『good by プロローグ〜9』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:渚                

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プロローグ


「非常にすばらしいです。特に言うべきことはありません」

赤いペンでレポート用紙に走り書きされた文字。その隣の「A」にはご丁寧に丸がつけてあった。
あたしは小さくため息をついた。レポート用紙をファイルに入れ、帰り支度をする。
先生は、いつも何も書いてくれない。いや、まったく書いてくれないわけではない。でも、書かれているのはいつも同じ言葉。「よくできました、言うことはありません」。


コレジャ、ナニモワカラナイヨ。


何か言ってほしかった。文句のひとつ、いやみのひとつぐらい書いてほしかった。そう思って、少し文法表現を変にしてみたり、わざと誤字を増やしたりするのだが、先生は相変わらず同じことしか書いてくれない。あたしは、ひとつの結論にたどり着いた。
先生は、あたしのレポートを読んでいない。


最初のレポートがよくかけていた。きっと、この「佐野光」という人物は、優秀なんだ。ああ、きっとこのレポートもよくかけているんだろう。見る間でもないな。「よくできました、言うべきことはありません」……。


エンドレンス。終わることのない、永久ループ。
あたしはかばんの閉め、立ち上がった。教室から出て行っても、誰も気にも留めていない様子。別に、嫌われてるわけじゃない。あたしは、故意に孤立した。友達関係での面倒ごとは、高校まででもうウンザリだった。
友達もいない。ろくな教師もいない。そんな学校生活を色のあるものにしてくれる、ただ一人の人。
「お〜い、光〜!!」
向こうのほうで、男の人が手を振っている。あたしも微笑んで手を振り返す。ひとつ年上の「太一」だ。彼はうれしそうにあたしに駆け寄ってきた。少し茶色く染めている髪が揺れる。
「何だ、遅かったな」
「ごめん、待たせちゃった?」
「いや、ちょっとだよ」
彼はそういって笑う。
愛しい。彼が、彼のすべてが愛しい。今までろくな人と関わったことがなかったあたしの人生の中で、やっと見つけた理想の男性。彼は目で行こう、と合図をした。あたしは彼の腕をとり、ミュールをはいた足を動かした。
「優、怒ってるんじゃない?」
「ああ、だいじょーぶ。ご機嫌にビデオ見てたよ」
はたから聞けば、浮気しているみたいに聞こえる。「優」は、太一の娘だ。だが、優は「太一の娘」ではあるが、「あたしと太一の娘」じゃない。太一が高校生のときに作ってしまった子供で、相手から押し付けられたらしい。
はじめその話を聞いたとき、あたしは相手の無責任さに憤慨した。自分のお腹を痛めた子供を簡単に手放して、しかも男に押し付けるなんて。
でも、太一は力なく笑って、優の頭をなでた。いや、無責任なのは俺だよ。最初から俺が引き取るつもりだったんだ。
太一はすごく優しくて、あまり簡単に女性と関係を結ぶようには見えない。本人にそう言ったら、優を引き取ったときから改心したといっていた。「優」という名前は、誰にでもやさしく、平等に接してくれる子になるように、と太一がつけた名前だ。
「どうする? お茶でも飲んでく?」
太一は定期を改札に通しながら言った。あたしは彼に続きながら首を振る。
「ううん、優、待ってるんでしょ。アパート行くよ」
「でも、メシまだ食ってないんだろ」
「アパートで作る。台所借りていい?」
ゆっくりと流れる、たわいない会話。でも、あたしは、この時間が好きだった。愛しい人と過ごすこの時間が、大好きだった。



「太一、お帰り〜!!」
アパートのドアを開けたとたん、優が太一に飛びついた。今年で4歳になった優は、肩ぐらいまでの髪を黄色いリボンで二つにくくり、同じ黄色のワンピースを着ていた。
優はあたしに気がつくと、ぱぁっと顔を輝かせた。
「あ、光!! いらっしゃい!!」
「こんにちわ、優。いい子でお留守番してた?」
「うん!」
あたしはしゃがんで目線を優と同じ高さにした。優はへへっと笑ってあたしに抱きついた。あたしも優の頭をよしよしとなでる。
「家入れよ。暑いしさ。優、コーラかなんか入れてくれる?」
「わかった!!」
優ははしゃいで家の中に駆け込んでいた。あたしはそんな子供特有のしぐさに目を細めながら、太一の家に入った。
「この暑いのに、よくあんなに元気だな」
太一は呆れたようにつぶやいた。
「あら、いいじゃない。かわいくて」
「いや、いいけどさ。たまに疲れちゃうよ。やっぱり、一人が恋しいときもあるよ」
太一は力なく微笑みながら、優が脱ぎ散らかした小さな靴をきちんとそろえた。

嘘つき。

太一はそんなこというけど、ホントはそんな風には思っていない。はっきり聞いたわけじゃないけど、わかる。だって、あんなに楽しそうじゃない。コーラのボトルを重そうに抱えている優を手伝っている太一の表情は穏やかで、幸せそうだった。
優は太一のことを「お父さん」とか「パパ」とか呼ばない。「太一」って呼んでいる。どうしてお父さんと呼ばせないのかと尋ねると、太一は
「なんかさ、娘と父親って関係になりたくないんだよ。近所のお兄ちゃんとガキみたいな…なんていうか、そういう友達関係みたいなのがいい」
と少し困ったような顔で言っていた。
そのときは意味がわからなかったが、後で、太一が両親と勘当していることを知った。高校生のとき、相手を妊娠させたというと、親は怒り狂い、太一を家から追い出したそうだ。きっと太一は、親子の絆の脆さを思い知ったんだろう。あたしも、いやというほど知っていた。ちょっとしたことで崩れてしまう、弱い絆だということを。
だから太一は、自分たちはそうならないように、「親子関係」ではなく、「友達関係」という絆を築いたんだろう。
「ね、太一、公園いこーよ!!」
優が太一のTシャツのすそを引っ張っている。太一は優の手を引っ張って優を抱き上げ、あたしのほうを向いた。
「優、こんなに暑いのに、外いったらしんどいだろ?光だっていやだよな?」
太一はあたしに同意を求める。目は、「優を納得させてくれ、暑いからヤダ」と語っていた。一方優は、懇願するような目であたしを見ている。あたしは優の味方をすることにした。
「いいじゃない、最近運動不足だし。ね、優、いこっ」
「やった!!ね、太一、いこ、いこっ!!」
優がしきりに太一に言う。太一は恨めしそうな目であたしを見た。あたしはベーっと舌を突き出してやってから、優の手をとった。



