『25's love song  (長めの読みきり)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:ドンベ                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142


 ――その声はすごく弱々しくて、そんな声で歌なんて歌えるの?って思ったけど、でも、どうしてだろうね。君の声は、ガラス張りのドアなんか最初から無かったみたいに、深夜の店内に響いてた気がする。君が初めてあの場所に座ってから、ずっと……わたしはずっと、それを聞いてた。

 本当はずっと、聞いていたかった。


 〜 25's love song 〜


 深夜二時を過ぎる頃、僕は学生街の一角にある自分のアパートに帰ってくる。築十数年が経過しているせいで汚れたエントランスを抜け、薄暗い階段を上がって三階の一番手前が僕の部屋だ。
 ポケットから鍵を取り出し、鍵穴に差し込む。ドアノブに触れると、冷たさが僕の手の平を刺激する。少し感覚の薄れた右手の指先に、その冷たさは気持ちよかったけれど、同時にそれは、このドアの向こうに誰もいないことを示していた。
 僕はドアを開け、孤独が昇華して形成したのではないかと思える暗闇に足を踏み入れる。僕の背後では、古いドアが何の遠慮も感じられないけたたましい音を残して閉じる。
 蛍光灯の明かりをつけ、そして僕は自分の左手を見る。
 そこにあるのは、大きな黒い塊。ハードケースと呼ばれる、楽器を入れる箱だ。僕が持つそれはアコースティックギター用のそれで、路上で弾き語りをする若者の前でよく見かける。
 ハードケースの脇には、コンビニのビニール袋がぶら下がっていた。鍵を開けるとき、邪魔だったので右手から左手に持ち替えたものだ。
 僕はコンビニの袋を再び右手に持ち替え、ハードケースを部屋の壁に立てかける。
 そして、部屋を見回す。
 相変わらずの質素な部屋だった。装飾なんてどこにもない、今の僕の生活に必要なものだけしかない部屋だ。
 テレビもなければ、余計な本も雑誌もそこにはなかった。僕はそうやって外界の刺激を排除しながら……何も考えないように、何も見ないようにしながら、大学に入学してからの半年を過ごしてきた。自炊をし、外食を控えたのも、僕の“今”というものを明確にしていく作業の一環に思えた。他者との接点を減らしていく、そんなつまらない作業。
 結果、僕の心は動くことをやめた。振幅や振動数がゆっくりとゼロに近付いていく。今の僕の生活が、そんな結果をよく表している。
 例えばそれは――人の少ない深夜に弾き語りをすることだったり、コンビニのおでんを食べたことがないことだったり。
「……僕が作った曲なんだよね、あれって」
 右手に提げたビニール袋の中には、大根と、卵と、はんぺんが入っていた。

 僕は週末になると、いつも近くの繁華街に出かけた。目的は弾き語りをするためだ。
 時刻は午後の十一時を過ぎた頃からになることが多く、しかもアーケードのある通りの一番端が定位置だったから、今までにお金をもらうどころか、僕の目の前で誰かが立ち止まることすらなかった。
 その日も僕はギターを弾いていた。
 時計を見ると、午前零時を少し過ぎたところ。この時間になれば繁華街とは言え、さすがにほとんどの店がシャッターを下ろす。唯一の例外がコンビニエンスストアで、僕の左斜め前には、夜中にして煌々と輝くその店が鎮座していた。
 目を凝らすと、立ち読み客の姿が見える。時間が時間だからか、僕は立ち読み以外の目的でそのコンビニに入る客を見たことがない気がする。
 不意にため息がもれ、そのせいで緩やかに流れていたメロディが止まった。弦と指が擦れて生まれるフレットノイズが、静寂を少しだけ揺らす。僕の心も、同じように少しだけ揺れた気がした。ひとりぼっちの部屋で、何をすることもなくただ時間だけを進める自分の姿が思い浮かんだ。
 それは無音という音。ゼロという存在。意味なんてどこを探しても見つからず、それなのに繰り返すことに意味があるのだと教えられ、ノイズに意味を見出すなんて愚かだと諭され……今に至る、僕の過去。
 僕は財布から、久しぶりにピックを取り出す。指弾きの奏でるアルペジオは、アコースティックギターらしい美しさを持っているが、悪戯に蘇った過去の僕は、パワーコードの持つ単純な迫力を愛していた。
 僕は左手を開いたり閉じたりして、軽くほぐす。ピックを握り直して、目を閉じる。
 小さく息を吸い込んで、
「それじゃあ――」

 歌おうか

 客席が波打っていた。そこにはたくさんの見たことのある顔と、そしてそれ以上にたくさんの見たことのない顔があった。
 大入り、満員御礼……このライブハウスの低い天井から、大相撲のそれのように垂れ幕を掲げたら痛快だろうな、なんてことを僕は考えた。
 僕は一度客席に背を向け、アンプに手を伸ばす。リハーサルで合わせた音の再確認。ゲインをマックスに上げ、トレブルを少し下げ目にして、Amのコードを鳴らす。
 目の前のアンプが、爆発するように音を生んだ。こだまするように、背後から歓声が返ってきた。共鳴するように、バンドメンバーがそれぞれの楽器を鳴らした。
 僕達は遊びたい盛りの子供のように笑い合う。まだ何も始まっていないのに、楽しくてしょうがない。ここに立っていることが、嬉しくてしょうがない。
 僕は客席に向き直る。学校の友達が、僕に向かって手を振った。僕はそれに微笑みで応え、マイクスタンドの前に立つ。
 空間が徐々に静まりかえっていく。
 解放を待つ静寂。
 僕は左手を開いたり閉じたりして、軽くほぐす。ピックを握り直して、目を閉じる。
 小さく息を吸い込んで――、

