『青空と風のアリア』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:ゅぇ                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
第一話:くろねこ亭のありあ

 くろねこ亭に、休日はない。だから、両親が死んでからは、ありあも休んだことがない。やってくる客のために、いつだってくるくると働いている。
 「今日は何がおすすめなの?」
 彼は隣国から来たそうだ。くろねこ亭にほど近い、街のはずれに住んでいる。何の仕事をしているのか、何のためにこの国へ来たのか、細かいことは知らない。年は若かったし、見目も良かった。ありあのたった一つ上の18歳、黒のタンクトップと古びたジーンズがよく似合う、凛とした青年だ。
 いつから彼が常連客となったのか、ありあは覚えていない。いないが、いつからか彼は毎日夕方一番にくろねこ亭にやって来て、あたたかな夕食をゆっくりと摂ってゆく。名を、トキといった。
 「ローストビーフ」
 「スープは?」
 「ミネストローネよ」
 トキが来るのが、開店の合図だった。トキが来ると、ありあは『くろねこ亭』と描かれた可愛らしい木製の看板を、表に出しに行く。
 「じゃあローストビーフとパン。それからスープ」
 「はい」
 ゆうべから煮込んでいるスープが鍋の中でコトコトと良い音をたて、温かな湯Cをくゆ轤ケていた。
 くろねこ亭は、王宮からも街からも少し離れた森の中にあった。昼間でもいくぶん仄暗い森に、ひっそりとたたずむ店だったが、夕方になって陽が沈むと常連客でいっぱいになるのだった。両親の死後は、ありあがずっと一人でくろねこ亭をきりもりしている。
 「どうぞ」
 十分に温まったスープを皿に入れてトキの前に出した頃には、もう小さなくろねこ亭は大半の席が埋まっていた。トキの大きく綺麗な手指が、スプーンを取る。彼を見るたびに、ありあはいつもその端整さに息を呑む思いがした。天性の美しさとはこのことだ、と思う。
 「ありあは結婚しないのか? 街の娘はそろそろ嫁ぎ先を探すのに躍起になりはじめたぞ」
 トキの横で、仕事終わりの黒ビールを流し込みながら不意に口を開いたのは、宮廷お抱え大工のタレムだった。普段そう口数が多いほうではない。珍しく口数の多い中年の常連客にわずかに驚きながらも、ありあは料理を作る手を休めずに彼に目を向ける。
 「あたし、まだ17だもの」
 「17とはいっても……女の子はだいたい18か19には嫁にいくだろうよ」
 「なぁに? いきなり結婚の話なんて」
 「ありあと結婚でもしたいわけ? 奥さんが泣くよ」
 スープを美味しそうに口に運びながら、トキがタレムに笑いかけた。人なつっこい青年なのである。明るい茶髪に美しく整った容貌。近寄りがたいほど洗練された男だったが、彼の性格がその近寄りがたさを消していた。
 「いや、違うんだ……」
 冬が近づいたこの国は寒い。まだ雪は降らないまでも、身体にきゅん、と沁みこんでくるような冷気がある。木枠にはめられた窓から見える外の森は、もう真っ暗だった。ずっと向こうに、街の灯かりが星のように見えるだけだ。タレムの冴えない顔つきが、外の暗さとあいまって何故かありあを不安にさせた。
 「そうだ、その話を俺もしに来たんだよ」
 「おまえもか? 俺もだよ」
 くろねこ亭は狭い。だから、一人の話題が気づけば客全員の話題になる。タレムが、幾分ホッとしたように周りを見て、言葉を続けた。
 「で、何?」
 料理皿を運ぶありあの代わりに、トキが訊ねた。
 「いや、あのな。近頃王宮の様子がおかしいんだ」
 「おかしい?」
 「俺も思った。王室の方針に意見する者を、有無をいわせず処刑するんだ。……でも今の王は、そんなことをする方じゃなかったよな?」
 トキのスープを飲む手が止まった。ありあは相変わらずくるくると働いている。
 「ちょっと調べてみたら……皇太子が好き勝手やり始めてるらしいのさ」
 「そうそう。気に食わない臣下はすぐに処刑、税金の引き上げ、どこぞの西国の紛争に軍を送って無駄金を使う」
 「祝日に王国旗を掲げない家には罰をくだすっていう法律まで作ったとか。近々掲示があると思うが」
 「西国に軍を送る金のせいで、教育費が削減されるんだと。そのうちこの国も戦争になるんじゃないか」
 「そうなったら俺たちも皆戦場送りだな」
 くろねこ亭の客には、王宮お抱えとして働く職人が多い。おそらく彼らの愚痴は、みな真実に基づいたものなのだろう。
 「それで?」
 トキが続きを促した。
 「皇太子が、妾探しに熱心でな」
 トキの催促に話し始めたのは、タレムではない。今度はカウンターの傍のテーブルでライスプディングを食ラていた王宮の庭師だった。
 「妾探し……」
 「あぁ。側近に美しい娘を探し出させては、皇太子の後宮に放り込んでいるんだ。俺の師匠のお孫さんも、後宮に入れられた」
 「独り身の娘がやはりよく連れていかれてるっていうぞ。それで美しい娘ときたら、おまえ、ありあなんか危険の極みじゃねえか」
 風が強くなってきたようだった。戸口に掲げたカンテラの灯が揺れている。
 「だから、ありあ。相手がいるんなら世話してやるから、早めに式を挙げたほうがいいんじゃないかと思ってな」
 「そうだ、トキなんかどうだ? 毎日くろねこ亭に通い詰めだろう」
 空になった皿を洗い始めたありあは、小さく笑ってそうね、と頷く。結婚する意志も、それから結婚するような相手もいなかったが、皆の心配は和らげておきたかった。トキがすっかり黙り込んで、グラスを傾けている。みんなの話が一段落ついても、彼だけはまるで先程の話を反芻するかのようにずいぶんと長いこと口をつぐんでいた。黒光りするストーブの火が、ぱんっ、と音をたてて弾けた。

 明日の仕込みを終えて、ありあはようやくベッドに入る。酒を飲んでいた最後の客が帰るのは、いつも明け方近くなってからである。最後の客、といっても本当の最後の客はトキだった。毎晩ありあの手伝いをしてから店を出てゆくのだった。
 (確かに、この国も変わりはじめている……)
 王は何をしているのか、と思った。今の王の即位式の日のことを、ありあは今でも覚えている。まだ両親が生きていた頃、ありあが4歳になるかならないかの頃だったと思う。質素な即位式だったが、それからこの国は豊かになり、争いもなくなった。兵役期間も短くなったし、税金も下がったし、何より学校に行けるこどもが増えた。
 あたしたちが一番望んでいるのは何だろう。幸せな暮らしだ。幸せな暮らしとは、何だろう。家族がいて、好きな勉強ができて、あたたかい家であたたかいものを食べて。そして何よりも、戦乱に巻き込まれることなく生きていられる。西国の紛争では、一日に無数の人が殺されていると聞いた。
 日々、入れ替わりやって来る小説師が異国の情報を伝えてくれる。最初のころは、西国で子供がひとり殺されたそうだ、妊婦がひとり殺されたそうだ、という話に皆が心を痛めていたはずだった。なのに、今では争いで10人が死んだ、20人死んだ、という話があっさりと伝えられるだけだ。死んだんじゃない、とありあは思う。殺されたのだ、と思う。戦争を望む数少ない人間のために、戦争を望まない無力の人間が数多く殺されるのだ、と。
 いつから人間は変わってしまったんだろう。ゆうべタレムたちが話していた内容を思い出して、ありあは寝つけなかった。この国はまだ平和だ。きっと明日明後日に戦争になる、ということはないだろう。
 (……それでもあたしにできることは……)
 学校にだって行っていない。親に読み書きを教わったくらいで、自信があるのは料理の腕だけだった。あたしは疲れて帰ってくる人たちに、最高の食事をさせてあげよう。それがさしあたって、あたしにできることだ。
 (そうよね。お母さん)
 決して、純粋に他人のためにそう思っているわけではなかった。自分が死にたくないから、そう思うだけだった。自分が幸せに暮らしていきたいから。そんな自分が、少し浅ましい。

 月が雲に隠れていた。ガラス窓が小さく鳴る音に、ありあはハッと我にかえった。
 (今日はもう寝ないと……)
 『俺たちも皆戦場送りだな……』
 客の一人が言った言葉が頭について離れなかったが、ありあは無理やり目を閉じる。長い睫毛が、ほんのわずかに震えた。


第二話:王の棲む城

 ブーツの底が、少し擦り減っていた。ずいぶんと長い間使っていた、母親からのプレゼントだった。
 「おばさん、いつもの紅茶を3缶ください」
 肉を5包み。桃の缶詰を3缶。米を2包み。くろねこ亭で必要な数日分の食料を街で買い込む。
 「大丈夫かい、ありあ。困ったことはないかい?」
 紅茶専門店の女主人が、労わるようにありあに声をかけた。小さい頃から、ありあをよく気にかけてくれている女だった。紅茶3缶を紙に包み、ついでに紅茶入りのビスケットを1袋おまけにつけてくれる。
 「大丈夫よ。ありがとう、おばさん。また来てね」
 白いコートの裾が風に揺れる。すっかり重くなったバスケットを両手でかかえて、ありあは真昼の街から帰途についた。空は晴れて明るかったが、どうにも風が冷たくてやりきれない。温かいスープを飲んでから帰ろうと、そう思ってパン屋に寄ったのが、ありあの痛恨の誤りとなった。

 どさどさっ、と鈍い音をたててバスケットから包みや缶詰が転がり落ちた。不意につかまれた手を、振り払ったせいだった。
 「悪いことは言わん。少し皇太子殿下のお食事の相手をするだけだ」
 これが王宮の役人なのか、と思うほど若い男たちである。まだ20をいくらか過ぎたばかりではないかと思われる姿かたちをしていた。
 「嫌です、あたしにはやることが……」
 「皇太子殿下よりも優先するようなことがあるものか」
 真っ先に、くろねこ亭のことが思いやられた。嫌だ。両親から引き継いで、ずっと続けてきたくろねこ亭を休むことは考えられなかった。
 「名前は?」
 「……ありあ」
 「ありあ……といえば、森で料理店を開いている娘ではないか」
 「そりゃあ美人なはずだ。くろねこ亭のありあといえば、街の男が皆うわさにする料理上手の見目麗しい娘だ」
 タレムたちの心配が現実になった状態である。まさか自分が、と思っていたありあだった。昔から綺麗だ、まるで精緻に作られた人形のように美しいと賞美されたことはよくあったが、それが皇太子の臣下に連れ去られるようなことだとはまったく思っていなかった。
 「反抗は許されないぞ、お嬢さん」
 「反抗すれば家族みな処刑されるし、おまえが料理店をやっているとなればそこの店に出入りしていた人間もみな処刑されるだろう」
 ハッと、ありあは顔をあげた。パン屋の主人が、まるでこの世の終わりというような悲愴な顔でこちらを見つめている。それはそうだ、どんなにありあを助けたくとも、ありあを助ければ自分の家族がただでは済まないはずだった。
 あたしがここで逆らえばどうなる? 学校へ行っていないからといって、そんなことがわからないほど愚かではない。
 「……わかりました」
 満足げに、男たちが顔を見合わせて頷いた。
 「店を閉めたりするのに1日時間をください」
 はっきりと、ありあは言った。客に何も言わずに、くろねこ亭を閉めるわけにはいかなかった。おそらくパン屋の主人からすぐに街中に話が広がるだろうが。
 転がった食料をもう一度丁寧にバスケットに詰めて、ありあはこの数日分の食料をどうしようかと思いながら立ち上がった。役人は、明日の夜にくろねこ亭まで迎えに行くと、そう言った。
 (こんな国じゃなかったはずなのに……)
 皇太子が成人してから、この国は少しずつ狂い始めているような気がしてならない。ありあは、ひどく寂しく虚しい思いを抱いて、のろのろと家へ帰った。

 「あたしね」
 くろねこ亭はいつもと同じように見えた。日が暮れかけた頃、今日も一番にトキがやってくる。少し胸のあいた黒いセーターに、ストライプの茶系のパンツ。胸元に月を象ったネックレスが揺れていた。
 「あたしね。王宮に入ることになったの」
 いつもと同じように、スープを飲もうとしていたトキの手がぴたりと止まった。
 「…………」
 しかし、何も言わない。いつも明るい双眸が、何を考えているのかわからない光をたたえて、こちらを見つめただけだった。
 「街で買い物をして、広場の角のパン屋さんに寄ったの。パン屋のおじさんも一緒にいたからトキももう知っているかと思うけれど」
 淡々と、ありあは告げる。何故どうにかならないか、どうにかしてくれないか、と助けを求めないのだろう、と自分でも思った。
 くろねこ亭にやってくる客の中では、トキが一番若く美しい。ケンカも強かったし、頭も良かった。彼に頼めば、何とかしてくれそうな気がするのに。
 「くろねこ亭はどうするの」
 「しばらく閉めるわ。今まで休んだことなんてない店だから、とても悲しいけど仕方ない。反抗すれば、お客さんたちまでただでは済まないっていうし……」
 トキは黙ってスープを口に運んだ。あまりに黙り込んでいるので、ありあはその間に看板を表に出しに行く。森はひっそりとしていて、まだ誰もくろねこ亭にやってくる気配はなかった。
 もしかすると、もうすでに話が広まっていて、今夜は誰も来ないのかもしれない。ふと思って、ありあの胸にどっと寂しさが押し寄せてくる。中に戻って、ありあは今日買い込んだ肉を、余らせないようにたっぷり使ったパイをオーブンから出した。少し量が多すぎる感もあったが、トマトと小海老のリゾットも作ってあった。
 ありあが出した料理を、トキは黙々と食していく。一言も話さなかった。普段からよく彼の周りには人が集まる。明朗で決して口数も少なくない彼が、このように黙りこくっているのは幾分不安だった。ほかの客は、いっこうにやってくる気配がなかった。ストーブの火がぱちぱちとはじけながら燃える音しか聞こえずに、ひどく気まずい思いがする。
 彼が最後の一皿を食べ終わって、その皿をさげると同時に食後の紅茶をありあが出したときだった。
 「ありあ。望みを捨てるな」
 不意に飛んできた彼の言葉に、ありあは思わずトキの瞳を見つめた。
 「……必ず助ける」
 どうやって?
 聞くことはできなかった。不思議と訊ねる気にもならなかった。ありあはただ一度だけ、頷く。漠然とした不安と恐怖が渦巻いていた胸に、ふわりと安心感が飛び込んできた思いがした。
 トキが助ける、と言ってくれた。それで良い。それがうれしかった。あたしは一人じゃない。もしかすると、ほかの誰でもない、トキがそう言ってくれたのが嬉しかったのかもしれなかったが。
 「みんなに伝えて欲しいの。いつかまたくろねこ亭が戻ってきたら、そのときは必ず来てねって」
 少し悲しい瞳で、トキが頷いた。


 そして王の棲む城。
 役人に囲まれながら、一度だけありあは、くろねこ亭のある森のほうを見返ってから凱旋門をくぐった。今までなら、威厳と気品に溢れた王宮に見えていたのが、今ひどく薄汚れたものに見えた。
 これも戦争のひとつかもしれぬ。
 そう思って、ありあは一歩を踏み出した。


第三話:暁の少年

 ふと、くろねこ亭の暖かい灯かりを思い出すことがある。あの『くろねこ亭』と書かれた看板を、いそいそと表に出しにゆく少女の姿を思い出すことがある。東に昇る紅い太陽、西に傾きかけた銀色の月。交互に見やって、トキは今頃王宮にいるであろうありあのことを思った。この太陽が昇る方向へ戻れば、ありあのいる国へ辿りつく。
 「久しぶりだね、トキ」
 馬を降りたトキの耳に、懐かしい幼馴染みの声が聞こえた。今、俺は祖国にいる。ありあの住む国の西隣、トキが生まれたのはこの国だった。
 「ずいぶん前に1日だけ戻ってきてから、もう2年だよ。いつ戻ってくるかと思っていたら、なかなか戻ってこないんだからな」
 響(きょう)は、久々に祖国へと舞い戻ってきた幼馴染みを歓迎するように抱擁しながら微笑んだ。その温かい体温に、またトキはくろねこ亭を思い出した。
 「で、隣はどうなんだ? よっぽど居心地が良かったか?」
 「さあ……どうだか。でも居心地良くはなさそうだぜ。なんだか雲行きが怪しいな」
 曖昧に言葉を濁しながら、トキは馬具を外して片付ける。トキの家は裕福であった。父親は王宮で武官をしており、母親は王立の学校の教師をしていた。今まで暮らしに不自由したことなどない。両親のいない場所で暮らすことのほうが多いのに、両親のいない生活というのも、考えられなかった。
 「この国は戦争になるかな」
 あの日タレムたちが話していたことを不意に思い出して、トキは誰にいうともなしに呟いた。
 「そういう噂はあるさ。知ってるだろう、おまえも。うちの国がお隣さんを吸収するって噂」
 トキが部屋に入ったのに続いて、響もあとに従う。どんよりとした雪空だったが、まだ時間は朝食時を少し過ぎたくらいで、トキの両親の姿はなかった。
 「殿下は無血開城させるって自信満々らしいよ。どこからその自信が湧いてくるのか……何かおまえが一枚噛んでるんじゃないだろうね」
 この国は小さい。今まで目立った争いもなく、しかし立派な軍事力を頼りに侵略されずに独立を守り通してきた。
 王は、決して戦争推進派ではなかった。傾き始めた国を狙って、無血開城をさせ、国土を広げる。平和主義といえば平和主義、しかしこすっからいといえばこすっからいやり方だ。まぁ現実として、それが血を流すことなくうまくいっているのだから良いか、とトキは思う。
 今の王になってから、すでにこの国は北の小国をひとつ吸収している。これもひとつの戦争の形には違いなかった。ありあならそう言うだろう、とトキは思ってひとつ呼吸をする。
 『……必ず助ける』
 言った言葉を、トキは忘れてはいなかった。
 「トキ?」
 「……ん?」
 ぼんやりしていたようだ。訝しげな響の声に、慌ててトキは振り返った。
 (俺には愛情なんて必要ないはずだ)
 くろねこ亭で、いつも美味しい食事をさせてもらっていたから、情が移ったのだろう。さっきからありあのことばかりに思いがゆく自分に、トキは人知れず苦笑した。


