『手紙』 ... ジャンル:恋愛小説 未分類
作者:恋羽                

     あらすじ・作品紹介
 北の離れ小島。自然はそこかしこに満ち、人々は笑顔を浮かべていた。都会の生活に疲れてしまった方へそっと送る、愛を込めたこの手紙、貴方に届きますか――

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 ――拝啓
 
 風が夏の色を帯び始め、真夏の暑さももうすぐそこにせまった今日この頃、いかがお過ごしですか。
 僕は元気で、なんとかこうして手紙を送ることができるだけの余裕が出来た。
 思えば島はまだ、夏には程遠いのかな――。



「早瀬、何してんだぁ?」
 開け放たれたままの窓の外で、蝉の声が忙しく鳴り響いていた。その必死の鳴き声に紛れて、少年の声がする。
 早瀬、そう呼ばれた若い女は座卓に肘をついて、その卓上に置かれた便箋を見つめている。……彼女は少年のその声に少し苛立った様子だ。
「タケルぅ、一体何回言ったらわかるのさあんたは。『早瀬お姉ちゃん』でしょ?」
 夏の、昼の光が強く強く窓辺を照らしている。その日差しにもたらされる暑さは、早瀬に「嫌がらせ?」と思わせるほどであった。例年に無い好天が、この小さな大地に降り注いでいる。
「うるせぇ、早瀬ばばあ!」
 その言葉がタケル少年の口から放たれた瞬間、彼らの追いかけっこはスタートする。
 無邪気な笑い声。けらけらと笑いながら入り組んだ木々をすり抜けていくすばしっこい子供を追いかけるのはなかなか難儀だった。
 緑ばかりが溢れ返ったような森。獣道すら見出せないようなこの森は子供達の縄張りで、若さで劣る早瀬は途中に生えていた木に手をついて息を切らす。
 幸せな笑顔を浮かべながら。




                         『手紙』




 ――早瀬と一緒に過ごしたあの日々は、僕の中で確かに生きているよ。君と駆け回った森や、一緒に泳いだ海。二人っきりで夜を越えたあの洞窟は、今もあの場所にあるのかな――。



 車のほとんど通らない道路を、早瀬は海に向かって歩いている。履き潰しかけのスニーカーはしっかりと足に馴染んでいて、一足一足を確かに早瀬の足の裏に伝えていた。
 道路の両側に生い茂った森は、蝉の声に重ねるように木の葉を擦り合わせる。……呑気な合奏。車の音が聞こえないから、そのBGMは心地よく我が物顔で鳴り響いている。
 歩く早瀬の手には先程の便箋が入った封筒が握られている。
 ジーンズにTシャツの出で立ちで、彼女は名前も知らない歌を口ずさみながら、気分良さげだった。
 そして、ちょっとした上り坂の頂上までたどり着いて見えてきたものは。
 青色。真っ青な海。北の孤島を取り囲む、厳しく深い青の海原だった。
 良い気分にさらに拍車がかかって、早瀬は海に向かう道を走り出す。ほんのすぐそこに広がる海の、砂浜の脇に、彼女の大切な思い出の場所があるのだ。一刻も早く、彼女はそこに辿り着きたかった。
 よく見ると、もう気の早い子供達が海に入っている。そこにいる一人一人が早瀬に手を振っていた。
 彼女は子供たちによく慕われている。
 しかしいつものように自分も水に浸かるようなことはしないで、彼女は砂浜を蹴って思い出を目指す。
 そうして。彼女は見つけた。
 あの日のまま、ぽっかりと口をあけた洞窟。大した広さではなく、例え子供であっても二人入るとなるとどう見ても狭苦しそうだ。
 だが。だからこそ。
 ――思い出す。あの秋の日、二人身を寄せ合った時のことを――。





 ――あの砂浜に吹き付ける南風が、僕達にとっての夏の訪れだった気がする。北の離れ小島にもようやく夏がきた、そう思ったんだ。厳しい寒さの中で冬を越したから余計にそう感じられたのかもしれないね。島の短い夏は、僕の天国だった――。



