『天空風歌 【10】』 ... ジャンル:時代・歴史 ファンタジー
作者:ゅぇ                

     あらすじ・作品紹介
誇りかなる風の者――見よ、この血に濡れた輝かしい生き様を。

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  【柳妃】

 
 轟々流雪水  《轟々流るる雪解け水よ》

 陽受当今耀  《陽射しを受けて今輝かん》

 咲柳於一花  《柳に咲ける一輪の花》

 天子等神光  《天子に等しき神々しさよ》



 燦々と輝く陽射しが大地を照らし、人心を暖める。急峻の山頂をのぞいて雪も溶け、北の大国柳は夏を迎えていた。神泉に佇むと涼しげな水音が耳をうつ。柳帝の正妃に据えられてからおよそ一年。
 「皇妃殿下」
 呼ばれて奈綺はほっそりとした美貌をめぐらせた。近づく気配に気付かぬふりをするのにも、少しずつ慣れてきたところである。宮殿暮らしが長くなっても、この女の双眸奥にちらつく鋭利さは変わらない。変わったところといえば髪の長さくらいか。
 「陛下のお召しで御座います」
 黙って裾を翻した。


 
 北国柳は、国内における反乱分子を知恵と力でおさえこみ、ようやくの平安を我が物として間もなかった。国中に漂っていた不穏な空気も表向きは影を潜め、他国間者の動きも幾分緩やかになってきたか。舜で生まれ育った間諜『風の者』奈綺は、柳の間諜彩妃と入れ替わりに柳の正妃に据えられた。越えられぬはずの身分の差を越え、柳舜の平和の条の礎代わりとなっているのである――危うくも揺るぎない架け橋。


 ――桐を知っているか、と皇帝は不躾に問いかけた。華やかな裳裾を器用に指先でさばき、奈綺はしなやかかつ細い腕を静かに組む。舜帝に仕える間者『風の者』として数え切れないほどの人間を殺めてきた手は、驚くほど細い。この手が人を殺すなどと、いったい誰が思えようか。
 「それが何か」
 奈綺は答えた。一年もの間、毎夜を共にしていながら未だこの態度――静かな声色は気性の荒さを隠していたが、やはり彼女の物言いには愛想の欠片もない。身体を重ねればそれも変わるものだろうか、と柳帝は嗤いを噛み殺す。
 同じ室《へや》で眠りながら、身体を重ねたことのない皇帝皇妃であった。
 「桐から妃を貰うぞ。妃を献上すると言ってきた」
 柳の北には海が広がる。北海という大海の向こうに都を構えるのが、つまり桐という国であった。北方に特有の金髪碧眼人の国で、珍かなることに女帝が国を治めている。それほど領地は大きくなかったが、堅固たる地盤を築いている北国であった。
 奈綺の頭は忙しく動いた。その小国桐の女帝が、つまるところ己の娘を大国柳帝に差し出すと言ってきたのである。政治的策略が潜在しない筈がなかろう――とこの女は眉をひそめた。
 (………………柳に子種を落とす気か)
 軍力で劣りはすれども、娘と柳帝との間に子が生されれば――それが男児であれば、いずれ皇帝として即位する機会があるやもしれぬ、と。もしもこのまま奈綺と柳帝の間に子が出来なければ、桐の妃が生む男児はおそらく皇太子として上がるだろう。
 「それを受ける気で?」
 「ああ。碧眼の美女を味わってみるのも良かろうよ。肌も雪のようだと聞いている」
 奈綺の頭はさらにめまぐるしく働く。その妃との間に子が生されれば、遠い行く末には柳が桐の傘下に入ることもあり得る。それが分からぬほど柳帝は愚かではない。女の身体に釣られて妃を迎えるなど、彼がする筈がなかった。
 (それとも子を生さぬまま……妃を急時の質とする気か)
 子を生さなければ、妃など役に立たぬ。むしろ労せずして桐から人質を手に入れたようなものである。視線を宙に浮かせたまま思索をめぐらせていた奈綺の肩を、不意に柳帝の力強い手が抱いた。
 「奈綺よ。嫉妬はしないのか、俺に妾が出来るというのに」
 彫りの深い美貌が涼しげな微笑をたたえている。ともかく激昂するということを知らないのか、奈綺でさえも彼が感情を昂ぶらせたところを見たことがない。臣下に褒章を与えるときでも、罪人の処刑を命じるときでも、ひどく淡々と命を下す男である。
 「涙のひとつくらい見せたらどうかな。俺の愛情を独り占めにしたくはないか」
 そう言いながら愉しげに喉を鳴らして嗤った。さて、この男にどれほどの人間らしい愛情があるというのか。
 「そうだな……泣いてすがって来れば桐の申し出を断っても構わんが」
 ――泣いてすがる。
 奈綺がそのような類の女でないことを百も承知で彼は言う。容姿はどれほど優麗で雅やかであっても、その実まるで女からかけ離れたところにいる奈綺である。男はしかし、お構いなしに唇を寄せ、あっという間に奈綺の形良い紅唇を奪った。冷酷な貌をしながらその唇は意外なほど柔らかく温かい。そんな馬鹿げたことに感心しながらも、彼の行為に甘んじる。傍目から見るとそれは不思議な光景でもあったろう。愉しみながら女の唇を奪う男と、それを無表情のまま受ける女。その二人の間の美しい光景のどこに愛情があるのか、誰もまるで見てとれない。この男に人間としてのまっとうな愛があるのかと思っている奈綺自身に、愛情というものがないのである。
 「良いのかな? 俺が新たに妃を迎えても?」
 濡れた唇をもう一度ついばみ、男が愉しげに問う。奈綺もまた彼の愉悦に応えるように、小さく唇の端で笑った。不敵な笑みを浮かべる女だ、と柳帝は内心やはり可笑しくて仕方がない。
 「お好きに」
 見るものすべてを惹きつけるような美しい微笑みで放った言葉が、やはり奈綺らしかった。



 ――――――――――――――――――――――――

 
 北国特有の涼しい夏風が吹き渡る中、桐妃の献上式は恙なく行われた。少しばかり不安げに、しかし洗練された行儀の良さでそこに拱手する女。この美貌で巧く男を使えば、軽く一国を手にできるのではないか――と、正妃の皮をかぶった間諜奈綺は思った。
 深みのある蒼い双眸と、こちらの眼に眩しいほどの黄金色の髪。はるばる海を越えて寄越された桐国の姫は、文官武官の予想以上に見目麗しい娘であった。
 「………………」
 柳帝の傍らで、奈綺は拱手する娘の様子を見つめる。年の頃は分からないが、奈綺よりもふたつみっつ年下ではなかろうかと思われた。面を上げよ、と命じられて貌をあげた妃は、柳帝の涼しげな美貌を見上げて息を呑む。柳帝もまた、確かに一目で見惚れるような美貌をもっていた。端整すぎるほど端整な容貌に、凛と張る柳眉。涼やかな眼元はむしろ冷酷そうにもみえたが、これがかえって女の心をくすぐるらしい。
 輝石のような眼を見開いて柳帝に見入る妃をじっと観察しながら、柳国正妃は冷ややかに心中呟いた。
 (これなら使えるか……)
 この妃には溺れるほどの恋をしてもらわねば困る。恋に溺れた女は――必ず祖国よりも男を優先するようになる。柳帝を愛するということは、この姫がつまり桐よりも柳を優先するということだ。そうなってもらわねば困る。
 柳の正妃として、この国の基盤を緩めるわけにはいかなかった。これは奈綺の持って生まれた性質でもある。柳帝に対する敵愾心は薄れ、やはり見えぬところでの絆は深まったような感はある。しかし己の柔らかくなった感情よりも国事を優先させねばならぬという『風の者』としての資質が、やはり奈綺を冷静にしているのだった。
 「さて、そろそろさがらせてやれ」
 柳帝が側近に言葉を下す。あまり他国に知られて良いことでもなく、確かに恙なく行われた献上式ではあるが、幾分地味に幕をおろされた。考え深げに視線を落とす奈綺を一瞥して、柳帝は小さく口角をあげた。
 「奈綺」
 すれ違いざまに、男は奈綺の耳もとで囁いた。低く甘い声色である。
 「見たか、美しい娘だ」
 小さな笑みを、奈綺は平然と返した。その美しい双眸の奥には欠片の嫉妬もちらつかず、感情のない涼やかな色だけが静謐と湛えられている。いや、むしろ私の物思いの邪魔をしないでくれとでもいうような煩わしそうな色さえ湛えられていた。
 嫉妬、という感情を。愛、という感情を今まで感じたことのない女であった。
 産まれて間もなく捨てられたこの女は、母親の顔も知らなければ父親の顔も知らぬ。物心つく以前より『風の者』として育てられたこの娘に、ありとあらゆる感情は邪魔にしかならなかった。忠誠心だけは、誰よりも強い。
 「俺は暫くあれの身体を堪能させてもらうとしようか」
 「くれぐれも男児だけは生さぬよう」
 顔色ひとつ変えず、異国の姫にも勝るとも劣らぬ美貌を誇る正妃は囁き返した。実のところ文官武官の間にも奈綺に憧れる男がいるほど、この女の顔立ちは優れている。やってきた桐の妃が柔らかな春の花であるとすれば、奈綺は凛とした冬の月。感情があまり外に出ないだけに、誰も彼女の心中を推し量ることはできぬ。
 これで当分の間は独りで落ち着いて眠ることができる――裾をひるがえして去る皇帝の後ろ姿を呆れ顔で見送りながら、奈綺は静かに踵を返した。
 (ゆるりと拝見させていただこうよ、柳帝。桐の妃を迎えていったいどうするのか)
 もしもくだらぬ愚帝と分かったときには。もしも皇帝に相応しくない様相が垣間見えれば、私は柳をうち崩す。そのあかつきには、我が祖国舜が柳を征服するだろう。
 奈綺の静かな瞳の奥が、珍しく愉快げに煌めいた。この女にとって、忠誠を尽くすべき国はいまだ柳でない。心は懐かしき舜、我が君主は舜帝と誓っている。







  【秋颯夜曲】


 
 ――簾妃。

 
 ぽん、ぽん、と葦で編んだ遊球を右掌で弄びながら、奈綺は小さく呟いた。簾妃――北の桐帝愛娘が柳の後宮に入内して今日で八日目の夜を迎える。毎夜のように柳帝は後宮の簾室に通いつめ、ごく稀に昼日中ようやっと自室に戻ってくる程度であった。
 「………………」
 開け放たれた丸窓から、陽にあたれば碧く輝く木々の葉擦れを静かに聴く。柳帝の束縛がなくなってから、時折感じていた間諜の視線――吐息。なるほど柳帝のいない隙を狙ってやってくるとは、私も舐められたものだと奈綺は幾度か唇を歪めた。すでにここ数日の間に三人の間諜を始末している。
 窓辺に置いてあった酒器をそっと唇に近づけながら、奈綺は音のない草笛を小さく吹いた。音なき音が、空気を震わせて木々の揺れ間をすぅっと通り抜け、通り抜けたかと思うと、瞬く間にひとつの肢体がするすると窓を登ってきた。音もなければ、気配もなかった。窓辺にゆったりともたせかけた身体をそっと退かせ、女は登ってきた肢体を室内に呼び入れる。
 「――……何か」
 何か腹に入れるか、と奈綺は男に小さく問いかけた。奈綺が顎をしゃくった先に、中途半端に残った膳が据えてある。窓辺から離れた彼女は、ついと水差しを傾けて器に澄んだ水を注いだ。
 「で、どうだった」
 青磁の器に形よく盛ってあった木苺の匂いを嗅いでから、男がそれをひと粒ふた粒口に放り込む。奈綺よりも幾つか年長にみえる大人びた若者であった。彼もまた――『風の者』である。大国舜に血脈を持つ間諜の頂点。その彼でさえも、奈綺の傍若無人ぶりには太刀打ちできない。
 「間諜とは縁がなさそうだ――少なくとも彼女自身は間諜ではないな。嫁いで八日、早くも本気で柳帝に惚れている」
 簾姫のことである。
 「ただ桐の企みはおまえの読み通りだな」
 男児を生して次期皇帝に即位させる。それがやはり桐の長期的な狙いであることは間違いないようだった。確かに、小国が末永く生き残るには、大国に娘を嫁がせるしか道はなかろう。
 「……柳帝に進言するか?」
 男が――支岐《しき》が幾分瞳を歪めて呟いた。彼にとってみれば柳帝は決して主君ではなく、敵といっても過言ではない相手である。主君舜帝の命によって、柳における奈綺の支えに徹してはいるものの、『風の者』の心は常に己の主君のもとにある。一度主君と決めた人間以外には、たとえ命尽きても叩頭しないのがこの男たちの生き様でもあった。 男児を生さぬように、と進言することはつまり柳のためであり、だからこそ支岐は言葉を濁しているのである。
 「進言? 何故」
 奈綺の返答に、支岐は僅かに驚いた色を浮かべてこちらを見つめた。柳の正妃であるならば、柳の繁栄を少しでも思うならば進言すべきである。それをこの女はいけしゃあしゃあと理由を問い返してくるのだった。この女の考えていることは、幾年となく『風の者』としてともに過ごしてきた支岐にさえもはかりしれない。
 「もしも男児が生されれば――おまえの立場だけでなく柳の先も危ういぞ」
 奈綺が鼻で嗤った。いつ見ても美しいが、しかしいつ見ても腹の立つ女だと支岐は歯噛みしながら彼女と対峙する。
 黙ってしとやかに立っていれば、この世にないほどの絶世の美女と謳われもするだろうに。この女も生まれた境遇が悪かったのだ、と時折支岐は思うのだった。せめて平民程度にでも生まれついていれば、どこぞの貴族の妾にでもなって宝石絹に囲まれて生きることができただろうに、と。たとえ柳帝正妃の座についているといっても、彼女の身ごなしはやはり『風の者』。幾百となく人を殺めてきた血は、彼女の手足に染み付いているに違いない。
 「男児を生すな、とは一度だけ言った」
 廉妃――雪のような白い肌に美しい碧眼と金髪。男ならば一目で骨抜きにされてしまいそうな軟弱な美女である。たとえ柳帝であっても理性は抑えきれまい、というのが支岐の見解であった。
 「何度も進言せねばならないような男なら、その時点で見限るさ」
 奈綺が呟いて眼を細める。この女にしては珍しく、柳帝を信用しているのかもしれなかった。
 「そのときは、桐に先を越される前に……」
 女の双眸は、きらきらと深い輝きをもって煌めいている。絹や宝石の話をしてもまるで無関心なくせに、こういう殺伐とした話にだけは生きいきと眼を輝かせる女だった。こういうところが怖いのだ、と支岐は思う。今までに女の『風の者』は幾度か見てきたが、ここまで感情のない女はいなかった。ここまで戦ごとに頭の切れる女もいなかった。
 「先を越される前に?」
 「……私たちが内から食い尽くせばいい。舜帝陛下への良い手土産になろうよ」
 妖艶なほど澄んだ美しい双眸で、内から食い尽くすなどという物騒な言葉を吐く。しかしこれほど間諜の素質に恵まれた女もいまい、と思いながら支岐は頷いた。


 ――――――――――

 
 その肌は雪のように白く、絹のように滑らかである。首も手足も片手で折れそうなほど華奢で、幾分羞じるように眼を閉じる姿態は清楚でありながらも艶めかしい。男ならば狂喜しそうな状況、この柔らかで豪奢な寝台の上。同じ華奢な身体ながらも、おそらく奈綺はこの程度の女ならば一撃で殺してしまえるだろう。
 この男もこの男で、情事の最中に奇妙なことを考える。この渇いた思考が強靭さの秘訣なのか何なのか。
 「……陛下……」
 囁くような声色。細かな仕草が清楚なだけに、こういうときはいっそう艶めかしくみえる。柳帝の手が伸びると、女はいとも簡単にその美しい脚をひらいた。
 (あの女に――これの半分ほどの素直さでもあればいいがな)
 奈綺に同じようなことをすれば、間違いなく急所を蹴り飛ばされ、喉元に刃を突きつけられるであろう。ふ、と男の唇が微笑をつくる。その微笑を自分に向けたものと勘違いしたか、廉妃は安堵したかのような笑顔を浮かべて男にしがみついた。

 
 秋の夜は長い。傍らの女がぐっすりと眠りこんだのを確認して、柳帝は裾長の上着を無造作に羽織った。しっとりと汗ばんでいる女に反して、彼は汗ひとつかいていない。月がみえるかと思って丸窓をあけてみたが、静寂が支配する夜空には月の姿はなかった。
 (新月か)
 そろそろ肌寒くなってきた、と思った瞬間に彼は微かな葉擦れの音を聞いた。聞いたと思った瞬間に腰帯を眼にもとまらぬ速さで締め、懐に忍ばせていた小太刀を手に握る。新月の夜は間諜が多い、私がいないときにはせいぜい注意召されよと吐き捨てていた奈綺の言葉を思い出した。
 「陛下」
 気配もなく、声だけがした。暗闇のなかで、男は声もなく嗤う。そう――この女だ。やはりこの女しか柳帝正妃の器はおらぬ。いつの間にか傍に控えている正妃。それはまさに柳帝に忠実に仕える臣下のようでもあった。
 黒い影は柳帝の背後からしずかに忍びでて、音もなく窓辺に身体を寄せた。どこからいつの間に入ってきたのか、などという問いはこの女には通用せぬ。男はそっと寝台に腰をおろした。さきほどの行為ですっかり疲れ果てたのか、廉妃が目を覚ます気配は欠片もない。窓からは、肌寒い夜気が流れこんでくる。しかし黒い影は窓を閉めぬまま、そこにひっそりと佇んでいた。
 ――静寂。いや、葉擦れと虫の音だけが。かえって静寂が浮き彫りにされ、まるで夜風が泣いているように聴こえる。ふと男が窓外に眼を向けたそのとき、うっすらと薄い影が窓に張りついたような気がした。
 (……間諜も不粋なものぞ)
 花二輪楽しめたものを、とふたたび柳帝は呑気に嘲笑する。しかしその視線は、冷涼として窓辺に据えられていた。
 ――静謐。虫の音が一瞬ばかり止んだ。室内から影が音もなく飛び出したのは、次の瞬間であった。その影は、まるで大きな蝙蝠かむささびのように柳帝の目に映る。実のところ奈綺が闘う光景を見るのは、はじめてだった。大きなかたまりが木々から落ちていった気配を感じ、柳帝はそっと窓辺に歩み寄る。そして見慣れた正妃の姿を眼に映して、あれは人間ではないのではないかと男はあきれ返ったのだった。

 木々の下には、若い男がふたり待ち構えていた。窓辺に張り付いてきた男とともに落下してゆきながら、奈綺はくるくると器用に身体を回転させながら男の図体を大木に押しつける。あの細腕のどこにそれほどの力が秘められているのか、男を大木に押しつけたと思った瞬間に奈綺の踵が彼の顎と激突した。いや、妙な言い回しであるかもしれなかったが、確かに激突したというのが最もふさわしいような気がする。いったいどれほどの力で踵がうちこまれたのか、あっと思ったときには男の顔は血塗れになっていた。若い男がふたり身を低くして待ち構える、そのちょうど真ん中にすたんと奈綺は飛び降りた。
 「…………奈綺か」
 呟いたのは黒い布を頭に巻いた青年であった。暗闇の中、彼の双眸の色は見えない。
 奈綺は無言のままで、その男と対峙する。頭に衣を巻いていない後ろの男には一瞥もくれなかった。この女の本能が告げている――黒布の男。後ろの男と異なって、この男の双眸には殺意がなかった。これを先に片付けねばならぬ、と奈綺はひっそりとその場に佇む。彼女の双眸にもまた殺意はみえない。殺意がないからこそ至極冷静に人を殺せるのだと、それが奈綺の持論でもある。
 (私も有名になったものよ)
 殺意もなければむろん好意もない。ぴりぴりと殺気立つ気配もなければ、気の緩みもない。この女の最大の強みはそれだった。奈綺か、という問いかけに彼女はただ小さく口角をあげる。それはただの微笑のようにも見えたし、嘲笑にも見えた。男は微動だにせぬ。 奈綺は心中でひとつ溜息を吐いてから、何気ない仕草で眼を伏せた。地面で揺れた草々を見下ろすような、まことに何気ない仕草であった。

