『Little love』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:渚                

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「かなう」
「んー?」
キーボードをたたきながらユナを振り返る。ユナは今日買ったばかりのさくらんぼ柄のパジャマを着ている。
「しゃぼんだま、ってなに?」
「シャボン玉?」
ユナはこっくりとうなずく。
「さっき、しかくいはこがいってました」
「四角い箱?」
「しゃーぼんだーま、とーんーだ、って」
俺はやっと理解できた。四角い箱は多分、テレビのことだろう。テレビで流れていた「シャボン玉」の歌を聴いたのだろう。
「んー…シャボン玉っていうのは、こういう、丸い玉のことだよ」
俺は手で丸を作って見せる。ユナは不思議そうに首を傾げて俺を見た。
「でも、こわれてきえた、っていってた」
「あー…シャボン玉はその、触れないんだよ。触ったら割れちゃうんだ」
「どうして?」
「だって…すごく薄いから」
「でも、うすくても、われないものも、あります」
「んー…だから、その…」
いつの間にか、俺も首をかしげていた。当たり前のことを説明するのが、ここまで難しいとは思ってなかった。ユナは相変わらず、じっと俺を見ている。
「…じゃあ、明日一緒にシャボン玉作ろう。そしたらきっとわかるよ」
「ほんと!?」
ユナは嬉しそうにぱあっと笑った。どんどん表情豊かになってくる。
「ああ。だから、今日はもう寝ろ。さっき沙良と一緒に布団敷いた部屋、わかるか?」
「はい」
「じゃあ、そこいきな」
「はい」
「おやすみ」
俺はそういうとパソコンに目を戻した。が、寝室に向かうユナの足音が聞こえなくて、振り返る。ユナはじっと俺を見ていた。俺は体ごとユナのほうにむく。
「どうした?」
「おやすみ、って、なんですか?」
「え?ああ……」
俺は思わずふっと笑った。この子は本当に、何も知らないのだ。よく考えれば、夕菜を蘇生させようとしてユナが生まれたのは、まだ昨日なのだ。何も知らなくて当然だろう。
「おやすみ、って言うのはな。寝る前に言うことなんだ。おはようと同じだよ」
「でも、おはようはあさいうんだよ」
「うん。で、夜はおやすみって言うんだ」
「へぇ……ねるまえには、おやすみっていうんだ」
ユナは本気で感心したようだった。俺はぽんとユナの頭に手を置き、軽く撫でた。
「じゃあ、ユナ。おやすみ」
「うん、おやすみ!!」
ユナは嬉しそうに言うと、寝室へパタパタと走っていった。目を細めてその背中を見送る。そういえば、妹が小さいときもあんな感じだったな、と少し思う。
パソコンのほうに向き直ると、寝室のほうからユナが「おやすみ!!」と叫ぶのが聞こえた。どうやら、「寝るまえにいう」という意味を取り間違えたらしい。まあいいかと思う。そのうち覚えるだろう。
沙良と弘樹は帰ってしまった。明日学校があるから、ということだ。サボればいいじゃないかといったが、弘樹に「お前みたいな天才と違って学校行かなきゃすぐわかんなくなるんだよ」と言い返された。沙良も同意見らしく、ユナを風呂に入れると帰ってしまった。仕方なくユナと二人だけで夕飯を食べ、そのあとは二人とも別々のことをして過ごした。ユナはテレビに興味しんしんで、ずっと見ていた。まあ、そっちのほうが俺にとってはありがたかった。作業を邪魔されると面倒だからだ。
パソコンの画面には細かい字が大量に表示されている。俺は少し瞬きした。目が乾いてしょぼしょぼする。まあ、もう3時間ほど作業をしているのだ、当然だろう。
少し伸びをして、また画面と向かい合う。どうしても、夕菜とユナのことをはっきりさせたかった。放って置いたら、いつまでたってもわからないだろう。絡まった糸は、自分で解くしかない。
謎を解くためのキーポイントは、やはりユナだろう。まあ、ユナは今この場所にいるので、情報には困らない。一番困ったのは夕菜だ。夕菜の情報はほんの少ししかない。彼女を蘇生するために取ってきたほんの小さな骨のカケラだけだ。まあ、これだけでも手がかりがあるだけでありがたいと思うことにする。
さっきとったユナの髪の毛、そして夕菜の骨のデータをパソコンに取り込んだ。夕菜を蘇生するために作った装置をまた使うことになるとは思わなかったが。
二人が持つデータの中で、一つでも一致するものがないか探す。ひとつでも一致していれば、ユナは夕菜を元に作られた、もしくは蘇生されたということになる。これは、けして楽な作業じゃなかった。こんな小さいもののどこにこんな情報が入ってるのか、とうんざりする。あまりに情報が多すぎて、すべてに目を通すだけでかなりの時間が要る。もう3時間も見ているのに、まだ最後まで見終わっていないのだ。まあ、二人の情報の中に一致するものがないか調べながら見ている所為もあるが。
画面とにらめっこしながらぼんやりと考える。俺は何を望んでいるんだろうか。「ユナ」は「夕菜」であってほしいのか、それともまったく別人であってほしいのか。元は、俺は夕菜の蘇生を望んだ。彼女を蘇生しようとしたら、なぜか夕菜が幼くなったような外見のユナが生まれた。ユナは夕菜なのか、まったくの別人なのか。もし、ユナが夕菜じゃなかったら、俺はどうするのだろう。ユナを殺すのか?そしてまた、夕菜を蘇生させるための策を練るのか?いや、そんなことはしない。俺は激しく首を振った。別に夕菜じゃなくてもいいじゃないか。でも、そんなことを言ってしまったら、夕菜のことはどうなる?亡くしてしまった恋人のことはもう忘れて生きていくのか?彼女にそっくりなユナを変わりにして?
はっと我に返る。さっきからまったく作業が進んでいない。2,3度強く瞬きしてから、また画面をにらんだ。





パソコンの電源を落としたときには、もう4時を回っていた。真っ暗になった画面をぼうっと見つめる。一度では納得できず、もう一度すべてを見直した。だが、結果は同じ。二人の情報は、まったく一致しなかった。何千という情報の中で、ただのひとつも同じ情報はなかった。
ユナと夕菜は、まったくの別人。
だが、それではユナが夕菜と酷似していることの説明がつかない。やはり、ユナはクローンのようなものなのだろうか?疲れきった頭には、いい考えはひとつも浮かんでこなかった。寝室に行く気力もなく、椅子に座ったまま目を閉じた。










懐かしい、高校の中庭。俺の目の前に夕菜がいる。俺は言った。好きです、付き合ってくださいと。夕菜はじっと俺を見ていたが、やがてふっと目を伏せた。次に顔をあげたとき、夕菜は泣いていた。でも、君にはユナがいるじゃない。あたしは要らないでしょ?そういって夕菜は俺に背を向けた。あわてて追いかけようとしたら、突然刃物を持った男が現れて夕菜を刺した。血が飛び散る。ゆっくりと夕菜が倒れていく。駆け寄ろうとしたら、誰かが俺の制服の裾をひっぱっていた。さくらんぼのパジャマを着たユナが首をかしげて俺を見つめる。かなう、しゃぼんだまってなに?そんなこと言ってる場合じゃない。ユナを振り払おうとするが、ユナはものすごい力で俺を捕まえている。ほんの2メートルほど先で、夕菜が血をながして倒れている。離してくれ、行かせてくれ……。音が聞こえる。がんがんと、何度もしつこく……。







