『「ツバサ」』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:笹井リョウ                

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 二人の幸せをかたちにできる場所があるならば、どんな場所へでも探しに行った。
 裸足でだって、探しに行った。




 「ツバサ」




 空が、近い。顔いっぱいに空を浴びる。
「昔さ、手を伸ばしたら空に届くもんだと思ってなかった?」
「思ってた」
 僕がそう答えると、ひかりはやっぱり、と言いながら、右手を大きく空へと伸ばした。そして、雲をつかむようにてのひらを動かしながら、「握力強化」と言って笑った。
 二月の終わりの空気はやっぱり少しつめたくて、僕らは色ちがいのマフラーを巻いていた。白いタイルに直接てのひらを置くには少しつめたくて、僕のからだには大きめのセーターをてのひらにかぶせた。これでもう、つめたくない。僕らは、足をまっすぐに伸ばして、てのひらでからだを支えるようにして並んで座った。からだに、空をいっぱい浴びた。
「あと、雲には乗れるもんだとばかり」
「思ってた、あたしも思ってた」
 ひかりのからりとした笑い声は、風の中に編み込まれて消えていく。二月の風は、冬の名残と春の予感を含んで、雪と桜の色をしていた。
「だってハイジがぶらんこから飛び移るんだもん。誰だって雲が水の小さなつぶだなんて思わないよね」
 薄く、宇宙の色をした空に、雲がほっこりと浮かんでいる。一枚の絵画を見ているような気分に陥る。絵画と違うことは、雲が少しずつやわらかにかたちを変えていくこと。地球は確かに自転していて、僕達は今、めまぐるしく動いている。雲が流れていくんじゃない。僕達が動いている。変わらないのは、僕とひかりの距離。
「そういえば、ハイジのぶらんこの速度って知ってる?」
 僕はマフラーを巻きなおした。
「なにそれ。知らない」
 ひかりは、右手に握っていた午後の紅茶をひとくち、飲んだ。
「ハイジのぶらんこってすごい長いじゃん」
「うん」
「そんで、けっこう一往復するのに時間だってかかってんでしょ」
「うん」
「そういうのを全部含めて計算すると、あのぶらんこ、時速七二キロなんだって」
 ひかりが勢い良く午後の紅茶をタイルに置くと、「まじで?」と叫んだ。缶とタイルのコン、という音が、空に反響してよく響いた。
「あれってそんなに速いの? うけるって」
「うけるだろ。そういう面白いことをたくさん検証した本があるんだよ」
「えー、他には?」
「名探偵コナンとかウルトラマンとか、…覚えてねぇ。空想科学読本ってやつだから、今度読んでみなよ」
 さらりと放った僕の言葉が、雪と桜の風に吹かれて崩れていく。ぽろぽろと、声がかけらになって、落ちていく。
「今度、か…あたしたちの引っ越す先に、本屋はあるのかな」
 ひかりは寒さに少し赤くなってしまったひざを抱えて、三角座りの姿勢をとった。ぽかん、と開かれた口の中に、僕はいちごミルク味のキャンディを放りこんだ。甘すぎてのどがかわいてくる、薄いピンクをしたいちごミルクキャンディ。ひかりの好物。
「甘い。おいし」
 ひかりは笑う。