 ――ひゅっ、という微かな音ともに幾つかの弾のようなものが飛んでくる気配がわかる。奈綺が下を見下ろした仕草は、気を抜いたそれに見えたかもしれない。一瞬の隙をついて放たれた飛び弾は確かに奈綺をとらえたかのようにみえた。
 が、女は避けた。いとも簡単にそれを避けた。時間差で次の瞬間に放たれた弾をふたたび避けてから、奈綺は小さく嗤う。男の弾を避けたのは、おそらく奈綺が初めてだったのだろう。彼の顔が妙に強張っているのが見てとれる。あまりにも奈綺が流麗な仕草でそれを避けたために、もしかすると傍で見ていたもうひとりの男には間諜同士の戯れのようにも思われたかもしれない。
 奈綺が何ということもなく大木に手を伸ばしたそのとき、皇帝の寝室である上のほうで小さな音がした。
 (………………)
 奈綺の感情のない双眸が、はじめて鬱陶しげに歪んだ。小さな音――それは間諜が壁を這いながら人の室に忍び込もうとしているときの微かな音に似ている。なるほど罠か、と気づいたときには奈綺の身体は宙にあった。
 とん、とひとつ跳躍しただけで、常人では想像もつかぬほどの高みに彼女の身体は舞い上がる。静寂の中で男ふたりはしずかに殺しをはじめる準備を整えていた。整えていたはずだった。さて女の身体が空にあるうちに八つ裂きにしてやろう、と男たちが糸刃を繰り出したそのときには。
 「っな」
 驚きの声が喉奥から洩れたときには、衣をかぶっていない男の喉が真一文字にぱっくりと裂けていた。血しぶきの音が耳にうるさい。風のように繰り出された糸刃を奈綺もまた風のように容易に避け、己の胸元から出した小太刀を飛ばしたのだった。待て、と黒布の男が呟いたような気がするが、そのときにはすでに奈綺は石壁をするすると這いのぼっている。まるでその影は猿のように身軽で、気配の欠片もなかった。男が追ってくることを承知で、奈綺は皇帝寝室の窓辺まで這い上がる。窓辺で音がして奈綺がここにのぼってくるまで、時は十数秒。その動きはまるで風――音のない疾風のよう。これが所以である。 風のように動き、風のように生きる。風のように人を殺し、風のように君主を護る。
 「遅いぞ、阿呆が」
 寝室で皇帝が男の刃を受けていた。奈綺もまた先刻の男のごとく黒布を頭に巻いている。廉妃にこの姿を見せるわけにもゆかぬ、奈綺はひそやかに唇を歪めた。この暗闇でも、柳帝は私のことを見分けるのか。なかば鬱陶しく、なかば感心する。奈綺は窓を閉め、室の中に飛び降りた。
 (逃がしたか)
 廉妃の姿は見えない。扉が微かに開いているところをみると、柳帝が逃がしたのだろう。瞬時に状況を判断し、奈綺はしずかに糸刃扇を胸元からとりだす。間諜と思われる男は、柳帝を両手で押さえこんでいた。
 


 奈綺が、殺す。風のように動き、風のように生きる。風のように人を殺し、風のように君主を護る。それが所以である――『風の者』という誇りかな称号の。











  【艶夜行路】

 
 「これでは糸刃扇も使えまい」
 にやりと間諜が笑ったのが、分かった。糸刃を繰り出せば当然、柳帝の身が危うくなる。間諜が余裕を見せるのは確かに頷けることでもあったが――奈綺は心中不思議に思う。なぜ、こうも簡単に柳帝という最高位の人間に手を出すのか。危険も顧みずに皇帝を質にとるなど、阿呆のすることだと奈綺はあきれ返った。あの黒布の男はともかく、彼以外の奴らは案外ただの素人なのかもしれぬ。間諜になってまだ日が浅いのであろう。
 「おい」
 またこの柳帝も、少々まともな神経がいかれているに違いない。頭を押さえつけられ、鋭利な小太刀を喉元に突きつけられていながら平然とした顔で奈綺に呼びかける。この男ならばこれくらいの間諜を跳ね除けることなど容易であろうに、いったい奴は私に何をさせたいのか。半ば間諜よりも柳帝のほうに怒りを感じながら、奈綺は低く唸るように答えた。
 「何か」
 「何とかしないか、動くのが遅いぞ」
 (この男――……いつか殺す)
 思いながら次の瞬間には、奈綺は糸刃を舞わせていた。空中に舞った美しい糸の輪。驚いた顔で避けようとした間諜の動きは、動揺のあまりか奈綺の目には鈍く映る。柳帝はといえば、やはりそうするだろうと思っていたとでも言いたげな満足そうな双眸で嗤っていた。
 ばしゃっ、と音がして塊が床に落ちた。
 「来たぞ」
 そんなことは分かっている、と女は腹立たしげに唇を歪める。背後から黒布の男たちが追ってきていたことなど、とうに知っていた。だから柳帝が警告を発するよりも前に、奈綺は振り向きざまに糸刃を飛ばし、同時に目にもとまらぬ速さで小太刀を飛ばす。ぎっ、というきりぎりすのような声をあげて斃れたのは、顔を布で隠していない男のほうであった。
 妥当なところだ、と奈綺は糸刃を己が手にひょいと舞い戻す。舞い戻したそのときには、黒布の男が放った石弾が奈綺を襲っていたが、しかしやはりそれでも奈綺の身体に穴をあけることはかなわなかった。なぜあれを避けられるのか、と柳帝は怖ろしくさえ思う。あの俊敏さと獣のような――否、獣よりも優れた野生の勘があればこそ、他の間諜どもから或いは他の『風の者』たちから神のごとく崇められ怖れられるのであろうが。
 しかし、柳帝が正妃をもったという報せが国々へ行き渡ってから、この国に忍び込む間諜の数はひといきに増えたと柳帝は思う。間諜が多く騒々しいと感じるのには、おそらく奈綺が忍び込んでくるものの存在を片端から察知し、片端から殺してまわっているのも理由として挙げられるかもしれぬ。黒布の男が風のように飛んだのが、柳帝の眼にも分かった。
 (危な……)
 さすがに男も危機感を感じたそのとき、ばさりと音をたてて織布が宙を舞った。織布を突き破って黒布の男が飛んでくる――まさに、飛んでくる――柳帝は風のように襲いくるそれにどう対抗しようか眉をひそめてみる。眉をひそめてみても、その間に襲い手はすぐ目の前に小太刀をふりかざしていたのだが、柳帝の心中は不思議なほど落ち着いていた。 柳帝には分かる。
 (あの女、俺を目くらましに使いやがったな)
 憎たらしさとともに、それならば大丈夫だという確信があった。むしろ奈綺の無骨な豪胆さに感心するだけの余裕が男にはある。小太刀が近づく――と思った瞬間、血生臭いものが顔に降りかかってくるのが分かった。黒布の男の、頭がなかった。
 「………………」
 糸扇を手繰り寄せる気配と同時に、すたんと天井のほうから何かが落ちてくる。それが奈綺だということはとうに知れていたから、柳帝は思わず呆れた溜息をついて足元に転がった生首を蹴りつけた。
 「…………おまえ」
 彼女は確かに、柳帝正妃のはずだった。しかし正妃とはまるで程遠いような麻衣を身に纏っただけで、奈綺は美しい仕草で床に膝をつく。あろうことか、柳帝の呼びかけを無視して平然と生首の黒布をはずした。ひどい血の量である。しかし、黒布をはずした男の髪が金色だということはすぐに知れた。
 桐の間諜だと柳帝にも分かった。
 「相当過保護な母親とみえる――こんなにも目立つ間諜を寄越すとは」
 呟いた声に、嘲笑が滲んでいる。血で金髪が頬にべたべたと張りついている、そんな生首を眼前にしながら奈綺は至極平静な顔で柳帝のほうへ顔をめぐらせた。
 「柳の正妃には見えんな。その姿」
 柳帝の言葉にも動じる気配がない。ふん、と鼻を鳴らしただけで血溜りを避けて立ち上がる。
 「仮にも皇帝を目くらましに使うとは、なかなか予想外のことをしてくれる」
 「ああでもしなければ、確実に仕留められなかったかもしれない」
 あっさりと言い捨てた。柳帝は毎日のように思い知る。この女の主君は――未だ南の大国舜にあり、と。ただ男も女も、互いに理解していた。間に妙な愛情や馴れ合いがないからこそ、いざというときに最強の味方になる。
 皇帝に愛などいらぬ、と男は思っている。
 『風の者』に愛などいらぬ、と女は思っている。それが宿命だった。
 「さて、廉妃の様子でも見に行くかな」
 奈綺の双眸に嫉妬の色はない。夜の静穏を邪魔されたせいか、いつもなら嗤えるはずの奈綺の無表情が小憎たらしく思われる。つまらん女だ、と背を向けた柳帝に追い討ちがかかった。
 「……ご武運をお祈りしています、陛下」
 多分に微笑を含んだ声色であった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 秋霖寥々風         《秋霖寥々として風をよび》

 豈思不君崇         《あに崇高なる君を思はざらんや》

 月姫舞蒼天         《月姫蒼天に舞はんとす》

 往夏思己念         《往く夏己の念を思ふ》


 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 夏が終わろうとする頃、まことしやかにその噂は巷に流れた。

 

 柳の宮廷に程近い街中の食堂は、いつもと同じように混み合っている。ここらでは最も大きい食堂でもあったし、また昼どきだということで客足は多かった。かろうじて空いた四人席には、奈綺のほかに客が三人腰かけている。力仕事の若者なのか、汗臭さが奈綺の鼻腔をついた。
 「おまえ知ってっか。柳帝陛下の話なんだけど……」
 奈綺はただ黙々と豚の塩漬けをかじる。人目がなければ塩漬けを麦飯にすべて乗せて豪快にかきこむところだったが、さすがにこのような街中の食堂でそんな野蛮なものの食い方はできない。あくまでも昼どきに食事をしにきた大人しい少女、といった風情で奈綺はちまちまと麦飯を口に運んだ。
 「あれらしいぜ、男として問題があるんだと……」
 「何だ何だ、どういうことだよ」
 昼どきにしては幾分下世話な会話であった。むさ苦しい男どもが、目の前に座る少女――少なくとも傍目には細身の優麗な少女――奈綺に気を遣うはずもない。奈綺はただ黙って麦飯に視線を集中させたまま、耳を傾ける。
 「正妃殿下をお迎えになっても御子ができなかっただろ?」
 「ああ……あ、そうだなぁ。確かにもう一年経つのに」
 柳帝の男としての機能について、男たちは下世話にも憶測を繰り広げる。宮廷内で尊大に構える皇帝が、街中の食堂で噺の種にされているのがわずか滑稽で、奈綺は心中嘲笑した。
 「それでな、もう新しい妃殿下をお迎えになってしばらく経つのに、一向にご懐妊の様子が伝わってこねえじゃねえか」
 「こりゃあおまえ、陛下に問題があるに決まってんだろうが……」
 (それはそれで面白い話よ)
 「東の景氏や嗇氏《しょくし》がな、それを嗅ぎつけて勢力を固めてるらしいぜ」
 「何だぁ……? 陛下の叔父君がお亡くなりになって平穏が戻ったってのに、まぁた戦かぁ?」
 (豪族の台頭か……)
 思いながら、奈綺の頭はやはりめまぐるしく働く。椀の水を一気に飲み干して、彼女は椅子を立った。髪は少し乱れ気味。服も粗末なもので、彼女がまさか柳帝の正妃だとは誰一人として思いもしない。
 釣りのいらないだけの銭を店主に放って、奈綺はゆっくりと通りを歩き始めた。花籠を持ち、見た姿は確かに花売りの娘にみえる。柳帝が笑い話の種にされるのは、個人的に大歓迎である。しかし仮にも彼の正妃という立場上。そして主君舜帝の命を果たすためにも――柳帝不能の噂がこれ以上広まっては困る。
 豪族の台頭を抑えられるならば、それに越したことはない。無駄に彼らの勢力を固めさせる必要はどこにもなかった。
 
 雨が降りはじめていた。奈綺はそっと花籠を抱え、細く降りそそぐ雨をどこか眩そうな双眸で見上げて歩き出す。
 「ちょっと、花売りの娘さん!」
 声をかけられたのは、ちょうど街の中心を少し過ぎた頃である。呼び止める声に、奈綺は従順に立ち止まった。雨の中立ち止まった奈綺を、ひとりの女が旅籠の軒下から手招いていた。奈綺の髪が少しずつしっとりと濡れはじめている。女の手招きに従って、彼女はゆっくりとその軒下へ入った。
 「ごめんなさいね、雨の中呼び止めてしまって」
 そう言って、女は奈綺に微笑みを向けた。長い髪を頭のてっぺんで団子二つにまとめている。利かん気の強そうな顔立ちをしていたが、笑顔がひどく明朗であった。いいえ、と奈綺は微笑を返す。
 「何か良い花はあるかしら」
 「おまえ花なんぞ買ってどうすんだよ――……」
 旅籠の中から、男が出てきた。奈綺はゆっくりと俯き、花籠の中を探る。俯いた彼女の瞳に、傷だらけの固そうな男の踵が飛びこんできた。
 (………………)
 「うるさいわね。美人には花が似合うでしょう?」
 幾本かの花々を手にとって、奈綺は女に掲げてみせた。
 「お客さまは美しくていらっしゃるから――おみなえしなんて如何でしょう」
 いけしゃあしゃあとぬかす。人格や表情など無限に作りかえられる女であった。言葉の端々にまで、心優しい花売りの雰囲気を醸しだしている。
 「お? 花売り、おまえ宮廷に出入り出来るのか」
 何を言い出すのかと思えば、どうやら花籠に放り込んでいた宮廷入りのための手形を男は見つけたらしい。好奇心でいっぱいといった風情で、奈綺に声をかけてきた。雨の音が少し弱まってきている。
 「え……えぇ、一応宮廷のほうにもお花を奉っておりますけれど」
 ちょっと躊躇ったふうを装うその演技っぷりは、さすがというより他にない。その言葉を受けて、男が小声で囁いた。
 「な、あれだろ? 皇帝陛下が不能だって本当かよ?」
 「ちょっとこら、忠栄あんた余計なこと聞くもんじゃないわよ!」
 女が男の胸板を小突く。どうやら相当仲の良い間柄らしく、ふたりの間に遠慮というものは見受けられない。両想いだが恋人同士にはなりきれていない――そんなところか、と奈綺は心中で呟いた。
 「御子がお出来になる気配がありませんのが……残念でございますよね」
 悪戯めいていた男の双眸が、ちらりと鋭くなったのを奈綺は見逃さない。奈綺はすでに気付いている。傷だらけで固くなってしまった踵。あの踵は、山野を駆け回り岩場をよじ登り、時には山犬に噛みつかれてこそ作られる踵だ。
 「でも新しいお妃殿下との間には、そろそろ御子が出来るんじゃ?」
 男をたしなめていた女も、さりげなく乗ってきた。
 「さぁ……毎晩のようにお通いになっているそうですが、御子のできる気配はまったくないそうでございますよ。はやく御子がお生まれになって欲しいものですわ」
 口の軽いお喋り好きの花売りだと思ったのだろう。
 「そういえば宮廷内の軍兵も最近たるみきってるとか」
 「さて――どうでしょう。そんなこともないのでしょうけれど、何せここのところ平穏ですものねぇ」
 柳帝の座は、確かに狙われている。子ができないことにかこつけて、確かに柳帝の座は狙われている。おみなえしと鳳仙花を包んで渡し、代金を受け取った奈綺は深々と頭をさげた。


 
 その晩、奈綺は麗しき祖国に向けて鳥を飛ばした。
 舜帝正妃――彩妃に向けた、文であった。












   【濁流】

 
 ――舜帝の優しく温かい接吻を受けたあと、彩妃は薄い純白の襲《おすい》をゆったりと羽織った。大輪の牡丹がいくつか刺繍された豪奢な襲は、彩妃の滑らかな雪肌を美しく際立たせた。
 「そうか。あれから文がきたか」
 寝台の中で女を抱き寄せながら、舜帝は幾分愉しそうに微笑を湛える。
 「確かにあれが、身籠ると?」
 「……ええ。まるでもうすでに身籠ったかのような言い方でございました」
 柳帝に嫁した間諜正妃奈綺。舜帝に嫁した間諜正妃彩。立場は同じはずだったが、帝に対する態度だけは天と地ほどに異なっている。彩妃は、苦笑いを噛み殺せない様子であった。
 柳から奈綺が文を飛ばしてきたという――それも、“私が身籠っている間だけでいいので柳に戻ってこい”と。そのような内容であったと彩妃は何ともいえないような顔で言ったのだった。支岐が柳舜の間を頻繁に行き来しているため、あちらの内情はある程度つかめている。
 なるほど柳帝に子が生されないことによって反乱分子が再び顔を出し始めたか。おそらく奈綺がそれを危険視しはじめたのであろう。
 「どういたしましょう、陛下」
 あの娘は腹を括ったに違いない。奈綺に柳舜の友好維持を命じたのは、確かにこの舜帝なのである。それを守るためならば厭う男のもとにも嫁する、厭う男の種をも宿す――それが奈綺という女であった。彼女の性質を、この舜帝ほど見知っている者はなかろう。
 「さて、彩よ。おまえはどう思う?」
 彩妃は、この皇帝の優しさが好きである。間諜といいながらも決して捨て駒にしない、時として弱みになることもあるだろうのに見捨てない優しさが好きなのであった。
 「あれが身籠ると自分で言ったのなら、おそらく言葉どおり近いうちに確かに身籠るつもりなのでしょう」
 舜帝は低く笑って妃の言葉に頷く。身籠ったときに、支岐だけでは事足りないのであろう。そう思いながら彼は彩妃の頭を優しく撫でた。
 柳帝とはまるで性質の違う皇帝である。彩をもとは柳の間諜と知りながら奈綺と引き換えに正妃に迎え、そうして正妃として迎えた以上は心底から優しく接した。髪を撫でる手つきが、愛おしい恋人にするのと同じ繊細さであった。
 女は、日に日に彼に惚れてゆく。溺れてゆく。これだけの器量があるからこそ、あの気性の荒い『風の者』がひたすら忠誠を誓うのであろう。幾度か敵として対峙したことのあるあの女のことを、彩妃は今でも鮮やかに思い出すことができた。
 間諜にしては色白の雪肌と高い鼻梁。湖のような静かな色を湛えた双眸は、状況によってがらりと様子を変える。あの気配の消し方は尋常でない。彩妃が間諜として舜の後宮に入っていたとき、奈綺が『風の者』だと気付くことができなかった――ただの采女だと思っていたのである。今でもあの瞬間を思い出すと身の毛がよだつ。