はっと目が覚めた。目の前にはパソコンの画面。そういえば、昨日ここでそのまま寝たんだった。つけたままだった腕時計を見る。7時半。3時間ほどしか寝ていないせいか、まだ頭がぼんやりしている。
嫌な夢だ。今と思い出が交じり合った、妙な夢。夕菜が泣いていた。ユナがいるから自分は要らない、と。そんなことない。何度もそう自分に言い聞かせても、夕菜の泣き顔が消えない。
と、がんがんと音がした。さっき、夢の中で聞いたのと同じ音。どうやら、現実の音が夢の中に入ってきたらしい。のろのろと立ち上がる。これは、うちの玄関の引き戸をたたく音だ。
誰だ、こんな時間に……心の中で悪態をつきながら戸を開く。と、その途端に俺の顔面にパンチが飛んできて、ひっくり返る。鼻に鈍痛が走る。状況が理解できないまま立ち上がると、玄関口に立っていたのは沙良だった。目尻をきゅっと吊り上げて、俺をにらんでいる。俺は目をしばしばさせた。確かに沙良は短気で、手を上げることもないわけではなかったが、こんな風に顔を見ていきなり殴られたことはなかった。沙良は低く、少し震えた声で言った。
「…どういうこと?」
沙良は俺に何かを投げつけた。キャッチしてみると、新聞。ワケがわからないまま一面を見てみると、そこには、夕菜を殺した通り魔がつかまったことが書いてあった。ようやく、弘樹と二人でそのことを沙良に内緒にしていたことを思い出す。
「どういうことよっ!?」
「どういうことって…犯人が捕まったんだよ」
「そんなこと聞いてないっ!!夕菜の家に電話していたら、昨日の内に弘樹にいったって…あたしと叶に伝えるようにって…どうして叶だけが知っててあたしは知らないの!?」
「それは……」
「それはなによっ!?」
沙良は今にももう一発殴ってきそうなぐらい怒っている。隠したって意味ないだろう。俺は正直に白状した。
「…隠してたから」
「どうして隠すのよっ!?あたしは部外者じゃないのよ!!」
沙良はどんどん熱が上がってきたようだ。ものすごい剣幕で俺に怒鳴った。
「だって、いったらまた、お前辛いだろ?だから、黙っとこうって……」
「そのとき隠したって、どうせ新聞とかニュースとかでばれるわよ。それぐらい、あんたならわかってたでしょ!?」
「わかってたよ!!それでも、俺たちが言ってまたお前に泣かれたりしたら嫌だったんだよ!!」
「それでも!!…それでも、隠したりしないでよ」
沙良はふっと足元に目線を落とした。その頬に、何かきらりと光るものを見て、俺はあわてた。
「沙良?」
「…お願い、隠し事はやめようよ。辛い思いするからっていうけど…夕菜が死んだこと以上につらいことなんか、そうないよ…だから、ちゃんとあたしにも教えて。お願いだから。夕菜が死んで…叶と弘樹はやっぱり、男同時で仲いいし、あたしだけ女で…なんか、のけ者にされたみたいで、悲しいから……」
最後のほうはほとんど聞き取れなかった。沙良の肩が小刻みに震えている。
「…ごめん」
誤るしかできなかった。それ以外に何の言葉も出てこなかった。俺たちが、沙良を傷つけた。傷つけないようにと思ったのに、結果的には傷つけてしまった。少し考えれば、わかることだったのかもしれない。今までは男二人、女二人でうまくバランスが取れていたが、夕菜が死んだことで、少し崩れてしまった。きっと沙良は不安だったんだろう。そんなことにも気付いてやれないで、沙良を泣かせてしまった。
沙良はうつむいたまま顔をごしごしとこすり、また怖い顔をして俺を見た。
「…とにかく、もうやめてよね」
「…ん、悪ぃ。弘樹にもよく言っとくから……」
「いいよ…今度会ったときに直接ぶん殴ってやるんだから」
「お前の右ストレート、かなり痛ぇんだぞ。鼻曲がったらどうしてくれんだよ」
「知らないわよ」
沙良はふんと鼻で笑った。少しほっとする。いつもの沙良だ。
「じゃあ、あたしもう行くね」
「え?朝飯食ってけよ。直にユナも起きるだろうし」
「いいよ。学校行く前にちょっとよっただけだから」
「そっか。俺も学校行かなきゃなぁー……」
「ま、そうしなさい。じゃあね」
沙良はくるりときびすを返した。俺はぼんやりとその背中を見送った。細く、小さな背中。あの背中に、いったいどれだけの思いを背負ってるんだろう。とてももろそうで、いつか壊れてしまいそうで。
「やーねーまーでーとーんーでー、こーわーれーてーきーえーたー…かーぜかーぜーふーくーなー、しゃーぼんだーまーとーばーそー……」
シャボン玉の一節を口ずさみながらそっと引き戸を閉めた。





たった3時間しか寝てないはずなのに、目が冴えてしまってもうねれそうもなかった。まあ、もう8時近いし、起きてもいいだろう。顔を洗ってから台所に向かう。いつもどおり朝食を作る。パンも、ハムエッグも、サラダも、普段より一人ぶん材料をふやす。なんだか新鮮な気分でフライパンに油を引いた。一人暮らしは気楽でいいが、人恋しくなるときもあった。朝食の材料も一人分。広い寝室に敷く布団はひとつ。帰ってきても、誰も待っていない。でも、今は家にユナがいる。家族が増えたみたいで、なんだか気持ちが弾んだ。
コップに牛乳を注いでいると、眠そうな顔をしたユナが台所に来た。肩位までの髪はぼさぼさで、目はとろんとしている。その顔が夕菜にそっくりで。でも、二人は別人。弾んでいた気持ちが少ししぼむのがわかったが、気にしないようにしてユナに声をかけた。
「おはよう、ユナ」
「おはよう」
「ユナ、今起きたのか?」
ユナはこくりとうなずいた。俺は牛乳を冷蔵庫にしまってユナに近づく。
「じゃあ、ユナ。朝起きたらまず何するか知ってるか?」
ユナは少し首を傾げたが、やがてぱっと嬉しそうな顔をした。
「あのね、きのうは、さらといっしょに、ぱしゃぱしゃした」
「どこを?」
「えっと…ここ」
そういって自分の頬に指を立てた。そういえば、きのうは俺がいない間におきてきて、戻ってきたときにはもう顔も洗って、髪もきちんと整えてあった。多分、沙良がやってくれたのだろう。
「そう、顔洗うんだ。それ以外には?」
「はみがきした」
「そうそう。じゃ、洗面所行ってやろうか」
俺はまだ眠そうなユナの手をとって歩き出した。手を握った瞬間、少し鼓動が高鳴るのを感じた。大きさはぜんぜん違うのに、似ているのだ、夕菜の手と。初めてデートしたとき、とぎまぎしながらそっと握った、あの手。その手とそっくりだったのだ。高鳴る鼓動に気付かないフリをして、俺は黙って歩いた。