 早瀬は波打ち際から少し下がって、寄せては返す小さな波を一人でぼうっと眺めている。
「はやせぇ、泳がねぇのかぁ?」
 よく日に焼けた肌の中学生ぐらいの男の子が早瀬の隣に座り、彼女の肩に手を触れてそう言った。
 早瀬は首を振る。
「あたしはいいや。それよりほら、早く泳がんと日が暮れちゃうよ?」
 彼女のその言葉に、少年は「やべぇ、じゃあな」とだけ言葉を残し再びきっとまだ冷たいであろう水の中へと飛び込んでいった。
 素直な子供達。過疎化が進んでも、この島に漁師が住んでいる限り決していなくなることはない子供達。
 ……彼等にとっても、この夏は『天国』なんだろうか。
 あの日から夏が嫌いになった早瀬には信じられないことだ。
 この海は、あの日から何も変わってはいない。
 この島で暮らす人々は同じ雪解けの春を迎え、暑い夏を抜け、肌寒い秋をやり過ごし、そうして知らぬ間に冬を迎えている。それは当然であって、望むまでもないこと。
 退屈、呑気、この島を言い表す言葉はいくつでもあるが、その言葉に宿る意味を、人は本当に理解することができるのだろうか。
 早瀬はただ、いつも浮かべている笑顔を作ることもできないまま、白雲の漂う大空と海原の境を見つめていた。






 ――夕方になって訪れる凪の時は、不思議な気持ちだった。いつものようにあの時間はやってきたけれど、風の無い海辺は重苦しい気がして仕方なかった。思えばその空気の中で、君と初めてキスをしたんだったね――。



 春の日は、夏の様に空に長く留まってはくれない。その姿を遠く、西の海に――目では見ることができない遠くの国の地平線に――隠してしまう。それは日々繰り返されていることだけれど、早瀬は目の前で少しずつ沈み行こうとする日を眺めていて、そして今目を通していた手紙の文面を見ていて、ひどく神秘的なことに思えた。
 子供達が各々の家に向かった後も、早瀬は色彩を刻々と変えていく空と海を眺めている。
 そして日が沈みかけた頃に、突然訪れるその時。
 風が――、止まった。
 唐突に浮かび上がる、唇に唇が触れる感覚。
 あの日と少しも変わりはしないこの海辺で、今は早瀬がただ一人。夏はもうすぐそこだというのに、凍えるような寒さが彼女にまとわりついて離れない。
 揺れ続ける水面は、早瀬の心を映し出したように眩しさの無い赤にその色を変え、しばらく呼吸を止めたままの島とひそやかに語り合っていた。






 ――本来ならば島に戻って色々な所を回ったりしたいのだけど――。



 早瀬は暮れてしまった海辺を後にして、自宅に戻って電灯の明かりの下でその文面を再び見つめていた。
 たった数枚の便箋に目を通すだけで、一体何故こんなにも時間が掛かるのか。それは彼女自身にもわからなかった。ただその便箋を最後まで読み通すことに、早瀬はどこか抵抗があったのだ。
 昼までの天気から一転して、外では雨の音が鳴っていた。雨粒は島全体を楽器にでもしたように、島中の木の葉を叩いている。しかし早瀬にはそのさわさわと鳴る音の嵐が、不思議と静けさにも近しく思えた。



 ――ただ、もし僕が島に戻ったなら、島から離れていた時間を感じてしまうような気がしてしまうんだ。僕の知らない内に亡くなってしまった人だっている。そう思うと僕は切なくなる――。



 その一つ一つの文章が、一体何を言おうとしているのか。早瀬は自分の読み方があっているのか不安に思いながらも読み進めていく。だがそこから感じ取れるのは。
 早瀬は首を振る。



 ――君に会いたい――。



 ただそこに文字が書かれているだけだというのに、早瀬は目の前に彼を感じてしまう。いや、もし目の前に彼以外の魅力的な男性がいたとしても、今の彼女の様に胸をときめかせることはないだろう。
 彼女は今もまだ。


