『彼と死神彼女と魔王〜完結』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:名も無き小説書き                

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前書き

 まず、はっきりさせておこう。オレは普通の高校二年生だ、別に魔法使いだとか世界を助けるために行動しているとか物の怪の類が見えるとか超能力が使えるとか実はCIAの特殊諜報部員や工作員だとか正体不明の殺し屋だとかでは断じてない。
 もう一度言おう。オレは普通の、平々凡々で普遍的中庸的な高校二年生だ。だからオレは魔法が使えるわけでもないし、そもそもこの世に存在するかどうかもわからない悪の秘密結社を壊滅させようとも思わない。辺りを見回しても見えるものは電信柱とマンションくらいで物の怪なんか見えやしないし、手を触れずに物を動かすことなんか出来はしない。もちろん他国自国の機密情報を扱ったり政府の要人を暗殺するわけでも無い。そりゃそうだ、オレは別に魔法使いだとか前述したその他もろもろではないのだから。
 オレの日常は空に浮かぶ雲のようにゆっくりと過ぎていくし、過ぎていくはずだった。大学受験があるのが気に病んだが、それは二年近く後の話である。それに第一、オレが大学に行くかどうかさえわからない有様だ、一応国立文系コースを選択したが、どうするべきだろう。
 事実オレは普通の青少年が送るべき日常を送り、オレもそれに満足していた。兄がよく読むファンタジー小説の世界にも憧れてはいたが、矢張りオレのいる世界こそがリアルであり、小説などはアンリアルに過ぎなかった。そのような世界を望むオレも確かにいたが、少なくともオレはリアルの世界に満足していた。
―――はずではあった。

                                  序章

 オレは長い石の階段を上っていた。茶色いコートにマフラーを巻いて、白い息を吐きながらオレは長い石の階段を上っていた。間違いなく気温は氷点下、コートの隙間やマフラーの合間を縫って、夕凪というには最早遅すぎる感がありすぎな冷たい風が吹き抜ける。北国の夏は割合涼しいのだが、冬はやってられない。今のオレには渡り鳥の気持ちが痛いほどわかる。
 隣にいるのは兄貴。兄貴もオレと同じく寒そうな表情をしながら、でも力強く石の階段を上っていた。全く、本当よくやると思う。こんな寒い中、初詣をするためだけにオレと兄貴は白い息を吐きながら数百段もある石の階段を上っているのだから。こんなことをするやつは本当に正真正銘の馬鹿だと思う、だけどもそんな馬鹿なことをやっているのはほかならぬオレ自身なのである。
 現在、十二月三十一日の深夜十一時半。辺りは真っ暗で、視界が悪い。それは本当に、こう、なにか人外のものでも出てきそうな、そんな雰囲気があった。高校二年にもなってお化けが怖いとはクラスの奴らが聞いたら笑うだろうが、とにかく怖いものは怖いのだ。
 兄貴曰く、この石段のずっと上にある神社はとてもご利益があって、何でも願いがかなうのだそうだ。自分の通う高校の裏山にそんなものがあること自体初耳だったが、とても嘘臭い話である。
 兄貴の思惑は解っている。そりゃもう、怖いくらいに解っている。兄貴は大学受験を控えているから、できるだけご利益のある神社に初詣に行きたいと思うのは当然だろう。センター試験の結果では、本命の大学合格は五分五分らしい。公立の大学でそこまでレベルが高いわけではない大学だが、そこまで頭がいいとはいえない兄貴だ、このような神頼みも必要なのだろう。
 別に大した意味はないのだが、困ったときに神を頼む人間は多くても、ありがたいときの神への感謝は忘れている人が多い気がする。
 神様と人間の関係がギブアンドテイクじゃないことに少しばかり神様のご立腹を懸念しつつ、途中でオレは神など信じていないことに気がついたところで兄貴がオレに呼びかけた。
「もう少しで、つくぞ」
 兄貴が多少息を切らしながら到着が近いことを知らせたそのとき、ちょうど前方に小さく色のはげた鳥居が見えた。見るからに寂れているようで、手入れもされていないのだろう、とても荒れ果てていた。本当にこんなところにご利益など存在するのだろうか。
 長かった石段を登りきり、錆びた鳥居をくぐったそのときである。
 なんと、先客がいた。
 黒のジャンパーを着た中学生かそれくらいの子供と、手をつなぐ女性。顔はいまいち解らないが、随分とオレは驚いたね。オレと兄貴以外にも、このようなところに来る人間がいるとは。
 その二人はオレたちに気がついてぺこりと会釈をする。オレと兄貴もそれに合わせて頭を下げた。もちろんだが、会話はなかった。
 オレと兄貴は十二時になったときに、除夜の鐘の音を聞きつつ賽銭箱に五円玉を投げ入れ、そしてそのまま帰路についた。五円玉を投げ入れたのは、ご縁がありますように、という意味らしい。かなり年寄りくさい迷信だったが、信じてみるのも悪くは無いだろう。
 それは今から大体四ヶ月くらい前の話。北国の寒さが堪える冬の出来事。オレはすぐに願ったことなんか忘れ去って、そのまま普通に高校生ライフを満喫するはずだった。
 だが、しかし。
 そう上手くいかないのが、人生というものである。

                                   一章

 眠かった。
 はっきりいって、眠かった。
 理由は三つほどあるだろう、一つは五月というぽかぽかの陽気のせい、もう一つは屋上いっぱいに降り注ぐ陽光のせい、最後に五、六時間目の授業が現国と歴史と言うせいだ。昼飯を食べた後だということも眠気に拍車をかけていると思われた。まぁ理由はなんにしろオレは眠たかったのである。
 今、自分がいる屋上のベンチにゆっくりと横になり、目を瞑る。こうなったらこれ以降の授業はボイコットしてやろうと心に決めた。どうせこのまま眠気を堪えて授業を受けても頭に入らないこと受けあいだったし、それならばオレはここでぐっすりと睡眠をとり、放課後を有意義に過ごした方が得だと思った。この屋上はかなり昼寝をするのにふさわしく、柔らかな日差しが気持ちいい。
 腕を組んで枕代わりに。どうせだったら女の子が膝枕でもしてくれたら良いな、なんて下らないことを考えて、オレはすぐにまどろんだ。

                                   *

「―――……い、おい、おい!」
 いつになくやかましい声が頭の上から容赦なく降り注ぎ、健やかに眠っていたオレを叩き起こす。眠ってからどれくらいたったのかは知らないが、まだオレは寝ていてかった。なので声が耳に届かないようにするべく寝返りを打とうとして、悲しきかな、ベンチの上から屋上の地面に頭から墜落した。
 ごつんという鈍い音がする。
 がばっと跳ね起き目を覚まし、そして状況を理解。ああそうだった。屋上で居眠りをしていたのだった。頭をさするとこぶが出来ている、とても痛い。ずきずきと鈍い痛みが頭に走る、頭の中で出血でもしてないだろうな。脳内出血していた場合はかなり時間がたってから病状がでてくるのだと、昔何かのテレビ番組で見た記憶がある。いや、あれは確か、友人からの話だったか。
 顔を上げると見知った顔が一つ。
「ったく、なにやってんだよ」
 呆れ果てた顔で車井がオレに言い放つ。親友のクセにいつもオレにはこんな厳しいことをいうやつだ。いや、親友だからこそ、なのかも知れない。
「なにって……眠ってただけだよ。ふぁああ……今何時だ?」
 大欠伸を一つして、オレは車井に現在時刻を聞く。またも車井は呆れ果てた顔でオレを見て、自分の左腕につけた時計をオレに見せる。短針が六を過ぎたところ、長針も同じく六の近く、つまり今の時刻は午後六時半前後。どうりで周りが暗いはずだ。
 確かオレが眠ったのが二時くらいだったので、丸まる四時間半眠っていたことになる。よくそこまで人に見つからなかったものだ、己の運の良さに少しばかり感心する。いつだったか途中で先生に見つかって怒られたこともある。あの時は確か、反省文を一週間書かされた上に特別教室の掃除を命じられた。
「俺が起こさなかったら、お前いつまで寝てたんだよ」
 車井がオレにそうぼやく。当たり前の如く表情は呆れ果てた表情である。そりゃそうだ、オレだってオレと車井の立場が反対だったらそんな表情をするだろう。
 そういえば、何で車井はこんな時間まで学校に残っていたのだろうか。行事などで遅くなったとしても普通は六時くらいまでが残る限度だろうし、第一車井は委員会にも入っていない、ついでに言えば体育祭や文化祭はまだ大分後だ。オレがそんなことを不思議に思っていると、まるで車井はそれを見透かしたように笑う。
「俺がなんで学校にいたのか、知りたいって顔だな?あぁあぁ、隠さなくても良い、お前はすぐ顔に出るからな。で、俺が学校にいた理由はってーと、作曲が思った以上に進まなくてさ。ん? 何だよその顔は。俺は軽音部の部長だぜ?」
 親指を立てて自分のことを指差し、偉そうな口調で車井は言う。オレの「同好会だろ」という言葉にも反応はしない。車井が入っている軽音同好会―――本人は軽音部と言い張るが―――は会員が車井一人なのであるから、当然の如く部になどなるわけがなく、必然的に同好会扱いだ。
 車井はドラムの類を持っていて、学校から特別に借りた元教材室で作曲や演奏の真似事などを毎日飽きずに行っている。前に二、三度尋ねたことがあるが、部屋は乱雑すぎて足の踏み場もなかった。
 床一面にはわけのわからないモジュラージャックだとかコードだとかアンプだとかが散らばっており、オレは即座に退散した覚えがある。北国にゴキブリが存在しないことが唯一の救いだった。実際食料となるものや水がなければ、例えハワイだろうが沖縄だろうゴキブリは出ないらしいのだが、そんなことはどうでも良い。
 風が吹き、オレは肌寒さから体を震わす。いくら日中は暖かいといっても、日が沈めばそりゃあ気温も下がるだろう。オレの今の格好はといえば、暖かい日が差す日中に寝たせいもあり、上は学校指定のワイシャツ一枚。こんな格好でいれば寒いに決まっている。近くに放ってあった学生服を着て、立ち上がる。
「よし、帰るか。あぁ寒い寒い」
 ズボンのポケットに両手を突っ込み、オレは屋上の扉を開く。後から車井がなにやら愚痴を漏らしながらついてくるが、オレは気にしないことにした。

                                     *

「じゃあな」
「おう」
 軽く挨拶を交わし、学校から十分ほど歩いたところでオレと車井は分かれる。どちらの家も、学校からはなかなかに遠い。オレも車井も、毎日毎日片道五十分ほどの道のりをえっちらおっちらと学校へ向っているのだ。ちなみに地下鉄で三駅乗り継いで、バスで二つの停留所を過ぎ、さらに十分ほど歩いてオレは学校へ来ている。
 十字路に差し掛かり、止まる。信号が青になるのをじっと待つ。この十字路はこの辺りで一番交通事故が多い十字路だ、通称「地獄の交差点」。月に一回という割合でここでは交通事故が起きる。死亡者がいまだに一人も出ていないことが不幸中の幸いとでもいえることだろう。
 一体何故、この交差点ではそんなにも交通事故が多いのか。ただ単に見通しが悪く交通量も多い道路なので、仕方がないことなのか。もしかしたらなにかワケありなのだろうか。一つ言っておくと、オレは神様だとか幽霊だとかそんなものを信じない性質なので、別に本気で今のセリフを言ったわけではないことを心に留めておいて欲しい。
 そんなことを考えているうちに信号が青になる。今日はオレが食事当番の日なので、食事を作るのはオレの役目なのである。
 オレは今現在、兄の家に居候している。もともと両親は共働きで忙しかったし、兄が初詣のせいかどうかは知らないが、大学に合格したときに借りたアパートからはオレの高校もそこまで遠くは無かったのでそのまま居候させてもらっているのだ。迷惑をかけていると思うが、よくよく考えてみれば食事や洗濯などは当番制だったし、確かに兄貴のバイト代で食わせてもらっているとはいえ、親からの仕送りもある。そこまで迷惑をかけているとはいえないのじゃないだろうか。近々オレもバイトをしようと考えているので、そうなったときには家賃や食費など、諸々折半になるのだろう。
「今日の夕飯、どうしようかね……」
 冷蔵庫の中身を思い出しながら夕飯のレシピを考えていると、オレの目の前がぱっと明るくなった。目が眩むが、それでも現状が理解できた。車だ、車がオレに突っ込んできたのだ。人間が車から逃げることなど出来るはずがなく、車がそう簡単に止まることも出来るはずがなく。
 車は急には止まれないとはよく言ったものである。ブレーキが鋭く軋む音が聞こえて、刹那の間をおいてオレの体は衝撃を受け、空を飛んだ。そしてコンマ数秒後には、硬いアスファルトの地面に叩きつけられていた。思ったよりも痛みは無く、人々の騒然とした声が聞こえるか聞こえないかというところで、意識が闇に飲み込まれた。
                                                                      *

 オレはゆっくりと目を覚ました。見えるのは満天の星空。気温は少し肌寒いが、これくらいならばどうってことなかった。辺りを見回す。木々と遊具が視界に映る、ここは公園だ。自分の記憶にもある、近所の公園だ。名前は確か「遊ぶべ公園」、嘘みたいに印象的な名前なのだが、このネーミングセンスはオレも学ぶところがあるのかもしれない。もちろん、個性という意味でだが。
 はっとし、やっと気がつく。オレはここで何をしていたのだろうか。というか、今まで見ていたものは夢だったのだろうか。学校の屋上で居眠りをし、車井と途中まで一緒に帰り、その後車にはねられたと思ったのは全て夢だったのだろうか。
 自分の手を見る。汗が滲んでいた。グーとパーを交互に繰り返すが、その動きにはなんら支障は見られない。そうだ、夢だったのだ。全く嫌な夢を見たものである、これは何か悪いことが怒る前兆なのだろうか。
「んなわけねぇよなぁ」
 確か外国の心理学者で、夢診断だかをしていたのはフロイトさんだっただろうか。とすると今の夢は『屋上で昼寝を下の地に車にはねられたいという無意識』を現している夢なのだろうか。有り得ない。
 頭をぼりぼりとかきむしりながら上体を起こすと、そこには見たこともない女性がいた。高校生か大学生くらいで、少なくとも社会人には見えない。爽やかな水色のフード付きパーカーと、グレーのゆったりとしたズボンをはいている。輪郭線が、後からの電灯に照らされて淡く光って見える。
 現状はよく飲み込めなかったが、幻想的だな、とは思った。
「やっと起きたね、畠山君」
 ひざに手をつき、かがんだ状態で女性はそういった。間延びした声がいつもより大きくオレの耳に届く。何故オレの名前を?というか、あなたは誰?自分が置かれているシチュエーションに疑問が尽きなかったが、ここで取り乱しても何の解決にもならないと思い、オレはもう一度頭をかきむしる。
「……あんたは、オレの質問に答えてくれるか?」
 女性の目を睨みつけ、オレは尋ねる。そのときやっと気がつくことになるが、その女性はなかなかに可愛かった。黒いロングヘアーが、深めに被ったニットの帽子から流れ出している。この世代の女性には可愛いではなく綺麗という形容をこちらだってしたいものなのだが、それでもこの女性はどうみても可愛いだった。雰囲気の違い、と言うやつなのだと思う。
 しかし、確かに女性は可愛かったが、それ以上に不思議だった。もちろん自分の名前を知っていることなど全ての要素を除外したとしても、有り余るほど不思議な印象を与えていた。それは、こう、なんというか、人間には醸し出すことの出来ない雰囲気というか、そんなものを身に纏っているようだったからなのだろうか。
「……年長者に対する口の聞き方がなってないわね……ま、いいわ、教えたげる。自分の名前を知っている理由と、私は誰かってことを。ん? そんな驚いた顔しないでよ、それくらいちょっと考えれば解るじゃない」
 けらけらと女性は笑い、顔に少しばかり笑みを残しつつ話し始めた。
 そして、オレの考えは正しいということが証明される。ただしそれはあまり良いほうにではなかった。
「君の名前を知っている理由を話すより、順番的には私が誰かってことを話した方が早いわね」
 女性は自分の右手を胸に当て、オレににじりよる。オレは少し驚いて後へ下がろうとするが、そこには椅子の背もたれがあった。
「それでは自己紹介。私は死を司る神様、死神。名前も一応あるにはあるんだけど、面倒くさいから死神のおねーさん、って呼んでね」
「……は?」
 思わず聞き返してしまう。今、最後にこの女性はなんと言った? 死神? 嘘だろ? 冗談だろ? 確かにこの人は不思議だったが、こんな不思議さはオレの望んだものではない。これではただの危ない人ではないか。
 しかし、オレのそんな疑問と動揺をよそに、女性はいたってマジメな表情をしていた。警察を呼んだほうがいいのだろうかとさえ思ってしまった。
「なに?ちゃんと聞いてなかった―――」
「いいから! ……何の神様だって? 死神?」
 子供でも言わないようなふざけたことを抜かしやがる推定二十歳前後の女性を目いっぱい睨みつけながら、オレはもう一度聞く。もしもう一度死神だとか抜かしやがったら、オレは多分、大急ぎで逃げるだろう。こんな頭のネジが数本ぶっ飛んだ人間には、最早付き合っていられない。
「ん? そうだよ、死神だよ―――ってああ! ちょっと待ってよ! 人の話は最後まで聞くもんでしょ!? 学校でそう習わなかった!?」
 あんたこそ、死神なんかにはなれないって学校で教えてもらわなかったかい? オレは名前すら知らない初対面である女性に背を向けて歩きながらそう心の中でつぶやく。もしやどこかの精神病院から逃げ出してきたのか? それとも何か麻薬の類でも摂取してしまっているのか? 若くてそれなりに美人なのに不憫なものである。いったいどんな苦労や不満から、そんなドラッグに手など出してしまったのだろう。
 全く、無駄に余計な時間を喰ってしまった。時計はポケットの中に入れているので現在時刻は不明だが、きっと八時くらいだろう。今日の夕食当番はオレなので、きっと兄貴は怒っている、早く帰らなければ。
「ちょっとまってよぉ」、そんな声が後から聞こえた。足音も聞こえるので、どうやら追いかけてきているらしい。
 追いつかれてはたまらないので、オレは早歩きをする。が、それでも女性はいまだについてこようとするので、オレは速度もほどほどに走り出した。足は特別速いというわけではないが、いまどきの女子大生―――ぱっと見た感じの推定だが―――ならばまくことは出来るだろう。
 少し走って、振り向く。後ろに女性の姿はない、あの服装は闇の中でもなかなかに目立つので、きっと追うのを諦めたのだろう。額の汗を拭ってほっと一息ついたところで、オレの視界に突如あの女性が現れた。
「そんな逃げなくたっていいじゃない、とりあえず話だけでも―――」
 爽やかなニコニコ顔で話しかけてくる女性を尻目に、オレはまたも走り出す。今度は全速力、全身全霊の力で走り出す。
 きっとあの女性はとても足が速いのだろう、だからオレに追いつくことが出来たのだろう。だが、今回は違う。全速力で走るのに加えて、なかなかに入り組んだ裏路地を通る。普通の人はこんなところを知らない、だから今度こそ、しっかりとまけるはずだ。もう一度オレは後ろを振り向き、女性の姿を確認。よし、いない。半径一メートル以内に他人の気配も感じない。
 やっと一安心できたので、オレは深呼吸をする。ばくばくなっていた心臓の鼓動が収まり、息も穏やかになっている。もう大丈夫なのだ。
「………」
「ひどいなぁもう……あれ? どうした? 固まっちゃって。おーい大丈夫かーい?」
 大丈夫などでは、断じてなかった。ブロック塀の上に座りオレに向って満面の笑みを浮かべている人物、それは紛れもなくあの女性だ。一体どうやって?自分は間違いなく全速力で走ってきたし、初めての人ならば迷ってしまうような道を幾つも通ってきた。だが、何故この女性は迷うどころかオレにピッタリとついてくることが出来るのだろうか。まさに狐に化かされたような気持ちで、呆然と立ち尽くす。
 女性はひらひらとオレの目の前で手を振って、オレの安否を気遣ってくれる。傍から見れば良い人だろうが、オレにとっては大問題だ。
 誰かオレのことを助けてください。

