『在りし日のうた【1(修正版)】』 ... ジャンル:未分類
作者:甘木                

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 思い出すのは。
 在りし日に見た、夕陽に焼かれる送電線の鉄塔の列。
 思い出すのは。
 在りし日に聞いた、風が振るわす送電線の音。
 思い出すのは。
 在りし日に語った、俺たちの想い。



1.


 孤独は心を蝕む毒。ゆっくりと心を冒し精神に死をもたらす。
 拘置所というものの目的は、閉じこめて自由を拘束することではなく、受刑者に孤独を自覚させること───収監されて初めて俺は理解した。街のざわめきも、他人との温もりも無い。
 白い壁がすべてを隔て、安らぎを装った静寂だけが満ちている。静寂は孤独を生む種。拘置所の中で芽生え、受刑者の精神を養分に孤独を育んでいく。
 最期の刻まで……。



「すまんな七枝柄、これから暑くなるのに。この部屋は西陽がきついからな」
「いえ、気にしないでください。ここは落ち着くんですよ、最初に入った部屋だから」
 この部屋に不思議な懐かしさを覚えていた。T拘置所1舎5階の南西端部屋は俺が───七枝柄隆宏(ななえつか・たかひろ)が───初めて入れられた場所で、孤独の苦しさと思い出の甘美さを知った部屋。
「ま、3ヶ月間の辛抱だ我慢してくれ」
 そう言ってN主任はドアを閉める。廊下を隔てた他の部屋からもドアを閉める音が聞こえてくる。
 今日は3ヶ月に一度の定期転室日。無作為に選ばれた部屋に引っ越すだけのありきたりな日のはずなのに……。
 ───この部屋に戻ってこれるとは思わなかった。
 この部屋がとりたてて特別な作りなわけではない。白い壁、僅かな仕切だけ置かれたトイレと小さな洗面台、曇りガラスが嵌め殺しになっている窓。すべて他の部屋と同じ。なのに懐かしい。
 ───振り出しに戻ったのか? いや、本当の振り出しに戻れるはずなんてないんだ。ゴールに向かって突き進むしかないのだから夢なんて見るな。現実を見ろ、目の前の現実だけを。
 目の前には段ボール箱が小さなテーブルの横に置かれているだけ。いままで生活してきた東南の部屋から運ばれてきた荷物だ。着替え、洗面道具、慈善団体が差し入れてくれたチョコレートと煎餅、ポットと茶器、開封したことのない手紙。ほとんど私物と呼べるものはない。
 ───それでいい、どうせ死ぬのだから。
 T拘置所1舎5階は57室の独居房がある。その独居房に収監されているのはすべて死刑囚。つまりここは絞首刑執行を待つ生ける死者の場所だ。
 ここで俺の8回目の夏が始まった。


 死刑囚は拘置所では特殊な存在だ。一般受刑者は6人部屋の雑居房だが、死刑囚は独房に入れられる。一般受刑者が作業場での仕事を強制されるのに対し、死刑囚に仕事は強制されない。日中は仕事をしたければできるし、昼寝をしようが読書をしようがお構いなし。自己資金の範囲なら菓子類も購入できる。
 一般受刑者から見れば恵まれた環境に見えるだろう。それは大きな間違いだ。一般受刑者は刑務所で刑期を務めあげれば刑は終わる。が、死刑囚の刑が終わるのは絞首刑の日のただ一日。その日まで望みのない生を送らなければならない。
 だからだろうか、他の死刑囚は刑務官に頼んで独居房内でできる仕事をしたり、書画に没頭して残された日々を充実させようとしている。教誨師にすがり宗教に心の平穏を求める者もいる。
 でも俺は何もしてこなかった。いや違う。孤独が苦しくて7年間何もできずに、ひたすら思い出に逃げていただけだ。
 〈おまえは人殺し〉
 〈おまえは無能〉
 〈おまえの罪は死で購うしかない〉
 〈早く死ね! 死ね! 死ね!〉
 孤独は俺の愚かしさ、弱さ、醜さを責め立てる。
 孤独をまぎらわそうと本を読めば行間から悪意が滲み出てくる。絵を描こうとすれば絵の具は死の臭いを漂わせる。日常生活のすべてから孤独が染み出してくる。ちょっとでも気を緩めれば俺を飲みこんで死を思い出させようとする。
 〈いつまで未練たらしく生き続けるんだ。どうせおまえの未来は……〉
 分かっている。裁判所で極刑を宣告された日で俺の生は終わっている。今の俺は七枝柄隆宏の残滓みたいなものだ。でも、残滓でも感情はある。感情は……痛い。
 本来なら俺が殺めた人たちや犯した罪に懺悔し、謝罪に心を痛めなければならないのだろう。けれど懺悔よりも後悔よりも孤独の方が痛い。
 孤独は俺を無限の闇の中に放り出し、血まみれの人々───頭が吹き飛び頸動脈から血を吹き出している男、潰れた足でいざりよる女、両腕を失って声にならない声を上げる子供───俺が犯した罪の被害者達の姿を浮かび上がらせる。被害者達は口々に呪詛を吐き、俺に早く死ねと言い続ける。
 幾多の人を殺し傷つけた俺でも、自分の死はどうしようもなく恐ろしい。身勝手な感情だというのは分かっている。けれども生物としての死の恐怖は抑えられない。
 自由を奪われている俺が死の恐怖から逃げるには思い出に耽るしかなかった。楽しい思い出でも、辛い思い出でも、何でもいい。思い出は俺をこの場所から解き放ってくれる。罪を犯す前の俺に戻れる。心だけは自由でいさせてくれる。
 家族で行った海水浴。可愛がっていた犬のライルが死んだこと。小学校で俺をいつも苛めていた若林。学校帰りの買い食い。友達との他愛のない会話。童貞を捨てた相手。俺が捨てた女、俺をふった女。故郷。東京。希望。絶望……俺は許される限り思い出の中に浸り込む。


