『【改定版】FROMジャンクシティ OP〜4』 ... ジャンル:ファンタジー ファンタジー
作者:オレンジ                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
  〜独白〜久野幹夫の

 面白い小説を見つけたんだ。異世界ファンタジー物なんだけどね、結構興味深い内容だったんだ。めずらしいだろ、僕がファンタジーに入れ込むなんて。そう、この小説は唯のファンタジーじゃない。地球という名の星で繰り広げられる、人類の興亡が事細かに描かれているんだ。
 何となく僕の好きそうな内容だろ?
 この地球という世界は、僕らの世界に酷似しているんだが、ちょっと違うんだな。呪術や魔術が社会的に認知されなくなって行った世界なんだ。ん?つまり、呪術は存在していても、その行為や及ぼす影響を人間の心……というよりは社会か……が受け入れないんだ。まあ、小説の言葉を借りると『目にみえない物は信じない、所謂、物質至上主義』というものらしい。
 面白いだろ、人類が生まれた頃は社会的に認められ、政治にも利用されていた呪術が、次第に社会から疎外されていくんだ。もっとも、彼らの呪術は随分と後進的なものだけどね。その傾向は、彼らの時間で18世紀頃、産業革命と呼ばれるパラダイムシフトから顕著になっていくんだ。それから、彼らの世界は加速的に滅亡へと向かっていった。生物の設計図と呼ばれるイデン情報っていうものを操作して、自然の摂理に反した生命体を生み出したり、生殖行為無しで生命を誕生させたり、物質を原子のレベルで中性子と反応させ、大地を一瞬で焼き尽くす程の巨大なエネルギーを放出させたり、それがホウシャノウという有害な物質を生み出し、やがてその世界はどんどん汚染されていくんだ。また、自然資源を過剰に搾取し、石油や天然ガスなどあらゆる物を燃料と化した事で、大量の二酸化炭素が放出され、やがて星全体が温暖化されて行き、生物の生態系を大きく揺るがしたりもした。また、その燃料の枯渇が始まると、その利権をめぐって国同士が醜く争ったり……。これは、どういった理論なのか詳しく書かれていたが、僕らの世界では到底在り得ない、非常識な暴論に近いものだね。まあ、ファンタジー小説なのだから、真に受ける人も居ないだろうけど。
 ははは、ファンタジーというよりは、オカルトみたいだろ。彼らが、精神主義と物質主義の狭間から抜け出し、物質主義一辺倒になってしまったのは何故なんだろうか。そんな事を思うと、とても興味深く読ませてくれる小説だよ。
 なあ、沙奈。僕らは、こんなちっぽけな塀に囲まれた薄汚れた世界しか知らない。もしかしたら、塀の外は、この小説の様な現象が当たり前に起きているのかも知れない。僕らは、きっと何も知らないんだ。
 早くこの大学を出て、塀を越えたい。所詮は、親に売り飛ばされて入った大学だ、利用できる物は全て利用してやる。そして、もっといろんな事を知りたい。世界の全てを、僕らが生まれてきた本当の意味を。この世界は、何を望んで僕をこの世界に造り出したのか。
 沙奈、一緒に塀を越えよう。たとえ其処に僕らを待つ物が何も無かったとしても、僕には沙奈がいる、沙奈には僕がいる……。二人なら、きっと大丈夫だ、何があろうとね。
 
 こんな科白、初めて口にするけど……愛してるよ、沙奈。

               *

 ヨレヨレの白衣でしわがれた体を覆った老医師が、僕を見つめている。目は確かに口ほどに物を言う。医師の目は、僕の脳髄を突き刺す様な重たい視線を投げかける。『心の準備はいいか』と問いかけている様だ。今から語られる事実に心を潰されてしまわぬように、しっかりと準備をしておくのだと、そんな医師の気遣いを感じ取りながら、僕は唾を飲み下し喉を鳴らす。
「残念だが、君はもう言葉を自由に使う事が出来ない……もう、その症状は現状を維持させておくのが精一杯だ。だが、会話が出来ない訳ではない。限られた発声しか出来ないが、社会的コミュニケーションは何とか可能だ。ただ……」
 いいさ、そんな事は解っている。この街の隅っこで暮らしていた頃、工場から垂れ流される、有害な気『瘴気』を日常的に浴びていたこの体だ。『瘴気』で脳髄をやられちまったんだって事は解ってる。その弊害で上手く言葉が喋れなくなってしまった、ってのも受け入れるさ。この街の下らない連中達とそれほどコミュニケーションを取りたいとも思わない、最低限の関係さえ保てれば。……ただ、何だ?何が言いたいんだ?きっとその言葉は、僕の今までの人生を全否定する内容のものだろう。その宣告は、僕から何もかもを奪っていくに違いない。……ただ、何だ?
「……ただ、もう呪術者にはなれないだろう。君は、もう呪文の詠唱が出来ないからな。呪文の詠唱は、正確な発音が要求される、このままリハビリを続けても君の発音は戻る事はない。御符による治療も、『瘴気』を取り除く事に対しては有効だが、既に破壊されてしまった脳髄の一部を修理する事は出来ない」
幼い頃からその呪術の才能を見出され、貧しかった親に特別施設へ売り飛ばされ、呪術の修行一本で生きてきた子供の頃、果ては四神官とまで言われたこの僕が、呪術という生きる道を閉ざされて、一体どうしろというのだろう。多分、今通っているW大学も追放される。呪術のない僕など、大学には用無しだ。金も払わず講義を受けている僕など明日にでも退学だ。
「公害病認定の対象だが……手続きをとっておくかね? 」
 そんな物、受理される筈無いだろう。最早俺は、この街にとって不要な存在になったんだ。そんな人間の為に多額の補償など、このジャンクシティが行う訳ない。

 なあ、沙奈、僕は……どうしたらいいのだろう。教えてくれ、なあ、沙奈……。

                *

「……という訳で、こいつは可哀相な奴なんだ。解ってやれよ」
 何だよ、そのにやけた顔は。俺を見下すな。弱い者との対比でしか優越感を得られないクズのくせに。
「ああ?ナニ喋ってるか全然わかんねえ、ちゃんと話せよ」
「ったく、そんな事も出来ないのかよ、大学で何を習ったんだ? 」
「間違えたら、『すみません』だろ?ああ?何だって?……ああそうか、お前『すみません』も言えないんだったなあ。こんな会話も出来ない奴と何で一緒に働かなきゃいけないんだよ……」
 どいつもこいつも、俺を見下しやがって。あんなクズしかいない会社はこっちから願い下げだ。
 ああ、また会社辞めちまった……。
 何だよ沙奈、その目は……。また会社を辞めた事を責めるのか?あれは俺の所為じゃない、社員がクズばっかりだからこっちから辞めてやったんだよ。
 くそ、何でそんな哀れな子犬でも見るような目をしてるんだよ、沙奈!俺が悪いのか?なあ、俺みたいな能無しがいるのがいけないのか?ふざけんな!お前も俺を見下すのか?
何が落ち着けだ。こら酒が無いぞ!ああ?煩い!さっさと持ってくりゃいいんだよ。
 何が気に入らねえんだよこの俺の。くそ、その目を止めろ!何だよその目は!いい加減にしろ……この!……

