『三日後の恋人(前・後編)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:律                

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 きみについて書くには、まずぼくらの出会いから語らなくてはいけない。
 月曜日の次は火曜日という具合に世界のあらゆる事象には順序がある。この物語もそう。
 月曜日の抜けた火曜日は存在しない。つまりはそうゆうことなんだ。

 ぼくときみは同じ町の同じアパートで生まれた。
 ひどいアパートだった。階段なんて潮風で錆びついて小豆色で、手すりを触って階段を上がろうものならすぐに手は鉄臭くなったし、部屋と部屋を遮る壁は下敷きのように薄く、耳をすませば隣の家の内緒話だって聞こえてきそうだった。
 とにかくぼくたちはそんなアパートで生まれ、育った。

 きみが倒れたのは中学校ニ年生の冬だった。
 知らせを聞いてぼくが病院にかけつけたとき、きみはベッドの上でケロリとした顔で宮沢賢治の詩集を読んでいて、病室ではこうこうとストーブが焚かれていて、つるりとしたヤカンがその上で湯気をだしながらカタカタ鳴っていた。ぼくたちが住んでいたのは田舎だったからね、暖房とかエアーコンディショナーとか、そうゆうのは無かった。なんて言ったってTV番組が三つしか映らない。民放の放送局なんて実に一局だった。
 窓の外では静かに雪が降っていた。
 コートの肩に雪を乗せて勢いよく病室に入ってきたぼくを見て、きみは「お」と言ってパタンと本を閉じた。
「た、倒れたって訊いた。授業中に、いきなり」と入り口に立ってぼくは言った。
 開けっ放した扉は冷たい空気を流し込んで、窓際の薄いピンクのカーテンをひらりと揺らす
 きみが寒そうに両腕を組んだから「ごめん」と慌てて扉を閉めた。
「急に胸が痛くなって、そしたら気絶しちゃったの」ときみはぼくを見て笑いながらそう言った。
「医者はなんだって?おばさんはどこに行ったの?」
「お母さんはさっき帰った。ただの風邪だって訊いたらさっさとね」
 その瞬間、ぼくは糸の切れた操り人形のようにヘナヘナと病院の床に腰をおろした。
 14歳だったぼくにとって、人間が気絶して倒れるということは一大事だったし、なにか重い病気なんじゃないか?とずっと不安だったから、ただの風邪と訊いて安心したんだ。

 きみは嘘が上手だった。誰にもわからないように会話の中にさらりと嘘を一滴垂らす。
 ある意味では詐欺師に向いているかもしれないけど、きみは人を陥れるような嘘と自分を守るような嘘はつかなかった。
 こんな逸話がある。
 きみには仲のいい友人が二人ほどいたんだけれど、ある日その二人の友人が喧嘩をして、きみは板ばさみにあった。きみを挟んで彼女たちは背中合わせで休み時間を過ごし、給食を食べ、下校した。ある日、きみは片方ずつに「本当は謝りたいみたいなんだけれど、なかなか言い出せないらしいの」と嘘をついた。「ねぇ、あなたから謝ってあげて」
 そして「そうゆうことなら」と双方は歩み寄り、無事に和解を遂げた。
 つまりきみが嘘をつくときは誰かのためで、それは大人が小さな子どもにサンタクロースは存在するんだよと囁くような優しい嘘だった。
 今になって思うんだけれど、あのときあの病室できみのついたたった一つの嘘を見破っていたなら、ぼくはきみを救えただろうか?