「おー、今の曲かっこいー」
 そんな声で、我に返った。

「――えっ?」
 僕は慌てて顔を上げる。目の前に、見たことのない女の人が立っていた。彼女は胸元で手を合わせながら、「すごいねー」などと言って僕を見る。
 その人はコンビニの制服を着ていた。暇だったのか、それとも何かついでの用事があったのか……僕の曲で立ち止まったことだけは、どうやら確かなようだった。
「ね、今の曲ってなに? 普通の曲と違ったよね?」
 尋ねながら、その人はしゃがみ込む。
「なんて言えばいいのかな。雑……なんて言ったら言葉が悪いけど、迫力あったよね」
「あ、えっと……」
「有名な曲なの?」
 僕は答えにつまる。本来はエレキギターで弾くはずのヘビーな曲だった、なんて言っても通じるとは思えない。
 その人は微笑むと、
「ま、いっか。いい曲だったから」
 本当に満足したように言って、立ち上がった。それからポケットに手を入れ、五百円玉を取り出すと、それを僕に向かって差し出し、
「はい、お金」
「……えっ?」
 思わず聞き返していた。
「えっ?……って、違うの? こういうのって、曲を聴いて気に入ったらお金払うんでしょ?」
「あ、いや……別にそれ、義務じゃないから。払う人もいるっていうだけで」
「そうなの?」
「うん。それに僕、お金が欲しくてこんなことしてるわけじゃないし」
 呟きながら、じゃあ何のために?という疑問が当然のように浮かんだ。その答えは、知っているような気もしたし、想像も及ばない未知の存在にも思えた。
 未練という単語が、浮かんで消えた。
「あらー、なんか言ってることもかっこいー」
 どうやら激しく勘違いしたらしいその人は、感心するように言った。
「音楽が純粋に好きなんだねー。うんうん、若いっていいよねー」
「いや……あの、ちょっと待って。僕のこれは、ただ単にお金もらっても使い道がないっていうだけのことだから」
「あれ? 使い道、ないの?」
「欲しいものとか……やりたいこととか、僕、思いつかないから」
「うわー。君、そんなことじゃ若者としての資格なしだよ? タダで五百円もらえるのよ?」
 五百円をもらうためにわざわざお金を払う人がいるなら紹介して欲しいと思ったが、それは口に出さなかった。弾き語りをしていて声をかけられたのが初めてだったせいか、なんだか妙に息苦しかった。
 その人は反応を返さない僕を見、考え込むように沈黙すると、
「よし、じゃあこうしよう」
 わざとらしく額に人差し指をあて、言った。
「この五百円で、当店の売り上げに貢献してよ。具体的にはおでんで貢献して。ねっ?」
 尋ねられたところで、何について答えればいいのかさえ、僕にはわからなかった。

 要するにおでんが好きなのだろう、僕はそう解釈することにした。
 あの後、僕はコンビニにおでんを買いに向かった。彼女は何故か、僕の定位置で僕のギターを手に待っていた。僕が適当に見繕ったおでんを持って戻ると、「今はちょっと休憩中なのよ。わかるでしょ?」と聞いてもいないのにそう言った。それからあの人はおでんを半分食べ、僕は「家に帰ってから食べるから」と曖昧にその場を去りたい意向を示すが伝わらず、本当にどうしてそうなるのか理解不能だったけど食後の運動にと五曲ほどギターを弾かされ……そして今、やっとおでんを食べ終えた。
 部屋の掛け時計が、午前二時半を指していた。
「明日は休みだから……別にいいけど」
 呟いて、蛍光灯を消し、その場に寝そべる。部屋の隅に畳んで置いてあったタオルケットを引っ張り、頭からそれをかぶって考える。
 昔のことを思いだしたのは久しぶりだった。あれは高校時代、正確に言うと高校三年の春の直前まで続いた、いつまでも続くと信じていた過去だ。もしあの輝きが今も続いていたら、僕は過去を今として語れただろうか。少なくとも過去形で語ることはなかった気がする。過去の延長線上に自分がいたなら、それは輝いていた、ではなく、輝いている、と形容されたことだろう。
 そんなつまらないただの思い出が僕を捉えたその日に、僕は音楽を介して久しぶりに他者と触れ合った。触れ合ったと言うより、あれはほとんど一方通行のやり取りだったから、触れられた、と言うべきかもしれない。ただ慣れていないというだけの話かもしれないけれど、僕にとってはインパクトのある出会いだった。そもそも僕がおでんを食べ終えたのはついさっきのことで、タオルケットにくるまれている今が僕にとっての食後だ。どうして彼女の食後に僕が運動していたのかわからないし、三十分を超える休憩時間をちょっとと言えるかどうかもあやしい。僕に残されたのは、いいように使われただけという感覚と、食べてみれば美味しかったおでんの容器だけ……と、そこで僕は、アンプのコンセントを根っこから引き抜くように、無理矢理に思考を止める。
 暗やみに包まれた部屋で、思考のノイズが不協和音となって沸き上がり始めていた。
「もう終わったことなのに……」
 僕が、乱れている。
 僕は、惹かれている。
 過去に――囚われている。
「……馬鹿みたいだ」
 呟いて、僕は丸めていた体をさらに小さく丸める。
 もうそこに客席はない。薄暗い街灯に照らされた地べたが僕にとってのステージで、誰にも届かない歌声が僕の全てだ。携帯電話が拾うはずのない電波を拾ってしまったように、これはただの偶然。どれだけ防音に気を使ったところで、完璧に音を消すことは出来ない。不意に足を止める人がいても、二度目はきっと素通りする。だから忘れればいい。思いだしてこんなにも苦しい過去なら……そんなものはこの暗やみに紛れて消えてしまえばいい。
「悔しい……のか、僕は」
 最後にそう小さく呟いて、僕は目を閉じた。


