『あやな ―月夜―  ―完―』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:神夜                

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     「プロローグ」




 そこにあるのは蝋燭の灯りだけだった。薄暗いその部屋の中を照らしているのはその光だけである。
 そして、蝋燭を間に挟み向かい合っている二つの人影。一つは胡坐をかいて腕を組んでいる。暗闇ではっきりとはわからないが、老人と呼べるような面影だ。もう一方は綺麗に正座をしており、暗闇にあってもなおその白髪が見て取れる。しかし白髪とは別に顔つきは若々しく、老人の方の半分も生きていないのが一目でわかる。
 どれくらいそのままで沈黙していただろう。どこからか吹き込んだ風に蝋燭の火が揺れたそのとき、老人がその口を開く。
「……迅戒(じんかい)よ。お主、本当にこの新月村を出て行くと言うのか?」
 迅戒と呼ばれた白髪の若者は、その重々しい言葉を聞いても決意を揺るがせなかった。真っ直ぐに老人を見据え、応える。
「はい。このままここに留まれば、彩那(あやな)は命を落とします。……いえ、殺されるでしょう。ですから、わたしはここを去ります。彩那と共に」
 揺るがないその決意を聞き、老人はまた沈黙する。思考を巡らし、やがて重いその口を再び開く。
「……お主が言うことはわかる。確かに、あの力が狼狗(ろうく)でも人間でもない、半狼の彩那に覚醒してしまっては、我々とて放っておくわけにはいかん。今までの十三年間は大目に見てきたが、あの力が覚醒してしまってはどうにもならんのは事実じゃ。が……ここを出て行ってどこへ行く? 人間の世界で暮らすと言うのか?」
「わかりません。ただ、ここにいては彩那は殺される。だから出て行く。その後のことは今はまだはっきりとはわかってません」
「……止めはせん。自らの意思でここを出て行くというのだからな。ただ、実行できるかどうかは別だぞ」
 白髪の若者の目つきが変わる。老人の言わんとすることがわかっているのだ。
「……刹鬼(せっき)と慌鬼(こうき)、ですか」
「うむ。あの二人がお主を易々とここから出すと思うのか? 仮に逃げられたとしても、奴らは一生お主を狙い続けることになるのだぞ」
「わかっています。ただ、ここから出れれば姿を隠すことができます。わたしは気配を消すこともできる。彩那は縛封(ばくふう)の首輪が有る限り感づかれることはない。それに、もし見つかってしまったのなら、そのときは……わたしが、刹鬼と慌鬼を殺します。命に代えても」
 老人が目を閉じ、そしてため息に似た息を吐き出す。そして、次に目を開いたときの老人は、今までとは全く違う気配を放っている。
「お主の考えはよくわかった。行くが良い、止めはせぬ。だがな、もし仮に刹鬼と慌鬼をお主が殺したとなれば、同胞を、我々を裏切ることになる。そのときは、」
「元より覚悟の上です」
「……そうか。ならば行け。日が昇らぬ内に行かなければ、奴らからは逃げられんぞ」
 若者は立ち上がる。深く深く老人に頭を下げ、最後に「今まで、お世話になりました」とつぶやいた。踵を返して歩み出すその背中に、老人の最後の言葉がかかる。
「……彩那を、頼んだ……」
 若者は返事をしないまま、その部屋を後にする。
 ドアを開けて外に出れば、そこには夜の世界が広がっていた。どこかの茂みで虫が鳴き、空には三日月と星が輝いている。雲はどこにも見当たらない。風が吹き、白髪が風に舞う。空気が澄んでいる。昼間とはまた違う感じがした。最後に大きく息を吸い込み、そして吐き出す。意識を切り替え、若者は目つきを変える。そうして、若者は歩き出した。
 その夜、一人の若者と、一人の少女が、この新月村から姿を消した――。



――――――――――――――――――――――――――――――――――




     「少女とシチュー」




 例えば、人はどんな状況のときに驚くものなのか。
 蛇口を捻ったら予想以上に水が出たとき、部屋にいたら目の前に巨大な蜘蛛がいたとき、足元をゴキブリが通過したとき、熱湯とは知らず触れたとき、暗闇で突然大声を出されたとき、肝試しをしていて幽霊に遭遇したとき、ジャングルで未確認生物を発見したとき、空に浮かぶ銀色の飛行物体を目撃したとき。それは人それぞれで違うだろう。ある人にとってみれば大したことではなくても、ある人にとってみれば目を剥くようなこともある。人の価値観などがそれを変えてしまうのだろう。ただ、それでも全員が全員驚くようなこともあるにはある。
 それでは、三神弘斗(みかみひろと)の場合ではどうだろうか。
 この春に都築(つづき)高校一年三組から都築高校二年四組に進学し、クラスにも馴染めてきた春と夏の中間季節の六月。いつも通りに学校へ出て、いつも通りに授業を受け、いつも通りに友達と馬鹿をやって、いつも通りに放課後に家路に着く。風は変わらぬように生暖かくて、もうすぐ夏のようで夏ではない、何とも言い難い風だった。通学路は一年間も通っているだけあって平凡で見飽きていて、ただ唯一変わったといえばこの春に駅のホームの壁が塗り替えられたくらいだろうか。何を思ったのか、でかでかと富士山が描かれてある。銭湯の壁にでもしたかったのだろうか。
 弘斗の自宅から学校まで片道約四十分。その間に電車に乗るのだが、歩いている時間よりやはり電車に乗っている時間の方が長い。駅からは自宅も学校も徒歩で五分ほど。つまり、三十分は電車に乗っていることになる。それが多いのか少ないのかは正直わからないが、たぶん少ないのだろうと弘斗は思う。実際に一時間半も掛けて学校に来ている猛者もいるわけだし、それに比べれば三十分など大したことないのかもしれない。が、弘斗にとってはその三十分が強敵だった。座席に座れれば問題ない。しかし朝は遅刻ぎりぎりの電車に乗るので車内は学生で溢れているし、帰りは帰宅部なので一番生徒の多い時間帯に帰ることになる。座れることなんて稀だ。三十分間突っ立って、しかもその上満員電車の中で過ごすのは弘斗にとっては苦痛だった。電車から降りるときはいつも死にそうな顔をしている。なぜかいつも駅のホームのベンチに座っているジジイに、毎度顔を見られると「足腰が弱ってるんじゃ」と説教される。大きなお世話だ、と弘斗は思うものの、お年寄りは大切に扱うと決めているので苦笑一本で通している。
 そんなこんなで今日も座席には座れず、死闘のような三十分を生き延びた弘斗は電車が停車すると同時にプラットホームに逃げ出した。目の前にいるのはやはりあのジジイで、今日も何か言いたそうに弘斗を睨んでいる。案の定、いきなり持っていた杖を弘斗に向け、「足腰が弱ってるんじゃ若造」と注意された。このジジイはいつもここで何をしているのかは全くの謎だ。ホームレスでもないのにこんなとこにいるなとは思うが、やはり苦笑一本で押し通した。
 定期券を駅員に見せて改札口を通り、弘斗が住んでいる町へ足を進めた。見渡すことができるのは森だけだった。ここの辺りは変に田舎なのだ。コンビニなどはあるにはあるのだが、全く意味のない田んぼ道にあったりするし、ビルやアパートは一切ない。学校がある辺りまで行けば、都会とは言わないがそれなりに発展している。どれもこれも見上げるようなビルばかりだし、人は溢れているし。が、ところがどうだ。たかだか電車で三十分しか離れていないのにこの町の光景は。一軒一軒の間隔が無駄に広く、それに比例して庭も大きい。アスファルトの道を少し行けば左右は田んぼに囲まれるし、車の通りはあまりない。それどころか車よりトラクターの方がよく走っているとはどういうことか。中途半端な田舎ほど質が悪いものはないと弘斗は思う。
 一年間通った通学路を歩く。三分も行かない内に辺りは田んぼしかなくなる。見渡しはいいし空気は良い。それだけを見るなら良い町だろう。が、弘斗は高校二年生である。遊びたいのである。こんな田舎でどうやって遊べと言うのだろうか。川に行って魚を獲る、山に行って虫を捕まえる。そんなもの小学生でとっくに引退だ。遊びに行くには電車に乗ることが絶対条件だ。高校二年生なのだから原付自転車の免許でも取れば楽になるのかもしれないが、生憎この近くにはガソリンスタンドなんで上等な場所はない。ガス欠で使い物にならないスクーターなど荷物以外の何物でもなかった。
 ため息を吐き出し、弘斗はさらに歩く。やがて田んぼ道に沿って見えてくる一軒家。それが弘斗の家だった。何とも不自由な場所にあったものだ、と中学生の頃から思う。デメリットが特大に大きいが、メリットも少しだけはある。夏祭りなどで打ち上げられる花火。家の屋根に上がって見ればそれはどの場所よりも特等席になる。年に一度だけの特等席なのだが。
 日常は何も変わらない。ぼんやりとした足取りで家の前に辿り着き、鞄のポケットに放り込んでおいた家の鍵を探す。そのまま門を空いた手で押し開け、敷地内に足を踏み入れ、ふと玄関に視線を送った。
 日常は、そこで途絶えていた。掘り出した鍵を地面に落とした。門から玄関のその中間から、弘斗は視線を玄関に向けたまま微動だにしない。
 ……何だ、あれ? 弘斗の視線の先、そこに何かがある。いや、何かはもうとっくにわかってる、わかっているのだが脳が受け付けてくれない。必死に状況整理をする。まず、弘斗が学校に行くときにはいなかった。それは間違いない。誰かが訪ねてくる予定もなかったはずだ。では、あれは誰だ?
 玄関の柱に凭れて、一人の少女が眠りこけていた。
 ただ、それだけなら近所の子供が迷い込んで眠ってしまったのだろうと納得もできるだろうが、その少女は普通ではなかった。髪の色は黒ではなく、輝くような白銀色で、五メートルほど距離を残しているので何とも言えないが、ただ在りのままの現実を述べるなら、そう。
「……耳が生えてるよ、おい……」
 そりゃ人間誰だって耳くらい生えてる。それはわかる。しかしその少女は、普通の人間では有り得ない所に、有り得ない耳が生えているのだ。
 白銀のその髪が風に舞う度、太陽の光をきらきらと反射させるのが純粋に綺麗だとは思う。もちろんそれだけなら不思議な子だ、で終る。だけど終れない。その白銀の髪の、人間にこんなような耳が生えたらこんな感じだろうと言う所に、まるで猫とも犬ともとれない獣のような耳が付いていた。カチューシャなのかもしれない、という考えはとっくの昔に否定されている。時折、猫のようにぴくぴくとそれが動くからだ。そんなハイテクなカチューシャなど一部のマニアしか持っていないのだろう。いや、マニアの世界を知らないので憶測なのだが。
 ただ、なぜか「あれは本物だ」ということだけを、脳が綺麗に受け入れていた。それ以外は全く受け入れていないというのに、なぜかそれだけは自然と納得している自分がいる。しかしこのままここで止まっている訳にはいかない。そもそもここは弘斗の家だ。招かねざる訪問者も一応は客である。いつまでも玄関で寝かせておくわけには行くまい。見ている分では害はなさそうだし、何か、遠くからでもその無害さが伝わってくるような気さえする。
 驚けるような驚けないその状況に、弘斗はついに一歩を踏み出した。それから鍵を落としていたことに気づき、一歩踏み返して回収する。眠っている少女を起こさないように近づいて行き、五メートルという距離はすぐに詰まった。そしてここで新たな発見がある。信じ難いことに、少女は首に、犬に付けるような黒い首輪をしていた。
 頭の中が真っ白になった。心の中で、おいおいマジかよ、なにかアブナイ奴の奴隷なのか? などと下等なことを思っている。幸い弘斗にそんな趣味はなく、違和感などを感じるだけで終った。間違っても興奮などしない。そんなことしたら自害する以外に生きる道はない。
 ふとその首輪が光を反射した。太陽の光を感じた弘斗は、そっとしゃがみ込んでその首輪を眺める。ちょうど顎の下辺りに、銀のプレートがあった。そこに何かが刻まれている。そのままを口にして読んでみる。
「……あや……な? 『彩那』って『あやな』って読んでいいんだよな?」
 誰もいないのに誰かに同意を求めてみる。が、眠っている少女が返答してくれるはずもなく、他の誰の言葉も聞けなかったので一人で少女の名前は彩那であると納得する。そしてその名前をキーワードに脳にアクセスを掛ける。語句は『彩那』、『猫耳犬耳』、『首輪』。眠っている記憶があるのであれば、それだけ強烈な語句なので探しあてられるかもしれない――そう思ってみたが結局は徒労に終った。期待はしていなかったからいいのだが。
 さて。取り敢えずはこの少女を起こさなければ何も始まらない。わからなければ訊けばいい。少女がここで眠っているのだから、どうしてここにいるのかくらいは訊けるだろう。それで弘斗を訪ねて来た客なら改めて招けばいい。いや、そんな所に耳を生やした女の子に知り合いはいないのだが。
 少女の肩に手を添え、頬を軽く叩いてみた。
「お〜い、起きろー。こんなところで寝てっと風邪ひくぞー」
 しかし少女は一向に起きない。起きる気配すらない。微かな寝息が定期的に聞こえ、獣のような耳が少しだけ動く。
 ため息を吐き、弘斗は頭を掻く。このまま放っておいてもいいのだが、万が一風邪でもひかれては後味が悪い。ここにいる、ということはつまり、少なからず弘斗に用があるのだろう。勝手とは知りつつ、一応家に上げておこう。そう思い立って、弘斗は立ち上がる。玄関の鍵穴に鍵を突っ込み、ロックを外して引き戸を開ける。中に入って鍵掛けに鍵をぶら下げ、廊下に鞄をぶん投げて放置し、もう一度少女の所へ戻る。さっきと似たような位置に座り込み、眠っている少女の太股と首の辺りに腕を滑り込ませ、微かな気合と共に抱き上げる。
 少女の体が、冗談のように軽かったことに驚いた。このくらいの歳の子なら皆こうなのか、それともこの少女が異常なのか。ただ運ぶのに苦労しないならそれに越したことはないであまり深くは考えないようにする。玄関に入って足で起用に引き戸を閉め、靴を脱いで上がる。と、ここで少女の靴のことを思い出し、なんとか片手で少女の体を安定させて、サンダルのような赤い履物を脱がせた。
 そのまま歩き、廊下の突き当たりのドアを開ける。リビングだった。
「ただいまー」
 弘斗がそう言うものの、迎え入れる声は一向に返ってこない。それもそのはずだ、この家には弘斗しかいないのだから。別に両親が他界したとか、両親が夫婦喧嘩で別居しているとかそんな複雑な家庭事情はない。弘斗が中学二年の頃、父親が海外に転勤が決まって旅立った。しばらくは単身赴任をしていたのだが、弘斗が高校に上がると同時に母も父の方へ移ったのだ。弘斗も海外で暮らすように言われたが断った。いまさらどこか別の国で暮らす気など毛頭にない。仕送りはあるし、最初は不慣れだった家事もお手の物になった。高校生活を男一人でエンジョイしているわけだ。これで女でもいれば最高の学生生活だろう。
 しかし生憎弘斗には彼女なんていないわけで、いるとしたら今現在お姫様抱っこで運んでいるこの少女くらいだ。が、間違ってもこんな少女に手を出したりはしない。それに髪は白銀で獣耳が生えている女の子なんてストライクゾーンを完璧に外れている。よくいって妹くらいだろうか。とそんなようなことを考えている自分が何やら無性に恥ずかしく、眠っている少女に悪い気がして「ごめん」と謝った。
 リビングにあるソファに少女を寝かせ、タオルケットを掛けてやる。運んでいる最中に起きなかったのだから、ちょっとやそっとでは目覚めないだろう。しばらくはこのまま放置するに限る。少女が眠るソファからテーブル一つ挟んだ椅子に腰掛ける。さてどうするものかと思ったとき、ポケットの中の携帯電話が震えた。学校にいる時に鳴られると面倒なのでマナーモードにしてあったのだ。
 ポケットから携帯を取り出して折り畳み式のそれを広げる。ディスプレイに表示されている名は――なんだこいつかと弘斗は思う。通話ボタンを押し、通話口を耳に当てる。
「もしもし?」
『おう弘斗。もう家に着いたか?』
 相手は何のことはない、弘斗とは小学生からの付き合いで、今は同じ高校の同じクラスの友達、西城修二(さいじょうしゅうじ)である。成績はからっきしだがスポーツ万能のスポーツマンで、バスケ部に所属している。
 弘斗は携帯を耳に当てたまま立ち上がり、リビングの隣にある台所へ向かう。
「それで? なに?」
『あのさ、今日数学の宿題出たじゃん? あれもうやったか?』
「そういやそんなのあったな。もうやったけど」
 今日、数学の時間にプリントを一枚宿題ということで出されたのだ。しかし家でやるのが面倒だったので学校でやってしまったのですっかりその宿題の存在を忘れていた。ちなみに弘斗は勉強がそこそこできる。秀才とまではいかないが頭が良い方に部類される。勉強は弘斗が圧倒的に勝利で、スポーツは修二が圧倒的に強いという何とも対照的な二人だった。
 弘斗は冷蔵を開け、そこからジュースのペットボトルを取り出し、
「まあ写させてくれってことだろ?」
『さっすが弘斗、話が早い。今日結構早めに練習終るからさ、帰りお前んち行くわ』
 食器棚から取り出したグラスにジュースを注ぎながら、
「ああ、別にいいけど――」
 ふとリビングのソファに視線が行って、そこに眠る少女を見て手元が狂い、ジュースはグラスを外れてテーブルにこぼれ落ちる。
「うわっ、」
 電話の向こうの修二が不思議そうに訪ねてくる。
『あん? なんだよ、どうした? まあいいけどさ、そんじゃ六時過ぎくらいに行くから、そんときに』
「悪い修二、やっぱ今日は無理だ」
『あ? なんで?』
 テーブルにこぼれたジュースを布巾で拭き取りながら、少しだけ思考を巡らせた後、弘斗は普通に話す。
「いや、女の子を拾った。だから今日は無理だ」
『……は?』
 言い方が悪いのかもしれないが、女の子が家の前に寝てたから誘拐した、よりかはずっとマシだと思う。
 修二が疑問の声を上げる。
『おい何だよそれ、意味がわかんねえぞ。まさかお前彼女でもできたんじゃねえだろうな?』
 いろいろと面倒になりそうだったので、弘斗は電話を切ろうと考える。
「まあとにかく無理だ。明日の朝に見せてやっから、それと事情説明も明日してやるよ。じゃあな」
 まだ何か言いたそうな修二を無視し、弘斗は通話を断ち切る。その後に追及されると厄介なので携帯の電源も落とした。片手にグラスを持って歩き出し、そこら辺に携帯を投げた。さっきまで座っていた椅子に座り直し、改めて女の子を観察する。
 まず、歳は幾つくらいだろうか。小中学生の間くらいだろうか。十二、三だとは思う。もう少し年下のような気するし、年上のような気もする。正直な話はよくわからない。髪の毛については、初めは染めているのかと思ったがどうやら違うようだ。もともとそんな色だったのか、違和感がないし一本残らず白銀でさらさらな髪だ。長さは肩に掛かる程度。生まれ付きその色なのだろうとは思うが、そんな人を今までに見たことがない。金髪ならアメリカなどであるが、白銀の人種などいるのだろうか。そして何より注目すべき所はやはりその頭に付いている耳である。さっきソファにまで運んでいるときにもそれとなく見てみたのが、作り物であろうはずがない。あれは、正真正銘本物の、女の子から生えている耳だった。何とも不思議な感じである。今までで犬耳やら猫耳というのは漫画やアニメでよく見てきたが、まさか実在するなど誰が思おうか。それにそれが自分の所へ現れるなど幸と呼ぶべきか不幸と呼ぶべきか。
 持っていたグラスに口を付け、半分ほど飲み干す。グラスをテーブルに置き、座ったまま伸びをする。やめたやめた、と弘斗は思う。悩んだところで何かわかるわけでもないし、ならばこの少女が起きるのを待とうではないか。ふと見た部屋の時計が、五時半を回っていた。腹の虫が鳴く。
「飯でも作っか」
 立ち上がって台所へ。弘斗は料理ができる。上手いとは言わないが下手でもない。つまりは人並みだった。ただそれでも生活には支障がないので満足している。さて今日は何を作ろうかと冷蔵庫の中を探り、しかしあまり買い置きがないことに気づく。舌打ちをして顔を上げたとき、眠っている少女の寝顔が見えた。閃く。なぜかシチューにしようと思った。たぶん弘斗がソファで眠っている少女の時分では、シチューが好きだったはずだ。幸い具は揃っているし、確かルーもあったはず。
 そうと決まれば行動に移すだけである。少々雑ではあるが、弘斗は苦もなくシチューの準備を始めて行く。この歳の男がシチューを簡単に作れるのはそれなりに珍しいのではないか、ああやっぱりおれって家事が向いてんのかなと少しだけ思う。やがて台所に良い匂いが漂い始めた頃、弘斗は重大なミスに気づく。鍋にはもうほとんど完璧なクリームシチューが完成しつつある。が、これはあまりにも量が多過ぎた。少女の分も頭に入れて作ったつもりだったが、なぜか五人分はありそうな感じだ。ルーと具を適当に入れたのが裏目に出たのか、と検討する。料理は人並みにできるのに、どこかでミスをするのが弘斗の欠点でもある。
「まあいいか、あの子がたくさん食べてくれることを祈ろう」
 無理な注文である。見かけでも細く、体重も異様に軽いあの子がそんなにも食べれるはずはない。弘斗も大食いではなく、これも人並みだった。しかし残ったら残ったで明日の晩にでも食べればいい。それでも食い切れないのであれば修二を呼べば片付けてくれる。修二の胃袋はブラックホールのように入るので問題はないだろう。
 鍋に蓋をして少しだけ冷ます。しばらくは放置していいだろうと考え、そういえばテーブルにジュースを置きっ放しだったことを思い出してリビングに向かおうと
 目の前に、寝ているはずの少女が立っていた。
 腰を抜かしそうになった。口から間抜けが声が出て、身動き一つ取れない。少女は立ってみると弘斗の胸より少し下くらいしか背がなく、眠いのか手の甲で目を擦っている。何だか丸っきり幼い子供の仕草だった。やがてその少女が上目づかいで弘斗を見つめた後、口を微かに動かした。
「……、」
「……え、な、なに?」
 少女の口が動くが、そこから言葉が出てこない。喋るのが苦手なのかもしれないと勝手に思い、弘斗は咳払いをする。
「うん、取り敢えずはそっちのソファに座ろう。話はそれからでいいから」
 少女の肩に手を置いて体の向きを変え、背中を促してリビングへと向かわせる。少女をソファに座らせ、弘斗は椅子に座る。腕を組み、不思議そうにこちらを眺めているその視線を受け止める。
 さてどうしたものか、と弘斗は思う。
「まずは訊こう。君はだれ?」
 できるだけ優しく問い掛けると、少女は消え入りそうな声でぽつりと、「……あやな……」と答えた。どうやら首輪のプレートに刻んであったのが本当に名前らしい。それではこの少女のことは彩那と呼んで問題はないだろう。
「では彩那。なぜ君はおれの家の前で寝てた? もしかしておれに何か用があった?」
 しかし彩那はそれに答えず、なぜか悲しそうに俯いてしまった。何かまずいことでも訊いてしまったのかと思い、だが訊かなければ何も始まらない。意を決して再度別の質問を問う。
「君さ、どこの家の子? もしかして親と逸れちゃったのか? 家の番号でも教えてくれたらおれから親御さんに電話して迎えに来てもらうけど……」
 そう言ってからすぐに、自分は馬鹿ではないかと思った。
 よくよく考えてもみればすぐにわかったことだ。この彩那と名乗る少女は普通ではないのだ。髪の色もそうだが、何より、人間にはまず有り得ないその耳が問題だった。ここで初めて、この彩那という少女に違和感を憶えると同時に思った。いや、最初から思ってはいた、思ってはいたのだが勝手に違うと否定し続けていた。この少女は、ここにいてはならぬ存在なのだ。
 直感が告げていた。今すぐにでもこの少女と離れろ、と。今すぐにでも追い出すか警察に突き出すかしろ、と。そうしなければ何か取り返しの付かないことになるぞ、と。そうすべきなのだろうと弘斗は思う。この少女は弘斗に用はないのであろう。だったら、警察に突き出すまではいかなくても早々にここから追い出すべきなのだ。恐れるな、罪悪感など感じる必要はない。早くしろ、言わなければ一生後悔するかもしれないぞ。だから、
 そして、彩那の不安の入り混じった、泣き出しそうな瞳を見たとき、考えは一発で決まった。弘斗は立ち上がり、真っ直ぐに彩那を見据える。何とも言い難い空気が流れ、彩那が何かを言いかけたその瞬間、弘斗は笑った。
「よし、シチュー食おう」
 きょとん、と彩那の表情が止まる。
「彩那、お前も食うだろ、シチュー。てゆーか食ってもらわなきゃ困る」
 状況を理解できずにいた彩那はそれでも、遠慮気味にこくりと肯いた。それを確認した後、弘斗は「よし、ちょっと待ってろ」と言い残して台所へ向かう。
 食器棚からシチューに適した皿を二枚取り出し、良い感じに冷まったシチューを盛り付ける。トレーを引っ張り出してその上に盛り付けられたシチューを載せ、ついでにスプーンを添え、冷蔵庫からペットボトルの烏龍茶とコップ二つを取り出して片手に持つ。もう片方で起用にトレーを持ち上げ、そのままリビングに戻る。呆然とその光景を見つめていた彩那の前にシチューとスプーンと烏龍茶を置く。その向かいに座り直し、弘斗も自分の分を用意する。
 何とも言えない表情でシチューを見つめていた彩那に、弘斗は言う。
「ほら、食っていいぞ。遠慮すんな」
 しかし彩那は不思議そうに弘斗とシチューを見比べるだけで食べようとはしない。まさか毒でも入っているなどと思ってるんじゃねえだろうなと弘斗は少しだけむっとして、ならば先に食ってやるとスプーンに手を掛けた。そのままシチューを掬い、口へ運ぶ。不味くはない、どちらかと言えば美味いと思う。スプーンで彩那に「ほら」と促してみる。
 と、彩那は恐る恐るといった感じで弘斗と同じようにスプーンに手を掛け、シチューを掬い、口に運んだ。やがて驚いたように弘斗に視線を向け、肯いた。たぶん美味しいとでも言いたかったんだろうと思う。それから彩那はさっきまでが嘘のようにシチューを夢中で食べ出した。よっぽと腹が減っていたのだろうか。多目に作っておいて正解だったのかもしれない。
 ふと、弘斗は思い至る。
「そうだ、おれの名前まだ言ってなかったな」
 彩那は食べるのをやめ、スプーンを口に入れたまま弘斗へ視線を向ける。
「おれは三神弘斗。弘斗でいいよ」
 スプーンを口から引き抜き、彩那はしばらく考えて、小さく「ひろと?」と首を傾げる。
 それに笑って肯いてやると彩那も笑った。何だかその笑顔がすごく幼く、そして無邪気に思えた。スプーンを弘斗に向け、「ひろと」とはしゃぐ。その彩那が本当に妹のように思えて仕方なかった。やがて上機嫌になった彩那は、自分にスプーンを向け「あやな」と言い、弘斗にまたスプーンを向け「ひろと」と言い、そしてさらに彩那はソファに座ったまま後ろを向き、何もない空間にスプーンを向けて「シロ」と言った。
 ――しろ?
「彩那、しろ、ってなに?」
 彩那がスプーンを向けている場所には何もない。あるのは壁だけだ。壁は別に白くはない。茶色っぽい壁だ。では一体何が「しろ」なのか。そもそもどの意味の「しろ」なのか。白いの白なのか、あるいはお城の城なのか。わからないが、彩那に訊けばわかるのではないか。そう思って訊いてみたのだが、
 そのとき、彩那は何かを思い出したそうにいきなり慌てた。弘斗が見守る中、シチューの器を手に持って振り返り、先ほどスプーンで指した場所に皿を差し出す。そして、まるでそこに誰かがいるのかのようにじっと空間を見つめ、人には聞こえない何かで会話しているように身動き一つしない。やがて渋々といった感じで向き直り、シチューの皿をテーブルに置いて何事もなかったかのように食べ始める。
「いやいやいや、待て彩那。ちょっと食べるのやめろ」
 なに、とでも言いた気に彩那の視線が弘斗に向く。
「お前、今絶対に誰かと会話してただろ?」
 すると彩那はまた後ろを振り返り、しばらくして視線が戻ってきて、首を振る。
「待て、絶対に今のは変だぞ。お前、さっき誰かの了解を得ただろう?」
 今度はすぐに首を振り、ひろとの言っていることがわからないと言う風にシチューをまた食べる。
 だったら彩那の言葉を信じてやってもいいじゃないか、とは絶対に思えないのだ。白状すると、弘斗はオカルト系の話が全く駄目な男である。幽霊などの、怖い話とかを聞いた日にゃその晩は眠れなくなる。夜の墓地に一人で行けと言われたら、間違いなく自殺を選ぶほどそういう類の話が嫌いなのだ。だから、先ほどの彩那の行動は、弘斗にとってみれば途方もなく怖く、本当にそこに誰かいるように思えて落ち着けない。何かの視線を体に感じる錯覚を受けながら、恐々と弘斗はシチューを食べ始める。
 やがて弘斗も彩那もシチューを平らげ、皿を洗う。残ったシチューは当初の予定通りに明日食べることにしてそのままにしておく。弘斗が洗い物をしている間、彩那はソファに座ってテレビを観ていた。何が面白いのか観ているのはニュース番組で、しかも彩那は真剣にそれに見入っている。ミスマッチも良い所だと思う。弘斗でさえニュースなど真剣に観ないのにこんな女の子が真剣に観るなど全く噛み合っていなかった。
 そして、弘斗はある決意を胸に懐いていた。洗物がすべて終り、これでやることがなくなったそのとき、弘斗はリビングへ歩き出す。
「彩那、ちょっといいか?」
 ニュースから視線が外され、首を傾げてこちらを見る彩那。弘斗はその向かいに座り、テレビのリモコンを操作して電源を落とす。部屋を包むのは微かな静寂と、それを一定に切り裂く時計の秒針音。時刻は七時を五分過ぎていた。
 向かいに座っている彩那を見据え、弘斗は言う。
「あのさ、ずっと考えてたんだけどよ。一つだけ、おれの質問にちゃんと答えてくれないか?」
 それがわかったのかわからなかったのか、彩那は何も言わずに弘斗を見ている。それを肯定と受け取って、弘斗は続ける。
「単刀直入に訊く。お前に、帰る場所はあるのか?」
 水でもぶっかけられたような表情を彩那は見せた。そしてその表情がどんどん静まって行き、やがて俯いてしまう。しかし彩那の返答を聞くまでは黙っていようと思っていた弘斗の心境を察したのか、彩那はしばくしてからゆっくりと首を振った。
 それでは本題に入ろうかと弘斗は思う。
「別に、おれはお前をここから無理に追い出そうなんて思ってないんだ。お前がここで寝てたのも何かの縁だし、どうせ乗り掛かった船なんだから。だから、一つだけ提案する。強制じゃない、嫌だったら嫌で構わないから。……彩那、帰る場所がないんだったら、ここでしばらく住んでみないか?」
 ふっと彩那の顔が上がる。目に涙が浮かんでいる。なぜか、この少女を泣かすのだけは嫌だと思った。
「幸いこの家にはおれしかいないし部屋は何個も空いている。彩那一人増えたところで変わらないしさ。……で? 返答は?」
 しばらく考えるようにしていた彩那が、上目づかいに弘斗を見つめ、ぽつりと問う。
「……いい、の……?」
「おう。こっちから言い出したことだしな。遠慮しなくていいぞ」
 彩那が笑った。そして、今までで一番大きな声で、「ありがとう、ひろと」と微笑んだ。
 それだけで、なぜか満足できた。自分は、正しいことをしているんだと思った。同情、なのかもしれない。好奇心、なのかもしれない。ただそれでも、この彩那という少女に笑っていて欲しかった。わからないこと、知らなければならないのこと。それは弘斗が思っている以上にあるのかもしれない。だけど、今はこれだけでいいのだ。必要なときになったら、彩那の口から話してくれるだろう。
 今はそう。この笑顔を絶やしてしまわぬように。この少女が、いつまででも笑っていられるように。それだけを思い、行動しよう。
 そして、彩那はいきなり後ろを振り返り、満面の笑みで笑うのだった。
「……いや、ぜってーにそこに何かいるよな? 頼む、本当にそういうのやめてくれ……」
 今日は安心して眠れないかもしれない、と弘斗は思う。
 窓の隙間から夜空が見えた。今日は月が見えない。見えるのは一欠けらの星だけだ。
 目の前には、その星より明るい笑顔の彩那がいる。それだけで、十分だった。
 頭に付いた獣のような耳が、何だか愛らしかった。