 ――へたに動くな。

 従順を絵に描いたような采女が、耳元で小さく囁いたときのあの悪寒。おそらく己の人生のうちで、あれほど怖ろしい女と出会うことはないだろうと彩妃は思った。ときおり見せる彼女の瞳は、視線ひとつで人を殺せそうなほどに鋭い。心底から敬い、敬意を表するのは奈綺にとって舜帝だけである。
 「うちの奈綺を、助けてくれるか。彩」
 舜帝もまた、奈綺を愛している。それは無論色恋沙汰ではなく、ひとりの人間として。 彩妃はひとつ小さな息をついて頷いた。舜帝のためでもあり――かつて仕えた柳の主君のためでもある。奈綺はすべての感情を捨てて風に生きている。ここでゆかねば名が廃る、と彼女は思った。
 舜帝への愛に生きた彼女もまた、誇りかな自尊心を忘れてはいない。ゆこう、と決心する。
 「無事で帰っておいで」
 「はい」
 舜帝も柳帝も、男としては堂々と肩を並べられる大国の主であろう。しかし女として愛されるならば、やはり舜帝を選ぶのが幸福になる道であると彩妃は微笑んだ。
 女――そう、この身は女である。恋をし、愛さなければこの身は血に濡れたまま枯れていってしまうだろう。それを彩妃はひどく疎んだ。どうせ生まれてきた者ならば、たとえ間諜といえども幸せになりたかった。それがあの女、奈綺には分からぬ。わずか憐憫の情さえも感じながら、彩妃は妃の皮を脱ぐ。ひとつ心の絹を剥がせば、彼女も奈綺と同じくまた間諜。
 「明日ひと晩はひとりにしていただけますか。明後日に発ちますゆえ」
 「ああ。おまえに任せよう。無事の帰りを信じるぞ」
 男の胸の中で、妃は嬉しそうに笑顔を見せた。愛されている実感。この方を愛して良かったと、妃は喜んだ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 ――奈綺の決断は早い。一瞬の逡巡が命取りになる、生と死の境で生き抜いてきた彼女にとっては当然のことであった。
 「……どうした。腐ったものでも拾い食いしたか」
 この物言いに奈綺は柳眉をひそめて男を睨みあげる。殺せるものならば今すぐ殺してやりたいほど、憎たらしい男だった。恨みがあるわけでもなく、憎悪があるわけでもない。 ただこのいけしゃあしゃあとした涼しげな美貌を見ると、無意味に不快になるだけなのである。
 「奈綺?」
 軽々しく名を呼ぶな、とこの女はふたたび眼を光らせた。しかし柳帝がいぶかしみ、不審に思うのも無理はない。さきほど奈綺があっさりと放った言葉は、あまりにもあっさりとしすぎていて、柳帝が驚愕する隙さえも与えなかった。

 ――この腹に子を。

 愛情の欠片も、赤子に対する愛しみも希みも、まるで感ぜられぬ声色でさらりと言ってのけたのだった。奈綺にとって、まだ見ぬ赤子は種でしかない。決して慈しむ対象でもなければ愛すべき対象でもなく、ただ国を護り動かすだけの駒でしかないのである。女にしてはあまりにも冷徹な――舜帝に嫁した彩妃よりも遥かに人間の域を離れてしまったといえるほどの――冷徹な心。その冷めた心を誰よりも知っているのはこの女自身であったが、だからといってそれを悲しむことも別段なかった。
 「種を落とせと?」
 そうしてこの男はこの男で、これもまたそれほど驚いた顔は見せぬ。いや確かに幾分驚いたもののそれを肚に押し込め、何事もなかったかのような飄々とした顔つきで正妃を見下ろした。
 「…………ね、」
 「熱などないわ。私の腹に子種を、と言った。是か非か」
 皇帝に対する口の利き方ではもちろんない。しかしこれが常である。まるで皇帝を脅迫でもするかのような冷涼な双眸で、かちりと男に視線を合わせる。
 「ふん? 何か噂でも嗅ぎつけてきたか、おまえ」
 青瑠璃の酒器になみなみと注がれているのは、秋の夜長にふさわしく醸された味酒《うまざけ》なのであろう。くるりと男が器を弄ぶ動きにあわせて、甘やかな果実の芳香が奈綺の鼻腔を柔らかく刺す。何を嗅ぎつけてきたのか、と問うような瞳で奈綺のほうを見下ろしながら、柳帝はゆっくりと酒を口に運んだ。
 酷薄そうな唇だが、真一文字に結んだときはひどく凛々しく男らしく見える。普通に見ればあっさり惚れてもおかしくないほどに美しい容貌、凛々しい眉に高い鼻梁。まさに非のうちどころのない国の最高位に就いている。この男に、なぜ私はこれほどにも愛しさとかいったものを感じないのだろうかとむしろ奈綺は不思議に思った。近しさは、感じているかもしれない。人を喰ったような性質と、冷めた心。
 「おまえを孕ませるとなると――下手をすれば俺が多大な代償を払わねばならんことになるぞ」
 うまくおまえが孕んで何事もなくすぽんと生まれれば良いが、と柳帝は妙な言い方をした。
 「……彩がくる」
 「何?」
 思いがけない名を聞いた、という顔で男は小さく双眸の奥を揺らす。それから嘲笑にも似た嗤いを口許にうっすらと浮かべた。嘲笑に似ている、とはいえ別段嘲っているわけでもない。元来こういう笑い方をする男である。
 「私が呼んだ」
 「あの女は舜帝に嫁した。おまえと引き換えにこの国を捨てて舜へ行った女ぞ。恋に生きた女が――今更こんなところへ戻ってくると思うか」
 笑い方が似ていた。ふ、と唇に浮かべた奈綺の笑みが、これもまた嘲笑のごとく見える。生業柄、花のような満面の笑みを浮かべることもあった。妖艶な微笑を浮かべることもあった。
 だがこの女本来の笑い方は、どうにも人を小馬鹿にしたようなものになってしまうらしい。それでいながら、柳帝の笑い方を見ると憎たらしく思うのである。
 「戻ってくる。彩は私が孕んでいる間、私の代わりとなって盾となる」
 柳帝の問いに、奈綺はそう答えて寝台から立ち上がった。入れ替わりに柳帝が寝台に深く腰かけ、奈綺は静かに窓辺に歩み寄る。たおやかな姫の仕草ではなく、獲物を狙う豹のように隙のない身ごなしであった。
 「たいした自信だ……」
 こん。寝台の脇に据えられた棚に酒器を置き、男は呆れたように溜息を吐き出す。その姿が、なぜかひどく孤独なものに見えて奈綺は舌打ちをした。孤独。私はそれを愛すべき人間であるのに、いつの間にか将来までこの男と連れ添ってしまいそうな道を選んでいる。何があっても『風の者』としての誇りかな名は失いたくないと、まるで意固地なまでにそう思っている女だった。女としての生き方など、奈綺には無用だ。人間としてまともに生きたい、そう思うこともない。もう少し物心ついてから親に捨てられたものならば、まだまともに平穏に生きてゆきたいと切望することもあったろうが。
 「陛下の頼みを、あの女は断らないさ」
 「舜帝が彩に頼むと? 孕んだおまえの代わりになれと?」
 「……さて。どちらからともなく、そんな話になるだろうよ。彩は来る。あれももとは間諜の身。必ず血が騒ぐ」
 舜帝――あの方は、そういう方だ。たとい他国へ嫁した小娘の命であっても、決して粗末にはせぬ。舜国で『風の者』が強大な地位を築き、盲目かと思われるほどに忠実に歴代舜帝に仕えてきたのは――そういった賢帝が多かったからである。
 その心に応える使命がある。生死を超えた強い想いが、奈綺を動かしてゆく。この女の主君は柳帝ではない。
 舜帝その人ただ一人である。
 「彩に文まで送ったか…………となれば、おまえは何があろうとも俺の子を腹に宿す、と。その覚悟が完全にできたというんだろうな?」
 「私に子種を落とす覚悟がそちらにあるならば」
 これも柳のため。そちらに子を作るつもりがないならば、それはそれでおおいに結構。奈綺はけろりとした表情で言い放った。
 「ふん」
 男が鼻で嗤う。奈綺への愛しみも何も感ぜられぬ笑み。ただ愉快だ、という感情だけがゆらゆらとその口許に漂っている。思えば不思議な間柄でもあった。子を作るのに、これほど他人事な会話を交わす夫婦がどこにいよう。まるで戦に出てゆく前の武将の会合のような、あまりにも殺伐とした空気がある。
 
 それでも奈綺は悲しいとも切ないとも思わない。女としての道は、人間としての道はとうに捨てた。女であるより先に、人間であるより先に、彼女は『風の者』である。

 それでも柳帝は自分をおかしいとも冷たいとも思わない。男としての道は、人間としての道はとうに捨てた。男であるより先に、人間であるより先に、彼は柳国におけるただ一人の皇帝である。

 


 生まれてくる子。その幸せなどを考える優しさは、ない。











  【銀嶺の月】


 
 柳妃が懐妊したのは、夏が過ぎやがて白山が雪をかぶろうかという頃であった。
 「まだ機嫌を損ねているのか――」
 呆れたような低い声に思わず奈綺は眉を跳ね上げ、地味に足で寝台の脚を蹴りつけた。感情を滅多に外に見せぬ彼女だったが、珍しく苛々としている様子が見てとれる。白い頬に伸ばされた柳帝の美しい手を何とも邪険にふりはらい、風ひとつ動かさぬ流麗な仕草で寝台から立ち上がった。腹はまだ膨らんでおらず、依然獣のようなしなやかな肢体は変わっていない。透徹とした双眸にも、母としての愛や穏やかさなど欠片も見受けられなかった。この女が子を生んだならば、いったいどうなるのだろう――柳帝は愉快なような、それでいてそら恐ろしいような気持ちで己の正妃をゆっくりと見つめた。
 皇帝が問いかけても、まるで返事をする気配がない。眉を一度だけ吊り上げたきり、窓辺から外を見つめながら微動だにしなかった。飽きているのである。毎朝毎夕のように、好きな刻を選んではみすぼらしい麻衣ひとつで出歩いていた女だ。ひと月以上も宮廷の中に閉じ込められていて、呑気に微笑んでおれるはずがなかった。
 「女官をひとりつけよう」
 ほんのわずか、奈綺の瞳の奥が動いた。
 「入れ」
 ひとの話など聞きもせぬ。男は、奈綺の双眸が微かに動いたのを目敏く認めながら何者かに入室を促した。ごく静かな衣擦れの音をたてて室へ入ってくる、その穏やかかつ洗練された動きに奈綺の眼がようやく色を見せる。
 本来ならば女官ふぜいが、柳帝正妃と眼を合わせることなど許される行為ではなかったが、しかしその娘は堂々と顔をあげて奈綺と対峙した。
 「――さて。俺は席を外すとしよう。廉妃の室にでも入り浸ってくるさ」
 織布を跳ね上げて後ろ姿を見せた柳帝は、一度だけふりかえる。
 「夜半にまた呼ぼう」
 言葉を発しないまま、女官は恭しく拱手した。美しい女だった。形のよい唇には鮮やかな紅をひき、眉は柔らかに半月を描く。まるい双眸には、ほんの僅かばかり柳妃に対する親しみの情のようなものが垣間見えた。皇帝が室を出てゆくのを認めてから、ゆっくりと柳妃――いや、『風の者』奈綺――は女官に冷たい笑みを見せた。
 「本当に来たのか」
 女官は苦笑をたたえて息を軽く吐き、双眸をすがめたまま奈綺からわずか視線を逸らす。北国における初冬の陽は、昇ったと思えばすぐ落ちる。回廊の灯にも似た色合いで、陽が街を包み、そうして山の稜線を黒く縁どった。
 女官は胸元から何か小さなものを取り出して、それを奈綺のほうへ放り投げた。その仕草は、すでに女官のものではない。
 「……陛下より、それを」
 奈綺は小さく瞳の奥を動かした。まるい翡翠の珠に、精緻な鳳凰の彫刻が施されている。なんと懐かしい舜の護り神――柳帝の身体を受け入れたときにも、子を生したと分かったときにも決して浮かべなかったような微笑みを、奈綺は一瞬だけ唇に浮かべた。
 この女は本気で祖国を愛しているのだ、と彩は今更のごとく思い知る。祖国のためであれば、この女は柳帝さえも顔色を変えずに殺すことができるだろう。怖ろしい、とそこで思ってしまう自分が、やはり少しずつ間諜としての立場から舜国妃としての立場に馴染みつつあることに彩は複雑な思いで唇を噛んだ。
 ほんの少しだけ、羨ましいと思ったのだった。
 「安産であるように、と仰っていた」
 「………………」
 「奈綺?」
 「本当に柳まで来るなんて――馬鹿正直な女だね」
 「陛下がそれを望んでおられた。陛下に感謝することよ」
 奈綺は小さく嗤った。馬鹿正直な女、と憎まれ口を叩いていても、彩がこうして柳へ来ることはとうの昔に見通している。舜帝が必ず彩を寄越すだろう。舜帝の望みを、彩は必ず叶えようとするだろう。見通しがなければ、わざわざ舜に文など飛ばすわけがなかった。


 豪族の台頭に、異民族が関与しているということは無論奈綺も推測していた。異民族とひとくちに言っても、羊を飼いながら草原を流れる遊牧民だとかそういった類は特に問題ない。こちらから手を出しさえしなければ、向こうから牙を剥いてくることはなかった。 奈綺は、騎馬民族の動向をしつこいほどに気にしていた。
 「鬼氏《きし》――それから黄氏《こうし》……」
 地図を見ながら、彩が騎馬民族として名を馳せる氏族を思い起こしてゆく。
 「鈷竹《こちく》の民」
 鬼氏の一族は古くからほうぼうで大国を脅かす勢力として知れているが、ここのところ鬼氏と鈷竹の民の争いが絶えぬ。脚は風のごとく速く、躯は大地のごとく強靭。幾世代もかけて馬にすべてを費やしてきたのであろう。
 鈷竹の馬は、一頭で絹何十匹、銀何袋もの価がつく。その馬でもって、古くからの鬼氏を諍いごとに討ち破っているのだとか。時おり支岐とともに遠出していると、鈷竹の馬を眼にかけることもある。あの素晴らしい馬体を見るたびに、奈綺は馬の価値の大きさを思い知るのであった。
 彩が溜息をついて水差しの口に指をあて、ぺろりと舐めた。この女にもやはりまだ間諜の息が根付いているか、と奈綺はその仕草を見て思う。私室で水をのむときにさえも、毒が入っていないかを確かめる習慣。彩の身体から、その癖はまだ幾ばかりも抜けてはいないらしい。
 「つまり私に鈷竹どもの動向を確かめてこい、と。そういうわけか」
 奈綺は、返事をせずに唇を歪めた。この女独特の表情が、果たして肯定か否定か、分かる者には分かる。分からぬ者には分からぬ。
 「あんたの腰巾着は何処へ?」
 彩の言う腰巾着、とは支岐のことである。当人が聞けばさぞ怒り狂うだろうと思いながら、美しき『風の者』はにやりと笑った。
 「宮廷お抱えの薬師なんぞを腰巾着呼ばわりしていると、無礼討ちにされるよ」
 「愚かなことを。柳の宮廷のことなら、あの男よりも遥かに私のほうが詳しいだろうに」
 それも然り。かつて敵として対峙した女ふたりの間には、見えぬほど細い絆がある。今では奈綺は柳国正妃――彩は舜国正妃。彩は愛する男のもとへ嫁すことで己の道を生きようとする。奈綺は愛せぬ男のもとへ嫁すことで己の道を生きようとする。
 女としての生き様と、『風の者』としての生き様が、激動の時代で交錯する。生業を同じくしながら、違う道を歩く――この女たちは、互いを羨みもしなければ、貶しもしない。
 ただふとした拍子に、互いの生き様を不思議に思うだけである。恋や愛に生きることの幸福は、奈綺にとって理解しきれぬものだった。『風の者』として風の中を駆け抜けることへの眼をみはるほどの誇りは、また彩にとって理解しきれぬものである。
 「動きは逐一私へ。支岐以外の人間を決して通すな」
 「見上げた根性よ。子はいつ?」
 「次の夏が過ぎる頃には勝手に生まれてくるわ」
 彩はこういうとき、心の底から呆れかえる。もしも舜帝の子を授かることができれば、私は天にも昇る思いになれるだろうに。おそらく生まれてくるであろう子が、愛おしくて愛おしくて仕方がなくなるだろう。それをこの女は、子など勝手に生まれてくるわと乱暴なことを言い放つ。いったいこの女は何でできているのだろうか、と彩は思った。
 奈綺を「女」と見ること自体が滑稽なのだということに、彩は気付かない。奈綺という人間は、確かに特殊なのであった。女の間諜は数多く居れども、その半数近くは恋をし、やがて男を愛して妻となり母となっていく。残りの半数の半数は二十に届かぬうちに死んでゆき、そのもう半数は情に溺れて身を滅ぼす。
 奈綺ほどに己を消し、恋も愛も一顧だにせず『風の者』に生きる女はほかに例を見ない。確かにこうして歴史上に名を残した女間諜は、奈綺のほかにほとんど居ないといっても過言ではなかろう。後にまた名を残す女の『風の者』――それもまた、血を辿れば奈綺を先祖に持つのである。
 
 月は銀嶺のふちから昇る。
 
 「子が生まれたら……その祖国への愛を、少しでも分けておやりよ」
 そう言って、彩は水をついと飲み干した。ひどく穏やかな、女の手つき。媚を覚えた女の手つきだった。
 「愛がなくとも子は育つ」
 奈綺の声色には、やはり感情の起伏がない。愛がなくとも子は育つ。奈綺は乳飲み子の頃にすでに親に捨てられた。彼女は親の愛を知らぬ。もしも子を生むならば、その子には愛よりも『風の者』としての術を与えたい。そうして、いつしか柳ではなく舜を護る――舜に仕える忠実な『風の者』にしたいのだ。舜帝の子孫に、末代まで付き添ってゆけるような『風の者』に。奈綺とは、そんな女である。もとから子に愛を与えて慈しみ、育もうなどという気はない。
 ともあれ、この日を境に奈綺が自由に外を飛びまわることはなくなった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 星が煌めいて流れてゆくさまは、美しい。純黒ではなく濃紺というにふさわしい夜空の色が、彩の心を慰める。今宵は流れる星の数が多く、まるで音がしそうなほどに思われた。
 (………………)
 窓から見える星々をわずか見つめてから、彩はゆっくりとかつて忠誠を誓った主君へと身体を向ける。
 「本当に……ご無沙汰しておりました。陛下」
 「おまえも子を生したらどうだ。奴とはしっかり睦んでいるのだろうが」
 「そればかりは運と時機がありますゆえ」
 ふ、と男は軽く鼻で嗤った。相変わらず変わっていない――温かみのない嗤い方だ、と彩は思った。決して疎んでいるのではなく、懐かしんでいるだけである。舜帝はこのような嗤い方をせぬ。鼻で笑うにしても、もう少し人間味のある優しげな笑い方をするのだった。
 「あれも思いきったことをする。そうは思わんか、彩よ」
 あれ、というのが何を指すのか、彩にもすぐ分かった。
 「それほどにおまえのことを信用しているのかな、あの女が」
 湯湯婆《ゆたんぽ》の上に長い脚を投げ出して、柳帝は流麗な仕草で酒を口に運ぶ。彼の脚に丁寧に絹布をかけ、彩は微笑んで答えた。
 「……彼女は、私を信用しているのではございませぬ」
 「ふん」
 おそらく男も分かっているのだろう。また鼻で嗤った。
 「彼女は、舜帝陛下のことと己のことを一番に信じております」
 かつて仕えた主君の前で、舜帝を舜帝陛下と呼ぶことに躊躇いはなかった。



 
 一方でその頃、奈綺は男の傍らにいた。
 「おまえは凄い。誇りかな『風の者』だ――……だが、それが果たして正しいのかは分からんな。おまえの子は哀れだと思うよ」
 支岐は男のわりに、少々情に厚いところがある。日々喧嘩し、嫌いあっているうちに、この男は奈綺に親しみを感じはじめてきたのであろう。奈綺自身は表情ひとつ変えずに、木苺をひと粒つまんで口に放り込んだ。
 「哀れ……?」
 「そう、哀れだ。親に愛されぬ子がどれだけ苦しむか、おまえが一番分かってるだろうに」
 奈綺は笑った。
 「支岐。それは私にたいする哀れみか」
 「そうではなく、おまえ……」
 この男は腕の良い『風の者』である。舜のなかで奈綺に次ぐ、素晴らしき間諜。しかしこれはもしかすると、あまり冷酷な『風の者』には向かないのかもしれぬ、と奈綺は思った。
 「放っておけ。この腹の中にいる子は、間違いなく私が育てる」
 親子ではなく、師弟のような関係として。奈綺は平然としている。
 「国のためには子をも殺せる、か」
 「殺せる」
 ぞくり、と鳥肌立つのを支岐は感じた。何の躊躇いもなく己の子を殺せる、と言い放つ女をはじめてみたのだった。これが、すでに腹に子を宿している母の姿か。こんな女でも、子を生んでしまえば変わるのだろうか。
 運命を感ぜずにはおれない。奈綺の子もまた、『風の者』となってゆくのだろう――だがこの女。誇りかだ、と支岐は思った。これが『風の者』の理想の姿。あるべき姿である、と思った。