                                     *

 それから程なくして放心状態から目覚めたオレは、逃げ切れないことを悟っていやいやこの女性の話を聞くことにした。どういうカラクリなのかは知らないが、どんなことをしてもこの女性は俺にぴたりとついてくる、はっきり言って気味が悪い。それならばこの女性の話を聞いて、オレはすんなりと帰らせてもらう方が早いと思った。
 宗教の勧誘か、それとも新手のセールスか。内容などはどうでも良いので、早く聞き流して家に帰る準備は万端だ。
「やっと聞く気になってくれたところで、私はこれから君に全てを話します。何で君の名前を知っているのか、何で私は君に追いつくことが出来たのか、その他もろもろのことにね」
 とても気分が良さそうな様子で前口上を述べてから、女性は一度にこっと微笑み、そして続きを話し始める。眩暈がした、しかしその眩暈はこの女性の可愛さにあてられたものなのか、それとも精神疲労から来たものなのかは解らない。
「長くなるから、ちゃんと聞いてね。あと、質問は最後に一括して受けるから。まず、何で私が君の名前を知っているか。
 ちなみに私が知ってるのは君の名前だけじゃないよ、生年月日も血液型も、君だけしか知らない秘密も知ってるよ。畠山君のプロフィール、平成元年六月二十八日生まれ、血液型A型、期末テストの成績は―――っと、もういいかな。
 さて畠山君、君は起きる前に交通事故にあったよね? 君はアレを夢だと思っているのかもしれないけど、そんなことは全然ないの。というか、君は最早死んでしまってるわけなんだけどね? ……おっと、何か言いたくなるのは分かるけど、質問は最後に一括して浮けるってさっき言ったでしょ?
 もっと詳しく説明するよ。君はあの時死にました。それは間違いありません、死神の私が言うんだから。それじゃあ今の君はなんなんだっていう話しになるよね。で、そこで登場しちゃうのが、君がお正月に初詣に行ったあの神社」
 女性―――依然として変わらず、どうにも「死神のお姉さん」と呼ぶ気は起きない―――が微笑を浮かべながらオレのことを見る。教えてもいないオレの名前を知っていたように、またもオレが神社に行ったことを知っていたがもう驚かない。オレの誕生日などを知っていたことも、もう驚かない。きっと今ならば、自分に途方もない額の遺産が転がり込んできただとか車井の奴がメジャーデビューを果たしたと聞いたとしても、「ふ〜ん、そうなんだ」とさらりと言ってのける自信があった。
 女性は続ける。
「あの神社はね、うちの上司―――あ、神様と閻魔様のことなんだけどね、その二人がお気に入りの神社でね。“一月一日の深夜零時プラマイ五分以内に五円玉をいれ、さらに願い事を頼んだ人間の願いを叶える”ってことになっちゃってるのよ、冗談というか遊び交じりでね。で、もう解ったでしょ? 私の言っていることの意味が」
 あ〜。神様と閻魔様まで出てきましたか。
 ひじを自分の右足に載せて頬杖をつき、少しばかり不機嫌な様子で女性がつぶやく。「全く、あの二人も現世で遊ばないでほしいわよねぇ」と。さらに続けて、「たまに気まぐれで、一月一日に来てない願い事も叶えちゃうし……」などなど。死神の世界もいろいろと大変だなと思ったが、すぐにその考えを消去する。女性が死神だということを信じたわけではなかったし、そんな簡単に信じることなど出来るはずもなかったからだ。第一オレは無神論者だ。
 だが、簡単に信じることは出来なくとも、信じ込まされるだけの説得力はあった。嘘だろ? そうやって何回も自問するが、帰ってくる自答は全て同じ。嘘だと思えるものなら思いたいという答えだった。
 ああそうさ、オレにはもう解っている、目の前にいる死神と名乗る女性の言っていることの意味が。オレは確かにあの日あの時、あの神社に五円玉を入れた。そうだ、そしてオレは願い事をしたんだ、『人生に悔いを残したくない』という願い事を。半分ヤケになりながら、あの日のことを思い出した。兄に連れられていったことを、いまさらながらに後悔してしまう。
 オレは大きく息を吐き出す。確かに人生に悔いを残したくないとは願ったが、まさかそんな願い事が本当になるなんて思っても見なかった。第一あんな願いを本当にかなえて欲しかったわけではない、ただの遊び心でやったことなのだ。それがこんな結果につながるとは、全く思っても見なかった。
 まるで小学生向けのライトノベルの世界だ、もしやと思って頬をつねるが効果など何もない、ただオレの頬が痛くなっただけだ。
 そりゃまぁオレは兄が読む小説の世界に憧れていたさ。魔法使いになって魔法が使いたいと思ったこともあったし、悪の秘密結社を叩き潰すために悪者と戦いたいと思ったこともあった。世界を、自分の大切な人を、自分の命をかけて護りたいと思っていた。だけど絶対、そんなのは現実世界には有り得ないし、今の時代そんな夢を見ていても良いことなんか一つもない。それにオレは魔法の使い方も悪の秘密結社のアジトも知らない。
 だが。
 だが、今のオレの状況はどうだ? オレの今いる世界は現実だ、リアルだ。それなのに目の前に突きつけられている現状は非現実、アンリアルの世界じゃないのだろうか。信じられるかどうかではない、これは確かに信じ難い出来事だが、それでも信じなければならない出来事なのだ。と、オレは思う。ひどく思う。いくらプライバシー流出がどうのこうの言われている現代だとしても、あそこまでオレのプロフィールを知っていたりするのは確かに異常だし、お姉さんの行動も間違いなく不可思議だ。あそこまでやられたら、誰だって納得せざるを得ないだろう。
 もう一度大きく息を吐く。
「……解った、アンタの言ってること、信じ―――」
「え!? ホント!? 本当に私が死神だって理解してくれたの!?」
 オレの言葉が言い終わるか言い終わらないかといううちに、女性は間髪いれずオレの手を握って飛び跳ねる。よほど自分が死神だと信じてもらえたことが嬉しいらしいが、オレとしてはそれどころではない。何せ女性が両手をしっかりと握ってぴょんぴょん飛び跳ねるものだから、オレは前後に振られてすっかりと疲れてしまった。
 それに気がついた女性が「あ、大丈夫?」と声をかけてくれるが、時すでに遅し。俺は疲れて全然大丈夫などでは無くなってしまった。それよりも前から大丈夫じゃないほどに疲れていた気がするが。
 正直、オレは疲れていた。肉体的にも疲れてはいたが、それよりも断然精神的に疲れていた。いきなり自分の前に死神と名乗る女性が現れ、通常知りえないことを知っていたのだ、もちろん有り得ないという確率が九十九パーセントをはるかに上回り、理論上限界値さえも超えようとしていたのだが、それでもなぜかオレはこの女性が嘘をついているとは到底思えなかった。それは初めてであったときに感じた不思議な、人間には醸し出せない空気を身に纏っていたからか。それとも矢張り、いくら逃げてもぴたりとオレについてくることの出来る常人離れした行動のせいか。
 女性は小声で「そうかそうか、よーし」とつぶやいていたが、急にオレのほうへ振り返って自慢げに言う。
「さて、これからが質問タイムよ。何でも聞いてね、質問いっぱいあるだろうから」
 確かにたくさん疑問はある。両手の指を使って数えられないほどの疑問がある。もしかしたら足の指まで使ってしまうかもしれない。
 オレは別に好奇心が強いと言うわけではない。少なくとも疑問は解決させないと気が済まないという性格ではない。だが流石にこのような不可思議な現象や疑問をそのままにしておくことなど出来るはずはなかった。これは最早性格でどうにかできるレベルの話などではない。
「解った。じゃあまず、なんでアンタは―――」
「死神のおねーさん」
 どうにも「アンタ」と呼ばれるのは嫌らしい。確かにオレのほうが年下だから敬語を使う必要はあるだろうし、「アンタ」という呼び方もそれなりに問題があるのだろうが、それでも「死神のお姉さん」と呼ぶのはオレに抵抗があった。
 とはいえ、機嫌を損ねた場合最悪こちらの疑問に答えてくれないということになるかもしれないので、オレは渋々「お姉さん」と呼ぶ。
「……なんでお姉さんは、オレの名前を知ってるんだ? 『死神だ』っていうのは理由にならないぜ」
「そんなこと解ってるわよ」
 少し不機嫌そうな声が返ってくる。いらぬ忠告をしてしまったようだ、これから少し顔色を伺って話すべきだろうか。
「人間にはね、どんな人でも予め死んじゃう日時と場所は決まってるの、それはどんな人でもね。君の死亡日時は君が生まれたときにもう決まってるし、それは全部こっち側が管理してるの」
 お姉さんは話をいったん切って、こっち側というのはお姉さんが住んでいる世界、つまりオレたちがいうあの世だということを教えてくれた。
「で、私たちが管理してるのは死亡日時だけじゃなくて、君の人生全部を管理してるの。死亡日時を管理するのが地獄で、人生を管理しているのが天国なんだけどね。で、そういうわけだから、自然に名前とか、そういう事項は解るのよ。
 畠山君、君みたいのはとても珍しいんだよ、一回死んだのに特例でまた生き返る人間なんて」
「そ、そうだ、オレが本当に死んだんだとしたら、何でオレは生き返ったんだ?」
 オレを見ながら苦笑するお姉さんに対し、オレはストップをかける。そうだ、今でも信じられないが、オレが死んだとして何故オレは生き返ることが出来たのだろうか。特例というのはどういうことか解らなかったが、質問すれば答えは返ってくるだろう。
 少なくともオレがした願い事が、オレが生き返った事の原因であることは確かである。
「あぁ、そのことね。そうそうそれが一番重要なことなんだけどね」
 一回お姉さんは言葉を切って、そして急に真剣な表情になった。今までの表情とは違う顔で、真剣そのものだ。あまりにも真剣すぎるので、何故かオレ自身も真剣になってしまう。いやまぁ、自分のことだからそっちのほうがいいのかもしれないけどさ。
 一秒ほど間が空いて、不自然なほど暗く静かだった場に声が響いた。
「君の願い事、『悔いのない人生を送りたい』を叶えることを、神様と閻魔様は決めました。……理由はさっきもいったよね? ですがしかし、君は五月十二日―――つまり今日、死ぬことが予め決まっていたのです。そこで二人は決めました、君が一回死んでから、もう一度生き返らせることに。
 もちろん、ずっとというわけじゃないよ。これから君は一週間だけ生き返るの、そしてその一週間のうちに、君がしたかったこととかを全部済ませちゃってください。そのための一週間だからね? まぁ一応カウントされるのは明日からだから、今日も含めると八日になるんだけどね。どうでもいいか。
 人の人生も変えられるには変えられるんだけど、流石に君の言う悔いのない人生っていうのは無理なのよ。人生山あり谷あり、だからね。これで今までの話の概要、解った?」
 オレはゆっくりとお姉さんが言った言葉を心の中で反復する。たっぷり一秒ほど考えた末に、オレは一つの答えをだした。
 解らねぇよ! という答えである。
 実際問題、解った? と言われても困るのだ。いきなりターニングポイント的な話がいくつも飛び出して、オレはどうにもついていくことが出来なかった。それでもさらにゆっくりと、お姉さんが言った言葉をもう一度頭の中で一つずつ咀嚼し、理解しようと試みた結果、どうにか全ての話が一つにまとまった。
 まず、オレは生き返った、と。それで、その期間は一週間で、その間にしたかったことをしろと。
 で、なんでオレがそんなことになったかと言うと、オレがあの神社に願い事をしたからだ、と。
 本当にどこからどう見ても嘘っぽい話だ。これがドッキリでした、とかいう方がまだ現実的だろう。しかしオレの脳裏には、いまだオレに向って突っ込んでくる車の映像が。オーケー、わかった、認めよう。これは、現実だ。
 現実逃避を諦めたところでオレは改めてお姉さんの格好を見る。どこからどう見ても今風の若者だ、角とか羽も生えてないみたいだし、全く他の人間と見分けがつかない。どうやら漫画の中の死神は嘘っぱちと言うことらしい。お姉さんを下から上まで見た後、オレは一人で意味もなく納得する。
「……解りました、解りましたよ。……ってか、アンタ―――お姉さんは死神っぽくなさすぎだろ」
 冷たい視線を投げかけてきたお姉さんに対し、オレは即座に呼び方を変える。あの視線にはマジで殺意がこめられていたが、すぐにその視線も元に戻り、お姉さんは自分の服の端をつまんでひらひらとしてみせる。
「『死神だったら普通は鎌とか持ってるんじゃないか』とかそんなところでしょ、考えてるのは。別になれるんだけどね、そんな格好にも」
 言うが早いかお姉さんの格好がぱっと光り、一瞬のうちに死神らしくなった。いや、そんな言い方は本当は失礼なんだろうけど、オレが今まで想像してきた死神とピッタリのイメージだった。
 黒いローブと大きな鎌、死神たる由縁とも言えなくもない二つの装備、それをお姉さんは身につけていた。あっという間にだ。死神だから出来るのだろうが、こんな力がオレに備わっていれば着替えは随分と楽になるだろう。
「これでオーケー?」と笑ってオレに鎌を向けてくるお姉さんは、とても怖い。自己紹介で死神と答えるだけはある。貫禄と言うか、雰囲気がそうなのだ。いや、それにしても、さっきまでは逃げようとしていた相手が目の前にいるというのもなんだか不思議な感じがした。
 こんなところを人に見られたなら、一体どんな風に思われるだろうか。なにかの撮影だと思ってくれれば幸いだったが、ここまで遅いとどうだろう。
 と、そこで気がつき、腕時計を見る。時刻は、すでに十時を回っていた。これはヤバイ、とてもヤバイ。多分兄は怒っているだろう、ものすごく激怒しているだろう。きっと鬼のような形相で佇んでいるだろう。基本的に兄は放任主義だが、今回ばかりはどうにもいかなさそうだ、連絡もしていないのでいつ警察に電話してもおかしくはない時刻なのだ。
「お姉さん!」オレは慌てて叫ぶ。その声に驚いたのか、お姉さんも慌てて「え? え?なに?」と早口で聞き返す。だからオレはこう答えた、「さようなら!」と

                                     *

 オレはとても疲れていた。オレが帰るなり兄がいきなり説教をしだしたからだ、あれはまさに開口一番だった。内容はと言えば、結局「こんな時間まで何してたんだ!」とかそういう感じのセリフが延々と続く……かと思いきや、実際はそうでもなかった。というか、説教すらされてはいない。オレがびくびくと怯えて家に帰ったとき、そこに兄の姿は無かったからだ、代わりに一つの書置きがテーブルの上にカップラーメンと一緒においてあった。
「今日合コンあるから」
 それだけで兄の表情が脳裏に浮かぶほどの文字が、そこにはあった。たった八文字でオレにことの全てを理解させた兄と、その兄が書いた文字のことを素直にオレは褒めるべきなのだろうか。
 つまり、兄は合同コンパ―――とどのつまりは合コンにいった。多分日付が変わらないと帰ってこないだろう。なんだ、こんなに急ぐことは無かったのか、オレは重い足をひきずり荒い息を吐き出しながら座布団の上に座り込む。はっきり言おう、我が家にはソファなどと言う豪華なものなど存在しない。兄貴の古書店でのバイト代と親の仕送り数万円で、二人が暮らしていくにはそんなものを買う余裕など無い。さらにいっそうバイトをする決意が固まったところで、テーブルの上にあるカップラーメンが目に入った。
「ったく、いきなりそんなこと言うなっつーの」
 ぼやきながら立ち上がる。夕食は食べているわけが無かったので、テーブルの上にあるカップラーメンをつかみ、左手のみを使用してフタを開ける。右手はすぐそばにあるガスコンロのつまみに。慣れた手つきだ、鮮やかに、そして軽やかに、オレは鼻歌なんかを歌ってみたりしながら火をつける。
 左手でペリリとフタを半分ほどはがして調味料を投入。そしてオレはそのままやかんに手を伸ばした。大体カップラーメン一つ分の水の量を加減して水をいれる、ここがコツだ。出来るだけ水の量は少なくした方が沸きが早いが、少なすぎると水の量が足りない、その加減がかなり難しい。オレは水の量をマスターするのに何回もかかった。
「あ、私の分もお願い」
「ん?何が良い?」
「じゃあ『麺・王』で。無ければなんでもいいから」
「解った」
 水の量を二人分に変更し、戸棚から『麺・王』を取り出す。これも同じようにフタを半分ほどはがし、調味料を入れる。やかんに入れたお湯が沸くのを数分待ち、その間オレは暇なので明日の時間割のことでも考えていた。
 やかんにふと目をやると、もう白い湯気がやかんの口から立ち上っていた。オレは火を消し、カップラーメンのなかにタパタパとお湯を注いでいく。湯気が立ち上りかぐわしい香り、ちょうど二つ目のラーメンにお湯を注ぎ終わったところでやかんのお湯も無くなる。量はぴったりだ。
 アイロンのようにやかんをフタの上に載せ、接着完了。こうすることによってカップのふちが少量とけだし、フタとくっついて中の熱気が逃げ出さなくなるのだ。ある意味裏技である。
「ほい。それ確か四分だった気がする」
「うん、知ってる。結構食べてるから」
 ぱきんと割り箸を綺麗に真っ二つにしながら、お姉さんが嬉々とした表情で言う。いつの間にか服装は最初に出会ったときの服装に戻っていた。
「……って、なんでアンタ―――」
「死神のおねーさん」
「……お姉さんがオレの家に来て普通にラーメン食おうとしてるんだよ!」
 殺気が限りないほどにこめられた視線に負け、呼称を訂正しながらもオレはお姉さんの存在にツッコミを入れる。お姉さんはそれでも全く気にしない様子で、早速ラーメンに取り掛かっていた。まず間違いなく四分は経過していないはずなのだが、別に人の好みをとやかく言うつもりは無い。
「ふぁ、ふぉふぇん。ひょっほふぁっへへ」
 多分「あ、ごめん。ちょっと待ってて」という訳になるのだろう。お姉さんはラーメンを盛大な音を立てて啜りながらオレを上目遣いに見る。少し待っていたがお姉さんは箸を休める素振りも見せずにラーメンを啜り続けている。ラーメンが伸びてしまうと困るので、オレも仕方がなしに自分のラーメンに取り掛かった。ちなみにオレは塩、お姉さんは醤油味だ。
「……」
「……」
 二人とも無言でラーメンを啜り続ける。聞こえるのはズズズという麺を啜る音と、スープを飲む音の二つきりだ。
 ある意味これは素晴らしいと言うか、他の追随を許さないくらいに珍しいシチュエーションだと思う。しんと静まり返った部屋の一室で、無言でラーメンを啜り続ける二人。片方の女性はなかなかに美人で、こともあろうに死神なのだ、人外な存在なのだ。これの上を行くシチュエーションは早々見つかるものでも思いつくものでもない。
 オレがラーメンを食べ終わるとすぐにお姉さんも食べ終わる。そしてどこから取り出したのか―――多分先ほどのローブや鎌を出した方法と同じなのだろうが、五、六時間目を平気でサボるオレには良くわからなかった―――ハンカチで自分の口の周りを拭き、そしてようやく口を開いた。
「ふいー、ごちそうさまでしたーっと」
 手を合わせて拝むような格好をする。律儀である。
「で、何で私がここにいるか、だっけ?」
 うお、いきなりそっちの話しかい。オレは少し言葉に詰まりながらも「ああ」と返事を返す。途中でお姉さんがラーメンカップの処理に困っていたが、オレにとってはそんなことどうでも良いので「そこに置いといて」と素っ気無く言った。
「そのことだけど、まだ話すことがあるのに君がいっちゃったわけね。だからこうして追いついてきたの。空間歪曲使ってね」
 空間歪曲? オレが反射的に聞くと、お姉さんは笑いながら「っと、人間は知らないんだっけ、不便ねぇ」と言ってそれの説明を行ってくれた。なにやら説明に使うらしいので紙も一枚用意し、それをテーブルの上に置く。
「まず、人間がある地点からある地点へ移動するとするでしょ?」
 紙の対角線上にある角を指差して、お姉さんがオレに言う。オレは素直に頷いた。
「例えば君がこっちの角からあっちの角まで移動するとします。その場合、君はどうやって移動するのが一番早く着くと思う? もちろん途中には何もないと考えてね、直線距離で、どれが一番早いか」
 馬鹿にしないで欲しい、いくら授業をボイコットして屋上で寝ていようとも、オレは曲がりなりにも高校二年生なのだ、そんな簡単な問題考えるまでも無い。もちろん一番早く着くのは、角から角へと真っ直ぐ進むコースだ。
 お姉さんは「ごめんごめん」と笑いながら謝り、「うん、そうだよね。でも―――」と続けた。
「―――でも、空間歪曲って言うのはそれとちょっと違うの」少しばかりオレに微笑みかけながら、そういってお姉さんは紙を折り曲げ角と角をくっつけた。
「こういうこと」
 どういうことだよおい! 全くワケがわかんねぇよ!
 いや、流石にそんなことは言わなかったけど、オレの気持ちがそれと似たような位置にあったことは確かだ。お姉さんがした行動に説明補足がついておらず、もともと意味がいまいち解りかねていたオレには何がなんだかさっぱり、だったからだ。
 紙を曲げて角と角をくっつける。この行為と空間歪曲だかにどういう接点があるのか聞きたかったが、オレが聞くよりも早くお姉さんが説明を始めた、これで一安心である。このままオレが話に取り残されることはなさそうだ。
「つまり、根本的に違うの、君達の移動方法とは。私たちが動くんじゃなくて、空間を歪ませてその空間に私たちが飛び込むの。……意味、解る?」
 すいません、全く解りません。
 何回も角と角をくっつけたり離したりしているお姉さんに向って、オレは心の中で謝る。事実話の内容が高度すぎて、オレには全くわからない。
「例えば、今までの出来事を例に取ると、ここがさっきまでいたところ、ここが君の家ね」
 お姉さんはつつつと指を紙面上に滑らせ、両角を指差す。そしてその指が角でいったん止まる。
「君は家に走って帰ります」
 止まっていた指が動き出し、もう一度紙面上を滑ってもう一方の角へ。お姉さんは「これが君の移動方法」と言って、それから「次は私の空間歪曲」といって指を元の角へ戻す。
「君が家に帰る間に―――」
 そういってまた紙面上で先ほどと同じ動きをする。そして指が紙の真ん中辺りで止まり、今度はテーブル上にある紙の両角を掴んで先ほどの空間歪曲だかの説明に使ったようにおり曲げ、くっつけた。
「こうする」。にやっと笑いながらお姉さんは言った。
 やっとのことで全内容の半分弱くらいは理解できたオレは、一度お姉さんに確認を取る。つまり、その空間歪曲とやらは、空間と空間を捻じ曲げくっつけ、そして移動距離をほぼゼロに等しくしてしまうと考えてもいいのか、と。
 お姉さんは「まぁそんなとこね」と頷いた。
 いったん話にキリがついたところで、オレはカップラーメンを台所まで持っていく。お姉さんも立ち上がって、オレについて台所にカップラーメンを置いた。
 それから座布団に座りなおしたオレたちはテーブルをはさんで向かい合う。お姉さん曰く、話はまだ終わっていないらしいのだ。
 こほん、と咳払いを一つして、お姉さんはゆっくりと話し始める。
「君が置かれている状況はもう話したよね? 質問はない?」
 お姉さんの言葉は続かず、いったん間が空いたのでオレは首を縦に振る。そんなオレを見てお姉さんは次の話題を話し始めた。
「じゃあ、次は禁則事項とその他の付加事項について説明するよ。これ説明する前に君がいなくなっちゃったからさ。……あ、いいって、そんな気にしなくて。じゃああまずは禁則事項の説明に入るよ?
 君は一週間だけ生き返ったわけだけど、その中にも禁則事項はしっかりとあるの。それの代表的なのが、犯罪を犯すなってやつなんだけどね。流石に刑法第何条と民法第何条を犯したらいけませんって言うのは無理だから、大雑把に、本当に大雑把に説明するよ」
 そう前置きをしてから、ご丁寧にも空間歪曲の理解に戸惑っていたオレにもわかるような、本当に大雑把で簡潔な説明をしてくださった。つまり「大罪を犯すな」。わお、解り易い。解り易いにもほどがあるね。
「もうちょっと詳しく言えば、人を殺すだとか物を盗むだとか、そういう罪が重い犯罪のことらしいけどね。大罪じゃなくても万引きも駄目みたいだし、あっ、あとはえっちな本とかも買ったら駄目だからね。喧嘩はいいみたいだけど、どういう基準なんだろうね、これ?」
 いつのまにか手にしていた一枚のぺら紙をみながら、お姉さんがオレに忠告する。きっとその紙に「オレが犯してはならない犯罪」が書かれているのだろう、いや、そりゃ犯罪は誰でも犯しちゃ駄目だけどさ。
 オレはお姉さんが読んでいる紙を取り上げ、「後で見ておきます」といって足元に置く。このままのペースで話を続けられると日付が変わってしまうと思ったからだ。そうすると明日の起床にも支障をきたすし、何より兄貴が帰ってきてしまう。いや、兄貴のことだ、きっと泥酔常態で帰ってくるだろうから、そんな心配は杞憂に終わるかもしれなかったが。
「他には?」
 何か文句や不満を言われないうちにオレは質問した。説明を中断させられたのが悔しかったのかお姉さんは低い唸り声を立てていたが、オレの質問によってすぐに元の表情に戻って新たな説明をし始めた。よっぽど説明が好きらしい。
「えっと、後は……そうそう、私が君の引渡し人になったから、この書類にサインして。判子が無ければ拇印でも良いよ」
 またもお姉さんはどこから出したのか解らない一枚の紙をオレの目の前に差し出す。紙にはいろいろな事が書かれており、お姉さんが書いたと思われる意外にも丸っこくない字もいくつか点在していた。
 紙に書かれている内容は、大体大まかに説明するとこのようなものであった。

 一)担当の死神は、責任を持って対象の魂を連行する。
 二)一を行う日程は、明日五月十二日の一週間後である同月十九日の午後七時十分であ
   る。
 三)一を行うに当たって、担当の死神は対象に概要の全てとその他の制約等を教えなけ
   ればいけない。