「…光も意地悪になったよな」
太一はすっかり遊び疲れて眠ってしまった光を抱いてぶつぶつ言った。結局あの後公園に行き、優は暑い中大喜びで走り回った。そうなると、本人から見れば、あたしたちはいい遊び相手、しっかり巻き込まれてしまった。太一はすっかり疲れた顔をしている。あたしも、シャツが背中に汗でべっとり張り付いていた。
「あら、優を喜ばせただけだけど?」
あたしは思いっきり意地悪く太一に言った。太一は大きくため息をついた。
「第一印象にだまされたぁ〜。こんな悪女だと思わなかったぁ〜」
「失礼ねっ」
「いでっ。あぶねえよ、優抱いてんだから」
「あはは」
あたしたちはふざけてじゃれあいながら、踏み切りの前で立ち止まった。太一が重たそうに何度も優を抱きなおしているので、あたしは代わってあげた。
「悪ぃな」
「ん。いいよ。あたし子供好きだし」
「そっか」
目の前をゴッと言う音とともに電車が通過していった。その後まもなく踏切が開いたので、あたしと太一は歩き始めたが、ふと、かちゃんという音で振り返った。あたしの家の鍵がポケットから落ちて、道路に転がっていた。
「あ、鍵…」
あたしは踏切から出て、鍵を拾いにいった。太一は踏み切りの真ん中で立ち止まってあたしを見ている。
「何してんの?」
「あ、鍵落としちゃって…」
「あはは、ドジだな、光は」
彼が笑った、次の瞬間だった。


緑色の電車が、彼をかき消した。
あたしは何が起こったのかわからなかった。踏み切りはまだ開いているし、かんかんという音もしていない。なのに、どうして電車が来るんだ?
あたしの顔に、何かが飛んできた。ふと見ると、あたりは赤いものが飛び散っていた。それが何なのか理解するのに、少し時間がかかった。
ああ、これは、これは……。


コレハ彼ノ一部ダッタンダ――


あたしが鍵を落としたから。あたしが引き返したから。だから彼は、彼は……。
あたしは道路に座り込んだ。人がざわざわと集まってくる。優をぎゅっと抱きしめる。

どうして人が集まってくるの?

ヒカレタカラダヨ

誰が?

オマエノイトシイヒトダヨ

愛しい人?それは誰?あたしはこコデ、ナニヲシテルンダロウ?


ただ目の前が真っ白になってくる中、あたしは腕の中の重みを手放さないように、きつく、抱きしめていた。



第一話


「どうなの?患者の様子は?」
白衣を着た若い女性は、隣のカルテを持った20ぐらいの男に話しかけた。茶色い髪を後ろでひとつに束ねている。男はめがねを押し上げながら言った。
「ええと…事故の後2日間、何を話しかけてもまったく応答がなかったそうです」
「気を失ってたんじゃないの?」
「いえ、目は開いたままだし、脳波も正常だったそうです」
「そう…」
若い男はささやくような声で
「かなり、精神的ダメージが大きかったんでしょうね」
と言った。若い女性は眉をひそめ、苛立たしそうに言った。
「まったくなってないわ。踏み切りの故障だなんて。しかも線路に人がいるのに気づかないでまったくスピードも落とさないなんて!!」
女性は親指のつめを噛んだ。爪はすでにガタガタになっていた。
「それで、今はどうしてるの?ええと…佐野光さん」
女性はそういってから大きくため息をついた。この「佐野光」と言う人物の情報を見たとき、あまりにもむごいと思った。親との関係はもうないに等しく、学校では友達もいない。そんな中で唯一心を許していたのが、5日前に踏切事故で他界した「井之上太一」だった。
「本当にかわいそう…たった一人の心の支えがこんなくだらないことで亡くなるなんて…。そりゃ応答しなくもなるわよ。20の娘が目の前で旦那を引かれて正気なんか保ってられないわ。遺体はもう誰かもわからないほど崩壊していたし…」
「あれ、井之上さんは佐野さんの旦那さんじゃありませんよ」
男の言葉に、女性は怪訝そうに振り返った。
「あら、子供がいたじゃない。4歳ぐらいの…」
「ああ、あれは井之上さんの連れ子です。高校生のときにほかの女との間にできた子らしいですよ」
「ふうん…」
会話はそこで途切れた。「佐野様」と書かれたプレートがでた病室の前についた二人は、そこで立ち止まった。女性は小さな声で男に尋ねた。
「…佐野さん、今はどうしてるの?」
「とりあえず麻酔で眠らせているそうです。それで、もう丸3日眠ったままだそうです・・・あ、点滴してるので多分大丈夫ですが」
女性はもう答えずに、ドアをノックした。もっとも、患者がまだ眠っているのなら応答はないだろうが。
そんな思いとは裏腹に、すぐにドアは開いた。中から50ぐらいの看護婦が顔をのぞかせた。彼女は二人を疑わしげにじろじろと見た。
「どなたですか?マスコミの方ならご遠慮を…」
「いえ、ここの院長と約束してあります。橘真奈美と申します。こっちは助手の三田大輔君」
「どうも」
三田はそっけなく看護婦に頭を下げた。橘はため息をひとつ。三田はこういうぶしつけな態度をとる人が大嫌いなのだ。
看護婦はまだ疑わしそうな顔をしていた。
「それで、何の御用で?」
「私たちは精神ダメージを受けた患者を専門的に診る医者です。それで、ここの院長さんから、佐野光さんを見てほしいと頼まれたんです」
「はぁ…」
看護婦の応答はなんとなくはっきりとしない。三田がイライラとした調子で言った。
「あなたじゃ話になりません。院長とつないでください」