 日課とか習慣とか、そう呼ばれるものには端から見てどれだけくだらなく思えても意味があり、僕の弾き語りもまた、そんなくだらない意味の込められた日課の一つだ。
 僕の見る景色は何一つ変化しないはずだった。僕を照らし出す街灯、座り込んだ地面の固さ、人通りのない深夜の街。変化する余地はどこにもないと思っていた。
「じゃあ今日は、70年代フォークを弾いてもらおうか」
 千円札をひらつかせながら、目の前に先週と同じ彼女が立っていた。
「わたし好きなのよねー、あの頃の曲。どう? 弾いてくれない? 報酬は払うから」
「今日は何が食べたい日?」
「ハーゲンダッツのアイス……って、ちょっと、人のことそんな目で見てたのー?」
 この人は何だろう。
 僕がツッコミを入れるのを待っているのだろうか。
「失礼な若者だなー……あ、もしかしてフォークソングは嫌いだった?」
「嫌いではないけど、でも譜面も無しに弾けるほど詳しくもない」
「ふーん。じゃ、君ってどんな曲が好きなの?」
「ネオクラシカル系って、意味わかる?」
「あ、クラシックが好きなんだ。……えっ? でもギターでクラシック?」
 僕が尋ねると、予想通りの答えが返ってきた。当然の答えだと思う。
 ネオクラシカル系はヘビーメタルの中のカテゴリーみたいなものだ。それから、最近ではオーケストラとエレキギターも感動するほど見事に融合しているから、ギターでクラシックの楽曲を弾くことも、珍しいとは言えない。もちろん、一般によく知られたジャンルではないから、この人が特別に無知というわけではないけれど。
「ギターでクラシック?」
 再び尋ねられた。
「なに? ギターでクラシックとか弾けるの?」
「ものによっては、かな」
「うっそ。じゃあ弾いてよ。出来るだけ有名なやつ」
「あ、じゃあ……」
 答えて、少し考える。クラシックの名曲ならいくつもあるが、その中で僕が弾けるものと言ったら、
「……これはたぶん、知ってると思う」
「なになに?」
「ベートーベンの第九、喜びの歌」
「あ、それ知って――」
 言葉の途中で、その人の口は動きを止める。何故なら僕がギターを弾き始めたからだ。
 それからしばらく、長調の明るい旋律が周囲を支配した。時にテンポを変え、音に細かな抑揚をつけ……そして二分ほどで、僕は弾き終える。
「お、おー」
 なんだか呆けたような顔で、その人は言った。
「すっごーい。弾けるんだねー、ギターでクラシックって」
「僕がアレンジしたわけじゃないけど」
「弾けるだけですごいんじゃないの? てゆーかわたしは素人だから、テクニックとかその辺のこと、全然わからないけど」
「練習はしたけどね……」
 答えながら、苦い感覚が心に広がるのを自覚した。
 音楽のことを話し出すと、どうしても触れてしまう。消し去りたいはずのその部分……毎日毎日、眠りにつくまで必死にギターを弾き続けていた自分を、呆れるくらい純粋に高みを目指していた自分を……思いだしてしまう。
「バイトとか大丈夫なの?」
 僕の口から、そんな言葉が出ていた。記憶に対する拒否反応……記憶を刺激する目の前の彼女に向かって。
 心がミュートされる。くぐもったノイズに蓋をして、僕は彼女に言う。
「先週も思ったけど。バイトの人でしょ? サボり過ぎじゃない?」
「あー、うん。そうだけど。でもそういうこと、あんまり気にしなくていいから」
「気にするのは僕じゃなくて」
「うーわー、君って若いのに真面目だねー」
 つまらなさそうにその人は言う。言ってから後ろを振り向き、コンビニに向かって手を振る。僕が視線をコンビニの店内に移すと、同じようにレジで手を振る男の店員の姿が目に入った。
「この時間帯の休憩は、実はお互い様だったりするのよね」
 彼女が呟いた。
 そして、どこか悲しげに表情を曇らせ、
「君はわたしがここにいたら嫌みたいね」
「……えっ?」
「気付くよ、そんなに露骨に言われたら」
「あ、いや、僕は――」
「喜びの歌が全然喜んでいるように感じなかった」
 僕の言葉を遮り、その人は言った。
「わたしは音楽のこととかよくわからないけどね、何となく感じたよ。君の音は陽気だけど投げやりだった。それはすごく悲しいことだよね。本当は泣きたいのに無理矢理笑ってるみたいな違和感、そんなの感じたよ」
 僕に向けて発せられる言葉、その一つ一つが心を刺す。僕は泣きたいのか? 違う、もう泣き終えた後だ。無理矢理笑う? それも違う。僕はもう笑いたくない。
 違和感……そんなものを感じたのは先週が初めてだ。きっかけは言うまでもない。
「ごめん。……ちょっと言い過ぎた」
 うつむいた僕の目の前に、彼女は千円札をつきだした。
「何か食べたいものはある?……って聞いても君は答えないだろうから、わたしが何か買ってこようと思います」
 優しい声で、彼女はわざわざそう宣言する。僕の視界から千円札が消え、目の前で彼女の立ち上がる気配だけを感じる。
「じゃ、ちょっと行ってくるね」
 そして彼女は歩き出した。
 僕は顔を上げた。
 口を、開いた。
「嫌だとかっ」
「……えっ?」
「違うんだ……それは、違う。聞いてくれる人を、嫌だなんて思ったことは、ない……僕が本当に嫌だったのは――」
 その瞬間、僕は過去に囚われた。
 逃げようもないくらい、完璧に。
「……こんな場所で、一人きりで歌う、自分自身だ」

 彼女は本当にハーゲンダッツのアイスクリームを買ってきた。やっぱりただ食べたいだけだったらしい。ビニール袋に入ったアイスクリームの容器を見て、僕は思わず苦笑した。彼女は「初めて笑ったね」と優しく言った。どうしてか同じビニール袋の中に、おでんの容器も入っていた。
 アイスクリームと木の匙を僕に手渡してから、彼女は聞いた。
「ね、君の隣、座ってもいい?」
「……えっ?」
「ほら、わたしだけ立って食べるっていうのも変でしょ? いいよね、ここは公道だし」
 言うなり、僕に答える暇も与えず、彼女は僕の隣に座った。「服、汚れるかな?」なんて呟いたが、さして気にしている様子でもなかった。
「ふーん……こういうふうに見えるんだね」
 座り込んだ彼女が、アイスクリームのふたを開けようともせず、呟いた。
「昔からずっと思ってたんだよね。テレビとかで弾き語りの若者が取り上げられてるとき、この人達の見る景色は、わたしが見る景色とたぶん全然違うんだろうなってね」
「……違うように見えた?」
「何気なく歩いてたはずの道が、客席に見えるよ」
 微笑みながら答えて、彼女はアイスクリームを食べ始めた。僕も彼女にならい、夜の風には少し冷たすぎる小さなカップの蓋を開ける。
 バニラ味のそれを一口食べてから、
「……僕、フォークソングとか弾こうか?」
 そう尋ねた。
 彼女は驚いたように僕を振り向いた。
「あれ? 弾けるの?」
「昔使ってた初歩の教本に、いくつかコードは載ってたから。うろ覚えだけど弾けると思う」
「うーん、聞きたいのは聞きたいけど……今はとりあえずアイス食べない? アイス終わったらおでんもあるし」
 言いながら彼女は、ビニール袋を持ち上げてみせる。
「休憩中なんだしさ」
「僕、今来たばっかりなんだけど」
「それくらいいいでしょ。人生、急ぎすぎたっていいことないんだから」
 そう言ってから彼女は、わき目もふらずにアイスクリームを食べた。美味しそうに食べるその表情が、どうしてか僕には寂しそうに見えて、本当に漠然とした思考だったけど……この人は急ぎすぎたのかな、なんてことを考えた。
 沈黙は五分ほど続いた。それはおでんからあがっていた湯気が収まり、手に残っていた冷たさがやっとその姿を消すくらいの時間だった。
「わたしは気付くのが遅かったんだなー」
 沈黙を破ったのは、そんな彼女の呟きだった。
 振り向いた僕に、彼女は無邪気な微笑みを見せ、
「ほら、こんなところにも客席はあるっていうことにさ。ぜーんぜん知らなかった、わたし。ロックスターは生まれた瞬間からスターだったはずってね、そんな風に考えてたの」
 そこで少し言葉を切り、彼女は背後のシャッターに立てておいた僕のギターを手に取った。
 触れるだけで、音を出そうとはせず、
「例えばさ、こういう楽器を触る人も……たぶんそれを認められた人と、認められてない人がいるんだって。わたしは客席に立つのは許されているはずだけど、ステージに立つ資格は持っていない」
「あ、だから――」
「そういうことだね」
 僕の言葉に、彼女はうなずく。
「ここから見る景色はいいね。なんか、すごく遠い場所まで来たみたい」
「……お客さんがいたら、もっと最高だけどね」
「わたしを前にした君は、最高っていう感じじゃなかったけど?」
「あ、先週の僕は……なんていうか」
 思わず言い淀む。
 忘れたい過去にすがりつくようにギターを弾いていた先週の僕は、初めてギターに触れる直前のように臆病だった。思い出したくはなかったけど、その残り香までは失いたくなかった、そんな状態だ。
「君にも色々あるんだろうなっていうのは、わかってるから」
 彼女は僕にギターを手渡し、元気づけるような調子で言った。
「こんな時間に弾いてるんだからね、普通の弾き語りの人とは違うんだろうなっていうことくらい、わかるよ」
「聞いて欲しいと……思ってなかったんだ、あの時は」
「自分の歌を?」
「……」
 肯定する代わりに、僕は指を動かす。三拍子の短調……哀しみを煽るメロディ。
「おでん、食べようか」
 彼女がビニール袋を持ち上げた。
 もうほとんど冷めてしまった容器を取り出し、
「食べる間にさ、君の話でも聞かせてよ」
「……たいした話じゃないよ」
「興味を持っちゃったら負けなのよ、わたしの場合。バイトをサボってでも聞いてみたくてさ」
「……」
 僕は動かしていた手を止める。一呼吸置き、それからレガートでEmのスケールを2オクターブほど駆け上がり、
「あの頃の僕の前には、溢れるくらいの観客がいたんだ」