 翌日の学校帰りにきみの退院を迎えに行って、自転車に二人乗りして海沿いを通って帰った。
 後ろで「重い?」と心配そうに訊くきみをからかって「重い」と答えたりした。
 そうしたら結構つよい力で頭を叩かれて「じゃぁ訊かなきゃいいのに」と不貞腐れるぼくを見て、きみは口元を手で押さえてくすくすと笑った。
 冬の風と遊ぶようにカモメと海猫がぼくらの頭上を飛び、灰色の空は次から次へと雪を生む。
 海は静かに波の音を立てていて、きみはぼくの背中で拗ねるように「冬の海は嫌い」と潮風に遊ばれる髪を耳にかけながら言った。
「どうして?」
 車にクラクションを押され、体勢を崩しながらぼくは訊いた。
 呼吸と一緒に白い息は生まれ、そして消えていく。
 きみはぼくの肩に積もった雪を払いながら「飲み込まれそうになる」と答えた。
「夏の海は海って感じだけど、冬の海は渦って感じがする」
「そう?」
「そうよ。怖いな、すごく」
「それは初美の考えすぎだよ。ここから海を見ているぶんには安全なんだから」
 雪が強くなってきて、ぼくは巻いていたマフラーをきみに渡してペダルを漕ぐ足を早める。
 きみが病み上がりだったことを考慮して。

                    *

 土曜日は毎週、退屈だった。友人は来年の高校受験に備え、塾に通い出していたし、きみも先祖代々守っている近所の神社に巫女の手伝いとして借り出されていた。
「なにするの?巫女って」
 ある日、ぼくはきみの部屋できみの作ったナポリタンを食べながら訊いた。
 きみはアルデンテで茹でられたケチャップのしっかり絡まった麺をフォークで巻いて「主に、祈祷して、おみくじを売る」と頬張る。
「そんなに毎週なにを祈っているのさ」
「お母さんと一緒に世界平和について。それと天国のお父さんについて」
「ごくろうさまだね」
 そして短い沈黙のあとできみは急に「すごく好きなの」と言った。
 ぼくは驚きながら「え?」と顔を上げた。
「ナポリタン」
 あぁ、ナポリタンね。ガッカリだ。

 そう、ぼくはきみに恋をしていた。
 だから高校三年生のときにきみに告白をして、付き合えることになったときはすごく嬉しかった。
 ずいぶん遠回りをして時間はかかったけれど、白黒だった世界が色づいていくのを感じた。
 それと同時にきみとぼくを取り巻く世界は確実に変わりつつあった。
 きみは高校を休みがちになり、一人でどこかへ出かけることが多くなった。
 勿論、きみにさぼり癖があったわけではない。授業態度も良かったし、病気で何日か休んだことはあるけれど、それでも出席日数は誰かに分け与えてもいいくらいに足りていた。
 休みがちになったことについて、きみがぼくに何かを言うことはなかったし、きみの母親がきみを咎めるようなことも一切無かった。唯一、学校の担任だけが理由を訊くぼくに「桐原は特別な子なんだ」と言うだけで、与えられた小さなヒントは答えを紐解くには頼りなかった。
 ぼくは胸にひっかかる何かを感じながら、毎日を生きていた。

                     *

 付き合い始めてから一ヶ月が経った。
 ぼくときみのデートはいつもどちらかの部屋に転がり込んで、漫画を読んだり再放送されている白黒映画を観たり、普通のカップルなら消化不良に終わりそうなデートで、そもそもこれをデートと呼べるのかどうかもわからなかった。
 完全なる友達の延長線上をぼくらは歩いていて、「それは付き合ってもいないし、デートでもねぇな」と指摘する友人に見せ付けるように7月のある日曜日、きみを誘って列車に乗って、少し遠出をすることにした。きみはこの日をとても楽しみにしていて、純白のワンピースと麦藁帽子を被って、はしゃぐように無人の改札口を通った。
 今、思えばそれは残された時間の間にどれだけの思い出を作るかというきみの挑戦だったのかもしれない。実際、あの頃のきみは普段の姿からは想像できないくらいアグレッシブだったし、何か生き急いでいるようにも感じられた。