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     「狼より犬か猫」




 カーテンの隙間から差し込んでいる日差しの眩しさで目が覚めた。
 寝ぼけた頭で上半身を起き上がらせ、ぼんやりと辺りを見まわす。なぜか、いつも見ている光景と違った。いつもより低い位置で起き上がっているし、それに家具の見える位置も違う。改めて自分がどこで寝ていたのかを確認し、どうして床で寝ているのかを検討する。床に布団が敷いてあり、そこで弘斗は眠っていた。どうやらはそこは窓からの直射日光が当たる場所で、体が汗を掻いていた。
 ――どうして、こんな所で寝てるんだっけ?
 ようやくまともに動き出した脳みそでそう考える。どうしてベットで寝ていないのか。わざわざ床に布団を敷いたのはベットが使えないのを事前にわかっていたからなのではないか。しかしジュースか何かをこぼした記憶はないし、シーツを洗った記憶もない。だったら気分転換で床に布団を敷いたのかといえば、そんな面倒くさいことなどするはずがなかった。じゃあどうしてここで寝てるんだっけ?、と思考が堂々巡りを繰り返す。
 しばらくすると脳みそのエンジンが本調子を取り戻す。何かを考えるより早くに、ベットを見ればいいだけの話。結論がそうまとまり、弘斗はふっとベットへ視線を送った。そして、そこで眠る一人の少女を見た瞬間、エンジンがオーバーヒートを起こした。脳みそから煙でも出ているような気分だった。
 布団を跳ね除けて部屋の隅まで避難し、ベットで安らかに眠っている少女を幽霊でも見るかのように凝視する。ど、どうして女の子がおれのベットで寝てるんだっけっ? 今度はその考えが堂々巡りを繰り返す。オーバーヒートした脳みそからではまともな考えが浮かび上がらず、まさか自分はロリコンだったのかと思い自己嫌悪に陥る。
 挙動不審に部屋の中を見まわしていた弘斗の視線が、再びベットに向けられ、少女の首に巻かれた黒い首輪を視界に納めたとき、何もかもが一直線に繋がった。首輪に付いているプレートが微かに光っている。そこに何が書かれているのかは、すぐに思い出せた。脳みそがやっと落ち着き、昨日の出来事がはっきりと鮮明に思い出せるようになる。
 体の力を抜き、安堵のため息を吐く。どうと言うことはない、ベットで寝ているのは彩那という少女だ。昨日弘斗の家の前で寝ていた、髪が白銀で獣のような耳が生えている不思議な少女である。そしてなぜ弘斗が床で寝ているかと言えば、成り行き上仕方なくだった。昨日の晩、寝る場所を決める際に少々問題があった。弘斗にしてみれば家の部屋は幾つも余っているのでそこを使わしてやろうと思ったのだが、どうしてか彩那はそれを酷く拒んだ。理由はついに話してくはれなかったが、怖かったのかもしれない、と弘斗は思っていた。彩那のような子供が知らない家で一人で寝るのはそりゃ怖いか、と弘斗も共感できる。怖がりな弘斗ならば尚更だった。そこで取り敢えず一日目は一緒の部屋で寝るということで落ち着いた訳だ。別に同じ歳の女の子でもないので理性が吹っ飛ぶこともなく、すんなりと弘斗も納得できた。それならベットくらいは使わしてやろうと思い、彩那にベットを、弘斗は床に布団を敷いて寝た、と言うのが昨日の晩の出来事である。
 完全に思い出した弘斗は、すっきりするために顔を洗おうと思い立つ。まだ寝ている彩那を起こさないように立ち上がり、部屋を後にする。さっきまで寝ていたのは弘斗の部屋で、位置は二階の一番奥にある。廊下を歩いて階段に辿り着き、ふらふらと実に危なっかしい足取りで下りて行く。一階にある洗面所に入り、蛇口を捻って水を出す。容赦なく冷たいその水を手に溜め、顔を一気に浸した。冷水に意識が固定され、頭の中が透き通る。
 息を一つ吐いて、弘斗はタオルで顔を拭う。洗面所に置いてある時計は午前の六時半を指している。洗濯をする日は五時くらいに起きなければならないが、しない日は大体七時頃まで眠っている。洗濯は昨日したばかりなので今日はあと三十分は寝ていていいのだが、今から寝る気にはなれなかった。
 弘斗は洗面所を出る。まだ使っていない綺麗なタオルを手にして階段を上がり、部屋のドアを開ける。と、やはりそこには眠っている彩那の姿がある。ベットまで歩み寄り、彩那の寝顔を見つめる。昨日も思ったのだが、彩那の寝顔は本当に無邪気だった。素直に可愛いと思ってしまうのは、やはり少しやばいのだろうかと弘斗は不安になる。ただ、その彩那の首に巻かれている首輪。それが彩那に似合っていると同時に不思議でならなかった。彩那は、昨日風呂に入るときでさえ、この首輪を外さなかった。そんなに大切な物なのかと訊けば、彩那は真剣に、しかしどこか悲しそうに肯いていた。深い事情があるのだろうと思い詮索はしなかったか、疑問は残っていた。しかしまあ、本当に何か深刻な問題なら、いつか彩那の方から話してくれるだろうと思っていた。だから今は、何事もなく普通に暮らせればそれでいいと思う。
そして、唐突に腹の中に黒い点が浮かび上がった。本当に、それでいいのだろうか、と。ただの思い付きのような感じで彩那をここに住まわすことを決めたのだが、一日経った今考えれば、それはどうしようもなくいい加減なのではないか。目の前で寝ているこの少女は、昨日知り合ったばかりの見知らぬ女の子である。それを何の抵抗もなく家に住まわすこと事態途方もなく間違っているでのはないか。
 ただ、それでもやっぱり彼女には笑っていて欲しいと思う。なぜそう思うのか、その根本的な理由は全くわからない。しかし、心の中ではそう願っている。それは、間違っているのだろうか。正しいことをしている、と胸を張って言えるのだろうか。
 首を振る。もう昨日の段階で決めてしまったことだ、今更うだうだ言っても仕方あるまい。今はそう、朝飯だ。
 弘斗は手を彩那の肩に置いて少しだけ揺する。
「彩那、起きろ。朝だぞ」
 しばらくすると彩那が目を覚まし、うっすらと開いた瞳から弘斗を見てぼんやりと起き上がる。それから小さな欠伸をして手の甲で目を擦り始める。何だか猫のような仕草に思えた。そしてこの頭に付いている耳は猫耳ではないのか、と漠然と感じた。
 タオルを彩那の頭に被せると、その猫耳の形にタオルが浮き上がる。何だか面白かった。それが嫌だったのか、むっとした表情で彩那は弘斗を見やる。
「あ、いや。ごめんごめん。そんでさ彩那、朝飯は食うだろ?」
 まだ少しだけ不機嫌そうな彩那は、それでもゆっくりと肯く。
「それじゃ顔洗って来い。タオルはそれな。おれはその間に朝飯作るから。取り敢えず下行こうぜ」
 ぼんやりとした足取りで彩那はベットから降り、弘斗の後に付いて来る。
 階段を下りた所で台所と洗面所は正反対なので、彩那に「ゆっくりしてていいぞ」と言って別れる。彩那が顔を洗っている間、弘斗は朝食の用意だ。凝った物など面倒なので、昨日の残りのシチューでいいだろう。まだ三人分ほど残っていたみたいだし、それにパンでも添えれば上等だ。そう思って台所に足を運び、昨日からガスコンロに置きっ放しになっていたシチューの鍋の蓋を開けて中を覗き、
 体の動きが停止する。待て、と思う。昨日の夕食の時には、確かにシチューは残っていたはずだ。結局弘斗も彩那もおかわりをしなかったし、量も間違えたので大量に残っていたはずなのだ。それは間違いではない。ではなぜ、こうなっているのだろうか。
 弘斗の目の前にある鍋の中には、何も入ってはいなかった。あるのは、シチューの残骸だけ。三人分のシチューが、食べカスだけを残して綺麗さっぱりに消えていた。
「…………」
 上手い言葉が思いつかない。
 ふと唐突に彩那が夜中に起きて摘み食いでもしたのではないか、とは思ったものの、彩那がそんなことをするとも思えないし、それ以前にあの小さな体が三人前もあるシチューを食えるはずもない。
 そしてあることを思い出す。昨日、彩那が言っていた謎の言葉。何もないはずの空間に向かってつぶやく「シロ」という名前とも色とも物とも取れない言葉。もしあれが名前なのだとしたら、その「シロ」がこのシチューを食ってしまったのではないか。そう考えてもあまり違和感はなかった。そもそも彩那のような不思議な子がいる時点で何が起こっても驚かない自信がある。
 が、それとこれとは話が別だった。弘斗は肩を震わす。もしその「シロ」が実在するのであれば、それは姿の見えないものになる。つまり、幽霊とかそんな類のものなのだろう。オカルト系が大嫌いな弘斗は、どうしてもその「シロ」の存在を認めたくはなかった。だから、弘斗は一人でこれは自分が寝ぼけて食ってしまったのだろうという結論でまとめた。そう思わないことにはやってられない。
 鍋の蓋を戻し、食パンに手を掛ける。うん、今日の朝はパンにしよう、そうしよう。
 いらない想像を頭から追い出し、弘斗は食パンを主体に朝食の準備をし始める。パン二枚をトースターに突っ込んで焼き、その間に紅茶のパックを棚から取り出す。弘斗はコーヒーでも構わないのだが、彩那が好んで飲むとは思えない。だったら二種類も用意するのは面倒なので二人分の紅茶でいいのだ。ポットにお湯を注ぎ、そこに紅茶のパックを入れる。ティーカップを二つ持ってポットと一緒にテーブルに運ぶ。それと同時にトースターが鳴き、パンにこんがりと焼き目が付いている。それを皿に移してまたテーブルに運び、冷蔵庫からジャムとマーガリンを取り出す。
 それを持ってテーブルに向かうと同時に、リビングのドアが開いて彩那が入って来た。パンと紅茶の匂いに気づいた彩那は、何とも笑える視線を弘斗に向ける。
「おう、食っていいぞ」
 その視線が、まるで待てを言い付けられてじっとしている犬に思えた。しかし笑ってしまうと彩那が怒りそうだったので黙っておいた。
 彩那は嬉しそうに昨日と同じ場所に座ると、パンをそのまま食べようとした。慌てて止める、
「おい、何か付けなくていいのか?」
 それに不思議そうに首を傾げた彩那に、ジャムとマーガリンを差し出す。彩那はまじまじとその二つと弘斗を交互に見つめてから、何か言いたげにパンに視線を落とす。
 まだ少ししか彩那と一緒にいないのに、たったそれだけで彩那が何を言いたいのかをわかってしまう。弘斗はマーガリンを蓋を開け、自分のパンに塗った。そしてそれからパンを食べてみる。
 するとわかったのか、彩那は肯いてジャムの蓋を開けて自分のパンに塗り、そして一口かじる。もぐもぐと口を動かし、飲み込んでから嬉しそうに肯く。
 それがすごく微笑ましかった。弘斗も笑ってパンを食べる。そうして、静かに朝食は進んで行く。
 やがて朝食を食べ終わり、弘斗が片付けて学校へ行く用意を整えた頃には、時刻は七時四十五分を示していた。そろそろ駅に向かわなければ遅刻してしまう。制服に着替えた弘斗は、リビングで例によってニュース番組を見ていた彩那に声をかける。
「彩那、おれ学校行ってくるから留守番頼むよ」
 視線がテレビから外れて弘斗に向けられる。
「外に出たかったら出てもいいけど戸締りよろしくな。それとあんまり人に見られるなよ。いろいろ面倒だから」
 本当にわかっているのかどうかはわからないが、彩那は笑って肯く。しかしそれを信じないことにはどうしようもなかった。
「それじゃあな。五時くらいには帰って来るから」
 それだけを言い残し、弘斗はリビングを後にする。玄関で一年も履いているスニーカーに足を突っ込んで格闘していると、リビングから足音が聞こえた。ふと振り返ると、すぐそこに彩那がいた。同時に格闘が終ったので立ち上がり、引き戸に手を掛ける。
 彩那はこう言った。
「いってらっしゃい」
 少しだけ呆気に取られつつも、弘斗は肯いた。
「いってきます」
 彩那の笑顔を見ながら、弘斗は外へ踏み出した。
 風はやっぱり生暖かくて、春なのか夏なのかよくわかない。だけど、今はそれがすごく清々しく感じた。道路に出て、弘斗は駅へと向かう。
 いってきます、とこんなにも嬉しく言ったのはいつ以来だっただろうか。