 小鳥の速さについていけなかった飛行機が、のったりと雲を割って進んでいくのが見える。僕は手を振る。向こうには届かないとわかっていたけれど、僕は飛行機が頭上を通りすぎるまで小さく手を振りつづけた。「なにやってんの」キャンディを口に含んでいるからか、少しもごもごした口調でひかりが言った。ひかりは、キャンディを最後まで噛まない。以前なぜかと訊いたとき、味を最後まで楽しみたいと答えていたけれど、きっとキャンディを噛み砕くようなかわいそうなことをしたくないんだろうな、と僕は思った。
「むひしないでよぉ」
「ムヒ。かゆみでもおさえたいんですか」
「ばかっ」
 ひかりが、僕の肩をばしり、と叩いた。女の子、って感じの力だった。
「飛行機に手なんか振っちゃって。いい歳してかわいいんだから」
「…いや、さぁ」
 僕はいった。
「空の上からは、地上の世界は見えるのに、地上からは、空の上の世界は見えないんだなぁって」
 ひかりの、もごもごとしたじれったい口の動きが止まった。
「神様はひかりのこと見えてるよ。だけどひかりは見えないでしょ」
 僕が、視線を空から反らさないままにそういうと、隣から、ごり、という音が聞こえた。ひかりがキャンディを噛み砕いた音だ。僕は、あ、と思った。
「ごはん、食べよ」
 ひかりは、口の中の甘ったるい味を洗うように、午後の紅茶を口に含むと、そういった。午後の紅茶なんて飲んだら、もっと口の中が甘くなりそうだな、と僕は思ったが、口には出さなかった。
 ここに来る前に、ふたりで寄ったコンビニ。冬がはじまってすぐに、テレビの街頭アンケートでで「一番おでんがおいしいコンビニ」に選ばれていたローソン。寒いから、といって手を繋ごうとした僕。え、と、つぶやいたっきり顔をあからめてマフラーの中に鼻までうずくまった君。
「ひかりは何買ったんだっけ」
 まっすぐに伸ばしていた足をたたんであぐらをかくと、僕は訊いた。
「あたしはね、シーチキンマヨネーズと」
「はいきたーシーチキンマヨネーズ。子供舌の象徴ともいえる選択」
「なによー、好きなんだからいいんじゃん。あと牛肉しぐれとサラダとちょこっとごほうびで棒型チーズケーキ」
 ひかりは、そういいながら棒型チーズケーキを頬の横に持ってきた。あれは僕も食べたことがある。百円という安さに買ってみたのだが、まずそのパッケージをなかなかうまく開くことが出来ない。僕の嫌いなタイプだ。
「そっちはー?」
 コンビニの袋をまだがさがさとしながら、ひかりがいう。「あったー」やがて取り出したものは、ペットボトルのお茶。伊衛門。
「なあ」
「そっちは何買ったのー?」
「なあ」
 ひかりがこっちを向いた。
「そんなものばっかり食べて大丈夫なのか、だって」
 僕はそこまでいって言葉をなくした。
「…だいじょうぶ」
 ひかりは微笑んだ。今にも消えてしまいそうな、粉雪のようにはかない微笑みだった。
「だいじょうぶよ。この子は元気」
 ひかりは愛しそうに目を細めながら、お腹をやんわりとさすった。ひかりは、母親の目をしていた。
「今日だけは、好きなものを食べさせてよね」
 僕は目を閉じた。ごめん、ひかり。
「…明日からは、がまんするよ」
 ごめん、ひかり。
 僕は目を開けることができなかった。