 ――気がつくと、俺の足元には、髪を振り乱して顔面を真っ赤に腫らし口元に血を滲ませ、泣きじゃくる俺の彼女、沙奈がうずくまっていたんだ――


1 〜発端〜


暗幕に四方を囲まれた、その湿気の強い部屋の真ん中に、男の眼球が浮かび上がっている。充血がその眼の銀色を濁らせ、とてもいやらしくギラついていた。
 男は部屋の中心で、暗幕の敷かれた小さなテーブルの前に座っている。そのテーブルには、白墨で六芒星が盤上いっぱいに描かれており、火の灯された蝋燭が一本立てられている。そしてその中心には白い15センチ程の人型の蝋の塊が置かれていた。
 男がその深紅に染まった口から零す呪詛の言葉の一つ一つは、蚊の鳴き声程度の音でしかないが、その声には、雨露の雫が年月を経て岩石を穿つ執拗な力強さがある。
 漆黒の闇の中に男の呟きが満ちてゆく。恨み辛みの念が満ち満ちていく。怨恨の念は膨張し、やがて部屋全体を覆いつくす。その渦中に身を置く男の心理状態を一体誰が知り得ようか。
 男は、身に纏った黒い装束の懐から銀のナイフを取り出し、呪詛の言葉を吐きながら己の掌に衝き立てた。赤というよりは黒に近い色の血液が、どろりと掌の皮下から姿を現す。ナイフを掌から引き抜くと、男はその傷口を眺めて出血の量を確認した。血は、手首を伝い、黒装束の袖口その奥まで一筋の軌跡を描いていた。
 流血の止まらぬ手を男はおもむろに握り締め、血まみれの拳を作る。拳をテーブル中央辺りまで運ぶと、滴り落ちる血液が真っ黒なテーブルに赤い曲線を引いた。その曲線は、真っ白な蝋人形が置かれている所まで続いてそこで止まった。蝋人形にぼたぼたと血が降り注ぐ。
 純白の人形を己の血で染め上げてしまうと、男は再び銀のナイフを握り締めた。
 銀のナイフを眺めながら、男は口の中だけで何か物を言っている。血に覆われたナイフに男の狂気の顔が部分的に移り込む。やがて男は堪えきれない様にして高笑いを始めた。
「はーっははは、ひひひひ、くたばれ、神の名の下に裁きを!ひゃははは……」 
 空を切り裂き、銀のナイフが血染めの蝋人形に振り降ろされた。

              *

「心臓を一撃か……狙いはとても正確だったのだがな」
 足元に転がる死体を見下ろし、日下部総司(くさかべそうじ)はつぶやいた。濃紺のスーツをかっちりと着こなし、背筋を伸ばして佇む姿は、まさに好青年と呼ぶにふさわしい風貌である。
 日下部は、足元のねっとりとした血溜まりを気にしながら、さらに死体へ向って一歩差し出した。もう少しで、その高級そうな革靴に血が付着しそうである。
 男の死体は、黒装束に包まれ、心臓を何かで一突きに刺し抜かれていた。
「この男が、ボスに呪詛を仕掛けていたのですね」
 日下部の背後から、女の声がした。日下部は、振り向きもせずにその言葉に返答する。
「ああ、全く無謀な奴だ……」
「日下部社長程の術者に呪詛返しされたのでは、この男もひとたまりもありませんね」
 女の名前は香坂美樹(こうさかみき)。グレーのタイトミニのスーツに8センチはあるヒールを引っ掛け、日下部の背後に姿勢よく立っている。
「香坂君、悪いがあのテーブルの蝋人形、カケラを採取しておいてくれないか」
「ええ!アレをですか?」
 部屋の真ん中辺りにあるテーブルの上には、血まみれの蝋人形が、左胸辺りに銀のナイフを刺された状態で置かれている。美樹は、日下部の突然の要求に少したじろいだ。蝋人形のカケラの採取など造作も無い事である。だが、今目の前にある蝋人形は得体の知れない男の血がべったりと付着しているのである。手袋越しでもちょっと触れるのは勘弁させてもらいたい情況なのだが。
「何をしている?早くするんだ。政府の警察が来る前に、立ち去らないといけないんだからな」
「は、はい……でもぉ……」
 美樹の心には、後一歩踏み出す勇気が沸いて来ない。美樹のおどおどする姿を見て、堪り兼ねたのか日下部が動き出す。
「もういい、わたしがやるよ」
 そう言って、日下部はポケットからゴム手袋とビニール袋を取り出した。右手にゴム手袋をさっさとはめると、テーブル上の蝋人形の手の先っぽの方を折り、ビニール袋へと仕舞い込んだ。同時に血の付いてしまった、ゴム手袋も、一緒にビニール袋へ放り込む。そして、ふたたびポケットへと戻したので
ある。あっという間の出来事だった。
「香坂君、頼むよ。これくらい何て事無いだろう」
「は、はい。すみません」
 美樹は、顔を真っ赤にしながら俯いた。
「さあ、もう行こう。此処には用は無い。警察に出会ってしまったらあとあとやっかいだからな」
「あ、でも社長、この男の正体つきとめなくていいんですか?何か身元が解りそうな物を探すとか……」
「いいんだ、もう解っている」
 日下部はきびすを返し、苦悶の表情を浮かべる男の死体に、背を向けた。
「え、解っているって……」
「この人は、キンツル商事の吉田社長だ……」
「キンツル商事って……私達のグループの傘下じゃありませんか?」
「正確には、傘下だった、だな。ボスと意見が折り合わなくなり、わがグループを脱退したのだ。それからは、ボスの圧力で一気に干されてしまってな、キンツル商事は倒産寸前だった……。まあ、逆恨みもいいとこだが」
「そうなんですか……」
 美樹はその話を聞いて、自分の所属する団体の影響力に背筋を冷やした。
「この街で、我らのボスに逆らって生きてはいけないさ。それが、このジャンクシティの掟だ」
 日下部総司は、靴音を響かせながら死体の転がる真っ暗な部屋を後にした。


2  〜転機〜


 ジャンクシティという名のバカでかいゴミ溜めの、その片隅のちっぽけな部屋から、宮地沙奈(みやちさな)は今正に旅立とうとしている。
 2年ほど住んだこの部屋は、窓のすぐ脇を、急行列車が轟音と風圧を従え容赦なく走っていく。その度にあの古ぼけた部屋は、壊れるのではないかと思うほどギシギシと踊った。
 だが、屋根があるだけまだマシなのだろう。この街は、下を見ればキリが無いし、上を見れば嫌になる程際限が無い。屋根の無い路地の片隅で生活する子供もいれば、犬小屋がこの部屋よりも立派な家に住む人間がいる。富や名誉や貧困や卑屈、何もかもが雑多に寄り集まった無秩序な街、ジャンクシティ。本当の名は、既にこの国の人々にも忘れ去られてしまっているのだろう。
 宮地沙奈は、たいして大きくも無いボストンバックに生活用品を押し込み、ふと部屋を見渡してみた。14インチのテレビの上にある写真立てには、あの男とのツーショット写真が飾られている。何て幸せそうに微笑んでいるのだろう。本当にこれが自分なのだろうか。心の中に造られた虚構の自分が写っているようで現実感がまるで無い。あの男もとても穏やかな笑顔を見せ付けている。澄んだ瞳がやけに心を打つ。今のあの淀みきった、まるでカビの生えたゼリーの様な瞳と同一のものとはとても思えない。
 この3年、沙奈の体には生傷が絶えなかった。あの男、久野幹夫(くのみきお)の暴力の所為だ。
 男の暴力が始まった頃は、すぐに部屋から逃げ出していたが、その度に追いかけられ捕まり、更に激しい仕打ちを受けるので、沙奈は、次第に逃げる事も抵抗も止め、常に心の内に不安と恐怖を抱きながらこの部屋で生活を続けるしか他に為す術が無くなっていた。
 