 
 月は銀嶺のふちから昇る。このときすでに、鈷竹の間諜が柳の都に忍んできていた。











 【雪月姫】壱


 
 雪はしんしんと降りつもっている。鈷竹の間者が忍んできていることは支岐から伝え聞いており、そのこともあって奈綺は皇帝になかば無理やり室に閉じこめられていた。これは軟禁だと、この勝気な女は幾度も噛みついたが、しかし柳帝もまたそれをすんなり聞き入れるような生易しい男ではなかった。そうして、今は外を飛びまわる時期ではないと、奈綺自身も十二分に理解していたのである。
 「さて、男が生まれるかな。女が生まれるかな」
 奈綺は鋭利な双眸で皇帝の美貌を一瞥した。この女の気がたっているのは、孕んでいるからではない。外を自由気儘に飛びまわることのできぬ鬱憤が溜まっているだけである。
 「どう思う、おまえ」
 知らんわ、とでも言うように奈綺は再び視線を丸窓の外にやった。外の世界に焦がれている瞳だ、と男は何ということもなく思った。
 「男を産め」
 奈綺は静かに眼を閉じた。柳帝の戯言も聞き飽きてきたし、何より外に出たいと身体の中が疼いている。
 眼を閉じればあの美しき白山の冷たさが蘇り、耳をすませば戦のあの鬨《とき》の声が聞こえてくるようだった。男との間に子をもうけ、真綿でくるまれたような暮らしをするのは奈綺の性に合わない。死と隣り合わせの緊迫した暮らしが、合っている。女という器をもって生まれたことが彼女にとって幸か不幸か定かではなかったが、しかし女として生まれたからこそここまで生き残って来ることができたのかもしれぬ。
 丸窓から白山が見える。白銀に覆われた急峻は、女のような気高さを湛えながらも雄々しく険しく聳えたっている。あの山にどれだけの間諜どもの屍が埋もれているのか推し量ることもできなかったが、白山を味方につけられぬ者は『風の者』として生きてはゆけない。
 凛々とした白山を愛おしく懐かしいと思うこの女は、常人からするとやはり幾らか狂っているようにみえよう。
 「奈綺よ、飯は食え。腹の子に悪いことはしてくれるな」
 「…………」
 「さすがの俺も、その腹をかっさばいて赤子の死体を引きずり出すのを見るのはごめんだ」
 この男の物言いは、身も蓋もない。身籠った女にその言い草か、と奈綺は皮肉っぽく呟いたがこたえぬ。気遣ってやらねばならぬような性質か、と逆に言い返される。奈綺は苛々と美しい唇を噛んだ。
 気高く聳えたつ白山――山裾を悠々と流れゆく蒼河。輝ける銀世界。
 (子というものは)
 なぜ一日二日でころりと生まれでてくれぬのか。一年近くも腹に宿せば情が湧く。一年近くも腹に宿せば、思うようにも動けはしない。相も変わらず『風の者』奈綺は、母親らしからぬ――そして女らしからぬことを思って今日も窓から白山を眺めるのである。あたかも恋人を見るかのように懐かしげな双眸で。けっして人間には見せることのない瞳だった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 
 首がふたつ、同時に飛んでごろりと雪の積もる地面に転がりおちた。奈綺から預かった糸刃扇からぽたりぽたりと温かい血が滴る様子を、支岐は冷徹な双眸で一瞥する。奈綺と言い合うときだけは年相応のやんちゃな感情を見せる男だった。
 なぜ俺がこんなことを、と彼は舌打ちとともに呟き、腹立ちまぎれに転がる生首をさらに容赦なく蹴り飛ばした。柳国の都内《みやこうち》からおびきだしてきた間諜である。対峙したときには炯々と鋭い輝きをみせていた彼らの瞳は、こうして死んでしまうとあっというまに澱んでゆくのだった。支岐にとってはもはや敵の屍でも何でもなく、ただの肉の塊にすぎぬ。
 「……ふん」
 ふりかえりざまに糸刃を飛ばした支岐の手に、手応えがあった。それと同時に怒り狂った静かな声が。
 「敵と味方の区別もつかないのか、支岐殿よ」
 「貴様はもとから敵であろうがよ」
 支岐は吐き捨てた。木々の合間からひっそりと現れたのは女である。髪を器用に紐でくくりあげ、唇には舶来のものと思われる紅をすっとさしている。瞼には青い影を落とし、遠目にも美しく化粧をしているのが分かる姿だ。彩だった。
 「……舜帝陛下の正妃に大層な口を利くものね」
 支岐と犬猿の仲、といえば『風の者』は皆口を揃える。あいつと一番仲が悪いのは奈綺ぞ、と。しかし支岐にとっては、奈綺よりも彩のほうが気に入らぬ。
 間諜のくせに他国の君主に恋をして祖国を捨て――そうして間諜のくせに化粧をし、女だということを匂わせる。それが気に喰わぬ。
 (――奈綺は)
 あの女は化粧をせずとも唇は紅く、肌は白い。それなのに女を捨てている。
 あれの一種の清潔感が、支岐は好きなのだった。欠片の媚もない『風の者』としての高潔さが好きなのである――悪すぎる性格と傲慢な口の利きようはいつでも腹に据えかねるが。奈綺と彩を比べる滑稽さに、支岐は気づかない。もとから違う生き物としてみるべきところを、同じ女間諜として比べるからこそ彩が気に入らないのだということに支岐は気づかない。
 それがこの男の愚かなところである。
 「鈷竹の間諜か」
 奈綺の言ったとおりだ、と彩は呟きを落とした。
 「こんな雪深い国なんぞ、豪族どもにくれてやれば良いと俺は思うがな」
 「奈綺が律儀に守ろうとしているか」
 「…………守る?」
 ふん、と支岐は嗤った。この男の嗤いかたも、どうやら時を経るごとに柳帝や奈綺に似てきたらしいと彩は苦笑する。
 「あの女が柳を守ろうとしているなどと思い違いをしないことだな」
 「…………」
 「…………」
 沈黙。言葉を押し込めてしまうと、もはや風の音しか耳をうつものはなくなる。雪が音という音を吸いこみ消してゆく。確かにあの女は、と彩は溜息をついた。確かに奈綺は、柳を守ろうとしているわけではないのだろう。柳帝に愛を捧ぐわけでもなく、隙あらば舜の属国にしてやろうと虎視眈々ねらっている。柳には何の愛着もない女である。

 それでも柳帝をあの女に託したいと思うのは、なぜだ。

 「母性か」
 「何?」
 怪訝そうな顔をめぐらせた支岐を退けて、彩は足を踏み出した。奈綺が愛を知ればどうなるのだろう、とふと思った。今よりも強くなるか――それとも弱くなるか。どう転んでもそれはそれで愉快な見物になるかもしれない。彩はそう思いながら、支岐を無視して木々の間を都めざして駆け出した。舌打ちをして、支岐もまたそれに続く。



 鈷竹は、間諜を柳に送りつづけていた。
 鈷竹は、桐に使者を送りつづけていた。
 奈綺があれほど鈷竹の動向は逐一知らせろと命じていたにも関わらず、彩と支岐は鈷竹が桐に使者を送っている事実に気づくことができなかった。鈷竹の間諜を始末することだけに気をとられすぎていたのである。
 奈綺の腹が少し目立つほどに膨らんだころ、桐から使いがやってきた。先だって献上した我が桐の廉妃を丁寧に扱えという苦情が主で、ひとしきりつらつらと苦情を述べたあと宴もそこそこに帰国を願い出る。柳は礼を尽くして送り出したが――奈綺が疑念を抱いて支岐に後をつけさせたときには時すでに遅く、桐使の一団は桐の国境近い柳の領内で皆惨殺されていた。


 

 戦になる、と奈綺は淡々と呟いた。
 「………………」
 寝台の脇でゆったりとたわむ織布の傍ら、支岐と彩は言葉を探す。己の不注意だったと詫びる気にもなれず、かといって私たちは悪くなどないと開き直る傲慢さもさすがになかった。奈綺の隣でただ黙って瞳を閉じている柳帝の存在が、室の空気をさらに重くしている。
 「――鈷竹の間諜が多すぎ、」
 「別に責める気はない」
 奈綺が低く呟いた。この女にはやはり表情がない。支岐を罵るでもなく、彩を嘲るわけでもなく、ただ長くしなやかな脚をくみかえて遠く窓の外を一瞥した。
 「舜へ帰れ、ふたりとも」
 「本気か」
 「冗談で言っているように聞こえるか、耳がついているならまともに使え」
 支岐は一瞬双眸の奥を動かせた。奈綺の真意をはかりかねた顔であった。柳帝は黙ったまま火酒をゆるりと舐めるばかり、一声も落とさぬ。この状況を愉しんでいるのか怒っているのか、それとも焦っているのか怖れているのか、まるで表情を動かさぬ。
 「帰りたくないなら好きにするといいさ。どうする」
 問われて支岐が最初に動いた。どんなに虫の好かぬ女であるにしても、奈綺は『風の者』――柳ではなく舜帝に仕える『風の者』。ここで柳を豪族の手に落とさぬことが、いつか舜のためになる。奈綺がひたすら舜のためだけに生きていることを、支岐は知っている。
 腹立たしくとも、体が動く。この男も『風の者』だった。今何をすべきなのか、誰の言葉に従うべきなのか、己のすべきことは己が最もよく知っている。
 「帰るのか、支岐」
 彩が問うた。
 「ああ、帰るさ。女帝のご命令だからな」
 自嘲気味に嗤いながら、支岐はさっそく踵をかえす。奈綺は、けっして無駄なことをしない女である――支岐はじゅうぶんにそれを知っていた。
 「………………」
 「夜半、発つ」
 無愛想に、支岐は呟いた。彩が溜息をつき、奈綺は表情を変えぬまま、そうして柳帝だけが愉快そうな笑みを湛えて酒を口にふくませた。









 

  【雪月姫】弐

 
 けっして綺麗な衣ではない。手触りも悪い麻衣である。今こうして身に纏っている絹の薄物、華やかな襲《おすい》――絹の裳とは当然くらべものにもならない。寝台の上へ広げたその粗末な麻衣を、奈綺はじっと見つめた。この女の身体にぴたりとあった衣である。しかしそれも孕む前のこと。腹が膨らんできてしまっては、ろくに衣も身につけられぬ。
 奈綺はひとつ溜息をついて、ふたたび窓の外を見晴るかす。美しい世界だ。あの厳しく白い雪の世界――私が自由に駆けるべき大地だ、と彼女は思った。
 (戦が起こる)
 気づくのが遅すぎた。荒々しい騎馬民族は言葉巧みに桐の女帝をそそのかし、娘の命は決して奪わぬと口先で誓い――そうして桐と鈷竹、手を組んで柳に進軍してくる。おそらく進軍してくるまでにそれほど間もなかろう。
 柳帝は、無表情のままで窓の外を見つめる女を一瞥した。帝がそこにいるのを知っていながら、まるで見返りもしない妃である。そして喋らない。奈綺にとって沈黙はけっして苦ではなかった。必要とあらば五日でも十日でも口を閉ざしていることができたし、それこそこの女ならば一年でも二年でも言葉を忘れたように暮らすことができるのではないだろうかと柳帝は思うのだった。
 「桐はいつ来るかな」
 柳帝が言葉をかけてはじめて、奈綺が無愛想に呟きを返す。
 「……もう間もなくか……雪解けを待ってからか」
 「虚を突くとすれば、雪解けを待たずに来るだろうな」
 暖炉で火がはぜる音がした。皇帝正妃、しかも皇帝の第一子を身籠った正妃の室である。妃の身体に万一のことがないように室内は心地よく温められていた。
 「しかし俺たちは雪に慣れている。わざわざ雪の中進軍するか」
 「鈷竹は雪慣れしていないとでも?」
 柳帝に問うているようでいながら、奈綺の双眸は遠くを見つめている。自問しているといったほうが正しいかもしれなかった。
 「雪では五分だろう」
 「馬では?」
 「……幾分か鈷竹に利が」
 こういうとき、『風の者』の言葉ははかりしれぬ重みを持った。国境も関係なく大地を駆け、山を奔り、大河を渡る。小柄な身体の中に、数えきれぬ民族についての数えきれぬ知識が詰め込まれているのである。
 「ふん? 武官たちの言い分を聞いてこよう」
 にやり、と皇帝は嗤った。心底からこの状況を愉しんでいるふうにみえるその美貌は、相変わらず凛々として美しい。温度のない冷たい美貌を扉のほうへとめぐらせて、彼は静かに室を出ていった。
 あの後ろ姿は、なぜああまでも堂々としているのだろう――奈綺は時おりそう思う。奈綺に対しては何の疑いもなく見せている、堂々と安心した後ろ姿。もしかすると後宮の女君たちは、あの気高く頼もしい後ろ姿に惹かれるのかもしれぬ……。

 

 ふたたび静けさが――火の爆ぜる音だけは時おり室内に響いたが――あたりを包む。奈綺は、どれほど正妃として着飾られても肌身離さぬ布袋からひとつの小瓶をとりだした。 彼女の親指ほどの大きさである。黒い瓶であるがゆえに、中身が液体なのか粉なのか、また何色なのかも傍目には知れなかった。
 (……おそらく)
 小瓶越しに窓からのぞく銀世界を見晴るかし、奈綺はそれからふと瞑目した。
 (おそらく、鈷竹は雪解けを待たずに最初の軍を送ってくる)
 冴えてゆく。
 (少なくとも幾らかの兵を)
 開けた双眸が獣のように炯々《けいけい》と輝く。腹の底からわきあがってくる静かな闘志。本来自分の生きるべき懐かしき場所への憧憬。
 (容易に片のつく戦ではない。下手をすれば春を越してもまだ続く……)
 鈷竹は、満を持してやってくる。『風の者』が感心するほどの馬術をもってやってくる。柳帝に対して反感を抱いている貴族が、いったいどれほど寝返るだろうか。だいたいの目星はついているが、正確な数はまだ知れぬ。
 (私は柳の正妃ではない)

 ――『風の者』だ。
 
 奈綺は小瓶に手を伸ばす。その瞳はひどく穏やかで、そのどこにも迷いは見受けられない。音もなく栓をはずし、女はそれを数滴、喉に流しこんだ。




 それを流しこんだ途端、ぐぅっ、と奈綺は低く呻いた。呻き、そして寝台に倒れこんだ。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 火にかけた銅鍋の中が煮たっていた。汁に放りこまれているのは、兎が食うような野菜の切れ端と味噌だけである。それでもこの寒い中に、湯気のたつ汁は死ぬほどに美味かった。
 支岐は粗末な木椀に汁をめいっぱい注ぎ、これも粗末な匙でかきこんだ。
 「……死ぬかと思ったぜ」
 白山を越えて舜へ戻ってきたところなのである。この季節の白山を越えられる者は、『風の者』の中にもめったにいない。体格の良い男でも、こうして命からがら越えてくる。独りごちて、支岐は次々と椀に汁を注ぎ、かきこんでいった。柳を発ってから乾し肉と乾し魚だけで過ごしていたが、白山の中で糧が尽きた。
 まともに食うのは十日ぶりほどかもしれぬ。やっと帰ってきた、という安堵が支岐をあたたかく包んでいる。この男のこういうところは、ひどく人間らしい。根が素直な人間なのである。あからさまに嬉しそうな顔をして、彼は鍋の中身を食いきった。
 (……ったくあの女、好き勝手言いやがる……)
 舜へ帰れ、といったときのあの冷たい声。あれに果たして女の血が通っているのか――いや人間の血が通っているのかさえ分からない。しかし支岐はなかば畏れに近いものを、彼女に抱いている。そうしてどこか憧れに近いものさえも。
 ともかく舜に帰り着いた。今頃別の道程で彩も舜へ戻ってきているだろう。あれも不思議と奈綺の言うことをきいてしまう性質らしい。それにしても支岐と彩をほぼ脅して送り返した理由は決まっている。いざというときに素早く舜から援軍を出させるつもりだ。
 山の麓の木小屋を、いまだ幾度も冬の突風が襲う。はやめに宮廷まで駆けよう、と支岐は火を踏み消して小屋を出た。この小屋には常に『風の者』が使うために馬を繋いである。馬ごとき『風の者』にはなくとも差し障りないが、無論あるに越したことはない。
 支岐は何の気はなしに黒毛の牡馬にゆっくり近寄り、馬首に手をかけた。
 
 思いきり噛まれた。苛立って怒鳴り散らしながら馬の双眸を見ると、その汚い手で俺に触れるなと言わんばかりの獰猛さで輝いている。
 この荒馬は、と思い至った――奈綺の愛馬であった。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 
 ぐぅっ、と呻き寝台に倒れこんだ。胃の中が強烈に熱くなり、今までにない吐き気が胸にこみあげてくる。奈綺はそれをじっと耐えた。細くしなやかな手指が、寝台の布を筋の浮き出るほどきつく握る。腹の中で、大きな蟲が縦横無尽に暴れまわっているように思えた。
 「…………っ!」
 奈綺は無言でのたうちまわった。この女が飲んだのは毒である。女の『風の者』にだけ師から与えられる、堕胎の毒である。本来こうしてあっさり飲めるものでもなければ、無言で苦痛を耐えられる程度のものでもない。しかし奈綺の精神力は狂人のそれに近い。正気とは思えぬほどに、ひとつのことに命を賭ける。
 (私は『風の者』だ)
 柳の正妃座は、本来私がいるべきところではない。戦が起こったそのとき、その場所に――戦うために立っているのが本来の私だ。
 (守れ、その場を)
 鈷竹が攻めてくるまでおそらく間がない。鈷竹が攻めてきてから腹の子を堕ろしていたのでは遅すぎると、奈綺は決断したのだった。早急に決断して薬を飲んだのは――それだけではないかもしれぬ。
 『おまえの腹内で人ひとりを殺す薬だ』
 師の言葉が脳裏によみがえった。早急に決断して薬を飲んだのは――腹の子へ対する微かな微かな思い遣りだったかもしれない。
 彩が知れば血相を変えて怒り、軽蔑するだろう。薄れてゆく意識の中で、奈綺は小さく嘲笑を洩らす。
 それでも私は『風の者』、腹の子ひとりに国の行く末を惑わされてはならぬ。腹の子には死んでから幾らでも詫びを入れるさ。腹の子が泣き叫ぶさまを思い描きながら、奈綺は苦痛のあまり血走る瞳をゆっくりと閉じた。


 


 『風の者』奈綺は、腹に宿った柳帝の子を葬った。
 すでにこの女の眼は遥けき大地をみている。けっして戦を喜んでいるわけではなかったが、その顔はひどく生きいきと輝いていた。
 奈綺の推測は当たった。放した間諜が、柳と桐の国境近くに鈷竹の小さな騎馬団を見つけたのである。
 
 ――けっして綺麗な衣ではない。手触りも悪い麻衣である。今こうして身に纏っている絹の薄物、華やかな襲《おすい》――絹の裳とは当然くらべものにもならない。寝台の上へ広げたその粗末な麻衣を、奈綺はじっと見つめた。
 薄物を脱ぎ、襲を払い、裳を脱ぐ。麻衣を身につけてゆく。戦だ。平穏に慣れきることのできなかった身体が、芯から疼いた。


 

