『(完結)ノワの箱庭』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:紗原桂嘉                

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 独特の熱気だった。
 いつも学生で混み合う格安の環状線沿い地下のファミリーレストラン。
 掛かっている音楽さえも無意味にする喧騒の渦。
 冷房を強くしても、野蛮なエネルギーはたちまちのうちにそれを沸騰させてしまう勢いだ。
 互いの声の聞き取りさえままならない学生たちの占領空間は、まともな一般客なら思わず敬遠する事うけあいである。そしてその一角を、友人二人と一緒に陣取る学校帰りの千草は、すっかり満腹になった腹を抱えだらしなく座っていた。
「昨日変な夢、見ちゃったア」
 美々子が食後のアイスコーヒーのストローの先を細かくいじりながら、ポツリとつぶやいた。
「昨日……何イっ?」
 恵美は美々子に耳を近づけた。
「見・た・の・よ! 江巻くんとデートした……夢っ!」美々子は恵美に向かって叫ぶ。
 それを聞いた千草は、ゴクリと人知れず唾を飲み込んだ。しかし、ポーカーフェイスは崩さない。
「やだ美々子! もしかしてそれって、正夢になるんじゃないのオ?」
 恵美は叫びながら美々子の肩をはたく。しかしその叫び声はたちまち、それ以上の周囲の嬌声にかき消された。
「正夢? まさかア。あんな不気味なヤツ。……私、イヤだもん!」
 そう答える美々子のまんざらでもない表情を、千草はキロリと横目で見る。

……不気味、ねえ……。

 江巻は今日も学校を休んでいた。確かに江巻は何を考えているか計りきれぬところがある。普段から休みがちな彼には、交友関係で悪い噂もたってはいたが成績は常にトップクラス。
 それを不気味というか、ミステリアスというか。
 ワルの匂いがして、そして頭がきれて、おまけに美形なら、いやがうえでも存在感は他の男子生徒より抜きん出る。江巻ファンの女の子が多いのも無理からぬ事ではあった。
 しかし千草は、たとえそれが夢とはいえ、たとえそれが美々子とはいえ、江巻とデートをしたと聞くと内心、決して穏やかではいられない。
「そうだよ。不気味だよ、不気味! 特にあの、目っ!」
 だけど心とは裏腹に、千草はソファにふんぞり返りながら、そうウソぶいていた。 
  
 しばらく時間をつぶして三人は立ち上がった。
 立った位置から改めてグルリと見渡すと……一般客が全く見当たらないほど店は学生服に占拠されている。そして動物園さながらの大騒ぎだ。入り口近くでも、順番待ちの学生の姿であふれかえっていた。
 伝票をつかんで、会計に向かう。
 前方から、珍しく私服の若者客のグループが奥に向かって歩いて来ていた。
 そして狭い通路で体を斜めにしながら千草のグループの先頭と、すれ違おうと試みる。
 一瞬目を疑った。
 目を引くその私服グループの中でもひと際目を引く精悍な男の子……色白の、短髪の、三白眼ぎみの印象の気迫あふれる目の持ち主、ついさっき話題にのぼっていた、あの、江巻がいたからだ。
 大きな衝撃の塊を無理やりゴクンと飲み下す。彼の突然の出現は全くの予想外だったのだ。
 とたんに千草は、自分の視線を江巻から剥ぎ取る事が、どうしても、できなくなくなった。
 気づかれた時の気まずさを想って、『見るな!』と、必死に理性が警告していても。
 自分の集中力が、全ての制御を振り払い、ただひたすらに江巻という存在に無制限に引きずり込まれていく。
 そして、あさっての方向を見ていた江巻が、近くに来た時。
 江巻はまるでコマ送りのスローモーションのように、ゆっくりゆっくりともったいをつけて、千草の目線に焦点を合わせてきた。
 それに呼応して、時の刻みも、ドンドンドンドン飴の様に伸びてスローモーションになっていった。
 やがて互いが、互いの瞳の最深奥へと、真っ直ぐに飛び込んだ瞬間、千草の中で世界は動きをピタリと止め、店内の全ての音が消えた。
 そして突然……自分の腰骨が誰かの腿に追突し、その感覚を合図に、喧騒と現実のリズムに乱暴に引き戻された。
 
 店を出た通りもまた、行き交う車や町のノイズであふれていた。
「噂をすれば影! さっきの、江巻くんだったよねー!」
 美々子が興奮ぎみにそう言った。
「やっぱりずる休みだね、あれは」千草は笑いながら、まるで彼に興味が無さそうに返す。
 本当は、すれ違った時に自分に向けられた江巻の強い視線の刻印が、胸から去らなかったのに。
  
 環状線から一本道を隔てると洒落た感じの住宅街が広がっている。その一帯に在るマンションの一室、恵美の家にそのまま千草たち三人は、なだれ込んだ。
 恵美は体育会系の女の子だったので、口にこそ出さなかったが、彼女の自室にやたらピンクの配色が多いのは意外だった。
「……でもサ。私だって最近変な夢を見たよ」
 たわいもない話題が幾つか続いて、そしてファミリーレストランでの、美々子が江巻とデートしたというの夢の話しがチラリと蒸返されたあと、恵美がそうつぶやいた。
「どんな?」
「……走っても走っても前に進まない夢……」「足がフワフワして、絡まってるような、カンジ?」「そうそうっ! どうして分かるのよ?」「だって全然普通だもん。それって、不思議でも何でもないよ」美々子がつまんなそうにバッサリ言い捨てた。
「ねえ。千草は? 千草って、ナンカ面白い夢、見そうだよね」
「私……は」両足を投げ出していた千草は問われて少し戸惑う。
 でも考えるまでもなく直ぐに思いつく。最近千草を悩ましている、れいの夢を。
 言うべきかどうかしばし戸惑う。
「これは夢だからね。あくまでも、あくまでも。……そのつもりで聞いてくれる?」
「もちろん」
 千草は少し深呼吸した。胸の中の澱を流すいい機会なのかもしれない。二人の視線が千草に集中していた。
「……狭い住宅街の夜の道を……走ってるの。って言うか、逃げてるの」美々子も恵美も真面目な顔で千草を見つめる。
「私。逃げてるのよ。……UFOから」
 千草は上目づかいでチラリと二人の様子を見た。真剣に聞いてくれている二人の表情を見てとって、少し安心して話を先に進める。
「……そのUFOは、きっとすごい低空飛行をしていると思うんだ。背後からどんどん私を追いかけてくるの。……一機なんだけど。私。振り返らずに必死に夜道を駆け続けるの。必死に。……サーチライトの様な光が、後方の斜め上から私をとらえた瞬間、私はその光の筋の中にスッポリ包まれて。そして。光の筋が上昇し始めると、私は光の筋とともに体ごと上昇する。そうすると。さっきまで恐くて恐くて死んじゃいそうだったのに。……生まれてから味わった事もないほどの安心感と、信頼感で、胸がいっぱいになって。すごく。すごく。幸せなの。……終、わ、り」
 しゃべり終えた千草は、仕事をやり遂げたかのように息を吐き出す。
「……ふーん……」美々子と恵美は声をそろえた。
 馬鹿にする気配は無さそうだが、二人はキツネにつままれたような顔をしている。要領を得ない話しである事には間違いはなさそうだ。
「この夢を、繰り返し繰り返し、見るんだよ、最近。……あー! でも言っちゃったアー。よかったー。すごーいっ、スッキリした」
 口にしてみると、胸につかえていたシコリが取れた様なさわやかさだった。思ってた以上に自分は悩まされていたんだと、改めて確認した。
「でも、不思議な夢だね」
「夢占いで占ってもらったら?」
「ううん。いいの、いいの。二人に話せたら。なんだかせいせいしちゃったよ。もう悩みじゃないよ」
 言葉にできた事で胸のつかえが取れた余裕から、確かに今こそ夢占いをしてもらってもいい気もした。もしも何か悪い事を言われても笑い飛ばせるに違いない。
 
(そうだ! 夢占いしてもらおう、モリちゃんに!)
 恵美の家を出たあと、千草は一人で盛男のアパートに向かった。確かに、恵美や美々子に言われた通り、占ってもらうのも面白いかもしれない。UFOの夢を繰り返し繰り返し、しかも生々しく見るのは、自分としてもちょっと普通じゃない感じがしていた。
 盛男は千草の年上の従兄弟にあたり、千草の家と彼の実家の中間地点ぐらいの所で自活している。
 霊感の優れた、面白い男だった。
 夢占いの真似事くらいなら彼なら出来るかもしれない。
 知り合いで、彼以上にうってつけの相手は居ないだろう。
「あの……」
 しかし、従兄弟の盛男の部屋のチャイムを鳴らして出てきたのは、見知らぬ男だった。
「あの。ここは遠山盛男さんの部屋では?」
「ああ。そうですよ」と、その見知らぬ男は答えた。
「あの……」「あ。遠山さんはまだ帰ってませんよ」男はそう答えた。「そうですか。……失礼します……」千草は静かにドアを閉めたあと首をひねった。
(誰だろう)
 メガネをかけた真面目そうな男だった。およそ、盛男の友達らしかぬ。
 そして盛男のアパートをあとにし、自分の家に向かう。盛男と千草の家は徒歩でおよそ二十分ほど離れていた。自分の家に着くための最後の曲がり角を曲がった時だった。
 千草の足が凍りついた。
 藤……の姿が見えたからだ。
 引き返そうかと思った。
 しかし、藤のトロンとした瞳は、すでに千草の姿を抜け目無くとらえていた。仕方なく、家に向かって歩き出す。たとえ、藤の前を通過しくてはならなくても。
「遠山さん」
 藤が声をかけてきた。
「何よ」千草はウンザリしながらそう言った。この男は授業中でも千草をじっと観察している。
「何か。変わった事。ある? 僕にできる事なら、何でもするから。いつでも僕に、言ってきて」
 千草はため息をついた。先日もこの意味不明のセリフを藤に言われたばかりだ。
「ありがとう。じゃあ……お願いがあるの」そこで千草は大きく息を吸い込む。そして。
「二度と待ち伏せすんなよっ!」
 思いっきり冷たく言い放ってやった。
 千草は歩き出した。千草の姿を追うマッタリとまとわりつく藤の視線を感じながら。
 藤は一年の頃はもっとまともな男の子だった。同じクラスだったし、仲も結構良かった。明るくて元気いっぱいの男の子で、女の子ともはしゃげる気さくな性格だったのだ。
 それが三年生になって再び同じクラスになり、気づいた時には影のある無口な男の子に変身していた。
 彼に何が起きたのかは分からない。
 ショックな事でも起きたのかもしれない。しかしどんな事情があるにせよ、藤の千草に対する最近のストーカーまがいの行為は見過ごすわけにはいかなかった。
 ここらでいい加減、ビシッと言ってやるに限るのだ。





「あの……」
 後日再び盛男のアパートを訪ねると、出てきたのはまた前回のメガネ男だった。
「待ちますか? 遠山くんはもうすぐ帰ると思うけど」メガネの男はそう言った。
 すぐに盛男が帰るならと、千草はあがらせてもらった。
 ここに来るのは半年ぶり位になるだろうか? それともそれ以上かもしれなかった。部屋はすっかり様変わりしている。大きな本棚が備えられ法律関係の本がビッシリとそこを埋めていた。まるで盛男らしさの無い部屋で、とても居心地が悪かった。
「遠山盛男さんは、何時頃、帰ってくるんですか?」
 中央に小さなテーブルがあり千草はそこに腰を降ろした。男はコーヒーを出してくれた。
「いただきます」
 ズズッと、コーヒーをすする音がたった六畳の部屋に響いた。男は備え付けの狭いキッチンに立ってこっちを見ている。
「いつもはもう帰ってるんですけど」
 男はキッチンに立ったまま、所在無くしていた。
「あの、座ったらどうですか?」立ってこっちを見てられても落ち着かないのでそう言った。「あ……」
 男はようやく、テーブルを挟んで目の前に腰を降ろした。
「君のような若い女の子と。接する機会がないものでね」男は照れたように笑顔をつくった。
「あなた、誰ですか?」「あ。僕は、名前は早川紀之といいます」「モリちゃ……盛男さんとは?」「あ。遠山盛男さんの友だちで、今はここに住んでいます。彼の同居人です」「何してる人?」「今は無職。受験生で、法律家を目指してるんです」「へー。頭いいんだ。モリちゃんとは正反対だね」「いや、僕は盛男くんを尊敬してますよ」「モリちゃんのどこを?」
「優しさのスペシャリストであるところ、かな?」それは概ね同感だった。
 盛男は優しいところが長所であり短所だ。
 早川と名乗る男はだんだん調子に乗ってきて色々な事をしゃべってきた。 彼が昔人間不信だった事。それが盛男に会ってから変わってきた事。今では事実上、盛男に養ってもらっている事。
「盛男くんは『目』が見えるんだ」
「目?」
 そこで盛男が帰ってきた。
「モリちゃ……!」
 玄関からのぞいたヒゲ面の顔を見て叫びかけた千草の声が止まった。後ろからヒョッコリと女の子が顔をのぞかせたからだ。
「おー! 千草! 来てたの? 来てたの? 久しぶりじゃん。会うの初めてだよね? そこに座ってるのは早川紀之さん。で。あ、もしかしてもう聞いた? で、この女の子は僕の恋人で、常盤弓枝ちゃん」すると女の子はペコリと頭を下げる。ずいぶん色っぽい感じの女の子だった。
「千草です」千草は玄関に立ったままの常盤弓枝に会釈した。早川と弓枝もその時が初対面だったようだ。
 盛男と常盤弓枝が入ってきて、その晩は結局四人でパーティになった。自宅に居ることが嫌いな千草は渡りに舟とばかり、そのまま泊まった。




