『sinner』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:天告                

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 愛を知るヒトの子は愛におぼれてひとを刺す

 愛を知らない神の子は愛に餓えてひとを喰う

 
  序章


  男は歩いていた自分と同じ軍服に身を包んだ軍人が行きかう通路を、歩く人々は皆男の姿を認めると慌てて平伏する。
  男はこの重要な任務を遂行する軍艦の中で指揮官を任されていた、いわば現時点での最高権力者だ。
  それ故に皆この男を畏怖と憧れの篭った視線で見詰める、けしてあげることの許されない頭の下で。
  時に嫉妬にひかる視線を当てる者もいるが、その場で腰の剣を抜き去り腕力に訴える愚か者などひとりもいなかった。
  その場にいる全員が理解し、怯えていたから。
  権力こそすべてだと、そしてそのどうしようもなく大きな壁に挑めばどうなるか…。

  そんな策略や純粋な尊敬の念そして悪意、さまざまなものが混ざった視線を一身に浴びながらも男はどこか心ここにあらずといった様子でただなんとなく歩を進めている。
 理由はあった筈だ、目的地も、然し今はそんなことは頭に入らない、物憂げに吐いた溜息が冷たい空気で白く濁る。
 顔の造作は寸分の狂いもない完璧なつくりなのにどこか芸術めいた確証の持てない六感に訴えかけるような美しさを持っている。
 藍色がかった黒の切れ長の目、通った鼻筋、引き結ばれた唇、歪めた柳眉。
 くすんだ藍色の髪は、前髪は目に少しかかる程度だが後ろは腰の辺りまでのある、それを後頭部のあたりで結わえてある。
 鍛えられた長身痩躯を包む漆黒の軍服は彼の持つ厳しさと相俟って白い肌によく映えている。

 権力も、才知も、容姿もすべて手に入れた男はふと歩を止めた、豪奢な造りの扉の前で。金の造りの取っ手は少しやりすぎな感じが否めないがかといって下品さは無い。
 男は目を止めたのはその目を引くデザイン故ではなく、つい先刻までそこに立っていた門番の男がいないことだった。
 顔をよく、覚えている、そばかすと大きなこげ茶の瞳が印象的な童顔の兵士だった。
 同僚の兵の話によれば戦場でも場内でも何時も失敗ばかりしていつ御役御免になっても可笑しくない程の器量の悪さだと。

 確かに頼りなさそうな、なよなよとした貧弱な少年だったが素直そうな微笑と真面目な 働きぶり(実績はともかく)に感心しこの扉の奥にいる『人物』の警護および監視の任務を命令したのだ、兵士は喜びと緊張で紅潮した頬に精一杯の威厳を浮かべて一礼すると一目散に駆けていった。
 その兵士が、いまこの場にいない。
 仕事を怠けたという考えが一番に浮かんだがすぐに却下された。
 人を見る目にはそれなりの自信がある、茶汲みでも自ら進んでやるような大真面目な気性の少年だ、そんな彼にとって重要人物の部屋の門番などかつてない責任重大の重い任務だろう。

 それをおろそかにするわけがない。
 ならどうして?

 考えを巡らすうちに金の取っ手におろした錠前が外れていることに気付いたよく目をこらせば中の光が細く零れている。
 鍵は担当の者に渡してあるはずだが。
 不審に思った男は扉に近づいて中をそっと覗う。

 淡い月の光射す、部屋の真ん中で跪き祈る、女の黒い後姿が目に入る。
 開け放たれたドアに微かな失望と呆れの溜息を吐くと、細くその姿を覗かせていたドアのノブを手前に引く。

 当然、キィと軋んだ小さな音がした、それにも関わらずその姿勢を崩さず熱心に祈り続ける女に男は多少苛立ちを含ませた声で。

「おい」

 と呼びかける、すると女は驚きもせずゆっくりとこちらを振り返った、被っているヴェールが其の動作でふわりと揺れる薄い生地の下の黒髪と柔らかな微笑が微かに覗く、露出が極端に少ない喉をするりと覆おうドレスは漆黒以外の色をまったく含まない地味なデザインだがそれ故に彼女特有の近寄りがたい気高さを引き立てていた。