     ◎


 遅刻ぎりぎりで学校に入って一時間目を受け、二時間目三時間目を戦い抜き、さらに四時間目を生き延びてやっと辿り着いた昼休み。
 弁当など作る気がないので、弘斗はいつも購買部のパンで昼食を済ましている。今日も昼休みの鐘が鳴ると同時に走り出し、ライバル達を踏み付けて一番人気のメロンパンと焼きそばパンの入手に成功。スタートダッシュで出遅れてしまうと、たった三分の違いでも購買部で売れ残っているのは一番不人気の生ハムクリームパンしかない場合が多々ある。あの味は世界広しと言え、他のものを寄せ付けない素晴らしさを誇っているのだ。あんなもの人の食い物ではないし、そもそもいつまでもこの購買部で売っていること自体謎なのだ。
 しかし今日はメロンパンと焼きそばパンだ。生ハムクリームパンなどどうでもいいことだった。気分が良かったのでいつもなら我慢する自動販売機のジュースを奮発して購入する。意気揚々と戻って来た都築高校二年四組の教室の三神弘斗の机に、なぜか西城修二がどかりと座っていた。弘斗より体が一回りでかく、体育館で部活をしているはずなのにどうしてか日焼けの後が目立つナイスガイである。
 机に買って来た物を置くと、修二はやっと弘斗に気づいたように「よお弘斗、待ってたぞ」と挨拶する。しかしそんなことよりも、弘斗には気になっていることがある。
「てゆーかさ修二、今日学校休みじゃなかったのか?」
 そうなのだ。昨日電話で明日の朝に数学のプリントを見せてやると言った手前、忘れずにプリントを持って来たらその修二がいなかったのだ。担任の説明では連絡がないので遅刻ではないかと思われたのだが、結局四時間目が終わっても現れず、休みかと諦めて購買部に向かったのだ。しかし帰って来てみれば当たり前のような顔で修二はそこに座っている。
 修二は「あっはっはっはっは」と笑い、
「昨日さ、買ったばっかのゲームしてたらいつの間にか徹夜しててよ。寝たのが朝の六時なんだよ。そんで今から一時間くらい前に起きて来たってわけ。部活には出なけりゃまずいからな」
 こんないい加減な奴でも、バスケの腕前は相当なもので、中学のときはいろいろな名門高校からの誘いがあったのだ。が、何を思ったのか名門より近い学校の方が良いってことで、弘斗と同じこの都築高校を受験したのだった。この高校はバスケは弱小だったが、修二の入部により、ワンマンチームではあるがそれなりの強豪へと化けていた。その件から先輩にも顧問の教師にも期待されている修二は、クラブ活動に熱心に取り組んでいるのだ。
 弘斗が強引に修二をどかして自分の椅子に腰掛けると、修二はその隣に座り直す。
「でもさ、弘斗は偉いよな。親が海外でいないってのにちゃんと遅刻せずに学校来てるし」
 ジュースのプルタブを親指で抉じ開け、メロンパンの袋に手を付ける。
「まあ家にいてもやることないしさ、先生に何かうだうだ言われるの嫌だし。そうえいば修二飯は?」
「弘斗は勉強できるからいいじゃねえかよ。少しくらい休んだって。あ、もう家で食ってきた」
 メロンパンに被り付きながら、
「適当にやればいいんだよ、適当に」
「その適当にやって、おれはこの前の中間テストの生物、八点だったんだぞ」
 口の中の物を飲み込んでジュースを一口。
「そういえばそうだったな。でもお前笑ってたじゃん」
「アホか、笑わなきゃやっていけねえじゃねえかよ。それともなにか、お前おれが心底落ち込んでだ方がよかったってーのか? お前慰めてくれるか?」
 メロンパンの最後の一欠けらを口に放り込み、
「いや、それは断る。どうせおれの奢りでカラオケにでも連れてけって言うんだろ。おれの生活費を何だと思ってんだバカ」
「いいじゃん、余ったら貯金してんだろ? 高校生活をそんなんでどうする、もっとエンジョイしてこうぜ」
 今度は焼きそばパンの袋を持ち上げ、開けようとする。
「だったら修二の金でやれって」
「それこそ願い下げだ」
 袋がなかなか開けれない。懇親の力を込め、袋を開けようと気合を入れたとき、ついに修二がこの話を切り出してしまった。
「それでさ、女の子拾ったってどういうこと?」
 袋を開ける力が失せた。まだ封を切っていない焼きそばパンを机の上に落とし、ジュースに口を付ける。隣には期待を全身に漲らせた修二がいる。
 ジュースを一気に飲み干すと、一息付くと同時にため息を吐き出した。修二の奴、本当は部活なんかよりこっちの方が本命で学校に来たのではないかと漠然と思う。本当のことを包み隠さず話すか、それとも適当に誤魔化すべきか。少しだけ考えた後、どうせ修二には嘘は通用しないと思って前者を取った。
「昨日、女の子が家の前で寝てた。だから家の中に上げた。それだけ」
 簡潔だが嘘はない。しかし修二が納得するはずもなかった。
「どんな子? 知り合いなのか? 可愛い? 何歳くらい?」
 偽装するのが面倒だったので、弘斗はそのままを述べる。
「髪が白銀で獣のような耳が付いている子。知らない。たぶん可愛い。十二、三歳くらいだと思う」
 そして修二がそこから導き出した結論は、ただの一言だった。
「お前、マニアか?」
「言うと思った」
 再び焼きそばパンに手を伸ばす。今度は力一杯引っ張った。何とか袋が破れ、中からその本体が姿を現す。それに被り付きながら、修二の問いに一つずつ答えて行く。「てゆーか何でその子お前んちで寝てたの?」「知らない」「獣の耳って、それ飾り?」「本物のはず」「白銀の髪って、染めてるのか?」「いや、地毛だと思う」「その子、今どうしてるんだ?」その言葉で、弘斗はあることに気づいた。自分は焼きそばパンを頬張りながら、「そうだ、忘れてた」「何を?」「彩那の昼飯、用意するの」「誰、それ?」「その女の子の名前」「昼飯って、お前んちにまだいんの?」「てゆーか、しばらくおれんちに住むの」「見ず知らずの女の子が?」「そう」「なんで?」「帰ることがないらしいから」
 そこまで答えると、修二が急に黙り込んだ。しかし今はそっちより彩那の昼食のことが気になった。携帯から家に電話を入れても彩那が受話器を取るとは思えないし、自分で何か作るとも思えない。ただ、確か台所に食パンがまだあったはず。それでも食べてくれていたらいいのだが。しかし誰もいない家で一人食パンを食べる彩那の姿を想像すると、ものすごく罪悪感を憶えた。可哀想なことをした、と弘斗は思う。今日は帰ったらちゃんとしたご馳走を用意してやろうと決めた。
 そして弘斗がそう決めると同時に、修二が立ち上がり、どこかに歩み出す。
「どこ行くの?」
「お前んち」
「なんで?」
「彩那ちゃんをおれんちに引っ越しさせる」
「……てかさ、お前の方がマニアじゃねえの?」
 ぐるりと考えられないスピードで振り返った修二は、人間とは思えない速度で弘斗に詰め寄る。
「るせえっ! 獣耳が付いた不思議な可愛い年下女の子なんて完全なる男のロマンじゃねえか! それを独り占めしてるてめえがどの口でマニアを語るのか!!」
「いや、語った憶えはないし、それ以前にお前のロマンをおれに押し付けるな」
「んなモンどうでもいいっ! おれは今から彩那ちゃんを迎えに行くっ!」
 修二がそれだけ吐き捨てて教室から出て行こうとしたとき、廊下から誰かが首を出した。この学校の体育教師でバスケ部顧問の坪井(つぼい)だった。坪井は修二の顔を見ると同時に「ああ良かった、西城ちゃんといたか。今からバスケ部のミューティングがあるから来い」と修二の首根っこを掴んで引き摺って行く。突然の坪井の行動に、修二は一人で「え、あ、いや先生、今はダメなんスよ、これからおれは男のロマンをですね、てゆーか先生聞いてます? ねえ、ねえったら坪井くん、聞いてるのかって訊いてるんだけどねえ! 坪井くん!」と抗議の声を上げるが、哀れ修二はミューティングへと連れて行かれたのだった。
 教室に残っていた修二は一人で残りの焼きそばパンを口に押し込み、そういえば五時間目の授業って何だっけなと考える。
 クラスに響く喧騒が心地良くて、廊下では大声で誰かが「ぼくのパンツ返せ」と泣き叫んでいる。
 窓の外の景色を眺め、もうすぐ夏がやってくるのだ、と弘斗は思う。


     ◎


 家に帰ると玄関の鍵は開いていた。どうやら彩那はちゃんと家にいるらしい。
 玄関を引き戸を開けて中に入り、「ただいま」と言おうとしたとき、そのことに気づく。開けた口が間抜けな感じで閉じないまま、弘斗はその光景を眺めている。
廊下が、これ以上ないと言うくらいに、綺麗になっていた。そもそも三神家の家は汚い方に部類される。母親がいた頃はまだ綺麗だったのだが、この家に弘斗しかいなくなった辺りから突然変貌したのだ。それでも普段使う台所やリビング、自室の掃除はちゃんとしている。だが玄関やら廊下やらは広いし面倒なのでほったらかしだった。最後に掃除したのは確か正月だったような気がする。
 出掛けるときも汚れていたのだが今更気にも止めなかった。そして、目の前に広がるこの光景は朝とは全く違っていた。埃一つ落ちていないし、掃除機ではない、完全なる水拭きで掃除されていた。隅から隅まで、それこそ姑が指を擦っても言葉に詰まるくらいに綺麗さだった。
 弘斗は慌てて靴を脱ぎ捨て、廊下を走る。リビングへ続くドアを開けたとき、鼻に不思議な良い匂いがついた。何とも美味そうなその匂いに足を止めた弘斗だったが、すぐに我に返ってリビングの中を見渡す。ここも綺麗に片付いていた。
 そんなリビングのソファに座ってテレビのニュース番組を観ていた彩那は、帰って来た弘斗に向かって極普通に「おかえりなさい」と笑い掛ける。
「――え、あ、う、うん。た、ただいま」
 口が上手く回らず、そしてテーブルの上に用意された料理を見たとき、思考が完全に停止した。
 そこには、和風とも洋風とも、フランス料理とも中華料理とも取れない、何とも不思議なご馳走が並んでいた。どんな名前の料理なのかは検討が付かないが、それでもこの匂いと見た目だけで十分に美味いことははっきりとわかった。
 ドアに手を付けたまま、こっちをニコニコと見つめている獣耳が付いた少女の瞳を見つめ返す。
「……これ、全部、彩那がやったのか……?」
 その問いに彩那は一瞬だけ無表情を作って首を振り、それからすぐに思い出したように肯いた。
 よくわからない仕草だったか、肯いたところから見ても、家を掃除したのも料理をしたのもすべて彩那なのだろうか。まさかそんな訳はないと思う自分と、もう何でもありなのかもしれないと思う自分がいる。
 ただそれでも、正直な話をすれば、すごく嬉しかった。家に帰って来たら綺麗に掃除されてて、しかも自分が用意しなくても飯が出来上がっている。学生にしては当たり前なのかもしれないその光景が、両親が海外に行って一人暮らしをしている弘斗にとっては、途方もなく嬉しかった。
 よたよたと歩き出し、鞄を放り出して彩那の向かいに腰掛ける。やっぱりよくわからない料理だったが、異様に食欲を啜る匂いと見た目だった。今にでも料理に襲い掛からんとする弘斗の目つきに気づいた彩那が、トコトコと歩いて箸を持って来てくれた。「サンキュ」とお礼を言って箸を受け取った瞬間、弘斗は料理に襲い掛かる。めちゃくちゃ美味かった。それこそ弘斗の今までしてきた料理は何だったんだって言うくらいに美味かった。そして彩那がこれを作ったことに、敗北感さえも憶えなかった。ここまで美味い物を作られたら、敗北感どころか尊敬すらできる。あわよくばこれから料理は彩那に任せても罰は当たらないだろうとさえ思う。
 皿に盛られた料理を貪っていると、弘斗が帰って来るまでちゃんと待っていてくれたのか、彩那もいつもの席に座って料理を食べ始める。その表情がまるで昔を懐かしむような感じだったことに少しだけ不思議に思う。
「この料理って、彩那がいた所の伝統料理か何か?」
 箸を動かしながら、彩那は満足気に肯く。変わった料理だが美味ければいいのだ。それが伝統なら尚更だった。
 この摩訶不思議な料理をすべて食べ終わると同時に、彩那が「お風呂」とつぶやく。その意味がよくわからずに風呂場に向かうと、すでに浴槽にはお湯が入っていた。泣きそうになるくらいに嬉しかった。何だか仕事を必死で頑張って我が家に帰って来たサラリーマンの気持ちがわかる瞬間だった。弘斗は彩那の気持ちに甘え、その風呂に遠慮なしに入らせてもらった。浴槽に鼻の下まで浸かって、こういうのはやっぱりいいなと弘斗は思う。
 弘斗が風呂を出てリビングに行くと、それと入れ替わるような形で今度は彩那が風呂へ向かった。しかも食器がすべて綺麗に片付いていた。これも彩那がやってくれたのかと思うと、もう本当に涙が出そうだった。こんな生活ができるなど、夢にも思っていなかった。そこまでの仮定はなんであれ、彩那が自分の家の前で寝ていて本当によかったと思う。
 それからしばらくすると彩那が風呂場から戻って来る。弘斗の半袖のシャツにジャージという格好で、首にバスタオルを巻いている。湯上りということもあって、白銀のその髪が微かに水を反射させて輝いて見えた。しかしそのまま放っておくわけにも行くまい。ここまでいろいろとやってもらって、風邪でもひかれたら弘斗の面目が完全に立たなくなる。そして、今の弘斗にしてやれることはこれくらいしかなかった。
 彩那を手招きし、バスタオルを手に取ってその髪を拭いてやる。最初は戸惑っていた彩那だったが、それが嬉しかったのか最後にははにかむように笑っていた。最後に獣のような耳を丁寧に拭いてやると、それが恥ずかしそうに動いた。
 ふと疑問に思う。
「なあ彩那、一つ訊いていいか?」
 ん、と彩那がタオルの向こうから弘斗を見る。弘斗は耳を触りながら、
「これって何の耳? 犬? 猫?」
 どっちかだろうと思っていた弘斗だが、すると突然彩那は不機嫌そうにぽつりとこう言う。
「……狼……」
「狼? 狼って、あの狼か?」
 他にどの狼がいるのかは知らないが、この耳が狼の耳だとは俄かに信じ難い。白銀の髪はよくよく言われれば狼の毛並みを表しているのかもしれないが、耳はまだ発展途上なのかもしれないけど、茶色っぽい色をしている。そこに微かに混ざるだけの白銀色はあまり目立たず、これけなら猫とも犬とも取れる。まさか狼などとは思ってもみなかった。
 だが彩那がそう言うのならそうなのだろう。彩那はむっとした表情でじっと弘斗を見つめている。
 苦笑する、
「まあ狼の耳って感じもするけどな……少しだけ」
 最後の一言が余計だった。
 ぽかり、と弘斗を叩いた彩那は、そのままリビングから出て行ってしまった。階段を上がる音が聞こえ、それからすぐにドアが閉まる音。
 笑いを噛み殺し、どうやらあの耳にコンプレックスを持っているようだ弘斗はと思う。あまりからかうと可哀想なので、気分が良い時だけにしようと決める。
 リビングはいつもより数倍は綺麗で、吸い込む空気さえいつもと違って感じた。清々しい気分だった。今朝もそうだったように、彩那と過ごすこの日常が、何だか弘斗が最も求めていたものだったような気さえする。
 弘斗は立ち上がり、深呼吸をする。
「さて、彩那に謝っとくかな」
 さすがにあのままにしておくのは少しだけ酷いだろう。形だけも謝っておこう。
 そう思い立ち、弘斗は彩那がいるであろう自室へ向かった。
 そして、自室に鍵が掛かっていて入れないことを知ったのは、それから三分後のことだった。
 彩那が、立て篭もりを決行していた。結局、その日の晩は、リビングで寝ることを余儀なくされてしまった。
 何だかこれは望んだものとは違うぞ、と自分の愚考を悔いて眠る夜だった。