 そんなある日、あの男の暴力に耐え切れず久しぶりに部屋を飛び出した時の事だった。何にせよ、しばらく、街をぶらぶらとして、行く場所もないので再びあの部屋へ戻るのがいつものパターンだったのだが、その日は、何故か普段は危険な裏道だと聞かされていて、通った事の無い路地を歩いていたのだ。それが、意識的か無意識かは今となっては解らないが、やがて、薄汚い雑居ビルの1階に、ふと目を引く看板を見つけた。
『政府公認 家庭内暴力相談所〜あなたの未来を探しませんか〜』
 政府公認とは何とも場違いな看板を掲げているな、と沙奈は思った。この街に政府の力など介在出来る余地は無い。これは全く無意味な宣伝広告だ。しかし、こんな街のこんな路地裏にも、良心の欠片が存在しているのだと思うと、沙奈はふとその相談所の中を覗いてみたい衝動に駆られた。しかし、それと同時に、もしこんな所に自分が入っていったのをあの男が知ろうものなら、何をされるか解ったものじゃない、という潜在的な恐怖感が沙奈を襲った。それが、沙奈を鉄製の扉の前で立ち往生させていた。
「何突っ立ってんだい?入るなら入る、去るなら去る、さっさとしな、邪魔だよ」
 振り返るとそこには、仏頂面をしたおばさんが淡いピンクの服を着て突っ立ていた。ピンクの服は多分制服なのだろうが、全く似合ってはいない。下腹の垂れ下がりは、それなりに人生を積み重ねてきた何かが溜まっている証なのだろうか。沙奈がその女性を推し量っていると、
「だから、邪魔だっていってるだろう。用が無いならさっさと行きなって、どうするんだい?」
 おばさんは沙奈をまくしたてる。
「え、えっとあの……」
「ああもう、はっきりしないねえ!ほら、さっさと入りな、こんな所で突っ立っていられちゃ迷惑でしょうがない」
 おばさんは、その逞しいお腹で沙奈を鉄製の扉の中へと押し込んでいった。
 鉄製の扉の中は、至ってシンプルであった。壁には幾何学模様の絵画が一枚飾られているだけでその他には何もない。多分昔は白かったのだろう壁の色は、くすんで色あせていた。
 相談窓口と書かれたカウンターには、古ぼけたデスクトップのパソコンが一台置かれている。
 相談者らしい人もいなければ、受付の職員やカウンセラーのような人も見受けられない。この部屋にいるのは、沙奈と先ほどのおばさんのたった二人だけだ。大丈夫かな?この相談所。沙奈の心に一抹の不安が過ぎった。
「どっこいしょ……と」
 ピンクのおばさんは、カウンターの向こうへ回り込み、その重たい体を貧相な丸イスに委ねた。
「さ、座りな。しかし、こっぴどくやられたねえ」
 ピンクのおばさんは、沙奈の右目の腫れや頬の青痣を眺めながらしみじみと話し始めた。
「ほら、これでも使いな」
 おばさんは、カウンターの物入れから櫛を取り出してぶっきらぼうに沙奈の前に置いた。
「髪がぼさぼさだよ。折角のきれいな顔が台無しじゃないか……」
「え、あ、ありがとうございます」
 おばさんは、更に手鏡をカウンターから取り出し、沙奈へ手渡した。
 沙奈は、手鏡を覗き込んだ。長い黒髪が青痣を覆う様に垂れ下がる。すいっと手ぐしで前髪をかきあげてみると、右目の腫れが不気味に自分の目の中へ飛び込んできた。沙奈は、右手に櫛を持つと、そっと髪の毛に当ててみた。ごわついた髪の毛が、櫛の滑りを遮る。力を入れると、頭の皮膚が思いっきり引っ張られた。
 そうして、何度か櫛で髪の毛をといていると、沙奈の目から大粒の涙が零れ出した。その涙はしばらく止まる事は無かった。

「はいはい、泣いてちゃ解んないよ。あんたは、まだ涙が出るだけマシな方さ」
 おばさんは、やはりカウンターの中からどこぞの建設会社の名の入った黄色いタオルを取り出して沙奈に手渡した。どうやら櫛、手鏡、タオルは三点セットで常備されているようだ。
「ここにゃ、ハンカチなんて上品な物は無いからね」
「あ、ありがとうございます」
 黄色いタオルを渡され、沙奈は、真っ赤に腫れた眼を押さえる。殴られた痕が少し痛んだ。やがて涙も止まり、肩のわななきも次第に治まった頃、カウンターのピンクのおばさんがまた喋りだす。
「さ、どうするんだい?ここから先は有料だよ。カウンセリングを受けるなら30分2,000モニー払ってもらうよ。施設の斡旋、紹介は一軒当たり1,300モニー。ま、紹介状書くだけだけどね、あとは自分次第って事だね。あと、護符なんかもあるがねえ、一枚350モニーからね。それから、大きな声じゃ言えないが呪詛の受付もするよ。こいつは応相談だがね。呪詛による傷害罪幇助になっちまう。もし、相手が死のうものなら、殺人罪だからねえ。ちとヤバイよ。それから……」
 ラミネートパックされた料金表をカウンターから取り出し、説明を始めるおばさんに、沙奈は「あ、あの……有料って?お金を取るんですか?私、今お金持って無いんですけど……」
と言ってその一方的なお喋りを遮った。
「何だって?1モニーも持ってないのかい?」
 沙奈は、俯きながらこくりと頷く。
「なんだい、1モニーも持たずにこの辺をうろうろしてるなんて、全く命知らずだねえ。ま、こっちも政府公認なんて書いてるが、別にボランティアじゃ無いから。お金が無いならここまでさね。さ、帰った帰った」
 ピンクのおばさんは、面倒くさそうにカウンターの上のタオルや料金表などを仕舞い始めた、呆気にとられている沙奈を放ったらかしにして。
 やはり、此処も金次第というわけか。サラリーマンの一ヶ月の給料の平均が10〜15万モニーだから、30分2,000モニーといえば沙奈にとってはバカにならない金額である。ろくに働かない(いや実際は働けないのかもしれない)あの男の代わりに毎日夜遅くまで働いて、やっと月に8万モニー手取りで貰える。そこから家賃や、光熱費、あの男の食費等を払っていくと、自分の手元には何も残らない。正直に言って、沙奈が自分の為に使えるお金は1モニーも無いのだ。
「なんだい?まだいるのかい。此処に居座ってもらっても構わないけど、ちゃんと席料は貰うからね」
 やれやれ、と言いながら、立派なお尻を持ち上げるとおばさんは、沙奈に背を向け裏の給湯室へと歩き出した。
 この街にはやはり良心など無かった。期待した自分がそもそも愚かだったのだろう。此処にあったのは、良心の欠片ではなく良心の抜け殻だったようだ。
 部屋の奥、給湯室から声がする。
「まあ、暴力振るう男も男だけど、たいがいそういうのは女が甘やかすからそうなるんだよ。女が男を駄目にしてるんだ。それをさも自分が被害者だって、泣きながら訴えてさ……自分の撒いた種なんだよ。で、そういう女はそういう男を引き付けるんだ。そんなもんさ、人生なんて。悪い男に引っかかったなんて思うんじゃないよ、それは自分の内にあるものがそうさせてるんだ……」
 おばさんは給湯室で、ともすれば女性の人権団体に訴えられそうな発言を、平然とやってのける。
 沙奈は、心の中をえぐられるような感覚を覚えながらその言葉を聞いた。ある意味それが核心を付いている様に思えたのだ。だが、もう此処には居られない。
「失礼します……」
 沙奈は立ち上がり、深くお辞儀をすると先ほど入ってきた鉄の扉へ向って歩き出した。
「ちょっと待ちな、今、お茶が入ったから、これ飲んでからお帰り。ああ、別にこれは席料取らないから大丈夫だよ」
 おばさんが、お盆に二つお椀を乗せ、給湯室から姿を現した。
「ちょっとキツイ事言いすぎちゃったね。ま、座りなよ。あんたは今回特別に無料でデータベースに登録しといてやるよ。……あんた、いい眼をしてるよ。あんたの眼は全然腐ってない。むしろ光輝いてるよ。気に入ったねえ。とても辛い目に会ってるんだろうが、それでもそんな眼をしていられるなんざたいしたものさ」
 ピンクのおばさんは「冷めないうちに飲みなよ」と言ってカウンターにお茶を丁寧に二つ並べた。
 沙奈も再びカウンターの前に腰掛け、その芳醇な茶の香りをかいだ。気のせいかも知れないが、何だか少し落ち着いたみたいだ。
「此処に登録しておけば良いカウンセリングの先生が来る相談会の案内や、施設の空き情況何かを匿名護符で送ってあげられる様になる。まずは、あんたの名前、年齢、ID番号、それと匿名護符の暗号呪文も聞いておこうかね」
 ピンクのおばさんは、古びたデスクトップに向ってキーボードを打ち始めた。太い指で器用に打つものだなと、沙奈は少し失礼な事を思ってしまった。
「えっと、名前は宮地沙奈です。24歳です。IDは、6173011」
「ふむふむ……24歳かい、案外若く見えるね――っと、あと、あんたの呪文の流派は何処だい?」
「古代神ファーゴです」
「へえ、この辺じゃ珍しいね、古代神を流派に持つ人間は。ちなみにあたしは天元神リュリだけどね」
 カウンターのおばさんは、相変わらず器用にキーボードを打ち続けている。
「おや、あんた……W大学の呪術科卒業してるじゃないか」
「は、はい一応……」
「W大卒業した子が何でこの街に止まってるのさ。何で塀を越えなかったんだよ」
 ジャンクシティの住人は、この街を出て行く事を『塀を越える』と言う。事実、この街は周囲を巨大な壁で囲われていて、完全に外の街と隔離されている。聳え立つ巨大な壁は一部の特権階級及びその資格を得た者以外、一切の出入りを阻む。この街で塀を越えられる人間は極めて僅かな者達だけであった。
「え、それは……」
「まあ、大抵察しは付くけどね、男だろ……」
 沙奈はただ俯くだけだった。
「図星だねえ――ま、それはいいとして、あんた、その男と離れたいのかい?」
 沙奈は思う。今まであの男と離れられなかったのは、自分に行く場所がなかったからなのだ。もしあの男から逃れる場所があるのなら、自分は絶対にあの男の元へは戻ることは無い。何故、自らあんな苦しい場所へ赴かねばならないのか。もし、この問いにイエスと言ったら、本当にあの男と引き離してくれるのだろうか。信じても良いだろうか、と。
「はい、あの男と離れたいです……」
「本当に本当だね……」
 おばさんは、沙奈の顔を見つめ、念を押す。
「はい、もうあの男の所へは行きたくありません!だから……助けてください」
 おばさんは、口元を歪め、にやりと笑った。彼女の人相からして、笑顔がニヤリよいうイメージを持ってしまうのだが、そのにやりとした笑顔には何処とない優しさを感じる。それは、ひょっとしたら沙奈だけなのかも知れないが。
「解ったよ。あたしも、実はW大の呪術科を卒業してるんだよね、まああんたの先輩さね。先輩のよしみで、あそこを紹介してあげるよ。あそこは今、呪術者を探してるみたいだからね」
「あそこ……ですか?」
「そう、権力に守られた、この街でいちばん安全な所さ、行ってみるかい?ジークの塔へ」

