『無題―手記―』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:ゅぇ                

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 冬が来ると、私はいつでも思い出します。


 1995年1月17日、火曜日。
 ものすごい轟音とともに、自分の身体が不思議なほどぐいぐいと突き上げられるのが分かりました。生まれて初めて、死ぬかと思ったのが、あの日です。ああいうとき、人間は動くことができないのですね。
 電気の傘が、本棚が、システム机が、まるで超常現象のように自分に向かって飛んでくる。そんな光景を、体験したことはありますか?
 逃げなくてはならない、と思うのです。あれが頭にぶつかったら、きっと死ぬに違いない。逃げなくてはならない、と思うのです。思うのに、身体は動きませんでした。自分に向かって飛んでくる物体が怖ろしかった、というと語弊があると今は思います。あのとき、何かもっと別のものが怖ろしかった。ああ、私が今何をしても、この大地の揺れは止められないのだと思ったときのあの恐怖感。何かこう、月並みな言い方になりますが、自然の持つ怖ろしさをぶつけられた感じがしたように、覚えています。
 あのもの凄い激震のなかで、最初は声が出ませんでした。私は時折金縛りにあう体質なのですが、そう。その金縛りに遭ったときのように声が出せませんでした。身体中が強張って、指先すら微動だにしなかったのです。

 ―お母さん、死ぬ!!!

 必死で助けを呼ぼうとして、絞り出した声。一度声を出すことが出来てしまうと、あとは驚くほど大きな声が出ました。悲鳴をあげたのです。
 隣の寝室で両親が眠っていたのですが、もちろんこの大地震に目を覚ましていました。母親は、私のことをひどく心配して叫んでいました。
 ですが、それほどに心配していたのに。必死でこちらへ来ようとしているのが気配でわかるのに、あまりの揺れにそれが不可能なのです。
 飲み会なんかで、友達に悪戯をしようとして缶ビールを思いきり振る。あのときのビールの気持ちはこんなものなのかと、後から思いました。
 状況的には、そのビールと同じことでした。こうして後から思い出して語ってみると、振り回される缶ビールに例えるのはひどく滑稽なことですが、それでも確かに状況はそれとよく似ていたと思います。

 ―嫌や、助けてぇ!!!

 地面から、身体に直接不気味に響いてくる轟音。私の家は、団地の8階でした。高かったので、おそらく実際の震度よりもひどく揺れたように感じました。大学3年生だった私。20歳になって、大人になったと思っていたのが、それで崩れていったように思いました。だって、悲鳴となって出てきたのが助けて、という情けない言葉だったのですから。

 揺れていた時間はとても短かったと思いますが、当然のごとくそれはとても長い時間に感じられました。地震だと分かっていましたが、それが関西一帯を襲った大惨事だということにはまだ気付いていませんでした。
 これは私の家だけを襲った震災だ、そんな不思議な錯覚があったように思います。それが間違いであると、身をもって実感したのは夜が明けてからです。ラジオだけをもって、私は夜明けまで両親の部屋で横になりました。
 私も、母も、父も、生きていました。ですから、揺れがおさまってしまうと、それがどんなに大変なことなのかにまるで気付かなかったのです。
 
