『紙飛行機 上〜下(完結)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:ゆうき                

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 神谷祐樹が紙飛行機に願いを書いて飛ばそうとしたのは、ふと小学一年生の頃を思い出したからだ。
 祐樹が小学一年生の時、クラスの中では、紙飛行機に願い事を書いて飛ばせば、遠くに飛んだ分だけ願いが叶いやすくなるというおまじないが流行っていた。
 こっくりさんとかにはまったく興味を示さなかった祐樹だが、このおまじないには、とてもはまった。自分でも驚くくらい願いが次々と叶ったからだ。
 まぁ、叶ったといっても、今日の夕食はグラタンがいいとか、跳び箱の六段が飛べますようになど、今思えば大した願いではないのだが、当時は純粋に喜んでいた。内容よりも、願いが叶うかどうかが問題だったのだ。
 それで、祐樹が中学三年生になった今でも願おうとしているのは、二週間後にある中学陸上体育大会、いわゆる中体連で、市大会決勝に進むということだ。種目は千五百メートル。祐樹の持ちタイムは、四分三十秒。タイム的には、楽々決勝に進めるものである。だが、祐樹のいる福岡では微妙なラインだ。福岡は、個々でつきぬけた能力を持つ選手は少ないのだが、全体的にレベルが高い。だから平均タイムも全国で一番速く、特に駅伝などでは最強といえるだろう。
 というわけで、祐樹はその全国で一番レベルが高い中で、決勝に進み、有終の美を飾りたいというわけだ。弱小中学校で一人、頑張ってきたのだし。
 祐樹は腰を上げた。時刻は二十時になろうとしている。夜の六キロ走の時間だ。その走りに行くついでに、祐樹はこの願いを書いた紙飛行機を飛ばしてくるつもりだ。





 祐樹の走っている場所は、家から歩いて五分ぐらいの所にある公園だ。その公園には、中心に池があり、その周りにゴム製のランニングコースが設置されている。一周は六百メートルで、祐樹は毎日ここを十周走っている。つまり六キロ。
 祐樹はゆっくりと柔軟体操を始めた。念入りにアキレス腱を伸ばし、走っている時に攣ることがないように気をつける。次に腰をぐりぐりと回し、背筋の緊張をほぐしていく。ボキボキと鳴る腰の音が気持ちいい。一種の恍惚感だ。
 そしてその最中、祐樹がふと目線を池にやると、中心に変な黒いもやもやが浮いているのが見えた。思わず回していた腰が、ピタリと止まる。一瞬、目の錯覚かと思ったが、違うようだ。その黒いもやもやは、直径が一メートルくらいで、池から二メートル程の高さの所に浮いている。その中心では、何やらぐるぐると渦を巻いているようだ。
 祐樹は何となくブラックホールという単語を思い浮かべたが、すぐに首を傾げた。
 はて、こんなブラックホールなんて、今まであったかな? ていうか、こんな身近にあるものなのか?
 疑問は尽きることなく、どんどん湧いてくる。まるで、あの黒いもやもやが疑念を投げかけているようだ。その時、祐樹の頭に名案が浮かんだ。
 んっ、待てよ。あれをもしブラックホールと仮定すると、この紙飛行機をあそこに投げ込めば、すごく遠いところに飛んでいくわけだよな。しかも、環境汚染にもならないし。所謂、一石二鳥というやつだ。
 祐樹は大きく頷くと、ジャージのポケットから紙飛行機を取り出した。一度思ったことは、さっさと実行に移してしまう性質なのだ。
 ちなみに書いた内容は、『中体連、三年千五百メートル、四分三十秒を切って決勝へ 祐樹』というものだ。苗字を書かなかったのは、万が一、友達に拾われた時のためだ。これならば、苦しいかもしれないが、自分ではないと言い訳ができる。
 祐樹は紙飛行機を右手に持つと、振りかぶって黒いもやもやへと投げつけた。祐樹のありったけの想いを込めた紙飛行機は、満月の光を浴びながら、黒いもやもやへと一直線に入っていった。後ろに突き抜けた感じはない。それは変わらず洗濯機のようにぐるぐると渦を巻き続けている。
 祐樹はポカーンと口を開けていた。本当に吸い込まれるとは思っていなかったのだ。
 マジかよ? あれってブラックホールなのかよ?
 祐樹は疑惑の表情を浮かべながら、しげしげと黒いもやもやを眺めていた。その状態で、しばらくつっ立っていたが、はっとして時計を見た。時計は八時二十分を示している。