――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「漆黒の羽」




 彩那が三神弘斗の家で暮らすようになって今日で一週間と二日である。
 その間で、それまでと決定的に変わったことが一つ。三神家が、本当に綺麗になった。弘斗が学校に行って帰って来ると、その朝に増して綺麗になっているのだ。今ではかつての面影など全く感じさせず、それどころか新築のような輝きを保っていた。一度本気で気になり、彩那にどうやって掃除しているのかと訊いてみたのだが、彩那は曖昧に肯くだけで明確には答えてくれなかった。まさか魔法のステッキで一振り、なんて訳はないと思うものの、彩那の狼耳を見る度今更魔法のステッキが出てきても不思議ではないと思う。麻痺しているのだろう。
 そして、夕食も不思議の内の一つだった。掃除同様、学校から帰って来るとリビングのテーブルにはあの摩訶不思議な料理が並んでいるのだ。味は美味いし楽ができるしで問題はないはずなのだが、これも彩那にどう作ったのかと訊いてみても曖昧に肯くだけ。魔法のステッキ説が有力になりつつある。しかもその豪華な食事を、冷蔵庫にある適当な食料で作ってしまうのだから大したものだった。しかし、なぜかその料理を作るのは学校がある平日だけで、土日の休みの日には絶対に作ってはくれなかった。その辺はやはり、魔法のステッキを使うところを見られるとやばいからなのだろう、とアホみたいなことを考えて無理やり納得した。追求はすまいと思う。彩那にへそを曲げられてあの料理を食えなくなるのは辛いからである。
 そんな不思議で、だけどどこか心温まる生活が一週間と二日続いた日曜日、彩那がふと唐突にこう言った。
「川に行きたい」
 発端は、テレビでやっていたニュース番組だった。毎度の如くニュース番組を朝っぱら見ていた彩那は、そこで綺麗な川の上流で魚を釣るニュースを目撃してしまった。その瞳に切実な光が灯り、そしてその視線は弘斗に向けられた。断れるはずはなかったと思う。もし断ってまた立て篭もられたらたまったものではない。乗り気ではなかったが、弘斗は彩那を川に連れて行くことを決断した。
 そんな訳で、弘斗と彩那は、三神家から徒歩で十数分の所にある川に来ていた。
 さすがは田舎のようなこの町で、川の水は透き通っていて、普通に飲んでも害はないと思われる。実際、昔よく飲んだ記憶がある。小学校の頃は確かここでよく鮎を獲っていた思い出があり、それを持参した炭火で焼いて食べたのは本当に美味かった。だが今の中途半端な時期が悪いのか、それともたまたまなのか、今日は鮎の姿を見つけることはできなかった。しかしそれでも彩那が楽しそうに笑っていたのでよしとする。
 彩那は頭に麦わら帽子を被り、服装は真っ白なワンピースである。麦わら帽子は弘斗の家にあったので済ませた。ワンピースの方は数日前に近くのデパートに買いに行った物だ。いつまでも弘斗のを着せておく訳にもいかなかったので何着も買い込んだ。ちなみにその頃、彩那は家で留守番をしていた。彩那を連れて行かないことにはちゃんと品定めできなかったが、デパートに連れて行ってあの狼耳を人に見られでもしたら厄介だった。慣れたとは言え、弘斗でさえたまに疑問に思うあの耳が、他の人に見られたときには目も当てられない。
 そして弘斗の独断と偏見で買って来た服が、見事彩那のサイズぴったりで、しかも似合っていた。もし小さかったりしたらどうしようと思ったが、それで安心した。だがもし小さくても返品しに行く勇気は弘斗にはこれっぽっちもなかった。余談だが、弘斗は、女の子の服を買っただけではなく、女性用の下着まで購入するという人生最大の愚行を犯してしまった。末代まで残る汚点である。あのデパートのお姉さんの笑顔が引き攣っていたのが今でも鮮明に思い出せる。それを思い出すと数日経った今でも涙が出そうだった。
 そしてそんな弘斗の苦労など露知らず、彩那は満足気にそれを着て、白いワンピースを風に舞わせて踝くらいまでの水辺で遊んでいる。
 今日は本当に良い天気だった。夏が近づいているとはいえ、まだ春との中間地点であり、ぽかぽかと射す日差しは純粋に気持ち良かった。日差しが反射して川の水が輝き、その光景は素直に美しいと思う。さらに水辺で遊んでいる彩那の髪も水のように光り、川に流れる水の音に混ざって彩那の笑い声が聞こえる。
 本当に、天気が良い。
 水辺で遊んでいる彩那をぼんやりと眺め、弘斗は土手に大の字に寝転がる。昔ここの川で遊んでいた頃の自分を、今の彩那と重ねて思い出に浸る。この川には、思い出がたくさんあった。この川の名称を『月河(つきがわ)』と言い、その由来はこの川のその向こう岸にある。彩那が遊んでいるこちら側の岸辺には土手を挟んで道路があるのだが、向こう側は森のような感じになっている。そしてその森を進むと、立ち入り禁止の立て札と共にフェンスが張り巡らせてあるのだ。そこをさらに進むと、目を見張るような渓谷に出る。この町の隠れた名所、『月之(つきの)渓谷』だ。深さ何十メールもあるであろうそこから落ちれば命はない。自殺の名所としても名高いそこは、この町の人間にとっては近寄ってはならないと代々伝わる渓谷だった。その渓谷の湧き水が流れ出たのが月河なのだ。
 今から数年前、まだ小学生だった三神弘斗を中心として西城修二を含む五人の悪ガキがその渓谷を見ようと向こう岸に渡ったことがある。最初は好奇心が勝っていたからよかったのだが、途中で立ち入り禁止の立て札と捩れた緑色のフェンスを目の当たりにした瞬間に好奇心が恐怖に負けた。お化けが出る、と言い出しのは五人の中の誰だったろうか。しかし未だに犯人がわからない謎のその言葉により、五人は猛スピードで逃げ帰ったのだった。そして川を渡って土手に辿り着いたときに、巡回中だったチャリンコ警官に見つかり、親を呼び出されて大目玉を食らった。弘斗の少しだけ切なく、しかし楽しい思い出である。
 昔を懐かしんで一人で微笑んでいたら、顔に水を思いっきりぶっかけられた。ひとたまりもなかった。
「ぅぉあっ! 冷てぇっ!」
 一瞬で起き上がって顔を拭う。六月というのに川の水は凍り水のように冷たく、それを何の前触れもなくかけられたら誰だって驚くに決まっていた。
 ふと見たそこに、彩那が悪戯を成功させた子供の笑みを浮かべて立っていた。そして、どこで憶えたのか、彩那が驚くべきことを言った。
「ひろとのまぬけ」
「っんだとコラ!」
 立ち上がった弘斗を見据えると、彩那は一目散に走り出す。
 ただ、一緒に遊んでもらいたかったのだろうと弘斗は思う。だったら、とことん付き合ってやろうじゃないか。
「うらぁっ! 待て彩那! 成敗してくれるっ!」
 しかし先に川に入った彩那が断然有利であり、川の冷水を手で掬っては襲い掛かる弘斗に向かってぶっかける。冷水に足を止めた弘斗に、彩那は容赦なく止めだと言わんばかりの追撃を掛ける。やがて弘斗が全身水浸しになった頃には吹っ切れて、彩那の攻撃を無視して突っ込んだ。
 それからはもう単純に鬼ごっこのような状況になり、以外にも足が速かった彩那に追い付けることはついになかった。散々走り回った挙句、先に根を上げたのも弘斗だった。土手に息をぜえぜえ切らして戻って来て、後ろからまた水をかけてくる彩那に「ご、ごめん、マジでごめん、ほ、本当に、勘弁、して」と泣きを入れた。その命乞いを渋々納得した彩那は、また一人で水辺で遊び始まる。底なしの体力だった。弘斗も現役高校生であり、体力はそれなりにあると思っていたのだが、彩那に比べればないも同然だった。あんな少女に負けるとは人生やってられなくなる。
 火照った体に張り付いた水浸しのシャツが今だけは気持ち良かった。汚れることなどお構いなしに土手の芝生の上で寝転がって目を閉じる。たまに吹く風は少しだけ夏の香りがして、太陽の日差しは暖かく、人間頑張れば光合成だってできるんではないかと思う。ぼんやりとする頭でそうに決まっていると考え、そして眠たくなってきた。
 一体、どれだけそうしていたのだろうか。ふと意識が戻ったとき、あることに気づいた。さっきまで聞こえていたと思った彩那の笑い声と水の跳ねる音が、一切聞こえなくなっていた。
 体を起こし、辺りを見まわす。
「……彩那……?」
 しかし、どこにも彩那の姿はなかった。
 腹の底が冷たくなった。汚れた背中を払うこともせずに起き上がり、水辺に走る。そこから川上から川下まで目を凝らして見渡す。だがどこにも彩那の姿がない。
 最悪の考えが頭を過ぎった瞬間、見たと思う。いや、確かに見た。川の向こう岸に、白銀の輝く髪を。
 状況は、一発で理解できた。そして、それは最悪の結論だった。
「あんのバカっ!」
 それだけ吐き捨て、弘斗は川に入る。よくよく渡ってみれば、川の水は深くても膝くらいまでしかなく、彩那の身長でも十分に向こう岸に行けることが判明する。
 おれのせいだ、と弘斗は思う。向こう岸に渓谷があることを、弘斗は彩那に伝えてはいなかった。ずっと彩那を見守っていて、危ないことをするようなら注意すればいいと簡単に思っていた。が、その甘い考えがこの事態を呼び寄せた。もし、彩那が立ち入り禁止の立て札に気づかなかったら。あの捩れたフェンスが壊れて使い物にならなくなっていたら。その先にあるのは足元が窺えないほどの背丈の草むらである。一歩踏み違えれば、気づいたときには手遅れになってしまう可能性だってある。なぜもっと早くに気づけなかったのか。なぜあのとき彩那から目を離してしまったのか。おれのせいだ、と弘斗は思う。だから、絶対に自分の手で彩那を助け出さなければならない。手遅れになる前に。
 岸に上がると同時に弘斗は全速力で走り出す。木の根っこに足を取られる度に転倒しそうになり、しかしそれを何とか堪えて必死にその先を目指す。そして、彩那の象徴である白銀の髪と、そこから生える狼の耳を視界に先端に納めたときにはすでに、横倒しになった立ち入り禁止の立て札も、地面に埋まっていた緑色のフェンスもとっくに通り越していた。
 ここから先にどれだけ余裕があるのかを弘斗は知らない。しかし一刻の猶予もないのは言うまでもなかった。声に出して叫びたいのだが、体の全神経が走ることを優先していて口が使い物にならない。先の鬼ごっこで立証済みの彩那の足に、弘斗が追い付けるはずもなかった。だが、視界の一番奥にある彩那の後姿だけは絶対に逃さなかった。
 そして、彩那が蝶々を追い掛けていることに気づいた。彩那は夢中で、その大きくて綺麗で、漆黒の羽を持つ蝶々を追い掛けている。あの蝶々が止まらないことには、彩那は止まらないだろう。ならば、一刻も早く彩那に追い付かねばならなかった。
 足の筋肉をフル稼働させる。しばらく使い物にならなくてもいい、だから、今だけは動いてくれ。そう念じてさらにスピードを上げる。
 やがて、視界の中にいた彩那の後姿がその動きを止めた。どうやら蝶々を捕まえたらしかった。全身の力が一気に抜け、しかし走って彩那の元へ向かう。ここから少しでも早く遠ざからなければならないと直感が告げていた。
 弘斗の接近に気づいた彩那は、嬉しそうに手を振る。それに答えている余裕はなかったが、何とか彩那の元まで辿り着く。膝に手を付いて必死に息を整え、不思議そうな顔をしている彩那に視線を向ける。彩那は不思議そうな顔をすぐ変え、歓喜の表情を見せた。手に持った黒い蝶々を弘斗に差し出すために、その一歩で向きを変えた。
 その一歩が、何もかも変えた。
 その光景が、まるでスローモーションのように見えた。彩那の体が、ゆっくりと後ろに傾いて行く。体が反射条件で動く。倒れ行く彩那の手から蝶々が逃れ、その手が弘斗に向かって差し出される。弘斗はその手を必死に掴もうとして、全身の力を込めた。
 そのとき、スローモーションが終った。あと少し、と言うところで、弘斗の手と彩那の手が、空を切った。重力に引き寄せられ、彩那の体が落下する。膝を突いて見下げたそこは、目も眩むような断崖絶壁の谷だった。底の方が暗く、しかし微かに川が流れていることがわかる。が、どの道この高さから落ちれば命はないのは明白だった。そんな谷を、一人の少女が舞うように落下する。
 迷ったのは、一瞬だけだった。
 死なせてたまるか。弘斗は足に力を込め、崖を蹴るために姿勢を前に屈め、そして、
 その肩がぐっと引き戻され、耳のすぐ側から声が聞こえた。


「弘斗殿、ここはわたしに任せて下ってください!」


 刹那、弘斗の目の前の空間が歪んだ。
 ぐにゃりと歪んだその空間から、白い何かが飛び出した。それは、人型をしていた。白いのは、髪の毛だったように思う。
 それは、一瞬で空を蹴って加速した。落ち行く彩那の体にすぐさま追い付くべく、信じられない速度でさらに突っ込んで行く。やがてそれが彩那に追い付き、その体を抱き止める。
 それは、空中で向きを変え、再び空を蹴った。断崖絶壁に突っ込んだと思ったのも束の間、信じられないことに、それは彩那の体を抱いたまま崖を駆け上ってきた。
 瞬きすれば見失ってしまいそうなその光景の中、弘斗は腰が抜けたように座り込み、谷から何かが飛び出してくる。尻餅を付いている弘斗の目の前に立ち、その胸に抱いた彩那は意識を失っていた。
 男だった。顔つきが若々しく、しかしその髪がまるで雪のように真っ白で。
 彼は、言った。
「お初にお目に掛かります弘斗殿。わたしは狼狗一族の末裔、名を迅戒。彩那にはシロ、と呼ばれています」
 座り込んだまま身動きが取れない弘斗に、彼はゆっくりと笑い掛けた。
 近くを、黒い蝶々が舞っていた。


     ◎


 午前中に本当に死んでもおかしくないような状況を味わったというのに、三神家の午後は実に穏やかだった。
「取り敢えず、一つだけ。あんたのことはおれもシロと呼ばせてもらっても構わないか? そっちの方が呼び易いし」
 いつも彩那が愛用しているリビングのソファに座っている白髪の男、迅戒は肯く。
 彩那はと言うと、その迅戒の膝に頭を預けて眠りこけている。意識を失ったままなのではない。月之渓谷から落下した後、一度だけ彩那が目を覚ました。それからすぐそこにあった迅戒の顔を見ると同時に安心するように深い眠りに就いたのだった。幸いに彩那も、それを助け出した迅戒も無傷である。あんな高い所から落ちたというのに二人とも死ぬどころか無傷というのには少々疑問を憶えるが、実際どこかに激突する場面は見ていない訳で、見たのは断崖絶壁を迅戒が彩那を抱いて駆け上がるシーンだけである。言ってしまえばあれは人間業ではなく化け物染みたものがある。
 弘斗は迅戒の向かいに座り、ふむ、とどこぞのお偉いさんのように腕を組む。
「幾つか質問したいんだが、いいか?」
 その問いに、迅戒はまたしても肯く。
「構いません。ですが、弘斗殿の言いたいことはわかっているつもりです。こちらからお話させてもらっても?」
「あ、そっちの方が助かる」
 今現在、弘斗の脳みそは状況処理に追われていた。わからないことだらけとはまさにこれだった。
 まずは質問を、と言ってみたのだが、ぶっちゃけは何を訊いていいのかは考えていなかった。そこへ迅戒が自ら話してくれると言う。だったらそちらの方が簡単に状況を受け入れられるだろうし、それを訊いてもまだわからないのなら改めて訊けばいいだけのことなのだから。
 耳を傾ける弘斗へ、迅戒はまずこう言った。
「わたしの名は迅戒、この少女が彩那です」
「いや、それはわかってるって」
「いえ、確認のつもりです。弘斗殿が訊きたいのは、わたし達は何者か、ですよね。わたし達は、狼狗の末裔です」
 どこかで聞いたことのあるような響きだった。小学校時代にあまり親しくなかった同級生の名前のようにそれが思い出せない。
「ろうく、って何だっけ?」
「彪狼山(ひょうろうざん)の守り神、と言えばわかりますか?」
「あ、」
 思い出した。狼狗とは、確か彪狼山に住まうとされる神話の中の守り神だ。
 弘斗の家から車で一時間ほど走った所に、禁忌の樹海として恐れられる森がある。一度足を踏み入れれば生きては帰れないとされる月之渓谷同様に立ち入りが全面禁止されている森だ。そこに入ればコンパスなどはゴミと化し、まるでこの世の墓場とも思える光景が広がっている。そしてさらにその奥に進むと巨大な山へ入ることとなる。そこが彪狼山と呼ばれる山だ。いつからそう言われるようになったのかは知らないが、ずっと昔からの生きている神話の中にこういう話がある。
 ――樹海に迷い込んだ旅人の前に、人の姿をした狼が姿を現す。彼らは旅人を誘い、樹海の外まで導いてくれる。しかし振り返ったそこに彼らの姿はなくなっている。後に、それを狼狗と名付け、彪狼山の守り神と称える――。
 弘斗は思う。つまりは何か、その彪狼山の守り神、人の姿をした狼の狼狗が、この目の前で座っている迅戒と、その膝で眠りこけている彩那だと言うのだろうか。迅戒はともかくとして、彩那が守り神とは到底思えないのが本音だった。しかし実際の神様なんてのはそんなものなのかもしれないが、それをすんなりと受け入れられるほど弘斗は人間出来てはいない。
「狼狗はわかったが、本当にあんた達がそれだと証明できるのか? まさかお前、それを手口にした詐欺師じゃないだろうな?」
 少しだけ、迅戒が怒ったような表情をした。
「失礼な。わたし達を疑うのはまだ我慢できますが、我々誇り高き守り神、狼狗を詐欺師などと罵られる憶えはない」
 どうやら禁句だったらしい。「いやわりぃ、そんなつもりはない。で、その狼狗だと証明することはできるのか?」弘斗がそう言うと、迅戒は無言で膝に寝ている彩那の頭を指差した。そこにあるのは、彩那が主張する狼の耳である。
 そう言われればそうだ、と弘斗は思う。あれが本物だということは、ここ数日ですでに納得していた。偽者の訳がない。そして、その耳が本物なのだとしたら、そんなものが人間に生えるはずがないのだ。生えるとしたら、人間とはまた別の生き物になる。それが、迅戒の言う狼狗なのだろう。
「でもさ、それなら何でシロには耳が生えてないんだ?」
 その問いに、迅戒は少しだけ俯き、やがて顔を上げる。
「……正確には、これがわたしの本来の姿ではないんです。狼狗本来の姿を隠し、こうして人間の姿を装っています。ですから、彩那のように耳が生えている、というのは普通では有り得ないことなのです。ただ、彩那は異例で……。……彩那は、半狼なのです」
「半狼?」
「はい。彩那は、狼狗と人間の間に出来た、異例の子供なのです」
 その言葉に、衝撃は受けなかった。薄々そんなことじゃないだろうかとは思ってはいた。そこに狼狗などというものが混ざってくるまでは予測できなかったが、少なくとも彩那は異端の存在だとは感じていた。狼の耳が生えている人間など、この世では異端な存在なのだから。迅戒の話で何もかもが一直線に繋がったような気がする。
 なぜか、頭の中がすっきりとした。弘斗は笑う。
「ま、その辺を詳しく追求したいのは山々だけど、たぶんおれが知る必要はないことなんだろうな。もしおれが知る必要があったのなら、彩那がとっくの前に言ってただろうし。どうして彩那がおれんちの前で寝てたのかも大体わかった。大方その半狼ってのが問題で彪狼山から逃げた、あるいは追い出された。そんで途方に暮れてここで力尽きた、とかそんな感じだろ。どうだ、近からずも遠からずってところじゃねえ?」
迅戒は、まるで幽霊でも見るかのように弘斗を見つめている。それからぽつりと、
「……大体は、あっています。ですが、いいのですか? 彩那のことをすべて話さなくても」
「いいっていいって。たぶん訊いてもおれがどうこうできる話じゃなさそうだし、それに、シロはあんまり話す気ないだろ、ぶっちゃけ」
 図星だったのだが、迅戒は気まずそうに視線を離す。弘斗はそんな迅戒に、こう言う。
「それより、ちょいと訊きたいんだけどさ」
「……何をですか?」
「彩那がこの家に初めて来た日の翌日、残ってたシチュー食ったのお前だろ?」
 ばっと迅戒が顔を上げ、弘斗を見つめる。そしてすぐにしまったという感じに俯き、もごもごと何かをつぶやき始める。
 何だかそれが楽しかった。この迅戒も相当単純で良い奴なのかもしれない。顔付きは若々しく優しい兄貴分といった感じだが、どこか堅そうだった。しかしそうでもないようだ。これなら彩那同様に上手くやっていけると思う。
「いや、別に怒ってはないんだよ。どっちかって言うとお礼したいと思ってるくらいだ」
 何せ、シチューを食ったのが幽霊ではないとわかったのだから。ついでに魔法のステッキの謎が解けたのだ。
「あの料理作ってたのも、家を掃除してくれたのも全部シロだろ? 料理は美味かったし家は綺麗で良い気分だし。シチューみたいいくらでも食わしてやるさ」
 しばらく、迅戒はじっと弘斗を見つめていた。それから観念したように苦笑する。
「どうやら、わたしは思い違いをしていたようです」
「思い違い?」
「ええ。当初、弘斗殿はどうしようもない方だと思ってました。彩那をここに住ませたのも何か目的があるのではないかと。ですがそれはわたしが間違っていました。弘斗殿、改めてお願い申し上げたい。ここに、彩那を住まわしてはもらえないでしょうか? もちろんわたしはどこか別の場所へ行きます。今までは姿を消して彩那を見守って来ましたが、もうその必要もありません。弘斗殿に、彩那を任せたいと思います。……わたしがいると、何かと迷惑が掛かるはずです。ですから、」
「ちょっと待て。何か最初の方、おれを罵倒してなかったか……? まあそれはいい。けど、何でシロがここを出てくんだよ?」
 不思議そうに迅戒は口を開く。
「何で、と言われても……」
 どうにも話が見えてこないと思ったらそういうことか、と弘斗は思う。
「別におれはシロがいても迷惑なんて思わないんだよ。彩那一人住ますならもう一人増えたって同じことだしさ。それに料理も掃除もおれがしなくて済むんだから。シロもここに住めばいいじゃん」
「ですが、わたしがここにいるとわかれば――」
「問題が起きたら起きたでそのときに考えればいいだけの話だ。それに、おれ一人だと彩那を守ってやれないかもしれない。さっきみたいに彩那を危険な目に遭わす可能性だってある。だからそんときはシロの出番になるんだからさ。……あ、そうだ忘れてた。姿を隠して彩那を見守ってんだったら何であのときもっと早くに助けなかったんだよ? もしかしたらおれまで死んでたかもしれないのに」
 あのときは必死で何も考えてなかったが、もし迅戒が来なければ弘斗も彩那を追って谷に落ちていたかもしれない。いや、実際彩那を助けるために落ちようとしていた。無我夢中とは怖いもので、後先考えずに行動してしまう。あの後、一体自分はどうするつもりだったのか――そう思って密かに弘斗は蒼白になる。しかし助かってこうして午後を迎えているのだから深くは考えないでおこう。考え出したら切がない。
 やがて、そんな弘斗の心境を察してかどうかは知らないが、迅戒はぽつりとこう言った。
「……寝ていました」
「……は?」
 今度ははっきりと、
「ですから、寝ていました。彩那には弘斗殿が付いていてくれると思っていたので、少しだけ眠っていました。ですか彩那の気配が変わったので向かってみれば、あの事態になっていた訳です。そのことに関しては、申し訳ありませんでした」
 そう言って、迅戒は深く頭を下げた。
 弘斗は心の中でシロは頼りになるのかならないのかよくわからないなと思う。
「まあいいや、結果的には皆助かった訳だしな。それじゃ、シロ」
 はい、迅戒が顔を上げる。弘斗は右手を差し出した。
「これから、改めてよろしく」
 その意味を、迅戒は少しだけ掛かってようやく理解したようだった。迅戒が笑い、弘斗の手に自らの手を重ねる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
 やがて彩那が目を覚ます。手を握り合う二人を眠たそうに見つめ、手の甲で目を擦りながら「なにしてるの?」と問う。迅戒が苦笑して「なんでもないよ」と彩那の頭を撫でる。それに照れ臭そうに彩那も笑う。
 彩那の謎が少しずつ解け始めている。すべてがわかる頃にはどうなっているのか、今の弘斗には検討が付かない。だけど、それはそれでいいのかもしれない。何だか、この生活がさらに楽しくなったように感じる。それに何かを知ろうとも、頭を撫でられている彩那はいつもと変わらない。弘斗が変わらない限り、彩那も変わりはしないのだろう。
 彩那は彩那だと思う。それだけでいいのだ。皆が笑えれば、それだけでいい。
 これから、弘斗と彩那の共同生活に、迅戒が加わることとなる。