 開け放った窓から入り込んだ夜風が女のヴェールを揺らしたようにレースのカーテンをはためかせる、舞踏会で華麗なステップを踏む貴婦人のドレスの裾のようにひらひらひらりと。
 女がヴェールで隠れた目の下の可憐な唇を吊り上げ優雅に微笑む、花弁が散る瞬間のように開かれた唇が可笑しそうに言葉を紡ぐ。

「なぁに?」
 
 その冷たい美貌を孕む容姿からは考えられないような、気軽で可憐な返答。
 女はまるで町娘のように跳ねるように立ち上がると男の傍に寄った、怪訝そうな顔をする男の顔を覗き込むように屈み両手を腰で組み悪戯をする子供のようにふふっと笑みを漏らす、男は表情を揺るがすことなくただ冷淡な視線を女にぶつけた。

 広すぎる部屋に沈黙が広がる、だだっ広い部屋の中央にぽつんと置かれた絹の天蓋つきの寝台以外、生活感を感じさせるものがない部屋は広すぎた。
 そう、この少女ひとりにために用意された部屋にしては。

 それは高貴な姫君に与えた愛情に似た罪人を捕らえるための檻、少女は室内での自由は許されるものの一歩でも外に出ることは許されてはいない。
 ドアの前に付けていた見張りは何処に消えたのだろう、男は思考を巡らす、親指と人差し指の爪を交互に噛む、それは彼が考え事をするときの癖だった。
 少女はヴェールのしたでゆるゆると、ぎりりと軋んだ音と切りそろえられた爪が歯の進攻を受け間の柔い桃色を滲んだ赤が支配するのを愉しげに見詰めている。

 細められた黒曜石の瞳のなかの残酷な揺らぎを男が気取る。
 口内に広がった血の味にぎくりと気付く、少女の目はそれに釘付けで。
 心臓がどくんと大きく打った、爪を噛んでいないほうの下ろして握りしていた手のひらに汗が滲んだ。
 一月前に見た惨状に脳裏に鮮やかに甦る。

 牧歌的な村で起こった突然の悲劇。
 それは惨状と呼ぶより安寧と呼ぶに相応しい光景。
 赤ん坊に乳をやっている母親が子を抱いて眠るように息絶えた姿。
 羊飼いは青い芝生に埋もれてその親子同様静かに息絶えていた。
 ほかの村人もまた同じ。

 神聖で厳かな聖歌にも似た空気に包まれた村内は美しさを湛えていた。
 調査隊として軍から送られた自分と近くの町の警備隊はそのこの世のものとは思えない精錬された光景にただ唖然し竦みあがった足は自由を許さない。
 然し段々と時がたつにつれ男だけは他の者とは違う違和感を覚えていた。

 安らかにまるで母の腕に抱かれるように息絶えた村人たちの死顔が時がたつにつれ引きつり悲しみを浮かべるように映るのだ。
 それは死後硬直と片付けてしまえばすむ問題だが男にはそう考える余裕すらなかった。
 自らの剣でひとの命を奪いその暖かな血潮を浴びて『死』というものを実感し続けていた軍人である自分にとって今、目の前に広がるただ神々しい静寂の『死』が受け入れられなかった、それだけかもしれない。
 直感的になにかが自分に訴えかけているこの『死』にはなにかが隠されている。 

 正直に知りたくないと思った、然し竦みあがっていた足は怯えた思考を無視して駆け出す。
 どこへ行こうとしているのかは自分でも分からない、ただひたすら走る、母の手を失った迷い子のように。
 背後で自分を呼ぶ声がする、そんなものはもう我を失った聴覚には届かなかった。
 なにかが自分を呼び、急かしているそんな感覚がしてならないのだ。
 似たような民家が連なる、入り組んだ狭い道を縫うように駆け抜ける。
 途中足下に柔らかな感触を感じた、屍とかした村人だろうかそんなことは気にもならない。鍛えられた身体は息を荒げることも無く辿り着いた、行方も知れぬ目的地に。

 男は立ち竦んだ。
 凛と響く鐘の音。
 そこには誰の遺体もありはしないのに、まるで氷の中に閉じ込められたように寒々としていた。
 白壁の教会。
 村の中心にその存在を主張する十字架。
 絡まる蔦は青々と美しく、植え込みの花々も美しく咲き乱れ蝶を蜜に誘い小鳥は囀る。

 暖かで薄氷、矛盾しているがこれがこの場所の美しさを表す最高の賛美の言葉。
 見上げた空に近い場所で鐘が鳴る、村人の死を哀しむのではなく称えるように。
 その鐘の音にのって、ささやかではあるが力強いなにかが響く。 

(賛美歌―――?)