 やばい、やばい。九時までに帰らなければ、親が切れてしまう。門限にはマジでうるさいんだよな。
 祐樹は慌ててスタートラインに着くと、時計をストップウォッチモードにして走り出した。





 ラストスパート。暴動を起こしている肺を無理やり働かせながら、残り百メートルを駆け抜けて、時計のストップボタンを押した。
 タイムは二十一分四十三秒を示している。かなりいい記録だ。これなら、三千メートルで九分四十秒を切るぐらいのタイムが出たことになる。それは、福岡以外のところで考えれば、県大会にもいけるレベルだ。本来なら手を叩いて喜ぶところなのだが、祐樹はタイムよりも、黒いもやもやの方が気になっていた。走っている間も、頭からまったく離れなかったのだ。
 祐樹は荒くなっていた息を整え、額から流れ落ちる汗をジャージの袖で拭うと、視線を池の中心へと移した。黒いもやもやは先程と変わらず、地上二メートル程の所に浮いている。いったい何なんだろうなと祐樹が呟くと、不意に黒いもやもやがうごめきだした。大きくなったり小さくなったりと伸縮を繰り返している。何かを吐き出そうとしているようだ。
 思わず祐樹は首を引いた。何かとんでもないものを呼び起こしてしまったのかと思ったのだ。だが、黒いもやもやが吐き出したのは、祐樹が危惧したような類ではなかった。
 それは、白いものだった。大きさは手に収まるくらい。一定の速度を保ちながら、祐樹の方へと飛んでくる。
 よく見てみると、紙飛行機だった。その紙飛行機は、空を飛んでいたことを名残惜しむように、ゆっくりと祐樹の足元へと着陸する。戻ってきたのかと思ったが、どうやら違うらしい。その証拠に、紙飛行機の羽の部分には『祐樹様へ』と綺麗な字で書いてある。
 祐樹は恐怖心半分、好奇心半分という心境の中で、紙飛行機を拾い上げ、開けてみた。


『初めまして、祐樹君。いきなり私の部屋の窓から、紙飛行機が飛んできた時は、とてもビックリしました。だって私の家付近には、紙飛行機を飛ばすような子どもはいないのでから。ところで祐樹君は、陸上をしているのですか? 私も陸上をしています。祐樹君と同じ千五百メートルです。ちなみに私も中学三年生で、今度の中体連でいい記録を残そうと頑張っています。お互い、目標が達成できるように、頑張りましょうね  里美』

 手紙から目を放し、祐樹は何ともいえない声で唸った。
 どうやら、あのもやもやは、『さとみ』という同じ中三の女性の家の窓へと繋がっているらしい。だが祐樹は、そんなことよりも、今感じている不思議な感覚の方に戸惑っていた。
 それはこれまでにまったく感じたことのない感覚なのだ。でも、決して不快なものではなかった。むしろ、幸せというか、優しい気持ちで溢れる、嬉しいという感覚に近い。知らず知らず頬の筋肉が緩んでいく。恋とはまた違うような感じがした。
 祐樹はその不思議な感覚に浸りながら、くるりと背を向けると家路へと着いた。本当はもっとその場にいたかったのだが、微笑んでいる表情を誰かに見られているような気がして、照れくさかったのだ。
 そしてそれから、里美との手紙の交換が始まった。