 ―すごかったね。何、今の。
 ―怖かった……ありえへん。
 ―ああ、びっくりした。
 
 そう言いあって、私たち家族は怖ろしいほど呑気にかまえていました。
 夜が明けて、その日は曇りだったような気がします。まず、ベランダに出て外を見たとき、私たちは絶句しました。道路はあちこちでぱっくりと割れ、陥没し、電柱が傾いていました。前述したとおり、私の家は団地ですから周りにつぶれた家は見当たりません。が、それでも事の大きさを知るには十分でした。隣にある中学校のグラウンドは、大きく地割れしています。
 夢を、見ているようでした。あれほどの轟音とともに激震が襲ったのが嘘のように、辺りはしん、としていました。とても静かでした。
 それがとても印象的です。みんな、何をしているんだろうと思いました。
 2階の寝室からリビングに下りてみると、そこは戦場のようでした。テレビは向きをすっかり変え、食器棚の食器は転がりおちていました。すべてのものが、位置を変えていました。その日、大学はもちろん休講になりました。
 学校嫌いの私が、喜んだのは言うまでもありません。
 部屋の片付けをある程度済ませてから、私たちはありあわせのもので朝食を摂りながら、テレビをつけました。停電していたのは、地震が起きてからの数時間だけで、私たちがテレビをつけたころには停電から回復していたようです。
 テレビは、きちんと映りました。どの局も、地震のニュースを流していました。当然のことです。決して破損しないと言われていた高速道路が、見事にひっくり返っていたのです。大きなマンションが、傾いているのです。
 神戸市のそこらほうぼうで、火事が起こっているのが映しだされました。
 電話は、通じません。携帯も、通じませんでした。私たちは、テレホンカードをもって家近くの公衆電話に走りました。行列が出来ていました。
 父方の祖父母は無事だったようです。しかし、母方の祖父母はちょうど断層の近くに住んでいました。その日遅くに、母方の祖父母から電話がありました。彼らの住むマンションは、崩れたということです。
 もともと古いマンションでした。小さい頃、そこを訪ねるのが怖かったくらいですから。もう、鉄骨しか残っていないと祖母は言っていました。
 家がなくなって悲しい、というふうではありませんでした。あんなにも大きな地震を経験して、彼女は少し興奮状態に陥っていたのでしょう。
 戦争よりも怖かった、といいました。今でも地震の話をすると、祖母はそう言います。焼夷弾が落ちてくるのよりも、怖かったと。
 私は戦争を経験したことがないので分かりませんが、祖母が言うなら本当にそうなのかもしれません。身寄りは、皆無事でした。
 父親が、自転車で祖父母の避難所までおにぎりを運んでいきました。
 私と母親は、危ないということで家にいましたが、帰ってきた父親の話によると、それはひどい有様だと。いつも冷静で、何かに動じることのない父親が興奮していました。すべてが今、異常なのだと私は思いました。
 水もガスも使えませんでした。とりあえずトイレットペーパーと紙コップや紙皿、それから食パンか何かを父親が並んで購入してきました。
 トイレが流れない、というのはとても厭なことです。
 女性の方には分かるでしょう。水の節約、ということで何人かが用を足すまで流すのを控えるのです。いくら男は父親しかいないとはいえ、何だか厭な思いでした。温かい白いごはんは、それから数日間の間は口にできませんでした。毎日毎日、学校にもバイトにも行かず、私たちは地震の後片付けと給水車に並ぶので大忙しでした。大きな余震は、そこまで多くなかったと思います。が、ニュースを見ている最中に震度4の余震もありました。

 私は、だから忘れていたのです。言い訳かもしれませんが、親友の存在を実はすっかり忘れていました。地震が起きた日から、数えて2日目。
 ああ、連絡せねば、と私は携帯を手にしました。今のようにメール機能がついている携帯ではありません。ポケベルの全盛期でした。
 携帯を諦めて、ようやく使えるようになった家の固定電話に頼りました。親友は男で、バイト先の同僚でした。電話をかけると、彼のお姉さんが電話に出ました。私が彼の名を口にすると、彼女は少し言葉に詰まったようです。
 けれどその時、私はそれをまるで変だとは思いませんでした。なぜだか、分かりません。彼は、死んでいました。地震の前日、神戸の友達の家に行っていたそうです。そういえば、地震の前日夜。バイトを終えたときに言っていたのを思い出しました。友達の家に飲みに行ってくる、と。
 どんなに大きな惨事があっても、私自身の知り合いが死ぬなんて、そんなことはないと頭のどこかで思い込んでいたようです。でも、私は落ち着いていました。認めていました。ああ、お葬式に出なければ、と思いました。

 葬式以外で、私は彼の死を実感することはできませんでした。
 どこかに、彼がいるような気がします。そう、今でも。どこか、遠く海外へ留学にでも行ってしまったのではないか。そう思ったほうが、受け入れやすかったのです。彼がいない、という現実を。

 彼と私が知り合ったのは、18の春でした。大学1年の春です。私たちは塾講師としてのバイトを、始めたばかりでした。彼は大人びていて、背も高くて、おしゃれで。スーツもよく似合っていました。
 初対面のときに、私は彼を27歳くらいではないかと思っていたのです。まさか同い年だったとは、と仲良くなってから何度も笑いあいました。
 私たちは恋人同士として付き合っていませんでしたが、おそらく傍目には付き合っているとしか見えないほど仲が良かったと思います。
 バイト先の生徒にも、他の講師仲間にも誤解されましたが、私たちはあくまで仲の良い親友でした。私の両親は、彼のことだけはひどく信用していました。彼はよく、私の家に泊まりに来ては、あろうことが同じベッドで寝てゆきました。何も、ありません。ただ取っ組みあってみたり、一緒に寝転がって漫画を読んだり、音楽を聴いたり。まるで幼馴染みか、兄妹みたいな感覚でした。少し、常識外れですね。ずっとそのままでいられる、とは思ってはいませんでした。もちろん。きっとお互い恋人ができたり、結婚したりしたら、もうこんなふうには会えないんだろうなとは思っていました。
 二人でよく、学校を休んで昼ごはんを食べに行きました。学校へ行ったふりをして、二人でお決まりのマクドナルドへ行って、学校のことやバイトのことや、恋の話をしたのです。
 何時間話しても、私たちは飽きませんでした。性格も価値観も違いましたが、なぜか不思議と付かず離れずの状態でいることができたのです。
 彼は、自分のことを何でも私に話していました。彼が誰にいつ告白されたか、女遊びの激しい彼でしたが実は本当は誰を好きなのか、彼は何でも私に話しました。一週間会わなければ、私は彼の一週間を逐一聞く羽目になるのです。あの日はこうした、この日はこうだった……いろんな話をしました。
 大切な友達でした。私は、うっすらと恋心を抱いてはいましたが、決してそれを告白しようという気はありませんでした。
 彼と恋人同士として並んで歩くことなんて、想像もできませんでしたし。
 それに、この関係が一番心地よいことを本能が知っていました。