「あいつ、ダメだわ。……藤」
 美々子が困ったように吐き捨てた。
 千草と美々子は学校の廊下で外の景色を見ながらしゃべっていた。
「藤が、どうかしたの?」
「マリがさ」マリとは藤の彼女である。マリという彼女がいながら、千草に亡霊の様につきまとっていた事はマリも美々子も知らないはずだ。
「マリが藤の本心を確かめたいって泣いて言うから、ついていったのよ、あの二人のデートに」
「美々子もお人よしだねー」
「そしたら。喫茶店でマリが藤に、態度がはっきりしないって怒り狂っちゃって、怒鳴りまくったら、アイツ。どうしたと思う?」
「さあ……殴ったとか?」
 千草は笑いながらそう答えた。だけど、藤の性格からいうと暴力は到底有り得ない。それにそもそもマリも、とても内向的なコだ。わめきちらしたり取り乱したりすること自体、想像しづらかった。
「藤、座ったまま、寝ちゃったんだよっ」美々子が憤慨した表情でそう言った。千草は大爆笑。
「ねえ、信じられる?」「知らないよ」千草の笑いは止まらなかった。
 
 その話しを聞いた数日後、千草は放課後の図書館の席に居た。そして盛男の部屋の同居人である早川の取り組んでいる法律関係の本に目を通していたら、半分眠ってしまった。結構な人数が閲覧コーナーに居たが、あたりは、水を打った様な静けさだ。やがて後ろから肩をポンポンと叩かれる。
 夢うつつで振り返ると半病人の様な目つきの、藤が立っていた。
 そして「廊下に出てくれる? 遠山さんに話しがあるんだ」小声で藤が言う。
 千草はまだ少し覚醒しきってなかったが、眠気に負けじと「今、忙しいから」と、キッパリとした口調で断る。
 しかし藤はあきらめない。
「廊下に出てくれる? 遠山さんに話しがあるんだ」
「イ・ヤ・だ」
 すると。
「断るんなら、もう一回今のセリフ言うよ。しかも。すんごい、どデカい声で」と言ってきた。
「どうぞ」ギロリとにらんでやった。
「廊下ア…!」
 静かな図書館で、藤が大声を上げ始めた。
 いっぺんに目が覚めた。
 千草はガタンと席を立って、藤の二の腕を、ひっつかんで歩き出す。図書館に居た人間がいっせいに自分たちを見ている。自分の顔が上気しているのが分かった。
 そして風の吹く渡り廊下に出た。
「あんた、馬鹿じゃないの?」千草は乱れる髪をなでつけながら怒鳴った。
 藤は何事も無かったようにゴソゴソとポケットから何やら取り出して、千草に渡した。それは折りたたんだ紙切れで、開いてみると電話番号が書いてあった。
「何。これ」「俺の携帯の番号」「それは分かるけど。何で私が貰わなくちゃいけないの?」「夏休みに入るじゃん。俺に会いたくなったら、いつでも電話掛けてきてよ」
 千草は黙って手の中の紙切れを見つめた。
「よかった」と、藤が言った。「つき返されるかと思ったよ」
「もらってあげてもいいけど。条件があるよ」
 千草は上目づかいに藤を見た。
「あんた……マリを振ったんだって? 振った理由を教えてよ」すると藤が薄く笑った。「振ってないよ」「でも、マリは振られたぐらいの気持ちでいるらしいよ。」
「そう」藤はボンヤリとした目をした。
「マリが喫茶店でとり乱したら、アンタ、寝たんだって?」「寝てないよ」「嘘つけ。美々子から聞いたんだから」「寝たわけじゃないよ」「じゃ、何よ」「知りたい?」「教えなさいよ」「教えるのには条件がある」
 珍しく藤の目に、わずかな気迫が込められた。「何よ。条件って」千草は内心ひるんでそう聞いた。
「遠山さんが、俺の部屋に来る事」
 突拍子も無い事を言ってきた。
 そして藤は無表情のままだ。
「いっ……! 行かないわよ、そんなところ!」
 すると藤は感情の無い人形の様にクルリと背を向け、その場を静かに立ち去った。
 千草の手の中に藤の電話番号だけが残った。





 自分の激しい息遣いが聞こえる。
 心臓がパンクしそうだ。
 恐い。
 恐いっ。
 恐いっ……!
 
 真っ暗で静かで人気のない住宅街の細い道を千草は必死に駆けていた。
 暗すぎて、数メートル先すらも見えない。
 だけど、逃げなくてはいけない。
 UFOが、音も無く追いかけてきているのは間違いないのだから。
 しかしなぜ追いつく気が無いのだろう?
 その気になれば千草に追いつく事くらい、たやすいはずだ。
 千草をいたぶっているかのようだった。
 
 自分の激しい呼吸音が世界を揺さぶるほどに大きくなった時、ゆっくりと後方から、光が投げかけられた。
 とたんにあたりがまぶしく輝く。
 前方の電信柱が輪郭を失うほどに強烈に照らし出され、アスファルトは昼間には思いもしなかったほどデコボコとしたキメの細かい陰影を現す。
 でもそれもすぐに見失う。
 次の瞬間、全てが爆発的にハレーションした。
(だめだ……!)
 発狂寸前の絶望的な恐怖が最高潮に達した時、千草の体は後方から投げかけられた光の帯ごと、フワリと上空を移動し始める。
 
 失う重力。
 幻想の終焉。
 本当のリアル。
 
 そして。
 意識の180度の転換が起こるのだ。
  
 千草は、光の帯に全存在を預けきって至福の時を味わっていた。
 「自分は……何を恐れていたのか?
 ……幸福過ぎる、この瞬間を恐れていたというのか?」
 
 『恐れ』というのが皆無な感覚。
 『不安』というのが皆無な感覚。
 有るのは、この瞬間に対する100%の、完璧な、『信頼』だ。
 
 千草はそこで目を覚ます。
 頭の上で揺れるカーテン。
 全身、汗びっしょりだ。
 タオルケットを抱いて、きつく握り締めている。
 夏真っ盛りの朝とはいうものの、頭の上から入ってくる風があまりに心地いい。
 幸せすぎて、何も考えられない。
 夢の余韻がまだ体を支配している。
 重力を失った感覚が生々しい。
 上昇して止まらない幸福の感覚が生々しい。
 千草は目覚めても、いつまでも今の夢の感覚を捨てる事を拒否した。
 いつまでも浸りながら、味わいつくす。
 何度も何度も、飽くこと無く反芻する。
 どの位たったろうか?
 頭の上のカーテンが忙しく髪を乱す。
 しまいには頬にメチャクチャにぶつかってきた。
 至福感覚が徐々にフェードアウトする。
 同時に、徐々に日常の千草の感覚になってきた。
 タンス。本棚。机……。部屋の景色で目に入る物一つ一つが、やっと意味を持つ記号を取り戻していった。
 まだ少しボンヤリしているが、千草は上半身をとにかく起こす。
 リビングに行くと、誰も居なかった。
 テレビをつけてみて初めて、今が朝ではなく夕方だという事を知った。
(昼寝してたんだっけ?)
 千草は覚醒しきらない頭を振った。テレビを見ながらお茶を飲んだりして、しばらく時を過ごしているうちにいつの間にか窓の外が薄暗くなってきた。
(モリちゃん……) 
 従兄弟の盛男の笑顔が心に浮んだ。
 急に盛男に会いたくなって外に飛び出した。そして自転車をこぎ出す。
 
 盛男のアパートが近づいて、川が見えてきた。薄青に沈んだ川近くの車道を自転車を飛ばす。全てが流れて、駆け抜ける風がすがすがしい。
 今日で夏休みは終わる。つまらない夏休みだった。だけど今日の夢で元はとれた気がした。そして千草は気づいていた。
 『れいの夢』が段々リアルに、そして全体像が長くなっている事に。
(モリちゃんに夢占いをしてもらおう……)

 川に架けられた、周囲とまるで調和していない不自然なほどの真っ赤な橋を自転車で渡る。薄闇程度ではもろともしない、異様なまでに自己主張をしてくる『赤』。ライトグレーはおろかダークグレーのとばりを掛けても訴えかけてくる『赤』。この辺の地理の目印にも利用されるその色。
「あ……」
 チャイムを鳴らすと、盛男のアパートの扉を押して姿を見せたのは、盛男の彼女である常盤弓枝だった。
「ども……」「……ども」簡単な挨拶をした。
「モリちゃんは?」「あっ。まだ帰ってないのよ」「ふーん……」千草は頭をポリポリかいた。「待つ? ……たぶん、もうすぐ帰ると思うけど?」
 すぐに盛男が帰るならと、千草はあがることにした。
 ほんの数ヶ月前まではもっと気軽に上がれる場所だった。でも今では早川や、常盤弓枝がそれを微妙に阻んでいる。
 中央の小さなテーブルに千草は座った。
「モリちゃん、何時頃に帰るって?」弓枝はコーヒーを出してくれた。「さあ……。いつもはもう帰ってるんだけど……」
「いただきます」ズズッと、コーヒーをすする音が、たった六畳の部屋に響いた。
 間がもたない。
「弓枝ちゃんてさー、どこの高校?」
「えエーっ?」弓枝が笑顔になった。「私、高校生じゃないよ、十九だよ」弓枝は若く見えた。ただし化粧だけは濃い。
「へー。……じゃ、何してる人なの?」「何もしてないよ、盛男に養ってもらってるの」
 早川も以前同じ事を言っていた。きっと二人は盛男の誤った優しさにぶら下がっているのだろう。盛男はいつでも善意で人をダメにする。
「結婚するの? モリちゃんと」「えエーっ? 何も考えてないよ。まだ若いんだよー。もっと色々と、楽しみたいジャン?」弓枝はさっきよりも、もっと笑顔になった。
「……でも不思議な人だよね、盛男って」真顔に戻ったあと、弓枝がそう言った。
「かもね」
「『目』が見えるって言うんだよ」
「目?」
 ドアがガチャガチャと鳴った。
「おー! 千草! 来てたの? 来てたの? 今日は少し涼しいねー」玄関が開いて、盛男と早川が帰ってきた。その晩は結局四人で、アパートでパーティになった。
 その日は野球放送がある。だから家に帰ってもしょうがない。丁度いいので、そのまま盛男たちのアパートに泊まった。