〜中〜
 里美は手紙から推測するに、かなり聡明な人のようだ。周りにいる同じクラスの女子とかと比べてみても、違いは瞭然だった。言葉の使い方、筆跡の美しさ、どれを見てもこの中学校には里美のような人はいないように思える。ついつい女子の顔をじっと見続けてしまい、不思議に思われたりもした。
 里美との手紙の交換は、祐樹にさらなる希望と、今までに感じたことのない感情を与えてくれた。それで人間性が変わったのか、クラスの人や、部活の後輩などから、『大人になったね』と言われる。どうやら、彼女でもできたのかと勘違いしているらしい。
 祐樹は肯定も否定もしなかった。頭の中は手紙のことでいっぱいだったのだ。
 そして手紙交換が始まってから一週間が経ち、里美のことも少しずつ分かってきた。
 里美は京都の方に母親と弟、お婆ちゃんと共に暮らしているそうだ。父親は里美が十歳(つまり五年前)に亡くなったらしい。祐樹が『寂しくないの?』と尋ねてみると、『生きている間にたくさん愛してもらったから寂しくない』と返ってきた。祐樹は健在である両親の片方を亡くしてしまった時のことを想像してみたが、よく分からなかった。里美がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。また、里美は両親が陸上の千五百メートルをしていたので、自然と彼女もするようになったらしい。祐樹はそのことを知った時、心の中でガッツポーズをした。理由はよく分からないが、とにかく嬉しかったのだ。
 





 大会まであと四日となった。
 下弦の月が静かに光を放つ夜。祐樹はいつもと同じように、午後八時に公園へと来た。もちろん、手紙を持って。
 祐樹は手紙を折り、手早く紙飛行機を作り上げると、池の側へと立った。紙飛行機を右手に構え、黒いもやもやを見上げる。その時突然、祐樹は変な違和感を覚えた。何だろうと首を捻っていると、あることに気がついた。
 黒いもやもやの大きさが、元の大きさの四分の一程度になっているのだ。浮いている高さは変わらないのだが、心なしか渦を巻く速度が弱まっているように見える。祐樹は思わず眉を顰めた。
 どういうことだ? 黒いもやもやがえらい小さくなっている……。
 もしかして、消滅しようとしているのか?
 祐樹の背筋に寒気が走った。そんなこと死んでも嫌だった。里美との手紙の交換が出来なくなるなんて、考えたくもない。
『まだ大丈夫だ』
 いきなり、頭の中に声が響き渡った。祐樹がビックリして視線を左右に走らせる。しかし、誰もいない。祐樹は首を傾げた。とても空耳のようには感じられなかった。はっきりと意志のある口調だったのだ。しかも、とても身近にいる人の……。
「何してんだ、祐樹?」
 唐突に耳元で声がした。まったく予期してなかった祐樹は「うわっ」と叫んで飛びのいた。心臓が太鼓のようにドンドンと打ち鳴らされている。
「なっ、何だよ? いきなり大声なんか出して」
 相手の声の調子からして、まったく驚かすつもりはなかったらしい。――さっきの声の主とは違うようだ。祐樹が飛び出すほど高鳴っている心臓を押さえながら振り向くと、そこには、小田信之が立っていた。信之は祐樹と同じクラスの人で、サッカー部期待のゴールキーパーだ。県選抜にも二年生の頃から呼ばれている。
「何だ、のぶか。驚かすなよ」
 祐樹が大きく息をついた。ちなみにのぶというのは、信之のニックネームだ。
「驚かしたのはお前だろう。俺はただ、池なんか見つめて、どうしたのかなぁと思って声をかけただけだ」
 そう言ってのぶが口を尖らした。整った顔立ちなのだが、本人には自覚がないらしく、そういう顔が変形することをまったく気にしない。祐樹は苦笑した。
「で、その右手にあるものはなんだ?」
 のぶが祐樹の右手にある紙飛行機を指差した。思いもよらない質問に、祐樹はついギョッと反応してしまった。それを見て、のぶがにやりと表情を緩める。
「はーん。最近どうも変だなぁと思っていたら、ラブレターを書いていたのかぁ。誰かの家に投げ込むのか?」
 ちょっと待て。何か勘違いされてる。
「ちっ、違う。これはお祈りのために書いた紙飛行機だ。それで、あの黒いもやもやに向かって投げようとしただけだ」
 祐樹はそう言いながら、黒いもやもやの方角を指差した。内容的には半分本当で半分嘘だ。のぶはしばらくその祐樹が指した方向を眺めていたが、意味が分からないというように、首を振った。
「祐樹、お前微妙に嘘をついてるな。どこにも黒いものなんてないじゃないか。こら、俺に中身を見せろ」
 冗談じゃない。こんなの見せられない。祐樹は心の中でのぶの慧眼に舌を巻きながら、思考を走らした。
 のぶには見えないのか? 様子からして、嘘をついているようには見えない。
 つまり俺にしか見えないのか……?
 その思考の間にも、のぶが近づいてくる。どっちにしろ、見せるわけにはいかない。祐樹はくるりと背を向けると、黒いもやもやに向かって紙飛行機を投げつけた。のぶが「あっ」と言って祐樹を突き飛ばす。
「この野郎。絶対見てやる」
 のぶが両足を開き、少し腰を屈め、サッカーでいうハイボール処理の体勢にはいった。 これはかなりまずい。
 のぶは身長百八十センチで、垂直跳び一メートルの奴だ。この様子だと、池に突っ込んででも盗ろうとするだろう。のぶが地面を蹴って、空中へと飛び立とうとした。このままだと盗られてしまう。ここは強硬手段だ。
「悪い、のぶ!」
 そう言うと、祐樹がのぶのシャツを掴んだ。空中に身体を投げ出しかけたのぶが、祐樹にシャツを掴まれたせいで、上昇できず、そのまま緑の芝の地面へと落下する。
命を懸けて守った紙飛行機は、何事もなかったかのように、ゆっくりと黒いもやもやへと入っていった。祐樹がほっと一息をつく。
……それにしても、さっきの声は誰なんだろう。
 祐樹は黒いもやもやに向かって静かに呟いた。
 この後に、のぶの手により羽交い絞めにされたのはいうまでもない。