顔を洗う、歯を磨く。こんな当たり前のことでも、ユナにとっては難しいことのようだ。顔を洗えばパジャマをびしょびしょにぬらし、歯を磨けば歯ブラシをのどの奥まで突っ込んでむせ、少しも目が離せない。髪の毛のことは俺には良くわからなかったが、とりあえずはねた髪を濡らして直し、ブラシで髪をといてやった。すっかりびしょびしょになったパジャマから昨日買った服に着替えさせ、パジャマは外に干しておいた。
ようやく朝食の席についたときには、もう9時を回っていた。ユナのためにハムエッグを小さく切り分けていると、ユナがじっと俺を見ていることに気付いた。どうやら、ユナは言いたい事があるときいつもこうしてるようだ。
「どうした?」
「かなう」
「ん?」
「しゃぼんだま」
「え?ああ、そうだったな」
きのうの深夜から朝にかけていろんなことがあったせいで、すっかり忘れていた。ユナはきっとずっと楽しみにしていたのだろう。ハムエッグを5切れほどユナの取り皿に乗せながら俺は言った。
「じゃあ、メシ食ったらやろう」
「ほんと!?」
「ああ。ほら、これユナの」
「いただきます!!」
いつの間に覚えたのか、そんなことを言ってから危なっかしい手付きでハムエッグにフォークをつきたてた。食べ方がへたくそで、黄身がぼたぼたおちてユナの服や机にシミを作る。せっかく着替えたばかりの白いブラウスなのに、すでに黄色い斑点模様ができていた。俺はため息をつきながら口の周りにも黄身をつけているユナの襟にタオルをねじ込んだ。まったく、こういうところはホントに小さい子供だ。いくら夕菜がドジでも、ここまでひどくはなかった。そう思うと、別人だということに少し納得がいくような気がした。が、ゆっくり考えるまもなく、ユナが今度は牛乳の入ったコップを派手にひっくり返した。それはブラウスだけでなく、下のスカートにもこぼれてしまった。ユナは目をぱちくりさせて濡れた自分の服を見ていたが、やがて俺を見て、困ったように首をかしげた。俺はまた少しため息をつきながらタオルを取りに流しに向かった。






「かなう、なにしてるの?」
上下とも服を着替えたユナは、不思議そうに俺の手元を見た。俺は豆腐のパックに水と洗剤を入れているところだった。
「これがシャボン玉になるんだよ」
「これが?」
ユナはじっとそのシャボン玉液を見ていたが、やがて俺を見て首をかしげた。
「でも、しゃぼんだまはまるいって、かなう、いった」
「ああ。これを使ったら、丸くなるんだよ」
俺は先に切れ目を入れて、花のように開かせたストローをユナに見せる。ユナはそれを手にとってしばらくいじっていたが、また首をかしげた。
「ほんとに?」
「ほんとに。じゃあ、やってみるか」
よく首をかしげる子だなと思いつつ、ユナに昨日買ったばかりの秋物のコートを着せる。最近少し寒くなってきている。もうそろそろ秋も終わって、冬になるだろう。夕菜が死んだのは夏。もうそんなにたつのか、としみじみと実感する。
「かなうー、はやく!!」
ユナは玄関で靴を履いてぴょんぴょんはねている。俺は軽く返事をしてから自分の靴を履き、ついでに左右を逆に履いていたユナの靴を履きなおさせた。




「じゃあユナ、そこで息はいてみな」
ユナはシャボン玉液をつけたストローをくわえたまま、小さくうなずいた。ためとして大きく息を吸った…ストローをくわえたまま。途端にユナはストローをぺっとはなした。息を吸ったせいで洗剤が逆流したんだろう。俺はあわててユナを抱いて家の中に掻け戻り、洗面所に連れて行った。コップに水をくみ、ユナにうがいをさせる。それを5回ほど繰り返したところで、俺はやっとほっと息をついた。
「ユナ、息吸っちゃだめだ。まずかっただろ?」
「…まずかった……」
ユナは少し涙目になってつぶやいた。それがなんだかおかしくて、俺は少し笑った。
「あそこでふーって息はけばいいんだよ」
「…ごめんなさい」
なぜかユナは謝った。どうやら、気付かないうちに少し口調がきつくなってしまったらしい。もともと、俺は会話はあまり得意じゃないのだ。なんていえばいいかわからなくて、俺は黙ってまたユナを抱き、庭に出た。
さっきユナが落としたままになっていたストローを軽く洗って液をつけ、またユナに渡す。ユナは少し警戒したようにそれを見ていたが、やがてまたそれをくわえた。そして、今度はすぐに息を吐いた。それと同時に、ストローの先から小さなシャボン玉が5,6個飛び出した。ユナはびっくりして一瞬硬直したが、やがてぱあっと笑った。ふわふわと浮いているしゃぼんだまに近づき、嬉しそうに見つめる。
「かなう、これがしゃぼんだま!?」
「ああ、そうだよ」
ユナはすっと手を伸ばし、シャボン玉に触れた。と、途端にシャボン玉がはじけて消える。ユナはきゃっと声を上げて喜ぶ。またストローをくわえ、今度は思いっきり息を吐いた。すると、今度は十数個ものシャボン玉が飛び出し、風で空に舞い上がった。ユナはうれしそうに声を上げ、それを見上げた。シャボン玉はゆっくり、高く舞い上がっていく。それを見るに連れて、ユナの顔からゆっくりと笑いが消えていった。やがて、ぱっと俺を見て叫んだ。
「かなう!!とんでっちゃった!!」
「え?ああ、すごく軽いからな」
「どうしたらもどってくるの!?」
俺は一瞬笑いそうになったが、ユナの目が必死さを語っていた。俺はしゃがんでユナと目線の高さを合わせた。
「ユナ、もう戻ってこないよ。あんな高いところには、手届かない」
「じゃあ、どうなっちゃうの?」
「ん…いつか、どこかで割れる」
「やだぁ…あれ、ゆなのしゃぼんだまだよ」
ユナの目が涙で膨らんでくる。俺はあわてた。女を泣かせたのは、今日2度目だ。
「でもユナ、また作ればいいから」
「やだぁ!!やだやだぁ!!」
ユナは地団太を踏んで叫び、やがてわっと泣き出した。
ただの女の子だった。俺の目の前で泣いているのは、ないものねだりをする、5,6歳のたった一人の女の子だった。俺が愛して、手をつないで、キスをした人とはちがう。なぜだろう。深く、そう感じた。この子は夕菜じゃない。ユナという、女の子だ。この世にたった一人しかいない、「ユナ」という生き物だ。
俺はユナが投げ出したストローを拾い、液をつけて口にくわえた。そしてそっと、ゆっくりと息を吹き込んでいく。シャボン玉はゆっくりと大きくなっていく。泣いていたユナもそれに気付き、ぴたりと泣くのをやめた。しゃくりあげながら、じっとシャボン玉を見つめている。やがて、それはユナの顔ほどの大きさになった。ユナはじっとシャボン玉を見つめていたが、やがてポツリとつぶやいた。
「しゃぼんだまに、ゆながうつってる」
俺は少し強く息を吐き、シャボン玉をストローから離した。それは風にあおられて、ふわふわと飛んでいく。ユナは、今度は泣き叫ばなかった。ただじっと、シャボン玉を見送っている。俺もただぼんやりと、それを見送った。やがて、ユナがポツリとつぶやいた。
「さっきのしゃぼんだまにも、ゆなのかお、うつってる?」
ユナがまた、じっと俺を見ている。涙で濡れた、大きな瞳。それをまっすぐ見返して、俺は微笑んだ。
「ああ。あのシャボン玉を見たヤツはきっと、『あのシャボン玉にうつってる子は誰だろう』って思うよ」
俺はまた空を見上げた。シャボン玉はもう見えなかった。
「でも、きっとさっきのシャボン玉には、ユナの泣いてる顔がうつってるぞ。きっとみんな、『あの子はどんな素敵な顔で笑うんだろう』って思うよ」
なんだか、自分で言っといて歯が浮くような言葉だと思う。でも、今は手段を選んでる暇はなかった。
「ユナの笑顔見たら会いたくなって、このうちまできてくれるかもしれないぞ」
「ほんと!?」
「ああ。でも、泣いてたら来ないかもよ」
「ないてないもん!!」
ユナはあわてて目をごしごしこすり、俺の手からストローをとると、シャボン玉を作り、その一つ一つににかっと笑っている。さっきまで泣いてたくせに、と軽く呆れながらも、気がついたら俺も笑顔になっていた。