 学校帰り、駅の自販機の前で親友の美々子の足がピタリと止まる。
「おごるよ」美々子が上目遣いで千草にそう言ってきた。「いいよ、別に缶コーヒー代くらい自分で出せるから」「いいから。おごらせてよ」美々子のはにかんだ笑顔が千草に向けられる。
「何飲む?」「……じゃあ。これ」それほど喉も渇いていなかったが、千草は指をさして指定した。美々子がコインを入れるとガラガラと缶コーヒーが転がり落ちてきた。
 美々子は自販機の横によっかかって、開けた缶コーヒーをただ見つめている。何となく美々子の様子が変に思えたが、千草は彼女を放っておいて、奢ってもらったコーヒーを飲んだ。目の前を、改札に向かう同じ高校の生徒がひっきりなしに通っている。
「千草サ。……江巻くんのこと、……どう思う?」
 むせそうになった。不意打ちだ。
「どおって……」
「……異性として。さ」
 即答できない。
 何とも思っていないと言えば嘘になる。好きだ、というには……少しおおげさか?
 ちょっと、気になる。
 いや。でも……やっぱり。すごく好きかも……。
「私。つき合って欲しいって……言われちゃった。江巻くんに」
 頭の中が真っ白になった。
 何か言わなきゃ……。何か、言え。
 どうにか言葉を絞り出す。「マジ、で……?」うなずく美々子。
「で、……何て、返事を?」
 頭の中で警告の赤ランプが明滅している。千草は追い込まれていた。そして美々子が千草を見つめる。
「まだ返事、してないよ」美々子の大きな瞳がせわしなく動き、千草の目の奥を探り始めた。
「千草。江巻くんのことを、……どう思ってるの?」
 再度の問いかけで、千草はやっと合点する。
 美々子は千草の気持ちに薄々感づいているのだ。彼女はそれを確かめるまでは、江巻に対する返事を保留している。
 全く、美々子らしい気遣いだった。急に体の力が抜けてしまう。
「どうも思ってるわけないじゃん!」「本当に?」「本当だよ」「本当の、本当に?」「しつこいよ」
 やっと美々子が笑顔に崩れた。
(美々子なら、江巻くんとくっついたって、……いいよ)千草は心の中でつぶやいた。
 電車に乗ってからも、千草は明るく振舞った。いつもの倍、冗談を言った。美々子は舞い上がっているのか、そんな千草の微妙な変化に全然気づかない。それでも美々子が降りたあとは、どっと疲れた。倍の空しさがやって来た。心が空っぽ過ぎてどうする事もできない。
(江巻くんが女の子と付き合う……。それも美々子と)やっぱり胸は引き裂かれた。
 なんだかじっとしていられなくて、意味も無く隣の車輌に移った。閑散とした車輌だった。
 突然目の中に飛び込んできたのは、ドアにもたれてマッタリ揺れている、突然の藤の姿。
 千草はそんな藤を見て、息を飲んで一瞬立ち止まった。藤は景色をぼんやり見ていた。
 藤の顔が夕日に、平和に照らされている。
「ねえ」
 千草は藤のまん前に立った。
 すると藤は、千草に無気力に目を向けて、小さい声で「おう」と言った。
 千草は唾を飲み込んで、言った。
「私。今日ならアンタの部屋に行っても、いいよ」口からそんな言葉が飛び出していた。自分は最低だ。傷心を忘れる事ができるならば、この際、藤さえ利用しようとするのだから。
 藤はしばらく黙って、千草を見ていた。彼の表情は別段動かない。嬉しそうでもない。
「……分かった」
 数個目の駅でドアが開いた時、藤が電車を黙って降りた。あわてて千草もあとに続いた。降りる時、何も声を掛けてくれない事をうらめしく思う。藤は黙ったまま常に数歩先を歩き、千草は見知らぬ場所なので、ただ着いて行った。
「この辺に住んでるの?」「……うん」閑静な住宅街だ。
「この辺の景色、……覚えてる?」と藤が急に聞いてきた。どこまでもトボけた男だ。
「何言ってんの? 私、この町、初めて来たんだよ」
 すると藤は何も言わなかった。
 やがて細い道に入り、藤は鍵を取り出して家の玄関を開けた。
「家の人。誰もいないの?」「うん」少し心臓が震える。
「……おじゃまします」
 玄関も、奥に続く廊下も洞窟の様に暗かった。やっぱり帰ろうか……。弱気になりかけたが、ふいに美々子と江巻の顔が浮かんだ。

引き返すことはできない。私は。江巻を忘れたいんだ。

 階段を昇り始めた藤のあとを追った。通されたニ階の藤の狭い自室はベッドが三分の二を占めていた。カーペットの上に散らばる服や雑誌を、藤は黙ってかたずけ始める。千草は入り口を少しだけ入った場所で、たたずんでいた。すごく狭い部屋だった。
「適当に。座って」そう言って藤自身はベッドに腰を降ろした。千草はわずかなスペースのカーペットの上に座る。
 沈黙になった。
 藤は何もしゃべってくれない。
 だんだんドキドキしてきた。
「なんで、俺の部屋に来てくれたの?」やっと藤がしゃべってくれた。
(オーケーって意味だよ)
 返事が千草の胸の中だけでこだまして返ってくる。そこまではさすがに言えなかった。
「……この前、アンタ言ってたじゃん。何か困った時はいつでも力になるって」
「うん……」藤はベッドの上であぐらをかいて、上半身をグイと乗り出してきた。
「何か……あったの?」いつものトロンとした藤の目が、急に見開く。初めて見るような力強い藤の表情だ。
 まるで今の空しい千草の胸に、エネルギーを注入するような目で。
「私。嫌な事を忘れる方法を知りたいと思って」
 ひょうたんから駒の、巧いセリフが口から飛び出てくれた。期せずしてムードを盛り上げる為の助走となる。このタイミングでこれ以上の言葉は無いだろう。
「自分が一番辛い時……。会いたくなったのは、私にとっては。……藤だった」
 続いて、女優顔負けの名セリフが自分の口から飛び出たのを、聞いた。自分でも一瞬、耳を疑ったほどだ。しかし本心、千草の心境はそれ程に超マイナーになってもいたのだ。確かに藤以上に、自分に執心してくれる異性が果たして居るだろうか? 今の千草のセリフは、自分ですら、本気と虚言の境い目は分からない。
 賽は投げられた。あとは藤まかせだ。
 藤はまじまじと千草を見た。何を考えているか読めない目。
 二人の間に流れる特殊な空気が飽和状態になった時、藤の体がゆらりと動く。
 ベッドを降りて、千草へ歩み寄る。
 体中がキュンと緊張する。
 しかし。藤は千草を通り過ぎた。
 千草が振り返ると、こちらに背中を向けて立っている藤が壁を見つめていた。
「俺は嫌なことがあると、地球と話しをするよ」
「は……?」
「見てよ」
 藤が千草を見下ろして壁を指差す。
 仕方なく立ち上がって、藤の隣に立った。もともと部屋が狭いため、二人は必要以上に近くに立っていた。
 目の前の壁には写真が貼られていた。
 赤っぽい、広々とした大地の写真だ。
「俺はどこに居ても。嫌なことがあった時は、この写真を思い出す。そして写真の景色の中に入り込むんだ。そして地球と話しをする。そうすると、どんな事も全部、ちっぽけなことだと分かるんだ。俺、この写真、以前から遠山さんにすごく見せたかった」
 確かに見つめていると、雄大な気持ちに変化していく。
……全てはちっぽけなこと……?
「どう? 嫌な事、忘れられるだろ? 遠山さんもこの方法を使うといいよ」
 そう言って千草を見た藤の顔が、ものすごく近くてびっくりした。
 藤の目がごく間近で千草の両目を捕らえていた。
 キスシーン必至だ。
 もう後戻りはできない。
「じゃ。送るよ」
 次の瞬間、藤はそう言った。
「へ?」
「何? あっ。他にも何か困ったことが、……あるの?」
 すごい心配そうな表情で、大真面目に聞いてきた。
「いや。別に。無いけど……」「じゃあ、送るよ」「……うん」
 釈然としないまま、家を出た。さっき来た道を逆戻りし始める。街灯が目立ち始めるほどに闇が降りていた。
「藤ってさ……。変わったよね」「そう?」「一年の時ってさ、アンタ、もっとはしゃいでたじゃない」「……かもね」
「なんかあったわけ?」「……かもね」
 ぼんやりとした藤の返事がもどかしい。
「マリとはどうなってんのよ」マリは藤の彼女だ。「……うん……」
「他に好きな女の子が居るとか?」もう一度藤にチャンスを与えるつもりで聞いてみた。
「それは居ないよ!」
 珍しく、とてもキッパリと否定した。
 混乱してきた。
 では、今までストーカーまがいに、自分に付きまとっていたのはどういう意味だったのか? なんかだんだん腹がたってきた。
 してみると、今日の自分の行動はまるっきり馬鹿みたいだ!
「じゃあ、なんでマリに問い詰められた時、喫茶店で寝ちゃったのよ!」おさまらなくて、つい喧嘩口調になる。
「え? ……ああ。あれか」「なんでよ!」「寝てないよ」「寝てないなら、じゃあ何だったのよ!」
「あの時は。さっきの。……さっきの写真を思い浮かべてたんだ。そして地球と話しをしていたんだよ」




 盛男がコーヒーを出してくれた。
「いただきます」千草のズズッと、コーヒーをすする音が、たった六畳の部屋に響いた。
 盛男のアパートだった。早川も弓枝も居なかった。
「おいしい?」盛男がニコニコしながら顔をのぞきこんでくる。「うん」別段変わった味とは思えなかった。
「それ、インスタントコーヒーなんだよ。嘘みたいでしょ?」「明らかにインスタントコーヒーでしょ、これは」「えー! 嘘だよ。千草、味オンチなんじゃないの? かしてみ?」そう言って盛男は千草に出したコーヒーを奪って自分で飲んでみる。「あー……、ちょっと焼きが足りなかったかな? …ん。でも、違うよ。インスタントコーヒーとはとても思えない。うん、やっぱ、美味しいって。香りがいいでしょ? 千草の舌が変なんだよ」盛男はインスタントコーヒーの粉をフライパンで一瞬空炒りしたあと、お湯を注いで出してくれたのだ。
「モリちゃん。そのヒゲ、剃ったら?」
 千草は盛男のヒゲが嫌いだった。「これはオシャレでやってんの」
 そんなことより、今日という今日こそは、聞いてみるつもりだった。
 千草の見続ける『れいの夢』の、盛男の意見を。
「モリちゃん。あのサ、私……」
 その時ドアノブがガチャガチャと鳴った。
「ただーいまー!」弓枝が大声でそう言って入ってきた。そのあとに早川が続く。二人は食材を抱えていた。
「あ、千草ちゃん。いらっしゃい」弓枝が明るくそう言った。
 結局その晩は、四人でパーティーをした。鍋パーティーをした。
「やっぱ、涼しくなると、鍋が出来て、いいよね」さんざんに食べた後で、盛男が腹を押さえながらそう言った。
「このあと、雑炊するでしょ?」と早川が、テーブルの真ん中の具の少なくなった鍋を指した。「するよ。決まってんじゃん」千草は箸を振り回しながらそう言った。「インスタントラーメン入れるのもウマイって、知ってる?」と言って盛男が立ち上がり始める。「まだいいよ。座ってなって」口を尖らせて弓枝がそう抗議した。そんな弓枝の表情はまるで子供みたいだっ
た。
「弓枝ちゃん今日、化粧してないよね?」千草が弓枝の顔をまじまじ見た。
「すっぴんでーす!」「すっぴんでも、美人は美人だな」早川がニヤけてそう言った。
「化粧取っても、目、デカいよねー」そう言った千草の言葉に弓枝は反応しなかった。
 弓枝は盛男を見ていたのである。
 つられて千草も盛男を見る。
「どした?」沈んでいる盛男に、弓枝が声をかけた。
 さっきまではしゃいでいた盛男ではなくなっていた。
「……思い出した。……昨日、また、見たんだ」少しうつむき加減で、盛男はそうつぶやく。「見た? 何を?」三人は盛男に注目していた。
「……『目』」
「……そう」弓枝は両足を投げ出してシンミリとそう言うと、「まっ、いいじゃん。気にしないことよ」と明るく加えた。
「……俺、病院送りかな?」「考えすぎだ」今度は早川がそう答えた。
「ね。何の話?」千草だけが話しが見えなかった。弓枝は千草を見ると少し困ったような顔をした。
「話してもいいよね? ……千草ちゃんなら」盛男に確認をとっている。盛男は黙って二回うなずいた。
「……盛男はね、時々、空に『目』を見るの」
「空に、『目』?」
「俺、本当に頭、おかしくなったのかもしれない」千草を見て、盛男は真顔でそう言った。
「どんな、目なの?」「どんなって。……目、だよ。普通の」
「空に?」「空に」
「昨日のは、片目じゃなかった。初めて……両目だった」
「ええ? とうとう両目になったの?」弓枝が驚いて大きな声を上げた。
「気にするなって! 気にするなって!」早川が眉間にしわを寄せて神経質そうにそう言った。
「よし!」弓枝が立ち上がった。
「じゃあ、盛男の好きなインスタントラーメンの雑炊にしてあげるよ。だから元気出しな」
 そう言って弓枝は盛男の背中を思いっきりたたいて、目と鼻の先にあるキッチンからインスタントラーメンを取って来た。
 弓枝は水分の少なくなった鍋の中に麺を入れて、さらにポットのお湯も注ぎながら言った。
「盛男が見たのは『空耳』ならぬ『空目』だよ。ナンチャッテッ」





 ハッ! ハッ! ハッ!……。
 
 自分の呼吸音が耳いっぱいに広がる。
 真っ暗で静かで、人気のない住宅街の細い道を、千草は必死に駆けていた。
 UFOに追いかけられているのだ。
 なぜUFOは、自分なんかに興味があるんだろう?
 なぜこんなにしつこいんだろう?
 
