『リバイブ 第1話〜最終話』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:律                

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142


 第1話     さよなら


 2030年12月20日「国はネクロマンサーに寄る死人(しびと)の蘇生に初めて成功」
 なんていうニュースが新聞の一面を飾った日、ぼくにとってそれはただの偶然の一致でしかなくて、
 この日は皮肉にもぼくの妻、凛との最期の別れの日になった。
 灰色の空からは小麦粉のように繊細な雪が舞っていて、
 凛が作った煙はそれを逆流するように高い煙突から細く伸びていった。
「静(せい)、そんな顔してたらあの子が悲しむよ」
 凛の友人だった真希が涙でくしゃくしゃになった顔をしたぼくの肩に手を置いた。
「ちゃんと見送ってあげよう。ね?」
 ぼくは、こくり、こくり、と頷き、千切れそうなくらい下唇を噛んで雪空へと伸びる煙に手を合わした。
 さよなら、凛。
 さよなら。

                         *

 それからのぼくといえば、炭酸の抜けたコーラのような気の無い生活を送っていた。
 彼女のいなくなった静寂のアパートは、魚のいなくなった水槽のように淀んでいて
 凛が作った割り箸みたいな食感のきんぴらごぼうが口恋しくなったり、
 写真の中に真空パックされたあの日の二人に声をかけてみたり、
 そんなことをしながらただ毎日を消化するように生きた。

                         * 

 次に気がついとき、ぼくは勤め先の床屋バーバ・タムラでお客さんの頬を剃刀で切っていた。
 それが唯一、昨日とは違う出来事だった。
 お客さんの頬に出来た綺麗な「一」の字の傷口から、シェービングフォームの泡と混ざって ピンク色の血がじんわりと滲んでいく。
「申し訳ございません!」
 お客さんを切ってしまうなんてここに勤めてからは初めてだった。
「瀬川くん、早く止血!」
 店長にそう言われてぼくは階段を登り休憩室へ行き、部屋の隅の棚に置いてある救急箱から消毒と絆創膏(ばんそうこう)を探した。
 1階から店長の謝る声と、さっきのお客さんの怒声や罵声が聞こえてくる。
 もたもたしていると休憩室の扉が勢いよく音を立てて開いた。
「何やってんだよ、おまえは!」
 入ってきたのは同僚の晴樹だった。
「お客さんは?」
「カンカンだよ!どうすんだよ」
「ごめん」
「俺に謝ってもしょうがねーんだよ」
 そしてしばらく間を置いてから
「凛ちゃんが死んでおまえが辛いのはわかるけど……」と付け足すように呟いた。
 晴樹はそのあとに続く言葉を言いにくそうにしていたけれど、ぼくには何が言いたかったのかわかった。
 仕事は仕事って割り切らないとダメだろ、そんなことを言いたかったんだと思う。
「ごめん」ぼくはもう一度そう言った。
「止血は俺がやっとくから静はここにいろ。おまえが出て行くとまたややこしくなるから」
「ごめん」そう言って消毒と絆創膏を晴樹に預けて、彼が休憩室から出て行くのを見送ってから長椅子にそっと横になった。
 晴樹が謝っている声が聞こえる。
 仕事中は凛のことを考えることは止めようって思っているのに、
 考えることを止めようとすると、逆に頭に浮かぶのは凛のことで
 意識しないことを心がけるということは、逆に意識しているのと同じことだった。
 一体、何をやっているんだろう。
 天井に出来た茶色いシミを見ながらそんなことを考えていると鼻の奥がツンとして、
 ぼくはずずっと鼻を啜った。

 一段落してから、店長が休憩室にやってきた。
「お客さん、顔真っ赤にして帰って行ったよ」
 彼は短く刈られた灰色と黒の交ざった髪に手を置いて、苦笑いを浮かべた。
「本当にすみませんでした」
 ぼくは立ち上がり、膝に頭がくっつきそうになるくらい深く腰を曲げた。
「ん、いや、もう済んだことだから」
 でもね、と店長は続けた。
「死んだ人はね、もう戻ってこない。どんなに手を伸ばしても触れられない」
 そして店長は、「残された人は逝ってしまった人の思い出にすがるんじゃなくて、これからどうやって生きていくかを考えるべきじゃないのかな」と
嫌味なんかではなくあくまで自分も最愛の妻を失くしたという経験談として言った。
 その通りだと思った。
 ただぼくにとって凛がいなくなってしまったということは心に大きな穴が開いてしまったみたいで、その穴はぼくの全ての欲を吸い込んでいった。
 ときには自我も、生きる意味さえも。

 そしてその日のうちに、ぼくはタムラを辞めることを店長に告げて返事を聞かないまま自動ドアを開けた。
 今のぼくの精神状態だったら、また今日みたいにお客さんを切りかねない。
 それはこの店の信用問題にも関わるし、自己中心的な考え方だけれどぼくにはもっとちゃんと凛と向き合う時間が必要だった。
 幸い、貯金はいくらかあった。仕事をしなくても何ヶ月かは暮らしていけるだろう。
 ぼくは店の脇に止めた自転車に跨(またが)りペダルを踏んで、防波堤と平行に電灯がぽつぽつと照らす家路を辿った。

                         *

 ぼくと凛が住んでいたアパート、陽だまり荘はオンボロアパートだ。
 階段は近くの海から吹く潮風でところどころ茶色く錆びついていたし
 クリーム色の壁には、まるでTシャツにこぼしたコーヒーのような染みがあって、そこを濃い緑色の蔓(つる)が這うように伝っていた。
 まず扉を開けると大人二人が立ったら窮屈になってしまう玄関がある。
 その右手には洗面所と風呂場があって左手にはトイレ。
 そしてその先を進むと目の前にはリビングが広がる。
 キッチンとリビングを仕切る引き戸は常に開けっ放しだったし部屋がそこ一室しかないぶん、
 リビングはまるでダンスフロアーのように広く感じた。

 アパートは二階建てで各フロアに三室ずつこの間取りの部屋が割り振られているけれど、実際には一階の一部屋。僕を含めた二階の二部屋。計三部屋しか使われていない。
 あとは空き家になっていて、同じく二階の住人の大家は「なんでこう人が入んないのかねぇ」と言っていたけど、ぼくもどうしてだろう?と思う。
 何より日当たりがいい。朝や昼は窓が陽射しを吸っているのかと思うほど光が零れて、
 夜は海の上に孤独に浮かぶ月が顔をのぞかせ、やはり窓がそれを吸うように月明かりが零れた。
 もともと凛が大学生の頃ここで一人暮らしをしていたんだけれどぼくらは結婚してからもここに住むことに決めた。
 彼女はこのアパートをとても気に入っていたし、それはぼくも同じだった。

 そのアパートに帰りドアノブに手を当てると、扉はすでに開いていた。
 鍵をかけて出てきたはずなのになぜ?と思いながら扉を開けると部屋の中には人の気配が充満していて
 ぼくは玄関で静かに靴を脱ぎ、洗面所と風呂場とトイレに誰もいないことを確認してからリビングと繋がるキッチンへ早足で向かった。
 ごくりと唾を飲み込む音が聞こえて手が汗ばむ。
「おかえり」とキッチンに立っていたのは真希だった。
「あ。あれ? なんで?」安堵と疑問の息が漏れる。
「凛から合鍵貰ったの」
「凛から?」
「うん。あの子がまだ一人暮らしのとき「寂しいからいつでも来て」って合鍵をくれたのよ」
 そういって真希は凛が好きだったクマのキャラクターのキーホルダーがついた鍵を
「驚いた?」とぼくの顔の前で振って見せた。
「すこし驚いた」そう言うと、ぼくと真希の間に沈黙が生まれて、
 部屋には時計の音と火にかけられた鍋の音だけがことこと鳴った。
「何か作ってるの?」
 気まずさと、過去の人として語られてしまう凛が可哀想になって話題を変え、鍋を見た。
「シチュー。食べる?」
 心の穴に食に対する欲も吸われていたぼくは本当は何も口にしたくはなかったけれど 真希の優しさが嬉しくてそれをいただくことにした。
 こうやって誰かと向かい合って食事をするなんてことは久しぶりだったしあの日彼女が亡くなって以来、灯ることの無かった部屋の電気が今日はぼくを照らしている。
 少しだけ、生きる屍だったぼくに生気が戻っていく感じがした。
 こうやって少しずつ死を受け入れて、いつかは平穏な日々に戻るのだろうか。
 ぼくはリビングのガラステーブル(それはまるで画家が使う木のパレットのような形をしていた)の上に置かれたシチューの中の人参をスプーンですくって口に入れながらそんなことを考えていた。
 ホワイトクリームの甘さと人参独特の臭味が口の中に広がる。
 ぼくは凛の死に慣れてしまうのが怖かったし、寂しかった。

                         *

「最近、このニュースばっかり」
 いつの間にかTVをつけていた真希は、誰に言うでも無くそう呟いた。
 TVからは七三分けのキャスターが機械的にニュースを伝えている。
 内容はこんなものだった。

「先日、世界で初めて死人の蘇生に成功した医学部教授でネクロマンサーの藤原吉富教授が、今日の午後、緊急の記者会見を開き、「今後はより多くの死人の蘇生に力を注ぎたい」と述べ……」

 いかにも怪しそうな教授だった。ほったらかしの長髪に無精髭に汚れた白衣。
 皺のある顔は結構年配に見えたけれど、しゃんと伸びた姿勢が彼の年齢をあやふやにしていた。

「なにが蘇生よ。神様にでもなったつもりかしら?」
 真希は皿の上にスプーンを置いて冷蔵庫まで麦茶を取りに行く。
「静。凛はもう戻ってこないんだからね」
 キッチンから聞こえてくる声に「わかってるよ」と苦笑いで返事をしながら、
 TVの中でたくさんのフラッシュを向けられ笑顔で手を振る藤原教授をどこか遠い国の出来事のように眺めていた。

                         *

 凛と出会ったのは高校2年のときだった。
「瀬川くん、お願いがあるの」
 ひんやりした廊下で彼女が最初にぼくに向かって発した言葉はそんな特徴のないものだった。
 じゃぁなぜ記憶のゴミ箱行きのような、この特徴のない言葉を今でもはっきりと覚えているのかというと
 初めてぼくの名を呼んだ彼女の声が、まるでハッカ飴を舐めた後に吐いた息のような透明感と清涼感を持ち合わせていたからで、
 それは今まで聞いた誰の声よりも印象的だったし、好感が持てた。
 だからぼくはその特徴のある声で作られた特徴のない言葉をゴミ箱には捨てずに、そっと胸の宝箱の中に仕舞って鍵をかけた。
「お願い?」とぼくは聞いた。
「うん。あのね、山根君が図書室の本の返却日過ぎているから、返してきてもらいたいの」
 彼女は頬を赤らめてミディアムショートの前髪を白く細い指でさっさっと整え、うつむいたまま何度も瞬きをした。
「山根くんが好きなの?」
 恋愛におそろしく鈍感なぼくでもそのくらいはわかる。
 きっと彼女は山根くんに恋をしているから声をかけづらいんだ。
 でもそうだとしたら彼女は相当な物好きだと思う。
 山根くんは嫌味っぽいことで有名で、クラスのみんなからも嫌われていた。
 そして彼は「ガマ」とゆうニックネームを持っていて、
 大きな口と脂でギトギトしてぬめった顔はガマガエルそのものだった。
 およそ恋愛の対象にはなりにくいタイプだと誰もが思っていた。
 でも誰が誰に恋をしようがそれは自由だし、それは権利だ。
 だから、そのときのぼくは「冬野さんは山根くんが好きなんだ」と1%も疑うことなく思っていた。
 凛が「好きじゃない、好きじゃない」と否定の意味を込めて一生懸命両手を振っても照れ隠しにそうやっているだけだと思っていたくらいだから。
 だからぼくは鈍感なんだ。
 このときの彼女は別に誰のことも好きではなかった。
「静くんと話すことが恥ずかしかっただけよ」
 結婚してから初めて知った。

「ぼくがいきなり本を返してって言っても山根くんは変に思うよ、図書委員の冬野さんが言ったほうがいいんじゃない?」
「あのね」
「なに?」と言うと凛は前髪を指でいじって、
「瀬川くんも図書委員だよ」と申し訳なさそうに呟いた。
 そう、ぼくは図書委員だった。
 二年生になってすぐの委員会決めのときに、最後まで自分の委員会が決まらなかったぼくは余っていた図書委員に入れられた。たしかに入れられた。
「そうだ、ぼくも図書委員だ!」
 突然記憶が戻ったようにそう言うと、凛は嬉しそうに「うん、うん」と何度も頷いた。
 ぼくは余っていたところに無理矢理入らされたせいもあって、
 図書委員に何の愛着も責任感もなかった。(そもそも委員会に愛着を持っている生徒は少なかったと思うけれど)
 だからぼくは火曜の六限目にある委員会活動と月一である放課後の図書室当番をサボり続け、
 そしていつのまにか愛着と責任感どころか、委員会の存在さえ忘れていた。
 今まで仕事をサボっていた償いの意味を込めてぼくは「ぼくが山根くんに言ってくるよ」と頷いた。

                         *

 三限目の休み時間、ぼくは廊下側の列、一番前の山根くんの席へ向かった。
「ねぇ、山根くん」そういって山根くんの前に立つと彼は「なに?」と無表情でぼくを見上げた。
 自分以外の人間を軽蔑しているような目だった。
 ぼくの後ろを、いたずらばかりするクラスの男子が、女子のプリクラ手帳を取って走って行き、それを何人かの女子が「こら、返しなさい!」と追いかけていく。
 そんなざわめきの教室の片隅でぼくは山根くんと静かに向かい合った。
 ガマというあだ名は誰がつけたんだろう。ぼくはその人に精一杯の賞賛の拍手を贈りたかった。
 近くで見るといつもより余計にガマガエルに見える。
「図書室で借りた本の返却がまだだよね?」
「そうだね。まだ返してない」
 その声はまるで喉の奥で何かが絡まって回転しているようなガラガラ声で、聞いているとぼくの喉にまでその何かが絡まっていくようだった。
 ぼくはそれを振り払うように咳払いをしてから会話を続けた。
「返却日が過ぎているから返して欲しいんだ」
「でもまだ全部読み終わってないからね」
 山根くんは灰色のチェックの制服ズボンからポケットタオルを取り出して、額と首の周りを拭いた。
「もう三ヶ月も延滞しているんだって。読み終わっていないんじゃなくて、もう読んでないんじゃないかな?」
「読んでいないんじゃなくて読む時間がないんだ」
 彼は頭からするすると言葉を探し出してきてぼくが何かを言い終わる二秒前には次の言葉を発していた。
「瀬川くん、ぼくはさ、忙しいんだよ。塾にも言っているし、もう受験勉強も始めてる。それに学校の課題だってやらなきゃいけない。とてもじゃないけど本を読む暇なんてないんだ」
 じゃぁ借りなければいいのに、と思いながら
「一応決まりだから、とりあえず一旦、図書室に戻してくれないかな?」とぼくは言った。
 すると山根くんは今度は二秒前どころか、かなり前に次の会話を始めた。
「決まり? 君に決まりを語る資格はないと思うよ。君は人に何かを言えるほど決まりを守っているかい? 今日だって遅刻をしていたよね? それにほら」
 そう言って彼が指差した黒板の左端には「英語のノート未提出者」と書いてあって
 何人かの中にぼくの名前が堂々と含まれていた。「大至急、提出のこと!」
 もちろんその中に山根くんの名前は見当たらなくて、ぼくはこめかみのあたりをさすりながら困ったように教室を見渡した。
 掃除ロッカーの前にぼくを静かに見守る凛がいた。
 彼女は、頑張って、というように胸の辺りで両手の拳を握りグッと下にずらした。
「ぼくはたしかに決まりを守っていないよ。今日だって遅刻をしたしノート提出もしていない」
 そう言ってぼくは山根くんの元を離れ、
 机と机の間を通りながら凛のところへ行って彼女の華奢で薄い肩にそっと両手を置いた。
「このまま引き下がれないよね?」
 凛は何が何だかわからないと行った様子で眉間に皺を作って「うん?」と少し首を傾ける。
「やっぱりぼくが言っても説得力がないみたい」
「そ、そんなことないよ」彼女は一生懸命首を振る。
「冬野さんが言ったほうがいいよ」
 チラリと山根くんを見ると、彼はニヤニヤと笑ってこっちを見ている。
 ニヤニヤの主成分はたぶん優越感で、ぼくはその笑顔に少しだけイラッとした。
 凛は「じ、自分で言えるなら自分で言ってると思うの、私」と顔を真っ赤にしながら慌てて
 この人は何を言ってるのかしら、と驚くようにぼくを見た。
「いいから来て」
 半ば強引に彼女の手を引き、今度は机の列と列の間を通って山根くんのところまで行った。
「私、本当にダメなの。本当に」凛は手を引かれながら何度も小声で言った。
 再び山根くんの席の前に立ったとき、彼女の真っ赤だった顔はなぜか真っ青になっていて、凛は覚悟を決めたように彼のブレザーの胸ポケットのあたりを見て、明らかにぎくしゃくした引きつった笑顔を浮かべた。
「冬野さんは無遅刻で英語のノートも提出してるよ」
 ぼくは山根くんに向かってそう言った。
「そうだね」
 もう彼の顔からは優越感の笑みが消えていて、最初の頃と同じ無表情になっていた。
 ぼくが凛の背中をぽんと叩くと、彼女はまるでスイッチを押されたおもちゃのように
「あのね、山根くん。ほ、本の返却日が過ぎているんだ。返して欲しいの」 と彼の胸ポケットに早口でそう言った。
「でも僕はまだ読み終わってないからさ」と山根くんが舐めるような目で凛を見たときに
 ふいに彼女が倒れ、ごとっ、という音が教室に響いた。
 一瞬、時間が止まったように教室が静かになった。
 手帳を持った男子も、それを追いかける女子たちも動きが止まる。
 そして黒板の上にかけられた時計の秒針がチッと一回動くと、それを合図に教室はすぐにざわめきに包まれた。
 山根くんは席を立ち、驚いて凛を見ている。
 何人かの女子が「凛!」と言いながら駆けつけてきた。
 凛の周りにはすぐにクラスメイトの輪が出来た。
 ぼくは何が起こったのか理解出来ないまま、床に横たわる彼女をただ眺めていた。

                         *

 時計が4時を少し回ると、彼女は朝顔の花のように、ゆっくりと目を開いた。
 保健室は夕焼けに包まれて、白で統一された部屋を薄いオレンジに染めた。
「あ。起きた」
 ぼくが凛の顔を見ながら保健の角川先生に言うと、
 先生は目を通していた健康診断の書類を机の引き出しに閉まって鍵をかけて滑車のついた少し色あせた灰色の椅子を足で滑らせながら凛のベッドの横までやってきた。
「冬野、どうした?急に倒れたんだって」
 角川先生は髪を耳にかけてから凛の額に手をあて「熱はないね、たぶん」と言った。
「しっかり計ってくださいよ」
 ぼくは苦笑いしながら丸椅子から立ち上がり出入り口付近に貼られた「虫歯ってこんなに怖い」という見出しのポスターを眺めていた。
 唾液のせいでつやがある赤々とした歯茎が載っていて虫歯の段階を5段階に分けて紹介している。
 第5段階に至っては歯が焦げてしまったかのように黒く、原型をとどめていなかった。
 ぼくは無意識のうちに頬を押さえていた。
「私、やっぱり倒れちゃったか」背中に凛の声が聞こえた。
「ちゃんと朝とお昼食べた?」先生が訝しげに聞く。
「食べました、しっかりと」
 そして凛は「瀬川くん」と言った。ぼくはその声に「ん?」と振り返る。
「瀬川くんが保健室に運んできてくれたの?」
「そうだよ。瀬川もたまにはやるね」と答えたのはぼくではなく、角川先生だった。
 だから凛と目だけが合ってしまって、ぼくは代わりに「なんで急に倒れたの?」と聞いた。
「うん……あのね」と凛は言った。
「小さい頃、近所の男の子にいいもの見せてあげるって言われたの」
 この話は凛が倒れた話と関係があるのだろうか?
 いきなり幼い頃へと飛んだ話に戸惑いながらぼくは黙って話の続きを待った。
「それで私は「なになに?」とか言いながらその子の手の中を見たのね。そしたらそこから、小さなアマガエルが飛び跳ねて私の顔にペタッってくっついて……」
 想像してみて、と凛は夕焼けに染まった保健室の天井を見上げて言った。
「瞼の上にはぬめっとした生ぬるい感触があって、目の前にカエルの白いお腹があって、喉が膨らんでしぼんで、鳴っている音がするの」
「気持ち悪いね」
 ぼくがそう言うと角川先生も「うぇ」と眉間に深い皺を寄せた。
「私、驚いて気絶しちゃって、そのときからカエルってトラウマなんだ。それ以来、近くで見ると気絶しちゃうの。だから本当に申し訳ないと思うんだけれど山根くんを見るとね、やっぱりカエルを思い出しちゃうんだ。なるべく見ないように見ないように、近づかないように近づかないようにしていたんだけどね」
「ごめん」
 凛が倒れたのは山根くんの前に無理矢理連れて行ったぼくのせいだった。
「ううん」と凛は首を振った。「気にしないで」
 そう言うと凛は壁にかけられた時計にちらりと目をやって「ぎゃぁー」と声をだした。
 悲鳴というよりは言葉としての「ぎゃぁー」だった。
「もうこんな時間だ」
 凛は慌てて起き上がり布団から出て上履きを履こうとする。
「どうしたの?」ぼくは聞いた。
「今日の放課後の図書室当番、私なの」
「今日はもう帰りなよ、やっておくから」
「そうだぞ、冬野。今日は帰って安静にしてな」
 先生はそう言うと、ここまで来たときと同じように足で椅子を動かしながら机に戻っていった。
「でも、悪いよ」
「忘れてるでしょ?」とぼくは言った。「ぼくも冬野さんと同じ図書委員なんだよ」
 少し間があってから凛は「忘れてた」と笑った。

                         *

 こんなふうにして二人は出会い、
 そしてこの日をきっかけにしてぼくと凛はちょくちょくと会話を交わすようになった。
 こうやってしっかりと話す前は、ぼくは凛のことを近寄りがたいお嬢さまと感じていたけれど
 実際に話してみると彼女はおてんばな町娘と言った感じで、そしてぼくらはおそろしく話が合った。
 好きな映画はお互い「ペーパームーン」と「ショーシャンクの空に」だったし、
 好きな本はお互い「夢十夜」だった。
 そして二人は高二の終わりに付き合い始めた。
 朝になれば太陽が昇るように、秋になれば葉が紅く染まるように、
 ぼくと凛が付き合うことは自然な流れだった。

                         *

「ねぇ、静」
 食べ終わったシチューの皿を洗っていると、横で食器を拭いている真希がぼくを呼んだ。
「なに?」
「凛は幸せだったと思うよ。静と出会えて」
「なにそれ」
 ぼくは笑った。おかしさを含んだ笑いではなく、どこか寂しさを含んだ笑いになった。
「元気出せってことよ」
 そしてぼくらはしばらく黙ったまま食器を洗い、拭いた。
 静かな部屋に響いたつけっぱなしの音楽番組から聞こえる流行のラブソングは、
 ぼくにはまだ痛くて、どうしても上手く聴くことが出来なかった。


 第2話     蘇生法


 四月の第二週、雨の火曜日。
 右手には夕食の食材が入ったスーパーの袋を、左手には傘の柄を握り締めてぼくは毎年そうしていたように近所の桜並木を歩いた。
 しっとりと湿った薄紅色の花びらが埋める歩道はこの街の住人がぼくだけになってしまったかのように静かで
 雨が傘をぽつぽつと打つ音だけが灰色の町に響いた。

                         *

 凛が大学を卒業してからすぐにぼくらは結婚した。
 結婚の準備は学生のうちから出来ていたけれど、ぼくの両親がもともとこの結婚には反対していて、
 それを説得する間にぼくは理容の専門学校を、凛は大学を卒業してしまった、それだけのことだった。
 そして結婚して初めての春。今日のように桜の散った四月の雨の日の買い物帰りに、凛は桜を見上げ「散っちゃった」と残念そうに呟いた。
「桜って儚いよね」
 そう言って凛が狐色のロングスカートを少し捲って水溜りを跨(また)ぐと肩まで伸びた髪がさらりと揺れた。
「嫌いなの?」
「嫌いじゃないよ」でも、と彼女は紅い傘の柄をくるくると回して言った。
「咲いているとき綺麗すぎるから、散るとき寂しいの」
 このときのぼくと凛はきっと同じイメージを共有していたと思う。
 それは、父親と離婚をしてから凛を女手ひとつで育てた彼女の母親のことで、本当に桜のように綺麗な人だった。

 凛の母親が亡くなったのはぼくが専門学校を卒業した年、凛が大学三年生になった年の夏だった。

 数人の親戚が凛の実家に訪れて簡単な葬儀を済ませ帰ってしまうと部屋にはつーっと細く線香の煙が揺れ、外では無責任に蝉が鳴いていた。
 夏の夕暮れが窓枠の形に沿って畳の上をオレンジに染めている。
 ぼくと凛はその部屋の隅っこ、ざらざらした抹茶色の壁に並んで座った。
「お母さん親戚の誰にも愛されてなかったの」と凛が呟いた。
「お父さんとお母さんって大恋愛だったんだよ。駆け落ちしちゃうくらいだもん」
「駆け落ち?」とぼくが言うと凛はにこりと笑ってゆっくり頷く。
「お父さんとお母さんの結婚、親戚中に反対されてたから。それで駆け落ちして、結局離婚して……。今でもみんなお母さんのこと怒ってるの。おじいちゃんだってそうだよ」
 でも、と凛は言った。
「お母さんは親戚中に嫌われちゃったけど後悔してなかったと思う。自分の人生を全うしたよ」
「そう言ってくれる娘がいて、おばさんもきっと喜んでるよ」
 そしてぼくは死について考えた。
 それは今まで見たどの問題よりも難しくてメビウスの輪のように出口が見つからなかったけど、でもぼくはその答えを知りたかった。
 それを知ることであまりにも突然すぎる死に意味を持たせたかったし、
 そうすればあるいはぼくは死を納得することが出来るような気がしていたから。
 しかしいくら考えても答えは出なかった。
 静寂を破って「静くん、麦茶飲む?」と凛が立ち上がった。「喉渇いたでしょ?」

                         *

 凛は居間に面した台所で、青い花の柄が描かれた涼しげなプラスチックの入れ物に入った麦茶をグラスに注ぎながら
「お母さんの麦茶はね、少し蜂蜜が入っているんだよ」と言った。
 彼女が少し顔を下に傾けると耳にかけられた細くてつやのある髪がさらりと垂れた。
「お母さんが生まれた地方ではそうするみたい」
 凛は時計の横にかけられた母親の遺影に「ね」と微笑んでから
「はい」とぼくにグラスを渡して再びぼくの隣に座った。
 麦茶は綺麗な黄金色をしていて水面がきらきらと揺らめいている。
 ぼくはそんな夕方の海のような麦茶を一口飲んでから「おいしいね」と言った。
 それは紛れもなくおばさんの麦茶で、ぼくがここに遊びに来たときに必ず出してくれる麦茶だった。
 もうこの麦茶は飲めない。
 このとき突然、おばさんが死んだという実感が胸にがつんと落ちていった。
 その死の重さに押し出されるようにして、ぼくの瞳から涙がぽろぽろ零れる。
「泣かないでよ」
 少し笑った凛にそう言われて、ぼくは窓の外を見ながら頬をさすったり、手のひらで目をこすった。
 でも涙は止まるどころか次から次へと零れ落ち、半袖のシャツの袖で涙と鼻水を拭うとすぐにぐしゃぐしゃに湿った。
「泣かないで」と凛が今度は心配そうにぼくの顔を覗くと、
 手が自然に彼女の頭に伸びてぼくは凛を優しく胸に引き寄せた。
「泣いてもいいんだよ」
「泣かないよ、お母さんが悲しむもん」
 そういった彼女の背中は小刻みに震えていて、ぼくの胸の辺りに彼女の涙の温度を感じた。
「泣いてないからね?」
 泣きしゃっくりの混じった声にぼくは「うん」と頷く。
 そして凛は堪えていた悲しみを吐き出すように「おかあさん」と何度も呟いた。
 窓の外では夕立が降ってきて大きな雨粒が屋根を鳴らした。
 早くやめばいい。心からそう思った。

                         *

 それから毎年、凛は母親が亡くなったときのような雨の日に母親のような桜を見て回った。
「桜だって最期まで見届けなくちゃね」
 わずかに残っていた花びらがはらはらと舞った。
 ぼくはそれを見上げて「散ってもまた咲くよ」と言った。
「綺麗に咲くといいな」
 やがて地面に貼りついた花びらの死骸に少しせつなさを抱えて、ぼくらは再び歩きだす。

                         *  

 そうやってぼくは、あの頃の凛の残像を見ながらそのときと同じ道を歩いている。
 ぼくをどこかへ導くように等間隔で植えられた桜の木。路上に書かれた「止まれ」の文字。
 どこかで吠えている犬の鳴き声。静かに降る雨。全てが凛へと繋がる手がかりだった。
 ぼくはそれらを目で触れ、耳で感じる。
「今度は凛がいなくなっちゃったね」と桜に言った。

「静くん」

 あの独特のハッカ飴の声が聞こえた気がして、ぼくは振り返る。
 でもそこには雨で滲む町が蜃気楼のようにゆらゆらと映るだけだった。

                         *

 公園の前を通るとテルさんがいた。
 彼はこの公園に住んでいるホームレスの老人でテルさんはどこかから拾ってきた骨の折れた黒い傘をさして、タクシー会社の電話番号が書かれた赤いベンチに偉人の銅像のように座っていた。
 公園の入り口でテルさんを見ていると彼は人差し指で頬をかいた。
 ぼくは少し寄り道をすることにした。

                         *    

「こんにちは」
 テルさんの隣に座るとジーパンに雨水が染み込んでいくのを感じた。
 テルさんは返事をしなかった。耳が遠いのだ。
 今度は強めに「こんにちは」と言うと、彼は灰色のひげから前歯が一本抜けた口を覗かせて「おぉ、静くん。久しぶり」と言った。
「こんなところでぼぉっとしていたら、風邪ひいちゃいますよ!」
「何をひくって?」
「か・ぜ」
「あ。あぁ、風邪なんて、もうここ何年もひいてないよ」
 テルさんは栗色の薄手のコートのポケットから雨で湿ったビスケットを取り出し
「僕はね、こう見えてもね、健康には気を使っているんだ」とそれをかじって笑う。
 彼の膝では黒猫が小さくあくびをして気持ち良さそうに眠っている。
 ぼくはその猫の気持ちがよくわかる気がした。テルさんと話すのは楽だった。
 だからどうゆうわけか彼の横にいるとぼくはいつも眠くなってしまうのだ。
「またコレクションが増えましたね」とぼくは言った。
 コレクションというのは言ってみればただの粗大ゴミだ。
 ベンチの裏の森の中には青いビニールシートと材木で簡易的な家が作られていて
 そこに寄り添うようにテルさんのコレクションがもたれかかっている。
 箪笥とか椅子とかテレビとかラジオとか、ありとあらゆるものがここにはある。
「何か必要なものがあったら持っていくといい」
 そしてテルさんは「今日は凛さんと一緒じゃないのかい?」と不思議そうに聞いた。
 凛はテルさんが大好きだった。
 買い物帰りにはいつも思い出したように「テルさんのところに行こうよ」と言って
 ぼくの手を引き、そして彼女はテルさんの話を絵本を読んでもらう子どものように聞き入った。
 ぼくは少し大きめの声で、そしてハッキリと「凛は死にました。12月に」と言った。
 こうやって改めて言葉にすると、それは現実味をおびて胸の中へ溶けていく。
 そしてテルさんは「おぉ」と無念そうに声をあげ、雨空に向かって手を合わせる。
 相変わらず空からは線を引くように雨が降り続いていて、ぼくは寒さに少し体を震わせた。
「テルさん、ほんとうに風邪ひかないでくださいね」
そう言って立ち上がると、テルさんは「静くんの尻、ベンチで濡れて世界地図みたいになってるぞ」と言って口の中で何かを噛むようにして笑った。
 ぼくもテルさんにつられて笑う。
「それじゃ、また来ます」
 公園の出口に向かって歩き始めると背中に「静くん!」とテルさんの声が聞こえた。
「泣きたいときは泣くがよし。笑いたいときは笑うがよし。生きるってゆうのはそうゆうことだよ」と大きく手を振った。
 
 その言葉を聞いたとき、ぼくの手に持っていた傘とスーパーの袋がするりと抜け落ちていった。
 ぬかるんだ土の上に袋の中身が無造作に飛び出す。雨はぼくを濡らし、あっというまに服がぼってりと重くなる。
 「寂しいです。凛がいないと……」
 ぼくはテルさんに呟いて、まるで迷子になった子どものように声をあげて「寂しいです」と泣いた。
 あいにくこの涙にさす傘をぼくは持ち合わせてなかったし、おそらくテルさんのコレクションの中にも無い。
 胸の中がひどく寒い。
 猫がひとつ、にゃーと鳴いた。

