『残留辞書0〜6』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:冴渡                

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□■□■

【0.】

 僕のいつ敢然と自殺できるかは疑問である。
 ただ自然は、こういう僕にはいつもよりいっそう美しい。

――けれども自然の美しいのは、僕の末期の目に映るからである。
    
            ( 或旧友へ送る手記 より )

□■□■
【1.】
 
 湿気の多い、梅雨の日だった。

 雨の中車からはぞくぞくと人が降りる。暗闇に溶け込むような暗い傘の集団は、一つの言えに集まっていく。
 家の中に入るとすぐ線香の匂いとケムリが体に纏わり付いた。座布団がいく枚も引かれたその奥でお坊さんがもくもくと読経している。
 時々、人々が体を寄せ合い耳に囁くように話し合う。
 静かにしなければならないという意識がそうさせるのであろうが、その様子はどこか陰険に見えた。

 そんな中、何もせずただ読経を聞いているだけの男がいた。
 彼の名は“篠田亮平”
 暗い額縁の中で満面の笑みを浮かべている“坪井綾音”の幼馴染だ。
 
 ――彼女はつい先日、他界した。

 彼は正座をしたまま、決して動かなかった。手は腿の上できつく握り締め、じっと俯いている。
 だが、亮平は悲しいわけでも、泣きたいわけでも、嬉しいわけでもなかった。
――ただ、どうでもよかった。
 亮平の肩を、兄である孝平が叩いた。
 ふ、と視線を移すと、兄が隣に座って前を見据えたまま亮平に話し掛ける。
「大丈夫か?お前、綾ちゃんと仲良かったもんな…」
 亮平はまた視線を手に落とすと、別に、と言った。
 兄はそれ以上どう声をかけていいのか分からず、再度なぐさめるように亮平の肩に手を置こうとした。
 だが亮平はそれを拒み軽く体ではね返すように立ちあがって、手伝いをしている母の方へと向かった。
 立ちあがった瞬間今まで耐えていた足への痺れが一度に来て、倒れそうになったがなんとか耐えた。
 だがその足どりはかなりおぼつかなかった。
 兄は弾かれた手を戻すと、目を閉じて読経に耳を傾けた。


 台所でお茶やお菓子の準備をしいた母は、亮平を見つけると神妙な顔をして近づいてきた。
「泣いている人、少ないわね」
 母が呟くように言った。
 亮平は頷きもせずもらった茶を一気に飲み干す。
「アンタは昔から、綾ちゃんと一緒にいてばかりだったから、辛いでしょうけど…。別れはいつか来るものよ」
 ほら、お饅頭、持って行きなさい、と母は亮平お饅頭を差し出した。亮平は小さな白い饅頭を手に包み込む。
 別れ際に母がお母さんまだ手伝いがあるから孝平と二人で先に家に帰っていいからね、と呟いた。
 亮平が頷くと、母は誰かに呼ばれて忙しそうに去っていった。

 一人残された亮平は玄関を出て庭を見る。雨は知らぬ間に止んでいた。
 すぐ横を幼い綾音が笑いながら駆けて行く。
――これは、亮平の幻想だ。
 亮平は少し目を伏せて綾音の事を思い出す。
 小さい頃、近所で同じくらいの年の子供は亮平と綾音しかいなかった。だから、いつも一緒に遊んでいた。
 だがあれを“遊んだ”というのかどうかは、はなはだ疑問だった。
 どちらかと言えば“女王”と“家来”。そんな関係だった。
 綾音はいつも亮平を“従わせて”いた。
 とんでもない所に入ったり悪さをしたりする時も必ず亮平と一緒だったし、叱られる時も一緒だった。亮平が幾度となく止めたが綾音がその注意を聞くことはなかった。

 ところが小学校に上がってから、綾音は亮平を無視するようになった。
 亮平もあえて綾音に理由を問いただすようなマネはせず、二人の距離は次第に広がっていった。
 綾音は女子とつるむようになり亮平もクラスの男子とつるみ、お互いに化変わりなくすごした。
 中学も同じように過ぎていき亮平と綾音は挨拶すら交わさなくなった。
 そうこうしている内に、中学三年生になり、受験生になった。近場の高校を選んだ亮平は偶然にも綾音と同じ高校だった。頭のいい学校だったがスポーツ推薦で入ることができたし綾音は頭がよかったので、定員のうちの三割しかとらない特色化で受かった。
 綾音は特進クラスへ。亮平はバカ組と呼ばれるF組に入った。
 部活に、勉強に、忙しく、楽しい日々が続いた。
 小学校から今まで一度も同じクラスになることはなかった。
 そうして、綾音についての記憶は亮平の中で次第に薄れていった。


「亮ちゃん」
 亮平はハッと我に返ると、声のした方へ視線を移した。
「亮ちゃん、久しぶりやねぇ…」
 綾音の母であるおばさんが亮平に向かって手招きをしている。小さい頃から亮平と綾音は“亮ちゃん”“綾ちゃん”と呼ばれていた。
 亮平は何となく気恥ずかしくてやめてくれと言った事もあったが、結局直してはくれなかった。
 小さい声で久しぶりです、と言うとおばさんのいる縁側へと足を進めた。おばさんは亮平に向かって、本当は中にいるべきなんだろうねぇ…だけど、何だか疲れちゃってね…と笑う。
 その笑みは薄く心がこもっていなかった。
 そうだ、とおばさんは思いついたように四角い箱を取り出した。
「これ、あの子の遺品なんだけど…何か、貰っていってくれない?」
 箱の中には鉛筆や小さな瓶など様々なものが大雑把に入れられている。
「え…?」
 亮平は躊躇した。もらう義理など無いと思ったからだ。
「遠慮しなくてもいいのよ? さ、らっていって。その方があの子も喜ぶと思うの…」
 亮平は躊躇しながらもぎこちなく手を伸ばした。

 その箱の中でひときわ大きく、ひときわ重く、ひときわ赤い、その遺品に向かって。

「…あら。亮ちゃんがそれを選ぶなんて…」
 意外だわ、とおばさんは軽く微笑む。
 亮平もそうですか? と軽く笑った。
「おばさん…」
「何? 亮ちゃん」
 遺品を手にしながら、亮平はおばさんを見つめる。
 何か言いたかったのだけれど何も言葉が出てこなくて、亮平は頭を振った。
「何でも…ないんです」
「そうなの? ならいいけど…」
 おばさんは視線を庭に移すと、小さな声で歌い始めた。

 かーごめ、かーごめ、籠の中の鳥は…

 それは、綾音がよく歌っていた歌だった。
 二人しかいないのにも関わらずかごめかごめやろう!といって、意味もなく二人でやった事を覚えている。
 後ろの正面には亮平しかおらずいつも綾音は笑いながら“亮平!”と叫ぶ。
“亮平!”
 誰かが呼んだ。
――気がした。
 振り向いても、そこには誰もいない。
 幼い綾音の幻想が、僕の横を通り抜けていく。

 亮平は手元に目をやった。
 もらった遺品とは、赤く重い大きな“辞書”だった。

 亮平にとってこの“辞書”は、綾音の象徴のようなものだった。
 たまに廊下ですれ違う時、綾音はいつもこの赤い辞書を持っていた。
 後姿や、姿勢、そういうものではなく、この辞書で綾音だと気づく。
 よく、電子辞書を買えばいいのに、とも思った。

 おばさんは、歌うのを止めた。
 亮平は、おばさんに視線を移すとおばさんは口を開いた。
「ねぇ…亮ちゃん」
 亮平は、はい、とだけ返事をする。
「あの子ね、いつも明るくて、元気で、楽しそうだった。――なのに…」
おばさんは視線を亮平へと移すと、力強く亮平の両腕を握り締めた。
「ねぇ、亮ちゃん、知らない? 何でもいいのよ、お願い…! あの子に何かあったんでしょう? そうじゃなきゃ、どうして…?! こんな風に…こんな風になるわけが――!!」
「おばさん…痛い…!!」
 ハッ、とおばさんは我に返る。血のにじむ亮平のうでからそっと手を離した。
 亮平は思わず一歩後退する。
 おばさんは手を凝視してから、その手で顔を覆いこんだ。
「なぜ?なぜなの…? 一体、いったい――?!」
 泣き出したおばさんを冷めた眼で見つつ亮平はただ血の滲む腕を触る。

 亮平だって聞きたい。亮平だって知らない。


 なぜ、綾音が自殺したかなんて――


 一人泣き続けるおばさんを母に託し、亮平は兄とともに帰路についた。
 足の裏に当たるコンクリートの感覚がどこか重い。
「なぁ、亮平」
 兄の呼び掛けに、何? とそっけなく応える。
「綾ちゃん、何か言ってなかったか?」
 兄もおばさんと同じような事を聞いてくるので、亮平はため息を吐きたくなった。
「何も。…そんなに、仲良かったわけじゃないし」
 そうか、と兄は俯く。
 亮平は前を向いたまま黙って歩き続ける。
 左手に持っている赤い辞書が、とても重かった。


 家に帰ってすぐに亮平は自分の部屋に入った。
 ベッドに倒れこむと、赤い辞書と饅頭を枕元に置いた。
 眠かった。
 眠たい目のまま、亮平はパラパラと辞書をめくる。こんな薄い紙の一枚一枚が積み重なると、こんなにも重いものになるとは思わなかった。
 カエルの声が遠くできこえる。
 それに混じって、狂い起きしたセミが鳴いている。

――その時、亮平の目に何かがうつった。
 跳ね起きると、パラパラとめくっていた辞書を持ちかえる。また逆の方向へと辞書をめくる。それを何度も何度も繰り返して、ようやく亮平は先ほどの“何か”を 発見することができた。
 それは綾音の文字だった。
 女子高生らしい丸文字ではなく、几帳面な大人の字。綾音らしい文字。

 だがその文字は亮平に大きな衝撃と、小さなざわめきに予感させた。

“文字”が悪かったわけではない。
“項目”が悪かったのだ。

【他殺】 他の人に殺されること。⇔自殺
  “くすのき ゆうこ”

 それは間違いなく、綾音の文字だった。


□■□■

【2.】
 亮平は何度も何度もその文字をなぞる。
 几帳面な字でかかれた、だれか知らない女性であろう人の名前。
 そして、【他殺】の項目に書かれた名前。
 幾度となく、文字をなぞりつつ頭を回す。

【他殺】他の人に殺されること。
 くすのき、ゆうこ。
 綾音がいつも持っていた辞書。
 彼女の文字。

 くすのき ゆうこ。知らない女性らしき名前。最近何か殺人事件があった? つまり、くすのき ゆうこ自身はもう死んでいる。綾音と、どこかで繋がっている女性。
 学校か? 中学? 高校? 塾? 予備校?
 調べていたのか? それとも、知ってしまったのか。