 「今日のおすすめは?」
 「ムクドリのパイが。あとデザートにくるみのタルトを作ったの」
 「そっか。とりあえず先にビール飲もうかな」
 いつもどおりのくろねこ亭だ。トキの好きな黒ビールとチーズの小皿を差し出そうとして、ありあはつまづいた。
 (……きゃっ)
 ビールがこぼれる。つんのめった、と思ったら、目が覚めた。

 暁の月が、静かに光をたたえていた。
 石造りの部屋の窓から、明け方の群青色に近い空の色が覗いている。皇太子に対面してから、どうやらありあは気に入られたようで、温かく何の不都合もない広い一人部屋に入れられた。
 「……ホント悪趣味だわ」
 戸口に番兵がいるのを承知で、ありあは聞こえるくらいの声でそう言った。くろねこ亭を閉める日、トキが言った『助ける』という言葉。あれはうれしかった……。だが、別にそれを期待しているというわけでもない。若い青年一人で、いったい何ができるというのだろう。大国の王室を相手に。
 この王宮に来てひと月あまり。いろいろなものを見た。皇太子とその周りの、堕落した生活。異議を唱えたらしい官人たちが生き埋めにされる騒ぎもあったし、皇太子の側近が税金の帳簿を誤魔化したということも聞いた。
 だが、そのどれにも、王が口を出したという形跡も噂もなかった。
 『今度の王殿下はすばらしい方だよ』
 言っていた父親の言葉を思い出す。あの父親は、人を見誤るような男ではなかった。うそを言うような男ではなかった。彼が誉めちぎった王が、息子の放蕩生活と勝手な政策変更を責めないとは思えなかった。
 (まさか死んでいる……?)
 どきり、とした。それなら皇太子のやりたい放題に納得がいく。もしありあの推測があたっていれば、この国は退廃の一途をたどるに違いない。いつかこの国が戦場になるに違いない。いつかこの血が、広い大地に染みこんでゆくかもしれない。
 (戻らなければ)
 ふと、ありあは痛切に思った。ありあには、くろねこ亭しかなかった。くろねこ亭に戻りたい。トキに会いたい。タレムたちに会いたい。あたしはこんな冷たい石に囲まれて、死んでいきたくない。
 空が少しずつ明るくなってゆく。だが、夜は明けない。この国を包む太陽が暮れようとしている。
 「ありあ。殿下のお呼びだ」
 また、トキの顔が脳裏をよぎった。
 「……はい」
 一睡もできなかった身体が重い。ありあは、ゆっくりと腰をあげて、戸口へと向かった。
 心のどこかで頼りにしているトキが、今この国にいないことを、ありあはまだ知らない。


第四話:朧月夜

 春がやってきた。とろとろ、と眠くなるような暖気がゆるやかに身体を包んでゆく。狩りにゆこう、という皇太子の言葉に引きずられて、ありあは今森にいた。王宮の西に位置する、あの森だった。
 「今日はうさぎとキジが良い獲物だったな」
 お気に入りの猟犬を従えて、皇太子がありあの前をゆく。
 「殿下。寄り道をしてはいけませんか」
 ありあの背後には、馬を御する馬丁も騎乗していた。皇太子に気に入られてからありあは、決して粗暴な扱いを受けたりはしなかった。
 「寄り道?」
 「はい。あたしが前まで開いていた店です」
 背の高い男だったが、とくに何というものもない。精彩を放っているというわけでもなく、高貴な空気を持ち合わせているでもなかった。
 だが、後宮の女たちはこぞって彼の寵愛を手に入れようとする。
 (……あたしにはわからない)
 財産ですべてを覆って、それ以外に何も光り輝くもののない男の何に惹かれるのだろうと、ありあは思う。やはり財産か。
 「そういえば、そういう話を聞いたな。かまわん、行こう」
 「ありがとうございます」
 森の真ん中の小さな泉。ありあが生まれるずっと前からそこに佇んでいた大木。何もかも、変わっていなかった。
 秋の寒空から、春の暖かな風景に変わってこそいたが、すべてありあの見知ったものである。およそ半年の間、離れていたこの森が、ひどく懐かしくやさしく思われた。

 くろねこ亭。

 小さな音を立てて、くろねこ亭の扉が開いた。ひと冬を無人で過ごしたはずなのに、意外と綺麗なままだった。
 懐かしさに、何か大きくまるいものが胸に突き上げてくるのを感じた。ほかの誰かにとっては、そんなにも感慨深いものではなかろう。しかし、ありあにとっては、たったひとつの生きる場所であったし、たったひとつの家でもあった。何にもかえがたい、決して離れたくない場所だった。
 いつか戻れる。ありあはそう信じて疑わない。
 「汚いところだな」
 ありあを哀れむように、皇太子がつぶやいた。彼は彼なりに、ありあのことを真剣に愛しているようだった。本気でありあを可愛がる気持ちで、彼は哀れんでいるのだ。
 目を見ればわかる。彼は本気で、ありあが以前住んでいた小さい店を見て哀憐の気持ちを持っているのだ。
 「…………」
 ありあは黙ったまま、室内をゆっくりと見回した。こういう人種には、何を言っても伝わらないものだ。豊かで豪奢なものだけが幸せだと思っている人間が、どこにでもいる。そんな人々には、決してありあの幸せはわからないだろう。
 愛する人たちのために料理の腕をふるい、今日の出来事を語る。別に刺激も何もいらなかった。ただ穏やかに、穏やかに平々凡々とした日々を送ることができればそれでいいのだ。無駄な血を流すことなく、それから民をないがしろにするような王室の下につくことなく、つつましやかに過ごすことができれば、それで。
 だが、それはきっと皇太子のような人間には、ただのみじめな生活にしか見えないのだろう。
 「税の引き上げが、おまえの後宮入りのあとでよかったな」
 そう、平然と言うのだった。自分が税を引き上げたせいで、こうなったのだとは決して考えないようだった。もちろん、彼が税を引き上げる前からありあは、こうしたつつましやかな生活を送っていたのだが。
 あのとき、ありあの予感はおおかた当たっていた。皇太子の父王は、不治の病に侵されていた。それがどんな病なのか、ありあにはわからない。だが、皇太子が権限を持てるようになった経過を、ありあは閨の睦言のなかで聞いた。興味をもって質問を重ねるありあの態度を、皇太子は自分への好意と取ったらしい。何でも、教えてくれた。
 ありあが決して心を許していないなんて、思ってもいないのだろう。愛してもいない貴族の男の後宮に入った自分と、その汚らわしさに、毎日ありあが慟哭しているなどとは。
 (……早く出たいのよ。こんなところ)
 今まで明るくきらきらとしていた瞳に、幾分翳りが見えてきていた。トキの言葉を信じて待っていた、あの秘かな期待感も、今では薄れてきている。
 「いつまでもここにいては仕方ないだろう。帰るぞ、ありあ」
 彼らのような人間が引き起こしたかもしれない、西国の紛争を思って胸が痛んだ。彼らを気遣う思いと、それから、次はわが身か、という危機感であった。

 『戦になるらしい』
 『隣国が攻めてくるらしい』
 噂が国内に広まったのは、ちょうどそんな時期。


 ありあの身は、それでもずいぶんと自由になっていた。王宮内であれば、好きに行き来ができる。寵愛を受ける娘の、特権でもあった。ひどく素直でおとなしいありあの気質が、良いほうに効果をもたらしたのだろうと思われる。朧月夜。遠くから、皇太子が宴を催して騒いでいる声が聞こえてくる。例によって例のごとく、宴に引きずり出されそうになったのを、珍しく体調不良を原因に断ったのだった。
 王宮のはずれにある小さな神泉。番兵が一番少ないのは、この場所だった。ありあは、一人になるといつもここへ来る。森が、見えるからだ。
 「帰りたい……」
 小さくつぶやく声も、いつもと変わらず静かな空気の中へ吸い込まれていく。春とはいえ、夜にもなればまだ風は冷たい。冷たい風が頬を撫でてゆくのを感じて、ありあは大きく息を吸った。
 空の月を見上げて、帰ろうと思ったそのとき、ありあはふと異変に気づいた。さっきまで番兵がいた場所に、番兵がいない。番兵は、持ち場を離れることを許されてはいなかった。勝手に持ち場を離れることは、自殺行為でもある。間諜行為とみなされて、処刑されることだって有り得るというのに。
 (…………?)
 獣がいるふうでもない。どうしたのだろう、とありあは番兵がいつも立っているはずの場所へ近寄った。一瞬、生温かい風がそこを通り過ぎたような気がした。したが、それは生温かいようでいながら、ひどく爽快な風であるようにも感じられた。風をそのまま匂いにすると、こんな感じになるのではなかろうか。若草の香り、とでもいうのだろうか、そんな表現がふさわしいような風が。
 トンッ、と。そのとき不意に、軽い当身をくらって、ありあは気を失った。


第五話:夜明け前

 この国は、間違いなく傾いていた。
 父王が病で寝込んでから権限を手にした皇太子は、決して性格が悪いとか冷酷であるとか、そういった類の人間ではなかった。ただ生粋の王族思考で、ただ純粋に愚かなだけである。むしろそれが、この国の悲劇となった。
 税の引き上げ。教育費の削減。徴兵制度。西国への軍隊派遣。若者の学力は低下の一途をたどり、巷では強盗に殺人が横行する。こんな国では、決してなかった。
 現時点で、王はもう、皇太子に位を譲ったようなものであった。昔の時代を知る者たちはみな、古き良き時代を偲んではこの国の現状を嘆いた。街の若く美しい娘はほとんどが後宮に入れられ、若い男は次々と西国へと派遣されてゆき、明らかにこの国の生産力も活気も衰え始めている。
 森も林も、減っていた。どんどん大きな王立の商業施設が建設されては、街にずっと賑わいを見せていた小さな店々が消えてゆく。西の隣国の動静など、誰も気に留めようとはしなかった。誰かが本気でこの国の行く末を憂えて、皇太子に進言しても、幽閉されるか処刑されるかどちらかであった。
 この国を見て、若者たちはいったい何を考えるだろう。己の住む国のすべてに、何を感じるだろう。思想は統制され、自由がなくなりはじめた祖国。ただむやみに愛国心と忠誠だけを強要する王室のもとに暮らすことに、何を思うだろう。自由になりたいとは、思わないのだろうか。
 教育費のために働く親を尻目に、街を飛び歩く若者たちは、もはや何も感じないのかもしれぬ。街の外観は、昔のまま情緒ある風情で、煉瓦造りの家々と石畳の街路が王宮を中心に広がっていたが、民の心は日に日に荒廃してゆく。これではいけない、そう気づいた人々も、何か出来るわけではなかった。ずっと以前から、このようになる兆しはあったのかもしれない。

 処刑はしばしば王宮内で行われた。特に大きな国ではないから、誰かが処刑されると、それは噂となって街の隅々にまで広がる。初めは一人の処刑に皆が心を動かしていたものの、今は誰もが関心を示さなくなった。またか、と心で思うだけで、誰もが皆無難に生きてゆこうと必死になっていた。
 命の重さに違いはない、と誰もが思う。特に権力によって守られる身分ではない人間は、そう思う。誰にだって命がある、と思う。
 だが、現実は違った。命の重さに違いはない。だが、権力に守られたものが、すべて命の重さに違いを求めた。彼ら自身の命は、ひどく重く尊いものだった。それがたった一人の民の話になると、まるで違ってくる。皇太子のような人間にとって、命とは己と己の愛する者たちだけであった。それ以外の人間には、命などないも同然なのだ。それが現実で、そしてまたその現実に本気で抵抗しようとする者はまるでいなかった。今までの平和が、仇となったのかもしれない。

 くろねこ亭は、扉を閉ざしたまま国を見つめる。

 顔に冷たいものを感じて、ありあはきつく閉じていた瞳をゆっくりと開いた。冷たい、と思ったのは人の手。開いた瞳にまっすぐ飛び込んできたのは、ありあの頬にそっと触れる大きく綺麗な手指だった。
 (……あたしは……)
 記憶が曖昧になっている。必死で思い出せば、最後の記憶は王宮の神泉の近くで番兵がいないことに不審を感じたところまでだった。そこで何かに当身をくらって、気を失ったのだと、何とかおぼろげに思い出す。
 「…………」
 ゆっくりと、まだ幾分かすむ瞳で周りを見回したが、見慣れた石造りの部屋の壁は目に映らなかった。室内ではないようだった。横たわった耳もとで、草々が擦れる音がする。鼻先を、芽生え始めた青草の匂いがかすめた。
 (どこ……)
 自分では素早く起き上がったつもりだったが、実際上体を起こしてみると、それはひどく緩慢な動作に思われた。先程までありあの頬にあった手が、さりげなく彼女の背を支えてくれているのに気づいて、ありあは傍らにしゃがみこんだ人間の顔を見ようと顔をめぐらせる。
 「大丈夫?」
 落ち着いた、柔らかな声色だった。若い男が、ありあの背を支えたまま微笑を見せている。どこか失っていた意識の奥で、こうして正気に返ったときに傍らで支えてくれているのはトキであって欲しいと思っていた……ありあは、いくぶん落胆を感じて男を見上げた。
 「あなた、誰?」
 男が差し出してくれた木椀の水を、遠慮がちに口に含んで訊ねる。
 「俺はね、君の敵ではないよ。まだ名前は明かせないけれど」
 身分の低そうな話し方ではない。ゆったりと、穏やかに話すその様子は、なぜかひどく好感をもてた。
 「敵ではない……? 味方でもないって、ことですか?」
 さっきまで気を失っていたせいか、まだ思うように声が出ない。やや途切れ途切れに、ありあは男に訊ねる。彼の手は、まだありあを支えてくれていた。小さな優しさを感じて、ありあはそれに甘んじる。
 「いや……助けるよ、必ず。君が危ないときは」
 必ず助ける、という言葉。その言葉が今改めてトキの姿を彷彿とさせた。こんなところでまで彼のことを思う。実際のところ、自分はやはり彼に恋をしていたのかもしれないと気付く思いで、ありあは苦笑を口元にたたえた。
 「ここは、どこですか」
 「君のいた国の、西隣の王国さ。国境に近い森の中」
 「何でこんなところまであたしを……?」
 水の残りを、すすめられるままに飲み干したとき、少し向こうの茂みが音をたてた。ありあがびくり、とするほどの音だったが、傍らの男はつゆほども驚いた様子を見せない。こちらに危害を加えるものではないのだろうか、とありあは木椀を持ったまま口を閉ざした。口を閉ざしたかわりに、瞳をみひらいた。
 「お嬢さんはちゃんと目を覚ましたよ。傷ひとつなく、ね」
 「当然だろ。怪我させないように細心の注意を払ったんだ」
 すっ、と空気に溶け込むようでいながら、耳に心地よい明朗さを持った声が、ありあの耳を烈しく打った。
 「トキ……」
 呼ぶ声が、わずかに震える。茂みのほうから、布袋をいくつか抱えて歩み寄ってくる若者の強い双眸が、ありあの姿をしっかりと捉えていた。それが、ありあをまるく包み込むように見つめる。

 『今日のおすすめは?』

 訊ねる声色が、鮮やかにありあの脳裏に蘇った。この森をくまなく探せば、くろねこ亭の看板が見つけられるかもしれない、と。そんな錯覚に陥るような思いがした。そういえば、トキはこの国の出身だったと、ありあはぼんやりと思い出す。ぼんやりと思い出す思い出が、ひどく鮮やかであることがどうにも不思議でならなかった。
 「ありあ。どこか痛いところはない?」
 黒い長袖に、少し大きめの黒いズボン。ベルトを締めた腰が細く見えて、それがトキをさらに精悍に見せている。黒い衣服にきらきら光るネックレスが映えた。見慣れた美しい顔立ちが幾分見知らぬ人に思われて、ありあは言葉を出せずにひとつ頷く。
 「ありあ。おまえの国はもうしばらくしたら、この王国に占領される」
 少し哀れむような声色で、トキは言った。意味がわからずに、ありあは彼の双眸をじっと見つめる。うそを言っているようには見えない、穏やかないつもと同じ瞳の色であった。
 「……どういうこと?」
 まるでわけがわからずに、きょとんとしたありあを見て、先程から支えてくれていた男が驚いたようにトキに向き直った。
 「おまえ、内偵だってこと、言ってなかったのか。無理して助けるほどの相手に」
 トキが、動じたふうもなく苦笑して頷く。彼は何を言っているのだろう。ありあの頭が、少しずつ働きはじめた。そして、男とトキ、それぞれの言葉をようやく理解したとき、ありあは茫然として彼らを見つめたのだった。