 そしてゆっくりと後方から、光が投げかけられる。
 とたんにあたりがまぶしく輝く。
 前方の電信柱が輪郭を失うほどに強烈に照らし出され、アスファルトは昼間には思いもしなかったほど、デコボコとしたキメの細かい陰影を現す。
 次の瞬間、全てがハレーションした。
 そして千草の体は後方から投げかけられた光の帯ごと、フワリと上空を移動し始める。
 失う重力。
 蘇える安心感。
 恐怖におののいて逃げ惑っていたさっきまでの自分の気持ちが理解できない。
 千草は心が海の様に平らかで平和になっていく。
 
 しかし、次の瞬間気づいたら廊下に倒れていた。
 どこかの建物……の中か?
 目をつむったままだったが、誰か複数の者が千草を見下ろして観察しているのが分かる。
(この人間で、間違いないか?)
(うん……間違いない)
 彼らの、言語を用いない会話内容を、千草は意識の中だけで理解することができた。
 彼らが千草を見下ろして観察しているのが分かる。

 彼らは自分を観察している。
 彼らは自分を観察している……。





「おい。休み中、俺に会いたくなったら、いつでも電話掛けてきてよ」
 明日から冬休みという日だった。千草は帰り、一人で校内の廊下を歩いていたら、後ろから藤にそう声を掛けられた。
「マリに言っちゃうよ。そんな事ばっかり言ってると」千草は歩調を落として藤に並んだ。
「どうぞ」藤は悪びれる様子も無い。
「じゃな……」藤はそのまま千草を追い越して、あっ気なく先に行ってしまった。
「千草」入れ替わる様な背後からの声に振り向くと、美々子がいた。
「あれ? 美々子一人、なの? ……あ、江巻くん、また今日も休んでるもんねえ」
 美々子は江巻と付き合って以来、帰りは江巻と一緒に帰っていたのだ。
「休んでるけど……。千草。一緒に帰ろ……」うつむき加減の美々子は千草と並んで歩き出した。
「なによ……。なんで元気ないのよ。あ! 分かった、江巻くんと喧嘩したんでしょ?」「ううん」
「どしたの? ……言いなさいよ」美々子はうつむいたまま首を振った。
「……フラれちゃった」そう言って美々子は顔をおおって突然泣き出した。 自然に千草は美々子の肩を抱きしめる。
「嘘でしょ……なんでフラれたのよ!」「……よく分かんないのよ」腕の中で美々子がしゃくりあげた。
「江巻のヤツ……。絶対許さない」千草はそう、つぶやいた。本心だ。
 帰る道すがら、千草は美々子から事情を聞いた。
 美々子の家の人は、江巻と付き合う事に大反対なのだそうだ。一緒に江巻と歩いているところを偶然父親と出くわして、その時の江巻の態度が、たいそう美々子の父親の癇に障ったらしい。確かに、江巻は礼儀正しく挨拶するタイプではない。そしてもうすぐ大学受験だ。それも交際を反対される理由に加わったという。家の人に反対されて美々子が江巻と会うこともままならなくなると、やがてフラれたという……。
「今晩さ。千草の家、泊めてくれるかな?」厳格な家庭の一人娘の美々子がそう言った。
「え……」千草は友達を家に呼びたいとは思わなかった。
 千草の父は酒乱気味で、ひいきのプロ野球チームが負けると母や千草に暴力を振るう。ましな場合でも大声を出して物を壊す。
 今夜も野球放送がある。その勝敗によっては、美々子に見せたくないシーンをご披露する事になるのだ。
「なんで家に帰りたくないのよ。家、厳しいんでしょ。帰ったほうが良くない?」
「江巻くんを否定したパパとママの顔を見ると、腹がたって、腹が立って」
 千草は少し考えた。「私の知り合いのアパートに行く?」頭に浮かんだのは盛男のアパートだった。そこは、盛男以外に早川が住み着き、弓枝もほぼ居ついている。それに加えて千草とそして美々子が泊まるとなると、はたしてスペースが確保されるか心配ではあった。でも、どうにかなるはずだ。
 千草と美々子は、学校帰りのまま盛男のアパートに直行した。
 盛男の部屋がある二階に上がるためのアパートの階段の下で、弓枝が一人、寒そうに石を蹴っていた。
「何やってんの?」千草が弓枝に声を掛けた。
「あ……千草ちゃん」いつになく元気の無い声で返事した。
「何してんのよ。ここで」「へへ。喧嘩しちゃった。盛男と」「だからここに居るの?」「そんなとこだね」「なんで喧嘩したのよ」「早川さんをサ……追い出してくれって頼んだの。盛男と二人暮らししたかったから」「そーなんだ」「それを察知した早川さんが気にして出て行っちゃって、……それで盛男、私に怒ってるの」
「なんだよ、ソレ」千草は笑った。
「この子、私の友だちで美々子っていうの。サッ、私たちは入るよ。弓枝ちゃんは、どうするの?」「入る入る」弓枝は千草たちに便乗する作戦らしい。
「盛男が機嫌悪いのは、それだけが理由じゃないんだよ」錆びた階段を昇りながら弓枝が付け加えた。
「なーんか、また『目』と関係してるみたいなんだよね」
 ふと見ると美々子が少し不安そうな顔をしていた。事態が込み入ってる時に来てしまったらしい事を自覚しているようだ。
「モリちゃん」
 千草が先頭で、部屋に入った。
 盛男はひざを抱えて頭をその間に埋めている。盛男は返事をしなかった。弓枝と美々子は玄関にたたずんだまま、入ってこようとはしない。
「モリちゃんてば……」千草が盛男を揺すっても、盛男は固まったたままだった。玄関の二人を見ると、二人とも手で、ゴメンのポーズをとって去ってしまった。
 美々子は日が悪すぎたとあきらめたらしい。
 弓枝は形勢悪し、とでも読んだのだろうか。
「はー……」千草はため息をついて荷物を放り出した。盛男は完全に殻に閉じこもっている。こっちがガンバルだけ無駄らしい。あきらめて自分でコーヒーを入れて、少し離れて座り、近くにあった雑誌をペラペラめくり始めた。時々チラッと盛男を見るが変化は無い。
 しばらく時間をつぶしていたが、つまらないので帰ることにした。
「モリちゃん……帰るね」そう言って立ちかけた時、早川が外から入って来た。
「早川さ……」
 そう千草が声をあげると、盛男が弾かれた様に急に立ち上がり早川に飛びついた。
「帰ってきてくれたんだね! 帰ってきてくれたんだね!」
 早川の首根っこに捕まって、盛男は子供のように叫んだ。
「……ああ」硬い表情の早川はそうつぶやくと、盛男を抱き返した。
 いい年の男二人がしっかり抱き合うのを千草は黙って見ていた。
「モリちゃん……私、帰るからよ」
 そう声を掛けると、盛男は急に千草に向き直り、「何言ってんだよ! 居てよ。居てよ。俺がコーヒーいれてやるからさー」と、千草の両肩をつかんで無理やり座らせた。そして盛男は人が変わったようにキビキビと動きだした。
 結局その夜は三人でパーティーになった。
 コンビニ食品ばかりがテーブルを埋めていた。
 早川はアパート近くにある川に架かった真っ赤な橋を、行ったり来たりしながら時間をつぶしていたそうだ。たいそう交通量の多い橋だから、空気も悪いのに。
 盛男は何度も何度も早川に謝り、ついでに弓枝の事を悪く思わずにこれからも仲良くしてくれと土下座までしていた。千草はそんな情けない盛男を見るのが何だか嫌だった。そして千草にも謝ってくる。
「ごめんなー、千草。さっきは愛想悪くしてサー」と、泣き出さんばかりに謝ってくる。「……別に怒ってないって」すると盛男は嬉しそうに胸をなでおろしていた。
「モリちゃん。そんなに謝るのって、変だよ」千草は少しウンザリした気分でそう言った。盛男の繊細さは時としてやっかいだったのだ。
「分かってる。……俺って、変なヤツだよな」と、今度は急に肩を落とす。
「変じゃないよ。盛男くんは優しいだけだよ!」早川が眉間に神経質なしわを寄せて、盛男の肩を叩いた。
「いや。俺は、変だ。俺は医者に診てもらうべきなのかもしれない」
 盛男は自身のヒゲをいじりながらそう言った。
「そんな事ないって! な? な? 千草ちゃん?」「変だよ」千草はあっさりと答えた。すると、早川は千草をにらんだ。
「千草の言うとおりだよ……」盛男は虚空を見つめだした。それを見た早川がもう一回千草をにらんだ。
 盛男は急に立ち上がると、紙とボールペンを持ってきて何やらサラサラ描き始める。
「ほら、見てくれよ。……やっぱり、俺って変だろう?」
 描き終わると、盛男は紙を千草と早川に見せた。
 中学生くらいの女の子の笑顔が、紙いっぱいに描かれていた。
 ササッと描いたわりには上手な絵に思えた。
「何……これ」と千草。
「『目』だ」と盛男。
「目じゃないじゃん」
「最初は片目だった。次に両目。……昨日見たら、その『顔』になっていた」
「空に、浮かんでたやつか……?」早川がうめくようにそう言った。
「とうとう、顔にまで発展したよ……。どうだ? これでも俺は正常か?」





 春の公園。
 受験のプレッシャーから解放され、花の浪人生になった千草が見る春は、どこか平和で少し気が抜けていた。噴水があふれる華やかな音と、遠い車のクラクション。公園はグルリと桜のピンクで囲まれている。
 その場所で女子大生になった美々子に会った。春色の薄手のセーターを着た美々子は、心なしか大人っぽくなっていて、それでいて可愛らしい。自分が男だったら、顔も気立ても可愛い美々子を恋人にしたいと思うだろう。千草は昔からそう思っていた。
「大学、楽しい?」と聞くと、「高校の方が楽しかった」と美々子は答えた。
 二人は公園のベンチで、噴水を見つめていた。
「この前。江巻を見ちゃった……」と千草。そして「女の子と一緒に居たよ」と付け加えた。
「え? 女の子オ?」笑いながら美々子はそう返してきた。
 あのあと……『別れる騒動』のあと……、よりを戻した江巻と美々子の仲はそれなりに順調にいっているせいか、他の女の子と江巻が居たと聞いても、美々子の態度には余裕があった。別に千草は、美々子を不安がらせたくてそんな話しをしたわけではない。
 そして千草は少し遠くにある噴水を深く、見つめる。
 噴水から開花した細かい水の粒子たちは、背景にある桜の花のピンクを透かしながら光を乱反射させていた。ピンクにきらめく水晶のように、誘惑的に千草の意識をにじませながら瞳の中に一杯に広がった時、千草は『あの日』に飛んでしまう。
 
 『あの日』。
 とある駅のショッピングモールを、予備校を休んで一人でぶらついていた。洋服やCD等を無作為に見ていると人ごみに紛れてこちらへ来る江巻を偶然見つけた。
 千草はびっくりして思わず店の展示物の陰に隠れた。やっぱり江巻を見ると、いまだにドキドキしてしまうのだ。卒業して久しぶりに見る江巻の顔は、以前より少し優しくなっている気がした。
 近づくにつれ、江巻が女の子連れである事に気づく。しかも女の子の手を、江巻はしっかりと握っていた。
(美々子以外の女の子と何してんのよ、アイツ!)千草は思わずカチンときた。
 しかし、妙な事に気づいた。
 千草は女の子の顔に、くぎ付けになる。
 どこかで見たことがあるのだ。
 千草は展示物に隠していた体をだんだんに乗り出した。
 そして思い出した。
 女の子の顔をどこで見たのかを、思い出したのだ。
 千草の体は磁石の様に女の子へと、どんどんどんどん引っ張られる。
「お……」
 目の前に突然飛び出してきた千草を見て、江巻は少しひるんだ。
「遠山……」江巻は千草の顔を見て、そうつぶやいた。
 千草は江巻の反応など、眼中になかった。
 吸い込まれるように、千草は江巻の連れの女の子を見つめる。
 女の子はおびえて、江巻の後ろに隠れた。
「何だよ」少し警戒したトーンで、江巻がそう言ってきた。
「……この子は?」千草は、自分が不躾な質問をしている事すら自覚できなかった。「妹だよ。……悪いか?」江巻がムッとした表情になった。千草は女の子を凝視したまま答える代わりに首を振った。江巻は千草をにらみつけながらその場を去り、そして千草は再び人波に紛れていく二人の後ろ姿を呆然と見送ったのだった。
 
 その話しを美々子にしてみた。
「うん……居るよ江巻くん、妹が」美々子が笑顔で平然と答える。「それが、どうかしたの?」
 足元に寄って来た鳩を美々子が手を伸ばしそっと触ろうとする。が、鳩はパッと空に飛び立ち、青の中に灰色の一筆を加える。
 あの日千草が見た江巻の妹。
 どこかで見た顔だった。見ているうちに思い出したのだ。
 盛男が以前、千草と早川に見せてくれた絵。
 江巻の妹の顔は、盛男が見た『空』に浮かんだあの『顔』だった。