 そしてなぜ、綾音は死んだのか。


「――…!」
 亮平は勢い良く本を閉じる。吐く息は荒く、頬を汗が伝う。
 嫌な、汗だった。
 このままでは引きずりこまれる気がして。――だから彼は本を閉じた。
 深く息を吐く。
 閉じたばかりの赤い辞書の表紙から、汗でくっついた手をはがす。ペリッという音と共に、赤い辞書は離れた。
 亮平はベッドに寝転がる。視界の隅には赤い辞書。
「――くすのき、ゆうこ」
 言葉にした途端に、それが現実になったような、亮平の近くにぐっ、と近づいたような気がした。
 亮平は目を閉じる。
 記憶の中の綾音は半分くらいぼやけてしまって、声しか思い出せなかった。顔を思い出そうとすると今日見たばかりの、黒い額縁の写真の笑顔しか思い出せなかった。
 知らぬ間に、亮平は重い眠りについていた。


 目が覚めると、驚くほどの快晴だった。いつもと同じように家を出て、同じ電車に乗る。何もかもが、いつもと同じだった。
 その瞬間、亮平は“死ぬ”ということは、こんなものなのか、と思った。
綾音が死んだ。
 その事実は確かにあるのに、世界は何も変わっちゃいない。
 だれもそんな事気にもせず、同じように時刻はすぎる。

 人の死というものは、こんなにもあっさりと――
――まるで通貨列車のように一瞬で消え去っていくものなのだと。

 亮平の目の前を通貨列車が横切った。彼は風で乱れた髪の毛を直すことなく、ただじっと、前のホームを見つめている。


 学校に着くと机に鞄を置いた。バカ組と呼ばれるF組は、基本的に体育界系ばかりだった。運動ばかりで、頭が回らないやつが多い。亮平もその一人だ。
 だが亮平はクラスメイト達が本当にバカだとは思っていない。どんなに勉強ができても、バカなヤツはいる。どんなに勉強ができなくても賢いやつはいる。本当にバカなヤツもその中にはいるが。
 亮平は現在高校二年生であるが、バスケ部ではレギュラーに入るほどの実力者だ。先輩が引退すれば次期部長は間違い無かった。誰が言ったわけでもないが、皆が自然とそういう雰囲気を作り出していた。
「おはよっ!」
 おう、と返事をする。挨拶してきたのはテニス部の次期部長である白井美香だった。中学時代三年間クラスが同じだった女友達だ。
 だが、その白井の目は赤く張れていた。まるで泣きはらしたかのように。
「どうした?失恋でもしたか?」
 亮平が茶化すと、白井は怒りながら恥かしそうに目を手で覆った。
「ほら、昨日、亮平は気付いてなかったけど、私もお通夜に行ったのよ」
 だから、ね…と、乾いた声で笑う。
 亮平は驚いたように目を見張った。
「あれ…白井って綾音と仲良かったっけ?」
 白井は信じられない、という顔つきになると、まくし立てるように亮平に向かって口を開いた。
「失礼なヤツ!私と綾音は中学時代からの友達よっ!私と綾音は同じテニス部だったんだから!高校に入ってからは、向こうは勉強が急がして入れなかったけど…!」
 亮平は、あぁ!と納得した。それと同時に、自分のバカさ加減に頭が痛くなった。
 それもそうだ。別にクラスが違っても、同じ部活であれば友達にだってなるだろう。
 亮平は、白井が綾音と友達であったならば“くすのき ゆうこ”の事も知っているのかも知れないと思った。
「なぁ、白井。お前さー“くすのき ゆうこ”って知って…」
 白井は名前を聞いた途端、真っ青な顔になって亮平の口を両手でふさいだ。
 な、なんだよ? と亮平がモゴモゴ言うと、白井は周りを見渡して手をそっと離した。
「何だよ!」
「もう!静かにしてよ!このアホッ!」
 白井は訳の分からない亮平を怒鳴りつけ、黙らせてからこっそり耳に囁いた。
(あんた、今さら何を言ってるの?そんな事、大声で言っていいわけないでしょ!)
(何のことだよ?! 何も知らないんだよ!)
(うっそぉ〜! 信じられない! 一時期すごい話題になって、問題にもなったじゃない!)
(本当だよ! な、何なんだよ? 教えてくれよ!)
(分かったわよ! でも、大きい声じゃ言えないから…聞き逃さないでよ!)
 亮平はこく、と頷いた。
 白井は、さらに声を小さくして囁くように言葉を紡ぐ。

 楠木優子さんはね、ウチの学校の生徒。
 だけど、その子亡くなったの。
 普通に亡くなったのなら問題は無かったんだけど…

――楠木さん、自殺したのよ。


 亮平は凍りついた。
 白井は言葉を続ける。

――楠木さん、ビルの屋上から飛び降りて死んだの。それで結構話題になったんだけど普通なら二、三日でそういうのって終わるわよね。だけど問題はその時、その屋上に誰かが一緒にいた、って言うの。しかも…ウチの学校の生徒らしくて…。誰もその人に直接聞く事はできなかった。ただそういう雰囲気がすーっと流れてた。
 それから職員会議が開かれて、この話はタブーになった。先生からも“悲しいのは分かるけど”みたいな話をされたのを今でも覚えてる。確か…一年の終わりくらいの話よ。

 白井は亮平の凍りついた顔を見て不思議そうに首をかしげる。
「本当に知らなかったの? でも、また何で…今頃…?」
「…綾音と一緒に映ってる写真があったから」
 亮平はそ知らぬフリで白々しい嘘を付く。
「そうねー…彼女と綾音、仲がよかったみたいだから。同じ特進クラスだったし。この話を聞いて、ものすごくショックを受けてたみたいだし…」
 急に空気が重くなった。沈黙に耐えかねた白井は足早に去っていった。その前に “くすのき ゆうこ”の漢字を教えてもらった。
 “楠木優子”と書くのだとようやく知る。

 亮平はまだ顔が凍ったままだった。
 楠木優子が“自殺”だった事に驚いているのでない。

 楠木優子が“他殺”ではなかったから驚いてるのだ。 

 楠木優子は世間では自殺とされている。だが、綾音は“他殺”としていた。綾音は何か、確信があったのか? 自ら命を絶ったのではなく、誰かに絶たされたのだと。自殺という皮を被った殺人が、ここに隠されているのだと。

 チャイムが鳴る。
 授業が始まったにもかかわらず、亮平の頭は囚われたままだった。

 楠木優子の自殺。
 綾音にとっての他殺。

 それは“自殺”ではあったが、誰かが間接的に、つまり追い詰めるような事を言ったための“他殺”であるのか。それとも、直接的に手を下したという意味の“他殺”なのか。そもそもなぜ、楠木優子を“他殺”としたのか。
 もしかすると親しかった友達が自ら命を絶ったと思いたくなかった心理が、そうさせたのかもしれない。
 実際にその現場を見たのだろうか? 何か犯人がいると思うような要因。それを見つけるチャンスがあっても決しておかしくはないだろう。綾音と楠木優子はとても親しかったのだから。たとえば、楠木優子が残した遺書でもいい。綾音あての手紙でもいい。
 その中に少しでも“生きている”内容さえ書かれていれば、これは“自殺”ではなくなるのだから。

 人が自殺をする時。それは、自分に、世界に、他人に、ここにいる必要はないと感じてしまった時だという。その瞬間人生という年の積み重ねが一瞬にして奪い取られる。
 だが人は少しでも必要があると意味があると思えれば、生きていけるものなのだ。

 それが、友達と遊ぶ予定でもいい。
 選手に選ばれている大会でもいい。
 好きな歌手のコンサートチケットでもいい。

 ささいな幸せがあれば、人は生きていけるのだ。

“楠木優子”は自殺した。
 だが綾音は知っていた。彼女にも何か幸せな事があったことを。
 だからこそ疑っていた。
 そして辞書をメモがわりに使っていた。
 
 ふ、とそこで新たな疑問が頭の中に生まれる。

 では、何に? 何に綾音は絶望を感じたのだろう?
 一体何が、綾音から全てを奪い取ったのだろう?

――その答えはやはり、“楠木優子”が握っている。
 いや、それしか亮平に開かれた道はなかった。

 数学の数式が黒板に並べられていく。何一つとして頭に入らないその文字列を眺めながら、亮平は次第に、深い眠りの中へと潜り込んでいった。


 放課後、部活をするために体育館へと向かう。
 途中、親友の鴨田淳(カモタ アツシ)が肩を叩く。淳はバスケがうまい。だが一つ問題があった。
「なっ、亮平♪オレ今日“コレ”だから!」
 にっ、と笑って小指をあげる。淳にとって“コレ”とは、彼女のことである。
「また、D組のナミちゃんとか?」
「違うよん♪今日はC組のまいちゃんさ」
 得意げに答える淳とは小学校からの付き合いだ。小・中・高とずっと同じバスケ部で、いつも良い仲間でありライバルだった。ただ、この“クセ”だけは良くないと思う。
 亮平はため息を吐きながら、怒った顔で淳をキッと見た。
「お前なぁ、そーゆーの良くないぞ! 彼女たちがかわいそうだろ?」
「彼女たちも、ちゃーんと分かってるさ」
 いけしゃあしゃあと言う言葉に、亮平は眉間にシワを寄せた。
「お前…そんなことばっかりしてると、オオカミ少年になっちゃうぞ?」
 淳は、ハハッ、と笑う。
「オオカミ少年って、あれだろ?嘘ばっか言ってて、本当だったのに信じてもらえなかったヤツだろ?それとどうオレが一緒になんだよ?」
「本気で惚れた相手にも、信じてもらえなくなっちゃうって事だよ」
 あ、なるほど、と淳は笑う。
「笑いごっちゃない!お前ってヤツは、人が心配してるのに〜っ!」
 ぐ、と首をしめる真似事をする。淳は苦しい、といいながらも笑い落ちつけ、と言った。
「まぁ、そうならないように気をつけますよ」
 笑う淳に向かって、亮平は怒りながら言葉を続ける。
「お前、本気で人を好きになったことあるのかぁ?」
「ん? そりゃあ、一度や二度くらいは、ね」
 いつもと違う淳の真面目な顔に、亮平は少し驚いた。それと同時にどこか物悲しげな風情が漂っている。
「とにかく!オレは、今日はまいちゃんとラブラブデート!だから、よろしくな! 次期、部長サン!」
「嫌だ! 俺は先輩には言わないからな! 自分で言えよ! おい、こらっ、バカッ! 返事をしろっ!」
 返事もろくにせず、淳はじゃあねーと去っていってしまった。
 ため息混じりに亮平は体育館へと急ぐ。
 ウォーミングアップとレイアップを済ませると、早速先輩が口を開いた。
「オイ、鴨田はどうした?」
 亮平は重い口を開く。
「…休みだそうです」
「…またかよ。アイツ、やる気あんのか? 無いなら辞めろって言っとけ。分かったな、篠田!」
 亮平は大きな声で、ハイッ、と返事をすると先輩方はそれで納得してくれたようだ。
 はっきり言って先輩と淳は仲が悪い。そりゃあ、先輩だって部活に来やしない後輩を可愛いと思うわけがないし来る度に口うるさく言われれば、淳だっていやになると思う。
 だけどそれ以上に問題なのは、淳のバスケのうまさだ。上位の先輩には及ばないがそこそこのレベルの先輩になら淳は余裕で勝てる。それくらいバスケが上手い。 多分、本当は自分よりも上手いのではないかと亮平は思っている。
 それでも、部活にこなければ選手になどなれるわけもなく、こうして反感を買うばかりの部活となってしまっているのだ。