 休日なのにニ両編成の列車に乗客はいなかった。
 ぼくときみとだけが、玩具屋で売れ残った人形のように、座席に隣り合って座り、窓をスライドしていく海に目をやったり、向日葵畑に目をやったりしていた。
「悟くんとこうして外出するのって初めてよね」
 沈黙を破るようにきみが言った。
 ぼくは姿勢を正しながら少し考えて「そうかもしれないね」と言った。
「外出したのなんて修学旅行で東京に行ったくらいだから」
「私も。だって町を出なくても全て揃っているもんね。山もあるし海もある。大型ショッピングセンターとか遊園地はないけれど、それはなくても困らないもの」
 きみの言うとおり、ぼくらはまるで鎖国をしていた頃の日本のように必要最低限の狭い空間で生きてきた。この初めての外出は勿論歴史に刻まれることはないけれど、でも、それが例え駅を二つ越えた公園までという小さな旅でも、記憶は胸の中にしっかりと焼きついた。
 ぼくは目的地を告げるアナウンスを聴きながら、人類で初めて月面着陸に成功したニール・A・アームストロングの言葉を心の中で反芻していた。
「ひとりの人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな一歩である」
 この場合少し意味が違ってくるけど、とにかくこの外出は些細な一歩だったけれど、ぼくにとって実に大きな一歩であり、前進だと思っていた。

                    *

 きみが公園で広げた弁当にはお手製のサンドウィッチと唐揚げとポテトサラダと玉子焼きと輪切りにしたオレンジが入っていた。
 ――が、はしゃぎすぎたきみによって、弁当箱の中でシェイクされたそれらは複雑に絡み合い(あの料理に名前をつけるとしたら、唐揚げのポテトサラダ和えオレンジ風味だった)、バスケットに入っていたサンドウィッチは被害を免れたものの、詰めすぎてやけに窮屈なサンドウィッチになっていた。
 そんな無残になった昼食を見ながら君は、あわわ、と声にならない声をあげ、
 ぼくが「どうせ胃に入ったらこうなるんだよ」と言うと「フォローになってない」と拗ねるようにうつむいた。
 割り箸で唐揚げを摘んで口に入れる。
「あ。思っているよりか旨いよ!」
「ほんと?」
「本当だよ。初美も食べてごらん」
 そしてきみは唐揚げを一口齧るとすぐに吐くようなジェスチャーをして、「うそつき!」と笑いながら怒った。
 こうゆう時間が長く続けばいい。ぼくはあのとき、心からそう願っていた。
 でも別れはいつだって突然にやってくる。
 その三日後の水曜日にきみは「別れたい。ごめんね」というメモを残して姿を消した。

                  *

 きみがいなくなっても世界は流れていく。
 月曜日の次は火曜日になるし、火曜日の次は水曜日になる。

 担任は授業が始まる前に「桐原は持病を悪化させて療養に行った。しばらくは休む」と言った。
 どういうわけか詳しい場所は話せないらしいし、この話はこれで終わりだ、と無理矢理、議論の骨を折った。ぼく以外のほとんどの生徒はそれでも納得して、一限目の授業の準備に取り掛かり、各々の恋の行方とか、他クラスの噂話とか、映画の話とかで教室を賑わせた。
 きみの席だけが取り残されたように空いていて、誰かに気にされることなくやがて馴染んでいく。
 ぼくはその窓際の寂しい風景をぼんやりと眺めていた。

 昼休みに屋上のベンチで昼食をとっていると、きみの友人の岡さんと足達さんがぼくのところにやってきた。そう、中学生のとき、きみのおかげで仲を取り戻したあの二人組だ。
「先生の言ったあれは嘘」
 彼女たちは唐突にそう切り出し、「初美についてなにか知っている?」とぼくの横に座った。
「なにも」と膝に落ちたコロッケパンの屑をはらいながら答え、ただぼくも先生の言ったことは嘘だと思っていると話した。きみに持病があったなんて聞いたことがなかったし、療養所を教えられないことには大きな違和感があった。
「初美がいなくなった日に、彼女はメモを残していったんだ。「別れたい。ごめんね」って。ぼくにはそれがもう二度と会えないような響きに聞こえてならないんだ」
「おかしいわ」と岡さんは言った。「初美はあなたと付き合えて本当に幸せそうだったもの」
 足達さんも頷いて「あの子、何か隠しているわね」と言う。
「ぼくもそう思う」
 そこでぼくは初めて、きみの身にはもっと別の危険が迫っていることを感じた。
 そしてその予感が当たっていたことを、ぼくは後に気づくことになる。