 数日後、沙奈の元へ匿名御符が届き、彼女の決意は固まったのである。
沙奈は、荷物をまとめ上げると、14インチのテレビの上の写真立てをそっと伏せた。このまま、玄関から出て行ってしまえば、もう二度とこの部屋に来る事は無くなる。全て見納めだ。オレンジ色のカーテンも、少年がラッパを吹く時計も、傷だらけの洋箪笥も、裸電球も、二人の名が書かれた護符も、時々排水の詰まるキッチンも、ブーツの入らない小さな下駄箱も、入居してから今まで奇跡的に割られる事の無かった色違いの二枚のシチュー皿も、中古の送風機も、ひび割れをあの男がテープで止めた窓ガラスも、あの男に買ってもらったテディーベアのぬいぐるみも、あの男の靴も、あの男の洋服も、あの男が使っていた教科書も、歯ブラシも、香水も……全てが見納めだ……。
 頬の痣を隠す為に厚めに塗ったファンデーションの上を涙が伝うと、その雫の流れた跡がくっきりと残った。
 もう、名残は無い。元々この部屋はあの男が借りていたのだ。宿主が居なくなる訳でもない。
『私が居なくても、大丈夫だよね……』
 沙奈は、二年間使い続けたテーブルに部屋の鍵をそっと置き、バッグを肩に背負った。
『ごめんね……だけど、このままだと二人とも駄目になってしまうから』
 確かに、相談所のおばさんのいう事はもっともだった。それは、沙奈自身も薄々は感じていた事で、自分は苦悩するあの男を救える程出来た人間ではないのだ。あの男の為、全てを投げ出して来たつもりだったが、その犠牲が逆にあの男にとってはマイナスだったのだ。しかし、自分にはそうする事しか出来なかった。そして、これからも、そんな負の連鎖が続いていくのだろう。
 その負の連鎖を断ち切らねばならない。あの男が出来ないのならば、せめて最後に自分が勇気を出さねば。
 沙奈は、幹夫の魂を救えなかった自分を心の中に焼付け、それを糧とする事で、更なるお互いの不幸を断ち切ったのだ。
 いちばん気に入っているミュールを履き、振り返れば負けだと言い聞かせ、沙奈はドアノブに手を掛けた。
――がちゃ――
 ドアの隙間から、ひゅるりと突風が割り込んできた。沙奈は、思わず目を塞ぎ、先ほど整えたばかりの黒髪を押さえる。二人の名が書かれた護符が、突風により壁から剥がれ落ちた事を沙奈は知らない。
再び目を開けるとそこは、見慣れた街角。
 おせじでも美しいとは言えないその街角。あの角を曲がり、間もなく到着するであろう市バスに乗り込めば、あとは自動的に次の人生への分岐点に辿りつく。
 この街の中心、ジークの塔へと沙奈は向う。


3 〜罹災〜


 ジークフリード鷲野(わしの)。それが本名なのかどうか定かでは無いが、この街を支配する鷲野グループの総帥。グループの人間からはボスと呼ばれ、事実上、この塀で囲まれた都市を買収した男だ。
 ジャンクシティの中央にそびえる地上六十六階、地下4階の巨大なグループ本社ビルは、彼の名を冠して『ジークの塔』と呼ばれている。また、その裾野には、選ばれた特権階級の人間のみが入場を許可されたエリアが広がっていて、高級ホテルや高層マンション、ショッピングモールや巨大遊園地等がある。
 通称『ジークヒルズ』と呼ばれるエリアである。結界により、特定の護符を持った選ばれた人間しか入る事の出来ない場所。当然、沙奈もこのエリアへ入る資格などは持ち合わせていなかった。今日のこの日までは。
 沙奈は、匿名護符に書かれた通り、『ジークヒルズ前』のバスストップで降車した。ここで、鷲野グループの人間と待ち合わせをする事になっている。誰もいない殺風景なバスストップのベンチに腰を降ろし、迎えの人間を待つ。しばらくすると、
「宮地沙奈さんですね」
 野太い声が、沙奈の背後から聞こえた。振り向くとそこには、隆々たる筋肉がスーツ越しからも確認できる程の体躯を持った、長身の男性が控えていた。
「お待ちしておりました。私は会長付秘書室々長の峰岸(みねぎし)と申します。どうぞ、お見知りおきを。今日から、あなたは我々鷲野グループの一員でございます」
「あ、は、はい。こちらこそ……よろしくお願いします」
 沙奈は深々とお辞儀をした。頭を下げると、沙奈の体は、峰岸の影にすっかり覆われてしまう。
「では、ここから先は私がご案内させていただきます」
 沙奈は、峰岸に先導されるままに一本目の路地を曲る。するとそこには、見たことも無い、巨大なリムジンが黒く光るボディーと黄金に輝くイーグルのエンブレムを惜しげもなく晒して駐車していた。
 峰岸が、リムジンのドアをそっと引いた。
「お乗り下さい」
 沙奈はその車のよく施された手入れ具合と、ボディーの長さに驚く。車内は本皮シート。ベルベット地の日除けが窓に掛けられていた。
 沙奈が、その車内に敷かれた高級そうな絨毯を汚すまいと、ミュールを脱ぎかけると、
「土足で構いませんが……」
と、峰岸に少し呆れられたような口ぶりで制止させられた。
 沙奈の顔がみるみる紅潮していく。
「さあ、時間がありません、行きましょう」
 峰岸に促され、沙奈は車へと乗り込む。続けて峰岸が、反対側のドアから乗り込み、沙奈の右横をその巨大な体で陣取った。
「行ってくれ」
 峰岸のその言葉で、無言のまま運転手はクラッチを踏み、ギアを入れた。エンジン音も振動も殆ど感じられない静寂の中、沙奈を乗せた車は動き出した。