 今日の部活もとてもハードだった。
 もうすぐ、夏の大会の選手選出だ。
 皆余計に力が入っているのが分かる。そして選ばれたい、というギスギスした感覚が分かるたびに、亮平はため息を吐きたくなった。

 レギュラーを取る、というのはそういう事なのだ。

 長い練習が終わり帰宅する。家で夕飯を取り、自分の部屋でのんびりと過ごす。小さいがテレビもあって、ベッドに持たれかかりながらテレビを見る。
 すると手に赤い辞書が当たった。
 何となく亮平はまたパラパラとめくり出した。
 しばらくして、亮平の手が止まる。

「――どういう、ことだ?」
 亮平は携帯を手に取った。
「あ、もしもし。亮平だけど。うん、ちょっと来てくれるか? わかった。じゃあな」
 無表情のまま、電話を切る。
 それから一目散に家を飛び出した。居間を通り過ぎた時、母の顔が見えた。どうしたの、という声も聞こえた。亮平は散歩に行ってくる、と叫ぶと、玄関のドアを叩きつけるように閉め、自転車に乗って場所へと向かった。
 自転車をこいでいる最中も、ずっと頭の中から離れなかった。
 指定場所の公園につく。
 きぃきぃ、とブランコがゆれている。そこで一人の男か微笑む。
「よぉ、待ってたぜ」
「嘘つくな。そんなに時間たってないだろ」
 はは、と笑う男。
 息を切らして、ゆっくりとその男に近づく。

「…淳」

「なんだよ亮平?」
 淳は何事か分からないようにブランコをこぎ続ける。
 亮平の頭の中には、全て収まりきらないほどの膨大な思考が詰め込まれている。

【恋人】恋しく思う人。相思の間柄にある、相手方
   鴨田 淳

 彼女の几帳面な文字で、はっきりとこう書かれていた。
 その意味がどんな意味なのか、亮平はシワの少ない脳で懸命に考える。

「淳、お前…」
「愛の告白なら、やめてくれよ。オレ、そういう気はねーんだからよ」
 笑う淳に、腹が立った。

□■□■
【3.】

 コイビト。何と甘美なる響きなのだろうか。
 恋いしく思う人、それが恋人だ。
 鴨田 淳。
 恋しく思う人。
 それでは、誰が? いや、どちらが?

 楠木優子か。
 それとも――坪井綾音か。

 亮平は質問を言葉に出来なかった。
【恋人】という項目に書かれていた名前があまりにも衝撃的で、頭の中が真っ白になって感情のみで淳を呼び出した。
 だが冷静に考えてみれば、どちらが好きだったのかなんて分からない。
 楠木優子か、坪井綾音か。どちらが淳を好きだったんだろうか?
 あれがもしただのメモだったとしたら、綾音が好きだった事もありうる。だがしかし、あの辞書は“楠木優子”の“他殺”に関するメモであろうから、可能性的にいえば楠木優子の好きな人であった、もしくは付き合っていた、という方が高いだろう。
 それに淳は恋人を始終とっかえひっかえしている。そういう関係があっても何ら不思議ではない。
 亮平はとりあえず、楠木優子に関して淳に聞いてみる事にした。

「なぁ…楠木優子って子、知らないか?」
 ブランコが止まる。
 淳は特に驚いた様子もなく、突然の質問にワケが分からないといった顔をした。
「…何だよ、わざわざ呼び出して。そんな事が聞きたかったのか? 楠木優子って、アレだろ?自殺した」
 あまりにもあっさりとした言葉が帰ってきて、亮平は正直言って面食らった。
「あぁ。そうなんだけど…お前、親しかったんだろ?」
「んー…確かに、中学から一緒だったから仲は良かった、かな」
 うーん、と考えるように腕を組みながら淳は答える。
 それを聞いた亮平は、少し熱くなってさらに淳に質問を続ける。もしかすると、ここで何か重大なヒントが与えられるかもしれない、と思ったからだ。
「何か、言ったりしてなかったか?自殺する前に」
「…さぁ。何か言ってたかな…?」
 淳は、流石に記憶がおぼろげでさ、と笑う。
「…あ!」
 突然淳が何か思いついたように手を打った。その音に敏感に反応した亮平は、淳に期待の眼差しを向ける。
「何?! 何か言ってたのか?!」
「いや…何でもなかった。ごめん、これは関係なかったわ」
 ごめんごめん、と淳は笑う。
 何となく、亮平はその笑いに疑問を感じた。
 淳は心底不思議そうに、亮平をマジマジと見ている。その視線に耐えかねて、亮平は何だよ、と淳に聞いた。
「いや。たださぁ何で今ごろ楠木の話なんかすんのかなって思ってさ」
 亮平は気にしないでくれ、と言った。だが淳は引き下がらなかった。
「…本当にただなくとなくだって」
「何だよ怪しいな! 楠木が死んでからもう何ヵ月も経ったんだぜ? なのに何で今更聞いて来るんだよ?」
「いや、ただ――」
「ただ――?」
 亮平は視線を地面の草から、淳の顔へと移す。
 淳は笑っている。
「――ただ、気になっただけ…」
「楠木の“自殺”が、そんなに気になるのか?」
 淳と亮平の視線が絡み合う。淳の目は、亮平の視線を捕らえて離さない。

 淳は笑っている。
 だが、いつもの笑い方ではない。口を大きくあけて笑う、いつもの笑い方ではない。
 口の端だけを持ち上げ、目を少し薄く伸ばす。そんな単調な笑い方。

 亮平の背筋に悪寒が走った。
「――いや、ただ、興味本意だ」
 亮平は咄嗟に口からその言葉が出た。 
 淳は、くっ、と笑った。
「――興味本意、か。…ちょっとばかし、悪趣味だな」
 そして、ブランコを勢い良く漕ぎ出した。勢い良く、足を振る。そして一気に飛び降りる。残されたブランコがのた打ち回るように乱れ、また一定の揺れを取り戻す。
 着地して、自分で満足そうに、十点! と笑う。
 そして、亮平を見て、ま、いいさ。と呟いた。
「何かあったら、オレに相談しろよ。何でも、聞いてやる」
「あ――ありがと」
「いいさ。そんだけ? オレ、女待たせてるから、もう帰るわ」
 じゃあな、と淳は帰っていく。
 亮平は引き止める理由も、術もなかったからただその背中を見守る。

 小さな違和感が、胸を掻き毟っていくのを、無視しながら。


 一人残された亮平は、もう止まったブランコをじっ、と眺める。そして、鎖に少し振れ、ゆっくりとまた動かすと、その場から離れ自転車に飛び乗った。
避けるように、逃げるように、公園を後にした。

 公園を通り過ぎ、道路をただひたすら突き進む。自転車のタイヤのこすれる音が、妙に耳に残る。
 亮平は心の中に湧きあがる不安と、焦燥に頭を悩ませていた。それは、考えすぎのようにも思われたし、だが、確実にそうである可能性は高かった。

 もし淳が犯人であるのならば“楠木優子”についてどんな風に反応をするだろうか? 亮平が望んでいたのは、“シラを切る”だった。ところが、あまりにも簡単に淳は“楠木優子”を受け入れた。
 その言葉の真意に、亮平は迷う。
 友達である彼を疑いたくはない、と思う。だが同時に小さな欠片が頭をよぎる。
 だが事実、犯人であることを知られたくないのであれば“楠木優子”を肯定するだろう。あえて否定することは、自分を否定する事でもある。
 それを考えるならば、あの言葉の真意は―――
 ぶん、と亮平は頭を振った。
 分からない。言葉がうまく追いつかないし、紡ぐこともできない。整理ができない。部屋の全てがごちゃごちゃとひっくり返されたような、そんな感じがした。

 その時手に赤い辞書があたった。亮平はゆっくりと手をのばし、辞書を手に取る。相変わらず重い。ぐ、と力を込め開く。
 パラパラとめくる音が部屋に響く。そうして、亮平はまたしても綾音の文字を見つけた。

【理由】 物事がそうなった、また物事をそのように判断した根拠。わけ。子細(しさい)。事情。
  「自殺の―」分からない。でも、違う。  →根拠

 今度は、矢印の先に“根拠”と書かれた文字がある。亮平はその矢印を移動せよ、という意味と解釈し、根拠の項目を探す。

――だが、亮平は一瞬躊躇した。
 亮平はいつも、一つの項目を見つけては、この辞書を閉じていた。その理由は簡単だった。“坪井綾音”に引きこまれる気がしたからだ。これは、あまり長く見ていてよい“モノ”ではないと、何かが亮平に警鐘を打ちつける。
 汗のにじむ手に、さらに力を込める。亮平は、辞書を開き続ける。冷や汗のようなものが、体から流れ出る。寒いような、熱いような――微妙な錯覚。とこかで何か嫌な予感が渦巻いている。

 しばらくめくると、根拠の項目を発見した。またしても、綾音の文字が並んでいる。

【根拠】物事が存在するための理由となるもの。存在の理由。
  →学校、彼女、手帳、笑顔、香り

 亮平はもう躊躇することは無かった。

【学校】一定の教育目的に従い、教師が児童・生徒・学生に計画的・組織的に教育を施す所。また、その施設。
 楽しい 重たい でも、嫌いじゃない テスト返し競争中

【彼女】〔代〕三人称の人代名詞。話し手、相手以外の女性をさす語。
 自分の事はあまり喋らなかった 

【手帳】いつも手もとに置いて、心覚えのためにさまざまの事柄を記入する小形の帳面。
 増えたピンクのハートマーク

【笑顔】にこにこと笑った顔。笑い顔。
 幸せそうに笑うのが多かった

【香り】よいにおい。香気。
 →香水

 パラパラ、と音だけが部屋に漂う。亮平は夢中で辞書をめくる。

【香水】化粧品の一つ。種々の香料をアルコール類に溶かした液体。からだや衣類などにつける。
 直前につけはじめた “ベビードール”?