数日後の昼、弘樹がうちを訪ねてきた。右頬が少し腫れていて、沙良が弘樹のところにも殴り込みに行ったのが一発でわかった。
弘樹は縁側に腰を下ろすと、タバコに火を点けた。弘樹の喫煙は高校生のときからだ。どうやら、不良だった中学生のときに味を覚え、やめられなくなったらしい。まあ、少し前の成人式で俺たちは成人になったから、今は問題ないが。そういえば、夕菜は成人になる前に死んでしまった。夕菜の時間はもう動かない。俺たちはだんだん年をとっていく。でも、夕菜はいつまでも、19歳の夏から動くことはできない。そう思うと、少し胸が痛んだ。
「ユナは?」
煙を吐き出しながら弘樹が俺に尋ねた。
「多分、台所だ。シャボン玉液作ってるよ」
「シャボン玉?」
「ああ。なんかはまったらしくて」
程なくして、引き戸を引く音が聞こえ、ユナが庭に出てきた。豆腐のパックとストローを使って、楽しそうにシャボン玉で遊んでいる。あの日以来、シャボン玉に笑いかけて見送るのが朝の日課になっていた。ユナは一日の大半をシャボン玉遊びに使っていた。俺もなるべく遊んでやるのだが、学校に行っていない分、それなりには勉強しておかないといけないので、ずっと構ってはやれない。だが、シャボン玉なら一人でもできるので、ユナは庭でよくシャボン玉をして遊んでいた。ここ2,3日ますます寒いのに、元気なもんだ。
「今日学校は?」
「午前中だけな。たまにはこっちにも来ないと、叶一人じゃ大変だろうし」
弘樹に気付いて大きく手を振っているユナを見て微笑みながら弘樹はいった。
「沙良はきてんのか?」
「ちょっと前に来たけどな。でもユナに会う前に帰っちまったし」
「…お前も殴られた?」
弘樹は苦笑しながら俺の顔を覗き込んだ。俺は小さくうなずき、弘樹がくわえていたタバコを取った。弘樹が止めようとしたが聞かずに、一気に吸う。煙が大量に肺にきて、むせこんだ。あらまー、なんてのんきな声を出しながら、弘樹は俺の背中をさすった。
「やめとけって。なれないやつが吸ってもうまくないぜ」
「…お前…げほっ、よくこんなもん吸うな」
俺はタバコを足でにじり消した。どうも、タバコや酒は好きじゃなかった。今はなんとなく憂鬱になって吸ってみたが、こんなものを吸うヤツの気が知れなかった。
「…んで、沙良のことだっけ」
「…ん」
「…あれは、俺らが間違ってたかな」
ユナが飛ばしたシャボン玉を目で追いながら、弘樹がつぶやいた。声からは、後悔の色が取れた。
「だな。変に隠さないほうが良かった」
「…あいつ、なんだかんだ言って最近良く泣くよな」
「仕方ねーよ…親友が死んだんだから。女だったら普通泣くって」
「まあな。俺らだって、結構きつかったしな」
弘樹はきっと、何気なく言った一言。でも、弘樹が言った「辛さ」と、俺が感じた「辛さ」と、沙良が抱いた「辛さ」はそれぞれ違うと思う。みんな一番深いところは同じだが、少しずつ、傷の形が違う。俺は、守ってやれなかった悔しさ。最後にそばにいてやれなかった辛さ。もっと愛を注いでやればよかったという、後悔。弘樹と沙良も似てはいるだろうが、少し違うだろう。もっとも、そこまでは俺にはわからないが。でも、みんな一番深いところは同じだ。
もう二度と、夕菜には会えない。身を切られるような、鋭い痛みを伴う辛さ。それは、俺たち3人が共通した感じたこと。だからこそ、俺は夕菜を蘇生させようと思い、二人もそれを止めず、賛成した。
俺はぼんやりとユナを見た。ユナは相変わらず、シャボン玉に微笑みかけていた。そのシャボン玉はゆっくり、空へ上ってく。高く、遠く……。それを見て、なぜかとてもやるせないような気持ちになって、思わず目をそらした。
「なあ、叶」
いつの間にか2本目のタバコを取り出しながら弘樹が言った。
「あのサ、俺ら3人の中でサ、夕菜とユナのことでは、隠し事はなしにしようぜ。結局、隠しても最後にはわかるようなことも多いだろうし」
「…そうだな。弘樹にしては珍しく、まともなこと言うじゃんか」
「珍しくは余計だ」
「…じゃあ、早速一個報告だ。ユナのことで」
俺は夕菜のユナのデータを調べたこと、二人の中で一致するものは何一つなかったこと、つまり、二人はまったくの別人だということを弘樹に話した。弘樹は時折煙を吐き出しながら話を聞いていたが、話し終えると特別大きく息を吐き、煙を吐き出した。
「ふーん…不思議なこともあるもんだなぁ」
「…んだよお前、のんきな」
俺は呆れて弘樹を見た。弘樹はうひゃひゃと笑った。
「叶でも失敗することもあるんだなぁ」
「…うるさい。それに、まだユナが夕菜じゃないってはっきりわかったわけじゃない」
「何でだよ?全部違ったんだろ?」
「まあ、そうだけどな。でも、それならユナが夕菜にそっくりなことの説明がつかないんだよ」
「何でだ?夕菜の骨から情報をとったんだから、似ててもおかしくないだろ?」
「そうだ、情報を取った。それなら、二人がそっくりでもぜんぜんおかしくない。でも、情報を取ったなら、二人のデータの中のどれかが一致するはずなんだ」
「…なんだ、矛盾ってヤツか?」
「そうだ」
弘樹は少し眉をひそめ、一瞬難しい顔をしたが、やがてひとつため息をついた。
「ま、そこは叶クンの専門分野だな。俺頭使うのは苦手だわ」
「心配すんな、期待してない」
ひっでー、と騒ぐ弘樹を無視して、俺はユナを見た。亡くした恋人にそっくりな、あの女の子。
「…本当にユナが夕菜じゃないんなら、どうするべきなんだろうな」
「別に、どうもしなくてもいいじゃん」
あまりにもさらりと流されたので、驚いた。同時にかなりむっとした。思いっきり横目でにらんでやる。俺はそのことで散々悩んだのに、なんだか弘樹はやたらさっぱりしていて、いらついた。
「もっと真面目に受け止めろよ」
「だってサ…二人が別人って、それってそんなに重大なことか?」
弘樹はこともなげに言った。俺は驚いて弘樹を見つめた。弘樹は俺のほうを見ず、明後日の方向を見て煙をはき出した。昔から思ってることだが、こいつは横顔が一番いい顔だと思う。顎から首にかけてのラインが整っている。そんなことをぼんやりと考えた。俺はしばらく黙っていたが、やがてぼそぼそしゃべり始めた。