「おお、橘先生!!」
院長は橘を見るとうれしそうに立ち上がり、手を差し出した。橘も微笑んで手を握り返す。そして三田のほうを見ると、少し首をかしげた。三田はそれを見て、あわててポケットから名刺を取り出し、彼にそれを渡した。
「はじめまして、三田大輔と申します。橘先生の後輩なんです。今回は、先生の助手としてきました」
「ああ、はじめまして。院長の大山です」
彼はにこやかに三田の手をとり、しっかりと握った後、橘のほうに向き直った。
「さて橘先生、いきなりで申し訳ないのですが、患者を診てもらえますか?」
「ええ、構いません。でも・・・まだ眠っているのでは?」
「いえ、あれは我々が意図的に眠らせていたのです。精神にどこか異常をきたしている様子だったので、興奮して暴れられたりしたら困るので」
「なるほど」
「今日は先生が来てくださるとのことだったので、睡眠薬の投与をやめておきました。そのうち目覚めると思うので、先にデータを見ていただけますか」
「はい。三田君も」
院長は2人を連れて歩き出した。二人はしゃきっと背筋を伸ばしてつかつかと歩く。
二人はプロの医者だ。だが、メスを握ったりする医者ではなく、彼らはマインド・ドクター、つまり、精神科医だ。橘は、その世界の中でもかなり有能な医者である。
院長は二人を書斎のような部屋に連れて行き、髪の束の中から何枚かを抜き取り、橘にわたした。橘はそれをじっと見、やがて眉をひそめ、三田にそれを渡した。三田も同じように熱心にそれを読み始める。
「…ひどいですね」
やがて彼も、橘と同じような反応を示し、院長に書類を返した。
「事故の後二日日間、何をしてもまったく応答がありませんでした。呼びかけても、痛みを与えても、暑さも冷たさも…目を見開いたまま、人形のようにぴくりとも動かないのです。本当に死んでいるのかと思いました」
院長は書類を机の上でそろえながら重々しく言った。二人は黙って院長の話を聞いている。
「脳波はどうでしたか?」
「正常でしたが…それもまったく揺れないのです。ずっと一定です」
橘はさらに眉をひそめ、うつむいた。三田は橘をちらりと見た後、院長に尋ねた。
「本当に、まったく反応がなかったのですか?ほんの少しでもいいんです、指先もまったく動きませんでしたか?」
「ん〜…ああ、そういえば、ひとつだけ反応がありました」
院長の言葉に、橘はぱっと顔を上げた。三田は急き込んで院長に尋ねる。
「どんな反応ですか?何をしたときですか?」
「ええと…私たちが亡くなった彼氏…井之上太一さんのことを病室で話していたんですよ。佐野さんは相変わらず人形状態で…。それで、ふっと彼女を見たら、彼女、泣いていたんですよ。相変わらず微動だにしませんでしたけど、見開いた目から涙がぽろぽろ零れ落ちてました」
「その後、何か変化は?」
「いえ、ほかには特に…」
「そう…ですか…」
橘は額に手を当て、またうつむいた。そんな行動の一連は、深い心のダメージから来ている。彼女のダメージの大きさを思うと、胸が痛んだ。
「…かなり難しそうですね」
三田がポツリとつぶやいたそのとき、ドアがノックされた。何度も何度も、止むことなく続く。院長は立ち上がり、ドアをあけた。そこには一人の小さな女の子が立っていた。その子は不安の色を顔に浮かべ、院長に尋ねた。
「院長先生、太一と光は?」
「優ちゃん、今探してるんだよ…もうちょっといい子でお留守番してようね」
「ねぇ。いつになったら帰ってくるの?」
「まだわからないよ…」
橘は優、と呼ばれた女の子をじっと見た。彼女も精神ダメージを受けているのは顔を見たらわかった。院長は彼女をなだめ、書斎から追い出した。
ひとつため息をついた後、彼は二人に話し始めた。
「彼女は井之上太一さんの娘です。かわいそうに、まだ4歳なのに両親をなくして…」
「母親はまだ、生きてるんでしょう?」
橘の言葉に、院長は力なく首を振った。
「生きていますが、戸籍上はもう他人と言うことになっているんです。だから、井之上さんの恋人の佐野さんは、優ちゃんの母親のような存在だったようです」
院長はそこまで言うと、二人にゆっくと、しかし、しっかりと言った。
「あの子も見てやってもらえますか。不安で仕方ないようなので…」
「あの子には、二人のことはなんていってあるんですか?」
「遠くに出かけていて、今探していると言ってあります。…私たちには、どうすればあの子のダメージを最小限にするにはどうすればいいかわからなかったので…」
院長は不安げに二人を見た。
「…いけなかったでしょうか」
「いえ、へんに刺激するよりはずっといいです。おそらく、最良の判断でしょう」
橘の言葉に、院長の顔に安堵がひろがった。その後、思い出したように付け足した。
「優ちゃんには佐野さんがここに入院していることは、内緒にしといてもらえますか」
「それは、佐野さんの状態によりますね。ちゃんとことが判断できる状況なら、お互いに会えたほうが安心でしょうから」
そのとき、部屋の電話が鳴った。どうやら、内線のようだ。院長がそれをとり、二言三言話した後、二人を振り返った。
「来てください。佐野さんが目覚めたそうです」