                         *

 部屋の呼び鈴が鳴ったのは夜の9時を回った頃で、それがあまりに唐突に鳴ったのでひどく驚いた。
 誰がいつ呼び鈴を押すかなんて予期できないからそれが“唐突に”なるのは当たり前のことなんだけれど
 ぼくはこの唐突さが苦手で、いつもどきりとしてしまう。
 どくどく鳴る心臓の鼓動を手のひらで確かめながら玄関の覗き穴に目をやるとそこには季節外れのアロハシャツを着て茶色く染めた髪の襟足を手でとかしながら立っている晴樹がいた。
 こんな時間になんだろう、と思いながらぼくは玄関を開けた。
「よ」晴樹は軽く手をあげた。
「どうしたの?こんな時間に」ぼくも軽く手をあげながら聞いた。
「どうしたもこうしたもねえよ」
 そして晴樹は「今、いい?」とコンビニの袋にごつごつと押し合って入っているビールを見せた。

                         *  

「電気ぐらいつけろよ」
 晴樹は部屋に上がると天井から下げられた電気のヒモを引っ張った。
「人間、暗いところにいると暗くなるぞ。まぁいいか。飲め」
 明るくなった部屋で晴樹は袋から缶ビールを取り出し、プルトップを持ち上げてから僕に渡してくれた。
 そして窓の外に見える雨降りの町に目をやりながら、やっと自分のビールを喉に流しこむ。
 晴樹には缶ビールがよく似合う。
 それは同じ理容専門学校に通っているときから思っていたことで、
 その頃から何かあると、ときにはぼくの家で、ときには晴樹の家で
 こうやってビールを飲みながら夜遅くまで語り明かした。
 凛と結婚してからはその回数が減ったから、こうして二人で飲むのは久しぶりだった。
 ぼくらはしばらく他愛もない会話をして過ごした。
 最近どういう音楽が流行っているかとか、こないだこうゆうことがあったとか、
 本当にどうでもいいことを晴樹の一方的な会話ではあったけれどぼくらは話した。
 酔いがまわり始めた頃「静、知ってるか?」晴樹はビールの缶を眺めながら言った。
「俺はお前が大嫌いだったんだ」
「そうなの?」
 晴樹は頷いて「専門学校に入学したばかりのときはな」と笑った。
「生理的に合わなそうな奴っているだろ。それがおまえだった」
 ぼくは返事をする代わりにビールを流し込んだ。それが食道を通ってちょうど胃に落ちたとき、晴樹は次の会話を始めた。
「でも実習で同じ班になって話してみると、あら不思議。今に至る」
「晴樹とはかれこれ8年くらいになるね」
「そう、ずっと一緒だったわけだ」
 そして晴樹はひとつ息を吸ってから「タムラに戻って来い」と言った。
「おまえがいないと調子が狂う。それにあんな小さい床屋だと一人いないだけで忙しくなるんだよ。お前がいなくなって従業員は俺と店長だけだぞ。信じられるか? ちくしょう。そろそろあの床屋も従業員取らなきゃ駄目だと思うぞ、俺は」
 ぼくは雨水が滴る窓を見ながら海沿いの小さな床屋のことを思い出していた。
 
店の前でくるくると回る赤と青と白のストライプや、店内の観葉植物や、
 本棚に並べられた色あせた少年誌とファッション雑誌や、充満するヘアカラーの薬品の匂い。
 年季の入った可動式の椅子、パーマをあてるロボットのような機械。
 ぼくはその記憶の中に一人で立っていた。鏡の中に今のぼくが映っている。
 カランと自動ドアを鳴らし、誰かが入ってきて驚いて振り返る。
 そこには就職が決まって初めて出勤してきたあの日のぼくと晴樹が立っていた。
 ぼくは無愛想に立っていて、晴樹は手や首に重たそうなアクセサリーをしていた。
 そして今のぼくの横に、店長と亡くなった店長の奥さんが現れた。
「いらっしゃい。今日からよろしく」
「私たち夫婦以外の人がここで働くのって初めてなのよ」と奥さんはにっこりと笑った。
 晴樹が聞く「どうして今まで他の人を雇わなかったんです?」
「なんとか二人でもやってこれたから。でもほら、私が病気を患っちゃって、働ける人間がこの人だけになっちゃうから」
 奥さんはこのときすでに自分が長くないことを悟っていたのかもしれない。
 なんとなく、その優しさが凛とオーバーラップした。

 そしてぼくは次々と記憶を遡っていく。
 初めて給料を貰った日、初めて髪を切らせてもらった日、店長のつまらない冗談、
 女性のお客さんのときだけ調子の良くなる晴樹のハサミ。
 ぼくが、お客さんの頬を切ってしまった日。

「やっぱり戻れないよ」ぼくはそう言って首を振った。
「なにも明日、あさって戻って来いって言ってるんじゃねえ。“いつか”の話だ」
「いつか?」
「おまえが気持ちの整理をつける“いつか”だ」
 そういって晴樹は「今日はそれを言いたかっただけだ」と立ち上がり玄関先で靴のつま先を鳴らしながらぼくを指差した。
「いいか、感謝しろよ。俺はこうゆう面倒なことは女の子にしかしねーんだ。俺の最初で最後のおせっかいを胸に刻め」
 ぼくは拳で自分の胸をトントンと2回鳴らした。
「素直でよろしい。じゃぁな」

 パタン。

 ぼくはしばらくひんやりとした玄関の扉を見つめていた。
 気持ちの整理がついたときぼくは凛をどうゆうふうに思い、どうやって生きていくんだろうか。
 今のぼくにはその答えが見えないし、想像すら追いつかなかった。

                         *

 二週間後の日曜日の朝、
 あるニュースが晴樹の鳴らした呼び鈴のように唐突に語られた。
 ぼくがテレビから慌しく流れるそれを見入っていると、やはり唐突に電話が鳴った。真希だった。
「ね、ニュース見た?」
 彼女の声はとても興奮していて、まるで刑事の取調べのようにぼくを問い詰めた。
「聞いてる? 見た?」
「見たというか、今見ているよ」
「静、どうするの?」
 真希はぼくの返事を待たずに「今日のお昼は暇?」と言った。
「暇だよ、とても」
「それなら駅前のStarRiverっていうカフェに12時に来て。詳しい話はそこで」
「わかった。駅前のStarRiverだね」

 テレビの中ではいつもの七三分けのキャスターがニュースを伝えている。
「繰り返します。ネクロマンサーの藤原教授の死人蘇生法案が可決されました。まもなく藤原教授の会見が始まる模様です。では会見が始まるまでこちらをご覧ください」

 そして画面が切り替わり、文字が浮かびあがる。

 死人蘇生法:いかなるものでも申請があれば死人を生き返らせることが出来る。
 注)1.過去、罪を犯し刑務所に収監されていた死人の蘇生は行えないものとする。
   2.親族・配偶者以外の申請は原則的に行えない。
   3.人口増加を危惧し、死後5年までの死人を対応とする。

 尚、突然ではありますが施行は今年の8月1日からとなります。申請はお早めに。


 第3話     雨のキス / 一通の封書


 AM:8:50 予定を大幅に遅れて藤原教授の記者会見が始まった。
 相変わらずよれよれの白衣を着て、不衛生のぼさぼさ髪を掻きながら彼が登場すると一斉に記者団のカメラのフラッシュが焚かれる。
 どこかの高級ホテルで会見をしているらしく床には色鮮やかな朱色の絨毯が敷かれていて、藤原教授に用意された席のその後ろの壁には金の屏風が置かれていた。
 彼は用意された席の前に立つと「みなさん、今日はご多忙の中お集まりいただきありがとうございます」と深々頭を下げてから絨毯に滑らせて椅子を引き、そこに深く腰をかける。
 司会の男がそれを見届けてから「では早速、質疑応答に移らさせて頂きます。何か質問のある方は挙手をし、発言のほうをお願い致します。尚、各テレビ局・新聞社の方、1回ずつの質問とさせていただくことをご了承ください」と手際よく会見を進行していく。
 ぼくがその様子に見入っていると新種の打楽器のようにキッチンで薬缶の蓋が鳴った。
 ぼくはTVに目線をやりながらキッチンまで行って、コップの中に紅茶パックと黒蜜と牛乳を入れ、そこに沸騰した湯を注いだ。
「日芸タイムズの佐藤と申します。今回、死人の蘇生法が国で認められたわけですが、もう一度、そのへんのことを詳しくお聞かせください」
 藤原教授が長机に置かれたマイクを手に取り、スイッチを入れると悲鳴のような甲高い機械音が響いた。
「まぁ、国が私の提案した“死んだ人間を蘇らせていい”という法律を認めた。それだけのことです」
 そして藤原教授がスイッチを切り、マイクをそっと机に戻すと、司会の男が「他には何かございますでしょうか?」と言う。
 いくつかの手が挙がり、今度は紺のスーツを着た女性に発言権が与えられた。
「テレビ毎朝の谷岡です。今回の法律の件については批判の声もありますが、その件についてはどのようにお考えでしょうか?」
 そして藤原教授は再び、マイクのスイッチを入れた。
「私のほうにも批判の意見はすでに届いています。「死人を生き返らせるのは、人間が人間らしくいることの妨げになる」と言った意見でしたり、あるいは「生死のサイクルを乱す行為だ」といったものでしたり、それはさまざまです。しかし、そう思うなら生き返らせなければいい。この法律を使うも使わないも個人の自由なのです」

 ニュースキャスターが「会見は続いている模様ですが、放送時間のほうがいっぱいになりました」と言うと記者会見場の音声が徐々に絞られて、やがて映像がスタジオに戻ってきた。
 そしてアナウンサーが「繰り返します。ネクロマンサーの藤原教授の死人蘇生法案が可決されました」と改めて言うと画面の右端に「終」と出て9時を告げる時計の映像が表示された。
 ぼくは紅茶を一口啜ってゆっくりとそれを飲み込んだ。

                         *

 真希との約束の時間までにはまだ余裕があったので、ぼくは少し遠回りをしながら駅前まで行くことにした。
 外に出るととてもよく晴れていて、陽の光を存分に吸った薄手の黒いパーカーは微かな熱を持ち、ぼくの額と鼻の下に汗をにじませる。
 ぼくはそれを指で拭って電線に絡まった青空を見上げた。
 どこかでホゥホゥホッホーという鳩の鳴き声が聞こえる。
 スコップとスーパーの袋を持ったおばさんがゴールデンレトリバーを連れてぼくの横を通り過ぎていく。
 まるで今朝のニュースが嘘だったかのようにいつも通りの1日が流れていく。
 あまりにいつも通りだったので「あのニュースは何かの間違えだったんじゃないか」といささか不安になった。
 だから公園の前を通ったとき、いつものベンチに腰掛けて佇むテルさんを見かけると、ぼくは彼のところまで全速力で走って行った。
「テルさん、おはよう」
 彼は「あぁ?」と耳に手を当てた。
「お・は・よ・う」
 もう一度強めに言うと「あぁ、おはよう」とテルさんは笑った。
「今朝の藤原教授のニュース見ました?」
「さっきラジオで聞いたよ」と彼は森の中の家に視線を移す。
 気のせいかもしれないけど、またコレクションが増えていた。
 相変わらず彼の膝の上では黒猫が気持ち良さそうに眠っていて、ぼくは柔らかい毛に覆われたその猫の背中を撫でながら「どう思いました? あのニュースを見て」とテルさんに訊いた。
 でも彼の耳まで届かなかったのか、テルさんは「いい天気だね」と伸びをした。
 まぁいいや。
 とりあえず、あのニュースは間違いではなく、確かなニュースだった。
 ぼくにやっと嬉しさみたいなものが実感として込み上げてきた。

                         *

「あの藤原教授ってなんか怪しい感じがしない?」
 真希はStarRiverの店内でアイスコーヒーにガムシロップを入れながらぼくに聞いた。
 日曜の昼間なのに、店の中は思っていたよりもずっと混んでいて、
 日曜の昼間だから混んでいるのか、とあっけにとられたまま騒がしい店内を見回していた。
 天井には無数の星がブラックライトに照らされて青白く光っている。
「あの教授、見た目で損してるわよね。ぼさぼさ頭に無精ひげ。汚れの目立つよれよれ白衣」
 店の真ん中には小さな噴水があり白い石で彫られた女神が右肩に背負った壷から水を出して店内にひんやりとした空気を充満させていた。
 木で出来たテーブルの上には民族模様のランチョンマットが敷かれていて、
 各テーブルの中心では2人の小さな天使の置物が優しくキスを交わしている。
「私の話、聞いてる?」
「真希ってお洒落なお店、知ってるんだね」
 ぼくがそう言うと、真希はため息をついて「凛と同じこと言ってるわ」と額に手を当てて首を振った。
「え?」
「大学のゼミのグループの飲み会のときね、一度ここに飲みに来たの」
「ここに?」
 真希が手のひらに顎を乗せて「そう、ここに」と右手で下を指差す。
「ほら、私ここの近くでバイトしてたから、ずっと行きたいなって思ってたの。そんなときにちょうど飲み会があったから私が場所決めしてここにしたんだけど、店に入るなりあの子は静と同じこと言ってたよ。「真希はお洒落なお店、知ってるね」ってにっこりと」
 ぼくはストローでウーロン茶をかき混ぜながら軽く笑った。
「じゃぁ、問題ね。凛が席についてまず最初にしたことはなんでしょう?」
 夫なんだからしっかり答えてね、と真希はいたずらにいやらしく笑った。
 ぼくはテーブルの上を見渡し、凛がやりそうなことを思い浮かべた。
 そしてあっさりとその答えに辿りつく。
「簡単だよ。メニューをみんなに配った」
 真希はにっこりと笑って「違う」と言う。「それはそのあと。あの子ね、置物をこうやったの」
 そして真希はテーブルの真ん中でキスをしている二人の天使の置物を端に寄せた。
「まさか置物にも恥ずかしがってたの? 凛は」

                         *

 凛は高校の頃から恋愛ドラマのキスシーンが苦手だった。
 ドラマのクライマックスで主人公とヒロインがキスするときは必ず顔を真っ赤にしてうつむき「もう終わった?」とぼくに聞くか、一人でそそくさと部屋を出て行った。
 だから彼女は恋愛ドラマのラストシーンや最終回をところどころ見逃していて、
 その都度「あのあと、どうなったの?」とか「ハッピーエンドだった?」とか、ぼくに聞いた。
 そんな彼女だから実際のキスは大変で、ぼくらのファーストキスはロマンチックの欠片もなかった。

                         *

 どちらも奥手だった僕らが初めてキスをしたのは高校を卒業してからで、
 場所は高校近くの大きな緑地公園だった。
 その公園はテルさんが住んでいる公園とは比べものにならないくらい大きくて
 ゆっくり歩いてまわったら1時間や2時間くらいかかりそうだった。
 入り口から入ってすぐに木の橋があって、その下には小さな小川が流れている。
 一度だけそこで小さなアマガエルを見かけたんだけれど凛には言わないでおいた。
 そんなことを言ったらこの公園は金輪際立ち入り禁止区域になってしまうから。
 まっすぐ進むと道が二手に分かれていた。
 ひとつは芝生の生えた広場へと繋がっていて、もうひとつの道は森へと続く散策コースになっていた。
 あの頃のぼくらのデートコースと言えば、この公園かアパート近くの海くらいしかなかったから、あの雨の日もぼくらは散策コースを歩きいつもと変わらないデートをした。
 森が雨風とじゃれるようにさわさわと鳴っていて地面はしっかりと泥の匂いを漂わせていた。
 ぼくは凛の少し前を地面に落ちた枝を踏みながら歩き、枝は潔い音を立てて折れた。
「あのさ、凛」
 うつむきながら歩いていた彼女は急に立ち止まったぼくに驚きながら、赤い傘の中から顔を覗かせた。
「キスしてみない?」
 それほどしたいわけでもなかったし、したくないわけでもなかった。
 ただ恋人がそれをするように、ぼくもまたそれをしようと思ったのだ。
 凛の顔が傘の色と同じようにみるみると赤くなっていって、彼女は潤んだ黒曜石のような瞳を真ん丸くした。
「キ、キ、キス、し、しましょうか?」
 凛は変な敬語になった。
「べ、別に無理にとは言わないですよ」
 ぼくもつられて変な敬語になって、そしてロマンチックは音を立てて崩れ始める。
「あ、あのさ、私と静くんって少し身長差があるよね?」
「うん、そうだよね。ぼくは172cm」
「私、154cm。わ、結構あるよ。どうしよう、あ。私ここに乗ろうか?」
 凛は腐った丸太の上に乗り、背伸びをした。
「あのさ、ぼくの唇まで凛の唇がとどかないってことが言いたいの?」
 凛は顔を真っ赤にしながら何度も縦に頷いた。
「ぼくが少し屈めばそれは問題ないと思うよ」
「あ。あぁ、そっか!」と凛は前髪を指で整えながら丸太を降り、ぼくを見上げてそっと目をつぶった。
「ど、どうぞ」
「では、いきます」
 ぼくは自分の傘を閉じて凛の紅い傘の中で彼女の肩に手をかけ、少し膝を曲げて屈んだ。
 凛の唇はみずみずしいピンク色をしていて、ぼくはドラマで見たように自分の首を少し傾けて彼女の唇に自分の唇を優しく重ねた。
 その唇はひんやりしていて、まるで探していたパズルピースの一片のようにぼくの唇に驚くほどしっくりきた。
 ぼくは凛の肩にかけていた手を彼女の薄い背中にそっと回して彼女を抱き寄せる。
 ふいに凛の赤い傘が開いたまま地面に落ちて、雨がすぐに二人を濡らす。
 ぼくらは雨の真ん中で抱き合い、キスをした。
 とても長い時間が経過した気がするし、ほんの一瞬だったような気もした。
 凛はゆっくりと唇を離すと、濡れた顔で「しちゃったね」と笑った。
 キスはぼくらを正式な恋人同士にさせた気がして、それと同時に何かいけないことをしてしまったような罪悪感もあった。
 沈黙の中で何かが鳴いた。
 声のほうを振り返ると一匹の小さなアマガエルがぼくらのことをにやりと見ていた。
「なんで、こんなところにいるの?」
 そう言って凛はぬかるんだ地面に倒れた。

                         *

 ぼくはしばらくそんなことを思い出しながら天使の置物を見ていた。
「凛らしいよね、こんなことで恥ずかしがるとこ」と真希が言った。
「そうだね」
 ぼくは真希に気づかれないように、指でそっと自分の唇をなぞった。
「生き返すの?凛のこと」真希が聞いた。
「うん、そうしようと思ってる」
 ウエイターがぼくの前にベーコンとトマトのパスタとサラダを、真希の前にはポテトグラタンを置いていき、
 テーブルの脇に申し訳なさそうにマグネットで伝票を貼り付けた。
 ぼくは「いただきます」と言ってからフォークとスプーンでパスタを巻き、
「やっぱり凛に会いたいよ」と会話を続けた。
「私も賛成だな。凛の死は到底予期できるものでもなかったし、納得できるものでもなかったし、もう一度会いたいって言っても罰は当たらないわよ」

                         *

 そして一ヵ月後、一通の黄緑色の封書がぼく宛に届いた。
 ハードカバーの本と同じサイズの封書で、差出人は市役所からだった。
 窓から入ってくる西日にその封書を透かしながらハサミで丁寧に口を開ける。
 中には三つ折りにされた白い紙が入っていて、それを開くとこう書かれていた。

 瀬川 静さま
 この度、貴方の配偶者である瀬川 凛さまが死人蘇生法の対象となっております。
 蘇生を希望される場合は、お手数ですが市役所まで手続きのほどをよろしくお願い致します。

 日時:7月1日〜14日 AM10:00〜PM5:00迄
 市役所1F 蘇生課受付にて。

 尚、蘇生を行わない場合につきましては同封の葉書をご返信ください。

 封筒を振ると、中からするすると蘇生をしない場合の返信用葉書が落ちてきた。
 ぼくは床に落ちたそれを拾って3回に分けて破き、ゴミ箱に捨てた。


 第4話     凛が死んだ日


 七月に入るとすぐに市役所へ蘇生の手続きをしに行った。
 市役所は町の中心に建てられていて、周りを竹やぶが囲んでいる。
 初夏の太陽の光が竹の葉で分断された石畳の道は、ひんやりとしていて葉の影が映っていて
 入り口まで辿り着くあいだに数え切れないほどの人たちとすれ違う。
 ぼくの視線の先に「これでお母さん、生き返るの?」と父親を見上げながらこちらに向かって歩いてくる青いショートパンツの小さな女の子がいた。
 そしてすれ違いざまにその子は「わたし、早くおかあさんの作ったカレーが食べたい。だってお父さんの作ったのはなにか違うんだもん」と言った。
 このあと、父親がこの子にどんな顔で何を言ったのかはわからないけど、ぼくも凛の作ったきんぴらごぼうが恋しくなった。

                         *

 市役所の中は老若男女ありとあらゆる年代が虫かごの中の虫たちのようにぐちゃぐちゃと入り混じっていて、冷房が少し弱く効いていたことを差し引いても空気は重たく淀んでいた。少し吐き気がした。
「蘇生の手続きでお越しの方は、番号札を受け取りお手持ちの番号が呼ばれるまでしばらくお待ちください」
 眼鏡をかけた男性役員がクリーム色のYシャツの袖を捲くりながら言った。
 そしてぼくは人ごみを掻き分けて、受付の脇に置かれたティッシュ箱のような機械から番号札の紙を抜き取り入り口付近で順番を待つことにした。
 ぼくの番号は161。受付の上の電光掲示板の赤いデジタル数字は53。
 気が狂いそうになった。
 ぼくはショルダーバックから読みかけの本を取り出した。
 昨日、真希が夜に電話をかけてきて「本とか持って行ったほうがいいわよ。絶対待つはずだから」と忠告してくれたのだ。
 ぼくは真希に感謝をしながら、しおりを挟んだ部分に指を入れて本を開いた。
 入り口では休むことなく自動ドアが開閉を繰り返していて、誰かが入り誰かが出た。
 ひどく落ち着かなかったけれど、それは逆にここが常に新鮮な空気の出し入れを行っている場所ということを意味していて
 そのドアが開くたびに、ぼくは文章を目で追いながら意味もなく深呼吸をした。

                         *

 一時間半待ったわりに手続きは簡単なもので、すぐに終わった。
 受付では太ったおばさんが「身分証」と無愛想に言った。
 ぼくはバッグから慌てて保険証を取り出して、おばさんにそれを見せる。
 彼女はチラッと目を通して、次に「これ書いて」と忙しそうに真っ白い書類を差し出した。
 住所・氏名・年齢・血液型・電話番号を書きながらおばさんに「大変ですね」と言った。
「これが今日から2週間続くんだと思うと、悲しくなるわ」
 おばさんが「確実に痩せるわね」と言ったのと、ぼくが書類を書き終わるのはほぼ同時だった。
「じゃぁ最後に、あなたの血縁者か配偶者の名前と血液型と死因を、思い出せる範囲で出来るだけ詳しく書いて」と忙しそうに今度は黄色い書類を差し出した。
 ぼくは凛の名前と血液型を書く。
 そして最後の死因の項でボールペンを這わせるのを止めて、凛が死んだときのことを思い出していた。
 もしかしたら思い出すことすらしていなかったのかもしれない。
 凛の死は昨日のことのようにはっきりとした輪郭で背後霊みたいに常にぼくの背中につきまとっていたのだから。

 忘れもしない一年前の2030年、12月16日の月曜日。凛が死んだ日。

 あの日の朝は普段と何も変わらない、いつも通りの朝だった。
 いつもと違うことといえば、ぼくの寝癖がいつもより激しくついていたことだけで
「わ。今日は一段とすごい寝癖だよ」
 朝起きてキッチンへ行くと、小さな白い器の中で卵をかき混ぜながら凛は笑った。
 ぼくは目をこすりながら洗面所へ行き、鏡の中の自分を見て「わ」と声をあげる。
 髪が四方八方、色々な方向に向いていた。

 ぼくの髪はどういうわけか昔から寝癖がつきやすかった。頭全体にまんべんなくついている感じで
 寝ている間に地球と一緒にゆっくりと回っているのかもしれないと考えなければ説明のしようがない寝癖だった。

「すごいね」
 感嘆の声をあげながらキッチンへ戻ると、テーブルには麻のランチョンマットの上にトーストと玉子焼きと紅茶が並んでいた。
「どうやって眠ればそうゆう寝癖がつくのかな?」
 凛はぼくの前に座り新種の植物でも見るように寝癖頭を不思議そうに覗きこんだ。
「ガスバス爆発っていう早口言葉あるでしょ? それを思い出したよ」
「違うよ」と凛は笑って「バスガス爆発」と正す。
「そうだったっけ?」
 そう言いながら紅茶を啜ると、ミルクの中にふんわりと黒蜜の香りがして優しい味がした。
「相変わらずおいしいね、これ」
「和風紅茶」
 凛はそう名づけて毎朝それを作ってくれたけれど、実のところ何が和風なのかさっぱりわからなかった。
「雰囲気だよ」と凛は言った。

                          *  

 ぼくらは部屋の掃除を一通り終えてから散歩に出かけた。
 外はどんよりと曇っていて冷たい空気が手や頬や耳に刺さる感じがした。
 ぼくは毛皮のフードのついたコートを着てニット帽をかぶり凛から借りたマフラーを首に巻いた。
 凛は茶色と白のストライプ柄の小さなハンドバックを持ち、白いダッフルコートを着た。
「雪が降るよ」と空を見上げて凛が言ったので、雪が降ると思った。
 彼女は空気の違いを感じ取るのが上手だった。
 晴れと雨と雪の微妙な空気の違いを読み取ることが出来るのだ。
 それはテレビの天気予報より正確で
「今日は晴れ。一日中良いお天気が続くでしょう」と気象予報士の人が笑顔で言って、
 画面に「降水確率0%」と出ても、凛が「今日は降るよ」と言えばぼくは傘を持って仕事へ出かけた。
 そういうときは必ず晴樹に「おまえ、天気予報見てきたのか?外はこんなに晴れてるんだぜ」と笑われることになるんだけれど
 仕事が終わる頃には窓の外でぽつぽつ降っている雨に、今度はぼくが晴樹ににやりと笑いかけることになる。

                          *  

 歩き始めていたこともあって傘は取りに戻らず、そのまま散歩をすることにした。
 いつものようにぼくが凛の少し前を歩き、凛はその少し後ろを歩いた。
「あ、静くん」
 ぼくは振り返った。
「駅前の雑貨屋さんに行きたいんだけど」

 例えば、このときぼくが雑貨屋へ行くことをやめていれば、凛は死なずに済んだのかもしれない。
 でもぼくと凛は雑貨屋を目指す。
 断る理由も無かったし、突然この日々が崩れていくなんて想像出来るはずもなかったから。

 駅前の雑貨屋へと続く道を歩いていると凛の予報どおり雪が降り始めてきて、
 幼い頃、誰かが「雪は雲の上から神様がフケを落としているんだ」と言っていたのを思い出した。
 ぼくと凛は立ち止まり、空から生まれ舞うその雪を眺めていた。
 大切な人と見れば、例えこれが本当に神様のフケだとしてもロマンチックだ。
 ぼくは白い息を吐きながらそう思っていると、歩行者専用の信号が急かすように点滅し始めた。
 ここの信号はやたらと待ち時間が長い。
 もう反対側の道沿いに雑貨屋は見えていたのにここで待つのは嫌だなと思った。
 そしてそう思った瞬間に「凛、渡っちゃおう」とぼくは走り出していた。
 「早く、凛!」ぼくが走りながら横断歩道の上で振り返り手招きをすると
 凛は点滅する信号を見てから、ぼくに目をやり「うん」と頷き戸惑いながら走り出した。
 車専用の信号機も黄色に変わる。
 そして凛が横断歩道を5歩進んだ辺りで、白い乗用車がぼくたちと同じように黄色になった信号に急かされながらかなりの速度で左折してきた。
 凛は横断歩道の上で驚いて立ち止まり、車は大きく長くクラクションを鳴らした。
 その音に歩道を歩いていた人たちは驚いて足を止めて凛のほうに視線をやる。
 凛は耳を押さえ、ぎゅっと目を閉じた。
 甲高いブレーキ音のあとに鈍い音と、少し時間差があってから何かが道に落ちる鈍い音がした。
 ぼくは今、目の前で起こったことを頭で整理できずにいた。
 映像では処理できていたんだけれど、情報が脳に行き届かない。
 凛は歩道に飛ばされていて、彼女の傍らにはハンドバックの中身が無造作に散らばっていた
 車はタイヤの磨り減った跡を残し、その30メートル先で停車した。
 そしてこのときやっとぼくの脳に凛が轢かれたという情報が行き届く。
「……凛?」
 赤に変わった横断歩道を逆流していくぼくに向かって何台かの車がクラクションを鳴らす。
 それでもぼくは横たわる凛の元へ戸惑いながら走っていく。
「凛?」
 ぼくと凛の周りをざわめきと通行人が囲んだ。
 凛は頭からとくとくと血を流し、髪にはどろっとしたそれと細かな砂利がへばりついていて、ぼくがいくら「凛!」と言って彼女の上体を起こして頬を叩いても凛は人形のように首をぐったりさせたまま返事をしなかった。
「誰か、救急車を呼んでください」
 ぼくは凛の頭の傷口を手で押さえながら、通行人に向かって叫んだ。
 指の間から生暖かく赤黒い血がにじんでくる。
「誰か!」ぼくは叫び続けた。「救急車を呼んでください!」
 手は大きく震えていて、その震えと合わせるように凛は逆らうことなく揺れた。

                           *

 やがて1台の救急車が到着した。
「もう、大丈夫だからね。凛」
 彼女の唇は紫色に変色していて、顔は青白くなっていた。
 救急車から隊員の人が降りてきて、「どいてください」とぼくを押しのけ、凛を抱き抱える。
 凛のコートは血で真っ赤になり、その上に雪がひらりひらりと舞い落ちて、すぐに溶けた。
 ぼくは溢れてくる涙を拭い「夫です」と立ち上がり、救急隊員に促されて救急車に乗り込んだ。
 そして後ろのドアは大きな音を立てて閉められ、救急車はサイレンを鳴らし走り出した。

                           *

 シュコー。シュコー。という酸素マスクの音が聞こえる。
 車内では慌しく専門用語が飛び交っていて、無線で逐一凛の状況を病院へ説明していた。
 道に叩きつけられたときに出来ただろう頭部の「ノ」の字の傷にはガーゼがあてがわれたが、それはすぐに赤く染まってしまった。
 ぼくは真っ青な顔をした凛の冷たい手を握った。
 ピッピッピッという規則的なリズム。酸素マスクが空気を送る音。
 内側から聞こえる救急車のサイレン。暗号のような救急隊員の言葉。
 その中に小さな「……せ……」という声が聞こえた。
 血の気の引いた彼女の唇が微かに動いている。
「……せい……くん……」
「凛?」
 ぼくが慌てて彼女の口元に耳を寄せると、さぁぁぁっと周りの音がフェイドアウトしていく感覚があって、
 そこには凛とぼくが交わす言葉だけが黒い画用紙に落とした白い絵の具のように残った。
「こわい」
 凛のその弱々しい言葉は、酸素マスクを小さく白く曇らせた。
「大丈夫だから」
「……わたし……しぬ?……」
「死なない。絶対に死なないよ、死ぬわけないよ」
「……ほんと?……」
「ほんと」
凛は「……よかった」と言って弱くぼくの手を握り返し、青白い頬に涙を滑らせ微笑んだ。

 そしてこれが、ぼくの見た最期の凛の笑顔になった。

 シュコー。シュコー。
 再び辺りの音が戻ってくると、慌しいサイレンの音がピタリと止まりすぐに後ろのドアが開いた。
 凛は滑車ベッドでそのまま運ばれていく。
 ぼくはそれに寄り添うように病院へと入り、看護婦に「ここで」と待合室で待たされた。
 待合室では悠々と時間が流れていた。
 設置されたテレビから流れるニュースを無表情で見つめる人や、
 点滴の柱を支えに歩いていく老人。薬を処方してもらっている若い女性。
 磨かれた床をこつこつと鳴らし歩く紺のカーディガンを着た看護婦。
 おそらく日常通りの風景。
 ぼくはそこで別の世界から来た住人のように立ち尽くしたまま、白い扉の中へと運び込まれていく凛を見送った。
 視線の向こうで手術中というプレートが赤く灯る。
 ぼくは急に怖くなって震える体をざらざらの壁にもたれ、ずるりとそこに座り込み頭を抱えた。