 重要だと感じられたのはこの三つくらいで、後はオレにはよく分からない内容の文だった。名前記入欄にはすでにオレの名前が見事な達筆で書かれており、あとは印を押すだけとなっていた。ちなみに目の前には、満面の笑みで朱肉を差し出しているお姉さんが。うーん、どうしたものだろう。
 この文章の有効性を六大学の法学部を目指しているクラスメイトに聞いてみたかったが、お姉さんたちの世界でこっちの法律が通用するわけが無いだろうと思い直す。第一、そんなことをしている暇はなさそうだ。
 オレは半分無理やり朱肉に親指を押し付け、名前記入欄の隣にある印と書かれた丸に向って親指を置いた。
「よし。これで全部おしまい。それじゃあね」
 お姉さんは座布団から立ち上がり、オレから今しがた拇印を押したばかりの紙を受け取って微笑んだ。矢張りどこからどうみてもこの人は死神に見えなかった。唐突に自分がなにか悪いセールスに騙されているような気さえしてきて、お姉さんの腕に抱えられた紙を取ろうとしてお姉さんはすっと消えてしまった。きっとこれが空間歪曲とか言う奴なのだろう。
「言い忘れてたけど、君がまた交通事故とかで死んじゃうことは無いからね。安心して良いよ」
 オレ一人しかいないはずの部屋のどこからかそんな声が聞こえてきて、オレは一瞬びくりと体を震わす。が、すぐにその声の主があのお姉さんだということが解って聞き返す。全く、本当にオレが今いる世界は現実なのだろうか。もう頬をつねるのは嫌なのでそんなことはしないが、ストレスで胃に穴が開きそうだ。
「何でだ?」
「それじゃあ生き返った意味が無くなっちゃうでしょ」
「なるほど」
 オレは至極マジメに納得し、それから窓を開けて月を見てみた。だけど今日は曇っていたので、月はおろか星の一つも見えない。「曇りかよ」、ぼやくが返事は無い。
 畠山良介。映画研究部所属。身長百七十五センチ、体重六十三キロ。座右の銘は「奇想天外」。好きなものは小説と漫画、嫌いなものは作文とキュウリ。成績の平均はオール三でルックスは可もなく不可もなく、彼女いない暦は年齢とイコール。
 そして現在、仮の命を取得中。
「一週間の命、か」
 矢張り、どの道結局返事はなかった。                      

                                  二章

 オレの目の前では、先生が力強く板書していた。後二、三年で定年になってしまう、六十くらいの先生だ。黒板には『祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり』などと書かれていた。中学校のときにも習った気がとてもして止まないのだが、これ以上考えても仕方がないので意識を限りなく向こうの世界に近づけつつ、オレはノートに先生の書いた文字を書き写す。意味?そんなもん知ったこっちゃない。それにオレは祇園精舎の鐘の音を聞いたことも、そもそも祇園精舎を見たことすらない。第一諸行無常の響きってどんな響きだよと心の中で一人虚しくツッコミを入れてみたところで、先生の持っていた閻魔帳の角がオレの脳天を直撃した。
 オレは確か、一度死んでいるはずだ。あのお姉さんがそういった。オレの脳裏には車が自分自身に突っ込んでくる光景が残っている。夢などではないことを悟ってはいたが、オレはあまりの痛みに危うく三途の川を渡りそうになってしまうところだった。あの死神のお姉さんはオレが事故で死ぬことはないといっていたが、これは事故のうちに入るのだろうか。
「畠山、お前は寝てるのか起きてるのかはっきりしろ。最前列の席で堂々と授業を眠りながら受けるやつは、俺の三十年以上の教師生活の中でもお前ぐらいだ。あと、もし眠っているんだとしたら目を閉じてくれ」
 教室中がどっと笑いの渦に包まれ、オレは少しだけ赤面した。

                                     *

「めっずらしいなぁ! お前が部室来るなんて。前は『こんな汚い部屋、一秒だっていたくない』なんつってたクセによ」
 オレの目の前には、笑いながら部室棟にある元教材室であった部室の扉を開いている車井がいた。残りの一週間をどうやって生きようか考えてみても、上手い生き方が存在しないと言うのが本音のところだったからだ。今考えてみればオレにはこれといってしたいことなど無かったので、悔いをすっきり綺麗に無くすなどということは出来るはずが無かったのだ、なんせその悔いが無いのだから。
 どうせすることが無いんだったら、久しぶりに車井の部室へ行って車井の作曲活動にエールを送ってやろう!と意気込んだのが六時限目が終わった五分前、反応はさっきのものだった。
「まぁ別に良いけどよ。もう少しで出来そうなんだよなぁ、オレの第一作目。見てろよ、これでメジャーデビューしてやるからなぁ」
 夢があると言うことはいいことだ。オレは車井を見ながらそう思った。それがかなうかどうかは別物として。
 部屋を入ってすぐのところにあったエレキギターを抱えあげ、アンプのスイッチを入れて車井はかき鳴らす。ぎゅーんと思ったよりも低い音がして、エレキギターが挙げたうなりはオレの鼓膜を刺激した。
「見学は良いんだけどさ」。車井は続けた。
「お前も部活に入ってるだろうが。そっちはどうしたよ、そっちは……おい!勝手にギターに触るな!」
 オレはギターを抱えていた手を渋々引っ込めると、今度はスティックを手にとってドラムをぼこぼこと叩いてみた。スネアを連打しクラッシュシンバルを思い切り叩く。そうするとまたも車井が「うるせーぞ!」と一言。お前のほうがうるせーぞと言ってやろうかとも思ったが、見学に来ている身でそんなことを言うのは憚られたので、オレは無言でスティックを脇に置いた。それに事実うるさかった。
「部活ねぇ。ほぼ強制的に入部させられたに等しい部活に、そんな行きたいとも思わないんだが」
「ただ単にお前が色気に釣られただけだろうが」
 車井が言ってほしくないことをズバリという。確かにオレは部活に入っているが、それはなにも、気持ちのいい汗を流したいとか部活動に青春をささげたいというわけでは断じてない。あまり自身の口からは恥ずかしくて言いたくはないのだが、入部動機は先輩目当てという不純なものだった。
 あれはオレがここに入学して一週間がたったころで、ついでに車井が軽音部が無いということに絶望しつつも、新たに軽音部を設立することに意欲を燃やし始めたころだったと思う。ていうか、高校案内で部活動くらい確認しろよな。
『君、映画部に入らない?』
『入ります』
 そんな漫画みたいなやり取りをオレはして、今現在もその部活、映画部―――正確に言うと映画研究部なのだが―――に籍を置いている。ちなみに、オレは映画が特別好きというわけでもなければ特別なスキルを持っているというわけでもないということを、よく覚えておいてほしい。それなのになんで映画部に入ろうと思ったかというと、それはひとえに先輩がメチャクチャ可愛かったからだ。先輩は映画部というオタクっぽい部活にもかかわらず―――本当に映画好きな人が聞いたら怒り狂いそうなセリフではあるが―――下手なアイドルよりもアイドルらしかった。ただし趣味がゲームと言う点を除いては、だ。これが不純な動機、車井に言わせれば色気に釣られたのである。
 もちろんこれは威張れるものでは到底無い。それはオレもよくわかっている。その証拠に車井以外には入部動機は友達にも兄貴にも言っていない。兄貴には目下「やっぱり青春といったら創作活動でしょ! そして創作活動といったら、娯楽の王様映画! これっきゃないね!」とか何とか言って誤魔化している。
 そんな不純な動機で興味のない部活に入ったものだから、入部から早数週目にして部活動に出る気など失せていた。月に一回や二回暇なときは顔を出すくらいで、まさに幽霊部員だった。
 だが、幻滅しないでほしい。オレだけが不真面目と思われるのも嫌なので、この際映画部の全てを暴露してしまおう。
 まず、部員はその可愛い先輩とオレを含めて、五名。生徒手帳には、「同好会が部になるには五名以上の人員が必要である」と見事にハッキリ明記されているので、つまりこれが部が部であるための最低人数なのだ。なぜここまで人数が少ないのかと聞かれれば、それは可愛い先輩こと映画部部長が次々と追い出しているからに他ならない。先輩はいたって純粋な動機で映画部に入ってくる入部希望者を、「駄目」の一言であっさりと断ってしまうのだ。
 先輩は昔、オレに言った。「私の神聖なる部室が狭くなったら嫌だもん。だからできるだけこの部室を使う人は少なくしたいの。だけどさ、同好会だと部室と部費がもらえないじゃない?」
 部室と堂々と言っているのに、なぜかその前に「私の」という文節がついているあたりが流石である。何がどう流石かは、オレにも全く持ってわからないが。というか、部室に初代ファミコンからプレステ2までの幅広い世代のゲーム機器を持ち込むのはいかがなものだろうか。ネオジオやバーチャルボーイまであるぜ。
 まぁ早い話、先輩は静かにゲームができる部屋すらあればいいのだ。聞くところによると先輩の家はとても厳しいらしく、ゲームなどご法度らしい。同情したくはなるが、部費を全てゲーム代につぎ込み、映画などここ二年ほどひとつも製作したことのない、看板だけの映画部に学校が部費をいつまで出してくれるのかも不思議でしょうがない。
 ちなみにオレと先輩を除く残りの三人も、オレと同じく数合わせのようなやつらである。顔は一度も見たことがない。
「いいじゃねぇか。青春だよ、青春。出会いに恋にスポーツに。最高だろ」
 車井は呆れ返ってしまったのか、嘲笑うような笑みを見せた後にもう一度、エレキギターをかき鳴らした。
 オレは半分仕方がなく、車井に別れを告げた。
 明日は、そうだ。久しぶりに映画部にでも顔を出してみよう、きっと良い目の保養になるだろうからな。

                                      *

「ただいま」
 誰もいるわけのない家の扉を開きつつ、オレはほぼ条件反射的にそう呟いた。兄貴はバイトで六時過ぎにならないと帰ってこない、今の時刻は夕方の五時だ。残りの一時間をどうやって凌ごうかと考えようとしたところで、なぜか「おかえり」と言う声が返ってきた。驚いて玄関をみるが、靴はオレのものしかない。兄貴の靴はやはり無かった。となると、いったい誰だ?
 両親だと言うことも考えらなくもなかったが、さすがに声が違いすぎた。今の声はどう考えてももっと若い声だ、二十歳くらいの、しかも女性の声。オレの母親は四十後半なので、もちろん違う。それに何故靴が無いのだろうか。
 強盗かとも思ったが、冷静に考えてみれば強盗が「おかえり」などとオレを出迎えてくれるわけがないので、強盗も違う。だとしたらいったい誰だ?誰にしても不法侵入は免れないような気がするが。
 勇気を出して居間への扉を開くと―――
「遅かったね。今日ってなんかあったっけ?」
 膝より少し下くらいの長さの白いプリーツスカートをはき、同じく白いシャツとブラウスを身に着けた、全身真っ白な『あの』死神のお姉さんが、そこにはいた。よく見ればスカートから青いジーンズのすそが見えているので、下にはジーンズをはいているのだろう。
 たっぷり一秒間直立不動の姿勢で硬直した後、オレはお姉さんに「なにしてるんですか?」と聞いてみた。すると、このような答えが返ってきた。
「暇だったから寄ってみたの。あ?この服?どう、似合うでしょ。この間お給料日だったからさぁ、買ってみたんだ」
 聞いてもいないことすら答えてくれるお姉さんは、まさに笑顔だった。まるで週刊誌の表紙を飾ってもいいようなレベルである。顔もなかなかにいいから、適役と言えば適役だろう。今度勧めてみるべきだろうか。
 死神も給料をもらっていると言う世紀の大発見を全く持って無視しつつ、オレは一番問題視していることを聞いてみた。
「暇だってことは……帰る予定とかは……」
「んにゃ。適当にくつろいでから帰るよ、お構いなく」
「いや、兄貴が帰ってくるんだけど………」
「大丈夫だよ、適当に言い訳作っとくから。本当にもしものときは記憶抹消しちゃえばいいしね」
 簡単に恐ろしいことをお姉さんは言って、けらけらと笑った。もう少し厳格そうなおじさんとか、いかにもいかにもな白髪白髭の老人が今のセリフを言ったならば、オレもそんなに不安になることは無かっただろう。だが、目の前にいるのはどこからどうみてもただの天然な女子大生だ、死神と言っているが、その前に『自称』の二文字が付いていないことも否めないほどの頼りなさである。この人ならば、オレの魂をあの世に持ち帰るまでにどこかに落としてしまいそうだ。もしそうなったとしたら、オレは一体どうなるのだろうか。
「君の一日、面白くないねぇ。なにさ、友達の部活動見学してたのに、すぐ帰っちゃって。もうちょっと見てればよかったのに、どうせ暇なんでしょ?塾とかもいってないんでしょ?何かしたいこととか無いの?それじゃあ一週間を君に与えた意味が無いよ?」
 見てたのか?ついてきていたのか?
 顔にでも出ていたのだろう、お姉さんは説明した。
「監視なんかしてないから、安心していいよ。暇だからちょっと、君の学校生活を覗いてみただけよ。あ、ちなみにどうやって覗いたかは―――」
「教えなくていいです」
 話がまた延々と長くなりそうだったし、そうこうしている間に兄貴が帰ってきてしまいそうだったので説明を省かせる。前例もあることだし、そうしたほうが得だと思ったからだ。だが、お姉さんの上司だという神様はよほど意地が悪いらしい、オレがお姉さんを帰そうと立ち上がった瞬間に、玄関の戸が開いて兄貴が帰ってきやがった。何かいいことでもあったのか、無意味に上機嫌である。
「ただいまぁっと…………あれ?」
 お姉さんと兄貴の目線が会い、兄貴が頭上にハテナマークが浮かんだかのような顔をする。
 兄貴が呆然、オレが愕然、お姉さんが平然としているなか、兄貴が一番初めに口を開く。うーむ、どう言い訳をしたものだろうか。
「えと……どなたさま、でしょう?」
「あ、畠山君のお兄さんですか?初めまして。私は畠山君の先輩で、同じ映画部に入ってるんです。今日はその打ち合わせでお邪魔させていただいています」
「……」
「……」
 ちなみに言っておくが、最初の沈黙がオレ、あとの沈黙が兄貴のものである。
 深々と頭を下げるお姉さんに、オレは空いた口がふさがらなかった。まるで本当にそうであるかのように、お姉さんは平気で嘘を言ってのけた。兄貴も少なからず驚いているようである。まぁ気持ちはわからないでもない、自分の弟がこんな可愛い異性の先輩と二人きりでいたのだ、驚かないほうがどうにかしている。いまさらだが自分の弟とは紛れも無くオレのことだ。
 記憶抹消とやらはこの分だとしなくてもよさそうだったが、これから本当にどうしたものか。いつのまにか兄貴とお姉さんは意気投合し、「なんか高校生には見えませんね。大人っぽいなぁ」とまで言われている。それはあながち間違いではないのだが、訂正などはするわけはない。それにオレもお姉さんの実年齢は知らない。
 兄貴の手にはどこから出したのか缶ビールが握られていた。よく見ればお姉さんの右手にもだ。もしかしてお姉さんが出したと言う可能性も否めなかったが、それよりも高校生と名乗っておきながら一緒にビールを飲むとはどういう了見なのだろうか。最早顔が嫌な具合に赤くなってしまっていることでもあるし。
 オレは頭を抑えた。
 オレの死亡まで、残り六日



 今日もまた退屈だとしか言いようの無い授業が何事も無く無事に終了し、オレは部室棟二階奥にある映画部の部室へと足を運んだ。この学校は一般教室がある一般棟と、部室や特別教室がある部室棟に分かれている。現在この学校には大小さまざまな部活動があり、その数は三十にも上るらしい、同好会などを含めれば五十は越すだろう。
 同好会は基本的に部室はもらえないのだが、それでも車井のような特例は少なくは無い。したがって部室棟の空き教室はほとんど使われてしまっている。そういえば同好会で「映画研究部の部長を研究する同好会」というやたら長く舌をかみそうな名前の同好会があるらしいのだが、そこの同好会も部屋を使っているのだろうか。
 渡り廊下を通ってそのまま歩を進めれば、そこはもうこれでもかというくらい青春してる奴らばかりだ。グラウンドに見えるのは坊主頭で左手にグローブをはめ、ユニフォームを着て白球を追う野球部。どこからともなく聞こえるのは、名前も知らない管楽器でこれまた同じく名前も知らない多重奏を奏でる吹奏楽部。ドライアイスでも使っているのだろうか、教室内から白煙が漏れ出している教室の中には、白衣と黒ブチメガネを何故か全員着用している一見したら危ない集団に見えなくも無い科学部がいた。廊下の端のほうには金髪のカツラと被ったままセリフか何かをぶつぶつと呟いている演劇部が。グラウンドの隅のほうには、昔ながらの木炭とパンを使って木のデッサンを行っている美術部。まさに多種多様である。
 そんな中、まさに不健康極まりなく青春の『せ』の字も活動に見えない部、それが我が映画部こと映画研究部なのである。部室の前に立つと、なかから「う」と「あ」を足して二で割った後に濁点をつけたような、なんとも形容しがたい声が聞こえてきた。きっとボスキャラで苦しんでいるのだろう、オレはノックもせずに―――というか部室に入るごときにノックをする必要が感じられないのだが―――ドアをスライドさせる。
 矢張り、いた。テレビ画面にはRPGの戦闘シーンらしき画面が移っている。
 上下は学校指定の紺色セーラー服なのに、スカートから同じく学校指定の青いジャージが見えているその格好は、先日のお姉さんのようなファッションでもなければ何かこだわりがあるというわけでもない。理由はひとえに寒いから、らしい。今は春で今日の最高気温は二十二度らしいんだけどな。
 うら若き乙女特有の羞恥心やお洒落心は欠片も見えず、先輩はオレが来たことに気がついていないのか、それとも気がついてはいるが今ゲームがいいところだから反応できないだけなのか、全くこちらを向こうともしない。まぁ初めからわかっていたことである。
 そんなことは止めたほうがいいのに、と思う。黙っていれば凄い可愛いし、頭もかなり良いんだから、そんな馬鹿みたいな格好で馬鹿みたいなことを学校でしてないで、普通に誰かと付き合って青春してればいいのに、と思う。きっとこのあたりが、「映画研究部の部長を研究する会」、つまるところのファンクラブが部になれない理由なのだと考える。これで先輩が真人間だったならばきっと同好会は間違いなく部になっていることだろう。
 そんな間違いなどあってほしくはなかったが、個性と自由を尊重する我が校はきっと、そんな部の設立ももしや認めてしまうのかもしれない。それは個性や自由の尊重ではなく、似て非なるもので放任主義というのではなかろうか。オレがそんなことを疑問に思っていると、いきなり先輩が今度は「あ」に濁点をつけたような叫び声をあげた。だからそういうことをするから……。オレは諦めを覚えた。
「また負けちゃったじゃないのよぉ……レベル上げのやり直しかぁ、あと何レベルくらい上げれば勝てるのかしら………ねぇ、解る?」
「解りませんよ、そんなこと。大体何をやってんすか?」
「そう、解らない?そうよね、授業をサボって屋上で眠っちゃうお馬鹿な後輩に、こんな質問をした私も馬鹿よね。私がやってることがゲームだということも解らないくらいなんだから……あぁ、やだわ、もう日本の未来はどうなっちゃうのかしらね?解る?ああ、そうよね、解るわけは無いのよね。私も馬鹿よね、でもあなたはもっと馬鹿よね、馬鹿な部員を持つと部長は苦労するわぁ………きゃんっ!」
 馬鹿と連呼されなんだかとてもムカついたので、先輩の頭めがけて拳を振り下ろした。先輩は子犬のような声を上げて頭を抑える。言いたいことがたくさんあったのだが、一応相手の出方を伺うことにした。
「いったーい!先輩を!こともあろうに部長を殴ったな!この後輩!これ以上背が縮んだらどうしてくれるのよ!あんたの身長十センチもらうからね!」
 先輩が立ち上がり、喚く。立ち上がっても身長はオレよりも十五センチ以上は低い。オレ自身そんな背が高いほうではないので、先輩はかなり背が低い部類に入るのだろう。ゲームのやりすぎなのかメガネを着用し、そのメガネの奥の目がオレを睨み付ける。とはいえ、さほど怖いわけでもないのは確かだ。ってか、どうしてオレが屋上でサボったことを知ってるんだ?この人は。もしやこの人もあの死神のお姉さんと同じような能力をもっていたりするのだろうか。そんなわけはないよな、きっと。
 ……本当に無いですよね?
 オレはいつも先輩と呼んでいるのだが、この人の特徴を外的内的問わず述べてみよう。まず、身長が低い。オレの背は百七十センチくらいと自慢できるほど高くは無いが、先輩はそれよりもかなり低い。従って身長は百五十五前後、となる。自分の学年の女子と比べても低いほうだ。
 髪型はウェーブがかった髪の毛が肩甲骨あたりまで伸びているというもので、「地毛です」といえば許されるくらいに茶色く染めている。色を戻して三つ編みにでもすれば、きっと特定の嗜好を持つ人たちには大うけするだろう。
 性格はというと……ご覧のとおりである。部室の不法占拠に限りなく近い活動内容、そして不要物イコールゲーム機器の持ち込み、さらには常軌を逸した思想や思考など、間違いなくワケワカラン人種だ。オレが先輩と呼ぶのに対抗して―――いったい何に対抗してるのかは知らないが―――先輩はオレのことを後輩と呼び、さらに一日の大半は保健室へエスケープしているのだという。保健室ではもっぱらゲーム関連の文庫本やら雑誌を読み漁ってると思いきや、唐突に太宰治だとか夏目漱石だとか江戸川乱歩だとか有名どころの分厚いハードカバーを読んでみたり、聞けば最近のお気に入りはイミダスだという。それでいて何故か試験は学年で十本の指に入るほどらしいし、ゲームにかける情熱は体育会系のそれ以上かもしれない。
 保健室へエスケープとはいっても、体が病弱というわけではない。とはいえ対人恐怖症というわけでもない。曰く、居心地がいいからそうしているだけとのこと。それで期末テストがあれだけ取れるのだから奇跡に近いものがある。
 保健室、映画部部室。先輩が学校の中にいるところといえば、この二つくらいだ。どうやら教室に先輩が現れたときには絶対事件が起こるらしいが、まぁその気持ちはわからんというわけでもない。というかきっと、先輩がその事件を起こすのであろう。
 ついでに言わせてもらうと、良い意味で個性と自由を尊重し、悪い意味で徹底的な放任主義という教育方針の賜物なのか、先輩は別に先生方にとやかくは言われてはいないようである。学力が常にトップクラスだからという理由なのだろうが、公立高校がこんな有様だと思うとやってられない気がしないでもない。先輩が羨ましく思ったりも、ちょっとだけした。
「む〜……まぁいいわ。で、後輩がここに来るの久しぶりじゃない?どうしたの?告白でもしにきた?今は確かにフリーだけどさ」
「ナイスなジョークっすね、先輩」
「でしょ?私もそう思った。点数をつけるとしたら何点くらい?」
「五十……三点かな」
「うわっ、マジ?ビミョー」
 オレは笑った。先輩も笑った。苦笑なのか失笑なのか、それとも心の底から来る笑いなのかは解らなかったが、それでもとにかく、オレたちは笑った。きっと青春って言うのはこんなものなんだろうな。そんなあやふやなことを考えながらも、取り止めの無い会話を繰り返した。いつのまにか先輩はゲームを止め、オレが「いいんですか?」と聞く。先輩は「いいよ。キリがいいところだったし」と返す。そのとき少しぶすっくれた様な顔になるのは、きっとボスに負けたときのことを思い出したからだろう。
 ああ、そういやオレ、もう少しで死ぬんだよなぁ。そんなことが頭の片隅を掠めるが、一応はあと五日ほどある、そこまで気にすることも無い。
 また明日も来よう。そう思いながらオレは教科書が入っているショルダーバックを肩に担ぎ、部室をあとにする。すると先輩もついてきた。なにやらこれから塾があるらしいが、先輩の家が厳しいことを抜きにしても先輩は受験生だ、どこを受験するのか知らないが、塾に行くのは妥当だろう。
 先輩は気が乗らない顔をしていたが、まぁそれも運命だ。オレは先輩の命運を祈りながら―――そんなにたいしたことでもないのだが―――手を振って分かれた。
 また明日も来よう。
 先輩と別れたあと、唐突にまたそう思った。