 香水の項目だけに、ものすごく大きな丸が付けられている。細いペンや、太いペンで何度も何度も丸が書いてあった。
 つまり、綾音の中ではこの“香水”というのが一番引っかかっていたんだろう、と思った。
 だが正直、亮平は頭を抱えた。
 なぜなら香水ごときでどう変わるのか亮平には全く分からなかったからだ。

 亮平は、ふ、と笑った。
“ベビードール”と書いた後ろに“?”が付いている。綾音自身も、どうやら香水にあまり興味が無かったんだろう。何だか、急に綾音が身近に感じられた瞬間だった。


 翌日、学校に向かう途中、白井とおばさんに会った。
「あら、亮ちゃんおはよう」
「…おはようございます」
 あの晩からおばさんに会っていなかったので、元気そうな様子にホッとした。
「あっ、亮平! おはよっ! 一緒に学校行こ」
「いいよ」
 それじゃ、おばさん失礼します、と言っておばさんと別れた。
「お前、こっちの道だっけ?」
「うん。ちょっと用があって…」
「朝から?」
「うん」
 もういいでしょ! と言うと、白井は一人歩みを速めた。
「偶然おばさんとお会いしてね…ちょっと話してた」
「ふーん。そうだ、白井に聞きたいことがあったんだけど…」
「えっ…? 何?」
「あのさぁ、女って香水とかで恋してるとか分かるもん?」
 は? と白井は面食らった顔をする。
「例えばさ、普段香水つけてないヤツがつけたりしたら、それは恋の予感なわけ?」
「…いっ、いきなり何を言い出すかと思った…つまり、友達でそういうヤツがいるわけ?」
 ん…まぁ、そんなものかな、と適当に濁しつつ相槌を打つ。
「うーん…多分、その可能性は高いと思うなぁ」
「マジ?」
 うん、と白井は空を見上げる。
「だって、好きな人に“自分はココにいる”って言うようなものじゃない?それに、香水だって化粧品だよ。香水って、自分に自信を与えてくれる感じがするし…」
 ふーん、と相槌を打ちつつ、女とは不可解なものだと亮平は思う。
「綾音はどうだった?」
 綾音…は、と白井は考えながら言葉を紡ぐ。
「綾音は、付けてなかった。そういうの興味無かったみたいだし」
 ふーん、とまた相槌を打つ。
「…白井はつけたりしないのか?」
「はっ?! いきなり何言い出すの?! 私は、ほら、部活やってるし、すぐに消えちゃうし、あんまり意味ないから…!」
「ふーん…持ちたいとは思わないのか?」
「…たまーに、欲しいなって思うけど…」
「どんなの?」
 えっと…、と白井はさらに考える。
「そうだなぁ…最近、“ベビードール”がものすごく人気があって、可愛いなー…とは思う…けど…」
「ふぅん…ありがと。参考になった」
 白井はまた、は?! と言う。一体何の参考になったのよ?! とも。
 またしても、亮平の頭は他のところに行っている。
 人気のある香水“ベビードール”甘い香り…。
 どんな香りなんだろうか?

 学校に行くと、淳はサボりだった。
 どうやら、女の子と遊んでいるようだ。今度は年上の女性だとか。
 少しほっとしている自分がいることに、亮平は気付いていた。

 放課後駅近くの百貨店に入った。黄色い店の雰囲気に染まりつつ、一階を通り過ぎる。ふ、とキツイ匂いがした。
――香水だ。
 周りに女性の姿はなく、抵抗を感じつつも足は勝手に香水売り場へと進んでいく。進めば進むほど匂いはきつくなり、息苦しい。
 香水売り場の一番前に、ピンクの可愛らしい感じの香水が置いてある。じっ、と見ていると定員が寄ってきた。
「お客様、香水をお求めですか?」
 何となく気恥ずかしく感じつつ、とりあえず頷く。
「こちら、“ベビードール”となっております。最近の若い女性の間では大変人気となっております。贈り物にも最適ですよ」
 にこ、と笑う綺麗な定員は、どうやら亮平が彼女のプレゼントを買いに来たのだと思っているらしい。
 亮平は押しの強い定員に押され気味だ。
「今なら、ミニバージョンの“プチ・ベビードール”もありますよ。価格もお手ごろですし、彼女のプレゼントには最適かと」
 にこっ、と強引にも笑う定員に押され、亮平はプチ・ベビードールを買う羽目になった。

 甘い、強い、香りだった。

□■□■
【4.】

 甘い香りの漂う箱を鞄にしまいこみ、電車に揺られる。人は少なく、とうに落ちた夕日が亮平を包んだ。
 部活で使ったタオルが汗臭い。夏が、もうすぐそこまで来ている。
 梅雨が、明けようとしている。

 電車を降り改札を抜け、階段を降りる。
 階段の一番上の段から、足をちょうど下ろそうとした瞬間の事だった。ふいに、亮平はわずかに足を下ろすタイミングを逃した。
 亮平は一気にバランスを失う。咄嗟に何かにつかまろうと思ったが、周りには何もない。
「うわあぁぁっ!」
 体が浮いたと同時に、一気に階段に叩きつけられた。
 肩に、頭に、手に、腕に、足に、腰に、体中が軋む。
 周りのざわめきが一気に亮平に集中する。女性の叫び声や、横にいる男性の驚きの声が駅内に響き渡る。そのうち、女性の声で駅員を呼ぶ声が聞こえた。
 起きあがる事すらままならず、階段の一番下でただうずくまる。すぐに駅員が飛んできて、どうしました、と聞いてくる。
 見れば分かるだろう、という怒りを抑え階段から落ちました、と素直に言う。
「大丈夫ですか?立てますか?」
「何とか…」
 体中の痛みを抑え、立ちあがると駅員はほっとした顔をする。
「本当に危なかったですよ。もし、打ち所が悪ければ死んでいたかも知れません」
 背筋に悪寒が走った。
 階段から落ちるなんて、中学以来だったが、その時とは違う。
 何故なら、今亮平は、確かに感じていた。

――背中に残る、誰かの手の暖かさを。

 駅員が、止まった亮平の表情を見てどうかしましたか、と再度声をかけた。
 亮平は、いえ…と無理にでも笑顔を作って見せた。
「そうですか。気をつけてくださいね」
 駅員はそう言うとさっさと帰っていった。
 亮平は体の痛みから立ち上がったものの歩くことができず、近くの椅子に座りこむ。

 体中から、悪寒が抜けない。もしかすると、死んでいた。
 その事実が、体中から力を抜き取っていく。足が小刻みに震え、痛む体をさらに軋ませた。目の前が真っ白になったような、真っ暗になったような、そんな感覚だった。冷や汗は体中を伝い、どこかへ流れていく。音は全く無い。人が通り過ぎているのにも関わらず、亮平の視線からは何も動いてはいなかった。ただ、目の前を必死で見つめる。息が詰まるように感じて、思わず短く多く息を吐いては吸う。
 運が悪ければ、死んでいた。
 いや、この表現は正しくない。

――運良く、死ななかった。

 気のせいかも知れない。ただ、すれ違う人がぶつかっていっただけかもしれない。
 亮平は必死に自分にそう言い聞かせる。
 だが、体中が軋む度に、自分に真実をまざまざと見せつける。
――まだ温かい“手”の感覚が残っている。

 亮平は全身の痛み、そして泣きたいような感覚に見まわれながらも家に帰った。 顔にはアザができ体中の痛みを抑えるようにして帰ってきた亮平に、母が心配そうに駆け寄った。
「亮平、アンタどうしたの、その傷! ボロボロじゃないの!」
「うん…久々に、階段から落ちた」
「アンタ、またボーッとしてたんでしょう。全く…心配させないで。亮平、最近、何か変よ? …まぁいいわ。あ、そうだ。お母さん今から、自治会の方で集まりがあるから行くけど、御飯作っておいたから食べてね。あと、クリーニングがあったら出しておいて。もうすぐ衣替えでしょ? 孝平にも伝えておいて。よろしくね?」
 分かった、と頷くと母は忙しそうに玄関を出ていった。
 とりあえず自分の部屋に入って、制服を脱いだ。その時、鞄の中身が気になった。もしかすると、香水の瓶が割れてしまっているかもしれないと思ったのだ。
それだけは本当に勘弁して欲しかった。あの甘ったるい匂いに一日中付きまとわれるのは嫌だった。
 だが、亮平の体がこれだけ軋んでいるというのに、鞄の中身が無事なんて保証はどこにもない。亮平は恐る恐る、鞄を開けて中の香水を取り出した。
「…良かった。割れてない…」
 香水の瓶は割れていなかった。プラスチックが衝撃を受けとめ、割れるのを防いでくれたらしい。
 亮平はほっと胸をなでおろした。
 だが今こうしてほのかに香ってくる分には、そんなに悪い香りじゃなかった。甘くて女の子らしい、とでも言うのか、そんなふわふわした感じの香りだ。
 楠木優子はどんな気持ちでこの香水をつけていたのだろう? 華やかで、甘い、この香りを。
 恋する乙女の気持ちとは、どうも男には分からないらしい。
 亮平はため息をつき、ベッドに座りこんだ。

 鏡に写った自分を見る。本当に顔にアザが出来ていた。体中があちこち痛い。
 一体誰が…とは思わなかった。一種の牽制なのかも知れない。これ以上、関わるな、と。
 だけど、もう踏みこんでしまったんだ。
 後戻りは――できない。
 亮平は自分にそう言い聞かせると、辞書を見ないように部屋から出た。ドアを出ると、兄がちょうど帰ってきて、亮平は兄の元へと駆け寄る。
「今日、母さん自治会の集まりだって」
「そっか…飯、食ったか?」
「…まだ」
「そっか、じゃあ、飯、一緒に食うか」
 亮平が頷くと、兄は軽く微笑む。

