『森松宗次郎念一味 [上・中(改訂)]』 ... ジャンル:ミステリ ファンタジー
作者:昼夜                

     あらすじ・作品紹介
森松宗次郎、彼には『見える』。そんな彼の日常に、いつもより一風二風変わった出来事が起こった。閑寂さの中に香る純和風とほのかな哀しさの物語。

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 森松宗次郎。この少しばかり古風な名前の彼は、大きなお寺の一人息子として生まれ、考えもまた家柄や名前のように古風であった。
 和の心を愛し、せわしなく過ぎる時の中でいかにのんびり過ごすかを知る男。そんな彼は、高校三年生にして三十代のような落ち着きを醸し出していた。私服が渋い紺色の着物であるのもその雰囲気を助長していたのかもしれない。
 今日も彼はいつもの日曜と同じように縁側で、将棋板の前に一人胡坐をかき、次の手を考えていた。
 さわさわと晩夏の風が宗次郎の頬を撫ぜる。将棋の駒のぱちりという音だけが清々と響いた。
 ふと、自家の庭を越した先に生えた一本の柳に目をやる。この柳は見事だと、父も母も祖父も絶賛していたことを思い出す。
 確かに、と、雄雄しく、また儚げに揺れる葉を僅かに時が止まったような感覚で宗次郎は見ていた。葉がさわさわと風に揺られ、その葉の流れにつられるように柳の下を流れる川へと目を移す。
「む」
 眉間に二筋の縦皺を引いて、彼は腰を上げた。
 縁側に置いてあった草履を履いて、そのまま自家の柵を飛び越え、速度を緩めることなく水の中へ飛び込んだ。
 川は宗次郎の腰ほどの深さでそう深いものではなかったし、岩垣もそこそこ長身の彼が手をぐいと伸ばせば淵をつかめるほどであったが、彼の右手に捕まえられたそれにとってはそうとうな深さと高さ、そして早い流れだったろう。
「爪をたてると痛いじゃないですか」
 彼は自身の右手にしがみつく灰色の猫に言った。猫は聞く様子もなく必死に爪をむき出し、宗次郎の皮膚を裂いた。
「いたい」
 ぽつと呟いたその顔に別段痛そうな色は浮かんでいなかった。
 彼は左手でそっと猫の頭を撫でた。

「宗ちゃん、水浴び?」
 宗次郎は聞きなれたその声にゆっくり反応して、川の中から上を見上げた。太陽が丁度目に入って眩しい。
「衣類を身につけたまま入る嗜好はないですが」
「あは、宗ちゃんならやりかねない」
 声の主は至極楽しそうに宗次郎を見下ろした。明るい茶色のショートヘアに活発さの印象を覚える。
「聡美、この猫を持ってくれませんか」
 宗次郎はずいと上の彼女に右手を突き出した。猫を持ったままじゃあ陸にはあがれない。
「……爪立てない?」
 聡美は苦笑いで猫と宗次郎を交互に見た。宗次郎は端整な唇を緩ませた。
「私の手のようにはなると思います」
「…………」
 彼女の顔から笑顔は消えたが、聡美は宗次郎の右手から猫をそっと受け取ろうとした。なかなか離れようとしない猫の爪が更に肉にめり込んで、宗次郎は「いたい」とまた呟いた。
「にゃあ」
 毛がぺったりとはりついて痩せこけたようにみえる猫は一鳴きして爪を引っ込める。
「おお、言葉が解ったんでしょうかね」
 聡美の両手に脇の下を持たれた猫を宗次郎は見上げた。猫の双眼はじいっと宗次郎を見つめていた。
「な訳ないでしょ」
 彼女の声がした途端、猫の右耳がぴくりと伏せられる。
「この子、どうするの?」
 川からあがろうと手を伸ばして岩垣の淵を掴む宗次郎に、彼女は問いかけた。
「飼いましょうかね」
 宗次郎がそう言うのとほぼ同時に猫はまた一啼きして聡美の手に爪を立てる。
「いたっ」
 力が緩まったのを見計らうように猫は彼女の手からするりと抜け、さっきまで溺れていたとは思えぬような瞬発力で地を蹴り、あっという間に二人を残して消えてしまった。
 宗次郎は別段残念がるふうでもなく、猫を見送って着物の裾をぎゅうと絞った。聡美の「飼われるのが嫌だったんじゃない」といういたずらな笑いに「言葉は判らないんでしょう」と淡々と言葉を返しながら。