「だってよ…俺たちは、また夕菜に会いたかったから蘇生させようとしたんだろ?」
「ああ」
「でも、二人が別人なら、ユナは夕菜じゃないだろ?」
「まあ、そうだな」
「それじゃまるで、夕菜が抜けた分を、ユナで補ってるみたいじゃないか。それってなんだか…夕菜を裏切ってるみたいだ」
俺たちの生活中で、一つ欠けてしまった「夕菜」というピース。それにそっくりな形の「ユナ」というピースでその穴を埋める。それでいいはずがないのだ。
「…なんだよ、そんなことで悩んでたのか?天才って、意外と簡単なことがわかんねぇんだな」
やれやれと首を振りながら、弘樹は笑った。俺はカチンときて、弘樹に言い返す。
「なんだよ、じゃあお前はわかんのか?どうすればいいんだよ!?」
「もう一度やりなおしゃいいじゃん。別に、チャンスは一度じゃないだろ」
「なっ……」
あまりにもあっさり答えられて、俺は口をつぐんだ。弘樹はしばらくじっと俺を見ていたが、やがてふっと笑った。
「どうしたんだよ?叶らしくもない。お前、数学でわかんない問題は解けるまで何回でもやってたじゃんか。それといっしょだろ。できるまで何回でもやり直せばいいだろ」
「でもっ…それなら、ユナはどうなるんだよ?」
「別に、今のままじゃいいじゃん。お前の妹として、この家においてやればいいじゃん。それで、夕菜は蘇生できるまで、また何回でもやればいい」
「…俺たちは、夕菜とユナが混同してる。お前も沙良もユナを夕菜みたいに思ってだろ?」
「そうか?俺はそうは思わないな」
タバコをひさしでけしながら弘樹は続けた。
「夕菜は夕菜、ユナはユナ。夕菜は親友だ。ユナは、なんだか妹みたいな感じだな。俺も沙良も、夕菜もユナも好きだよ。でも、二人に持ってる好意は、ちょっと違うな。ユナはぜんぜん子供過ぎて、夕菜と同じようには思えないよ。だから、混同してるなんてことはないと思うけどな」
弘樹の言葉が、頭の中でがんがん響く。意外だった。沙良も弘樹も、ユナを夕菜の代わりのように感じてると思ってた。それなのに。
「俺も沙良も、やっぱ夕菜には会いたいしサ。叶がやってくれるの、実は期待してるんだぜ」
やめろ。お前らは何もわかってない。
「時間はあるんだしさ、ユナの世話も大変だろうけど、俺らも協力するしサ」
お前らから見た夕菜は、親友だ。でも、俺にとって、彼女は……。
「なあ、叶。もし、俺らのこと気にしててやれないんだったら……」
「黙れ!!」
思わず立ち上がった。弘樹が驚いて俺を見ている。ユナが遠くのほうで俺の大声に驚いて飛び上がったのが見えた。俺は弘樹をきっとにらんだ。握り締めた拳が、ぶるぶる震える。
「わかったような口利くな!!お前に何がわかんだよ!!お前にわかんのか!?…俺は、俺は恋人亡くしたんだよ!!好きだった人殺されたんだよ!!」
止まらない。止められない。いろんな感情が、一度にあふれ出してくる。
「お前と沙良にとっては夕菜は友達だろ!?でも、俺にとっては違うんだよ!!大事な人だったんだよ!!こんなこというのダサいけど…世界で一番大事な人だったんだよ!!俺は、そんな人守ってやれなかったんだよ!!お前にわかんのか!?お前と沙良に、俺の気持ちが!!」
「叶……?」
魂が抜けたような、弘樹の声。きっと、俺がここまで怒っている理由がわからないのだろう。俺は肩で息をしながら、少しためらったが、やがて吐き捨てるように言った。
「俺は…俺が、夕菜とユナが混同してるんだよ。ユナは夕菜じゃない。それは、なんとなくはわかってるんだ。多少の矛盾はあるけど、多分そうなんだ。頭ではわかってる。でも…この2,3日、俺はユナが気になって仕方なかった。ユナに、夕菜のと同じような感情もったんだよ!!」
「叶…それって……」
荒い息をつきながら、俺は弘樹をにらみつけた。
そうだ。俺は、ユナに恋してる。ユナと目が合うたび、ユナの手を握るたび、一つの布団で寝てぬくもりを感じるたび、鼓動が高鳴った。あんな小さな女の子相手に。
「…そうだよ。お前や沙良と違って、俺はそんな風に割り切れなかったんだよ」
ここまで感情が高ぶるのは、きっと、弘樹と沙良は夕菜とユナをちゃんと区別しているからだと思う。それはなんとなく感じられた。焦りを感じた。二人は越えられた壁を、俺だけが越えられていない。その焦りと苛立ちと夕菜とユナへの想いが混ざり合って、非常に不安定になっていた。
弘樹は呆然と俺を見つめている。俺は弘樹のほうを見れなかった。どんな表情をしているのか、確かめられなかった。きっと、軽蔑したような顔だろう。つい最近恋人と死別したばかりなのに、見た目がそっくりなだけの、しかもあんな小さな女の子に恋してるなんて、と。俺は弘樹に背を向けて、ぼそりと、低く脅すような声で言った。
「…帰れよ」
そのあとは、沈黙だった。弘樹はしばらく動かなかったが、やがて立ち上がる気配がし、俺の隣をとおって玄関のほうへいってしまった。ガラガラと引き戸をあけ、閉める音。どうやら、帰ったようだ。
俺はその場に座り込んだ。もう、何がなんだかわからなかった。弘樹は何も悪くないのに。八つ当たりしてしまった。俺は夕菜を失った。今ので、弘樹も沙良も俺に愛想をつかしてしまったら?俺には、何が残る?
「かなう?」
小さな声。俺は振り返った。ユナが不安げな顔で俺を見ていた。いつの間に近づいてきたのか、まったく気付かなかった。俺は思わずユナを抱きしめた。ユナは一瞬驚いたようだったが、やがて、そっと俺の首にすがりついた。
俺に残るのは、この子だけ。恋人の姿をした、この小さな女の子だけ。怖かった、すべてを失ってしまうのが。ユナの髪から、ふんわりと香りがする。それがなぜか夕菜のそれと似ていて、また心が揺らぐ。今は安らぎに身をゆだねたかった。ユナのぬくもりを感じながら、目を閉じる。今の俺には、夕菜への罪悪感と戦う気力は残っていなかった。
ユナは、ユナだけは離さないように。そう思って、ただ強く、ユナを抱きしめていた。














