『その日、戦い   完結』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:恋羽                

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 好きとか嫌いとか。大好きとか大嫌いとか。
 そういう感じじゃないんだよね。僕の肩に持たれかかっている、瑞希を見て感じるのは。
 別にさ、学校でもそれほど仲がいい訳じゃないと思うよ。たまに話はするけど、でも僕は瑞希の勢いのある喋り口にただ引っ張られるばっかりで、相槌係みたいになっちゃってたし。それがこんな状況になってるんだよな、と思うと変な感じを通り越して、……嬉しいかも。
 それで自分は本心ではもしかしたら瑞希が好きだったりするのかな、なんて淡い考えをしてみたりして、ちょっと楽しかったりする。
 だけどさぁ、こうやって今瑞希とゆっくりしてられるのは。
 朝からのあの拘束状態と、激しい暴力があったからかなって思う。
 僕は自分の中に刻み付けられた新しい記憶を呼び起こしてみる。
 ……決して楽じゃなかった道程を。




                       「その日、戦い」




 僕は二日振りに、いつも通り目を覚ました。
 起き上がるとすぐに光差すカーテンの隙間に手を入れて、勢いよく押し広げる。
 すると、強く、そして優しい光が僕の体中を包み込んだ。……今日は、今日こそはいい一日になりそうだ。そうであってくれなきゃ、詐欺だろう? こんないい朝なんだから。
 春の光と太陽の匂いの寝巻きにしばしお別れを告げて、僕はずいぶん履きこんだ優しい肌触りのジーンズとお気に入りのTシャツを着ると、勢いよく自分の部屋のドアを開け放って階段を駆け下りる。裸足に伝わる床のひんやりした感触が、やっぱり今日はきっといい日だと期待させる。
 開かれたままのリビングのドアをくぐると、レースのカーテンから柔らかい光が不思議な模様を形作りながらフローリングの床に落ちている。それはどことなく春の休みの一日を象徴しているみたいに思えた。
 いつもなら感じる、あの味噌汁とか米を炊く匂いはしない。それは別に今日はパン食だから、とかじゃなく、そして母さんが寝坊しているとかでもない。
 僕は……、
「一人なんだぁぁ!!」
と、いう訳。叫ぶ必要は別に無いけどね。
 ジョリジョリの髭を電気カミソリでそる父さんも、朝からばたばた騒がしく僕を追い立てる母さんも、いつも喧嘩を繰り返すばっかりの兄ちゃんも姉ちゃんもいない。
 本っ当に僕は今、たった一人なんだ。
 僕の家族達は、三日前から沖縄に行っている。何もこんな時期に行かなくても、とも思うけど、でも僕達の感覚からすると春の沖縄は思いっ切り真夏なんだ。だから今頃は多分皆Tシャツとかではしゃいでるんだろうな。
 それでなんで僕がこうして一人なのか。別に僕が呪われていて、家族中から忌み嫌われてるとかじゃないよ? ……多分。
 僕は、出発の二日前にめったにひかない性質の悪い風邪をひいちゃったんだ。それで寝込んじゃって、皆に置いてかれた。家族が冷たいとか思わないでね、僕のせいでせっかくの旅行を駄目にしちゃうのはいやだって言って、それで強引に行かせたんだ。
 旅行の日程は一週間。だけど僕の風邪はその初日に直っちゃった。こんなんだったら無理にでも一緒についていけばよかった、なんてことも思ったけど。
 でもねぇ、それは実は、最近よく聞く言葉で言えば「想定内」って奴だったんだ。自分なりに、風邪も直り始めてるな、みたいな感覚はあった。
 それでなんで一緒に行かなかったかって? 変な事聞かないでよ、わかるでしょ? わからない?