 大会当日。絵の具セットの青色のチューブをそのまま出したような快晴の空。気温は高いが、心地よい風が柔らかに吹き、走るには最適な日和だ。三年千五百メートルの参加者は、百二名。そのうち、決勝に進めるのは、タイム順に上位二十名だ。
 かなり厳しいレースになりそうだが、今の祐樹には里美の力がある。これは、これからのレースに多大な影響を与えてくれそうだ。それにしても不思議なことだが、里美へと通じる黒いもやもやは他の人には見えないらしい。のぶとの一件の後、それとなく池の周りを走っている人にも聞いてみたのだが、誰一人見えるという人はいなかった。だがそれよりも、祐樹は日に日に黒いもやもやが小さくなっていくのが気になっていた。大会が近くになるにつれ、黒いもやもやはさらに縮小してしまっていたのだ。
 昨日見たときは、十分の一くらいの大きさになっていた。このままだと、たぶん、もっても今日か明日までであろう。祐樹としては、せめて今日までは残っていてほしかった。
そうすれば、予選の結果を知らせることができる。
 そんなことを考えているうちに、あっというまに千五百メートル予選の時間になった。祐樹は大きく伸びをすると、スタート地点近くの日陰に行き、体操服をユニフォームに着替え、他の人に見つからないように里美の手紙を鞄から出して読んだ。
『とうとう大会だね。私もすぐにあります。お互い、目標は最高記録、決勝へ向けて頑張ろうね。きっと祐樹君なら、いけると信じています。 里美』
 微笑みが零れた。昨夜から何度も読み返して、内容のほとんどを暗記していたのだが、やっぱり目の前で読むのは違う。祐樹は手紙を大事そうに折りたたむと、持ってきた鞄へと入れて、スタートラインへと着いた。
 いつもよりも、心がリラックスしていた。


