『ポンペイの棺』 ... ジャンル:時代・歴史
作者:醤油塩せんべい                

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 かつてその街は、栄華と繁栄を極め、人々の笑い声で満ちていた。
 細やかな装飾を施した、大理石でできた建物。果物と酒が美味く、美女の多いその街を知らぬ者はなく、その街に立ち寄った者は、これより美しい街はないと言い、その街に暮らす者も、ここより素晴らしい街はないと信じていた。
 誰もが、その日々が永遠に続くことを、疑いはしなかった。
 しかし、全てのものには終わりがある。
 輝かしい歴史にも、終止符が打たれようとしていた。

 最後の時は突然訪れた。
 悲劇が起こったのは、八月二十四日の正午だった。
 大地は揺るぎ、火口が地獄の入り口のように口をあけ、絶望を象徴するようなきのこ雲が、空に高々とそびえた。
「ベスビオの神が我々に裁きを下したのだ」
 ある者はそう叫んだ。
 突然降り注いだ災厄に、人々ができたのは、ただ逃げ惑うことだけしかなかった。
 悲鳴が街を覆い、抗う術もないまま、人々は一瞬のうちに、街を捨て、家を捨て、その地の繁栄の歴史を捨てる決意をしなくてはならなかった。
 しかし、中にはその選択すら叶わないものも居た。
「御主人! 行かないでください! 置いて行かないでください! 私も共に連れて行ってください!」
 熱に焼かれながら、置き去りにされた犬が叫んだ。
 家人は、せめて彼に自由を与えてから行くべきだったが、恐怖と焦りが、彼の存在を記憶から抜け落とした。
 犬は、主人の後を追おうともがいたが、鎖は頑丈で、彼の意志ではどうにもできず、その場でぐるぐると回るしかなかった。
「御主人! 私を! 私も共に!」
 最愛の者に置いて行かれたという衝撃が、熱波より激しく彼の胸を焼いた。
 これ以上ないほど忠実に、主人を愛してきた。家を守り、家人を守り、近隣の者にも評判になるくらい、彼は彼の仕事をこなしてきたつもりだった。
 それなのに、主人は彼をこの場に置き去りにし、わが身のことのみを思ったまま行ってしまった。 吼える自分にちらりとも目もくれず、走り去って行く家人たちの背中を、彼は、呆然と見送ったのだ。
 犬は、張り裂けんばかりに飼い主を呼んだ。
 飛び出すほど目を見開き、牙を剥き出しにして、人の姿が徐々に消えていく通りに向かって吼え続けた。
 やがて吼え疲れた彼は、幾分心が冷え、やや冷静に、絶望的な状況を改善すべく、辺りを見回した。
 彼の目は、庭の低い木の上に、動く物の存在を捕らえた。
 猫だった。
 黒い毛皮はつやがなく、すぐに野良猫だとわかった。
「猫め。置いて行かれた俺を嘲笑いに来たか」
 犬は思ったが、わざわざ楽しませてやる義理もないと、気付かない風を装った。
 地震と、耳を劈く轟音は、ある程度収まったものの、激しく降り注ぐ砂礫と灰は、やむことはなかった。少し気を緩めると、あっという間に埋もれそうになる。
 猫は、まだそこに居た。木の上で、時々積もる灰を振り落としながら、犬をじっと見つめていた。
 その視線に耐え切れず、犬は猫に吼えた。
「貴様、何のつもりだ。動けない俺を眺めて、もう充分楽しんだ筈だ。消えろ。目障りだ」
 しかし、猫は動かなかった。
 金色の瞳で、犬を見据えている。犬は、猫の様子に怒りを覚え、再び暴れ始めた。
「馬鹿にしやがって。降りて来い、野良猫め」
 殺意をこめて、ウオンと吼えると、流石に怖気づいたのか、猫は石塀の向こうへ姿を消した。
「ざまあみろ」
 しかし、一度沸き立った怒りは、収まることはなかった。
 犬は気が違ったように暴れ、熱くなった鎖を引きちぎろうとしたが叶わず、再び吼え猛った。
 今度は飼い主を呼ぶのでもなく、ただ、心に巣食う絶望と、行き場のない黒い怒りのままに、燃える空に向かって遠吠えた。
「何故だ! 俺が一体何をした。日々主人に尽くして生きてきただけの俺が、何故このような仕打ちを受けねばならぬ! 何故だ! 何故だ!!」
 いつの間にか、先の猫が、同じ場所に納まり、吼え狂う犬を見つめていた。彼は、怒りの矛先を猫に向けた。