「ねぇ。後輩はさ、ミステリとか見る人?見ない人?」
 次の日の放課後、先輩はまたもテレビ画面にまっすぐ視線を向けながらオレに話しかけた。先日のRPGは攻略をあきらめたのか、今度はミステリジャンルのようなゲームをプレイしている真っ最中だ。
 どう考えても先輩がトリックを解けるわけは無いと思うのだが、もちろんそんなことを口に出すつもりは無い。ちなみに館もので、粗筋は嵐によって外界と隔離されてしまった孤島にある洋館で、人が次々と密室で殺されていく……と言う物らしい。赤と黒のコントラストに彩られたゲームのパッケージには、そんなことが書かれていた。王道と言えば横道なストーリーである。
 実際こんな殺人事件が起きた場合、一人で部屋にこもったりせずに全員が一塊になって集まり、互いが互いを監視すると言う形を作ったほうが一番安全だと思うのだが、そんな詮索は矢張り野暮というものだろうか。
「私はね、読むよ。でさ、この前読んでた本にね、トリックは大まかに三種類あるって書いてあったんだよ」。少しばかり自慢げに先輩が言ったので、オレは答える。
「あぁ。物理的トリック、心理的トリック、叙述的トリックの三つっすね」
「う〜、なんで知ってるのさぁ。後輩なら解らないと思ったのに」
 不機嫌な声を出しながら、先輩はテレビの画面をまっすぐ見つめて言う。何で知っているのかと言われても、この間ちょうどよく立ち読みした本にそんなことが書いてあっただけなのだが。
「はいはい、すいませんでした……で、先輩。そのゲームは、三つのうちのどれを使ってるんですか?」
「わかんない。叙述的トリックじゃあないと思うんだけど……」
 先輩は唸った。叙述的トリックと言うのは、他の二つに比べ比較的珍しい部類のトリックである。例を挙げるとするならば、無人島に映画撮影に来たアイドルと、そのスタッフが次々と殺されていくとしよう。スタッフは五人で、まず始めに監督が、次に音響が、次に照明が、次に衣装が、そして最後にアイドルが殺されていく。さて、それでは犯人は誰でしょう?
 答えは簡単、カメラマンである。まず、スタッフは五人。アイドルはスタッフではないので、スタッフが一名足りなくなってしまう。そしてさらに、映画撮影なのにカメラマンがいないというのは、これは実際おかしい。簡単に説明したが、このようなものが叙述的トリックである。文章や映像で読者を騙すというものだ。
 だがしかし、これは確かに小説や映画などでは使われるかもしれないが、ゲームでは使われない。それは何故か?簡単だ。そうすると、犯人は絶対に画面に映らない人物となってしまい、となれば犯人は主人公かもしくはそれに準ずる人物になってしまう。これは主人公になって物語を進めていくゲームでは、まず出来ない。もしそんなゲームがあれば、絶対にブーイングが起こるだろう。先輩が唸る原因はこれである。
 せっかく叙述的トリックを教えたのだから、この際他の二つのトリックも教えてしまうことにする。
 物理トリックと言うのはつまり、その名の通り物を使ったトリックのことである。代表的なのは糸を使って鍵をかけ、部屋を密室にするトリックなどだろう。
 次に心理的トリックとは、これもまた名は体を現すを地でいくかのように心理を応用したトリックである。ドアノブをまわしても扉は開かない、破って入ると人が死んでいた、物理的トリックをする余地も無い。完璧な密室だと思われるが、これも心理的トリックの部類だ。ドアが開かなかったイコール鍵がかかっている、そのような思い込みを利用したトリックである。この場合ドアに鍵がかかっていなくとも、ドアが開かないふりさえすればいいのである。そしてドアを力ずくで破るふりをして、鍵を開けてドアノブをまわし中に入る。これで密室の出来上がりだ。
 補足的説明を最後に付け加えておけば、これは先日読んだ本の受け売りである。
「まぁそうですね。そういえば、先輩、こんな川柳知ってますか?」
「『名探偵 皆を集めて さてと言い』でしょ?」
「やっぱり知ってるんですか」
 オレは苦笑しながらテレビ画面を見る。学校一だと自他共に認めるほど無駄な知識を数多く所有している先輩に、浅く広い範囲のことならば解らないことはきっとない。しかも注目すべきことに、雑学をそこまで大量に詰め込んだ頭の癖に、妙に物覚えがいいのである。オレと先輩の脳味噌は、きっとOSでいうと二世代か三世代くらい情報処理能力に差があるのだろう。
「先輩、本借りますよ」
 ゲームをずっと見続けていると言うのも暇だったので、オレは返事も聞かずに先輩のカバンに手を伸ばす。きっと先輩のことだ、今日も今日とて何かしらの本をもってきているのだろう。予想通りだった、ミステリらしき本が二冊と、学園ラブコメらしきものが一冊。もう一冊は……うえ、男と男が抱き合ってるよ。これが巷で噂のボーイズラブとか言うやつか。オレはもちろんミステリを手に取った。―――その瞬間。
「映画部の部長さんはいるかね?おお、いるではないか!」
 がらっと部室のドアをスライドさせ、大声を張り上げながらオーバーリアクションをかましながら一人の男が部室に一歩踏み入る。オレははぁとため息をつき、額に手をやる。生徒会会長、そして映画研究部の部長を研究する会会長、その二つの肩書きをこの男は持っていた。つまり、生徒会長なのだ、この男は。
 背丈はオレよりずいぶん高く、百八十ほどあるだろう。厳格そうな黒ブチメガネは真面目さを演出しており、体躯はそれなりにか細かったが女らしいとは思えない。外見だけを見るなら、結構な二枚目である。
 名前は……よく覚えていない。第一、学年さえ違う上に、交流など欠片もない人間の名前を覚えるほどオレは暇じゃあない。それでも肩書きを覚えていることが出来たのは、この生徒会長が同時に先輩にとても熱をあげているということが原因だった。
 先輩に視線を移す。先輩は生徒会長など目にもくれず、いまだゲームに熱中していた。生徒会長のストーカーまがいの純愛、もしくは純愛まがいのストーカーに、先輩は目もくれない。かまうのが面倒くさいのか、それとも本当に気がついていないのか―――できれば前者であってほしかったが―――無言を保ち続ける。
 生徒会長はオレの事をちらりと見ると、「ふん」と面白くなさそうに鼻を鳴らす。オレもあんたの顔なんかみて面白くはない。
「親愛なるマイフレンドよ、今日は久しく後輩もいるようではないか。僕としてはこのような室内に、健康な男女が二人でいるのはどうかと思うのだが。君の身に何かあると思うと、僕はもう生徒会の業務もおちおち手につけられないのだよ」
 ちらりとこちらを見てきた生徒会長の視線を回避し、小説の活字に視線をやる。この長ったらしい、普通の高校生は絶対に言わないような言い回しは相変わらずである。こんな調子で文化祭や体育祭も挨拶をするため、生徒から文句がくることなどいつものことだ。
 生徒会長は、何故か先輩のことをマイフレンドと呼ぶ。そう考えるとオレの周りにはおかしな他人の呼び方をする人間がかなり多いことに気がつかされるのだが、別にそんなことはいまさらどうでもいいことである。
 生徒会長が呼ぶ「マイフレンド」というのはかなり一方的なものらしく、先輩は生徒会長のことをあんた、もしくは会長と呼んでいる。いい加減うざったがられていることに気がついてもいいと思うのだが、生徒会長の脳内には『好意の裏返しだ』という迷惑極まりなくポジティブな思い込みが巣食っているので無駄のようだ。それともうざったがられて入ることにすら気がついていないかもしれない、ある意味でそれは幸せである。知らぬが仏とはこのことだ。
 オレは呆れさえ覚えてページをめくった。
「で?用は何さ。私は今ゲームやってるんだけどなぁ」
 嫌悪感を露にしながら、先輩は顔を動かさずに尋ねる。
「おお、そうだった。ところでマイフレンド、明日の午後は空いているかな?僕としては午前でもいいのだけれど、マイフレンドは低血圧のようだからね。それともなんだい、もしかしてもしかすると、塾があったりするのかい?」
「何もないわ」
 即答。
 つまるところ生徒会長が何を言いたいのかというと、先輩をデートに誘いたいわけだ。そういえば明日は待ちに待った休日、タイミング的には今しかないだろう。それにしても、苛立つのはなぜだろうか。
 先輩も、生徒会長のことが嫌いならば断ればいいのに。嘘なんかいくらでもでっち上げることが出来るのに。例えば、「明日は先約が入っているので」とかなんとか言ってしまえばそれで済むことなのに。まぁそこが先輩のいいところでもあるのだが、きっとこの人は大人になってから損をするのだろうと思う。
 生徒会長ではないが、「それともなんですか、もしかしてもしかすると、まんざらでもないんじゃないっすか?」と危なく声に出してしまうところでオレは口を押さえる。あとでボコボコにされる自分の姿が見えたからだ。
「なんと!これは神がこの僕に与えてくださった慈愛なのだろうか!……っと、それならば話は早い。明日の一時に、狐通の二丁目で待ち合わせだ。ついでに映画のチケットももう渡してしまおう」
 生徒会長は興奮冷めやらぬ表情で、テーブルの上に映画のチケットを一枚おく。ぱっと見る限りでは、それはデート当日に封が切られる新作の映画だった。決まり文句といってもなんら遜色がない『全米ナンバーワン』の語句とともにばんばん宣伝していたし、朝のニュースでも何度か話題に上っていた記憶がある。なにやらとても人気があって、チケットの入手が限りなく困難だという噂を聞いたが。ああそういえば、生徒会長の家は金持ちだと言う話を聞いたことがある。親のコネだろうか、それとも人海戦術だろうか。
 生徒会長がまたもオレをちらりと見、今度は自慢げに鼻をふんと鳴らした。そしてそのまま早足で部室を去る。
 オレもなんとなく居辛くなって、本を先輩のカバンの中に戻してから部室を出ようとした。
「ねぇ、後輩」
「ん?何ですか、先輩」
 ドアに手をかけようとしていた矢先のオレに、先輩が声をかける。先輩の視線は画面ではなくオレの顔に向けられていた。
 どこをどうとっても美少女である先輩にまっすぐに見つめられ、オレの鼓動が少し、いや大分早くなるのを感じた。
「……いや、なんでもない。さよなら」
「ええ。……さよなら」
 オレの死亡まで、あと四日。

              三章

 オレは目を覚まし、カーテンの隙間から漏れてくる陽光に目を細めながらも枕元においてあった目覚まし時計を見やった。現在時刻は八時で、いつもより起きる時刻は少し早い。兄貴の寝床である押入れに視線をやると、いまだぐっすりと眠っていた。青いジーパンと同じく青いシャツを着ているので、まるで二十二世紀のネコ型ロボットを髣髴とさせるような容姿であった。
 この家にある小説はほとんど読みつくしてしまったし、新しい本も見当たらない。テレビは最近面白いと思える番組が無くなってしまったので、つけても無意味と言うことをオレは知っている。とはいえすることも無いのでもう一度布団にもぐりこむが、眠れない。車井と約束をしているわけでもなく、―――まぁこんな朝早くから遊ぶわけなどはないのだが―――この上ないくらいに暇だった。
 オレは大きく伸びをする。今日の食事当番は兄貴だから朝食を作る必要も無いし、別にオレは腹が空いているわけでもなかったので兄貴を起こそうとは思わなかった。仕方がないので、生まれて初めての朝の散歩に出かけてみることにする。
 いつもオレはトランクスとシャツと言う格好で眠るので、その上からジーパンをはいて出かける。
 靴を履き、ドアの鍵を開け、はじめてみる朝の世界へ。鍵を開けっ放しにするのはいささか気が引けたが、だからどうということでもないだろう。気にせず胸いっぱいに空気を吸い込む。冷たい空気が肺に流れ込んできて、清々しい気持ちだ。
 人通りは皆無だった。野良犬が一匹、野良猫が一匹。あとは犬の散歩をしている人が二人。いつもは車が砂埃を撒き散らして走っている国道も、土曜の朝と言うこともあり車は走っていなかった。閑散というのはこんな環境のことをいうんだろうな、と思いつつ、足を適当な方向へ動かした。
 早起きは三文の徳、という諺があったが、確かに早起きはいいものだった。三文と言うのが現在の金額にしてどれくらいの価値を持っているのか知らないが、もし今の自分の気分を金銭で考えるならば五十円といったところだろう。
 もちろん五十円をもらったわけでもないが、こんないい気分になれるのなら早起きもまんざら悪いものではないのかもしれない。自主的に早起きをしようという気持ちは皆無だったが、もしこれから似たようなことがあったときも散歩に出かけてみるべきだろうか。
 コンビニに立ち寄って週刊誌を立ち読みする。好きな漫画はじっくりと読み、嫌いな漫画は読み流しながら一冊読み終える。時計に目をやると、時刻はもう九時。そろそろ兄貴も起きたようではあるだろうし、オレは家へと足を向けた。コンビニの定員が少し嫌そうな顔をしたのが見えたが、気にしないことにした。
 そして今、我が家には兄貴の笑い声が響いている。味噌汁と焼き魚のにおいが充満しているが、もう嗅覚はそれに慣れ始めている。
 我が家ではどちらかというと朝食は和食のほうが多い。両親と一緒に暮らしていたときも和食主体だったので、きっと血なのだろう。
「くはははははっ、マジかよマジかよ。なに、お前そんな老人じみたことやってきたの? いやいや、弟がいつのまにか俺よりも歳を取ったみたいだよ、親父、お袋。くははははっ」
 なんで兄貴がこんな大笑いをしているのかというと、オレが朝の散歩をしてきたと兄貴に告げた途端こうなってしまったのだ。兄貴はそれがよっぽど面白かったらしく、十数秒も笑い続けていた。オレはつかなくても良い嘘はつかない主義なのだが、今回ばかりは正直に言ったことを後悔した。散歩如きでここまで笑われてしまっては。
 なんだかどうにもその口調がムカついた。大体オレだって今日みたいに暇じゃなければ早朝散歩なんて別にする必要は無かったのだ、それなのにここまで馬鹿みたいに笑われると、流石に怒りがこみ上げてくる。反論してみることにした。
「兄貴だって人のこといえねぇって。ただ本が好きだからっていう理由で、自給五百五十円の安月給古書店でバイトしてる大学生なんて、世界中探しても兄貴くらいだぜ?しかも古書って」
「ぐっ……」
 兄貴はうつむいて言葉に詰まった、効いているようである。
 驚くなかれ、兄貴のバイトはなんと古書店でのレジうちその他なのだ。客がくればレジをうち、来なくとも本の整理や状態確認に明け暮れる。兄貴のバイト先である古書店は個人店らしく、店主であるはずの老人がいるそうなのだが、体が云々ということで兄貴がほぼ全てを一人でやってしまっているらしい。たまに古書を読みふけったりすることもあるそうだが、かなり生産的ではない仕事だ。だがしかし、それは兄貴の趣味の範疇なのだから仕方が無い、オレも他人の趣味を否定する気はさらさら無い。ただし、この点だけは声を大にしていいたい。
 自給安すぎるぞ、と。
 法律違反ぎりぎりな気がしないでもないほどの賃金、なんと五百五十円なり。いまどきコンビニや新聞配達でもいくらかマシな気がするのだが、どうなんだろうね。いくら親から仕送りをしてもらっていると言っても、流石にこれでは余裕などあまりない。
 オレと兄貴は食卓テーブル越しに睨み合う。先に折れたのは兄貴のほうだった。
「……解った解った、悪かったよ。馬鹿にして悪かった、謝るよ。だから早くメシを食ってくれ、もう少しで大学のほうへ出向かなきゃいけないんだから。それともお前が食器洗ってくれるか?」
 兄貴の仕事を肩代わりするのはなんとなく嫌だったので、オレは言われるが早いか席に着く。サンマを解体して食す。うむ、旬では無いけれども美味ではないか。
 十数分で食事を全てたいらげ、兄貴に食器洗いを任せて自分は座布団を枕代わりに寝転がる。このままもう一度眠ってもいいし、ここでごろごろしていると言うのも悪くは無かったが、どうも不健康すぎた。車井は起きているのだろうかと時計に目をやると、長針は六で短針は九、つまり九時半である。さてどうしたものか。
 オレは大学に行く支度をしていた兄貴に向かって尋ねる。
「兄貴、大学になにで行くの?」
「ん? なんでそんなこと聞くんだ? 決めてないけど、それがどうした?」
「いや、車でいくんだったら送ってもらおうかなって思って」
「どこ行く気だ? 場所によるけど別にいいぞ、ちょっとまってろ」
 そういって兄貴は部屋の隅にあるかごから、車の鍵を取り出した。兄貴の持っている車というのは、中古車専門店で購入した名前も聞いたことの無いような車だ。確か十万ほどで購入した記憶がある。四人乗りの軽自動車で、色は真っ白である。良い買い物をしたと兄貴は喜んでいたが、オレにはどうもいまいち信じられない。事故車じゃないだろうな、あの車。なんにしても、足が出来たと言うのはいいことだった。
「んで、どこに行くんだ? 近いところで降ろしてやるけど」
 オレは近くにある電気街の名前を出した。あそこは確か兄貴の大学に行く途中にあったはずだ。兄貴の大学はここから車で約二、三十分、地下鉄や電車を使えば四十五分ほどで一番近い駅につくらしい。徒歩や自転車はまだ試したことがないそうだが、きっと一時間弱はかかるのだろう。
 兄貴はいとも簡単に了承してくれ、そしてオレと兄貴は車に乗り込んだ。後部座席は狭いが、何とか体を押し込む。こんなんだったら助手席に座ったほうが良かったかな、と思った矢先に車が発進した。
  
                                     *

「ここでいいだろ………んじゃ」
 兄貴は運転席の窓から手を出し、去っていく。オレも手を上げてそれに応え、あと数分歩いた先にある電気街へと、財布の中に夏目漱石さんが二枚あることを確認し足を向けた。電気店の周りには大きな本屋やらゲームセンターやらがあり、いついっても飽きることは無い。
 電気店から足を少し伸ばせば、そこにはこの都市で一番と言ってもなんら遜色が無いほどの商店街、狐通がある。何でも昔、狐のとおり道となっていたことから狐通という名前がついたらしいのだが、真偽のほどは定かではない。
 さて、何をしようか。オレがきょろきょろと辺りを見回すと、見知った顔がひとつ。慌てて顔を背けるが、あちらもオレの存在に気がついたようで、オレの姿を補足し瞬時にロックオン。オレは一目散に逃げるが、思っていたとおり無駄だったようだ。
「……んで、何の用ですか? というか、何でここにいるんですか? お姉さん」
 オレは自分の目の前にいるお姉さんを睨みつけながら言う。空間歪曲を使えるお姉さんから、ただの一般人である自分が逃げ切れるわけなど無いのだ。全く、何故この時間この場所にこの人がいるのだろうか。己の不幸を呪わざるをえない。
 ちなみにお姉さんの服装は、始めてオレと出会ったときと同じ服装だった。なぜか血のような赤いしみがついているように見えるのは、オレの気のせいだろうか。
「もちろん君を探すためだよ。はいこれ」
 そういってお姉さんは、オレに一枚の紙を手渡した。それは横に長く、縦に細い長方形の形をしており、横に切り取り線のようなものがついていた。これは、映画のチケットのようである。
「ん……? なに? これ」
「映画のチケット。今日封が切られるやつだよ。CMで見たこと無い?」
 お姉さんは即答する。確かにそのチケットは、よく宣伝していた映画のチケットらしい。そういえば昨日生徒会長もこれをもってきていたけれど。それにしても何故? もしやお姉さんと一緒に見に行くとか、そういうことじゃあないだろうな。オレのそんなセリフに対して、お姉さんは、
「本当は行きたいけどね。でも、待ってるみたいだから。ほらほら、早く行った行った!」
とオレの背中を押した。一体どこに行けばいいのだろうと思っていると、後ろからお姉さんが「狐通だよ」と教えてくれた。確かにこの辺には映画館が無いので、一番近いとしても狐通まで行く必要があるのだが。それにしても一体誰が待ってるんだろうか。オレは言われるがままに狐通を目指した。

                                     *

 今、オレの前には駄菓子屋が、向かって右にはプラモ屋、向かって左には靴屋が存在している。後ろに定食屋があり、その両隣にはゲームセンターと古本屋が。他には流行のインターネットカフェやアニメグッズ専門店、総合雑貨の店などが軒並み連ねている。まさに比喩でもなんでもなく古今東西和洋中、全てのものが存在しているのではないだろうかと思わせるほどだ。きっとここに来て手に入らないものなど無いのだろう。
 休日の狐通は朝だと言うのに混んでいた。先ほどまでいた電気街もそれなりに混んではいたが、ここの比ではない。
「……!」
「ん?」
 オレは首をかしげた。今、どこからか自分のことを呼ばれたような気がしたのだが。辺りを見回すと人が溢れかえっていたが、その中に知り合いの姿は無い。空耳かと思い映画館を探し続けるが、またもオレを呼ぶような声が聞こえる。
「……い、おーい……はい!」
 また声がした。間違いなく自分を呼ぶ声だ、聞き間違いなどであるはずが無い。自分には確か聴覚異常は無かったはずだ。声のしたほうを振り返るが、なぜか姿は見当たらない。摩訶不思議である。
「おーい! 後輩! ここだよぉっ!」
 オレはもう一度辺りを見回して―――小さく上下する腕が通行人の頭の近くに見えた。もしやと思って近づくと、そのもしやは的中していた。
 通行人の中に埋もれている一人の女子。頭一つ分他人より小さいからだろう、近くまで行かなければその姿を確認することは出来ない。故意的にそうしたのではないだろうと思われる色褪せたジーパンと、大きさがあっていないのだろう袖がかなり折られている長袖Tシャツを身に着けているその少女は、間違いなく、間違えようが無く、間違えるわけが無く、先輩だった。
「早く行こうよ。あと十分で開演だよ。あれ? 開幕だっけ? どっちでもいいか、早く行こうってば」
 先輩がオレの腕を掴んで引っ張る。一体どこに行くと言うのだろうか、と言うか、なんで先輩がここにいるのだろうか。オレがいつ、先輩と今日遊ぶ約束をしたのだろうか、その前に、先輩は生徒会長と映画を見る約束をしていなかっただろうか。考えはまとまらずに、気がつけばオレと先輩は映画館の前にいた。
「生徒会長も不幸よね、不良に絡まれて全治一週間の怪我だって。なんか黒い服を着たお姉さんにやられたらしいけど、財布は無事らしいよ。不思議だよね。……あれ、後輩、どうしたの?」
 オレの頬を、嫌な冷たい汗が流れる。もしや。
「せ、先輩? それ、どうやって聞いたんですか?」
 きっと今のオレの声は大分上ずっていただろう、きっと今のオレの顔は大分危ない顔をしているだろう。だが、そんなことは最早地球の裏側に住む人の今日の夕飯の献立のレシピくらいにどうでもいいことだった。
「え? ああ、なんか生徒会長のお姉さんから電話で。後輩のところは違ったの? そのチケット誰が渡しにいったのさ」
「あ、ああ、あの人ね。うん、生徒会長のお姉さん、オレの所にも来たよ、は、ははは。さぁ早く行こうか、始まるんでしょう」
 最後のほうは完全に棒読みだった。怪訝そうにオレを見てくる先輩を映画館に無理やり押し込む。
 オレはなるほど合点がいった。くそう、あの人もかなりの脚本家じゃないか。普通ここまでやるだろうか。いや、やらない。現国の時間に習った反語を使ってしまうほどオレの動揺は激しかった。
 つまり、だ。お姉さんは昨日生徒会長をボコッて、そして今オレの右手に握られているチケットを奪ってきたのだ。そのあとに先輩に電話をかけて、オレが代わりに行くことを伝えた。マジかよ、本当にあの人は死神なのか? 恋のキューピッドといえなくも無いが、やってることは全く持って強盗じゃないか。そういえばあの人の服に血がついていた気がするけど。
 オレはこれ以上考えるのをやめた。精神衛生上これ以上この件について考えるのは良くないと思ったからだ。これ以上このことについて検討しても無駄なようではあるし。それならば先輩との映画を楽しむのもひとつの手である。
 チケットを入り口にいるもぎりの人に渡して、オレと先輩は映画館へと入った。