 ◆



 僕らは紅葉と雪のあいだをふらふらとさまよいながら、毎日のように愛し合った。
 部屋の中は僕らのにおいでいっぱいだった。僕らはいつも夜中に愛し合っては、窓を開けて寒さに凍えながら布団にくるまった。「窓開けても、におい、消えないね」「うん」「こんなに寒いの我慢してるのに」「大丈夫、おれが毎日自分を慰めてるってことにしとけば」「…ばか」
 ひかりの妊娠が明らかになったのは、秋が終わりを告げようとしていた十一月の終わりであった。
 ひかりは笑っていた。ひかりの顔半分が、紅い夕陽に照らされて溶けて行きそうだった。
「あたし、妊娠しちゃったみたい」
 ひかりは笑っていなかった。
「…どうしよう」
「ひかり」
「ねぇどうしよう、なんでこんなこと…前からもしかしたらって思ってたの。なんだか気分は悪いし吐いちゃうし…でもまさか本当に妊娠なんてしてるって思わなくって…ごめんなさい、ごめんなさい」
「ひかり落ちつけ」
「無理だよ、無理だよやっぱりあたしたち。そんなこと前からわかってたのに…なのになんで、あたしは好きなのに、なのに、なんでそんな…妊娠なんてありえないよ、どうするのよ、ねぇ、おろすしかないよね、殺すしかないよね」
「ひかり!」
 僕はひかりの肩を掴んだ。これ以上力を込めると、ひかりの肩の骨はぽろぽろと崩れてしまいそうだった。ひかりの肩はこんなに華奢で細いものだったのか。がたがたと震える肩と僕のてのひらが、窓から差し込む夕陽に照らされていた。部屋をたゆたう埃が見える。ひかりの小さなてのひらが、ひかりの顔を覆う。
「ごめん…おれのせいだ」
 ひかりは、ふるふると顔を横に振った。指と指のすきまから、涙のつぶがぱらり、と散った。
「違う…違う、違う違う、違う違う違う」
 ひかりは壊れたように違うと言いつづけた。窓の開け放たれた部屋に、ひかりの「違う」という高く震えた声だけが響く。僕は、いつもひかりと重なっているこの部屋がこんなにも広いということに今気がついた。風に揺れるカーテン。紅葉と汗と精液と涙のにおいを運び、入り乱れ、部屋の中をマーブル色に焦がす。
「違うよ、あたしのせい…」
 涙で濡れた声は、ひどく聞き取りにくい。
「もうやめよう」
 だけどそれ以上に、感情がそのまま伝わってくる。
「あたしたちおかしいもん…やっぱり。こんなんじゃ絶対幸せになんかなれないよ。この子だって、手遅れにならないうちにおろすから。お金は自分で用意する。こう見えてもけっこう貯金ためてんのよ」
 ひかりはそういいながら涙を拭った。だけどそこには、拭いきれていない感情があった。
「お互いに、誰にも言わないことね。約束。あたしたちの最後の約束。これで全部終わりにしよう。忘れよう」
 ひかりはそういうと、いつものように笑った。にっこりと白い歯を見せて、笑った。真っ白な歯は、光が当たって少しだけオレンジ色に滲んで見えた。涙で赤くなった部分のうえにある瞳が、やわらかく三日月型に曲がる。僕の姿が瞳に映ることを拒むように、細く、細く、愛しく。
 ひかりは僕に背を向けた。
「シーツ今日も洗濯しなくちゃね。だいじょうぶ、気付かれない時間帯にあたしがやっとくから。こうやってこそこそ隠れて、寒い寒いっていいながら洗濯するのも今日が最後だね。よかった、もうちょっとでアカギレになっちゃいそうだったんだ」
 ひかりはシーツをたたんでいる。
「ごめんね、いつもあたしが乾かすの遅いから、シーツ、毎日冷たいよね。今日は早めに乾かすからさ。でもドライヤー使うと音うるさいしばれそうになるんだよね、なんちゃって」
 ひかりの肩は、まだ震えていた。
「ひかり」
「ダメ」
「ひかり」
「ダメだって…今は来ないで」
 僕はひかりの肩に手を置いた。さっき感じたひかりの肩の震え。僕のてのひらの震え。
「ひかり」
 てのひらに力を込める。僕は泣いていた。ひかりも泣いていた。
「幸せになろう」
「…むりだよ…」
「なれるよ、幸せになろう。おれたちが幸せになれる世界はあるよ」
「ないよそんなの。一体どこにそんな世界があるっていうの? 絶対むりだよ…」
「あるよ。絶対に」
 ひかりが僕の手を振り払った。
「ない! ないないないないない! そんなの絶対ない! あたしは前からこんな関係やめなくちゃって思ってた! なんで好きになっちゃったんだろうって、なんで世界にいっぱいいる男の中で、なんでこの人を好きになっちゃったんだろうって、ずっと思ってた、でもだめだった、だって好きなんだもん、どうしようもないよ、あたしたち…! あたしたちが幸せになれるなんてありえない、あたしはずっとそれから目を反らしてきたのに…あたしたちが幸せになれる世界なんて」
「ある!」
 僕はひかりの肩を掴んだ。
「ないならつくればいい! おれたちでそんな世界をつくればいい!」
 ひかりは、瞳がぽろりと落ちてしまいそうになるほどに目を見開いた。何かを言いたそうにのどを鳴らしたけれど、ひかりは言葉を飲みこんだ。無音の部屋の中で、僕らの息遣いだけが聞こえてきた。五感を失ったような沈黙のあとで、ひかりは言った。
「好き…?」
 ひかりの手の中で、くしゃくしゃになったしまった白いシーツ。
「あたしのこと、好きなの…?」
 涙で洗われた僕らのシーツ。
「好きだよ」