第2話



虚ろな目をして、ただボーっと優の頭を撫でている彼女を見たとき、橘は鋭い痛みを覚えた。自然と自分の腹部に手をやり、そっと撫でる。だが、今は私情を挟んでいる場合ではないでしょ、と自分を奮い立たせ、光に質問を始めた。
「佐野光さんですね?」
橘の問いに、光はボーっと橘を見た。優を撫でる手が止まり、優は不思議そうに光を見上げる。光はしばらく橘を見ていたが、やがて、悲しそうに目を伏せ、首を横に振った。
「? どういうこと?あなた、光さんじゃないの?」
「…わかりません」
彼女はポツリとつぶやいた。橘は後ろにいた三田を振り返った。
「三田君、あなた、記憶喪失の人のための質問マニュアル、ちゃんと覚えてる?」
「あ、はい」
「じゃあ、それをして、カルテに付けといて。私は院長先生と話してくるから」
橘はそれまで作っていたかたい表情を緩め、優の方を向いた。優は肩をすくめ、光のブラウスのすそを握ったのが見えた。橘は優のほうに近づき、にっこり微笑んだ。
「優ちゃん、ちょっとお話があるの。お姉さんと一緒に外に来てくれるかな」
自分で言っておいて、なんだか誘拐するときの文句みたいだなぁ、と思った。
優はこっくりとうなずき、チラッと光を見上げてから橘についてきた。橘は三田に向かってうなずき、優の手を取って病室から出て行った。
優は橘の手を握り、トテトテと歩く。橘は優の歩調に合わせてゆっくりと歩き、待合室まで連れて行き、優を座らせた。自分も優の隣に腰を下ろし、少し息を吸ってから話し始めた。
「優ちゃん。始めまして、私は橘真奈美っていうの。お医者さんなのよ」
「…はじめまして」
優はまだ少しもじもじしながらいった。橘はにっこり微笑み、優の顔を覗き込んだ。濁りのない、きれいな目が不安げにこちらを見ている。
「…あのね、優ちゃん。光さんはね、病気なの」
橘の言葉に、優は目を見開いた。
「…かぜ?」
「ううん。どんなお薬も効かないの」
「…なおらないのぉ…?」
優の目に涙がたまってくる。橘はあわてて話を続けた。
「そうじゃないわ、最後まで聞いて。あのね、光さん、すごくショックなことがあっていろんなことを忘れちゃってるの。でもね、直らないわけじゃないの。みんなでやさしく接してあげれば、きっと思いだしてくれるわ」
「…ホント?」
「ほんと」
橘の言葉に、優は少し安堵の色を見せたが、また不安げな表情に戻る。怪訝そうな顔をしている橘の顔を覗き込み、優は小さな涙声で言った。
「ねぇ、真奈美先生」
「ん?」
「…光、太一のことも覚えてないの?」
橘は一瞬、今まで言ったことは全部うそよ、そんな悲しい顔しないで…そう言ってしまいそうになった。目に涙をいっぱいためて、懇願するような目で自分を見上げてくる幼い女の子が、あまりにも不憫だった。
でも、そんなことをしちゃいけない、ということは、痛いほどわかっていた。後で傷つくのはこの子自身。ちゃんと教えておくべきだろう。
「…ええ、覚えてないわ」
「…優のことは?」
「…………」
言えなかった。橘は黙って優を抱きしめた。優もただ橘の首にすがりつく。優が小刻みに震えているのがわかる。橘は優をぐっと抱きしめた。この子の将来は、一体どうなるんだろう。
「ねぇ、真奈美先生。太一はどこに行ったの?」
鼓動が一気に早くなる。一番聞かれたくなかった質問。
人を最小限傷つけない言葉、タイミング、それは何度も経験を積む事と、自分を実験体とすることで、熟知しているつもりだった。だが、幼い子供への応対は苦手だった。子供は何をどういう風に受け止めるのか、想像しにくい。
橘は少し考えて、やがてゆっくりと口を開いた。
「あのね、優ちゃん。お父さんは、もう――」
「お父さんじゃないよ。太一だよ」
ほら来た。橘は少しふっと笑った。子供は言葉をどういう風に受け止めるか、本当にわからない。だから、面白い。
「優ちゃん、お父さんって言うのは太一さんのことよ?」
「うん。でも、優はお父さんって呼ばないもん」
どうして、と聞きたかったが、今は父親との思い出話を聞くべきではない、と思い、踏みとどまった。これから、つらい現実を話さなくてはいけないのだ。思い出を聞くことはない。
「あのね、太一さんは、ずーっと遠くに行っちゃったの」
「とおく…?」
「そう。すっごく遠いところ」
「いつ帰ってくるの?」
橘は言葉を頭の中で組み立て、これよりもいい言葉がないか、考えられる限り考えた。やがて、もっともよさそうな言葉を頭の中でつぶやき、息を吸ってから静かに言った。
「…もう帰ってこないの…」
腕の中の優が息をのむ。優の小さな手が橘の服をぎゅっと握る。橘は休まずに続けた。
「太一さんは、天国に行ったの。もう帰ってこないの…」
「…死んじゃった…の…?」
か細い、震えた声で優は言った。自分で言いながら否定しているような言い方だった。橘は瞳を閉じた。
「ええ、そうよ」
そういい終えてから、不覚にも自分が泣きそうになった。これはまずい。言った自分が傷ついていては、言われた方のダメージはもっと深い可能性が高い。橘は内心舌打ちし、自分のミスを呪った。子供への応対はただでさえ気をつけなければいけないのに、こんなミスを犯すなんて。
橘はそっと優を見た。彼女は橘の胸の顔をうずめ、じっとしていた。もしかして失神してしまったのか、と不安になり、思わず声をかける。
「優ちゃん…?」
「先生…」
優はぱっと顔を上げた。その顔は涙で濡れ、目は真っ赤になっている。それでも優は泣かないようにと、顔をくしゃくしゃにして必死でこらえている。
「光が忘れちゃったのは、太一が死んじゃったから…?」
橘は面食らった。遠まわしに少しずつ伝えていこうと思っていた核の部分をいきなり突かれたからだ。
「ねぇ、先生」
優は今にも泣きそうな声でたずねる。橘は目を閉じたままだったが、やがてすっと目を開け、こっくりとうなずいた。言葉を見つけられなかった。
優はこぶしをぐっと握り締め、顔を真っ赤にした。もう泣き出す・・・橘がそう思ったとき、優は小さな震える声で言った。
「がんばって…思い出してもらっ…う…太一が…かわぃそうだから…っ」
橘は思わず優を抱きしめた。こんな小さい子が。父親を亡くしたばかりの女の子が。必死で泣くまいとして、父のために尽くそうとしている。こんな小さい女の子が。
「…大丈夫…きっと思い出してくれるよ…私も手伝うから…」
そっと耳元でささやいてやると、優はこっくりとうなずいた。そして、ついにこらえきれずに泣き出した。悲鳴のような声を上げて、しゃくりあげながら。橘はそっと優を抱きしめた。光の記憶が戻るまで、自分がこの子を支えていく。そう決心した。
「がんばろうね、優ちゃん…」


