っぽい感じ?」
「……余計に分からん」
 あまり接したことのないタイプの所為か、今一つ会話の調子を掴めない。性格的にも好きにはなれそうもないので、多分付き合いはこれっきりになるだろう。それにしても、島崎はどうしてこんなのにオレのことを頼んでいったのだろうか? 心配してお願いしたのかも知れないが、これではまるで逆効果だ。余計に島崎のことを思い出し、あの日々は良かったと思い出に逃げてしまう。
「なんか、嫌っそうな顔してるねぇ? 分かるよ。あんた、俺みたいなのは嫌いでしょ?」
 あまりに露骨な質問だった。とはいえ、オレも露骨に嫌な顔していたのだから、それであいこなのかも知れない。
「……正直、な。嫌いというよりも、オレに合わないタイプなんだよ。多分、生理的に受け付けないんだろうな」
 包み隠さず、間宮は思いのままに言った。どうせ今回限りなんだ。嫌われたって構わない。島崎の後釜とはいえ、こういうタイプだけはどうしても受け付けなかった。
「別にいいよ。俺もあんたみたいなのは嫌いだし。先輩の最後の頼みだったから、叶えてあげただけだしさ」
 怒るかと思ったが、啓介は至って冷静だった。
「一回会っただけなのに、意外と律儀な野郎だな」
「そうなんだよ。結局一回しか会えなかったんだよ。良い先輩だったのにさぁ。全く、惜しい人を亡くしたもんだよ」
 啓介はため息をはき、さも残念そうに肩をすくめる。
「演技でもねー言い方すんなよ。ここを辞めただけだろうが」
 しかし、気持ち的には啓介と同意見だった。あれだけ良いヤツも、そうそうに居ないだろう。本当に、惜しい人が居なくなったもんだ。
「大袈裟って……。あんた、仲良かったんじゃないのか?」
「仲は良かったよ。それでこそ、親友って言えるぐらいにな。……それが?」
 啓介は眉を寄せ、怪訝な顔をして間宮を見る。
「もしかして……知らないのか?」
 知らない? 何を?

「島崎先輩……事故で死んだんだぜ?」

 ※
 
 その日の夜は、酷い有り様だった。
 何も考えられなかった。頭の中は真っ白で、どうして死んでしまったのかとか、いつ死んでしまったのかとか、そんなことを考える余裕は無かった。まるで廃人のように、ただ呆然と宙をずっと見つめていた。
 何も手に付かなかった。気晴らしに本を読もうとしても、すぐに嫌になって投げ出し、テレビを見ようとしてもそれは同じだった。何かに集中しようとする度に、島崎が死んだという言葉が反芻し、それを掻き消そうと何度も叫びそうになった。
 何も食べることが出来なかった。食べても、すぐに吐いてしまった。なぜそうなったのかは分からない。けど結局、胃は食べ物を受け入れてはくれなかった。
 半ば倒れるようにして布団に寝転がり、何もない壁をずっと見つめていた。そうしている内に、オレはいつの間にか寝ていた。気付かないうちに、ふっと。

 夢を見た。オレが一番幸せだと思えた時――未子がこの部屋に居て、島崎がコンビニで働いていた頃の夢だ。
 夢の中では、何一つとして変わっていなかった。未子はこの部屋で内職をしていて、島崎は相変わらず冗談を言っていた。オレは未子の姿を見て微笑み、島崎の冗談を聞いて笑っていた。
 この夢から覚めないで欲しいと、心の底から思ったのはこれが初めてだった。神様に祈ってもいい。悪魔に魂を売ってもいい。この夢から覚めないのであれば、オレはどんなことでもしよう。だから、覚めないでくれ。これがオレにとっての理想郷なんだ。だから……覚めないでくれ。

 ※

 翌日、絶望と悲しみを引きずりながら、オレは啓介に教えられた住所を目指した。死んだなんて、冗談であって欲しい。そう願ってしまう自分が、物悲しく思えた。
 島崎の住所は、どうやら仙台市内部ではないらしい。県内なのは確かだが、聞いたこともない地名だった。仙台駅の中にある案内所で聞いてみると、直通のバスがあるそうだ。しかし、三時間近くは掛かるらしい。電車は無いかと聞いてみたが、通っていないそうだ。どうやら、あまり発展していない地区のようだ。
 島崎は随分と遠い所から通っていたんだな。そう、オレは思った。あいつはスクーターで通学していると言っていたから、相当な距離を毎日走っていることになる。しかも、毎日と言っていいほどコンビニのバイトをしていたんだ。遊ぶ時間が無いほどのハードスケジュールだったに違いない。
 何故そうまでしてこちらに来る必要があったのかは、オレには分からない。――いや、もう知ることは出来ないのだろう。島崎から、その事を聞くことが出来ないのだから。