 うーん、だってさぁ。家の中に一人っきりなんだよ? わくわくするよ、やっぱり。自分の家の中って実はあんまり知らない物かもしれないなぁ、っていう考えもあったし。なんか楽しいよね。
 でも楽しかったのは最初の一日だけだった。
 その日はさぁ、冷蔵庫に母さんが置いていった料理をただあっためて食べて。あとはリビングの大きいテレビで、しかも大音量で一日中ゲーム。ものすごい迫力で、めちゃめちゃ楽しかったんだ。それでその日はリビングのソファでそのまま寝て。
 だけどさ、二日目にはね、さすがにゲームにも飽きちゃった。っていうより、画面が大きくてもゲーム自体は変わらないわけだしね。母さんが食事用にって置いてったお金で新しいのを買うのも気が引けたし。
 だから何か面白い事無いかなって家中大捜索。でもさ、そんなのあるわけ無いじゃん。だって、家族皆が警戒心が強くて、ちゃんと自分の部屋には鍵が掛けてあったりして。探せる範囲なんて結局いつも自分が生活してるスペースだけだった。それで新しい何かが見つかるほど世の中甘くないんだな、なんて中学生ながらに悟ってみたりした。
 それでそのまま疲れて今度は自分の部屋で寝て、そして今のこの瞬間に僕はリビングにいる。
 ……一人で何考えてるんだろ。疲れてるのかな。
 僕は首を振った。
「こんなので疲れてちゃ、幸せは見つけられないぞ!」
 自分を叱咤してみる。
 さて、今日は何しよう?
 その時、インターホンのチャイムが鳴った。
 僕はリビングの入り口のドアの近くに付いているカメラ付きの受話器を取る。こんな早い時間に、どこのどいつだこのやろう、とか思いながら。
「はい」
 その色味の薄い映像の中にいるのは……。
「松沢……」
 そうやってカメラに顔を見せたのは……。
「瑞希、だよ」
 古川瑞希、つまり同じクラスの女子だった……。
「い、今行く!」
 僕は古川の話すのを遮って受話器を叩きつけるように壁に掛け、そして玄関までの歩きなれた道程を駆け抜けた。なんていうとものすごい広い家みたいだけど、実際は十歩歩けば着く距離だ。
 鍵とドアチェーンをがちゃがちゃ言わせながら外すと、僕は古川が目の前にいるのであろうドアを押し開ける。
 そしてそこにいたのは、もちろん古川だった。……パッと見、なんか学校で見るよりも綺麗ってか、化粧が濃いような気がする。それに普段見ない私服姿はスポーティで男っぽく、男よりかっこよかった。
 だけど。
 僕は古川の姿に気を取られていて、そして見入っていて。
 その後ろにいた、その存在に。
 気付いちゃいなかった。
「よ」
 ……そう言って彼女の後ろから二メートルぐらいの大男がにゅっと出てきた時、僕は重い不快感を感じた。
 そして、彼女の表情があまりにも引きつっていた理由が、その時おおまかに理解できたんだ。
 僕はただ、二人の顔を見比べて、そして立ち尽くすしかなかった……。
 

 僕は冷えたオレンジジュースを三人分、リビングのテーブルの上に置くと、一人掛けのソファの方にゆっくりと腰掛けた。
 そして大男、つまり林原洋人の顔を盗み見る様に見てみる。……その髭だらけの顔を見る度に、胸がムカついて仕方ない。
「……一体、何の用なんですか」
 僕は早々に彼に訊いてみた。できることなら、さっさと用を済ませていなくなってほしかった。家の中にいてほしくなかったんだ。……こんな時にもし家族がいてくれたら、そう何度も考えた。
 だけど林原は僕の質問なんかには答える気も無いみたいで、ニヤニヤしながらいやな臭いがするシャツの胸ポケットからくしゃくしゃの煙草の箱とライターを取り出して火をつけた。……僕はイライラしてしまう。だってウチの家族はみんな、煙草なんて吸わないんだから。母さんがテーブルの上に置いている灰皿はお客さん用だ。こんな奴の為に置いてるんじゃない。 
 僕は吐き気を感じながらも、もっと吐き気のする林原の記憶で頭を一杯にする。
 林原は会社での父さんの部下で、ちょっと前まで週に三日は家に来ていた。いつも父さんと一緒にベロンベロンに酔っ払っていて、それでいつも父さんがウチに寄っていてよ、とか言って連れてきて泊めていたらしい。
 ちょっと前までは、ね。なんで最近は家に来ていないのか、わかる? わからないよね。それが、僕の胸が疼く原因なんだ。
「晴樹ぃ、なんでそんなに冷たいんだぁ?」
 林原は僕に向かって煙草の煙を吐き出した。僕は少しむせたけど、でも気にしなかった。あの時のことを考えたらこんなの、なんでもないんだ。
 ……林原の横にちょこんと座っている古川を見て、首を傾げる。
 なんでこの二人が一緒にいるんだろう。この二人は知り合いなんだろうか?