第六話:激流

 「うちの殿下は、そちらさんの皇太子に使いを出したのさ」
 そっと説明を始めたのは、トキではないほうの男だった。
 「そちらから難民が出ているから、いい加減国政を改めてはいかがか、とね。そうしたら皇太子殿は何と返してきたと思う? お嬢さん」
 半年近くも皇太子の傍で、彼のことを見ていれば答えはおのずと浮かんでくる。きっと余計なお世話だと、突っぱねたに違いない。
 「怒っていたでしょう……自分に都合の悪い干渉を嫌う人だから」
 「ああ。よくわかってる、さすが皇太子の後宮にいただけのことはある」
 トキが、少し複雑そうな顔をした。自分が離れていた間に、ありあが皇太子のことをひどくよく知るようになったということを厭わしく思っているのが微かに顔に出ている。
 「そう。それでね、彼がどうしたかっていうと、こちらの使いを人知れず殺したのさ」
 ハッとした。近頃どうにも兵の動静が激しいと思っていたら、こういうことだったのか、と気付いた。幾分皇太子がそわそわして、いつもより饒舌になっていたことを、いまさらながらありあは思い出す。あれは、兆しだったのだ。隣国の王から直接遣わされた使いを殺して、それがただで済むとは思えなかった。
 「でもね、お嬢さん。これがうちの王殿下のやり方なんだよ」
 ややうろたえたありあの視線が、再び男二人に向けられたとき、ようやくトキが口を開いた。
 「使いを送って、余計な口を出したのは殿下の策略だよ。皇太子の性格を見抜いたうえでの、ね。そうしたら使いはただでは帰されることもないだろう。あの皇太子なら、戦争も辞さないに違いない。戦争になれば、これくらいの荒れた王国ならたいした犠牲も払わずに、占領下におけるってわけ」
 ごく冷静な口調だった。
 「情報はたいていくろねこ亭で聞くことができたし」
 ありあは、ようやくトキが毎日のようにくろねこ亭にやってきていたわけを知った。客の多くが王宮で働く人間だった、あのくろねこ亭。酒が入った客は、みな仕事場での愚痴を口にする。あの店にいれば、王室の多少詳しい情報も手に入れることができたはずだった。
 まるで教育を受けていないありあが王室に疑問を抱きはじめたのも、客たちが口にする王室の現状を聞いたからだったのだ。トキが常連客だった理由を今、はっきりと理解してありあはそら怖ろしいほどの寂寥感を感じた。
 それはまるで恐怖に似ている。今まで身近にあると思っていた全てが、音もたてずに消えてゆくような怖ろしさだった。一瞬で、全世界の音が聞こえなくなったかのような。それから少し、隣国からの内偵を手助けしたかのようなわずかの罪悪感を感じた。
 「戦争に、なるの?」
 今までは幾分遠い世界の出来事だったのが、すぐ傍まで来ている。実感など湧かないまま、ありあは掠れる声でトキに訊ねた。
 「そうだな。でもうちの内偵が腐るほどそっちに潜りこんでいるから。皇太子も誰も、王宮の奴は勘付いてないようだけど」
 「お嬢さん、これは内緒だからね。トキは君に何でもぺらぺら話してるけれど。一応これでも最高機密なんだから」
 そんな機密事項を話してくれたトキに、ありあは少しだけ安心した。トキのそれは、下手をすると自分の命取りになりかねない、そんな行動だった。
 トキの傍らに立つ男には、それを許す寛容さがあるようだった。よほど仲の良い仲間なのかもしれない。
 「俺たちも一応説得したんだよね。そういう策略でいったら、戦争になる。多少なりとも血は流れるから、もう少し国が傾くのを待ったらどうかと奏上したのさ」
 「言ったが、どうやら殿下も焦っているらしい。西国の紛争で石油の価格が高騰していてね。おまえのところが、それで石油を独占してしまってからでは手が出せなくなると。それで、少々強引にもっていこうとしたんだ」
 トキにも、その仲間にも、まるで脂ぎった殺意や敵意は見られない。ごく冷静に、祖国に仕えているようである。
 「だから、ありあ。戦争になる前におまえを国外に出しておこうと思ってさらったんだ。驚いたろ、ごめんな」
 何にしろ、トキはありあを助け出してくれたという事実に変わりはなく、ありあは複雑な思いで乾いた唇を噛んだ。
 「国の民に手は出さないさ。内偵たちにもその指示は行き渡ってる。ただ、皇太子たち王族と、王宮内の人間はただでは済まないだろうが」
 トキの双眸は、それでもやはり明朗だった。半年前と、そう変わったところはなかった。しかし、彼の奥底にある内偵としての冷ややかさを見た気がして、ありあは何も言えない。王宮内の人間は皆、処刑されるのだろうか。タレムや、庭師のジンはどうなるのだろう。あの愚かな皇太子は、どうなるのだろう。それから何よりも、我が祖国はどうなるのだろう。祖先が今まで愛し続けてきたこの国は、いったいどうなるのだろう。
 少し前から、この国はもうだめだと思い続けてきたありあの心に、こみあげてくるものがあった。この国を憂えていたのは何故だったか。
 (……あたしは自分の祖国が好きだったから……)
 トキが内偵になって国に尽くすのも、彼なりに祖国を愛しているからなのだろう。皇太子のこととは、話が別なのだ。愛している国だからこそ、民意に沿わぬ皇太子を疎んだだけなのである。

 「ありあ。この森の奥に小さいが、綺麗に整えられた小屋がある。何もかも終わるまで、そこにいてくれ」
 トキが、穏やかだがはっきりとした声でそう言った。
 「……え、でも……」
 彼は、確かにありあを守ろうとしているようだった。必ず助ける、といったあの時の言葉を、今彼はしっかり実行しようとしている。あのとき、彼はどんな思いで助ける、と言ったのだろうか。
 (思わず……言ったんだわ。あたしのために。言わずにいられなかった)
 本当は、どうでもよかったはずだった。それが、沈むありあを見て思わず言ってしまったに違いなかった。もともと明朗で人気もあって、性質の良い人間だ。己の言葉を守らずに、いられなかったのだろう。
 「いいな。ここにいてくれ」
 ありあを小屋に入れて、トキは言った。仲間の男は、ただ黙って彼の傍らについている。笑みを絶やさない男だった。心の奥底が見えない、不気味だとありあは思った。この笑顔で、今から争いの場へ赴くのだ。
 男というものは、わからない。笑顔で、人を殺すのだろうか。笑顔で、流れる血を見つめるのだろうか。
 黙りこんだありあの姿を、肯定と受け取ったのか、トキと男はそっと小屋を出ていく。早ければ数日でカタがつく、という言葉が扉の外から小さく聞こえた気がした。

 小屋は小さかったが、こじんまりとして整理されていた。ベッドもキッチンも人が生活できる程度にきちんと整っていて、戸棚には幾日ももちそうなほど食料が詰め込まれている。することも何もなくて、ありあは部屋の片隅のベッドに、とんと腰をおろした。考えることも、ひとつしかなかった。
 自分はどうすればいいのだろう。ありあは考え込んだ。トキは、助けてくれた。だが、国のタレムやジンや、それからそのほかのくろねこ亭の客たちはどうなるのだろうか。幼いころからよく遊んだ、少年たちの中には兵士となった者もいる。彼らは? 王宮に連れてゆかれた娘たちは? 皇太子の目を盗んでは話し相手になってくれた馬丁たちは?
 きっとここで待っていれば、トキはまた迎えに来てくれるに違いない。もしかすると、またあの男と一緒かもしれない。そしてきっとくろねこ亭に戻してくれる。トキのことだから、タレムたちも助けてくれるかもしれない。だが、それで帰ってどうなるだろう。そこはもう、ありあの住み慣れた国ではない。ありあの知り合いの中にも、何人かは傷つく者が出るだろう。
 「お母さん……」
 陽は暮れていた。きっと夜を狙ってトキたちは出ていったのだろうと、今になって気付く。春らしい、幾分ぼんやりとした月が東から昇りはじめていた。ありあには、今何もなかった。できることが、なかった。自分のために食事を作り、森の小鳥にパンくずをやったりすることしか。
 西に沈んでいく太陽が、気味悪いほどに赤い。太陽の姿はもう見えなかったが、その赤い光だけが木立の間からのぞいている。
 それが、血の色を彷彿とさせた。多少の犠牲だけですむ、とトキたちは言った。だが、その『多少の犠牲』のなかに自分の知り合いが入るかもしれない。その『多少の犠牲』のなかに、怖ろしいほど多くの悲しみがついてくることを考えて、ありあは涙がこぼれた。
 あたしは王宮から逃げることを望んだ。だが、こうして祖国の皆が危ないかもしれないというときに小屋の中でじっとしていることを望んだわけではなかった。贅沢なことかもしれなかったし、愚かなことかもしれなかった。両親が、祖父母が、そのまた両親が、ずっとずっと想い、愛し、守り続けてきた国は、その子孫たちが守る義務があると、ありあは思った。
 (今のままではいけない。でも、だからといって、ほかの国の一部になってしまうなんてことは……)
 王室は潰れるかもしれない。だが今が、大きな転換期だ。英雄は、民だ。王でも皇太子でもなく、今立たねばならぬのは、あたしたちだ。

 その夜が明けたとき、小屋の中にありあの姿はなかった。


第七話:儚き道標

 布靴はぼろぼろで、脱ぐと足指には痛々しいほど血がにじんでいた。フレアのついた長いスカートが、木々に引き裂かれてただの布切れのようなものになっている。あたしは何でこんなことをしてるんだろう、と途中何度も思った。何だか自分が、ひどく無駄なことをしているような気がした。
 (……痛いわ、足が)
 涙が出るような痛みが、幾度もありあの足を止めようとする。だが、ありあはそれでも足を止めなかった。激しい痛みに涙を浮かべながら、それでも東の我が祖国へ向かって必死で歩いては走り、走っては歩いた。
 とにかく今行かねば、という思いだけが彼女の身体を動かしている。戦場になるであろう祖国へ戻って、何ができるか何をするべきか、まるで考えてはいなかった。
 (殺しては禍根が残るわ。残ればどのみち、国はいつか亡びる……)
 エゴである。自分の愛する友人たちに、知り合いに、くろねこ亭の客に無事でいてほしいという欲望。それから、こんなときに目を背けるような卑怯者でいたくない、という欲望。いつでも自分はまっすぐ歩いていたい、という自己中心的な欲望だった。自分の国だけは、無事でいてほしい、と。
 それでもかまわないではないか。
 「……嫌よ……」
 荒くなる息のなかで、ありあは何度か呟いた。とにかく、理由が何であれ血なまぐさいことは嫌なのだ。祖国がなくなるのは嫌なのだ。
 前方に小さな沢を見つけて、ありあは祖国との国境がすでに近いことを感じた。森が終わろうとしている。脱水症状を起こしかけた身体が、ひきつけを起こしたかのように小刻みに震えていた。
 夢中で沢へ降りると、両手に水をすくって口へ運ぶ。熱に冒されたようだった頭が、凍るように冷たい水で一気にしゃん、とした。貪るように何度か手を水に浸し顔を洗い、のどを潤してから、ありあは使い物にならなくなった布靴を脱いで沢を渡った。
 夜通し歩いたありあの目に、昇り始める太陽が映った。やはり赤かった。森が終わって、さっと眼前がひらける。ありあの気持ちが、再びぐっと高揚した。この行く先に、タレムたちがいるのだ。そして、トキもまた己の使命のために奔っているのに違いない。ありあは、小さな胸にこみあげる恐怖感をふりはらうように足を踏み出した。ここからが、祖国の地であった。

 祖国の地、住み慣れた王宮近くの街には厭なざわめきが蔓延していた。民家は燃えていなかったが、街のあちこちで狼煙と思われるような煙が細々とたちのぼっている。石畳の街道に、ところどころ血痕らしいものが見受けられて、ありあは気を失いそうになった。
 (……やめて)
 やめて。この国を傷つけないで。
 ありあは逸る心を抑えて、ゆっくりと石畳の上を歩いた。石畳は、王宮の大門へ向かっていた。
 「ありあ!?」
 驚愕した声が聞こえて、ありあはハッとその声がしたほうへ泥に汚れた顔をめぐらせた。汚れていたが、本来持っている白く美しい肌は失われていない。ありあに声をかけたのは、あの日役人に命をくだされたときに一緒にいたパン屋の主人だった。
 「ありあ! ありあ! どうしていた、無事かい!?」
 大声で怒鳴ったものの、妻にその不用心な大声をたしなめられて慌てて口を閉ざす。そして黙ったまま、こちらへ駆け寄りありあの手をとった。
 「こんな話聞いちゃいないよ。いきなり隣国の軍が街中に踏みこんでくるなんて」
 「戦になるなんて、誰も言ってなかった。噂では聞いていたけど……」
 みな、混乱していた。誰も、正確な情報をつかんでいる人間はいないように見える。ありあだって、トキから話は聞いたもののいまいち理解しきっているわけでもない。
 「皇太子の公開処刑が行われるって話だよ」
 公開処刑、とありあは口に出して呟いた。遠くに感じていた言葉が、今こんなに身近にあることが、ひどく怖ろしい。何とおぞましい言葉か、とありあは思わずうつむいた。
 「うちの人も王宮にいたんだけど、トキが助けてくれたのさ。ここんとこ姿を見ないと思ったら、ちゃんといざというときに出てきてくれるんだね、あのコは」
 複雑な思いがする。しかし、それでもトキはちゃんと知り合いを助けたのだ。冷え切っていた心が、ほんの欠片ほどだけ満たされた気がした。
 ここで皆と一緒におとなしく待っていれば、未来は拓けるかもしれない。たとえ隣国の占領下におかれ、そのうち祖国の名も消え、隣国と同じ名になったとしても、意外にうまく平和に暮らしてゆけるかもしれぬ。
 ありあに温かなスープを出してくれた主人の、ごつごつした手を見つめながら一瞬思った。あの日、役人のせいで飲むことができなかったスープだった。皇太子が処刑されるということは、隣国に永遠に屈服することだと、スープがなみなみと入った椀を見てありあは考える。
 「あたし、行ってきます」
 「ありあ!? どこに……!」
 「ちょっと。必ず戻ってきますから、おじさんたち気をつけてください」
 主人とその妻が、慌てて戸口まで追いかけてきたが、彼らの鼻先でばたんと扉を閉めると、ありあは走り出した。
 すでに布靴はない。しなやかで綺麗な素足が、血と泥で汚れている。心臓麻痺でも起こしたのだろうか、幾人かの老人が道端で倒れていた。見知らぬ旗を持った兵士たちが、その手当てにしゃがみこんでいる。きっと皇太子の直属の兵士なら、こんなことはしないだろうと思って、ありあは幾分情けなくなった。大門が見えてくる。
 
 今ありあを見守る道標は、己の心だけだった。
 このままではいけないという焦燥感。
 祖国を守らねばならぬという責任感。
 愛するものを助けねばという人の心。
 以前と同じ祖国で、以前と同じくろねこ亭に戻りたいという欲望。
 どれもこれもが、ふとした拍子に消えてしまいそうに儚い道標だった。

 どれもこれもが、夢かと見違えてしまいそうなほどに儚い道標だった。


第八話:生きるということ。

 春の空は薄青色に晴れていたが、ありあがまっすぐ見つめる王宮はまるでどんよりと澱んだ雲に覆われているように見えた。
 一度だけ、ありあは髪を揺らす春風に耳を傾ける。あたたかい風が、ふわりと身体中を包み込んで、ありあは己が宙に浮いた心持ちがした。
 (お母さん)
 見知った王宮の中に、ありあは足を踏み込んだ。さすがに王宮内には、血を流して倒れている兵士の姿が目についた。何度か助けようと駆け寄ったが、急所を一撃されて即死の状態のようだった。そのかわり、兵士の死体はそこまで数多くない。石畳から分かれる左右の小路の奥には、左手に神泉が。右手に厩舎がある。ちらりと、そちらを一瞥してからありあはまっすぐに宮殿内へ向かった。たった2日ほど離れていただけなのに、なぜか懐かしく思われる。それが、閉じ込められていた忌まわしい後宮であっても。
 懐旧の念に襲われて、ありあは慌てた。皇太子を公開処刑にしてはならぬ、と思う心がありあを動かした。
 後宮へ向かう廊下には、人ひとり見当たらなかった。いつもなら聞こえてくる妃たちの嬌声もなく、ひどく閑散としている。後宮へ向かう廊下を右手に見る大広間には赤い絨毯が敷き詰められているが、泥でそこらじゅう汚れていた。泥がこびりついて、絨毯の毛先がぱりぱりに乾いているのが哀しい。数日前までは、塵ひとつなく掃除された美しい床だったのに。
 それから広間で王が謁見をするときに座る御座は、以前のまま正面にどんと腰を据えていた。民のために全てを尽くした王が、座っていた王座だった。そこはいつからか皇太子のために場所を譲った。しかし今は誰も座ってはいない。王座の脇の王国旗が、途中で折れて椅子に倒れこんでいる。
 左手の廊下をゆくと、王族の部屋が並ぶ。ありあはちらりと広間を振り返って、その左手の廊下へ突き進んだ。寂しいほどに、人がいなかった。王族の部屋が並ぶそのひとつひとつの部屋を、扉を開いて確認していく。
 どの部屋も、人はいない。少し不安になって、ありあは廊下の突き当たりから広がる左右の廊下を見渡し、耳を澄ませた。
 (どっちに……)
 何かしらの騒ぎが聞こえるはずだ、とありあは腹ばいになって床に耳を当てた。ぼろぼろの衣服で、傷だらけの足で腹ばう自分が、何だかとても滑稽に思えてならない。惨めでは、なかった。
 清々しい衣服で、暖かなストーブの火に当たりながらスープを作り、パイを焼き、ローストビーフを切り分ける幸せはもう、そこにはない。
 小さなざわめきは、右手から聞こえてくるように思えた。立ち上がると、ありあはそちらのほうへと走り出す。右手の廊下をまっすぐ進んで外に出たところに、広場があるのを思い出した。きっとそこだ、と思う。豪華なシャンデリアにも、高価な食器が集められた部屋にも、もうありあは見向きもしなかった。自分の身体の中のどこにこんな力が、と思うほど走る足が速く感じる。廊下の突き当たりから、絨毯が石畳に変わった。
 しばらく石畳を走ると、薄暗く狭い出入り口が現れる。壁にぶつからんばかりの勢いでありあはその出入り口を飛び出した。