「別に送ってくれなくてもいいのに」千草は藤にそう言った。
 二人は夜の住宅街を歩いていた。
「ここから先は真っ暗な道なんだ。街灯の明かりが切れてるまんまなんだろうな……」藤はボソッとそう言った。「真っ暗って言ったって、少しは明るいんでしょ?」「いや、本当に真っ暗なんだ」「ふーん」「……今日みたいに。またいつか遊びに来てくれる? 俺の部屋に」「ダメだよ、そんな事ばっかり言ってると、本当にマリに言いつけちゃうよ」
 藤が急に立ち止まって暗い駐車場を見つめる。「どうしたの?」
 それには答えず、藤は一人でスタスタと空き地の様に閑散とした駐車場に踏み入る。
 千草は道の真ん中でそれを見ていた。
「来いよ」駐車場の奥に入って、姿を闇に消した藤の声が飛んでくる。
「やだよ。襲う気でしょ?」藤の居る場所は暗すぎる。
「そんな物好きじゃないよ」憎たらしい返事が返ってきた。
 だけど、それで少しだけ安心して藤のもとに行った。
 藤はしゃがみ込んでいた。見ると、駐車場の隣のビルから漏れてくるわずかな明かりに照らされた白い小犬が横たわっていた。藤は小犬をなでていた。千草もしゃがみ込んで一緒になでる。「こんな所に居て、車に引かれないのかしら?」「大丈夫だよ。この駐車場は、いつも車が一台しか居ないんだ」「へー」「だからコイツはここがお気に入りなのさ。……じゃあな、タンポポ」藤は小犬にそう声をかけて立ち上がった。
 二人は元の道に戻って歩き始めた。
「タンポポっていうの? あの犬」「そうだよ」「なんで名前、知ってるの?」「俺が勝手につけたの」「センス悪―い。『タンポポ』だって……。犬に花の名前をつけるわけ?」「遠山さんだって、『千草』じゃん」「『千草』っていうのは、……」
 そこで千草は口をつぐんだ。急に真っ暗な道に入ったのだ。緊張感が体を走る。自分以外は藤の気配だけしか感じられない。「長いの? この道」「わりとね」人家に近づいた時だけ、一瞬だけボワッと明るくなる。でも空き地や畑も多かったため、延々と闇が続く。言葉数も少なくなり、互いの呼吸と足音だけが耳につく。

「ウワッ!」
 藤が絶叫した。
 辺り全体が急にほのかに明るくなる。
「遠山さん、走れ!」「……え?」千草は背後を振り返った。
 千草は見た。
 後方斜め上の夜空からグングン千草たちに向かって高度を落としてくる、未確認飛行物体・UFO…。
「わあっ!」
 気が狂った様に走った。足が浮き立ちそうな位に、飛ぶ位に走った。
 そして藤が転倒したのが分かった。
「いいから! 走れ! 遠山さん!」悪いけど、とても止まれなかった。振り返る事すらできない。ただただ、走った。
(藤! ごめん!)
 千草は藤を見捨てた。

 ハッ! ハッ! ハッ!……。
 自分の呼吸音が耳にうるさい。
 なぜ追いつく気が無いのだろう?
 その気になれば千草に追いつく事くらいたやすいはずだ。
 千草をいたぶっているかのようだった。
 自分の激しい呼吸音が世界を揺さぶるほどに大きくなった時、ゆっくりと後方から、光が投げかけられた。
 とたんにあたりがまぶしく輝く。
 前方の電信柱が輪郭を失うほどに強烈に照らし出され、アスファルトはデコボコとしたキメの細かい陰影を現す。
 そして、全てハレーションした。
 千草の体は後方から投げかけられた光の帯ごと、フワリと上空を移動し始める。
 そこで意識の180度の転換が起こる。
 千草は光の帯に全存在を預けきって、至福の時を味わう。
 ……何を恐れていたのか?
 ……幸福過ぎるこの瞬間を恐れていたというのか?
 失う重力。
 蘇える安心感。
 恐怖におののいて逃げ惑っていたさっきまでの自分の気持ちが理解できない。
 次の瞬間気づいたら廊下に倒れていた。
 どこかの建物の中か?
 目をつむったままだったが、誰か複数の者が千草を見下ろして観察しているのが分かる。
(この人間で、間違いないか?)
(間違いない)
 彼らの言語を用いない会話内容を、千草は意識の中だけで理解することができた。
 彼らは自分を観察している。
 彼らは自分を観察している……。

「ああっ!」
 千草はここで目が覚めた。
 自分の部屋のベッドの上だった。
 心臓の鼓動が早い。汗びっしょりだった。
 またUFOの夢を見ていた。
 やっぱり話しの長さはどんどん拡大している。
 今度は藤が出ていた。
 千草は思わずおでこに手を当てがった。が、手のひらも同様に熱くて、顔を冷やすに何の効果もない。
「藤……。ごめん」
 何故かそう、つぶやいた。藤を見捨てた。それが胸に罪悪の針となって刺さっていた。




 今日は珍しくしっかり化粧をしている。
 ヨーロッパの様な洒落たレンガ通りに面した喫茶店二階の窓際で、江巻と向かい合っていた。やっぱり江巻はカッコいい。
 だけど、見とれてる場合じゃないのだ。
「なんで美々子と別れなきゃいけないのよ?」
 美々子は最近、なんと再び江巻にフラれた。千草は二人をもう一度結び付けようと思って江巻に会っていたのだ。
「性格の不一致。美々子だって納得して別れたんだ」
「納得した振りをしてるだけだよ。美々子、江巻くんのこと、大好きだもん」「……どうだか」江巻は斜め上を見上げて皮肉な笑いを浮かべた。
「美々子の大事なお父ちゃまが、俺の事でまた騒ぎだしてるらしいしさ」その話しは確かに以前に美々子もしていた。「しょせん俺とは育ちが違うんだろ。全く。めんど臭くてやってらんねえよ」「育ちの違いなんて……。古臭いこと言わないでよ」「だってあっちのお父ちゃまは、現にそういう考え方なんだから、しょうがないだろ。……遠山くらいが、結構俺とつり合うんじゃないの? 俺たちおんなじ匂いがしねー?」
「……馬鹿」千草はあわてて窓の外に視線をそらす。江巻の性質の悪い含み笑いが聞こえた。
「なんで大学行かなかったの?」江巻は成績だけはよかった。
「お前には関係ないだろ」「関係ないよ」「貧しいからだって答えりゃ、満足か?」江巻がにらんできた。
 この男、顔は最高、性格は最低である。
 気まずいだけの会話が続いたあと、早々に二人は喫茶店を出た。よく、美々子はこんな男と付き合ってきたもんだ。以前、短期間であっても恋心を抱いた自分の判断は過ちであったと結論した。
 一緒に外の通りに出た時、以前に見た江巻の妹の顔をふと思い出した。
 盛男が空の中に目撃したれいの顔だ。
 あの絵を思い出して、千草が不思議な感覚に捕らわれている時だった。
「おい……俺の事。今日、話しにくい男だって思ったろ? でも俺は、また遠山に会いたいよ」
 一方的にそう言うと、江巻はその場を立ち去った。





「別に送ってくれなくてもいいのに」千草は藤にそう言った。
 二人は夜の住宅街を歩いていた。
「今日みたいに、またいつか遊びに来てくれる? 俺の部屋に」「ダメだよ、そんな事ばっかり言ってると、本当にマリに言いつけちゃうよ」
 藤が急に立ち止まって、一人でスタスタと空き地の様に閑散とした駐車場に踏み入る。藤のもとに行ってみた。藤はしゃがみ込んで小犬をなでていた。千草もしゃがみ込んで一緒になでる。
「じゃあな、タンポポ」藤は小犬にそう声をかけて立ち上がった。
 二人は元の道に戻って歩き始めた。
 しばらく歩くと急に真っ暗な道に入った。緊張感が体を走る。空き地や畑も多かったため、延々と闇が続く。
「ウワッ!」藤が絶叫した。「遠山さん、走れ!」
 千草は背後を振り返った。千草は見た。後方斜め上の夜空からグングン千草たちに向かって高度を落としてくる、未確認飛行物体・UFO……。
 気が狂った様に走った。そして藤が転倒したのが分かった。
「いいから! 走れ! 遠山さん!」振り返る事すらできない。
(藤! ごめん!)
 千草は藤を見捨てた。
 そして自分の激しい呼吸音が世界を揺さぶるほどに大きくなった時、ゆっくりと後方から、光が投げかけられた。
 前方の電信柱が輪郭を失うほどに強烈に照らし出され、アスファルトはデコボコとしたキメの細かい陰影を現す。
 そして、全てハレーションした。
 千草は光の帯に全存在を預けきって、至福の時を味わう。
 次の瞬間気づいたら廊下に倒れていた。
 どこかの建物の中か?
 目をつむったままだったが、誰か複数の者が千草を見下ろして観察しているのが分かる。
(この人間で間違いないか?)
(間違いない)
 彼らの言語を用いない会話内容を、千草は意識の中だけで理解することができた。彼らは自分を観察していた。
 
 次に気づいた時、いつの間にか立ち上がって、UFOの内部に存在するらしい会議室のような場所に歩を進めていた。
 背後から、さっきの『言葉無き存在』に誘導されて、ここに来たような気もする。
 その場所には、既に五十名前後の者がパイプ椅子に座って一方向を見ていた。
 何かが始まるようだ。
 千草もあわてて空席に座った。
 全員が見ているその方向には、大きな壁一面のスクリーン。
 さっき千草が入ってきた入り口から、女性が入ってくる。
 さっそうとした歩きっぷりだった。

「地球から招かれた皆さん、ようこそ」
 正面に立ったその女性は、千草たちにそう挨拶した。
 彼女のたたずまいには知性と優美さが感じられた。
「これから見て頂く映像は地球の姿です。見て頂くべき皆さんが、見て頂くべきこの時に、この場所にいらっしゃいます」
 女性の声は美しかった。
 だけど、見ようによっては口を動かしていないようにも見える。実際、ひょっとしたら声は出していないのかもしれない。
 場内が暗くなった。スクリーンに映像が映し出された。





 半年後。
 美々子は大学で知り合った男の子と付き合い始めていた。
 江巻はそれを知っているのだろうか?
 隣でハンドルを握る江巻に聞いてみたい気もするが、なぜか切り出しにくい。千草は江巻の運転する車の助手席に座っていた。
「着いたよ」車は質素な家の前で止まった。千草は江巻のあとに続いて、彼の家の中に入る。
 千草と江巻はつき合っているわけではなく、あくまでも異性の友人同士だ。美々子との仲を復活させる為に喫茶店で会って以来、江巻からちょくちょく連絡が入るようになっただけだ。他の男の子と付き合い始めている美々子に対して、すでに義理立てする理由も無かったが、今後、江巻に燃える予定は無い。彼に対する恋心の賞味期限は切れていたのだ。もちろん絶対という保証は無いが……。
 しかし新しい発見もあった。彼のコワモテは意外と見掛け倒しで、会うたびに子供っぽい面をさらしてくる。だから昔よりずっと話しやすかった。なぜ江巻は人に対して、この気さくな面をもっと素直に出さないのだろう?
「……おじゃまします」初めて江巻の家に来た。
「妹は入院してるから。俺は今一人暮らし……。恐い?」
 居間に座ってお茶など飲み、しばらくて江巻が薄笑いしながらそう言ってきた。
「全然」千草は笑ってみせた。「遠山を襲うかもしれないぜ」「やれるものならやってみな」
 すると江巻は襲い掛かる振りをしてきた。千草は笑いながら立ち上がって逃げてみせた。江巻も追っかけるふりをしてきた。
 ちょっとテンションが上がって、千草は思わずドアを押して隣の部屋に踏み込んでしまう。
 女の子らしい部屋だった。
 だけど、乱雑な印象だ。
「……妹さんの部屋?」「……ああ」
 江巻は千草を追い越し、妹のものらしいベッドの上に腰かけて、ぬいぐるみをいじりだした。千草は壁によっかかって、そんな江巻を見ていた。
 千草は以前、街で江巻と歩いている妹を見た。
「アイツ……俺の妹。数年前から少し気持ちがおかしくてな。退院したら、また俺が面倒をみてやろうと思ってる」
「面倒……? どうやって?」
 江巻はぬいぐるみの短い腕を、ラジオ体操のようにゆっくり回しだした。
「……って言っても、してあげられる事なんか何もないんだけどね。俺、専門家でもないし」
「これは……?」千草はふたの取れたダンボール箱がいくつも山積みになっているのを見て、そう聞いた。
「ああ」チラリと見て江巻はふて笑いする。
「俺の聞きかじりで、アイツに箱庭を作らせてたんだ。精神療法でそういうのがあるらしいんだけど、妹はそれが大好物でね。機嫌の悪い時もそれをやらせると、おとなしくなる……ま、アイツのおもちゃだ」「へー」千草は一つの箱の中をのぞきこんだ。
「これは?」
「何が?」
「この……景色……」 
 箱の中に、小さなオモチャの様な模型の建物や木がほどこされ、河川などは手書きで直接、底面に描かれている。
 千草は息をのんだ。
 箱庭の中に飾られた町の景色に見覚えがあったからだ。
「この箱の中の景色の場所に……妹さん、来たことがあるみたいね? すごい忠実に再現されてるわ。妹さん、すごい才能持ってるよ」千草は感心してそう言った。
 江巻は鼻で笑った。「この町に越して以来、妹は俺と一緒じゃなきゃ外出しないさ。その箱の景色はノワの……俺の妹、ノワって言うんだけど、ノワのお気に入りの架空の町だ。俺がちょっかい出そうものなら、ギャーギャー抗議しやがる。……以前ノワがそれをいじってる最中に俺がふざけて、ボールを放ってやったんだ。アイツ素早かったぜー。ボールをバシッと、手でガードしてさ、箱庭を守ってやがった。『私が彗星から地球を守ります!』とか叫んじゃってよ。『今度こそ地球は私が守る。二度と彗星に地球を滅ぼさせない』って……。
……右の手前にアパートがあるだろ? その二階には、ノワに言わせると、ヒゲ面の男が住んでるんだそうだ。その男にアイコンタクトしたり、笑いかけたりするんだとよ。ハハ……。おもしれーだろ?」
 千草は血の気が引いていきそうだった。
 盛男のアパート付近と全く同じ配置。
 目印の川も。真っ赤な橋も。
……ヒゲ面の男とアイコンタクト?