 昼食を食べ終え、昼休みの余った時間を利用してぼくは職員室の担任の席に向かった。
 いつもは入ることをためらってしまうこの部屋も今日は驚くほどすんなり入ることが出来た。
 それはやましいことがぼくにではなく教師側にあるからで、そのことでぼくは受身にならず攻撃的になることができた。「失礼します」と言うと、何人かの教師が声のしたほうをちらりと見て、それから担任が奥の席で「おう!どうした?」と手を挙げた。
 真っ直ぐ担任の所まで行き、「桐原さんについて聞きたいんですが」と言うと、職員室の空気がギュッと凝縮され固まるのを感じた。担任は缶コーヒーを一口啜って「なに?」と言った。
「桐原さんが学校を休んでいる理由ってなんですか?」
「言っただろう?病気だよ。心臓が悪いらしい。だから病院で療養することになったんだ」
 ぼくは「そんな嘘を聞きに来たんじゃないんです」と遮った。「本当のことを教えてください」
 担任は鼻で溜め息をついて、やれやれと額を擦った。
「じゃぁ聞くけど、なんでおまえはそれが嘘だと思うの?」
「幼馴染の勘です。それに初美が病気にかかっていたなんて初めて聞きました」
「根拠にならないよ、それじゃぁ」
「教えてください!」とぼくは強く言った。昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴る。
「桐原は特別な子なんだよ」
 担任はいつかの台詞を繰り返してぼくの肩をぽんぽんと叩き、それっきり口を閉ざした。
 興奮で激しく伸縮を繰り返す胸が痛かった。

                   *

 きみの母親に訊いても基本的には担任と同じ態度で、きみが心臓を悪くして病院に入院することになったと言った。ぼくは「おかしいよ」と言っておばさんが作ってくれた夕食のカレーライスを食べていた。
「それがもし事実なら、なんで今まで隠していたの?心臓の病気なんて一言も聞いたことがないよ」
 おばさんは食器をかちゃかちゃと拭きながら、背中で「悪いと思っているわ」と答えた。
「なんでみんな初美について隠そうとするんだよ」
「知らないほうがいいことだって世界にはたくさんあるの。ねぇ、悟……」とおばさんはテーブルに座っていたぼくの前に腰を下ろし、覚悟したように「わたしたちはたしかにあなたたちに嘘をついている」と言った。
「でもそれは初美のためじゃなくて、悟のためなのよ。あなた、全てを知ったとき、それに耐えられる?」ぼくの目をしっかりと見て、おばさんは問う。
「耐えられる」
「口ではなんとでも言えるわ」
「教えて欲しいんだ、本当のこと」
「なにがあっても動じない?」
「うん」
 おばさんはしばらく考えた後、覚悟を決めたように「じゃぁひとつだけ約束をして」とぼくに顔を近づけた。
「なに?」
「真実を知っても、あなたはあなたの人生を生きなさい」


 後編


 おばさんから渡された一枚のメモにはこの町の山の頂上に建てられた宇宙開発センターの住所が書かれていて、ぼくは肉親だけが渡されたというそのセンターの通行パスを受け取った。
「それを入り口で係員に見せて。そうすればセンターの中に入れる。そこに初美がいる」
「そんなに簡単に入れるの?」
「初美に会うことは自体は簡単よ、肉親ならばね。あなたは兄って名乗るの」
「ばれたらどうするの?」
「追い返されるわね。そしたら初美には二度と会えない」
 あとで聞いた話なんだけれど、おばさんは通行パスをセンターから受け取った際に、誓約書を書かされていたらしい。
 簡単に言うなら「パスを渡したら多額な賠償を請求する」という内容で、その額はぼくらのアパートを丸ごとひとつ買っても充分にお釣りがくるほどの値段だった。
 なんでそこまでしてくれたの?と聞いたら、おばさんは「母親はいつだって子どもの幸せを願っているのよ」と言って起用に片目を瞑ってみせた。

