『Lost Aticle 〜君を恋した夏〜 第一話〜五話』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:アリス                

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「じゃあな」


 何回も聞いたことのある言葉。今までだって普通に交わしてきたたった一言。周りのうるさい街の音が耳に入らなくなって、何度も何度もその一言が頭をこだましていた。
 少女は、ぎゅっと手に持っていたバッグを抱きしめた。

 少年は、その一言をかみ締め、振り向きたい気持ちを殺して人ごみに消えていった。暑い夏とは裏腹に、冷えきった心を慰めるかのように、一粒の涙が頬を伝った。


 少女は鳴り止まない旋律をピアノで奏でた。


 春のなごりが少しだけ残った、初夏の風の中。
少年少女は大切な心をその場所に置いて歩き出した。





 第一話 「ただの幼馴染み」
 
 ガラ…ガラ…ガラ…
「おはよーございます……」
「お? おはよう、早乙女。遅刻多いんだから気をつけろよ」
 黒板に向かっている先生がわざと大きい声で注意した。目立たないようにと、教室のドアをゆっくり開けたつもりのこの少女。流行りの感じの栗色に光る髪。白いワイシャツに赤いリボンをゆるめにつけ、スラっとの伸びた足がチェックのスカートからのぞく。
 早乙女 郁海 高校一年。
 ふてくされたような苦笑いを見せると、背負ったサブバッグを置きもしないでそのまま自分の席についた。やる気ゼロになった郁海に「おはよ」と、茶目っ気たっぷりに口パクした斜め後ろのこの男。
 空野 京太 高校一年。
だらしなくずり下がったズボンと、薄い体によく似合ったワイシャツ。同じく赤のネクタイをゆるくしめ、明るめの色の髪がサラサラ揺れた。郁海を見て、キリっと整った顔立ちが人懐っこい笑顔に変わった。郁海と京太はお隣さん同士。親同士も仲がよく、いわゆる幼馴染みなのだ。
「ねー京太、すっごい清々しいみたいだけどいくのチャリンコ乗ってったでしょ」
「あれはねーもともと俺のなのよ? おわかり? 」
「でもいくにあげるってゆったもん」
 一斉に皆が、大声を出した郁海の方を振り返る。郁海は引きつった笑顔を見せ、頭をかきながらぺコっとお辞儀した。
「授業中にはしゃぐなよ。早乙女」
 黒板にむいたまま先生の一言が皆を笑わせた。
「郁海いいねー」とひやかされただひたすら苦笑い。
「早乙女さん、授業中はお静かにね」
ちゃかす京太。
「……もういいよ」プィっと窓の方をむき、頬杖つく郁海。二人の会話はなくなり、京太の笑顔が消えていく。
ぽん、と肩を叩かれ郁海が後ろを振り向くと「……回ってきた」少し言いにくそうに、京太の隣の田中さんが手紙のような紙切れを渡してきた。あたし? と自分を指差しながら不思議そうに受け取った。
「…………」
 二つ折りの紙切れを開くと、ぶっきらぼうな字で「帰り、アイスおごる」と書かれている。郁海は思わずプッと吹き出すと、明らかに斜め後ろからの視線を感じる。口に手をあて、コホン、と背筋を伸ばし振り向くと京太はあわててノートを写し出した。
「これ京ちゃんが書いたの?」
 わざと聞いてみる。
「授業中はお静かにね、早乙女さん。」
 照れ隠しがバレバレで郁海はまた窓の方をむき、今度は満面の笑顔をうかべ、両手で頬杖をつきニヤニヤしていた。



「空野君待ってるの? 」
「すず。そうなのよ、部活だって。すずは? 」
 放課後、図書室でサッカー部の京太を待っている郁海に、中学時代から一緒のすずが入って来て、話しかけた。彼女は郁海と大の親友なのだ。
「あたしは本返しにきたんだ」
 そういいながら、本を見せるすず。
「今日一緒に帰れなくてごめんね、アイツがいくのチャリンコ乗ってきちゃったからさ……。」
 申し訳なさそうに両手を顔の前で合わし、目をギュっとつむった郁海。普段お互い予定がなければ、すずと下校している郁海だが、京太が寝坊して朝練に間に合わず、郁海の自電車(元は京太の)を乗って行ってしまったときはこうなる。
「大丈夫だよ、気にしないで」
 ニコっと優しくすずが笑った。それにつられ、郁海も笑顔を見せる。
「郁海さぁ……」
「うん」
「空野くんと付き合ったりしないの? 」
 すずが質問すると大きな声で笑って返事をした。
「あはは、付き合ってないよ。どうしたの、いきなり」
「ううん、だってすごく仲いいじゃん」
 隣に座っているすずに爽やかに聞かれ、今度は少し驚きながら当たり前のようにいう。
「だって京太とは幼なじみだもん。そうゆう感情はないかなー……」
「そう?郁海誰かに嫌がらせとかされない?」
 少し真剣な顔になり、郁海をのぞき込むようにして言った。それに対しきょとんとする郁海。
「何で?されてないけど…」
「空野くん、女子に結構人気あるみたいだからさ、ちょっと気になったんだ。ほら、高校入って、あんたたちが幼なじみだって知ってる人少なくなったでしょ」
「やーだ、すず、心配してくれたの。ありがとう、大丈夫だよ」
「ならいいけど、なんかあったらすぐ聞くからね。」
「うん」
 少し照れくさそうにすずの優しさを実感した郁海。二人は確かめるように笑顔を浮かべた。
「あ、サッカー部終わったみたい。いく、行くね」
「うん、あたしはまだ借りたい本とかあるから。ばいばい」
「ばいばい」
 立ち上がって、顔をくしゃっとさせて小さく手を振ると図書室を出て行った。すずはその後姿を暖かく見守っていた。