「もしもし千草?」
 高校卒業以来久しぶりに聞く声だった。突然マリから電話があった。
「どうしたの?」びっくりしてそう聞いた。
「突然ゴメンネ。……あのさ、藤から伝言頼まれてさ」マリは藤の彼女である。どうもいまだに二人はつき合ってるらしい。
「聞きたいことや困ったことがあったら、いつでも言ってくれ、って」
「はア?」藤は昔からずっと千草にそのセリフを言い続けてきた。
 耳にタコが出来ている。
「どうして藤は自分で電話かけてこないのよ」
「彼、今、知り合いのつてでオーストラリアに居るのよ」
「……オーストラリア」
「さっきのセリフだけを千草に伝えてくれって」
「そう。分かった。……ありがとね」
 電話を切ったあと少し寂しくなった。
 何もそんな遠い外国に行く事はないだろ……、と思った。





「今日みたいに、またいつか遊びに来てくれる? 俺の部屋に」「ダメだよ、そんな事ばっかり言ってると、マリに言いつけちゃうよ」
 藤は閑散とした駐車場にしゃがみ込んで小犬をなで始めた。千草もしゃがみ込んで一緒になでる。
「じゃあな、タンポポ」
 二人は元の道に戻って歩き始めた。
 しばらく歩くと急に真っ暗な道に入った。言葉数も少なくなり、互いの呼吸と足音だけが耳につく。
「ウワッ! 遠山さん、走れ!」
 千草は背後を振り返った。後方斜め上の夜空からグングン千草たちに向かって高度を落としてくる、未確認飛行物体・UFO……。
 そして藤が転倒したのが分かった。「いいから! 走れ! 遠山さん!」
(藤! ごめん!)
 千草は藤を見捨てた。
 そして景色全てがハレーションした。
 千草は光の帯と共に上空を移動しながら至福の時を味わう。
 次の瞬間気づいたら、廊下に倒れていた。
 目をつむったままだったが、誰か複数の者が千草を見下ろして観察しているのが分かる。
 次に気づいた時、千草は会議室のような場所に踏み込んでいた。
 何かが始まるようだ。
 千草もあわてて空席に座った。
 さっき千草が入って来た入り口から、女性が入ってくる。
「地球から招かれた皆さん、ようこそ」正面に立ったその女性は、そう挨拶した。
「これから見て頂く映像は地球の姿です。見て頂くべき皆さんが、見て頂くべきこの時に、この場所にいらっしゃいます。皆さんは今日、真実の目撃者となります」
 
 場内が暗くなった。スクリーンに映像が映し出された。
 真っ暗な冷たい宇宙空間に浮かぶ、青く美しい星、地球。
 白くかかっている「もや」は……雲だ。
 心奪われる美しさだった。
 奇跡の星、太陽系第三惑星。様々な生命を生み出してきた全ての母。
 そして画面端から唐突に現れる彗星。
 すごい勢いで地球を目指す。
「あっ!」
 見ていた誰かが声をあげた。
 あっけないほどに地球に衝突した。
 心の準備ができていなかったために結構ショックを感じた。
 衝突した、まさにその瞬間で、画面はピタリと一時停止される。
 そして映像が巻戻される。
 彗星は地球を離れ、そしてさらに距離を取り、そして画面から消えて行った。
 場内が明るくなった。
 
 映像を見ていたほぼ全員が青い顔でうつむいているか、机に顔を突っ伏していた。
 今のは単なる映像ではなく、もっと意識の深いところを叩くような言わば疑似体験の様な強烈さがあった。
 何か仕掛けがしてあったのかと疑わしく思うほどだ。視覚的疑似体験と意識レベルと身体反応を即座にリンクさせる様な仕掛けが。
 事実、千草も明らかに胸の苦しさをおぼえていた。しかし。ほとんどの者は千草よりはるかに打ちのめされ、グッタリしているのが見て取れる。
 千草は自分以外には、二人だけ、気をしっかり持って椅子に座っている人間を見た。
「……藤」
 千草はそのうちの一人が、藤である事を知った。転倒した藤も、結局はUFOに引き上げられていたのだった。
「この映像に耐えれたのは、あなた方三人だけのようですね」
 スクリーンの端に立っていた、さっきの女性がそう言った。
 でも、千草の心は揺れていた。それを見透かしたように、女性は千草を見て、言った。「大丈夫?」
 問われて千草はどうにか、うなずいた。
「今のは……地球の近未来なんですか?」千草の声は震えていた。
「未来ではありません。あなた方はまたチャンスを得たのです」
「あの……」千草は意味が分からなかった。
「じゃあ、もっと説明しましょうね。来なさい」
 女性が手招きをした。千草と藤は椅子から立ち上がった。
 もう一人は……、少し雰囲気が違っていたので分からなかったが、よく見てみると……盛男が数年前に絵に描いた少女、空に浮かんでいた顔の、『ノワ』だ。
 女性は部屋を出て行こうとしていた。どこか別の部屋に行くのか?
 しかし、ついて行こうとする千草の足は震え、吐き気が始まっていた。




 ある日曜の日。
 高校生の時に一度だけ降りた或る駅の改札を通った。千草はその町をどうしても確かめる必要があった。あの時は藤と一緒に町を歩き、そして藤の家に行ったのだ。
「今日みたいに、またいつか遊びに来てくれる? 俺の部屋に」
 何度も見るれいの夢の中で、藤は千草にそう言っている。……という事は、あの夢の舞台はたぶんこの町なのだ。
 千草がどうしてもやりたかった事。それはあの夢の『謎解き』だった。 
 やがて、少し時間が掛かったけれど藤の家あたりまでたどり着くことができた。
 しかし、夢の中で見る、UFOに捕まった道は、ここからどう行くのだろうか。
「今日みたいに、またいつか遊びに来てくれる? 俺の部屋に」
 つまり。
 あの夢の場面は藤の家から駅に逆戻りしているのではないだろうか? しかし、今来た道と夢の景色は別ものである。千草はグルグルと道を歩き回った。夢の中の道は、住宅街というよりもっと田舎っぽい感じの道だったはずだ。
 藤が、外国に行ってさえいなかったら、本当なら案内をお願いしたかった。藤なら、何でも頼みをきいてくれそうだから。
 あちこち歩き回って、いい加減疲れ始めた時、やっとそれらしい道に来た。千草はそこに立ち止まってもう一度記憶を探る。
ここは? 今が夜だったなら、夢の雰囲気と同じになる道ではないだろうか……。
 でも半信半疑だった。それでもその道を進み始めた。
 幾つかの角を曲がったあとの一本道で、とある場所の空き地を左手に見た。
 千草の足が、その光景を目の当たりにして凍りつく。
 止まっている一台の車。
 そして車から少し距離をとった所で、うずくまる一つの姿。
 その姿は。
「……藤」
 千草はうずくまっている藤に思わず走り寄っていた。
「おう……。遠山さん。やっと『ここに』、来たんだね」
 外国に行っているはずの藤は千草を見上げてさり気なくそう言った。   彼は別段驚いた表情さえしていない。
「ねえ。その犬は……」藤はうずくまったまま小犬をなでている。
「『タンポポ』、だよ」
 藤は千草を見上げながら、千草の反応をじっくり見るように意味ありげに言った。
「『タンポポ』……」千草は呆然とその言葉を繰り返すだけだった。
 それは、千草が繰りかえし見る夢の中に登場する同じ姿かたちを持つ犬だ。そして、その名前を、現実の藤が口にしている。

……なぜだ……

 藤は立ち上がって、千草の目をのぞきこんだ。
「遠山さん。この犬……知ってるよね?」
 千草はうなずきながら、なんだか涙がこぼれてきた。
「やっと思い出したんだね?」
 藤は千草の両肩をつかみ、揺さぶりながら、確かめるようにそう言った。
 千草は意味不明の涙をこぼす以外、出来なかった。

 そのあと、二人は藤の家の自室に行った。
「この部屋に来るの……、私、二度目だね」
「いや……三度目なんだよ。遠山さんがこの部屋に来たのも、そしてこの町に来たのも。今から話すよ。だんだん分かってくると思う」千草は怪訝な顔をした。
「遠山さんが信じるかどうかは、本当に自由だよ」藤は前もって念を押した。
 千草はあの日のように汚いカーペットの上に座り、藤は自分のベッドの上に座っていた。
「実はあの日、地球は彗星の衝突で人間の住めない惑星に変化するはずだった事を知ったんだ」
 藤は黙ったままの千草の様子を確認しながら、「あの日とは、俺たちが円盤に吸い上げられた日だ」と付け加えた。
 藤は明らかに、千草の夢の内容に言及していた。 
 千草は反論するエネルギーも、疑問を持つエネルギーも残っていなかった。なんだか、疲れていた。見続けた夢の意味。今日、藤に再会した事。その藤こそが秘密を知っている気配。自分の手に負える範囲をはるかに超えている事を直感した。
「最初女性は、『彗星が衝突する地球の映像だ』と説明していた」
 その藤の言葉は、まさしく千草の見続けてきた夢の1シーン。
 そこで一回、藤は言葉を区切った。
「……あの時、会議室を出ようとしていた女性に着いて行こうとした時に、遠山さんは気を失って倒れた。そしてしばらくして回復した遠山さんは、『どお? 話しを聞く勇気がある?』って、女性に聞かれていた。遠山さんは青い顔をしながら、『ある』って答えていたよ。つまりその時点でしっかりしていたのは、俺と遠山さんと、あと……まだ幼さの残る……中学生くらいの女の子だった。次の部屋に通された俺らは、そこで女性を含め、四人だけで話しをした。話し、というか。教えてもらったんだ。滅びる直前の地球は、彼ら……宇宙人の計らいによって、彗星衝突の前に、違う時間軸に移し変えられた。そしてまるで何事も無かったようにまた歴史は時を刻み始めた。彗星の衝突の危機なんてまるで無かったみたいにね。……もちろん莫大な数の地球人が、迫り来る恐怖の彗星を目撃したはずさ。だけど、それさえ、全地球人の記憶さえ、ゴッソリと彼らによって消されたんだ。
地球人の記憶は書き換えられた。
何も起こらなかったんだ、という記憶にね。
だけど、本当だったら俺たちの地球は、滅亡したんだ」
 千草は黙って藤を見つめていた。
「遠山さんは女性の話しを聞きながら、もう一度気を失っていたよ。女性は、会議室であの映像を見てダメージを受けた人間たちの記憶も、そして遠山さんの記憶も書き換えると言った。『この人たちはとてもこの事実に耐えられない。この円盤に乗せた記憶すらも消す。でないと、精神錯乱さえ起こす可能性がある』と言ったんだ。でも、俺は女性に懇願して、遠山さんの、せめて記憶の一部は消さないで欲しいと頼んだんだ」
「……なぜ?」
 千草はやっと口を開いた。
「……俺のわがままかもしれないけど、やっぱりこんな大きな記憶を、一人で抱えるのが不安だった。……誰かと分かち合いたかった。遠山さんは……迷惑だったかな? 消去された方が、やっぱり良かった?」
「……分からない」
 千草は首を振った。
 藤は話しを続けた。「女性は条件付きで承知してくれた。遠山さんに、まずは一番精神的負担の少ない形で、記憶を少しずつ『感じさせ』、それから回復させ得る方法を取る、と言っていた」
「……それが、夢?」
「そのようだね」藤は薄く笑った。
「俺は遠山さんの事がずっと気がかりだった。もし映像を目撃した記憶を取り戻して、遠山さんが混乱したら、精神的に錯乱したら……、俺の責任だ、と」藤は神妙な顔をした。千草はため息をついた。
 確かに藤は、千草の様子をストーカーまがいに気に掛けてきた。
「さっきの話しの続きは……あるの?」千草はこめかみを押さえた。
「……俺は女性に、『二度と地球が彗星にぶつからないためにはどうしたらいいでしょう?』って聞いたんだ。そうしたら、『彗星がぶつからないようにするために地球人ができる事は、私自身にも分からない』と、女性は答えた。『それにしばらくは地球に彗星がぶつかる予定は無いはずです。しかし、一度私たちによって救われたこの新しい地球には、まだまだたくさんの破壊の危機があります。むしろその危機は加速している様にも見えます。ですから一部の人には知って頂きたかったのです。起こるはずだった過去の地球の真実と未来の地球の新たな危機を。あなたたちは、もっと多くの事を考えていかなければいけないと思います。その一つの方法として……いつでも、地球を感じてあげてください。その時、色々な方法を思いつくでしょう』と女性は答えた。
それから、『私たちは地球に二度と干渉しません。と言うか、よっぽどの場合を除いて、本来、他文明に干渉すべきではないのです。今回がその、よっぽどの場合に該当したのかどうか、我々も今後、反問を余儀なくされるでしょう。各文明には自治権が与えられています。あとは地球人たちだけで、地球を大事にして下さい。』そう言われたよ……俺の記憶はそこで途絶えている」藤はため息をついた。
 沈黙になった。
 千草の心には幾つかの事が浮かんできた。
 ノワのこと。
 盛男のこと。
 そして千草は二人のことを思い切って藤に話してみた。
 すると藤は、考え込んだあと、言った。
「……そう。じゃ。あの時のもう一人の大人しい女の子は……ノワっていう人だったのかな」
「ノワちゃんの今の心のトラブルと、その日の円盤での体験は……関係あるのかしら?」
「さあ……。ひょっとしたらね。でも。本当に、ノワって子は心がトラブッてんだろうか? むしろ今の地球の状態の方がイレギュラーなん……」
「私の従兄弟の盛男の話しはどう思う? なぜ彼はノワちゃんの顔を空の中に見るのよ」
 藤は首をひねった。「さあ……」
「たとえばノワって女の子は、それ以来新しい能力に目覚めたって言う可能性は無いのかしら? だってノワちゃんの箱庭の景色はモリちゃんの町の景色そのもので、しかもモリちゃんの事を、箱庭をのぞいた時に目撃……」
「ごめん……遠山さん。俺だって分からないんだよ。……あの日の円盤での俺自身の体験が。俺自身、どこまで自分の記憶が書き換えられているかすら、よく分からないんだ。円盤内の記憶はあっても、俺にも地球に迫ったはずの彗星の記憶は無い。分からない事だらけなんだよ。だから、俺はオーストラリアに行ったんだ。円盤の女性は『地球を感じて欲しい』って言った。陳腐だって、笑うかもしれないけど、俺にとって、地球を感じられる場所は、色々考えた結果、オーストラリアだって思ったんだ。ほら……」と言って、藤は千草の背後の壁を指差した。
「今は剥がしちゃったけど、そこに以前、大地の写真を貼っていたろう? そこもオーストラリアだったんだ。笑ってもいいけど、今俺ができる、思いつく事って、たったそれくらいしかないんだよ」
 藤もあの日の体験を消化しようと必死だという事が伝わってきた。藤もある意味、苦しんでいた。真実なんて、知らない方が身のためだ。
「……じゃあ、私はどうしたらいいのよ」千草は恨み言のようにそう言った。
「私だって、思い出しちゃったのよ!」
 すると藤はまじまじと千草を見た。
「……来るか? 一緒に。……オーストラリア」
「なんでよ。冗談じゃないわよ。そんな遠い所」
「俺だって冗談で言ってるわけじゃないよ。また戻るんだ。俺、オーストラリアに。……その時一緒に来る?」
 また涙が出てきた。どうしていいか分からない。
「泣くなよ」「泣いてないよーっ!」やけくそで叫んでみた。