 自分自身は神を信仰してはいないが、早くに亡くなった母が信仰熱心な人だったのでよく覚えている。
 記憶のなかの母親の歌声とそのソプラノが重なる。
 惹かれるように扉に近づいた、震える指先で扉に触れる冷たい金属の感触だけが伝わる。
 恐々というよりそのあまりの美しさに惑い気後れしているような感じだった。
 軋んだ響きをともなって扉が開く。

 左右に並んだ長椅子。
 中央に敷かれた紅い絨毯。
 その先に続く聖壇、そしてステンドグラス越しの七色の光。 

 その下に女はいた。 

 被ったヴェールは微かな動きも見せず、こちらに背を向けて聖壇の前に跪き祈っている。
 質素な黒のドレスを身に纏っているシスターだろうか?頭の片隅でそんなことを考えながらも自体発行するような淡い女の美しさにただ見惚れた。賛美歌だと思っていたのは祈りの言葉だったらしい、歌うような調子でさらさらと紡がれる言葉。

 祈る手のひらのなかには首にかけた黒い十字架、閉じられていた瞳がゆっくりと開く。
 見据えたのは頭上高い、金の十字架。

 微笑み詠う。

「アーメン」

 そして女は手のひらの十字架に口付け胸の前で十字を切った。
 その動作のひとつひとつが清らかな川の流れのように見ているものを引き込む。
 一歩足を進めた、無意識に。
 古い床が軋む音に女が振りかえる。
 瞬間、背筋が凍った。
 女はこの世のものとは思えないほどに美しく気高いようすで微笑んでいた。
 男はうろたえた、その美しさはまるで安らかな村人たちのよう…。

 においたつ気品を持ちながら女は近づいてくる一歩一歩、そのたびに頭の中で警鐘が鳴る、逃げろと然し足は動かない。全身が強張って微風にすら過敏に反応する、聖壇に置かれた黴の浮いた聖書のかおりまで感じ取れるような。
 純粋な恐怖が勇気を蹴落としたが男は逃げずに対峙した、唾をごくりと飲む、この女だけなぜ生き残っているのか
 自分の任務はそれを知ることにある。
 そう思い、強い意思の篭った目で女の両眼を睨み付けた、女はひるむ事無く歩みを止めない、そして目の前で立ち止まると、至極悲しげに微笑した、男は。

「…この村でなにが起こった、如何しておまえだけが生きている、話せ」

 長い間沈黙していたせいで声が掠れていた。
 女は胸の前で手を組むと口を開いた。

「わたくしは――――。」

「わたくしはただ、触れたかった…暖かな血潮、人という証、それらに触れることを許されはしなかったから…」

 女の言葉はいまいち要領を得ないものではあったが淡々とどこが悲しげに響いて心に浸透していった。
 女に蝕む悲しみと悔やみがそのまま自分に移されるような感覚だ。

 女の目に涙は光らず、乾いていたがそれが逆に悲劇を感じさせる。

「…だからおとうさまにお許しを乞うていたのです」

 その言葉に男は驚愕した。

「まだ生き残りがいるのか?!」

 どこだと口をひらくまえに女はしずしずと告げる。

「おとうさまは、ずっと前からここにおられます、しかしお姿を拝見することはできません」
「…どういうことだ」

 女は俯き少し考えてから男に背を向けた先ほどとおなじように跪き祈る。
 そして男に問いかけた。

「あなたさまはヒトの子?」
「…当たり前だ」
 その返事に女はふと自嘲めいた笑みを漏らした後。
「わたくしは違います」
 その時、少し開いた扉の向こうからひらひらと一羽の蝶が迷い込んだ。 
 女はそれを視線で追うと、近くまで来た蝶を両手でそっと包んだ。
 そして一言ごめんねと呟くと鮮やかな羽をそっと撫でた。
 途端、蝶は、くたっと萎れ、女の手のひらの上で動かなくなった。
 それは死人と化した村人たちを思わせる姿、そして男は悟ったこの悲劇の首謀者を。
 忘れかけていた恐怖が甦る、嫌悪と怒りで剣の柄に手を掛けた。
 女は気にすることも無く、蝶の死骸を愛でるように撫でていたごめんね、ごめんねと繰り返す声は痛々しい。
 そして死骸に口付けると祈りに手を組んだ。