 そして、すべてが音を立てて廻り始めている。


     ◎


 太陽が沈み、闇がすべてを飲み込む頃、誰もいない月之渓谷には一匹の蝶々が舞っている。
 月の灯りさえ届かないそこを漆黒の羽を闇に溶け込ませ、優雅に、そして綺麗に蝶々は羽ばたいている。
 夜の世界が広がっていた。
 そして、その蝶々が一瞬でぐしゃりと握り潰される。無残にも散った羽が谷へ舞い落ちて行く。それは、とても無機質な動きだった。
 握り潰した拳が、ゆっくりと開く。そこにあるのはもはや蝶々と呼べる代物ではなかった。
 男は、その掌を下で舐め取る。口元が不気味に歪み、実に楽しそうにつぶやく。
「迅戒見ぃーっけ」
 灰色の髪を携えたその男の名を、刹鬼という。
 『鬼』の名を持つ、狼狗一族で最も破壊的な戦闘狂の血筋だった。
 断崖絶壁の谷を覗き込み、そこに漂う異様な気配を嗅ぎ取る。
 間違いない。裏切り者の気配だ。今までは綺麗に姿を隠していたが、どうやらここでひと騒動あったのだろう。もともと迅戒は気配を消すのが抜群に巧かった。もしかするとこのまま逃げられるのではないかと思っていたのだが、どうやらついに尻尾を掴んだようだ。戦闘狂の血が騒ぎ始める。
 そして、刹鬼は気になる匂いを感知した。
 ――人間の匂い?
 狼狗の匂いと一緒に、なぜか人間の生々しい匂いが混ざっている。まさか本当に人間と暮らしているのというのか。吐き気がする。そこまで堕ちたか。【瞬殺の迅戒】の名が聞いて呆れる。もはやお遊びの時間は終っているのだ。即刻、迅戒を殺すべきだ。
 幸い、兄貴とは別行動を取っていてこの気配にまだ気づいていないはずだ。いつも美味しいところばかり取られてはたまったものではない。今回は、独断でやらせてもらうではないか。
 刹鬼は笑う。
「おれ様と殺し合いを始めようじゃねえか、迅戒。貴様の首を取る瞬間が待ち遠しい」
 月の光も届かないそこから、その声をだけを残し、刹鬼は消え去っている。
 いつまで経っても、漆黒の羽は谷の底には着かない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「狼」




 中途半端な暑さというのが一番質が悪い。
 春の日差しのようにぽかぽかとするのなら気分が良いし、何より日光浴さえもできるのだ。真夏のかんかん照りの日差しでもクーラーさえ付けて室内で缶詰になっていれば快適に過ごせる。しかし六月の太陽というのは生温かく、じっとそれに耐えることもできない。かと言ってクーラーを付けるのはまだ早過ぎであるし、こんな時期からクーラーを付けていたら光熱費には目も当てられない。
 やれることと言ったら、家の窓を全開にして風が吹き通るのを待つことだけだった。そんな訳で、三神家のリビングには何とも言えない温度が広がっているのだった。だがそれで暑いと思うのはどうやら弘斗だけで、彩那と迅戒は快適だと言う。それは人間と狼狗という狭間の問題なのか、それとも単に弘斗の感覚が麻痺しているのか。
 何にせよ、弘斗にとってみればこの暑さは尋常ではなかった。リビングに響き渡るニュースキャスターの声がさらに暑さを増幅させているとさえ思う。一体何が楽しいのか、彩那は今日も朝っぱらからずっとニュース番組を観ている。迅戒も迅戒で、その彩那の隣に座って時折わかっているのかどうなのかは知らないが「ふむ」と肯いてたりする。そして弘斗は、リビングのフローリングの冷たさに惹かれ、昆虫のように床に張り付いている。
「……暑くねえのか、本当に……?」
 床に這い蹲ったままでは顔の見えない二人へ問う。それに答えのは迅戒だった。
「弘斗殿もしつこいですね。これなら快適に過ごせる温度でしょう。それに暑い暑いと言ってるから余計に暑くなるんですよ?」
 その声に混じって、彩那の「うんうん」と言う声が聞こえる。何だか少しだけむかつく。
 暑さのせいで余計に気が立っているのか、体の中がもやもやする。おかげで朝食は喉を通らなかったし、片付けも何もする気は起きず、すべて迅戒にやってもらった。病気かもしれない、という考えは全くの論外である。熱など測らなくてもわかる、熱はないのだ。ただなぜか気温が無性に暑く感じる。それはつまり、これか何か人生を左右することが起きるのではないか、と弘斗は考えている。それがどんなことなのかは検討が付かないのだが。
 扇風機ってどこにしまったけ、とふやけそうな脳みそで考える。押入れだったか、今は使っていない部屋だったか。しかし考えるだけで機能停止しそうな弘斗の体は、扇風機を探しに旅に出る気力は残っていなかった。動いたら途中で力尽きそうな感じがする。何か暑さを防ぐ良い方法はないものか。
 窓から吹き込む風にもっと強くなれと願い、ぼんやりとテレビから聞こえるニュースキャスターの音声に耳を傾ける。このまま寝ちまおうかと思う。今なら目を閉じればすぐに寝れるはずだった。しかし起きたときが問題だ。こんな中で寝たら汗だくになるのは目に見えている。水ならともかく、汗でべたべたになるのは気持ち悪かった。
 意識が何とも言えない中間を彷徨っていると、ふと気になることを耳にした。意識を浮上させ、もそりと起き上がる。テーブルの上に置いてあったリモコンを手に持ち、音量を上げる。
『昨夜未明、都築市にお住まいの藤堂茂(とうどうしげる)七十二歳無職の男性の変死体が発見されました』
 テレビの画面を見ていると、その藤堂茂という老人の写真が映し出される。その写真に、見覚えがあった。
「あ、このジジイ……」
 弘斗の声に迅戒が、
「お知り合いですか?」
 弘斗は姿勢を正してフローリングに座り直す。不思議と、それまで感じていた暑さは引いていた。
「いや、知り合いっていうか……よく見掛けたんだよ」
 テレビの画面に映し出されているのは、駅のホームでいつもいつも弘斗に「足腰が弱っとるんじゃ」と説教を垂れていたあのジジイだった。そういえばここ最近は見なかったような気がする。普段からあまり好ましくないと思っていた弘斗は気にも止めなかったが、まさか死んでいたとは思ってもみなかった。
 ニュースキャスターは続ける。
『死亡しておよそ一週間ほどが経過しており、さらにこの遺体には獣の歯形のような物が付いていることから、野犬に襲われたのではないかという見方が強まっています。都築市では野犬に対する処置を考えると共に、周囲の住民に警戒するようにと呼び掛けています。――それでは、ここで一端天気予報をお送りします』
 画面が切り替わると同時に、弘斗は無意識にテレビのリモコンを操作して電源を落とした。
 するとそれに彩那が「あっ」と声を出し、すぐに弘斗の手からリモコンを奪い、テレビの電源を入れ直す。再び聞こえ始める天気予報士の声を右から左にスルーさせ、弘斗は一人で思考を巡らす。親戚でも顔見知りでもない、ただの見知らぬジジイだった。だけど、それが死んでしまった。しかも野犬に襲われて。これが暑さの原因だったのか――そう思ってからすぐにまさかなと思う。だが供養だけはしておこう。
 弘斗は正座をして、両手を重ねる。爺さん、迷わずに天国に行ってくれよ。パン、と手を打ち合わせたと同時に、家のチャイムが鳴った。
「……誰だろ?」
 視線を送った部屋の時計は、十一時四十七分を指している。今日誰かと約束をした憶えはないし、だとしたら新聞の勧誘か何かだろうか。人の迷惑を考えろよと愚痴を漏らしながら立ち上がる。リビングを出て玄関へ。
 そのとき、迅戒が険しい顔をしていることに、弘斗はついに気づかなかった。
 チャイムは鳴り続ける。
「一回鳴らせばわかるっつーの。……はい、どちら様です、か……何だお前かよ修二」
 玄関の引き戸を開けた瞬間、目に飛び込んで来た西城修二の顔を見てまた暑さがぶり返したような気がする。
「何だとは何だコラ。人がせっかく差し入れ持って来てやったって言うのに」
 ほれ、と差し出されたスーパーの袋には野菜が詰まっていた。
「お、サンキュ。おばさんにありがとうって言っといて」
「ああ。で、彩那ちゃんはまだいるんだろ?」
 さっそくその質問かよ、と弘斗は一人で呆れる。
「……会いに来たのか、本当に?」
 修二は胸を張り、「おおよ」と自信満々に答える。これは嘘を付いたところですぐに見破られるだろうと思う。どの道、修二にはすでに彩那のことは話してあるのだから問題はないはずだ。驚くなら驚いてくれて構わない。そっちの方がこれからうだうだ言われないで済むような気がする。
 成るように成るだろうと単純に思い、弘斗は廊下からリビングへ声を掛ける。
「彩那ー! ちょっとこっち来てくれー!」
 すると微かな物音が聞こえ、リビングのドアが開いて彩那がひょっこりと顔を出し、こちらに向かって来る。
 弘斗の後ろで修二が「おおっ! マジで耳生えてんじゃん!」と歓喜の声を漏らす。
 彩那が横に立つと、弘斗は修二に向かって言う。
「この子が彩那。ほらこれで満足だろ。今からお前クラブあるみたいだから早く行け」
「まーまー弘斗さん、そー言わないでお茶でも出してくれても構わないのではありませんか? やっと彩那ちゃんとこうして出会えた訳だし、だから」
 そして、リビングのドアが再び開いて今度は迅戒が顔を出す。
「弘斗殿、お客様に彩那を見せて大丈夫なのでしょうか?」
 迅戒の白髪もそれなりに不安ではあるが、修二なら問題はないはずだった。こちらに歩いてい来る迅戒を見据え、修二がまた「おいおい、今度は白髪かよ」とつぶやく。
「……で、この人は誰だ、弘斗」
 考えるのが面倒だったので、ふと思い付いたままを話すことに決めた。
「この人は彩那の兄の迅戒シロさん。いろいろな事情の下、兄妹揃ってこの家に住むことになった。それで彩那にシロ、こっちがおれの友達の西城修二」
 弘斗の出鱈目なその設定で納得してくれたのか、迅戒は何の疑問も持たずに修二に向き直り、
「初めまして、迅戒シロと申します。こっちは妹の彩那です。以後、よろしくお願いします」
 一人状況に追い付けない彩那だけが弘斗と迅戒を交互に見つめて不思議そうに首を傾げる。
「あ、いえいえ。こちらこそよろしくお願いします」
 と年上に対する礼儀ということで畏まり、修二は手を迅戒へ差し出す。迅戒はにっこりと微笑んでその手に自分の手を重ね、すっと修二の耳元に口を寄せて何事かをつぶやく。そのつぶやきは、弘斗にも彩那にも聞こえなかった。
 しかし修二だけに聞こえたそのつぶやきで、なぜか修二の顔が蒼白になった。微かに震える手を迅戒から離すと同時に、ぎこちない笑みを浮かべて弘斗に手を上げる。
「それじゃ弘斗、おれは今から部活だから行くわ。またな」
「え、お、おお。またな」
 何とも言えない言葉を交わすと、修二は逃げるように三神家を後にした。残ったのは、状況がわからない弘斗と、それ以上に何が何だかわからない彩那と、一人で微笑む迅戒だけだった。
「……シロ。修二に何言ったんだ……?」
 その問いに、迅戒はこれでもかというくらいの笑顔を見せた。
「いえ、ただ妹に手を出したら噛み殺すぞ、と。それだけです」
 絶句する。
 迅戒の人物像が密かに壊れた瞬間であった。


 時刻は移り、日も暮れ始めた夕方。
 夕食は迅戒が作ってくるということだったのだが、そろそろ余り物だけでは限界があるらしく、買出しに出掛けることにしたのだった。
 辺りが田んぼに囲まれた道を歩く。弘斗は片手に近くのスーパーの袋を提げ、彩那は頭に麦わら帽子を被っているだけで手ぶらで、その横に弘斗の倍の荷物を持つ迅戒。驚きはしないが、迅戒は力があった。たぶん、弘斗が腕相撲などしても瞬殺されるのがオチだろう。そんな迅戒が荷物を持つのはわかるが、彩那が手ぶらというのが少し納得できない。
 そもそも彩那には耳のことから留守番を命じたのだ。しかし断固として自分も行くと言い張り、麦わら帽子を被って勝手に付いて来た。勝手に付いて来たクセに、スーパーのお菓子売り場でちゃっかりとポテトチップスを買ってやがる。それは今現在弘斗が持っている袋に入っているのだが、それくらい持てるだろという話だ。
手ぶらをいいことに、彩那は踊るようにとんとんと先に歩いて行く。前に伸びる影を追い掛けるように歩き、弘斗達の前方でくるりと後ろ向きになってそのまま歩く。
「危ないぞ。コケても知らねえぞバカ」
 そんな弘斗の忠告を、彩那は無視する。
「コケないもん」
 満面の笑みで舌を少し出して弘斗にあかんべーをすると、彩那はさらに前へと後ろ向きで歩き出す。
 それは、まるっきり子供の仕草だった。田んぼの草むらで、虫が一節だけ鳴いた。
「……弘斗殿、少しお話があります」
 隣に並んでいた迅戒が、前を行く彩那を見つめたまま、しかし弘斗にそう言う。
「……彩那のことか?」
 同じく彩那を見つめたままの弘斗は尋ねる。
「はい。彼女のことを、やはり弘斗殿には知っておいてもらいたい。少なくとも、あの首輪のことだけでも」
 忘れた訳ではない。前をとことこと歩いて行く彩那の首には、今も黒い首輪が巻かれている。
「……それは、やっぱり彩那が半狼だからなのか?」
 それなりに核心を持って訊いたのに、迅戒は首を振る。
「いいえ。それは違います。あの首輪は、彩那が――」
 そこまで口を開いた迅戒が、一瞬で黙り込んだ。異変に気づいてふと見た迅戒の表情は、ぞっとするほど鋭かった。
 やがて前を歩いていた彩那も足を止める。迅戒の視線も、彩那の視線も、ある一点を見つめて凍っていた。弘斗は、無意識にその視線を追う。
 道端に備えられた電柱のその上、夕日をバックに何かの影があった。
 そして。
 破滅の声を聞いた。
「よお迅戒。それに小娘。久しぶりだなぁ、裏切り者共」
 そう言って、灰色の髪を携えるその男は笑った。


     ◎


 その声を聞いた瞬間、迅戒はすぐに戦闘体勢に入った。
 まさかこんな早くにここを感づかれるとは思ってはいなかった。しかしそれは迅戒の汚点だったのかもしれない。月之渓谷での一件、あそこで迅戒は少しだが気配を残してしまっていた。そこを、刹鬼と慌鬼が見逃すはずもなかったのだ。
 もっと的確に彩那を助け出すべきだった。そして、ここで彩那と弘斗を巻き込むことだけは避けなければならなかった。
 その場にスーパーの袋を投げ捨て、迅戒は一歩で前方の彩那の所まで移動し、その体を抱え、次の一歩で弘斗の所まで帰って来た。一秒も掛からなかったはずである。弘斗にしてみれば、迅戒が瞬間移動でもしたように思えたのかもしれない。だが今は悠長に説明している暇はない。
「弘斗殿、彩那と一緒に下がっていてください!!」
 それだけを叫び、迅戒は電柱から弘斗達を結ぶラインのど真ん中に立つ。状況がわからない弘斗でも、迅戒の只ならぬ気配に圧倒され、質問など一切考えられずに指示に従う。
 迅戒は電柱の上に立つ男へと殺気の篭った視線を向ける。
「刹鬼……っ!」
「安心しろや迅戒。おれ様は貴様の首を取るまで小娘とクソ人間には手を出さねえよ。殺るのは、貴様の首を切り落としてからだ」
 ふっと電柱から飛び降りた刹鬼は、何事もなかったように着地する。
 気配は一つ。目の前の刹鬼のものしかない。慌鬼はどこに――
 その思考を読み取ったのか、刹鬼は不満そうに口を開く。
「おれ様一人だ。兄貴はここにはいねえよ。今頃血眼になって貴様の尻尾追い掛けてるだろうよ」
「……そうか、それは安心した。慌鬼がいないのならば問題はない」
 慌鬼はプライド高き狼狗である。刹鬼を囮にして襲うことなどまずしないだろう。それに挑んで来るのなら必ず一対一の戦闘を好むはずだった。つまり、刹鬼の言うことは嘘ではない。ならば、慌鬼に感づかれる前に刹鬼の息根を止める必要がある。
「何だと? 貴様、おれ様一人なら勝てるとでも言いたいのか?」
 刹鬼の気配が変わる。辺りを冷たい空気が支配していく。
「愚問だ。我々狼狗が最強と称え、恐れたのは貴様ではない。貴様の兄、【殺戮の慌鬼】だけだ」
「黙れっ! 殺すぞ迅戒っ!」
「くっくっく。やはり貴様は慌鬼に嫉妬しているのであろう? 自分にはない兄の最強の才能にな、愚かなる凡狼よ」
「その口剥ぎ取ってくえるわ迅戒っ!!」
 そして、迅戒が、弘斗と彩那が見ているその前で、刹鬼の体が変質し始めた。
 弘斗が息を飲む光景の中、人間の姿だった刹鬼の皮膚が蠢き、髪の色と同色の灰色の毛が生え始める。やがて直立の姿勢が傾き、歪み、前屈みになっていく。両手両足でアスファルトに着き、その手足さえても変化し始める。骨が軋む音が耳に届き、後から後から生え出してくる灰色の毛はすでに体全体を隠していた。顔の系統も変わり始める。口元から前に突き出され、人間の歯が犬歯よりも何十倍も鋭い牙に生まれ変わる。口を閉じても覗くそこからだらしなく涎を流し、喉の奥から唸り声が響く。
 そこにいるのは、先ほどまでの人間の姿からは想像できない、一匹の灰色の狼だった。
 ただ、大きさは普通の狼などとは比べ物にはならない。車一台分はあるであろうその巨大な狼が、彪狼山に住まうとされる守り神、狼狗一族本来の姿だった。
 本来の姿と化した刹鬼は涎が落ちる口を開く。そこから、何重にも重ねたような不気味な声が聞こえる。
『今日が貴様の命日だ。覚悟しろ【瞬殺の迅戒】』
 その姿を見ても全く動じず、迅戒はただ刹鬼を見ている。
「驕るなよ刹鬼。身の程を知れ。貴様如きではこのわたしの首は取れぬぞ」
 そして、気づいたそのときには、灰色の狼と対峙しているのは、雪のように白い狼だった。
 大きさはほぼ同じ、ただ色だけが違う二匹の狼が弘斗の目の前にはいる。
 刹鬼は、そんな迅戒を見て嬉しそうに牙を見せる。
『敵の首を最初の一撃で、一瞬で切り落とすことからその名が付いた【瞬殺の迅戒】。確かにお前の速さは大したものだ。が、所詮は一撃だけだ。最初の一撃さえかわせば貴様など恐れるるに足らんのだ』
『ほう、よく言った刹鬼。ならばかわしてみよ、このわたしの一撃を』
 刹鬼が雄叫びを上げる。
 それが合図だった。一瞬で双方が地面を蹴り、アスファルトには爪跡だけが残される。空中で二匹の狼は互いを認識し合う。人間ではもはやそれすらも目で追えないだろう。そんな冗談のような速さの中、迅戒は己の手足の爪を研ぎ澄ます。まるで玩具のように爪が伸び、軍用ナイフよりも鋭い刃物へと化す。
 それは、刹鬼とて同じだった。触れるものすべてを切り裂く狼狗の爪は、人間が受ければそれだけで紙切れ同然にバラバラにされるのは目に見えていた。
 空中を蹴ってさらに二匹は加速する。狙うはただの一点、【瞬殺の迅戒】の名の通りの相手の首だけだ。
 白色と灰色の獣が、空中で激突する。
 空に舞うは、夕日よりも赤い液体だった。まるで雨のように道路に降り注ぐそれは、事情を知らなければとんでもなく綺麗だったに違いない。何事もなかったように二匹の狼が元の位置に戻って来たときにはすでに、決着は着いていた。
『ざまあねえなあ迅戒。これで、おれ様の勝ちだ。次は、その首を貰うぜ』
 弘斗の目から見たその光景は、まさに絶望的だった。
 狼と化した迅戒の左腕が、切り取られていた。やがて弘斗の背後に赤く染まった白い毛並みの獣の腕が音を立てて落ちた。しかしそちらを振り返っている暇はない。もしそこを振り返ってしまったら、その瞬間にでも迅戒が殺されてしまうように思えた。
 迅戒は左腕がなくなってもなお立っている。完全に切断された腕から血が流れ落ち、雪のように白い毛を、そしてアスファルを血に染める。
 何も喋らない迅戒に余裕の笑みを浮かべ、刹鬼は血痕の付着した己の爪を舌で舐める。
『どうした? 命乞いでもする気になったか? おれ様の奴隷になるのなら考えてやらぬこともないがな』
 そう言って笑う刹鬼。そして、迅戒がその口を開いた。
『驕るなと言ったはずだ刹鬼。貴様、まだわからぬのか。勝負はすでに着いている』
『わかってるさ。貴様の首が飛び、おれ様の勝ちだ。それが不動の――……え?』
 その異変に気づいたときにはすでに手遅れだった。
 刹鬼の首に赤い線がすうっと入る。そこから微かに血が滲み出した瞬間、ずるりと刹鬼の首が落ちた。遅れて体が地面へと横たわる。状況が理解できない刹鬼は、首だけになっても口を開いた。
『待て、何だこれは……体が……嘘だ、待てっ、そんなはずはないっ!』
『終わりだ刹鬼。わたしの腕一本を落としたこと、向こうで誇るが良い』
『嘘だぁああああああ、ぁあぐっ……かっ! がっぐぅっ……』
 最後に口から血を溢れ出し、それっきり刹鬼の首も体も動かなくなった。アスファルトに無常にも流れて出る血が血溜りを作る。
 やがて迅戒が大きな息を吐く。すると同時に狼の体が軋み、弘斗の知る人間の姿の迅戒へと戻っていた。しかし左腕はなくなっていることには変わりはなかった。
 そこまで息を呑んで見ていた弘斗だが、やっとことの重大さに気づく。迅戒がこちらを振り返ったと同時に、弘斗は駆け出す。
「お、おいシロっ! お前、腕、腕がっ、」
「大丈夫です、落ち着いてください。一晩眠れば治っています」
「一晩寝ればって、お前……」
 一晩寝て切断された腕が治れば苦労はいらない。だがそれは人間で言う常識だ。もしかしたら狼狗にはそういう自己再生能力が備わっているのかもしれない。仮にも神だ。それも不思議ではない。不思議ではないのだが、ものすごく心配だった。
 目の前で片腕が切り落とされたのだ。平常でいれるはずがなかった。
「でも止血だけでもしとかないとやべえんじゃねえのか!?」
「平気です。もう血は止まっていますから」
 見れば迅戒の傷口はすでに塞がり始めていた。
 異様な光景だった。まるで最初から腕がなかったかのように皮膚が固定され、そこが微かに光っている。
 吐き気がした。そんな超現象を見たせいでもあり、生々しい血の匂いを鼻で感じたせいでもある。胃の中にあるものが逆流しそうになるのを必死で堪えた。
 やがて足音が聞こえ始める。彩那だった。彩那は迅戒に走り寄ると同時にその体にしがみ付き、堪えていた涙を流した。そんなことにさえ気づかなかった。狼となった迅戒の戦いに心を奪われ、彩那のことなど考えていられなかった。不覚だったと思う。何も怖いのは弘斗だけではないのだ。それ以上に、不安で怖いのは他の誰もない、この彩那なのだろう。
 迅戒は彩那の背に右手を回すと、優しく微笑んだ。
 途方もない無力感を憶えた。何もできなかった。もちろん、あの争いを見た後で弘斗にできることなど本当に何もないのだろう。ただ、それでも彩那には笑っていて欲しいと思ったはずだった。それが遠い昔の日のように感じる。狼狗と人間では違い過ぎる。だけどその中で、何か一つでもできることはないのだろうか。何でもいい、ただの一つでもいい。泣いているこの少女のために、三神弘斗ができることは何かないのでだろうか。
 拳を握る。途方もない無力感はどうしようもない怒りへを変わる。自分の不甲斐無さに腹が立つ。何かできないのか、何か――。
 その怒りは、ただの一言で消え失せた。背筋が凍った。それを感じたのは、弘斗だけではない。迅戒も彩那も、感じ取っていた。
 全員の視線が前方へ向けられる。かつて刹鬼の頭だった物をぐちゃりと踏み潰し、漆黒の黒い髪を携えたその男がため息を吐いた。
「……たった十日微温湯に浸かっただけで刹鬼如きに腕一本取られたのか。見損なったぞ迅戒」
 和み掛けていた迅戒の表情が一瞬で鋭くなる。それは先ほど見せた迅戒の物よりも数段も鋭かった。
 普通の人間が受ければそれだけで倒れ込むような殺気を放つその視線を受けとめても、男は平然としている。肉片と化している実の弟を足蹴にして、唾を吐き捨てる。
「まあ待て。今日はお前と殺り合う気はねえよ。片腕なくなっているお前に勝ってもおれの名が汚れるだけだ。それにこのバカが先に仕掛けてんだ。おれは万全のお前と殺りたいんだよ」
 三日だ、と男は言う。
「三日待ってやる。それまでに片腕を完治させ、本当のお前に戻れ。邪魔が入ったとはいえ、お前はこのおれと戦って唯一生きている狼狗だ。おれを失望させるなよ」
 男がゆっくりと踵を返す。その背中を、迅戒は呼び止める。
「待て慌鬼。一つだけ訊きたい」
 男は振り返りもしないで、ただ無言で足を止めた。
「お前は、彩那を殺しに来たのではないのか?」
 迅戒にしがみ付いている彩那の体が強張る。それを迅戒が優しく抱き締めて安心させる。
 乾いた笑いが辺りを包み込む。
「馬鹿言え。そんな小娘、ただのついでだ。おれはただお前とあのときの決着を着けたいだけだ。――ああ。そうだな。お前がもしおれに真っ当な勝負で勝てないと踏んだのならば、その小娘の力、使っても構わんぞ」
 迅戒の目つきが急に殺意を帯びた。
「黙れ。彩那の力は使わない」
「それで勝てるのか? あのときの二の舞にならなければいいがな」
 笑いながら歩き出した男へ、迅戒は言う。
「三日後だな。待っていろ慌鬼。そのときには、貴様の首を貰い受ける」
「良い返事だ。楽しみにしているぞ、迅戒」
 その言葉を残し、男はふっと消えた。残ったのは、血に塗れた狼の屍だけだった。
 夕日がゆっくりと傾き始める。やがて夜が広がる。
 いつまで経っても、弘斗達はそこから動けないでいる。