 春の青空が、霞んでいる。今日は暖かかった。
 広場へ行くと、そこには数十人の兵士たちとそれから……王と皇太子が後ろ手に縛られていた。王が病に伏せってからは、奴隷同士の決闘や公開処刑に使われた広場である。奇しくもその広場に、皇太子が座り込んでいた。
 王と見える初老の男は、死んでいるのか生きているのかわからないほど全く動かない。一人の青年が、王の身体を支えていた。その男は、見間違えたりしない、トキに見えた。
 (……トキ……)
 一瞬、ありあの足が恐怖に止まった。あたしは今から何をするのだろうか、と頭のどこかで不思議に思った。

 『今日のおすすめは?』

 綺麗に整ったくろねこ亭の様子とトキの声が、走馬灯のようにありあの脳裏を奔る。いつだって笑いの絶えなかったくろねこ亭の温かさが今、ひどく懐かしく切なく思い出された。必ず戻る、毎夜誓った熱い想いが、再びありあを包みこみ小さく嗚咽させた。
 「何だ、おまえ……」
 ありあの姿を認めた兵士が、数人彼女に駆け寄ってくる。彼らのどこにも殺気は見られなかった。女子供の死体を、今までひとつも見ていないことをありあは思い出した。
 「どいて。お願い、どいてください……!」
 長身のたくましい兵士たちを押しのけて、ありあは広場へ駆け下りた。自分たちを押しのける力がひどく弱いのを感じたのか、兵士たちは不審そうにありあの後ろを追ってくる。持っている剣に手をかけようとはしなかった。
 捉えられた人々の前に来たとき、ありあの息はもう上がっていた。ゆうべからずっと歩いたり走ったりの連続で、体力の限界が近づいてきている。
 「……ありあ!?」
 ありあ、と叫んだ声はひとつではなかった。王を支えていたのは確かにトキで、叫んだのはそのトキと、皇太子であった。
 「ありあ、おまえ何故ここ……」
 「ありあ!! どこにいた、無事だったのか!!」
 トキの声に覆いかぶさるようにして、皇太子がありあに向かって叫んだ。傍らに立つ隣国兵士が、驚いてのけぞるほどの大声であった。この人は、自分が後ろ手に縛られながら、まだあたしのことを心配していたのか。なんと愚かなことを、とありあは涙が出るほど哀しく思った。
 「何故戻ってきた、早くゆけ!」
 それは先程トキが言いかけた言葉と同じように思えた。自分の寵姫だと知られたら、という不安感が皇太子を興奮させているらしい。彼はあたしを本当に愛しているのかもしれない、とありあの睫毛が小さく震えた。
 王族に生まれたことが、皇太子の不幸だったのかもしれない。
 「何をするつもりだ、ありあ」
 不安げに、トキが王から離れてこちらへやってくる。揺れる想いを押し殺して、ありあはまっすぐ前を見た。
 (今、言わなければ)
 「わたしは皇太子殿下の妃です。殿下をこちらへ」
 トキが凍りついた表情をした。それがとても、とても切なくて。ありあはトキのもとへ走り寄りたい衝動を抑える。
 「……ありあ……?」
 「どうなってるんだ、トキ」
 トキのいない間、ありあに水をくれたり話をしてくれたりした男がトキにささやいているのが分かった。
 「わたしは、皇太子殿下の妃です。彼は、一国の皇太子です。公開処刑はおやめください」
 自分が、何故こんなことをすらすら口にしているのか分からなかった。だが、驚くほど言葉が出てくる。それは皇太子への愛情とか、そういった類のものではなかった。
 ありあは、じっとトキの瞳を見つめた。トキもまた、ありあの瞳を見つめ返した。ありあの考えていることを、何とかして見通そうとしているようだった。それからもう一度ありあは、言った。
 「どうか、殿下をわたしのもとへ」
 年老いた王の表情が、ほんの少し動いた気がした。皇太子は茫然としてありあを見つめている。
 「ありあ……殺される、おまえまで……」
 先程までは兵士に悪態をつき、まだ負けはしないと馬鹿げたことを吠えていた皇太子が豹変していた。周りの兵士たちは、そのことに幾分軽い驚きを覚えたようで、じっと成り行きを見つめている。トキがまとめているのかもしれない、兵士たちは皆落ち着きがあった。
 皇太子も、ひとりの男だった。今、彼はただありあを愛した男として、彼女の身を本気で心配していた。
 (……なんてこと……)
 ありあの瞳から、一筋涙が流れ落ちる。トキが、何かを感じたようだった。ありあの涙が合図となって、驚くほどすみやかに皇太子の縄が解かれたのである。
 「好きにしろ」
 言ったトキの声色が少し心配げに曇っていた。


第九話:紅い心

 まだ空は晴れていた。心とは裏腹に晴れる空を丸窓から見て、ありあは今すぐにも死んでしまいたい思いに駆られた。隣を歩く皇太子以外に、人はいない。彼は、寵姫が自分を助けたことに驚きを禁じ得ず、まだ幾分ぼんやりとした表情で歩いていた。
 「なぜわたしを助けた?」
 そう彼は訊ねたが、それがありあの彼への愛情だと確信しているようだった。まるで何度もわかっていることを確認しようとしているように見える。やるせなかった。傷だらけのありあを見て、皇太子は彼女を部屋へ連れ込む。先程まで縛られていたとは思えない強さで腕をつかまれたが、ありあは逆らわなかった。ぼろぼろの衣服のなかから、ありあの綺麗な肢体がのぞいていた。
 「殿下……」
 皇太子の手首も赤く擦り切れている。薬を探してきます、とありあは部屋を出た。ありあの胸が、ひどく痛んだ。
 赤い絨毯を歩き……さっきは逸る心を抑えて走った絨毯の廊下だったが、そこを歩き、薬を置いてあるはずの庫へ向かう。王宮の裏手にある、大きな庫を目指していた。瞳に、涙が浮かんだ。
 「お母さん……」
 つらくて哀しくて、それから苦しくて、どうにもならなかった。自分が、この世で1番薄汚れた人間に思われた。半年前には皇太子を、この王宮を薄汚れたものと思って見ていたのに。
 薬草に少量のお湯を混ぜてすり鉢でつぶし、手近にあった小瓶に入れる。王宮の裏手の庫近くには、やはり人はいなかった。兵士の死体が数体、転がっていた。
 裏手からわずかに見える広場では、まだトキたちが集まっている。特に目だった行動をとるふうには見えなかった。ありあは、その場にわずかばかり立ち尽くした。今から自分が何をすべきか、考えた。いや、今から自分が何をするかはもう分かっていた。
 目を閉じて祖国を思う。目を閉じて、両親を思う。目を閉じて、この国を守ってきた先人を思う。そして……それを内側から蝕みはじめた皇太子を、思う。あれは、このうえなく純粋な人間だ。己の欲望にひどく敏感で、それでいながら民意にはおそろしく鈍感だった。あれがただの民なら、それはそれでうまくいったに違いない。皇太子が、皇太子として生まれてきたのがすべての間違いだったかもしれなかった。
 人には生まれてくるべき領分があると、ありあは思う。皇太子がそれを間違ったのか、何なのか、ありあに決める術はない。だが、このありのままの事実を受け入れて対処する以外に、どうすることもできないのだ。
 もしかしたら、皇太子が間違っていたのではなくてあたしが間違っていたのかもしれないのだ。皇太子だけを責めるわけにもいかない苦しさがあった。彼のあまりに純粋すぎる愚かさを知ってしまったからだろうか。
 
 トキなら、母なら、父なら、先人ならどうするだろう。

 いや、あたしはあたしの道をゆかねばならない。あたしの道は、あたしが考えなければいけない。それがどんなに愚かしく、血なまぐさい道でも。どんなに己の忌み嫌う道であっても。

 薬を持って、ありあはようやく部屋へと戻った。皇太子が待ちかねたようにベッドの上に身体を起こそうとしていた。
 「殿下……」
 そっと、ありあが彼の身体を助け起こす。それからその手をとって、薬を優しく塗りこんでやった。
 (あたしは……この人を憎んではいない)
 それが、薬を塗る手をひどく優しくさせた。縄の痕が痛々しい手首を、そっと両手で包みこむ。豪奢な枠組みの窓から、空が見える。さっきまでのぼんやりとした空とは違って、春とは思えないほどはっきりとした青空だった。
 「ありあ」
 皇太子がありあの身体を抱きしめた。温かい身体だった。……そうだ、彼も人間なのである。生きていた。
 (……神様……)
 そっと、ありあは瞳を閉じた。皇太子に強く抱きしめられたまま、瞳から一筋だけ涙がこぼれた。
 「ありあ……?」
 ありあを抱く皇太子の腕が、小さく震えた。少しばかり、顔色が蒼白になっていた。ありあの歯が、がたがたというのではないかと思えるほど震える。皇太子の目を見ると、彼はきょとんとしていた。それがまた、ありあの心をひどく烈しく打った。

 お母さん。
 お父さん。
 あたしは、最低の人間です。

 すうっ、と涙がこぼれて。それからベッドの上に、ぽたり、と赤いものが落ちた。皇太子の顔から、どんどん血の気がひいていった。


第十話:愛の深淵

 昔から、ありあはこの国が好きだった。どんなに愚かな支配者のもとに暮らしていても、ありあは決してくじけたくなかったし、国を投げ出したりしたくなかった。初めて人を疎ましいと思ったのは、後宮へ放り込まれて後だったのだ。それまで、少しずつ傾いてゆく国の情勢を肌で感じながら一度も何かを恨んだことのないありあであった。民意に沿わぬ皇太子を疎むことと、はるか昔から繁栄してきた祖国を疎むことは、決して一緒にしてはならぬことであった。そして、皇太子を疎むことは決して、彼を排除することではなかった。

 「……殿下」
 ぽろぽろと、みっともないほどありあの頬を涙が伝った。涙で、何も見えなかった。皇太子を抱き返した左手が、震える。だが、皇太子の腹の前にあったありあの右手は、凍りついたように動かなかった。その手が、血に濡れていた。
 「ありあ……」
 皇太子の声が、細く、しかしはっきりとありあの名を呼んだ。涙が溢れるままに、ありあはそっと顔を動かして彼を見た。ぼんやりとしているようで、そのくせ彼の目はしっかりとありあのことを見つめていた。どんどん力が抜けてゆく皇太子の身体を静かに押しのけて、彼の手から脱け出す。
 小さなナイフは、深々と皇太子の胸に刺さっていた。豪奢な絹の衣服のためににじむ血は目立たなかったが、白いベッドに滴り落ちる血液の色だけはひどく鮮やかだった。くろねこ亭でよく使った赤いパプリカと同じ色。それを目にしながら、初めてこれだけの血の量を目にしながら、ありあは冷静だった。まるで動じていない自分が、何よりも薄汚れた人間に思われる。おもしろいほどに、どんどん涙が落ちてきた。
 皇太子は、失せてゆく意識の中でしっかりとありあを見つめている。薄れる意識とともに、彼に憑いていた何かが……濁りのようなものがすとん、と落ちたように見えた。そうすると、彼の瞳はただただ純真な少年のようになった。むしろ美しかった。血がどんどん流れて、ベッドに染み込んでいく。
 「あ……」
 ありあ、と言いかけたのだろうか。泣きながら見つめるありあの前で、皇太子が小さく唇を動かして、その唇の端から、つうっ、と血が流れ落ちた。
それからゆっくりと、ベッドの上に彼の身体が倒れた。

 それっきり、皇太子の身体が動くことはなかった。もちろん言葉を発することもなかった。ただ規則的な音をたてて、ベッドから床に血が滴っている。それが終わるときが、彼の命が本当に終わるときのように思えた。
 これが、人を殺すことだ。人の命を奪うこと。人間として、決してしてはならないことだと思っていたことだった。

 その、人間として決してしてはならないことを、自分がしたのだ。

 だが、これで終わりではなかった。ありあには、すべきことが残っていた。この罪は一生背負っていくしかない。それ以外にない。これは自分の決めた道だった。とにかく最後まで……最後まで。

 ありあは、皇太子の死体を懸命にベッドから下ろした。絨毯の上を、細心の注意を払って運ぶ。引きずる、といったほうが正しい表現かもしれなかったが、決してありあの仕草はそんな荒々しいものではなかった。最大限の尊敬でもって、彼の大きな身体を運ぼうとしていた。
 「……ありあ……」
 どれほど前からそこにいたのだろうか。広場に通じる廊下の突き当たり。赤い絨毯の突き当たりに、トキとあの仲間の男、それから数人の部下と思われる男たちがいた。一様に、驚愕の表情でありあと皇太子の死体を見つめている。あまりにも、似つかわしくない光景だった。
 虫一匹殺すこともできなさそうな柔らかな少女。栗色の髪をした、美しい容貌の少女が、血に汚れた大柄の男を抱えているのだ。まるで、小さな蟻が自分よりも余程大きな獲物をひきずってゆくのに似ていた。やはり不思議な、光景だった。ひとつ大きく息を吸って、ありあは彼らとまっすぐ対峙した。
 「帰ってください。……帰ってください!」
 ありあの目から、また涙が溢れ出した。
 「これは、ただのクーデターです。……皇太子は、敵国の手にかかって殺されたわけではありません。だから、この国の政治はまだ、この国の王室に残ってるはずです……!」
 トキが、ハッとしたようにありあを見つめ返した。広場から、皇太子を連れ出したのはそのためだったのか。このたおやかな美しい娘のどこに、そんな謀略を考える力が……。人など殺せない、そんな性質の女であるはずだった。それが今、手を血まみれにして目の前に立っている。
 確かに、ありあの言うとおりだった。トキたちの仕える王は、この国を占領するために『実質的な権限を持つものを公開処刑せよ』と命じたのである。あの場、あの広場でありあが皇太子を連れ去ったのは、忠誠心や愛情からではなかったのだ。最初から彼女は、皇太子を自分の手で殺すつもりだったのである。そのことに今気付いて、トキたちは立ち尽くした。
 「これが……祖国愛か」
 隣に立つ男……これがトキの友人の響であったのだが、彼が茫然と呟いた。たった17ほどの少女が、必死でめぐらせた方法に、見事嵌められた形となったのである。響は、思わずトキを見た。どうしてよいか、他にわからなかった。トキはただ、ありあを見つめていた。
 「これは! クーデターなんです……!」
 ありあの叫びが、まるで悲鳴のように響いた。

 今までずっと、両親が、祖父母が、そのまた両親が守り続けてきたこの国は、ありあたちが守る義務があった。だが、国を守るために人を殺していいという決まりは、どこにもなかった。そんな『許し』は、どこにもなかった。隣国から魔の手がしのびよってきて、どうすることができなくなっても、ありあは人としての道を踏み外してはならないはずだった。
 それでも、ありあは皇太子を殺した。細い腕で、ありったけの力をこめて皇太子の胸にナイフを突き立てたのだった。殺意は、なかった。憎悪も、なかった。ただ悲しみと、切なさと、申し訳なさと、それからひどく重たい罪悪感だけが胸に沈んでいた。
 ありあは、人の道を踏み外した。だが、すでにそれしか方法が残っていなかったのも事実である。この国の民の手で、皇太子を殺さねば。殺さねば、この国は名実ともに隣国の手にわたることになる。それだけはさせてはならぬ、とありあの血が叫んでいた。気が狂いそうだ。

 「許してください……これは……」
 涙が溢れて止まらずに、ありあは全力を使い果たしたかたちでその場に倒れこんだ。
 「許してください……これはクーデターなんです……」
 かすれる声で、最後の力をふりしぼってありあは叫んだ。
 「この国を、占領しないでください……」
 
 この国は、あたしたちの国なんです……。

 空が青かった。そこで、ありあは気を失った。


第十一話:涙珠(るいじゅ)