                           *

 何時間かが経ち手術室から静かに歩いてきた医者は、ぼくの前に立ち、首を振った。
「……なんですか、それ」
 医者は「奥様は、亡くなられました」と目をつぶり「大変残念でした。打ちどころが悪かった」と被っていた白い帽子を脱ぎ、ぼくに告げた。
 その医者はこうゆう状況にまるで慣れていて、そしてこの病院や医者にとって凛の死は多くの死の中のひとつにすぎなかった。
 ぼくにはそれがたまらなく嫌でエゴ以外の何者でもないけれど、ぼくがそう思っているように医者にも凛を特別な人間として見て欲しかった。
 ぼくは口の端っこを軽く持ち上げ「なんでですか?」と息を漏らして弱々しく笑った。
 凛はさっきまでぼくのすぐ後ろを歩いていた。
 そしてこれからも一緒に歩き続けていくと思っていたし、それが当たり前だと思っていた。
「嘘でしょう?」ぼくは医者の肩を掴んだ。「嘘でしょう? ねぇ」
 医者は何も答えない。
「こんなとこに立ってないで早く凛の手術を続けてください!」
 病院にぼくの声が響き、行き場を無くした怒りが虚しく漂う。
「手術を続けろ!」
 そう叫ぶと何人かの医者と研修医らしき人たちが「病院ですので、静かにお願いします」とぼくを取り押さえた。
「凛を助けてください!」
 医者は何も答えない。
「もう助からないんですか?」とぼくは涙を拭きながら聞いた。
 医者は黙って頷く。 
 僕は病院の冷たい廊下に「助けてあげてください、凛を」と泣き崩れた。

 別れもまた、呼び鈴や電話の呼び出し音のように唐突だ。

 凛は死んだ。

                           *

「じゃぁこれでお願いします」ぼくは受付のおばさんに書類を手渡した。
「じゃ、あとはこっちでやっておくので八月一日の蘇生法施行の日を待っていてください」
「待っているだけでいいんですか?」
「死人が勝手に帰ってくるから」とおばさんは無愛想に言った。

                           *

 季節は本格的な夏へと移り変わり開け放たれた窓の外では風鈴が涼しげに揺れ、アパートの窓からは夏の強い日差しが迷い込み部屋の温度を上昇させた。

 壁にかけられたカレンダーが七月のままになっていたので、ぼくはそれを丁寧に破く。
 新しく出てきた八月のカレンダーの上半分にはこんがりとしたキツネ色の砂浜に赤と白のパラソルが刺さっていて、その下でブロンドの髪をかきあげて海を見つめる赤いビキニを着たスタイルの良い外国人女性の写真が載せられていた。
 下半分には大きくAugustと書かれていて、1から31までの数字が並べられている。
 ぼくは1の数字にそっと触れ指でなぞった。

 今日は八月一日。
 死人が蘇生する日。


 ♯1話    お家へ帰ろう


 気がつくと私は私が轢かれた横断歩道に茶色い血がべっとりとついたコートを着て立っていた。
 前からずっとここにいた気もするし、ここにいなかったという気もした。
 空は夜と夕方の真ん中とでも言うような、どっちつかずの薄紫色で、飛行機がその空に薄い雲で線を引き、電信柱ではアブラゼミとヒグラシが鳴いていた。
 それらを見て、聞いて、私は「あれ?夏だ」と思った。
 私が轢かれたのは冬で、夏ではなかったから。時間が頭の中で結びつかない。

 例えば、列車に乗っていてトンネルをくぐる前は夏だった。
 窓から見える景色は青々としていて雄大な田園の細道で向日葵が太陽に向かって揺れている。
 白いランニングシャツを着た男の子と麦藁帽子の女の子がザリガニを捕まえているのが見える。
 やがて列車はトンネルへ入った。
 窓の外は夜のように真っ暗で、車輪と線路が鳴らす一定のリズムだけがこもった空気の中に響く。
 長い間、列車は暗闇の中をまっすぐ進んだ。
 そして何かから解放されたように列車が汽笛を鳴らし、トンネルを出ると
窓の外では雪が降っていて、さっきまで青々していたはずの草木は葉を落とし、辺りは白一色の雪景色に変わっていた。

 そんなふうに私の中で暗闇の中にいる時間というものがすっぽりと抜け落ちていて、
 それが私を困惑させていた。

「ずっと寝ていたとか!」
 そんなわけないけど、今はそれがいちばん納得のいく説明のような気がした。
 もしくは幽霊になった、とか?
 だとしたら私はこの世に未練を残してきたんだな、きっと。だから幽霊になっちゃったんだ。
「そういえば、静くんにお別れ言ってなかったもんね」
 でも、足あるしなあ。
「何がなんだかわかんないよ」
 夏に真冬のコートを着てぶつぶつと独り言を言う私を黒い日傘をさしたおばさんが眉を細めてちらりと見て、通り過ぎていく。
 ここにいてもしょうがないし、とりあえず私の未練のところに行こうかな。
 恥ずかしさで顔が赤くなるのを感じながら、私は歩き慣れた帰り道に足を踏み出した。
「お家へ帰ろう」
 それにしても暑い。


 第5話     再会 


 ぼくはリビングのソファに座り、テレビの上に置かれた置時計をちらりと見た。
 こち、こち、と規則正しく秒針が数字の上を歩いていく。
 時刻は午後6時を少し過ぎたところで、窓の外で夏空は夕焼けを広げ、少し急ぎ足でまだ白い三日月を浮かべた。
 キッチンでは流し台に置かれた鍋の上に水が垂れる音がした。
 ぼくはそれを合図にしたかのように立ち上がり、何度もそうしたように受話器を取り市役所へ電話をかけた。
 今ではもう電話番号を暗記していて、ぼくはそれを恐ろしい速さで押せるようになっていた。
三回のコール音のあと「ただいま電話が繋がりにくくなっております。お手数ですが、しばらく経ってからもう一度おかけ直しください」と機械的な女性のアナウンスが流れた。
 ぼくは受話器を置き、頬をさすってため息をついた。
 凛が帰ってこない。
 何か手続きが間違っていただろうか?
 そう思い始めると、些細なことだけれどフリガナをひらがなで書いていたとか、住所や電話番号を書いたときに、6が0に見えたとか、7が1に見えたとか、あの日書いた書類の全てが不安になった。
 自分の字が汚いからだ、とすら思った。

 そもそもぼくはあの手続きの日に、もっとちゃんと受付のおばさんに詳しいことを聞いておくべきだったのだ。
 おばさんは「死人が勝手に帰ってくる」と言っていた。
 あのときのぼくは「そうか、勝手に帰ってくるのか」と素直にそう思ったんだけれど、
“どこに、何時頃、どうやって”帰ってくるのか、そんなことを今さらながら疑問に思い始めていた。
「凛は死人なわけで、言い換えてみれば幽霊なんだよ。壁をすり抜けて帰ってくるとか」
 そして見た壁はいつものように白く、何の音沙汰もない。
「SF映画の未来から来た使者みたいに、頭の先からつまさきまで、ゆっくりと自分を形作りながら出てくるとか」
 ぼくはなんだか馬鹿馬鹿しくなって、ふぅ、と溜息をついてもう一度受話器を取って市役所に電話をかけた。
 三回のコールのあとに聞こえたのはやはり女性のアナウンスだった。
 ぼくは諦めて「切」のボタンを押して受話器を置き、そして昼に真希からかかってきた電話のことを思い出していた。

                           *

「あ。静?」
「なんだ、真希か」ぼくはため息を吐きながら「どうしたの?」と聞いた。
「なにため息ついてんのよ。凛、帰ってきた? なんかまだ帰ってきてなさそうだね」
「なんでわかったの?」
「ため息ついてたから」
 ぼくは壁に掛けられた時計を見ながら「てっきり午前中には帰ってくると思っていたんだけど、その気配すらないよ」と言った。
 真希は「大丈夫よ、きっと帰ってくるから」と言って受話器の向こうで笑った。
「なんでわかるの?」
「わからないわよ。でもこうゆうときは大丈夫としか言えないでしょ?」

                           *

「大丈夫じゃないよ、全然」
 不貞腐れたように呟いてソファーに座りテレビをつけると国営放送のチャンネルでは蘇生法についてのニュースが流されていた
 都会の夜景をバックにしたスタジオで七三分けのキャスターが「こちらのVTRをごらんください」と言うと、腰の曲がった老婆が、同じく腰の曲がった老人の死人と再会をしている映像が流れ、「続々と蘇生始まる」というテロップが挿入された。
 満月の夜にウミガメの産卵の始まりを伝えるニュースみたいだった。
「今日、蘇生法に基づいた死人の蘇生が開始されました。各地では続々と死人との再会が始まっており、生き人は久しぶりの死人との対面を果たしております。このニュースは7時からのトピックのコーナーで詳しくお伝えします」
 そしてキャスターが「続いてのニュースです」と言ったのと同時くらいに玄関のチャイムが鳴った。
「凛?」
 ぼくは慌ててテレビを消して玄関へ行き、冷たい扉の覗き穴から外の様子を伺った。
 そこには誰も立っていない。
 チェーンロックをはずしてから鍵を開けて、扉を開ける。
 でもやはりそこには誰もいない。
 いたずら?と思いながら扉を閉めようとすると、その扉の陰から凛が「わ!」と言いながら出てきた。
 ぼくは驚いて「わ!」と声をあげてしまった。
 それを見て凛はくすくす笑って「こんばんは」と言った。
「こんばんは」
 肩まで伸びたさらさらの黒い髪、白い肌、小さくて桜色の唇、華奢な体、ぺしゃんこの胸。
 そこにいるのは紛れもなく凛だった。
 死ぬ前とは何も変わっていない。むしろ死ぬ前より健康的に見えるくらい。
 ぼくはばくばくと鳴っている心臓に手を当てて「久しぶり」と言った。
「久しぶり」と凛も前髪を整えながら答える。
 なんだか照れがあってぼくはもう一度「こんばんは」と言った。
 凛も「こんばんは」と繰り返す。
 そして数秒の沈黙があってから彼女は「ねぇ、驚かないの?」と少し表情を曇らせ、うつむいた。
「驚いたよ、充分。僕は大きな音が苦手なんだ、猫みたいに」
 そのことじゃなくて、と凛は首を振った。
「私、死んじゃったんだよ。去年の12月に」
 ぼくは黙って頷いた。
「それなのにここにいるって変な話でしょ?」
「普通に考えたら、変かも」
「でしょ? でね、私、たぶん幽霊なんだよ。飛べないし、透けてもいないし、青白くもないけど幽霊だと思うの。だってそうでも思わなきゃ説明がつかないし、納得もいかないの」
 そして凛は、気がついたら轢かれたはずの横断歩道の脇に立っていたことを話し、寂しそうに「成仏しに来たの。静くんは私の残した未練だから」と言った。
「大丈夫」とぼくは微笑む。「凛は幽霊じゃないよ。幽霊かもしれないけれど幽霊じゃないんだ」
「どういうこと?」
「とりあえず中に入ったら?」
ぼくは玄関の扉を背で押さえ、凛を向かい入れた。
「……おじゃまします」
「あのさ、ここは凛の家だよ」

                           *

 凛は部屋に上がるとすぐにコートを脱いで「ちょっと待っててね、着替えるから」と言った。「真冬の服じゃさすがにちょっとね」
「目立ったでしょ?」とぼくは聞いた。
凛は箪笥の中から黄色いTシャツと黒い七分丈のジャージパンツを引っ張り出しながら「すごく」と答える。
 そして取り出したTシャツを胸にあてながら「そっち向いてて」と言った。
 ぼくは「ごめん」と慌てて後ろを向いた。

                           *

 着替え終えた凛をソファーに座らせて、特集で放送された蘇生についてのニュースを見せた。
 ぼくが「凛は幽霊じゃない」と説明するより、こうしてテレビのキャスターに説明してもらうほうがよっぽど合理的で、彼女がこの状況を理解する最短距離だと思ったからだ。
 番組内では、藤原教授について、蘇生法が執行されるまでの動き、そして死人についてこと細かに詳しく説明されていて、それはまるで死人向けに発信されているようだった。
「生前に病気を患っていた死人は、その病気が継続されてしまうという発表もありましたが?」
「はい。そのとおりです。それについて今は研究段階ですので、数年後には完璧な死人の蘇生を行えるようになると思います」
 まだ続く藤原教授のインタビューを見ながら、凛は「つまりこういう事ね」と確かめるように言った。
「私は幽霊じゃなくて蘇生法に基づいて生き返ったシビト」
「そうだね」
「なんか変な感じ。生きているときと全然変わらないよ」
 ぼくが凛の胸に手を当てると確かに心臓の鼓動を感じることが出来たし、手の甲で頬に触れると彼女の熱を感じることができた。
 凛が言うように本当に生き人と変わり無かった。

                         *

 その日は二人の再会を祝いながら11時頃に床についた。
 凛が生きていた頃からそうしていたようにリビングのテーブルを動かして、空いたスペースに5cm話して布団を二枚並べた。
「私が死んでからどのくらい経ってるの?」と天井を夕焼け色に染める小玉の電球を見ながら凛は呟いた。
「もう半年以上は経ってる」
 彼女のすぐ横で寝ていると懐かしい匂いがした。
 柔らかくて優しい石鹸の匂い。
 編み戸の外では夏の虫が羽根を震わせて小さく細く鳴いている声が聞こえた。
 寝苦しい夜だったけれど、ときどき吹く夜風と窓際でちりんと揺れる風鈴と、その虫の声が微かではあったけれど体感温度を下げてくれた。
「静くん」と凛が呟いた。
「私はこうして寝ることを久しぶりには感じないんだ。私にとってあの事故の日は昨日の出来事のような気がする。目を覚ましたら今日になっていたような、そんな感じ」
「ぼくは久しぶりだよ。凛がいなくなってからはいつもソファーで寝ていたしね」
「そうなの?」彼女は僕のほうに体を向けて驚きの声をあげた。
「布団を敷くどころじゃなかったから」
「私、大切にされてるね」
「そうだね」
 そして凛は笑顔をうっすらと残したまま「もう寝るね」と掛け布団を鼻の辺りまで引き上げてぼくの布団の中に右手を入れた。おそらく今、彼女の顔は真っ赤になっているだろう。
 ぼくは左手で彼女の細い指をそっと握った。
「また明日」
 ぼくもそれに答えるように「また明日」と言った。

                         *

 こうしてこの日、ぼくらは再会した。
 それはとても淡白で、まるで妻が長い旅行から帰ってきて「やぁ久しぶりだね」と言うような潔さがあったけれど、その髪に、肌に、唇に、胸に、匂いに、ハッカ飴の声に、凛を感じる。

「凛、もう寝た?」
「まだ起きてるよ」
「言い忘れたことがあったんだ」
「なに?」
「真希が電話欲しいって」
「言うのおそいよ」

 相変わらずロマンチックには程遠いぼくらだったけれど。

                         *

 翌朝目覚めると、凛はすでに起きていて朝食の準備をしていた。
「おはよう」とぼくは言った。
「おはよう。お目覚めはどう?」
「いいよ、とても。凛は?」
「とても」と赤いエプロンで手を拭きながら、凛は微笑む。
 ぼくはその笑顔を見届けてから洗面所に顔を洗いに行った。
 相変わらず寝癖は太陽のフレアのように立っていて、ぼくは鏡の中の自分に驚き「わ」と声をあげる。
 それを聞いてくすくすと笑っている凛の声がする。

 彼女が生きていた頃と何も変わらない朝だった。
 これからもこんな幸せが続いていくのだろうと疑うことなかった朝。
 そしてその幸せはある日、突然崩れていったけど、こうしてぼくらは二人で新しい朝を迎えている。
 それはとても不思議で「嘘だよ」と言われたほうが納得がいくものだった。
 ぼくは両手の器に張った水に顔を埋めた。
 額に、瞼の上に、頬に、水の冷たさを感じる。

                         *

 キッチンに戻り席につくと麻のランチョンマットのうえにタイミングよくピザトーストとポテトサラダとコンソメスープが出された。
「安心したよ。朝起きて凛がまたいなくなってたらどうしようかと思った」
 ぼくは久しぶりの凛との朝食に心を躍らせながら「いただきます」と手を合わせて、ポテトサラダに添えられた瑞々しいレタスをフォークでつついて口へ運んだ。
「私も朝起きて今度は冬になっていたらどうしようって思った」
 冗談半分、本気半分で言った彼女は慣れた手つきで食器棚から白いコーヒーカップを取って、そこに紅茶のティーバックと黒蜜と牛乳と、最後に沸騰した薬缶の湯を注いだ。
 彼女はこの家に半年間もいなかったわけだけれど、生活には何の支障もないようだった。
 一度死んだ人間は半年間何もしなくても、再び生きようとすればすんなりと元の生活に溶け込んでいける。
 そんな哲学めいたことを考えているとぼくのまえにティーカップが、ことん、と置かれた。
「和風紅茶のできあがり」
「懐かしいね」
 ぼくは久しぶりに凛の和風紅茶を啜った。
 それは当たり前だけれど凛の作った和風紅茶だった。
 ぼくが作ると黒蜜が主役になったり牛乳が主役になったり、もはや紅茶とも呼べない個の自己主張が強い飲み物になってしまうんだけれど、凛の作るそれは紅茶、黒蜜、牛乳、すべてが絶妙なバランスを取りあいひとつの飲み物になった。
「おいしいよ」
 凛はぼくの向かいに座って「あたりまえでしょ」と誇らしげに言った。
「ほんとうにおいしい」
 夏の朝には少し熱すぎることを除けば。

                         *

 ピザトーストを半分食べ終えた頃「静、起きてるかー?」と窓の外から聞き慣れた声がした。
「起きてなくても起きろー」
 凛が「めちゃくちゃだね」と華奢な肩を小さく上下に揺らして笑いながら
「顔、出してあげなよ」と窓を指差した「晴樹くんでしょ?」
「うん。朝からあんなに元気なのは、蝉かチリ紙交換の車か晴樹くらいだから」
 食べかけのトーストを皿の上において、手についたパンのカスを掃ってから立ち上がった。

                         *       

 窓を開けると相変わらずアパートの庭には何も無かった。
 端っこのほうに丸い石垣で囲った野菜畑と大きな杉の木があるだけで、あとは学校のグラウンドのようにひび割れて乾いた土がごつごつと広がっている。
 その殺風景な庭で夏の陽を浴びながら晴樹は、砂漠に生えたサボテンのように立っていた。
「おはよう」とぼくは晴樹に向かって言った。
「よ。起きてたか?」
「起きてたよ」
「凛ちゃんは帰ってきた?」と晴樹が言うと、ぼくの横から凛がするりと顔を出し「晴樹くん」と手を振った。
「あ! 凛ちゃん。おかえり」と晴樹はでれでれと手を振り返す。
 晴樹はぼくが凛を紹介したときから、彼女に好意を寄せていた。
 ことあるごとに「なんで凛ちゃんは静なんかがいいんだろうな」と呟いていたし、
「俺と凛ちゃんはロミオとジュリエットだな。報われない恋なんだよ」とも言っていた。
 手を振る凛の横で「凛、晴樹は狼だからね」とぼくは忠告をしておいた。
「子やぎを食べるためなら石灰で手の色も変えるし、チョークを食べて声色も変えるんだから」
「私は晴樹くん好きだよ、面白いから。なんだかね、ピエロみたい」
 サボテン。狼。ロミオ。ピエロ。
 ずいぶんいろいろなものに形容されるな。
 そんなことになっているとは知らず、サボテン狼ロミオピエロ晴樹は「静、そろそろ行くぞー」と手招きをした。
「どこへ?」
「職場だよ。タムラに決まってんだろ」
 ぼくは凛を横目で見ながら慌てて口の前で「しーっ」と人差し指を立てた。
 凛にはぼくが床屋を休んでいたことを一切、話していなかったからだ。
 もしもぼくが「凛が死んでから仕事は休んでいた」なんて言ったら彼女は最大級の自責の念を感じて悲しむだろう。
「晴樹くん、わざわざ誘いに来てくれたんだね」と無邪気に言う彼女を見ると罪悪感を感じる。
 ぼくは「今、行くから。今、行くから」と小声で晴樹に言った。
「久しぶりなんだから、しっかり準備しろよ」
「久しぶり?」と凛が首を傾げる。
「ほら、晴樹と一緒にタムラに行くのは久しぶりってことだよ」
 我ながら上手く誤魔化せた。
「なるほどね」
 しかし晴樹はぼくの触れられたくないところへ向かって言葉のキャタピラーをがらがらと進ませていく。
「おまえがいないあいだ、色々あったぞ」
「晴樹くん、何を言ってるのかしら?」と凛が心配そうに眉をしかめて晴樹を見る。
「しばらく暑い日が続いたからね。それに晴樹は昔から勉強が苦手だったらしいから」
 ぼくが言い終わるとドンピシャリのタイミングで晴樹が「それにしても静。おまえ、すごい寝癖だな。ガスバス爆発って感じ」
 いつかのぼくと同じことを言った。
「静くんも勉強が苦手だったの?」
「とても、ね」

                         *

 ぼくは背中合わせになるような形で自転車の後ろに晴樹を乗せてタムラに向かった。
 もうすっかりと町は動き出していて、布団を干す音や、ゴミ収集車が燃えるゴミを潰している音が聞こえる。
 小学生の頃に感じた夏休みの朝の匂いと一緒だった。
 重いペダルを漕いでいるとすぐに額にじんわりと汗をかいた。
 遠くからは波の音が聞こえた。
「凛ちゃんって生きていた頃と何にも変わってないな」と背中越しに晴樹の声が聞こえる。
「ぼくも驚いたよ。もっと青白かったり、冷たかったりするのかなと思っていたんだけれど」
 ぼくはバランスを取るように自転車のハンドルを細かく右へ左へと動かしながら答えた。
「心臓だってちゃんと動いてるし、体温もちゃんとある」
「何にしても良かったよ、凛ちゃんが無事生き返ってさ。めでたく静も職場復帰だしな」
 タバコ吸っていい?と晴樹は胸ポケットから煙草の箱を取り出し、ぼくの返事を聞く前に一本取り出し、火をつけた。
「晴樹、ぼくは本当に職場復帰していいのかな?」
「なんでだよ」
 ぼくは凛の死と向き合うという理由でタムラを一度辞めた。
 それはとても自分勝手な理由で、しかしそうなることが自然だったように思う。
 でもそのことでぼくは店長と晴樹に謝っても謝りきれない迷惑をかけた。
 なのに、凛が生き返りました職場に戻らせてもらいます、では虫が良すぎる。
「馬鹿か」と晴樹が煙を吐き出しながら言った「そんなこと気にしてるのは、お前だけだ」
 自転車は長い下り坂に差しかかる。
「何が「迷惑かけた」だ。そう思われるほうが迷惑だね、俺は」
「ごめん」と口に出してから、その言葉の違和感に気がつく。
 ぼくは上手くはまらなかったその言葉を捨て、頭の中で何かしっくりくる言葉を探した。
 そしてそれはすぐに見つかる。
「ありがとう」
 晴樹は返事をする代わりにぼくの頭を手の甲で、こん、と叩いた。
 坂道を下り始めると夏の陽射しがきらきらと反射している海が見えた。
 波が白い線を作りながら穏やかに揺れている。
 はるか遠くの地平線は緩やかに曲線を描き、地球が丸いことを教えてくれた。
 そしてぼくは潮風を身に受ける。
 袖から入っていた風はシャツの背中をぱたぱたと鳴らし遊ぶ。
 空は高く青く透き通っていて真っ白い入道雲が浮かんでいる。
 ぼくのあたらしい日々が始まっていることを感じた。

                         *

 タムラはぼくが勤めていた9ヶ月前と何一つ変わっていなかった。
 壁に貼られた色あせたカットモデルのポスターも、黄色い綿が出てきている待合席の小豆色の椅子も本棚に置かれた漫画も雑誌も、窓際に置かれたアロエとコンシンネの鉢も、パーマ液と整髪料が交ざって鼻につく店内の匂いも。
 店長はタムラに入って来たぼくを見るなり鏡を拭いていた雑巾を放り投げて「瀬川くん!」と満面の笑顔を浮かべ、ぼくの手を握った。
「おかえり。元気だったかい?」
 ぼくは「ご迷惑おかけしました」と深く頭を下げた。
 店長はぼくの両肩を持って「いいんだよ、別に。ほら、顔を上げて」と言った。
「凛さんのほうは?」
「はい。無事に蘇生できました」
「そうか。良かった」と店長は頬にえくぼの筋を作って微笑む。
 ぼくは店長のことを思うと凛が帰ってきたことを嬉しそうに振舞うことは出来なかった。
 店長の奥さんは六年前に亡くなっていて、蘇生法の第三項目「人口増加を危惧し、死後五年までの死人を対応とする」から漏れ、蘇生することが叶わなかったはずだからだ。
 そんなぼくの考えを察して店長は言う。
「いや、僕のことはいいんだ。これはこれ。それはそれだよ」
 なぁ瀬川くん、と店長は話題を変えた。
「休んでいた9ヵ月分を取り戻すくらいの気持ちで働いてください」
そして彼は頬のひげを撫でながら「それで全てチャラだ」と笑った。

                         *

 今日最初のお客さんはぼくが担当することになった。
 久しぶりに持ったハサミは思ったより指にしっくりきて、体が覚えているってこういうことなんだな、と思った。
「今日はどのようにしますか?」と中年男性のお客さんの首元にタオルを巻いて、その上からシーツを被せる。
「このまま短くお願い」
「このまま短く、ですね」
 ぼくはそう確認してから人差し指と中指でこの男性の髪のだいたいの長さを計り、切る長さを決める。
 鏡越しに男性を見ると彼は週刊誌を手に取りながら、その表紙をしげしげ眺めていた。
 顔に出来た皺やしみをみると40代か50代だろうか。
 その年代にしては髪はまだしっかりと生え揃っていた。
 ぼくはお客さんの髪に霧吹きで水を吹きかけてゆっくりとハサミを入れた。

                        *

「シャンプーを終えると「ねぇ、俺さ、死人なんだよ」とお客さんは言った。
 ぼくは手のひらにミントブルーのヘアリキッドを2、3滴落としてから、
「そうなんですか?」と答えながら彼の頭を軽く叩き浸透させていく。
 爽快な匂いが一瞬、ぼくの鼻を通り過ぎていく。
「あれ? あまり驚いてないね」
「ぼくの妻も死人なんです」
「そうか、それじゃぁ驚かないか。俺はね、もう一度家族と過ごせると思うと嬉しくてしょうがないよ」
「お客さんの御家族も同じこと思っていると思いますよ」
 お客さんは照れたように「どうかな」と笑った。
「娘なんて嫌がってるかもしれないな、年頃だから」
「そんなことないですよ」
 仕上げにドライヤーを繋いで彼の頭に温風を当てると彼は気持ち良さそうに顔をしかめた。
「でもさ、俺は藤原教授に感謝してるんだ。あんただってそうだろ?」
「そうですね。あの人がいなければ、ぼくは凛と二度と会うことはなかったんだから」
 どちらかというとお客さんに言うのではなく、自分に確認するように言った。
 いつかの真希が藤原教授のニュースを見て言っていた言葉を思い出した。
(神様にでもなったつもりかしら)
 実際、蘇生法執行後の藤原教授の支持率は異様に高く、本当に神のように拝められていた。
 彼の研究所にはお祈りやお礼を言いに来る人があとを立たなかったし、
「藤原教授を名誉国民に。そして首相に」というスローガンのもと、駅前では連日、署名活動が行われていた。
 ぼくだって藤原教授が目の前を通り過ぎたら最大の敬意を感じると思う。

 しかし彼はやがてある事件で死ぬことになる。
 でもそれはもう少し後の話だけれど。


 第6話     舟木さん

   
 運命と言うのはたくさんの偶然の重なり。一本の線。
 例えば高校の頃ぼくが図書委員に入ったこと。そこで凛と話すきっかけを得たこと。
 真希や晴樹と出会ったこと。凛がこのアパートを選んだこと。
 ぼくの両親が結婚に反対して予定より遅い結婚になってしまったこと。
 こうやってあげるとキリがないけれど、これらは全て偶然の産物で
 その偶然を一本の線にしたものをぼくらは運命と呼ぶ。
 だとしたらこの日来た一本の電話もただの偶然のひとつに過ぎなかった。
 そしてそれはまた静かに繋がっていく。

                         *

 タムラの仕事を終えてアパートへ帰ると「おかえり」と凛の声がした。
 ぼくはひとつ息を吐いてから「ただいま」と言う。
 なんか、嬉しかった。

 手を洗ってキッチンの席に着くとテーブルの上には、こん、こん、こん、と茄子の漬物、豆腐の味噌汁、ブリの照り焼き、きんぴらごぼうが手際よく並べられていった。
「懐かしいね、きんぴら」と青い梅の花が描かれた小鉢を箸で、ぴん、と叩くと
 凛はぼくの対面の椅子に腰を下ろしながら「静くん、これ好きだもんね」と笑ってから「食べよっか」と言って手を合わせる。
 「いただきます」
 ぼくも手を合わせて「いただきます」と言ってから、まずきんぴらをつまんで味わいながら食べる。
 微かな胡麻の香りと泥臭いごぼうとにんじんの匂い。
「相変わらず割り箸を食べているみたいだね」とぼくは言った。
「あ!」と凛が箸を止めて茶碗を置く「馬鹿にしてるでしょ?」
「すごく褒めてるよ」
 本心だった。凛のきんぴらごぼうの最大の魅力はこの独特の食感にあると思う。
 ごぼうに火が通っていないんじゃないかと思うくらいの硬さで、口の中でこりこりこり、と音を立てる。噛んでいて気持ちがいい。それはぼくの味覚にとてもよく合った。
「だいたいさ、割り箸の食感ってこんなふうなの?」と凛が眉間に皺を寄せた。
「食べたことはないけど、炒めて味をつけたらこんな感じなんじゃないかな」
「もっとぐったりするわよ、きっと」
「そうかな?」
「そうだよ」

                         *

 夕食を食べ終えた頃、電話が鳴った。
「もしもし?」と言った声の主はぼくらの下の部屋に住んでいる舟木さんで、彼はこうしてたまに電話をくれる。
 でも直接来たほうが早いんじゃないか、と思うし窓から糸電話でも垂らした方が便利だ。 少なくても電話番号をプッシュする必要は無い。
 そう言うと彼は決まって「せっかく電話があるんだから使おうよ」と言う。
 そして今回もぼくと舟木さんは天井と床とを隔てて会話をする。
「もしもし、静くん? 静くんだよね?」
 舟木さんはいつもこうしてぼくがぼくであることに念を押す。
 一回、間違い電話をかけてしまったときにぼくが出たと思って延々と世間話をして恥をかいたらしい。
 それ以来、彼にとって間違い電話は凛の蛙ほどではないけれど小さなトラウマになっていた。
 ぼくはサッカー中継に目をやりながら「そうです、静です」と答える。
 画面の中では今まさにひいきにしているチームの選手がドリブルで相手ゴールエリアに進入しようとしているところだった。
「あ。今、何してた?」と言う舟木さんの声は、もうぼくの脳まで届かない。
 外で聞こえる車のエンジン音と同じようにぼくにとっては意味をもたないただの“音”だった。
「ドリブル……」と画面を見ながらぼくは呟く。
「なに?ドリブルしてるの?」舟木さんは驚いて声を荒げた「家だよね? 今」
 選手は巧みなフェイントで鮮やかに相手選手を一人交わす。
「聞いてる? もしもし?」
 凛も手をぎゅっと握り締めて画面の中の選手に無言のエールを送った。
 そしてその選手は二人を交わしたところで左足を高く振り上げて強烈なシュートを打つ。
 ボールはゆるやかなカーブを描きながら白いネットに突き刺さる。
ぼくと凛は顔を見合わせて「入ったー!」と両手を突き上げた。
「え? もしもし? 静くん? なに? どこに入ったの?」

                         *

「こんな時間に「来て」って何かな?」とアパートの階段を下りながら凛が振り返る。
「ちゃんと前を見て降りないとあぶないよ」
 舟木さんは電話で「今すぐ来て欲しい」と言った。
「いつものことだと思うよ」
 アパートの庭からは相変わらず夏の虫の声が聞こえて、もやもやと草と土の匂いがした。
「そうね。“いつものこと”だね」

                         *

 呼び鈴を鳴らすと「はい、はい、はい」と声がして、すぐに玄関が開いた。
 そして黒いジャージ姿の舟木さんは凛を見るなり無言のまま固まった。
 死んだはずなのにどうして?とでも言いたげな顔だった。
「蘇生法」とぼくは言った。
「……あぁそうか! だからか。いや、びっくりした。久しぶりだね、こんばんは」
 凛は笑顔で「こんばんは」と答える。
 「さ、さ、あがって、あがって」
 