 幽霊というものを彼は信じてはいなかった。寺の跡取りであると、御祓いなどにやってくる人もいたので、その光景を幾度か目にしたが全く何も感じず、御祓いは気休めであると彼の中で方程式が出来あがっている。
 ただ、宗次郎は“念”というものはあると思う。念が姿を変え、はたまた形になり現れることがあるんじゃないか、彼はそう考えていた。
 というのも、幽霊、と呼ばれるであろう代物を彼は頻繁に目にするからだ。
 初めは全く違和感もなく生活に入り込む彼らを生きているものと何も変わらないと思っていたが、物心がつくと宗次郎は自然に彼らが生きているものではなく、もうすでにこの世を去っていた者であったり、長らく愛用した品々の変化なのだということを朧気に気付くようになった。
 徐霊などは必要ない。恨みつらみをいう者は単純にその念が残っていて、それが具現しただけの話で、じっと黙って聞いていれば知らぬ間に消えゆく。その逆で何も話さず笑みを浮かべるばかりの者も、何をする訳でも、何をしたい訳でもなく、そこに居たという念なのだ。
 宗次郎はたまに彼らと自然に対話し、大半は何も話さずただ傍でいるだけだった。高校一年生くらいであったか、その時に現れた人とはずっと将棋を差していた。それが癖づいて今でも彼は将棋を差す。


「ねえ、課題手伝ってよ」
 一人静かに歩兵の駒を弄ぶ宗次郎に、聡美は口をとがらせて言った。
「貴女に課せられたものですから」
 視線は盤上のままに彼は温和な口調で言う。「ケチ」という声を背に宗次郎は歩兵を進ませた。
 庭を囲む柵の向こうから小さな音がした。よくよく顔を上げて聞いてみれば「にゃあ」と聞こえる。
「む」
 宗次郎は足早に縁側から庭へ降り立った。
 胸ほどの柵から道路側を覗き込むと、目に入ったのはさっきの灰色の猫が鼠を咥えてちょこんと座る姿。
「おお、おまえか」
 彼は柵の出入り口を開けた。しなやかに猫が入り込み、宗次郎の後ろへ回るとまたちょこんと座る。
「私に礼をしてくれるんですね」
 宗次郎は屈みこんで猫の頭を軽く撫でて口から鼠を受け取った。聡美に見せると叫んだりしてやっかいなので彼は鼠を持って庭の裏手に回った。
 猫は宗次郎の後を早い足取りでついてくる。小さい猫だから一歩がすごく狭い。
「よく取ってくれました。おまえの誠意は認めましょう」
 そう言って宗次郎はそっと鼠の死骸を土の上に寝かせ、猫の頭をもう一度撫ぜる。
 猫はじいっと宗次郎を見ていた。
 彼は猫を抱き上げて「まずは綺麗にしましょうか」と言った。猫は目をすぼめて「にゃあ」と一啼きした。

 宗次郎は少し驚いた。
「おお、おまえは白猫だったのですか」
 洗ってみて濯いだところで真っ白い毛並みが見えてきたのだ。わしわしとタオルで水気を取ると猫は毛づくろいを始めた。
 聡美は宗次郎の後ろをうろうろしながら「可愛い」だの「抱きたい」などと呟く。
「課題は済みました?」
 その答えに彼女は無言を返して「猫ちゃーん」と猫に寄った。
「名前考えなきゃねえ」
「なぜ貴女が」
 宗次郎をまるで無視して聡美は唸る。猫は頭を撫でられながらくるると喉を鳴らした。
「出会った時に灰色で、白に変わったからー、灰と白でカイハクってどうよ」
「どうよ、って……日本語としておかし――」
「灰白ー」
 あくまでもマイペースな聡美に宗次郎は天を仰いだ。といってもここは居間で目に入るのは古い家の木目ばかりだが。
「にゃあ」
 やっぱりこの猫は本当に言葉が解るんじゃないかと宗次郎は思う。

 翌日、彼が目を覚ますといくら呼んでも灰白の姿はなく、変わりに白い着物を着て恐ろしく白い肌を持った少女が庭に立っているのを目にした。

     *

 彼と少女は暫し見つめ合い、宗次郎は少女に近づいた。少女は頭の左右にぴょんと黒髪を結わえて目のくるくるとした愛嬌のある顔。白いその肌は血管が薄っすらと透けていた。
「何の御用でしょう」
「そ、うじ、ろたん」
「はい?」
 もごもごと口を動かしにくそうに動かして少女は手を四方八方せわしなく動かす。
「宗次郎、たん」
「……如何にも、宗次郎は私ですけど。私は貴女を知りませんよ」
 少女の困った顔に見つめられて、宗次郎も困ったような顔を返した。