 夢を見ていた。

 くろねこ亭で、やはり皆と一緒にいた。目の前のカウンター席には、変わらずトキが座っている。穏やかな時間がゆるゆると流れる、暖かな場所だった。いつものようにスープを煮込む鍋から、コトコトという音と温かな湯気がたち、ストーブの火が心を落ち着かせるような音をたててはぜていた。
 タレムはいつものように黒ビールを最初に頼み、庭師のジンは大好物のライスプディングを頬張る。1番奥にひっそりと座る石切りの晴(ハル)は、ろくに食事も摂らずにワインとチーズを口に運んでいたし、カウンターの端にいつも座るジンと同じ庭師の多久(タク)は焼きたてのパンにバターを塗って幸せそうな顔をしていた。
 『ああ、うまいな。ありあの焼くパンは』
 塗ったバターがじんわりと溶けて、甘く香ばしい香りがふわりと匂いたつ。多久と同じように焼きたてのパンを頬張る男が、トキのすぐ近くにいた。大柄で、元気そうな―元気なことだけが取り柄のような男だった。
 『うまいでしょう、殿下』
 口数の少ないタレムが、ありあの焼くパンを誉められて嬉しそうに言う。


 (ああ……なんて夢……)


 『ああ、うまい。おまえたちが言っていたとおりだ』
 皇太子が朗らかに笑っていた。それにつられてタレムやジンたちも笑い、それからトキも笑顔を浮かべた。とても平和な……そう、とても平和な光景ではないか。王と民がひとつになった、何と素晴らしい光景だろう。
 『これを食べられない奴は、世界一の不幸者ですよ』
 トキが、凛とした顔に明るい笑みを浮かべて言った。


 (この夢がずっと覚めないでいてくれたら……)


 人の夢は叶わない。
 夜の夢はすぐ覚める。


 「……りあ? ありあ」
 やわらかく頬をたたく音がして、ありあはふと瞳を開けた。開けた瞳に青い空が飛び込んできた。気を失ったときと同じように、青い空だった。
 「ありあ」
 声は、トキのものである。少しばかり戸惑ったような、男らしい声が耳をうった。見ると、なんともいえない表情をしている。形のよい眉が、困ったように幾分ひそめられていた。
 「……トキ……」
 傍に、他の人間の姿はない。あの仲間の男も、どうやら今はいないようだった。身体を起こす力もなく、ありあはそっと瞬きをした。夢の中で見た、あの皇太子の姿がまだ眼裏にこびりついて離れない。
 「ありあ。考えすぎるな。おまえは正しかった」
 ありあのぼんやりとした表情に、何かを察したのだろう。トキの手がありあの顎を捉えた。その語調が、幾分強かった。
 「あたしは……」
 正しかった? 何が正しかったというのだろう。祖国を守るためとはいえ、人ひとりを殺しておいて何が正しかった、と。人を殺すことに何の正当性があるものか。ありあは震える息を吐き出して、眼を閉じた。
 「人を、殺したわ……」
 祖国を隣国の手に渡さないために、祖国を守るという義務を果たすために起こした行動だった。なのに、あとに重く残るのは『人を殺した』という事実だけなのである。そのことに、ありあは何ともいえない胸の痛みを感じる。祖国を守るために行動した、という誇らしい想いなどどこにもなかった。あの場にいたトキたち、それからその部下たちがどれほどありあの行動に感銘を受けていたか、ありあは何も知らない。気が狂うほど涙を流しながらも皇太子を殺し、疲労しきった身体、薄れていきそうな心に鞭打ちながら最後の力をふりしぼって叫んだひとりの少女。
 20にも満たないような小柄な少女が、祖国を愛する故にここまでできるということが、同じく若い兵士たちには衝撃的なことだったのだ。誰にも命令されることがないまま、己で考えて己で走り、己で国を救おうと身体を張った少女を見て、若い兵士たちは立ち尽くしたのだった。だがありあの心は、重く澱んでいた。人ひとり殺す、ということはどういうことなのか。厭でも考えざるを得なかった。戦うために組織された兵士と、ありあの心とはまるで天と地ほどの差がある。死ぬことを望んでいない者を殺すのは、人として最大の罪だとありあは思った。
 時に何か大きなもののために、害をなす人間の命を奪うことを良しとする強さを、ありあは決して欲したわけではなかった。その強さは、兵士にあれば良いものだ。ありあに必要なものではない。
 「ありあ、自分を責めるな。おまえは国を守ったんだ」
 頭のなかが、ぐらぐらと揺れている。このまま眼を閉じて、永遠の眠りについてしまいたかった。何も考えたくないと、ありあは思わず逃げる場所を探そうとする。そっと自分の手を見た。トキか誰かが気を失っている間に洗ってくれたのか、汚れひとつなく白く綺麗な手に戻っていた。
 (……汚い)
 どす黒い血にまみれているような気がした。皇太子の血が、手の先から身体中に浸みこんで自分を責めたてているような気がした。

 ぱんっ、と乾いた音がした。

 「ありあ。いつまでもいつまでも、完璧に純粋でいることを求めるな」
 じん、と湧いてきた頬の痛みに、ありあはハッと眼を上げる。トキの声が、厳しかった。その明るく鋭い双眸が、まっすぐにありあを見つめている。この人は、本気であたしと向き合っている。そう感じてありあは、こみあげる涙をおさえて同じように彼を見つめた。
 「誰にとっても祖国は大事だ。俺にとっても、同じようにおまえにとっても。そしてきっと皇太子にとっても」
 皇太子の名が出てきて、ありあは息苦しさに瞳を歪めた。
 「聞け、ありあ。皇太子にとっても、たとえどんなに民意に沿わぬ男だったとしても、やはり国は大事だったはずだ」
 「それなら……」
 それならなお悪い。国を大事に思う人間を、殺したのか。
 「あの男は、自分のことをよくわかっていたんだ。部下が彼の日記を見つけた。自分が国を滅ぼすかもしれぬ、とわかっていたんだ」
 トキが、そっとありあに一冊の日記らしきものを手渡した。それほど書き込まれたものではなかったが、さして綺麗なものでもなかった。赤い無地の表紙が、わずかに汚れている。
 怯えた瞳で、ありあはそれを押し返した。無意識のうちの反応だった。
 「ありあ、読みな」
 トキが、まるで父親のような厳しさでもってそれをありあに押し付ける。涙が、ぽろりとこぼれた。乾いた唇が、少し震えた。
 日記帳をそっと開く。
 
 『……税を引き上げるしかなくなった。俺は贅沢をしすぎなのだろうか。王の息子に生まれたのだから、それなりの暮らしをした。それだけなのに。何かがおかしい。このままだとこの国は貧しくなってしまう。早く西国の紛争が片付いて、資源が手に入ればよいのに……』

 『……軍事費用を増やすことにした。教育なんて、読み書きができれば困らないだろう。とにかく戦争をして、国を裕福にしないとならない。そうでなければ民が離れていく……』

 あまりの愚かしさに、切なくてありあは涙を流した。何と純粋な愚かさだったのだろう。国をよくするために、彼はどうしても戦争しか考えつかなかったのだ。欲しいものを、喧嘩することでしか手に入れることのできない幼い少年のように。このままでは民が離れていく、そう分かっていたのに。
 (何てこと……)
 トキはじっとそれを見つめていた。

 『美しい娘が後宮に入った。ありあ、という。他の女と違って、媚びないからいい。性質もおとなしくて、優しい。俺が国の話をすると、本気で憂えた顔をする。国を愛しているのだ、とわかった。これが正妃となってくれたら、この国を救ってくれるかもしれない……』

 その娘に殺されるとは、思っていなかっただろう。それから次の頁に眼を移して、ありあは絶句した。

 『……誰か俺を殺してくれ』

 その一文が、とんでもない衝撃をもってありあの目に飛び込んだ。

 『誰か俺を殺してくれ。俺が死ななければこの国は滅びる。奴らの手にわたる。……父上よりもっと良い政治ができると思っていたのに。誰か俺を殺してくれ。奴らの手にだけはかかりたくないし、自分で死ぬ勇気もない……そうだ、俺を殺す者がありあであったなら、一番良いんだが……』

 ありあの手から、日記帳がばさりと落ちた。

 『どうせ殺されるなら、愛する者の手にかかりたいものだ……俺が悪かった。だから許してくれ、国よ……』

 皇太子よ、何故そのようにしか生きられなかったのか。
 何故もっと、もっと賢く生きてゆけなかったのか。
 国を想う心は、同じだったというのに。

 救われたようないないような。言葉を失って、ありあは天を仰いだ。やはり空が青くて、泣けた。皇太子は愚かだ。でも、あたしも変わらず愚かだ。そっと支えるように手を伸ばしてきたトキに、ありあは思わず抱きついた。


第十二話:疾風の如く

 トキは王宮に向けて馬を駆っていた。山の嵐気が少し寒々として、トキの身体を包みこむ。馬に騎乗しながら、トキは冴えた頭の中でありあのことを思った。なんという娘だろうか、あれは。くろねこ亭でいつも見ていた、あれは猫の皮をかぶった獅子だったのだろうか。いや、しかし皇太子の日記を見て哀れなほどに涙を流したありあの姿を思うと、そうとも言い切れぬ。あれは皇太子に申し訳ないと思っているようだが、俺は思わない。トキの眉がひそめられている。
 (ありあがどんな娘か分かっていて、ありあに殺されることを望んでいたのか。あの男は……)
 結局は己が一番可愛かったのだ、国の行く末を想っていたようでありながら、実のところは己に最も楽な道を模索していた。そのせいでありあが、狂うほどに苦しんでいるといっても過言ではない。そのことが、トキの心を冷たく凍らせた。
 (『俺を殺すものがありあであるなら……』だと)
 俺だって、殺されることがあるのなら、やはり俺を殺すのは俺が愛する者であってほしいさ。だがそれが、優しい娘であるなら、良くない。愛しているなら、殺させてはならぬ。彼女に、永遠の罪を背負わせてはならぬ。
 止めれば良かったろうか、とトキは思う。あのとき、広場から皇太子を連れて出てゆくありあを止めておけば良かったのだろうか。だがしかし、まさかありあが己の手で皇太子を殺すとは予想だにしていなかった。
 俺の見通しが甘かったか、と思った。皇太子の死体を引きずって、これはクーデターだ、と。この国を占領しないでくれ、と叫んだありあを見たときは、さすがに頭をぶち抜かれるような衝撃を感じた。そういうことか、とすぐに理解はできたものの、以前からよく見知ったありあがその行動をとったということが怖ろしく不思議だった。
 今頃、小屋で眠っているであろうありあがひどく愛おしく思われた。当初彼女が後宮に入れられたとき、そこまで本気で助けようとは思っていなかったのである。助ける、と言ったのはどちらかといえば同情だったし、それに彼女を助けだしてしまえば王宮内の色々な情報が手に入れられると思った。
 だが意外に早く、戦の兆しがあらわれた。戦になる前に助けねば、と思ったのはトキの優しさである。男ならば己の言葉は守るのが当然だ、というような頑固なものが、彼の中にはあった。響などは、いつも言う。自由奔放で気楽そうでいながら、なぜか昔気質なところがあるんだな、と。
 あの夜、神泉の傍らで見たありあの顔は疲れていた。疲れて幾分青ざめた顔が、いつもよりさらに彼女を哀しく美しく見せて、トキは胸をうたれたのだった。身寄りもなく、頼るところもなく、くろねこ亭も失ったありあが後宮の中で長い時を過ごすかと思うと、何ともいたたまれない思いにかられた。あのときに、同情が愛情に変わったのかもしれない。いや、昔からあった愛情が、表面に出てきただけの話だ。
 トキは、つい数刻前にありあの頬をぶった手を見つめた。ありあも、日々そうして自然己の手を見るだろう。白く美しい己の手を見ては、この先ずっと罪の意識に苛まれてゆくのだろうか。悪いことではない、己の罪をしっかりと見据えることは。だが、人殺しの罪はありあに重すぎる。
 (あれは優しすぎる)
 あんなにも身勝手で自己中心主義に徹した皇太子の心にすら、共鳴して涙を流すのだ。彼の将来を奪ってしまったことに、罪悪感を感じるのだ。国を救おうとした、という誇りなどありあは持てないに違いない。そんな誇りよりも、人をひとり殺したという罪の意識と怖ろしさのほうが重いのである。
 それこそが、まともな人間。人間らしい人間であろう、とトキは切なく思った。いつからこの世は、まともな人間が苦しむ世になったのだろう。
 あの日記を見る限り、皇太子もそれなりに苦悩したようだった。したようだったが、その苦悩は今のありあの苦悩とはまるで質が違うように思えた。何か、人間としての根本が違っているように思えた。
 (……ありあはこれからもっと苦しむ)
 世の中はどんどん悪くなっていくだろう。ありあのような人間は、きっと人を殺さずとも他のことで罪の意識を感じるに違いない。これからありあが流すかもしれない涙を考えて、トキは何ともいえない厭な気分に襲われた。
 守ってやりたい、というのは男のエゴだ。しかし、ありあを守ってやりたいと、思った。痛切に、思った。
 
 「あ、トキ。遅いよ」
 響が幾分急かすように手招きしていた。馬を走らせて、王宮へ戻ってきたところだった。王国旗がすべて燃やされて、トキの祖国旗と同じものがずらりと並べられている。着々と占領の準備が進められているようだった。ろくにそれを見もせず、トキは響を押しのけた。
 「火を消せ。占領の準備をとめろ」
 
 兵士全員が、あっけにとられてトキを見た。

 「聞こえなかったか? 火を消して、占領の準備をやめろ。今回のことは一市民のクーデターだ、俺たちに占領はできない」
 「トキ!? 何を馬鹿なことを。王殿下の命だよ?」
 「仕方ないだろう、俺たちが公開処刑できなかったんだから」
 後ろ手に縛られていたこの国の兵士たちでさえも、茫然とトキを見つめている。その中の幾人かは、トキのことを、何と雄々しく美しい青年であることかと凝視していた。トキを知っている兵士はいない。皆、争いのどさくさに紛れて逃がしていた。
 「トキ、それは……」
 「そうですよ、トキさん。それは命令違反ではないですか」
 トキの雰囲気に圧倒されていた部下の1人が、ようやくトキに対峙して口を開く。
 「おまえ、何を見ていたんだよ」
 「……え?」
 「おまえは、皇太子を殺した娘の何を見たんだ?」
 トキの双眸が、まっすぐ部下を捉えた。
 「でも……」
 「たった一人の娘が、祖国を想う故に皇太子を己の手で殺したんだ。その祖国愛を踏みにじるのが、俺たちに課せられた仕事か」
 ぐっ、と部下が言葉に詰まった。反論しようとした響も、同じように詰まった。皆口を開くことができなかった。一様に、あの美しい少女の必死な姿を思い出しているのである。あの壮大な祖国愛に、確かに烈しく心をうたれた。そのときの衝撃を、今トキの言葉によってまざまざと思い出しているのである。祖国を愛する兵士たちであるだけに、それを思い出すと何を言うこともできなくなった。

 「俺は祖国が大事だよ。だけど、あの娘の行動を見て心をうたれない人間がいるとしたら見てみたいね。もし俺が占領をとめたこと、王殿下がお咎めになるなら、それでもいい。だが、そしたら俺は殿下を見限るぜ」

 トキの堂々とした声が、広場に美しく響いた。


第十三話:月と影

 「とにかく占領の準備をやめろ。怪我人を探しだして手当てを。それから破壊してしまったものは何らかの対処を急いで」
 「トキさんは、どうなさるんですか」
 トキの言葉に、あえて逆らおうとする者はいなかった。皆、祖国からトキを慕って従ってきた者たちである。
 「俺は、殿下のもとへ一度戻ってくる」
 困った男だ、といわんばかりの表情で、響がトキのもとへふらふらとやってきた。呆れたような顔をしながら、口元には小さく笑みをたたえている。
 「天下のトキが、どうやら本気で女を愛してしまったか」
 トキの命を実行するために走り去って行った兵士を見送って、響はにこにこと笑いながら言う。この笑顔が曲者なんだ、とトキは苦笑を返した。
 ありあを女として愛している、というのは幾分違うような気がする。そこから始まった想いではなかったように思う。いや、もちろんくろねこ亭にいた時から、彼女には好意を持っていたし、彼女と愛し合えるならば幸せであろうと思ったこともあった。だが、決定的な想いの変化は、当時はまだなかったと思う。数年間もくろねこ亭で一緒にいながら、確実にトキの中の想いが変化を遂げたのは、たった1日前のこと。己の手で殺した皇太子を引きずって、自分の前に泣きながら立ち尽くしていたありあを見たときのことなのだ。あれからたいして間もないうちに、抑えていた想いがどんどんと成長して、ありあへの紛れもない愛情になってしまったようだった。
 「まぁ、これでこの国を占領なんかしたら……男の誇りなんてなくなってしまうだろうしね」
 響が、言った。この男は、ただ純粋に人生を愉しみたいだけだろう。おそらく男の誇りなんて、塵ほどにも思っていない。トキには分かる。十数年ずっと、連れ添ってきた仲間であるから……今だって、思ってもいないのに響が男の誇りなんていう言葉を口にしたのは、トキのために違いないのだ。『要するに、おまえが考えてるのはこういうことだろ?』と。
 「…………」
 にやり、とトキは笑った。明るい茶髪が春風に揺れて、その笑顔が何とも不敵なものに思われた。