〜下〜
 千五百メートルのスタートの仕方は、短距離のクラウチング・スタートとは違い、スタンディング・スタートである。よってスターターも用意されていない。祐樹は左足を前に出すと、右足を後方に下げた。他の選手も同様のスタイルをとっている。互いの肩がごつごつとぶつかりあった。四レーンの間に、十人の選手がそのスタイルで入っているものだから、とてつもなく窮屈なのだ。
 スタートと同時に抜け出さないと、混雑して、いい位置がキープできない。祐樹は深呼吸をすると、足首をぐりぐりと回した。
 スタートの号砲が鳴った。
 一斉にランナーが走り出す。祐樹は最初の百メートルを十七秒ほどで駆け抜け、五番手についた。とりあえず第一の難関はクリアした。走りながら、ほっと一息をつく。
 全体のペースはわりと速めで、時折吹く風が、強く頬を打っていった。ペースが速いのは、先頭にいる、千五百メートル県二位の選手がどんどん引っ張っていっているからだ。
四百メートル。タイムは六十六秒だった。かなり速いペースだが、体力を考慮すると、すごく調子がいいことが分かる。溢れるほどの体力が、身体中に漲っている。日差しは強いが、心地よい風が、癒してくれる。脹脛に力を込めた。
 四番手に上がった。スタンドに目をやると、部の女子たちが大きな声を出して、応援してくれている姿が見えた。祐樹はふとその中に、見たことのない、里美の姿があるような気がした。
 二週目、八百メートルは、七十秒。流れ落ちる汗が、目に染みる。呼吸も徐々に荒くなっていく。
 祐樹は県二位の選手に揺さぶられて、落ちてきた選手を抜いて、三番手に上がった。一位との距離は、約八メートル。二位とは、約三メートルだ。祐樹は疲れてきた足に鞭を打って、スピードを上げた。肺が酸素と休息を求めて、暴れ始める。
鞴のように呼吸が激しい。だが、祐樹は気にしなかった。あの感覚が来るまでの辛抱だ。
 三週目、七十四秒。女性のアナウンスがそれを伝えた瞬間、祐樹はすっと意識が遠くなるのを感じた。脳内で、エンドルフィンが放出されていく。待ち望んでいた、ランナーズ・ハイだ。身体中を覆いかけていた、疲労が嘘のように消えていき、自然と頬が緩んでいく。上がりきった顎を引き、フォームを正した。
 残り二百メートル、祐樹は二位に上がった。一位は、六メートルほど先だ。百五十メートル地点、祐樹がラストスパートをかけた。一位の選手も、祐樹を一瞥して、スピードを上げる。もうすでに流しに入っていたようだが、どうやら祐樹に付き合う気のようだ。
祐樹は、一位の選手の背中に敬意の念を送った。ありがとうよ、俺なんかに本気で付き添ってくれて。
 祐樹は五十メートル地点で一位の横に並んだ。一位の選手が祐樹を見る。その表情は笑っていた。彼も、楽しんでいるようだ。彼はそこでさらにスピードを上げた。一メートル、二メートルと引き離される。
 もう追いつけそうもない。だが祐樹は諦めず、さらに足に力を込めた。
 そしてそのままゴール。精も根も尽きていた。呼吸も、今までに無いほど荒い。
「楽しかったよ。決勝でまた会おうぜ」
俯いて呼吸を整えている、祐樹の頭に声がかかった。きっと一位の選手だ。祐樹は右手の親指をつき立てた。オーケー。これが今出来る最高の感謝の印だった。
 やがて、少しずつ落ち着いてくると、祐樹は痙攣する足を両手で押さえ、首を上げると、電工掲示板を見た。
 一位にはなれなかったが、過去最高のタイムが出ていた。