――――――――――――――――――――――――――――――――――



     「光と闇」




 鶏もまだ鳴かないであろう早朝、漠然と目が覚めた。
 不思議と眠気は感じず、ただ朝の静寂だけが耳に届く。そこに混ざる弘斗の鼓動と、彩那の規則正しい寝息。いつも通りの朝のようで、全く違う朝だった。
 布団を体から退かし、弘斗は起き上がる。ふと見た視線はベットへ向かう。そこに寝ているのはやはり彩那だけで、ベットの奥、床に座り込んだまま眠っているのは白髪の男、迅戒だ。弘斗がいくら言っても横になって眠ろうとはせず、自ら進んで座ったまま眠ることを主としている。そして、その左腕は昨日の出来事などまるでなかったかのようにあった。本当に生えてきたかのように、当たり前のようにそこにある。切り落とされた迅戒の腕は、刹鬼の死骸と共に消え去っていた。まるで風化するように、風に吹かれると同時に灰になって消えしまったのだった。その光景も踏まえ、昨日の出来事が夢だったらどれほど楽だろうかと思う。軽い頭痛を感じ、首を振ってそれを追い出す。
 視線を迅戒へ向け、弘斗はぽつりと言う。
「……シロ、起きてるか?」
 すると迅戒はすっと目を開いた。本当に迅戒は一体いつ眠っているのだろう。
 迅戒は無言で弘斗を見つめる。弘斗は彩那を起こさないように立ち上がり、
「……リビングでいいか?」
 弘斗の言いたいことを理解したのか、迅戒は何も言わずに立ち上がって無言で弘斗の後を付いていくる。部屋のドアを開けて廊下へ。階段を下りて一階に辿り着き、一番奥のドアを開ければそこがリビングだ。
 会話はなく、終始無言で定位置に座る。テーブルを挟んで向かい合うこと数秒、迅戒がその口を開く。
「どこから話した方がいいでしょうか」
 考えもしなかった。
「最初からだ。彩那が生まれる瞬間から今現在まですべて。……すまない。本当は首を突っ込む気はないんだが、ここまで来たら仕方ねえんだ」
「いえ。弘斗殿が何かを感じる必要はありません。そもそもわたし達をここに住まわしたくれた時点で、それはすべてわたしが背負うはずのことでしたんですから」
 また無言の数秒が過ぎたとき、
 今まで弘斗が最も知らねばならなかった、白銀の髪をした、狼の耳を付けた、彩那という少女のことが、迅戒の口から語られる。


 ――それは今から十五年前、我々狼狗が住まう彪狼山の樹海に、一人の人間の女性が迷い込んだことから始まります。
 その女性の名を、佐々木香織。彼女は、自殺目的で樹海に足を踏み入れたそうです。詳しくはわたしも知りませんが、生きていくことに疲れたそうです。それで自殺をしようと、迷い込んだら生きては帰れないその樹海に入って来ました。ですが我々にしてみれば迷惑でしかないんです。下手に迷い込んで人間の捜索隊などを出されれば、こちらも無事に隠れられるとは限りませんから。ですから我々は自らを、後ほど言いますがとある術で人間の姿になり、樹海から逃すんです。それが今、人間界で語られる彪狼山の守り神、狼狗の発端です。
 そしてその香織という女性も、我々人間化した狼狗が外に出す予定でした。そこで、一つの問題が発生したのです。そのとき、彼女を迎えに行った狼狗の名を昴(すばる)、わたしの親友でした。昴は彼女を外の世界に送り届けるはずだったのですが、しかし昴は彼女を、あろうことか我々狼狗の村、新月村に招き入れたのです。もちろん問題になりましたが、昴はそれを物ともせず、二人で過ごし始めました。彼女を迎えに行った際に何があったのか、どうしてそうなってしまったのか、その真相は、昴はわたしにさえ教えてくれませんでした。教えるとわたしにも迷惑が掛かるかもしれないから、と昴は苦笑してしました。しかしわたしはそれでもよかった。昴が、嬉しそうだったから。それだけで、よかったんです。
 やがて二人は当然のように恋に落ちた。最初の頃は笑顔さえ見せなかった彼女も、月日が流れるに連れ笑うようになり、新月村で狼狗と一年余り過ごした頃にはかつての面影など微塵も感じさせませんでした。最初の方こそ新月村の長も納得していませんでしたが、昴の申し出により、彼女を人間界に戻さないという条件付で了承してくれました。彼女も人間界に戻る気はなかったようですけどね。
 幸せな月日が過ぎました。佐々木香織が新月村に住まうようになって二年、そして昴と彼女の間に、異例の子供が生まれました。わかりますよね? それが、彩那です。生まれ持っての半狼。狼狗でも人間でもない実に異端な存在。またそれも問題となりましたが、そこも昴が長を説得し、何とか承諾させたようです。前例のない彩那の存在は、いろいろな発覚がありました。通常、狼狗の毛色は灰色です。人間化したときはそれがそのまま髪の色になります。わたしもその点では異例なのですが、今はいいでしょう。彩那の髪は、弘斗殿も知っての通り銀髪です。どういう仕組みでそうなったのかはわかりませんが、それに加え、彩那は本来の姿があのままなのです。我々のように狼の姿になるようなこともできませんし、頭に付いた耳を消すこともできない。そして、彩那の異例はそれだけではなかった。普通、狼狗は産まれ落ちて十年で一つの狼術を憶えます。それが人間に化けることです。人間に見つかっても下手に音沙汰を立てずに済ますために、狼狗が生み出した術です。それを使えて初めて、大人と認識されます。しかし、彩那は十三になる今でさえ狼術を使えない。半狼の彩那には無理なのかもしれません。ですがそれでもよかった。もともと異端の存在です、それだけで何が揺らぐ訳でもなかった。昴と彼女は、彩那を力いっぱいに愛していました。
 ……そして今から三十日前、異端の半狼である彩那に、禁忌の力が覚醒した。今までたった一人の狼狗しか扱うことのできなかった力、【淵狼(えんろう)】。狼狗の身体能力、自己再生能力の驚異的に向上させる力です。ただ、それは禁忌だった。かつて覚醒した狼狗はその力を使い、何もかも思い通りに動かし始めた。それは留まるところを知らず、反対する者は誰も彼も殺し尽くした。【淵狼】の能力を持った狼狗を相手に、正当の方法で勝てるはずもないんです。そこで取り出したのが、狼狗に伝わる、【淵狼】の力を完全に押さえ込む首輪、縛封の首輪です。彩那がしているのが、その縛封の首輪なのです。それを駆使して覚醒した狼狗を殺して以来、その芽を出した狼狗は即刻殺すことが義務とされました。
 つまり、彩那も殺されることになったんです。しかし、彩那は完全に覚醒していませんでした。その力を使えば、彩那は命を縮めます。我々の見立てでは、あと数回使えば命を落とすでしょう。そのことから、昴達はもちろんのこと、彩那と共に過ごしたことがある狼狗も反対しました。その頃には、彩那の性格も知れ渡っていましたから。
 議論は長く続き、そして遂に決定が下された。【淵狼】の能力を持った者は、どんな条件であろうとも、半狼であろうとも殺す。それが覆ることはありませんでした。ですがそれに昴達が反対した。抗争覚悟で、その決定を見直すように申し出、そしてそれは起こった。
 狼狗一族の中でも最も破壊的な戦闘狂の血筋、『鬼』の名を持つ者達が現れたのです。それまで、彼らは彩那のことなど見もしなかった。争い以外に、彼らに快楽はないからです。そのときにその戦闘に出て来たのが、昨夜わたしと争った刹鬼と、そしてあの黒髪の男、慌鬼です。刹鬼はともかくとして、慌鬼に敵う狼狗などこの世には存在しません。昴達は、抵抗虚しく殺されました。彩那だけを残して。
 それに、わたしは我を失った。昴はわたしの親友です。そして、その親友の妻の香織も、わたしにとっては大切な人だったからです。その二人が殺されたことが、わたしには耐えられなかった。気づいたときには、慌鬼に牙を剥いていました。……結論を言いましょう。わたしは両腕を落とされ、半死状態になり、一方の慌鬼は、傷一つ負っていませんでした。正気を失っていたとはいえ、傷一つ残すこともできませんでした。もうこれで死ぬんだろうと思った際、長が慌鬼を止めてくれた。醜く、わたしは命を残した。絶望に浸っていたのは数時間だったはずです。
 失った多くの同士、そして親友。彼らのためにできることは、たった一つしか思いつかなかった。彩那を守ること。それが、生き残ったわたしに唯一できることでした。わたしは腕が完治した直後、彩那を連れて新月村を出ました。追手から姿を隠し、やがて辿り着いた場所。辺りを田んぼに囲まれた、人の気配がない家。
 わたしは食料を調達するためにその家に彩那を寝かせておきました。しかし帰って来てみれば……弘斗殿がいた訳です。ここからは、もう知っているでしょう。


 話し終えた迅戒は、一度大きく息を吸い込んだ。それから真っ直ぐに弘斗を見据える。
 その瞳が、これからの判断はそちらに任せると訴えていた。
 頭の中を整理する。正直な話、先ほどの迅戒の話をすべて理解した訳ではない。わからないことは数多くあった。しかしそれは迅戒が余計な部分を省き、簡潔に説明してくれたからなのだろう。それを踏まえた上で、結論を出そう。
 だが、答えは最初から決まっていたのかもしれない。
 迅戒をしっかりと見据え返し、弘斗は言う。
「訊きたいことが二つある」
「何ですか?」
「一つ。彩那は、何もかも知っているのか?」
 自分が異端な存在で、禁忌と呼ばれる力を持っていて、それが原因で親を殺されてしまったこと。もし彩那がそれを知っているのなら、あまりにも重い。
 そして、迅戒は首を振る。
「いえ。一種の記憶障害です。彩那は、昴達が殺された瞬間を目撃しています。そのときから、彩那はその記憶を自ら封印した。両親は自分が小さい頃に死んでいて、首輪は大切な物だから外してはいけない、そしてシロは自分の親代わり。それが、彩那が作り上げた一つの記憶です」
 どうしようもないのかもしれない、と弘斗は思う。所詮、自分はただの人間である。その人間から遥かに掛け離れた狼狗を相手に、自分にできることは何一つないのだろう。だけど、それでも、たった一つだけ。それだけはどうしても叶えたいことがある。
「二つ目だ。シロ、お前は……あの慌鬼とかいう奴に、勝てるのか?」
 迅戒は、それをはっきりと答えた。
「勝ちます。自分の命と引き換えにしても。ですから弘斗殿、頼みがあります。身勝手は百も承知、ですが、」
「わかってる。お前にもしものことがあったら、彩那は、おれが守る。あいつの笑顔を、絶やさせはしない」
 正真正銘、それだけを願う。
「……やはり、貴方はすごい人だ。そして、もう一つ。これから三日、わたしはこの家には戻りません。この家に戻って来るのは、四日後です。それまで、彩那を、よろしくお願い申し上げます」
 そう言って、迅戒が頭を下げた。
「彩那にはどうする? おれから伝えようか?」
「いえ、その必要はありません。彩那には昨夜、弘斗が眠っている間に話しておきました。あの子も納得してくれた上で、こう決めました」
「……そうか。シロ、」
「はい」
 これだけは、言っておかなければならない。
「絶対に帰って来い」
 迅戒は、優しく微笑んだ。
 そしてその早朝を境に、迅戒はこの三神家を出て行った。戻って来るのは四日後。そのとき、もし万が一にでも迅戒が戻って来なかった場合は、彩那は、弘斗が守らなくてはならない。あの狼相手に自分が対峙すれば一秒で殺されるのは目に見えている。だけど、それでも守らねばならない。
 あの笑顔を絶やしてしまわぬように。それだけを願い、そして叶えるのだ。
 朝日が昇る。いつも通りの朝日で、しかしすべてが違う朝だった。


     ◎


 三日という月日は簡単に過ぎていった。
 それまでと何が違うかといえば、弘斗に関してはあまり変化がなかった。朝起きて仕度して学校へ行って。彩那の昼食を用意するのが弘斗になっただけで、三神弘斗本人に変わったところはあまり見られない。
 しかし彩那は少しだけ変わった。表面ではいつも通りだが、以前より元気がない。内心では迅戒のことを心配し続けているのだろう。迅戒は親代わりだと彩那は思っている。それがもしかしたらいなくなってしまうかもしれない。それで何も変わらずにいられる訳はないのだ。
 そして、迅戒がこの家を出て三日目の夜。それが、始まりの時刻だった。


 太陽が沈み、空の支配権が月に代わったとき、迅戒は一人でとある山の山中に佇んでいた。
 木々の隙間から見える星を眺めながらゆっくりと歩き出す。今から、すべてを賭けて倒さなければならない相手と対峙するのだ。勝てる保障はないが、勝たなければならない。負けは許されない。山中を下ると一般道路へと足を進めた。アスファルトの道路の真ん中に立ち、視界一杯に広がる夜空を見上げる。
 満月だった。狼狗の力を最大限に発揮できる月夜。
 迅戒はふっと目を閉じ、力を解き放つ。体が変質していく。姿勢が屈み、視点が一気に低くなる。道路に立っていた人間は、一瞬で一匹の真っ白い狼へと変化している。
 左手の調子を確かめる。悪くはないが、微かに痛みが走る。この三日間、迅戒はただひたすら木々を切り落とし続けた。勘を取り戻す、などと大層なことではない。単に、爪の切れ味を十分に上げるためである。標的の首を切り落とすためのその最大の武器を、完璧に研ぎ澄ましたのだ。そして、それの代償で左腕の感覚が微かに歪んでしまった。
 そもそも狼狗を殺す方法はただ一つ、首を落とすしかない。他の部分を切り落としたところで、狼狗は一晩もすれば表面上は完治させてしまう。しかしそれはあくまで表面上であり、内側を完全に治すのには最低でも一週間は掛かる。それまでは安静にしているのが一番良いのだが、そんな甘ったるいことは言っていられない。左腕一本は惜しいが、それを捨てでもしなければ慌鬼には絶対に勝てない。
 万全のお前と殺りたいと慌鬼は言った。だったら、一週間は待たなければ迅戒は完治しない。だが、それを言い訳にはできない。何せ、慌鬼は、生まれてこの方、腕を切り落とされるどころか、傷一つ負ったことがないのだ。どれだけで傷が治るのかを、慌鬼は知らない。傷一つ負わないのだがら、知る必要がないのだ。迅戒は、そんな化け物と殺し合いをするのである。
 ――忌まわしき因果を切り離すときだ。
 そう、迅戒は思う。
 通常、狼狗の毛色は灰色である。しかし迅戒の髪は白、慌鬼の髪が黒。その対極の存在は、狼狗の中でも最強の力を持っていた。白は光、黒は闇。光はすべてを照らし、闇はすべてを飲み込む。全く同時にこの世に生れ落ちた二人の狼狗。白は【瞬殺の迅戒】と名付けられ、黒は【殺戮の慌鬼】と名付けられた。
 今夜を持って、そのどちらかがこの世から消える。光が勝るか闇が勝るか。これで、はっきりする。
 獣姿の迅戒は、牙を見せる。先ほどから禍禍しい殺気が漂っている。人間には感知できないだろうが、野生動物には感知できる殺気である。証拠に、日が沈んでからずっと、森は静寂に包まれていた。生き物の気配は何もない。生き物がすべて脅え、身を隠しているのだろう。
 そしてこの広範囲まで殺気を放つことができる者を、迅戒は一人しか知らない。今から殺し合う相手、慌鬼だけだ。この殺気は、戦いの場を知らせているのだろう。
 迅戒はアスファルトを蹴る。爪跡だけを残し、空中へ飛び上がる。足を進める度に左腕に痛みが走る。しかし止まる訳にはいなかない。この殺気が漂っている範囲に関して、慌鬼にはすべて手に取るようにわかっているはずだ。もちろん迅戒がそちらに向かっていることも知られている。もしここで何か不自然な行動をすれば、それだけで慌鬼が警戒する。そうなっては、勝機が軽減する可能性だってあるのだ。だから止まる訳にはいかない。この痛みを隠し、慌鬼を向き合うのだ。
 殺気が放たれているのは、彪狼山の樹海にある神社だった。ここは人間が狼狗を奉るために建てた神社の内の一つだ。その境内に、慌鬼は人間の姿で立っていた。
 そこから距離を取って迅戒は着地する。目前の慌鬼へ負けじと殺気を放つ。
「ちゃんと来たか。逃げ出したかと思ったのだが」
 余裕に満ち溢れたその表情に吐き気がした。昴達を殺したときも、慌鬼はそんな表情をしていた。今も目に焼き付いている。忘れられるはずがない光景。しかしそれを何とか押し殺し、会話をする。
『わたしが逃げれば、貴様は彩那を殺すだろう?』
「わかってるじゃねえか。ただ、別にあの小娘じゃなくても、人間の方でも良いのだがな」
『人間の殺害は我々狼狗の間で禁止されているはずだ。それは貴様でも例外ではあるまい、慌鬼』
 慌鬼の笑い声。実に楽しそうに慌鬼は言う。
「そんなもの、このおれが守るはずもないだろ」
 ふと思い出す。ニュースで流れていたあの事件。
『まさか貴様、十日ほど前に人間を殺したのではないだろうな?』
 口を閉ざし、慌鬼は考えるように腕を組む。やがて思い出したかのように「おお」と腕を組むのを止め、迅戒へ視線を向ける。
「殺した殺した。おれがお前の気配を追い掛けてる際にな、変な人間のジジイがおれに偉そうに説教垂れたんで噛み殺してやった。それがどうした? あのジジイはお前の知り合いか?」
『貴様っ! 狼狗としての誇りを失ったか!』
 その言葉で、慌鬼の目つきが変わる。
「誇りだと? 誇りを失くしたのはどちらだというのだ迅戒。我が村の禁を破って人間界へ足を向けたお前に、その言葉を吐くだけの資格があるのか。このおれと対極の存在にして、おれと戦って唯一生きている狼狗。言ったはずだ、おれを失望させるな、と。それとも何か、お前も、アイツのように、昴と人間の女のように殺して欲しいのか?」
『慌鬼っ!!』
 体が震える。押さえ込むのも、もはや限界だった。
「来い。対極の存在、光と闇。所詮は光など一時の幻影。誠に強いのは闇だというのをその身に刻み込んでくれるわ』
 そう話している内に、慌鬼の体が変質する。
 雪のように白い狼と対峙しているのは、漆黒の毛を纏う狼だった。二匹が牙を立たせ爪を研ぎ澄ます。
 月の光だけに照らされる境内の中、迅戒がその口を限界まで抉じ開け、吼えた。
グルァアアアアアアアアアァアアアアアアアアアアアアァアアアアアアアアアアァアアアアアアアアアアアッッッ!!
 それは大気を歪ませ、大地を揺るがした。
 人間が間近で聞けばそれだけで鼓膜が破れ、意識を失うような轟音だった。
 そして、慌鬼が地面を蹴った。一瞬で上空まで跳ね上がり、それを追う形で迅戒も地面を蹴る。瞬間、左腕に今まで以上の負荷が来た。バランスを崩し、しかしそれでも迅戒は空中へ飛び上がる。コンクリートの地面に付いたのは、三つの爪跡だけであり、左腕の爪跡だけは付かなかった。
 空中で互いを認識し合う。慌鬼との持久戦はこちらが圧倒的に不利だ。狙うは刹鬼のときと同じ、最初の一撃で首を飛ばす。慌鬼はまだ完全に力を解放していない。勝負を決めるのはこの一撃だ。そうでなければ、負ける。左腕の痛みを無視し、迅戒は慌鬼の首を凝視する。
 空中を蹴って二匹が激突する。――! 迅戒の思考が止まる。
 鈍い音が聞こえ、爪がぶつかり火花が散った。瞬間に二匹が地面に戻って来て、また対峙し合う。
 刹那、迅戒の右側、首から腹にかけて真っ直ぐな爪跡が入り、血が噴き出した。
 腕は落とされなかった。しかし――
『どうした? 終わりか?』
 慌鬼が迅戒へ向け再び足に力を込める。
 迅戒の爪は、相手の首を切断した際、数秒はそのままである。やがて赤い線が入り、気づいたときには首が落ちている。力を込めた慌鬼の首筋に、すっと赤い線が入り――それだけだった。しかもその傷は、首に数センチしか入っていない。そこから出る血など高々知れていて、迅戒が流す血の十分の一もなかった。
 だが、慌鬼にはそれだけで十分だった。
『……何だ、この液体は?』
 首筋から流れる血が地面に落ちる。それを呆然と眺め、思考を巡らす。
 それが自分の血だと理解した瞬間、慌鬼の力がすべて開放された。体が震え、全身の毛が逆立つ。今までも黒かった毛色がさらに黒くなり、闇と完全に一体化した。
 瞳孔が狭まり、先ほどの迅戒以上に開けた口から獣の声が爆発した。
ごあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!
 それだけで、境内にある木々の葉が散った。
 もやは正気ではない慌鬼は、全力でコンクリートを蹴る。爪跡などそんな陳腐な代物ではない。コンクリートに残ったのは、クレーターと呼ぶに相応しい穴だった。
 迅戒の目を持ってしても追えないその姿を、気配だけを頼りに追う。そして、迅戒もコンクリートを蹴る。
 勝てぬと知りつつ、そうするしか道は残っていなかった。