 ぼくらは音楽の機材に埋もれている居間に通された。
 「ごめんね、散らかってて」
 そう言って舟木さんが押入れから座布団を二枚取り出して「どうぞ」とぼくらの前に敷くと埃が舞い上がりその細かい粒子が電気に照らされて海中のプランクトンのようにちらちらと舞った。
 そして彼は壁に立て掛けてあったギターを取りチューニングを始めながら「新曲が出来たんだ」と言った。
 いつものことだった。
 ぼくと凛は顔を見合わせて、くすっと笑う。
「何、笑ってるの?」と舟木さんは顔を上げてぼくらを見た。
「なんか、いいなぁ。そうゆうの。夫婦だなぁ」
「夫婦ですもん」正座をしている凛が笑うと、「そっか、そうだよな」と舟木さんも笑った。
「新曲が出来たんですか?」とぼくは場を締めるように改めて聞いた。
「そう、出来たんだ。聴いてくれるかな?」
「もちろん。聴かせてください」
 舟木さんはミュージシャン志望で、もう何十社もオーディションを受けているんだけれどそのたびに落選をしている。
 「今度の歌は自信作なんだ」という言葉どおり、彼の新曲は素晴らしいラブソングだった。
 この歌の主人公はフランスの路上でパンを売る青年。
 その青年がある日クロワッサンを買いに来た若い娘に恋をする。
 青年は彼女のために毎日、美味しいクロワッサン作りに励んだ。
 晴れの日も、雨の日も、風の日も、雪の日も。
 やがて最高のクロワッサンが出来たときに、若い娘は彼氏とそれを買いに来る。
 そんなどこか悲劇でどこか喜劇な物語をアコースティックギターの調べに乗せて、せつなく唄った。
 
 舟木さんの指がギターの第五弦をゆっくりとはじき終わると部屋には音の余韻がしばらく漂っていた。
 ぼくはそれを吸い込むように鼻で息を吸う。
「どう?」舟木さんはギターをもとあった位置に立てかけながら不安そうに聞いた。
「とてもいいですよ!」一気に息を吐きながら言った。
「メロディーがぼく好みで詞も良かったです」
「ありがとう。凛ちゃんはどうだった?」
「感動しました」凛は、ぐずっ、と鼻を啜る。
「この曲、こ、今度のオーディションでもやるんですか?」ぐずっ。
「うん。やろうと思ってる」
「いつですか?」とぼくは聞いた。
「あさって。稲荷神社祭りのオーディション。小さなオーディションだけどね」
 稲荷神社祭りはその名の通り海辺にある稲荷神社で催されるお祭りで、規模としては中くらいだけれど毎年たくさんの人で賑わう。
 そしてお祭りの開催中は境内に建てられた小さな特設ステージで手品や漫才や歌などの出し物が行われる。
 その出演者のオーディションを舟木さんは受けるらしい。
「絶対通りますよ」とぼくは言った。
 お祭りで唄うにはいささか哀しい曲ではあるけれど、もちろん彼には他の持ち歌もあるし何より彼の奏でるメロディーはシンプルで懐かしくて親しみやすい。
 幅広い年代が集まるお祭りには持って来いだと思う。
「でもこんな良い歌を唄うのに、なんでいつも落選なのかな?」と凛は言った。
「なんでかね」と舟木さんは二つのグラスにペットボトルの天然水を注いで、ぼくらの前に差し出す。
「こないだだって失礼な話があったよ。僕が名前を言ったとたんに面接官が「馬鹿にしてるのか?」って言うんだ」
「舟木さんの名前って舟木次郎?それのどこがいけないのかしら?」
「いや。舟木次郎だとインパクトがないだろ?だから芸名を考えていったんだ」
 ぼくは喉を湿らす程度にグラスの水を飲んでから「どんな?」と聞いた。
「雨空ピンタポント」
 長くはっきりとした沈黙が出来る。
 時計の音がこちこちと静寂を埋めるように鳴っている。
「ねぇ」と凛が言った。
「その名前でオーディションしたら100人中100人がギター漫談でもやるのかな?って思うわよ、きっと」
「そうかな?」と舟木さんは不思議そうに首を傾げる。
「もっと自分の名前に自信を持って平気ですよ」とぼくは言った。
 なにより舟木次郎という名前はもうすでに充分過ぎるほどのインパクトを含んでいた。
 
                         *

 部屋に戻る頃、時計は0時を回り日付は8月3日に変わっていた。
 庭の虫は人間に気を使っているのか、うるさかったその鳴き声をBGM程度のボリュームまで下げて夏の夜に静かに鳴いた。
 布団を敷きながら、遠くのほうで蛙が鳴いてる、と凛が言う。
 でもぼくには名前の知らない虫が羽根を震わせている音と波の音しか聞こえない。
 網戸が立てられた窓の外を見ると真ん丸の月が夜のてっぺんに浮かんでいる。
 いつものように布団はあえて離して敷かれた。
 くっつけて寝てもいいんだけれどお互いに言いようのない照れがあったし、ぼくらはくっつけるタイミングを計り損ねていた。
 布団の中で凛は「舟木さん、オーディション通るかな?」と言った。
 ぼくは電気から垂れ下がる紐を二回引っ張って小玉にする。部屋が心許ないオレンジに染まる。
「真っ暗でいいんじゃない?月が明るいから」
 凛にそう言われ、もう一回紐を引っ張って電気を消すと部屋は青白くなった。
「舟木さんなら通るよ、きっと」
「今度は本名で行くって言ってたしね」と凛が笑う。
 そして、ぼくらはゆっくりと眠りの中へと落ちていく。

 翌朝起きたら、離れ離れだったはずの布団がくっついていた。

                         *

 タムラが定休日の月曜日は凛が生きていた頃からそうであったように、午前中に散歩をしてそのまま一緒に買い物に行くことが決まりだ。
 それは夕食を作るのは妻の仕事、洗濯物を干すのは夫の仕事と決めている夫婦と同じで、それがぼくたち夫婦間のルールだった。
 だから凛が蘇生してから初めて迎えた月曜日も凛は白いワンピースを着て準備を整えた。
「凛は生前の生活習慣が体に染み付いてるね」ぼくはパンをかじりながら新聞を広げた。
 そこには「浮き彫りになる蘇生法の問題点」という見出しで記事が掲載されていた。
 最近、世間では死人への差別行為が問題になっている。
 町に出てしまえば生き人となんら変わりが無いので差別されることは少ないけれど被害を被ったのは主に死人の小・中・高の学生たちだった。
 当然彼らは蘇生したあとは学校へ通うことになる。
 つまりそれは自分を死人だと知っている人間、それも他人が多くいる場所に戻っていくということだ。
 だから死人の学生はいじめに合う傾向が多いという集計が出ていた。
 そのことについて藤原教授は「政府と一緒に解決に向けて全力を注ぐ」と当たり障りの無い声明を出したものの、一向に改善策は見つかっていなかった。

                         *

 真夏の外はぱりっと晴れていてすぐに額に汗をかいた。
 空にはもくもくとした入道雲がどっしりとかまえていて、その空の下をぼくらは並んで散歩した。
 散歩のあとの買い物は二枚の買い物袋がいっぱいになり、じゃんけんで負けたぼくはその袋を両手に持った。
「がんばれ、静くん!」ぼくの少し前をのんびり歩く凛が振り返る。
「すごく重たいよ、これ」
「いっぱい買ったもん」
「ちょっと持ってごらんよ」
「だめよ。そう言って私に持たせるつもりなんだから」
 ぼくは諦めて次の電信柱を探した。
 はるか遠くのほうにゆらゆらとそれは見える。
「こうゆう重さってさ、小学生の夏休み前にブルーのひきだしと朝顔を一生懸命持って帰ったときの重さに似てない?」息も切れ切れになりながら言った。
「夏休み近くなると授業も午前中で終わっちゃうから、いちばんお腹が空いているときに重いものを持たされるから結構きついのよね」
「今、何時?」と聞くと凛は左手にはめられた時計を見る。
「11時55分」
「いちばんお腹がすいているときだ」
 そして凛は突然立ち止まり「あ!」と言う。
「どうしたの?」
「テルさんのところに行こう!」
 ぼくは指の関節に食い込む袋を持ち直してから、やれやれ、と笑って頷いた。

                         *

 公園は蝉の鳴き声でいっぱいだったけれど、テルさんとぼくたち以外の人はいなかった。
 直射日光のいちばん強い時間帯にわざわざ外に出てくる人はいないのかもしれない。
 テルさんは麦藁帽子を被っていつものように赤いベンチでぼんやりと座り、攻撃的な日光にさらされながら膝の上の猫を撫でていた。
 公園の入り口で「テルさん」と呼んだぼくの声に反応して、彼はぴくっと身を揺らす。
 そして視線の先にぼくと凛を見つけると「おぉ」と言って水中で揺れる水草のようにゆらゆらと手を降った。
 凛がテルさんの前に立って「お久しぶりです」と少し照れながら言った。
「凛ちゃん、蘇生法で生き返ったのかい?」
「はい。生き返っちゃいました」
 そう言って凛がしゃがんで「君も久しぶりだね」と猫の背を撫でると、猫は面倒くさそうにあくびをした。
「可愛い麦藁帽子だね」とテルさんは凛を見ながら自分の頭を指差す。
 凛は麦藁帽子のつばを持って「可愛いのは麦藁帽子だけですか?」とふざけて笑う。
 テルさんも困ったような顔をして笑う。
「静くんも良かったねえ」
「はい、まぁ、良かったです、はい」
 少しだけ照れて、ぼくは「またコレクションが増えてますね」と話を逸らした。
「何か必要なものがあったら持っていくといい」
「ありがとうございます」
「凛ちゃん」とテルさんが言った。
「ん?」
「生き返ってよかったかい?」
「ええ、とても」
 その返事を聞いてテルさんはにこりと笑った。

                         *

 夜、「近くに寄ったついでにふらりと来たの」と真希がやってきた。
“ついで”のはずなのに真希はリボンのついたワインボトルをしっかりと持っていた。
 真希は玄関を開けたぼくにそれを渡しながら「凛はいる?」と部屋の中を覗きこんだ。
「うん。夕御飯を作ってるよ」
「今、いい? 夫婦水入らずは終わったかしら?」と真希は冷やかすように言って指でぼくの腹を突付く。
「おかげさまで」とぼくは笑ってからキッチンに向かって「凛」と呼んだ。
「真希が会いに来てくれたよ」
 するとキッチンで「真希!」と声がしてからエプロン姿のままの凛が玄関までばたばたと駆けてくる。
 凛と真希はこれが蘇生後はじめての再会になる。
「久しぶり」と真希は微笑みながら頬の横に手の平を広げる。
 凛は少し顔を赤らめながら「久しぶり」と言って前髪を整えて、真希に抱きついた。

                         *

 ぼくと真希はあの日一緒にシチューを食べたときと同じようにリビングのガラステーブルに向かい合って凛が夕食を作り終えるのをワインとブルーチーズをつまみながら待った。
 テレビをつけると名前の知らないモノクロ映画が放送されていて、ときおり映像がぶれるし音声は割れるし、かなり昔の映画のようだった。
「驚いた」とキッチンにいる凛を気にしながら真希は言った。
「生前と何も変わらないのね」
「うん。顔も声も体も温度も全て凛。仕草も生活習慣も生きていた頃と全て一緒だよ」
「たいしたもんだわ」
「なにが?」
 真希はぼくに顔を近づけて小声で言う。
「藤原 吉富。考えてみて、死んだ人を生き返らせてるのよ? それってある意味、生命に対する侮辱だと思わない?」
「じゃぁ真希は反蘇生派?」
「やめてよ。違うわ」と真希は顔の前で手をひらひらと振ってワインを飲んだ。
 反蘇生派というのは名前のとおり蘇生法に対してよく思っていない人たちのことだ。
 最近では藤原教授の研究所の前でデモ行進をしたり蘇生法の撤廃を呼びかける運動をしたりしている。
 彼らの言い分はまさに真希が言った「生命に対する侮辱」
 ある日のテレビ番組で「例えば生命は川だ」と反蘇生派のリーダーと名乗る人物は説いた。
「例えば生命は川だ。人は生まれ、生きて、死ぬ。そしてまた生まれ変わり、生きる。これは一種の人間の流れだ。しかし蘇生法により死の流れがなくなった。流れない川はどうなる?淀む。濁る。この世もやがて淀み、濁る日が来る。蘇生法の撤廃を!人間に再び流れを!」
 ぼくは彼らが間違ったことを言っているとは思っていなかった。
 だからと言って彼らの意見を認めることもなかった。
 蘇生法のおかげで喜んでいる人もいるし、逆に死人の差別問題のこともある。
「私は藤原 吉富に感謝してるよ。こうして凛と再会も出来たし静も元気になったしね」
 凛が「出来たよ」と言って料理をお盆に乗せて運んできた。
「静」と真希が言った「今度はきちんと凛を守りなさいよ」
 ぼくは真希を見て頷いた。

 そしてその3日後、電話がかかってきた。
「もしもし。静くん? 静くんだよね?」










 第7話     祭日和


「無事、オーディションに受かったんだ!ぜひ僕に唄って欲しいって!」
 舟木さんは稲荷神社祭りのオーディションに合格した。
 もちろん雨空ピンタポントではなく舟木次郎として。
「8月13日、見にきてよ!」と受話器の向こうの舟木さんの弾む声を聞きながら、やっぱりあの芸名がいけなかったんだな、とぼくは妙な納得をしていた。
「でも直接言いに来てくれれば良かったのに。おめでたいことなんですから」
「電話があるんだから電話を使おうよ」
 相変わらず電話が好きみたいだ。舟木さんは。

                           *

 当日の朝はぱりっと晴れていて、祭日和とでも言うべきいい天気だった。
 相変わらず蝉は早起きをして鳴いていたし、ラジオ体操帰りの子どもたちが首からカードをぶら下げて走っていった。
 ぼくはいつものようにフレアの寝癖頭を直してから凛の和風紅茶を飲む。
 そしてピザトーストを頬張りTVをつけ、新聞を広げる。
 画面の中で黒のノースリーブに白のロングスカートを履いた気象予報士が
「今日は全国的に30℃を越える真夏日になるでしょう」とモニターに表示された日本列島に手を沿える。
 蘇生法が施行されてからの新聞には、どこかに必ず死人に関する記事が載っていた。
 今日の一面は死人が反蘇生派の生き人に殺されるというニュースだった。
「凛、この記事見た?」とぼくは窓辺で黙って空を見ている凛に聞いた。
 凛は振り返って「見たよ」と言う。
「死人って嫌われてるのね」
「そんなことないよ」
「死人がいじめに遭っているとか殺されたとか最近そんなニュースばっかり。そうゆうの聞くのちょっと辛いよ。なんだか否定されているみたい」
「蘇生法は国が認めているんだ。気にすることはないよ」
 ぼくは新聞を四つ折りにして畳んで「それより今日は稲荷神社祭りだよ。舟木さん、もう起きて張り切っているよ。きっと」と話題を変えた。
 下の階からアコースティックギターの音が聞こえてくる。
「ほら、チューニングしてる」と床を指差して言うと、凛は「ほんとだ」と悲しそうに微笑んだ。
 このときの凛の悲しそうな表情は死人のニュースに対するものだと思っていた。
 でもそれはもっと別の、もっと近くの悲しみに向けられていたことをぼくは稲荷神社祭りで知ることになる。

                           *

 ぼくと凛は7時に稲荷神社の前で待ち合わせることにした。
 今日一日タムラには浴衣姿の女性がやってきて「髪を結って欲しい」というオーダーがいくつかあった。
 そういうお客さんには鼻の下を伸ばした晴樹が「いやぁ、なんて綺麗な髪!」と丁寧に対応した。
 ぼくはそんな晴樹を見ながら「あれじゃセクハラだよ」とそっと店長の隣で呟いた。
「でも晴樹くんがいて助かったのは事実だよ。僕はどうもああゆう細かな仕事は苦手だ」と店長は言った。
「晴樹は専門学校の頃から女性相手の仕事は得意でしたから」
 すると「君たち、なにを無駄話してんだ!手伝いなさいよ!」晴樹はそう言って手招きをした。
「今日の店長は僕じゃなくて晴樹くんだね」
 店長とぼくは苦笑いをして顔を見合わせた。

                           *

 仕事が終わるとぼくは自転車にまたがりそのままの足で稲荷神社へと急いだ。
「稲荷神社祭りに行く」と言ったら晴樹は「凛ちゃんと二人でデートか」とぶつぶつ言っていたけれど、店長は「楽しんでおいで」と言ってくれた。
 腕時計の針は待ち合わせの7時よりまだ10分も早い。
 タムラから稲荷神社までは自転車ならちょうど10分ほどで着くから7時にはぴったりだ。
 でもぼくは自転車のペダルを一生懸命漕がなくてはならなかった。
“タムラの定休日は午前中に散歩をして一緒に買い物に行く”というのがぼくら夫婦間のルールであったように、約束の時間の5分前には待ち合わせ場所に来る、というのも付き合っているときから決められていたルールだった。
 だから7時に約束したら事実上6時55分が待ち合わせ時間になる。
 例えぼくがぴったり7時に待ち合わせ場所に着いたとしても、この場合ぼくは5分の遅刻になる。
 闇を落とし始めた群青色の空の下で浴衣や甚平を着た人たちを何人も追い越す。
 景色は形ではなく、色としてぼくの横をスライドしていく。
 遠くからは祭囃子の音と喧騒が聞こえ、ぼくはやがて視界にゆらゆら揺れる提灯と裸電球の灯る夜店を捉える。
 ペダルを思い切り踏み込むと頬に夏の温い風があたった。

                           *

 防波堤に自転車を立てかけると時計はしっかりと7時を刻んでいた。
 ぼくは人込みを掻き分けながら向かいの歩道にある鳥居へと向かう。
 朱色の鮮やかな鳥居の下で凛は首をきょろきょろさせながらぼくを探していた。
 やがて凛もぼくを見つけ「静くん」と手を振る。
 ぼくはTシャツにハーフパンツという普段と変わらない格好だったけれど、 凛は紺の生地に薄紅色の鮮やかな朝顔の描かれた浴衣を着て普段は肩まで伸びている髪を頭の上で綺麗に結っていた。
 少し色香が漂っていてぼくはどきりとした。
「5分の遅刻」と凛は言う。
「言い訳のしようがございません」ぼくは膝に手をあて、肩で息をした。
「林檎飴おごり決定ね!」と凛は嬉しそうに笑って「行こ」とぼくの手を引く。
夫婦なんだからおごりも何もないじゃないかな、と思いながらぼくと凛は鳥居をくぐり、祭りのざわめきの中へ入っていった。

                           *

 今年の稲荷神社祭りでは「死人割引」というような札が掛けてある夜店をいくつか見つけた。
 林檎飴を買ったときの夜店もそうだった。
「死人割引ってなんですか?」と凛は夜店の隅で煙草をふかしている化粧が厚いおばさんに聞いた。
 おばさんは「私、死人なのよ」とにこりと笑った。
「最近はさ、なんだかんだ言って死人に対する風当たりって冷たいじゃない?反蘇生派なんていうものまで出来てさ、あたしたちってなんかいけないことして蘇生してきたみたいに思うときあるのよ」
 おばさんはふぅと煙草の煙を吐き出す。
「はぁ」と凛は曖昧に返事をした。
「だからさ、こうやって割引してんの。言ってみれば死人応援セールよ」
「でも死人って見た目でわからないじゃないですか?」
「そうね」
「どうするんですか?」
「まぁ、自己申告ね」
「二本ください」と凛は頬の横で指を二本立てた。
「お嬢ちゃんは死人?」
少し沈黙があってから凛ははっきりと「生き人です」と言った。
「じゃぁ二本で400円」

                           *

「なんで生き人って言ったの?」
 人の流れに身を委ねながら、ぼくはぼくの横で林檎飴を舐めながら屋台を眺めて歩く凛に聞いた。
 しかし言葉はざわめきに紛れて彼女に届く前に消えてしまう。
「あのさ、凛」今度は強めに言うと、凛は「ん?」と振り向く。
「なんであんなこと言ったの?」
「あんなこと?」
「生き人って」
 凛があの場所で「生き人」と言う必要は無い。だからなんとなくそのことが引っ掛かっていた。
 凛はぼくの手を引き、人込みを掻き分けるようにして金魚すくいの夜店の前に行き「嫌だったの」と言って首からタオルをかけたおじさんに300円を払い、黄色の枠に丸い和紙が貼られたポイを受け取った。
「何が嫌だったの?」
「死人って呼ばれること」
「どうして?」とぼくは首を傾げる。
「区別をつけられているみたいで」
 そう言って凛は水色の長方形の水槽の中でちょろちょろと逃げ回る金魚に丁寧に狙いを定める。
「私は確かに一回死んで蘇生法で生き返ったけど、今はこうして呼吸もしているし、生きてるの」
 凛はポイをゆっくりと水面につけてひょいっと金魚を1匹、銀の器の中に入れた。
 あの林檎飴のおばさんのように死人であることをちゃんと受け入れている人もいれば、凛のように死人と呼ばれることに抵抗を感じる人もいる。
 生き人が死人を「死人」と呼ぶことは、生きている人間に「おまえは本当は死んでるんだぜ」と死を突きつけるような行為で、そんな中で生きるのは寂しいな、とぼくは思った。
 そして凛は破れてしまったポイからぼくを覗き込んで「私だってもう生き人だよ」と微笑んだ。

                           * 

 舟木さんが特設ステージで歌う予定の8時頃、ちょうど雨がぽつぽつと降り始めた。
 そしてぽつぽつと降っていた雨はすぐに本格的に降り始めてた。
 境内へと続く道はぼくたちとは逆に走って行く人ばかりで、夜店の人たちも店に慌ててブルーのシートを被せ、どこかから聞こえていた祭囃子もぴたりとその音を止めて、そこには雨が石畳を打ちつける音が鳴っていた。
 逆流していく人たちの中で凛は立ち止まり空を見上げた。
「どうする?」とぼくは聞いたけど、本当は聞くまでも無かった。
 ぼくと凛は特設ステージへ駆け足で向かった。
 凛のすくった金魚がビニール袋の中で驚いたように口をぱくぱくさせていた。

                           *

 石段をあがると神社があって、そのまえに特設ステージが用意されていた。
 本当に貧相なステージで普段はビールが入っているだろう黄色いケースがいくつも並べられ、そこに二畳分の木の板を乗せてマイクが一本ぽつんと立っていた。
 ステージの右側には前の回の催し物の「手品 トリック後藤」と書いてある模造紙を貼り付けた看板がマイクと同じようにぽつんとそこにいて、びしょ濡れになっておいおいと泣いている舟木さんがいた。
 もちろんお客さんは誰もいなかった。狛犬さえ背を向けていた。
「なんでだよ!」と舟木さんは空に向かって言った「やっとオーディションに受かったらこの仕打ちか!俺は確かに雨空ピンタポントっていう芸名でオーディションを受けたことがあるよ。でも何も本当に雨空になることはないだろう!今回の僕は舟木次郎だ!」
 やめよ、雨、やめ、と手をぶんぶん振って雨粒を切るような仕草をする舟木さんを見て、凛は鼻をすすってから彼のいるステージへ近づいて行った。
 ぼくも濡れた顔を手で拭いそのあとに続く。
 舟木さんが「あ」とぼくらの存在に気づき「ごめんね、雨で」と空を指差す。
「舟木さんのせいじゃないですよ」とぼくは言った。
「この雨じゃぁもう誰も見に来ないな」
 そして舟木さんはもう一度空を見上げて、濡れた顔を両手で拭った。
「あの」と凛が言った「私たちのために唄ってください」
「この雨じゃ駄目だよ、凛。みんな風邪ひくよ」
 ぼくの声に耳を貸さずに凛は「唄って!」と言った。
「初ライヴ、唄わなきゃ。ここが舟木次郎のスタートラインだもん」 
 舟木さんは黙って凛を見つめて、そのあと雨空を見つめた。
 そしてしばらく考えたあともう一度手のひらで顔を拭ってから、ふぅ、と息を吐いてギターのペグを回し丁寧にチューニングを始めた。
 やがて舟木さんは雨音にかき消されながら静かにギターを弾き始めた。

                           *

 三人だけの雨のコンサートはいまいち盛り上がりにかけたけれど、一生懸命にぼくたちの為だけに唄う舟木さんを見ていたらなんだか楽しくて、そして歌い終えた舟木さんに、凛は持っていたポーチからピンク色の折り畳み傘を取り出して開いて差しだした。
「降ること知ってたんだ?」とぼくは言うと凛は少し悲しそうに頷く。
 そして舟木さんに向かって「素敵でした」と言った。
 すると凛は「これはもうおしまい」とトリック後藤の模造紙をぺろっとめくって舟木次郎の名前を出した。
 でも雨で「木」の部分が滲んでいて「舟」と「次」と「郎」だけがかすかに読めた。
「舟次郎?」とぼくは呟く「インパクト大だね」
「演歌歌手みたい」と凛が笑うと「ほんとだ」と舟木さんも笑う。

 なんだか金魚も笑っているような気がした。

                           *

 アパートへ帰ってきたのは夜9時を回った頃で、錆びついた階段を鳴らして登ると熱帯夜の庭からビー、ビー、ビー、と何かの警告音のような虫の声がした。
 玄関の扉に鍵を差し込んだと同時に凛が「あ!」と叫んだ。
 ぼくはその声に驚き、心臓が一瞬伸縮する。
「しまった!」
 胸に手を当て呼吸を整えてから「どうしたの?」と言った。
「金魚鉢がない!」
 凛は金魚の入ったビニール袋を顔の前にあげた。
「水槽じゃ駄目なの?」とぼくは聞いた。 
「水槽なんてないし、駄目よ」と凛は言って、ぼくの顔の前に金魚のビニール袋を見せて「金魚鉢に入ってない金魚なんて、シルクハットに植えた観葉植物だよ」と言った。
「とりあえず洗面器にでも入れておけば?」
「そうしよっかな」と凛は金魚の袋をつついて愛しそうに見つめた。

 ぼくは明日タムラの帰りにテルさんの所へ寄ってみることにした。
 もしかしたらテルさんのコレクションの中に金魚鉢があるかもしれないと思ったからだ。
 そしてぼくらは順番に風呂に入ってから、黄色い洗面器に金魚を移した。
 洗面器の中に張られた水の中で泳ぐ金魚は、たしかにシルクハットに入った観葉植物のようにとても違和感があった。
 凛は誇らしげに「ね」とぼくを見た。
 「でもこれはこれでお洒落だよ」
 ぼくのつよがりを見透かして凛はくすくす笑った。


 第8話     金魚鉢と発病とある殺人事件


 仕事を終えてタムラを出ると、数えられる程度の小さな星とゆったり弧を描いた月がオレンジ色の空に輝き始めていた。
 ぼくはそんな夕暮れ空を眺めながら自転車に跨り、テルさんの公園へと向かう。
 凛が稲荷神社祭りで金魚を釣ってから丸々2日ぼくはテルさんの公園に寄って金魚鉢があるかどうか聞くのを忘れていた。
 今日の朝、玄関で靴を履くぼくに凛は「今日忘れたらどうなるかわかる?」と言った。
 まるで夏の夜に怖い話を始める少女のように抑制の効いた声だった。
 ぼくは「どうなるんだろう?」と聞いた。
「お味噌汁に具が入っていないとか」
「うん」
「お風呂がお湯じゃなくて水だとか」
「うん」
「それから」
「あのさ」と出来る限りの邪悪なことを考える凛を遮ってぼくは言った「あまり怖くないね」
「そう?」

                           *

 テルさんの公園に着くと、彼はいつも通り黒猫を膝に乗せて赤いベンチに座っていた。
 いつもと違うのは彼の右手には小さな紙切れが握られていたことで、テルさんはぼぉっとそれを眺めていた。
「こんばんは」
「おぉ。静くん、こんばんは」
 テルさんはその紙切れを真夏だというのに着ているコートの胸ポケットにしまう。
 ぼくはそれを大して気にもせず見届けてから、さっそく話を切り出した。
「テルさん、コレクションの中に金魚鉢ってありますか?」
 テルさんは間を置いてから「あるよ」と言ってぼくをにっこりと見上げる。
「よかったらいただけませんか? 凛がお祭りで金魚を釣ってきたんです」
 そしてテルさんは「ちょっと待ってて」と言ってゆっくりと立ち上がり林の中の小屋からほこりの被った金魚鉢を取り出してきた。
「年代物だよ、これは」
 ぼくは差し出された金魚鉢を両手で受け取りながら「金魚鉢にそんなものあるんですか?」と笑いながら聞いた。
「これはね、ずぅっと昔に僕の大切な人が使っていたものなんだ」
「大切な人?」
 返事をするようにテルさんは微笑みながらぼくをみて眉をあげる。
「その人も凛ちゃんのように金魚釣りが好きだった」
「へえ」
 時空を越えてぼくの手に渡ってきた金魚鉢をゆっくりと眺めて見回すと、ほこりがちらちらと舞った。
 ぼくはひとつくしゃみをしてから「でも色々なコレクションがありますね」と林の中の小屋を見る。 テルさんもぼくの視線の先へと振り返り「雑貨屋でも始めようかね」と笑った。
「いいですね」
 そしてぼくはもう一度お礼を言って暗くなり始めた家路を辿る。


 ♯2話 テルさんが隠した紙切れ


 瀬川 静が帰ったのを見届けてから、テルはコートの胸ポケットから再び新聞の小さな切り抜き記事を取り出す。
 もう長い年月が経っていて紙切れは陽の染みで宝の地図のように茶色くぱりぱりに乾いていた。
 テルは一日一回それを必ず読む。
 それが彼の習慣になっていたし、この記事はある意味ではお守りだったからだ。
 記事の日付は1990年12月21日。
 よく覚えている。
 20日がユキの命日だからこの記事が出たのはその翌日だ、とテルは記憶していた。
 記事にはこう書かれていた。

 20日 午後3時45分ごろ、**県**市**のアパートで住人の島谷ユキさんが首を吊って自殺しているのを同居人の男性が発見し通報した。調べでは亡くなった島谷さんは病気を患っており、それを苦に自殺をしたとみられている。

 テルはそれを読み終えると大事に胸ポケットにしまい、猫を撫でる。
 空には綺麗な月が浮かび、星が輝き始めていた。

                           * 

 アパートに帰ってくると玄関には鍵がかかっていて、チャイムを押してもノックをしても、部屋に凛のいる様子はなかった。
 ぼくは合鍵を持っていなかったので小豆色の玄関に背を預けて座り、彼女の帰りを待つことにした。
 こんな時間に凛がいないのはとても珍しいことではあったけれど、このときのぼくはまだそれほどの危機感を感じてはいなかった。
ぼくがそれを感じ始めたのは一時間ほどが経過して時計の針が7時半を指した頃だった。
 空はすっかり夜に変わっていて夏の虫がりりりと鳴いていた。
 いくらなんでも遅すぎる。
 妙な胸騒ぎがして、ぼくは立ち上がったり座ったり近くまで探しに行ったり、この胸のもやもや感を取り除こうと勤め、なんらかの安心感を求めた。
 しかし時間が経過するたびに胸の中のもやもやは風船のように膨らんでいき、ぼくを苦しくさせるだけだった。
 何匹もの蚊がぼくの足や腕に飛んできて、そのたびにアパートにはぱちんという音が響いた。
 ぱちん。
 ぱちん。
 どのくらい待っただろうか、そのぱちんという音の中に錆びついた階段を鳴らす音が聞こえた。
 ぼくは立ち上がり、階段を見つめる。
 上ってきたのはやはり凛だった。
 彼女はぼくを見つけると不安そうな、でも安心したようなとても複雑な表情を浮かべて「静くん……」と泣き出し、ぼくの前にぺたんと座り込んだ。
 コンクリートの通路に放り出された買い物袋の中で抹茶とバニラのアイスがくたくたに溶けている。
 凛の髪は乱れ、彼女はとても疲れきった表情を浮かべて手の甲で涙を拭いた。
「どうしたの、凛」
 彼女の前に屈んでそっと肩に手をやり訊ねた。
「ごめん」
「とりあえず中に入ろうか」
 そしてぼくは彼女から家の鍵を受け取り、玄関の鍵を開けてから凛を抱きかかえて部屋に入った。

                           *

 閉めっぱなしだった部屋は夏の夜の重たい空気を真空パックしていて、ぼくは「暑い、暑い」と言いながら電気の紐を引っ張って、窓を開け、網戸をたてた。
「いい加減、うちにもクーラーが必要だね」
 汗で湿ったYシャツの首元をパタパタさせながらキッチンに行き、グラスに麦茶を注いで凛に手渡す。
 凛はソファーにぐったりともたれかかったまま、何かを考えるように床の上の一点だけを見つめていた。
「なにかあった?」ぼくは凛の前に座り、彼女を覗き込んだ。
 すると彼女は視線をぼくへと移し、まだ涙で湿っているまつげをしばたたかせて「おかしいの私」と震える声で言った。
「どうしたの?」
「夕食の買い物に行ったら帰り道がわからなくなったの!」
 彼女は真っ青な顔をして続ける。
「おかしいと思わない? 買い物なんてもう何回も行ってるんだよ? 今までだってずっとちゃんと帰ってこられたんだよ? それなのに箪笥のひきだしを抜き取ったみたいに、帰り道の記憶だけが頭の中からぽっかり無くなってるの!」
 凛は思いついたまま言葉を発して、感じた全ての恐怖を体の内から出そうとしていた。
 そして何らかの答えをぼくに求めているようにも見えた。
「今は思い出せるの?」とぼくは聞いた。
 凛は少しだけ間を置いてから「なんとなく」と言った。
「大丈夫」ぼくは静かに息を吐いた「疲れていたんだよ、きっと」
「疲れていたくらいじゃこんなことにならないよ! 今までだって平気だったもん」
「今までがたまたまなかっただけさ」
 そんな原因じゃないってことくらいぼくにもわかっていた。
 でも今のぼくには原因の追究よりも、彼女に安心感を与えてやりたかった。
 もっとも原因を考えたところで、何も浮かばなかったと思う。
 それだけ彼女の記憶の喪失は突然で、心当たりなど微塵もなかった。
 凛は「今日はお風呂に入ってもう寝るね」と再びこぼれだした涙を拭きながら言った。
 ぼくは黙ったまま頷く。
「静くん」立ち上がった凛が消えそうなくらい細い声で言う。
「なに?」ぼくはどきどきしながら彼女を見上げた。
「キンカンは箪笥の上だからね」
 どうやらぼくは無数の蚊にさされていて、気づくと腕や脚など体中に川の字を作った赤い爪あとが残っていた。
 凛が切羽詰った表情で今日の出来事を打ち明けているときに彼女の目には体中をぼりぼり鳴らして掻いていたぼくが映っていたのかと思うと少しだけばつが悪かった。