 ◆



「あ、起きた」
 僕が目を開けると、そこにはうっすらと橙を含んだ空と、空を同じ目の色をしたひかりがいた。
「おれ、寝てた?」
「寝てた寝てた。めちゃくちゃ寝てたよ」
「うそ。いつから」
「ごはん食べてちょっとしてから」
 さっきまで飽きるほど見ていた空は形を変え、風は手触りを変えていた。こぼれそうなくらいにふくらんでいた雲はほとんどなくなっており、さっきまでうっすらと聞こえていた雲の摩擦はもう聞こえなくなっていた。
「起こさなかったの」
「うん。だってなんだかすごく気持ちよさそうだったからさ。起こさないほうがいいかなと思って」
 ひかりはそう答えたあと、いたずらっぽく笑って、
「あ、もしかして起こしてほしかったの? あたしといる時間を少しでも長く感じたいから?」
 といいながら棒型チーズケーキのパッケージを開け始めた。僕がかなり苦戦したパッケージを、ひかりの細くて繊細な指で流れるようにほどいていく。
「なに、まだそれ食べてなかったのか」
「うん」
 ああ、やっぱり開かなかったようだ。ひかりはパッケージの先を口でくわえては、思いきり噛み千切ろうとしている。
「半分こして、いっしょに食べようと思って」
 ぶちり。パッケージのナイロンを噛み千切った反動で、ひかりの頭がぐわりと動いた。僕はその姿を見て、声を出さずに笑った。
 チーズケーキを半分に折ると、その割れ目からぽろぽろとかけらが落ちる。屋上の白いタイルは、橙の光を浴びて果汁の少ないオレンジジュースのような色になっている。ジュースがゆらめくように、タイルが透き通って見える。てのひらをついたら、空に手をかざすように、うっすらと色がうつってしまいそうな気がする。
「また飛行機だ」
 ひかりが、空を指差した。その指が、うっすらと橙に染まる。
「これ、くどい。口ん中がチーズだらけ」
「今日、飛行機がよく飛んでるんだよね。これで何機目だろ」
 僕の言葉を素通りして、ひかりは続ける。
「なーんであんなのが飛べるんだろうね。鉄の塊」
「現代文明の賜物」
「飛行機だけじゃなくて、鳥とかも不思議。鳥だって重さのある固体なのに、なんであんなにぱたぱた飛べるんだろ」
 ひかりは、親指についたチーズケーキを舐め取った。
「翼があるからだろ」
「翼、ねぇ…」
 僕の答えに、ひかりは不満そうにもう一口チーズケーキを食べた。
「なに、翼があるからに決まってんじゃん」
「いや、翼があっても飛ぶ気がないなら同じだなぁって思っただけ」
「いってることの意味がわかんないよ」
 僕は笑った。
「あたし思うの。小さな小鳥とかって、飛べないから飛ばないんじゃなくって、翼があっても飛ぶ勇気がないから飛ばないだけなんだって。だから、勇気がないなら、翼がないのと同じだなって」
 ひかりは笑った。
「ならあたしたちは、勇気があるってことだよね」
 僕らは笑った。
「…夢、見たんだ」
「何の話?」
 ひかりは口の両端を丁寧に拭いた。
「さっき、寝てただろ、おれ。そんとき、夢見てたんだ」
「どんなー?」
 ひかりはまた、細い足をたたんで三角座りをした。ひざは、完全に赤くなってしまっていた。
「…いわない。幸せな夢」
 僕は笑った。
「あたしたちがこれから引っ越すところは、幸せな世界なのかな」
 ひかりは、空を見たままそういった。誰にともなく、なににともなく放ったつぶやきだった。僕はそれを拾いあげる。
「幸せなところだよ」
「この子をちゃんと産ませてくれる、腕のいい産婦人科の先生はいる?」
「いるよ」
「そっか。ならいいや」
「いいんだ」
「…あっ、空想科学読本の売ってる本屋はある?」
「あるよ」
「そっか。ならいいや」
「うん」
 僕らは昔、空は掴めるものだと信じていた。雲には乗れるものだと信じていた。雲の上でぽふぽふ飛ぶことを夢見ていた。虹は渡れるものだと思っていた。ハイジのぶらんこはゆったりしているものだと思っていた。人間は愛し合ったら必ず幸せになれると思っていた。子供を授かれば幸せな家庭が築けるものだと思っていた。
 空は橙。食べ終えたごはん。
「ひかり」
 兄は妹の名を呼んだ。
「ひかる」
 妹は兄の名を呼んだ。
 僕らは手を繋いだまま、屋上の柵を越えた。


 僕らには翼などない。
 だけど、飛ぶ勇気ならある。





2005/01/22(Sat)22:34:14 公開 / 笹井リョウ
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■作者からのメッセージ
このふたり結ばれないんだってわかってて書いてると、こんなに悲しいんだ。

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