「……なんだよ、無視しやがって」
 僕の態度が気に入らなかったらしくて、林原は急に立ち上がって僕の方に早足で歩み寄ってきた。
 たったそれだけの行動が、僕を怯えさせる。僕は顔を腕でかばった。
 それを見て林原は、僕の腹に拳をぶつける。
 当たり所が悪くて、僕は何秒間か呼吸が出来ない。吐くことは出来ても、息を吸えないんだ。そしてその後からじんじんと痛みが広がってくる。僕は体を丸めてソファの背もたれに寄りかかった。
「態度を考えろよ、ガキ」
 林原はそうやって言いながら、また元座っていた場所に戻った。そして煙草の臭いを周りに撒き散らす。
 僕は呼吸が落ち着いた後も、しばらく痛みに顔を歪ませていた。
 怖いよぉ、助けてよぉ。僕はこんな時でも、古川にみっともないところを見られたくなくて、泣いてる顔を見られたくなくて。情けない声を聞かれたくなくて、心の中で帰ってくるわけが無い家族に助けを求めている。……顔は痛みとその記憶がよみがえってきたせいで涙でボロボロだ。
 古川は、泣いていた。なんで泣いてるんだろ? わからない。なんで古川がここにいるのかもわからないのに。
「何の用かって? そう聞いたか、お前。……忘れるわけはねぇだろうよ、お前のおかげで俺がどんな目にあったか」
 煙草を灰皿に押し付けながら林原は僕を睨みつけている。僕の体はその声だけで強張ってしまう。
 そうだよ、忘れるわけなんて無い。今も僕の体には痣が残っているんだから。忘れられるわけなんて無いんだ。
 ……林原は、酔っ払って僕の家に来ては毎回僕を殴りつけてきた。寝ている僕の部屋に勝手に入ってきて、そして暴力を振るった。
 なんで僕が殴られたのか。今もわからないけど、きっとそれは一番弱い人間だったから。そして家の中でたった一つだけ鍵がついていない部屋、それが僕の部屋だったから。もともと物置だったんだ、僕の部屋は。
 僕は、なんでかわからないけど。林原に暴力を振るわれる時に声を出したりしなかった。殴られたり蹴られたりしても、どうしても声が出せなかった。……ただ泣くだけ。林原にとっては格好の餌食だったのかもしれない。
 そうして、夜に暴力を振るわれる生活が二ヶ月間続いて、ようやく父さんがそのことに気付いてくれたんだ。あれは一緒に風呂に入った時だったかな。救われた、そう思った。
 父さんは怒って警察に連絡して。母さんは僕を病院に連れていって。兄ちゃんはキレて林原を殴りにいこうとしたところを父さんに止められて。姉ちゃんはいつも以上に優しくしてくれて。
 やっと平和になった、そう思ったのに。
 僕はまた林原の顔を見た。
 その顔は以前よりももっと凶悪で、僕を震えあがらせる。
「お前のおかげでなぁ、俺ぁ執行猶予なんて不便な身分になったよ。会社はクビだしな」
 僕は何も言えなかった。何か言ったらきっとまた拳が飛んでくる。
 林原は二本目の煙草に火をつけると、今度は古川に煙を吹きかける。古川はビクッとなった。
「……会社の知り合いに偽名で電話したらな、課長の野郎、長い連休なんて取りやがってやがる。沖縄に行ってんだってなぁ。なんなら放火でもしてやろうかと思ってきたんだが」
 そこで林原は言葉を切り、そして古川の顎に手を掛けた。
「こいつが通りかかってな。聞いたら教えてくれたんだよ、お前が家に一人で残ってるってな」
 古川は震えながら僕の方に目を向けた。その目は、僕に許しを求めているように涙ぐんでいる。
 それで、古川が林原と一緒にいるんだ。……それで、あの時のインターホンの声が震えてたんだ。顔が引きつってたんだ。
「……離して、あげて下さい」
 僕は小さく呟いた。それ以上何も言えなかったけど、それでも僕は林原の目を見て言ってやった。
 その瞬間、林原はテーブルの上に置いてあったガラスの灰皿を僕に向けて投げつけてくる。