                 *

 重厚でつややかな光を放ちながら高級車が絶え間無く往来する巨大ゲート。鷲野グループ本社ビル、通称ジークの塔へ入る為の第一関門である。彫刻やオブジェが規則正しく並ぶ巨大ゲートの片隅の守衛室入り口の正面辺りで、みすぼらしい中年男性が、四、五人の屈強な男達に囲まれていた。
 中年男性は、無様に両膝と額を地面に着け、男達に懇願している。その顔には、まだ生々しい傷や打撲の痕が浮かんでいる。おそらくこの男達に、先程付けられたものだろう。
「なあ、頼む。ボスに会わせてくれ。昨年までは同じ仲間だったじゃないか。三十分、いや、十分でもいい、ボスに取り次いでくれないか」
「しつこいな。無駄だと言ってるだろう」
 言いながら男の一人が、中年男性の腹を、顔よりも大きな黒光りする革靴で蹴り上げた。
「ぐう!げほげほ……」
 中年男性は一時的な呼吸困難に陥った。それを見ながら、蹴りを喰らわせた男が、呼吸を乱してうずくまる男性に声を掛ける。
「村井さん、あんたはもうグループの仲間じゃないんだ。自分からグループを抜け出しておいて今更ボスに会いたいだなんて、ムシが良すぎないかい?」
 村井と呼ばれたその中年男性は、未だ呼吸が出来ずに、地面をのた打ち回っている。
「よくもまあ、結界を破って此処まで誰にも気付かれずに来れたもんだが――これ以上先は何があろうと通すことは出来ない。あんたは、裏切り者なんだからな」
 他の男達の失笑が漏れ聞こえる。
 村井は、ひゅーひゅーと未だおかしな呼吸をしているが、何とか片膝座りの体勢を取った。そして、自分を取り囲むスーツ姿の屈強な男達を見上げた。
「どうしても駄目だというのか……」
「くどい」
「俺もかつては千人を超える従業員を抱えていた男だ……こんな事で引き下がる訳にはいかん」
「過去の栄光だな……そんなものはクズにもならん。確かに当時『ムラテック梶xといえば飛ぶ鳥を落とす勢いだったが」
 また別の男が口を挟んだ。
「あんた、ボスを恨んでるんだろ。ミスを擦り付けられたと思って。そんな奴をボスに会わせるわけねえだろ、とっとと帰れよ、薄汚ねえ乞食が!」
 村井は、そんな罵倒暴言など意に介した様子もなく、呼吸を整えている。罵倒を浴びせた本人は、反応の悪さに少し苛立ちを覚えたが、それ以上浴びせかける言葉も思いつかなかったので、ばつが悪そうに一歩下がっていった。間の悪い舌打ちの音だけが男達の隙間から聞こえた。
「どうしてもボスに会わせないというなら、こちらも考えがある……どうせ、もう死んでしまうんだ、ならば……」
「ならば……何だ?この場で切腹でもしてみるか?潔く……ははは」
 村井の言葉は、男達の冷笑を誘った。が、次の瞬間、
 ずぶ――
 村井の腹部から鈍い音と共に、深紅の液体がどろりと流れ出した。
 彼の手に包まれた銀のナイフは、脂肪の異様に少ない己の腹部を突き破っていた。村井は更にナイフを持つ手に力を込め、右から左へと、一気に皮膚を切り裂く。
「お、おい、本当に腹を切りやがったぞ!」
 男達の顔から血色がさっと引き、守衛所の前に出来上がっていた人の輪がざわめき立つ。輪を構成していた男の一人が、村井の傍へ寄っていった。
「おい、大丈夫か!?」
 この様な情況で大丈夫な筈は無いのだが、それを言わずにはいられない人間の深層心理とは、難解なものである。
「構うな。医療班に連絡だけしておけ。ただボスに恨みを持つ人間が自分勝手に死ぬだけだ。運が良けりゃ、死なずに済むだろうが……それも屈辱的な事だな」
「いや、もう駄目だろ、この状態じゃ。もう内臓が……」
 村井は、屈強な男達の輪の中で、その人生を終えた。医療班の到着を待たずに、真っ赤な血の化粧を施して。
やがて、医療班が事件の現場に到着した頃には、すっかり人だかりが出来てしまっていた。男達はその人だかりに対する警備をしなければならなくなり、その場から離れられなくなっていた。
 白衣を着た集団が人ごみを掻き分け、その輪の中心へと入っていった。目を覆いたくなる様な惨状がそこには広がっている。医療班のリーダーと思しき男が、目を覆う事無くその惨状を直視していた時、その異変に気がついた。池の様になってしまった血溜まりに不自然な波紋が広がっているのだ。少し嫌な予感を感じながらも、リーダーというポジションにある者としての責任感が彼を動かした。血の池のほとりにしゃがみ込み、その表面を覗き込んだその時、血溜まりから何かが飛び出し、彼の顔面を襲った。彼はその直撃を喰らい、仰け反るようにして、倒れこんだ。
「む、むぐうう……」
 彼の鼻と口を、血が覆っていた。もがきながら、口元の異物を除去しようと試みるが、相手は液体である、掴む事が出来ないのだ。
「班長!」
 此処に来て、やっと医療班のメンバーは、異変に気がついた。だが、それは既に手遅れであった。事態は速度を増して最悪の惨状を作り出していく。体長10センチ程の人型の血液の塊が、村井の残した血溜まりから、うようよと湧き出てきた。やがて、その人型の血人形は、人ごみを襲い始めたのである。
 思い思いに血人形は、野次馬達に飛びかかって行く。蜘蛛の子を散らした様に、人の輪は飛散していったが、血人形の俊敏な動きから逃れられる者は少なかった。血人形に襲われ口と鼻を塞がれ、窒息死する人々。村井が流した血の量の分だけ血人形が湧き出て、人が死んでいく。
――自殺テロだ――
 迂闊だった。この手の無差別な呪詛テロの存在を知らぬ訳ではなかったのだが、既知の村井という人物は、特に専門的に呪術の訓練を受けていなかった筈、まさか、この様な暴挙に出るなどとは予想の範疇を遥かに超えていた。
「呪詛だ、日下部に連絡を取れ!早くしろ、日下部だ……」
 男の口を血人形が塞いだ。男はもがき、天に腕を伸ばした状態でその巨体をアスファルトへと沈めていった。男はしばらくその逞しい体躯を痙攣させていたが、やがてその動きも無くなり、男の時間は、永久にそこに止まり続ける事となった。
               