 響は、思う。幼馴染みながら、トキとは何と美しく堂々とした男なのだろうと。人より頭ひとつ分高い長身に、よく鍛えられた身体。明朗快活でいながら、どこか冷めたクールな性格。寄ってくる少女は数知れず、ちゃらちゃらしているように見えて、実はどこまでも男らしかった。響が思えば些細なことでも、トキには違った。男の誇りなどどうでも良いというのは、響とトキ2人に共通する考え方だったが、しかし男の誇りが必要なときにはトキはまっすぐにそれを守ろうとした。
 トキのそれは、男の誇りよりも大切なものはある、ということ。響の無関心とは、幾分わけが違った。男の誇りが何よりも大切なときもあるし、男の誇りなど取るに足らないほど大切なものが現れることもある。そう宣言してはばからないトキの姿を、響はいつでも輝かしく思っていた。だから、トキの行動をとめたりしない。この世界にたった1人の盟友を、窮地に立たせたりはしない。トキがいない間は、俺が責任をもって兵士たちを統率しようと、響はそう思う。

 新しい馬を厩舎から引き出して、トキは響と兵士たちに片手をあげると、馬の腹を蹴った。ぶるるっ、という鼻息とともに馬が駆け出す。夕暮れが近づいていた。夕暮れに、黒毛の馬。そこに黒い衣服のトキが騎乗しているのが、ひどく美しいコントラストを描いて皆の目を奪う。響がまず敬礼し、それから兵士たちが揃ってトキに敬礼した。
 (さて……)
 ここからが本番だ、と思う。領土を広げたいと熱望していた王に、何と説明しようか。実のところ、今までのことは身体が勝手に動いただけで、決して何か計画して動いていたわけではない。だから、祖国へ戻って王に何と説明しようかなど、考えているはずもなかった。
 国境の小屋においてきたありあを思って、そこに立ち寄ることも考えたが、時間がなかった。仕方がない、と故国の王宮へ一直線に駆けていける道をとる。森の中は、寒かった。腰に巻いていた黒い布を外して、口元から首にかけて覆う。それだけでずいぶんと温かくなった。
 俺は結局、祖国のために動いてるのでもなく、ありあの国のために動いているわけでもない。ありあのために、動いているといえた。彼女の行為を無駄にすまい、という一心で動いているといえた。だがきっと、それは俺の祖国にとってもありあの祖国にとっても、決して悪いことではないと思う。
 占領することで、領土を広げることで繁栄を遂げてゆくこともまた決して悪いことではないと思うが、決して良いことでもないと思う。占領される者が、この世にいないならば、それに越したことはないのだ。
 これは、俺の誇りだ。トキは思う。女1人守れないで祖国など守れるものか、と思う。今、少女の行為を無視して占領を開始すれば、それは祖国の道徳的な汚点になる。きっと俺も、それから部下の兵士たちも、ありあのあの姿を見たものたちはずっと心にしこりを持ち続けるに違いない。
 心にわだかまりを持った人間が、心から祖国に仕えられるはずがなかった。俺は、王殿下に幼い頃から気に入られ、可愛がってもらった。確かに、彼の命は出来得る限り遂行したかった。だが、今回は違う。
 王の命は大切だ。俺にとっては何よりも重い意味をもつ。だが。
 (王の命令よりも、大切なものがある)
 それを、見つけた。祖国愛である。人間としての心である。ありあ、である。あの国では、民が立たねばならぬときに、ありあがしっかり立ち上がった。俺の国も、おそらく今が転換期だ。きっと今が、立つべき時だ。立つべき時が今ならば、俺は立とう。それが民としての、王の部下としての務めに違いない。俺は今、ただ駆けねばならぬ。今はとにかく、王宮を目指さねばならぬ。そして必ずいつか、何かが変わる。

 国は、夜明けを待っている。

 「それで命に背いて戻ってきたのか」
 王のための豪奢な部屋に、トキは入ることができた。響ですらも入室を許されず、王妃ですらも許可がなければ入ることができない部屋である。昔、王の家庭教師を務めたトキの祖父が気に入られてから、トキの家族はよく面倒を見てもらっていた。
 「それで、わたしに何をしろという?」
 王の声は、予想通りひどく厳しかった。俺がここで謹慎を命じられてしまうと困る、とトキは眉をひそめる。ありあを小屋から出す者がいなくなるのだ、それは困る。
 「ただ占領をやめていただきたいのですが。あの国の王室に、政権を戻してやっていただきたい」
 「……王室に、戻すのか。『皇太子』という名の暴君がいただろう、また同じ二の舞になるのではないのか? どうせ王室に政権を戻しても、民が困るだけでは?」
 「皇太子は、1人の娘が己の手で殺害しましたよ。そしてその娘が、皇太子の死体を懸命に引きずりながら、これはクーデターだから占領しないでくれ、と懇願するんです」
 「…………」
 淡々と事情を説明するトキを、王はじっと見つめた。こちらの真意を測ろうとする真剣な瞳であった。愚かな王ではない。ありあの……つまり隣国の王が健在だったときには、2人東国の双璧と謳われた王である。
 「クーデター……か。なるほど。だが、何故おまえがいながら、皇太子の身柄を譲った?」
 「……彼女が、情に絆されたと思ったのです。死ぬ前のわずかな時間くらいならば、別れを惜しませてやろうと。まさかあの娘が、自分の手で皇太子を殺すとは、予想だにしていませんでした」
 「甘かったな」
 「はい」
 あれは、確かに己の甘さを痛感させられた。
 「ふん、ここで占領を強行したりなんぞしたら、この国が危うくなるではないか。あれは何と非人道的な国か、とな」
 「ですから、政権を返して兵を退かせてはいただけませんか」
 ここで退いてはならぬ、とトキはまっすぐに王を見た。幾分無礼な行為ではあったが、王は何も咎めなかった。
 「おまえ、惚れたな」
 「……はっ?」
 王が、湖の水深でもはかるような何ともいえない双眸でこちらを見つめている。何だ、彼にさえもバレるのか、とトキは複雑な思いを否めない。
 「まったく予想外の出来事だ。ようやっと国を広げられると思ったのに、臣下が自由奔放だと困る」
 そこで軽く、ぱんっ、と頬をはたかれた。
 「好きにしろ」
 そのひっぱたかれたことが、今回のことに対する罰だと気付くのに少し時間がかかった。
 「その娘は……立派な娘だな。大切にするといい」
 そっぽを向くようにトキに背を向けて、王は呟くように言った。

 『もし俺が占領をとめたこと、王殿下がお咎めになるなら、それでもいい。だが、そしたら俺は殿下を見限るぜ』

 トキは、深く深く、その王の背に向けて頭をさげた。


第十四話:遥かなる道よ

 教育の力とは、とてつもなく強大なものであると思う。言論の自由を、幼い頃から与えてやらなければならぬと思う。人とはもともと、生まれながらにして善良なものだと誰が言ったか。生まれながらにして純白かつ善良であるならば、それは怖ろしいことであろう。赤にも黒にも染まり得る、善良な人間。誰がそれを正しい方向へ導くか、それが教育であろう、と。
 何が正しいか、それは誰に決められるものでもなかった。だが、命を軽視することだけは、何をおいても許されぬことであると思う。
 ひとつの命が散って、そのためにいったい幾つの命が慟哭の涙を流すだろう。生きているものを殺して平気でいられるようになったときが、その人間の最期だ。人間として生きる道を失う、瞬間だ。
 人として生まれていながら、人として生きられぬことほど哀しく恥ずべきことはなかろう。人として生まれていながら、人としての道を踏み外すことほど許されぬことはなかろう。たとえ守るために戦ったとしても、何かを得るために戦うことは許されぬと思う。生きるために戦ったとしても、殺すために戦うことは許されぬと思う。命を奪うことが必ずしも悪とは限らないだろう。だが、それは常に己の命を償いとして差し出す覚悟があってのことでなければ。
 
 (……殿下。あたしが死んで償えば、許してくれますか)
 ありあは、小屋のベッドで毛布にくるまりながらぼんやりと考えた。
 (あたしは人間でいたいわ。人として生きていきたい……)
 トキが待っていろ、と言った。だから待つ。彼は嘘をつかないから、だから待つ。ただ待っているだけで、それ以外にすることがなかった。自然と物思いに耽ることに時間を奪われた。

 国民をまとめてゆく者は、誰よりも謙虚でなければならなかった。俺がおまえたちの面倒を見てやっているんだ、という心持ちであっては決してならなかった。国民の下に立って、支えている気概でいなければならなかった。
 皇太子がまるで、そのことを忘れた国政を敷いていたことを、思い出す。
 そう、彼の日記の内容に心揺れて忘れていたが、確かに。確かに皇太子は、国民の上に堂々と立っているつもりでいたのだ。
 それは傲慢であったが、彼の欠点は何よりも無知であることだった。無知は、罪だ。何も知らずして、悪意もなくまわりのものを傷つけ、薙ぎ倒す。何も知らぬ草々は、純粋に吹き荒れる突風にわけもなく手折られる。
 国のトップの無知は、致命的だと思う。国がたとえ独裁国家であっても、民主国家であっても、民は立たねばならないとも思う。それが民の使命であると。
 (やらねばならぬことを、やる。それが人間だと思うわ)
 あたしは、しっかりと立てただろうか。他の人々に支えられながらも、しっかりと立てただろうか。皇太子の日記にあったように……彼を殺したことを死んで償わなくても良いのだろうか。
 「……トキ、遅いよ……」
 考えることが、どんどん苦しくなってくる。皇太子がいなくなって、この国がもとに戻ったとして、そしてその次はどうなるのだろう。皇太子がいなくなったからと言って、明るい未来が待っているとは限らない。一昨日より昨日、昨日より今日と暖かくなっている春の日々。裏腹に心は不安でいっそう冷えていく。次に、自分が何をしたらいいのか。次に、自分は何をして良いのか。
 小さな一軒の店をきりもりしていただけの、たった17の少女が不安になるのも無理はなかった。そうなのだ、まだたった17歳。恋をして、料理の腕をあげて、友達と遊んで。恋の相手のために、たくさんおしゃれをしては、楽しげな笑い声をあげる。そうしているはずの年頃だった。
 それが、泥まみれの服で人殺しをする、そんな羽目になった。紛れもなく皇太子の愚かしさのせいであったが、まさかありあにそんな考え方ができるはずもなく。だが、もしかするとこれが普通なのかもしれない。
 国を守るために、民として身体を張って駆ける。それがもしかすると、若いうちにすべき普通のことかもしれない。国を想えば、友達と遊んで、恋人と連れだって歩いて、おしゃれをして笑っているだけの生活はできないと思った。国を守るのは、愚かな王室を咎めるのは、若い民にできる最大の務めではなかろうか、と思う。それを捨て、己の愉しみだけに生きるのは果たしてどんな幸福を呼ぶのだろう。
 
 あたしは、あたしの幸福を祈るわ。自分のことよりも人のこと、なんて考えられない。でも、あたしがこの国に生まれてこの国で一生を平和に過ごしてゆくためには、この時期にただ遊んで笑っているだけじゃだめなのよ。
 あたしが行動を起こしたのは、結局はあたしが幸せになりたいから。あたしの大切な人たちに幸せでいてほしいから。大切な人たちを戦場へ向かわせたくないから。そうして立ち上がることが、必ず国の平和につながると思うから。あたしたちは、人としてのプライドを失っちゃいけないわ。あたしたちは、どんなに寄り道をしても、何度間違ったことをしても、最後には正しい方向へ歩いていかなくちゃならないわ。

 ばんっ、と音をたてて小屋の扉が開いた。

 「ありあ」
 深い物思いから醒めて、ありあは慌ててベッドの上に身体を起こした。まだ本調子ではない身体が、少し重かった。毛布のなかに温かい体温が残っていて、それを逃したくなくてありあは毛布をかき寄せる。
 「……トキ……」
 「ありあ、国へ戻るぞ。王の許可が下りた」
 せっかくかき寄せていた毛布を、トキが幾分興奮気味にめくってしまった。彼には珍しく、高揚した表情をしている。王の許可が下りた、と言った。どういうことなのだろう。トキに助け起こされながら、そっと彼を見上げる。窓から見える空はやはり青く、天気もよかった。
 「王の許可って……?」
 急かされるように小屋の外に出され、傍らの大木に繋いであった鹿毛の馬に乗せられる。それからトキが、後ろに飛び乗った。彼がひどく生きいきとしているのが、気配で分かった。
 「王の許可って?」
 もう一度、訊ねる。それには答えず、トキは手綱を取って馬の腹を蹴った。馬が独特の蹄音をたてて走り出し、耳元に激しく風の音を受けはじめたころ、ようやく彼は弾むような声色で答えた。
 「……俺の好きなようにしろってさ」

 人の国のことなのに、彼の顔がひどく輝いているのが新鮮だった。


 「じゃあ王室に政権を返すんですか、やっぱり」
 「殿下にお許しを?」
 トキを待ちわびていた兵士たちが、トキとありあのもとに駆け寄ってくる。王宮の広場は綺麗に片付けられて、数日前のような澱んだ空気はもうなかった。狼煙をあげる煙もなく、空気がまるで澄みきっている。
 「まったく、おまえが勝手なことばかりをするからね。けど王宮の中もしっかり片付けて、前より綺麗に掃除までしておいたよ」
 響が言った。呆れたような物言いのなかに、トキに対する深い情が窺える。この国はいい国だ、とありあは漠然と思った。王にめぐまれ、民にめぐまれたのだろう。それがいつまでも続けば、国が傾くことなどないだろうに。時として王に向かぬ人間が生まれてくるから、怖ろしいのだ。
 「儀式などいらないだろう、王室に賢明な人間がいるはずだ」
 「賢明な人間?」
 「確か王の次男だったか。テス、という名だったと思うが」
 「おまえ、そんなことまで調べていたのかい」
 「当たり前だ、調べないうちに王に話を持っていくわけがないだろ」
 何だ、あたしはトキがいてくれたから助かったんだ。そう思った。
 彼が、いろいろと根回しをしてくれていたから。涙が溢れそうになった。ああ、そうだ。皇太子を殺して苦悩していたのも、彼がいてくれたことで救われた。彼が日記を見せてくれたことで、救われた。
 「テスはどこにいる? 案内してくれ。王と一緒にしてあるんだろ」
 トキが兵士に言った。
 「ありあ、これが償いだ。俺と一緒においで、テスに政権を渡す」
 「え、トキさん、いいんですか? 女なんか連れてって……」
 「当然だ。ありあが、皇太子を殺してクーデターを起こした。テスに政権を渡すのはありあのすべき最後の大仕事さ」
 あとは女の子らしく幸せに暮らせばいい、と楽しげに言ってトキはありあの手をひく。黒い服が、ここ数日の騒ぎで汚れていた。それがまた、彼をひどく生きいきとさせて見えた。胸に、こみあげるものがあった。

 「ありあ、これが平和への第一歩だ。おまえが作るんだ。それがきっと償いになる、行こう」
 トキの想いが、痛いほど分かった。皇太子を殺した王宮に足を踏み入れるのは幾分つらかったが、今しなければならないことをありあはきちんと理解していた。しっかりと、頷く。頷いて、トキの手をとった。

 国は夜明けを待っている。
 もうすぐ、新しい陽が昇る。


 最終話:青空と風のアリア

 夏の空は青かった。今年の春も、空は珍しく青かったが、それにまさってなお夏空が青い。
 国王は病を治すことに専念し、そのために王の座を次男のテスに譲った。彼は、ひとりの若者とともに政権を返上しにやってきた少女のことをいつも思い出す。皇太子を殺したのはあたしです、と大きな瞳いっぱいに涙を浮かべて深々と頭をあげた少女のことを。何と清楚で美しい姿だろう、と胸をうたれた。確実に傾いていたこの国に、このような民がいたのだと思うと、兄のような国政は決して敷けぬと思った。
 西国へ派遣していた軍隊は、すぐに王によって呼び戻された。軍人は学力も高かったためにいくつかの部隊は解散し、教育関係へまわされた。
 軍事費に回されていた莫大な教育資金も、確実に本来あるべき教育の場へと戻ってきている。親たちは、国から援助を受けることで楽に子どもを学校へ通わせることができるようになった。
 税率も昔と同じくらいにまで下がり、言論の自由も驚くほどに回復してきていた。権力者が1人変わるだけで、こんなにも変わるものなのだ。
 夜が、明けたのである。
 その陽は次、いつ沈むだろうか。国王は常にその不安を抱えて、まっすぐに国民に尽くさねばならぬ。その使命を忘れたときが、国の亡びるときだ。その使命を疎むならば、質素な一市民に戻らねばならぬ。国の上に立つならば、それだけの覚悟と自己犠牲をもってならねばならぬ。
 皇太子の墓標が、森のはずれに立つ教会で風に吹かれている。きっと彼が一市民として生まれていたならば、問題なかったのだ。少し気前がよくて、少し乱暴で、体力しか取り柄がないけれど人は好い。憎めない。そんな男だっただろう。それも運命というしかなかった。
 どうあっても、人間は歩いてゆかねばならないのだ。時にゆっくりと、時には速く。時には間違った方向へ向かいながら、それでも最後には人として正しい道へと。1人1人が、それぞれの正しい道へと着実に歩いていく。
 それが人間の使命なのだ。王に生まれたものには、王に生まれたものとしての正しい道が。民に生まれたものには、民に生まれたものとしての正しい道がある。生まれてきた以上それを全うしなくては、ならない。
 短いようで長かった国の夜が明けて、未来はようやく輝き始めた。同じ間違いは、繰り返してはならなかった。輝きはじめた未来を、簡単に曇らせるわけにはいかなかった。次こそ、国王が守らねばならぬ。民が守らねばならぬ。国の明るき真昼を、できる限り長く続けてやらねば。
 これから先、生きてゆく者のために。これから先、生まれてくる者のために。この青空を、見せてやることが務めだ。狼煙の臭いを嗅がせないことが、務めだ。そう、人を殺すことを覚えたりなどしない人生を。そんな人生を得るための環境をつくるのが先人の務めなのだ。
 願わくは、続くように。明るい未来が続くように、と祈る。