 その夜、祐樹は上機嫌な面持ちで、いつもの公園へと来ていた。祐樹は予選を四分二十四秒で走り、十位で決勝に進出していたのだ。無意識のうちに、足取りが軽くなり、スキップのようになる。池の側へと歩み寄った。
 その時、祐樹は異変に気がついた。
 黒いもやもやが、手紙を投げ入れていないのに、弱弱しく伸縮している。大きさは、もはや掌ほどだ。もう限界なのかもしれない。祐樹は慌てて手紙を出し、紙飛行機を作ると、それを投げつけた。
 紙飛行機がゆっくりといつもの軌跡を辿る。外れたらどうしようという思いが一瞬頭をよぎったが、紙飛行機は危なげなく黒いもやもやへと吸い込まれた。
 祐樹は目を閉じて、ほっと胸を撫で下ろした。これで里美に、自分の結果を知らせることが出来る。そして、里美への想いも。祐樹はもう一度、黒いもやもやを見つめた。
 それはさっきよりもさらに小さくなっていた。もう、小指ほどの大きさだ。あの大きさでは、里美の手紙を吐き出すのは不可能であろう。
 祐樹がそう思っていると突然、黒いもやもやがすーっとこちらへと近づいてきた。思わず、口をあんぐりと開ける。
 動けたのかよ?
 黒いもやもやは、祐樹の目の前に来ると、その小さい姿からは想像つかないほど、大きくなった。いや、縦に広がったというべきか。とにかく、それは祐樹と平行な形になった。まるで映画館のモニターのようだ。祐樹が訝しげに見つめていると、唐突にそのモニターに誰か、男の後ろ姿が映った。上下に白のウインドブレーカーを身に着けている。男と分かったのは、襟足を刈り上げているからだ。それにこの男は、この前の声の主という気がしたのだ。
 祐樹はその時、この後ろ姿をよく知っていると思った。やはり、とても身近にいる人のような気がする。いきなり声が頭に響いた。
『俺が出来るのはここまでだ。頑張れよ。俺の代わりに里美を頼むぜ』
 この前と同じ、穏やかで、優しさに満ちた声。この声も、聴いたことがあった。誰だろうと思い出そうとする前に、黒いもやもやは、すっと消失した。
 そして静寂だけが残った。




『里美へ。やりました、俺! 四分二十四秒で決勝進出!! もう喜びが溢れて止まらないよ。すぐさま酒でも飲みたい気分だったけど、明日すぐに決勝があるから止めときました。(アナウンスで自分の名前が呼ばれたら、もう病みつきになるね。) 里美はどうかな? 俺のことばかり書いたけど、里美も頑張ってな。俺が走っている時、里美が力になってくれたから、今度は俺が力になるよ。(告白じゃないよ(笑) だけど、里美のことを考えると、不思議な感覚がするんだよねぇ。恋とは何か違うようだし、いったい何だろう?
おっとごめん、自分でも分からないことを訊いても、分からないよな(汗)
じゃあ、大会頑張ってね。心の底から応援してるから  祐樹』




