『NOGI』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:シヅ岡 なな                

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独りでベランダで三角座りをしながらあたしが吸うのはマルボロで、乃木があの頃吸っていたのはセヴンスター。
だったような気がする。
ベランダで二人っきりになると決まってあたしの左足の内太股を撫で回す。
どんなに鍛えたってこの部分には筋肉はつかないんだなんて言いながら、ただ撫でるだけでそれ以上のことはなんにもしない。
ねぇみんな部屋で酔いつぶれて寝ちゃってるよここでしちゃおうよ。
じわじわと太股の開きを大きくして、乃木の手をとってあたしの柔らかい肉弁に導く。
何度も何度もそんな風に乃木を誘惑しようと試みては失敗していたあの頃のあたしは、今よりも少しだけ幸せだったような気がする。

過去にするには時間がやっぱりまだ足りない。
でも、もうその記憶はあたしの中で鮮明なものではない。
あの頃、だなんて言い方をする自分は、ただその言葉のちょっとだけ懐かしみを帯びた響きで、いつまでも感覚の捉えられない時間をごまかしているだけ。

立体感の無い二十四時間の白く濁った霧の波が、たちこめては消え、またたちこめては消えていく。
そんな風にして、あたしの記憶の中のあんたがどんどんぼやけていく。
そのうち完全に消えてなくなる。
痩せこけた長細い輪郭と、やたら並びの悪いヤニで汚れた前歯のシルエット。
そんなところぐらいしか、見えない。
あと、見えるのは、あんたが生きながら幾本も身体に刻んだ血色と肌色のストライプ。
それだけは、例えあんたの全てが見えなくなっても消えないような気がする。

ねぇ乃木。
あんたの死体を見てもあんたの地味な葬式に出ても、あんたが死んだことであたしを襲うはずのたくさんの感情は、まだあたしの目の前に現れてすらいない。
あんたは本当に死んだの?
あたしの中であんたが死んだっていう出来事は、真っ黒のペンキのバケツに突っ込んだ手で、裸の胸に手形を押されたみたいだ。
真っ黒の滴りが何本も筋を伸ばして身体をつたって落ちていく。
それを見下ろして、あたしは一体何を思えばいいんだろう。
あんたの死はまるでそんな風だ。
毎日を同じ色で塗りつぶしてるつもりだけど、ちょっと離れて見てみると、そこには一色とは言いがたい複雑なグラデーションが広がってる。
おかしいなぁと首をかしげてみるけど、その後じゃあ一体どうすればいいのか、結局解からないからあたしは見てみぬふりをずっとし続けてきた。

ねぇ乃木。
あんたは確実に死んだんだよね。
いつまで経ってもあたしが何の感情にも襲われることなく、そうしてみるみるうちにあんたがぼやけていくのは、あんたの死を見てみぬふりをしたあたしへの罰だ。
溢れ返る感情の渦の中にいなくちゃいけなかったあたしなのに、胸をつたい落ちる黒滴を見つめて首をかしげてた。
まるで乃木と出会う前のあたしが毎日に首をかしげたのと同じように。
あたしが乃木の死に、無感情でいられるはずはないんだ、本当は。
でもどうしようもない。
何をどんな風に思えばいいのか。
わからないんだ乃木。

ねぇ乃木。
今更あんたの何を思い出そうか。
というよりも、何が思い出せるのか。
もうすでにほとんどあんたのこと何も覚えていないあたしが。
次、霧の波が立ち込めた瞬間その中に手を伸ばせば、何か掴めるのかな。
ねぇ乃木。
あんたはあたしに一番何を覚えていて欲しかった?
それとも、これが不自然な自然だと思う?





霧の波のその中は、ひたすらにあのストライプばかりで視界がちかちかして、なにも見えない気がする。





























好きかと聞かれればもちろん嫌いではないから、きっとあたしは乃木が好きなんだろうと思う。
何度も誘惑を試みるぐらいだしね。
けれどそれは恋愛感情とか、そういう類のものじゃないと思う。
この世に落とされた一組の磁石。
あたしがNで、あんたがS。
ううん、あんたがNで、あたしがSかもしれない。
まぁ、どうでもいいことだけど。
お互いくっつかなきゃいけない者同士。
どうやったって引き寄せ合う。
あたしとあんたはそんな風。
もし違ってたら、違うって言って。
乃木はあたしのこと本当はどう思ってたのか、乃木がいた頃はそんなにこだわらなかったことに、乃木がいなくなってから急にこだわりだしたあたし。

長くなり過ぎた煙草の灰が、キャミソールが隠し切れない浅い谷間に落ちて、慌てる。
思わず立ち上がって、そしたら急に立ち眩みが起こった。
ベランダの手すりに寄りかかって、酒臭い息を空に吐いた。
軽く火傷した谷間をさすりながら、あたしの手は冷たいなぁと思う。
俯いて見てみるけど、暗闇で自分の肌は青白くなめらかに見える。
携帯が左のポケットで震えてる。
十三回まで数えて、出ないでおこうと決めてしまうと、とたんに鳴り止んだ。
なんだかよく分からないけど、こんなものかもしれないと思った。
一体何が「こんなもの」なのか。
自分でもさっぱり説明のつかないことばかりが湧き出て、宙に浮いては割れて、消えてゆく。
浮かんでは消えるなんて、まるでしゃぼん玉みたいでファンシー過ぎる。
それはもっと淡々としていて、背景はグレー。
触れたら生気を吸い取られそうな、そんなネガティブな塊。