「カイハク。カイハク」

 指で自身を指して、少女は猫の名を連呼した。
「――ええと、そうすると。貴女は自分が昨日の猫だと言いたい訳ですか」
 宗次郎は右手で額を抑えて灰白と名乗る少女に問う。少女はこくん、とゆっくり頷くとじいっと宗次郎を見つめた。
 ああ、そうか、と宗次郎はその双眼を見て思ってしまった。
「どうして、また」
 宗次郎は自身の額を抑えていた手を顎に添える。少女はきょろきょろして、また宗次郎に視線を戻すと再び手をじたばたさせた。
「カイハク、なりたい、おもった。いっぱい、いっぱい、おもった」
「なりたい? 人にですか」
 我ながらこんな質問、的外れで気恥ずかしいような気がする。だけど、見るからに十ほどの少女にこんな途切れた日本語で話されるとどうも信じざるを得ない。また、少女はこくん、とゆっくり頷いた。
「そして、起きた。これ、なった」
「……そのようですね」
 その後の言葉を失くして、宗次郎は顎に添えた手を少女の頭へとやった。撫でると少女は気持ち良さそうに目をすぼめた。
 それを見て、とりあえずは信じてみようか、と宗次郎は天を仰いだ。今度は真っ青な空が目に飛び込んできた。視野の左下から斜めに伸びてくる一筋。
「あ、飛行機雲」
 その声に灰白も天を仰いだ。

 しかし、この姿じゃあここに住まわせるのはどうだろうか、宗次郎はふと思う。
 灰白に目をやるとまだ口をもごもごさせて話すことに慣れようとしている。
「宗ちゃん、灰白――」
 いつものように何故かやってくる聡美は、宗次郎と彼に撫でられている少女を見て「ぎゃっ」と悲鳴を洩らした。言いかけた言葉から察するに、どうやら今日は灰白目当てでやってきたようだ。
「どうしてぎゃっ、と」
「え、あ、いやあ。女とか、興味ないと思ってたんだけど……宗ちゃんが、そんな趣味だったって、ねえ……」
 明らかに「幼女趣味」と言ったふうな目を向けられても動じない宗次郎は、あっさりと「灰白です」と少女の体をくるりと聡美に向けた。
「――そ、そういうプレイ? お付き合いかねますけど――」
 何を言っているんだろうかこの女は、と宗次郎は一瞬動きを止めたが、あえて言うのも面倒なので「灰白です」と二度目の紹介をした。
「さと、みたん。きのう、ここなでた、ありがとう」
 灰白は両手で自身の頭をぽんぽん叩いた。聡美は灰白をさっきの苦笑した表情のまま見つめ、ぴくりとも動かない。
「おお、さっきより喋れてます。お礼も言えるなんて貴女より賢いかもしれません」
 さりげない毒も耳に入らないくらい聡美は混乱していた。
「カイハク、少しずつ、なりぇ? 慣れて、きた」
 たまに噛むところがなんとももどかしい。聡美は相変わらずの無言で少女を見つめていた。
「聡美? 大丈夫ですか?」
「……こんな状況に普通に対応出来る宗ちゃんよりは大丈夫だと思う」
 話しかけられて我に返った聡美は心なしかひきつった笑顔を宗次郎に向ける。
「まあ、よくあると言えばありますから」
 確かに、森松宗次郎にはよくあることであった。

 灰白は庭の草をちょんちょんと手で触ってその動きに翻弄されていた。目が爛々と草の躍動を追い、たまに小さく声を洩らす。縁側に腰掛ける宗次郎は「ああ、猫だ」と思っていた。
 森松宗次郎にはよくあること、さっきそう言ったが、それを裏付けるように彼の目は灰白の後ろに立つ朧気に揺らめく影を見つめていた。
「むう」
 宗次郎は軽く息を吐くと腰をゆっくり上げた。
 聡美はいまいちこの少女が猫だという話は半信半疑なものの、目の前で無邪気に草と戯れる彼女が可愛くなってきていた。
 宗次郎は影へと近づく。
「宗ちゃん?」
 何もない木陰へと難しい顔をして歩む彼に、聡美は首をかしげた。
「どちら様でしょう」
 普段と何ら変わらない様子で話す宗次郎を見て『見えている』ことに気付いた聡美は、視線をまだ飽きもせず草とじゃれる灰白へと戻す。
 聡美はよく知っている。こんなことは彼にはよくあることであった。
 それは、もう、彼にとっていいことなのか悪いことなのかも解らなくなるほどに。