「緊急事態――呪詛による無差別テロとみられる大量殺人発生、現場へ急行されたし。場所――本社ビル正面第一ゲート守衛室前――同時に、各隊員には第一級緊急配備に着く様、要請すること」
 日下部総司の携帯通信用御符にその一報が入り、六十四階の彼のオフィスから、現場まで到達するのに、およそ3分40秒かかった。テロ発生から、彼の元へ連絡が入るまでのタイムラグを把握する事は出来ないが、それを差し引いても、この3分40秒の間に確実に罪の無い大勢の人々が犠牲になっている。統計からすると、ジークヒルズのような市街地で、時間帯が日中の晴れの日の場合、血人形による呪詛の犠牲者は、21秒に一人の割合で発生する。なので、少なくとも、日下部が現場に到着するまでに、統計上10人は血人形の餌食となっている計算だ。
 中央第一ゲートの守衛室前は、日下部が思い描いていた以上に凄惨な光景であった。スーツ姿の逞しい男達、白衣を身に纏った医療班、そして、散歩の途中の老人や買い物途中の主婦にその子供、大きなカバンを抱えたサラリーマン。彼らが今まで築いてきた人生の、最期の場所が、こんな冷たいアスファルトの上だなどと、この場所に己の人生の残骸を晒す者誰一人として、思っていなかっただろう。
 ただ一人、村井を除いては。
 カーキ色の制服を着た、鷲野グループの私設防衛隊員達が、日下部の指示によって四方八方へと散っていく。
「半径500メートル以内を封鎖しろ!それ以上は、呪詛の効力は届かん」
 中央ゲート前の幹線道路は、この騒ぎで何重もの玉突き事故が起こり、それだけでもかなりの負傷者が出たのだが、車から降りてきた人間を更に血人形が襲い、被害は拡大の一途を辿るばかりであった。
 日下部は、その光景を目の当たりにしながら、思った。何故、自分の張った結界の中でこうもた易くテロを起す事が出来たのだろうか。村井という人物は良く知っている。生活に困らない程度の呪術は心得ていたが、こんな事が出来る程の知識も能力も持ち合わせていなかったはずだ。そんな男に、白昼堂々と、しかもジークの塔の目の前で平然とテロを遂行されてしまうとは。日下部の心に深く屈辱の二文字が刻まれた瞬間であった。
「御幣を飾れ、血人形共を囲うんだ!一網打尽にするぞ」
 正確無比な指示を、隊員達に下している最中でも、日下部を血人形が襲う。しかし血人形達は彼のその端正できめ細かな顔に到達する寸前に、完全に粉砕されてしまう。彼が護身用に敷いている結界の為だ。まるで、夏の夜睡眠を妨害する凶悪な羽音を響かせながら接近する蚊をあしらうかのようで、血人形は、次々と日下部に襲い掛かっては、無駄に数を減らしていった。
「香坂君、村井さんの死体を清めておいてくれ。清めの札は持って来ているな。もうすぐ結界が完成する。私は御幣の確認に行ってくるから、ここは頼んだぞ」
「はい、わかりました」
 日下部の二歩後ろに控えていた香坂美樹は、よく通る声で返事をして、まるで蝋人形の様に全く血の気の無くなった村井の死体へ近づいていった。
 それを確認して日下部は、アスファルトに横たわる、何十体もの亡骸を避けながら幹線道路を下って結界の境界線付近へと向った。

               *

 その頃、宮地沙奈を乗せたハイヤーは、ジークヒルズの幹線道路を、本社ビルに向って走行していた。車窓を流れる色彩豊かな建物や、きちんと平らに舗装されて目にも優しい緑が植樹された遊歩道などの景色は、沙奈が今まで目にしてきた街角の風景からは想像もつかない様な、美しい街並みであった。
 自分から申し入れた事とは言え、テレビや雑誌等でしか拝見したことの無いジークヒルズという特権階級の世界に飛び込んで行く事は、沙奈の心に少なからずの不安を抱かせている。自分がこの様な所に本当に馴染んでいけるのだろうか。車のウインドウ一枚越しのその先の世界は、とてもガラス一枚程では収まりきらない隔たりがあると思えた。車内の静寂感が沙奈の不安を一層かきたてる。隣に座している峰岸とも、車を発車させてから一言も会話を交わしていない。エンジンの音だけが鼓膜と体を微弱に振動させている。
 間もなくジークの塔の中央ゲートに差し掛かろうとする頃になり、急に車が渋滞をし始めた。沙奈の乗ったハイヤーも否応無く、その渋滞の中に取り込まれていく。
「おい、何だこの渋滞は?こんな所が何故渋滞するのだ」
 車が発進して、初めて峰岸が発した言葉だった。
「さあ、どうしたんでしょうかねえ」
 運転手は、伸びるようにして、前方を確認するが、その原因は確認出来ない。
「交通局に連絡しろ。冗談じゃないぞ、こんな所で……」
 峰岸は、少しだけ苛立ちの表情を見せて、車のシートの背もたれにどっと体を預けた。
 運転手は、携帯御符を取り出し、ハンズフリーのマイクを接続して交通局と通信を始めた。携帯通信用御符の普及、機能の多様化により、携帯使用時の車の事故が増加しだしてから、運転中の携帯の使用は禁止となったのである。ハンズフリーマイクを使ったとて、携帯を使用している事に何ら変わりはないのだが、その辺の解釈は未だ法が出来て間もない事もあり、非常にあいまいだ。
「峰岸室長、何だかよく解りませんが、テロがあったとかで……中央ゲートは現在閉鎖中みたいですねえ」
「テロだと?」
 峰岸は、身を乗り出して運転手の説明を聞いたが、釈然としなかった。テロ?何かの聞き間違いではないのか?
「はい、テロだと言ってましたが……死者もたくさん出ているみたいです」
「バカな!」
 とてもじゃないが、信じられない。この鉄壁の守りを誇るジークヒルズ内でテロなどあろう筈が無い。この目でその現場を見ない限り、脳髄がその外部情報を受付け処理をする事は出来ない。峰岸は自らドアを開け、車の外に飛び出した。
「峰岸室長!」
 運転手が、呼び止める。
「俺は先に行く。彼女を頼んだ。情況が掴めるまで、此処にいろ」
「ちょ、ちょっと、室長!」
 峰岸は、そのまま車の群れの中へ消えていってしまった。
「まいったなこりゃ……」
 運転手は、両手を後頭部へ持って行き、背もたれに倒れかかった。
「私も、少し見てきます」
 運転手は、後部座席からの声に反応して後ろを振り返ってみた。すると、沙奈は、既にドアを開けて左足を外へ出した状態であった。
「ちょ、ちょっと〜」
 少し情けない声で運転手は呼びかけたが、沙奈は、その呼びかけには全く無反応だった。丁度、外の空気を吸いたい頃合だ。沙奈は、峰岸の背中を探し出すと、その後をつけていった。
 沙奈が、初めてこの特権階級と呼ばれる世界に足を付けた瞬間であった。
 しばらく行くと、道の真ん中に『封鎖』と書かれた大きな看板と、カーキ色の服を着た隊員達が見えてきた。峰岸と、隊員の一人が何か言い合っている。
「駄目です、これ以上先は危険です。お通しする事は出来ません」
「貴様、俺を誰だと思っている。早く通せ!」
 結界が張ってある以上、第三者の侵入は不可能である。強引に進入しようものなら、命に係わる。そんな事は子供でも知っている、当たり前の事だ。
「死傷者も出ております。危険なのでしばらくお待ち下さい。いくら室長といえど、お通しするわけには……」
「だから、俺は仮にも秘書室長だぞ、血人形如き自分で身を護れるわ!」
 隊員は、峰岸の威圧感に、一歩下がる。
「それに、テロの話は未だ秘書室へは届いていない様だな。それが気に食わん」
 次第に他の隊員達も、峰岸の周りに集まってきた。その為、峰岸の後ろをつけてきた、宮地沙奈の存在に、隊員誰一人として気がつかなかったのだ。彼女が『封鎖』の看板を越えて内側へ入って来る前までは。
「お、おい、あの女!」
「バカな!どうやって入ったんだ?体は何とも無いのか?」
 きょとんとしたまま立ち尽くす沙奈を防衛隊員達が取り囲む。