                           *

 翌日になるとテレビでは凛以外の死人も同じように何らかの記憶が飛んだというニュースが伝えられていた。
 そしてそれもまた多くの死人と同じように、凛の失われたはずの記憶はすっかり安定していて、昨日のことが嘘のように彼女ははっきりと帰り道を思い出すことが出来た。
「うそみたい!」と凛は言う「たしかに昨日は思い出せなかったの」
「死人はみんななったみたいだよ?」
「なんなんだろう?」と凛は言った。
「なんなんだろうね」
 ぼくもとりあえずは安心をしていた。

                           *

 そしてその日もタムラから帰ってくると、見上げた部屋の電気は全て消えていた。
 ぼくは慌てて階段を駆け上がりドアノブを回し、引く。鍵はかかっていなかった。
 そして部屋に入ると「わ!」反射的に驚きの声が出た。
 凛は明かりのない部屋の真ん中でぺたんと座り、窓の外を見ていた。
「なにやってるの?」ぼくは部屋にあがり「つければ」と言って電気の紐に手をやる。
「待って。こうするとね、月明かりが綺麗」
 言われてみれば床の上にはぼんやりと白い光が零れていて、その光の中にある金魚鉢と凛はとても幻想的に映った。
 ぼくはそっと手を下ろして凛の横に座った。
「ねえねえ、静くん」
凛は自分の横に置いた金魚鉢を覗いてぼくに手招きをする。
「ん?」ぼくは月明かりが照らす金魚鉢を凛と同じように覗いた。
 金魚鉢の中には色とりどりのビー玉が落とされていて、その中をゆらゆらと気持ちよさそうに泳ぐ金魚の姿は夏の夜にはとても涼しげだった。
「この子の尾ひれ、カーテンドレスみたい」
 金魚は鮮やかな紅色の尾ひれを優雅に揺らしながら、水の中を行ったり来たりしていた。
「ほんとだ」
「きっとメスだね」
「なんでわかるの?」
「男の人はドレスなんて着ないでしょ?」

                           *

 こんなふうにして、ぼくらは何気ない日常を過ごしていた。
 夏は終わりを告げ、秋を迎え入れた。
 そして短い秋が冬を迎え入れる頃、事件は起きた。

                           *

 朝、和風紅茶を飲みながらテレビを見ていたら急に画面が切り替わり、臨時のニュースが入った。
 七三分けのニュースキャスターは少し興奮気味に語気を荒げて何が起こったのかを伝える。
「先程入ったニュースです!今日午時8時頃、ネクロマンサーの藤原吉冨教授の研究所に笹野 照と名乗る男が押し入り銃を発砲しました! 藤原教授は頭を撃たれて間もなく死亡。笹野と名乗った男も自分に向け銃を発砲し、死亡した模様です」

 笹野 照として表示された顔写真はテルさんだった。


 ♯3話     殺人犯 笹野 照のbackground 前編


 1989年

 東ドイツと西ドイツを隔てるベルリンの壁が崩壊され、日本は昭和から平成へと移り変わったこの年、高校三年生になった僕とユキと吉富は初めて同じクラスになり、そしてユキが最初に倒れたのもこの年だった。

 彼女は授業中に突然椅子から床へぐらりと落ちていった。
 頭蓋骨が床の上で鈍い音を立て、担任が「島谷さん!」と叫ぶと教室はすぐにざわめきに包まれ、ユキのそばには彼女を囲むクラスメイトの輪が出来た。

 ぐったりとして意識を取り戻さないままユキは“とりあえず”保健室へと運ばれた。
“とりあえず”というのは、彼女は床に頭を打ち付けたときに額をぱっくりと割っていて、そこから赤黒い血がとくとくと流れ、保健室ではもうどうにもならないことを誰もが予感していたからだ。
「笹野くん、藤原くん!手伝って!」
 ユキと僕たちが幼馴染ということを知っていたからか、先生は僕と吉富を呼びユキを保健室へ運ぶのを手伝うように促した。
 このときのぼくの心臓は最大限に活動をしていて、耳をすませばその音が聴こえるのではないかと思うくらい胸の内側をドン、ドンと叩いた。軽い吐き気と眩暈に襲われる。
「テル、何やってんだ」と吉富が教室の入り口で僕を呼んだ「行くぞ」
 僕は床と椅子の足がこすれる甲高い音をたてながら立ち上がって、吉富と先生の背中を追って保健室へ向かった。

 しばらくして赤いランプを鳴らし来た救急車が、校門の前でぴたりと音を止めた。
 僕は保健室の窓を開けて「こっちです」と白い白衣と白いヘルメットを被った二人の救急隊員に一生懸命手を振った。
「どちらのお子さんですか?」
 二人は一気に保健室に流れ込んでくる。
「この子です!」保健室の先生が声を張ってそう言うと、救急隊員は「どなたか一緒に来てください」と固いベッドに寝かされていたユキをそっと抱えて保健室を出て行った。
「私、行きます」と言って走り出した担任の背中に、吉富は「先生!」と声をかけた。
彼女は吉富が言おうとしていることを察し、後ずさりしながら「いいよ。来なさい」と言って再びくるりと向き直り、救急隊員の背中を追った。
「いくぞ、テル!」
 僕と吉富も保健室を飛び出して上履きのまま救急車へと向かった。

 ベランダにはクラスメイトが出ていた。
「授業中! ベランダに出るな! 教室に入りなさい!」という担任の怒声が響く。
 それを無視して、一人の男子生徒が吉富に声をかけた「藤原! 島谷さんどうしたの?」
「わかんねーよ、そんなの」
 男子生徒は次に「テル」と僕に訊(たず)ねる。僕に聞かれたって困る。
 ユキは風邪すら滅多にひかない子で文句なしの健康優良児だったんだから。
「僕もわかんない!」
 ベランダに向かってそう叫び、救急車に乗り込むと大きな音を立てて後部扉が閉められた。

                           *

 ユキは12針を縫い、額に傷は残ったものの、命に別状はなかった。
 ただ何故、健康優良児だったユキが突然倒れたのかということについてはそのあと色々な病院に行って検査をしてもらったけど、どの医者も口をそろえて「原因は、ちょっとわかりませんね」と首を傾げた。
 でも僕にとって重要なのは原因や病名よりもユキが生きているということ。
 それだけで充分だった。

                           *

 月日が経つと僕たちはかつての日常をすっかりと取り戻していた。
 ユキが倒れたことはもう過去のことで改めて話題に上ることも少なくなっていたし、彼女の額に残った茶色の傷は以前からそこに存在していたもののように静かにそこに居座った。
 しかし、どうしても取り戻せないものがひとつだけあった。
 それは健康優良児と呼ばれていた頃のユキの体調で、通院が終わってからも彼女は原因不明の突発的な頭痛に悩まされていた。

                           *

「遺伝じゃないの?」
 その年の夏休み、ユキが一人暮らしをしているアパートで彼女が茹でたそうめんを啜りながら僕は訊いた。
 一人暮らしといっても、僕と吉富が居候していたからほとんど三人暮らしのようなものだった。
 僕と吉富の親が「ユキちゃんに悪いから」ということで毎月家賃を払っているくらいだから(でもユキがそれを受け取ることは最後まで無かった)。
 部屋の隅で古びた扇風機が、かたかたと音を立てて首を回している。外では蝉が騒々しく鳴いていた。
「たしかおばさんも頭痛持ちだったよね」
 桐ダンスの上に置かれたユキの母親の遺影を見て僕は言った。
「おかあさんのは、肩こりからくる頭痛」
「ユキは気合が足りないんだ、気合が!」と花火の柄が描かれたうちわで自分を仰ぎ、口にそうめんを含んだまま言う吉富の頭をユキは「行儀悪い!」と言ってぴしゃりと叩いた。口から少しだけそうめんがでる。
「だいたい私は吉富と違って、なんでも気合でカバーできるような気合女じゃないの」
 この気合男!とユキが言うと気合男はものすごく不満そうな表情を浮かべて、僕を見た。
 そのネーミングがなにかの妖怪みたいで僕は笑った。
「あ」
 突然、ユキがこめかみを抑えて言った。
「来る」
 ユキがこめかみを抑えるのは頭痛が来る合図だった。
 それをきっかけに僕は小棚のひきだしから頭痛薬を、吉富は台所に水を取りに行く。
 彼女の頭痛は「頭の中で象が100頭、行進をはじめるような痛さ」で、僕はその例えの意味をいまいちよく理解していなかった。
 一度だけ聞いた事がある。
「僕は象100頭に行進されたことがないから、ユキの痛みがあまりよくわからない」
「雰囲気だよ。なんとなく伝わらない?」
「痛いんだろうなっていうのは伝わるよ。でもそれがどういう痛みなのかがわからない」
「じゃぁわかった」
「なに?」
「かき氷を100杯休まずに食べてから頭痛が来た感じ」
 ユキにそう言われると、こめかみの辺りがキリキリする感じがした。
「痛いね」
「痛いよ」
「大丈夫?」
「ばかにしてる?」

                           *

 8月13日、毎年恒例で催される近所の稲荷神社の夏祭りに三人で一緒に出かけた。
 祭囃子の中、提灯がゆらゆらと灯り始めるとすぐに神社は人でいっぱいになった。
 ユキは白い生地に紺の朝顔の描かれた浴衣を着て右手に林檎飴を持ち、左手でヨーヨーをぽんぽんと揺らしていた。
 伸びた髪を頭の上で綺麗に結ったユキの後ろ姿はいつもよりずっと大人っぽく見えて、とても僕と同い年には見えなかった。
                            
                           *

「これはさ、デートかな?」
 石畳の上をサンダルでぺたぺたと鳴らし歩きながら、僕は屋台を眺めて歩くユキと吉富に聞いた。
 二人は唐突に切り出された会話に驚いて振り向き、顔を見合わせた。
「デートにしては可笑しな構図だぞ、男子二人女子一人なんて」
「じゃぁ」とぼくは言った「二人だったらこれはデート?」
「何言ってるんだよ、急に」
「富士村さんがさ、言ってたんだ。男子と女子が会うのはデートだ、って」
 富士村さんというのはクラスに一人はいる噂好きの女子だ。
 その富士村さんが一学期の終業式の日にふちなしの丸い眼鏡をぎらぎらと光らせながら「笹野くんってユキと付き合ってるの?」と情報収集にやってきた。
 ぼくは恋愛に対しては鈍感だった。少し賢い犬のほうがたぶん僕より恋の駆け引きを知っているような気がした。
 だから僕はこのときはじめて周りが僕らをどういうふうに見ていたのかを知ることになる。
「みんな言ってるよ。笹野くんはユキと付き合っていて、もう済ませちゃったって」
「済ませちゃった? 何を?」
 ぴりりとしていた教室の空気が呆れムードに変わって、ため息が漏れた。
「だから、ほら。あれよ」
「あれ?」
 彼女は少しだけ頬を赤らめてから「まぁ、いいや。とにかくどうなの?付き合ってるの?」と言った。
「そもそも、どんなことが付き合っているってことなの?」
 富士村さんは「質問を変えるわ」と呆れながら額に手を当てた。
「笹野くんはいつもユキと下校してるよね?」
「だって同じところに住んでいるし、それに吉富も一緒だよ」
「藤原はいいのよ。あいつはぴーぴーぴーぴー、うるさいだけなんだから。きみとユキは休日に二人でデートしてるわよね?見かけた人もいるんだから!」
「買い物に連れまわされてるだけだよ。ユキは雑貨を集めるのが趣味だし、吉富は買い物に付き合うのが嫌いだから僕が連れまわされているだけだよ」
「それってさ」と富士村さんが机に両手を勢いよく置いて顔を寄せた。
「立派なデートよ! そうやって男と女が親密に会うのはデートなの!」
 その威勢に後退りしながら僕は「そうなの?」と訊いた。
「そうなの。アダムとイブが決めたの。わからないけど」

                           *

 ユキは金魚すくいの屋台の前に立ち止まり、おじさんに200円を払ってポイを受け取った。
「私とテルと吉富は幼い頃から一緒にいすぎて性別がないんだと思う」
 彼女は浴衣の裾を膝の裏に挟んで屈んでから、袖をまくった。
「性別?」
「うん。恋って言うのは相手のことを「知りたいな、知りたいな、あ。好きになっちゃった」こんな感じでしょ?付き合うっていうのはこの人とずっと一緒にいたいなって思ったり、お互いのことを教えあうことだと思うの」
「そうなの?」と僕は吉富に聞く。吉富は「さぁ」と首を傾げる。
「絶対そうだよ。でも私たちって一緒にいるのが当たり前でしょ?それに今さら教えあうことなんてないもん。考えてごらんよ。私たち小さい頃お風呂だって一緒に入って体の洗いっことかしてたんだよ」
 そしてユキは「変な話だけど」と少しだけ頬を紅潮させて「こうゆうのってもっと大人になってからするものでしょ?」
 吉富が「大人になってからもするとは限らんぞ」といやらしく笑う。
「もっと段階を踏んで仲良くなっていけば良かったんだよ。恋とか性別を意識するまえに仲良くなりすぎたんだな、私たち」
 ユキは水槽の中をちょろちょろと逃げ回る金魚に狙いを定めながら言った。
「それは悪いこと?」
「いいときもあるし、悪いときもあるわね」
「そうだよね」
「そうよ」
 ユキはポイで金魚を1匹だけ捕まえて銀の器に入れた。
「だから私はテルとも吉富とも付き合っていないと思うよ」
「僕たちは性別を意識できないから?」
「うん」
「これは、“悪いとき”だね」
「そうかもね」
 そしてユキはおじさんに「もういいや」と言ってまだ敗れていないポイを返した。

 だから僕は鈍感だった。

                           *    

 アパートに帰ってくるとユキは早速家にあった金魚鉢に水を入れて金魚を放した。
 ユキは金魚にサトルという名前をつけた。パッと思い浮かんだ名前らしい。
 そして彼女は朝・昼・晩、きっちりと同じ時間に餌をあげた。
 ユキのこの献身的な金魚への愛情は彼女の動物アレルギーから来ていた。
 ユキは獣医を目指そうと思っていたくらい動物が好きだったんだけれど体質がそれを受け入れない。犬や猫など撫でたり抱いたりしようものならアレルギーでくしゃみが止まらなくなる。
 それは閉所恐怖症のエレベーターガールや血を見ると失神してしまう医者と同じようなもので獣医に憧れていた彼女にとっては致命的だった。
 ユキが飼える生き物といったら金魚かザリガニかかぶと虫くらいしか残っていなかったのだ。

                           *

 その年の冬、ユキの頭痛は突発的なものから継続的なものになっていて、検査を受けた病院の医者からは相変わらず決定的な病名を聞くことはできずに僕らを困惑させた。
 唯一「すこし長期的に検査をしてみましょうか」と言ってくれたのが、アパートから歩いて15分ほどのところで開業医をしているドク先生で、彼の海辺の病院は病院というよりクリニックや診療所というほうがしっくりきた。

                           * 

「あれ?ドク先生」
 僕と吉富が学校から帰ってくると、そのドク先生が手に息を吐きかけながらユキの玄関にもたれて座り、鼻をずずずっと鳴らしていた。
 彼にドクというニックネームをつけたのはユキで、それはdoctorから由来されている。
 ぼさぼさの長髪に緩やかな「く」の字を描いた鼻やフレーム無しの丸眼鏡はどこかジョンレノンを髣髴させた。
「あぁ。よかった、凍死するところだった」とドク先生は寒さに手を擦りながら言った。
 彼はよれよれの白衣のお尻をぱんぱんと叩き、首から下げられた黒いガマグチのポーチから白い紙袋を取り出し、「お留守のようでしたので待っていました。これ、ユキさんに」と僕に手渡した。
 島谷 ユキと書かれたその白い紙袋は彼女の頭痛薬だった。
 ユキはドク先生のところへいくと薬を忘れてくる。貰うのを忘れるんじゃなくて、貰ったものを置き忘れてくるのだ。あるときは待合室の黒い長椅子の上に。あるときは受付の横に。スリッパを置く下駄箱に。
 だからドク先生はユキが薬を忘れた日はこうしてアパートまで薬を届けてくれる。
「いつもすみません。ユキにちゃんと言っておきます」
「あ。いいんです、いいんです。いつも楽しいお話、聞かせてもらってますから」
 吉富は「あいつ、病院に何しに行ってるんだよ」と言って眉間を揉んだ。
「それじゃ、失礼しますね」
 そう言ってドク先生は鼻を啜って蛍光灯が灯り始めた階段を降りていった。

                           *

 僕は薬の袋を持って吉富の漕ぐ自転車の後ろに乗り、海に向かった。
 病院に行った帰りに買い物をして夕日の沈む海を眺めるのが最近のユキの日課だからだ。
 防波堤に平行して自転車を漕ぐ吉富が急に「ユキのこと好きか?」と僕に聞いた。
「好きだよ」僕はぱたぱたと鳴る吉富の黒いダウンジャケットの背中に言った。
「それは恋愛として?」
 僕は黙ってしまう。
「俺は、ユキのことが好きだ。付き合いたいし、結婚もしてえ」
 吉富の口から出た好きという言葉、付き合いたいという言葉、結婚という言葉に僕は胸をどきどきさせていた。
 彼の口からそんなことを聞くのは初めてだったし、似合わなかったし、そしてそれらは僕たち三人がなんとなく目をそらして避けているものだった。
「テルはどうなんだ?」
「僕は……よくわからない」
「じゃぁ、俺がユキと付き合ったらどんな気がする?」
「……ちょっと嫌な気がする……かも」
「結婚したらどうする?」
「嫌だ!」
 吉富は笑って「それは恋だ」と言った。「おまえもユキが好きなんだよ」
「そうなの?」
「テル、初恋はいつだ?」
「わからない」
「わからないっておまえ、恋したことねーの?」
 車がクラクションを押して僕たちの横を通り過ぎていく。
「したこと、ないよ……たぶん」
 すると吉富は大きな声をあげて笑った。自転車がよろける。怖い。
「じゃぁこれが初恋ってことか」
 僕はまた黙ってしまう。
 はぁ、と吉富は溜め息をついて「強敵だ」と呟いた。

                           *

 海に着くとユキは砂浜に座って海を眺めていた。
 冬の海はとても寒くて指の芯まで冷えていく感じがしたけれど静かに鳴る波の音は夏のそれよりくっきりと、はっきりとしていた。
「おい、センチメンタルガール」と吉富がユキに言うと、ユキは驚いて振り返ってから「なによ、センチメンタルガールって!」と鼻を啜る。
「さっきドク先生、来たよ」
 僕はダッフルコートのポケットから薬の袋を取り出し、彼女に手渡す。
「届けに来るなんて珍しいね」とユキは笑ってそれを受け取り、ありがとうと言った。
「たまにはね」と僕は答える。
「ドク先生、なにか言ってた?」
「ユキさんにはいつも楽しい話を聞かせて貰ってます。だってさ」
「他には?」
「それだけ」
「よかった」
「よくねえよ」と吉富が言った。
「病院に行ってるんだろ?楽しい話は喫茶店でしろ」
「じゃぁ吉富は病院では無駄話はしちゃいけないっていうんだ?」
「そうは言ってねえ」
「病気を治すだけなら薬だけ貰ってくればいいでしょ?治療は人対人なの。そりゃ、おしゃべりくらいするわよ!」
 吉富ががっくりと肩を落とすとユキはくすっと笑う。
 いつだってユキに口喧嘩で勝ったことなんてない。今回も吉富の負けだ。 ユキの言うことはいつも僕たちを納得させた。

                           *

 この日を境にユキの頭痛は以前にも増して酷くなり、彼女の頭の中で行進していた象は群れの数を増やして彼女の頭の中を横断していった。
 
 そして、それは高校卒業間近の春の日に起こるべくして起こった。

                           *

 夜、少し遅くなって学校から帰ってくると、吉富が立ったり座ったり落ち着かない様子で部屋をうろうろしていた。
「どうしたの?」
「ユキが帰ってこねえ」
 壁にかけられた時計を見るともう8時を回っていた。
「珍しいな」
 ユキがこんな時間にでかけているなんて初めてだ。
 僕は妙な胸騒ぎがした。
「ユキ、何か言ってた?」確認のためにそう聞いた。
「図書館に行く、って」
「探した?」
「探したよ、でももう図書館は閉まってた」
 そして僕たちは暗い夜道に懐中電灯を照らしながらもう一度ユキを探しに行った。
「ユキ!」と名前を呼ぶたびに耳を澄ましたけれど、返事はどこからも返ってこなかった。
 
 アパートに戻ってきてどのくらい待っただろうか。
 突然、玄関が開いてそこにはユキが立っていた。
「ユキ!」僕と吉富はユキの下へ駆け寄る。
「テル……吉富……」
 彼女は疲れきった表情でそう言って、その場にぺたりと座り込んで「ごめん」と言った。
「遅くなっちゃった……心配した?」
「当たり前だよ!」と僕は言う。
「どうしたんだよ? なにかあったのか?」と吉富は聞いた。
 ユキは「記憶がなくなったの」と震える声で不安を浮かべた。
「記憶?」
「図書館に行ったら帰り道がわからなくなったのよ!」
 彼女は真っ青な顔をして続ける。
「初めて来た土地みたいに帰り道がまったくわからなくなったの」
「今は思い出せるの?」と僕は聞いた。
「うん」とユキは頷いた。
 吉富は「頭痛と関係あるのか?」とおそるおそる聞いた。
「わからないわ」そう言ってユキはぽろぽろと泣き出した。
「よかった。帰ってこられた……」
「大丈夫だよ」と僕は言った。「大丈夫だからね」
 それはユキに対してより、僕たち三人に言い聞かせているような言葉だった。

                           *

 次の日の朝はいつもと変わらない朝で春の日差しが温かく、春らしい日だった。
 いつもと違っていたのは学校から帰ってきたら玄関の前にドク先生がいたこと。
 そして今日はユキにではなく、僕と吉富に話があると言ったこと。

                            * 

 ドク先生を居間へ通し、お茶を入れた湯呑みをちゃぶ台にことんと置くと
その音を合図にしたかのように正座をしたドク先生は口を開いた。
「率直に言いますね」
 僕も吉富も冷静に「はい」と答えたつもりなんだけど、冷静に見えたのは体の外側だけで、内側では色々と思いを巡らせていた。
 いちばん引っ掛っているのは“何故、僕たちに話があるのか”ということだ。
 だいたい僕も吉富も風邪ひとつひいたことがない。
 もちろんドク先生の病院に診察をしてもらいに行ったこともない。
 するとこれからされる話はおそらくユキの話だろうということが容易に想像出来た。
 そしてその話がおそらく良い話ではないということも。 
 夕暮れに染まる部屋は空気がぴりりとしていて、唾を飲み込めば喉からごくりと音が聞こえてきそうだった。
 ドク先生は僕と吉富の目をそれぞれ見てから、言葉を選ぶようにゆっくりと「ユキさんは記憶を失くしつつあります」と言った。
 僕の頭の中でユキの笑顔が浮かんで、消えた。


 ♯4話     殺人犯 笹野 照のbackground  後編


「先週、知り合いの病院でユキさんの脳のCTを撮ったんです」
「CT?」全く耳馴染みの無い言葉が僕を不安にさせる。
「頭部・胸部・腹部など全身の病変を精密に写す機械です」
 そしてドク先生は「その検査の結果、彼女の脳に異常が見つかりました」と僕と吉富の目を交互に見て言ってから「いただきますね」とお茶を一口飲んで口を湿らせた。
「記憶って……アルツハイマーとかその類ですか?」と吉富は言う。
 彼はゆっくりと首を振り「彼女の脳にはキャパシティーがあるんです」と言った。
「キャパシティー?」
「僕たちは生きている中で、例えば散歩をしたり学校で友人と話をしたり、
たくさんの思い出を脳に記憶として保存します。それはユキさんも同じです」
 こんな状況なのに「ユキさんも同じ」という言葉に安心した。
 例えばそれは突き落とされた暗く深い穴の中に、するすると縄梯子が落ちてくるような感覚で、“ユキは病気だけど僕たちと同じだ”僕はそんなふうにドク先生の言葉の中に微かな救いを見つけた気がしていた。
 しかしそれは淡い幻想でしかなくて「私たちとユキさんが違うのは」と続けたドク先生の言葉を聞いたとき、僕のその“微かな救い”は、そこにとどまることなく、悲しみの残り香だけを残して冬の吐息のように消えていった。
「私たちとユキさんが違うのは、僕らは記憶を無限に保存できて、彼女にはさっきも言ったように記憶のキャパシティー、つまり容量があるんです」
「容量……」
「そう。私たちの記憶の保存が無限ならば、例えばユキさんは100しか保存をする場所がない」
 吉富は唾を飲み込んでから「容量を超えてしまった記憶はどうなるんですか?」と訊ねた。
 ドク先生は丸いレンズの眼鏡を外して目と目の間を親指と人差し指で揉んでから「脳が自動的に記憶を初期化してしまう」と言った。
 僕はドク先生の表情をうかがいながら「初期化?」と言った。
「今までの記憶を徐々にゼロに戻していく」
「つまりユキの頭の中でその作業が始まったっていうことですか?」
 ドク先生はゆっくりと頷いて「ユキさんは全てを忘れる……あなたたちのことも」と言った。
 その言葉はぼくの心臓を一瞬だけ収縮させ、胸の中に嫌な何かをぬるりと落とした。
 僕はそのなんだかわからない“何か”を全て吐き出してしまいたかった。 実際に吐き気がした。
 そしてドク先生は「思い出の数だけズレはあるし、憶測でしかありませんが」と注釈を打ってから、残された時間は半年あるいはもっと早く、そして治療の施しようが無いことを告げた。
 吉富は立ち上がり拳を握って自分の太股の辺りを思い切り叩いた。
 半年以内にユキは全ての記憶を初期化する?
 それはあまりにも突然で、まるで僕たちが余命を宣告されたようだった。
「このことをユキには?」と僕は聞いた。
 ドク先生は「素直に言いました」と申し訳なさそうに言った。
 ぼくが柱にかけられた時計を見上げると、間もなく5時を指し示すところだった。
「あの、なんで僕と吉富に?」
「それは」とドク先生はにこりと微笑んだ。
「ユキさんがいちばん大切にしているのはあなたたちだから」

                           *

 僕と吉富はユキがいる海へと向かった。
 吉富が自転車を漕いで、ぼくはその後ろに座り夕焼けを眺めていた。
 会話はほとんど無かった。
 たまに気を紛らわすために吉富が僕に喋りかけたけど、会話は繋がらないままいつのまにか消えていった。
 僕はユキのことを考えていた。これからどうしようとか、ユキに会ったら何を言おうとか、そうゆうんじゃなくて、ただ漠然とユキという人間について、ずっと考えていた。
「なぁ、テル?」と吉富が少しだけ振り向き僕を呼んだ。
「ん?」
「ユキ、俺たちのことも忘れるのかなあ」
 僕はわかっているのに「わからない」と言った。
 ユキは僕たちのことを忘れる。それはドク先生も言っていたし事実だと思う。
 でも僕は現実から目を逸らしたかった。
 例えば僕が「わからない」と言うことで、現実が曖昧になるのなら僕は何度でもわからないと言おう。
 わからない。わからない。わからない。
 でも僕がどんなに目を背けても現実は曖昧になるどころか、リアリティーを増していった。
 自転車を漕ぎながら吉富は泣いていた。
「ごめん」彼は手のひらで涙を拭って何度も呟いた。

                           * 

 海に着くと僕たちは防波堤に自転車を立てかけて、石段を駆け下りきつね色の砂浜へと出る。
 そこには案の定、白い半袖シャツを着て波打ち際に座っているユキがいた。
 自分の顔を二回叩いてから吉富がユキの背中に「よう」と言った。
 彼女は微かな物音に反応した兎のようにぴくんと華奢な肩を動かしてから振り返り、僕と吉富を見て微笑んでから「よう」と言った。
 彼女の、肩にかかる程度の長さの髪が潮風に揺れた。
 僕と吉富はユキを挟むようにして砂の上に腰を下ろす。
 僕は右手で生温い砂を掴み、それを砂時計のように左手に落しながら「いつまで海にいる気」と聞いた。
「満足するまでいる気」
 緩い曲線を描いた地平線に夕日が吸い込まれていく。
 海はその夕日の影をきらきらと反射させた。
 三人で並んで座ってそれを見ているとユキが「綺麗でしょ」とまるで自分のもののように誇らしげに言った。
 吉富は返事をする代わりに、白い波に小石をほおる。
「私ね」とユキが髪を耳にかけて息を吸ってから「記憶、無くなっちゃうらしい」と笑った。
 夕日が完全に海の中へと吸い込まれると空がだんだんと浅い群青色になり始めて、その上をかもめが名残惜しそうにくーと鳴いて飛んだ。
「記憶がなくなっちゃうってどんな感じだと思う?」
 ユキは僕たちの答えを待たずに続ける「想像もつかないし、実感も沸かないの。全然」
 そして彼女は苦笑いを浮かべた。
 こんなとき何を言ってあげたらいい?
「大丈夫さ、怖がることないよ」「そんな重く考える必要はないさ」
 こんな言葉が適当なのだろうか。
 でも、ぼくにはどうしてもユキにかけてあげる言葉が見つからなかった。
 所詮他人は他人でしかない。ユキの痛みも悲しみも感じることは出来ない。
 そんなふうに僕は僕であることを呪いながら黙って砂浜に視線を落とすことしか出来なかった。

                           *

 それからの彼女の頭痛はますます酷いものになっていき、ユキは徐々に記憶を失い始めていた。
 最初のうちは箸や食器の場所がわからない程度のものだったけれど、日が経つにつれて僕が何かを言ったそばから、それを忘れるというようなことが続いた。
 だからユキはこまめにメモを取るようになり冷蔵庫にはそれらがびっしりと貼られた。
 言い換えればそれがユキの記憶だった。

 そして1990年 季節が再び夏を迎える頃、ユキは倒れ入院した。

                           *

「ユキ、喜ぶかな?」
 僕は吉富の自転車の後ろで市役所の竹林から採ってきた笹の葉を揺らした。
「喜ぶよ、あいつ「今年は絶対、笹に短冊を飾る」って言っていたから」
 ユキはもう6月から七夕を楽しみにしていた。
 思えば一回も笹に願い事を飾ったことが無い、という彼女のために僕と吉富が進入禁止と書かれている市役所裏の竹林に進入してびくびくしながら採ってきた笹の葉。
「喜んでもらわなきゃ困るよね」と僕は笑って鼻歌で七夕のうたを唄った。

                           *

 ユキの入院している病院の病室はベッドもカーテンも壁も椅子も白で統一されていて、窓からは水色をした綺麗に透き通る海と砂浜が見えて、初夏の訪れを知らす生温い風が窓際に生けられたユッカ蘭とカーテンを揺らした。
 そんな絵画みたいな病室に入るとユキは僕と吉富を見て「来た」と無邪気に嬉しそうに笑った。
「アイス、食べる?」そういってごつごつした袋を持ち上げると、彼女は1回、2回、首を振ってから、ぱりっと晴れた窓の外を眩しそうに見つめた。
 午前10時なのに日差しは強く、病室の温度計は30℃を指していた。
 もう夏だ、と思ったから「もう夏だね」と豆腐のような冷蔵庫にアイスをしまいながら言った。
 吉富は背中に隠していた笹をいきなりユキのまえに出してさらさらと振った。
 ユキは「なにそれ?」と驚いて声をあげる「なんていう葉っぱ?」
 吉富は「七夕だから採ってきた」と言った。
「タナバタ?」
 ユキはあんなに楽しみにしていたのにもう七夕という行事を忘れていた。
 僕は溢れてくる悲しみを堪えながら「笹っていう葉っぱ」と言った。
「この笹に折り紙で綺麗に飾りつけて願い事を書いた短冊をぶら下げるんだ。そうすると織姫と彦星が願い事を叶えてくれる」
「人?」とユキが言った。
「ん?」
「オリヒメとヒコボシ」
 吉富は腕を組んで少し考えてから「夜空でのろけてるカップル」と言った。
「でも願い事を叶えてくれるなんてすごいわよ。公園で腕を組んでるカップルが私たちの願い事を叶えてくれる?」
「まぁ、たしかにそうだな」
 そして僕たちは病室の白いベッドの上でめいめいに折り紙で作った輪っかや編み飾りや三角つづりなどを笹に飾って余った折り紙を長方形に切って3枚の短冊を作った。
「願い事はひとりひとつだ」と吉富が言った。
「あまり多く書くとカップルが怒っちゃうからな」
 そして僕は青の折り紙の短冊に、吉富は金の折り紙の短冊に、ユキは赤の折り紙の短冊に願い事を書いた。
 書き終わった短冊にはみんながみんな同じことを書いていた。
「なんで三人とも同じなのよ」とユキはお腹を抱えて笑った。
「なんだかすごくもったいないことをした気がするね」と僕は言った。
「でも効力はあるかもしれねーな」