 親戚に昭人おじさんという人がいた。僕を音楽の世界へ連れていってくれた人だ。
 昭人おじさんは、小さな練習用スタジオのスタッフだった。ライブの時はPAとして駆り出される、いわばユーティリティ的な存在だ。PAというのは音のスペシャリストで、ライブハウスの客席側最奥部で大きな機械をいじくっている人がいたら、大体その人がPAだ。
 学生の頃はこてこてのバンド小僧だった昭人おじさんも、僕と会う頃には三十路も半ばを過ぎ、ほとんどアルバイトと変わらない仕事のこともあり、肩身の狭い思いをしていたようだった。周囲からは、そろそろ身をかためろ、なんて言われていた。
 僕が昭人おじさんの家に招かれたのは、中学校に上がる一年ほど前。両親が知人の葬式で遠出し、遠出した先の街にたまたま昭人おじさんは住んでいた。葬式が終わるまでの短い時間、僕は昭人おじさんの家に預けられた。
「こ、これ、なに?」
 年齢のわりに狭い昭人おじさんの家は、当時の僕には見たこともなかった楽器で溢れていた。
 綺麗な光沢を放つギターにベース、シンセサイザー、家庭用とは思えない大きさのアンプ、自宅録音する際に必要なMTRを始めとした機器類に接続ケーブル……もちろん、音楽はテレビかラジオから流れてくるものだと思っていた当時の僕に、それらの見分けがつくはずもない。
 盆と正月くらいしか顔を合わせた記憶のない昭人おじさんは、話しにくいのを誤魔化すように苦笑し、ギターを手に取った。
「触ったこと、あるか?」
 昭人おじさんが僕に聞く。
 僕は勢いよく首を左右に振る。
 昭人おじさんは、足下にあった小さなアンプとパソコンのスイッチを入れると、
「んじゃ、ま、一曲聞いてくか」
 音楽は聞くものだと思い込んでいた僕の価値観を、あっけなく壊してみせた。

 それから五分ほどの間に、僕の見る世界は一変していた。パソコンのスピーカーから流れる音楽に合わせて、昭人おじさんの指が踊るように動く。すごい速さで一本の弦上を行き来したかと思えば、六本の弦を同時に押さえて綺麗な和音を作る。終いには左右二つの手が入り乱れる曲芸まで披露し、やがてエモーショナルなソロプレイに送られて曲が終わる。
「ま、最近の若い奴らにうける曲じゃないけどな」
 はにかむように昭人おじさんは笑い、煙草に火をつけた。
 大きく白い息を吐きだしてから、僕にピックを投げつけ、
「弾いてみるか?」
「……えっ!?」
 ほとんど後ずさるようにして、僕は叫んでいた。
 目の前にギターが突きだされる。スモークグレイの使い込まれたギター。金色の金具が太陽光を反射し、僕を威圧するように輝く。アンプから漏れるノイズが、ほとんど恐怖に近い僕の感情を煽る。
「……僕が、弾くの?」
 手を伸ばす勇気のなかった僕は、そう尋ねていた。
 昭人おじさんは煙草を灰皿に置くと、
「他に誰かいるか?」
 そう言って、ギターを僕に押し付けた。

 両親が僕を迎えに来たのは、僕が初めてギターに触れてから二時間後の事だった。僕はその間、一度もギターを離さなかった。昭人おじさんの狭い家に、下手くそな僕の奏でる音が、それでも確かに響いていた。
「そのギター、持ってっていいぞ」
 別れ際、皮のケースにしまわれたギターを僕に手渡して、昭人おじさんが言った。
「自分で練習してみろ。すぐ上手くなれる」
「い、いいの?」
「たくさんあるしな。まぁ……必要なくなったら、返してくれればいい」
「うわぁ……」
 重いギターが、僕の両腕に収まる。僕は抱きしめるようにギターを持ち、
「がんばるっ」
「ん、そうだな……ま、頑張れ。ステージ立つことになったら、たまに呼んでくれ」
「うんっ!」