 夕菜。
 俺の恋人。沙良と弘樹にとっての親友。高校時代の同級生。気が弱くて引っ込み思案。数学がもっぱら苦手。背が低くて華奢。小さい子供が好き。カエルとキャベツが大嫌い。
 夕菜のことだったら、いくらでも話せる。それぐらい、夕菜が大事な存在だったから。
 それなのに。
まだ夕菜が死んで半年もたっていないのに。どうして夕菜以外の人に心が揺れるんだろう?ただ見た目が同じだけの、あんな小さな女の子に。
 ユナの寝顔を見ながらぼんやりと考えた。布団に入ったのは10分ほど前だ。俺は目が冴えて眠れなかったが、ユナはあっという間に眠り込んでしまった。
 閉じられた瞳。それが葬式のときに棺の中で眠っていた夕菜のそれと重なる。ユナの寝顔は、やっぱり夕菜に似てる。だから俺は、この寝顔が嫌いだ。命が入っていない、空っぽの夕菜を思い出すから。
 俺はごろりと寝返りをうってユナに背を向けた。硬く目を閉じてみても、一向に眠気は来なかった。







 結局一睡もできないまま、朝を迎えた。まだ眠っているユナを起こさないようにそっと布団を抜け出し、洗面所に向かう。顔を洗って顔を上げると、鏡に疲れきった自分の顔がうつっていた。それを見てまた、憂鬱が襲ってくる。
 昨日、思わず弘樹に切れてしまった。多分、そのことは沙良にも伝わってるだろう。二人は、俺のことをどう思ってるだろう。沙良は怒っているかもしれない。夕菜を妹のように可愛がっていた。その夕菜を裏切るような真似をすれば、当然また殴りこみに来るだろう。
 いや、来ない。頭の中で、悲しい否定の声がする。あの二人はもう、ここには来ない。きっと、俺に失望しただろう。いつもすましている叶が、恋人を亡くしたばかりの男があんな子供に惹かれているなんて。
 二人はもしかしたら、ユナを連れ出しに来るかもしれない。俺みたいな男の下には置いて置けないと、ユナを助けに来るかもしれない。 
 そう思った途端、急に怖くなった。俺はあわてて洗面所を出、廊下を走った。木造の家の中に足音が木霊する。寝室の襖を勢いよく開けると、ユナが怯えたように振り返った。どうやら、ここに来るまでの俺の足音で目を覚ましてしまったらしい。
 ユナは布団の上に心細そうに座り込み、俺を見ていた。俺は荒い息をつきながらユナに近づき、しゃがみこんで目線を合わせた。ユナの頬がかすかに濡れているのに気付き、俺は驚いてユナを見た。ユナはまだ少し潤んでいる目でじっと俺を見、やがて小さな声で言った。
「…かなう、いなくなったのかとおもった」
「え?」
 ユナは小さな手で目をこすった。俺はユナの言う意味がいまいち掴めなくて首をかしげた。ユナはまたさっきと同じぐらい小さな声でポツリと言った。
「ひとりだと、こわい」
 ユナはそっと立ち上がり、俺の首にしがみついた。細い腕。心臓が少し飛び上がるのを感じる。俺は一瞬躊躇ったが、やがてそっとユナを抱きしめた。
 まだ寝起きの所為もあるのだろう。ユナは少し愚図っている。かすれた涙声が聞こえた。
「おきたとき、ひとりだとこわい」
 


 目が覚めたときね、一人だとなんだか怖いの。



 俺は反射的にユナの肩を掴み、俺の首から引き剥がした。力を入れすぎてしまい、ユナがその反動で布団の上にひっくり返る。
 俺は目を見開いてユナを見つめた。有り得ない。有り得るはずがない。以前、同じようなことを言った人がいた。もしかして、やっぱりユナは…。いや、そんなはずない。俺は激しく首を振った。たまたま似ていただけ。そうに決まってる。
 小さなうめき声で俺ははっと我に返った。ユナが布団の上に倒れている。あわててユナの腕をつかんで彼女を起こした。ユナは困惑した、そして怯えた目で俺を見ていた。その目を見ると、猛烈に罪悪感に襲われた。ユナは俺の傍にいてくれるたった一人の人なのに。彼女が怯えているのに、それを拒絶するなんてどうかしてる。
 そっとユナを抱き寄せる。ユナはまた俺の首にしがみついた。押し殺したような嗚咽が聞こえてくる。俺はユナの頭をそっと撫でた。細い髪が指に絡みつく。ユナの涙で濡れた声が聞こえた。
「ひとりはいや……いっしょにいて」
 ゆっくりユナの頭を撫でながら俺はぼんやりと考えた。似ているなんてものじゃない。もはや、疑いようがなかった。俺は以前、夕菜から同じような言葉を聞いたのだ。 







 あれは俺と夕菜、弘樹、沙良で旅行に行ったときのことだ。二人部屋を二つ予約したのだが、弘樹と沙良の「粋」な計らいで俺と夕菜が同じ部屋にされてしまった。今思えばかなり奥手な俺たちへの応援だったんだろうが、二人だけで部屋に閉じ込められたようなもので俺たちは相当緊張していた。そのときすでに付き合い始めて結構経っていたのに呆れたものだ。まあそれでも何とか夜を迎え、俺たちはそれぞれのベットにもぐりこんだ。
 目が覚めたとき、まだ外は真っ暗だった。枕元に置いた腕時計を見てみると深夜の3時過ぎだった。昔から俺は眠りが浅い。いや、浅いというか、非常に波があるのだ。深く眠っているときは死んだように眠っているが、あのときのように突然ぱっと目覚めるときもある。
 俺はベットを抜け出し、小さく寝息を立てている夕菜を起こさないようにそっと部屋から出た。寝起きで喉がからからだったので冷たい水が無性にほしくて、廊下に置かれている氷を取りに行ったのだ。部屋に戻ってグラスに水をくむのが面倒で、俺は氷をそのまま口に入れた。生ぬるい口の中に冷水が広がる。その心地よさをを十分に味わってから俺は部屋に向かった。
 そっとドアを開け、音を立てずに部屋に滑り込んだ。夕菜を起こさないように…そう思ったのに、それは無駄だった。
 真っ暗な部屋の中は啜り泣きが響いていた。俺は一瞬ひるんだが、それがベットの上で上半身だけを起こした夕菜が発しているものだと気付き、驚いて彼女によびかけた。
「ユナ!?」
 夕菜がぱっと顔を上げた。涙で濡れている顔をくしゃりとゆがませる。俺が駆け寄ると夕菜は子供のように首に腕を回し、しがみついてきた。胸に顔をうずめられて顔が熱くなるのを感じる。声が上ずりそうになるのを押さえて冷静を装って話しかけた。
「どうしたんだ?」
「良かった…叶、いなくなったのかと思った……」
 夕菜は顔を上げ、情けなさそうに笑った。その姿が今にも壊れそうに見えて、俺は思わず夕菜を抱きしめた。夕菜も首に回した腕にそっと力を込める。しばらく黙って抱き合っていたが、やがて俺は夕菜からそっと腕を離し、夕菜のベットの端に腰掛けた。夕菜も俺の隣にちょこんと座る。
「…なんで泣いてたんだ?」
 俺の声が気遣わしげなことに気付いたのか、夕菜はくすりと笑った。
「ごめんね、心配かけた?」
「まあ…ちょっとは」
「ひどい」
 夕菜が拗ねたように頬を膨らませる。子供のようなその横顔を見て、俺は思わずふっと笑った。そういう一つ一つの動作までが愛しかった。
 夕菜は俺の小さくあっかんベーをして少し笑った。ゆっくりと俺の肩に頭を持たせかける。俺もぎこちないながら、夕菜の肩に手を回した。俺たちが付き合っていたのは、何か複雑な感情があったわけじゃない。お互いにお互いが必要。ただそれだけだった。そして、それだけで十分だった。
「…目が覚めたときね、一人だとなんだか怖いの」
 暗闇の中、ぽつりと言った夕菜の言葉が浮かび上がる。どうして、という俺の問いに夕菜はちょっと首をかしげた。
「んー…そんな難しいことじゃないと思う。誰かが隣にいないっていう、そういう怖さ…かな。さっき目が覚めたら叶がいなくなってて、すごく怖かった。もう戻ってこないんじゃないかって……」
 夕菜がまた少し声を詰まらせる。俺は夕菜の肩を抱く腕にいっそう力を込めた。わかるような気がした。この暗闇の中にたった一人残されたときの恐怖。心細くて、泣きたくなる。一人で目覚めたときの夕菜の気持ちを思うと胸が押しつぶされそうだった。
「お願い、一緒にいて。一人にしないで」
 夕菜が呟くようにそういった。周りから見れば大袈裟、と思うかもしれない。でもそれぐらい、俺たちはお互いがお互いをそれだけ必要とし合っていたのだ。








 