 ――だけど――。




 


 くしゃ。
 白い便箋は小気味良い音を奏で、その文面を拉げた。





 
 
 僕はそこまでで筆を止めてしまう。そして無造作に便箋を両手で丸めてしまうと、くずかごへと放り投げる。
 この『手紙』を書き上げられないことが、このところの僕をずいぶんと鬱にしていた。
「何が手紙だよ」
 街の片隅、暗い部屋で僕は呟く。
 孤独な街。そこには、人の影がいくつも存在しているのに人の姿を見つけることはできない。
 この町に住み着いて長い時間が経ったが、僕は今も終わらないホームシックのような症状に見舞われている。それはもしかしたらいつまでも終らないのかもしれない。終わりのない迷路の様にただ無為に長く、僕を人ごみの闇に追いやってしまう。
 そんな時、僕は必ずあの島を想う。かつて自分自身が何よりも愛した、厳しい自然に囲まれた島を。
 だが、僕は逃げ帰ることすらも出来はしなかった。そのことを思うと僕は絶望感に苛まれてしまう。
 僕は先程くずかごに投げ捨てた便箋をそこから拾い上げ、くしゃくしゃになった紙を広げて机に置いた。
 そして今日、突然に訪れた出会いを思い返す。街角で見つけたあの綺麗な女性の横顔を思い浮かべて、そして目の前でくしゃくしゃになってしまった過去と見比べた。
 
 
 『――だけど――』。
 

 皺だらけになった文面はそこで止まってしまったままだ。それは現実によく似ていた。
 僕は何年もの間、過去の思い出に浸ったままの自分を、その便箋の姿に重ねてしまう。
 そして……。僕は、堅く決心して再び筆をとる。
 それは過去との、情けない自分との決別だった。







 


 ――だけど、君はもうあの島にはいないんだね。三年前の夏の津波で、君は子供達と一緒に亡くなったと聞いたよ。でももしかしたら、君の体は死んでしまっているのに、僕が何年も早瀬の思い出に浸っていることで、君の優しさに縋っていることで、進むべき場所に進めていないかもしれない。
 だから。
 僕は君から、卒業する。
 僕はこれから君のいない人生を歩み始める。
 君の手にこの手紙を届けるには一体どうすればいいのかわからないけれど、心からそう誓う。
 
 今まで本当にありがとう。そして、ごめんなさい――。



「早瀬、どうしたの?」
 雨音が、少しの間止んでいた。その音の無くなった部屋の中で、早瀬は何人かの子供達に囲まれている。
「ハヤセぇ、元気出せよ」
 体を折り曲げ、彼女は静かに泣いていた。悔しさや悲しみに泣かされているのではない。ただ襲ってくる激しい感情を受け入れる為に、早瀬は泣いていた。
 しばらくの間、子供も何も言わず、雨も降らず、ただ沈黙が彼女の涙を暗い闇に浮かび上がらせていた。
 それから。
 どれだけの時間が経った後か、彼女が顔を上げると、早瀬の周りに集まっていた何人もの子供達の姿は無くなっていて、彼女は戸惑ってしまう。
 しかしすぐに気付かされる。あの子供達は、『進むべき場所』に進んでいったのだと。
 彼の手紙が、早瀬にそこへと続く道を示してくれた。そして明確に、彼女自身がもうすでに死んでいるということも。あの痛みに満ちた時間はもう彼女から遠退いてしまっていて、彼の手紙の文面だけが早瀬の心に響いていた。
 子供達は早瀬がその道に気づくのを待っていてくれたのだろう。それが今更ながら実感できた。そして何故か照れくさく感じる。
「もう、いいんだね」
 いくよ、そう一人微笑んで、彼女は消えた。
 闇と、再び降り出した夜を洗う雨だけが、その言葉を聞いていた……。








                          完






2005/10/09(Sun)18:57:17 公開 / 恋羽
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■作者からのメッセージ
 うん、特に意味はありませんが、ふと気になったので手直しをしてみました。

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