                                     *

「楽しかったねぇ。やっぱり全米ナンバーワンは伊達じゃないわ! DVDになるのはいつごろかしらね? 後輩はどうだった?」
「なかなか面白かったですね。まぁあてにならない全米ナンバーワンの宣伝はおいておくとしても、確かに良い感じの映画だと思いますよ。……DVDですか、うちにはプレーヤーが無いからどうでもいいんですけど」
 そんなことを言いつつ帰路につく、オレと先輩。映画を見終わりついでに買い物もいくつかして、デパート内で先輩が迷子になってアナウンスで呼ばれたりするというハプニングもいくつか起きたが、それでも楽しい時間が過ぎた。
 先輩とはいろいろな話をした。例えば、中学校のころ修学旅行で枕投げをして先生に怒られたことだとか、本当はどこの部活にも入るつもりはなかったとか、自分は子供のころに大きなシベリアンハスキーに襲われて以来、犬が苦手になったということを聞いた。シベリアンハスキーが先輩のことを襲ったのではなく、それはただ単にじゃれついていただけなのだろうが、確かに怖いのだろう。子供のころがいつなのかは明確にはわからないが、きっと小学校入学以前だ、そのころは大体身長が一メートルより少し低いくらいだろうから、犬は先輩よりも大きかったのだろう。オレは頷いておく。
「あ、あとね、年子のお姉ちゃんがいるんだけどね、そのお姉ちゃんが大学に受かったんだ。お参りにいったご利益があったんだよ、きっと。すっごくぼろっちい神社でね、ご利益なんてなさそうだったんだけどねぇ」
 そんなことを言う先輩は凄く笑顔だった。失礼かと思ったけど大学名を聞くと、その大学は兄貴の通っている大学なんて目じゃないくらいに有名な学校だったので、オレは随分と驚いてしまった。
 そんなこんなで現在時刻は六時前後。アーケードには依然人が多い。
 地下鉄を使っても良かったのだが、先輩が「歩こう」と言ったのでオレもそれに従った。面倒くさいことこの上ないのだが、断ると先輩がうるさく喚きそうだったし、時間もたっぷりあるので別にいいかと妥協したのが二十分ほど前である。
 さて、ここでひとつ問題が浮上した。先輩の家はどうだか知らないが、オレの家は狐通からも電気街からも大体歩いて三十五分ほどの地点に位置している。歩いてそのまま普通に帰れば、全行程の半分はもう消化しているはずなのだ、はずなのだが。
 なぜか三分の一ほどしか進んでいないと言う現状がここにある。
「まぁってよぉ……可愛い可愛い先輩を置き去りにしてどんどん進むなんて、あんたそれでも男なの? それでも武士の魂を引き継いでいる日本男児なの?」
「男という点と日本男児という点は間違いなく認めますが、オレは武士の魂を引き継いでいると自覚したことは一度も無いんで」
 可愛い可愛い先輩と言う点を完璧に無視し、オレは諦めを覚えて先輩のほうを振り向く。いや、事実可愛いんだけどさ。
 今現在、オレの後方十メートルほどの場所に先輩がいる。ひざに手をついて、はぁはぁと息を荒く切らせている。顔は真っ赤になって汗があごからぽたりと落ちる。これでもかというくらい先輩はへこたれていた。何もオレたちは全力疾走をしたわけではなく、ただ普通にしゃべりながら歩いただけだ、それだけでここまでバテてしまうとは、一体この人の体力はどうなっているのだろう。
 これだからゲームっ子は困るんだよなぁ。もちろんそんな事は口が裂けても言えるはずが無いわけで。
「……どうします? 地下鉄使いますか?」
「お金もうないもん……ポップコーンとジュースで、全部つかっちゃったもん……」
 ここでオレは認識を改めた。試験の成績がいいというのと頭がいいということは全く違うということらしい
 つまり先ほどの「歩こう」は、結局オレがどんな対応しようと歩かざるを得ない質問だったわけか。電車賃くらい残しておけよとオレは心の中で声を大にして叫ぶ。そういえば最近、やたらと心の中で叫ぶことが多いような気がするが、それはきっと気難しい人と接触しているからなのだろう。
「電車賃くらいオレが奢りますから……はい、立ってください、入り口はすぐそこですよ、頑張ってください」
 まるで駅伝で一区間を走りきったような、まるでフルマラソンを一位でゴールしたような、そんなぼろぼろの先輩に肩を貸して―――といっても身長差が結構あるため難しかったが―――地下鉄の入り口に向かって歩く。
「先輩、最後に自主的にスポーツしたの、いつごろか覚えてますか?」
「う〜ん……小学校のころかも……」
 いやまて、一体全体それは何年前だ。少なくとも五、六年前ということは否めないだろうが、それにしても体育はどうやって乗り切ってきたのだろうか。そういえば先輩は保健室登校児だったか。
 それからオレは二人分の地下鉄の切符を買い、足がふらついてまっすぐな歩行もままならいという具合に疲弊しきった先輩を、懸命に引きずりながら地下鉄に乗り込む。地下鉄で二駅進み、妙に間延びした車掌の「次は二十八丁目駅」というアナウンスで席を立つ。先輩は依然息が荒い。
 先輩は次の駅で降りるので、オレだけが席を立つ。ドアが開いて数人の人が地下鉄から降りる、オレもあとに続いた。
「じゃあね。また一緒に出かけようね」
「今度はもう少し体力つけてからにしてくださいよ」
 全く、今日みたいなことが何度も起きたら、体力的にやってられない。
 手を左右に振って先輩が見送る。オレもそれに手を振って応えた。
 オレの死亡まで、あと三日。



 日曜日は特筆することも無く、あっという間に終わった。お姉さんがオレの家に押しかけてくることも無く、オレは車井の家に行ってゲームなどに興じた。車井のやつが持っているゲームは、なんと言っても音ゲーが多い。ドラムなんたらとかギターなんたらとか、まぁそんな感じのだ。格闘ゲームなどもあるが、圧倒的に前者のほうが多い。
 音ゲーではもちろん勝てるはずも無く、オレは格闘ゲームをやることを推した。あいつは音ゲーをしようとしきりに言っていたが、しぶしぶと格闘ゲームをすることに賛成した。きっとオレをぼろぼろに負けさせるつもりだったのだろう。こういうところで意地の悪さを発揮するやつだった。
 戦績はオレの二十八勝三十一敗、負け越し。とはいえあいつはゲームの持ち主なんだし、あいつが勝ち越すのは当たり前と言えば当たり前、別にそこまで気にするようなことではない。そのまま家に帰って、飯を食って、寝た。
―――みたいな日曜だったら良かったのだが、そうは問屋が卸さないのである。オレは現在、車井の後ろにいる。正確に言うと後方五、六メートルのところにある柱の陰だが、まぁこの際細かいことは気にしない。
 オレが車井の後ろにいると言うことは、もちろんオレの前に車井もいるわけで。その車井は最近オープンした小洒落た喫茶店にいた。テーブルとコーヒーをはさんで向かい合っているのは、なんとオレが見たことも無いような女の子だった。綺麗というよりどちらかといえば可愛いという感じの、それでも特別可愛いと言うわけではないけれどそこら辺にはあまりいそうにない、純朴そうで明るそうな女の子。年齢はきっとオレたちと同じかひとつ下だろう、ポニーテールが笑うたびにゆさゆさと揺れている。
 オレは心の中で、今までに無いくらい大きな声で叫んだ。このヤロウ、と。
 導き出された結論がどんなに有り得ない結論だとしてもそれが最後に残ったのならばそれしか正しいものが他に無いわけで、車井に妹がいないことは重々承知していたし従姉妹がいないことも確か昔聞いたことがあったし、生き別れた誰々などという三流ドキュメンタリードラマのような物語はこんな世の中に存在するわけが無く、つまるところそれは間違いなく完全に完璧にこれ以上疑う余地が無い結論を導き出していた。その結論を否定するためにいくつもの可能性を考えてみるも、それは全てありえるわけが無いと同時に、反対に車井の目の前にいる女の子が車井の彼女だと言うことを認めざるを得ないと言う皮肉な結果になってしまった。
 落ち着け、落ち着けオレ。深呼吸だ、大きく息を吸って、吐いて。よし。冷静さを欠くな、失敗しないように気をつけろ。距離を詰めすぎて気づかれないように、距離を開きすぎて見失わないように。
 残念なことにこの位置からでは、ガラス窓越しをはさんで向こう側にいる二人の会話を聞くことは出来ない。ただ表情から察するに、何か面白い話題をしているらしい。車井がデイパックの中から何かパンフレットのようなものを取り出して、二人で見ている。おいおい、そこまで顔近づけちゃあ駄目でしょうよ。危ないって、危ないって。
 オレが危惧したことはおきなかったが、二人は楽しそうにお喋りを続けている。あの女の子は一体何者なんだろうか。学校では見たことが無いけれど、他学年との交流なんてものは委員会に入っておらず尚且つ映画部所属のオレには全く縁が無かったので、知らなかったとしても当然なのだが。
 二人が立ち上がり、コーヒー代を払う。車井が女の子に向かって小さく手を振って代金を支払うが、女の子は少し躊躇うような素振りをしている。どうやら車井が奢るといっているのを申し訳なく思っているようだ。全く良い子じゃないか。
 コーヒー代のことは一件落着したようで、二人は喫茶店から出て行った。オレは慌てて位置を移動する。
 そもそもことの発端は、今から一時間ほど前にオレが車井に電話をしたことからだった。
 今日も今日とて大した予定も無く、オレは毎週のように車井の家に電話をかけた。短縮ダイヤルを押し、数秒待つ。出たのは矢張り車井だった。
「ういーす。車井、今日遊べるか?」
『悪いちょっと今日は予定があるんだじゃあな!』
 間に読点を含まずに早口で車井はまくし立て、そして一方的に電話を切りやがった。絶対にこの対応はおかしい。いつもの車井なら、というか平常心を失っていない人間ならばこんな対応は間違ってもしないだろう。
 オレは受話器を睨み付けて言った。
「……一体なんだっつーんだよ」
「教えてあげようか?」
 突然オレの後ろから声が聞こえたものだから、オレは驚きのあまりその場ですっ転びそうになる。後ろをゆっくりと振るかえると、そこには矢張りとでも言うべきか、死神のお姉さんが立っていた。幸いにも兄貴はバイトへ行っているので誰にも見られることは無いが、それでもお姉さんの行動は不法侵入だ。忠告したほうがいいのだろうか。
「……何を? 何を教えてくれるって?」
 オレはゆっくりと尋ねる。出来るだけ怒りの感情を入れたつもりなのだが、お姉さんは素で続ける。
「だから、車井君の行き先。気になるんでしょ?」
 パーカーのフード部分をつまんでひらひらさせつつ、お姉さんは言った。お姉さんは最初にオレと会ったときの格好をしている、どうやらこの格好がお姉さんのスタンダードな格好らしい。
 このお姉さんがなんで車井の行き先を知っているのかは、まぁ死神だからといえば納得できなくも無い。いまさらそんなことを追求したくも無かったし、追求したところで無駄だと言うことをオレは理解している。それよりも今一番気になるのは、お姉さんの格好でも何故にお姉さんが車井の行き先を知っているのかでもない。車井がどうしてあのような取り乱し方をしたかということだ。
 お姉さんは車井の行き先以外は教えてくれなかったし、オレは車井が今日なにをするのか気になった。オレと車井は、一応ではあるが親友と言う位置づけがなされているのだ、そうしたらやっぱり、行動なんてひとつしかないだろう。
 オレはお姉さんと一緒に家をでて、自転車にまたがった。

                                    *

 回想終了。そんなこんなで今オレはここ―――電気街の中にある大型デパートにいるのである。車井が一体何のためにここに来たのか、結果は見てのとおり、デートだ。本人曰く「俺は彼女いない歴十七年」らしいが、それも今日で途絶えたのである。めでたいことだ。
 二人はエスカレーターに乗って上の階へ向かう。このデパートの中にはいろいろなものを取り扱っており、買い物をするには事欠かない。デート場所としては悪い選択ではないだろう。
 オレは次に乗ったサラリーマン風の男性の後ろに隠れ、二人から身を隠しつつあとに続く。まるでジェームズ・ボンドのようだ、オレは少々ノッてくる。親友のあとをつけながらという不謹慎極まりない状況だが、勘弁して欲しい。スパイものは男子の永遠の憧れなのである。
 そうしているうちに二人を見失いかけたので、オレは早足で二人に近づく。二人はどうやら楽器屋に入ったようだ。ギターやピアノ、ドラムやサックスなどの比較的オーソドックスなものから、ウクレレにパーカッションやアンプ、それにギターの弦も売っている。車井は何かの楽譜を購入したようで、そのあともいろいろと見て回った後にほくほく顔で楽器屋を出る。もちろんオレもあとに続いた。
 どうやら用があったのは楽器屋だけのようで、そのまま二人はゲームセンターや洋服屋に行くわけでもなくデパートを出た。もうデートは終了かと思いきや、デパートから出ても別れる様子は微塵も見えず、ゆっくりとどこかへ向かっている。地下鉄やバスを使わないと言うことはそれほど遠い場所ではないと言うことだろうが、一体どこだろうか。
 信号で止まり、それから直進。上手い具合に三連続で信号が青になり、直進し続ける。十字路を左に曲がり、長い一本道に入る。そこを進みきると、人気の無い裏路地とでもいえるような道にたどり着いた。
 こんなところで逢引き? 出来れば出歯亀のような真似はしたくないのだが、どうなのだろう。もし親友が人の道を踏み外すような行いをしてしまうのだとしたら、断固それは阻止せねばならないだろう。
 と思っていたら、いきなり近くにある家のチャイムを押しやがった。なんだよ、用事があるのかよ。ドキドキして損したじゃねぇか。オレが電信柱の陰から頭だけを出して様子を伺っていると、その家からは大学生くらいの男性が出てきた。オレの兄貴より大柄で、メガネをかけている。あの女の子の兄だろうか。
 これでもうオレの追跡劇は終わりを告げるだろう。車井があの女の子を家に送って、はいおしまい。詳細は明日学校で聞けばいい、別にことを急ぐわけでもなんでもないのだ。さて早くこの場を去らなければ、車井がこちらに向かってくる。
 はずだった。
 なんと車井は、そのまま家に入ってしまった。一体全体どういうことだ、もしかしてあれなのか、『結婚を前提にしたお付き合い』とか言うやつなのか。そんなのドラマでしか見たこと無いぞ、おい。
「羨まし……いやいやなんていうやつだ、親友のオレにも言わずに」
 いつの間にか自分が声に出していると言うことに気がつき、慌てて口をふさぐ。オレの行為は、誰もいない路地においてはひどく奇妙で滑稽なものに映っただろうが、逆を言えば誰もいないので誰も見ていないということでもある。オレは気にせず早足で家の近くまでよる。
 家の中ではきっと何か会話が現在進行形で交わされているのだろうが、外にいるオレの耳にその会話が入ってくることなど無い。ガレージと家がつながっているようだったが、流石に不法侵入という犯罪行為は犯したくなかった。お姉さんが持っていたあの『犯してはいけない犯罪』リストに不法侵入はあっただろうかと考えているうちに、なぜかオレの耳に車井の声が聞こえた。くぐもっていて内容は聞こえなかったが、話し声だと言うことは理解できる。
 車井のセリフに対してお兄さんだと思われる人物が言葉を返し、さらに今度はオレが聞いたことの無い声が聞こえた。きっと家の中にもう一人いたのだろう、お父さんだろうか、それにしては声が若すぎるような気もするが。
 会話の内容を聞くためにオレはガレージに耳をくっつけるようにする。その瞬間、いきなりガレージの扉がガラララと音を立てて開き、オレは大分有り得ないくらいに驚いてしまった。しりもちをつきそうになるのをぐっと堪え、目の前にいる車井と一緒に買い物をしていた女の子と視線が交わる。女の子は目をまんまるにしてきょとんとした顔をしていた、そりゃそうだ。オレも家の扉を開けてオレのような人がいたならば、きっと同じようなリアクションをとるだろう。
「おーい、どうしたんですか? ………って、畠山!? なんでこんなとこに……?」
 硬直していたオレと女の子の後ろから顔を出したのは、他ならぬ車井。さらにその後ろから大学生っぽいお兄さんと、初めて顔を見る顎鬚が立派なお兄さんが現れた。
「なになに?」「どうしたの? 車井くん」「いや、ちょっと」「えと……」「あ、初めまして……」「どうしたの? 迷子?」「車井くんの友達かい?」「ええ、そうです、けど……」「こちらこそ……どうも初めまして……」「すいません、驚かせちゃって……」
 顎鬚が立派なお兄さんから順に、大学生っぽいお兄さん、車井、女の子、そしてオレと二周りほど騒然としたやりとりが続いたところで、ようやく場が静かになる。オレは四人の、計八個の瞳から出される好奇と不審の視線を一身に浴びつつ言葉を紡ぐ。
「え〜、車井の友達の、畠山、です。以後お見知りおきを……」
「で、だ。なんでお前はこんなところにいるのかな? 道に迷ったとかいうんじゃねぇぞ? こら。解ってるよな」
 額に血管を浮かび上がらせる声色で、だけれど表情はあくまでもにこやかに、車井がオレの両肩を思い切り掴む。爪が食い込んでそれなりに痛いのだが、もちろんそんなことを言える状況では今は無く。
「はいはい。いいじゃないか、偶然にしろなんにしろ、友達が来てくれたんだから。……さて、観客も出来たことだし、始めようか」
 どうやら四人のリーダー格らしい顎鬚が立派なお兄さんが、手をぱんぱんと叩きながら言う。車井は不承不承といった感じでオレの肩から手を離し、ガレージの奥へと体を向ける。今やっと気がついたが、ガレージの壁には全て防音壁となっており、ドラムとベース、エレキとアンプがそろっていた。車井が床においていたデイパックの中からドラムのスティックを取り出し、大学生風のお兄さんがベースを、顎鬚のお兄さんがエレキを抱えて、女の子は真ん中に立った。
 顎鬚が立派なお兄さんが三人に視線をやり、小さく頷いてから演奏が始まった。

                                     *

 車井とあの三人が知り合ったのは、どうやらインターネットのとあるサイトでバンドのメンバーを募集していたかららしい。今日から実際に四人で練習をしてみようという話になり、そして先ほどに至ったわけだ。
 マジで死にたくなってくる。ここまで生き恥を晒してしまったのだ、今すぐ日本刀で腹を切ってしまいたい。だが、当然オレはそんなことはしない。
 車井の半ば呆れた小言を聞きつつオレたちは地下鉄に揺られていた。車井の小言も十分ほど続き、内容が最初に戻ってループしてきたあたりで車井は我に返って地下鉄から飛び降りた。次の次の駅でオレが降りることになる。
 プシーと音をたてて地下鉄のドアが閉まって、オレの隣に誰かが腰を下ろす。今日は確か食事当番は兄だったので冷蔵庫の中身は心配しないでもよさそうだ、オレはそんなことを考えながら自分が降りるべき駅までの時間を潰そうとしたところで―――気がついた。気がついてしまった。
「偶然だね、畠山くん」
「…………」
「あれ? どうしたの? 寝てる……わけじゃないよね? 死神のお姉さんだよ? 忘れたわけじゃあないでしょ」
「……」
 オレは無言で返事をする。無視ではないのだ、無言で返事をしているだけなのだ。幾らオレが視線を真正面に固定していたとしても、幾ら自分の名を呼ぶ声に振り向かずとも、無視ではないのだ。第一偶然出合ったと言うのは両者の意思とは無関係に出合ったときに使うべきものであって、死神のお姉さんは確か瞬間移動のようなものが出来たはずだからわざわざ地下鉄に乗る必要など無いはずなのだが。ということは、ここで出合ったのは偶然ではなく必然ということだ。
 業を煮やしたのか、お姉さんはオレの耳元に口を近づけてぼそりとこういった。
「……殺すよ?」
「イヤダナモウドウシタンデスカオ姉サンボクガ無視シタトデモ思ッテイルンデスカソンナワケナイジャナイデスカヒドイナァハハハ」
 それはまさに条件反射とでも言ってしまっていいような速度で、オレはセリフ中に句読点をはさまないでまくしたてる。いつもは使わない「ぼく」という一人称まで使ってしまった。仕方が無いだろう、死神であるお姉さんに「殺すよ?」などといわれてしまったのだ、それはもう本当に、背中に消えない絵を描くコワモテのお兄さんたち以上に怖い。これから残りの二日、夢にうなされることも覚悟しなければいけないくらい、それくらいお姉さんのその言葉には迫力があった。
「……で、なんですか? 何の用があるんですか?」
 暗澹たる気分が五割増しになっていくのを現在進行形で実感し、オレは諦観さえ覚えてお姉さんに尋ねる。何か用件が無ければわざわざ地下鉄を使う必要は無いのだから、きっとオレの考えは間違ってはいないはずだ。
「ああ、用件ね、用件。簡潔に述べると、君の死亡日時が今日を除いて二日後……つまり明後日になってるんだけど、どう?」
「いや、どう? ときかれても困るんですけど。……ま、この一週間は結構楽しませてもらいましたよ」
 車掌のアナウンスが聞こえたので、オレは立ち上がった。いつの間にか二つほど駅を過ぎたらしい、もうオレが降りる駅だ。お姉さんとの会話を断ち切るいいタイミングだったことでもあるし。
 お姉さんは少しばかり不機嫌な顔をしていたが、すぐにその顔は元に戻り、「じゃあね」と言い残して一瞬で消えてしまった。今のこの光景を事情を知らない一般人に見られてしまったら、それはもうかなり一大事なのだろう。オレはびくりとして辺りを見回すが、幸か不幸か誰も今の光景を見ていなかったようだった。ほっと胸をなでおろしたのも束の間、ドアが閉まりかけているということにオレは気がつき、猛ダッシュする。ぎりぎりセーフで通り抜けることが出来た。
 動き始める地下鉄を背に、オレは歩き出した。
 オレの死亡まで、残り二日。
                                                                            四章