 ユナは夕菜がいった言葉とほとんど変わらない言葉を言った。そういえば、以前ユナの服を買いに行ったときにも沙良がユナの好みが夕菜にそっくりだといっていた。
 別人であるはずの二人と、できすぎている共通点。
 ユナはやっぱり、夕菜なのだろうか?だが、データ上ではそのことは証明されなかった。データに何か誤りがあるのだろうか、それともたまたま好みがいっしょだったり似たようなことを言っただけ……?
 俺は思わず頭を抱えた。そして、それと同時に自分が愛した夕菜のことがわからなくなったような気がして、なんだか悲しかった。朝目覚めたときに一人でいるときと同じ、暗い闇の中で夕菜とはぐれ、一人取り残されたような、あの恐怖だった。















 

レポートを仕上げながら、俺は少しため息をついた。
 朝突き飛ばしてしまったことでユナは少しへこんでいたようだったが、今はもう回復して相変わらずシャボン玉で遊んでいる。ユナが一人遊びが別に苦痛ではない子で助かったが、こんな状態ではいつまでたっても学校に行けない。勉強についていけない、ということはないのだがあまり休んでいると単位が取れなくなってしまう。
 ベビーシッターでも雇おうかとぼんやりと考えたが、すぐに諦めた。そんな経済力はないし、ユナもやっぱり不安だろう。実家に預けるということも考えたが妹たちに何を言われるかわからないので、それも無理だ。
 弘樹と沙良。真っ先に候補に挙がってきたのがあの二人だ。二人は夕菜のことも知ってるし、ユナも二人になついている。でも、俺は二人に預ける気にはならなかった。弘樹にあれだけむちゃくちゃ言ったくせにやっぱり和解してユナを預けようなんて、虫が良すぎる。それに、怖かった。あの二人に預ければ、もう俺にユナとは会わせてくれないような気がして。
 怖かった。ユナを失うことが、たまらなく怖かった。大事な人を失う辛さは、夕菜のことで実感した。またあんな思いをするのはごめんだ。世界が色を失ったような、あの虚無感。あの色のない世界で俺が何とか生き延びれたのは、「夕菜を蘇らせる」という決意があったからだろう。でも、もしユナを失ったら、どうすればいいんだろう?大事な人をまた作り出すような力は、もう俺には残されていない。自らも色を失っていくことに抵抗する術をなくし、モノクロの町と同化してしまっても、俺はもう、立ち上がれないだろう。













 突然頭に鈍い痛みが走って目が覚めた。俺は書き上げたレポートの上に突っ伏して寝ていた。最近どうも転寝が多いと思いながら顔を上げると、弘樹がいた。俺は目を瞬いた。まだちゃんと目が覚めていないのだろう。そうぼんやりと思っていると、弘樹の肩越しに沙良が見えた。ユナと何か話している。俺はもう一度弘樹を見た。夢?現実?寝ぼけた頭ではなかなか区別がつかない。
 弘樹はしばらく黙っていたが、やがて焦れたように口を開いた。
「いつまで寝ぼけてんだよ。すっげー間抜け面だし」
「…弘樹」
「ん?」
 俺は黙って弘樹を見ていた。夢じゃない…?弘樹の薄い茶髪の髪も、ピアスをつけた耳も、飄々とした表情も。俺は思わず立ち上がった。すべてが、俺が長い間見てきた弘樹だった。
「お前、何してるんだ……?」
 自分で言ってから奇妙な台詞だな、と思う。ただ、自分が今純粋に思っていたことが零れたのだ。案の定、弘樹は呆れた顔をしていた。
「何って…お前にばっかりユナの世話任せちゃ悪いだろ?だから助っ人」
 弘樹はそれだけ言い終えてから気味悪そうに俺を見た。
「んだよ…どうせまた憎まれ口叩いてくると思ったのに。あんまり俺が男前だからって見とれてんなって」
 俺はただぽかんとして弘樹を見つめていた。弘樹は自分の悪ふざけにも乗ってこない俺を見てますます気味悪そうに眉をひそめ、沙良を振り返った。
「沙良ぁ、このアホ面何とかしてくれよ」
「あんたも体外アホ面だけどね」
 呆れたようにつぶやきながら沙良はユナの手を引いて俺たちに近づいてきた。ユナは久しぶりに二人が来て嬉しいのか上機嫌で沙良の手にしがみついている。
「ほら、そこにアホ面二つ並べてないでよ」
 沙良は俺と弘樹の頭を順番にパシッと叩き、ユナにねーっと同意を求めた。きっとユナは意味がわかってなかっただろうが沙良に合わせてねーっといって笑った。
「ほら弘樹、ぼさっとしてないでよ。さっさといけいけっ」
「へいへい」
 弘樹はユナに手招きし、じゃれあいながら部屋を出て行った。
 沙良に叩かれてようやく頭が動き出した俺はじろりと沙良を見た。沙良は済ました顔をしている。
「…なんできたんだよ。弘樹に聞いてんだろ?」
 俺が切れたこと、なんて言わなくてもわかってるだろう。沙良は横目でちらりと俺を見て、やがて俺の真正面の位置に動いた。じっと俺の目を見ている。俺はにらむように沙良を見返した。しばらくそんなことをしていると、沙良が俺に向かって舌を突き出した。あまりの突然なことにきょとんとしていると、沙良はふんと鼻で笑い、今度は小さく俺に向かって舌を突き出した。
「叶と二人っきりなんて、そんな危ない環境にユナをおいとけないわよ」
 俺はむっとして沙良をにらんだが、沙良は平然としている。
「まるで俺は今にもユナを襲いそうみたいな言い方だな」
「まあね。あ、でも叶なら大丈夫か。奥手だもんね」
「…お前、本気で何しに来たんだ?」
 だんだんと俺がいらついてきたのを感じたのか、沙良はふっと笑って俺がさっきまで座っていた椅子に腰掛けた。
「ユナが心配だったっていうのはホント。叶が襲うとかそんなことは思ってなかったけどね」
 沙良はおかしそうに小さく笑った。俺は沙良の向かいの椅子に座った。沙良が何を言いたいのかいまいちつかめない。俺の表情でそれに気付いたのか、沙良は机に肘を突いて真顔になった。
「ユナもだけど、あんたのことも心配だった。あんたが切れるのなんてみたことないしね。ま、いつも不機嫌だけど」
「うるさい」
「おこんないで、聞いて。叶、夕菜とユナが混同してるって、そういったんだよね?」
 認めたくはなかったが、確かにそうだった。俺はしぶしぶうなずいた。沙良はそれを見てから話を続けた。
「無理ないかな、と思うよ。あたしがもし叶だったら、あたしもそうだったかもしれない。いきなり恋人が死んでそれですぐにその人にそっくりな人がいたら、好きになっちゃってもおかしくないよ」
「…………」
 無理ない。仕方ない。そうかもしれない。でも、それじゃだめなのだ。俺は夕菜を裏切ってる。ずっと傍にいて。彼女はそういったのに。
「ねえ、叶。これだけは答えて」
 沙良が真剣な顔で椅子から身を乗り出した。ちょっと躊躇ったようにうつむいたが、やがて顔を上げ、ゆっくりと言った。
「…ユナのことが好きだから、もう夕菜のことは…好きじゃないの……?」
 違うよね?沙良の目がそういっている。俺は目を閉じた。夕菜との思い出。色あせてるものなんて、一つもない。すべての思い出が鮮明に、記憶の中で生きつづけてる。
 夕菜。会いたい。会って話がしたい。抱きしめたい。間違いない、俺は今でも、痛いぐらいに夕菜を求めてる。
 悲痛な表情で俺の答えを待っている沙良に、俺はゆっくりと首を振った。
「前にも言ったけど…俺は夕菜とユナが混じってる。ユナのことが、なんていうか、夕菜として好きなんだと思う」
「じゃあ、今でも夕菜のこと好きなんだよね?」
 沙良がほっと安堵の息をつきながら言った。俺が小さくうなずくと、沙良はへたりと椅子に座った。
「良かったー、ここで『もう好きじゃない』とか言われたらどうしようかと思った。まあ、夕菜と付き合うときに『絶対悲しませない』って約束してたけどね」
「…なんだよ、ユナのことがすきってのも悲しませるってことじゃないのか?」
「でも、叶は夕菜が好きだからユナがすきなんでしょ?根本を突き詰めればそれはやっぱり夕菜が一番すきってことだよ」
「…それでもだめだろ」
 呟くように言った俺の言葉を沙良は聞き逃さなかった。不思議そうに俺を見る。
「なんで?」
「だめなんだよ。俺は一生夕菜だけを好きでないといけないんだ。裏切れない」
 そうだ。俺は、一生夕菜だけを思って生きていく。それが夕菜への唯一の愛情表現。もう抱きしめることもキスすることもできない彼女には、これ以外にもう方法がないのだ。
「そんなこと……」
「いくら夕菜だと思って好きでも、ユナは夕菜じゃない。それじゃだめだ」
「…あたしたちは叶が夕菜のことを少しでも好きなら他の誰かを好きになってもいいとおもうよ。これからずっと、死ぬまで一生誰も好きにならないの?」
「ああ」
「でもっ」
 沙良は何か言おうとしたが、俺は手でそれを制した。
「頼むよ。これ以上混乱させないでくれ」
「…………」
 沙良はしばらく黙っていたが、急に立ち上がると俺の腕をぐいと掴んだ。たいした力ではなかったがつられて俺は立ち上がった。沙良は俺をきっとにらんだ。
「叶、今すぐ夕菜のお墓参り行きなさい」
「は?なに言って……」
「うるさいっ!!いけっ!!」
 沙良は俺を玄関まで引っ張っていこうとしたが、所詮は女の力だ。俺は沙良の手を乱暴に振り払った。だが、沙良は諦めない。また俺の腕を掴んだが、俺はいらいらして振り払った。
「離せよっ」
「あんただけよ!!いつまでたっても夕菜が死んだこと受け入れてない弱虫はっ」
 廊下に沙良の怒鳴った声が木霊する。俺は言い返そうとしたが沙良はそんな間もなく俺にすごい剣幕で怒鳴っている。
「夕菜の火葬を見てないのは誰?墓参りに一度も行ってないのは誰?あんたじゃない!!あんたまだ夕菜が死んだってこと認められてないのよ!!それに、そんな一生夕菜に捕らわれてるような生き方、夕菜が望むと思ってるの!?」
「ちが」
「いいから!!さっさと行きなさいよ!!そのでっかち頭冷やしてよく考えなさいよ!!」
 沙良は言いたいことだけ言うとくるりと踵を返し荒々しく歩いていってしまった。俺はその場に呆然と立ち尽くしていた。