「失敗したー」
 公園のブランコに並んで座っている二人。約束のアイスを食べている郁海だが、新作のアイスがおいしくなかったのか、目をぎゅーっとつむり、舌をべーっと出す。「まずいー」と京太を見る。
「食べてみる? 」
 腕を伸ばし差し出した。
「お前なー、どうせ残り全部食わせるつもりだろ」
 見透かしている。
「だめ? 」
「はいはい、お姫様。分かりましたよ」
 そう言うと京太はふてくされながらも手を伸ばした。
「はい」
 郁海は渡すと、ブランコからぴょんと軽やかに立って、少し離れたジャングルジムにしがみつきよじ登った。「おーい」てっぺんから大きく手を振る郁海に京太はあっかんべをした。
「アイスまずいー」
 ブランコの上にしゃがみ込んだ京太は、口に手を当て苦い顔をして叫んだ。
「ね、まずいでしょぉ! 」
 両手で口を抑えて郁海が叫んだ。そのとき、バランスを崩し、郁海が落ちかけた。
「きゃっ」
「郁海! 」
 目を丸くして驚く京太。
 運よく棒にしがみつき、バランスを取り直した。
「ごめーん」
 へへっと舌を出し笑う郁海に冷や汗までかいた京太。頭をガクっとさせ「はあ……」と安心する。それが郁海には怒ったように見えた。
「京太ーごーめーーんねーーー」
 思いっきり叫ぶ郁海。不安そうに首をかしげる姿に京太は愛おしさを感じた。
「……許さない」
 京太はジャングルジムにかけよった。
「ごめーん、許して」
「怒った……? 」
「めちゃくちゃ」
「ごめんなさい……」
「……嘘」
 ニカっとイタズラっぽく笑った京太を見て、郁海も一緒に笑う。
「かえろ」
 そういうと京太は長い手をジャングルジムのてっぺんにいる郁海に差し伸べた。それに答え両手を伸ばし、京太の腕にしがみついてジャンプする郁海。はたから見れば幸せそうなカップルなのだろうが、本人たちにはお互いが幼なじみとしか見えていないのだろう。少なくとも郁海は確実に。
そんな二人の様子を公園の反対側の道路沿いから、怪訝な顔をしながら見ている少女がいた……。





 第二話 「キモチ」


 翌日、その少女、亜由美は一時間目が終わって友達と話している郁海に、にっこり笑って挨拶した。
「あ、おはよう、どうかした? 」
 不思議なのは当たり前だ。入学してから六ヶ月。一度も話したことのない人なのだ。郁海は親切に答えた。
「ちょっと、今日の放課後話がしたいことがあるんだけど…いいかな」
 亜由美のあまりに突然の誘いに、郁海も驚くが、断る理由もなく、ファミリーレストランで会う約束をした。



 放課後。郁海は、すずと別れた後の道、家で着替えをしながら、ずっと亜由美の話の内容がなんなのか、色々考えたが全く思いつかない。疑問を抱えたまま、約束のファミリーレストランまで行った。先に着いたらしく、クーラーがガンガンに効いたファミレスの一席でオレンジジュースを飲みながらボーっとしていた。
「ごめんなさい、待たせちゃって……」
 亜由美が来た。亜由美は頭もよく、見た目も綺麗な感じだ。
「ううん、大丈夫。いくも今来たところ」
「そう、よかった」
 そこへウエイトレスが来た。「ご注文は」といわれると、「じゃあ、アイスコーヒーで」と返した。オレンジジュースを飲んでいた郁海は単純にもかっこいいと思って見とれていた。
「どうかした? 」
「あ……いえ、ううん。あ、話って」
 少し慌てて、気になっていたことを聞いた。なぜか苦笑いを浮かべ、ぎこちなく亜由美を見つめた。
「話っていうか、相談になるのかな、聞いてくれる? 」
 両手を重ね、あごの下に置きながら郁海をまじまじと見つめた。戸惑いながらも郁海は笑顔で答える。
「そ、相談? いくにできることなら何でも、何でもゆって」
「わあ、嬉しい! じゃあ、お言葉に甘えて」
 亜由美はパっと明るい笑顔を見せ、パン! と手を合わせ話を始めた。
「実は、私、入学式のときに転んで膝をけがしたの。まぁけがって言ってもかすり傷程度だけど……。そのとき大丈夫かって声をかけてくれた人がいたのよ。起こしてくれて、別れ際に、貼っときなってバンソウコウまでくれたの」
「いい人がいるんだねぇ」
よくある少女マンガみたい。と単純に楽しそうに聞き入る郁海。
「しかもそのバンソウコウ、セーラームーンよ。転んで恥ずかしかったこと、吹っ飛んじゃった」
 楽しそうに話す亜由美を見て、郁海は恋の相談だとようやく気ずいた。そして同時に、セーラームーンのバンソウコウは自分も持ってますとは言えずにいた。
「……誰だと思う? 」
「えっ、誰だろ……」
「空野京太くん。」
 郁海は「え」と少し驚いたがすぐに、すずの言っていたことを思い出し、納得した。
「京太なんだ、あ、だから、いくに」
「うん、早乙女さん仲いいじゃない。ひょっとして付き合ってるのかなって……。」
 亜由美は目を逸らした。笑ってはいるけど、目は冷めているようだった。
「まさか!付き合ってない、付き合ってない!」
 それにきずかず手を振り否定した。
「そう、よかった。じゃあ、協力してくれるでしょ? 」
「あ、うん。いいよー」郁海は笑顔で答えた。
「ほんと。嬉しい、早乙女さんありがとう」
 亜由美は満面の笑顔を咲かせると、「じゃあ」と次々に話を始めた。