第3話


「お疲れ様でした。これで質問は終わりです」
「ハイ…」
三田は光に微笑みかけてから、カルテに目を戻した。この世界で大切なのは、一に笑顔、二に笑顔だ。
橘と優が部屋から出て行った後、三田は橘に言われたとおり、光に質問を行った。
佐野光が記憶をなくしていることは確かだった。だが、すべてを忘れているわけではなく、一部の記憶が欠けている状態だった。そして、失った記憶のほとんどは、彼女の恋人、「井之上太一」に関することだった。彼のこと、彼の娘優のこと、彼と共に通った大学のこと、そして、あの事故のこと…。
事故現場にいた野次馬の話では、太一と光が二人で歩いており、光が優を抱いていた。二人は何らかの理由で少し離れた場所におり、太一だけが踏み切りの中にいた。そして、太一だけが電車に轢かれ、光と優は助かった。
光が彼が電車に轢かれた瞬間を見ていたことは明らかだった。きっと、そのショックで記憶をなくしてしまったんだろう。あの事故現場は―三田は少し眉をひそめた―かなりひどかった。自分は太一とはまったく関わりを持っていなかったが、それでも少し気が遠くなったほどだ。それが自分の愛しい人なら、きっと失神しただろう。
だが、少し引っかかることがあった。彼が死んだのを見たショックで、というのは十分に考えられることだが、いろいろなデータから見て、光はかなり精神力が強い人間だった。そんな人が、これしき(これしきではないが)のことで記憶となくしてしまうだろうか。
そんなことを考えていると、部屋のドアが開き、橘と優が戻ってきた。優は目を少し赤く腫らしている。
橘は三田をちらりと見てうなずいた後、しゃがみこみ、優にやさしく話しかけた。
「優ちゃん、先生ね、あのお兄ちゃんと少しお話があるの。光さんと一緒に待っててくれるかな?」
「うん!」
橘はにっこりと微笑み、優の頭を撫でた。



部屋のドアをきっちりと閉めてから、橘は口を開いた。
「どうだった?」
三田は光が記憶をなくしていること、そしてそれは、太一に関することばかりだということを橘に報告した。橘は真剣な面持ちで聞いている。
「ふうん…やっぱり事故のショックってことで間違いなさそうね…」
「あの…そのことで少し疑問があるんですが…」
橘は怪訝そうな顔をして三田に続きを促した。
「いろんな資料を見ると、光さんは精神的に強い人のようなんです。そんな人が、こんなに簡単に記憶をなくしてしまうものでしょうか…?」
「簡単に?」
橘の言葉の鋭さに、三田はびくっと肩をすくめる。彼女の表情はとても険しいものになっていた。
「そういう言い方はあんまり感心できないわ、三田君。あなたは実際に経験したことないでしょ?それをわかったように言わないで。どれだけ辛いことだかわかってるの?」
三田は急に自分の言葉に恥ずかしくなり、うつむいた。自分の未熟さを呪う。
そんな三田の様子を見て反省を感じとったのか、橘は少しため息をついてからやさしく言った。
「…まあ、多少のミスは誰にでもあるわ。そんなに気を落とさないで」
「イヤ、今のは多少なんてレベルじゃ…」
「ううん、私もちょっとむきになっちゃった。ごめんね」
橘は壁に寄りかかり、ゆっくりと口を開いた。
「本当につらいのよ、目の前で大事な人を失うのって…」
橘の意味深な言葉に、三田は何か言おうとした。が、橘はそれより前に口を開いた。
「私もね、さっきちょっとミスしちゃった。やっぱり、子供への応対って難しいわ」
「でも、優ちゃん、何だかいい顔してましたよ」
「まあ、納得してくれたみたいだからよかったけどね」
橘は力なく笑ってから、じゃあ、先に戻ってるわね、といって部屋に入っていった。ドアの隙間から、楽しそうに話す優と、不安げに笑う光が見えた。
三田は部屋には入らず、休憩室にゆっくりと向かい始めた。
橘真奈美。27歳という若さで、あれだけの技術と地位を持つ天才的精神医師。彼女は、三田にとって尊敬する以外の何者でもなかった。自分より二つ年上なだけなのに、彼女はとても大きく見えた。
確かに、技術もたいしたものだが、彼女の風貌がそれをさらに際立てていた。ブラウンのさらさらの髪、切れ長で大きな目、長いまつげ、魅惑的な唇。そして、抜群のスタイル。橘の助手として仕事をすると仲間に言うと、非常にうらやましがられた。だが、三田は橘に恋愛感情は抱いていなかった。彼女はあまりにも遠い人に感じられたので、憧れ程度の感情しか抱けなかったし、それに、三田は、橘にはたった一人、心に決めた人がいることを知っていた。
自販機のボタンを押すと、がたんと言う派手な音と一緒に缶コーヒーが出てきた。それを開けながら、缶にはられた「2点」と書かれたシールを見て、ふと、橘がこれを集めていたことを思い出す。これは彼女にあげよう、と思いながら、苦いコーヒーを飲み干した。