 *  *  *


 この部屋に戻ってすぐノートを請願した。今まで何か書き残そうなどとは思ったこともないのに……。

 小さな机の上に置かれた真っ白なノートを見つめていると何を書けばいいのか分からなくなる。書きたいことはあったはず。書かねばならないことはあったはず。時間があるわけじゃない。少しでも思い出を残しておかなければ、七枝柄隆宏という人間が生きた爪痕を刻まなければ。と、焦れば焦るほど心ばかり揺れ、ペンを持った手は動いてくれない。
 だけど両親や兄貴だって俺からの手紙など欲しくもないだろうし、俺が殺した被害者への謝罪は文字になんてとても書き表せない。
 じゃあ俺は誰に書きたいのだろう? 何を伝えたいのだろう? 何か大切なこと、どうしても伝えたいことはあったはず。思い出そうと必死になればなるほど思考は迷宮の中に落ち込み意識が朦朧としてくる。
 …………。
「七枝柄、具合でも悪いのか? なんだったら医務室に行くか?」
 監視窓の向こうからかけられたN主任の声に、「い、いえ、大丈夫です」咄嗟に言いつくろう。どうやら俺は寝ていたようだ。
 どれだけ寝ていたのだろう? 曇りガラスの窓から橙色の光が差し込んでいる。
「どうだ、何か書けたか?」
「いいえ」俺は小さく首を振る。「書きたいことが纏まらないんです」
「焦ることはないさ、ゆっくり書けばいいんだ」
 N主任は少しだけ頬を弛める。
「でも驚いたよ。いままで手紙も恩赦願いも書かなかったのに、急にノートが欲しいと言うなんて」
「お手数をかけて済みませんでした」
 本当は俺自身が一番驚いている。それが表情に出ないように無理矢理笑みを浮かべた。
「そう言う意味じゃない、私は嬉しいんだよ。この8年間自分から何かしようとしなかった七枝柄が自発的になったことが」N主任は俺を気づかうように言ってくれる。実際、N主任はいい人だと思う。このノートとペンだって、願箋を提出したらすぐに用立ててくれた。「ま、明日は入浴日だ。風呂に入れば考えも纏まるよ」
「ありがとうございます」
 深々と下げた俺の頭が上がるより先に、「じゃあな」の声が降ってきて足音が遠ざかる。
 ほんのわずかな人との触れあいの時間は終わり。鮮やかな橙色の光に照らし出される独居房の温度が急に下がったように感じられる。
 なまじ人と触れあうとその後の孤独が苦しい。わずかな会話でも孤独は和らぐ。絶えず会話ができるなら俺だってする……でもそんなことは現実にあり得ない。
 俺はペンを置き、曇りガラスを染め上げる橙の光に目をやる。
 ───この色は神藤と見た色と同じだ。
 色々な思い出の中でもいつも心をざわつかせるのは、神藤悟(しんどう・さとし)と見た橙色に染まった世界。あの光景は心に焼き付いる。
 どこまでも立ち並ぶ送電線の鉄塔。
 びぅぃぃん、びぅぃぃん。風に揺れ響いていた送電線の音。
 高校2年のあの日のこと。

 続く。

2005/06/12(Sun)22:55:36 公開 / 甘木
■この作品の著作権は甘木さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 信じられないかもしれませんが学園青春物です……今回は全然出てこないけど。今のところラストしか考えていないので、どんな話しになるのやら。たぶん暗い話しです。本当はエルフやドラゴンが出てくるFTを書こうと思ったのに、気が付いたらこんな話しになっているし……暗い話しをグダグダ書くのは楽しいなぁ。

 この作品は長編にはしないつもりですが、相変わらず文章の書き方が分からなくって混乱していてどうなることやら本当に分かりません。一応「OUR HOUSE」の方をメインにしていくつもりですので、こちらは更新間隔が開くかもしれません。

 なお題名は中原中也の「在りし日の歌」を少しばかり意識してつけました。題名の「うた」は「歌」でも「唄」でも「詩」でもお好きな言葉を漢字変換して下さい。

 こんな拙い作品ですが、読んでいただける方がいたら感謝に堪えません。もしよろしければ御感想・御意見・罵詈雑言など書いていただけると嬉しいです。

 またも恒例の修正です。恥ずかしい……もう少し文章が上手くなりたいです。

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