 その頃、京太は部活中だった。せみの悲鳴が青い空にこだまする中、泥だらけのユニフォームで走り回っている。真剣な眼差しに汗が光る。
「あー、あちー! 死ぬ」
 京太が叫ぶと、
「なんだよ、昨日は文句のひとつも言わずにやってたじゃん」
 と同じサッカー部で仲のいい修二にペットボトルを渡され、ガブガブ一気に飲みほした。
「あー、うめー。……今日は終わっても一人で帰るから元気がでんのだよ」
 休憩の指示が出され、グラウンドから少し離れた木陰に大の字で寝転んだ。それに合わせ、木にもたれて座る修二が言った。
「昨日は郁海ちゃんと帰ったんだっけ」
「そうそう、今日は寝坊できなくって……」
「は? 」
「あ、いや。なんでもねー」
 慌てて言い直す。
「郁海ちゃんさー……」
「ばかだよねーって? 」
 修二がいいかけると京太が口を挟んだ。
「違うよ、可愛いよねって」
「あー可愛いねぇ、ちっこくて……って何言わす」
 汗りながらもプッと口に手を当てる京太に修二は真剣に言った。
「俺と付き合ってくんないかな」
 京太は一瞬黙った。すぐに明るくなって
「笑わせることゆうなよ」
 と冗談ぽく流そうとした。
「俺、本気だよ。郁海ちゃんと付き合いたいと思ってる……」
 修二は聞こえてくるせみの鳴き声が耳に入らない程緊張していた。そして下に向けられた顔からチラっと寝転がる京太を見た。京太は黙って真っ青な空を見つめていた。
「……、そうなんだ。」
「京太、お前はどうなんだよ」
 今度は京太をまっすぐ見て言った。
「俺は……」言いかけた瞬間、「集合」がかかり京太は何もなかったかのように「行こうぜ」と勢いよく起き上がった。
修二は走っていく京太の背中を見ることが出来なかった。


 
「郁海ー、お風呂入っちゃいなさいよー」
 帰って来てからずっと、郁海は今日のことを考えていた。京太はモテるんだ、など、亜由美は大人っぽくてかっこいいな、などなど……。
「分かってるよー、今入る」
 着替えを用意し始めると携帯の着メロがなった。
「すずだ」
 携帯にはすずの名前が表示されていた。
「はい」
『郁海? 』
「すず、どしたの」
 用意した着替えを投げ捨てるとベットの上に腰掛けた。
『今日、大河さんと会ったんだったよね。大丈夫かと思って』
「ああ、大河亜由美ちゃんか。京ちゃんのこと? あの人に協力することになっただけだよ」
『……郁海ほんとに空野くんのこと何でもなかったのね』
「えー? あ、いくが京ちゃんのことをって事? ただの幼なじみだよ。京ちゃんだってそうだし、二人がうまくいくようにいくは恋のキューピットかな」
 電話越しに郁海の楽しそうな笑いが漏れる。
『それなら安心した。……ってかさ、実はね』
すずが、急に照れくさそうな声になった。
『……あたし彼氏できたんだ。』
郁海はハっとして少ししてから思いっきり笑顔が溢れた。
「本当に。すずー、おめでとう、よかったねー」
うかれた声で郁海がすずを祝福した。
『ありがと……へへへ』
 これ以上ないほどに、嬉しそうだった。少しその話題で盛り上がると、すずが思い出したように話し出す。
『そういえば郁海さ、最近ピアノどうしたの?お稽古とかいってるの聞かないし、やめちゃったの』
「今ね、いくストライキなの。なんかやればやるほど上手くいかなくなっちゃって……。でももう少し休んだらまた弾く。いくからピアノとったら何も残らないよ」
 郁海は小さな頃からピアノを習っていて、大人も顔負けな腕を持っている。
『そんなことないよ、郁海すっごい可愛くてスタイルもいいんだし。まあ郁海のピアノが激ウマなことは確かか。また聞かせてよ』
「オッケー聞きにきてよねー」
「郁海! お風呂入ってないの」
 一階から叫ぶ母の声に郁海は「あ」ときずくと「じゃあまた明日」と電話を切った。さっき自分で投げ捨てた着替えを見て「なんでこんなに散らかってるの」とぼやきながら拾い集めると急いで風呂に向かった。