 沙奈は、あっという間に隊員達にはがいじめにされ、体の自由を奪われた。隊員達にしてみれば、この女性は不審な侵入者以外の何者でもないのだから、彼らは忠実に任務を遂行しただけである。しかし、沙奈は、一体自分の身に何が起こったのか、全く理解できていない。確かに、この場に漂うただならぬ緊張感は肌で感じ取る事ができた。しかし、結界などあったのだろうか。結界に近づいた時のあの独特の気だるさや胸焼けは無かった。あの気分の悪さは到底耐えられる代物ではない、断言してもいい、此処に結界は無かったと。
「いや!放して!放して下さい」
 沙奈がもがけばもがくほど、男の隊員の腕に力が込められていく。息苦しい。沙奈は思う。『私は、暴力から逃れてきた筈なのに……どうして此処まできてこんな目に逢うのだろう』釈然としないくやしさが、沙奈の心の中に渦巻く。しかし、こう押さえつけられてしまっては、女の力ではもうどうする事も出来ない。それは、今までの実体験で嫌というほど思い知らされている。
「何があったんだ?」
 隊員の一人が、日下部に不審者侵入の連絡を入れようとしたのとほぼ同時だった。結界に沿って飾られた、血人形を浄化させるための御幣を確認していた日下部が、この騒ぎに気が付きやって来たのである。
「社長!」
 日下部の姿を確認すると、隊員達は一斉に背筋を伸ばし、踵をつけて敬礼をした。
「日下部社長。不審人物を捕らえました」
 この集団の頭らしき男が、誇らしげに報告をする。
「この女が……」
 日下部は、身動きの出来ない沙奈を見た。その体は華奢で、男の強引な締め付けにそう長くは耐えられないのでは無いかと思われた。見たところ、ごく普通の女性ではないか。
「この女、結界を破って侵入してきたんです」
 何だと?日下部は、耳を疑う。
「ち、違います。私は何もしてません!結界なんて無かったですし」
 沙奈は、後から来た社長と呼ばれる男に訴えかける。他の人間は皆軍隊の様な服を着ているが、彼だけは品の良いネクタイを締て、すらりとスーツを着こなしている。その姿や、表情から彼ならまだ話が解ってもらえるかも知れないと、心の奥底で無意識的に思ったのだろう。
「ちょっと待て、お前達。彼女は、別に怪しい者じゃないぞ」
 足止めされていた峰岸が、その輪の中に割り込んでいった。
「彼女は、俺が連れて来たんだ。聞いているだろう、今日からお前達の仲間が一人増えるんだと。なあ日下部よ」
 声を掛けられて、峰岸がそこにいた事に日下部はようやく気がついた。そして、沙奈が今日から自分の下へ配属される女性で、峰岸は彼女を、ジークヒルズ前に迎えに行っていたという事まで理解をした。そして日下部は、隊員に沙奈を開放するように命令をすると、彼女に対する非礼を詫びた。
「失礼しました。ミスミのおばさんから話は聞いています。宮地沙奈さんですね。まさか、この様な形でお会いする事になるとは思いもしませんでしたが、よろしくお願いします」
 深々と頭を下げる日下部に恐縮して、沙奈は更に深く頭を下げた。
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
「ここは、危険だ。この御符を持っていなさい」
 日下部は、一枚の御符を沙奈に手渡すと、峰岸に彼女を安全に本社まで護衛するよう頼んだ。
「今回の任務は、彼女をお前の事務所までちゃんと送り届ける事だからな。お前に言われなくともそうするさ。しかし、たかだか社員一人の為にこの俺を遣させるなんて、VIP並みの待遇だな」
 皮肉交じりに峰岸は言った。峰岸は、どことなく不満顔である。やはり、テロの知らせが秘書室に来なかった事が引っかかっているのか。
 日下部の携帯御符の着信音が響いた。スーツの内ポケットから、折りたたみ式の携帯御符を取り出し確認すると、発信者は香坂美樹であった。
『遺体のお清め終わりました。祭壇も組み終りました。そちらの情況はどうですか?』
「分かった。私もそちらへ行こう。こちらもほぼ完了だ」
 日下部は、隊員達に二つ三つ指示を出し、沙奈と峰岸に軽く会釈をして走り去っていった。しかし、その胸の内には釈然としないものがあった。それは、言うまでも無く、沙奈が結界を無視して内側へ侵入してきた事だ。しかも彼女は、結界など無かったと言い放っているのだ。失敗は許されない任務を負った自分が、今日一度ならず二度までも同じような過ちを犯し、更に何の罪も無い民間人に多数の犠牲者を出してしまった。何も言い逃れは出来ない。自分のミスだ。こうなってしまった以上は、迅速にこの事態を収束させ、犠牲者をこれ以上絶対に出さない様にするしかない。それで、自分のミスがチャラになる訳では無いのだが。
 それにしても、気になるのは、今日から部下として配属される沙奈という女性であった。一体彼女は、どのようにして自分の結界を潜り抜けたのか。第一級警戒配備中の結界を潜ろうなど、命を落しかねない。もし、結界の存在を認識していたなら、まず、侵入しようなどとは思わないはずだ。本当に彼女には結界が認識出来なかったのだろう。そして、何事も無かったように結界を越えてしまったのか……。彼女は、一体何者だ?

「声が、聞こえたんです……」
「声が?」
「そう、此処に居るわけないんですけど……幹夫の声が……」
 沙奈と峰岸は、とりあえず、テロの騒動が落ち着くまで、結界の外で待つ事にした。結界の外にある公園のベンチに座り、時間を費やしていた。
「幹夫に呼ばれたんです……居るわけ無いと思いながら、声のする方へ向ってしまって」
「幹夫?誰だ、そいつは」
 峰岸は、車の中とはうって変わってよく喋った。沙奈は、峰岸に、どうやって結界を越えたのかと問い掛けられ、思わずその名を口にしてしまったのだ。――久野幹夫――
「いえ、何でも無いんです」
 峰岸には分かる筈が無いし、別に分かってもらう必要も無い。もうあの男の事は、忘れたはずだったのに、あの時聞こえた声は、まるで出逢った頃の様に穏やかな呼びかけだったのだ。しかしそれは、自分の心に中に未だあの男の幻があって、それが未練という形になり、脳髄に響いただけだろう。もうあの頃には絶対に戻れないのは二人とも良く分かっている。この街に来て、その思いがすぐに断ち切れるとは思わないが、徐々に環境が自分を変えてくれるだろう、そう願いたい。もう、あんなにリアルな幻聴を聞かない様に……。
 沙奈がふと横を見やると、ジークの塔のすぐ脇に地面から一直線に空へと光の束が伸びていた。押し潰されそうな程青い空を、威勢よく切り裂く光の束。周りの塵芥がその光を受けてまるで金粉が降り注いでいるようであった。
「始まったな、日下部の祈祷が。あの光が見えるのか?」
「はい、はっきりと」
「あの光が、日下部の『気』だ。天をも貫きそうだろう。恐ろしい力だよ実際……」
「『気』ですか……」
 沙奈は、幻想的でありながら圧倒的なその光の束にしばし心を奪われた。光の束を目で辿る。光のその先を、更に先を見ようとして、沙奈は、軽い眩暈に襲われた。