 映画を観に行きました。
 カラオケに行きました。
 大学に迎えに来てもらったことも、たくさんありました。
 彼の大学に、連れて行かれたこともありました。
 同じ歌手が好きで、一緒にCDを借りに行きました。
 バイト先でも、いつも一緒に喋っていました。
 就職活動の話も、しました。
 将来の話もしました。
 それから……お互いが結婚したらっていう話もしました。
 私たちが、同性同士だったらずっと一緒だったのにね、と。
 男と女に生まれてきて、少しさびしいねと。
 少ししんみりしたあとに、言いました。
 ―それでもやっぱり、俺たちはずっと仲良くいられるやろ。
  俺はいつまでたってもおまえに会いに行くし、おまえも来るやろ。
  こうやって言うのは何やけど、大事な存在やからな。
 そう言いました。私たちは、本当にお互いを想いあう親友でした。



 彼は、しかしいなくなりました。死ぬ、ということはそういうことです。
 つい先日までいた者が、いなくなる。消えてしまう。それが死です。私は思い知りました。これから先、彼と向かい合って話し合うことはできなくなるのだ、と。私たちは、一緒に映画に行くこともカラオケに行くことも、それからどこに就職するのかということも、学校の単位の話をすることもなくなったのです。まだ、話したいことはたくさんありました。
 私たちには、まだまだ未来があったはずなのです。今までと変わらない、私たちには時間があったはずなのです。きっと、いつかこうして就職先の愚痴なんか言ってるんやろうね、と。そう言いあっていた矢先だったのです。
 誰にも涙は見せませんでした。けれど、夜一人で眠りにつこうとすると嫌でも彼の死を見つめざるを得ませんでした。今まで、暇だったときには電話をしていたのに。

 明日、一緒に学校へ行こう。
 火曜日、映画観に行こう。
 レポート書いてよ、お願い。
 暇やから、相手して。
 あの新しいアルバム、聴く?

 そんな会話が、もう出来なくなったのです。
 私が彼のいる場所へ行かない限り、私たちは同じ空間を共有することができなくなりました。……終わったのです。彼は、死んだのです。



 冬が来ると、私はいつでも思い出します。
 彼と撮った写真が、机の中にしまってあります。あれから10年。
 たくさんのことがありました。
 誘拐、殺人、通り魔。
 地下鉄サリン事件に、9.11テロ。イラク戦争。宗教紛争。どれもこれも、命が無造作に奪われていくことばかりでした。きっとこれからも、それは変わらないのでしょうね。ですが、私はあの日知ったのです。
 大切な人が、傍から消えるという怖ろしさを。死ぬということが、どういうことなのかを。涙も出ないほどの虚無感を。命が、どれほど儚く、重いものであるかを。ですから私は、不思議に思います。人間が、何故ああして命を簡単に奪ってしまえるのかということ。私は、大事にしたいと思います。


 ―私は大事に生きていきたいと思います。
  未来は、約束されたものではありませんから―

 冬が来ると、私はいつでも思い出します。
 彼と過ごした、あの明るく美しい日々を。

2004/12/31(Fri)16:59:53 公開 / ゅぇ
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■作者からのメッセージ
阪神大震災を書いたものです。これのベースになったのは、ちょうどあたしが阪神大震災に遭った直後に書いた詩です(笑)あのとき私は小学生で、学校が再開されたときの給食はケーキとかポールウィンナーとかでしたね。懐かしいですが、しんどかったなぁ……。震度7、とニュースで言っていましたが、たぶんそれ以上あったんではないかと。この頃津波やら地震やら殺人事件やら、殺伐としたニュースが踊っていますが、どうか来年は平和に過ごしたいです。まあ、無理なんでしょうけどね(汗
あ、ちなみにこれも、読みきりです。3作品を平行して書いていると、疲れるんですよね、意外と(笑)

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