次の日、学校に行こうと玄関を出ると自転車がない。
「また京太だな」
 ムっと顔をしかめると郁海は走り出した。後ろから「わん!」と吠えられ、振り返ると京太の家のマロンがシッポを振って見ていた。結構年寄りなゴールデンレトリバーだ。郁海はにっこり笑って「いってきまーす」と大きく手を振った。
 少しすると歩きだし怒っていたことなどすっかり忘れ、道端の小さな花をつんだりし始めた。

「そういえば聞いてよ。すず彼氏できたんだって」
「おー、やるね林田!まあ、あの子かわいいもんね」
 二ケツしながら郁海が言った。京太は郁海の顔は見れないが声から相当喜んでいることが分かる。
 「だからもうあんま、一緒に帰れないんだよねー」
 少し声のトーンが低くなった。
「そうだねぇ。じゃあ俺が郁海と一緒に帰ればいいだろ」
 照れくさそうに言う。
「ほんと? よかった」
 すぐに明るい嬉しそうな声を響かせると、郁海はふと亜由美のことを思いだした。京太に言ったほうがいいのかしばらく考えていると京太の鼻歌が聞こえてきた。歌の正体は郁海にもすぐに、チェリーだと分かった。
「へたくそ」
 郁海は嬉しそうに言った。
「なんだよ、俺の歌のウマさはなー」
 京太は誇らしげに言いかけると、郁海が口を挟む。
「音痴」
「なんだとー、てめー、郁海! 」
 空に向かって怒鳴る。
郁海は、亜由美のことはもうすっかり忘れて心からおかしくなった。大きな声で腹をかかえて笑うと夏の風が優しく自転車を包んだ。少しこげた道路の匂いと風の匂いが混ざって、懐かしい季節を思わせた。どちらからともなく、チェリーを口ずさみ、郁海の可愛らしい高い声と京太の冗談まじりな叫び声が世界でたったひとつのハーモニーを奏でた。


 
それぞれの家につき、京太は修二の言葉を思い出していた。
「あー……あ」
 重いため息をつくと、部屋に貼ってある小さい頃の自分と郁海の写真が目についた。ベッドに仰向けでバタっと倒れ込んでも、目を離せないでいる。 次第に小さい頃のことがよみがえって思い出された。その写真の公園は京太が幼いながらにも、ある決意をした場所なのだ。





 第三話 「ちっちゃいヒーロー」



「お父さん、今月のお給料これだけなの? 」
「すまない……」
 郁海と京太のままごとだ。
 十二年前。
 京太 四歳。比較的おとなしい性格で、(今とは正反対である)心優しい京太は幼稚園でも人気があった。家で飼っている愛犬マロンが大好きな可愛い奴だったのだ。       
「ねえ、きょうちゃん、いくちゃんね、今日ピヤノのお稽古だから先に行っていいよ」
 郁海 四歳。今よりも活発で積極的な性格で、いつも明るくこの頃から周りの皆にチヤホヤされていたからか、姫様性格がいまだ少し残っている。そんな二人は生まれたときから朝から晩まで一緒で、大の仲良しこよしである。
「そうなんだ、うんじゃあね。バイバーィ」
そういって別れると京太は後ろ姿をボーっと見ていた。
「……いくちゃんちょっと元気なかったなあ。どうしたんだろ」
そして起こった事件。
 ピンポン
「はいはい。ちょっと待って」
丁度いい感じの昼下がり。京太の家のベルがなる。鳴らした主は郁海の母だ。郁海の母はまだ二十代前半で昔モデルをやっていただけあり、いわゆる美人なのだ。
「はーい、あら流海ちゃん、ごめんねぇ。まだ部屋片付け終わってないのよー」
 京太の母は三十前半のサバサバした感じの人だ。郁海の母が新婚でここに越してきてすぐに二人は仲良くなり、よくお互いの家でおしゃべりをしている。
「あ、大丈夫よ…。じゃなくて、マリさんどうしよう! 」
「? 何々、どうした。なんかあった? 」
 流海が慌てて言うとマリは落ち着いて聞いた。
「郁が帰ってないのよ! 」
 今日は幼稚園は午前中で終わりのなのにまだ帰っていないのは不自然だ。
「あら、ほんと? ちょっと待って、京太ー。ちょっときなさーい」
 マリが家の中に向かって叫ぶと、京太は首をかしげながら、うさぎのぬいぐるみを手にぶらさげてきた。
「なーに、まま」
「あんた、帰りのバス降りたあと郁ちゃんと一緒じゃなかったの」
 マリがしゃがんで京太の両腕をつかんでいった。
「いくちゃん今日ピヤノのお稽古っていってたよ。」
 人差し指を口に当てきょとんとした顔で首をかしげながら言った。
「ピヤノじゃなくてピアノ。流海ちゃん、ピアノじゃないのかい」
 マリが聞くと流海は少し考えてから言った。
「ううん、今日はないはずだわ。ああ、どこ行ったのかしらあの子……」
 今にも泣き出しそうな不安げな声で言った。
「流海ちゃん、大丈夫。探せば見つかるわよ」
「いくちゃん、そういえば元気なかった……」
 京太がボソっとつぶやいたのを、マリは聞き逃さなかった。
「京太! あんたがついてながら何やってんのよ! もう、男の子でしょ。郁ちゃんのこと守ってあげなくてどうするの。まま達、郁ちゃん探しに行くから家で反省してなさい」
 マリは大きな声で怒鳴って言い聞かせると、バンっとドアを閉めて出て行った。流海が申し訳なそうに京太を見たままドアは閉まってしまった。
「マリさん、京ちゃんは悪くないわよ」
「いいのよ、ああでもいっとかないと。あの子普段からナヨナヨしてるんだから」
 マリが優しく笑いかけると流海はホっと安心したような声で「いつもすみません」といった。
「ほら、流海ちゃん探そ」
「はい」