 次の日、ぼくは学校を休んでバスに乗り、宇宙開発センターに向かった。
 そんなものがこの町に存在していたことを知ったのも初めてだし、勿論、行くことも初めてだった。
 乗客が三人しかいないバスに30分ほど揺られ、バス停を下りて、20分ほど坂道を上る。
 すると木々に囲まれていた視界が突然開けて、宇宙開発センターが見えてくる。
 入り口は灰色の高い塀で囲まれて、警備員の男性が大きな扉の左右に一人ずつ立っていた。
 まるで刑務所のようで、でも奥のほうに見える白い天体観測用の大きなドーム型の望遠鏡が、宇宙開発センターの、その宇宙という言葉と唯一繋がっていた。複数の電線が空に絡まるように張り巡らされていて、ときどきコーンコーンと金属音がした。異様な雰囲気がする。
「あのう」
 右に立っていた警備員に尋ねると、彼は警備帽の奥からじろりとぼくを見て「なにか?」と言った。とても冷たい視線で、自分が悪いことをしたような気になって、ひるみそうになるのをぐっと堪える。「桐原初美に会いに来たんですけれど、お取次ぎお願いできますか?」
 右の警備員は岩のようなごつごつとした掌を差し出した。その差し出された掌が何を意味するのか考えていると右の警備員は「通行パス」と無愛想に言った。
あ。
 ぼくは慌てて肩にかけていたショルダーバッグの中から、おばさんから受け取ったパスを見せる。
 そして右の警備員は無線を取り出し、「桐原初美に面会人です」と送話口の向こうの人間に言った。2、3やりとりがあったあと、彼は「案内する」と言って、足早に歩き出した。 左の警備員はその間ずっと前を見ていた。一回もぼくに視線を向けることなく。
 ぼくは右の警備員の青い制服の背中についていく。
 センターの敷地内は外から見た刑務所のようなイメージと違って、まるで大学のキャンパスのようだった。白い服を着た研究員らしき人たちが、手に書類を抱え談笑しながらぼくの横を通り過ぎていく。中には挨拶をしてくれる人までいる。
 やがて居住区と呼ばれる建物の前に辿り着き、エレベーターに乗せられ六階に昇った。
 長く冷たくつるりとした廊下を歩くと、右の警備員のローファーの音とぼくのスニーカーの音が静かにかつかつと響いた。左右は白い壁で囲まれていて、部屋や窓らしきものはひとつも無い。
 緩やかにカーブしている廊下だけが、建物が筒状だという情報を与えていた。
 歩いている間、右の警備員はずっと無言だった。
「ここは主に何をやっているセンターなんですか?」という質問に対しても無言だったし、「桐原初美は元気でしょうか?」という質問に対しても返答は得られなくて、会話を諦めかけた頃、右の警備員が「ここだ」と立ち止まり、ぼくに道を譲った。このフロアーで唯一の扉。
 ぼくの視線の先にはクリーム色のドアがあり、そこには「桐原初美」というネームプレートが貼り付けられていた。
「面会時間は一時間。それ以上は認めない。また迎えに来る」
 そう言うと右の警備員は来た道を戻っていった。
 ぼくはそれを見届けてから、何か初めて触るもののようにドアノブにそっと触れ、そしてひねり、扉を引く。
 目の前に広がる白い壁、白いカーテン、白いベッド、白い椅子。まるで絵画のような部屋。その白い空間の奥で、白いスモッグを着たきみがベッドに座り、窓の外の世界に目をやっていた。風できみの長い髪がさらさらと揺れていた。
 きみはやがて窓の視線を入り口のぼくに向け、そしてすぐに驚いたような顔をして「悟くん」と言った。
 ぼくは逸る気持ちを押さえ「やぁ」と言った。「元気かい?」
 きみは「どうしてここに?」と悲しいような嬉しいような複雑な表情を浮かべた。
「おばさんに聞いたんだ、きみがここにいるって」
「おかあさんから?」
「うん。全て聞いたよ、初美が抱える全て」