左手首の長細いかさぶたを指でなぞってみると、自然にあたしのまぶたは閉ざされる。
こないだ酔って歩いてて、気分が悪くなって掴まったフェンスの、妙なところから出ていた釘(しかも先端の方)で、薄く皮膚を傷つけた。
目を閉じてかさぶたをなぞるあたしは、まるで何かを思い出そうとしている人がおまじないをするみたいで、実際のところ無意識に、あたしは誰かを思い出そうとしている。

また携帯が鳴る。
近くの道路で激しく鳴り合うクラクションよりも、左ポケットのバイブ音の方がうるさい。
あたしは手すりに寄りかかっていた身体をゆっくりと起こす。
そして後ろから誰かに膝をがくんと落とされたみたいに足元が崩れて、その場にしゃかみ込んだ。

釘に引っ掛けた時に出た血は、ほんの少しだった。
このかさぶたも、あと何日かしたらきれいに剥がれて、またつるりと再生する。
釘に引っ掛けて血が出た事実も、消える。

家の電話が鳴ってるのが聞こえる。
相変わらず携帯も鳴ってる。
今夜はその場しのぎに孤独を埋めたい人間が多い。
そんな場に最適のあたしに、オファーが殺到してるよ。
今から着替えて髪巻いて、化粧をして出かけても、確かにあたし構わないんだ。

あたしはあたしを抱き締める。
両手を背中で組めるぐらいに、強く抱き締める。
そうすると、自分以外、誰も何もかも消えてなくなって、本音だけが溢れ出る。
本当の意味で、ひとりぽつんと放り出されて、やっと自分で自分が見える瞬間。
あたしがいつもいつも思っているものが、何にも遮られずにそのまま、剥き出しで瞼の裏に現れると、身体の芯がぎゅっと熱くなって、このままこの熱が冷めないでいてくれたらいいと願う。

唐突にガラガラとベランダの戸が開く。
あたしはあたしを抱き締めたまま、まだ熱を帯びている。
脇の下に手を差し入れられて、立たされる。
でもあたしはまだ目を開けない。
あたしの薄着を指摘する言葉が聞こえる。
もう秋が近づいてる、風邪をひくよって。
ごつごつした手で、顔を包み込むようにして頬を撫でられると、睫毛が濡れた。
「風邪で死ねたら、そっちの方がいいと思わない?」
口の中はひどく渇いているのに、舌は変にぬめぬめとしていて、上手く喋れていないあたしに向かって、流れるように話すのは、誰。

「チセを泣かしたのが、もしも俺なら目を開けて。こんなに震えてる」
あたしは目を開ける。
「自分で自分を抱き締めたら、それは一人ぼっちの事実そのものだけど、たいていの人は、一人ぼっちになんかなれやしないよ。みんな何か求めてるから。あたしだってそうだよ」
しょっぱい水が口に入る。
泳げないあたしなのに、顔だけ海の中で溺れてる。
上手く息が出来ないよ。
「みんなそうだよ」
そう言って欲しくて、頬を包む手を握った。

目の前の乃木の顔は、いつもより一段と青白くて、ベランダの暗闇にさえ溶けそうなのに、こんな小さな空間でさえ、取り返しのつかないような闇と、見えないどこかで繋がってるんだから、耐えられない。

「乃木は、消えるの?」
乃木は口を動かさずに、わからないと答える。
乃木は瞳も動かさない。
ふっと苛立ちが湧いて、あたしは両手をグーにして、乃木の薄い胸板を打った。
十回以上、交互に強く打って、はっとして乃木の着ていたトレーナーをめくり上げて見てみると、ランダムに斬りつけた跡が、鋭く尖った彼岸花の花弁みたいに乃木の素肌に貼りついてる。
夜でもそれは、見られる色が何色かを知ってるみたいに。
さっき、できたばかりなんだ、と乃木は言う。
そっと触ると、温かい傷口が、じゅっと血で濡れてる。



「チセがさっき言ったみたいに、そうなのかもしれないと思うよ。でも、俺はそれがいいんだ。そうなりたい。寂しいとか、孤独だとか、そんな感情はもうとっくに通り越してる。俺は、俺自身に話し掛けてくる俺に、是非聞いてみたい。俺が求めてるものは何かってことをね。もしそれが、本来不意に現れるものだって言うのなら、俺はたぶんまだそこまでいってない。自分で自分を抱き締めて、血が出たらおかしいのか?痛みを伴うことはいけないことか?おかしいし、いけないことなんだろうね、でもそれが俺には、本当のところ解からない。なぁチセ。俺、生きることと、死ぬことの、境界にあるものが見たい。きっと俺が求めてるのはその風景で、見ようとすることで結果的に自分が消えても、それがなんにも恐ろしいと思わないんだから」


一直線の薄い眉の下の、一重なのに見開きの大きい目は、こんなに柔らかく笑うのに、どうしてなんだろう。
乃木にあたしは笑えない。
泣いてマスカラの落ちた女は可愛くて好いって、あたしの耳元でくすぐったく言う乃木に、あたしは感覚が麻痺しそうな程、悲しくなる。

「部屋に入ろう。風邪をひく」
そう言ってあたしの手を引いて、あたしを部屋に連れ戻す。






ねぇ乃木。
今あたしの手を引いてるあんたは、現実?
それとも、あたしが求めてるものの、かたち?


肌寒い風邪が吹いて、あたしの濡れた頬に、髪がくっついた。













































2004/12/20(Mon)23:14:25 公開 / シヅ岡 なな
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