「ううう……っうわああん……」
 京太は残された玄関の隅っこで小さな声で泣いていた。そこに庭から玄関に周ってきたマロンが、外からドアをガリガリするのが聞こえた。京太がドアを少し開けてやると、勢いよく京太に飛びついてきた。
「……やめてよ、マロン。ままに怒られたんだから」
 京太はマリに怒鳴られたことがショックで立ち直れないでいた。郁海のせいで大好きなままに怒られた、そのキモチでいっぱいだった。マロンは、泣いている京太をペロペロなめ始めた。マロンの目はとても優しく、少し悲しそうにも見えた。
「………………まろん……」
 京太は強く抱きしめた。
「いくちゃんがいなくなっちゃったんだ……。どこへ行ったの……」
 マロンは京太から離れとても小さな声で「くーん」と鳴き、まっすぐ見つめた。
「……心配しないで、ほんとは分かってるの。ママに怒られたのは僕も悪いってこと……。いくちゃんは、僕のとっても大事な女の子だから、僕が守らなくちゃ」
 マロンに話すと、涙を拭いて立ち上がった。
「ママに怒られたからじゃないよ、僕がそうしたいんだから」
 にこっと笑うと玄関を開け、ポストに入っている合鍵で戸締りを確認すると、走り出した。
「マロン、探すのに協力してよ! 」
 横をチラっと見るとマロンはシッポを振って嬉しそうに「ワン」と一鳴きした。



「いないね……、どこ行ったのかな」
 だいぶ疲れ、少し涙腺がゆるみ始め、声が震えた。
「ワン、ワン」
 マロンが何かを見つけたように京太を振り返って吠えた。
「あっ……」
 マロンの吠える先の公園の土管に郁海がチラっと見えた。
「いくちゃん」
 京太は走っていくと、郁海は土管の中で泣いていた。
「どうしたの? 」
「きょーちゃん……うあああん」
 郁海は京太を見た途端に大きな声で泣き出した。



 郁海が家出をした理由は流海の大事にしていたお花を幼稚園に持っていったら、過って鉢植えをわってしまい、怖くて家に帰れなかった。ということだった。その後はすべて丸くおさまり、普通の日常が戻った。
 が。
「おい、母さん、飯はまだか」
「はい、今作るわ」
それからは、京太と郁海の性格一気の逆転した。



「京太! おきなさい」
「んーじゃあ、飯の前に風呂にしようかな……」
「何言ってるのよ、朝練遅刻するわよ」
「あー……昨日あのまま寝ちまったのか」
 頭をかきながらもう間に合わないなと思っている。なのになぜか晴れやかな気持ちで、京太の目は澄んでいた。
「ワン」
 玄関を出るとマロンが京太を見つめていた。
「おーはーよう。昨日お前の夢見ちゃったよ、正しくは郁海のだけど……」
 すっかり大きくなった京太はしゃがんでマロンとじゃれるとそう言って頭をなでた。ふと気配を感じて前を見ると郁海が立っていた。
「わっ」
 思わぬ人の登場に驚いたのか京太は退いた。
「ほーらね、京太くん、朝練のために早起きする気ないでしょ」
 郁海もしゃがんで、マロンに言い聞かせるように言った。
「ははは……」
 ひきつりながら笑う京太。





 第四話 「甘いお砂糖」



「ね、さっきの何?いくの夢って…」
 もう恒例の二ケツ風景だが……。郁海は京太に寄り添って聞いた。
「あー、いやあね、ちょっとチビの頃の……」
「ふーん」
 と、また郁海の頭には亜由美のことが横切った。ためらいながらも口を開いた。
「……京ちゃん、大河さんて知ってる? 」
「ん、誰それ」
 京太は即答した。
「失礼なやつー、同じクラスよ」
郁海は亜由美の気持ちを知ってるせいか、少し怒り気味に京太の背中をポンっと叩いた。
「お前こそ知ってるって聞いただろー」
 京太は吹き出しながら言った。
「もう。なんでもない」
 郁海は人の協力にのったことがなく、間接的にバレないように聞くのが苦手だった。
「はー? 意味わかんねー」