                    *

 ぼくがこうしてきみについて書いている今でも、おばさんがぼくに教えてくれたとおり巨大流星は確実に近づいてきている。つまり、きみはその流星からぼくたちを護るために旅立つ。

 おばさんはあの日、まずこう切り出した「タイムマシンの作り方は知っている?」
 地球上で光より速い速度を見つけたら、人類はタイムマシンを作ることが可能になるらしい。そしてそれはぼくらが生まれるもっと前にすでに見つかっていた。
 発見したのは当時、宇宙開発センターで働いていたきみの父親で、巨大流星の接近もぼくたちが生まれる前からわかっていたことだった。タイムマシンを作ったきみの父親は極秘で世界とある契約を交わした。
 巨大流星が危険な領域まで侵攻したらそのマシンに乗り、未来に先回りして破壊する。
 エルサルバドル。
 タイムマシンにつけられた名前。スペイン語で救世主の意味。
 そこには接近して放てば流星を粉々に出来るミサイル弾が搭載されていた。
 計画は上手くいくはずだった。
 でもぼくたちが中学一年生の頃、きみの父親が不慮の事故で亡くなった。
 エルサルバドルはシンクロニティという画期的な技術を施していて、特定の人物しか乗れないような仕組みになっている。他の人物が乗ったら体に異常をきたす。激しい頭痛とか吐き気とか。きみの父親は用心深かったから、他の誰かがこの危険な兵器に乗れないようにそうゆう仕組みにしたのかもしれないね。
 きみの父親の死後、唯一エルサルバドルとシンクロしたのが彼の娘で血の繋がっている桐原初美。そう、きみだった。
 あの日、きみが倒れた中学二年の冬。あの日の前日にきみは初めてこの宇宙開発センターでエルサルバドルに搭乗した。
 つまり、きみが倒れたのは風邪なんかじゃなくて、初めてのシンクロが引き起こす一種の副作用だった。
 それでもきみはきみの父親と血の繋がった娘だ。すぐに免疫は出来たし、慣れてしまえばパズルの最後の一ピースをはめるようにパチンとしっくりはまる。
 きみは死んでしまった父親の代わりに世界を救うことを了承した。

 そして巨大流星は、あと半年で危険地帯に侵攻してくる。
 きみは三日後に先回りして、流星を待ち構えることにした。三日先の未来。それがエルサルバドルで行ける最高到達距離だったから。
「半年後ならまだ慌てる必要はないじゃないか?」とおばさんに言った。
「レーダーに誤差が生じたらどうする?例えば急に流星が速度を速めたりしたら」

 きみは世界を救うために三日後に行く。
 それはある意味では犠牲だった。
 あくまでも世界はこのことについて穏便に済ませたいらしく、この事実を知っている人間を一人も残しておきたくないらしい。特殊な電波を衛星から送って、きみの存在をぼくらの中から消す。
 つまりきみが三日後に旅立ったら、ぼくらの中のきみの記憶は無くなる。
 それはエルサルバドルが過去には戻れないというデメリットも一役買っていた。