第4話


橘はマンションのソファーに座り込んだ。すぐに立ち上がるつもりだったが、もう立てなかった。彼女は別に努力しようともせずに、ふかふかした背もたれにもたれかかった。
とても疲れていた。別に運動したわけでも、遠いところに行っていたわけでもない。車で30分ほどの病院に患者を見に行っただけで、まだ治療も始めていない。それなのにこんなに疲れているのは、ずっと考え事をしていた所為だろう。
佐野光が記憶をなくした理由。事故のショックもあると思うが、それだけではない気がする。さっきは事故のことを「簡単なこと」といった三田を叱りはしたが、確かに、精神力が強い光が事故のことだけで記憶をなくすとはちょっと考えにくい。だが、光が事故のことを覚えていない以上、結論にたどり着くのは不可能だった。まさかそんな事故がおこるとは思っていなかったので、事故のとき近くにいた人も、誰も二人のことをちゃんと見ていなかった。まあ、それが普通だろう。どこにでもいる、普通の若いカップルだ。
橘は大きく伸びをした。今日はまだ初日だ。あせってしまえば完治は余計に遅くなってしまう。これから時間をかけて、ゆっくりと絡まった謎を解いていくしかないだろう。
と、そのとき、ハンドバックの中から音楽が鳴り出した。橘は手を伸ばしてハンドバックを引き寄せ、中から携帯を取り出した。ヘッドランプは鮮やかな青色に光っている。その色がなぜかとても美しく神秘的に見えて、思わずうっとりと見てしまう。青。人の気を静め、落ち着かせる効果がある色。また、空や海が青い所為か、人間は青色を見ると落ち着くという。
そんなことを考えて、はっと携帯がなってることを思い出し、あわてて電話を取る。電話から高い女の声が響いてくる。
『もしもし、真奈美?』
「うん。ごめん、待たせちゃった?」
『そうよっ、まったく、いつまで待たせるのかと思っちゃった』
「ごめんごめん、で、何?」
『いやさ、真奈美、最近あの、精神患者?の治療おわったっていってたじゃない。あのおじいさんの』
「ああ、北条さん?」
橘の脳裏に、妻を亡くしてうつになった80過ぎの老人の姿が思い浮かぶ。彼の治療はほんの2週間ほど前に終わった。
『そそ。それで、しばらく暇だって言ってたじゃない?それでさ、恵理とあたしと真奈美の3人で遊びに行かない?』
「ああ…ごめん陽子、あたし、また仕事はいっちゃって…」
『はぁ〜!?』
電話の向こうで、友人が呆れているのか浮かぶ。友人はあんたねぇ、と言って話し始める。
『まだ27でしょ?どこまで仕事熱心なのよぉ』
「でも…」
『まぁ、真奈美はユーノーだもんね。うちのお父さんより稼いでるんじゃない?』
「そんなことないわよ」
橘は苦笑したが、友人は冗談のつもりでもないらしい。
『真奈美綺麗だし、スタイルもいいし、その上仕事もバリバリやっててさ…うらやましいわぁ…』
「もう、やめてよ、そんなお世辞。お世辞って言うのはね、相手に対して言う皮肉みたいなものなのよ。だから、お世辞を言うってことは相手をよく思ってないってことよ」
電話の向こうで友人が苦笑した。真奈美ひどいなぁ、と笑う。
『まぁ、仕事熱心でいいけどね。でも、ムリしないほうがいいよぉ。真奈美、最近職業病っぽいよ』
「え?」
どういう意味、と聞こうとしたが、彼女はそんな間を作らずに話し続ける。
『じゃぁ、また今度暇できたらメールしてよ』
「うん。でも、当分忙しいと思うから、しばらく連絡できないと思うけど…」
『まぁがんばれぇ』
「うん。恵理にも謝っといて」
『OKOK。じゃ、またメールするねぇ』
「うん。またね」
ぷつっと言う音の後は、無造作な電子音だけが聞こえる。橘も電話を切り、ふと、なぜメールじゃなくわざわざ電話してきたのだろう、と疑問に思う。そして、ふと、最近メールのチェックなんていつしただろうと思い、急いでメールの受信トレイを開く。
未開封メッセージ26件。橘は驚いて、その未開封メールに目を通し始める。アドレスはオリジナルに変えてあるため、迷惑メールの類は一切きていなかった。メールの送信者の名前に目を通す。
「陽子、陽子、陽子、恵理、恵理、陽子、恵理、陽子…」
橘はすっかり驚いてしまった。さっき、遊びに行かないかと誘ってきた二人からのメールだけで、メールボックスが埋まっている。だが、内容を見てみると、その遊びのことだけではなく、「元気ー?」とか、「最近どう?ムリしてない??」とか、そういう内容のメールのほうが多かった。遊びのことのメールは、二人分を合わせても5、6通だった。いつまでたっても返事が来ないので、陽子が電話してきたのだ。
橘はため息をついてソファーにまた座り込んだ。最近、自分が「真奈美」でいられる時間が極端に減ってしまった。たいていは「橘先生」なのだ。さっき友人が言っていた「職業病」というのは、日常の会話でも、目に映る景色でも、すべてを心理学と結び付けてしまうことだろう。そういえば、さっき形態のヘッドランプを見たときもそんなことを考えたし、友達にお世辞を言う心理についても説明した。誰かと会話するときも、どうすれば傷つかないか、どうすれば気を悪くしないか、そんなことばかり考えてしまう。そして、一人称は本当は「あたし」なのだが、仕事をするときは「私」だ。それが、最近では仕事のとき以外でも「私」といってしまうことが増えた。
橘は額に手を当て、目を閉じた。友達が言うとおり、自分はまだ27歳だ。一番遊んでいる、一番楽しい時期の最後のほうだ。だが、橘は高校生のときは有名な医学部に入るために一心不乱に勉強していた。陽子と恵理は中学生の頃からの友人だが、その二人と遊んだこともほとんどなかった。そして、医学部に入り、またそこで勉強し、卒業して医師免許を取り、精神化専門の学校に入り、24で回りから一目置かれる存在になった。その頃から仕事が忙しくなり、また遊べなくなってしまった。
結局、遊んでいたのは中学生までで、15歳からは勉強、23からは仕事でまったくといっていい程自由になる時間がなかった。遊びたいと思ったことも、もうあきらめたい、やめたいと思ったことも何度もあったが、そんな自分を押さえ込んで今まで生きてきた。
このままでいいのかな、と思う。だが、苦労の末にやっと手に入れた「名高い天才若手医師」という地位を手放すことはもうできなかった。もちろん、地位が欲しくて努力したわけではないが、やりたいことをすべて我慢して築いた大切なものだ。簡単に捨てることはできない。
橘はぶるぶるっとあたまを振り、立ち上がった。こんなことを考えるのは、光の治療が終わってからでも遅くない(もっとも、いつ終わるかわからないのではっきりは言い切れないが)。彼女はシャワーを浴びるため風呂場に向かった。