 くろねこ亭には、やはり休みがない。やってくる客のために、ありあはいつだってくるくると働いている。
 「今日のおすすめは?」
 「トマトとえびのリゾットと、生ハムが」
 リゾットを、綺麗に器に移す。薄く生ハムを切り分けて、皿に盛った。
 「今日は、えんどう豆の冷製スープよ」
 外は暑く、風が吹き抜けていく。夏の風だ。木枠の窓から、青い空が切り取ったように見える。青々とした木々が目に鮮やかだった。
 「じゃあ、それで」
 スープを口に運びながら、トキはありあを見上げる。以前とまるで変わらない様子で、くるくると働くあらいを見るのが愉しいという表情だった。
 「おう、来たぞ」
 カランカラン、と音をたてて店に入ってくる客たち。
 「トキか、相変わらずはやいな」
 「タレム、今日も残業?」
 「ああ、今度の王は厳しくってよ。報酬がしっかりしている分、王が直々に確認しに来るのさ。それで、俺たち下っ端とも何だかんだ世間話をしていくんだ」
 「そうそう、俺はこの花が好きだな。植えてくれるか、なんつってな」
 ジンが、話に加わる。今まで見たことのないような国王らしく、それに戸惑いながらも愉しそうな様子が見てとれた。それに救われる。
 ありあがトキに連れられて政権をテスに返上してから、ずいぶんと経った。月に一度ほど、テスはここに訪れる。そして、トキやありあや、それからタレムたちと酒を呑んで、話してゆくのだった。トキが苦笑していた。
 『あんな賢帝では俺たちにチャンスはないな』と。
 分かっていて、テスを選んだくれたのだ。ありあは決して忘れないだろう。ありあの全てを救ってくれたトキのこと。
 そうして以前と同じように夜が更けてゆく。あの日々が戻ってきた。

 青空のもとで、トキがありあの傍らに立つ。仕込みを終えたあとの、街の広場。はるか南に海を見渡せる小高い丘の上。白いシャツに、黒いズボンがよく似合っていた。ありあの白いワンピースの裾が、ふわふわと風に揺れる。同じように白い帽子が、ありあの頭を可愛らしく飾っていた。
 「ありあ、一度俺の国にも来る?」
 あの冷たい美貌で、しかし明朗な双眸でこちらをのぞきこんでくる。彼が内偵だったことは、もう皆に知られていた。だが、ありあの心配をよそに誰も彼を責めなかった。
 『あいつはいざってときになると、まっすぐに助けに来てくれたよ』
 『火の中に飛び込んで、俺を助けてくれたんだ』
 『巻き添えになりかけたうちの子を、助けてくれたのよ』
 人々の声を思い出す。きっと、トキは仕事に私情を挟まない人間である。けれど彼は、めったに人を信じないが、信じた人間は疑わない性質の男だとも思う。だから、皆彼を信じる。頼る。いや、彼はまっすぐに生きてゆくものを大切にする男なのだ。
 「俺の親に紹介しよう」
 そして、トキはありあに軽く口づけた。初めてだった。
 「大事だよ、おまえ。いつか、しばらくくろねこ亭を休んで俺の国に遊びにおいで。響も待ってる」
 青空を仰ぐ。太陽が、眩しいほどに2人を、それから道行く人々を照らし出す。さざめく波が眩しくて、ありあもトキも目を細めた。何ということもなく、ひどく愉しい気持ちだった。
 青空。それから風。すべてがありあを包んでいる。すべてが、見守ってくれている。そのどこかに、必ず両親がいるような気がした。
 「綺麗な空ね、トキ」
 空を見上げるトキの横顔が凛々しくて、綺麗だ。夏のさわやかな風が、彼の髪をなぶっていく。いつのまにか、彼はかけがえのない存在。救世主。
 この先、この国がいつまで明るい道をゆくかは分からない。けれど、何があっても、今度からは自分で立ち上がれそうな気がした。
 「風の音が聴こえる」
 黙っていても、さわさわと音が聴こえる。風が生きているのが、分かった。ありあは微笑む。トキも微笑む。決して自分の罪を忘れないまま、それでも前へ歩いていく。大きな希望のために。愛する祖国のために。
 人として生きてゆく。この道をゆっくりと。着実に歩いていく。驕ることなく、怯えることなく、人として恥じない道を歩いてゆく。あたしの使命。

 好きになってしまったよ、とトキが呟いた。

 青空が、ありあを見ている。
 風が、ありあを見ている。
 おおらかな、自然の音色。風が柔らかな音色を奏でて吹いてゆく。
 
 青空と風のアリアだ、とトキは思った。



番外編:ついにゆく道【1】

 響の周りには、いつでも女の姿が絶えなかった。綺麗に整った容貌と、何事にもどこか無関心なクールな性格の所為だろう。幼馴染みのトキは、冗談でよく言った。
 「おまえ、女の子がかわいそうだよ」
 トキはいつも凛とした顔でこちらを見てくる。女好きで、遊び人で、それから容姿はとても整っていて。内偵としての能力にも長けていた。
 響の最大の親友であり、同志であった。

 「おまえさ、頼みたいことがあるんだけど」
 「ん?」
 優しい声色が、実は何に対しても無関心であることにはほとんどの人が気付かない。
 「戦になる前に、1人助けなきゃいけないのがいるんだ。それを助け出してくるから、面倒を見てくれない?」
 美しい眉が、怪訝そうに動いた。
 「助ける? 何を」
 「女を、だよ」
 ほう、と思った。今まで決して特定の女と深く付き合うことを避けてきたこの男が、女を助けるというのか。どんな女だろう。
 「番兵を始末してから後を追う。俺が着くまで彼女を見ていてくれるか」
 「……まあ、詳しいことは分からないけど。おまえがそういうなら見ておこうか、責任をもって」
 好奇心だった。幼馴染みが助けるといった女がどんな人間なのか。そう思って引き受けたことだった。


 「頼んだぞ、小屋へ向かってくれ」
 頷いて、響は娘の身体を抱いて馬に飛び乗る。トキが王宮の神泉へと姿を消したのを確認して、馬に鞭をあてた。響自慢の、黒鹿毛の馬が素晴らしい脚力でもって走り出す。国境近くの小屋に向けて駆ける中、水の湧き出る沢の近くで一度馬足をとめる。響は、気を失って瞳を閉じている少女の顔をふと見下ろした。馬を走らせているときには気付かなかったが、ひどく美しい顔をしている。だが……違う。トキは、どれほど美しい女であっても心奪われる男ではない。これの何が、トキを惹き寄せたのであろうか。
 響の深い双眸が、考え深げに煌めいた。トキは同志なのである。それも、内偵としての。トキの内偵としての力を狂わせるような女であれば、俺はこの娘をただではおけぬ。響はそう思った。
 それが覆ったのは、あの日だ。春もずいぶんと過ぎたあの日。空が青かったのを、今でも覚えている。
 

 『これはクーデターなんです。この国を占領しないでください』
 悲痛に叫んだ娘の声が、今でも耳にやきついていた。あの時、瞬間にして分かった。ああ、あれに惹かれたのだ。トキは、この娘の性質に惹かれたのだ。分かる。俺もそれで惹かれたから。
 小屋の近くで目覚めて、そこが何処かも分からぬまま視線を揺らしている少女のどこに、そんな烈しさがあったのだろう。
 響には分からなかった。トキのように両親が揃っているわけでもなく、祖国に熱い忠誠心を抱いているわけでもない。ただ可愛らしい女に囲まれて、日々愉しく過ごすことができればそれで良かった。
 あがいてもどうにもならないことがある。そんなことに血と汗を流すのはナンセンスだと思う。……内偵としてトキとともに活躍していながら。
 だが、ナンセンスだと思っていたことがいとも簡単に、彼女によって意味あるものにされてしまったのだった。彼女が立ち上がって、あの国は変わったのである。
 『あの国は夜明けを待っている』
 そう言ったのはトキだった。
 『あの娘が陽を昇らせるぜ』
 まるで自分のことのように、トキは自慢げに言っていた。そんなたいそうな娘がいるものか、と思っていたのが今では嘘のようだ。あれは光りだったと思う。闇の国に差す一条の光り。あれに導かれたのだ、きっと。俺もトキも。そうでなければ、王の命に逆らってまで隣国の再建を助けたりしない。
 トキが惹かれたのが分かった。トキは彼女を愛していた。響はただ、その娘を尊敬した。あれほど一途に己の祖国を想うことができるとは、と。
 
 それが愛か、と響は思った。


番外編:ついにゆく道【2】

 「ここのパンは絶品だね」
 響は熱々のパンにしみこんでいくバターに目をやりながら、誉めた。ありあが嬉しそうに笑って、パンを盛ったバスケットをカウンターの上に置く。隣国を占領する必要もなくなった今、トキも響も祖国での仕事が多くなった。そう頻繁にはくろねこ亭に来ることも叶わなくなった。だがその代わり、トキが来れないときには響が、響が来ないときにはトキが、そして時にはトキと響2人そろってくろねこ亭に来ることもあった。
 皇太子を殺したときのありあとは、まるで別人のようだと響は思った。優しい容貌をして、パンをオーブンから出したり、リゾットを器に移したり、スープをかきまぜたり。ひどく忙しく立ち回っている。その一生懸命な姿が、あの時の悲愴な雰囲気からはまるでかけ離れた可愛さをもって響の目に映った。
 「ワイン。それから鮭とクリームのリゾット」
 明るい音をたてて扉から入ってきた客が、響の横に座るなり注文した。女の声に、ふと響は隣を見てパンを飲みこみそうになった。
 「ミラ……おまえ」
 厭な予感がした。
 「なあに?」
 「何故ここに」
 色白の美しい顔立ちで、金色に近いショートカットの髪をしている。瞳は青く、優しそうに見えた。男は皆、これに騙される。物腰も柔らかで、どこにも性質の悪そうなところは見えなかった。厄介なものが来た、と響は水で唇を濡らした。トキはいったい何をしているんだ、と思う。
 (……しっかり見といてくれよ……)
 「何でって……この頃トキと2人して、ここに入り浸ってるって聞いたから。だから来たのよ。トキと響の心を捉えて離さない魅力の味っていうのをいただきに」
 優しく女らしい声色とは裏腹に、言葉に少々棘がある。響はそれを敏感に感じとった。12の頃にトキの紹介で出会ってから、響に想いを寄せて憚らない少女であった。
 「可愛らしい方がやっていらっしゃるのね」
 パンをオーブンから取り出し、向こうのテーブルへ運ぶありあを見てミラはそっと響にささやきを寄せてくる。
 「…………」
 迂闊なことは言えぬ、と響はひとつ息をついた。
 「トキが言っていたわ。この頃響は、くろねこ亭に行くことを嫌がらない。今までは面倒がっていたのに、って」
 「……もう顔見知りになったからね。ほとんどの客と」
 「それだけかしら」
 「何? 意味ありげな言い方をするね」
 「さあ……ねえ、いつもこの席に座るの?」
 「トキと来た場合は、あいつが座るよ。俺1人のときは、俺がここに」
 「……あら、そうなの。あの可愛らしい店主さんに、一番近い席ね」
 さらり、と言ったミラが小憎たらしい。ひどくため息をつきたい気分で、響はミラを一瞥した。確かにここは、ありあの姿が一番よく見える席だ。
 「2人で泥沼でもやる気?」
 「何?」
 「だってトキは、ここのお嬢さんが好きなんでしょう?」
 そうあからさまに言葉にされると、何ともいえない気持ちがすることに響は気付いた。幼馴染みのあの男が、忙しく立ち動く娘を想っているのはもちろん承知のことだったが。
 それにミラが何を言いたいか、厭というほどよく分かった。
 (……まったく)
 俺がくろねこ亭に入り浸っているのが気に食わないのだ。俺が、ありあを幾分特別な視線で見ていることが気に食わないのだ。それでこうして、優しい顔をして釘をさしてくる。
 「で、ここのお嬢さんも、トキのことが好きなのよね?」
 「…………ああ」
 「あら、知ってるのね。今微妙な間があったけれど」
 ひとつひとつ冷静に、女に指摘されていくのは好きじゃない。いや、知らぬ女であればそれをひとつひとつ言い返してやることもできたが、下手にミラに口答えをするといつ余計なことをし始めるか分かったものではなかった。
 「おまえ、何が言いたいの。嫉妬?」
 ミラがリゾットの皿にスプーンをぶつけた。
 「……ねえ。ちょっとまずすぎるんじゃなくて? それにクリームが固まってるわ」
 (それはおまえが今まで食べずに俺に喋ってたからだよ……)
 ああもう、と響は深く息をつく。
 「ごめんなさい……もう一度、温めましょうか。それとも作りなおしましょうか」
 ありあがスープをよそいに戻ってきたところだった。少し困った顔で、それでも客の苦情に応えようとこちらを見つめる。あれだけの美味いリゾット、誰にもまずいなどと言われたことがないに違いない。当然だ、ミラはまずいからまずい、と言ったわけではない。ありあが気に食わないから、まずいと言っただけ。すっかりありあのことを、恋敵だと思っている。これだから女は、と響は目を逸らした。
 「けっこうよ。わざわざお手を煩わせたくないわ。よそへ行けばすむ話だものね」
 それであちこちの席に座る常連客の神経が逆立ち始めた。ありあもいい加減、彼女の敵意に気付き始めたようだった。だが、何も言わない。どこかとりとめのないような視線で、ふわふわとしているから。あからさまに向けられる敵意に、敵意で返そうとしないから。だから男は守りたくなるんだ、と思う。俺が守らなくては誰が守るんだ、と思わされるのだ。
 男のエゴだ。それはトキも言っていた。こういうことか、と響はトキの言葉を思い出しながらありあを見た。
 「そうですか……申し訳ありません……」
 反論するわけでもなく、今までにない無礼な客にありあは丁寧に頭をさげる。
 「いえいえ。そんな、謝らないで。お料理をするには少し未熟すぎたのね」
 ありあが困ったように微笑んだ。あちこちのテーブルで、鮭とクリームのリゾットをおいしそうに平らげた客が目を三角にしてこちらを見ている。響には、気持ちがよく分かった。口を出したいが、事を荒立ててはありあが嫌がる。常連客は皆我慢しているようだった。
 常人が、ミラに口で勝てるはずがない。口から生まれたようなこの女に。響はグラスの水を飲み干して、ひそやかにため息をついた。
 「すみません……」
 「でも、皆さんよく平気で召し上がってますのね。お気の毒に」
 優美な笑顔で毒舌を吐くミラ。ありあは何も言えないまま、謝るだけだった。
 (……まったく)
 「おまえ、いい加減黙りなよ。おまえの味覚が少し異常なの、分かる?」
 女とは、適当に遊ぶに限る。女とは、深くつきあうものじゃない。そう思っていたのだが。なるほどな、と。これがトキのいう愛情ってものなのか、と。何となく思い始めた一瞬だった。


番外編:ついにゆく道【3】

 「あなた、バカじゃないの? あの素人の何がいいのよ」
 「おまえ、何勘違いしてるの? 俺とあの子は別に恋仲じゃないよ」
 「だって、あなたの目はあの子しか見てないわ」
 なるほど、目でわかるのか。響は思った。確かにそうかもしれない。その人間の視線を絶えず追っていれば、その人が何を思っているのか。誰を愛しているのか。誰を憎んでいるのか。すべて分かる。
 「……で、そうだとしたら、何なの。おまえは何がしたいの?」
 ミラの瞳がきらめいた。
 「何ですって? 響、ねえ。あなた、あたしが昔っからあなたを好きなこと、誰よりもあなたが知ってるはずよ。そうでしょ?」
 だが響がどれほど不特定多数の女と遊びまわっても、ミラがこんな態度に出たことはなかった。俺がありあ1人に目を向けているからか、と響は苦々しく思った。無機質な戦いと、生まれもっての無関心のなかで、唯一うっすらと興味を抱き始めた一人の人間、ありあ。今も目に残って離れない、皇太子をひきずって現れ叫んだ、あの姿。こんなにも鮮烈な生き方をする女がいるのだ、と心をうたれた。だが、俺にはその姿を目に映すことも叶わないのか。そこまで疎んでいなかったミラが、今ひどく鬱陶しい気がした。
 「おまえ、国へ帰れ。それで仕事ができるのか」
 同じ内偵である。確かにミラは、女にしては眼を見張るような仕事をしてみせたが、しかし響にとってはそれは重要なことではなかった。
 仕事のできる子だ、という目では見ても、ミラの全ては響の心を揺さぶることはなかった。響が哀しくなるほどの悲痛な叫びをあげることもなかった。ミラの仕事はあくまで仕事。それは決して魂ではなかった。
 ありあのそれは、違った。あれは魂だった。国を、愛する人を、大切なものを守るための悲壮な叫びだった。あれに、心を揺さぶられたのだ。
 「仕事と私情を混乱したりしないわ。見損なわないでちょうだい」
 美しい顔が、ムッとしたように翳った。
 「なら分かってるだろ。平民を巻き込むんじゃないよ。自分の私情に。ありあは何も悪くないって、おまえも分かってるんだろ?」
 そうやって庇うのね、とミラは唇を噛んだ。心底嫌そうな顔をする。今まで特定の女に目を向けることのなかった想い人が、初めて特定の女に興味を寄せ始めているのだ。焦っているのかもしれない。