      ◎


「彩那、飯できたぞ」
 簡単な夕食を作り、弘斗は皿をリビングへと運ぶ。
 ソファに座っている彩那は何も言わず、電源の入っていないテレビの画面をじっと見つめている。その表情は、誰が見てもわかるくらいに脅えていた。この三日、彩那はよくこの表情をするときがある。それも決まって一人でいるときだ。弘斗の前では笑っている。それは、弘斗を心配させないでおこうと彩那なりに気を遣ってのことなのだろう。そんな彩那に対して、何も言えない自分が死ぬほど情けなかった。何か言葉を掛けることはできないのか、彩那を心配させない方法はないのだろうか。いくら考えたって、結局は何も思いつかなかった。
 テーブルに皿を置くと、彩那はふと我に返って弘斗を見て、それまでの表情を打ち消して笑った。胸がズキリと痛む。見たかったのは、こんな笑顔じゃない。自然に笑う笑顔だ。強がりとか、そんなものは見たくない。見たくはないのだが、できることはやはりなかった。
 料理を並べ終えて弘斗も椅子に座る。向かいの彩那は箸を持ったまま身動き一つしない。視線は料理に向いているがそれを見ていない。
 だがそれも仕方のないことだった。弘斗にしてみたところで気が気ではないのだから。自分達がこうしている間にも、迅戒は命を賭けた戦いをしているかもしれないのだ。いつどこでやるのかを訊いていないので、詳しい状況はわからない。ただ、昼間にはやらないと思う。だったら、三日後の夜になる。つまりは、今こうしている間に迅戒が戦っているのが一番可能性がある。
 自分の無力さを恨む。できることは、果たしてないのだろうか。
 それだけは訊いてはならないと頭では理解しながら、弘斗は三日間ただの一度も口にしなかったその名を、ついに口にした。
「……シロが心配か?」
 ばっと彩那が顔を上げ、弘斗を見る。その瞳には、溢れんばかりの涙が溜まっていた。
 それで、心が決まったのかもしれない。できることが、たった一つだけある。これは迅戒を裏切ることになるのかもしれない。だけど、それでも。
「……彩那。お前には、シロがどこにいるかわかるのか?」
 その問いの真意を掴めないまま、彩那は遠慮気味に肯いた。それからぽつりと、
「今、シロとクロが一緒にいる……」
 クロが何を指すのかは、考えるまでもなかった。迅戒がシロなら、クロは慌鬼だ。一緒にいるということは、今現在二人は戦っているということだ。
 ぐずぐずしている暇はない。
「もうこんな質問は二度としない。だからよく訊け」
 静寂が支配する部屋の中、弘斗はこう言った。
「――シロを、助けに行きたいか?」
 自分達が行ったところで何が変わる訳でもない。だが、じっとしているまま終るのだけは我慢できなかった。もし彩那もそう思っているのであれば、そのときは。
 彩那の瞳に、迷いはなかった。その問いに、彩那は真剣に肯いた。
「シロを、助けに行きたい」
 決まりだった。
 迅戒が命を賭けているのだ。だったら、こっちも命を賭けようではないか。
 弘斗は立ち上がる。それと同時に彩那も立ち上がり、ぐっと小さな拳を握る。彩那も命を賭ける覚悟ができたのだろう。迷う必要はこれで完全になくなった。頼む、間に合ってくれ。弘斗とは彩那と言葉を交わさず、一気に走り出す。玄関まで辿り着いたところで後ろの彩那に向き直り、
「シロは今どの辺にいる?」
 彩那はただ一言、山、と答えた。思いつく山は一つだけ。狼狗が住まう彪狼山。
 あそこまでは車で一時間程度。遠過ぎる。どうやって行くべきか一瞬だけ悩み、瞬間移動などできもしないことに思い至って気が狂いそうになる。そして、そんな思考を読み取ったのか、彩那は弘斗の服を引っ張る。
 彩那に視線を向けると、とんでもないことを口にした。
「ここからなら、十分で行ける」
「十分!? バカ言え、車で一時間は掛かる場所だぞ!?」
 首を振り、さらに、
「お寺に行けば、そこから山まで行けるの」
 寺――? 
「寺って、月之寺のことか?」
 そこは、ここから十分ほどで行けるこの町の寺だった。しかしそこからどうやって行くことができるのか――。検索したいのだが、今はそんなことをしている時間はない。ここは彩那の言葉を信じるしかないのだ。
「よっしゃ、わかった。月之寺に行けばいいんだな?」
 彩那は肯く。
 それだけ確認してから、弘斗は靴に足を突っ込んで外に出て、その後に彩那が続く。玄関の隣にある自転車に手を掛け、道路まで引き摺り出す。ペダルに足を掛け、荷台を指差す。
「彩那、乗れ!」
 迷っている時間すら惜しいのか、彩那は何の抵抗もなく荷台に乗る。腰に回れた手を確かめ、弘斗は全力ペダルを踏みしめた。
 誰もない夜の道を、二人乗りの自転車が走る。
 自転車を漕ぐことに集中しているため、鳥どころか虫一匹さえもいないのに気づかない。
 空に浮かぶ満月を見ながら、彩那は首に巻かれた首輪に手を回す。


 自分の胸の奥にある忌まわしき記憶。
 忘れたと思いたいあの日の記憶。
 そして、この首輪。
 演じ続けるのはこれで終わり。
 向き合わなくちゃならない。
 シロにばかり、辛い思いをさせたくない。
 戦わなくちゃならない。
 弘斗の腰に回した腕に力を込める。
 もう、逃げたくない。


――――――――――――――――――――――――――――――――――





     「乗り越えたそこに」




 月之寺は闇に包まれていた。
 街灯などは一つもなく、辺りを木々に囲まれた人気のない建物。弘斗が生まれるずっと前からある、この町を象徴する建物の一つだ。小学生の頃は、夏休みになると毎日ここでラジオ体操をした記憶があるが、朝と夜では面影がまるで違った。一言で言ってしまえば怖い。それだけだった。
 幽霊でも出て来ても不思議ではないが、オカルト大嫌い人間の弘斗にとってはそれだけは勘弁して欲しい。おっかなびっくりで寺の門へ続く階段の所に自転車を止め、彩那に手を貸して荷台から降りさせる。彩那は全く怖くないのか、弘斗を置いて一人でどんどん階段を上がって行く。実に情けない理由ではあるが、弘斗は一人にされるのがどうしようもなく怖く、彩那の後を必死で追った。
 そして、辿り着いたのはお寺の本堂の裏側だった。ここはさらに薄暗く、草陰で物音でもすればそれだけで泣きそうになる。彩那はそんな弘斗とは裏腹に、本堂の壁を手で軽く叩く。まるでどこかに隠し扉でもあるかのように、その仕草は丁重だった。
 壁を叩く音を聞きながら、ここから彪狼山までどうやって行くのかと今更ながらに真剣に考える。家を出てからすでに十分近く経っている。彩那はその時間で彪狼山まで行けると言った。もし狼狗しか知らない抜け道があるのであっても、そこを通って果たして十分で行けるかと言えば間違いなく無理だった。ならば、彩那は何を思い、そして何を探しているのか。
 やがて、壁が叩く音が聞こえなくなった。ふと見たそこに、壁を叩く彩那がいる。しかしそこから音は聞こえない。まるでそこからいきなり空間が歪んでいて、物質がないような奇妙な光景。
 彩那が弘斗を振り返る。
「ここ。シロが作った結界」
 結界――? そういえば迅戒が狼術がどうとか言っていたような気がする。それを詳しく訊かなかったが、もしかしたらそこを通ればすぐにでも彪狼山に行けるのではないか。狼が人間に化けているのをこの目で見ていることから、脳はすんなりとそれを受け入れた。完全に麻痺してしまっているのかもしれない。
 弘斗がその壁に近づく。そっと手を壁に添えると、壁がぐにゃりと歪んで中に倒れ込んで行きそうになる。驚いて手を引っこ抜くと、彩那は何の抵抗もなくその中に飛び込んだ。一瞬で目の前から彩那の姿が消える。
「……おいおい、嘘だろ……」
 まさか本当に瞬間移動ができるのかというのと、こんな場所に一人で置いて行くなという二つの意味が混ざった言葉だった。
 物は試しである。今から自転車やら車で行ったところで間に合いはしないだろう。だったら、賭けてみようではないか。
 恐怖を捨て、弘斗はその歪んだ空間へと身を投げた。何かのアニメで見たように、異次元を通るのかと思っていたのだが、出口は一瞬だった。勢い余って床に倒れこんだ瞬間、それを聞いた。
ごあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!
 建物全体が揺れるその叫び声にも似た爆音。耳鳴りが響く。
 無意識に手で耳を押さえ込み、視線を移したそこに彩那がいた。彩那は、一人で立ち上がって月明かりが漏れるこの建物の入り口らしき場所へ走っていた。
 そして、外で薄気味悪い音がした。肉を裂く音だったように思う。聞き覚えがあった。四日前、迅戒の腕が切り落とされた際に、これと似たような音を聞いたはずだ。耳鳴りを押し殺して弘斗は立ち上がる。入り口まで駆け寄ると、隣の彩那が震えていた。信じられない物を見るような目つきで外を凝視している。その視線を追う。
 そこには、雪のように白い狼と、目を凝らさないと見失ってしまうような漆黒の狼が対峙していた。黒い狼は見た限りでは無傷である。一方、白い狼は――
「シロっ!」
 弘斗が何をするよりも早くに、彩那が建物から飛び出した。
 弘斗には、黒い狼が、笑ったように思えた。


 その声を聞いた瞬間、迅戒は我が耳を疑った。
 視線を向けたそこに、神社から飛び出して来る彩那、そしてそれを追うように弘斗もいる。これこそ最大の汚点だった。この神社と月之寺を結ぶ結界を破棄していなかった。あの日、彪狼山から一刻も早く遠ざかるために張った『抜け道』を、まさかそれを使って彩那がここまで来るなど思ってもみなかった。
 力を振り絞り、迅戒は駆け寄ってくる彩那に声を上げる。
『来るな!!』
 迅戒から初めて聞く怒声に、彩那はびくりと体を震わして止まる。そのすぐ側まで走り寄る弘斗も同時に足を止める。二人の視線は、迅戒の体に向けられて凍り付いている。
 迅戒は、感知したばかりの左腕と、右足を切り落とされていた。そこから流れ出る血を無視して、残った二本の足で起用にバランスを取っている。端から見てもわかるほど、迅戒は立っているだけで精一杯だった。
 一思いに首を落とされなかったのは、目前の黒い狼が簡単には死なせないようにしているためだろう。
 視線が弘斗達から離れ、慌鬼へ向けられる。
『……手を、出すな……貴様の相手は、このわたしだ』
 慌鬼は口が裂けるように笑う。迅戒の手足を切り取ったことで正気を取り戻してはいるようだが、極度の興奮状態にあるのは明白だった。
『賭けようではないか。次の一撃でお前が死ななければ、奴等に手は出さん。だが死ねば、その瞬間に噛み殺す』
 どれだけ不公平でも、それに縋るしか方法はなかった。弘斗と彩那を、この場から逃がすためにも。
『――いいだろう。その約束、必ず守れ』
 慌鬼の姿が消える。飛んだのではない。姿が、完全に闇と同化した。
 迅戒は目を閉じ、その気配を追う。血を流し過ぎているせいか、それともこの悪条件のせいなのか、慌鬼の正確な位置が全く掴めない。耳を澄ますが聞こえるのは彩那の脅えるような呼吸音だけである。
 感覚を研ぎ澄ませ。自分の聴覚を信じろ。何かあるはずだ。この世に物音を立てずに動けるものなど存在しない。全神経を集中させたそのとき、すでに切り落とされた左腕の付け根の痛みが限界を超えた。苦痛に歪んだ感覚が迅戒の体を横倒しにするのと、
 それまで迅戒がいた場所を五つの閃光が切り裂くのは全くの同時だった。白い毛が空中に何本も舞い、慌鬼は空を切った我が爪を疑う。
 横倒しになった迅戒はそれでも状況を理解し、苦痛を押して言葉を吐く。
『決まりだ、慌鬼……手を、出すな……』
『断る』
 もはや起き上がることもままならない迅戒から視線を外し、離れた場所に呆然と佇む二人を睨む。
 実に楽しそうに、慌鬼は笑う。


 殺される、と細胞の一つ一つが直感した。
 最初から間違っていたのだ。そもそもここに来て、一体自分は何をするつもりだったのか。迅戒を助ける、だと? 無理に決まっていた。こうして黒い狼と向き合っているだけで体が金縛りに遭ったように動かず、視線を外したその瞬間には自分の首が飛んでいるような錯覚に陥る。指一本動かすこともできず、喉がカラカラに乾いて痛い。今まで流したこともないような汗が頬を伝う。
 そして、そんな弘斗の隣で、彩那が一歩だけ足を前に進めた。真っ直ぐに黒い狼へ視線を向け、恐怖を捨て対峙する。止めることすら弘斗にはできない。
 慌鬼が、口を開いた。
『……まさかこのおれと殺り合うつもりではあるまい? 半狼のお前に何ができる。いや、【淵狼】を使えば何とか成らんこともないがな』
『やめろ慌鬼!! 彩那に、それを言うなっ!!』
 面倒臭そうに視線が迅戒へ向けられ、その怒りの篭った眼を見たとき、慌鬼は何もかも察した。動かない体を必死に震わせ、迅戒は言葉を紡ぐ。
『彩那は、その記憶を失っている。それ以上何かを言えば、その口切り裂く』
『死に損ないが今更何を驕るか。しかしまあ、興味深いことを聞いた。ほう、小娘が記憶をなぁ』
 ゆっくりと視線が彩那に向けられる。その視線に射抜かれるように、彩那の体が震え始める。にたり、と慌鬼は笑う。
『迅戒、お前は勘違いをしている。その半狼は、【記憶を失っている】のではなく、【記憶を忘れようとしている】だけだ。つまり、何もかも知っていて、それを忘れたいがためにそう振舞っているのだ。もし本当に忘れているのであれば、おれを見てそこまで脅える必要はないのだからな』
『なっ――!』
『そうだろう、半狼』
 音もなく、彩那がその場に倒れ込んだ。視点はすでに慌鬼と噛み合ってはいない。虚空を眺め、ただひたすらに体を震わす。
 慌鬼は、畳み掛けるように言葉を吐き捨てる。
『そうだ、思い出せ。お前が頭の中に封印しているあの忌まわしい日のことを。お前の父親の昴と、母親の香織のことを。そして、それを殺したおれの力を。思い出せ。両親の首が目の切り落ちたあの瞬間を。空間に舞った鮮血を。力なく倒れる首無しの胴体を。思い出せ。血塗られた記憶の、すべてはお前が原因で始まったあの惨劇を! そうだ思い出せ! お前がこの世に産まれたせいで! お前の両親は死んだ! 逃げられない過去に囚われ、惨めに苦しめ半狼!』
『慌鬼ぃ!!』
 体の限界を超え、迅戒は慌鬼へと立ち向かう。
 残った右腕の爪を研ぎ澄まし、横一線に振り払う。しかしそれは空を裂き、闇と一体化した狼は迅戒の背後でその爪を研ぎ澄ます。
『お前ほどの狼狗が我を忘れるとはな。これで何度目だ? おれを、失望させるな』
 慌鬼の薙ぎ払った左腕が迅戒の体を捉える。
 赤が混じった白い毛並みに鮮血が舞う。五本の爪跡をはっきりと残し、迅戒の体が木の葉のように吹き飛ぶ。境内のコンクリートを滑り、木の幹に激突して激しい音を立てる。
 身動き一つしなくなった迅戒から視線を彩那へ変える。彩那はその場に座り込み、自分の手で両肩を抱いて震えている。
『さあ、どうした半狼。思い出したか? 自ら封じ込めた、忌まわしきその記憶を』
「……いや」
 彩那が掠れる声でそう言って首を振る、
『両親はお前のせいで死んだ。お前のその首輪に抑えられた力のせいで死んだ。過去を忘れて明るい未来にでも希望を見出したのか? 虫唾が走る。お前は所詮半狼。死ぬまでその運命に犯され続けるんだよ』
「いやっ!!」
 大声でそう叫ぶと同時に、彩那の目から涙が流れた。
 そして、それを見た瞬間、弘斗の呪縛が解けた。頭の中が真っ白だった。ただ無我夢中で彩那と慌鬼を結ぶ線に立ち塞がる。
 恐怖を捨てた。
「黙って聞いてりゃ下らねえことばっかり言いやがってこのクソ野郎っ!!」
 啖呵を切る弘斗を、慌鬼はまるでゴミでも見るような視線を向ける。
『ほう。人間風情がこのおれに上等な口を訊く。それはつまり、殺して欲しいということか?』
「るせぇっ!」
 もはやこちらも正気ではなかった。怖くないかと言えばこれ以上の嘘はない。ただそれでも向かわないことには一生後悔する。
 目の前のこの黒い獣は、彩那を泣かした。突き動く理由に、それ以上のことが必要あるだろうか。拳を握り、慌鬼へと怯まず言葉を吐き捨てる。
「テメぇらの事情なんておれは知らないし、知りたくもねえ。ただな、お前は彩那を泣かした。彩那から笑顔を奪った。それだけが許せない。その代償、高く付くと思え!」
 その言葉を黙って聞いていた慌鬼は、しばらく無言で弘斗を見つめていた。やがて、一体何が可笑しいのが大声で笑った。
『舐められたものだな。これだから人間は下等だと言うのだ。……一つ訊く。お前にとって、その半狼は一体何だ?」
 そんなもの、答えはたった一つしか存在しなかった。
「彩那は、おれの家族だ」
『そうか、家族か……。ならば、その家族が死ねば辛いよなぁ?』
 ぞっとするような笑みを慌鬼が浮かべる。そして、弘斗の視界からその姿が闇に溶け込むようにゆらりと消えた。
 この境内すべてから反響するような声が耳に届く。
『半狼などはどうでもよかったが、事情が変わった。小娘が死ねば、迅戒も本気になるだろう。後悔しろ人間の小僧。お前の家族の首、貰い受ける』
 弘斗は境内を見渡す。見えるのは闇だけ。狼の姿などどこに見えはしない。
 わかってる、と弘斗は思う。先の迅戒と攻防で、この慌鬼という狼狗がとてつもなく強いことくらい。人間なんかが何十人束になったところで瞬殺されるのが目に見えている。自分に彩那を慌鬼から無事に守る手段なんてこれっぽっちもないし、策も思いつかない。一瞬で殺されるのがオチだろう。だったら、それを覚悟の上で噛み付いてやる。
 死なせてたまるか。以前、月之渓谷へ彩那が落ちそうになったときは迅戒が助け出してくれた。しかし今は迅戒はいない。弘斗が何とかしなければならない。上等だ。この命に代えてでも、彩那を守ってみせる。
 風が伝わった。慌鬼がその爪を立てる気配を感じる。
 意識するより先に、体が動いていた。座り込む彩那の背後へ一歩で移動し、真っ直ぐ闇を睨みつける。そこに二つの光る眼球と、五つの線と、三日月のように裂ける口を見た。
 彩那を守るため、その爪を我が身に受けた。
 刹那、体が背後へ爆発的に圧される。無意識にそれを堪えると同時に脇腹に何かが突き刺さった。鈍い、気味の悪い音が響くと生温かい液体が宙に散る。腹部へ広がるその液体を感じながら、
 弘斗はすぐそこにある漆黒の狼の顔を見据える。目と目が合った。その目が、笑っていた。そして、弘斗の拳が動いた。
 持てる限りの、最大の力を込めた。
 ――食らえクソ犬っ!!
 それは狙ったわけではなく、まったくの偶然だった。
 殴り付けた拳が、慌鬼の左目を潰した。腹部の液体よりも気持ち悪い感覚が拳に伝わり、慌鬼が吼えた。耳元で聞いたそれに鼓膜が破れ、脇腹から出ている液体に似たものが耳から溢れ出す。
 予想外だったに違いない。人間風情に目を潰されるなど思ってみなかったはずだった。それが再び慌鬼の正気を奪い去った。
 獲物だけを殺す。慌鬼は目の前の人間をその獲物と取った。爪で切り裂くなど生温い、頭から噛み砕くべくその口を極限まで抉じ開けて弘斗へ襲い掛かる。
闇に包まれた空間を、白い何かが横切った。弘斗へ牙を突き立てようとした慌鬼を、両手両足片方ずつを失った迅戒が体当たりで吹き飛ばす。その衝撃で弘斗の脇腹に食い込んでいた五本の爪が無造作に横にずれ、肉を切り裂いた。真っ赤な血が迸った。吹き飛ばれた慌鬼は林の中へと姿を消し、吹き飛ばした迅戒はその場に倒れ込む。
 そして、弘斗は膝を付いた。指一本さえも動かせない。耳がイカれて何も聞こえない。視界だけが妙にはっきりしていて、脇腹から流れ出る血が冗談のように赤い。血が止まらなかった。不思議なことに痛みは感じない。それでも漠然と、あ、死ぬんだなと思った。
 視界が一瞬で切れた。まるでテレビの電源を落とすように、プツンと真っ暗になった。
 地面に倒れ込む。最後に、彩那の声を聞いたような気がする。
 意識が深い闇へと落ちて行く。