 それと、もうひとつ。
 三日後の世界の話をおばさんから聞いた。
 ぼくは三日後の世界と聞くと、三日後には三日後のぼくがいて、そこで暮らしている。と思い込んでいた。“今”とは別に存在した世界があると勘違いしていた。
 でもそれは大きな間違いで、三日後に人間はいない。二日後にも明日にだって、人間はどこにも存在しない。ただジオラマのような町だけが明日や明後日に存在していて、日付が変わればぼくたちは“今日”から町だけが存在する“明日”にワープされて新しい日々を送る。 つまり今日という一日一日が使い捨てで、ぼくたちはそれの消費者なのだ。
 そして、その今日から明日へ行く瞬間こそが光より速いものだった。きみはエルサルバドルでその時間の流れに逆らい、誰もいない三日後へ先回りする。そしてそこできみだけが三日後の世界で生きる。
 まるで一生追いつけない追いかけっこだ。
 たった三日後にいるのに、ぼくはきみに会うことができなくなる。

                   *
 白い部屋で「訓練は大変?」とぼくは訊いた。
 きみはううんと首を振ったけど、体中の傷が答えを言っているような気がした。
 そしてきみは窓の外を指差して「あれがエルサルバドル」と言った。
 大きなコンクリート上の広場で数十人体勢の整備が行われていて、丸い窓があって、ロケットの形をしていて……というような幼い頃描いていたタイムマシン像とは大きなズレがあった。
 エルサルバドルは乗り物というよりロボットに近かった。足もあるし、手もある。
 大きさは居住区の建物より少し小さいくらいで、それでも充分に大きかった。
「あれで宇宙に行って、流星を粉々にするんだね?」
「うん。男の子ってああいうマシンに乗ることに憧れる?」
「小さい頃は乗ってみたかったな」
「そっかぁ、じゃぁ得したと思わないとね」
 きみがぼくに気を使って冗談を言ってくれていることがわかったので、笑顔を浮かべようとしたけど、上手くいかなかった。だってきみはきみの存在を無かったことにされる。いいように利用されて、犠牲になる。
 そんなぼくの気持ちを察するようにきみは微笑んだ。
「エルサルバドルとシンクロできるのは私だけ。例え私以外にシンクロできる人間がいたとしても、その人にだって家族がいて友人がいて……恋人がいるかもしれない。結局は誰かが同じ思いをする。私が逃げたら地球が無くなっちゃうから、だから私は行くよ」
「うん」
「……行くから」
「うん」
「泣かないで」
 きみに言われて初めて自分が泣いていることを知った。
 ごめんと言って慌てて涙を拭っても次から次へと零れてきて、いよいよぼくは本格的に 泣き出した。まるで幼い子どもが母親にすがるようにきみの膝の上で泣いた。
 ぼくの記憶を遡っていくと、物心ついたときからきみはそこにいて、きっとその頃からぼくはずっときみを守らなきゃ守らなきゃって思っていた。それはある種の強迫観念であり、でもぼくが望んだことでもあった。でも守られていたのはずっとぼくだったんだ。守ろうと思うことで守られている。
 きみがいるっていうその安心感はぼくに安らぎを与えてくれていた。
「いつ、行くの?」とぼくは訊いた。
 初美は「今日からちょうど一週間後」と答えた。
「寂しくなるよ」
「わたしも」
「また会えるのかな」
「過去へ戻れるマシンが出来たら、センターの人が迎えに来てくれるって。何年後になるかわからないけど。一年後かもしれないし、十年後かもしれないし」
 ぼくが何かを言おうとすると、初美はそれを遮るように「でも」と続けた。
「きっと、すぐよ。光より速いものはすでに見つかっているんだから。あとは過去へ遡る時間の脈を見つけるだけだもん」
「でも戻ってきた世界できみを知っている人間はいない。ぼくやおばさんもきみを忘れてしまう」
「思い出や記憶は生きている限り、またいくらでも作れる」
それより、ときみはぼくの目を見て言った。「なにか楽しい話をして」
「楽しい話?急に言われてもわからないよ」
「なんでもいいから」
「あ」
「なにか思いついた?」
 ぼくは一人だけその楽しい話を思い出し、笑う。それを見てきみは「なに?なに?」とぼくを急かす。残された時間から目を逸らすように、ぼくたちはくだらない話をして、そして笑い合った。