 奈綺が飛びたつ。









  【雪月姫】参
 

 
  煙潜誓不負     《煙霞を潜り 負けぬと誓う》

  是我行道也     《これぞ我が身の行く道ぞ》

  踏締耀泡雪     《耀く泡雪踏みしめて》

  無音駆大地     《音なき大地を駆けぬける》



 
 子殺しの毒は奈綺が思っていたよりも強く、そののち数日ほど彼女の身体を蝕んだ。数日で済んだのは、彼女が彼女であったからである。平凡な女であれば飲んだ数刻後に息絶えていてもおかしくはない。
 「……さっさと飲め」
 柳帝が椀を差し出した――薬湯である。不遜かつ尊大な態度も、人を喰ったような物言いもまるで普段と変わらないが、さすがにこの男も、奈綺のとった行動には幾分驚いたらしい。
 「…………」
 少しばかり冷ました薬湯を一気に飲み干して、奈綺は誰にも分からないほど小さく眉をひそめた。口が曲がるほど苦い薬湯に、辟易している。身体はもうほとんど元通りに動くが、まだわずかに身体に残っているであろう毒を解くためにあと数日は薬湯を飲み続けなくてはならない。

 ――『この強烈な苦味は舌を麻痺させる』

 そういって奈綺は幾らか薬湯を拒んだが、柳帝がそれを許さなかった。まるで傍目には、妃を想う麗しき男のようであった。傍目に見た場合の話である。いつもは曇りなく澄んでいる奈綺の双眸も、今はまだ幾分充血していた。この女相当強い薬を飲んだらしい――思いながら、柳帝は、奈綺が空になった椀を卓子《つくえ》の上に置く滑らかな仕草を見つめた。無駄のない美しい動きである。
(こやつはまったく……どこまでも『風の者』としての己を失わぬ人間ぞ)
 これが舜という祖国を捨て、その身のすべてを柳に捧げるとしたら――柳はけっして地から揺らぐことはなかろう。柳帝はそう思った。奈綺の性質から考えて、しかしそれは断じてありえぬことであった。
 柳は大国である。白山の南に位置する舜国に比肩するだけの国土の広さと兵力を有している。しかし舜と異なるところは、柳という大国を構成する民族の多さにあった。
 (この国は、血の根源をひとつとせぬ)
 すぐ北に海が広がっていることもあるのだろう。海を渡ってやってきた民もいれば、桐よりもさらに北から流れてきた民もいる。草原を駆ける遊牧民族の血もまた柳人の中には流れているのである。
 いっぽうで舜はもともとひとつの民族であった。ひとつの遊牧民が成す小国が、遥かなる年月をかけて絆の強い大国へと成長してきた。奈綺という『風の者』ひとりとってみても分かる。舜人のそれぞれが、祖国に強い愛着を抱いているのである。彼らはみな、その身体に滔々と流れる血の源をひとつとし、舜という大きな家族を形成しているのだった。 舜人はみなそれを自覚しており、自覚しているからこそめったなことでは内乱が起きぬ。舜人にとって舜帝は偉大なる父であり、舜人にとって直接邑を治める大夫や大臣たちは親しみやすき兄であった。
 その点、柳はさまざまな民族が入り混じっているため、そのぶんさまざまな思惑もまた入り混じる。また元来柳人が好戦的な血を持っているためか――争いを好む武人がよく現れるのである。先年、皇帝暗殺と帝位簒奪をたくらんだ湯庸がその良きためしであった。
 この柳は、そろそろ根底から変わらねばならぬ。柳帝はそう思っている。血を異にするぶんだけ結束を強めなければ、そのうち他国に侵略される。
 「国境に鈷竹の兵が五千。十の旅《りょ》ごとに分かれているらしい」
 柳帝は言った。旅とはおよそ五百の兵団である。奈綺はすでに己の情報網をつかってそれを察していたらしく、特に何の表情も見せない。
 「夷址《いし》の兵を動かしているが、ここからも二師の兵を出すしかないか。五千はやり過ごせる数ではなかろう」
 柳帝は言った。
 夷址は、ちょうど鈷竹の棲む山野の南にある邑である。柳帝の異母兄が治めている。
 「二師も出すのか。そうすると都には三師しか残らなくなる」
 「……そうなる。しかし……」
 一師には二万の兵が属する。つまり柳の中心には五師、計十万の兵力があるのだが、そのうちの四万の兵を夷址へ動かそうとこの皇帝は言っているのであった。
 「鈷竹にかまけていて良いのか。桐は海からくる」
 奈綺は警告した。柳のすぐ北には海がひろがり、その向こうにかの廉妃の祖国桐があるのである。鈷竹が桐に与《くみ》した以上、その兵力は侮れぬ。小国といえど三師を有する桐のこと、娘を救いあわよくば柳の国土をもぎとろうと考えているに違いない。
 「海をわたれば桐軍は疲弊する。少なくとも互角の戦になろう」
 こたえた柳帝の端整な顔を、奈綺は感情のない双眸で見つめる。
 「夷址に兵はいらぬ。そうだな、五旅で良い。あとは残りの全軍で桐の兵を迎えうてば良い。ここで圧勝しなくては柳帝の威厳も損なわれる」
 行軍には莫大な金もかかる――無駄なことをするな、と奈綺は透徹とした瞳のまま言った。
 「……奈綺よ。俺の疑念が分かって言っているのか」
 ふたりの音なき息遣いが絡みあう。雪におおわれた柳都はまだ平穏そのものであり、戦の匂いはまだ漂ってもこない。柳帝の低く深い声色に、奈綺は嘲笑を見せた。
 「わたしが何をしても文句をいうな、柳帝」
 妃の貌はとうの昔に消えている。その美貌に輝く双眸は間違いなく『風の者』の彩りを含んでいた。柳帝に面と向かってたいそうな口の利きようであったが、もはや礼儀など奈綺には通ぜぬ。あまりにも静かな奈綺の言葉に、男は小さく嗤ってその腰を抱いた。
 (この女は――やはり使える)
 「文句など言わんさ。おまえが夷址へいっている間は……そうだな。廉妃の肌体でも堪能しておこう」
 奈綺の瞳が深々と煌めいた。自覚している。身体中が、外の荒々しい世界を欲していた。どうやらこの女の身体は、平穏に慣れることのできぬようつくられているらしい。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 劉乾《りゅうけん》は渇いた喉を水で潤してから、隣に坐る崔朝《さいちょう》に小さく問いかけた。
 「柳の動きは如何か」
 夷址のすぐ北に置いた陣の内である。鈷竹はひとりの人間を王としない。常にふたりの人間を頭に置き、お互い諫言と援助を交わすようにできている。この時代、鈷竹のような政は他に例を見ない。
 「さて……柳帝が都から兵を動かすと決めたときには、即刻報せがくるように手筈を整えているのだが」
 鈷竹の智将崔朝は、幕張のなかで声を落とした。ずいぶんと前から、柳の文士湯封《とうほう》と内通している。非常のときにおける柳帝の動きは、手に取るようにわかるはずであった。
 「もしも柳が全軍で桐を迎え撃つとすると……我々は夷址を楽に落とせるな」
 「舜が援軍を出す兆しはないか」
 落ち着いた崔朝の言葉に、劉乾は焦るようにたずねた。舜が援軍を出すのであれば、鈷竹と桐が結んだところで勝ち目はない。
 「……それはないだろう」
 音にきく『風の者』奈綺。さまざまなところから入ってくる彼女の性質をあわせて考えると――、と崔朝は説く。
 「この時期に白山を越えるとなると、舜軍も無傷ではすむまい。莫大な行軍の費用もかかろうし、おそらく白山で死ぬ兵も少なくないだろう。この時期に援軍を出しても……舜が得るものは何もない」
 舜帝は無駄な行軍をみすみす許すような愚帝ではなかろうし、もちろん援軍を出そうとしても『風の者』が諌めるに違いない。崔朝はそう読んでいる。その読みに、劉乾もまたひどく納得した。『風の者』のすさまじさ――祖国への忠誠心はかねてから聞きおよんでいる。
 このとき、柳帝の正妃が実は奈綺であるという噂はまだ洩れていない。眼前にあらわれた間諜を、奈綺がことごとく殺しているせいでもある。
 「夷址にどれほどの兵を動かしてくるか……」
 すでに夷址の主である香荻《こうてき》――つまり柳帝の異母兄である――とは話がついている。香荻のもつ兵力は一師二万。今、崔朝と劉乾が陣を敷いているところから北へ数里の山裾には、すでに鈷竹の騎馬軍二万が潜んでいる。戦になって香荻がこちらに寝返れば、鈷竹の軍は一挙に四万五千にふくれあがるのである。
 「汝はどう思う。柳帝は夷址にいくらの兵を寄越すだろうかな」
 劉乾は問うた。
 「……多くとも一師。二師はけっして出さぬであろう。柳帝は愚かではない。海から桐軍がくることなど見通しているに違いない。それを見通していながら二師を出すとすれば、愚かのきわみ」
 「同感だがしかし……もしかすると一兵も寄越さぬことも考えられようぞ。夷址には二万の香荻がおる」
 崔朝は苦笑した。確かに柳帝には香荻が寝返ったことなど伝わってはいないだろうが、まさか一師も寄越さぬなどということは考えられぬ。
 (兵を寄越さないのであれば、それはそれで好都合だが)
 思ったちょうどそのとき、幕を揺らして使いの男が内へすべりこんできた。崔朝が落ち着き払っている一方で、劉乾は鼻息荒く使いの男に問いかけた。
 「どうだ」
 「お報せ申し上げます。柳帝は、全軍柳都にとどめるつもりのようでございます」
 崔朝の眉が、小さく動いた。まさか、という気持ちであった。
 (柳帝に何か策があるのか――……それともただの暴君であったか)
 「夷址に兵は寄越さぬ、というのだな」
 「五旅を寄越すのみでございます」
 「五旅……」
 使いは幾度か重ねて頷いた。寄越される柳兵はわずか五旅二千五百。彼らは四万五千の兵に対することになるのである。鈷竹の勝ちが見えた、と崔朝はようやくわずかに安堵した笑みを見せる。夷址は戦わずして落ちた。そう確信した。夷址さえ落としてしまえば、四万五千の大軍を止める力のある柳邑はないだろう。地方の邑に権勢を与えると叛乱の種になる。それがわからぬ柳帝ではあるまい。ほどよく邑々の権勢を削ぎとっているに違いなかった。
 夷址だけが若干の権勢を誇っているのは、まがりなりにも帝の異母兄だからである。そこさえ落とせば、あとは苦もなく都へゆける。
 「柳帝は、我々が思っていたほど手ごわくはないようだ」
 気を抜くな、と崔朝はたしなめたが、やはり笑みは隠せなかった。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 このとき奈綺は、支岐を舜から柳へ呼びもどしていた。舜へ戻ったばかりのところをふたたび柳へ呼ばれて内心怒り狂ったが、勝手気儘な奈綺の要望に罵詈雑言吐きながらも、この男はしっかり従う。もちろん彼の罵りは、奈綺の耳は通り過ぎるものの、その身体の芯までは届かない。平然とした顔つきで、いっこうにこたえる様子もない。
 奈綺は、五旅の指揮をこの男にまかせた。無論、表向きは柳帝の命であった。そうしておきながら、奈綺はこのときすでに柳都を離れている。女は単身、馬に乗って夷址へと向かっていた。








 【夷址小戦 《壱》】


 
 奈綺は、夷址へ入った。夷址の宮城は、宮城それそのものが要塞となる。北に鈷竹の棲む山野を臨み、柳都よりもわずか乾いた気候のもとに栄えていた。
 「ねぇ」
 夷址の宮城にほど近い宿屋であった。夕陽がじんわりと落ちてゆくなか、食堂は少しずつ人で埋まりはじめている。じきに混みあうだろう。奈綺は、合席になった兵士らしき男に声をかけた。微かに媚を噛んだような、艶のある声色である。
 若く強靭そうな身体をもった男は、驚いたように喉を鳴らして奈綺と目をあわせた。好色そうな目だ、と奈綺はこの男を標的に決めた。
 「宮城で働いてらっしゃるの?」
 すっと通った鼻筋に紅いくちびる、白い雪肌。ほんのわずか上目遣いのその双眸は、まるで濡れた輝石のように美しい。この女は、己の美しさと魅力をよく自覚している。
 「ああ、そうだけど……ただの衛兵だぜ」
 そうなのですか、としとやかに眼を伏せた奈綺の呟きに、男は食いついた。
 「どうかしたのかい」
 「え、えぇ。あの……」
 「何だ? できることなら力を貸してやるから」
 口ごもる哀しげな美女――その今にも泣き出しそうな愛らしい双眸。
 「……身寄りがなくなってしまったので、宮にお仕えできないかと……」
 

 男手ひとつで育ててくれた父親が、柳帝陛下のご不興をかって殺されたのでございます。他には縁がございませんで、柳都の宮へお仕えもうしあげようと参りましたが相手にもしてもらえず――もしかすると柳帝陛下の兄上様がいらっしゃる夷址なればと思い……。大きな声では言えませんけれど、夷址の兄上様と柳帝陛下はご不仲だという噂をお聞きしまして……それならばお仕えもうしあげているうちに、我が父の恨みも晴らせるかと…………。

 
 「ふぅむ」
 男は二度三度うなずいて、箸を置いた。その眼は、完全に奈綺の言葉を信じている。身寄りをなくした一人の女を、すでに哀れんでいる眼である。けっして涙は流さず、しかし眼はひどく涙で潤ませ――切ない悲哀のなかで気丈にふるまっている若い女。
 すべてが計られたものだとは、おそらく奈綺と同業のものでも容易には見抜けまい。
 「どなたかにお口添えいただけないかと思いまして……宮城で働いていらっしゃるふうの方を探していたのです」
 「なるほど、それで。噂をきいて我が殿にお仕えしようとやってきたのか」
 ここで奈綺は、わずか諦めたような切ない笑みを洩らしておく。
 「身寄りがなければ生きてゆくのもつらいだろう。一度将軍に話が通るようにしてやる、そこから女官長に頼めるかもしれん」
 本当ですか、と奈綺は大輪の花が咲いたような華やかな笑顔を弾けさせた。
 「ありがとうございます、なんとお礼をして良いか……」
 「しかしその容貌なれば、男どもが群がってくるだろうに」
 奈綺はそれには答えず、そっと男の耳もとに唇を寄せる。清らかな吐息がほのかに彼の耳にかかって、男は身体を小さく震わせた。
 「わたし、ここの二階突き当たりの室に泊まっておりますゆえ――……」

 
 男は鼾をかいて眠りこけていた。寝汚い男だ、と思いながら奈綺は静かに衣を身につける。
 (……城へ入ることさえできれば)
 あとは支岐が五旅の軍を率いてくるのを待てば良い。冷静沈着な柳帝が、あえて自軍を割いて夷址へやろうとした理由は分かっている。あの男は、もう勘付いているのだ。己の異母兄が鈷竹に寝返り、そのまま柳都へ上って帝位に就こうと画策していることに。その勘は確実なものであり、またそれは奈綺の勘とも一致していた。『風の者』としての諜報力と、この女の恐るべき動物的な直感。外れることはない。
 その磨かれた美しい肢体をつかって男を操ることに、奈綺は何の躊躇いも感じない。己の道をゆくためには、愛してもいない男の体の下で幾らでも啼いてみせよう。この肢体の味を覚えさせれば、あとは勝手に男たちから報せをもたらしてくれる。他の男と体をまじえることが、柳帝への裏切りになるなどとは思いもせぬ。癖のない髪がぱらりと頬にかかり、彼女は無造作にそれを払った。

 ――そううまく事が運ぶと思うな、香荻。

 奈綺の双眸は冴えている。相変わらず、感情はない。傍らで眠る男を一瞥して奈綺は水差しの口から垂れる水滴を舐め、そうしてから一気に冷たい水を飲み干した。
 舜帝にいまだ忠誠を誓う『風の者』。柳帝の正妃に据えられたのも、もとは主君の命であり――つまり柳帝と柳国のために働くことが奈綺の使命である。この女の人生に、使命以外の何ものも存在しない。
 ただひたすら、舜帝のためだけに。ただひたすら、祖国舜のためだけに生きる。奈綺にとっては、それが真実だ。それ以外、この女には有り得ない。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 夷址の宮城は澱んでいた。柳帝直属の軍人たちのような空気――ぴんと張りつめる緊張感と凄烈さが、この夷址にいる兵たちには見られなかった。本来ならば地方に留まるべきにあらず、都へ早急に送られるべき鈷竹の軍馬が幾頭も厩に繋がれている。奈綺は小さく嗤った。
 (……もはや恭順の意思はないか)
 帝軍がくることを知っていながらの行為である。鈷竹の馬は素晴らしい。それを地方の城主が所有することは許されていなかった。
 「結蓮」
 後ろから声をかけられた。感情のない冷たい瞳が、憂いを帯びた柔らかな瞳へ変貌したのは一瞬のことである。はい、と奈綺はふりかえった。
 「何をしているの、数日後には皇帝陛下の援軍がいらっしゃるのだからお迎えの準備をしておかなくては」
 奈綺につけられた、五つほど年上の若い女官である。けっして柔和な性格ではなかったが、かといって陰湿な性の悪い女でもなく、案外さっぱりとした気性をもっている。援軍のために炊き出しをしなくてはならないのだから、と彼女は奈綺を手招きした。
 「どこで炊き出しをふるまうのですか」
 「北の大広場よ。城内に五旅も入るわけないでしょうに」
 くだらぬことを、というように女官は苦笑した。北の大広場は小さな森に繋がっており、その森はまた鈷竹の棲む山野に繋がっている。なるほど五旅をそこに集めて、鈷竹と香荻軍で包囲するつもりか。
 そうですね、と奈綺は微笑みながら足を早めた。
 「けれど殿下もお優しい方ね。五旅の兵士たちに滞在中ずっと炊き出しをしてさしあげるというのだから」
 「ずっと……?」
 「ええ、そうよ。倉の中など空にしても良いから、兵士たちの腹を満たしてやれというお言葉」
 「お優しい……柳帝陛下とは大違いだわ……」
 心底驚いたような顔をしてみせて、奈綺は袖で口を覆った。
 (籠城する気もなく……)
 五旅を丸めこんでそのまま柳都へのぼるつもりであろう。もしも帝軍が抵抗すれば、おそらくその場で殺される。これは賭けであった。たった一人――いや、支岐をあわせればたった二人。二人で五旅二千五百の兵を御し、そうして香荻の寝返りを阻まなくてはならぬ。
 柳帝の意はよく分かっている。香荻の寝返りを阻むだけは許されない。鈷竹を早期に叩いておけ――それが柳帝の心であろう。
 奈綺の血は騒ぐ。敵は早々に叩きのめしておかねば、奈綺の血は満足しない。柳帝の道を塞ぐものは、つまり我が主君舜帝の道を塞ぐもの。舜帝の道を塞ぐものであれば、それは何であろうと必ず潰す。
 (道を塞ぐものは許さぬ)
 自分の心がわずか浮き立っているのを、奈綺は快く感じた。血を見ることを好んでいるわけではない。殺しを愉しんでいるわけでもない。血を見ても何とも思わぬ女である。誰に対しても殺意など持たぬ女である。
 ただ己の道に絶大な誇りをもっているのみ。それだけで血を流すことも厭わず、殺すことも厭わずに進んでゆける。