 学校に着くとサッカー部は皆自主練をしていた。
「あーあ。もう始まってるじゃない」
 自転車置き場から校庭を眺めながら郁海はため息をホっとついた。
「でも、早朝は結構涼しいだろ」
 京太が二カっと笑うと郁海はつられて苦笑いを浮かべた。
 修二が校庭でボールに足をかけながら京太にきずき、叫ぼうとした瞬間、郁海がいるのに気がついた。その楽しそうな風景に目を伏せ、やりきれない気持ちをコブシに握り締めた。
「郁海、お前さ、今ピアノやってないなら、マネージャーやれよ」
「え、マネージャー? いくじゃできないよ」
 ジャージに着替えながら京太が言った。ハっと修二のことを思い出し
「そうだよな、お前じゃ無理、無理! 」
 ハッハっと不自然に笑い話を流した。
「ほんっと失礼なやつ……」
 郁海はぶつぶつ言っていた。



 郁海は学食で友達四人で昼食を食べていた。結構大きめな学食で、周りにも学年に関わらず、友達同士、恋人同士大勢が利用している。
「郁は? 」
 食べることに集中しすぎた郁海は急に話をふられ、頬をハムスター並にふくらませながらポカンとみんなの方を見つめた。
「本当ばかだね、郁海はー」
 わっとみんなが笑い、思わず郁海もつられ笑いをし、その声が学食の一体にまぎれた。
「そう、それで郁は? 好きな人とかできないの」
「好きな人? いないよー、郁海男子で話す人とかあんまりいないからな」
 質問に大きく手を振りながら即答した。郁海が即答したのと同じくらいの早さでうち一人が「あれ、空野くんは? 」ともうお決まりの質問をすると郁海はそれにもまた即答で「幼なじみだよー」と、にこっと笑った。
「そういえば、最近すずにもそんなこと言われた。そんなに郁海、京太のこと好きなように見えるかな」
 不思議そうに首をかしげ、真剣にみんなに問いかけた。
「郁が好きとかってよりも、すごい仲良いし、普通に幸せそうなカップルっぽいよね 」
「ねー」と声を合わせみんなが言う。
 郁海が苦笑いをした後まっすぐ前を見た先には人混みの中で立ち話しをしている亜由美がいた。少しの間視線がつかまれたかのように亜由美の方を見つめていると、郁海に気づき、その整った綺麗な顔立ちで微笑んだ。郁海も 少し微笑むと、友達に少し話をしてから郁海たちが座ってる方に歩いてきた。
「何々、郁海、大河さんと仲良いの? 」
 みんなが少し声をひそめながら身を乗り出してきた。
「え…、な、なんとなく? 」
 ちょっと焦り気味におどおどしながらそういった。
「友達といるところごめんね。ちょっとお話できるかな」
 なんとなくきまずい雰囲気に包まれた。郁海が席を立ち
「みんな喋ってて、ごめん」
 と言うと、急いで椅子を中にいれ、亜由美のあとにつきチラっと振り返ると手を顔の前にだし申し訳なさそうに学食を出ていった。
「郁海、なんであの子と仲いいのかね」
「ねー、お話できるかなって……、なんかあたしあんま好めないな」
「大河さん? 」
「だよね、なんか郁海あわなそう」
「確かにあの人美人で郁海もすごい可愛いから絵的にはいいけどね」
「あはは、言える」
 二人が去ってったあと、少しこんな会話をし、また別の話をし始めた。



「どうかした? 」
 二人は少し校庭横の庭を歩きながらベンチに座ると、まず気を遣うかのように、郁海からそう聞いた。
「うん……。なんかごめんね、私どうしたらいいのかな。空野くんと何も接点なくて……」
 曲げた足に両手をつき少し下を向いている。郁海は、一瞬とまどい、はっと京太の言った言葉を思い出した。手をパンっと軽くたたき、横にいる亜由美の方を向いて弾んだ声で話しはじめた。
「そうだ、あのね、京ちゃんサッカー部じゃない? それで今サッカー部マネージャー探してるらしいの。今朝、郁海やればっていわれたんだけど、やっぱお前じゃ無理かって言われて……。でも大河さんならできるよ。どうかな」
 満面の笑みで楽しそうに話すと「ほんとに。やりたい! 」と亜由美ははずかしそうに声を弾ませた。
「じゃ、決まり。京ちゃんに言っておくね」
「うん、ありがとう。感謝するわ」
 楽しげに会話が終わり、二人とも笑顔で手を振って逆方向に歩きだした。郁海に背をむけて歩き出した亜由美の表情は、さっきまでの笑顔が一瞬で消え、そのあと、さっきとは違うあざ笑うような笑みをうかべた。



 放課後の音楽室。ふと足をむけた郁海はまだ明るい日差しが差し込む窓際にたたずんでいた。ひとつの音もない静まった部屋から、校庭で元気に走り回るサッカー部をのぞきながらふいにクスっと笑いをこぼした。その視線は自然と京太を追っていた。少し遠くを見つめ、つかんだカーテンをギュッと強く握った。そこに、静かに置いてあるピアノに郁海は魔が差した。