                   *

 パスを受け取りきみの兄になったぼくは、その後、何度もきみに会いに行った。
 何日かが過ぎると右の警備員はパスを見せなくてもぼくを通してくれて、相変わらず「面会は一時間だ」と無愛想に言った。でも一時間を過ぎても、彼が何かを言ってくることはなかった。もしかしたら彼は優しい人なのかもしれないね、少しその表現の仕方が苦手なだけで。
 それに右の警備員はぼくが兄ではないことを薄々気づいているような感じでもあった。
 その証拠に彼は面会を終えたある日の帰り際にぽつりと「三日後の恋人。辛いものだ」と呟いた。

 旅立ちを明日に控えた今日も、ぼくときみは些細な話をした。
 そして夕陽がオレンジに染める部屋できみは窓の外に目をやり「ねぇ、エルサルバドルは空を飛びながら三日後にワープしていくんだよ」と微笑んだ。「ちょうど今ぐらいの時間に」
 ベッドの頭の辺りの置時計を見ると、針は5時半を差している
「ずいぶん中途半端な時間なんだね」
「無理を言って夕焼けが出る時間にしてもらったの。飛んでみたいじゃない、夕焼けの中を」
「ねぇ、初美」
「ん?」
「帰ってきたら、またあの公園に行こうよ」
「お弁当を持って?」
「そう、ポテトにまみれたあの唐揚げを持って」

 そうしてぼくと初美は別れた。
 さよならよりも「またね」という言葉を意識的に選んで手をふり、クリーム色の扉を閉めていくと、段々ときみが見えなくなって、扉がシャットアウトした。
 廊下には右の警備員がぼくを迎えに来ていて、「もう少し、いいぞ」と無愛想に言った。
 でもぼくは「いいんです」と首をふった。
「これが笑顔で別れられる限界の時間ですから」
 ぼくは静かに歩き出した右の警備員の背中を見ながら来た道を帰っていく。
 涙がずっと止まることなく零れていて、ぼくは胸の中できみの名前を呼んだ。
 呼ぶことで何かが変わるわけではないけれど、初美、初美って、何度も。

                     *

 時刻は現在PM23時53分。
 あと7分で、遥か宇宙の衛星から電波が飛ばされて、きみを知っている人間からきみの記憶が無くなる。きみを知っている人間はいなくなる。ぼくもきみを忘れる。
 正直、怖い。
 あの初めての公園のデートだとか、二人乗りをして辿った学校の帰り道とか、そうゆうのを忘れてしまうのが怖い。
 教室の空席を見ても、ぼくはなんの違和感もなく暮らしていくんだろう。
 
 だからぼくは今、これを書いている。
 ぼくらの人生にしおりのように挟まれた思い出をこうやって書き出して、きみを思い出す手がかりにしようとしている。
 それでもこの手紙さえ、意味のわからないものとして7分後には処分してしまうのかもしれない。でもね、ぼくはきみが帰ってきたとき、もう一度きみを必ず見つける。
 きっとぼくの細胞がきみに反応して、導いてくれる。
 TVは相変わらず芸能人のゴシップや明日の天気予報などを伝えている。
 そのどこにも巨大流星が迫っているニュースや、きみが旅立っていくニュースは流されない。
 2分前になった。
 きみは今、何をしている?
 
 

                    *

 そしてぼくはペンを置いて、目を閉じる。そしてゆっくりと120秒を数える。
 やがて日付は静かに変わる。

                    *

 その日の夕方は夕焼けがとても綺麗で、ぼくは薄紅色の夕空の中に真っ直ぐと伸びていく飛行機雲を見た。

                                                                         (了)




2005/07/02(Sat)01:37:26 公開 /
■この作品の著作権は律さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
更新が遅くなりました。後編です。
羽堕さん、clown-crownさん、甘木さん、上下左右さん、京雅さん、藤崎さん、明太子さん。レスありがとうございます☆反省の多い作品ですが、楽しんでいただけたら嬉しく思います!

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。