「なんでさぁ、現実にはさ、ゲームとか小説とか漫画とかみたいな、めくるめくファンタジーの要素がないんだろうね」
「ファンタジーの要素が無いからこその現実世界でしょうよ」
 オレは先輩の質問に対して、こんな面白みの欠片も無い返答をする。先輩は「ふぅん」と納得したのかしてないのかいまいちわからない返事をして、また新しいRPGに熱中していた。オレはすることが無いので、先輩のカバンから無断で取り出した小説を読むことにした。内容は都合よくファンタジーで、悪者にさらわれたお姫様を勇者が助けに行くという使い古された感のあるストーリーだった。ちなみに先輩が持っていた他の本は、週刊誌が二冊と何故か新約聖書だった。
「でもさ、思ったこと無い?」
 ゲームのコントローラーから手を離し、先輩はゆっくりと窓際へ移動する。オレもなんとなくつられてしまい、読みかけの小説を机の上において窓際へと移動。
 窓枠の前にある落下防止のためのてすりに頬杖をつき、先輩はどこか遠くを見ながら呟く。
 不覚にも、そんな先輩の表情に赤面してしまった。
「一度でも、たった一度だけでもいいからさ、ここじゃない世界、現実じゃない世界に行ってみたいと思ったことない?」
 オレは今まさに、そんな世界にいるのだ。もちろん先輩はそんなこと知っているはずも無いのだが、それでもなんとなく笑ってしまった。それは先輩が子供っぽいと思ったからでも、先輩が憧れる世界にいる自分が奇妙に感じたわけでもなく。
 そう、ただ、なんとなくだ。
「現実なんてさ、お世辞にも楽しいなんていえないよ。辛いことや悲しいことばっかりだもん。……私はさ、思うんだよ。辛いことや悲しいことがあって、それを忘れるためにみんなファンタジーの世界を望むんだって」
 その気持ちは、オレも解らなくは無い。オレもかつてはそう思っていたから。オレもかつては、ファンタジーの世界に憧れていたから。魔法使いや霊能力者や超能力者やCIAの特殊諜報部員や正体不明の暗殺者になりたかったから。
 それでもしかし、覚めない夢は無い。いつからかオレは現実の世界にファンタジーが入る余地など無いと言うことを理解し、今までに至る。サンタなんて両親の変装だったし、ミステリーサークルも人為的に作られたもの。ポルターガイストは欠陥住宅によるものだし、ラップ音はどこか外国の姉妹が『間接を鳴らして音をたてていました』なんていう始末だ、そんな話をいくつも聞けば、自然とこの世にファンタジーなど存在しないということを理解する。
 はずだったのだ。
 オレの人生がどこでどうねじれ曲がってしまったのかは解らない。もしかすると初めからこうなるような運命だったのかもしれないし、それとも偶然によるものなのかもしれない。過程がどうにしろ、オレは一度死んで生き返っている、死神も現れやがった。つまり、ファンタジーだ。先輩が憧れ、オレが憧れていた、ファンタジーだ。
「不謹慎かもしれないけどさ、本当に悪の大魔王なんてものがいたら、いいのにね。その大魔王はね、世界を手に入れようと企んでるの。大魔王がモンスターを作り出してね、人々の生活を脅かすの。……だから私たちは辛くて悲しいのかもね、なーんてね。馬鹿だからさ、こんなことをそんな風に思っちゃったりしちゃうわけですよ、この先輩はね」
 ぺろりと舌を出しながら、先輩は少し恥ずかしそうに笑った。先輩の顔の半分が夕焼けに照らされ、朱に染まっている。
「もし、さ」。先輩は頭の後ろで手を組んで、オレに対して背を向けて続ける。「私が悪の大魔王に捕まっちゃったら……そのときは後輩が助けてくれる?助けに来てくれる?」
 オレは少しだけ呆れて、そしてめちゃくちゃ馬鹿馬鹿しくなって、それでも先輩の真摯な態度に何故かこの場をはぐらかす気になれなくて、オレは素直にうなずいてしまっていた。全く一体この人の精神年齢は何歳なのだろうか。
「ええ、助けに行きますよ」
「本当に?」
「本当の本当に」
「絶対?」
「絶対の絶対に」
 先輩の言葉を二回反復して、オレはふと思いついた質問をしてみる。
「じゃあ、反対に質問。……もしオレが死んだとしたら、先輩は泣いてくれますか?」
 我ながら馬鹿な質問だと思う。先輩の質問もかなり馬鹿な質問だったが、この質問もそれとタメを張るくらいに馬鹿な質問だと思う。それでも、オレは結構真面目だった。先ほどの質問を先輩が真面目にしていたように、オレもこの質問を真面目にしているのだった。先輩はそんなオレの気持ちを知ってか知らずか、にんまりと笑って返答をする。
「駄目」
「は?」
 思っても見ない答えが返ってきて、オレは反射的にそう聞き返してしまう。一体全体何が「駄目」なんだろうか。
「だから、駄目。後輩は、死んだら駄目。私が後輩のことを忘れないうちは死んだら駄目なの。解った? 解ったならそんな質問はもう二度としないこと」
 そういって先輩は自分のカバンの中から何かを取り出し、オレに手渡す。ゲームボーイアドバンスだった。何かソフトもささっている、一体これをどうしろというのだろうか。オレは疑惑の視線を向けた。
「これさ、後輩に貸してあげる。すっごく面白いんだよ、今日じゃなくてもいいからさ、やってみてよ」
 そりゃまた唐突なことで。別にこの人の唐突な思いつきや行動は入部当初から見てきていたし、時たま風の噂で耳につくこともあったのでそれほど驚くことでもない。手のひらに置かれたゲームボーイアドバンスとソフトを自分のカバンに入れる。
「それじゃ!」
 敬礼のポーズをしながら、カバンにオレが読んでいた小説などを詰め込む先輩。「どうしたんですか?」とオレが聞くと、「塾なの」という答えが返ってきた。なるほど、それで今ゲームをオレに渡したわけか。
「約束、絶対に守ってよ」
 そう念を入れてから、ドアの向こうに先輩は消えていった。全く、約束も何もあったものじゃない、この世のどこに悪の大魔王が存在すると言うのだ。この世に存在するのは死神だけで十分だ。
 だけどやっぱり、悪の大魔王も存在するのかもしれない。死神が存在するなら、悪の大魔王も存在してもいいのかもしれない。少なくとも先輩の気がそれで晴れるならば、別に悪の大魔王なんてものが存在してもいいのだろう。それでも悪の大魔王というチンケなネーミングはどうかと思ったが。
 どうにもやることがなくなってしまったので、後を追って帰宅の準備をする。準備と言ってもただカバンを背負うだけなので、ものの数秒で済んでしまう。ドアに手をかけて一気にスライドさせると、そこには生徒会長がいた。
「おや、畠山くんではないか、マイフレンドは―――」。そんな生徒会長を無視して駆け出す。ていうか生徒会長よ、先輩が出て行ったのは今すぐだぞ。そこですれ違わなかったのか? 一本道のはずだけれど。だがしかし、そんな疑問はすぐに消え去ってしまう。
 何がなんだかわからなかったが、何かどこかが悲しかった、空しかった。全てが明日で終わるのだ、この部室から見える光景も、生徒会長の回りくどい喋り方も、車井のバンド活動も、そして先輩の笑いも。
 もちろんそれはオレの主観から見ただけで、客観的な視点から見れば何も変わらない。オレが死んでも部室の窓から見える光景は変わらないし、生徒会長の喋り方も変わらない。車井のバンド活動も同じように終わらないし、先輩だって笑う。そんなものだ、オレ一人の価値なんてそんなものだ。オレがいてもいなくても世界は回る、少なくとも大統領や総理大臣がいなくなるよりは、世界に与える影響はない。
 オレが世界に与える影響など、まさに微々たるものだ。オレ一人が何をしてもどうにもならないということをオレは知っていたから、したいことなどなかった。オレだけに出来ることなどないのだから、オレはしたいことなどなかった。
 先輩が羨ましかった。車井が羨ましかった。自分にしか出来ないことをみつけていた二人が、羨ましかった。
 オレは明日、死ぬ。間違いなく、死ぬ。それは避けようが無い事実。一週間と言う期限は、思ったよりも短かった。
 したいことなど無かった、だけど。
 オレは明日、死ぬ。間違いなく、死ぬ。それは避けようが無い事実。一週間と言う期限は、思ったよりも短かった。
 したいことなど無かった、だけど、それは全て過去形。
 まだ死にたくないと思った。まだ先輩の顔を見ていたいと、そう思った。
 オレに残された時間なんて、もうほとんど無いというのに、そう思ってしまった。

                                    *

 家にたどり着く。兄貴はいまだバイトから帰ってきておらず、ドアの鍵はかかっていた。死神のお姉さんがいるかとも思ったが、そんな期待は簡単に裏切られる。先輩から借りたゲームをすることもすっかり忘れ、死亡前夜はあっけなく過ぎていった。
 オレの死亡まで、残り一日。



 この世には避けようの無い出来事と言うものが必ず存在していて、それは大体が出来事に直面してからようやく気がつく。もちろん何か対策を練れないことも無いが、そこまでしても避けることが出来ないからこその避けようの無い出来事なのだ。人間人生で少なくとも一回はそんな場面に遭遇するもので、オレはすでに小学校のころに一回経験済みだから、今回が二回目と言うことになる。
 避けようの無い出来事、つまり、オレの机にでかでかと黒いペンキで文字が書かれていることだ。おまけに言うと、そこから派生したクラスメイトの注目の視線も痛い。朝登校したときからこんな有様だったのだ、教室に一番最初に入ってきたやつによれば、自分が来たときにはもうすでに書かれていた、とのこと。
 クラス中の視線がオレに集まっている、オレだって何がなんだかわからない。一瞬だけいじめか?とかなんとか思ったけれども、どうやらその線は薄そうである。机にはこんな文が書かれていたからだ。
『暇なとき、保健室に来ること』
 この文を書いた人間は容易に想像がついた。きっと他のクラスメイトも、ほとんどが気がついているのではないだろうか。呼び出し場所に保健室を使うなんて一般人はしないだろうし、愛の告白ならなおさらだ。この学校で保健室と聞いて思いつくことと言えば、怪我人でも薬品でもなく我が部の部長様なのだから仕方が無いと言えば仕方が無いのかもしれないが、あんまりだと言えばあんまりである。
 クラスメイトの視線が、「おい、一体あの人とどういう関係なんだよ」と語りかけてくるようである。そのクラスメイトの視線の中には無論車井の視線も混じっていたが、そんな事は今はどうでもいいので割愛する。クラスメイトのほとんどは、オレが映画部に入っていることなんて知りやしない。いや、映画部があることすら知らないやつもいるかもしれないが。
 ところで。オレは考える。暇なときとはどういう意味だろうか、普通ならオレが暇なときに保健室へ行けばいいのだろうが、もしかすると先輩自身が暇なときに保健室へ来い、という意味なのかもしれない。オレが先輩の暇なときを知るわけが無いし知りようが無いので、普通は後者の可能性を簡単に切り捨てることが出来るのだが。
「あの人だからなぁ」
 あの人だから。それはどんな理論よりもどんな理屈よりも、解りやすい理由である。才能が多すぎたりある一方に秀でている人間と言うのは、必ずどこか変なところを持っているとは聞いていたが、あの人はまさにそれにビンゴしていた。
 そうこうしているうちにチャイムが鳴り、担任が教室へと入ってくる。オレは急いで席についた。先輩のことはまぁ仕方が無い、一時間目の終わりにでも保健室へ行ってみよう、それが一番早い。

                                    *

 この学校は四階建てになっていて、部室がある部室棟と一年から三年までの各教室がある本校舎に分かれている。部室棟には部活の関係で、体育館や美術室などの特別教室が何個か置いてあるが、基本的に特別教室は本校舎のほうにある。
 普通、学校の保健室と言うものは一階にあるべきなのだろうが、何故かこの学校の保健室は二階に位置している。あまり学校で怪我や病気になったことなど無いのでオレはその不便さを感じたことが無いが、不便な人には矢張り不便なのだろう。
 二年の教室は三階にあるので、階段を下りて保健室へと到着。ドアをスライドさせると、まずは黒いノートパソコンに突っ伏したまま口の端からよだれをたらして突っ伏している我が校の養護教諭が。職務怠慢だとは思うのだが、別にオレは怪我をしているわけでもないので放っておくことにした。そのまま養護教諭の前を通り過ぎ、一番窓際のベッドへ近づく。カーテンがしてあるので先輩の姿は見えない。他に保健室を利用している生徒もいないようで何よりだ。
「先輩、なんなんですか? あの机の落書きは」
 返事は無い。カーテンを開けようかとも思ったが、最悪先輩が着替えている可能性も考えられたので自粛して待つことにする。が、それでも何の物音も聞こえないのはおかしいのではないだろうか。
 オレは今日死ぬ。お姉さんがそういったのだ、嘘ではないだろう。しっかりと拇印まで押したのだ。だからオレは、できる限り今を楽しもうと思った。先輩と別れるのが悲しくないように、車井と別れるのが悲しくないように、兄貴と別れるのが悲しくないように、できるだけ楽しく接しようと思った。先輩がオレのことを忘れないうちに死なないというのは無理なので、仕方ないと割り切った。
 死にたくなかった。先輩とまだ一緒にいたかった。だけどそんな願いは無理だった、その気持ちにすら昨日気づいたばかりだったのだ。恋愛感情なのだろうか、それとも別の感情なのだろうか。いや、そんなことすらどうでもよかった。
 先輩からの応答は、いまだ、ない。
「先輩? 先輩? どうしたんですか? せんぱーい!」
 返答は、何故か、ない。
 そのときだった。オレの声で目を覚ましたのだろう、養護教諭が目をこすりながらこう言った。
「あ……あの子? あの子は今日は……ふあぁあ……来て、ないよ。どうしたんだろうね?珍しいよね、それじゃあおやすみ……」
 ちょっと、またあなたは寝るのですか。いや、問題はそんなことじゃあなくて。
 先輩がいない。今日は来ていない。頭の中でそのフレーズがリフレインし、気がつけば保健室を飛び出していた。乱暴に保健室のドアを閉め、駆け出す。目的は同じ階にある三年生の教室、先輩の所属しているクラス。一人の女子生徒を捉まえ、先輩の名を告げてから今日学校に来ているかどうかを尋ねる。随分と怖い顔をしていたのだろう、女子生徒は少しばかり怯えた顔で、今日は来ていない―――正確に言うと、今日も、なのだろうが―――というような内容のことを言う。礼も言わずにその場をあとにした。
 何故、先輩が学校に来ていないのか。病気という可能性が一番高かった、風邪でもひいて学校を休みでもしているのだろう、そうとしか思えなかった。そうとしか思えないのに、そうではないと思った。
 スピーカーからチャイムの音が鳴り響いて、少しばかり歩幅が縮まる。病気だ、病気なのだ。だから学校に来ていないのだ。自分にそう言い聞かせる。だけどオレは気がついた、気がついてしまった、今朝の出来事を。
 教室に一番最初に来たクラスメイトは、こう言った。自分が来たときにはもうすでに書かれていた、と。それが示唆することは二つ、先輩が誰よりも先に学校へ来て書いた可能性と、誰もいない深夜に学校に侵入して書いた可能性だ。深夜の学校に侵入するとは考えにくかった、そんな危険を冒す必要がどこにあるのだろうか。
 先輩でない第三者が書いた可能性もあるにはあったが、その可能性は完璧に捨て去る。あの字は間違いなく先輩のものだったし、仮にその第三者が先輩の筆跡を真似たとしても動機がない。単なる悪戯と考えればつじつまが合わないこともないのだが、悪戯にしては手が込みすぎている。
 オレは仕方がなく教室へと戻った。これ以上考えても埒があかない、家に帰ってから一度先輩の家へと電話をかけてみることにしよう、幸いにも携帯の番号は前に教えてもらっていた。

                                    *

 電話には誰も出なかった。電源が切られているわけでもなく、単純に持ち主がいないだけだと伺える。結局学校が終わるまで先輩の姿は見ていなかったし、教師に聞いても知らぬ存ぜぬの一点張り、先輩を見かけたかどうかに関して教師が嘘をつく必要も無かったので、病気ではないと言うことが判明した。何か途方もない大事件にかかわっていれば話は別だが、そんな事件があれば少なからずはオレの耳にも届いているはずだが、今のところそんな重大なニュースなどは聞いていない。
 先輩はきっと、ただのサボりだろう。そう自分に言い聞かせる。大体先輩がなにをどうしようとオレには関係のないことだし、万が一にも先輩が何か事件に巻き込まれていたとして、オレが出来ることなど何一つない。世界でもトップクラスに入るほど優秀な、我が日本の警察機構がどうにかしてくれるものである。そう、オレに出来ることなど何一つないのである。
 車井はバンド活動に精を出していた。それは車井にしか出来ないことだ。兄貴は古書店でのバイトを楽しんでいた、それは少なくともオレの周りでは、兄貴にしか出来ないことだ。先輩は保健室登校児のくせに、かなり優秀だった。それは出来る出来ないと言うものですらなく、特異な存在だった。
 その点に引き換え、オレは。
 今の時刻は六時十分を少し回ったところ。あと一時間も待たずにオレは契約どおり二回目の死を迎えることになるらしい。いまだに実感がわかないが、確かなのだろう。
「なぁ、お姉さん、いるんだろ? ……本当にオレ、死ぬんだよな」
 その問いに対し、ふっとお姉さんがオレの眼前へと現れ、うなずいた。
「……うん。間違いなく、ね。契約書のとおりに、君は今日の七時十分に死ぬ。これは事実、間違いようのない事実だよ。……正直言うと、もうちょっと君で遊びたかったんだけど」
 お姉さんはどこか寂しげに微笑んで、最後に「今日でお別れだね」と付け足す。先ほどのセリフが、『君と』ではなく『君で』だったことに文句のひとつもつけたくなる衝動に駆られるが、いまはシリアスな場面だと思ったので自粛した。
 ちゃーちゃらちゃーちゃらららら。不意にお姉さんの携帯の着信音が聞こえて、お姉さんが急いでアンテナを上げる。死神でも携帯を持つんだなとか、あの世には携帯の電波は届かないだろうとか、そんな意味のないことを考えてしまった。それに着信音が、パッヘルベルのカノンだったということもあるし。
「……えぇ、はい。はい、えっ………本当、ですか? ……それは……はい、はい。解りました、至急そちらへ向かいます」
 オレが今まで見たこともないような真剣な態度と口調で、お姉さんは誰かと携帯越しに話していた。あの話し方からして友達などでは決してないだろう、となると、上司であるらしい神様や閻魔様だろうか。全く、死神どころか神様と閻魔様なんて、本当に冗談じゃない。
 お姉さんは携帯を切ると、オレに小さく手を振って「さよなら」とだけ言い、そしてそのまま煙のように消えてしまった。最後にお姉さんが、どこか病的なまでに感じさせるほどのにやにやとした笑みを浮かべているような気がしたが、あれはなんだったのだろう。それともオレの勘違いか。
 オレは座布団にどかっと腰をおろす。この間先輩から貸してもらったゲームのことを思い出し、することにした。死ぬ直前にゲームなど能天気な行動だと我ながら思ったが、これ以外にすることがなかったのである。
 アドバンスのスイッチをつけ、ゲームを起動する。その瞬間に、オレの家の電話がプルルルと鳴った。慌てて受話器をとり、耳に押し当てる。
「はい、畠山です」
 数分後、オレは受話器を置いた。部屋の中を静寂が包む。
 帰ってきていないのだと言う。誰が? 先輩が。昨日の塾にも行っていないらしい、きっと学校帰りにいなくなったのだ、そのような内容のことを、先ほど電話の向こう側にいた人物である先輩の母親はいった。すでに警察には届け出たらしいが、ことを荒げたくないので学校には言っていないらしい。オレに電話が来たのは、先輩の携帯電話の短縮ダイヤルにオレの家の電話番号が入っていたかららしかった。
 もし先輩の母親の考えが正しいとするならば、先輩と最後に一緒にいたのはオレだ。先輩は部室を出て、塾に行く途中にいなくなった。誘拐されたのかもしれなかったし、何かの事故に巻き込まれているのかもしれない。
 先輩の母親はこうも言っていた、「何故携帯電話を持っていなかったのか」と。いつもは持っているはずで、そう簡単に忘れるものだとは考えにくい。だけど、そんなことは、オレには結局関係ない。
 オレは別に先輩の家族でも彼氏でもない、ただ同じ部活に所属しているだけと言う関係だ。先輩がなにをしようとオレに関係はない。関係はないのだ。
「……くそっ」
 側に置いてあったアドバンスを手に取り、もう一度スイッチを入れる。簡単な起動音がして、ゲームがスタートする。どうやら続きの章があるようなので、先輩の進み具合でも見てやろうかと続きの章をスタートさせる。その中には数個のセーブデータがあり、主人公の名前が表示されていた。
 一度ため息をつき、部屋を見回す。兄貴はまだ帰ってきていない。
 解った。
 解ってしまったのだ。
 なんで先輩が携帯電話を忘れてしまったのかと言う、極々些細な出来事の理由も。なんで先輩が家にも帰らず学校にも来ず、両親にさえ連絡をよこさないのかも。オレはそれら全てが解ってしまった。
 オレは名探偵などでは決してない。殺人事件にもし出合ったとしても、オレは間違いなく謎なんかを解決することも出来ずに終わるだろう。オレは別に頭がとてつもなく良いというわけでも咄嗟の機転が利くというわけでもないのだから。
 それでも何故か。
 それとも矢張り。
 オレは全てが解ったのだ。いや、オレには、オレだけには全てを解ることが出来た。例え地球上にいる数億人が首を横に傾げたとしても、オレだけはこの謎を解くことが出来たのだ。
 兄貴に心の中で謝りながら、オレは車のキーを掴んだ。
                                                                            五章