「お疲れさまーっす」
「まじ疲れた」
 いつもの木陰にバタッと倒れ込むと大声で叫んだ。そして少し黙った。
「どうした? 」
 修司が話しかけると、少し不思議そうに京太は耳を澄ました。
「…………」
「弾いてる」
「弾いてる? 」
「郁海がピアノ弾いてる」
 ムクっと起きあがり、たまにふく風が少し汗にぬれた髪を拭きながら、音もを運んできた。
「郁海ちゃんてピアノ弾けるんだ」
 修司がいきいきした顔をしながら少し気まずそうに言った。それに対し京太は、修司に答えもせず、「悪い、お先」と言うと同時にカバンをバッと持って走って校舎に向かっていった。それを見て修司は立ちすくみ、郁海の元へ走っていく京太を見ないようにパッと視線を下に下げた。



 脳裏に響き渡る繊細な音色。少し触れただけでも壊れてしまいそうなグラスに透き通った水がやさしく注がれていく。郁海は割れ物を扱うように大事にピアノの鍵盤に指を置き、しかと瞳を閉じやわらかい音色を奏でていく。
 ユニフォームのまま走ってきた京太は音楽室の前までくると、思わず息をのみ、その場に立ち止まり、まるで時間を止められたかのように立ちすくんだ。その綺麗な横顔をキラキラした瞳で見つめている。その視線には、とても優しく音に包まれた郁海がいた。京太は初恋を覚えるまなざしでそこから動けずにいた。
ハッと音が止まり、郁海が目を開き「……京ちゃん」と言うと京太の中の時間が動きだしたように「おう」と返した。
 


 「どうしたらストライキ抜けるんだろう……今の課題曲がずっとうまくいかなくて、先生に何回もやり直しさせられるのよ」
「さっきの曲? 」
「そう、恋の曲なんだけどね。すごくいい詩なの」
「へー」
 郁海はふうとため息をつき、自転車を比較的ゆっくりめにこぐ京太の広い背中に軽く寄りかかった。寄りかかった先から伝わってくる暖かい鼓動に安心を覚え不安げな表情が自然と笑顔へ変わった。
「あ」
 ふと亜由美のことを思い出した。
「ね、そういえば大河さんって知ってる? 」
「バカ、朝も聞いたろ。今日見たよ」
「バカとはなんだあ」
 軽く背中をポンとたたき話始めた。京太は郁海のこの楽しそうに話すのをまんざらでもなく楽しんでいる様子だ。
「あのね、大河さんと今日少し話したんだけど、大河さんマネージャーにどうかと思って」
 見なくても解るほど声が弾んでいた。
「まあ、あの子綺麗だし、いいんじゃないの」 
 ニッと笑いながら少し頭を後ろにふり郁海の頭にこつっとあたった。
「綺麗と思う? 本当に。大河さん喜ぶな……」
 ボソっとつぶやきながらニコニコ楽しそうな郁海。
「ばか」
 京太が口をだすと
「うるさーいでーす」
 とふっかけるように手を口にかざして叫んだ。 
「てめー」
 自転車をわざとグラグラさせると、
「ごめんなさい」
 京太にしがみついて大笑いしてそう言った。
「おら、到着ですよ」
 家の前につくとゆっくりとまり郁海がポンっと飛び降りた。
「明日は寝坊するの? 」
「気が向いたらな」
 その言葉がおかしくてプッと吹き出すとおかしそうに笑った。
「また明日ね」
 振り向きながら笑う郁海に
「はいはい、姫様」
 と手を振る京太。その後コソッと「俺の」とふざけて言った。



「ただいま、まま」
「お帰りなさい、郁ちゃん。紅茶飲む? 」
 ニッコリ微笑む流海に「うん」と笑顔で答え、オシャレなリビングルームのテーブルに制服のまま腰かけた。
「はい」少し甘さの残ったハーブの香りのする紅茶を郁海の前に置き、前の席に流海が腰かけた。流海が紅茶を一口すすると、それを下向き加減な中から郁海がのぞいた。それに気づいた流海は「どうしたの」と優しく笑いかけた。
「ねえ、まま……。どうしてこの紅茶は少し甘いの? 」
「ままがお砂糖を少し入れたのよ」
 なんとも単純明快な質問で答えだ。
「郁海が作る紅茶は、たくさんお砂糖を入れるからもっと甘いのよ。でもままの作った紅茶はそんなに甘くないのに違うの……。もっと甘いの」
 流海の顔をまじまじと見つめながら、きょとんとした顔で不思議そうに話す郁海。流海は紅茶を少し飲んでから、優しく笑った。
「きっと郁ちゃんにも作れるわよ」
「本当に? 」
「そのうちね」
 そう話すと郁海は紅茶を上からのぞきこみ少し口を膨らませると、その後一気に紅茶を飲み尽くした。
「そうだ、そういえば先生から電話があったのよ。お稽古に来なくて心配だって。まだうまく弾けないの? 」
「うん……。他の曲はすごくうまいって先生褒めて下さるんだけど、今の曲はどんなに完璧に弾いても何か違うって」
「どんな曲なの? 」
「うん、恋の曲よ。とっても詩がよくてね……」
 流海は何か気づいたのか「それはきっと紅茶がうまく作れたら、曲も完成するかもしれないわね」と言った。郁海は首をかしげ、紅茶をかたしはじめる流海を見ていた。