 今の惨めな立場も、苦しみも、全て猫のせいのような気がした。
「知っているぞ。俺はお前を知っている。前にも何度もここへやって来た。俺は気にもとめなかったがな。繋がれた俺を、いつもニタニタ笑いながら嘲っていた!」
 犬は渾身の力で吼えた。
「卑怯で、汚らわしい猫め! 俺はもう死ぬが、お前のその腐った喉笛を噛み砕いてやれぬことだけが、ただ無念だ!」
 猫は、微動だにせず、灰と礫に埋もれ行く犬を静かに見ていた。
 さらに時が過ぎた。
 暴れ続けた犬は、大量の灰を吸い込み、虫の息で横たわっていた。
 最早吼えることすら叶わなかったが、灰の中、犬の目だけが、いまだ見開かれ、この世に対する憎 悪と絶望を渦巻かせ、ぎらぎらと光をたたえていた。
 木の上の猫が、するりと地に下りた。
 猫は、積もった灰を踏みしめながら、一歩ずつ犬に近づいて行った。
「街は、終わる」
 猫が、口を開いた。
「一つの歴史が消えるということは、多くの命が失われるということ。それがたまたま今日この日であっただけ。悲しむことはない」
 呟くと、俯いた顔を今度は犬へ向けた。
「私が貴方に初めて逢ったのは、二年前の冬です。貴方は全く憶えていないようだけれど」
 動かない犬に向かって、語りかける。
「私は、まだ生まれたばかりの子猫だった。道端に捨てられて、ミルクも家もなく、死にかけた私はあの夜、この庭に迷い込んだ」
「貴方は、なんの躊躇いもなく私を噛み殺すこともできた。しかし、そうしなかった」
 黄金の瞳が、愛おしそうに細められた。
「貴方は、疲れきった私の体を舐め、その豊かな毛皮を私に一晩貸してくれた。次の日、貴方の飼い主は、私を溝に放り捨てたが、私は今日まで貴方を忘れたことはなかった。例え、ただの気紛れだろうとも、暖かな寝床と、慈しみを与えてくれた貴方を」
 猫は、灰の積もった犬の顔に、頬を摺り寄せた。
 黒い毛皮が、白く染まった。
「貴方は、私を欠片も憶えていなかった。しかし、そんなことは構わない。親を知らない私にとって、貴方はそれ以上のものだった。私の死に場所は、貴方の側以外にはありえない。もう一度、あの夜の、幸せな暖かい夢をみられるのならば」
 心残りは、一つもありません。
 黄泉の国へお供しましょう。
 犬の耳に呟き、猫は、もう動けない犬の体に、そっと身を寄せた。
 不思議なことが起きた。それまで、犬の目にあった呪いの光が、すうと消え、質の全く違うものが現れた。
 安らかな光だった。
 それが、もうほとんど意識のないであろう犬の瞳に浮かんだのを最後、その目は永遠に閉じられた。
 灰は、とめどなく降り積もり、冷たさを持たない雪のように、音もなく二匹の体を覆い隠していった。

 こうして、わずか二昼夜のうちに、かつて最も美しいと謳われた街は砂礫の底に沈んだ。
 始めのうちこそ人々は悲しんだが、すぐにその街を忘れていった。
 その地が培ってきた歴史も、幾万の人々が築き上げた栄光も、噴火によって失われた大勢の人々も、命の叫びも、やがて風化し、儚く消えた。
 ただ、微かに、そこに街があったという記憶だけが残り、何もないはずのその平地は、
キヴィタ(街)と呼ばれた。
 そして、幾百重にも重積した灰の下、街は、長い長い眠りの中、再び呼び起こされるのを、ただひたすらに待った。
 親子のように寄り添った、二匹の化石が掘り出されるのも、それから千五百年後のことになる。

2005/05/05(Thu)01:18:11 公開 / 醤油塩せんべい
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はじめまして。醤油塩せんべいという者です。

後味最悪の話ですが、感想いただけると嬉しくて踊ります。
ソフトマゾなので(笑)、「つまんなーい」とか「読みにくーい」とか酷評をいただいても大丈夫です。
あと、大変短い話なのに、SSに分類せず、勝手に歴史小説にしてしまったのですが、まずかったら変えます。ご指摘下さい。

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