 それから祐樹は、中体連決勝の記録を基に、推薦で高校へと進み、その後も大学、社会人と推薦で入った。その過程で、暇を見つけては、里美を探してみたのだが、それらしき人は見つからなかった。よくよく考えてみると、どこに住んでいるのかを訊いただけで、具体的な地名を知らなかったのだ。訊いておかなかった自分が、腹立たしい。祐樹はその気持ちを覆い隠すかのように、走り続けた。
 そして社会人陸上部の二年目、二十五歳の時、祐樹は牧ノ瀬麗華という女性と出会った。麗華は祐樹と同じ社会人陸上部に所属していて、同い年の、同じ千五百メートルのランナーである。肩ぐらいまでの髪で、切れ長の目には、優しさが溢れていた。性格的には大人しいのだが、その細い身体からは信じられないほどの芯の強さを持っていた。
 一目見た瞬間、祐樹は恋心を抱くようになった。初めて出会った日から、結婚に至るまで、一年とかからなかった。
 二人の相性は驚くほどピッタシだったのだ。麗華の話す言葉、仕草全てが愛しく感じられた。だが、もちろん、里美のことを忘れたわけではない。というかむしろ、祐樹は麗華を見るたびに、見たことの無い里美の姿を彼女に重ねていた。きっと、里美は麗華のような女性なのだろうと思う。言い訳のように聞こえるかもしれないが、本当にそうなのだ。
 やがて、二人の間に女の子が生まれた。麗華に似て、とても可愛らしい子だった。これが自分の子なのかと疑ったほどだ。一目見たときから、不思議な感覚が祐樹の心を漂っている。昔、この感覚を味わったことのあるような気がした。幸せというか、優しい気持ちで溢れる、嬉しいという感覚だ。
 病室で親子三人で過ごしている時だった。麗華が腕に娘を抱えながら、遠慮がちに訊いてきた。
「ねぇ、あなた。この子の名前、私が決めたいのだけど……いいかな?」
 麗華が上目遣いに祐樹を見つめる。その仕草が愛しくて、つい笑みが零れた。
「もちろんさ。俺は男の子が生まれると思って、女の子の名前は考えていなかったからな」
 嘘だった。本当は、男の子名前も女の子の名前もそれぞれノート一冊分ずつ、考えてある。でも、祐樹はそれでも良かった。麗華なら、自分なんかよりも遥かにいい名前をつけてくれるであろう。祐樹が何度も頷いた。
 麗華は勘のするどい女性だから、祐樹のそんなところも分かったのだろう。小さく頭を下げてから、名前を口にした。
「リミ……という名前にしようと思うんだ。漢字はこんな風に」
麗華が空中に名前を書き出した。しなやかな指先が、魔方陣を描くように動く。麗華が書き終わった時、祐樹は息が止まるほど驚いていた。
 麗華は『里美』と書いたのだ。まさか……という気持ちが頭を満たしていく。祐樹は思考を走らせた。
 俺はずっと里美のことを、『さとみ』と読んでいた。でも、本当は『リミ』というのが正しいのか? それを正しいと仮定すると、俺が昔手紙の交換をしていたのは、俺の娘……? 馬鹿らしい。そんなわけ……って待てよ。俺が里美に抱いていた感情、それは、今この時に、娘に対するものとまったく同じではないか。
――そうか。あの時の、里美に対する不思議な感覚は、やっぱり恋ではなかった……あれは親が子を思う気持ちだったのか。それに、親は二人とも陸上をしていたとも書いてあった。それだけならまだしも、麗華の実家は、京都だ。これはもはや偶然ではないであろう。これを偶然という方が難しいのではないだろうか? 
 里美は俺の娘なのだ。そして、俺は里美が十歳の時に死ぬ……。里美は、母麗華といつか生まれる弟といっしょに、実家の京都へ……。
 叫びたいのを我慢しながら、少しでも気をそらそうと視線を動かしていたが、やがて鏡の所で止まった。頭がくらっとした。確信がより強固になった。
 そこに映っている自分自身を見て、思い出したのだ。
――そうだ、あの時の黒いもやもやに映っていた男の人は、俺自身だ。どこかで、とても身近で、見たことあると思っていたら……。でもまさか、俺自身だなんて……。
 身体を脱力感が襲ってきた。だが、その時誰かが祐樹の服を掴んだ。
 祐樹がはっとして、顔を向けると、里美が天使のような微笑みを浮かべながら、祐樹の服を掴んでいる。初々しく小さな、汚れを知らない手が、祐樹の心を呼び戻してくれる。
――そういえば、里美は手紙に『お父さんにたくさん愛してもらった』と書いていた。
 そうだ。俺はたとえ死ぬことになっても、悔いの残らないように、彼女……里美を一生分愛さなければいけないのだ。この子が悲しむことの無いように。命に限りがある俺自身のために。黒いもやもや……『未来の俺』のために。
 祐樹は静かに悟った。
 祐樹はそっと里美を抱き上げると、その無垢で、可愛らしい瞳に、自分の命に換えても、この子を愛し守り抜くことを心から誓った。
 そして、里美のために、昔の自分のために、二人の手紙の――紙飛行機の架け橋となることを……。






                〜完〜

2005/04/29(Fri)12:30:21 公開 / ゆうき
■この作品の著作権はゆうきさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
終わりました〜。長いような、短いような、複雑な気分です。とりあえず、時空(?)を基にした話が書けたので、嬉しい気持ちで溢れています(自分、大好きなのです)
ストーリー的には、皆さんの指摘の通り、未熟なところがたくさんあり、作品に対して、多々失礼なところがありました。特に、機会があれば、祐樹と里美の手紙のやり取りを、書き加えたいと思います。甘木さん、核心を突く指摘、ありがとうございます。 
それでは、読んで下さった皆様、本当にありがとうございます。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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