 ※

 バスで三時間ほど揺られ、オレは島崎の家の近くで降りた。そこは、思っていた通りの田舎――田園地帯が広がる、良くも悪くも自然が豊富な場所だった。
 電柱に括り付けられた番地を見ながら、オレは島崎の家を目指す。どこを見ても同じような風景の所為か、島崎の家に近づいているのか、遠のいているのか、時折分からなくなる。しかし、かれこれ二十分近く歩いたときに、それはあった。白黒の、素っ気ない看板だ。そしてそこには、達筆な字で『島崎家』と書かれてあった。
 それは、誰かが死んだことを象徴する看板。『島崎家』の『誰か』が死んだときにのみ、それが飾られる。つまり……。
 目の前が真っ白になり、足は竦(すく)み、オレは一歩も動けなくなった。
 島崎は……本当に死んだのか? この期に及んでもまだ、オレはそう思ってしまう。一世一代の大掛かりな冗談なのではないかと、未だに思っている。しかし、もう数メートル先に残酷な現実があるのだろう。真実があるのだろう。
 認めなければならない現実が。
 拒絶したい現実が。
 そこで、オレをじっと待っているのだろう。

 ※

 その場から動くのに、オレは一時間も要した。頭に、心に、島崎は死んだんだと納得させようとしても、身体がそれを否定していた。足が、前に進むことを拒絶していた。
 看板の矢印通りに、オレは重い足取りで歩いていく。ねずみ色のブロック塀を抜けると、そこに『島崎家』と表札を掲げた家があった。しかし、想像していたものとはあまりにも違っていた為、思わず顔をしかめてしまう。
 オレはてっきり、二階建てで小綺麗な感じの家だとばかり思っていたが、実際は一階建てで、屋根は水色、壁は薄茶のトタンで作られており、全体的に古さを感じさせる家だった。更に奇妙なことに、玄関の上には『いの三号』という白い文字が書かれており、奥にある木の垣根を超えた所にも全く同じような建物があった。
 これは……借家だ。思ってもみないことだった。島崎の家は、借家だったのだ。別にそれが悪いというわけではない。ただ何となく、イメージにそぐわなかったのだ。
 外観を見る限り、あの看板以外は何一つとして葬式らしいものはなかった。あの大きな菊の花飾りも、清め塩も、何にもなかった。
 やっぱり、手の込んだ冗談だったのか。内心、ほくそ笑む。もしかしたらこの借家も違う人の家で、島崎の家は別の場所にあるのかも知れない。インターホンを鳴らしながら、そんなことを思った。
 中から人の声が聞こえ、サンダルを履くような音の後、玄関が開かれた。
「はい……」
 島崎の母親と思われる、初老の女性が出て来た。眼の下には真っ黒なクマを作っており、そして目尻には……うっすらと涙が見える。何となく、オレは島崎の母親の後ろ――家の中に眼をやる。
 そして、それはあった。
 それを見たとき、全身に『何か』が走っていた。気持ち悪い感覚を残しながら、『何か』は頭のてっぺんから足のつま先までを駆けめぐっていく。
「島崎……?」
 奥にある祭壇には、凍り付いた笑みを浮かべた島崎の写真が飾られていた。とても良い顔で笑っている。コンビニで良く見る笑顔だ。
 その下には、木の棺があった。この部屋にはそぐわない異物が、そこに鎮座していた。
 気がつくと、オレは涙を流していた。頭が、心が、身体が、島崎の死を受け入れたのだ。残酷な現実を、受け入れてしまったのだ。
 島崎が死んだ。それは、紛れもない事実。現実。もう、この世には居ない。居ないんだ……。

 死ぬって、いったい何なのだろう……? ただ呆然と、目の前にある光景を見つめながら、そう思った。
 
【続】

2005/12/26(Mon)19:59:01 公開 / rathi
■この作品の著作権はrathiさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 ども、rathiです。
 死は、何の前触れもなく訪れます。昨日まで生きていた人が、今日にはぽっと死んでいる。それを、私は何度か実感してきました。
 死は綺麗なものでもなければ、尊いものでもありません。いずれ訪れる絶対的な現実です。それが私の考える死の形です。

 さて、作品についていろいろ語っていこうと思います。詳しい内容は次回やろうと思うので、正直あんまり語れませんけれどね。
 これを予想していた人が居たでしょうか? 感想を見る限り、島崎さんは人気がありました。そして、間宮にとっても親しき存在でした。それが一瞬にして居なくなる。誰も予想しなかった死。それが、現実なんです。
 上記にも書きましたが、それを思い出しながら書いていたらちょっと鬱気味です。
 巧くその雰囲気を表現できたことを願います。

ではでは〜

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。