 
 炊き出しの準備を終え、香荻や妃たちの御膳をさげ、そうしてようやく湯殿の片付けを終わったころには外はすでに暗闇である。奈綺は麻衣の上に着ていた衣を脱ぎ捨てて、小さな自室を出た。見つかっても巧く逃げられるように、念のため細袴で男装をしておく。 小さいとはいえ、女官すべてに自室が与えられている。それはこの宮城に入ったばかりの奈綺でさえも同じであった。朝は誰よりも早く起き、日中は年上の女官に口やかましくつつかれ、夜は誰よりも遅く床につく。しかし、夜遅いとはいえ、その時間は確かに奈綺ひとりだけの自由なものであった。
 すでに奈綺は見当をつけている。香荻が鈷竹に寝返ると確約していても、いつ気が変わって柳帝軍に戻るか知れぬ。双方手を組む事実を確かなものにするため、鈷竹の人間はこの宮城内に、香荻の手のものは鈷竹の陣内にお互い忍ばせてあるはず――。
 奈綺は、気配を感じて足を止めた。気配といっても、向こうは気配を消しているつもりに違いない。それでも気付くのは、奈綺が奈綺であるからだ。
 (この城内に鈷竹の者がいれば――必ず)
 一度か二度は鈷竹の陣営に近況を報せにゆくはずだった。少なくとも、文は飛ばす。奈綺はとうの昔に気配など消している。空気ひとつ動かさず、足音などむろんたてず、女は。否、『風の者』は廊を通り抜け、そこからするすると柱を伝って廊の屋根上に出た。 けっして低くない。並の女がのぼれば血の気を失って卒倒しそうなほど空に近い場所で、奈綺はひっそりと気配を追う。見下ろしていると、若い男が盤所の裏口あたりからそろりと出てきた。奈綺の目は夜でも利く。どんな臭いの入り混じるところでも獣のように鼻が利くし、月のない闇夜でもすぐに目は慣れる。その五感はすでに人間のものではない。
 奈綺はじっと様子を見守る。男の傍らに、若い女が出てきたのを彼女の眼はしっかりと捉えていた。男が女を抱き締めた。
 (……他愛ない……)
 唇を微かに歪め、可笑しさを噛み殺す。女が築地の端の木戸から出てゆくのを見届けて、男はゆっくりと踵を返した。まだ奈綺は動かない。女が宮城の裏から北側の森へまわるのを見て、ようやく飛んだ。
 悲鳴をあげようとする前に、奈綺は女の顎を引っつかんだ。細くしなやかな指が、力など入れていないとでもいうような風情でぎりぎりと女の顎元を締め上げる。美しい女の顔は引き攣り、眼が血走っていた。
 「文を」
 低い声は、女というよりは男のそれに近い。頭の先からじんわりと抜けてゆきそうな美しい声で、奈綺は女を脅した。
 「小嬢、悪いようにはせぬ。貴女が柳を救う」
 「な……な……」
 女の眼が確かにこちらを見つめている。口許を隠し、髪も布の中へ押し込めた奈綺の貌。美しく凛とした少年のふうである。
 「こんなところで得体の知れぬ男に惑わされていて良いのか」
 「そんな……」
 「できることならば柳帝陛下の傍で――見目麗しき陛下の傍で夜伽をしたいとは思わぬか。私の言うことを聞くならば、必ず貴女を陛下の妃に」
 奈綺が人を見抜く眼は尋常ではない。『風の者』として鍛錬された力ではなかった。奈綺にそなわった天性の力。限りなく獣に近い力である。目の前にいる人間が、何を欲しているのか瞬時に見抜く。この采女は恋に生きる女のようでいながらけっして、男にすべてを捧げるだけの覚悟をした眼を持っていなかった。つけこめる、と奈綺は咄嗟に判断した。
 普通の女であれば、柳帝のもとに仕えるというのは夢のまた夢。一生の夢である。そうして柳帝は、世に名高い美貌の皇帝。確かに暴君という噂はあれど、女は自分こそは彼の寵愛を受けることができると心の奥底で必ず思っている。
 「わたしを……柳帝陛下の……?」
 奈綺はゆっくりと頷いた。
 「貴女は美しい。必ず陛下のご寵愛をいただける」
 衣の胸元を強く握り締めていた指が、少し解けた。奈綺は、そっと彼女の腰を抱く。
 「頼む。私と貴女の行く先のためにどうか」
 低く甘い声で、最後に囁いた。彼女の心もまた溶けた。








 

  【夷址小戦】弐

 

 ――その日、夷址の空は晴れわたっていた。

 奈綺は、じりじりとしながら支岐率いる五旅の到着を待った。けっして派手な戦にはならないだろう。しかし、柳の行く末と勢いを大きく左右する戦になることは間違いない。
 (香荻は殺しておくが吉だろう)
 炊き出しと宴の準備にいそしみながら、奈綺は静かに感覚を研ぎ澄ませる。冴えてゆく、この感覚。喧騒と猥雑のなかでもけっして見失うことのない一筋の道。
 「結蓮、結蓮……!」
 奈綺は美しい顔をつとめぐらせた。
 「番兵のところに火を持っておゆきなさい、急いでちょうだい」
 支岐が来る。まだ日中であったが、他所からやってきた兵士たちを中に招き入れるときには、必ず魔除けとして篝火を増やすならわしがある。奈綺は頷いて、器用に衣の裾をさばいて立ち上がった。
 勝負は今からだった。おそらく宴が終わるまでに、鈷竹が城内に入ってくる――気付いたときには帝軍五旅は包囲のなかだ。冷静に頭を見極めて、息の根を止めねばならぬ。
 奈綺は走り、番兵のもとへ火を届けた。
 「そろそろ皇帝陛下の軍がいらっしゃるそうで」
 「ああ、物見が走って確かめてきた。間違いないな」
 篝火を増やすのは、男でも女でもできる仕事である。奈綺はゆっくりと手伝うふりをして、油を皿にうつした。奈綺の耳はとらえている。馬の蹄の雄々しい音、まもなく支岐がやってくる――血が――血が騒ぐ。ざわざわと身体中の血が沸き立つような、快感。
 「お、来たな」
 女はもう城内に戻っていろ、と奈綺にもっとも近い番兵が顎をしゃくった。轟く蹄音を響かせて、支岐および五旅の兵長を先頭に帝軍がやってくる。
 壮観であった。数はそれほど多くないが、一糸乱れぬ行軍である。
 「……柳帝陛下のご命令で、皇兄殿下の援軍として参上つかまつった。お取次ぎを願いたい」
 支岐の声が、朗々と響いた。一瞬だけ奈綺と彼の視線が、かちりとぶつかった。
 「一度五旅をすべて、城内に入れていただく」
 番兵がどよめく。彼らは、五旅の兵長および将軍だけを城内に招き入れるよう主君から命を受けているのである。けして無理な話ではなかったが、五旅を城内に入れるなど常識では考えられぬ。普通は城外に陣を敷く。奈綺もまた、そのような話は聞いていなかった。
 再び支岐と眼があった。鋭利な獣の双眸、すでにこの男は戦をしている。
 「それは困ります、殿下の、」
 「……謀叛の疑いあり。やましいところがなければそれで良い、形式上だけでも五旅は一度城内に入れていただく。柳帝陛下のご命令ぞ」
 「し、しかし……」
 思わず奈綺の双眸が歪んだ。支岐は思っていたよりも早く勝負に出てきたようである――奈綺が送った文を、この男はこの男なりに見事に利用しようとしているのだった。

 
 『帝軍来たらば、ただちに鈷竹は夷址に集い、香荻軍と合流して柳都に攻上す』

 
 あの夜、若い女から奪いとった文にはおよそそのような内容が記されていた。それを奈綺は、そのまま行軍中の支岐に飛ばしたのである。夜は雀を使うことができない。奈綺は梟を使った。虫の好かない男ではある。しかし、『風の者』としてこれほど心通ずる男も居らぬ。あの文をどう料理するかは彼次第であった。
 (よし、これで叩ける)
 奈綺は番兵の間をすりぬけ、城内に走り戻った。あの場は支岐に任せておいて問題ない。女の双眸はすでに女官としての穏やかさを捨てており、涼々とした炯眼に姿を戻している。
 もはや結蓮に用はなし。支岐がこれほど早くに攻勢をかけてきたとあらば、彼女もまた早々に行動する必要があった。采女の宮に、奈綺はそっと滑り込んだ。
 「貴女……ちょっとこちらへ」
 采女のなかには、奴婢からあがった女もいる。きらびやかで美しい宮の世界に憧れている、純粋な欲望を持つ女がほとんどであった。彼女たちには、彼女たちの烈しい想いがある。貧しく人に使われるような生活を抜け出し、豪奢な絹や輝石に囲まれ、果ては皇帝の寵愛を受けて華麗な人生を送る。それは彼女たちの夢であり、希望でもあった。
 「な、何でしょう……」
 あの夜の女であった。奈綺はそっと耳打ちをする。
 「今すぐ、私とともに。覚えておいででしょう、貴女に皇帝陛下の妃の座を約束した男のことを」
 「あなたは……」
 「ご心配なさらず。彼に頼まれたことを実行に移すだけ。貴女を必ず陛下のもとへ」
 女の瞳の奥がきらめいたのを、奈綺は静かに見つめた。事がすむまで、この女から目を離すことはできぬ。
 人気のない廊へ彼女を連れ出し、奈綺は優雅に微笑みかけた。
 「ご証言なさい。あの文を誰から託されたのかを。そうして貴女は不安を感じた――帝軍が近くまで来ていることを知っていたので貴女は文を帝軍の将軍に渡そうとしたのだと」
 ごくり、と采女は息をのむ。彼女の白いのどが、一瞬大きく波打った。
 「そして折よく、帝軍から出されていた間諜に文を奪われたのだと、そう証言なさい。貴女のすべきことはそれだけ。他に案じることは何ひとつございませぬ」
 「……本当に……私に危ういことはありませんか」
 奈綺はゆっくりと首を横にふってみせた。城内がざわめきだしているのを、奈綺の感覚のすべてが感じとっている。
 「私についておいでなさい。貴女を帝軍の将軍にお預けいたします。事がすめば、貴女はすぐにでも皇帝陛下の後宮へ」
 皇帝の正妃が、どこの馬の骨とも知れぬ女に皇帝の寵愛を約束する。思えば不思議かつ滑稽なさまであったが、このとき奈綺は、己が皇帝の正妃であるということなど頭にない。たとえあったとしても、この女は国のためにすべてを捨てることのできる性質。柳帝の寵愛など、欲しているような妃ではない。柳帝の寵愛。そんなものは後宮の女にでも采女にでもくれてやる――奈綺はもっと違うところを見つめている。
 彼女の視線は、柳帝とおなじ高さといって良いだろう。柳帝と――そして主君舜帝とおなじものを見つめている。
 輝かしい。世に限りなく在るひとの生き方のなかで、奈綺にとってはこの生き方がもっとも輝かしく誇りかである。数々の女が夢見る輝かしさとは違うところにある、一筋の光。
 
 奈綺は美しく若い采女を傍らに従え、堂々と廊を歩んだ。この女の双眸は、ひとを飲み込む。采女は男のなりをした奈綺に惑わされ、女のなりをした奈綺に吸い込まれ、そうして彼女の意のままに動きはじめる。柳都宮廷の柔らかい絨毯よりも、わずかに硬い感触。 ここは夷址である。感触を足裏で踏みしめながら、奈綺はまっすぐに謁見の間へ向かった。あたりを兵士たちがかけまわり、そこここから怒号が聞こえてくる。兵士たちは混乱しながらも広大な謁見の間に向かっているようにみえる。帝軍に集められているのだろう、と奈綺は見当をつけた。明らかに支岐の――帝軍の気迫が香荻のそれを上回っているのだろう。
 たしかに夷址の城内は混乱していた。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 「どういうつもりか」
 香荻の声が震えていた。美しい貌をしていた。なるほど柳帝の異母兄――どうやらふたりとも先帝の血を強くひいているらしい。整った美貌に高い鼻梁。酷薄そうな形のよい唇も、弓なりの貴族的な柳眉も、よく似ている。
 (だが眼が違う)
 眼が違う。奈綺は謁見の間のすぐ傍らで女官たちにたち混じりながら、静かに柳帝を思った。采女は緊張しているらしく、奈綺のゆるるかな袖口をそっと握っている。
 「城内の兵士をひとところに集めよとは、余を愚弄しておるとしか思えぬ」
 「柳帝陛下のご命令でございますゆえ、今しばらくお許しを。加えて数日前、行軍の途中で捨ておけぬ文を手にしましたものですから」
 支岐が凛とした立ち姿を見せていた。飄々とした涼やかな風が、この男の身を包んでいるようである。
 奈綺は彼の後ろ姿に、柳帝を視た。
 眼が違う。静かに燃える美しき野生の双眸。深緑のふたつの眼は、香荻のそれとはかけ離れている。美しく冷たく耀き、まわりのすべてに視線を向けていながらも、決してひとつのものを見失わぬ。
 「なんだと」
 「もう一度申し上げます。これらはすべて、柳帝陛下のご命令にございます。一度兵どもを集め、皇兄殿下に謀反の兆しがないか調べたうえで戦を展開せよとのこと」
 「………………」
 「形式だけですませる手筈ではございましたが、先ほども申し上げましたとおり」
 そこで支岐は一度、言葉をきった。香荻の唇は震えていた――あれではやましいことがあると言っているようなものではないか、と奈綺は呆れて眉根を寄せる。柳帝ならば、どれほど後ろ暗いところがあっても顔色ひとつ変えぬ。声色ひとつ変えぬ。
 (これが器の差よ)
 帝位を狙える器ではない。
 「これを手にしましたゆえ」
 奈綺が、ぴんと視線を張った。
 「………………」
 怪訝そうな顔で支岐が奉る文を手に取る。その顔が引きつった。
 「待て、これは、」
 支岐が何かを言っている。奈綺の眼は、もはや彼へ向けられてはいない。奈綺は、静かにひとつしかない謁見間への入り口へと体を滑らせた。
 (逃げられると思うな)
 ひとつの人影が、気配もなく扉へと向かってくるその様子。奈綺はとうに見つけている。若い男――兵士である。采女を背後へ押し隠し、奈綺は透徹とした視線をつと伏せた。奈綺と傍らの女官たちの間を、男がするりと通り抜けようとする。『風の者』の手が、それをごく当たり前のように柔らかくとどめた。
 「…………!?」
 奈綺の細くしなやかな手が、男のたくましい腕をしっかりと掴んでいる。離さぬ。男がつかめば折れてしまいそうな手が、力など入れていないかのような風情で男をとどめている。
 「……離せ」
 奈綺は穏やかに微笑んだ。
 「将軍さま。忍んで出てゆこうとなさる方がおられますが、いかがいたしましょうか」
 凛と張り上げた声が、将軍支岐の耳にも、そして香荻の耳にも涼々と響いた。引き出せ、と命じた声のままに奈綺は男を突き出す。女官たちは茫然と奈綺を見つめ、例の采女は息をのんで立ち尽くしている。
 「――……こ、」
 香荻の声がうわずった。
 「殺せ、殺せ! 将軍どもを生かして帰すな、われらには鈷竹という後ろ盾がある!」

 
 「ここをお動きにならないように。お忘れなきよう。柳帝陛下のご寵愛と、無駄に動いてここで命散らすことと、どちらが大切か」

 奈綺が囁くと、采女は幾度も幾度も頷いた。
 その瞬間に奈綺の身体が宙を舞い、同時に糸刃扇の煌めく刃が華やかに踊った。

 
 ――鮮血。奈綺の美貌が、血に濡れる。









  【夷址小戦】参


 ――鮮血。奈綺の美貌が、血に濡れる。


 
 糸刃扇は、一筋の美しい銀《しろがね》の雨のように舞った。それはまっすぐに喚く香荻のもとへすすんでゆく。
 「何をしている、さっさと始末せ、」
 そこまで叫んだところで、男の首は落ちた。艶やかな鮮血が弧を描いて宙を舞い、奈綺の美貌に飛沫が降りそそぐ。美しい光景である。けっして無残な殺戮の光景にあらず――まるで絵のよう。女がひとを殺すその仕草もまた、まるで風のよう。
 ごとり、と男の首が落ちてから数秒。騒然としていた広間が、水をうったように静まりかえった。夷址のものたちは一様にみな息をとめ、帝軍のものでさえも幾らか身体を強ばらせ――奈綺と支岐、ただこのふたりだけが顔色ひとつ変えずに佇んでいる。
 衝撃、というよりも皆なにが起こったのかすぐには把握しきれぬ様子であった。香荻の首はぱっくりと滑らかな切り口を見せて、身体の脇に転がっている。瞬間の出来事にありすぎて、幾らかの兵士たちはきょとんと間の抜けた顔をみせ、悲鳴をあげるべき女官たちでさえもぼうっとその光景を眺めていた。
 奈綺はひとつ息をついて、もうひとりの『風の者』に視線を向けた。
 「鈷竹を討つ! 柳帝陛下に忠誠を誓えぬ者は、今すぐに鈷竹へ走るが良い!」
 この男の声は、よく響く。朗々と響くその声は、低く美しくひとの心の奥底に沁みる。 その場にいるものたちが、はっと正気に返るのが奈綺の眼にはよくわかった。
 (これもまた武具よな)
 奈綺は口角をあげた。印象的にすぎる奈綺の殺しと、支岐の凛然とした姿。誰もが、このふたりの波にのまれているのであった。
 「一刻後に城を出る――猶予はそれまでぞ、鈷竹につくか皇帝陛下につくか、よく考えて早急に結論を出せ! 鈷竹につくからといってこの場で殺めたりはせぬ!」

 
 ――誰ひとりとして、その場を動かなかった。兵士たちは放心したかのように凛とした支岐の立ち姿を見つめている。
 「半刻ほど休む。鈷竹に行きたければゆけ。ただし陛下に忠誠を誓うと決めたものは――柳の貴き財《たから》ぞ。この命に代えても、無駄に殺させはせぬ」
 女は思わず美しい双眸を歪めた。香荻を見慣れてきた夷址の兵士どもには、支岐の姿は眩いばかりに燦然と輝いてみえるのである。容貌は美しいながらも澱んだ空気に支配されていた君主は、いまや息をしておらぬ。
 不意にとびこんできた若く凛とした将軍支岐が、香荻を見慣れてきた夷址のものたちの中に、ひどく新鮮な空気を呼びこんだといえよう。
 支岐はそのまま、主座の傍らに卓子と椅子を出させた。
 (……わきまえているというのか……単に貧乏性なのか)
 主座にはけっして坐らぬ。簡素な椅子にどっかと腰をおろし、たいしてぎらついてもいない穏やかな双眸を奈綺のほうへ向けた。
 「その采女は?」
 びくり、と立ちすくんでいた件の采女が身体を震わせる。支岐を纏う爽やかな空気に、兵士たちの心の奥にも安堵と信頼が芽生えたらしい――香荻に仕えていた夷址兵ならばなおのことであろう――口々に己がゆく道について喋りはじめていた。
 「皇帝陛下にお仕えなさる将軍でいらっしゃる。証言なさい、悪いようにはいたしませぬ。かならずや貴女を陛下のもとへ」
 奈綺が優しく囁いた。ついさきほどまで眼の前で繰り広げられた出来事。動揺し、また怯えていた采女がようやく身体の緊張をわずかに解く。
 「ここへ。話を聞こうぞ」




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 鈷竹へ走る者はいなかった。夷址軍と帝軍が組んで城を出たのは、同日午《ひる》過ぎのことである――支岐が五旅を率いてきてから、二刻も経たぬ。風のような進軍であった。
 将軍支岐の傍らには、奈綺がひっそりと従っている。
 「おまえ、鈷竹の男はどうした。あの采女に文を託したという男は」
 「逃げた。おそらく騒ぎは伝わっているだろうよ」
 黒布に身を包む美しい『風の者』を、支岐は忌々しげに一瞥した。逃がしただと、何をしゃあしゃあとぬかすかこの女。そう思いながら、男は続ける。
 「どういうつもりだ?」
 軍の編成はいっぷう変わっている。本来ならば帝軍を中心において進軍するのが例であるはずなのに、ここでは支岐が先頭に立っているのである。風変わりな進軍ではあったが、支岐が先頭にたって進んでゆくという事実が兵士の士気を煽り、信頼を感じさせているということには間違いなかった。この将軍は、兵士の先にたって突っ込んでゆく気だ――そんな将軍をみると、兵士たちはどんなに臆病なものであっても性格が変わる。
 このひとのために死のう、このひとに従ってゆこう――不思議とそう思うようになる。男が男を惹きつける力とは、そんなものだ。支岐は、信頼する五旅の兵長にそれぞれ夷址軍一師をふりわけた。支岐の後ろに五旅が従い、その旅の後ろにそれぞれ四千の兵が従う。
 帝軍の堂々かつ冷涼とした気力の漲り。香荻が生きていた数刻前までだれきっていた夷址兵たちが、それにつられて飛び跳ねるように行軍してゆく。
 「鈷竹は……この騒ぎを聞きつけたらどうするだろうね」
 黒布は奈綺の眼元以外をすっぽりと覆い隠していた。その眼元が尋常でなく美しい。
 「奴らは退くぞ。攻めるつもりであったのにも関わらず、不意に攻められる立場に変わった。そうなると攻められる側は崩れる――貴様、まさか鈷竹をみすみす逃す気か」
 「どこに退く」
 「俺たちのほうへわざわざ向かっては来まい」
 「ならばどこに」
 「…………さらに北。そして桐へ?」
 奈綺は嗤った。
 「潰すさ」
 そう呟いた言葉に、支岐は口を閉ざす。この女には勝算があるのだ。この女が潰すと言わば、必ず潰す。疑うべきことは何もない。
 「放っておいても、いずれ舜の邪魔になる。潰すさ」
 完膚なきまでに。奈綺の双眸が、まっすぐ前を見据えている。