第5話


光は心細かった。自分がなぜ病院にいるのか、それさえわからない。自分は別に怪我もしていなし、気分も悪くなければ吐血もしない。昨日、三田という男が始めてカルテを取り出したが、なんだかよく意味のわからない質問をされただけだった。今思い出しても、奇妙な質問。そして、それとともに奇妙なのは、それに対する自分の答えだった。
「あなたの名前は?」
…わかりません。
「井之上太一さんという方を知っていますか?」
…いいえ。
「では、井之上優さんは?」
…わかりません。
「ご自分の年齢は?」
20…。
「ご両親の名前は?」
明と由紀子…。
「あなたが通っている学校は?」
…わかりません。
「最近、踏切事故を見かけたことはありますか?」
…いいえ。

なんだか、自分が答えられた質問はとても少なかった。
井之上太一や、優という人はまったく覚えがなかった。が、どうやら「優」はやたらと自分になついてくる女のこのことらしい。そして、「光」というのは、どうやら自分の名前。光は、なんとなく自分の状態がわかっていた。
自分の名前がわからないなんておかしい。きっと自分は、「記憶喪失」なのだ。でも、覚えていることもあった。昨日の質問でも、自分の年齢や両親の名前は覚えていた。
昨日三田が言っていた「井之上太一」とは誰なのだろう。自分とその人は、どんな関係なんだろう。何か大切なことを忘れてしまっているのではないか…とても心もとなかった。



「移動…?」
「ええ」
午後からやってきた橘は光にてきぱきと話し始めた。
「光さん、よく聞いて。あなたは、記憶喪失なの。でも、全部忘れちゃったわけじゃないの。すごくショックなことがあって、一部の記憶をなくしてるの」
「ショックなこと…?」
橘はゆっくりとうなずく。
「…昨日、三田に井之上太一と井之上優という人について聞かれなかった?」
「あ、ハイ…」
「太一さんはね、あなたの恋人なの。優ちゃんは、彼の娘」
「じゃあ、優ちゃんは、あたしの娘なんですか!?」
光は驚いてたずねた。あの子は、自分がおなかを痛めて産んだ子なのだろうか。橘はあわてて話を続けた。
「違うわ。あの子は、太一さんがほかの女との間でつくった子よ」
「じゃぁ、浮気ですか…?」
彼の隠し子を見て、そのショックで記憶喪失になったのかな、とぼんやりと考える。
「いえ、違うわ。あの子は、彼が4年前に作った子でね、あなたが太一さんと付き合い始めたのは2年前よ。あなたは、優ちゃんの事も承諾して彼とつきあっていたの。優ちゃんのこと、とても可愛がってたのよ」
「はぁ…」
なんだかややこしい話だ。頭の中で整理して、橘にもう一度確認する。
「つまり、その太一さんは何年か前にほかの女の人との間に優ちゃんを作って、私はそのことをちゃんとみとめて、太一さんと付き合っていたということですか?」
「そうよ。なんかややこしいけど…」
橘が苦笑する。光もつられて、少し笑う。
「あなたは太一さんをとても愛していた。それで、1週間ぐらい前に、太一さんと優ちゃんと3人でどこかに出かけたの。そして…」
橘はそこで言葉を切った。光は首をかしげる。
「…太一さんは、踏み切りで電車に轢かれたの。あなたの目の前で」
光は息をのんだ。
「どうして…!?」
「踏み切りの故障よ。彼にはそんなことわかるはずない。だから、普通に踏み切りの中に入って行ったのよ」
「…その、太一さんは…?」
橘はちらりと光を見て、目をそらした。光はまさか…と思いながら続きを待つ。
「…亡くなったわ。そのショックであなたは記憶をなくして、ここに運び込まれたの」
頭の中が真っ白になる。自分の目の前で、愛しい人を亡くした…自分は、その瞬間を見ていたはずなのだ。額に手を当て、必死で思い出そうとするが、事故の事はおろか、太一の顔さえ思い出せない。もどかしくて、自分の額を何度もたたく。それでもぜんぜん頭は冴えなくて、悔しくて、自分の指に歯を立てた。痛みが走り、何か液体が指を伝う。口の中に鉄の味が広がる。
橘が息を飲むのが聞こえた。
「光さん!!」
彼女は光のそばに飛んでいき、手をつかんで歯を立てさせるのをやめた。光は悔しくて、仕方がなかった。血が流れている手を自分のひざに打ちつけようとするが、橘はがっちりと光の腕を押さえている。彼女の細い腕からは想像できないほどの強い力で。
「光さん、落ち着いて!記憶は、そんな簡単には戻らないのよ!」
橘の必死の呼びかけに、ようやく光は力を抜いた。太一にことをすべて忘れてしまっていることが、彼と優に申し訳なかった。
「…それでね、ここではあまり専門的な治療はできないし、なんとなく気が張っちゃうでしょ。だから、専門の施設に移動したほうが完治に早くつながるのよ。だから、明後日ぐらいに移動しようと思ってるの」
橘の話は、専門的な施設に移動すれば、長期滞在になるだろうから、衣服などを取りに明日、一度光が一人暮らししているマンションに行こうと言う事だった。光はそれを承諾した。別に断る理由はなかったし、記憶を取り戻したかった。承諾してから、ふと優のことを思い出した。
「あの…優ちゃんは…?母親に引き取られるんですか?」
橘は首を振った。
「優ちゃんは、母親とはもう戸籍上は他人でね。4歳の今まで、ずっと太一さんが一人で育ててきたの」
「じゃあ…?」
孤児院に?と聞いた光に、橘はにっこりと微笑んだ。
「安心して、そんなことはしないわ。優ちゃんも施設に連れて行きます。あなたが記憶を取り戻したら、きっと引き取りたいっていうと思うわ。でも、それまでは施設で面倒を見るし、最低、私が引き取るから」
「いえ、それは…」
「あはは、いやなら、早く記憶を戻しなさい」
橘はいたずらっぽく笑った。もともと美人だが、笑うとさらに綺麗だった。光はおずおずと、言いにくそうに言った。
「あの…私、あなたのこと知らないんですが…」
「あら、私のこと橘って言ってたじゃない」
「いえ、あれは三田さんや優ちゃんがそう呼んでいたので…」
「ああ、ごめんなさい!」
橘はあわてた様子で言った。
「ごめんね、いつも先に仕事のことになっちゃって、自己紹介を忘れちゃうの。私は橘真奈美。あなた専属のマインド・ドクターよ。あなたが記憶を取り戻すのを手助けするわ」
「ありがとうございます。私は…ええと…」
「佐野光、20歳。悪いけど、あなたのことは治療の前に全部調べさせもらったからね」
光は少し微笑んだ。彼女の話し方や立ち居振る舞いは、なんとなく安心を与えてくれる。
「あの、真奈美さんはおいくつなんですか?」
「うふふ、いくつに見える?」
「えっと…24くらいですか?」
「ま、失礼ね、まだ22よ!」
「ええ!?」
「あはは、うそよ。ホントは27よ」
「へぇ…若く見えますね」
「ありがと」
橘と話しているうちに、いつの間にか光にも笑顔が戻っていた。