 晩御飯を食べていると、兄が口を開いた。
「…亮平、お前、その傷、どうしたんだよ?」
「階段から落ちた。中学校以来だよ」
「また、バカやってんなぁ。お前はそういうそそっかしいところ、あるから…」
 うるさいなー、と亮平はふて腐れる。
「ところで、お前最近変だぞ? どうしたんだ?」
「…それ、母さんにも言われた」
 あぁ、母さんとこの前、お前について離してたんだよ、と兄は笑う。
「…綾ちゃんが死んでから、お前は変だ。何か、してるのか?」
「…別に…何も」
「別に、お前が言いたくないならいいんだけどな。あんまり、変な事に首つっこみすぎるなよ」
 分かってる、と亮平は頷く。
「ならいいさ」
 兄は少し頷くと、御飯を黙々と食べ出した。亮平もそれにつられるように、黙々と食べた。御飯は美味しかったし、扇風機からの風も心地良かった。
 少し、安心した空気が流れる。ここは、安全なのだと言ってくれたような気がした。心配してくれる人がいる、というのはとてもあり難いことなのだと思った。
「…そう言えばさ、綾音のおばさん、元気になったみたいだった」
「そうか。それは良かったな。でも、一人で寂しいだろうね…」
 亮平は、そう言えば、と話を切り出す。
「綾音の家って、どうして…どうして、父親がいないんだっけ?」
「…あまり、人様の家の事情ってのは言いたくないんだが…。綾ちゃん家はな、お父さんが、まぁ、俗にいう“蒸発”しちゃったんだな」
「突然、いなくなったって事?」
「まぁ…そういうコト。綾ちゃんはまだ生まれてもいない頃の話しだそうだよ。おばさんは、旦那さんと親戚中の反対に押し切って結婚した。だけどね、その旦那さんは綾ちゃんがお腹の中に宿った頃、いつものように家から出てったきり、帰ってこなかった。――警察にも失踪届けを出したりしたんだけど、結局見つかっていない。それで、周りにも色々言われてたみたいで…」
「そ、そうだったんだ…」
 亮平は今まで知らなかった事実をつきつけられて、今まで同じ地域に住んでいたけれど、綾音の事は何も知らなかったんだな、と思う。
「でも、何でそんなに詳しいんだ?」
「…お前、葬式の時、何も聞いてなかったろ?」
「おっ、お坊さんの読経ぐらいは聞いてたよ」
「良かったな。聞こえなくて。俺は聞いてて吐気がしたよ」
 つまり、葬式の時にヒソヒソと囁き会う親戚の話が聞こえたのだろう。兄は思い出したように苦い顔をする。
「ま、とにかく、あんまり人に話すんじゃないぞ」
 もちろん、とばかりにすぐに首を縦に振った。
 それから食事を済ませると、食器を各自で洗い、兄は大学の友達と飲み会へ、亮平は部屋に戻った。


 翌日、珍しく亮平は屋上で寝転がっていた。高校に入ってからサボるのは久しぶりだった。何も考えたくない時、昔はよくこうやって屋上で寝転がっていた。今ごろ、自分の教室では英語の授業でもやっているんじゃないか、と思い違和感が楽しい。
 目をつぶって、太陽の光だけを体中に感じる。目を閉じていても、光が指している事はわかる。突然、その光が遮られ、影が目の前に広がる。
 目も開けずにただ寝転がっていると、その影が話し掛けてきた。
「よぉ。元気か?」
「…とりあえず、今はな」
 何だよその返事は、と淳は笑う。
「お前がここで寝転がってるなんて珍しいなぁ…。小学校以来じゃねーか?」
「そうか? そうかもな」
「そうだよ。何だよ、男前になったな」
 傷を見て、淳は痛そうに笑う。
「だろ? 自分でもそう思うさ。これで少しは女にモテるかな?」
「ははっ、お前はモテなくてもいいだろ? いいモン、一杯持ってるじゃねぇか」
 え、と亮平は目を開け、淳を見る。淳は立ったまま、じっと亮平を見ている。
「で、いつまで寝てんだよ。干上がるぞ」
 干からびたい、と亮平は思った。はぁ、と息を吐く。
「――もう、戻るさ」
「――そうか。オレはしばらくここにいるわ」
 そうか、と言うと、亮平は立ちあがった。
 ドアに消えようとした瞬間、淳が呼びとめる。
「――段差には気をつけろよ」
 亮平は頷くことなく、ドアの向こうに消えていった。


 体育館に声が響く。それと共に、ボールが弾む音。汗が落ち、バスケシューズが体育館と擦れあい、甲高い音が響く。
「おい、こっちこっち! 何やってんだ?!」
 バカヤロウ、と渇が飛ぶ。
「すいませんっ!!」
「何一人で突っ走ってんだよ!」
 すいません、と亮平は今一度謝る。
「…篠田、ちょっと来なさい」
 ピタッ、と全員の動きが止まる。亮平は額の玉ような汗を強引にぬぐった。そして、コーチの元へ走り寄る。
「篠田…お前、ちょっと外れろ」
 ざわっ、とざわめきが起きた。
「なっ、何でですか、コーチ」
「それはこっちの台詞だ。お前は何を考えてバスケやっとる」
「――!」
 亮平はただ俯いた。
「そんなヤツに、バスケはやらせれん。他のメンバーにも悪い影響がでる」
「…はい」
 押し殺したような、そんな声が洩れた。涙声のようになってしまった。
「…しばらく、部活に来なくて良い」
「…えっ?!」
 コーチは小声で、亮平にだけ聞こえるように続けた。
「…三日間ぐらいにしてくれよ」
「…は、はい!」
 コーチはゆっくりと亮平の顔を見る。
「もし、それで駄目だったらお前は外す。わかったな?」
「はい」
「…今日は、もう帰れ」
「はい…」
 亮平は先輩方に挨拶してから、部室に戻った。汗ばんだシャツを脱ぎながら、タオルで汗をふく。
――猶予期間だ。
 三日で、カタをつける。
 綾音の残した全てを、三日間でカタをつける。

 部室から出るとまだ夕焼けが見えて、いつもなら真っ暗になってから帰るのに違和感を感じた。遠くでザワザワと人が来る様子がした。慌てて立ち去ろうとしたがもう遅く、ちょうど女子テニス部が終わったところに、ばったり白井と鉢合わせてしまった。
「ちょっ…亮平、聞いたわよ!」
 一体誰から聞いたんだ、と思いつつも白井の言う通りに、白井を待つことになった。
 十分ほどして、ようやく終わったのか、制服を着た白井が出て来た。
「ごめん、待った?」
「…まぁ、十分くらいは」
「ごめんごめん。ちょっと、そこで話そうよ」
 白井が指差した先は、部室の外れだった。強引に連れていかれ仕方なく白いコンクリートの上に座る。
「で、どうしたのよ?」
「…別に、話すこと無いって」
「…部活に来なくてもいいって言われたんでしょ?」
 う、と亮平は顔をそむけた。
「まさか…綾音の…」

 また、部室の方がざわつく。どうやらどこかの部活が十分休憩に入り、飲み物を取りに来たようだ。
「おい、聞いたかよ。篠田のヤツ、部活に来なくていいって言われたらしいぜ」
 ハッ、となって白井は亮平を見る。
 亮平は顔をそむけたまま、動かない。
「二年でレギュラーに入ったからって、調子に乗ってるからだ。さっさと降ろされちまえ」
 先輩の野太い笑い声が響く。亮平は、きゅっ、と唇を噛み締めた。
「…亮平、ごめん」
 白井は申し訳なさそうに謝ると、亮平の手を引っ張って、坂を降り裏門からその場を逃げた。
 途中亮平は、いいんだ、と呟いた。
「よくないよ…っ!」
 白井の表情は見えなかったが、その声は泣いているようだった。
「…ここまでくれば、先輩方にも会わないでしょ…」
 息を切らしながら、白井は振り向いて、ねっ、と笑った。そこはどこかの神社らしきたたずまいだった。夕日の木漏れ日が、少しずつ神社を赤くしていく。
「…ああ。ありがとう」
「お礼を言うことなんて無いよ」
 それより…、と白井は言葉を続ける。
「やっぱり…綾音のこと…?」
「…まぁ、そんなトコかな」
 そっかぁ、と白井は頷く。
 突如として白井のケータイが鳴り響く。曲は最近流行りの歌のようだ。どこかで聞いたことがあるメロディー。
「あ、うん。ごめん、わかった。すぐ帰る…」
 白井はケータイを切ると、ごめんね、と亮平に謝った。
「…ごめん、ちょっと用事が出来た。帰るね」
 亮平は頷く。
「――あっ、あのね…その…」
「――?」
「や、やっぱいいや!」
 それじゃ、と言って手を振りながら去っていく。しばらく見送ってから、逆方向に亮平も歩き始めた。
「亮平!」
 白井の大きな声が亮平を振り向かせた。白井は数十メートル向こうで、夕日で顔を赤く染め何かを言おうとしている。
「――何だよ!」
「――す…―…で――…ね――!」
 白井は口を動かしている。だが、その声はまったくこちらには聞こえてこない。しはらくして、白井は手を振って帰っていった。
「――何だったんだ?」
 疑問に思いながらも、そのまま電車に乗りこみ、家へと帰った。

 家へ帰りいつものように晩御飯を取ると、すぐに部屋に駆け込んだ。

 あと三日。
 あと三日で全てを終わらせなければいけない。
 綾音の未練を、全て断ち切らなければいけない。綾音は、犯人を探していた。そして、何か恐ろしいほどの恐怖と絶望が彼女を襲った。
――そうして、彼女は死んでいった。
 だからこそ、その恐怖を暴かなければ。
 それがこの世に留まった辞書の役目だ。そして残された亮平に引き継がれた。
今、目の前にあるこの辞書に全てが残されている。
 亮平は今までこの辞書を一番初めからきちんと読み、調べた事はなかった。いつも適当に開いたページから全ての情報を得ていた。だが、今日は全てを見極めなければならない。そうしなければ、何も見つからない。
――恐れている暇なんてない。

 そうして一ページ一ページを、亮平はくまなく探していく。

――だが、何も書いていない。
 今まで調べた事以外、何も書かれていないのだ。
「…何で?!」
 亮平は辞書をベッドに向かって強く投げ捨てた。
「…これじゃあ…」
 わからない。未練を、経ち切ってやれない。
 このままじゃ、半端に綾音はこの世に行き続ける。
 机を激しく叩く。腕を痺れるような痛みが走るが、そんなことは関係無い。

 苛立つ気持ちそのままに投げつけた辞書を、苦々しい気持ちで取る。
「――やべっ…壊しちまった」
 見てみれば、背表紙の部分が分離している。分厚いカバーと、本体がはがれてしまったのだ。
「――うわっ…パッカリ…―?」
 その時、亮平は開いた穴の中に、何かを見た。
「――?」
 小さな隙間に、人差し指と中指を入れ、その何かをしっかりと挟む。小さな感触とともに、“それ”は引きずり出された。
 亮平はその小さく折りたたまれた紙を、そっと開く。
「そんな――!」
 亮平は一瞬にして天国から地獄に叩き落された。これが、大きなヒントになると思った――のに。
 それは全てを裏切って。
「まさか…そんなわけが――!」

 亮平は泣きたいような、信じられないような気持ちになった。



「綾音は―――自殺じゃない」

 手に残る紙が、くしゃ、と潰れた。


□■□■

【5.】

 手の中で潰れる紙の音を聞きつつ亮平は泣きたいような、死にたいような気持ちになった。まさか――自分の幼馴染までもが、殺されたとは思いたくなかったからだ。
 紙の中身はたったの二行だった。

 六月三日
  八時  “彼”と会う


――それは、綾音の命日でもあった。

 だがその文字だけで簡単に殺人であると思うのは難しい。何故なら、亮平は綾音の死については“自殺”である事しか知らなかったからだ。
 亮平にとって眠れない夜が続いた。