 宗次郎が見たそれは整った顔に仏頂面が張り付いていた。
「はあ、何も言ってくれないのですか」
 ――外見からすると男ですね。いや、元が人間のようではない気がします。元が人間にしては、この器、出来すぎている。
 宗次郎はいつものように見知らぬ“念”をあれやこれやと分析した。確かに彼が思うように目の前の男は出来すぎていた。黒い肩甲骨程の長髪と、茶色の着物をを嫌味もなく纏える外観。これが人の化身であるならば、生前はさぞや醜さとはかけ離れた人間であったろうと宗次郎は思う。
 人間が念として現れるのは大概が恨みつらみや無念だからである。それが形になるのだから、無論見栄えがいいとは言えない。
 しかし、それに反してこの容貌。彼にはあまりにも無の心がありすぎるように宗次郎は一目で感じた。
「別に構いません。好きなだけいなさい」
 宗次郎は彼に背を向ける。
「森松の息子か」
 その背中に男の静かな声色が覆いかぶさった。静かで、それでいて軽い。ふわりという表現が正しいような、そんな声であった。
「ええ、そうです。あなたはうちを御存知なのですか」
 対話が出来る。それもまた男が人間ではなかったことを証明していた。この流暢な喋りからしてよほど長い間生き続け、念になったのは随分昔であるに違いない。
「ここに寺が建つ前から見ておったからな」
 風と男の声が交わる。その風が宗次郎の耳に男の声を乗せてきたのが目に見えるようだ。
「あなたは自然と共に長らく暮らしておられたとお見受けします」
「……そうだな。おまえは我が今まで見てきたどの森松よりも筋がいい」
 そう言って薄く微笑んだ途端に風がざわと木々を揺らした。
「それはどうか解りませんが……どの先祖様や祖父母にも私は一等変わり者だと言われてますね」
 はは、と宗次郎も笑いを返して頭を掻く。ふと手を止めて、今度はごろごろと聡美にじゃれつく灰白に目をやった。
「灰白があの姿になったのはあなたのお陰ですか」
「左様」
 男は腕を組んでゆるりと猫の姿を見やった。
「昨晩、あの猫は此処を抜け出し我の足元でぐったりしておった」
「……ぐったり、ですか」
「あれはもう長くない」
 声の調子は変わらぬままに男はただただ言葉を続けた。
「我はあれの想いを聞いた。おまえへの感謝が溢れておったぞ」
「それで、力を貸した訳ですか」
 二人は一息の間を置いて、互いの眼を見合わせる。
「おまえがあれを助けたのを見ていたからな。礼くらい言わせてやろうかと思うた。念を与えるくらい造作ないわ」
 偉ぶるふうでもなく男はさらりと言った。
「それでは私が今度はあなたに礼を言う番だ」
 宗次郎はぺこりと頭を下げると、「ありがとう」と言って男をじっと見た。
「ところで、呼び名がないと時に困ります。何と呼べば」
「我か。折花(せっか)とでも呼んでもらおうか」
「折花?」
 ここで初めて男は色のある笑顔を向けた。
「遊郭を眺めるのが好きだった」
「……はあ」
 解っているのか解っていないのか曖昧な答えを返して、宗次郎は頷いた。

     *

 時は緩やかでも忙しくもなく過ぎてゆく。
 ただおまえが緩やかに感じるか否かはまた別の話。
 我の周りの時は、いつでもゆるりとながれておる。
 それは、我が人のような喧騒や諍いとは無縁だからだろうか。
 浮世は何と無常であろう、と八百年程前に我にもたれた歌人が詠うた。
 それでも、我はおまえたちを卑下すると同時に羨ましく思うぞ。