 以来僕は、ギターの虜になった。ギターの教本と睨み合いながら、一つ一つの音を追いかけていく、そんなことを毎日続けた。
 僕がギターを始めることに、両親はあまり良く思ってはいなかった。共に平均をゆうに越える学歴を誇る両親は、僕にも同じものを求めた。僕は学校という狭い世界の競争に勝つことで両親に対する免罪符を作りながら、ギターを弾き続けた。
 バンドを組んだのは、高校入学とほぼ同時。地元のスタジオに張り紙を張って集めたメンバーは、僕と同じ高校生からフリーターに大学生と幅広い年代に渡り、学校の内側の世界しか知らなかった当時の僕を萎縮させた。だが、小さなスタジオで音を出したその瞬間、全ての壁が消えていた。音楽に国境はない、ならば職業や世代の壁が瞬時に霧散したことも、別に不思議なことではなかった。
「いいバンドじゃん」
 初めてのステージを終えた僕に、昭人おじさんは言った。
 客席はガラガラだったけれど、そこにはちゃんと昭人おじさんが立っていた。
 満足そうに煙草を吸いながら、昭人おじさんが続ける。
「曲もオリジナルなんだな」
「作ったんだ、今日のために」
「そりゃいい心がけだ。次の予定は?」
「来月、またここでやるよ。来てくれる?」
「仕事あるから、どうかな……」
「僕のライブでPAやればいいじゃない」
「ばーか。この街に来るまでで、いくらガソリン代使ったと思ってんだ」
 言いながら、煙草を持っていない方の手で、昭人おじさんは僕を小突く。
 僕はなんだかくすぐったいような気分になって、肩をすぼめて笑った。
「音楽は好きか」
 昭人おじさんが、バンドの入れ替えで慌ただしいステージを眺めながら言った。
 僕は胸を張ってうなずく。
「大好き」
「そうか」
「当たり前だよ。嫌いだったらこんな場所に来ないもん」
「だよな。……んじゃ、あのギターな」
 そこで昭人おじさんは、言葉を切った。
 すごく遠い場所を見るようにステージを見つめ、
「あのギター……お前に、やるよ」
「えっ?」
 それはやけに唐突な言葉に思えた。
 必要なくなったら返してくれればいい……その昭人おじさんの言葉を、自分のギターを買うまで、と僕は勝手に解釈していた。
「いいの?」
 僕は身を乗り出して聞く。
 昭人おじさんは困ったような、それでいてどこか寂しそうな微笑みを浮かべ、
「あぁ……ただ、一つだけ条件がある」
「条件?」
「何があっても音楽を捨てないこと」
 その時だけ真剣な眼差しで、昭人おじさんは言った。
「絶対だぞ。守れるか?」
「あ……うん、守れる。……守るよ」
「そっか。なら後は好きに使え。でもお前、約束破ったら、回収しに行くからな」
「破らないから大丈夫だよ」
 本当に無邪気に僕は答えた。
 昭人おじさんはまた、寂しさを誤魔化すように笑った。
「また来てくれるでしょ?」
「暇だったらな。……じゃ、俺はそろそろ帰るわ」
「えっ? もう帰るの?」
「明日も仕事でな」
 すっかり短くなった煙草を灰皿に押し付け、昭人おじさんは手をあげる。
「気長に頑張れ。楽しみながらな」
「あ、うん。頑張るよ」
「気長に……な」
 呟くような言葉を残して、昭人おじさんはライブハウスを出た。
 その後、昭人おじさんが僕のライブを見に来ることは、なかった。


「それから僕達のバンドはすぐに大きくなって……結成から一年たたないうちに、ライブハウス満員に出来るくらいになって」
「おー、すっごいサクセスストーリーじゃない」
 おでんを食べ終える頃になってもまだ、僕の昔話は終わらなかった。
 今日は開店休業状態のギターは、すでにハードケースの中に収まっていた。
「あの頃の僕は、本当に満たされてた……お客さんが増えれば増えるほど興奮したし、それに比例して演奏も良くなる気がしてた。CD作ったらトータルで五百枚くらい売れてさ……言葉にしたら信じられない数なんだけど、でも僕はまだまだ上に行ける気がしてて」
 ステージと客席の間には、小さなライブハウスならせいぜい一メートル程度の段差しかない。段差すらないステージもたまにあるし、柵もなければ言うまでもないけど警備員もいない。そんな距離感が、僕には心地よかった。
 客席から伸ばされた手に、僕は触れることが出来た。だから僕も、テレビや雑誌の中を駆け回るスター達に、追いつける気がしていた。
「そんな時間が終わっちゃったのか」
 おでんの汁にカラシを溶かしながら、彼女は呟いた。
「どうして終わっちゃったのかっていうところが、大事みたいだね」
 その彼女の言葉に、僕は苦笑する。
 先を促すような響きに、今さら隠すはずもないのに……と思いながら、そう言えば、話し始めてからだいぶ時間がたっていることに気付いた。
「僕の親、学歴至上主義者なんだ」
 話を高校三年の春まで飛ばす。
「僕は高校までずっと公立学校にいたけど、成績はずっとトップクラスで」
「あ、うん。それで?」
「勉強でトップクラスにいたから、バンドも許されてたんだ。うちの親、そういうことにうるさかったから……でも、ほら、バンドやりながら受験生もやるなんて、端から見て都合良すぎるじゃない」
「あー」
 僕の言いたいことに気付いたらしい。
 彼女は呆れるようにため息をこぼした。
「高校三年になる前の春休みにさ、塾から帰ってきたら……音楽関係のものが、僕の部屋から全部消えてたんだ」
「うわ、君の親って大胆だねー」
「唯一残ってたのがこのアコギで。これは僕がバイトして買ったギターだったから……恩情、なのかな、これも」
 僕は目の前のハードケースに手を置く。
 曲作りにはアコースティックギターがあった方がいいかな、という軽い気持ちで、僕はこのギターを買った。だが、手に入れるまでのプロセスの差か、このギターへの愛着は僕の持つ全ての機材の中で一番だった。
「僕の持ってた機材は、全部昭人おじさんの家に送ったんだって。……わざわざ高いお金払って送ったんだよ。馬鹿みたいだよね」
「取り返そうとか思わなかったの? 高校生なら、それくらいのお金はあったでしょ?」
「……」
 尋ねられ、僕は口ごもる。
 実際、ただ奪われたと言うだけなら、僕は彼女の言うとおり何をしてでも取り返していただろう。昭人おじさんに対して胸を張って答えたように、僕は本当に音楽が好きだったし、何があったってやめるつもりはなかった。いつまでも昭人おじさんのように、音楽を好きで居続けたかった。
 でも……その昭人おじさんが、音楽を捨てたと聞かされたら。
「……昭人おじさん、音楽やめたんだよ」
「えっ?」
「母親に聞かされたんだ……本当は僕の初ライブを見に来たあの時には、もう音楽をやめて普通の仕事してたって」
「……」
「なんかもう、いろんなことがよくわかんなくなって」
 戸惑いや怒りもあったけれど、当時の僕にとって最も辛かったのが喪失感だった。それは音楽に対するものではなく、自分勝手に作り上げた、昭人おじさんという偶像の。
 誰もが経験するような、身近にいるアイドルの喪失。
 僕にとっては、昭人おじさんという目標の消失でもあった。
「僕の親はさ……悪意とか、全然なくて。受験生なんだから当然でしょ……ってね。すごい無力感だったよ。僕はずっと、勉強の邪魔にはならないようにするからって、親には言ってきたけど……でもあの人達には、音楽自体が邪魔に見えてたんだなって。そう考えたらさ……ギター弾く気力とか、もう無くなってて……昭人おじさんのこともあったから、余計に」
 つまり、彼女の言った通りなんだと思う。
 永遠に音楽を続けられる人なんて、きっと神様に選ばれた一握りの人だけなんだ。刹那的に僕はギターを手にしたけれど、その刹那こそが僕にとってはノイズのようなもので。フィルター越しの世界はいくらでも美しく演出できる、だからさっさと現実に戻れ……そういう事なんだと思う。
 あの日からたまに、思い浮かべる風景がある。見えるのはほこりをかぶったたくさんの楽器、場所は昭人おじさんの家……そんな刹那の残照。
「んー、そろそろ時間が」
 彼女が呟いた。
 重さを感じさせないその声に、僕は少しほっとする。過去を思いだし感傷に浸るのは、自分一人で十分だ。楽しくもない話を聞いてくれた、溜まっていた苦しみを吐露することが出来た、それだけで僕は随分と楽になった。
 彼女は緩慢な動作で立ち上がり、僕の正面に移動すると、
「ごめんね、いいところで」
「別にいいも悪いもないよ。……全部、終わったことなんだから」
「んーまーそーかもしれないけどー」
 やたらと間延びした調子で、彼女は言う。それから周囲をぐるりと見回し、
「でも、聞こえてたよ」
 強い意志の感じられる声で、言った。
「全部終わったはずの君の音楽は、ここら中に響いてたじゃない」
「え……」
「ここには広い客席も明るいステージもないかもしれないけどさ」
 彼女が僕を見つめる。真っ直ぐに、ステージに立つ僕を……今はステージに座る僕を、真っ直ぐに……見つめる。
 ひとりぼっちの客席で、優しく微笑みながら、
「君の歌は、届いてたよ」