 フワン、って重い放物線が鋭く描かれて、灰皿は僕の目の上にぶつかった。そして鈍い音を立ててフローリングの床に落ちる。
 そんなことを呑気に考えてる場合じゃない。痛い。熱くて痛くて、僕はそこを押さえた。痛い。ジンジン音を立てて目の上に地が集まってくのがわかる。痛い。
「お前にしゃべる権利はねぇんだよ!」
 林原が立ち上がって、テーブルを乗り越えて僕の顔を蹴りつけてきた。僕の上半身は少し浮き上がる。ソファごと後ろに倒れてしまった。
 でもそのぐらいじゃ林原はおさまらなかったみたいだ。
 それからしばらくの間、僕は殴られて、蹴られて、投げ飛ばされて、その度に痛みにうめいた。
 怖いよ、痛いよ、助けてよ。
 だけど誰も助けてくれない。全身の痛みだけが、僕の心の声に答えてる。
 古川は……、さっきのままソファのところで固まったまま。……助けてはくれない。
「死ぬかぁ!? てめぇ!」
 林原の怒鳴り声だけが家の中に響いてる。……その悪魔みたいな声が。
 ドスン、って地鳴りみたいな音が響く。
 その時、だった。
 僕と林原の間に古川、瑞希が割って入ったのは……。
 

「もう……、やめて下さい!」
 両手を広げて林原と向かい合った古川は、震えてはいなかった。だけど緑色と黄色のポロシャツの背中は弱々しくて、その背中が作った影が小さすぎて、僕の体さえ包むことは出来ていなかった。……なんで、来ちゃったんだよ、古川。
 そして小さな古川の背中越しに見える林原の怒った表情が、僕じゃなくて古川に向けられているのを見て、僕はすぐに立ち上がらなきゃいけないと自分の体に言い聞かせてみる。
 だけど僕の体は言う事を聞いてくれない。いくら立ち上がろうとしてもうまくいかない。自分の弱さにイライラした。
「おい、邪魔すんのかガキ。俺はなぁ、別にムショぐらい怖かねぇんだ。お前の後ろのガキ」
 その時僕を一瞬見て、また林原は言葉を続ける。
「そいつを殺さねぇ程度にボコボコにして、捕まったら捕まっただ。だがなぁ、お前がそうやって邪魔するんなら話は別だ……」
 林原は冷たい笑顔を浮かべる。やばい、早く動けよ、僕の体!
 笑顔が昼に近付いた窓からの光に照らされて、今の状況とは全然違う健康的な感じがした。
「いっそのこと、二人とも殺しちまうか」
 やっぱり。林原だったらそうやって脅すと思ってた。いや、脅しじゃない。きっと本気でそう思ってるんだろう。本気で、殺そうかって考えてるんだ。
 その時ようやく、古川が自分の行動の意味に気付いたのか震え出した。……おそすぎるよ。
 そして僕もようやく、自分の体を動かす事が出来た。
 白いリビングの壁に寄りかかりながら、僕は立ち上がって林原を睨み付ける。
「……やめろよ。その子は関係無い」
 言いながら僕は古川の体を押しのけて、その前に出た。古川はやっぱり震えている。そして逃げる様に後ずさる気配が感じられた。……それでいいんだ。
 僕は殺されてもいい、そう思った。だからわざと挑発するみたいに言った。……せめて古川だけでも助かって欲しい。その為にほとんど生まれて初めて、勇気を振り絞った。
 その直後、林原は僕に駆け寄ると、片腕で僕の首に手をかけて僕の足に自分の足をかけて、強引に押し倒す。僕は……思いっきり後頭部を床に頭を打ち付けてしまった。
 そのせいで記憶が飛び、そして頭の痛みとテレビの砂嵐みたいな映像でまたこの世界に戻ってくる。耳鳴りが離れない。
「おい、晴樹ぃ。ずいぶんと偉そうな口を利くようになったじゃねぇか」
 そう言いながら林原は僕のみぞおちを殴る。……呼吸が出来ない。胃液が口の中に出てくる。
「やっぱりこういうガキにはお仕置きしてやらないとなぁ」