「わたくしは…神の子」
「黙れ」
 男が剣を抜き去ったにも関わらず女は微動にしない。
「わたくしは―――」
「わたくしは罪の子」
 震えたその言葉に女を切り裂こうとした刃が寸前で止まる。
 女は男を見据え、強く言葉を発した。
「ヒトの子よ頼みを聞いてください」
 女の言葉の切実さに打たれ剣を下ろす。
「なんだ」
「どうかわたくしを、あなたさまがた人間の主の元に連れて行ってください」
「その必要は無い」
 男はきっぱりと否定し、もういちど刃を女の首筋に当てた。
「おまえはこの事件の首謀者だ、それが今分かった、理由はどうあれ今この場で斬る」
 女は淡々と。
「…事件の重要参考人であるわたくしは簡単に殺めてしまってよいのですか?」
 痛いところを付かれて、言葉を濁す。
「それは…っ」
「そうできるものならわたくしだってそうしたい」
 女は呟くと、近寄った後ずさりした男の剣にそっと触れる。
 そして力を篭めて握り締めた、咄嗟に口を開きかけて息を飲んだ。
 それは異様な光景だった、手入れも成され抜群の切れ味を持つはずの剣が。
 女の白く小さな手のひらからは血液の一滴も流れてはいなかった、女は苦痛に顔を歪める事も無くただ無心に握り締めている、まるで自ら傷つくことを望むように。
 ありえない光景を目にしながら呆然としていると、しばらくして女は手を離した。
 傷ひとつ付いてない手のひらを恨めしそうに見つめながら、ぶつぶつと呟く。

「わたくしは血潮持たぬ者、神の子、ヒトを見守ることがさだめ、それ、なのに」
 胸の前で手を握り締め、眉を寄せて嘆く。
「孤独に耐え切れず、殺めてしまったたくさんの命を…」
「……おまえは」
「どうか、連れて行ってください、そしてもう二度とこの手が誰も傷つけないよう、永久に闇の牢獄でおとうさまにお許しを乞い続けたいのです」

 何時の間にか女の頬を涙が伝っていた、透明で繊細な雫、立ち居振る舞いも異様な気高さを隠せばヒトと少しも違わない、それなのに―――。

(神の子だと…?)

 目の前のまだ幼さを残すこの女が、信じ難いが今の状況からして信じるしかない。
 頭の中が錯乱しそうになるのを、穏やかに射す光を見つめて食い止めた、今自分はここにいるのだと。
 女と言葉を交わし視線を合わせる瞬間だけまるで自分が異世界―――例えるならヒトが 神に見捨てられた楽園エデン。
 その場所で神の子と名乗る女は微笑んでいた、静かに嘆きながら。
 女がもう一度跪く、祈る言葉に鼓膜が侵されそうになる。

「おとうさま、お許し下さい、罪の子となったわたくしを―――」

 薄氷に包まれた穏やかな空間に祈りが囀るように響き渡る。
 自分はここにいる、生きている、自分はヒトだと言い聞かせるように男はただ剣を握り締めていた。
 ぽたりと血が絨毯に滴り落ちる、女が未来永劫手に入れることができない、生きる証。

 先ほど死骸になった蝶が風に吹かれて鱗粉を撒き散らす、紅い絨毯が微かに常闇の色に染まる。

 祈りはいまだ、止まない―――。

2005/08/14(Sun)13:48:00 公開 / 天告
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■作者からのメッセージ
久しぶりの投稿です。随分と長くなってしまいましたが次回からはもっとコンパクトにまとめられるよう精進します、では、ご意見ご感想ご指摘よろしくお願い致します。

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