“三人がずっと一緒にいられますように”

 でもこの願い事が叶うことはなかった。

                           *

 季節は冬になった。僕らが三人で過ごした最期の冬。
 この頃のユキは、もうほとんどの記憶を失くしていて初期化はもうそろそろその作業を終えようとしていた。
 でもいくら経っても忘れなかった記憶がひとつある。
 その記憶だけはユキの頭の中にしっかりと残っていて離れようとはしなかった。
 それは僕が笹野 テルだということ。それは吉富が藤原 吉富だということ。
 それだけは彼女が最期まで忘れることはなかった。

 12月17日、病院側にユキの外出願いを出した。
 それはその日の夕方に受理されて18日の昼、久しぶりにアパートに三人が揃った。
 帰ってきたユキは「へえ」と言った。
「ここが私の住んでいたところなんだ?」
 僕と吉富はユキの後ろで横に並んでにこにこと頷く。
「ちょっと残念」とユキは言った。
「なんで?」
「もっと豪邸を想像してたから」
 僕と吉富が顔を見合わせると「冗談よ」と彼女は笑って玄関を開けて中に入った。
 なんとなく、少しだけ、記憶が戻るんじゃないか?と期待した。
 でももちろんそんなことはなかった。

                           *

 その日の夜はユキを真ん中に挟んで久しぶりに川の字になって寝た。
 ユキが「思い出話を聞かせて」と言ったので、僕と吉富はユキと出会った幼い頃まで遡って思い出話をした。
「こないだは病院で七夕をしたんだ」と僕は言った。
「タナバタ?」
「願い事を書いて笹につるすんだ。そうすると織姫と彦星が願い事を叶えてくれる」
「オリヒメとヒコボシって人?神様?なに?」
 僕は吉富を見た。
「おのろけカップルだよ」と吉富が言った。
「私はなんていう願い事を書いてた?」
「それがね」と僕は言った。「三人とも同じ願い事だったんだよ」
「うそ?」
「ほんと。ずっと三人でいられますように、ってね」
「すごい!」
 そして長い沈黙があってから天井を見上げたユキが「ねえ、なんか楽しいね」と笑った。
「そうだね。吉富と二人でこの部屋で寝るのは結構辛かったよ」
 ユキも試してみる?と聞くとユキは遠慮しとくと言って笑った。
 それを聞いた吉富が布団から起き上がり、僕とユキの布団にダイブする。
 
 やがて静まり返った部屋に「聞いて?」というユキの声がした。
 僕は「なに?」と言った。吉富も黙って話を聞いている。
「ひとつだけ怖いことがあるの」
「怖いこと?」
「テルと吉富のこと、大好きよ」
 ユキは細く冷たい指で僕と吉富の手を握る。
 そして震える声でもう一度「大好きよ」と言った。
「だからね、怖いの」
 僕と吉富は黙って話の続きを待った。
「私はテルと吉富のどちらかを先に忘れる。それがすごく怖いの」
 吉富がすぐに「気にすんなよ」と言った。
「そんなこと気にしなくていい」
 僕も黙って頷く。
「ユキ、大丈夫だよ。怖がることは何も無い。ユキが例えば僕を先に忘れてしまったとしても僕はユキの所から離れたりしないから」
 ユキは「ごめんね」と囁くように言って、そして泣いた。
 僕らは三人とも黙ってしまう。
 沈黙のあとで吉富が「ありがとうだろうが」と言って鼻を啜った。
 
 そしてユキは僕と吉富の頬にキスをした。
 それが初めてのキス。最期のキス。
 ユキはその二日後、僕と吉富が学校に言っている間に部屋で首を吊って自殺をした。

                           *

 最初にそれを見つけたのは玄関を開けた僕だった。
 居間の天井からぶら下がった紐で首を吊ったユキはゆらりと少しだけ揺れていた。
 僕の手からトートバッグが滑り落ちて、その場に立ち尽くす。
 吉富はそんな僕を不審に思って僕の肩越しに部屋を覗き、ユキに気がつく。
 彼は靴のまま部屋に上がり、ユキを肩に抱えて、そして首の紐をほどいた。そして玄関で立ち尽くしている僕に救急車を呼ぶように促す。
 僕はふらふらと部屋にあがり、受話器を取り、119を押そうとする。
 手が震える。
 急に涙が出てきた。
 僕は受話器を一旦置き、震える手を思い切り壁に打ち付け、噛んだ。
 手の甲から血が出てくる。
 それでも震えの止まらない手を見ながら、頼りなく吉富の名前を呼ぶ。
 吉富は僕から受話器を取って、救急車を呼んだ。
 僕は居間に下ろされたユキのもとへ行き、真っ白な顔に手をあてる。
 傍らには封筒が置いてあった。僕は泣きながらそれを手に取り、慌てて封を開ける。
 中には一通の手紙が入っていた。

                           *

 テル 吉富へ

 テルと吉富がこれを読んでいるとき私はこの世にはいないよね?
 きっと吉富は「ふざけんなよ!」とか言って怒ってるかなぁ。
 テルと吉富のこと私の中に今でもはっきりと残っています。
 二人と一緒にいた思い出は私の中にもうないけれど、まるで全ての細胞が手を添えてテルと吉富を守っているの。
 最近では自分の記憶が無くなる周期みたいなものがわかります。
 次はあれ、その次はこれって。
 たぶんもうそろそろ私は私を忘れて、その後できみたちのことを忘れる。
 私は他のどんな思い出も忘れてしまっていいから、例え私自身が私のことを誰だかわからなくなってもテルと吉富のことを忘れたくないんだ。
 だから私は私がテルと吉富を忘れてしまう前に消えることにしました。
 だって二人を忘れてしまうのは私にとって死んでるのと同じことだもん。
 テル、いつも優しいテルでいなさい。そこがあなたの良いところなんだから。
 吉富、ちょっと口は悪いけど本当は温かいってこと私は知ってるんだよ。隠したって無駄。
 二人のことは絶対忘れない。大好きよ。
 素敵な女の子を見つけて恋をしたり、自分の好きなことを一生懸命にがんばりなさい。
 ねぇ?私が見てないと思って弱音なんて吐いたら空の上から怒ってやる。
「こら、テル!」「しっかりしなさい、吉富!」って。
 いつも空の上から見守ってるんだからね。
 明日も明後日も。そのあともずっと。
 
 さよなら。

                           *  

 この手紙の最後には、何かを書いてから消しゴムで消した跡があった。
 僕はそれを泣きながら陽に透かして見てみる。
 そこには色々な女性の名前が試行錯誤したように書かれていた。
 彼女は最期の最期で自分がどこの誰なのかという記憶を失くした。

 1990年 12月20日 ユキは死んだ。
 幼馴染同士の僕らは、記憶を辿っていくと一番古い記憶にお互いが顔を出す。
 つまり20年間くらいずっと一緒にいたことになる。
 でも僕はその20年間を長いとは思わなかった。
 そしてその20年間は当然のことのように、40年間、60年間と増えていくものだと思って疑わなかった。
 だから医者から彼女の死を正式に告げられたときに「ここで終わりか」と思った。
 夏休みが去ってしまったようなあっけない喪失感。
 彼女は彼女の名前のとおり、雪のようにすぅっと僕らの前から姿を消した。
 当たり前のように続いていくと思っていた時間は20年で終わり、もうそれが増えることもない。
 そして僕はこの世に確約された明日なんてないことを知る。

                           *

 僕は彼女の葬式の日、三日間行方知れずの吉富の姿を探した。
 でも彼の姿はやはりどこにも見当たらなかった。
 まるでその存在が嘘だったみたいに存在感も気配も何も無かった。
 次に僕が吉富を見たのは40年後のブラウン管の中。
 彼はネクロマンサーと呼ばれていた。


 ♯5話     殺人犯 笹野 照の犯行


 藤原研究所の受付で「藤原 吉富に繋いでください」と言うと、警備の男性は不審そうに目を細めて僕を見て、それから面倒臭そうに「名前は?」と胸ポケットからボールペンを取り出し、書類に向かった。
「笹野 照」
 彼はしばらく動きを止めて、何かを品定めをするように僕を見た。そしてもう一度目を細めてから「ちょっと待ってて」と書類に僕の名前を書き留めてから、手元に置かれた内線電話で誰かに連絡を取り始めた。
 僕はざらざらした壁に背を預けて、辺りを見回す。
 研究所は意外に狭く、少し歩くと階段があって、それ以外には通路が真っ直ぐと延びているだけだった。内装的特長といえば、そこはユキが入院した病室のようにだいたいのものが白で統一されていて、消火器さえ白く、カメレオンのように環境に適応して体色を変えてしまったようで、僕にはそれがとても役割を果たすようには思えなかった。
 男は受話器の送話口を自分の肩の辺りで押さえて「ご用件は?」と言った。
「あぁ?」
「ご用件は?」
 僕は少し考えてから「島谷 ユキのことについてちょっと」と言った。
「島谷 ユキ?」
「教授に言えばわかる」
 そして男は首をかしげながら腑に落ちないような表情で首を傾げながら、受話器の向こうの人間に用件を伝えた。
「どうぞ」と男は言った。「教授の了解が取れた。真っ直ぐ行くと部屋がある。教授はそこに」
 僕は「どうも」とお礼を言って、薄暗い静寂の廊下を靴の裏で鳴らしながら歩いていく。
 冬だからか廊下はとても冷えていて、人ひとりいなかった。
 これならわざわざ警備の男性に名前を告げなくても、簡単に進入できたかもしれない。
 失敗したな、と思った。
 そして僕はトレンチコートの内ポケットに隠した銃をそっと確認する。
 それはそこでちゃんと息を潜めている。
 汗ばんだ手で何度も確認したせいか、銃のグリップは少しべたついていて、僕はコートの裾で両手を拭って、長く白い廊下を進んだ。

 やがて廊下はぷつりと途切れ、目の前に大人二人ぶんの背丈はあるだろう大きな扉が姿を現した。
 そこには蘇生場と書かれていて、関係者以外立ち入り禁止というプレートが堂々と貼り付けられていた。
 この先に吉富がいると思うと胸が早く鼓動を打ち始め、緊張をしていた。
 でもそれは喜びの緊張ではなかった。どちらかというと嫌な緊張感。
 感動の再会にならないことは予感していたし、僕もそうするつもりは毛頭無かった。
 場合によっては彼を殺さなくてはならない。
 そして20年の付き合いが、おそらく殺すことになるだろうという事実を突きつけた。
 それとも会わなかった40年の間に彼は聞き分けのある人間に変わったのだろうか?
 願わくばそうであることを祈りながら、僕は扉に手を添えてそれを力強く押した。扉は冷たく、重く、巨人のうめき声のような音を立ててゆっくりと開いた。
 冷気のスモークが僕の身を包んで、一瞬だけ視界を真っ白にする。
 そしてそのスモークの奥に現われはじめた光景はとても異様なものだった。
 まず目に付いたのは数え切れないくらいの研究員たちだった。
 彼らは皆一様に白い白衣を着て、黙々とそれぞれに与えられた作業をこなしていた。
 部屋(というか大ホールといった感じだった)の真ん中には大きな球体があり、そこに象の鼻のような管が何本も繋がれていた。
 そのまわりには何列ものベルトコンベアーが張り巡らされていて、一定感覚で置かれた、鎖で巻かれた鉄の箱がゆっくりと流れていく。
 どうやら最終的にその箱は象の鼻を通って球体に吸い込まれていくようだった。
 ときおり象の鼻はどくんと脈打った。
 ごーん、ごーん、と地鳴りのような音もする。
 あっけに取られてその様子を見ていると「よう」と誰かが僕の肩に手を置いた。振り向くと、そこにいたのは、ほったらかしの長髪に無精髭に汚れた白衣。TVで観たままの吉富だった。
 僕はあまりにも突然現われた彼に驚き、息を呑む。
「久しぶりだな」
 かろうじて僕も「ひさしぶり」と答える。
「ずいぶんいきなり来たもんで驚いたぞ」
 そして握手を交わした。
 でもそれが友好的な握手ではないことを、僕も、きっと吉富も感じていた。
 吉富は研究員に「撤収!30分の休憩に入る!」と叫んでから僕の前をゆっくりと歩き始める。僕は彼のあとに続く。そしてその横を研究員たちが小走りで通り過ぎていく。
 球体の前に辿り着くと、吉富はそこで立ち止まり「ユキが死んだ日以来だな」と口を開いた。
「おまえ、変わってねーなぁ、少し汚い身なりだけど。元気だったか?」
「元気だったよ。今はホームレスなんだ」
 吉富は「ほう」と言った。「失業か?」
 僕は黙って頷く。
「俺はネクロマンサーさ。ここでこうして死人を蘇生させている」
「よく知ってるよ」
 吉富が微笑みながらぼさぼさの頭をかくと、ふけがぽろぽろと落ちた。
「ベルトコンベアーの上に鉄の箱が乗ってるだろ?あそこに死人の魂が入っているんだ」
 吉富はそのベルトコンベアーの道筋を指でなぞりながら「そんで、ここで」と球体を手の甲で、こん、こん、と鳴らして「魂に息が吹き込まれる。でもこの段階ではまだ蘇生は完成してないんだ。最後に俺が作業をする。ネクロマンサーだからな」と誇らしげに言った。
「それが終わればもう簡単さ。蘇生した死人は亡くなるきっかけになった場所へ飛ばされる。ほら、そうしなきゃ病院がいっぱいになっちまうだろ?ほとんどの人間が病院で死ぬんだ。だから死ぬ原因になった場所へ飛んでいくように死人の脳にインプットしてある」
「ユキの場合は?」と僕は訊ねて、話を本題に持っていき始めた。
 吉富は少し間を置いて、自分を落ち着けるように息を吸ってから「あいつの場合はあのアパートに転送される」と言った。
「でも死後5年以上経ってるから生き返せない。蘇生法の対象外だ」
「生き返すよ。例えそれが法律に逆らっていてもな」
「そう言うと思ったよ。だから止めに来た」と僕は言った。
「止める?」
 吉富はくるりと風を切るように振り返って「俺はあいつを蘇生させる」と両手で天を仰いだ。
「そんなことはやめろ」
「やめるもんか! 俺はそのためにあの日おまえのとこから姿を消したんだ。知ってるか?俺はドク先生の家にいたんだぜ?先生のとこでずっとネクロマンサーになる勉強をしてたんだ。なぁ、俺がなんで一度も姿を現さなかったかわかるか?」
「そんなことどうでもいい!」と僕は遮った。
「これは国民全員を巻き込んだ犯罪だ」
 吉富は額をさすって「何言ってるんだ?」と溜め息をついた。
「蘇生してみんな喜んでる。それに俺たちもユキが蘇生すればそれでいいじゃねーか。また三人でアパートでも借りて一緒に暮らそう」
 僕は大きくかぶりを振った。
「さっき、きみは死人の蘇生場所を“死人の脳にインプットした”って言ったよね。ネクロマンサーは死人の情報をインプットすることが可能なんだね?」
「そうだな。そのとおりだ」
「これで確信が持てた」
「確信?」
「最近、死人の間で記憶を失う人が続出した。まるでユキと同じように」
 吉富は腕を組んだまま黙って僕の話の続きを待つ。
「ネクロマンサーのきみがその病気の情報を全ての死人にインプットした」
 すると吉富はひゅぅっと口笛を鳴らして、お手上げ、とでも言うように両手をあげた。
 「そのとおり。今の蘇生じゃぁ、生前の病気は取り除けない。ユキが蘇生をしたとしても、あのやっかいな病気がついてきちまうからな。それじゃぁ繰り返しだ。あいつはまた記憶を初期化するだけさ。だから俺はユキのあの病気を完全に治してやらなきゃいけねーんだ」
 「そのためにはユキと同じ病気を持った実験体が必要だったんだね」
 吉富はそこまでわかっていたのか、とでも言いたげにもう一度溜め息をつき、「そう。全ての死人はユキのサンプルでしかない」と笑った。
「考えてみろよ、テル。何千万人ものサンプルがいるんだ。これでユキの病気は必ず解明できる。治すことも出来るようになる」
「でもそんなことがばれたら吉富は立派な犯罪者だ。きみはきみの実験を蘇生と偽って国民を騙しているんだから」
 彼は死人を利用していた。そして彼にとって死人は捨て駒でしかなかった。言い換えれば実験用マウス。
「ばれねえよ」と吉富は僕に背を向けて、球体をゆっくりと撫でる。それは僕になにかを見せ付けるパフォーマンス的な仕草だった。
「研究所では俺しか知らない事実だ。研究員は何も知らずに蘇生を行っている。俺が「知らない」って言えばそれで済む。例えば、おまえがこのことを世間に公表してばれたって、せいぜい裁判起こされて賠償金請求されるくらいじゃねえか? 金ならいくらでもある。金で解決できるなら金で解決する。それにもともと死んでいた人間たちなんだ。今さらそうなっても誰も文句は言わねえよ」
「悪魔だな」
「人は俺を神様って呼んでるぜ? 俺を首相にしたくて署名まで集めてる」
そして吉富は言った「ユキが好きなんだ。あいつを生き返してやりたいんだよ」
 吉富はユキが死んだあの日から時間が進んでいないんだ。まだユキの死の中でもがいている。
 僕はコートの内ポケットに忍ばせた銃に手を当て、それがそこにあることを確認してからもう一度「蘇生をやめろ」と言った。
「やめねえよ」
 僕は銃を勢いよく取り出し、吉富の胸の辺りに両手で構えた。
 震える左手の親指で銃のハンマーを下ろしてシリンダーを回す。弾がゆっくりとセットされる。
「おいおい、勘弁してくれよ」吉富は怖がる素振りを見せながら、肩の上で手を挙げた。
「ユキは蘇生を望まない。そうゆう性格だってことは僕たちがいちばんわかっているだろ?」
「どうかな?」
「これ以上、人の命を弄んだらいけない。今すぐ蘇生をやめろ! やめなきゃ撃つ!」
 僕は銃の引き金に指を絡め、ミリ単位でそれを引いた。まだ弾は出ない。
「ユキ一人のために何人の死人を犠牲にするつもりだ。ユキが死んだことも、運命だったって割り切るしかないんだよ!」
「割り切れねぇから俺はこうやってネクロマンサーになったんだろうが!」
「なにがネクロマンサーだ! なんだよ、蘇生って! ふざけんな! 吉富が都合の良いように利用してるだけじゃないか! そんな法律があったらいけないんだよ! なぁ、吉富。僕たちはユキのいない世界で生きていかなきゃ!ユキはもう40年前に死んだんだ!」
「あいつは望んで死んだんじゃねーんだよ。死を選ばされただけなんだ!おまえはユキのことをなにもわかってねーんだよ!」
「わかってないのは吉富だ!」
 そして僕は引き金を引いた。引いてしまった。
 渇いた音が響いて、衝撃で銃口は細い煙をくゆらせながら上を向く。
 手が震え、握力を失い、銃が僕の手から落ちていく。
 床に転がったそれに目をやって、自分の両手を見つめ、吉富を見る。
 彼は白衣の右胸辺りを真っ赤に染まらせて、何か声をあげながら傷口を手で押さえ、僕を見た。彼は驚いたように目を見開き、そしてすぐに細めた。
 僕の口から「あ、あぁ…あ」と無意識に声が出た。
 吉富は詰まっていた排水溝へ水が流れ出すような音を立てながら喀血する。
 白い床に血溜りが出来て、吉富は覚束ない足元で後退りをして、球体にもたれ、ずるずると倒れた。
 球体にはなぞるように血の跡が残った。
「吉富……?」
 僕はゆっくりと彼の元へ歩み寄って頬を叩きもう一度彼の名前を呼んだ。
「 実弾かよ、ちくしょう」
 彼は囁くように言って、口からは鮮やかな赤い血を垂らし続けた。
 僕はどうしていいのかわからず吉富の血で染まった手で自分の額を拭ったり、吉富の手を握った。
 僕は涙を流していた。
 自分で撃ったくせに彼が死んでしまうのが怖かったし、死なせたくないと思っていた。
「泣くくらいならやるなよ」
 吉富は震える手を僕の頬に伸ばして、ぽん、ぽん、と叩き笑った。
 そして吉富は、俺が悪いのか、お前が悪いのか? と笑って「俺にはもうわかんねーや」と言った。
「すれ違っちゃったな」
 僕は彼の口元に耳を近づける。
「お互いユキを大切にして……だからすれ違った」
「そうだね」
 僕の涙が吉富の頬に落ちるたびに彼はぴくんと瞼を揺らす。
 そして天井を見つめていた彼は手を伸ばし「あぁ……」とうめき声をあげた。
「来てくれたのか?」
 僕が彼の見ているほうに視線をやっても、そこには天井が広がっているだけで何もなかった。
「ん? まぁ、そう怒るな。ユキ、全てはおまえのためだったんだぜ」
「何言ってるんだよ、吉富!」と僕は彼の体を揺らした。
「ユキが俺を迎えに来てくれてたんだ」
「来てないよ、ユキは死んだんだ!」
吉富は首を振り、生きてる、と微笑んだ。それが比喩的になのか、本当にそう思って言ったことなのか僕にはわからなかった。
「こうすればすぐに会えたんだよ、テル」
 吉富は「ユキ」と言った。
 そして彼はもう一度僕を見て微笑んでから、「またあとでな」と言って目を閉じた。
 首が力を失くし、僕が握っていた吉富の手はふらりと床に落ちていく。
 僕は彼の手首に指を当てて脈を探したが、それを感じ取ることは出来なかった。
 藤原 吉富は死んだ。
 そして銃声を駆けつけた何人かの研究員が慌てて戻ってきて、吉富の血に染まった僕と血だらけになって横たわる吉富を見つけて絶句する。
 僕は落とした銃を拾って研究員に銃口を向けた。
「来たら撃つ」
 研究員は戸惑ったまま僕を見て、そして吉富に目をやり「先生!」と口々にそう叫ぶ。
 僕はゆっくりと銃を自分のこめかみに当てた。
 もう何回も自分の頭でシュミレーションしてきた動作だった。
 さっき撃ったばかりの銃の銃口は熱を持ったまま、額から流れてきた汗を蒸発させる。
 僕はあの黒猫のことを思い出していた。
 そして凛ちゃんの静くんのことを思い出し、彼らに「すまない」と呟いた。

 吉富とユキと僕が三人で過ごした日々を思い出すと震える手がぴたりと落ち着く。
 ユキ、吉富、僕も今そっちへ行くから。

 そして僕は引き金を握る指に力を込め、それを引いた。


 パンッ!


 第9話     蘇生法廃止     


 藤原教授が亡くなったというニュースが速報で入ってから、各テレビ局は放送内容を変えて緊急特番を組んだ。
 あるコメンテーターは言った。
「いいですか? 藤原教授が亡くなったとなれば、この先もう蘇生は行えませんよ。蘇生を最終的に行っていたのは彼ですからね、研究所なんてもうシャッターのなくなったカメラみたいなもんですよ。笹野 照が藤原教授を射殺したという事実は、蘇生を支持する日本中の人間を巻き込んで被害者にした重大な犯罪なんですよ。彼は藤原教授を殺したのと同時にこの国の発展をも停めてしまった。蘇生法さえあれば日本は世界の中心になれたはずなんです。笹野 照は今世紀最大の犯罪者です!」

                           *

 12月の空を鳥がいびつな線を引くように飛んでいく。
 冬の町はやけにくっきりと見えて、年老いた老犬を連れて歩く人も、葉を落とした銀杏や桜の木も、色あせた栄養ドリンクの看板も、夏のそれよりはっきりとした輪郭でぼくと凛の横をスライドしていく。
 ときおり吹く風が冷たくてぼくは亀のように首をすぼめた。
 「静くん」と凛が言ったので、ぼくは振り返った。
 凛はぼくの三歩後ろ辺りで立ち止まり「テルさん、痛かったかな?」と言って指で作ったピストルをこめかみに当てた。
「平気だよ。痛いと思うことすら出来なかったと思う」
「それって“平気”なの?」
「平気じゃないか」ぼくが鼻を啜ってから少し笑うと、白い息が浮かんで消える。
「後悔してないかな?」と今度はぼくが聞いた。
「うーん」と唸って凛はこめかみに当てた指を静かにおろす。
「それはテルさんにしかわからないわね」
 でもさ、と凛は言った「テルさんに後悔は似合わないよ」
「そうだね」とぼくは頷く。
 たしかにテルさんに後悔は似合わない。

                           *

 テルさんの公園に着くと、主を失くした黒猫が赤いベンチに座り空を見上げていた。
「マスコミは来ていないみたいだね」
「テルさんが亡くなったことより、藤原教授が撃たれたほうのが事件なんじゃない?今日はみんなそっちに行っちゃってるのよ、きっと」
 そして凛は猫の頭をちょんと叩いて「こんにちは」と言った。
 猫は黄色い目でじっくり凛とぼくを見ると「なんだ、いつも来る夫婦か」とがっかりしたように小さく欠伸をしてから、再び灰色の空に目をやって鳴いた。
 まるで空にテルさんの姿を見ているようだった。
「あんなにあったコレクションはどこにいったのかしら?」
「そういえば見当たらないね」
 林の中のコレクションはすっかり無くなっていて、小屋の姿もなかった。
 亡くなる前の身辺整理は、テルさんがなんらかの決意を持って今回の犯行と、そして自殺に及んだことをぼくに伝えているような気がした。
 なんだか、寂しくなる。
「もしかしたら、どこかで雑貨屋でも開いていたりして」と凛が言った。
「屋台に雑貨を積みながら日本中を歩き回ってるの」
「じゃぁ、この花はいらない?」
 ぼくはピンクと淡いオレンジのガーベラの花束を振って見せた。
 凛はしばらく考えてから俯いて、かぶりを振る。
 お供え用には派手な花束ではあったけれど、凛が「菊はいかにもって感じがして寂しい」と言って聞かなかったから、ぼくらはあえてガーベラを選んだ。
 これじゃぁ結婚式用の花束だよ、というぼくの言葉どおり、花束にはサービスでHappyWeddingと書かれたポストカードが添えられて、そこに凛が「ご冥福をお祈りいたします」と書いたので何がなんだか意味がわからなかった。

 ぼくらはその花を赤いベンチにそっと供えて、手を合わせる。
「こんなところをあのコメンテーターに見られたら石を投げられるね」と凛は言った。
「でも反蘇生派の人は缶コーヒーをおごってくれるかもしれない」
「なにがなんだかさっぱり」
「ほんと、そのとおり」
 ぼくの頭に、口の中で何かを噛んで笑うテルさんの笑顔が浮かんで消えた。

                           *

 この日から、反蘇生派の人間が一気に力をつけてきた。
 駅前の街頭演説はその声をさらに大きくして、もう意味を持たない蘇生法の撤廃を求め、署名を集めた。
 一部の死人との暴動が起こり反蘇生派側の人間に死者も出た。
 しかしその親族が蘇生を行わないことを涙ながらに表明すると、世間は一気に蘇生法廃止の方向へと加速していく。


                           *

 それから一週間後の夕方、買い物を済ませてアパートに帰ってくると玄関のまえに晴樹と真希がいた。
 またじゃんけんに負けて、両手いっぱいの荷物を持ったぼくはそれを足元に降ろしてから「珍しい顔合わせだね」と息を切らし額を拭った。
 晴樹はぼくをちらっと見ると視線を落とし、真希は悲痛な面持ちで凛とぼくを見た。
「どうしたの?」と凛がにっこりと笑った。
 五時になって夕焼け小焼けのチャイムが鳴った。
 その合図でアパートの脇の電灯がぱちぱちと灯り始める。
 何も答えない二人に今度はぼくが「どうしたの?」と聞いた。
 沈黙のあと「蘇生法の廃止が決定した」と晴樹が答えた。「もう蘇生は行えなくなるらしい」
 あのコメンテーターの言うとおりだ。
 藤原教授がいなくなれば蘇生法なんてシャッターの無いカメラで、それは片方だけの耳栓やサンダルと同じくらい使い道がない。
 そう考えると残念だけれど、廃止も納得のいくものだった。
「よく聞けよ、静も凛ちゃんも」
 ぼくはもう一度「どうしたの?」と聞いた。
 晴樹は玄関にもたれて腕組みをしたままぼくと凛を交互に見て、群青色の空に視線を移した。
 真希も晴樹を見つめている。
 凛は二人の様子がいつもと違うことに気づき、神妙な顔で「なに?」と言った。
 ぼくも胸をどきどきさせていた。
「死人は回収される」
 その瞬間胸の鼓動は収まり、今度は何かがぼくの胸をぎゅっと掴んだ。
 レモンの果汁を搾るようにぎゅっと。
「……あ? え? ちょっとまって。回収? どうゆうこと」とぼくは腰に手を当て、額をかいた。
 晴樹は無念そうに目をつぶった。
 ぼくは真希を見る「政府が決めたの。詳しいことは今夜、記者会見を開くって」
 凛は悲しそうな顔で床に置かれた買い物袋の辺りを眺めていた。


                           *

 玄関の脇にあるスイッチを押して冷蔵庫みたいな部屋に明かりを灯す。
 靴棚のうえの金魚鉢に凛は食パンを千切って、ぱらぱらと落とす。
 ちゃぷちゃぷと金魚が水面を口で鳴らす音がする。
 テレビをつけると画面に「蘇生法廃止!死人の回収決まる」という字幕が出ていた。
「コーヒーでいい?」とキッチンで凛は言った。
「眠れなくなっちゃっても私のせいにしないでね」
 凛の冗談に笑う人間は一人もいなかった。
 コーヒーメーカーがこぽこぽと鳴る音を背中に聞きながら、ぼくと凛と晴樹と真希は記者会見を待った。
 会話は晴樹が「この部屋、寒いな」とか真希が「お手洗い借りるね」と言っただけでほとんどなく、ぼくの膝に置かれた手が汗ばんでくるのがわかった。
 そして午後6時、記者会見が始まった。
 ぼくらは穴が開きそうになるくらい画面をじっと見つめた。
 誰かがまばたきをするとぱちっと音がしそうなくらい部屋は静かでコーヒーメーカーだけが相変わらずこぽこぽと鳴っていた。
「えー、では早速、蘇生法撤廃について及び死人の回収についての記者会見を始めさせていただきたいと思います」と司会らしき男が言った。黒いスーツを着たつまようじみたいな男だった。
 画面の左端から見慣れた白衣を着た三人の男がフレームインして、司会の男は彼らを藤原研究所研究員と紹介した。
 彼らは綺麗に並んで一礼をしてから椅子に座って、真ん中の男がマイクのスイッチを入れた。
 キッチンでこぽこぽと鳴っていたコーヒーメーカーが蒸発音に変わり、凛は「あ」と慌てて立ち上がりキッチンに行く。
 ぼくは振り返り凛の背中を見ながら真希に「凛の入れたコーヒーはおいしいよ」と言った。
 真希はTV画面を見ながら「楽しみだわ」と社交的に返事をする。
 この会見はぼくと凛に関係することなのに、ぼくと凛が一番関係ないような素振りでそこにいた。
 そうゆう意味では真希と晴樹はぼくら夫婦の本来あるべき姿なのかもしれない。模範的態度。
 でもぼくは必死に、今目の前で起こっている現実から目を背けようとしていただけだった。
 凛もまた、いつもと同じ振る舞いをすることで自分自身を保とうとしていたのかもしれない。
 晴樹が言った死人の回収。それは明らかに凛とぼくの別れを表していたのだから。