 ブロロロ。そんな音がエンジンルームから聞こえてくる。体全体にかかる振動、両手に握られているハンドルの感触。右足はアクセルに、左足はブレーキに。シフトの位置を確かめて二速にする。
 ライトを点灯させ、アクセルを思い切り踏んだ。シートベルトが肩に食い込み、Gが五体にのしかかる。目的地は学校、信号を全て無視して可能な限りスピードを出せば、きっと二、三十分でつくはずだ。いつも使っている交通手段などを使用していれば、絶対に間に合わない。移動している間に時間になってしまう、これしかないのだ、方法は。
 全く、馬鹿なんじゃないかと思う、オレも先輩も。兄貴に死ぬほど怒られるのは目に見えているのに、もしかしたら警察に捕まるかもしれないのに、先輩が見つかる可能性なんて、ほぼゼロに等しいのに、それでもこんな行動をするオレは大馬鹿だと思う。先輩も先輩だ、昨日の今日だろう? 唐突すぎやしないか?
 先輩は、あの人はこういった。「私が悪の大魔王に捕まっちゃったら……そのときは後輩が助けてくれる? 助けに来てくれる?」なんていいやがった。一体いつまで夢を見ているんだろうか、悪の大魔王なんて存在しないのに、悪の大魔王を倒せるオレも存在しないのに。存在しない、はずなのに。
 先輩は悩んでいた、苦悩していたのだ。先輩が何に悩み、苦悩していたのかはもちろんオレが知るわけはない。だけどそれでも、先輩はしっかりと間違いなく、悩んでいたのだ、苦悩していたのだ。先輩はだから、悪の大魔王を欲しがっていたのだ。
 もしかしたらそれは、控える大学受験だったのかもしれない。ストーカーまがいの生徒会長の純愛なのかもしれないし、あの人とはまったく持って縁がないように思える甘酸っぱい恋愛だったのかもしれない。それともやっぱり、他のものだったのかもしれない。どちらにしろどれにせよ、先輩は悪の大魔王を欲しがっていたのだ、RPGの世界に、ゲームの世界に出てくるお姫様になって、ヒーローに、勇者に助けてもらいたかったのだ。そして、その勇者に選ばれたのは、他ならぬオレ自身だった。
 全くもって、笑えない冗談だ。
「……くそっ! ばっかじゃねぇの!? あの人は! 昨日の今日じゃねぇか!」
 アクセルを目いっぱい踏み込む。カーブが迫る。
 一瞬だけブレーキをかけ、シフトダウン。対向車はご丁寧にもよけてくれた、ありがたい。今のは間違いなく正面衝突コースだった。
 死神のお姉さんは言った、間違いなく言った。オレが事故で死ぬことはないのだと、そう言った。だからオレは死なない、法廷速度をぶっちぎりで無視しようと、信号を遵守しなくとも、オレは死なない、死ねないのだ。
 ゲームの中の勇者は、死んでもやり直しがきく。だがしかし、現実世界にはリセットボタンや復活の呪文など存在しない。途中で死んでなどいられない、先輩がオレを待っているのだ。
 この世には避けようの無い出来事と言うものが必ず存在していて、それは大体が出来事に直面してからようやく気がつく。もちろん何か対策を練れないことも無いが、そこまでしても避けることが出来ないからこその避けようの無い出来事なのだ。人間人生で少なくとも一回はそんな場面に遭遇するものなのだが、オレは最近そんな場面ばかりに出合っている気がする。
 例えば、迫る自分の死。
 例えば、消えた先輩。
 例えば、必要とされない自分。
 例えば、大事な人との別れ。
 この世に自分が存在する意義を考えてみても、それは反対に自分がこの世に存在しなくてもいいという答えしか導き出せなかった。オレに出来ることは大抵の人に出来ることで、つまりオレはこの世に存在しなくてもいいと思ったからだ。だけどぎりぎりになって、本当に崖っぷちに立ったところで、オレだけにしか出来ないことに気がついた、そう、それは間違いなくオレにしか出来ないこと。
 十分ほど前のことだった。先輩から借りたゲームのセーブデータ、その中に先輩からのメッセージは、あった。上から二つ目のセーブデータ、それはラスボスの直前でセーブしてあった。主人公の名前は、「こうはい」。
 前方に横断歩道を渡る人がいる。クラクションを一発鳴らして飛びのかせ、その数センチ前を猛スピードで駆け抜ける。どこからかパトカーのサイレンの音が聞こえている気がしたが、そんなのはもうどうだっていい、オレが生きて学校までたどり着ければ、あとはもうどうだっていいのだ。自分の大事な人を、自分が愛すべき人を助けるために死ぬならば、何も怖くない。それはオレだけじゃなく、誰だってそうなはずだ。誰だってそんなヒーローに憧れているのだ。
 学校に先輩がいないとは思わなかった。ラスボスは、魔王は普通、城に住んでいるものなのだ、だから先輩は学校にいる。自分の城とも言うべき、学校の部室にいるはずだ。
 オレは迷わず上から二つ目のセーブデータを再開させた。装備を確認し、少しダンジョンを歩いて敵と戦えば、すぐに魔王だった。装備品はかなり貧弱で、『てつのつるぎ』『どうのかぶと』『うろこのよろい』『せいどうのたて』『いのちのいし』の五つ。こんなので魔王になど勝てるわけなんてないだろうが、オレにはお似合いの装備かもしれなかった。
 魔王は、言った。
『よくぞここまで来たな、ほめてつかわそう。しかし、さいごに笑うのは、このわたしだ!ここで、チリとなるがいい!』
 とてつもなく安っぽい音楽が流れて、画面が暗転し戦闘シーンへ。出てくるのは魔王のみ、こちらのパーティは主人公である『こうはい』以外には誰もいなかった。ドット絵で描かれるキャラクターも、一人きり。
 オレがあのゲームをプレイしたのは、そこまでだった。気がつけば、車のキーを握り締めていたのだ。
 何故先輩がオレを勇者に選んだのかなんて、もちろん全然解るはずも無い。先輩のただの気まぐれか、それとも何かの意図があってのことなのか。きっと前者だろうとは思われたが、そんなことすぐに気にも留めなくなる。カーブだ。
 何回目だか解らない信号無視をする。メーターを見れば、針は百三十キロを叩き出していた。中古車の軽にはかなりの負荷なのだろう、ぎしぎしとカーブで音を立てる。最悪このまま路上で分解してしまいそうだ。後ろから聞こえる婦警の声とサイレンをバックミュージックに、学校へと向かう。
 先輩がこんなことを考えたのはいつだったのだろう。ふと、そんなことを考える。
 ゲームをオレに渡して、携帯電話を家に残して、そして失踪する。そんなシナリオを、先輩はいつ考えたのだろうか。
 こんなのはただの驕りかもしれなかったけれど、ただの自己満足かもしれなかったけれど、自信過剰だといわれるかもしれなかったけれど、たぶん先輩はオレじゃなければ駄目だったのだろう。だから先輩は、オレがセーブデータに気がついて学校に来させるために、オレにゲームを手渡した。オレに先輩自身がいなくなったということを知らせるために、わざわざ深夜の学校か早朝の誰もいない学校まで出向いて、オレの机に文字を書いた。極め付けに、オレの電話番号が短縮ダイヤルに入っている携帯電話をわざと忘れて、親からオレの家までかけさせる。それで完璧だ。
 全てが先輩の思い通りに運んでいる気がする。オレはともかく、先輩の母親やオレのクラスメイトまで。さすがは保健室登校児のくせに学年で十本の指に入るほどの秀才である。他人を自分の掌で躍らせることなど、造作もないということなのか。
 それとももしや―――いや、考えないでおこう。全てが終わったら、先輩に聞けばいい。死んでから、死神のお姉さんにでもいい。これは全て先輩が望んだことなのか、なんて、別にいつでも誰にでも聞けることだ。
 校門が見える。
 いつのまにかサイレンの音は消えている。
 ブレーキをかける。
 すさまじいGが体全体に重くのしかかる。
 ハンドルを切る。
 ズゴンという大きな音が聞こえて、エアバッグが作動する。
 オレはすぐさま車内から飛び出し、校門の壁にぶつかってフロントが痛いほどにひしゃげている自動車を一瞥した。悪いな兄貴と呟くが、すぐにそんな気持ちは霧散する。部室棟のほうへと視線を向けて、走り出す。
 玄関で上靴に履き替えるなどせず、妙に生ぬるい風を肌に感じながら、オレは全速力で部室へと走り向かう。玄関の扉は何故か開いていた、普通は閉まっているはずなのに。躊躇せずに校舎の中へ足を踏み入れ、電気もつけずに階段を二段抜きで駆け上る。学校の怪談だなどと騒ぎ立てたり怯え竦む間すら与えず、一気に三階一番奥の部室を目指す。
 電気はついていなかった。物音ひとつ聞こえなかった。現在時刻は六時四十八分、あと二十分とちょっとだ。それまでに決着をつけなければいけない、そうしなければオレは死ぬ。生きてきた意味もなく、簡単にくたばる。
 そんなのは絶対に御免だ。
 きっとこの中に、魔王がいるのだろう。いや、魔王はこの中にいるのだろう。もちろんそれはとても現実離れした話で、普通は誰も信じないのだと思う。オレだって信じたくない、全てが先輩の狂言で、先輩を家へと連れ帰ってハッピーエンド、そんなのだったら一番楽だ。楽だけど。楽なのだけれど。
 だけど、面白くなんて微塵もない。
 そんなの、オレも先輩も、誰一人として望んじゃいない。
 この中に魔王はいる。先輩が望んだ魔王が、この部室の中に絶対いるのだ。ファンタジーの世界にしか住まない魔王が、現実という我が部室にいるのだ。どこか根拠のないような確信を抱き、入る。
 ドアをスライドさせ、一歩。
 辺りを伺いながら、二歩。
 眼前を見据えて、三歩。
 そこでオレは立ち止まった。
「……先輩は、どこだ」
 オレの目の前に佇んでいるそいつは、妙に低いしわがれた声で乾いた笑い声を漏らす。部室は薄暗く、よく風体は見えない。どうやら黒いローブのようなものを頭からすっぽりと羽織っているらしく、顔も見えにくい。白く長いひげのようなものを少しばかり暗闇に慣れた目で捉えることが出来た、老人のようである。
「くく……その前に、場所を移動しようか。そうだな、校庭がいいだろう。……安心しろ、他者に野暮な真似は、させんよ。登場人物は、わたしと貴様と……貴様の言う先輩とやらだけだ」
 それだけ言い残し、老人はふっと煙のように消える。妙にフェアだなと思いつつも、オレは部室を飛び出した。先ほどより速い速度で階段を駆け下りる。足のどこかがずきずきと痛む。階段を五段飛ばして踊り場に着地、体全体に伝わる振動。バランスを崩して転げ落ちそうになるも、それを頑張って踏みとどめ、また走り出す。
 二階に下りて、ようやく一階。走り続けて、ついに玄関。校庭まではもうすぐだ。
 校庭に着き、何かが見えた。とっくに暗闇に慣れた目をさらに凝らし、確認。間違いなくあの老人だ。
「ここに出て一体どうする気だ! それよりも早く先輩を返せ!」
 オレの怒声は静かな校庭に響き渡った。不思議と外部からの音は聞こえてこない。どうやら先ほど老人が言ったことは本当のことらしい、きっと外界と学校と遮断するバリアでも張られているのだろうか。
「そう慌てるな……ほれ、貴様の言う先輩とやらは、この娘だろう?」
 口の端を歪めてにやりと老人が笑い、ぱちりと指を鳴らす。不意に淡く光る球体が現れ、なんとその中では先輩が横たわっていた。離れた位置から見る限りでは、眠るか気絶するかしているらしい。まさに囚われの身となってしまったお姫様だ。多少の性格の悪さには目をつぶるとして、顔もいいから適役である。
「くくくっ、そこまでこの娘が心配か? 小僧。あまり怒るでない、大丈夫だ、この娘には一切手を出しておらんし、これからも手を出さん。誓おう」
 顔の上から半分がフードで隠れたまま、老人は続ける。
「良くぞここまで来たな、褒めて遣わそう。しかし、最後に笑うのは、この私だ! ここで塵となるがいい!」
 どこかで聞いたことのあるセリフを老人が言って腕を一振りすると、次の瞬間そこには大きな黒く赤い大きな鎌が存在していた。いつだったか死神のお姉さんに見せてもらったものと全く同じ、いや、それより何倍も禍々しい大鎌だ。刃の部分なんて、きっと一メートル以上あるだろう。切られたら、間違いなく、死ぬ。
 多分普通は、こういう場面に出くわしたら逃げるのだろう。夜中の校庭で、大きな、とてつもなく大きな鎌をもった老人と出くわして、その老人がその大きな鎌で切りつけてなんかきたら、多分逃げるしかないのだろう。逃げることが出来ない場合、例えば腰を抜かして動けない場合なんかはもう、最悪だ。腰を抜かしていなくとも、学校の周りにバリアが張られていたならば、もっと最悪だ。
 どうしろって? オレは普通の、平々凡々で普遍的中庸的な、一介のまっとうな公立高校生だぞ。格闘技なんて習ったこともないし、殴り合いの喧嘩だって片手で足りるほどしかしたことがない。そんなオレにどうしろって?
 オレは何故か笑っていた。自然と顔に不自然な笑みが浮かんできていた。絶望感がとてつもなくあった、だが高揚感も確かにあった。悲壮感がかなりあった、だが嬉々とした感情も確かにあった。
 そこで気がつく。オレの右手に剣が握られているということに。
 そこで気がつく。オレの体に鎧が着けられているということに。
 そこで気がつく。オレの頭に兜がはめられているということに。
 そこで気がつく。オレの左手に盾が掴まれているということに。
 そこで気がつく。オレの首に水晶がかかっているということに。
 それらはきっと、ゲームの中で『こうはい』が装備していたものなのだろう。『てつのつるぎ』『どうのかぶと』『うろこのよろい』『せいどうのたて』『いのちのいし』の五つを、オレは今身につけているのだろう。どこからどう見ても貧弱極まりない装備である。
 思う。いつからこの世は、ファンタジーの世界とごっちゃになってしまったのだろうと。一体いつから、この世では非現実的な出来事が起こるようになってしまったのかと。それよりも矢張り一番に思うことは、なんでオレがこんなことに巻き込まれているのかということだった。なんでオレが魔王などと戦わなければならないのか、それが一番疑問で仕方がなかった。
「我は魔王なり!全てを束ね、総てを支配し、凡てを随わせる者なり!」ほら、こんなことまで言い出す始末だ。
「先輩、約束は守りますよ」
 ため息をひとつつき、剣を構え、走り出す。どうやら現実はかなりご都合主義になったらしい、重そうで持てる気がまるでしないような剣をこんな簡単に扱うことができるんだからな。
 ガキィンと音がして、剣と大鎌の刃が激しく切り結ぶ。上から、左から、右から、攻撃と防御を交互に繰り返す。自分にこんな運動神経が備わっているはずはないのに、自分の力がこんなにあるわけはないのに、オレが十数キロはあるだろうという重さの装備をして戦っているという現実。軽く眩暈を覚えそうだった。
 魔王は一旦後ろへ下がり、何か呪文のようなものを詠唱し始める。それはビデオテープを二倍速で再生したときのような感じで、オレにはぜんぜん意味が理解できなかったけれども、それでもなんとなく危ないという直感が脳裏を掠めて、次の瞬間にはオレの眼前を青白い何か―――途方もない速さで良くわからなかったのだが、あれはきっとレーザーのようなもの―――が横切っていった。
 ゼロコンマ数秒遅れて、オレの後方約七十メートルほどでかなり大きな爆発音が聞こえる。続けて何か、擬音で表現すればミシミシミシというような、形容詞で表現すれば同じように大木が雷を受けて倒れるときのような音が聞こえた。
 恐る恐る後ろを振り向くと、そこには幹の三分の二ほどが大きく抉り取られている広葉樹が、だんだんと右に傾いていた。周りで赤い炎が燃え盛っている。人に当たったら大変だ、そう思った。
 魔王はさらに呪文の詠唱を始める。今度も上手く回避できる保証はない、かといって真っ向から立ち向かえるわけもない。それならどうするか。目には目を、歯には歯を。
 オレは左手の盾を放り投げ、剣の切っ先を相手に向けた。目を瞑って、精神を集中する。もちろんそんな呪文なんてオレが知るわけなんてない、けれども何故か大丈夫だという予感があった、予想があった。気がつけばオレは、自分でも気がつかないうちに、自分でも意味の解らない言葉を喋っていた。
 剣の先に赤く光る火の玉が出現した。その火の玉は見る見るうちに大きくなり、あっという間にオレの顔を覆い隠すくらいまで大きくなる。
 剣を振り上げ、叫ぶ。
「いけぇーっ!」
 もちろんオレの叫びに意味なんてないのだろうさ、ただなんとなく、こういう風に掛け声をかければ呪文の威力が高まるような、そんな馬鹿らしくて幼稚な考えが脳裏に浮かんだのだ。
 相手も、魔王も何か呪文を唱える。と、突如として地面から大きな先の尖った氷の柱が何本も突き出してきた。氷の柱は真っ直ぐにこちらへ向かっており、逃げる暇はどうやらなさそうである。半ばやけになって、今はすでに炎の塊と化しているものを剣で叩きつける。図らずとも炎の塊は、氷の柱と衝突した。
 あっという間の出来事だった。オレが放った炎の塊と魔王が放った氷の柱は、漫画チックにばちばちと火花を散らして拮抗する兆しすら見せず、簡単に大量の水蒸気となって霧散した。確かにこれが現実的な反応なのかもしれないが、今この現状にリアリティを持ち込むのはどうかとも思う。
 どうやらそんなことを考えている暇はなかったようで、さらに魔王からの攻撃第三陣が来る。またも魔王は呪文を唱え、浮遊している小さい光の玉を十個ほど出した。合図らしい手を上に上げる動作と同時に、十個ほどの光の玉は全てがオレに向かってかなりのスピードで飛んできた。時速百キロはあるんじゃないだろうか。
 攻撃はまだ終わりじゃあなかった。さらに魔王は大鎌を構えなおしてオレに向かって突っ込んできたのだ。光の玉と直接攻撃の二段攻撃、そういうことらしい。
 今度も考えている暇はなかった、またも気がつけば、オレはオレ自身が知るはずのない呪文を唱えだしていた。
 先ほど放り投げた盾を拾い上げ、体の前に掲げる。こんなもので全ての攻撃を防げるわけなどないだろうが、幸いにも先ほど呪文を唱えている、盾を媒介として前方にバリアを張る呪文だ。いつの間にか呪文の効力もわかっており、しかも行動が場に順応していく自分自身に驚きを隠せそうにない。
 どんと音がした。この学校に来るときの、車が校門にぶつかったときのようなそんな音だった。だが、直に体に受けているぶん、衝撃はあのときの比ではない。しかも今回はそれが十もあるのだ。
 何とか全ての光の玉を受けきり、痺れの残る左手を下ろして前方にいるはずの魔王に対して身構えたとき、オレがそこで見たのはただの闇夜と雲と、白く光る三日月だけだった。
 瞬間、後ろに気配。反射的に盾で身を守ろうと試みるが、いつの間にか背後に回られていた魔王からの大鎌による斬撃は、そんな安っぽいオレの盾なんて簡単に両断してしまった。
 上体を反らして何とか皮一枚のところで攻撃を回避するが、安心も束の間、鎌の柄の部分がオレの鳩尾に見事にクリーンヒット。オレはこれ以上ないくらいにあっけなく後ろへごろごろと転がっていく。体躯と話し方は全くの老人のようだが、体力や身体能力他にかけては有り得ないくらいの現役らしい。
 魔王と十メートルほど距離が開いた地点でオレはようやく立ち上がる。危なく胃の中のものを全部吐き出しそうになるが、何とか堪える。そんな格好悪いことしたくはなかったし、そういうことをしている間に何をされるかなんてわかったものじゃない。
「……小僧、貴様弱すぎる。このままでは私に一太刀も浴びせることなど出来ぬぞ?」大鎌を持ち直して魔王が言う。
「そこの娘の思惑が何か知らんが……解せぬな。何故ゆえにこんな小僧に任せるのだ?まぁいい、私は私の仕事をすればいいだけのこと……恨むなよ、小僧」
 左手は刃の付け根に、右手は下から支える形で、魔王は大鎌をオレにむかって構える。その格好からは、オレの息の根を止めるということしか見受けられない。
 肩を上下させ荒い息を吐き出しながら、オレは尋ねた。
「……なぁ、『娘の思惑』って今、そういったよな、お前。……そうなんだな、やっぱり先輩は、そう望んだんだな。『魔王が欲しい』って、そう望んだんだよな。……一月一日の深夜零時プラマイ五分以内に五円玉をいれ、さらに願い事を頼んだ≠だよな、だからお前はここに現れた、だからオレはここにいるんだよな……そうか、やっぱりそうだったんだな、先輩」
 オレは自然と気分が昂ぶっていくのを感じた。思ったとおりだ、先輩は矢張り、頼んでいたのだ、そう願っていたのだ。
 フードで表情はいまいちわからないが、魔王はなんとなく得心いったという感じで白くなったあごひげを撫でる。「ほぉ」という感嘆の響きを含む呟きが、魔王の唇から零れ落ちた。
「見かけによらず、頭が回るようだな、小僧。そのとおりだ。その娘は一月一日にこう頼んだ。『一日だけでいいから、悪の大魔王にさらわれてみたい』と。だから私は生まれた、彼女の願い事を果たすためにな。娘はこうも言っておったよ、『出来れば後輩に助けに来て欲しい』ともな。……ふん、どんな色男が来るかと思えば……」
 構えを一瞬たりとも崩さずに、魔王は言う。この際この魔王が悪の大魔王だろうがどうでもいい、問題はそんなことではないのだ。
 オレがここに来る途中に車の中で考えたこと、この魔王は先輩が生み出したものなのか。一月一日、物語の全ての始まりの日、あの日の夜は確かにあの境内に四人の人間がいた。オレと、オレの兄貴。そして見知らぬ二人の姉妹。映画を見に行った日に、先輩から先輩の姉が大学に合格したことを聞いた時点で気がつくべきだったのだ、先輩はあの日あの時あの神社にいたのだ。
 先輩は気がついていたのだろうか。あの神社にいたのがオレだということを、知っていたのだろうか。だからこそ先輩は、オレに助け出してくれるよう願ったのだろうか。
 オレはそんな自問にこう答える。知るかよ、馬鹿野郎。今はそんなことどうでもいいだろうが。
 先輩が魔王を望むのならば、先輩がオレに助け出されることを望むのならば、オレは先輩の望むとおりにしなければいけない。魔王にさらわれた先輩を助け出さなければいけない。そのあとは適当なセリフを言ってやればいいのだ、「大丈夫か!?」なんて白々しいセリフでも、「愛してる!」なんて馬鹿らしいセリフでも。とにかく何かを言って、オレは先輩に笑いかけてやらなければいけない、魔王を倒してお姫様を救った、ヒーローとして先輩に笑いかけてやらなければいけない。それがオレの役目、先輩が望んだストーリーでの、オレの役割。
 いいぜ、やってやろうじゃねぇか。先輩のシナリオどおりに、先輩が願ったとおりに、全て先輩の思い通りの結末にしてやろうじゃねぇか。
 剣を構え、呪文を唱える。そのまま構えた剣を一文字に振り下ろすと、青白く光る刃が魔王に向かって飛んでいった。さらにオレもあとを追って走る、先ほどの魔王の真似事をしてみたつもりだ。
 魔王は動かない。呪文の詠唱をするわけでも攻撃を回避しようともせず、だが諦めたかというとそれは全く違っていて。
 魔王のフードが風圧で外れる。その顔はまさに普通の老人といった顔で、だけどどうにもつかみ所がなく、目を少しでもそらせばすぐに忘れてしまいそうな印象を持っていて、だけど一番気になったのはその瞳。その瞳をオレは、多分いつかどこかで見たことがある気がしたのだ。それがいつ、どこで見たのかは解らない、それでもその瞳はどこかで見たことがある。
 すぐに気がつく。ああ、その瞳は同じなのだ。自分の無価値を理解し生きるオレと、人生に苦悩している先輩、そんなオレたちと同じ瞳なのだ。
 一瞬、オレの視線と魔王の視線が交わる。その刹那、オレは本能的に、直感的に、後ろに飛び退いていた。人間としての限界を軽く超えていそうな反射神経と速度で、身を低くしながら飛び退ける。
 ひゅおんというような風切り音がして、血飛沫が舞う。先ほどオレが放った青白く光る刃は、簡単に真っ二つにされてしまっていた。
 肩が熱かった、無性に痛くて仕方がなかった。気がつけば鎧の肩口は血でべたべたになり、深い切り傷のようなものが出来ていた。それが大鎌による居合い抜きのようなものによって出来た傷だということに、オレは不覚にも数十秒を要してしまった。当たり前といえば当たり前だ、手と武器が見えないほどの速さの居合い抜きなのだ、しかもあんな変則な武器で。
 治癒呪文が頭の中にあったが、それを唱える時間すら与えてくれなさそうな様子である。魔王は何か呪文を唱え、左手の中指と人差し指をオレに向けた。二本の指の先には黒い光が凝縮されつつあり、それが間違ってもオレにとっていい影響を与えるものではないということは容易に想像がついた。
 即座に呪文を唱え、地面を一度叩く。オレと魔王との中間付近に、オレには被害が及ばない程度の小爆発が起き、あたりに校庭の砂が舞う。視界はほぼゼロに近いが、こんなものすぐに取り払われてしまう。だが、それでいいのだ、どうせ逃げ切れるなどとは思ってはいない、これは攻撃回避のための一時しのぎの手段であり次の攻撃のための布石、それ以外の意味はないのだ。
 煙に乗じて立ち上がり、走り出す。呪文を唱え、攻撃。しかし手応えはない。さらに呪文を唱えているうちに、視界を遮る煙の向こう側に黒い光が見えた。その黒い光は煙のせいなのか、かなり見当違いな方向へ飛んで大爆発を起こす。
 耳を劈く轟音と、視界を遮る大量の光、さらには大量の砂埃がオレの五感の大部分を奪う。バリアのせいで人が来ることはないだろうが、それにしても近隣住民にはかなり迷惑なことだろう。いや、バリアがあるから音も漏れないのだろうか。
 目を開くと、そこには、魔王がいた。怪しく光る大鎌を両手に携えて、距離はもうすでに一メートル前後。間違いなく射程距離内、間違いなく攻撃範囲内。オレの攻撃より先にあちらからの攻撃が来ることはうけあい、すでに決定事項のような距離だ。
 ざくりと大鎌の刃がオレの体の中へと侵入する。一瞬にして刃はオレの胴体を半分ほどまで進み、さらにそのまま真っ二つにしようと進む。
 だけどこんなの、予め決められていたストーリーに過ぎない。オレはそのまま、剣で魔王を突き刺した。剣で、魔王の背中を突き刺した。大鎌でオレを切りつけている最中の魔王の背中を、突き刺した。オレは、後ろから、大鎌でオレを切りつけている最中の魔王の背中を、突き刺した。オレは、後ろから、大鎌で呪文によって出てきたオレの幻影を、一刀両断にしている最中の魔王の背中を、突き刺した
「チェックメイト……なんつってね」
「なっ……何故、……くそっ、そういう、ことかぁっ!」
 魔王が喀血しながらくず折れる。致命傷となったのだろう、立てそうな気配ではない。 魔王が倒れ、そして魔王が切りつけていたオレの姿もゆらゆらと歪み、消える。それはまるで調子の悪いテレビに映ったニュースキャスターのようで、あっという間の出来事だった。
「なんつーんだっけ、こういうの。変わり身? いや、分身だっけ? ……まぁいいや。……これで、ようやく、おしまいだ、な……」
 荒い息を吐きながら、オレは苦笑いする。とても疲れていた、肩は依然として痛むし、鳩尾を思いきり突かれた後遺症なのか吐き気まで催してくる。早く家に帰って眠りたかったが、そんな事はもう適わないのである。
「小僧、お主、お主ぃっ! まんまと罠に嵌めよったな!? あの煙は偽り、入れ替わりを隠すための、布石っ! ……攻撃に紛れて呪文を唱え、そしてっ! ……くそっ、くそぉっ! だが、だがまだだ、まだ私は滅さない、滅してやるものか。光あるところに必ず闇は生まれるのだ! ふはは、あははははははぁっ!」
 まるでろうそくが燃え尽きる瞬間のように、魔王は大きな声で笑い声を上げる。そのセリフは使い古された感のあるものだったがそれもいいのだろう、少なくともオレは文句を言える立場ではないし文句を言う気もなかった。
 さらさらと魔王の体が砂とも錆ともつかないものに変わっていく。最初は手足から、そして次第に変質は体にまで侵食し始め、最後には首から上しか残っていなかった。結局最後には、残った首から上も崩れるように変質してしまう。
 血がだらだらと流れ続けていた。このままだと時を待たずして普通にくたばってしまうかもしれない。と、そこでオレはようやく気がつく、校庭の真ん中に寝転がっている先輩の姿に。素早く駆け寄り覗き込んでみる、どうやらぐっすりと気持ちよさそうに眠っているご様子だった。このまま寝かしておきたいのは山々なのだが、こんな屋外に放置して風邪をひかれても困るし、仕方なくお姉さんを呼ぶことにする。もう少しでオレが死ぬ時刻だ、どうせ近くで待機でもしているのだろう。
「お姉さん、出てきてください。死神のお姉さん」
 暗闇を見回して名前を呼ぶ。そういえばこの学校の周辺に張ってあるらしいバリアはどうなったのだろう、外から何も音沙汰がないということはきっとまだ張られているのだろうが、明日の朝になれば大変な騒ぎだろう。なんせ学校の校庭の木は何本も折れているし、さらに爆発跡まである、校門には乗用車まで突っ込んでいるのだ、新聞の三面記事に載る日も近くはないと思う。
「はいはーい。呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃーんな、死神のお姉さんですよぉっと。あれ? あれれ? どうしたの、畠山くん、肩が凄いことになってるよ? 顔色も凄い危ないことになってるし! な、ななな! しかもその女の子は一体! ちょ、畠山くん、中学生にイタズラしたら簡単に捕まっちゃうよ、日本の警察は優秀なんだから。……そういえば君にあげたあのリストの中に、誘拐は駄目って書いてあったかな……不純異性交遊はたしか許可が出てたはずだからいいけど、誘拐はねぇ。強制わいせつでもないよね?いくら君が彼女に困ってるからって、そんなことしないよね?」
 オレが口を挟む間も与えずに完璧完全超絶なマシンガントークを繰り出すお姉さんに、オレは少なからず殺意が沸いた。が、もちろんそんな少年犯罪の代名詞的な「ムカついたから」の犯罪などしない。第一先輩は中学生などではないし、そのことやこの現状までの経緯をお姉さんが知らないはずはないのだ、どうせ楽しんでいるだけなのだろう。ほら、顔が猫みたいなにんまりとした笑い顔になってる。
「まぁいいや、お姉さんにお願いがあるんです。オレが死んでから、先輩を家まで連れ帰ってくれませんか?方法は何でもいいんです、お願いしますよ。……ちょっとこれから起こしますんで、隠れててください」
 オレは丁重にお姉さんに頼み、お姉さんの返事を聞く前に先輩を起こしにかかる。お姉さんにこうでも頼んでおかなければきっと先輩は家に帰れないだろう、どうせ財布なんて持ってきてないのだろうし、歩いて帰るといってもあの体力じゃあ一苦労だ。
「………おーい、先輩、起きてください」
 耳元で小さく囁く。先輩は「うーん」とうなるだけで、一向に起きる気配を見せない。肩を揺さぶってもどうにも効き目はないらしい。オレは考え、考えた末にひとつの結論に思い当たった。
「先輩、今日はゲームの発売日ですよ、早く並ばないと売り切れちゃいますよ」
「えっ!うそっ!」
 がばっと跳ね起きる先輩。うーん、この人は本当にどうしたものだろう。
 どうやら先輩は欲しいゲームがあっても予約せずに店頭に並ぶタイプの人間だったという全く意味のない新事実が発覚したあたりで、オレは先輩に軽く挨拶をしてみる。先輩はまだ少し寝ぼけていたようだが、自分が置かれている状況の再認識がすむといきなりオレに抱きついてきやがった。シャンプーの臭いがオレの鼻腔をくすぐり、か細い腕がオレの首をきつく絞める。お世辞にもふくよかとはいえない胸が―――って、オレは一体何を実況しているんだろうね。
「後輩、後輩ぃ……っく……こう、はい……」
 先輩はオレに抱きつくなり何故かいきなり泣き出してしまった。オレはどうすればいいのかわからず、ただそんな先輩の鼻をすする音を聞いているばかりだ。こんな場面なんて今まで一度もあったことがない、どうするべきだろうか。
 場数を踏んでいるやつとかバスケ部のプレイボーイ君ならばこういう場面にはなれているのだろうが、生憎オレは車井と同じく彼女いない暦十七年の男だ。どうにかしろというほうが無理な話である。いや、本当はわかっていたのかもしれない、こういう時どうすれば一番いいのか。だけどオレは結局、先輩を抱きしめることも、先輩に慰めの言葉をかけてやることも出来なかった。あぁ、全くなんていうヒーロー、なんていう勇者様だろう、お姫様一人泣き止ませられないなんて。
 どくん、心臓が跳ね上がった気がした。やばい、やばい、やばい。死ぬ前兆だと解った、だけどそんなわけには行かなかった、今簡単に死ぬわけには行かなかった、先輩に一声すらかけていないのだ、せめて一声かけて、先輩を泣き止ませてから。どうか頼むぜ、お願いだ。くそっ。
 笑顔を繕い、先輩に向ける。
「約束は、守りましたよ……本当の本当に、絶対の絶対に、先輩を助けに来ましたよ……大丈夫です、泣かないでください」
 この場の流れに任せてキスでもしてしまえと、もう一人のオレが叫んでいる気がする。ふん、するわけねぇだろうが。
 どくん。やばい、また来た。
「でも、すいません、先輩………もうひとつのほうの約束は、到底守れそうに、ありま、せん……」
 一瞬にして視界が暗転する中、オレは先輩の叫び声を聞いた気がする。五感がだんだんと失われていき、ほとんど先輩の声は声としてオレの耳には届いていなかったけれども、それでもなんとか、一フレーズだけは聞き取ることが出来た。「約束破らないでよ、この馬鹿!」というフレーズだけは。
 すいませんね、先輩。でももう無理みたいです。言葉にならない謝罪の言葉を心の中で投げかけながら、オレは何か大事なことを忘れていることに気がついた。何を忘れているのかすら解らないが、それでも忘れているということだけは妙にはっきりと解る。のどに小骨が引っかかった感じで、なんとも気分がよろしくない。
 何を忘れているのかを思い出す間もなく、オレの意識は闇の中へと沈んでいった。