 目覚めると亮平はすぐに制服に着替えた。いつもより三十分も速く家を出て、一人の女性に声をかけた。
「おばさん」
「…あら、亮ちゃんじゃない」
 どうしたの、とおばさんは笑う。朝の水やりの時間、おばさんは欠かさずここで庭の木々たちに水をあげている。
「…ちょっと、綾音について聞きたいことが…」
 ちょっと驚いたように、そして悲しそうに、俯きながらおばさんは言葉を紡いだ。
「あの子について…何が知りたいの?」
「…綾音は、どこで…」
 死んでたんですか、と言おうとしたが亮平の口は動かなかった。でも、おばさんはすぐに察したようだった。
「あの子は…自分の部屋で死んでいたのよ。首を吊って――ね」
「…綾音の部屋って…」
「昔と変わらず、一階の一番日の良く当たる場所よ。庭が綺麗に見える、ウチで一番の部屋があの子の部屋なの」
 素敵でしょ、とおばさんは昔と同じような微笑んだ。
「でもね、あの子、そこで浮いていたの。足が地上から少し浮いて…」
 そう、浮いていてね、と笑う。
 亮平はゾッとするものを感じた。
「嫌だわ。あの子、もしかしてあの部屋が嫌いだったのかしら? 日が入るから、勉強に集中できなかったのかも」
「おばさん…?」
 亮平の声はおばさんには届いていないようだ。おばさんはどこか虚ろな目でどこか亮平ではないところを見ている。
「あの子は良い子だったわ。一生懸命頑張る姿が、いつも私を励ましてくれた。あの子は、私の希望だった―――のに」
 ふつ、と糸が切れたようにおばさんは肩を落とす。
「なのに――ね」
 ふふ、と笑い、かーごめ、かーごめ、と歌が響く。亮平は何も言えなくなって、綾音の家から逃げるようにして門を出た。
 電車の中で、おばさんと綾音のかごめ歌が重なる。
 胸を押しつぶさんばかりの重圧がかかる。
 息苦しかった。


「おはよっ!」
 亮平の肩を叩き、元気良く挨拶したのは白井だった。
「…はよ」
「アッ、アンタどうしたのよ、その顔色!真っ青じゃない!」
 そうか? と亮平は鏡を見る。確かに、血色は良くない。
「とにかく、保健室行った方がいいわよ! ほら、つかまって!」
 つかまって、といわれて出されたのは手で亮平は正直、握っていいものか迷った。だがそれ以上に座ってる事が辛かった。仕方なく、手を握るのではなくて腕に捕まった。
「行くよ」
 そう言ってずんずん進んでいく白井から、ほんの少し香りがした。甘い“ベビードール”だ。どうやら、つけているらしい。
 その香りに揺られながら、亮平は目の前が暗くなっていくのを感じていた。くらくらする頭で、必死に平衡を取る。
「ちょっ、あとちょっと頑張って!」
 もはや頷く事しか出来ず、ただ頷く。ドアが開く音と、少しの段差が足に触り、どうやら保健室についたらしいことを亮平は悟った。ベッドに寝かされ、頭の上に誰かの手が置かれる。ひんやりとした、気持ちの良い手だった。その手に目覚めさせられて、目を開けると、そこには誰もいなかった。
 カーテンの向こうで白井が喋っている。きっと白井だったのだろうと思い、まどろむ。

 綾音は八時に、一体誰と会おうとしていたのだろう? あの辞書に挟まっていたのであれば、きっと楠木優子に関する人だ。
 綾音は死を追って、死に飲みこまれたのかも知れない。亮平の頭に一つの考えが浮かんだ。
“犯人をつきとめたんだ”
“そして、あの日、八時に会う約束をした。日の当たる、庭に繋がる自分の部屋で”
“――だが、殺された。真実を知ってしまったから、消された?”
 でも、そう考えるのが妥当だ。
 亮平は知らぬ間に眠りについた。


 暗闇の中、壊死した家で誰かが亮平を呼ぶ。
『亮平』
――あぁ、綾音か。元気か?
『亮平』
――綾音、どこにいるんだ?
『ここよ…ここよ…』
 亮平は何も見えない真っ暗な部屋に入り、綾音の姿を探す。
 だが、どこにも彼女はいない。

――どこに――?
『ここにいるじゃない』

――!!
 突然だった。
 亮平の目の前に、カタマリが落ちてきた。
 カタマリは落ちた自分の体を支える縄の反動で、二、三回上下に揺れる。
『ねぇ…亮平』
 亮平は言葉にならず、震える手で上を見上げ続ける。
『どうして…ねぇ…』
 頭が、ぐぐぐ、と少しずつ動く。まるで金縛りにあったかのように、亮平は見つめる。
『…私を助けてくれないの?』
 大きな見開かれた目が、空虚な瞳が、亮平を睨む。
 細い足が目の前でぶらぶらと揺れ、暗闇の中に目だけが見える。
 ロープが次第に軋しんで、綾音の目は亮平を移したまま、白くなっていく。

――あ…あ――あ―――!!


「亮平君、大丈夫?!」
 ハッ、となって目覚めた。
 途端、嗚咽と共に吐気が襲う。目の前に桶が現れ、勢い良く亮平は吐いた。亮平が息を荒くしながら必死に吐いていると、背中をさすってくれた。
 誰かと思い見てみれば、それは数学の担当の先生だった。
「――あ…柏木先生、すいません…」
「いいのよ。授業が終わって、心配だから来てみただけ――ところで、随分うなされていたみたいだけど?」
「…いえ、別に大した事じゃないんです」
 そう? と心配する柏木先生は、綺麗な女性の教師だ。三年前からこの高校の数学を担当しており教え方もうまく人に慕われている。
「――ねぇ、もしかして、何か悩んだり、自分一人で考えたりしてない?」
「――…。」
「そうなのね? その内容って、もしかして―――綾音さん?」
 亮平は頷きもせず、返事もしない。
「――そうなのね…亮平君は、綾音さんと仲良かったものね。…亡くなってしまった人の事を思い出すのはいいわ。だけど、過去に捕まっては駄目。今、生きている貴方の方が、もっと大切なのよ?」
 亮平は、吐気の伴う顔をぐっ、と上げた。
「――生きている方が大切だって何で言えるんですか! 放っておいてください!」
 そして、桶を持ったまま格好良くは無いが退室しようとドアを押そうとした瞬間、柏木先生が呼びとめた。
「亮平君、待ちなさい。貴方に話があるのは、それだけじゃないの」
 亮平は立ち止まり、顔だけで振り返る。
「…何ですか?」
「とにかく…座りなさい」
 亮平はしぶしぶ桶を置き、ベッドに座る。
「…綾音さんが自殺した事は、亮平君ももう知っていると思う。そして、もう一人、楠木優子さんが死んだことも知っていると思う。――二人とも、私の担任するクラスの生徒たちだった」
 先生は本当に悲しそうに、俯いた。そう思えば、先生は特進クラスの担任だ。
「あの二人はとても仲が良くて、いつも一緒にいた。私から見ても、自殺するような片鱗は何もなかった。成績も良かったし、友人関係、人間関係も上手く行っていた。この若さで、命を絶つような要因は、何も―――!」
 なのに、何故、と先生は力なく呟く。
「でも、二人は死んでしまった。ただ、一つ、綾音さんに関しては言える事がある。優子さんが死んでから綾音さんはいつも何かを探していた。勉強もそっちのけで。私は、何か悩んでいるんじゃないかと、今と同じように聞いてみたけれど、“大丈夫です。先生、心配なさらないで下さい”なんて綺麗な敬語で返されてしまって…」
 でも結局、坪井さんは死んでしまった…、と無念そうに先生は目元を押さえる。
「…柏木先生」
 亮平はようやく、口を開く。
「楠木優子は、誰かと付き合っていたんですか?」
 柏木先生は少し沈黙し、言葉を探しているようだった。
「…優子さんと一緒に帰っていく姿を見かけた事が一度だけ、あるの。偶然、車を運転したら、信号待ちをしていて…。でも、それだけで付き合っているとは言えない」
「先生、その生徒の名は?」
 一瞬、躊躇したように見えたが、先生は口を開いた。

「――生徒ではなかったわ。でも、誰かに…似ていたような――?」



 その後、亮平は気分が優れず、結局早退することになった。
 家に電話し、兄に来てもらうことになり、白井に下校の用意をしてもらって僕は玄関に立っている。

 柏木先生はわざわざ玄関まで僕を送ってくれた。とはいっても、数メートルだが。
 その中で、先生は今日の事は秘密にして欲しい、と言った。
 こんな事を、貴方に言うつもりもなかった、とも。
 きっと、誰かに言わなくては潰れてしまいそうだったんだろう、と亮平は心のどこかで思う。手を振る先生が小さくなる。

 兄が車を職員玄関の前に横付けした。
 あらかじめ下駄箱から自分の靴を用意していた亮平は、履いて兄の車に乗り込む。
「――亮平君、体を大切にね!」
「先生もあまり…自分を追い詰めない方が…いいと思います…」
「――ありがとう」
 先生は嬉しそうに、やさしく微笑んだ。その方がいいな、と亮平は思う。
 兄と先生は視線を交わし合い、互いに軽く会釈すると車を出した。
「お前、大丈夫か? 具合が悪くなったりして…」
「…うん。大丈夫…ごめん、心配かけて…」
 いいさ、と兄は亮平の頭をくしゃりと撫でた。亮平は苦しい顔で、それでも嬉しそうに笑った。
 家の自分の部屋で布団に入りながら、ぼーっと天上を見る。動きたいけれど、胸が苦しくて動けない。
 重たい何かが胸の中に入っている感じだった。

 ふらつく足でそっとベッドから出る。まるで夢遊病患者のように、少し乱れた制服のままどこかへと歩いていく。
 庭からそっと窓を触る。窓は開いていて、亮平は靴を脱いで部屋に入った。