 
 ――鈷竹が陣を敷いていたのは、夷址城から馬で半日もかからぬ森の中である。香荻から報せがあればすぐに夷址へ駆け込める位置。そこに陣を敷いたのが、災いした。
 夷址城に入れておいた男が息を切らして陣内に駆け込み、その報せをきいたとき劉乾は吼えた。
 「崔朝!!」
 足元からすべてが崩れてゆくような感覚。猪突猛進型の劉乾にはさほど怖れはなかったが、崔朝は見るからに青ざめていた。
 「迎え撃つべきぞ!」
 「ならぬ、ならぬ!」
 攻められるはずだった側が、一転して攻める側に転じたときの怒涛の勢い。脅威。それがどれほどのものか、崔朝はよく理解していた。息巻く劉乾の手綱をとるのに、崔朝はいつも苦労する。
 「我らは二万の兵を有しているというのにか!?」
 「よく考えよ、香荻が殺されたということは……夷址軍二万に、皇帝軍五旅が加わったということぞ」
 「たかだか二千五百が増えただけではないか」
 「勢いが違う。勢いが違うときは、その二千五百が戦の趨勢を決するものだ」
 幸いにして我らの兵はほぼ騎馬軍である。北へいったん退こう、と崔朝は唇を噛みつつ傍らの武将を促した。劉乾は豪放磊落な男であり、確かに血気盛んで扱いにくい武将ではあるが、結局のところはいつでも崔朝に負けるのである。
 「……急ぐぞ、劉乾よ」
 ひとつ溜息をついて、劉乾も頷く。鈷竹の陣内はにわかに慌しくなり、号令が飛び交った。追われる気分は拭えぬ。兵士たちの顔には、多かれ少なかれ不安の色が滲んでいる。 兵士たちに潜むこの不安――それが戦においては命取りになるということを、直後に崔朝たちは思い知ることになるのである。
 騎馬軍が必死に馬を駆って森を抜けたとき、その光景は鈷竹の兵だけでなく崔朝も劉乾も絶句した。
 「………………」
 「…………何と」
 広がる草原を、無数の騎兵が埋め尽くしていた。
 「有り得ぬ、夷址兵か!?」
 「…………」
 崔朝はゆっくりと首を横にふる。まるで呆けた老人のような仕草であった。
 「あの旗は…………」



 
 奈綺の眼に不安はない。翳りもない。冷たく感情のない双眸は、ただ美しく誇りかに光を宿しているだけである。
 「潰すさ。何のために彩を舜へ返したか――忘れたわけではないだろうに」
 「おまえ、まさか」
 風が強い。北の冷たい風が、奈綺を包む黒布をはためかせ、また支岐の髪を激しくなぶる。
 「鈷竹は森を北へ抜けるだろうと言ったな」
 支岐は頷いた。薄々、みえてきている――奈綺の手。
 「北へ抜けた瞬間に、きっと腰を抜かすだろうよ」

 怖ろしい女だ、と支岐は思った。今までにも幾度となく思ったことである。
 (俺の知らぬ間に、次々と手をうっている)
 俺はたとえ殺すべきときがきたとしても、この女を殺すことはできぬ。しかしこの女は、いざとなれば躊躇いもせずに俺を殺すことができるだろう。
 (それで良いのか、奈綺よ……)
 腹の子を殺してなお、冷静沈着。もはやこの女は人間ではない。
 「怖ろしい女だ、おまえ」
 ふん、と奈綺は鼻を鳴らす。たまに――支岐の眼には、この女が化け物にみえるときがある。愛も情もない、冷徹な化け物。血で穢れた手指さえも絵のごとく美しく魅せる、怖るべき妖《あやかし》。
 「支岐、耳を澄ませよ。そろそろ戦端がひらかれる」
 奈綺が布を顎まで引きずりおろし、無造作に髪を耳後ろにかきあげた。広大な森を抜けたはるか先で戦端がひらかれたとしても、『風の者』は大地の揺れを察する。鬨《とき》の声を聞きとる。
 (……化け物ぞ)


 
 ――その横顔は、なぜこんなにも美しい。










  【兆《うらて》】


 
 ――鈷竹の軍勢は、みな一様に不思議な光景を眼にしていた。橙色の夕陽が草原にまばゆいばかりの光を落とし、冑《よろい》の触れあう耳障りな音だけがあたりを覆いつくす。
 「あの旗は…………舜のものだ」
 崔朝は愕然とした面持ちで呟き、
 「そしてあちらの旗は――……桐の」
 左手に見える軍勢の旗を見つめて、さらに彼は蒼白になった。がくり、と彼は膝をついた。草原を埋め尽くす軍勢――崔朝と劉乾は当然知るよしもなかったが――そこには一師の舜軍と、二師の桐軍がいたのである。
 「……諮られた……桐に諮られたぞ、劉乾……」
 このとき、鈷竹の知らぬところでさまざまな思惑が行き交っていた。奈綺に命ぜられた彩は、舜帝の許しを得て悠々と一師の大軍を鈷竹へ向けて動かした。
 柳では、桐の出鼻をくじく格好で、柳帝は廉妃を質にすると宣し、鈷竹をその手で滅ぼしたならば別段咎めだてもせずにいてやろうと持ちかけていた。桐帝は女である。泣く泣く国家繁栄のために柳に献上したとはいえ、娘を溺愛する母親である。
 むろん彼女は、奈綺とは違った。質となった娘を国のために犠牲にすることのできるような、非情な女ではない。娘を柳に差し出したことも、思えば娘の輝かしい行く末のためであった。桐帝は、柳帝が考えていたよりも幾らかあっさりと彼の要求をのみ、鈷竹討伐を誓ったのであった。
 「何と……」
 劉乾が天を仰ぐ。双眸が怒りに燃えた。
 これを考えると、鈷竹は見事に桐に振りまわされたということになる。崔朝が絶望に崩れ落ちたのとは対照的に、劉乾というこの剛健な武将はいきりたった。己ばかりでなく傍らの智将を、まわりの兵を鼓舞するかのように幾度も幾度も吼え、猛然と馬を駆りはじめた。
 鈷竹の軍勢が劉乾に引きずられるかたちで、舜と桐の大軍へ向かって突っ込んでゆく。 正気を失って突っ込んでゆく兵士の底力はおそろしいものがあるが――とはいえ舜と桐の兵数を考えれば、どれほど底力をみせたとしても死ぬ以外に結末はない。夷址兵を率いていた奈綺と支岐は、そのすさまじい馬の蹄音をただ静かに聞いているばかりである。ときおり思い出したかのようにこちらへ逃げ戻ってくる鈷竹兵を、適当に始末するだけで事足りた。

 

 「鈷竹は滅ぶ」
 支岐の傍らで栗毛の牡馬に騎乗したまま、奈綺は静かに呟いた。この女のいうとおり確かにこの日鈷竹は滅んだのだが、彼女の双眸には敵を崩した興奮とか歓喜とか、そういったものはまず浮かんでいない。ただ涼やかな眼元を歪ませて、森の中の見えないものを見るかのように視点を定めている。
 「……怖ろしい女だ」
 「支岐よ。おまえは私を信じるか」
 女はまっすぐに前を見据えたまま、訊ねた。感情がないので、支岐には女の質問の意図が掴めない。けっして大柄ではない細身の身体――細くしなやかであり、小柄。にも関わらず曇りなき光をまき散らすかのような、絶対的な存在感。
 「信じる」
 支岐は答えた。奈綺の横顔が嗤った。
 「……おまえは俺を信じないか」
 「どうだか」
 手綱をもつ指は形よく美しいが、傷だらけで皮膚も硬くなっている。
 「私を信じて悔いたことは?」
 支岐は思いきり眉をひそめる。この女が何を思ってそのようなことを訊ねてくるのか、この一本気な青年には分からない。それでも素直に答えてしまうのが、彼の長所でもあり短所でもある。
 「……悔いたことは……ない」
 この女を信じてゆけば間違いない。そう思わせる何かが、奈綺にはある。絶対的な何か――どれほど血にまみれていても清らかだと思わせる何かが彼女にはある。
 「信じるものを間違えると、ひとは負ける……脆くなる。鈷竹が良いためしだ」
 奈綺の声は、低くも高くもない。女にしてはやや低いかもしれぬ声色が、すでにその声を聞きなれた支岐にとっては心地よいほどだった。この女の声が揺れるのを、支岐は聞いたことがない。
 いつでも芯の通った、凛とした話し方をする。
 「信じるものは慎重に選ぶことだ。信じるものを間違えさえしなければ、ひとはどこまででも強くなる」
 鈷竹は信じるものを間違えたのさ、と奈綺は呟いて馬の腹を蹴った。喚声が遠く風にのって聞こえてくる。
 「もう俺たちの役目は果たしたな。都へ帰るか」
 支岐も続いて馬の腹を蹴る。小さくいななきをあげて、馬は軽やかに駆け出した。
 「おまえたちがさっさと手をまわしたおかげで、早く終わったな」
 まったくこの男は単純だ――単純だが、人間としてはまっとうな型だといえよう。
 (終わらぬ)
 奈綺の勘が告げている。まだ終わらぬ。敵は鈷竹ではない。
 「おまえは香荻のかわりにしばらく夷址に残ってろ」
 支岐は黙ってうなずいた。
 「柳帝の命を受けたらすぐに伝える――ああ、それと。例のあの采女、」
 「殺しておこう」
 彼がうなずいたのを確かめて、奈綺はさらに強く馬の腹を蹴った。風のように馬はまっすぐ走り出す。敵は鈷竹ではない――桐との戦いはおそらくまだ続く。奈綺の双眸の光が、ゆっくりと夕闇のなかにまぎれてゆく。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 
 暇だ、と美しい男は豪奢な寝台に寝そべったまま欠伸をした。彫りの深い美貌は凄愴なほどで、その双眸もまた深い淵のように人を惹きこむ蟲惑的な力をもつ。
 「陛下、占師が」
 長い睫毛が、けっして色黒でない肌に影を落としている。
 「愉しませてくれるんだろうな」
 宰相が暇をもてあます皇帝のために呼んだものである。占師などというものはこの時代、このように興味、遊興半分で呼ぶものではない。盛大な儀式とともに厳粛に行われるべき占いであるが、だからといって柳帝にそれが通用するはずもなかった。もとから占師などに興味のひとつもない男だったが、桐を撃退し、まだあの反骨精神あふれる獣のような女が手元に戻ってこないこの状態ではいたしかたない。暇だから宰相の言うままに呼んでみただけなのである。この場合、占師は柳帝にとってただの暇つぶしでしかありえない。
 この男の相手をするのも命がけである。家臣の昇位や懲罰、処刑の宣告にいたるまで表情ひとつ変えずに行う皇帝。表情を窺っても無駄なばかりで、とにかく不興を買わぬようにするだけで家臣たちは手いっぱいなのであった。しかもそんな家臣の姿をみて愉しんでいるふしがあるから、性質が悪い。
 「通せ」
 拱手する占師を、柳帝は寝台の上から見下ろした。これといった特徴のない男である。年を重ねる以外に何も変わりばえのしないような平凡さであった。肌の色は黒ずんで汚らしく、顔から手から皺だらけであったが、皺の数ほど年老いているわけでもなさそうだ。 布に包んでもっているのは、おそらく獣の骨であろう。占う者の血を塗りつけた獣骨を火のなかに放り、そのときにできたひび割れで行く末を占う。はるか昔から行われてきた、ごくごく当たり前の占いであった。辺境の地、巫族の類を中心とした民族であればまた異なる占いの方法もあるらしいが、こういった大国では獣骨の占いが普通である。
 「あまりわたしを不快にさせるなよ」
 嗤って柳帝は酒器にみずから火酒を注ぐ。酒器のふちからこぼれおちそうになった雫をぺろりと舐め、顎をしゃくった。始めよ、と宰相が占師を促した。
 あらかじめ用意されていた小さな壇に、赤々と火が燃えている。占師は一言も発せぬまま獣骨を火のなかへ放りこんだ。
 (獣ではないな……鳥か)
 それほど太くもない骨である。しばらく経つと、ぱちぱちと爆ぜる音がさらにはげしくなってゆく。柳帝はただじわりじわりと酒を舐めながら、その様子を見つめた。
 占師が素手で骨をひろいあげるまで、そう時間はかからなかった。さぞ熱いであろうと思われるのに、彼は顔色ひとつ変えずに骨を火のなかからつまみあげた。柳帝の目にも、骨にできたひび割れははっきりと見える。しかしそのひび割れが、どのような占いの結果になるのかは分からない。
 柳帝はゆっくりと寝台の柔らかな布のうえで、長い脚を組みかえた。
 占師は、薄い布の上に熱い鳥骨を横たえる。皺くちゃの男の手は、意外と堅い皮膚をもっているのかもしれぬ。彼がごしごしと骨をこすると、こびりついた焦げのようなものが驚くほど簡単に落ちていく。
 「……先が」
 占師が地味な声で呟いた。
 「視えたか」
 華も味もない男だ、と思いながら柳帝は促す。柳国はこの先さらに繁栄の道をゆくでしょう、と男は何の面白みもないことを言った。
 (ふん?)
 宰相か何かに、皇帝の機嫌を損なうことは言わぬように言いふくめられていたに違いない。思って柳帝は思わず嘲笑を浮かべた。占いなどなくとも、己が治める国ぐらいは繁栄させてみせる。冷徹、冷酷、無表情にみえてそれだけの気概をもっている男だった。
 「他に」
 「ただし……お命を落とされます」
 「ほう、わたしがか」
 宰相は案の定真っ青になって立ち上がりかけたが、柳帝は平然と間もおかずに問いかえした。占師の視線と、柳帝の視線が静かにぶつかった。
 (………………)
 「占師よ、おまえ……さっきの骨は何の骨だ」
 ふと思って柳帝が訊ねる。犬鷲のものであります、と男は答えた。
 「風のままに生きゆく鳥の皇帝にございます」


 ――お命を落とされると申しましたのは、陛下のご正妃のことでございます。


 
 「愉しませてもらったぞ」
 柳帝は小さくうなずいてみせる。
 「ただし不快だ」
 そう言ってから、殺せと一言だけ付け加えた。




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 夷址での小戦ののち、奈綺は一足先に柳都へ駆けもどった。春の匂いがする。獣にも似た奈綺の感覚は、すでに春の匂いを嗅ぎとっていた。暴君、名君。愚帝、賢帝。柳国皇帝を称する声はさまざまである。あの皇帝は乱暴で冷酷無比である――そんな噂のほうがやや優勢かもしれぬ。
 だが、と奈綺は馬上から街を見晴るかしながら思った。
 (栄えている)
 民の表情には、自信に近いものがみえる。この平和はどんなことがあっても崩されぬ、という自信である。国は民がまもり、民は国がまもる。それを信じているところは――信頼の強さに差こそあれ――舜と似ている。
 奈綺は思った。舜は血をひとつにしているから当然のこと。しかし血脈を異にする柳でそのような信頼と自信がうまれはじめているのは、まぎれもなく柳帝の力なのだろう。
 (……食えぬ男よ)


 夜半を待って、奈綺は猫のように皇帝の寝室へすべりこんだ。
 

 ――病に斃れたご正妃は皇帝陛下の寝室の、そのまた奥に。

 
 そういうことになっているはずである。奈綺はすべりこんだその室の寝台に、懐かしい影を見た。身動きひとつしないが、奈綺が入ってきたことにはもう気付いているに違いない。寝息はとまっている。
 「奈綺よ」
 静かな声がかけられた。ようやっと帰ってきたかというような、多分に嗤いをふくんだ声である。奈綺は答えもせずにただ水差しの口をひと舐めして、それから一気に冷たい水を半分ほど飲み干した。きつく結いあげていた髪をとき、麻衣の上半身をふわりと脱ぎ捨てる。女にしては、隠すということを知らない。手布に水をふくませ、まるで城壁の工事中に汗をぬぐう男のように躰を拭く。白く淡い胸のうえで、水がひと雫かがやいた。
 「おまえ、死ぬのか」
 身体を横たえながら、男はやはり嗤っている。くだらないことを、と思いながら奈綺は黙って腰帯を解いた。美しい絨毯がよごれるのもかまわない。無作法な正妃である。
 「死ぬのか」
 男はもう一度訊ねた。
 「当然、いつかは必ず」
 この男、わたしが死ぬ夢でも見たのだろうか――思わず嘲笑がこぼれおちた。嘲笑を浮かべるときの顔は、ほんとうに柳帝と酷似している。
 「奈綺よ、さっさと子を生せ。桐はしばらくおとなしくしているだろう、その隙に」
 唐突に話をかえたようにみえた。この男はやはり皇帝の気質であり、まったく自分勝手の塊である。自分の好きなように話題をかえて辺りをふりまわすのは、いつものことであった。
 (……子を……)
 子を生む。生むとすれば、確かに柳帝の言うとおり桐がおとなしくしている隙しかないだろう。鈷竹を失い、徹底的に叩かれた桐の本軍は一年そこそこではたてなおせぬ。あと数年は国力の回復に力を注がざるをえないだろう。桐がおとなしくしている時間は長ければ長いほどいい、と奈綺は思った。
 生まれた子を『風の者』にしたてあげる時間が必要だ。男であれば行く末、柳国を背負う身になる。皇帝になる。しかしそれだけでは足りぬ、と奈綺は麻衣をすべて脱ぎ捨てた。細くしなやかな身体で何日もせわしなく動き、それでいながら疲れはみえない。
 「子はふたり以上がいい」
 ひとりが城のなかにいても、もうひとりが外で自由に飛びまわれる。そんな状況が必要だ。柳を内から外からまもりぬき、いざとあらば喰いつぶして舜のものへ。
 「……意外なことを」
 意外と思ってもいないような表情で、柳帝は奈綺の唇を軽く咬んだ。静かに身動きをする柳帝の息を感じながら、奈綺の瞳がゆるく輝く。恍惚の色ではない。この女の瞳は、すでに子を生んださきのことを見据えている。



 ――身体の相性はひどく良いらしい。春もさかりになってきたころ、ふたたび奈綺は柳帝の子を孕んだ。







 【朱綺と秋沙】壱


 
 『柳帝即位十二載。帝妃出産第一皇子』

 『柳帝即位十四載。帝妃篤病一載間公失』

 


 柳帝即位十二年の冬、正妃奈綺は男児を出産した。名を朱綺《とき》という。また柳帝即位十四年の一年のあいだ、奈綺は公から正妃としての姿を消した。公文書には病が篤くなったためであると記されており、また公文書では柳帝と正妃の間にはひとりの子しかいないことになっている。しかし柳帝と奈綺のあいだにはもうひとり、娘が生まれていた。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