 しかしとにかく。謎は解けた。
「別に送ってくれなくてもいいのに」思いもしなかった真相を藤から聞かされた千草は、帰り道、駅までの道を一緒に歩いている藤にそう言った。すでに町は夜に包まれている。
 UFOで映像を見せられたあとに消された記憶。それでも、夢として少しずつ千草に訴えかけていた真実。かつて、ストーカーまがいに千草に注目し続けた藤の真意もやっと分かった。しかし、本当にそれらの藤の説明の全てをいっぺんに鵜呑みに出来る心境には、千草はまだ至らない。ましてや藤の提案したオーストラリア行きの話しに乗るには、数々の心理的ハードルがあった。雲をつかむ様な話より来年の大学受験の方が、やはり千草にとって切実なのだ。
 二人は夜の住宅街を歩いていく。
「ここから先は真っ暗な道なんだ。街灯の明かりが切れてるまんまなんだろうな……」藤はボソッとそう言った。「真っ暗って言ったって、少しは明るいんでしょ?」「いや、本当に真っ暗なんだ」「ふーん」
 そこで千草は口をつぐんだ。急に真っ暗な道に入ったのだ。緊張感が体を走る。自分以外は藤の吐息だけしか感じられない。「長いの? この道」「わりとね」人家に近づいた時だけ、一瞬だけボワッとあたりが明るくなる。でも空き地や畑も多かったため、延々と闇が続く。やがて言葉数も少なくなり、互いの呼吸と足音だけがやたらと耳につく。

「ウワッ!」
 藤が絶叫した。辺り全体が急に明るくなる。
「遠山さん、走れ!」「……え?」千草は背後を振り返った。
 千草は見た。
 後方斜め上の夜空からグングン千草たちに向かって高度を落としてくる、未確認飛行物体・UFO……。
 藤が夢解きをしたあとに、『現実』にまた現れたUFO……。
「わあっ!」 
 気が狂った様に走った。足が浮き立ちそうな位に、飛ぶ位に走った。ただただ走った。

(なぜ? また? なぜ? また?)

 そして藤が転倒したのが分かった。
 千草は足を止めて藤を振り返った。
「いいから! 走れ! 遠山さん!」
 派手にすっ転んでいる藤が、頭だけを持ち上げて必死に叫ぶ。
「何やってんだよ! 早く走れ! 早く! 遠山さん!」
 藤を見つめたまま凍りついたように立ち尽くしている千草を見て、藤の表情がだんだん泣きそうになる。
「早く! 何やってんだよ、お前! バッキャロー! 行けよオ!」
 藤は半分泣いていた。
 しかし千草は動かない。
「嫌だ……。もう、嫌なんだよ。アンタを見捨てるのは」
 夢のこの同じ場面で、今まで藤を見捨て続けてきた千草はそうつぶやいた。

 次の瞬間、千草は思わず手で目を覆った。藤の上空後方から、光が投げかけられたのだ。
 その巨大な光量で、発信元の造形も、そしてその他一切の景色全ても、爆発的にハレーションする。
 まぶしすぎて何も見えなくなった。
「わあああっ!」
 千草と藤の絶叫。
 次に発狂寸前の絶望感の中で、千草の体は投げかけられた光に完全に吸収される。まるで体が白く破裂して、自分の存在の境界線が消えてしまったような感覚。解放。

 目の機能が正常さを取り戻すと、千草は藤と二人で、一つの光の帯に抱かれて上空を移動していた。
 
 重力の喪失。
 幻想の終焉。
 本当のリアル。
 そして。
 意識の180度の転換が起こるのだ。
 千草は、光の帯に全存在を預けきって至福の時を味わっていた。
 『恐れ』というのが皆無な感覚。
 『不安』というのが皆無な感覚。
 有るのは、この瞬間に対する100%の、完璧な、『信頼』だ。
 今回は藤と一緒に、一つの光の帯の中に居た。そしてすぐに奇妙な事に気づく。一つの光の帯の中に居るせいなのか、千草は藤の意識が手にとるように分かるようになっていたのだ。
 千草は知った……藤もやはり、至福を感じているという事を。
 そして二人は思わず顔を見合わせる。そう。藤にも千草の感覚が伝わっているのだ。無言で見つめ合いながら、互いにその事実を感知し、その驚愕を分け合っていた。否。増幅し合っているのだ。驚愕と、そして何より、至福感を。
 だから至福感は、倍以上に振動し、高ぶって、夜空を、昇って、昇って、止まらない。
 光の帯のベールのために紗が掛かったように見える夜の町は、それでも白んだ海底のにじんだ宝石となって安っぽくきらめいている。斜め上方の星達は、やはり少し紗が掛かっているものの、既知の仲間を迎えるが如くに千草たちにモールス信号を送っていた。
 そんなおとぎの国の様な光景に、千草と藤は、わずらいを全て忘れた子供に戻って思わず声を上げる。
 千草はもっと上空に目を移す。
 そして星たちに段々近づいてきた様な錯覚をおぼえた時、千草は妙な事に気づく。電流の様にすぐに伝わった千草のその不審につられて、藤も同様に千草の視線を追う。 千草は見上げていたのだ。自分たちを吸い上げて行く光の帯の発信元を。
「ダンボール?」
 千草は思わずつぶやいた。
 夜空に浮ぶダンボール箱の『底』……それが、千草たちを吸い上げている光の発信元だった。

 気づいた時には自分は『赤い橋』の上に倒れていた。
 体をゆっくりゆっくり起こして頭を振る。傍らに藤も倒れていた。風が川の上空を滑空して行く勢いのまま、千草の髪を揺らす。
(ここは……?)
 赤い橋。
 そうだ。千草と盛男のアパートの中間地点を結ぶ、町の中でも目印的な、あの目立つ大きな『赤い橋』の上だ。
 しかし、普段なら交通量の多いはずのその橋には一台の車も通っていない。それだけじゃない。車はおろか世界の物音が全く無いのだ。
「藤! 藤!」
 恐くなって藤を揺り動かした。にぶいうなり声を絞り出しながら藤の目が開く。千草をじっと見た。そして藤は、弾かれたように上半身を起こした。 キョロキョロとせわしなく頭を振って、周囲を見ている。
「ねえ、藤! どうなっちゃったのよ! 私たち、どうしちゃったのよ!」
「わかんないよ」藤は固まって虚空をにらんだ。
「私たち、UFOに追いかけられたのよ! そして光の帯で昇ったわよねエ?」
「そうだったよな。そして……」
「そして、どんどん吸い上げられたのよ! UFOに!」
 そこで二人はハタと止まる。閃光のように記憶の映像が蘇えったのだ。
「違う、わ。UFOじゃ……」
「UFOに吸い上げられていったんじゃないよ。……ダンボールに! 俺たち夜空に浮んだダンボールに吸い上げられて行ったんだ!」
 藤の声が無音の世界に反響した。風が吹いてその声を上空に巻き上げていく。
 そしてまた静寂に戻った。
 その時、奇跡が起きた。
 救いの無い小さな二つの存在が、たとえようもない恐怖で凍結した時、二人は神の声を聞いたのだ。

 荘厳な声、慈悲にあふれたその声が音の無い世界に静かに浸透し、全ての構成分子の中へ直接触れていく。
 木に。橋に。川に……。
 もちろん。千草の体細胞全てにまで、その神の悲願の声は到達していくのだ。その思いが切ないほどに千草に感じられた時、彼女は思わず空を見上げていた。藤も同じ状態らしく、二人はこの異常な状況の中で、不思議な恍惚感に酔いしれて、いつしか空を仰ぎ見た。
 青い青い空。雲一つ無かった。抜けていく様な神聖な二人の思いに、まるで応えるかのように『それ』は空の中に登場した。

 片目。

 長いまつ毛に濃密に縁取られた、美しい片目。
 千草は、青空に浮かび上がった神のその目に見つめられて、感激で思わず泣きそうになる。
 そして次に現れる。

 両目。

 白目に浮き上がる血管さえ、はっきり認識できる、青空の中のその二つの目。
 神のまばたきで、神のまつ毛がバタバタと動いた。
 突然、突風が世界に巻き起こり、千草と藤は思わず抱きしめ合う。
 突風がようやく止み、二人はまた空を見上げる。
 そして次に現れたのは。

 女の子の顔。

 そして青空の中のその女の子は……否、神は言った。
『……私が地球を守ります。私があなた達を守ります』
 千草はその時知ったのだった。盛男が見続けた目、そして顔の正体を。見て、盛男が精神科に行こうかと悩んでいたその原因となった事実が今、自分にも現れていた。
 盛男は正しかったのだ。
『……私が地球を守ります。私があなた達を守ります』
 何度目かのその声が世界に響いた時、すっかり動転していた千草はやがて気づいた。
 女の子の顔……それは、ノワの顔だ。
 神イコール「ノワ」。
 「ノワ」イコール神。
『……私が地球を守ります。私があなた達を守ります』