 また殴る。僕は何も入ってない胃から何度も胃液が上がってくるのを、喉が焼けるみたいな痛みと一緒に感じた。
「目上の人に対しては礼儀を考えないとねぇ」
 殴る。痛い、なんてもんじゃない。
「こら、聞いてんのか?」
 殴る。胃液に混じって血の味がした。……僕は気が遠くなっていく……。
 目から入ってくる映像が痛みと一緒に遠くなっていく中で、僕は一瞬古川の叫ぶ声を聞いたような気がした……。


「松沢! 松沢!」
 そう呼んでいる声がして、僕は意識を取り戻した。意識を取り戻すって、こういうことを言うんだね。初めて知ったよ。
 それで続けざまに全身の痛みがよみがえってくる。僕は泣いちゃいそうだった。
 目を開けてみると、そこには古川がいた。目の前が古川で塞がってる。他の何も見えない。
「……瑞希」
 僕は初めて名前で古川、瑞希を呼んじゃった。瑞希は涙を流しながら頷いた。だからそれでいいみたいだ。
 重たくて痛くて何度も挫けそうになりながら、僕は上体を起こす。周りには瑞希以外いない。もう夕方になったみたいで、外の天気がいいせいでリビングには夕焼け色ばっかりに染まっていた。赤よりオレンジ色で、オレンジ色よりも赤な光。
 僕はあれ、と心の中で呟いた。
「……あいつは?」
 瑞希は僕の方を見て微笑んだ。夕焼けがまぶしいからかもしれないけど、優しいその笑顔はいつものうるさいばっかりの瑞希の顔をもっと別の物に変えてくれていた、ような気がする。
「逃げちゃった」
「へ?」 
 僕は瑞希の言葉に首を傾げてしまった。……あんなに殺す殺す言ってたのに、そんな簡単に逃げる訳ないじゃないか。普通。
「覚えてない? 電話かけようとしたんだ、私。『もしもし、警察ですか』ってすごい勢いで叫んだから、それで逃げちゃったんだと思う」
 そういえば確かにあの時僕達の後ろには電話があった。その為に瑞希は後ろに下がっていったんだ。ちょっとだけ裏切られたような気がしてたから、それを聞くと少し嬉しかった。
「あれ、でも警察は来たんでしょ?」
 僕が聞くと瑞希はゆるゆる首を振った。その顔は少し疲れたみたいな感じで元気が無い。
「私、番号押し間違えちゃって。慌ててたからうまく押せなかったんじゃないかな。繋がらなかったんだ」
 瑞希はちょっと笑って僕の方を見て、そして自分も僕の隣に座った。
 ……番号間違いって。僕は少し笑った。でもそれで林原が逃げたのには納得できる。
 あの林原っていう人は、そういう人だったような気がする。
 最初、あの人が初めて家に来た頃はあの人は優しかったんだ。聞けばなんでも教えてくれるし、きっといい人だった。だから父さんは家に連れてきたんだと思う。
 だけど後から父さんから聞いた話だと、僕に暴力を振るい始めた頃から会社の仕事がうまくいかなくなったんだって。それをきっかけにしていじめみたいなのが課の中にも出て来たって言った。だからって僕に暴力を振るうのは許せない、とも。
 本当は優しい、か。人っていうのはもしかしたらみんな優しいものなのかもしれない。それに臆病で、ずるくて。みんなそうなのかもしれない。
 だから僕みたいな弱い子供(そんなつもりは無いけど)に暴力を振るったのもわかるし、それに警察に電話されたと思って逃げていったのもわかる気がする。……あの人はきっとそういう人だ。
「救急車、呼んだ方がいい?」
 隣で瑞希が遠慮しながら聞いた。僕はいらない、って答えた。全身が痛いけど我慢できそうな気がするから。
 そんなことよりも。僕は瑞希に聞きたいことがあったんだ。
「瑞希、って呼んでいいんだよね」
 僕が聞くと瑞希は少し恥ずかしそうに頷いてくれた。
「瑞希はなんで、僕の家の近くにいたの? あいつがそう言ってたけど」
 そう聞いたら、瑞希は急に顔を赤くした。それはきっと夕焼けのせいじゃない。