 自分の歌声がどこまで届くのか、その限界を探していた気がする。アマチュアとして初めてステージに立ったあの瞬間から、防音加工された壁の向こう側を目指していた。
 昭人おじさんのギターは、狭い部屋に永遠の広さを持たせ、僕に音楽という無限の可能性を提示した。だから僕が第一に超えるべきは、あの日にたった一度だけ聞いた、昭人おじさんのギターだった。
 高校三年の春と共に、僕は一番大切な目標を失った。
 歩むべき道が無くなったのなら探せばよかった、見つからなければ作ればよかった。でも、行き先を失った僕が、また新しい目的地を得ることはなかった。
 過去は輝いていた、眩しすぎるほどに輝いていた。明るすぎるその場所のせいで、全部終わったはずの僕が持つ、小さいけれど確かな輝きに気付けなかった。いつもそこにあるコンビニのように、心に在り続けた光。
 人のいない繁華街で、薄暗い街灯に照らされて、それでも僕がギターを弾いていたのは……それはきっと、未練なんて理由からではなくて、過去にすがっていたわけでもなくて――

 大好き

 ――だったから……音楽が。
 だから、その気持ちを込めて、歌うよ。
「おー、パチパチパチー」
 目の前に立つ彼女が、口と手で同時に拍手する。
 僕は照れくささに身を縮めながら、
「バックバンドがいないと……なんか、心細いな」
「大丈夫よ。どうせ観客も一人しかいないんだから」
「そうなんだけどね」
 目に映るのは、いつもと変わらない閑散とした夜の街だった。
 客席には今日も、彼女一人だけがいた。
「じゃ、わたしはそろそろ、お仕事に戻ろうかな」
 時計にちらっと目をやって、彼女が言う。
 あの日……おでんを食べながら長々と話をしたあの日、さすがに彼女は同僚から怒られたらしい。お互い様の休憩だが、それでも長すぎだ、と。
 あの日から一ヶ月ほどの時間が過ぎていた。
「今日もありがとう」
 僕は少し手を休めながら、短い閉幕の言葉を口に出す。
 彼女は明るい笑顔を浮かべ、
「前向きな君の歌は好きだよ。じゃあこれ、いつも通りのお代ね」
 言いながら足下のビニール袋を指さす。
 中身はもちろんおでんだ。彼女はおでんを食べながら僕のステージを見、その代金をおでんで支払う。いつからかそうすることが当然になっていた。
「今日のお薦めはがんも。美味しいよー」
「じっくり味わわせていただきます」
「休憩したら、また弾くの?」
「もう少しだけね……リハビリも兼ねて。僕、またバンド始めようと思って」
「おー」
 心底驚いたとでも言うように、彼女は目を見開いた。
 僕が近場の楽器屋にメンバー募集のポスターを貼ったのが、一週間ほど前のことだった。すでに数人のバンドマンから連絡をもらっている。
 彼女は僕の持つギターを見つめ、
「動き出すんだ」
「ライブハウスのステージが、恋しくなってきたから」
「そっか……そうだよね。いつまでもここにいたって、ね……」
 こぼすように言いながら、彼女は不意に、表情を曇らせた。
 彼女は何かを探すような視線を背後のコンビニに向け、そして何も見つからなかったように目を伏せる。形だけ笑っていながら、でも何かを隠すような表情……それは、初ライブを終えた僕に昭人おじさんが見せた、あの笑顔に似ていた。
「ここ?」
 僕は尋ねた。
 彼女の言う“ここ”という場所がどこなのか。
「あ、うん……ほら、君の歌はもっとたくさんの人に聞いてもらうべきだなってね」
 彼女が振り向き、うなずく。
「君はもっと明るい場所で歌うべきだなってさ」
「僕……?」
「おっ、なにかな、その不安げな顔は」
 悪戯をする子供のような表情で言って、彼女は僕の前にしゃがみ込んだ。
 いつの間にか、その顔から影は消えている。
 彼女は両手を僕に向かって差し出し、僕の頬を両側から引っ張ると、
「わーらーえー。そんな不景気な顔してたらお客さんが引いちゃうぞー」
「い、痛いんだけど……」
「君はそもそも性格が暗めなんだから、ステージの上では笑ってないと」
 さりげなく失礼なことを言いながら、彼女は手を離して立ち上がる。
「頑張ってね、バンド」
「あ……うん」
「それじゃ」
 短く言って、彼女は歩き出した。肩越しにひらひらと手を振りながら、でも振り返ろうとはせずに。
「あ、あのさ」
 僕は口を開いていた。
 伝えなければならないことが、あった気がした。
 彼女が立ち止まり、振り向く。
「ん? どうかした?」
「あ、えっと……」
 僕は探した。必死に探した。伝えたい言葉はすごく単純なようで……でも、見つからない。転調する直前、パートとパートを繋ぐたった一つの音が見えてこないみたいに。
「なに?」
「……」
 僕は、地べたのステージから。
 一人きりの観客に向かって。
「ライブ……決まったら、来てくれるかな」
「……」
 彼女は本当に綺麗に微笑んだ。
 でも、答えは返ってこなかった。

 家に帰った僕は、紙とペンを取りだし、必死にギターをかき鳴らした。彼女が立ち去った後、一人で食べたおでんに刺激されたのか、伝えたい言葉は簡単に見つかった。見つけただけでは飽きたらず、その感情は溢れ出すように僕の心を駆け抜けた。
 奏でられる音楽。
 感情が生んだ旋律。
 何も無かったはずの僕の部屋に、音が満ちる。泣くような声で、僕は歌う。たくさんの言葉を弄して、回りくどく、わかりづらく……たった一つの感情を、伝える。
 本当に単純な――