     *

 折花は森松家を囲む塀の上で胡坐をかき、月を見つめていた。今日は見事な満月で夜風も肌になじむ。自身の体を優しく包むこの感覚を久しぶりに味わった気がする。
「ご苦労様です」
 宗次郎が折花の背後から声をかけた。
「まだ起きておったか」
 宗次郎の姿を確認もせず、折花はただ月に視線を注いでいた。鈴虫の声色が耳に響く。
「あなたこそ……灰白の為に。む」
 着物の裾をたくし上げ、塀をよじ登り、折花の隣へと腰をおろした。
 今度はちらりと宗次郎を見る。
「我が傍を離れると力が弱まる故な」
「あなたは眠らないのですか」
 折花の端正な横顔は、月明かりによく栄えた。
「今はよい」
 それを聞いて宗次郎は表情を曇らせた。
「そんなに灰白は悪いのですね」
 折花が灰白にはじめに分け与えた念はとっくになくなり、今も折花が与え続けている念で生かされているのだと黙認して、宗次郎は肩を落とした。
「長くないと言ったであろう」
 その声にやはり抑揚はなかったが、それでも離れずに念を与え続ける折花の優しさが、宗次郎には風と鈴虫の声色が丁度混ざり合うような物悲しさに似ていると感じた。
「今までも何度かこういうことを?」
「いや……昔に一度きり、かようなことがあったわ」
 そう言った折花の瞳は今を映さず過去を映していた。
「日ごと赤子を連れて我の元を訪うた女がおった。その女は平生一時景色を眺め呆けたかと思うと、赤子の頭を撫ぜ、きまって泪を流す」
「泪」
「我はその時分には未だ念として姿を現すことは勿論、念を使うことなど出来ず、ただそれまでと同じくして意識としてそれを偏に見ているだけであった」
 意識がある、それが意味するのは長い年月を生きてきた証であり、そんな念に初めて出会った宗次郎は感銘を覚えたが、何も言わなかった。
 何故なら、折花は自分に『語りかける』というよりは、独り言に近い語り草であったからだ。
「ある時、その女が我に語りかけた」
 鈴虫の声が一瞬ぴたりとやんだ。皆が折花の言葉に耳を傾けているかのように。
「誰でもいい、何でもいいから、この子を助けてくれ、と」
 その光景を思い出してか、折花の瞳は伏せられる。宗次郎は折花から目を逸らさずに続きを待った。
「我に語りかけたとは言っても、女は誰にともなく言ったのだがな」
 折花の目が宗次郎に向けられた。その視線はどことなく懐かしい。
「それからだ」
 瞳は再び天上の月を映す。
「我が念を使えるようになったのは」
「……ですが、そんなに使えるものではないでしょう。あなた自身も念だ」
 躊躇いつつ問いかけるその声に、折花は「あの猫のことか」と返した。

「あなたが消えてしまう」

 折花は無言を返した。

「――その赤ん坊はどうしました」
 宗次郎は無言を特に気にも留めず話を戻した。すっと伸びた背筋を、少し冷たい風がさわりと撫ぜて通り過ぎる。夏も通り過ぎようとしているのだ、とふと思う。
「流行り病であったが、念を与えて一月程すると回復した」
「おお、すごいですね」
「我の力ではない」
 笑顔の宗次郎を折花は軽くいなした。
「というと」
「我は今回同様少しばかりの念を与えただけよ。それをあの赤子は糧として、ほぼ自力で治癒しおったのだ」
「はあー、凄い赤ん坊もいるものですね」
 その言葉を聞いた折花の顔に妙な笑みが浮かんだ。初めて見た笑みだが、どこか小馬鹿にされているような。
「とにかくその赤ん坊は病が治って、長生きされたわけですか」
「今も生きておる」
「あ、結構最近の話でしたか」
「おかしな話よ」
「?」
「まさか赤子とこのように語る日があろうとは」
 月明かりがいたずらに折花の姿を光らせた。



*続*

2005/09/11(Sun)23:44:38 公開 / 昼夜
■この作品の著作権は昼夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 作品説明書いててウケました昼夜です。
 ジャンル解りません。
 そんなに改訂もしてないし、追記も出来てないですが。
 読んでくれる人は果たしているのかって言うこの状態がほのかな哀しさですけど。長いしね。何かしらんが。
 あの、まあ、気長にお付き合いくださいませ。
 あと読みにくいかもなって後半になるにつれて思いますが、これが今の私の精一杯なので、アドバイス・感想など下さればほんとへこへこします。
 というか。目を通して下さるだけでも十分でございます。

 皆様結末まで是非ともお付き合いくださいませ。

**
 平生(へいじょう)…いつも
 偏に(ひとえ)…ひたすら

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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