「なんでって……」
 教えてよ、って子供みたいに聞いたら、瑞希は答える代わりに僕の方に僕の方に少しもたれかかってきた。


 僕が今日のことを思い巡らせていると、瑞希は時計を気にし始めた。
「何か、あるの?」
 聞くと瑞希はちょっと残念そうな顔をしながら、僕の体から離れた。きっと僕の顔はもっと残念そうだったと思う。
「今朝家を出てきた時、ちょっとお見舞いに行ってくるってしか言わなかったから。心配してるかなって」
 それでようやく瑞希が僕の家に来た理由がわかった。そっか、そういえば何日か学校休んでたしな。
 心配してくれてたんだ。……そんなに仲がいいわけじゃないのに。
「……ねえ、私が帰っても大丈夫? 家族の人沖縄でしょ?」
 連絡しなくてもいいの? 瑞希はそう聞いたけど、僕は首を振った。
「別に大丈夫だよ。一人でも、なんとか」
 僕はそう言いながら立ち上がる。体中が痛いけど、倒れそうになりながらそれでもうまく立ちあがった。ほらね、みたいに。
 しばらく悩んでいたみたいな瑞希は、急に立ち上がる。
 そして電話の方に歩いていって、受話器を持ち上げた。ダイヤルをなれた手つきで押す。
「お、おい瑞希」
 その動きを追いかける事が出来ずに、僕は棒立ちのまま声を掛ける。でも彼女の動きは止まる様子を見せない。……どこにかけるんだ?
「あ、もしもし? そう、瑞希。今日さぁ、朝言ってた友達の家に泊まるから。……え? そうそう、ミドリだよ。なんかね、もう風邪直ったみたい。それでどうしても泊まって欲しいって言うから」
 は? え? 僕は頭の中にクエスチョンマークが浮かびすぎて、瑞希の言っている意味がいまいちつかめなかった。
 うん、じゃあね、って言って受話器を置いた瑞希の顔は少し赤くて、これから一体何があるんだろう、っていうのを僕にものすごく期待させた。
「……泊まってく、よ?」
「……うん」
 僕が答えると、瑞希は僕の方に歩いてきて、短めの髪を揺らしながら僕の方を見上げて。
 そして目を閉じた。
 これは、もしかしてキスして欲しい、ってことか? なんで? 
 だって、別に僕の事を好きとかじゃないんじゃ。
 でもわざわざ見舞いに来るってことは、そうなのかな。
 夕焼けが隣の家の向こうに沈んで、灯りもついてない暗いリビングで、瑞希は目を閉じている。
 もう、いいや。
 僕はそんな風な決心をして、彼女の顔に自分の顔を近づけた。




 もちろんボクの傷だらけの体が、瑞希も巻き込んでフローリングに倒れこんだのは言うまでも無い……。







                      完



2005/05/01(Sun)21:29:30 公開 / 恋羽
■この作品の著作権は恋羽さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 ああ、違う(汗 なんか違う気がする。今度は二つパターンを作って、もうひとつの方は実はお金持ちの瑞希(え?)が林原を雇っていて、それで暴力をふるわせていた、と言うネタ。こっちの方が完成度が高いような気もしたのですが、晴樹がそんな女と寄り添ったりするか?と考えて挫折。結局こっちの方になりました。冒頭の部分を書かなければよかった、なんて後悔してしまいました。もうちょっと考えをめぐらせておけばよかったな、と。そんな反省も踏まえて次回作に取り組ませていただきます。
 それでは御感想や辛口ご意見など、なんでも構いませんのでよろしくお願いいたします。御読了お疲れ様でした。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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