 そこは――綾音の部屋だった。
 簡素な部屋だった。
 乙女らしいモノは見当たらず、可愛らしい人形もない。ベッドと机はセットだったのか同じような色をしており、棚には本ばかりが並べられている。本は分厚い参考書から、小説まで様々だったがそこに漫画はなかった。
「…おいおい、いくつ辞書持ってんだよ」
 見てみれば辞書の山があった。緑、青、赤、水色…様々な辞書が並んでいる。英和、和英、国語、古文、様々な分野があった。
「…やっぱり、電子辞書買ってもらえよ…」
 ぐらつく体をなんとか支えながら、何とか吐気をこらえる。
 流石に他人の部屋でゲロをするのはよくない。しかも死んだ人の部屋で。
 その時、棚と棚の間に何かが落ちているのを発見した。
「“プチ・ベビードール”…?」
 綾音も持っていたのか、と思い驚く。
 香水なんて興味無さそうだったのに。小さな箱に入ったままのベビードールは、ピンクの色を鮮やかに反射している。
 小さな香水を手にただ佇んでいると、いきなりドアが開いた。
 驚く暇もなく、自然に手をポケットに突っ込む。
「…亮ちゃん!? こんなところで何を…!? 一体…どこから!?」
「…おばさん、すいません。こんなところまで入ってきちゃって…ちょっと、探し物をしてまして…」
「…探し物? 何かしら?」
「…いえ、もう見つけました」
「…さ、帰って。綾音が困ってるでしょ?」
 え、と亮平はあたりを見まわす。だが、綾音はいない。当然だ。死んでいるのだから。
「ほら、照れちゃって…綾音ったら。さ、もうすぐ夕飯でしょう?亮ちゃん、帰らないとねぇ…」
 誰もいない方向に向かって、おばさんは緩やかに微笑む。まるで、そこに最愛の娘がいるかのように。
「――それとも、晩御飯、ウチで食べてく? 今日は綾音の好きなもの、沢山作ったのよ」
 ねー、と綾音に向かって微笑んでいるの“だろう”。亮平は、再び吐気を覚える。
「――いえ、今日は体調が優れなくて早退した身なので…失礼します」
 残念だわ、という言葉に愛想笑いを返し、窓から亮平は家へと帰る。

「ただいま…」
「おぅ! お帰り!」
 出迎えてくれたのは、兄だった。兄はなぜかエプロンをしている。
「――何? そのエプロン」
「――可愛いだろ! というのは冗談で、今日は母さんがいないから、御飯作ってんだよ」
「作れるの?!」
「当たり前だっ! お前もこれくらいできるようにしとけ!」
 え〜、と亮平が言うと、兄はバカモノ、と叱った。
「あ、そうだ。お前もクリーニング出すものは、あのカゴに入れといてくれ」
「分かった」
「じゃあ、まだ夕飯まで時間があるから、テキトーに潰してろ」
 はいはい、と答えて亮平は靴を脱ぐ。さっき指さしたカゴの横を通って、二階に上がる。
「――?」
 亮平はほんの少し異変を感じた。
 が、すぐに気のせいだろうと思い、部屋のドアを閉めた。


 翌日、学校に行くと白井がすぐに駆け寄ってきた。
「ねぇ、すごい剣幕で柏木先生がアンタのこと、探してたよ? 何かしたの?」
 亮平はギョッとした。何もしていないはずだが、と思いつつ亮平も柏木先生を探した。
「亮平君!」
 廊下を出た瞬間、突如として呼びとめられ、亮平は固まる。
「あっ、あの、先生、何か――?」
「とにかく、こっちに来て!」
 先生は階段に場所を移動させ、周りに人がいないかどうかキョロキョロと見まわすとようやく口を開いた。
「――分かったの、分かったのよ…優子さんと一緒にいた人…」
「本当ですか?!」
「――誰かに似てると思った。そうだわ――そう…」
 先生はブツブツと独り言を言っている。
「で、だれなんですか?!」
「…聞きたいの?」
「もちろんですよ!」
 じゃあ、言うけど、と先生は言いにくそうに口を開いた。


「貴方の――…お兄さんよ…」


―――え?

 突如として、昨日の情景が脳裏に蘇る。

 あの時二階に行こうとしたとき、感じた異変。
 ふわりと漂うように、誘うように、香った甘い香り。

 甘く、芳しい、死の香り。

 あの“ベビードール”の香りは、確かクリーニング用のカゴに入った兄の皮ジャンからしたのだ。

□■□■
【6.】
――貴方の、お兄さんよ
 躊躇なく放たれた言葉に一瞬息を呑む。

「そんな…まさか、兄が?!」
「…はっきり、そう言う事はできないけれど…少なくとも、面識はあったはずだわ…」
 お兄さんには、楠木さんの事を聞いた事がある? と先生は聞く。
 亮平は黙って首を振った。
「…そう。なら一度聞いてみる必要があるわね」
「…先生、事件の記事って…ありますか?」
「…多分、あったんじゃないかな?」
「それ、持って来てくれますか?」
「いいわよ。帰りにね」
「…ありがとうございます」
 亮平はゆっくりと頭を下げ、先生と別れた。
 兄の皮ジャンから香る甘い匂い。あれはベビードールの匂いにそっくりだった。 だけど今、ベビードールは流行りの香水。誰か他の人がつけていてもおかしくはない。
 不安に高鳴る胸を抑えつけて、亮平は先生を待った。
 四時間目終了後、先生は見つけた記事を持って来てくれた。
 どうやら先生が昔買った雑誌のコピーのようなものらしく、事件の様子についてライターがまとめあげた記事が二つ載っている。

 某日明朝近隣の高校に通う女子生徒、楠木優子さんが遺体として発見された。どうやら近くのビルの屋上から飛び降りたらしく、警察は自殺と他殺の両面から調査を進めている。
 この事件では気になる点が多々浮上している。第一に自殺前彼女が何者かと一緒にいた事が酒に酔った男性によって目撃されており、その信憑性は高くないものの警察も重点を置いている。第二に屋上で香水が叩き割られ、事件当時はその香水の匂いが辺りを強く漂っていた。それは死に間際の彼女が自分の最後を飾るための演出であったのかも知れず、そういった演出は過去にも事例がある。第三に彼女がもし自殺だとすれば、どうして靴を脱がなかったのか。高校生とは言っても彼女が自殺に関して調べていた形跡はなく、自殺に関する知識は乏しかったはずだ。飛び降り自殺となると咄嗟的な事でない限り靴を脱いで飛び降りるというセオリーが一般には広まっている事から、彼女は何か咄嗟的なこと、もしくは他者によって飛び降りたのではないかと思われている。
 これらを統合して警察では他殺の容疑を固めているが、それ以外に詳しい事はあがっていない。彼女の両親は最近成績が少し落ちていたことを気にしていた様子があったといい、もしかするとそれが自殺の原因だったのかも知れないと顔を曇らせていた。
 私の見解では、彼女は自殺ではなく他殺であり酔っ払いの見た誰かは彼女と親しい交際をしていた相手ではないかと推測している。昨今の高校生の恋愛は実に大人びているようで芯はまだまだ子供であり、その矛盾がこのような悲劇を産んだのではないかと連想される。

 前回の女子高校生飛び降り事件の続報。
 警察は両親の発言、その他、抵抗の形跡が無く、悲鳴を聞いた者もいないことから、楠木優子氏の飛び降りを自殺と断定。
 一緒にいたと思われる男性は彼女が自殺する一時間前に彼女とは分かれており、酒に酔った男が見たのはその頃のことだったと思われる。
 彼は彼女と親しい関係ではなく、彼女自身に頼まれて勉強を教えていただけだと言う。
 彼は「彼女は成績が落ちた事をものすごく気にしていた」と語る。
 彼自身、あの後に亡くなったこともあり気落ちが激しく部屋に閉じこもっていると言う。我々も取材を試みたが「今は取材等を受ける気は全くありません」と断られてしまった。
 私は中学、高校と成績が良かった事も悪かった事もなく、どちらかといえば遊んでいた方だったので勉強が出来ない事で自殺をするという事はあまりにも考えにくく感じられた。しかし昨今の受験戦争の激化は目を見張るものがあり、彼女自身受験を視野に頑張っていたのかも知れない。私の知人曰く、勉強が出来る人というのは自分には勉強しかないと思っていることが多い。今回成績が下がったというのはきっと彼女にとっては強い衝撃だったのだと思う。その瞬間彼女は自分の存在意義であった勉強を失い、自分の価値をどこに見出していいのか分からなくなったのではないか。そして遂には自分を追い詰め、奈落の底へ突き落としてしまったのではないか、と語る。
 彼女の抱いていた絶望がどんなものであったのかもう分かる術はないが、私たちはもっと大切なものを伝えていかなければならないような気がする。

 と、ここで切れていた。どうやら次のページに行っているようだが、先生がそれを削除したようである。
 割れた香水瓶。それは、もしかすると“ベビードール”なのかもしれない。では、兄が楠木優子の家庭教師をしていたのか?
 たしか今日兄は家に一日中いたはずだ。亮平は足を早く動かした。
 靴を脱いで自分の部屋に入り鞄を投げ捨てる。階段を降りて台所によりお茶をコップに注いでから居間の扉を開けた。
 そこにはワイドショーを見ている兄がいた。
 ただいま、と声をかけ、そっと横に座る。
「兄さん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「おーう、何だ?」
 亮平は何気ない顔をして、お茶をすすった。
「楠木優子って子、知ってる?」
 テレビ画面を見たまま、返答を待った。多分三秒も無かったであろうと思うが妙に長く感じられた。
「おう、知ってるぞ」
 やけにあっさりと帰ってきて亮平はちょっと拍子抜けたような気がした。
「彼女、自殺したんだってね」
「あぁ。…お前、今頃なんでまた?」
「ずっと知らなかったんだ。だから最近知って驚いた。同じ学校なのに全然知らなくて。兄さんは彼女と面識あった?」
「あったよ。俺は彼女の家庭教師をしていたんだから」
「そうなの?! 初めて聞いたよ、そんな事」
 亮平はわざと、驚いたような顔で画面を見つめる兄の顔を見た。
「優子ちゃんは俺の友達の知り合いで、その友達がバカなもんだから俺にその役が回ってきたんだよ」
「…どんな子だったの?」
「いい子だったさ。真面目で、一生懸命で。だから自殺したって聞いた時胸が止まるかと思ったよ。あの日最後に会ったのは俺だったんだ。別れ際、彼女が何かを言い出そうとしたのを今でも覚えてる。だけど、俺は聞き返すことなく分かれたんだ。もしもあの時立ち止まって彼女の言葉を聞いていれば、何か変わったかも知れなかったのに…」
 兄は平気なように振舞ってテレビを見ていた。だが、亮平の目から見ても兄の苦悩はわかった。
 両手で顔を拭いて、兄は自嘲気味に呟く。
「俺が今更そんな事思っても、どうにもならないんだけどなぁ」
 笑いがあまりにも痛々しくて、亮平は思わず目をそらした。
「あのさ、彼女が愛用していた香水って、もしかして“ベビードール”?」
 兄は驚いたように、亮平の顔を見た。
「良く知ってるな。確か、そうだったと思うぞ」
「今、一番流行ってる香水だし」
 兄は相変わらずテレビを見ている。亮平は思いついたかのように、口を開く。
「そういえば――…」
 亮平はタイミングを見計らってキーワードを口にする。
「クリーニングに出した、革ジャン。あれって兄さんのだよね?」
 あぁ、と兄は相槌を打つ。
「あれから、すごい甘い香水の匂いがしたよ。一体誰につけられたの?」
 亮平は首を少しだけ動かし兄の表情を見た。兄は表情を変えることなくじっとテレビを見たまま、三秒ほど沈黙した。
「あれは、女友達に付けられたんだ。買ったばかりの香水をね、俺の皮ジャンにこぼしたんだよ。あまりにも臭いから密閉して袋の中にいれたまま、ずーっと放っておいたら全体に染み渡っちゃってな。思い出して慌ててクリーニングに出したのさ」
「ふーん。そうなんだ」
 そそっかしい友達だね、などといいながらも兄の表情を観察する。兄は表情を変えることなく画面を見つづけている。
「そういえば…兄さん知ってた? 綾音と楠木さん、友達だったらしいよ」
「…そうなのか?それは知らなかった」
「それでちょっと思うんだ…。もしかして、綾音は楠木さんの死を疑っていたんじゃないかって」
「…そこに、自殺の原因があると?」
「分からない」
「…お前、あんまり人の死に関わるのは止めろ。引きずり込まれるぞ」
「だけど…!」
「人の死っていうのは、もっと深くもっと恐ろしいところにある。生きている人の域を越えて、それに近寄ろうとすれば飲みこまれる」
 一瞬、兄の表情が険しくなった。亮平は兄の真剣な表情に言葉を詰まらせた。