     ◎


 目の前で切り裂かれて顔に散った赤く生温かい血を見た瞬間、あの日の記憶がフラッシュバックした。
 漆黒の狼へと立ち向かう父親の姿。それを真剣に見届けていた母親の姿。大量の血が流れると同時に何かが上空へと飛んだ。気づいたときには、二人とも死んでしまっていた。その血を、自分は全身に浴びた。怖かった。体が震えて立っていられなくなって、その場に蹲って嘔吐した。それでも破滅の足音は近づいてい来る。怖くて怖くて怖くて、どうしようもなく涙が出て、体が震えて。それを助け出してくれたのが真っ白い狼だった。自分を庇い、その狼は両腕を失った。漆黒の狼は、それでも笑っていた。
 その日から、その光景を記憶の奥底に封じ込めた。二度と思い出したくない記憶。もう一度見てしまったらそれだけで死んでしまうような光景。逃げたくないと思ったのは、紛れもない本音だった。ただそれと現実は噛み合ってはくれない。逃げたくはないが、向かい会う勇気が圧倒的に不足していた。
 怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。思考が恐怖に塗り潰され、あの日のように体が玩具のように震え出す。
 顔に付いた血が、どうしようもなく怖かった。
『彩那!!』
 その声で我に返った。ぼんやりとする視線を向けると、真っ白い狼が倒れたままこっちを見ていた。
『逃げろっ!! お前まで殺されたら弘斗殿の行いが無駄になるっ!! だから早く逃げろっ!!』
 自分のすぐ前を見た。
 そこに倒れてる人が一人。腹部から大量の血を流して周りに血溜りを作り、ぴくりとも動かない。その傷は、誰がどう見たって致命傷だった。両親のときと同じ、絶対に助からない。もう二度と、帰って来ない。自分には見ていることしかできない。
 ひろと。ひろとが死んじゃう。
 シロと同じくらい好きだった。シロとひろと、二人が一緒にいてくれるだけであの記憶を思い出さないで済んだ。でも、ひろとが死んでしまう。もしかしたら、シロも死んでしまうかもしれない。いや、それだけはぜったいにいや。
 逃げたくない。怖い。怖いけど、ここでひろととシロが死んじゃうのはもっと怖い。一人ぼっちになったら、もう何も考えられなくなる。それだけは何が何でも嫌だった。自分はどうなったっていい。だから、死んじゃやだ。
 もう、逃げたくない。
 ――だから。
 迅戒が見ているそこで、彩那は自分の手を縛封の首輪へと掛けた。
 彩那が何をしようとしているのか、それだけですべてがわかった。しかしそれは、
『止めろ彩那っ!! 死ぬぞっ!!』
 彩那の視線が迅戒へ向けられる。その瞳は、今まで見たこともないような、真剣な瞳だった。それは、すべてを決めたと明確に訴えていた。
 迅戒が最後の警告を発しようと口を開けたときにはすでに、彩那は首輪を外していた。
 【淵狼】を発動させる。
 刹那、空間が歪む。
 彩那の周りの大気が捻じ曲がる。今まで首輪に隠されていた首に龍にも似た入墨らしきものが入っている。それが金色に光る。捻じ曲がった大気から風が舞い上がり、髪を揺らす。光に反射したその輝く髪は純粋に綺麗な光景だった。
 空を見上げる。見えるのは暗い夜空に輝く星と満月。狼狗の力が最も高まる月夜。それは、この【淵狼】とて例外ではない。
 これを使えば、弘斗も迅戒も助かるだろう。あと何回使えるかはわからない。もしかしたら二回で死んでしまうかもしれない。だけど、それで十分だった。逃げて死ぬより、立ち向かって死ぬ方が後悔はしないで済む。だったら、それでいい。
 彩那はその場に座り込む。目の前で倒れている弘斗の傷口へ両手を添える。弘斗は、息をしていなかった。しかしそれでも血は止まらずに流れ出ている。流れ出る血に体が震えそうになるのを必死に堪える。守ってくれた。だったら、今度は自分が守る番だ。
 神経を集中させ、彩那は力を解放する。首の入墨が広がる。まるで生き物のように入墨が体を這い、やがて彩那の全身へと侵食する。金色の光を、手を通して伝える。ゆっくりと光が伝染すると共に、流れ出ている血が蒸発し始め、傷口が塞がっていく。
 それは、魔法のような光景。人間がどれだけ懸けても解明できないテクノロジーがそこにある。
 傷口が塞がると光は体内へと侵入する。破損した臓器を再製及び修復、血管や神経、細胞の一つ一つまでも完璧に蘇らせていく。やがて弘斗の心臓が呼吸を再開する。息を吹き返した口から血が流れ、それも一瞬で蒸発する。気づいたときには、彩那が手を添えている弘斗は、普段と何も変わらない三神弘斗という人間だった。
 光が収まっていく。弘斗の体を包んでいた光は彩那の手を通って戻って行き、そして立ち上がる。唐突に目眩がした。転地が一発でわからなくなる。貧血などの次元ではない、もっと深い所で起こっている体の異変。体が、熱い。焼けるように熱い。だけど、まだ倒れる訳にはいかない。
 ふらふらになりながら、彩那は歩き出す。弘斗のすぐそこにいる、迅戒の所へ。倒れそうになって手を伸ばしたそこに、迅戒の体があった。迅戒が必死に何かを言っている。だけど何も聞こえない。そんな朦朧とする意識の中で、彩那は一人思う。
 シロ。だいじょうぶだよ。ひろとも、もうだいじょうぶだから。こんどは、シロのばんだよ。
 迅戒の体に触れた手から、神経を集中させて先ほどのように光を送り込む。今度は簡単だった。慣れたのもあるのだろうが、やはり人間と狼狗では全然違う。元々狼狗のための力だ。それを人間に送ったのには負荷が激し過ぎたのだろう。だけど、まだ我慢できる。迅戒さえ治せば、もう元通りになるから。
 シロは、だれにも負けないもん。
 あるだけの力を振り絞り、彩那は迅戒の手足及び体に負った傷を光で包み込む。瞬時に傷が回復する。迅戒の再生能力と結合して【淵狼】の力がその本領を発揮する。迅戒も弘斗と同様、無傷になっていた。
 迅戒が、自らの両手両足で立ち上がる。その瞳を真っ直ぐと見つめ、彩那は後ろへ倒れ込む。やがて視界がどんどんと狭くなっていく。
 勝ってね、シロ。ひろとも、そう、思ってるよ……。
 力が入らない。迅戒の声を聞いた。
 ――ありがとう、彩那。
 ……うん。
 意識が途絶える。


 立ち上がった迅戒は、地面に落ちている首輪を口に銜える。それを起用に彩那の首へと巻き直す。
 大丈夫だ、彩那はまだちゃんと息をしている。弘斗と迅戒を完治させただけでも相当な負荷だったはずなのだが、意識を失うなだけに止まった。もう一度【淵狼】を使えば命の保障は完全になくなるが、もう一度などは存在しない。ここで、決着を着ける。負けはしない。【淵狼】の力の御かげで体が完治するどころか身体能力まで増加していた。それに、弘斗の手助けもあった。それが決定的だった。
 負ける要素など、見当たりもしない。
 慌鬼が、吹き飛ばされていた林の中からその姿を現す。
 失明状態の左目から血を流し、理性を失った慌鬼が虚空に吼えた。
―――――――――――――――――――――――――――――――――ッッッッ!!!!
 それは、音のない衝撃波だった。
 慌鬼を中心としてコンクリートの地面が弾け飛び、建物の窓ガラスが全壊し、境内にあるすべての木々の葉が散る。牙を研ぎ澄まし、普通の狼狗ならそれだけで発狂するような殺気を爆発させる。
 その中で、迅戒だけは身動き一つしない。
『慌鬼。確かに貴様は強い。一対一で貴様に勝てる狼狗などこの世には存在しないだろう。わかってる、わたしの行動が貴様の戦いに反することも。たが、わたしは勝たねばならない。……これで終わりだ慌鬼。光は、闇を消し去る』
 迅戒が地面を弾く。爪跡は残らない。それは、速過ぎるが故だった。
 普通なら両目を使っても見えないであろう真正面から突っ込んでくる迅戒を、理性を失った慌鬼は右目だけで確実に捉えていた。【淵狼】を使わずに、慌鬼という狼狗は、自らの限界を超えていたのである。真っ向からそれに打って出る。慌鬼が突っ込んでくる迅戒へ突進する。
 そして、迅戒はそれをさらに上回る。突進する慌鬼を視界に収め、迅戒が空を蹴って右へ移動する。それは、慌鬼にとっての死角。残った右目からは見えない位置。空中で再び空を蹴り、迅戒はその爪を研ぎ澄ます。狙うは【瞬殺の迅戒】通りの一点、獲物の首だけだ。慌鬼の視界では見えない位置から爪が縦一線に首を狙う。
 慌鬼はそれを勘だけで察知した。もはや迅戒に音など存在しない。あるのは、慌鬼だけが感じ取れる気配。首を持って行かれれば終わり、理性を失っても戦闘状態は何の変わりもなかった。迷う時間はなかった。死ぬくらいなら、それで上等だったからだ。慌鬼は空を蹴る。
 迅戒の爪が今まで掠り傷一つしか負わすことのできなかった慌鬼を捉えた。しかし、狙いは大きく外れた。いや、外されたのだ。迅戒の縦一線の爪は、慌鬼の胴体を真っ二つに切断した。上半身が前に飛び退き、下半身がその場に墜ちて血を撒き散らす。視線を向けたそこに、切断した胴体を地面に垂らしながら、両腕だけで立ち上がってこちらに牙を向けている慌鬼がいる。
 まだ戦おうというのか。迅戒はそう思う。勝負はすでに着いている。体を真っ二つにされたのなら出来ることは何もない。狼狗と言えど、その状態で必要以上に行動すれば首を取らずとも死に到る。それでも慌鬼は戦う意思を捨てない。狼狗一族最強という名がそうさせるのだろう。戦闘狂の血筋が慌鬼を奮い立たせるのだろう。
 ならば、迅戒にできることはたった一つ。
『受けて立とう慌鬼。最後のその瞬間まで、わたしは全力で貴様を倒す。――来い、慌鬼っ!!』
 その声が引き金となる。
 両腕だけの力で地面を弾き、慌鬼は真っ向から迅戒へ突撃する。迅戒は逃げもせず、かわしもせず、突進もせず、ただそれを真っ向から受け止める。
 迅戒が爪を最大限に研ぎ澄ますのと、慌鬼が牙を最大限に剥き出すのは全くの同時。二匹の狼が、月夜の下で人心全霊を込めた互いの一撃を炸裂させる。
 静寂が戻って来る。
 勝負は、一瞬で着いた。長い長い対極の存在の争いに、年月を懸け、ここに決まった。
 白い狼が人間の姿へと変わる。そして、その隣には首を切断された漆黒の狼がいた。その目には先ほどまでの狂気はなく、理性と正気を取り戻した慌鬼は、その口を開く。
『……見事だ、さすがだぞ迅戒……訂正しよう……失望させたのは、おれの方だったかもな……』
 迅戒は視線を夜空に向ける。
「……いや。やはり貴様は、最強の狼狗だ」
『くっくっく、何を言うか。……しかし、これだけは憶えておけ。光ある所には、必ず闇がある。お前がこの世にいる限り、おれは何度でも蘇ってみせる……それがおれとお前の定めだ。……そしてそのときには、今度こそ貴様の首を貰い受ける……』
「……よかろう。受けて立つぞ慌鬼」
『その言葉、しかと聞いたぞ迅戒……。さて……一眠り、すると……し……』
 そして、漆黒の狼の体が風化した。
 風に吹かれて舞う灰を、迅戒はじっと見つめる。やがて踵を返して歩き出す。
 目の前で倒れてる弘斗と彩那に手を差し伸べ、すっと体を抱き上げる。まだ行ける。明日の朝からしばらく体は動かないだろう。だから、それまでに弘斗と彩那を家まで送り届けよう。風邪でも引かれたからそれこそ厄介だ。
 窓ガラスが全壊した神社の中に入り、壁へとその身を委ねる。そしてその出口は、月之寺へと続いている。二人を背負ったまま、迅戒は自ら張った結界へと手を差し伸べる。
「……解……」
 つぶやくと同時に結界が消える。
 これで何もかも終ったはずだった。そして、迅戒が歩き出そうとした瞬間、その声を聞いた。
「……よかったのか、これで?」
 驚き背中に背負った一人を振り返る。
「弘斗殿……起きていたのですか?」
「まあな。てゆーか、おれって死んだんじゃねえの? あ、下ろしてくれていいぞ」
 迅戒は弘斗を背中から下ろし、笑う。
「死にましたよ。その辺り、詳しく聞きますか?」
 隣を歩く弘斗が苦笑を浮かべる。
「いや、いいよ。怖いのダメだからさ、おれ。それよりシロ」
「はい?」
「帰ろうか、家に」
「……はい」
「飯、おれが作ってやる」
「……一つ、注文があります」
「わかってるって。どうせシチューでも食わせろってことだろ」
「さすがです。あなたはやはり凄い」
「じゃ、行っか。彩那が風邪引かない内にな」
「ええ」
 迅戒の背中で眠る彩那は、その会話を聞いて少しだけ笑った。もちろん起きている訳ではない。それは、ただ自然に、だった。
 そしてそれを見て、弘斗は一人でよかったと思う。
 虫達が鳴き、生き物が活動し、世界が、また元通りに廻り始める。
 この、月夜の下で――。






     「エピローグ」




「てゆーかさ、おれ一回死んだんだけど」
 真面目な顔をして弘斗はそんなことを言った。
 その言葉を受けた修二は実に嫌そうに「はぁ?」と顔を顰め、弘斗の額に手を当てて熱を測る。
「ふむ。熱はねえみたいだな。じゃあ何だ、脳みそに竹の子でも生えて来たか? ん?」
「いや、熱もないし竹の子も生えてない。マジなんだって、おれ一回死んだんだよ。たぶん三途の河とか見た」
 じっと、何とも言えない顔で修二は弘斗の瞳を凝視する。そして、その瞳に嘘がないとわかると、盛大にため息を吐き出した。
「……正直な感想を言おう。おれさ、弘斗がそんな寒いギャグを飛ばすとは思ってもみなかった。これからはもう少し見方を変えて接するよ。――時に弘斗、彩那はちゃんは元気か? シロさんが怖くて近づけないんだけどさ、お前にはどうなのよ?」
 修二のその言葉を無視して、弘斗は一人で普通はこんな反応するんだろうなと思う。
 あの夜から、今日で二日。昨日は彩那と迅戒の介抱に追われて学校を休んだ。一度死んだという実感がない弘斗は、あれはただ気絶していただけという結論で納得していた。そうでもしなければ怖い。
 彩那は昨日の昼頃に目を覚ました。しばらくは動けなかったみたいだが、今朝起きたら元気になっていて一安心した。そして、心から笑うようになった。それはとても喜ばしいことだった。彩那の中で何があったのかはよくわからないが、とにかくそれでいいのだ。必要なら、彩那から話してくれるだろうし。
 迅戒はあの夜は元気だったのだが、昨日の朝から全く動けなくなっていた。ただそれは体の回復が追いつかないだけであり、二、三日もあれば普通に動けるようになるらしい。しかし今朝に一度立とうとしてすっ転んだのには本気で驚いた。迅戒にしては意外すぎるが故のその行動には目を見張るものがある。
 本当は今日も学校を休もうとしたのだが、彩那が迅戒のことを診ると言って聞かないので承諾しておいた。それで学校に来て、何の問題もなく授業を受けて、放課後になって、修二と方を並べて学校を歩いていて先ほどの会話をしてみたのだった。別にだからどうだということはない。ただ何となくである。聞いてみて、それだけだった。
 やがて修二が部活があるからと体育館の方へ足を進める。それを見送ってから弘斗は校門から道路へ出る。人並みに任せて歩き、駅まで辿り着く。馬鹿みたいな満員電車に苦痛を堪え、三十分もの拷問を耐え抜く。電車がホームに着くと同時に逃げ出し、ベンチに視線を送るとジジイがいた。ジジイは杖を弘斗に向け、「足腰が弱っとるんじゃ」と説教を垂れる。そして満面の笑みを浮かべると同時に、ゆっくりと消えて行った。
 目を擦る。いや、今確かに見たぞ、絶対に見たぞ。嘘だろおい、あのジジイ死んだんじゃねえのかよ。つーことは何か、今のはその、幽霊ってヤツか?
 全身に寒気がした。何よりオカルトを嫌う弘斗である。尻に火が付いたような勢いでプラットホームを駆け出し、改札口を突き破り、辺りを田んぼに囲まれた田舎道を爆走する。やがて見てくるぽつりと佇む一軒家。何とも不便な場所にあったものだ。それが三神家である。
 ここやでやっと落ち着いた。先ほど見たことは忘れようと思う。玄関に歩み寄り、その引き戸を開ける。
「ただいまー!」
 中へ声を掛けながら鞄を放り出して廊下へ上がる。するとリビングのドアが開いてひょっこりと彩那が顔を出す。
「おかりなさい」
「おう、ただいま」
 近頃忘れていたこの暖かな雰囲気が、何よりも好きだった。
 彩那の頭を撫でる。嬉しそうに彩那が笑い、二人揃ってリビングに入る。と、台所には迅戒が立っていた。弘斗に気づくと迅戒は「おかえりなさい弘斗殿」と笑う。
「シロ、お前もう大丈夫なのか? 今朝まだ転んでたじゃねえか」
「大丈夫ですよ。狼狗一族末裔、【瞬殺の迅戒】を舐めてもらっては困ります」
 何だか物騒なことを言いながら、迅戒は料理を進める。
 そんな何でもないような光景が、物凄く懐かしく感じる。ああ、帰って来たんだな、と思う。
 隣の彩那が笑っている。それだけでよかった。
「よっしゃ、おれも手伝うよシロ」
「よろしくお願いします」
 台所へ向かうと、その後ろから彩那が、
「わたしも手伝う」
「それはダメだろ」
「それはダメです」
 弘斗と迅戒の声が重なる。唐突に彩那が怒り出す。
 こんな光景が、何よりも楽しくて、何よりも嬉しい。
 この三人がいて、皆笑えればそれでいい。
 外から吹く風は心地よく、もうすぐ夏が来ることを伝えている。


 冗談のように青い空の下、三神家からは笑い声が聞こえる。





2004/08/18(Wed)10:18:30 公開 / 神夜
■この作品の著作権は神夜さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
さて、これにて【あやな ―月夜―】は完結となります。最後まで読んでくれた皆様、誠にありがとうございました。
『その六』のラストを迅戒視点で終らせることにかなり悩みましたが、今回はこれでいいか、とかそんな風に思い、そのままで投稿させてもらいました。終り方がちょっと強引だったかな……?
少しだけ感謝のレス返しを。
卍丸さん>最後の最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。これからもよろしくお願いします。
緑豆さん>ご指摘誠に感謝です。一応直してみたのですが、これもヤバイのでしたら変更いたしますけど……(ぇ  何はともあれ、これからもよろしくお願いします。
今まで読んでくれた皆様に最高級のお礼をここに。次回作でまた会えたら光栄ッス。
それでは。

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