 菊の匂いが鼻を突く。俺は不愉快で顔をしかめた。菊の花は嫌いだ。昔、祖母の遺体の周りに大量に添えられていた花。祖母をあの世へいざなうような不気味な花道。幼い記憶の中に、今でも恐怖として刻まれている。
 そして、夕菜の遺体の周りにも添えられていた、菊の花。それは恐怖から、憎しみの記憶へと塗り替えられた。夕菜を連れ去ってしまった憎い連中として。
 そんな憎しみの対象の花束を抱えているのは、沙良に言われたことをちょっと考えたからだ。俺だけが夕菜の死を受け入れられていないといっていた。もしかしたらそうなのかもしれない。夕菜の墓の前で手を合わせ、菊の花を供えればちゃんと夕菜の死を受け入れられるのかもしれない。
 そんな風にぼんやりと考えながらゆっくりと墓場を歩いていく。線香の香りがまとわりつく。冷たい墓石が肩を並べ、その足元には菊の花や線香が供えられている。
 そして、その墓石も他と同じだった。冷たく光り、菊の花や線香がそっと供えられていた。
「木内…家之、墓……」
 俺はそっと口に出した。この中に、夕菜は眠っている。あの細い髪も、少したれた目も、細い指先も、あの声も。何もかも骨になって、この冷たい土の中に埋められた。何も、残ってない。何も、何も、何も。
「夕菜」
 震える唇から言葉が零れる。何も、答えは返ってこない。俺たちは夕菜のことを「ユナ」と呼んでいた。だから答えないんだ。きっとそうだ。
「ユナ」
 風が菊と線香が混じった妙な香りを流す。風に声がかき消されてしまったんだ。夕菜の地声はいつも少し小さい。
「ユナ」
 また少し風が吹く。その音以外は何も聞こえない。もう言い訳の仕様がない。誰も、何も答えてはくれなかった。
「ユナ!!ユナ!!」
 何度も呼ぶ。何度だって呼ぶ。何度だって、喉がつぶれたって呼んでやる。夕菜が返事するまで。夕菜はきっと答えてくれる。ここで待ってるんだ。俺が来るのを。
 だが、本当はわかっていた。何度呼んだって、夕菜は返事をしない。ここにはいない。夕菜がこんな風に、俺を無視し続けるわけない。ここにはいないんだ。もう、どこにもいない。
 俺は備えてあった菊の花をばっと掴んで、夕菜の墓に背を向けた。そのまま脇目も振らずに走る。墓参りにきていた子連れの夫婦の脇をすり抜け、墓場を飛び出した。
 どこに向かってるのかもわからずにただ走り続けた。その途中でアスファルトの地面の上に菊の花束を叩きつけた。それを踏みつけてまだ走り続ける。白い花びらが地面の上に散らばり、そのかすかな香りを風が運んでくる。その香りから逃げるように俺は必死に走り続けた。
 どれぐらい走っただろう。すでに息は上がり、足が痛んだ。と、足がもつれる。バランスを取り直すまもなく、俺は地面に叩きつけられた。
 俺はそのまま、目を閉じた。走ってくる途中で、怒りをどこかに落としてきたようだった。今俺の頭の中にあるのは、妙な虚無感だった。そして、恨んだ。神を。
 俺たちは、何も高望みはしなかった。ただ二人で一緒にいること、それだけを願っていた。それなのに。
 神は、俺から夕菜を奪っていった。夕菜も命を奪われた。彼女は今、真っ暗な土の中だ。暗闇の中、一人でいることをあれほど恐れていた夕菜。それなのにあんな深いところに一生一人で閉じ込められているんだと思うと、胸が締め付けられる思いだった。
 俺たちは、どうすれば幸せになれた?どうして、すべてを奪われなければいけなかった?
 世界から見ればほんの小さな、何億分の一にも満たないような小さな恋だろう。それでも俺と夕菜にとっては、すべてだった。俺たちは、すべてを奪われたんだ。











 道端に咲いていた、小さなコスモス。俺はその花をそっと摘んだ。夕菜が好きだった花。きっと夕菜は菊なんかより、こっちのほうが喜ぶだろう。
 俺はその花をそっと海に流した。その小さな桃色の花が見えなくなるまで、波の向こうに消えるまで、ずっとそれを見ていた。

2005/04/10(Sun)14:14:43 公開 /
■この作品の著作権は渚さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
道端にコスモスって咲いてるかな〜っとちょっと不安になりつつ書きました;
相変わらず夕菜とユナはわかりづらいです;子供のほうを「ユナ」ではなく「ゆな」すれば良かったな〜っと今更ながら表ます^^;

ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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