 凛はコーヒーカップをTVの前のガラステーブルに人数分置いてから、ピッチャーでコーヒーを注いだ。
 コーヒーカップからは細く白い煙が立った。
 真希が「いただきます」とカップの底をスプーンでかき混ぜてからそれを啜った。
「本当においしいわ」
 ぼくは「ね」と微笑んでからコーヒーを啜った。
 苦くもなく甘くもなく、ふんわりとミルクの味がした。
 会見は三人の簡単な紹介が終わり、藤原教授が死んだという説明が終わり、今まさに確信に触れるところだった。
「先程の繰り返しになってしまいますが、ご存知の通り藤原教授が亡くなりました。教授はネクロマンサーとして蘇生の最終段階で全ての死人に命を吹き込みました。そのあたりの経緯についてはここでは省略させていただきますが、しかし我々の研究所には教授以外ネクロマンサーがおりません。藤原教授が亡くなった今、蘇生は出来なくなりました。命を吹き込むという一番大事な作業を行える人間がいなくなってしまったのです。今後、新たなネクロマンサーが出てくるような保障もありません。よって我々は政府と話し合い蘇生法の廃止を決めた次第であります」
 
 会見は淡々と進んでいく。

「続きまして死人の回収についてですが、来る12月の20日、この日は奇しくも蘇生がはじめて成功した日でありますが、死人の回収を行うことを正式に決定いたしました」
 一斉にフラッシュが焚かれる。
 凛は悲しそうな目で画面を見つめ、じっと次の言葉を待っていた。
「回収、すなわち再び死人を死んでいた人間に戻すということですね。理由につきましては、みなさんの記憶にも新しいことと思いますが今年の8月に死人の記憶がなくなるという不具合が生じました。あれ以来、比較的に症状は落ち着いていますが、死人の皆さんは何らかの記憶障害をインプットされて蘇生されていることがこのたびの調査でわかりました。申し上げにくいことではございますが、藤原教授が関与しています。そのことについては調査段階でしてまだなんとも言えないのですが、今後、この病気がまたいつ発症するかわかりません。考えてみてください。ある日突然、日本中の死人が記憶を失くしたらどうなりますか? 日本はパニックになり生き人への負担も増えます。 よって私たちは蘇生法の廃止と同時に死人の回収も決めました」

 ぼくは続きは見ずにテレビを消した。
「納得できないよ」と真希は折り曲げた膝のうえにこつんと顎をあてた。
 晴樹も「勝手すぎる」と言った。
「だいたい、不具合とか回収とか、なんだよ。壊れたおもちゃみたいじゃねーか」
「いいの」と凛がテーブルの上に置いた指をいじりながら言った。
「私、いきなり記憶を失って拓海くんや真希や晴樹くんに迷惑をかけたくないもの」
「凛……でも、やっぱりこれにはちょっと納得できないよ……」とぼくは言った。
 彼らのやろうとしていることは、ナチスがユダヤ人を強制収容所に送り込んだのと同じようなことだ。
 晴樹の言ったように凛は生きている。
 心臓だって動いてるし、体温もある。笑いもすれば泣いたりもする。
 これは人権の侵害だった。
「いいの」と凛がもう一度言って立ち上がって、笑いながら前髪をさっさと整えた。
「……私ってもともと死んでたはずの人間なんだから」

“もともと死んでいた”
 凛のこの言葉こそ藤原研究所と政府の言葉で、彼らの強みだった。
 彼らは死んでいた人間を半年間だけ生き返らせたのだ。それは普通なら起こりえない奇跡だった。
 そのおかげでぼくは死んでしまったはずの凛と再会できたわけだし、ぼく以外の人もそうだ。
 そう思うと、もう何も言うことが出来なかった。
 行き場の無い怒りがただふらふらと心の中を漂っていた。


 第10話     最初の喧嘩。油揚げ。最後の喧嘩


 ぼくの人生の中で決定したことに抗議をして覆ったということはあまりなかったように思う。
 例えば、高校の頃の席替えで教室の真ん中の列、一番前の席になってしまったことがある。
 そのときぼくは「黒板が近すぎてよく見えない」と理由のわからない嘘をついて、一番後ろの席にかえてもらおうとしたわけだけれど、結局高校二年の2学期はその席で授業を受け続けることになる。
 皮肉にも授業態度は「5」になった。

 そして死人の回収もまた覆ることはなかった。
 全国から何千、何万、何十万の署名が政府に提出されても国からは何の音沙汰も無く、ただ時間だけが静かに過ぎていった。
 デモや署名活動を続けるぼくらの振る舞いはまるで子どもの家出のようだった。
 国の政治にかかわる人物からしてみればこんな抗議はなんの意味もない。
 しかしぼくらは歩き続けなければならなかった。
 例えこの行為に意味が無くてももうそれしか残されていなかったし、それしか出来なかった。
 駅前ではぼくらの「死人回収中止の署名にご協力ください!」という言葉だけが無常に響く。
 もう大半の人間がこの決定は変わらないと思っていた。
 冬の午後六時、まばらな人たち、振り返る人はもういなくなっていた。

 そして、ぼくらの抵抗にあっけなく幕が降りる。
「もう、やめよう」と凛が言ったのだ。
 灰色の空からは真っ直ぐな冷たい雨が降っていて、ぼくらの雨合羽をぼつぼつと鳴らした。
「何?」とぼくは聞こえなかったふりをして聞いた。
「……やめよう」
「やめようってなんだよ!」と雨がにじませる駅前にぼくの張り詰めた声が響いた。
 凛は、びくっ、と体を反応させてから「もう、いいの」と悲しそうに俯いて言った。
「真希も晴樹も、凛のためにこうやって毎日来てくれてるんだよ?」
「わかってる!」
 雨の真ん中で喧嘩をはじめたぼくらを、晴樹と真希は黙って見つめている。
「このまま何もしないと凛は消えちゃうんだよ?」
「それもわかってる。でももう政府は動いてくれないよ!」
 凛が雨に濡れた顔を手で拭きながら言った。
「そんなのまだわからないじゃないか!」
「わかるよ!」
 署名を集めているときはぼくらの声に耳を貸さない通行人たちが、ぼくらの喧嘩の声には振り向く。
「静くんだって、わかってるんでしょ?」
 ぼくは黙ってしまう。
 このまま、と凛は言った。
「このまま何も変わらずに時間が過ぎていくなら、私は残された7日間、悔いなく生きたい」
 ぼくは黙って凛を見ていた。
「今度はきちんと静くんの前から消えなきゃ」
そして凛は「……そうしないと今度こそ未練を残しちゃうよ」と言った。
 晴樹がぼくの肩に手を乗せた。
「俺らはさ、凛ちゃんのためにデモに参加したり、署名を集めているわけだよな?」
 ぼくは晴樹を見ずに凛と目を合わせていた。
 彼女もまた、ぼくに負けないようにその視線を真っ直ぐぼくへと向けた。
 晴樹は続けた。
「その凛ちゃんがやめようって言ってるんだ。凛ちゃんがもう満足なんだよ。ここから先をやるのは俺らのエゴだ。なぁ、静。凛ちゃんの好きにさせてやろう」
 真希も用意していた署名用紙をショルダーバックに黙って片付け始めた。
 雨がぼくの顔を濡らしていたせいで、自分が泣いているのか泣いていないのかよくわからなかった。
「……ぼくだって、また凛に未練を残すのはごめんだ」
 そしてぼくは凛から目を逸らし、自分のびしょ濡れのスニーカーに視線を落とした。

                           *

「久しぶりに喧嘩したね」
 晴樹と真希と別れてから、雨の中で自転車の後ろに乗せた凛がぽつりと呟いた。
 ぼくは頷く。
 合羽のフードが風の抵抗ですぐにぼくの頭から離れ、そのたびに凛はそれを元の位置に戻してくれる。
 ぼくは「はじめて喧嘩したときのこと覚えてる?」と聞いた。
「ちょっと、忘れちゃった」
 それが例の死人の記憶のことで忘れているのか、本当に忘れているのか、それとも忘れたフリをしているのか、ぼくにはわからなかったけれど話を続けた。
「結婚してまだ最初の頃、凛の作った豆腐の味噌汁に油揚げが入ってなかったんだ」
 防波堤に沿って立てられた電灯が雨を照らす。
 テトラポットを鳴らす波の音に敵意を感じてペダルを漕ぐ足を速めると、車輪が雨道に沿ってぴしゃーと鳴って走っていく。
「ぼくは「油揚げは?」って凛に聞いたんだけど」
「私はどうしたんだっけ?」
「凛は、豆腐に油揚げは入れないよ?って言ったんだ。それで口喧嘩が始まった」
「うそ? それだけで?」と声の感じで、凛が笑っているのがわかる。
「うん」ぼくはちらりと後ろを向いて、すぐに前を向いた。
 二人乗りで後ろを向くというのは多少のリスクを伴うけど、ぼくは凛の笑顔を見ておきたかった。
 別れというのは全ての価値をあげる。
 凛の笑顔なんて見慣れていたはずなのに、ぼくはその笑顔に価値を見出していたのだから。
「その日は口を聞かなかったよ」
「油揚げのせいで?」
「そう。油揚げのせいで背を向けて寝た」
 それを聞いて凛は「子どもみたい」とくすくす笑う。
「でもぼくは次の朝、すぐに凛に謝るんだ」
 結局は、とぼくは言った。「凛と油揚げどっちが大事かって事だよね」
 凛は黙っている。きっと顔を真っ赤にしているのかもしれない。
 ぼくはもう一度後ろを振り向こうとしたけれど、車が来たからそれを諦めた。
「その日の夕飯には油揚げ入りの味噌汁が出たんだよ」
 それがぼくたちのはじめての喧嘩の結末。
 まだ幸せを疑うことなかった頃の淡い出来事。
 そしてぼくは今日のあの喧嘩が凛との最後の喧嘩になることを予感していた。
 そう思うと、喧嘩さえ名残惜しい。
 やはり別れは全ての価値をあげるんだ。

                           *

 アパートに帰ってきて金魚に餌をあげてから、ぼくらがまずしたことは湯船に湯を張ることだった。
 体は雨に打たれ芯まで冷え切っていて、おまけに部屋は冷蔵庫のように寒い。
 ぼくらは部屋の真ん中でストーブをつけて一枚の毛布に包まって風呂が沸くのを震えながら待った。

 あまりにも寒かったのでぼくと凛は二人で風呂に入った。
 凛は「そんなの大袈裟」と笑ったけど、このまま部屋に残されたほうは凍死するかもしれないと本気で思った。
 同棲していたときも結婚してからも一緒に風呂に入るなんていうのは初めてで、案の定凛は顔を真っ赤にしていて恥ずかしそうに華奢な体にタオルをあてていた。
 まるで西洋絵画に登場する女神のモチーフのようだった。
「ねぇ」と凛がうつむきながら言った。「よくよく考えるとこっちのほうが寒いよね」
 ぼくは凛一人が入っていっぱいになった湯船を見て「そうかも」とこめかみの辺りを掻く。
 凛は上目遣いにぼくを見て、いいの? と訊いた。
「大丈夫。ぼくは体を洗うから凛は湯船につかっていて」
凛は微笑んでから頷いて、もう一度肩まで湯船に浸かって、ふぅ、と息を吐いた。
「凛、湯船から頭を出して」
指示に従って頭を出した凛にシャワーをかける。わ、と凛が驚き、声をあげた。
 ぼくはシャンプーを適量、手のひらに取って凛の濡れた髪の上で泡立てる。
「シャンプーは得意なんだ」
 凛は「床屋さんだもんね」と言って笑った。
 風呂場には湯気と小さな泡が漂っていた。
 ぼくはシャンプーの泡を凛の鼻とまぶたに少しつける。
「あ!」
 凛のあげた声に僕は笑う。
「目が開けられない!」
 そして凛は目をつぶりながら自分の髪の泡を手につけてぼくに飛ばす。
 それは器用にぼくに命中して、口の中に入る。
「すごく苦いんだけど」
「口に入った?」
「入った」
 凛はとても楽しそうに、とても幸せそうに笑った。
 変な言い方だけど、一週間後に消えてしまう人間には思えなかった。
 まるでこのままこうやって凛との時間が続いていくような気になる。
 でもぼくはそれが淡い幻想だということをわかってしまっていた。凛もきっと。
 だからこそそんな素振りを見せなかったのかもしれない。
 ぼくらは小さな風呂場で一生懸命笑っていた。
 与えられた現実から目を逸らすように。一生懸命。

                           *

 翌朝、ぼくは38℃の熱を出した。
 冷たい雨に打たれたせいなのか、風呂に入ったあと湯冷めをしてしまったせいなのか、どちらが直接の原因かはわからないけれど、どちらにしてもマニュアル通りの風邪のひきかただった。
「でも、凍死しなかっただけ良しとしなきゃ」
 ぼくの額に濡らしたタオルを当てながら凛は覗き込むように言った。
「こんなときにごめん」
 凛は「こんなとき?」と首を傾げたけどすぐに「あぁ」と察して壁に掛けられたカレンダーに目をやる。
「平気よ。回収まであと6日もあるもん」
 あと6日しかない。
 もっと話をしたいし、もっと話を聞きたい。
 凛と行きたい場所もあるし、凛の行きたい場所にも連れて行ってあげたい。
 ぼくがそう告げると彼女は「行きたい場所、ある」と微笑んだ。
「じゃぁ、全力で風邪を治さなきゃ」
 ううん、と凛はかぶりを振る。
「今じゃなきゃ行けないところなの」
「今?」
「そう。今」

                           *

 うすうす気がついてはいたけれど、凛の行きたい場所というのは病院だった。
 行きたい場所というよりか、ぼくが行かなきゃならない場所。
 アパートから少し離れた場所にあるこの海沿いの病院は小さな町医者で、待合室には誰もいなかった。
 受付で看守のようにぼくらをじっと見つめる看護婦さんだけがそこにいたぼくら以外の人間だった。
「海辺に病院があったなんて知らなかったな」とぼくは待合室を見回しながら言った。
 ひどく殺風景な待合室だった。
 壁には風邪の予防の仕方や、アトピーについて、次回の休診日のことなどが書かれたポスターやくたびれた紙が貼られていて、受付の脇の花瓶には色とりどりの造花が生けられていた。
「ここね、私が一人暮らしをしていたとき少しお世話になってた病院なんだ。穴場でしょ?」
 そして、ものの2分ほどで名前を呼ばれて診察室に通される。
 待合室に凛を残して、ぼくは促されるままモザイクガラスの扉を開けた。

                           *

「患者さんはみんな新しく出来た駅前の病院に行ってしまうんです」と先生はカルテに何かを書きながら苦笑いで言った。
 白髪の混じったぼさぼさの長髪に丸めがね。
 その風貌はまるで年老いたジョン・レノンといった感じだった。
「でも結構好都合ですよ。待たされないで診察を受けられるのは」
「経営者側は結構つらいところですけどね」と彼はカルテを書き終え、にこりと笑った。
「それ」とぼくは自分の左胸あたりを指差す。
 彼はその仕草を見届けてから自分の白衣の胸につけられたプレートを見て
「ああ、これか」と恥ずかしそうに眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げ、鼻の真ん中へとやった。
 彼の胸のプレートには“ドク”と書かれていた。
「結構気に入ってるんですよ、これ。ニックネームみたいなものです」
「ドク?」
「そう、ドクターだからドク。おかしいですか?」
「いや、素敵なネーミングだと思います」
 そしてドク先生は微笑んだまま聴診器を耳にかけた。
 ぼくもそれを見てシャツを捲り上げる。腹に補聴器のひんやりとした感触が伝わる。
 この病院へ来て2分で診察室に通されて、診察時間は20分。
 風邪にしては長い診察時間かもしれないけど、そのほとんどが世間話に終わった。
 でもなんとなくいい時間が過ごせた気がして、わけのわからない充実感がぼくの胸を埋めた。

                          *

 帰り際にドク先生と看護婦さんがぼくらを見送ってくれた。
 自動ドアががたがたと開くと冬の冷たい風が一気に流れ込んできた。
「それじゃぁ、またのお越しをお待ちしております」とドク先生は冗談めかして笑った。
「お医者様がそんなこと言っていいんですか?」ぼくの横で凛も笑う。
 ぼくは凛から借りた赤いマフラーを首に巻きながら「お話、楽しかったです」と言った。
「いえいえ、こちらこそ。なんか治療時間より私の無駄話のほうが長くてすみません」
 ぼくではなく凛が「いいんです」と言った。
「病気を治すくらいならお薬だけ貰って帰ってくればいいもの。治療は人対人ですよね?」
 するとドク先生は悲しそうに寂しそうに小さく笑った。
 彼のその笑顔が少しひっかかったけれどぼくは大して気にすることはせず「それでは」とお辞儀をした。
「お気をつけて。お大事に」

                          *

 歩き出すぼくの背中に凛は「あ、そっか。歩いてきたんだ」と言った。
「そうだよ。自転車に乗ったら冷たい風にあたるからって凛が自分で言ったんだよ?」
「そうだった、そうだった」
 そう言いながら凛は踊るようなステップで、ぼくの狐色のコートの袖をそっと掴んで腕を絡めた。
「たまには」
 凛は顔を真っ赤にしてそう言った。
 ぼくは「そうだね」と笑った。
 真冬の灰色の海で波がうねりながら凪いでいる。
 空にはどんよりと重たそうな雲がぶら下がっていて、今にも雨を落としそうだった。
「平気だよ、今日は降らないから」
「うん」
 ねぇ、と凛が急に走り出して防波堤に上がりながら聞いた。
「ドク先生と何の話をしたの?」
 彼女が潮風にさらされながらバランスをとるように手を広げて歩くとロングスカートとセミロングの髪がばさばさと揺れた。
「きんぴらごぼうについて話したよ」
「なにそれ。なんでその話になるの?」と凛は驚いて目を丸くしてから笑う。
「なんでかな。でもその話になって、凛のきんぴらごぼうって割り箸の味がするって。それを話した」
「そしたら?」
「そしたらすごく笑ってた。食べてみたいって」
 ふーん、と凛は鼻を鳴らして眉間に皺を寄せた。
「馬鹿には、してないと思うよ」
「ならいいけど」
「それから、悲しい話を聞いたんだ」
 ぼくも防波堤に乗って手を広げながら凛の後ろを歩いた。
 そして話を続ける。
「昔ね、女の子一人。男の子二人のある三人の幼馴染がいたんだってさ」
「うん」
「ある日女の子は徐々に記憶を失う病気になった」
 凛は耳に髪をかきあげながら「記憶……」と呟いた。
「その女の子は最期には死んじゃうんだ」
 凛は耳に髪をかきあげながら「死んじゃうの?」と立ち止まって振り返りぼくの目を見る。
“死”という言葉の響きに怯えているようだった。
「うん。大切な二人のことを忘れてしまうのが辛くて、自分からね、死んじゃったって」
「……自殺?」
「うん。その女の子がすごく凛に似ているんだって」
「どんなとこ? 顔?」凛は再び歩き始めて、自分の顔を確かめるように頬に両手を当てる。
 ぼくは笑いながら首を振る「仕草とか、そういうとこ」
 なんだかわからないけど、その子が凛に似ていることはぼくをとても悲しくさせた。
 悲しみが口を塞いでしばらく黙ってしまうと「大丈夫」と凛が言った。
「私は死なないから」
 そして凛はすぐに何かの矛盾に気づいて会話の軌道修正を始める。
「あ。死ぬんだ、私」
 凛は勤めて明るく言ったけど、その明るさは隠れていた死の悲しみを再び照らした。
「怖い?」とぼくは聞いた。
 不躾な質問だったかもしれないけど、それ以外の言葉が浮かんでこなかった。
「怖くはない……かな。うん、怖くないよ」
 なんて言ったって私は一度死んでいるから、と凛は笑った。

                          *

 夜になるとぼくの体調は快方へと向かっていた。
 熱は37℃まで下がっていたし、ずっと感じていた倦怠感も収まっていた。
 それでも凛はまるで重病人を扱うようにぼくの上体をそっと起こして、お粥を作って食べさせてくれた。
「一日なんてすぐだね」と梅干が入ったお粥を食べながらぼくは言った。
「うん。さっき昼間だと思っていたら、もう夜」
「時計は何か人間に恨みでもあるのかな」
「なにそれ」と凛が笑う。
「進んで欲しいときに進まなくて、進まなくていいときに急ぎ足になる」
「なぞかけみたいね」
 そして凛の提案でぼくらは家にある時計(といってもこの家の時計といえばリビングの時計と結婚記念日に買ったぼくらの腕時計と凛の小さな目覚まし時計くらいなんだけど)の調節ねじを回して全て15分遅れにさせた。
「これで私たちは15分遅れの人生を過ごせる」
「これなら時計と友達になれそうだよ」
 こうしてぼくは彼らとそっと和解を果たした。

                           *

 次の日、熱は台風のように通り過ぎて行って体調はすっかりとよくなっていた。
 そしてぼくは和風紅茶を飲んでから凛に見送られて自転車でタムラへ向かう。
 店に着くと案の定、晴樹からは「あと5日後に凛ちゃんはいなくなっちまうんだから仕事くらい休めよ」と言い寄られた。
 ぼくも勿論そのつもりでいて、いつもよりゆっくりと朝食を摂っていた。
 でもそんなぼくを見て凛は「駄目だよ」と言った。
「私がいなくなっちゃうからって特別なことをしないで」
 普段の生活に幸せがあるの。静くんがタムラに行って、まだかな、って待っているのも幸せなんだよ。
 なんとなくその気持ちはわかったし、ぼくが凛の立場でもそう思うだろう。

「つまり、あれか?」と晴樹は言った。
「これから海外旅行に行く人間が白飯とか味噌汁を名残惜しむのと一緒?」
「少し違うような気もするけど、当たっているような気もする」

                           *

 昼の休憩時間に店長が「凛さんの様子は、どう?」と休憩室のぼくのところへやって来た。
 晴樹が外へ飲み物を買いに行って、すぐに店長が来たところを見ると、この瞬間を狙っていたんだろうということがすぐにわかった。ぼくは「元気です」と言った。
「このまま消えないで生き続けるんじゃないかって思うくらい」
 店長は微笑んだまま黙って缶コーヒーを一口啜って、やがて口を開いた。
「あと5日だね」
「はい。寂しくなります」とぼくは天井を見上げて溜息をついた。
 暖房はまるで熟練度100%のバーテンダーのようにぼくらの会話に耳を傾けながら静かにそこに居座り、黙々と与えられた仕事をこなしていた。部屋はこうこうと暖かくなっていく。
 店長は胸ポケットから煙草を取り出して緑色の100円ライターで火をつけた。
 煙は死者の魂のようにゆらゆらと細く天井へ向かって伸びて、やがてふわりと消える。
「一本、どう?」と店長が煙草の箱を振って、ぼくの前に器用に一本差し出した。
 ぼくは「すみません」と言ってそれを受け取り、しばらく眺める。
 煙草なんて高校生のとき興味本位で吸った以来だ。
 あのときは全然美味しくなかったし、凛に「体に悪いよ」と言われたこともあってすぐに止めた。
 でもぼくは久しぶりにそれを口に加えようとする。
 駄目だよ、と朝の凛の言葉が思い浮かんだ。
 私がいなくなっちゃうからって特別なことをしちゃ駄目だよ。
「やっぱり」とぼくは煙草を店長に返して「やめておきます」と苦笑いをした。

                           *

 家に帰ると凛が「おかえり」と笑顔でぼくを迎えた。
「ただいま」と言ってから靴棚に置かれた金魚鉢にも「ただいま」と言って指で、こつん、と鳴らすと金魚は一瞬、体をびくっとさせて長い尾ひれを揺らしながら優雅に泳いだ。
「この金魚、すこし太ったね」とぼくは笑った。
「そうゆうのはレディーに失礼よ?」
「餌あげすぎなんじゃない?」
「そんなことないよ、いつも均等にあげてるもん」
 そして金魚は餌をせかすように口で水面をちゃぷちゃぷと鳴らしながら泳いだ。
「ぼくもお腹がぺこぺこだ。ご飯にしよう」
「そのまえに」と凛は一枚の葉書をぼくに手渡した「今日の午後、届いたの」
 差出人は藤原研究所からで、ぼくはそれに目を通す。

 瀬川 静さま 凛さま
 ご存知のことと思いますが、このたび死人の回収が決定いたしました。
 誠に勝手なこととは思いますが5日後の12月20日(金)
 PM8:00を回収の開始時刻に設定いたしました。
 死人の皆さまはなるべく魂が昇華されやすい屋外で待機いただきますようお願いいたします。
(屋内で回収を迎えて何らかの支障があった場合当方での責任は負いかねます)
 死人の皆様、血縁者・配偶者のみなさまにはご迷惑をおかけ致しますが
 何卒ご理解のほどよろしくお願いします。

                                         日本政府 藤原研究所

「なんか、こうゆうのが来るといよいよって感じがするよね」
「ほんとだね」
 耳を澄ませば、その足音が聞こえるくらいさよならは近づいていて、その翌日、ぼくは別のさよならがこの家の中でそっと息を潜めていたことに気がつく。

 ぼくらの金魚が冬を越せなかった。


 第11話     さよならのまえに


 その日、店長の心遣いで仕事を早く切り上げたぼくをアパートで出迎えてくれたのは涙でまぶたを腫らした凛で、彼女は帰ってきたぼくを見て細くかすれた声で「死んじゃった」と言った。
 ぼくが彼女の手のひらの中に目をやると、そこには硬直して死んでいるぼくらの金魚がいて、靴棚のうえの金魚鉢は異臭を放ちながら白く濁っていた。
「どうして?」とぼくは聞いた。
「わからない。夕御飯をあげようとしたら、こうなってた」
 凛は鼻を啜ってから「やっぱり私が餌をあげすぎていたからかも」と言ってぽろぽろと泣き始めた。
「凛のせいではないと思うよ」
「どうして?」何か他の納得のいく答えを求めるような不安な顔だった。
「だって、凛はあんなにこの金魚を大切に育てていたし」
「でも」
「だとしても、金魚は凛を恨んでなんかいないよ」
 凛は「ほんと?」と弱々しく言った。
 ぼくは「きっと」と返事をした。    

 そしてぼくたちは冬空の下、錆びついた階段を響かせながら庭に出た。
たった二人だけの葬列。
 部屋から庭へという短い距離ではあったけれど、そのあいだ凛は何度も手のひらの中を見て「ごめんね」と言って、泣いて、鼻を啜った。
 ぼくにももちろん喪失感はあった。
 でもどちらかというと悲しみは金魚に対してより凛に向けられていた。
 彼女の献身的な金魚への愛情を思うと、たまらなく寂しい気持ちになった。

                           * 

 ぼくは庭の片隅に小さな穴を掘った。
 冬の土は固く、スコップを入れるたびにがりっという音を立てて、土の匂いを漂わせた。
「はい、お墓が完成したよ。金魚を入れてあげて」
 ぼくがぼくの背に立った凛に振り向き言うと、凛は眉間に皺を寄せて唇をかみ締めながら一歩前に出て屈んで、そして手のひらの中の金魚を土に優しく還した。
 ぼくは金魚との別れを惜しむようにゆっくりと、湿って重たい土を被せていく。
 水の中で生息している生物が土を被っていく姿は非現実的で悲しかった。
 ぼくと凛は並んで手を合わせた。
「土葬だね」とぼくは言った。
 返事はなかった。車の音と波の音が遠くから聞こえるだけだった。
「凛?」
 彼女は黙って金魚の墓に視線を落としていた。
「どうしたの?」
「私も死ぬときはこんな感じなのかな?」
 ぼくは胸を掴まれるような思いの中でかろうじて「ん?」と言葉を漏らした。
「誰かを悲しませながら、こうやってひっそりと死んでいくんだよね」
 ぼくには何も言えなかった。
 何も言えなかったのは、それが事実だからだ。
 凛は手の甲で涙を拭いて「ほんとはね」と微笑んだ。
「死ぬのが怖くて仕方ないの」
 ぼくは数日前に凛が「あまり怖くないかな」と言った笑顔がいまさら偽りだったことに気がつく。
 激しい自己嫌悪がぼくを襲って、鼻の奥がつんとしていくのがわかる。
 凛は堪えるようにセーターの胸のあたりをぎゅっと握って「死にたくないよ。もっと生きたい」と言った。
 そして悲しみを滲ませて、静くん、と助けを求めるように呟いたのと同時にぼくは凛を自分の胸に抱き寄せた。
 かけてあげる言葉は見当たらずに、ぼくは彼女が泣き止むまで抱いていてあげることしか出来なかった。
 凛はぼくの胸の中で何度も「生きたいの」と言った。

 例えばどこかの誰かがチェスボードの上でぼくらの運命を操っているとしたら、そのどこかの誰かはこの期に及んでぼくらから大切なものを取り上げた。
 そして4日後には言うのだろうか「チェックメート」って。
 ぼくはどこかやりきれない視線を空へ向けた。
 皮肉なことにそこには満天の星空と細い月が浮かんでいた。

                           *

 その日、ぼくと凛の布団ははじめて正式的にくっついた。
 その布団の5cmの隙間を埋めたのは喜びよりも悲しみだった。
 敷いたのは凛ですっかり落ち着いた彼女は「いいよね、たまにはね」と弱々しく微笑んだ。
 たまにはじゃなくていつでもどうぞ、という言葉が唇の裏まで出掛かって、慌ててその言葉を飲み込む。
 もう“いつでも”というわけにはいかないから。
 ぼくは「消すよ」と言って電気コードを2回引っ張った。
 壁も布団もテレビも箪笥も弱々しいオレンジ色に照らされて哀愁を漂わせる。
 カーテンを引いた窓の近くだけ、ぼんやりと青白い夜がこぼれた。
 部屋は冬の空気が充満していて冷えていて、ぼくは凛のほうを向き、なるべく動かないようにして布団を暖めることに勤めた。
「さっきはごめん」と凛が言った。
「平気だよ」
 凛はため息をついた。
「どうしたの?急に」
「回収されたくないな、やっぱり」
 そして凛は言う。
「回収の日、どこかに隠れちゃおうか?」
 何も言えずにいるぼくに凛は「嘘」と言って笑った。
「ねぇ、凛」とぼくはせつなさを誤魔化すように言った「キスしようか」
「キス」
「うん。もう出来なくなるから」
 沈黙があってから「うん、そうだよね。うん。しよう」と凛の声が聞こえた。
 ぼくは布団から起き上がり、凛の布団の上で四つん這いになった。
 そして凛の額の髪を親指で脇にすいてからまず額にそっとキスをして、それから「いくよ」と言ってゆっくりと唇を近づけていく。
 ぼくの唇はすぐに凛の唇を捉える。
 長く深いキスのあとでぼくはそっと凛の小さな胸に手を当てる。
 凛が体をびくんと震わせるのがわかった。
 おそらくこれが最期になることは感じていた。
 泣くことはやめようと思っていても涙は零れてきて、凛の胸に雫が落ちる。
「平気だよ」と凛は言った。
 ぼくは「うん」と笑った。
 そしてぼくらは寂しいオレンジの明かりの下で静かに交わる。

                           *

 日々はメトロノームのように規則正しいリズムで、夜になれば月が浮かんだし、朝になれば太陽が昇った。
 そうやって時間は流れ、その針の上にぼくらを乗せて進んでいく。
 そしてぼくらは死人回収の前日を迎え、来るべきときにいよいよ備えはじめていた。
 凛はぼくと一緒にタムラまでやって来て「お世話になりました」と店長と晴樹にお辞儀をした。
 真希のマンションにも寄って、同じようにお辞儀をして凛は「じゃぁね」と手を振った。
 真希と凛は抱き合って泣いていた。
 涙でマンションの床がぐしゃぐしゃになるかと思うくらい泣いた。

「少しわがままだったかな?」とアパートに帰ってきてから凛は言った。
「なにが?」ぼくはハンガーにコートを掛けながら言った。
「私と静くんだけで最期を迎えるって言うのは」
 ぼくは考えてから「少しだけね」と人差し指と親指をわずかに開いて見せた。
「でもわかってくれるよ。店長も晴樹も真希も、そうゆう人たちだから」
「私は素敵な人たちに囲まれながら生きていたんだね」
 そしてぼくはとても重要なことに気づいてしまった。
「あ!」
「なに?」
「大変だ。すっかり忘れてた」
 ぼくは足元を指差した。
「ん?」

                           *

「寂しくなるよ」
 忘れられていた舟木さんはボロロンと何やら悲しいメロディーを弾いた。
 舟木さんの部屋は相変わらず楽器やら機材やらで埋もれていた。
「僕は見送りに行けないけどごめんね。明日オーディションなんだ。こんな日に、ちくしょう」
「あの」と凛は申し訳なさそうに言った「平気ですよ?」
「本当にごめん!」
 舟木さんは、凛ちゃんが死ぬときに俺はなんでオーディションなんか受けるんだ、と言って畳を叩き泣いた。
 まるでミュージカルを見ているようだった。
 案の定、そのあと「悲しみを込めて歌います」と彼の歌が始まった。