4  〜嫉妬〜


 あのジークヒルズ史上最悪の死傷者を出した忌まわしきテロから、一週間が過ぎた。それはつまり、宮地沙奈が、日下部総司が代表を務める会社、鷲野総合警備株式会社に配属されてから丸一週間が過ぎた事になる。鷲野総合警備という会社は、このジャンクシティの治安と、鷲野グループの防衛を一手に引き受けた、いわば鷲野グループの施設防衛隊である。政府の力が及ばぬこの街で、彼らは市民の安全を護る警察でもあり、頼もしい軍隊でもあった。
 沙奈は、その組織の中で日下部の補佐を任せられる事となった。補佐といっても、毎日大量に届けられる書類の山を、手際よく処理していく、事務的なものばかりである。とりわけ、この一週間は、テロの事後処理などがあり、目を回す暇も無いくらい忙しかった。また、慣れない職場で気を使う事もあり、沙奈は身も心もヘトヘトになっていた。仕事が終わるのは、初日を除いて必ず午前0時を廻っていた。
 オフィスに日下部が顔を出すことは稀で、沙奈は、殆どの時間を自分より年下の先輩である、香坂美樹と過ごしていた。しかし、美樹の沙奈に接する態度はあまり好意的ではないように見える。美樹の心情を察するに、自分の日下部の補佐として積み上げてきた物を否定されたような思いがあるのだろう。別に沙奈が悪い訳ではない。それは解っているのだが、何か腑に落ちない思いが、美樹の沙奈に対する態度に出てしまっているのだろう。それも、沙奈の疲労を増幅させている要因の一つかも知れない。
 今日も、沙奈と美樹は向かい合わせの席で、事務仕事をこなしていると、二日振りに日下部が自分のオフィスに顔を出したのである。これから、先日の自殺テロに関して、鷲野グループの幹部会議が行われるのだ。日下部は、それまでの時間、オフィスで雑務をこなそうとして此処にやってきたらしい。
「沙奈君、もう職場には慣れたかい?」
 日下部は、机にかじり付く沙奈に声を掛けた。
「ええ、だいぶ慣れてきました」
 日下部は、少し目元を緩めて、それは良かった、頑張ってくれ、といったような内容の言葉を沙奈に送った。
「ありがとうございます。忙しいですけど、とてもやりがいがあります。これだけ忙しいと、嫌な事も全部忘れられそうです」
「ところで、これから幹部会議があるんだが、沙奈君、悪いが書記として同行してくれないか?」
 その日下部の言葉を美樹は聞き逃さなかった。
「待って下さい、書記なら私が同行します」
 幹部会議に同行して、議題をまとめるのは、常に自分がやってきた仕事である。それを何故、まだ入社したばかりの女に任せるのか。
「宮地さんには、まだ無理だと思います。幹部の方々に失礼があってはいけませんから」
 美樹は、そう言って沙奈をねめると、席を立ち日下部の下へと近寄っていった。
「行きましょうか、幹部会議の前に打ち合わせが必要ですよね。宮地さん、悪いけどお留守番お願いしますね」
 そう言って、美樹は鼻先で大きく弧を描き日下部の方に向き直った。そして、ヒールで床を鳴らしながら、オフィスのドアを潜っていった。

 日下部総司は、香坂美樹の背中を追いかける様にしてそそくさと、自分のオフィスを後にした。嵐の去った地上六十四階の一室に、沙奈一人が残される格好となる。「ふう」と思わず沙奈はため息を漏らす。これでしばしの平穏な時間を堪能出来る。だが、そう思った矢先に、またしても新たな嵐の予感が、オフィスに侵入してきた。
「いよお!沙奈ちゃん、元気にやってる?」
 その声の主は、丹沢文彦(たんざわふみひこ)という名で、この鷲野総合警備の専務取締役という肩書きを持った男。紫色のスーツがとても目にしみる。ネクタイをいい加減に緩め、その胸元から、太い純金製のチェーンが見え隠れしている、またそれが非常に目に付くのだ。
 その専務の肩書きを持つ男が、ブロンズ色に染め上げた頭髪をかき上げながら、くらくらする程の香水臭をお供に、沙奈のすぐ脇へと歩み寄ってきた。
 嵐が去ったと思ったら更に厄介な物がやって来たなと沙奈は思った。
「ど、どうしたんですか、専務」
 身を引きながら、沙奈は突然の侵入者に対応する。
「いやあ、沙奈ちゃんの顔が見たくなってね、相変わらずかわいいねえ」
 見たくなったのなら、それはそれでいい。ただ、それを行動に移しては欲しくない。仕事中でしょう今は、何か他にやる事は無いのですか?と沙奈は心の中で思う。何とも苦手な相手である。
「ねえ、さっき美樹ちゃん凄い怒った顔して廊下歩いてたけど、何かあったの?」
「えっ、いや、あの」
 丹沢は、少し伏せ目がちになった沙奈を見て、にやりと笑った。
「まあまあ、美樹ちゃんにとってはいつもの事だから。別に気にする事はないよ。あの子はすごいお嬢様育ちでねえ、自分の思い通りに行かないとすぐああやってスネるんだ。ここに入ったのも親父さんのコネだし。まあ、言ってしまえばわがままなんだけどね。綺麗な子なんだけど、あの性格さえなければねえ……。流派は豊穣神ヴァーチュイなんだから、根は優しいんだと思うけど。そうそう、ところで沙奈ちゃんは、流派は何かな?俺はちなみに太極神モタスィだけど」
「え、私ですか……古代神ファーゴですけど」
「へえ、古代神なんだ、この辺じゃ珍しいねえ。ねえ、でも古代神ファーゴと太極神モタスィって相性いいんだよね、流派占いによるとさ。これはひょっとしたら運命の出会いってやつかな、いやあ、参ったねこりゃ……」
 丹沢は、一人で喋り倒して一人でにやけている。沙奈は、彼の相手を務める事を放棄して、再び自分の机に向きなおし、書類と対峙する事に決めた。勤務中に女子社員をナンパする役員、正直言って迷惑極まりない存在である。だが、その迷惑がられている張本人は、全く意に介した様子も見せず、沙奈に何やら怪しげなモーションをかけ続けている。沙奈は、当然の様に無視を続けた。
「ねえねえ、無視しないでよう。今度一緒に食事にでも行こうよ。おいしい所知ってるんだ、塀の外から直送された新鮮な食材をふんだんに使った……」
 堪りかねた沙奈は、遂に専務のその言葉を遮る。
「結構です。今忙しくてそんな時間ありませんから」
 丹沢は、玉砕した。
 それと、ほぼ時を同じくして、傷心しているであろう丹沢の携帯御符の呼び出し音が鳴り響いた。
 発信者は、日下部である。舌打ちをしながら、丹沢は折りたたみ式御符を開き耳元へ運んだ。
「はい、もしもし」ぶっきらぼうな対応である。
『丹沢、今何処に居る?今回の幹部会議、お前にも出てもらいたいんだが、大丈夫か?』
 専務のぶっきらぼうな電話の対応に少し会社の行く末に不安を抱きながら、沙奈は机の上に積み上げられた書類をもう一度眺めてみる。今日の仕事の目途はまだ立ちそうもない……。
「ったく、あいつは人使い荒いんだから……」
 携帯で話し終った丹沢が、ブロンズ色の頭を掻きながら何やらぶつくさ呟いている。
「ごめんね、沙奈ちゃん。俺用事が出来たわ。ちょっと行かなきゃいけない所が出来たんだ。結構忙しい身なんだよね。また、今度じっくり話そうよ、流派占いについて。じゃあね〜」
 人差し指と中指を使って、投げキッスをしてみせて、そのままくるりと背広の裾をたなびかせて、鷲野総合警備株式会社の不安材料丹沢専務は、颯爽とオフィスを後にしたのだった。
 再び一人取り残された沙奈は、その体を脱力感に侵食され、ため息を吐きながら机にうつ伏せた。
「はあ、疲れた……」
 
 六十四階から見渡す空は、果て無く蒼く広がっている。空だけは、このジャンクシティを越え、どこまでも続く。


続く





2005/11/02(Wed)18:10:49 公開 / オレンジ
http://spaces.msn.com/members/orenzi/PersonalSpace.aspx?_c=
■この作品の著作権はオレンジさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
本当に人知れず、4話目アップ。感想いただいた皆様遅くなってしまいましたがありがとう御座います。
えっと、此処までで前回投稿分がほぼ完成しましたので、次回からは新規投稿させていただこうかと思います。
 では、また現行ログで。


皆様のご感想、ご意見ご批判お待ち申し上げております。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。