 「朱綺よ、どうした。顔が赤いな」
 正妃奈綺が生んだ嫡子は、この春で七つになる。朝駆けをともに、と父帝のもとへやってきたその顔がうっすらと赤い。母親の血を受け継いだ美しい顔だ、と柳帝は唇をゆがめた。人目を盗んではすぐに宮中を飛びだすあの手に負えぬ妃の姿を、男は息子の顔に見出している。
 「いえ、母上が」
 数日前から奈綺と会っておらぬ。
 「もどってきたのか」
 「今朝方……」
 七つとはいえ、並みの少年よりは背も高く頭も良い。その容貌は涼やかにくっきりと整っており、柳帝嫡子に値するだけの気品をそなえていた。彼の吐く息がわずかに酒くさい。柳帝は嗤った。
 「飲まされたか」
 「顔色を変えずに酒を飲めるようになれ、と」
 あの女のしそうなことだ、と柳帝は思った。まだ七つの息子に、加減なく酒を飲ませたり池の氷上を素足で歩かせたりする。柳帝さえも驚くほどはやくにこの男児は馬に乗れるようになり、弓矢を射るようになり、そうしてどんどん母親に似てきた。似ているのは顔の美しさだけではない――『風の者』としての素質。
 ただ母親とちがって、礼儀は正しい。
 「つらいだろう」
 なかば試すかのように、柳帝はわが子に問いかけてみる。
 「つらくはありません」
 朱綺は決まってそう答えた。美しい容貌をしているが、両親のような底知れぬ冷たさはない。どちらかといえば平穏を好む、穏やかな双眸をもっている。ただし気は強い。
 「母上に守るものがあるように、わたしにも守るものがあります」
 「ふん?」
 「わたしはいつか父上のように国を守らねばならぬ立場ですが、」
 そこまで言って、少年は馬の脚を止めさせた。
 「今は妹を守りたいのです」
 けっして宮廷の陽のあたる場所を、歩くことのできぬ妹であった。嫡子朱綺の妹、秋沙《あいさ》――彼女に、皇族としての未来はない。


 
 感情のない冷ややかな双眸は、二児の母となっても何ら変わることがなかった。
 「ひさびさだな、我が正妃よ」
 微笑みもせずに、奈綺はなまぬるくなった酒で唇を濡らした。
 「秋沙はどうした」
 めったに己が子のことを気にかけない男である。ほんのわずか意外な思いを抱いて、奈綺は柳帝の凄艶な美貌を一瞥した。廉妃のもとへ忍ぼうとしていた間諜をひとり殺してきたばかりである。血に濡れた麻衣をまるで引き裂くように、奈綺は脱ぎ捨てた。ぺしゃり、と妙な音がした。
 「舜へ」
 もう二十五になろうか。柳帝のもとへ嫁してすでに八年近くが過ぎようとしているのにも関わらず、無礼で素っ気ない態度はまるで変わらぬ。
 「舜へ……だと」
 「秋沙は『風の者』となって帰ってくる」
 奈綺は知っている。親の温かい愛情がなくとも子は育つということを、己の身をもって知っている。
 この女は、子の行く末を瞳に映しているわけではなかった。あくまでも彼女の瞳が見つめているのは、国の行く末なのである。子をふたり生んだのも、国を考えてのことだった。そうでなければ、憎たらしいこの男と身体を重ねるはずもない。
 「子はふたり以上がいい」
 ひとりが城のなかにいても、もうひとりが外で自由に飛びまわれる。そんな状況が必要だ。柳を内から外からまもりぬき、いざとあらば喰いつぶして舜のものへ。そう思ったからこそ、朱綺に続いて第二子を孕んだ。朱綺は、いつか柳帝のあとを継いで即位するであろう。それを傍らから援けてゆける、けっして裏切らぬ味方が必要だった。
 ――けっして裏切ることのない最強の人間。『風の者』しかない、と奈綺は腹をくくった。
 (わたしと同じ『風の者』を)
 たとえ朱綺が玉座に縛りつけられたとしても、自由に飛びまわって兄を助け国をまもってゆける妹でなければならぬ。それが彼らにとって幸せなことだとは、奈綺も考えてはいない。しかしそれが道だ、と奈綺は寝台に腰をおろした。
 「二年もすればものになる」
 舜には、最強の『風の者』を養い鍛えあげる組織がはるか昔から存在している。舜における娘の体は、全面的に支岐に預けてあるのだった。舜帝を主君といわれて育ったとしても、かまわない。そうすれば母子主君を同じくして戦いぬく同志になる。
 (それも愉快ではないか)
 柳帝がゆっくりと奈綺の腰に手をまわす。男はいつも思う――この細やかな身体は、ひとを簡単に殺せるようには見えぬ。
 「秋沙は不幸せでないか」
 娘を案じて言ったわけではない。いつでもこの男は、奈綺を試すような物言いをする。娘を案じているような言葉を吐きながら、彼の双眸は普段と同じ冷ややかな彩りで光を発しているのだった。
 「……なぜ秋沙が今まで生きてくることができたか……分からないのか」
 柳帝は動きをとめ、妃の瞳を見据えた。表情のない静かな瞳が、かえって艶めかしく思われる。なぜ秋沙が今まで生きてこれたのか。
 「秋沙に『風の者』としての素質がなければ、わたしはとうにあの子を殺している」
 生きているのは、つまり秋沙に『風の者』の素質がじゅうぶんに認められたからだ。心の面でも体力的な面でも、母によく似た高い能力をもっている――だからここまで殺さずにおいたのだ。『風の者』として生きてゆくことが、彼女にとってけっして不幸になり得るものではないと分かったからだ。
 彼女は凛然とそう言い放つ。呆れた奴だ、と柳帝は苦笑を口許に浮かべ、大空と大地だけを見つめているような女の美貌を見下ろした。
 「おまえは母になるべき女でないな」
 わたしに何を求めるのだ、というような顔で奈綺は鼻を鳴らす。愛撫されて濡れはじめた形のよい唇を、彼女は小さくゆがめた。愛する男に見せる顔では、けっしてない。
 「……死ぬまでやはりおまえは、」
 柳帝の体のしたで、彼女はそっとつぶやいた。
 「そう、死ぬまでわたしは『風の者』だ」
 そう、『風の者』だ――それはわたしの誇るべき道であり、わたしのすべてである。奈綺は瞳を閉じる。朱綺を生んで七年、秋沙を生んで五年。
 (わたしも悩んださ)
 けっして腹を痛めて生んだ子に愛がないわけではない。ただ国への想いが、子への愛よりもはるかに勝った。奈綺にとっては、ただそれだけのことなのであった。だからこそ、ふたりの子に『風の者』としての素質がなければ、遅かれ早かれ殺そうと心に決めていた。
 「秋沙にあそこまで才があるとは思わなかった」
 奈綺は独りごちるように小さくつぶやく。柳帝の動きはとまらないが、おそらく奈綺の言葉は一言も聞き逃してはいないだろう。いつになっても変わらぬ、やはり喰えぬ男なのである。
 「………………」
 秋沙もまた朱綺に似て――つまり両親に似て、美しい容貌をもっていた。やはり容姿というものは、血の繋がりで多く決まるものらしい。父親に濃く似たか母親に濃く似たかと問われれば、秋沙はいくらか父帝似だといえよう。瞳は猫のように愛らしくつりあがり、そこは母親に似ている。やはり奈綺は心配していた。
 わが子とはいえ、自分と同じくらいの年で人を殺せるだろうか。恨みも憎しみもなく、ただ国のためだけに人を殺せるだろうか。傍らに立つ若い女を母親と認識しながら――甘えることもなく人を殺せるだろうか。
 「あの娘は、もうすでに人を殺せる」
 山のなか。桐の間諜、その気配を感じながらあのとき奈綺は秋沙と並んで歩いていた。もちろん奈綺は間諜の存在に気付いていた、その間諜が目の前にあらわれたときに秋沙に相手をさせようと思っていたのである。
 それが。
 「何人殺させた」
 「あれはわたしが殺させたんじゃない。殺したのさ。ふたりの男を、一瞬のうちに」
 奈綺が何かを言うよりもさきに、秋沙は間諜の気配に気付き――そうして五歳の少女がするすると糸刃扇を器用に操り、ふたりの黒衣の男をこなごなにしたのであった。こなごな、という言葉がもっともふさわしいように思われる。
 「まだ限度を知らないが……」
 そこは子どもである。力の加減をせずにめいっぱい武具を使うから間諜も哀れだった。奈綺の殺しのような、美しさはまだない。しかし男を殺したときの秋沙の双眸は、けっして悲しそうではなかった。生きいきと輝いていたのだった。
 (似ている、わたしに)
 あの双眸は、確かに誇りかな色をたたえていた。
 「明日からしばらくわたしも柳を出る」
 柳帝が鼻先で嗤う。柳帝のそれは、諾の意である。そうしてこの男は、どこへゆくのかなどということはけっして問わぬ。
 奈綺は、一度舜へ向かうつもりであった。かれこれ八年近く、舜帝を見ていない。舜帝正妃彩、あるいは支岐を通じて言葉は交わしても、昔のように直接主君の顔を拝謁することはなかった。この八年のあいだ間近で見つめてきたのは、冷ややかで温情のない柳の美帝である。秋沙の様子を見るついでに、舜帝にも拝謁を願い出よう――そして彩や支岐とももう一度これからの話を。
 (そろそろ桐も国力を溜めているだろう)
 平穏もそう長くは続くまい。奈綺の『風の者』としての勘が、じわりじわりと迫っているであろう不穏な空気をとらえている。

 愛おしき生と死のはざま。

 子を生してもなお、奈綺は血と吶喊の声にまみれた命の駆け引きの場を欲しているのだった。わたしは死ぬまで『風の者』だ、と奈綺は心の軸をととのえる。わたしはけっして母親にはなりきれぬ。それでなくとも母親の愛情を知らない――知っているのは風のように駆けてゆくあの心地よさと、祖国主君への忠誠心だけである。
 舜、そして桐へ。奈綺はけして二児の母親ではない。『風の者』、もはやそこに人間の表情はないのである。


 


 奈綺は闇にまぎれて静かにゆく。
 子をふたり生んでもなお美しく若い後ろ姿である。
 (あの女は、まだ死なせぬ)
 七年前の占師の言葉を、柳帝はまだ覚えていた。

 ――お命を落とされます。ご正妃が、お命を落とされます。

 
 


 まだ死なせぬ。あれは、俺にもこの国にも必要な女だ。











  【朱綺と秋沙】弐


 

 ――奈綺という女は、獣に似ている。しなやかに風の中を駆けてゆく美しい獣に似ている。


 ◇ ◇ ◇


 「まぎれもないおまえの娘だな」
 支岐が苦笑を唇にたたえてそう言った。傍らの岩に老父が腰かけている。舜の山中であった。
 「どう思われる、わが師よ」
 たいした反応を返さない奈綺をみて、支岐は続けて老父に語りかけた。白髪に白髭、無数の皺に隠されたその眼光は窺いしることもかなわぬ。ただのひとが見れば好々爺に見えようが、その隠された双眸に宿る眼光の冷たさと鋭さを知るのは舜の『風の者』ばかりである。奈綺にとっては直接の師ではないが、支岐にとっては直接の師にあたる。むろん奈綺にとっても師のような人物であった。
 奈綺は感情のない瞳のまま、微笑をたたえた老父を一瞥した。
 「だが奈綺よりは幾らか性根が優しいとみえる。ほんの幾らかではあるがな」
 父御の血をひいたかな、と老父はふたたび微笑んだ。奈綺は小さく舌打ちをして視線を逸らす――老父のそれは厭味である。秋沙の父があの柳帝だということを知りながらの言葉であった。濡れるような新緑、春も終わりに近づいてきた柔らかな風が彼らの髪をなぶってゆく。
 支岐が草笛を吹いた。
 「……みごとな身のこなしをしているぞ」
 支岐の言うとおりであった。森のなか、木々を必要以上に揺らすこともなくひとりの少女が地面に降り立つ。滑るような身のこなし、軽やかな着地、そのひとつひとつが確かに母親によく似ている。まだ五つ――小さな娘の美しい瞳が、奈綺を見上げた。子供特有のつぶらな瞳ではなく、湖のように静かな落ち着いた瞳である。その落ち着いた瞳が、奈綺を認めた瞬間にほんの少しだけ嬉しそうに輝いた気がした。
 老父の眉がぴくりと動き――奈綺の柳眉もまたぴくりと動いた。
 「お久しぶりでございます」
 あどけなさの残る口調で、娘は微笑んだ。まだ五つではあるが、立ち居振る舞いは驚くほどしっかりしている。母よりも礼儀正しいな、と支岐が揶揄した。
 「お久しぶりでございます、母う……あの、いえ奈綺さま」
 「ああ」
 奈綺の刺すような視線に貫かれて、母上といいかけた幼い唇がためらう。そうして娘は母親のことを名で呼んだ。
 支岐が弾かれたように奈綺に視線を寄越した。
 「おまえ……」
 (どこまでも人間らしい男ぞ)
 幼い娘だ、母上とぐらい呼ばせてやれ。そう思っているに違いなかろう。
 「どうなさいましたか、このようなところまで」
 奈綺は『風の者』である。けっして母親ではない。秋沙の問いかけに、奈綺はふと微笑んで言った。
 「おまえの鍛錬ぶりを見ておこうと思ったまで。明日には発つ」
 「……そうですか」
 秋沙の双眸がさみしげに曇ったのを見て、奈綺は慄然とした。この女は『風の者』である――ひとの心の奥底を読むことに長け、ひとでも獣でも一撃で殺す術を知り、すべて心を捨てて国と主君のためだけに生きる道を知っている。
 今彼女は、己の娘がどれほど孤独感にさいなまれ寂しい思いをしているかを目の当たりにしたのであった。
 (わたしはこの娘に慕われている――母親として)
 とっさに口をついて出た「母上」という言葉からも、それは知れた。しかし奈綺は、それでもなお娘を突きはなす。けっして己の傍らには立たせず、また頭のひとつも撫ではせぬ。母の双眸に微塵も母の色がないことに、娘は気付いたろうか。
 奈綺は視線を落とし、腰帯から小太刀をそっとぬきとった。このときすでに、奈綺の気持ちはあるところに定まっていたとみえる。
 「秋沙」
 奈綺は、凛とした声でひとつ娘の名を呼んだ。揺るぎのない声色であり、聴く者を安堵させるような凛然とした声色でもある。味方が聴けば頼もしい声色であり、敵が聴けば慄くような冷然とした声色でもある。その声に、秋沙はうつくしい顔をあげてみせた。
 『風の者』と『風の者』との視線がぱしりとぶつかった。
 「はい、奈綺さま」
 「わたしはおまえの何だろうね」
 「………………わたしの師でございます」
 奈綺は少女の瞳をのぞきこむ。生まれた直後の一年ほどしか抱いてやらなかった我が娘であった。
 「わたしがおまえの眼前で死ぬとして――……そのようなときはどうする」
 「…………!」
 少女が言葉につまった。奈綺には少女のほかに老父と支岐がきちんと見えていたが、少女には奈綺以外見えていない。そんなことにすらも、奈綺はとうに気付いている。
 (秋沙)
 「…………わたしは……わたしのすべきことをするだけでございます。奈綺さまとは別のところで」
 偽りである。奈綺がもしも危険にさらされたときには、おそらく秋沙が身を挺して奈綺を助けようとするだろう。獣の勘が、奈綺にそう教えている。当然だった。獣であれば、子は母を頼り母は子を守る。血で繋がった母子の絆は、けっして容易に崩れるものではない。母子の絆はまた、つくっていくものでもない。母が子を生み落としたその瞬間から、厳然とそこに在るもの――それが母と子の絆である。
 「けっして母に惑わされるな、秋沙よ。ひとを殺すことを厭わず、血縁はいないものと思うことだ」
 (……秋沙)
 奈綺は不機嫌そうに言葉をつづけた。少女の態度に機嫌を損ねたのではない。思わず胸のうちで娘の名を呼んでしまった、己に機嫌を損ねたのであった。
 彼女は小太刀をそっと少女に差し出した。
 「秋沙、おまえの祖国は柳ぞ」
 「はい」
 それから奈綺は、彼女にしては珍しくしばらくためらってから少女を見つめる。
 「ただし舜帝と柳帝、このふたりを主君に持つものと考えておけ」
 「……はい」
 ここではじめて、奈綺が柳帝を主君と認めたことになる。今までけっして柳帝を主君とは言わなかった女であった。少女にたいする教えである。しかし確かに、このときはじめて奈綺という『風の者』は己のなかで柳帝をも主君の座に据えたのだった。
 この女の生涯で、柳帝を主君と認めるようなことを言ったのはこれが最初で最後である。
 「秋沙」
 支岐にも老父にもわからなかった――彼女はまたここで珍しいことをした。子を呼ぶ声に、誰にも気付かれぬだけの情をこめたのであった。
 「母を落胆させるな。おまえは国をまもるべき『風の者』、ひとであると思わぬよう」
 母と子の視線が、正面からぶつかった。
 (……わたしは)
 「おまえには母も父もいない。天涯孤独の『風の者』だ、その生涯のすべてを国に捧げよ。もしも『風の者』として生きていくに邪魔になる感情が芽生えたならば消せ」
 「はい」
 「ただ感情は己の意志ではどうにもならないときがある」
 「……はい」
 「消せぬときは、迷わず死ね」
 びくり、と秋沙の手が震えた。支岐が、じっとこちらを見つめている。何か魔物でもみるかのような、しかしなかば痛々しいものでもみるかのような視線だった。それを感じながら、奈綺は小太刀を娘の手にしっかりと握らせた。
 「……はい母う……奈綺さま」


 
 わたしはこの子の母である。
 この子はわたしの娘である。



 その感情を知ったとき、奈綺は慄然とした。
 そしてその瞬間に、この女は己の死期を予感したのである。




  ◇ ◇ ◇


 奈綺の頭をかすめたのは淡雪のような不吉な予感であった。己の死ではない。もしも娘が命危ういとき、わたしの身体は国ではなく娘をまもるために動くのではないか。そんな予感である。身体が自分の意志に関係なく反射的に動くことをこの女は知っていた。なまじっか知っているからこそ、怖れたのだともいえる。

 

 「桐へゆくか」
 支岐の声に、女は静かにうなずいた。
 「次はいつ会えるか知れぬ。もうちっと優しくしてやればよいものを……」
 「あれはもうわたしの娘ではない」
 「…………なに?」
 七年ぶりに主君舜帝と言葉を交わしてきたばかりである。この懐かしき祖国――懐かしきわが室。苦笑して奈綺は小さくつぶやいた。

 ――わたしとしたことが。

 「あれはもうわたしの娘ではない」
 もうそのときには、奈綺の双眸は『風の者』である。感情もなにもない瞳で、冷然と言い放った。
 「わたしはもう二度とあの娘には会うつもりはない」
 「おまえ、」
 「あの娘の目に慕情を見ただろうよ、おまえも」
 確かに、と支岐は口を閉ざす。奈綺が幼いころにはもちろんなかった情であるし、母親がまだ健在だった幼いころの支岐にもなかった情である。いや、あるにはあったのかもしれないが、秋沙の情はそれをはるかにうわまわっていた。
 「このままだとわたしは子に殺される」
 ふん、と鼻を鳴らして嗤う。支岐が呆れたようなためいきをつき、新しい小太刀を引き出しから取り出した。
 「そろそろ戦にもなろう。七年前のような小戦ではすまないはずだ」
 次はいつどこで会うかわからぬ。そう言って彼は小太刀を奈綺に差し出した。
 「餞別だ」


 奈綺はこうと決めたらやりとおす。
 この日以来、奈綺が娘と顔をあわせることはなかった。秋沙が柳に『風の者』として帰ってきたときには、母親はすでに黄泉へと旅立っていたからである。








2006/03/18(Sat)23:06:23 公開 / ゅぇ
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 あと二回ほどで奈綺の章が完結するかと思われます。奈綺と秋沙の絡みを書くのはこれが最初で最後だったり。自分で決めておきながら、何だか物足りないような気もしますが、無謀にも遠い未来に『朱綺と秋沙の章』として『朱綺神話』という長編を書きたいとか願っているので、とりあえずはこれでおさめたいと思っております。今回は奈綺が少し人間らしく見えたでしょうか。つと揺らいでもすぐに持ち直せる女であるはずなので、この先ほんとうに秋沙と会う予定はございません(笑)とりあえずはあと数回、拙い文章ではありますが寛容なお心で見守っていただければと思います、どうかお願いいたします(笑)あと少し、がんばりますー◎

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