「私が地球を守ります。私があなた達を守ります」
 大学病院のとある一室。ノワはそうつぶやいていた。
「ノワちゃん。それは、どういう意味かしら?」
 女性医師である笠井は、箱庭をのぞきながらブツブツつぶやいているノワの背中に向かってそう問い掛けた。ノワは、医師が用意する正規の庭ではなく、ダンボールの箱に世界を創ることを好んだ。
 ノワは、自分で創った、たくさんの箱庭のうちの一つを、さっきからたいそう熱心に見つめていた。問い掛けても返事が無いので笠井医師はノワに歩み寄って、寄り添った。
「何が、起こったのかしら?」
 笠井医師は、ノワが繰り返し作る見慣れた町並みの一つであるその景色を見下ろしながら、もう一度質問した。
 するとノワは、赤い橋を指差した。
「千草が……、今、千草が赤い橋の所で藤に抱きついている。ふ、二人は、二人はこの箱庭が、前のようにまたUFOだと思ったみたい。吸い込んだのは、この箱庭だったのに」
「UFOって。この前ノワちゃんが言っていた、あの彗星から地球を守ったっていうやつね?」
「そうよ。千草は、繰り返しその夢を見て、そしてやっと今日、藤に真相を教えてもらったのよ。ここまで何年も掛かったわ。人類の記憶は書き換えられているの。時間軸を移動したの。……もしかしたら、これから千草は藤とつき合う事になるのかしら? 千草は、親友の美々子の彼氏だったお兄ちゃんの事が昔は好きだったのに」
 笠井医師は少し首を傾げる動作をする。
「千草ちゃんって、ノワちゃんのお兄さんの、後輩だったっけ?」
「違うわよ。クラスメートだったのよ。お兄ちゃんと、千草と美々子と藤も、みーんなお兄ちゃんの高校のクラスメートだったの。千草はファミリーレストランでお兄ちゃんに以前、会った事もあるのよ。そして狭い通路で、千草とお兄ちゃんは見つめ合ったのよ。でも自動販売機の所で美々子にコーヒーをおごってもらって、お兄ちゃんに告白された事を聞かされたの。
あっ! 千草と藤が今、走り始めた! 見て!」
 笠井医師は言われた通りにのぞき込む。もちろん景色は有っても、無人の箱庭の中を。
 笠井医師は毎回聞かされるその膨大な不思議な物語を、だんだん整理しきれなくなっていた。一体、ノワという少女のどこに、そんな発想力が有るのだろうか? しかし、ストーリーは必ず人間の内的必然性から生み出される。だから、患者が作った箱庭を舞台に、患者自身がつむぐこのストーリーを、決して否定せず受け止める事こそが大事な医療行為の一環として、医師は熱心に耳を傾けるのだ。

「どうぞ」
 看護婦に呼ばれて、病院の廊下の長いすに座っていた青年は立ち上がる。 色白の、短髪の、三白眼ぎみのいかにも現代的な若者、江巻だ。
「失礼します」
 乱雑なデスクには、妹・ノワの精神担当医である笠井が座っていた。この医師は箱庭を使った心理療法を取り入れている。
「お座りになって」促されて笠井と向き合って座る。笠井は書類に目を通していた。
「あの……。妹は、どうでしょうか」江巻がおずおずとそう聞くと、笠井はやっと顔を上げた。
「ノワさんは、たくさんの物語を持っていますね」笠井は明るい様子でニコッとした。「……はあ」江巻は要領の得ない返事を返す。
「質問ですが。お兄さんに、『千草』という名前の御知り合い、高校の時って言ってたかなア、……居ますかね?」
「千草……」
 江巻は眉間に皺を寄せたあと、やがてキッパリ答えた。
「いいえ」
 念の為、他のクラスにも思いを馳せてみたが、いっこうに思い出さない。
「じゃあ、美々子という人は?」「さあ。知りません」「藤という人は?」「全然知らないです」
 すると笠井は大げさに椅子にもたれてニッコリ笑った。
「ノワが……言ってたんですか? 私の、知り合いだと?」すると笠井は何度もうなずいた。この医師のこんな仕草はまるで男のようだ。
「ノワちゃんの心の中にはたくさんの物語と、そしてお友だちが居るようですね」
「あの……」江巻は頭をポリポリ掻いた。
「あの。いつだったか、盛男という人がアパートの二階に住んで、どうのこうのとノワが言ってたって、先生に聞きましたけど?」
「はいはい。そうですよね。あれはエート、千草さんのオ……従兄弟で、部屋に他にも同居人も居るとかって言ってましたねエ」「……ああ、盛男の従兄弟が千草で、その人が私のクラスメートだったんですか。……へー!」
 意外と関係性がしっかり組まれたストーリーになってるので、江巻も少し関心してしまう。しかし、分からないところも有った。
「それが、何故、人類滅亡の話しになっていくんでしたっけねエ?」江巻は思わず質問していた。
「えー。……なんか色々有ったみたいですよオ。あなたが色男で、美々子とくっついたから、千草がヤケを起こして藤の部屋に……」そう言いながら笠井はあわてて書類を繰った。その様を見て江巻は苦笑した。
「で、藤がオーストラリアに行ったのです。それから。えと。藤の家の近所から赤い橋に、さっき二人を吸い上げたみたいですね。ダンボール二つの世界を使って語ってました……まあとにかく。私は最近、ノワちゃんのストーリーを聞くのが楽しみになりましたよ」女医はまた笑顔に崩れた。




 入院をしている妹のノワを抱えた二十歳の江巻にとって、先の見えない今後が不安でないといったら嘘だった。両親は、ノワが変わってしまったもっと以前に他界している。ノワの退院には、まだ時間が掛かるようだ。数年前のある日を境に突然変わってしまった妹のノワ。それこそ、ノワ自身の作り出したストーリーの中のUFOに連れ去られてしまった経験でもあったかの如くだ。『ノワによると』、そのUFOの中で見た地球滅亡のシーンが忘れられないと言う。しかし、UFOもその他の登場人物も全ては、単にノワという一人の女の子の頭に浮んだ妄想なのだ。つまり全てはノワのフィクションなのだ。
 ……しかしそれにしても、フィクションというのは、人の心のどんな場所からやってくるのだろうか? 手の込んだノワの物語を笠井から聞かされるたび、そんな事に思いを馳せずにはいられなかった。なぜなら、そのストーリーの中に、ノワの精神の復活のヒントが隠されているのだから。
「お・待・た・せ」
 繁華街の喫茶店の二階。トイレからようやく戻ってきた美由紀が目の前に腰を降ろした。バッチリ化粧直しをしてきている。江巻のためではない。彼女がこれから受けに行くバイトの面接の為だった。
 物思いにふけっていた江巻は、夢からさめたような気分で、そしてあわてて作り笑いを浮かべた。
「ちょっと、化粧濃いんでない? 別に水商売の面接に行くわけでもあるまいし」
 江巻はさめたコーヒーをぐいと飲んだ。
「そっかなー? 濃いかなー?」そう言って美由紀はコンパクトを取り出してのぞき込む。「バイトって、本屋だろ?」「そうよ。あ……ホントだ。ちょっと濃かったかもネ。だって、ここのトイレって照明暗いんだもーん」そう言って後悔している美由紀を見て、江巻はクスリと笑った。
「あ。ケーキセット頼んじゃおっかなア」「だってもう時間だろ、面接の」「かっ込めば間に合うって。あ。スイマセーン!」
 早くもウエイトレスを呼んでいた。江巻もついでに二杯目のコーヒーを注文する。
「……な。俺らの高校の学年に、『千草』ってやつ、居なかったよな?」
 しつこくコンパクトに見入っている美由紀に、江巻がポツリと投げかけた。
 美由紀と江巻は高校のクラスメートで、二人はその頃からつき合っている。大学生になった美由紀と、そして警備会社で働いている江巻は、今は境遇は違えども比較的仲良くやってきた。勝手そうな女の子に見えて、江巻が妹の事で苦しんできたのを実は一番理解して支えてくれている。
「千草……? 苗字は?」「……とお、やま。遠山千草」江巻は、いつぞや教えてくれた笠井医師の言葉を思い出しながらそう答えた。
「俺らの高校に、遠山千草なんてやつ、いなかったよな?」
「遠山……、千草。遠山千草。……女の子?」「女の子」「何よ、それ! まさか! アンタ、その女の子と!」「はあ!?」
 そこへ美由紀のケーキセットと、江巻の単品コーヒー登場。勝手に機嫌の悪くなりかけた美由紀の目が輝く。
「だから。居なかったよナ? そんな女の子。俺。真面目に聞いてるんだぜ」
「いない、いない。全然居ない! 地球のどこにも居ないよ。だから浮気心は出さないことよっ!」
 ケーキを頬張った美由紀がジロリと江巻をにらんだ。
「だから、違うっちゅーねん」江巻がつぶやいた。
「アンタなら有り得るっちゅーねん」何故か二人とも、にわか大阪人になっていた。

 
 ケーキセットを喉の奥に流し込んだ美由紀は、面接のために一足先に脱兎の如く喫茶店を出て行った。残された江巻は、自分の分の二杯目のコーヒーをゆっくり飲み終える。

『遠山千草? いない、いない。全然居ない! 地球のどこにも居ないよ』

 美由紀のセリフが頭の中で響いていた。
 確かに美由紀は正しい。
 振り返った自分の人生のどこの地点にも『遠山千草』という女の子はいなかった。すれ違ってさえいなかった。美由紀の言った通り、彼女は世界に存在さえしていないのだ。遠山千草という女の子は、ノワが作った箱庭の中の架空の物語で今もなお『生き続けている』架空の登場人物の一人にすぎないのだから。しかしたとえ架空でも、否、架空だからこそなのかもしれないけれど、笠井医師の言うとおり、ノワの中から出てくる物語がそして登場人物たちが、ノワの精神の復興の為に力を貸してくれると信じたい。
 それに……。
 遠山千草と藤がこれからどんな物語に突入していくのか、江巻は先を少しだけ知りたい気もしていた。しかしそれも、ノワの御機嫌次第という事か。

 しばらくして、喫茶店を出て階段を降り、よく晴れた真昼の歩道に出る。
 江巻は交通量の多い車道沿いを、駅に向かって歩き始めていた。周囲は排気ガスでむせ返っている。
 横断歩道に差し掛かり、足を止めた。周囲の歩行者も、同様に足を止める。
 信号は赤だったのだ。
 顔を上げ、ふと空を見る。
 青い、青い空だったのだ。
 雲一つ無かった。
 抜けていく様な神聖な思いに、ふと江巻の心が昇っていく。気持ちの良くなる空だったのだ。
 しかし。目を疑った……。
 なぜなら、次の瞬間。
 山なりに連なるビル群の向こうの、はるか上空。

 青ざめた空の中に突然と、『片目』が現れたのを、江巻は見たのだから。

 心臓が凍りつく。
 ビル群の空の奥に忽然と現れたその片目は、数秒の後には、空を覆いつくさんばかりの巨大さにみるみるうちに拡張して行った。 
 そして。その巨大な片目は涙に適度に濡れて、陽光を反射しところどころヌラヌラ光っている。
 白目の端に、絡まるように走る数本の血管。
 目の周囲をびっしりと縁取っている濃密なまつ毛。
 それを見た江巻は、びっくりする程の大量の汗が、背中から、わきの下から、ドッと噴き出した。
 ショックで尻餅をつきそうに後ずさりした背後で、サラリーマンらしき人にぶつかる。サラリーマンは不愉快そうに咳払いをして、数歩横に移動した。
……お、俺だけか? これを見ているのは?
 ようやく足場を踏ん張り、何の反応も示さない周囲を少し見回したあと、もう一度恐る恐る視線を空に戻した。
 黒目だけをキョロキョロとせわしなく動かして何かを探るようにしている『片目』は依然として、空一面を覆い尽くしている。
 やがて獲物を見つけたとばかりに、突然江巻にピタリと焦点を当てて、瞳の動きは止まった。
 瞳孔の中でたじろぐ江巻の哀れなその姿が、拡大された状態で、空の巨大な片目の中に浮かび上がる。
 横断歩道の信号が青に変わっているのにもかかわらず、尋常じゃない表情で上空をにらんで固まっている江巻を、不思議そうに見やるOL達の事も江巻は気づかなかった。たくさんの歩行者が、江巻にぶつかりながら背後から追い越していく。
 そして歩行者信号が赤に変わったとたん、待っていた車が一斉に動き出す。必要以上に怒号をあげるエンジン音。重なるクラクションはけたたましく、狂った様に昼をつんざく。
 その喧騒の大合唱で、江巻はハッと我に返った。
 そしてもう一度空を見上げた時……。
 江巻の疲労から来る単なる妄想は、跡形もなく消えていた。
                                                          (完)

 









                               


2005/01/26(Wed)11:49:17 公開 / 紗原桂嘉
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【管理人様へ】雑談版を読み、パスワードの件は、紆余曲折はあったものの現在状況としては、パスが合わない場合、単話投稿しかないという結論になっていると読み取りました。ので、申し訳ありませんが、(パスが合わなかったので)新規投稿という形を取らせて頂きました。
【お読み頂いた方へ】完結致しました。どうも有難うございました。

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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。