 第五話 「いつもの音色」

 郁海、京太がちょうど小学校の中学年に上がった頃。京太がちょっとやんちゃすぎた頃だ。
「のろまー! 男のくせして女子の飯田にぬかされてやがんの!」
「うるせー、空野!待てー!!」
クラスの男子たちと体育の授業で大騒ぎ。誰かが何かしたらすぐつっかかりたがって、でも明るさとサッカーが取り柄で、みんなの人気ものには変わりなかった。
「あー嫌ね、うるさい男って!」このころは郁海も少し大人ぶりたい年頃でよく京太のことをばかにしていた。
「でもさ、空野君て郁海ちゃんには本気で怒ったりしないよね」
「ねー。郁海ちゃんのこと好きだったりして!」
 キャーキャー女子が騒ぐと、一人飛び抜けて可愛く、赤いりぼんから長くのびた髪をなびかせた大人びた郁海、腕を組んで言った。
「郁海になんかしたりしたら、京ちゃんのママのマリさんが黙っちゃいないもの。それにマロンだって怒るのよ。それが怖いのよ」
「そっかー、空野にも怖いものってあるんだね」
 みんながにぎやかに笑った。

「京太!支度できたの!?」
マリが怒鳴った。珍しく素敵なワンピースに身をつつんである。
「まだだよ!……これどうやんのかわかんねーもん」
 ぐるぐる巻きになったネクタイをめんどくさそうに見た。
「あんたね、男なんだからネクタイの閉め方くらいちゃんとパパに教えてもらっといてよね!」
 わーわー言いながら、乱暴にネクタイを締めた。ふてくされながら、「へっ」と横をむくとすかさずげんこつされた。
今日は半年に一回の、都内の音楽大ホールを貸し切って行われるピアノの選抜大会なのである。それにマリと京太も招待されたのだ。
「流海ちゃん!」
「マリさん!こっちですよ。今日は本当来て下さって幸栄です。ありがとう、京ちゃん」
 赤いバラの刺さった、黒いドレスに身を包んだ流海はさすが、元モデルだけあって、目を魅了する美しさだ。
「いいのよ、あたしだって、こんな機会滅多になくって嬉しいのよ。ね、京太! ほら、ありがとうは!?」ぼかっと頭をたたくと、その光景をおかしそうにクスっと流海が笑うと照れながら「……ありがとう」と小さな声でつぶやいた。
「流海!」
呼ぶ声の先には、海外赴任しているはずだった郁海の父、優一がいた。
「優一さん!」
 流海が嬉しそうな顔をして走り寄った。
「郁海のせっかくの晴れ舞台だろ。なんとか仕事きりぬけてとんできたよ、俺も親ばかだよ。はは」
「きっと郁海すごい喜ぶわ。マリさんたちも!早く入りましょう」
優一はスーツに青めのシャツをきてきっちりネクタイを締めていた。大汗をかいていかにもすっ飛んできたようだった。

 ドキドキするよ……、でも大丈夫。あんなに練習したんだもん。
 舞台裏で郁海が自分に言い聞かせていた。ガタガタ、手が震えている。物心ついた頃からいっちょまえに緊張をするようになったのだ。人、人、人、手に書いて飲み込んだ。
「早乙女さん」
 会場の係員さんがそう話しかけると、はっと顔を上げて、舞台が拍手に包まれていることに気がついた。
「次だから、出てください」
「……はい」
 思わず、思うように声が出なかった。どうしよう、ちゃんと弾けなかったら。どうしよう、怖い……!
「16番。早乙女 郁海。祈り」
 ホール内にアナウンスが流れ、カーテンの墨からチラっと客席を見ると、思ったよりも人が多くて、息を飲んだ。震えを我慢しながらも、舞台をカチカチと歩いた。ピアノの前に着席すると、鍵盤に置いた手がまだガタガタいっていた。たくさんの照明の光のせいで少しクラクラもした。拍手が鳴り止むと、ホール内はしぃんとした。と、そのとき。
「ハックショーン!!」
くしゃみの正体はすぐに京太だと分かった。周りの人がクスクスと笑うと、「へっ」と鼻をすすってみせた。
「……ぷ」
客席を見ると、マリに頭をボンっと叩かれた京太が見えた。その顔が、少し頬赤くしていることも一瞬で分かった。ピアノに向かい、目を見てすっと息を飲むと、真剣なまなざしで郁海は鍵盤を踏み始めた。

「ぱぱー!来てくれたの」
 そう叫んで走ってくると「郁海、とても素敵だった」と雄一が郁海を抱き上げた。上から見上げた状態で
「はくしょーん」
と京太を見て笑った。
「……お前」
 ふてくされて郁海を睨んだ。


 クーラーのきいた部屋で郁海はさっき流海が言っていた紅茶のことを考えていた。
「……明日、日曜かぁ」
 ベッドに倒れこむとそう言った。

2004/12/27(Mon)03:28:41 公開 / アリス
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■作者からのメッセージ
始めましてアリスと申します。
18です、未熟者と呼んでください(恥
でもでもっ、郁海と京太のことメッタンコ好きです。呼んで下さった皆様、有難うございます。是非、可愛がってやって下さい(涙 この先も連載させて頂きますので何卒宜しくお願い致します。感想お待ちしております。

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