 大好き

 ――ただそれだけの感情を込めた曲を。
 やがて夜が明ける頃、曲は完成した。
 それはどこにでもあるような、
「また来週、か……」
 ラブソングだった。



 日課とか習慣とか、そう呼ばれるものには端から見てどれだけくだらなく思えても意味があり――でも今日の弾き語りには、けっしてくだらなくはない意味がある。
 僕は高揚した気分を落ち着けながら、いつもの定位置に座った。
 やっぱり客席に人はいない。ステージを照らす街灯も薄暗い。でも僕の声は届いていた。今度は声だけではなく、感情も一緒に届けたい。
「だいぶ寒くなってきたな……」
 呟いて、僕はギターを取り出す。まずは簡単なコードから、徐々に難しいフレーズへと。しばらくそうやって、指をならした。
 冷たかった指が暖まり、僕が本格的に歌い始めたのは、午前零時を過ぎた頃だった。

「来ない……のかな」
 時計の針が午前一時を指そうとする頃、まだ客席に人はいなかった。
 腕時計の秒針を追っていた僕は、ギターを一度ケースにしまい、意を決して立ち上がる。
「急ぐ必要もないけど……」
 つい昨日、バンドメンバーが決定した。連絡をくれた人の中から、趣味の合いそうな人を選び、初顔合わせも済ませた。オリジナルの曲を持ち寄り、練習の日時も決め、三カ月以内にこのバンドでの初ステージを踏もうという目標も出来た。
 だからかもしれない。
 僕にとっての“ここ”が曖昧になってしまう前に、伝えたかった。
「いらっしゃいませ――って、あ、孤高のギタリストじゃん」
 コンビニに入った僕を迎えたのは、男の明るい声だった。
 彼がお互い様のもう一人だろう。
「あれ? 今日はもう終わり?」
 彼女から話を聞いていたのか、彼は首を捻りながらそう尋ねる。
 僕は軽く首を振り、
「そうじゃなくて……あの、彼女は?」
「あれ?」
 また彼は、首を捻った。
「お兄さん、聞いてないの?」
「えっ? ……何を、ですか?」
「あいつ、バイト辞めたんだけど」
「……」
 いつまでもここにいたって――そんな彼女の言葉が、蘇った。
 いつか彼女の言った、気付くのが遅すぎたという言葉。じゃあ、遅すぎたけど気付いた彼女は、どうしたのか。たぶん、立ち止まったのだろう。彼女にとっての“ここ”で立ち止まり、気付かずに見過ごしていたものを、思いだしたんだ。薄暗い街灯の下で足を止めた僕と同じように、彼女は一人きりの客席で立ち止まり……そして、歩き出した。“ここ”にはない、なにかを探して。
 口を開けない僕に向かって、彼は淡々と続けた。
「お兄さんにも言ってなかったとはなー……あいつもね、なんか色々大変らしくて。年も年だし、この店にもだいぶ長くいるみたいだしね。なんだかね、お兄さんの歌で元気づけられたって。頑張ろうって言う気持ちもらえたってさ。俺も一回、お兄さんの歌は聞いてみたかったんだけどさ、ほら、この時間はあいつばっか休憩じゃん? 今日は今日で、シフトの穴がうまんなくてさ。あいつ、急に辞めるし、せめて休みの日くらいって電話したらさ、引っ越しまでしてんだよね、あいつ。考えてみたら、俺、ケータイの番号聞いてないし。ま、こうやって全部消すのも、あいつらしいっちゃらしいんだけど――って、あ、そうだそうだ。大事なこと思いだした」
 長々と続いた彼の言葉が止まる。
 顔を上げた僕を、彼は下からのぞき込むようにして、
「あいつから、お兄さん宛の伝言頼まれてんだよね」
「……えっ?」
「君の歌なら、どこまででも届くよ……だってさ」
「僕の、歌……」
「泣かせる置きみやげだよなー。でもさ、四年近く同じ店で働いてた俺には一言も無しだぜ? ちょっと嫉妬するよなー」
 止まらない彼の言葉を聞き流しながら、僕は店内から自分の定位置に目を向ける。
 街灯に照らされる、ほんの僅かなステージ……でもそこは、明るいコンビニの店内から見ると、少しだけ特別に見えた。
「あいつ、よく見てたよ、お兄さんのこと」
「……えっ?」
 背後から掛けられた声に、僕は慌てて振り向く。
 彼はレジのカウンターに肘を付きながら、
「こうやってね、暇な時間にさ。よく飽きねーなーと俺は思ったけど……聞いてみたらさ、あいつ、こんなこと言うんだよ」
「……どんな?」
「歌える歌があるって、幸せだよねってさ」
「僕、が……」
「そう。お兄さんのこと、あいつにはそう見えてたわけよ」
「……」
 僕が彼女と出会う前、あの場所で感じていたのはどんなことだっただろう。今となってはよく思い出せないけれど、少なくとも幸せという形ではなかった。どうしようもない虚しさとか、息苦しさとか……でも、そんな感情を持ちながらでも僕が、あそこで歌っていた理由は……音楽が好きで、本当に好きで……ただ、大好きで。
 たとえ自分では気付いていなくても、それが僕の歌う理由だったとしたら……それは、幸せに近い形ではあったのかもしれない。
「……あの」
 僕はレジに頬杖をつく彼に向き直る。
 そして、なんだか優しい表情で僕を見る彼に、
「……おでん、いいですか?」