 部屋に戻ってから、じっと考える。今日が終わったら猶予期間はあと二日。あまりのんびりはしていられない。せっかく与えてもらったチャンスを無駄にはしたくない。だが、兄の様子を見ていても全く普通だしとても人殺しをしたようには見えない。
 後悔の念にも襲われているようだった。…というか――正直、兄が殺人犯などという事を信じたくない。
 小さく被りを振って、自分の中の直感を信じこませようとする。だが、それはもはや直感ではなく自分の願望となっていることを亮平は知っていた。


 残り一日。二日目の朝。
 依然として何も掴めないままの朝が来た。
 部屋で自殺した幼馴染“坪井綾音”。
 それよりも前に屋上から自殺した“楠木優子”。
 綾音は“楠木優子”の死を疑っていた。恋人であったかもしれない亮平の友人“鴨田淳”、楠木優子の家庭教師をしていた兄“篠田隆太”、そして彼女愛用の“ベビードール”。
 誰が、誰を殺したのか。
 自殺なのかそれとも――他殺なのか。
 綾音の残したメモ、命日に“彼”と会う。
――彼とは一体――?

 頭がグルグルした。眩暈すら覚えそうだ。昨日早退したこともあって、今日は学校を休んだ。部屋で一人、ベッドに潜り込んだまま朝からずーっとこうしている。
 学校に行っても、どこに行っても、手がかりなんてどこにもない。メビウスの輪のように同じ所をグルグルと回っているような感じがする。
「気持ち…悪い…」
 考え過ぎて、脳みそがヒートアップしたみたいだ。今頃自分の脳みそはコゲて、肉臭い油ぎった煙を立てているに違いない。
 何か胸の奥で引っかかってるような気がするのに、それが何なのか全く分からない。
 もうどうでも良いような気さえしてきた。
 そんな気だるい午前を過ごし母が作ってくれたお粥を食べて一息つく。
 思い出すのは昔のことばかり。昔の記憶の中で綾音はまだ生きていて、ひたすら無邪気に笑っている。
 ゆっくりと目を閉じ思いのままに記憶を呼び起こす。

 あれはいつのことだったか。
 確か幼稚園の頃。その頃綾音は空前の一人野球ブームだった。
 綾音は僕を自宅からさらい、強引に空き地に連れていった。そこで拾った野球ボールを見て微笑む。
 野球するよ、と綾音は自信満々に言う。僕が二人では出来ないというと、やろうと思えば人間なんだってできるって言ってた、と僕に力説する。その言葉の力強さに思わず僕も深く頷いた。
 空き地に、なげるよーと僕の声が響き、綾音がいつでも来いー! と大きく笑う。どこから見つけてきたのか、妙にボコついた金属バット。今思えば、何だか怖いことに使われていたんじゃないかと少し怖い気持ちになる。
 カキーン、と金属バットらしき金属音が出る。
 わぁ、と僕は空を仰ぎ見る。白いボールが青い空に良く映えて空を飛んでいく。
『で、誰が取りにいくの…?』
 僕の問いに綾音は少し目を閉じた。

 で、やっぱりこうなるわけね、と思わず僕が呟いて、綾音がゴツンと拳骨を僕の頭に落とした。ボール探しは困難を極めた。ずいぶん良く飛んでいったらしく、遠くまで探しに行って、クタクタになって夜になるまで見つからなかった。
 もう帰ろうよ、という僕に対して綾音は絶対見つけるまで帰らない。と言った。何でそんなに必死なのか僕には全く分からなくて、首を傾げた。
 夜になっても見つからなくて、僕は疲れきっていた。薄暗い道は怖かったし、ボールなんてあっても見えない。早く帰りたいとは思ったが、今にも泣きそうな綾音を置いて一人で帰るわけにもいかず、もくもくと探す。
 ん? と思って草の間を見てみれば、そこにボールを発見した。僕は半ば救われたような気持ちでそのボールに手を伸ばす。
 途端、足が着地するはずの地面がなかった。その小さな湖で僕は落ちたのだった。ストンと余りにも簡単に落ちたので綾音も気付いていない。僕はとりあえず必死に泳いでボールを取り、近くの岸に戻ろうと思った。ところが、残念ながら疲れが出たのか力が出ない。水をかき分けてはいるが、手にもったボールが邪魔でうまく進めない。
 あ、ヤバい。と思った瞬間、近くで大きな水音がした。心臓が波打った。何か大きなものが自分に近づきつつある。夜の薄暗い湖。恐怖は最大に達しようとしていた。
『亮平!』
 突如として現れた女の子――それは綾音だった。
 溺れかけの僕を少し引っ張って、何とか足のつくところまで連れていってくれた。どうやら僕の泳いでいたポイントは低い場所だったらしく、それ以外の場所は そんなに深くなかった。何やら無様で恥かしい思いだった。
――女の子に助けられてしまった。こんな時、日曜のヒーローなら逆なはずなのに。
 綾音は手を引いたまま、安全な明るい道路まで歩く。一度も振りかえらない綾音の背中は怒りを表していた。
『…ご、ごめん』
 僕が謝ると綾音は怖い顔をして振り向き、手のひらを両方、僕の頬にぶち当てた。
『…ばかっ!亮平が悪かったわけじゃないでしょ。私が…私が悪かったんだから…なのになんで…ばか!』
 頬にぶち当てた手はそのまま後ろに滑って、綾音は僕に持たれかかって泣いた。
持たれかかる綾音にどうしていいのか困惑したまま、僕はそっとボールを見た。そこに書かれているのは小さな名前。聞いた事のない名前――坪井俊彦。
 あぁ、と僕は思う。
 そうか。だから見つけたかったのか。
 同じように小さな背中をさすって、呟く。
『見つかってよかったね…』
 返事は心地良さげな寝息だった。
 それから僕は綾音をおぶって歩き、つぶれ掛けたところを心配して探しまわっていたうちの母に見つけてもらった。

「本当にあの時は行き倒れるかと思ったな」
 目を開けて少し笑う。
 その後、綾音から小さな手紙が届いた。
 届いたといっても郵便とかではなく、郵便受けに放りこまれたというのが正しい。直接渡せばいいのにね、と母が少し笑ったが僕は綾音らしいと思った。
 中には小さい紙に大小様々な文字がたくさん並んでいた。半分くらいが湖に落ちた事に対する怒りだったが、最後に一言、“ありがとう”と書いてあった。

「…あの手紙…どこにやったっけ…?」
 大切にしようと思って、どこかにやったのだが…どこか全く覚えてないのが悲しい。
「あぁ〜…気持ち悪ぃ…」
 吐きそうな気分になりつつも何とか正気を保つ。風邪でも引いたのかなぁ、などと思いつつまどろんでいると、ドアが開いた。
 ドアの先にいたのは母だった。
「ちょっと失礼するわよ〜…って、何この部屋?! 空気悪いわよ!」
「へ…?」
「何? この甘い匂い! 臭いわねぇ…」
 バタバタとドアを開け、窓を開ける。
「こんな部屋にいてよく腐らなかったわねぇ。でも顔色が随分悪いわよ。匂いにやられたのね」
「…そうかも」
「亮平、香水なんて持ってるの?」
「多分友達に振り掛けられた匂いを持って帰ってきちゃったんだと思う…」
「そう。とにかく換気はちゃんとしなさいよ?」
「分かった。ごめん」
「まぁ、いいわ。早く元気になるのよ」
 それじゃあね、と母は亮平が持って来た食器類を持って下に降りていった。
 ドアを閉めて、ベッドに座る。空気が清浄になって少し過ごし易くなったような気がした。香水の瓶が少し開いて洩れていたのかも知れない。
「あれ、でも確か買った香水は白井に…」
 あ、と亮平はズボンのポケットに手をやった。
「そうだ…綾音の部屋から勝手に拝借したんだった…」
 ヤバイなぁ、と少し焦る。体調がおかしい時にやった事とは言えこれは立派な不法侵入、窃盗だ。
 ポケットから出した香水は何故だか分からないが蓋が半開きで、プラスチックの箱から洩れて制服のズボンは甘い香りがプンプンした。
 それだけで頭が痛くなって思わず遠ざけた。辺りは夕闇が広がりつつある。
「とりあえず…蓋は閉めなきゃな…」
 というか、このままじゃ自分が死ぬ。確実に死ぬ。そう思い箱を開ける。シールなどは剥がされもう前にも開けられた事があるようだ。
「うげ。すごい濃い…」
 その時カサ、と何かが落ちた。
 どうやら紙のようだ。
「手紙か…?」
 亮平は紙を持ったまま、しばらく迷った。
 見るか、見ないか。見たところで気付く人はいないと思うが、良心の呵責というものを感じてしまう。
「まぁ…いいだろ」
 自分を納得させて紙を開く。

――Happy birthday 
 気に入ってくれると、いいんだけど。

 たったそれだけの文。
 だけど、亮平はそれを見てようやく分かった。



――誰が綾音を殺したのか。


□■□■

2004/12/10(Fri)19:49:39 公開 / 冴渡
■この作品の著作権は冴渡さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
どうも、冴渡です。初めましての方、お久しぶりの方々、皆さんお元気でしょうか?
行き詰まったため、初めの方から少しずつ微妙に変えていきました。セリフなども少し変えて、何とかここまでかきあげる事ができました。
ようやく、次がラストとなりそうです。この迷宮のような小説に付き合ってくださった方々、本当にありがとうございます。ラスト、気張って頑張ります。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。