 自分たちの部屋に戻りながら凛は「やっぱり私は素敵な人たちに囲まれて生きていたみたい」とぼくの横で笑った。

                           *

 ぼくたちは10時半に床についた。
 昨日と同じように布団はくっつけて敷かれ、すぐ横には凛の顔があった。
「もう、寝た?」とオレンジ色の部屋の中に凛の声がした。
「まだ」
「なんか眠れない」
「ぼくも眠れない」
「どうしよう?」
「無理にでも寝なくちゃ。クマの出来た顔でお別れはごめんだよ」
「じゃぁ何か話して? こうゆうときに眠れるようなお話」と凛が布団の中で体勢を変えた。
「それはつまり、すごく退屈な話をすればいいの?」
 凛が不服そうにぼくを見て、何かを思い出したように「そういえばさ」と布団から起き上がって言った。
「なに?」とぼくは訊いた。
「静くんってなんで静って言う名前なの?」
「ずいぶん唐突だね」
「言ったのは唐突だけど、疑問に思っていたのは高校生の頃からよ」
 ああ、そうなんだとぼくは口の中で呟いた。
「珍しい名前よね、“静”って」
「生まれたときに泣かなかったんだ」とぼくは頭の下で手を組んで、幼い頃の挿話をゆっくりと語り始めた。
「泣かなかったの?」と凛がぼくを見た。
 ぼくは頷いて、笑う。
 母が言うにはぼくは「産まれてきたことに驚いているような顔だった」らしい。
「それで、看護婦さんと母さんはすごく焦ったんだって」
 凛はしばらく考えてから「どうして?」と言った。
「赤ちゃんが生まれてすぐに泣くのは肺呼吸をし始めた証拠だからなんだけど」
 凛は頷く。
「なのにぼくは泣かなかった」
「ピンチだ」
「そう。ピンチだった。だから母さんと看護婦さんは、夢中でぼくのお尻を叩いたんだ。泣きなさい、泣きなさいって。でもぼくは泣かなかった。相変わらず驚いた顔をしていた」
 結局、ぼくが泣いたのは、あまりにも泣かないぼくを見て泣き始めた母と看護婦を見たときだった。
 つまるところ、もらい泣き。
「あまりにも泣かない静かな男の子。だから“静”」
 笑っている凛に「どう、眠れそう?」とぼくは訊いた。
 凛は「逆に目が冴えちゃったよ」と笑った。
 ぼくは気づいていた。凛は眠れないんじゃなくて、眠りたくないんだ。
 残された時間を名残惜しむように凛は「もっと何か聞かせて。静くんのこと」と言った。
「じゃぁ次はどんな話がいい?」

 やがてぼくらはどちらからでもなく眠っていた。
 そして12月20日の朝を迎える。


 最終話     さよなら


 その日はいつもと全く変わらない朝で、相変わらずぼくの頭にはフレアのような寝癖が立っていたし、凛はそれを見て笑いながらキッチンのテーブルにハムトーストとスクランブルエッグ、それとトマトサラダと和風紅茶をゆっくり並べていった。
 この“いつもと全く変わらない朝”を別れの日だと認識させたのはTVから流れる「本日は死人の回収日です」というキャスターの呼びかけだった。
 向かいに座った凛が「なんか、生ゴミみたいに言われてる気がするけど、気のせい?」と言った。
 ぼくはさぁどうだろう?というように肩をすくめてから、和風紅茶を啜る。
「あのさ」
 凛は、なに?と言ってテレビに向けていた視線をぼくに向け、会話の続きを促した。
「和風紅茶がおいしいね」
「あたりまえでしょ」
「うん。あたりまえなんだけどね」
 そこで会話が途切れて、ぼくと凛はなんとなくもう一度和風紅茶を啜った。
 ぼくがティーカップをソーサーに、かたん、と置いたときに「和風紅茶はね」と凛が再び会話を始めた。
「濃く淹れて、黒蜜をたくさん入れるのがポイントなの」
 そうなの?とカップの中でゆらめくミルクブラウンの水面に目をやった。
 ひどい寝癖頭の男がゆらゆらと映っている。
「ぼくが作るときは黒蜜を少ししか入れていなかったよ。甘すぎるのは嫌だから」
 ううんと凛が首を振って「入れすぎっていうくらいが丁度いいの」と言う。
「明日から――」彼女が言い淀んでいたので、ぼくは察するように「わかった」と頷いた。
「明日からちゃんと濃く淹れて、黒蜜もたくさんいれるよ」
 TVは天気予報に変わっていた。画面の向こう側で赤いセーターを着た気象予報士が「今日の天気は全国的に雨です。死人と生き人のみなさんにとっては涙雨になるようですね」と言った。
 凛は立ち上がってリビングの窓を開け、空に手のひら差し出した。
 冷たい空気が部屋に入り込んできて、ぼくは咄嗟に身を小さくする。
 視線の先で凛が「今日は雨、降らないよ」と言って腰に手をあて、頬の横で人差し指を立てた。
「全国的に雪になるでしょう。お別れにはロマンチックな夜ですね」
「全然、似てない」とぼくは笑いながら顔の前でひらひらと手を振る。
 凛は「そう?」と不服そうに言って笑って、茶色と赤のチェックのロングスカートをふわりと揺らして窓を閉めた。

                           *

 玄関でスニーカーのつま先を鳴らして「なるべく早く帰ってくるから」と言った。
 凛は死人の回収日当日になってもタムラに行けとぼくに言う。
 彼女の言葉を借りるなら、“普段の生活に幸せがあるから”だ。
 だから凛はいつものようにぼくを玄関先でいってらっしゃいと見送ったし、ぼくもいつも通りのように「いってきます」と返事をした。
 あまりにシンプルでチープだけれど、これこそがぼくたちの日常。
 そして幸せだった。
 アパートの階段を降りていると「静くん」と背中に声が聞こえて、ぼくは振り返る。
「今日、雪降るから自転車は危ないよ」
「積もる?」
 ぼくがそう聞くと凛は空を見上げてから「結構、降る」と言った。
「じゃぁ歩いていくよ」
「うん。いってらっしゃい」
「いってきます」ぼくは白い息を吐きながら言った。
 一段降りると一段分の凛の姿が見えなくなる。
 その光景はぼくをたまらなく不安にさせた。

                           *

 タムラに着くと店長と晴樹は場違いな訪問者を見るような目でぼくを見た。
 そして実際に、ぼくは場違いな訪問者だった。
 自分の妻が消えてしまう日に仕事に向かった夫は一体どれだけいるだろう。
 きっと、ぼくくらいだと思う。
 晴樹は「君はなんでここにいるのかな?」とやけに優しい口調でぼくに言った。
 怒らないから言ってごらん、とでも言いたげな奇妙な笑顔を浮かべて。
 ぼくは晴樹の笑顔につられて「凛が行けって」と笑顔で答えた。
「それで君はこうして呑気に仕事をしにやってきたわけだね?」
「まぁ、うん。そう」
「馬鹿野郎!」という晴樹の怒声が店内に響いた。「凛ちゃんのそばにいてやれ!」
「ぼくもそうしたかったけど、これは凛が望んでいることだから」
 晴樹は、やれやれ、と首を振りながら額を押さえた。
「なんで凛ちゃんはこんな男が好きなんだ?」
 店長がそんなぼくらのやり取りを見て笑ったあとに「凛さんは」と言った。
「凛さんは、きっと自分のせいで瀬川くんに生活のペースを崩して欲しくないんだよ」
 晴樹は納得できないといった表情で店長を見て首を振ってから、再びぼくを見る。
 それはたしかに凛の考えそうなことだった。心当たりがある。
 
 昨夜、凛は自分の荷物を整理してダンボールに仕舞い込んでいた。
「ここにあっても困らないよ?」
「ううん、そうゆうんじゃないの」
 きっとそれはぼくのためにやってくれていることで、凛は部屋から自分の荷物を消すことで自分への手がかりを消そうとしていた。それがぼくに深い悲しみをもたらすということをわかっていたから。
 だからぼくは彼女のその優しさに、そんなことしても意味ないよ、とは言えなかったし、彼女の思いやりが嬉しかった。
 全ての荷物を仕舞い終えてから「これだけ」と言って凛は写真立ての中から写真を取り出してぼくに手渡した。
 二人が頬を寄せあってカメラに向かい笑顔でピースをしている写真で、インスタントカメラで取ったからセルフタイマーが無くて、ぼくが片手で撮ったものだった。
 見事に焦点が合っていなくて、少し右寄りになっていた。
「これだけ、いつも持っていて。持っているだけでたまに眺めるだけでいいから」

 それを聞いた店長は「死んでいく人は自分が死ぬことより、誰かを残して逝くことのほうが悲しくて辛いんだよね」と言った。
「いい奥さんだね、凛さんは」
 ぼくは鼻を啜って「はい」と微笑んだ。

                           *

 こんな日に限ってタムラは忙しく、一人終わればまた一人と休むことなく客がやってきた。
 結局、客足が落ち着きはじめたのは午後6時半を過ぎた頃で、担当していたお客さんの髪を切り終え、会計を済ませたのと同時に店長に「よし。瀬川くんは急いであがって」と背中をぽんぽんと叩かれた。
 どうしても7時までには凛の元へ帰りたかったぼくにとって、それはとてもありがたいことだった。
「すみません、お言葉に甘えさせていただきます」とぼくは店長にお辞儀をして、晴樹にも「ありがとう、晴樹」と頭を下げた。
「早く凛ちゃんのとこに行ってやれ。待ってるぞ」
 ぼくは頷き休憩室へと上がり、慌しく着替えを済ませる。
 帰り支度が整ってから晴樹と店長にもう一度お礼を言って、自動ドアを開けた。
 外では静かに雪が降っていて、道の上に薄く白く積もり始めていた。
 これで凛の予報はその的中回数の記録をさらに伸ばすことになる。
 ぼくはすっかり闇の落ちた空を見上げながら「なんでわかるんだろう」と呟き、そして凛のことを思い浮かべる。
「静」と背中で声が聞こえた。
 振り返ると晴樹が立っていて「しっかりな」とぼくの目を見て真っ直ぐに言った。
「うん」
 そしてぼくは傘を開いて、雪の降る白い帰り道に飛び出していく。

                           *

 防波堤沿いの道で「あれ? 床屋さん」と声をかけられた。
 ぼくは足を止めて傘を少しあげ、そして声がした前方に目をやる。
 そこには半年前の凛の蘇生後にぼくが最初に髪を切った男性が立っていて彼の両脇には彼の奥さんと娘さんが寄り添っていた。
「あ。こんばんは」とぼくが白い息を早いテンポで吐きながらそう言うと、
男性はお辞儀をして奥さんと娘さんに「俺がよく行く床屋の店員さん」とぼくを紹介した。
 奥さんと娘さんはどこかぎくしゃくした笑顔を浮かべながら軽く会釈をする。
「いやぁ、大変なことになっちゃったね!」と男性は頭を撫でながら笑った。
「俺、回収されるんだよ。今日」
 そして男性は「あ、そうか」と言って「君の奥さんもか!」と目を丸くしてぼくを指差した。
「はい」
 男性は「回収されるなら海がいいよ」と言った。
「海には電信柱とか電線とか木とか空に向かうまでに障害物が無いだろう? だから魂が真っ直ぐに逝けるらしいんだ」
 すると学校の制服を着た彼の娘さんが「なによ、パパ。テレビでやってたことの受け売りじゃない」と肘で男性のわき腹を突く。
 男性は照れたように笑ってから「ほら」と言って防波堤の向こうの浜辺を指差す。
 そこにはぱらぱらとだけれど人の姿があった。
「これから海に?」とぼくは聞いた。
「まぁ、ほら、景色もいいしね。床屋さんも奥さんに勧めてみるといいよ」
「そうですね、そうしてみます」
 そしてぼくらはお辞儀をして別れた。
 もう二度と彼と会うことは無い、そう思うと死の影がまた心に落ちていった。
 ぼくはそれを振り払うように走り出す。
 雪がさらに強さを増して降りはじめていた。
 早く凛のところへ。
 でも、ぼくが凛の元へ帰るのは死人回収が始まる5分前のことになる。
 運命を動かしているどこかの誰かさんは相変わらず、チェスボードの上の ぼくらを些細な偶然でもてあそぶ。

                           *

 稲荷神社の前を通り過ぎる頃には、道は海へ向かう人々で混み合い、鳥居の前では小さな女の子が「ママー」と声をあげて泣いていた。
 腕時計を見る。まもなく6時50分を指そうとしている。
 ぼくはパンパンに張った足を早めて、その女の子の前を通り過ぎる。
「君ときちんとお別れをするために、泣いている女の子を一人無視して帰ってきたんだ」
 なんて告げたら凛はなんて言うだろう。

                           *

「どうしたの?」
 結局、ぼくは女の子の前に屈んで声をかけた。
 女の子は一回ぴたりと泣き止んで、何かを判別するようにぼくを見てから再び泣き出した。
 海へと向かう人たちが鳥居の前のぼくたちを遠目で見ながら通り過ぎていく。
 ぼくはもう一度「どうしたの?」と聞いた。
「話してごらん、泣いていちゃわからないから」
「……パパとママがいないの!」
「迷子になっちゃった?」
 女の子は手の甲を目に当て涙を必死で拭って泣きしゃっくりをしながら頷く。
 ぼくは腰に手を当ててあたりを見渡してみる。
 少なくてもこの周りに彼女のことを探している人間は見当たらない。
 そしてぼくはもう一度屈んで「どこではぐれちゃった?」と訊いた。
「……えきまえ」
「え?」
 ぼくは汗をかいた額を拭いながら「駅前って、あの駅前?」と聞いた。
 そして女の子は東に向かって指を差す。
 そっちの方向にあるのはぼくの思っている“あの駅前”だった。
 ここから徒歩15分の“あの駅前”
「一人でここまで歩いてきちゃったんだね」とぼくは呟き、時計を見る。
 7時には間に合いそうもなかった。

                           *

「名前はなんて言うの?」
 駅に早足で向かいながらぼくは背におぶった女の子に訊いた。
「繭子」
「もう泣かないで平気だからね」
「パパとママに会える?」
「うん、会えるから。大丈夫」
 はい、と言ってポケットから取り出したハンカチを差し出すと繭子ちゃんはぎゅっとそれを目に当てた。
「これ、かわいいね」
 ぼくの目の前でひらひらと振られたハンカチは四方に茶色の糸で器用に熊の刺繍が施してある。
「誕生日に貰ったんだ。ぼくの奥さんに」
「オクサンって?」
「君でいうところのママに」
 繭子ちゃんは意味ありげにふうんと鼻を鳴らした。
 ぼくは何か間違ったことを言ったのかなと不安になる。
「しっかり掴まってて。少し急ぐよ」
 繭子ちゃんはもう二度と迷子になるまいとぼくの首にぐっと首を回した。
 少し苦しかったけれど、ぼくは足を早めて駅へと急ぐ。

                           *

 駅前では反蘇生派の集会が行われていて、それを支持する人やら野次馬やら海へ向かう人やらでごったがえしていた。これなら稲荷神社祭りのほうがずっと空いている。
 誰かが「みなさん、いよいよです。 いよいよ蘇生法が撤廃され死人が回収されます!死に、生き、生まれ変わるという生命の川が再び流れ始める!」という街頭演説を始めると、駅前はコロッセウムで奴隷の登場を待つ群集のごとく大きな唸り声にも似た歓声に包まれた。
 ぼくはその人込みにもまれ、身をよじりながら器用に繭子ちゃんを肩車して「ママとパパいる?」と訊いた。
「いない……」弱気な声にぼくまで不安になる。
「少し歩いてみようか」時計を見ると7時20分。溜め息が出そうになってぐっと堪える。
 でもその溜め息は焦りの汗に変わってぼくの額を湿らせる。
「すみません!」とぼくは声を張り上げた。「どこかに繭子ちゃんのお母さんはいらっしゃいますか?」
 しかしその声はざわめきにかき消されてしまう。誰も振り向く人はいない。
 ぼくはもう一度「繭子ちゃんが迷子なんです!」と叫んだ。
 でも結果はさっきと一緒だった。
「ねぇ」と突然、繭子ちゃんがぼくの頭をぽんぽんと叩いて前方を指差した。「ママ!」
「え?」
「ママとパパがおまわりさんのところにいる!」
 なんでぼくは今まで気がつかなかったんだろう。
 困ったときはまず交番へ行けばいいんだ。
 そしてぼくは人込みを掻き分けながら慌てて交番へと向かった。

                           *

 交番は駅の改札口へと続く日当たりの悪そうな階段の下にひっそりとあって、ガラス張りの掲示板には人相の悪い指名手配犯の写真が掲示されていた。
 繭子ちゃんの母親は口にハンカチを当てて、父親は繭子ちゃんがいないかきょろきょろと辺りを見回しながら心配そうにその掲示板の前に警察官と並んで立っていた。
 ぼくは交番の少し手前辺りで繭子ちゃんをそっと降ろす。
「ママとパパいたね」とぼくは彼女の栗色の髪をぽんぽんと叩きながら言った。
 そしていっておいでと手で促す。
 繭子ちゃんは少しためらいがちにぼくに「ありがとう」と手を降って、母親と父親の元へ泣きながらかけていく。
 母親が繭子ちゃんの存在に気がつくと口元に当てていたハンカチを下ろして「繭子!」と叫んだ。
「どこいってたのよ、もう! 心配したでしょ!」
 ぼくは怒りながら喜んでいる人間の顔をはじめて見た。
 ぼくと凛の間に子どもがいたら、きっと凛もああやって怒りながら喜ぶと思う。
「どこいってたの! 心配したんだから!」
 そしてそのあとに「寂しかった?」なんて優しく子どもに訊くんだ、きっと。
 ふと気がつくと繭子ちゃんがぼくを指差していて、彼女の母親と父親がぼくに深々と会釈をした。
 ぼくも返事をするように会釈をして、その場を去り、そして繭子ちゃんたちが見えなくなってから慌てて早足になる。
 相変わらず反蘇生派の演説は続いていて、駅前は人で溢れ返っていた。
 ぼくは誰かに背を押されながら、誰かを押しながら、来た道を引き返していく。
 演説の声が聞こえた。
「死が我々の元へ還ってきます! 死人の回収まで残りあと15分!」
 ちょっと待って。
「いよいよカウントダウンの開始です! あと15分! あと15分!」
 あと15分?
 ぼくは腕時計に目をやった。時計の針は7時半をきっかり指し示している。
 反蘇生派とぼくとの間に15分の誤差がある。
 最初、ぼくが回収の時間を間違えたのかなと思った。
 でもよく考えると7時45分という中途半端な時間に死人が回収をされるはずがないし、ぼくは確かに「8:00が回収になります」という葉書を見た。
 そして脳裏に何日か前の出来事がありありと蘇ってきた。
 死人の回収が決まってから時間の早さを嘆いていたぼくに、凛は「これで私たちは15分遅れの人生を過ごせる」と家の時計を全て15分遅れにさせていた。
 駅前の時計塔の針は7時45分を刻んでいる。
 そこでようやくぼくは、今ぼくの身に起こっている出来事の整理がつく。
 ぼくの時計だけが15分遅れている。
 街頭演説は続く「回収まで15分!回収まで15分!」
 人混みの中でしばらく自分の腕時計を見つめたまま立ち尽くしていた。
 ぼくは本当に15分遅れの人生を生きてしまったようだ。
 唖然としているぼくの背中を誰かが強く押して我に返る。
「あ」とぼくは無意識に声を出した。
 駅からアパートまで走って20分かかる。この時点ですでに時間はオーバーなんだ、こんなところに立っていないで早く帰らなくてはならない。走らなきゃ。
 脳からの指令が体に行き渡ってから、ぼくは慌てて「どいてください!」と家路につこうとする。
 どう考えてももう8時には間に合わなかった。
 タクシーは何人もの人が並んでいたし、バスだって同じだった。
「どいてください!」
 やっとの思いで駅前から少し離れた人のまばらな遊歩道に出る。
 空から降る雪は強くなり始めて、闇に白く浮かぶ水玉模様になった。
 歩道の上を走ると人々の靴で泥だらけになったシャーベット状の雪がぴちゃぴちゃと鳴って、スニーカーに湿ってぼくのつま先に紙で切ったような鋭く細い痛みを与える。
 でもぼくは今出せる最大の速さで走った。走るしかなかった。
 だって走らなければ、このまま凛は逝ってしまうから。
 今ぼくに出来ることは一分一秒でも早く、ぼくらのアパートにたどり着くことだった。
 何人もの人と肩や体がぶつかって、罵声や舌打ちを浴びながらぼくは一心不乱に駆けて行く。
 その間にも時計は冷静に一定のテンポで時間を刻み、あっと言う間に2分、3分と進んでいく。
「凛」と呟くと白い息が魂のように漂ってふっと消えた。
 今、行くからね。
 気持ちだけが先へ先へと動いて、足がそれについていかなかった。
 そして左足が右足に突っかかりぼくは一気にバランスを崩して、歩道のうえに勢いよく転んだ。
 シャーベットが音を立ててはねて、狐色のコートには一気に冷たい水が染み込んでくる。
 すぐに体が冷えていく。
 ぼくはしばらくうつ伏せのまま立てずにいた。
 その脇を通行人が同情的な目を向けて、苦いものを食べたような顔で通り過ぎていく。
 ぼくは冷たさと転んだときの衝撃で痛む体を仰向けにしながら、紺色の空を見上げた。
 雪は空から生まれ、舞い、溶けて、そしてまた生まれる。
 なぜだかぽろぽろと涙が零れてきて、ぼくはそれを手のひらでごしごしと拭う。
 腕時計は7時50分を差そうとしていた。
 どんなにぼくが早く走ったとしても、もうアパートには間に合わない。
 それを認めまいとする体がぼくを再び走らせようとして、それを認めようとする心がそれを拒絶した。
「ごめんね……凛」
 何度拭っても、涙は止まることなくぼくのこめかみへと流れていく。
「もう、間に合いそうもない」
 世界でいちばん愚かな人間はぼくだと思う。
 妻との別れの日に仕事へ行き、そのうえ遅らせていた時計の針のことまで忘れてしまうんだから。
 駅前から冬の風に乗って演説の声が聞こえてきた。
 「回収まであと10分! 回収まであと10分!」
 そして遠く雪空の上で“チェックメイト”という囁き声が聞こえた気がした。
 もう打つ手も成す術もない。本当にチェックメイトだった。
 ぼくは泣いた。
 誰を気にすることなく、自分の情けなさと逝ってしまう妻を想って。
 やがて泣き声は叫び声に変わり、激しい嗚咽と堰がぼくの口から漏れる。
 通行人の目は同情的な目から、何かいけないものをみるような目に変わっていて、そしてぼくの泣き声に反応するように「あれ?」と横で声がした。
「静くん? 静くんだよね?」
 ぼくは聞き慣れた声に、湿ったコートで涙を拭って嗚咽をもらしながら体を起こし、声のしたほうに目をやった。
 そこにはギターを背負い、車道で単車を唸らせて、驚くようにヘルメットのゴーグルをあげてぼくを見つめる舟木さんがいた。
「あ。やっぱり静くんだ!」
 舟木さんは「何やってるの、こんなところで」と本当に不思議そうにぼくに訊いた。
「舟木さんこそ、なんでこんなところにいるんですか!」とぼくはまた泣いた。
「僕はオーディションの帰り。静くんはどうしたの? あれ?今日だよね。凛ちゃん」
 ぼくはこくりこくりと頷き、涙と鼻を拭って「ぼくと凛を助けてください!」と叫んだ。

                           *

 事情を聞いた舟木さんは「少し飛ばすよ」とクラッチさせてから単車を勢いよく飛ばした。
「こいつなら5分でアパートまで着くから」
 ぼくは彼の背中にしがみつきながら、何度も「ありがとうございます」と呟いた。
 ヘルメットの首元から冷たい空気が入り込んでくる。
 今度こそ帰るよ、凛。
 雪空を見上げてそんなことを思っていた。

                           *

 アパートに着くとぼくは舟木さんにせかせかとお礼を言ってから、錆びついた階段を駆け上がって「凛!」と勢いよく玄関を開けた。
 凛は電気のついていない部屋で窓の外の雪を見ていて、そして振り返ってから「静くん」と言った。
 窓から差し込む月明かりと雪明りに照らされて、凛が目を潤ませているのがわかった。
「どうしたの?」とぼくは訊いた。
 凛はううんと首を振ってから「おかえり」と目の淵を細い指で拭ってから少し微笑んでみせた。
「ごめんね、遅くなっちゃった」
 凛は「平気」と笑う。
 部屋の柱にかけられた時計は8時10分を刻んでいて、それはつまり7時55分を示していた。
 ぼくが玄関で「急いで支度して!」と言うと凛は「ん?」と言って首を傾げる。
「海に行こう! 海は眺めもいいし、真っ直ぐ空へ逝けるんだって」
 凛はまた首を振り「ここがいい」と言う。
「ここでいいの?」
 最期までぼくらにはロマンチックの欠片も無い。でもぼくらにはここが似合っている気がした。
「じゃぁ庭に出よう。手紙にも外に出るように書いてあったから」
「コートはどうしよう?」と凛は言った。
「着ていきなよ。外は雪ですごく寒いよ」
「これから死ぬのよ?」
「そんなこと言ったら服を着ていることもおかしくなってくるよ」
 そうだね、と笑いながら凛はコートを羽織って靴をとんとんと鳴らした。

                           *

 庭はときどき冷たい風が浜辺の声を運んでくるだけで、耳を澄ませば雪が降る音が聞こえてきそうなくらい静かだった。
 ぼくと凛はそんな誰もいない庭の真ん中で8時までの残り3分を並んで待った。
「また当たったね」と凛は白い息を吐きながら空を指差した。
「もう驚かないよ。凛の天気予報は的中率100%だから」
「なるほど」と言って凛が笑うと会話が止んだ。
 何か話さなくちゃ、ぼくは急に焦りだして、頭の中で何かいい話題がないか探す。
 でも先に口を開いたのは凛で、彼女はまるで他人事のように「どうやって回収されると思う?」と言った。
「痛いかな?」
「痛くはないよ。きっと」
「そう」彼女はそうやって少し微笑んでから、「でもやっぱりちょっと怖いから、手、繋いでていい?」と言った。
 ぼくは黙って横にいた凛の左手をそっと握る。
 驚くほど冷たくて、いつもの凛の指の感触がした。
「今日は一日何していたの?」
 こんなときに相応しくない言葉だってことは充分承知だったけれど、ぼくはそれが知りたかった。
 ぼくの大切な人が今日一日どこでどうやって過ごしていたのか、それは何より大切なことだと思った。
「買い物に行って、公園に行って、桜並木を通って帰って来て、家で本を読んでたよ」
「いつもと一緒だね」
「そう、いつもと一緒。あえてそうしたの」
「そっか」とぼくは何気なく雪で汚れたスニーカーに視線を預ける。
「ねぇ」と凛が言った。「寂しくなるね」
「そうだね」
 ぼくが腕時計を見る頃、時計はもう8時を示そうとしていた。
 ふいにぼくが握っていた凛の手に変な違和感を感じた。
 水に近いゼリーを握っているようなそんな感じ。
 そしてぼくがそう思ったのと同時に凛も「あ」と声をあげた。
 
 彼女の指が透明に透けている。

 凛は「もうさよならだ」と目の淵に涙を溜めて言った。「はやいなぁ……」
 やがて腕が透明になり、足も透けていく。
 ぼくは怖くて仕方が無かった。
 今、目の前から大切な人が消えようとしている。
 それはもうぼくにはどうすることも出来なくて、凛が最初に死んだあの病院のようにぼくはぽろぽろと涙をこぼして心の中で何度も助けを求めていた。
 別れはいつだってぼくらに冷たい。
 こうやって否応なしに大切な誰かと大切な誰かを引き剥がしていく。
「何か言って?」と凛が泣きながら俯いて言った。
「何を? 愛してるとか、好きだよとか、そうゆうこと?」とぼくも溢れてくる涙を拭きながら訊いた。
 凛は首を振って「それはもうとっくにわかってるからいい」と泣きながら笑って「もっと別のこと」とぼくを急かした。
 ぼくは少し考えてから「ありがとう」と言った。
「ぼくは凛がいたから幸せだった」
 その言葉をきっかけに凛の全てが透明になり、ゆらゆらと揺らめいた。
 ぼくは慌てて凛を抱きしめようとするけど、彼女を掴むことはもう出来なくなっていた。
 そして凛も「私も静くんと一緒で楽しかった」と言った。
「うん」
「だから、ありがとう静くん。幸せでした」
 凛は涙を拭いながら泣き笑いで「さよなら」と言った。
 ぼくも覚悟を決めたように「さよなら」と凛の目を見て返事をする。
 そして彼女がぼくに「バイバイ」と手を振ると、凛は蛍のような淡く緑色の細い光になった。
 海のほうからも同じような光が見えて、そして雪空に向かってそれらがゆらゆらと昇っていく。
 雪の白と淡くぼんやりと灯る死人たちとが空で交わりあって、とても幻想的だった。
 ぼくは見失うまいと凛を見つめ続け、何度も「凛!」と強く呼んだ。

 凛。

                           *

 部屋に戻ると凛がいないだけで、別の家のようだった。
 凛の手によって片付けられた部屋は、やはり凛がそうしたようにどこにも彼女へと繋がる手がかりはなかった。
「……でも、やっぱり寂しいよ」とぼくは暗いリビングで途方に暮れて涙を流す。
 そして凛を探そうとする。
 まずリビングを探して、それから洗面所に行く。凛はいない。そして嗚咽をもらしながらキッチンへと向かう。
 ここにも凛はいなかった。
 ただテーブルの上に何かが置いてあった。
 ぼくは涙で顔をくしゃくしゃにしながらゆっくりと近づき、それを手に取る。
 青い器に入ったきんぴらごぼう。
 その脇に「温めて食べてね。  凛」というメモが残されていた。
 ぼくは器のラップをはがして、きんぴらごぼうを指でつまんで口に入れる。
 噛むたびにがりがりと鳴る。
 やっぱり割り箸だよ、とぼくは暗い部屋で泣きながら笑った。

                           *

 その二日後、第二葬儀と呼ばれる死人の葬儀が行われた。
 町の小高い丘の上にあるこの墓地は、海で凪いでいる白い波が見えて、潮風が吹き、冬の青空にくー、くーとかもめが鳴いている。
 春には茶色い芝も緑色の綺麗な絨毯になるだろう。
 そんな墓地にある凛の墓の前でお経が読まれて、そして参列者は凛にお線香を焚き、手を合わせた。
                           *

 葬儀が終わり、凛の墓の前に座っていると喪服を着た真希が「ん」と言ってぼくに缶コーヒーを投げてきた。
 ぼくは真希と同じように「ん」と言ってそれをキャッチする。
 冬の冷たい空気にホットの缶コーヒーは優しく温かい。
 そして真希はぼくの横に座り「今回は意外と泣かなかったのね」と茶化した。
「二日前に、これでもかっていうくらい泣いたからね。涙も枯れちゃったんだよ」
 真希は「ううん」と首を振った。「静は今度こそ凛の死を受け入れたのよ」
「そうなのかなぁ」と言ってぼくは缶コーヒーのプルトップを持ち上げて一口啜る。
「最期に凛がぼくと一緒に暮らせて楽しかったって言ってくれたよ」
 真希は優しくぼくの会話の続きを待つ。
 そしてぼくも会話の続きをはじめる。
「なんだかそれを聞いたらね、凛はちゃんと人生を全うしたのかなって思えたんだ」
 残された者の都合の良いいいわけだけどね、とぼくが付け加えて笑うと、 真希は「なるほどね」と微笑んで立ち上がった。
「ねぇ、お腹すいた。何か食べに行かない? 今日だけ特別におごってあげる」
「凛が怒るよ。私がいなくなったからって特別なことしないで、って」
 真希は少し間を置いてから「そうね」と空を見上げて笑った。
「ぼくはこれからタムラに行くよ。お客さんのひげを剃らなくちゃいけないんだ」
 真希は「ひげ?」と驚いたように声をあげてから、残念そうにふぅとひとつ息を吐いて髪をかきあげてから「じゃぁまた今度ね」と言った。
「うん。今度」
 それじゃぁもう行くよ、とぼくは立ち上がり、ぱりっと晴れた冬空の下をゆっくりと歩き出した。
 それは凛のいない明日に繋がる道。
 ぼくは喪服の胸ポケットから凛から受け取った写真を取り出し、それを眺めて空を見上げる。
「今度は大丈夫だからね」
 
 道の脇にはまだ枝ばかりの桜の木が植えてあった。
 春になれば咲いて、散って、また咲き誇る。
 そうやってぼくらは生き、死に、また生まれ変わっていく。
 本当にそうだとしたら今度また生まれ変わったときに、どこかでもう一度、ぼくは凛と会えるような気がしてるんだ。
 
 だからそれまで
 さよなら、凛。
 さよなら。
                          
 



                           + End +


2004/11/07(Sun)13:50:20 公開 /
■この作品の著作権は律さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
夜行地球さん、卍丸さん、神夜さん、エテナさん、Φさん、感想ありがとうございます☆物語はこれで前半終了(やっと?)次回からは後半戦の開始です♪色々な事件や出来事が起こるので楽しみにしていてくださいね^^♪
卍丸さん、藤崎さん、メイルマンさん、神夜さん、夜行地球さん、エテナさん。感想どうもありがとうございます☆メイルマンさんから指摘があった点、修正しておきました♪ありがとうございます☆ここまで読んでいただいて本当にありがとうございました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。