 「ありあ、スープは?」
 「今日はね、トマトのスープパスタよ」
 トキと話すとき、ありあはとても生きいきとしていた。今日のスープは、今日のおすすめは、とトキに訊かれるのがとても愉しそうだった。
 「あとは今日のおすすめを」
 「はい」
 ありあが看板を出し、スープを本格的に煮込みはじめた。パスタを用意したり、メインの準備をしたり、そこからありあは怖ろしく多忙になる。
 「ありあ、黒ビールだ!」
 「ありあ、こっちには紅茶をくれ!風邪気味なんだよな……」
 タレムやジンといった、いつもながらの常連がまず飲み物を注文する。各テーブルに飲み物を運んで、ありあがカウンターに戻ってきた。
 「ミラに会ったそうだな」
 トキが、ありあに笑いかける。その笑みが、今までに見たことのないほど優しくて響は可笑しくなった。変われば変わるものだ、と思う。確かに笑顔の絶えない男ではあったが、1人の女にこれほど優しい笑顔を見せることもなかったはずだ。もしも、俺のありあを見る目がこれと同じであったなら、それはミラも嫉妬するはずだ、と響は苦笑する。
 「ええ、会ったわ。あの人、響のことが好きなのね。とても」
 「分かった?」
 「うん。だって、いつでも目が響を追っかけているもの。分かるわ、あたしも女の子なんだから」
 響は、2人の会話を聞きながら何ということもできない。
 「昔からずっと響を追い回してる。正直おまえの疫病神だもんな、紹介した俺が言うのも何だけど」
 まったくだ、と響はうなずく。思えばあのとき、この男の紹介なんぞに乗るんじゃなかったと。
 「……でも」
 パスタがたっぷり入ったトマトスープを、落ち着いた器によそいながらありあは遠慮がちに口を挟んだ。
 「ん?」
 ありあが何か言おうとするのに、一番に気付くのはトキである。そして柔らかく促す。
 「……本当に本当に好きだったら、死ぬ気で我慢するか、死ぬ気で追いかけるかどっちかだと思うわ」
 「まあ、確かにミラは本気で響を愛してるからな」
 パスタがほどよい固さ。スープがよくしみこんで美味かった。響は訊ねた。
 「おまえはどっちを選ぶの? ありあ」
 「え?」
 「死ぬ気で我慢するか、死ぬ気で追いかけるか」
 カウンターの端に座ったジンに、温かいグラタンを出してありあは少し考えた。考え込むときに、ふと視線を伏せるのが美しいと響は思った。
 「……我慢すると思うわ。その人ともし、両想いって分かっていれば追いかけるかもしれないけど」
 「なんで我慢?」
 「あたしね、我儘なの。とても傲慢なのよ」
 少し自分を厭うような表情で、ありあは響に答える。トキは黙ってスープを口に運んでいた。
 「傲慢?」
 「そう。あたしには大切なものがたくさんあるわ。好きな人だったり、くろねこ亭だったり、お客さんだったり、この国だったり。でもね、もっと大事なのものがあるの。……あたしのね、自尊心」
 トキの手が、ぴたりと止まるのが響にも分かった。トキの表情をふと一瞥する。眩しそうな瞳で、トキがありあを見上げていた。
 「自尊心?」
 響は、ふたたびありあに目を移した。
 「そう。あたしはね、自分のなかに常に自尊心を持っていたいの。傲慢でしょう? 生意気なのね、あたし」
 「…………」
 「どんなことがあっても、プライドだけは失わずにいたいの。あたしは、何があってもあたしなのよっていう気品のある何かを持っていたいの。だから、傲慢。我儘なのね」
 
 これだ、と思った。これだ。
 他のどの女にもなかったもの。この気高き自尊心だ。

 (俺は惹かれている)

 そう思った。


番外編:ついにゆく道【4】

 しかし、どう見ても普通の少女だった。くろねこ亭で働く姿は特に目立つこともなく、ただの優しい穏やかな少女。凛とした空気があるでもなく、ぴんとした空気を持っているわけでもない。ただ、この青空に似た明るい笑顔がとても可愛らしい。それだけなのだが。
 夏が過ぎてゆく。夜風が、ほんの少しずつではあるが涼しくなっているのが分かった。くろねこ亭では、温かいスープを出す日が多くなった。
 「どうしたの? 響」
 「ん?」
 温かいかぼちゃのニョッキと、ポーチドエッグを響の前に出して、ありあがこちらを覗きこんでくる。
 「口数が少ないわ。元気?」
 トキがいないと寂しいのかしら、とありあは笑った。
 「元気さ。何、心配してくれてたの?」
 まさかおまえを観察していたのだ、とは言えまい。ありあは、否定も肯定もせずににこりと笑う。その笑顔が、いつもながら何だか無性に可愛い。
 トキは、今頃祖国で戦っているだろう。宮廷で働いていた男が西国の内偵だと分かって、トキがその始末に駆り出されたのだ。
 「そろそろ来るだろう、トキも」
 始末はすぐ済む。終わればすぐにここへ向かう、と言っていた。
 よく考えれば、心を癒す場所が、祖国ではなくありあのいる国だということも滑稽な話だった。不意にそんなことを思って、つい苦笑する。
 ふと、怪訝そうな瞳をありあが見せた。
 (……?)
 「どうした?」
 「何か……今、外で音がしなかった?」
 「…………」
 気付いたのか。響は、内偵である。勘も良かったし、神経は人一倍鋭い。だから、先ほどからくろねこ亭に近づいてくる気配は感じとっていた。
 しかし俺が気付いても、常人であれば気付かないほどの気配だ。不思議な生き物だ、と響はありあを見つめる。
 響が見つめる視線に、ありあが苦笑したと同時にくろねこ亭の扉が開いた。それがひどく騒々しい音で、響もありあも、他の客も扉を見返る。
 飛び込んできたのは、驚いたことに金髪の女だった。
 「ミラ……」
 足は泥だらけで、森を一気に駆け抜けてきたらしいのが分かった。そのわりにミラの双眸は落ち着いていて、特に異様なところはない。何事かと思って、響は立ち上がった。
 「その女を寄越せ!!」
 響が、ミラに歩み寄る前にあたりが一気に騒がしくなった。数人の男が、ミラに続いて飛び込んできたのである。状況を見極めようと、響は傍観を決めこんだ。出来る限りありあを守るように、カウンターの前に立つ。
 小さなくろねこ亭は、男が数人もいればすぐに荒らされる。タレムたちは武人ではない。応戦したものの、酒も入っていたせいか間もなく気絶して床に倒れこんだ。ミラは器用に逃げ回りながら、幾度か悲鳴をあげた。
 ありあは、響の制止を聞かずに慌ててタレムたちのもとに駆け寄った。
 「タレム……! ジン、大丈夫!?」
 形のよい眉が、どうしたらよいかとひそめられる。気絶しているだけだ、と響はありあの肩を軽く叩いた。どうせミラが起こしたいざこざであろう。そんなものに、関わりたくない。
 「お願い、外に運んで。響、タレムたちを外に運んで!!」
 一生懸命にタレムたちを安全な場所に運ぼうとするが、少しずつしか引きずれない。
 「おい、待てっつってんだよ。この女!!」
 男たちが罵りながらミラを追いかけている。しかし内偵でもあるミラの運動神経は抜群で、何とも器用にちょろちょろと店内を逃げ回っていた。
 まあ、あれなら平気だろう。響は思った。
 「お願いよ、響。運んで、踏まれちゃうわ!」
 殴られて気を失った客たちの手足が、男たちに手加減なく踏まれている。あまりに男たちとミラがめまぐるしく動くものだから、手を出せないのかもしれない。響は、ひとつため息をついて頷いた。
 「分かったよ、お嬢さん」

 響がまずタレムを抱えて出てゆくのを、ホッとしてありあは見送る。
 「……助けて!!」
 突然ありあの後ろへ逃げてきたミラが、叫んだ。えっ、とありあはミラの顔を見る。それからいかにも柄の悪そうな男たちを見る。
 ミラの瞳に、少し涙が浮かんでいるのが見てとれた。少しばかり刃こぼれしているような剣をふりかざしてきた男二人を、ありあはどうすることもできなかった。いつからかトキや響にくっついてやってくるようになったこの少女を、ありあは決して好んではいない。だが、だからといって後ろにミラがいると分かっていながら、振りおろされそうになった剣を避け逃げることが出来るかというと、それはまた別の話であった。
 それに、ひどく素早い動きで下ろされる剣を前にして身体は思い通りに動いてくれそうになかった。それは、反射的な行動であったような気がする。
 ミラを背後にして、ありあは両手を広げた―つまり、庇ったのである。ありあの瞳が、ぎゅっと閉じられた。


番外編:ついにゆく道【最終回】

 響が、怒りに我を忘れたのはそれが最初で最後だと思う。タレムを大木のもとに急いで寝かせ、振り向いたときに窓の外から見えたもの。くろねこ亭の中の様子。ありあが両手を広げた、その後ろでミラの唇に不敵な笑みが浮かんだのを見た瞬間、響は己の甘さを痛切に悔いた。
 (ミラ……!!)
 ばんっ、とほぼ体当たりに近い状態で響はくろねこ亭の中へ飛び込んだ。
 「ありあ……!!」
 親友の愛する女を傷つけるわけにはいかない、と思ったのも事実だった。だが、ただ純粋に烈しく、ありあを傷つけたくないと思ったのもまた事実。響は、自分を取り囲もうとする男たちを殴りとばしてありあを助け起こした。剣がありあの胸元をかすっていた。衣が裂けて、うっすらと血がにじんでいるのが見てとれる。ミラが、小さく舌打ちをした。
 「もういいわ、役に立たない方たちね」
 響が、女のことで顔色を変えたのは初めてだった。ミラは衝撃と怒りを隠せない。瞳が美しく輝いている。怒った顔が、美しかった。
 「……ミラ、おまえ」
 「あたし、何か悪いことでもしたかしら」
 ありあが、衝撃で気を失っている。響は思わず声を荒げた。滅多に声を荒げたりしない男であった。その男の双眸が、幾分殺気だっていた。
 「おまえは正気か」
 「正気よ。狂ってるように見えるの?」
 「市民を巻き込むなと、それが内偵の鉄則だろ。忘れた?」
 響は、カウンターに背をもたせたミラの顎をそっと掴んだ。そっと、掴んだがその力は強かった。ミラが、少し身動きをする。彼女の瞳にやや怯えがうまれた。響は声を再び穏やかに戻していたが、彼の怒りは充分にミラに伝わっているようだった。
 「この子は、市民なんかじゃないわ。戦うことを知ってる女よ」
 「知っていて、戦いを最も忌み嫌う女だよ。ひどいことを」
 いつも持ち歩いている簡単な消毒液を、ありあの傷口に塗る。そして手早く服を脱がせると、包帯をくるくると器用に巻いてやった。
 これくらいの浅い傷なら、命に別状はないだろう。
 「あなたが……あなたが、この子を好きだからよ。分かる?」
 「…………」
 「あたしはあなたを好きなの。ずっと好きなの。なのに何でこの子なの?
この子なんかより、ずっとあたしのほうがあなたを分かってる」
 そんなことは、知っている。ありあは響の好きな食べ物だって知らないだろうし、嫌いな食べ物だって知らないだろう。年齢も知らない、家族構成も知らない。今までどんな生き方をしてきたかも知らない。
 しかしミラは知っている。響の好き嫌いも、年齢も、生い立ちも知っている。だが、だから好きになるというわけではないのだ。特別な理由がある、というわけではないのだ。
 
 ただ、胸に響くのである。
 ただ、心を烈しく打たれるのである。
 ただ、目を奪われるのである。
 ただ、感じるのである。

 それが恋情かどうかは、問題ではない。大切か否か、それだけだった。惹かれたところを説明せよと言われれば、できないこともない。
 彼女の細い体に秘められた、あまりに強い心。それからまるで夏の青空のように広がる美しい祖国愛。何かを護るための、悲痛な叫び。とにかく惹かれたといえば、あの日が全てだった。この国が、大きな転換期を迎えたあの日が全てだった。あの日、皇太子の死体を引きずって現れたありあの姿を見なければこんなにも心奪われることはなかっただろう。
 それまでに一度、トキに頼まれて世話をしたことがあったが、その時には何も感じなかったのだ。ただ、清楚で美しい娘だと。その程度の関心でしかなかった。それがあの日を境に、一気に変わった。

 そしてまた今夜、あの日と同じありあを見た思いがした。決してミラを快くは思っていなかったろう。決してミラを好んではいなかったろう。
 それが、あのいざというときに両手を広げて庇おうとしたのだ。響は知っている。とっさのときに、人は逃げる。愛している人間を背にしてさえも、時に人は自分が逃げることを優先する。それが、愛してもいない人間を庇ってありあは立ちはだかったのだ。愚かだ、と思った。愚かなことを、と。
 だが、切ないほどに美しかった。自分の後ろに逃げ込んできた者の前から、逃げることなどありあには出来ないのだ。
 (逃げれば、それでいいのに)
 逃げられないのだ。逃げたい、と思っても身体が動かないのだ。己の代わりに、他人を犠牲にすることなどできないのだ。愚かだが、人として愚かではないと響は思った。内偵には、有り得ないことだった。
 「ありあ!?」
 響がありあの手当てをしながら考え込んでいたところに、声が聞こえた。
親友の声に、響は振り向いた。
 「トキ……」
 ありあの手当てをする響。憮然としたミラ。ミラの周りに悄然と立ち尽くす数人の男。見ただけで、頭の良いこの親友は全てを察したらしかった。
 「…………」
 「別状はないさ」
 響の呟く声に頷く。そして不意に、しゃがみこんでいたミラの手をひいて立たせた。乱暴な仕草に、ミラの肩口がカウンターに当たる。
 「ミラ、おまえいい加減にしないと殺すぞ」
 いつもと特に変わらない声色だったが、双眸は本気だった。いつもの黒い服が土ぼこりに汚れている。響は、ありあに包帯を巻いて立ち上がった。
 出来ることならばすぐに抱き上げてベッドに連れてゆきたかったが、それはトキに任せるべきだろう。そう考えたのである。
 「……何よ、あんたにそんなこと……っ」
 平然とした顔で、トキの手がミラの首にかけられた。
 「出来るよ。ありあを傷つける奴になら、平気で」
 本気で、トキはありあを愛しているのが分かった。響は、誰にも分からないほどの小さな笑みを口元にたたえた。これではかなわぬ。
 「俺はありあを愛する一人の男で、決してありあじゃない。ありあにはこんなことが出来なくても、俺は出来る」
 「……っ、仲間に対して……」
 「そんなものはどうでもいいよ」
 「祖国に損害が……」
 「おまえがいなくても、俺と響がいればそれで平気だ。死にたいか」
 これほどに殺気だった双眸を見せる親友は、初めて見た。ミラの唇が小刻みに震え、顔が青ざめている。響の胸に、あたたかいものがこみ上げてきた。それは厭なものでは、決してなかった。もとから分かっていた。
 ありあは手に入らない、と分かっていた。知っていて惹かれたのだ。
 ミラが、トキの手をふりほどいて扉へ向かった。
 「殺されるなんて、冗談じゃないわよ」
 ひどく怯えた顔をしていた。あれならしばらくは懲りて大人しくしているだろう。ミラについて出て行った男たちを見送って、響はトキとともにしばらく立ち尽くした。不思議な気持ちが、した。
 (俺は失恋ってものをしたのかな)
 滑稽なことだ。女に不自由などしなかった俺が、想いを伝えることもなく引き下がるとは。トキが、ありあを抱き上げて二階へ消えてゆくのを何ということもなく見る。それっきり、トキは下りてこない。ありあに付き添っているつもりなのだろう。仲睦まじいことだ、と響は小さく笑った。

 俺は変わらないだろう。きっといつでも周りに女がいて、ミラにつきまとわれる。だが、俺は必ずありあを護るだろう。トキがいないときには、俺が必ずありあを護る。
 それは誓いに似ていた。青空に立てる、誓いに似ていた。決して破られることのない誓いだろうと思う。

 「響は、何を食べる?」
 あの明るい笑顔でそう訊いてくれればいい。俺はトキもありあも愛しているのだ。それだけで、きっと何でもできる。

 (女の子の幸せな顔を見るのが、俺の幸せだからね)

 青空で、風が歌っていた。

2005/01/02(Sun)23:06:20 公開 / ゅぇ
■この作品の著作権はゅぇさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
もう、無理やり最終回にしてしまいました。いきなり終わった感がありますね、やはり(笑)だってこのままだと番外編にならないの……(−−)機会があれば、またありあたちのその後なんてものを書いてみたいと、思っていたりもします☆そのときはよろしくですっ♪まあ、今回は突然の最終回ですが、ここ以外で終わらせられるところがなかったので……突っ込まないでくださいね(涙)でゎ☆でゎ☆

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。