                                       
ゆっくりと目を覚ます。淡く光る三日月が視界にいち早く飛び込み、オレはあたりを見回し、気がつく。ここは全てのスタート地点となった、あの公園だったのだ。
 さびた鉄棒、微動だにしないひとつきりのブランコ。ペンキがはげかけた滑り台に無駄に多い広葉樹、生垣。
 オレは、なんでここにいるのだろうか。オレは死んだはずだ、それなのに今はここにいる。ここがあの世なのだという冗談は今のオレには通じそうにもなかった。いつだかと似たようなシチュエーションの中、オレは必死になって正答を導き出そうとする。当然答えなどでてくるわけが無い。
 何もかもが解らなかった。数学で自分がわからない公式を使った問題をやらされているような、難しい応用発展問題を無理やり目の前に出題されたような、そんなどうにもならないようなやるせなさがあった。やり方すら解らない、解き方すら解らない、そんなどうしようもない虚無感だけがあった。
「これで、もう終わりだね。よかったね、明日からまた、普通の学校生活が送れるよ。君と話すのも、これが最後になっちゃうね」
 不意にそんな妙に明るい声が背後から聞こえてきて、恐る恐るオレは後ろを振り向く。そこには予想を裏切らないお姉さんがいた。困惑しているオレを他所に、お姉さんはいたって幸せそうな、楽しそうな表情を浮かべている。
 ここで問題なのはお姉さんがいるということではない。ここがあの世にしろこの世にしろお姉さんはどこにでも現れるだろうし、オレの近所の公園と似たような場所があってもそれは大して驚かない。今一番の問題は、お姉さんが言ったセリフの内容、つまり「明日からまた、普通の学校生活が送れるよ」のことだ。オレは確かに死んだはずだし、契約書にもしっかりとサインした、それなのに何故。
 オレのそんな心中を察したのかそれとも察していないのか、お姉さんはいたってマイペースで語り始める。
「さて、死神のお姉さんの説明ターイム。ぶっちゃけた話しだけど、ここは君のいる現実世界だよ。君は死んでないし、これからも今までのような時間制限つきの人生でもなくなったわけ。さて、それは何故か。
 君も知ってるよね、あの老人―――君たちの言う魔王、だっけ? あれは君の先輩が願ったものなの。君の先輩は君と同じ方法で願いを叶えてもらった、『一日だけでいいから、悪の大魔王にさらわれてみたい』ってね。だから魔王は現れて、君の先輩をさらった……。だけどここで問題がひとつあったの」、お姉さんは人差し指を一本たて、オレの後ろから続ける。
「君の先輩が望んだみたいな、この世に違う世界の人を招くような願いはね、無駄に人々に危害を加える恐れがあるから、その人が心からその存在を望んだときにだけ招く決まりになっているの。スイッチっていったところかな。で、君の先輩のスイッチは、願ったときから四ヶ月くらいずれて入った。君が部室に行った存在が大きいんだろうね。
 君の先輩は、ついこの間こう願った。一月一日の願いに加えて、それから後輩―――つまり君に自分を助け出しに来て欲しいってね。変だと思わなかった?あんなタイミングよく君の先輩の母親から電話がかかってきたり、君がゲームのスイッチをつけたり、何故かお兄さんが車を使ってなかったり。全部君の先輩の願い、だからあんな偶然だらけの出来事も上手くいった。
 君も気がついていると思うけど、あの魔王と君が借りたゲームの魔王は、連動してるの。当然といえば当然だよね、全ての発端は君の先輩だし、あのゲームは君の先輩から借りたものだしね。で、連動してるということは、もちろん主人公である『こうはい』の装備も同じだって言うことでしょ?はい、ここが重要。なんで君が生き返ったか。考えてみて、装備品が同じなんだよ?」
 遠まわしな言い方で、お姉さんはオレに問いかける。装備品が同じ、オレが生き返る、オレの装備、剣、盾、鎧、兜、そして最後に。
「そういうことかよ……ってか、アンタ―――すいませんね。お姉さん、知ってたんですか、こうなること」
 結構久しいと思えるやり取りをして、オレは嘆息しつつ訊く。答えなんてもう決まっているようなものだったが、それでも。
 オレが生き返った原因、それは本当に簡単なものだった。ゲームに忠実すぎた先輩を心の底から有難く思う、先輩は知らないだろうが、先輩はこれでオレの命の恩人になったわけだ。いや、もしかすると先輩は、オレが死んでしまうということを知っていたのかもしれない、そう予測していたのかもしれない。しかし結局、ハッピーエンドなのだからそれでいいじゃないか。なぁ。
『いのちのいし』。それは、一度死んだ者の体力を最大値の状態で蘇らせることができる不思議な石。その代わり一回だけしか使えず、使用後には粉々に砕けてしまう。オレの装備にそれはあった、だからオレは蘇ったのだ。
 お姉さんは胸を偉そうに反らしながら、「えっへん」と言った。一体そんな表現をどこで覚えたかは知らないが、どうにもこの人の動作はオーバーリアクション過ぎるか、もしくはわざとらしすぎる気がしないでもない。アメリカで育ったわけでもなかろうに。アメリカにそんな「えっへん」という表現方法があるかどうかなんて探そうとは思えないのだが、きっとないのだろう。
 全く、この人も意地が悪い。生き返るなら生き返るでそう言っておいてくれればいいものを、なんで今頃になって。それともそういうことを事前に教えるのはタブーとなっているのだろうか、オレが前に見た契約書の書面を必死になって思い出そうとしていると、オレの下から「うぅん」という唸り声が聞こえた。そうそう、うぅん……。
 うぅん?
 多分それまでオレの脳味噌の覚醒率は五十パーセントを割っていたのだろう、なんせオレの太ももには先輩の後頭部が当たっており、柔らかい息遣いが今も聞こえてきているというのにそれに全然今まで気がつかなかったのだから。
「それじゃあね、お邪魔虫は消えるとします。グッバイ、ついでにグッナイ。もう会うこともないんだろうね」
 オレは一度瞬きをして、次に目を開いたときにはもうそこにお姉さんの姿はなかった。本当にこれでお別れなのだろうか、あの人ならばそこらへんで偶然ばったりと会いそうな気もするが、それはないのだろう。
 お姉さんが消えると同時に先輩が目を覚ます。まるでウサギのように赤く泣きはらした目をこすりながら、現在攪拌されている最中なのであろう脳味噌を必死にフル回転させてオレのことを睨みつけている。一秒か、それとも一分か、よくわからないくらいの時間が流れてようやく先輩は口を大きく開けた。どんな言葉が出てくるのだろうか、オレを罵る言葉か、それとも歓喜に震える言葉か。どちらにせよオレはこう言ってやろうと思っている。
「明日からもよろしくお願いします」と。

                                    終章

 まず、はっきりさせておこう。オレは普通の高校二年生だ、別に魔法使いだとか世界を助けるために行動しているとか物の怪の類が見えるとか超能力が使えるとか実はCIAの特殊諜報部員や工作員だとか正体不明の殺し屋だとかでは断じてない。
 もう一度言おう。オレは普通の、平々凡々で普遍的中庸的な高校二年生だ。だからオレは魔法が使えるわけでもないし、そもそもこの世に存在するかどうかもわからない悪の秘密結社を壊滅させようとも思わない。辺りを見回しても見えるものは電信柱とマンションくらいで物の怪なんか見えやしないし、手を触れずに物を動かすことなんか出来はしない。もちろん他国自国の機密情報を扱ったり政府の要人を暗殺するわけでも無い。そりゃそうだ、オレは別に魔法使いだとか前述したその他もろもろではないのだから。
 オレの日常は空に浮かぶ雲のようにゆっくりと過ぎていくし、過ぎていくはずだった。大学受験があるのが気に病んだが、それは二年近く後の話である。それに第一、オレが大学に行くかどうかさえわからない有様だ、一応国立文系コースを選択したが、どうするべきだろう。
 事実オレは普通の青少年が送るべき日常を送り、オレもそれに満足していた。兄がよく読むファンタジー小説の世界にも憧れてはいたが、オレのいる世界こそがリアルであり、小説などはアンリアルに過ぎなかった。そのような世界を望むオレも確かにいたが、少なくともオレはリアルの世界に満足していた。
―――はずだったんだけどなぁ。
 リアルの世界に満足していたはずのオレは、何故だか知らないがある日を境にアンリアルの世界へと引きずり込まれてしまった。やけに美人な死神と出会ったりラーメンをすすったあとに空間歪曲だかの理論を学んだり、滅茶苦茶可愛い先輩とだらだら放課後を過ごして休日にその可愛い先輩と映画を見に行ったり、親友のあとを自分の早とちりで尾行したり失踪した先輩の行方が無性に気になってみたり。挙句の果てには魔王だかなんだか今になってもいまいちよく解らない不思議な老人と剣やら大鎌やら魔法やらで戦ったりもした、本当に心の底からそりゃねぇぜだ。
 でも。
 でも、あの一週間が楽しくないといったら、そりゃあもちろん嘘だ。大嘘だ。新生児でもわかるくらいの極大の嘘だ。あんな濃い一週間、あんな楽しい一週間を過ごして、あんな奇妙奇天烈な一週間を過ごして、楽しくないなんていうやつはそりゃもう、途方もないくらいの救いようがないくらいの大馬鹿だ。オレは確かに馬鹿だけれども、生憎オレはそこまで馬鹿じゃない、美人の死神と可愛い先輩と面白い親友と大事な兄貴と織り成す、ラブの二文字がつくかどうか微妙なところなドタバタコメディを実体験して楽しくないなんて思うほどの馬鹿ではない。魔法や剣を使って、良くわからない謎の老人と戦うことが楽しくないと思うほどの馬鹿ではないのだ。
 夢のようだったという形容しかしようがないほどの一週間を過ごして、オレは今、大して今までと代わり映えのない生活をし続けていた。違うところといえばオレが新しくバイトを始めたことと―――近くのビデオショップのレジ担当だ。稼ぎ上で言えば兄貴よりもオレの方が家に対する貢献度は大きいだろう―――月に一回車井のコンサートを見に行くということだけだ。
 で、オレが魔王を倒して先輩を助け、お姉さんと今生の別れを告げたあの日の次の日、当たり前だが学校中は大騒ぎになった。テレビカメラが何台も来ていたし、オレは見ていないが新聞の記者もいたらしい。違う学年の誰かがインタビューされただとかされてないだとかそんな話しを耳にした。別にどうでもいいことだ。朝に臨時の全体集会が開かれたのは面倒くさかったけれど、どうせ犯人が捕まるわけがない。壇上の校長は汗を拭きながら名乗り出るなら今のうちとか言っていたが、普通に考えてあんな状態を作り出すことはそう易々とできることではないし、出来たとしても付近の住民が何か異常を察知しているはずだということを校長のみならずほとんどの生徒や教師は理解していないようである。確かにあの夜の出来事が一般人に理解できるとは到底思えなかったし、当事者のオレでもいまだに半信半疑なのだからまぁ仕方がないか。事情を全く知らないオレに友人が「あれ、オレと魔王が魔法やらなんやらで戦ったあとなんだぜ!」などといえばオレは間違いなくそいつを精神病院に連れて行くだろうし、下手すれば救急車まで呼ぶだろうからな。いつの間にか『校庭の惨劇』なんて名前もついてるし。
 オレは学校中で持ちきりになっている『校庭の惨劇』については適当に相槌をついてどうにかしている。先輩もどうやら他言はしていないようだ。先輩はあのときに気絶をしていたはずだが、きっとオレの戦いは知っているのだろう。どうしてと聞かれるとオレも答えに詰まるけど。
 そんなこんなで季節は初夏になっていた。北国には梅雨がなくて個人的には嬉しい限りである。制服が夏服完全移行になったのは少し物悲しいが、なに、どうせ夏休みを挟んで数ヶ月の辛抱だ。
 空が青かった、雲も白かった。まことにいい天気である。体育祭は少し前に終わってしまったのだが、どうせやるならばこんな日にやりたいものだ、今年は途中から雨が降り出して大変だったのだ。
 そういえば二学期が始まって早々に文化祭があるが、まぁきっと、我が愛すべき映画部は店も出し物もしないんだろうな。先輩はどうするんだろうか、クラスで出し物をやるにしてもあの人は究極にマイペースだしな。もし喫茶店とかをするならば、ウェイトレス姿の先輩も見てみたいが。
 危なく妄想の世界に浸りきりになってしまうところだったので、オレは精一杯の理性を振り絞ってウェイトレス姿の先輩を脳内から迎撃、退治。
 オレのクラスは文化祭に何もしないと決まったので、三日間という微妙な長さの文化祭中、ずっと暇なわけである。さて、どうするべきだろうか。先輩を誘うか、それとも車井と見て回るか、一人でぶらぶらほっつき歩くか。ん、思い出したけれど車井はバンド演奏をするんだったか。必然的に二つ目の考えを消去する。
 きわどい考えだったが、お姉さんも来るのかもしれないと、ほんの少しだけ思った。あの人はこんな行事、好きそうだからな。案外ひょっこり顔を出すかもしれない。
 お姉さんとはあの日以来会っていない。あの日というのはもちろん、お姉さんがオレに別れを告げた日である。電気街にいっても見かけることなんてないし、オレの家に戻っても「お帰り」などといって出迎えてくれることもなくなった。呼びかけても姿を現すどころか返事のひとつもくれやしない。お姉さんも死神の仕事に追われているのだろうな。
 オレは歩き出す。今の時間帯ならば、先輩は部室にいるのだろう。あの人を探すのは簡単だ。
 今回の収穫は、オレにしか出来ないことがあったということで円満解決していいのだろうか。いいのだろうね、よくわからないけれど。
 全くもって気分が良かった。オレはそのまま部室の戸を開け、今までのようにオレが来たことにすら気がつかないほどゲームに熱中している先輩の後ろから「ういーす」と声を出してみる。先輩は振り向いて、白い歯を見せた極上の笑いをオレに向ける。上品ではないがこれでいいのだろう、なんと言ってもあの先輩なんだからな。
 青い空、白い雲。魔王は消えた。オレは生きた。先輩も助けた。お姉さんは仕事を終えた。アンリアルな一週間が終わって、至極普通の、いたって平凡な毎日が続く。それはオレや先輩が望み憧れていたものとは正反対な日常だったが、オレは最近こうでもいいかな、なんて思えるようになった。死神のお姉さんもいいけどさ、魔王との対決も凄く魅力的だけどさ。
 先輩といつも一緒にいられるこんな毎日も、悪くはない、そう思った。

                                      了


2005/05/29(Sun)20:23:24 公開 / 名も無き小説書き
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■この作品の著作権は名も無き小説書きさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
はじめまして、名も無き小説書きです。

この作品は角川に贈って箸にも棒にも掛からなかったもので、あまりにも日の目を見ないのは忍びなかったので投稿させてもらいました。

なお、HPではオリバト=オリジナルバトルロワイアルというものを扱っていますので、残酷描写が苦手な方は決して立ち入らぬようお願いします。
どれくらい長くなれば新しいスレをたてればいいのかわかりませんが、とりあえずあれくらいだろうと直感的に思ったので新スレです。
ちょうどキリもよく三章からですしね。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。