   ◇  ◇  ◇


 バンド結成一周年記念ライブ……と、僕達はその日のライブを、自分達で勝手にそう銘打った。実際は一年のバンド活動で得たコネを利用して企画したライブだったから、特別に何かを記念しているわけではない。今日ステージに立つバンドは五つ、その全てが持ち時間四十分で、主催者である僕達のバンドも持ち時間は変わらない。特別なことと言えば、大トリを僕達が務めるということくらいだが……場末のライブハウスで、演奏順を気にして観る客もいないだろう。
 僕は重く厚い扉を押し、客席に入る。
 開演前の客席は、開演後のそこよりずっと明るい。対照的に、開演前のステージは真っ暗だ。ステージ上を狐火のように揺らめくペンライトの明かりは、スタッフの誰かが持ったものだろう。マイク位置の確認でもしているのか。
 客席は人で溢れていた。控えめなボリュームで流れるSEが、客席のざわめきでほとんどかき消されている。いくつもの声が交錯する空間……心地よい感覚が僕を包む。
 深夜の繁華街から、僕は一年でここまで来た。バンド結成時、貯金を崩して買ったギターはすでにボロボロで、中古の下取りに出してもまともな値段は付きそうにない。新しいギターを買うために僕がバイトを始めたのが半年ほど前で、そのバイト代のほとんどを費やして、一週間前、シンセサイザーを買った。楽器屋でバイトをしていた僕は、店員価格の魔力に負けたのだ。
 僕がまたバンドを始めると言うと、僕の親は見ていて笑いそうになるくらい大袈裟に慌てた。だが笑っていても問題は解決しないし、むしろ悪い方向に向かっただろうから、僕は笑いたい気持ちをぐっと堪え、このバンドでの初ライブのチケットを親に渡した。初めて客席から僕を見た親は、ライブ終了後の客席で、僕に言った。上手いもんだな――と。
 たくさんのことが変化した一年だった。全てが順調だったとは言えないけど、それでも今、僕の目の前にはこれだけの観客がいる。共に演奏する、仲間がいる。
 あの日、街灯に照らされたステージを後にした僕が……辿り着いた、今。
 あの日、一人きりの客席を後にした彼女は……今、
「……ここには、いない、か」
 僕は呟く。
 同時に、ステージからドラムの音が響いた。
「そろそろか」
 時計に目を向けると、開演予定時間を五分ほど過ぎていた。少しだけ明るくなったステージ上で、三つの影が動く。今日の一番手はスリーピースのパンクバンド。三つの影は演奏者だろう。客席は波打ち、ゆっくりとステージに押し寄せていく。
 僕は観客の波には加わらず、客席を後にする。音が漏れないようにと、重い扉をしっかり閉めたところで、声をかけられた。
「ん? どうした、聞いていかないのか?」
「あ、伊倉さん」
 その人は会場外の通路に用意された、長テーブルの前に座っていた。
 今日、僕達の予約したライブハウスは本当に小さなハコで、チケットカウンターがないのだ。この長テーブルはカウンター代わりで、伊倉さんはチケット係。伊倉さんは僕達の利用する練習用スタジオのオーナーで、三十八歳になった今年まで音楽を捨てなかった……以前の僕の言い方を借りると、音楽の神様に選ばれた人だ。
 伊倉さんはチケットの半券が入った箱を眺めながら、
「トイレ行くならさっさと行った方がいいぞ。今日は客の入りがいいから、しっかり場所とっとかなけりゃ見れなさそうだ」
「あ、僕、リハーサルずっと見てたんで」
「見ないのか? 本番とリハじゃ、随分と違うだろ」
「そうなんですけどね……」
 伊倉さんの言葉にうなずき、僕は自分の左手を見る。
 親指をのぞいた四本の指先は、堅く乾燥している。爪も全部切ってあり、僕にとっては戦闘態勢に入った自分の手だ。
「……ダメなんですよね、僕」
 左手を開閉しながら、僕は呟く。
「僕、一年半くらいブランクあるから、ライブ直前は弾き込まないと不安になるんです」
「なんだ、案外小心者だな。ボーカルとメインギター務めてるわりには」
「ステージの下では、そんなものです、僕なんて」
「そうか……ま、いい歌が聴けるなら、歌ってる奴が小心者だろうと関係ないか」
 言ってから、伊倉さんは陽気に笑った。
 厚い扉の向こうから、くぐもった音が漏れ始めていた。
「じゃあ僕、楽屋にいるんで」
 カウンターで煙草に火をつけた伊倉さんにそう言って、僕はステージ裏にある楽屋へ向かう。
 ほとんど物置と化している楽屋には、誰もいなかった。楽器や出演者の私物で散らかった楽屋を横切り、楽屋の奥に置かれた自分のギターの前に立つ。ギターをスタンドから持ち上げ、ストラップを肩に掛け……その重みを実感するように、目を閉じる。
「……」
 本当にいい歌を歌えば、その時、僕の歌声はライブハウスの壁を越え、ずっと遠くの世界にまで届くはずだった。そこに限界はないと信じたかった。たとえ今……例えば今、彼女が地球の裏側にいたって……僕の歌声はその距離さえ超えられると、信じていた。
 誰にも届かないと思っていた僕の歌声でさえ、届いたのだ。
 じゃあ、どこまでも届くと信じる今の僕の歌声は、きっと本当にどこまでも――、
「おい」
「――えっ?」
 背後から掛けられた声に、僕は慌てて目を開く。
 振り向くと、楽屋の入口に、何かを持った伊倉さんが立っていた。
「わるいな。邪魔したか?」
「あ、いえ、別に……なんですか?」
「いやな、たった今来た客が置いてったんだけどな」
 言いながら、伊倉さんは手に提げた“何か”を持ち上げた。
 僕はそれを見てやっと、その“何か”が何なのか、気付いた。
「差し入れだってよ。バンドじゃなくて、お前個人宛の差し入れだ」
「あ、あの……その袋の中身って」
「ん? あぁ、これな。……差し入れはそこまで珍しいもんじゃねぇけど、こんなもんを差し入れで持ってくる奴は初めてかもな」
 そう言って、伊倉さんが見慣れたコンビニのビニール袋をのぞき込む。その中から立ち上る香りに、幸せそうに目を細める。
「ほら」
 伊倉さんは僕の目の前まで歩み寄り、ビニール袋を差し出す。
 深夜の路上の香りが、僕の鼻をついた。
「……これ」
「あぁ、美味そうなおでんだ」

 僕の歌は、届いていた。



2004/10/25(Mon)01:08:22 公開 / ドンベ
http://www2.odn.ne.jp/mimizu/Scage/
■この作品の著作権はドンベさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 お久しぶりです……というか、たぶん初めましての人のほうが多いかと思いますが。ドンベです。よろしくお願いします。
 あまりキャッチーな要素の無い恋愛物です。だらだらと書いていてこんな感じになりました。自信ないです。この長さを読んでくださった人、本当に本当にありがとうございます。どんなものでもかまいません、一言でも感想、批評などいただけましたら、涙が出るほど嬉しいです。どうかよろしくお願いいたします。(BGM:“too much pain”by THE BLUE HEARTS)

 ……で、私事になるのですが、僕はサイトをやっています。前回、ここで連載させていただいた際に、サイトの方で先に公開してしまったため、アドレスを載せなかったのですが……すみません。載せろよ、という方がいましたら、感想欄またはメール等で一言いただければすぐに載せます。ほとんどの人にとってはどうでもいいことだと思うので、そういう場合はスルーしてください。というか、私事を長々と本当に申し訳ありません。今さらだけど、どうすりゃいーんだろ……みたいな感じになってしまいまして。すみませんでした。(この文章はサイトにはまだ載せてないです……と、一応)

 10/25 追記
 サイトのアドレス載せました。対応遅れて申し訳ありません。加えて、今まで伏せていたこと、心より謝罪します。申し訳ありませんでした。
 たいした文章のあるサイトではありませんが、楽しんでいただけたらと思います。暇で暇でしょうがない時にでも、期待せずにのぞいてみてください。それでは。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。