「ここがあなたのマンション。覚えてる?」
「佐野」という表札が出た部屋の前で橘が光に尋ねる。光は左手にハンドバック、そして右手には優の手を握ってじっとドアを見つめている。優はもう片方の手を橘につないでもらってご機嫌だった。
「…なんとなく、覚えがあるような気がします。でも、はっきりとは…」
「そう…」
橘は少し沈んだ顔を見せたが、すぐに笑顔を見せた。
「でも、ここを少しは覚えてるって言うのは一歩前進よ。太一さんもよく出入りしてたみたいだから」
「うん!優もここに来たよ。光、いつもおいしいチーズケーキ買ってくれてるんだよね」
優はつないだ手をぶらぶら振りながらはしゃいでいった。光はそんな様子を見て目を細めながら、バックから鍵を取り出し、鍵穴に突っ込んだ。がちゃっという機械的な音がする。
懐かしい。部屋に一歩はいった途端、光はそう感じた。ふらふらと酔ったように部屋にはいり、一番大きなリビングに向かう。静かに置かれているカーペット、テーブル、リラックスチェア、テレビ。隣のキッチンで洗って立てかけられた食器。そして光は、リビングにある洋服ダンスの上に写真立てを見つけ、それに駆け寄った。
そこには、自分と優、そして、自分とそんなに年が変わらなさそうな男性が写っていた。

この人が…。

「太一さん…ね」
いつの間にか後ろにいた橘が静かに言った。優は光のスカートのすそを握り、見せて、とせがむ。だが、光はその声にはこたえなかった。写真立てを握り締め、写真を、太一を穴が開くほど見つめている。
これが太一。自分が愛した人。おそらく、全身全霊をかけて。そして彼はもう…いない。
会いたい。会って話をしたい。自分と太一が今までどんな風に関係を築いていたのか、彼がどんな人なのか。
知りたいことがあまりにも多すぎて、泣きたくなる。橘は光の肩をそっと抱く。光は黙ってうつむいたまま、つまらなさそうにしている優に写真を見せてやった。優も写真を見てもはしゃいだりせずに、ただ黙って写真を見ている。
今はもう亡き父親のことを思っているんだろうか。優は強いな、と思う。優は父が死んだという現実を受け止めている。橘は少しだけふさぎ込んでいたとはいっていたが、今は普通に笑っている。自分はきっと耐えられない。居や、耐えられなかったから、太一という存在を自分から締め出して辛さから逃げ出したのだ。


「じゃ、もうこれだけでいいわね?」
「はい」
大きなボストンバックに服やら何やらを詰め込み終わると、橘はよしっといってジッパーを勢いよく閉めた。光はバックを方から担ぐと、少しよろめきながら玄関に向かう。ヒールを履いてくるべきじゃなかったな、と内心思った。
「あ、光さん、ちょっと待って」
橘の言葉に振り返ると、ちりんという音と一緒に、彼女のかばんから鍵が出てきた。橘は少し苦笑する。
「光さん、かぎ差し込んだまま部屋にはいっていくんだもの。盗まれるわよ」
「あ、すいません、なんだかボーっとしてて…」
言い訳じゃなかった。この部屋にはいってきてから、なんだか頭がちゃんと機能していない。なんだかすべてを思い出せそうなのにでも思い出せない、そんな淡い幕がかかったような感覚の所為だろう。かばんの中に入れた写真のことが頭をよぎる。
「まぁ、無理もないと思うわよ。さ、行こうか。優ちゃんも」
「うんっ」
優はうれしそうに橘の手を握った。光は鍵を橘から受け取ると、二人より先に部屋から出る。二人が部屋から出てきてから鍵をかけようと鍵穴に鍵を近づける。
かちゃん…という音がして光の手から鍵が滑り落ちた。光は小さくあっといってかがんで鍵に手をかけた、その時だった。
脳裏の一瞬、目の前とまったく違う映像がよぎった。何か、違う風景。でも、その「何か」が何なのか分からない。薄い靄(もや)がかかっていて、はっきりとは見えない。しかも、何度も映像が切り替わる。すべてが見たことがある様なない様な、そんな風景ばかり。
「光さん!?光さんっ!?」
橘の声がぼんやりと聞こえる。意識を失う一瞬前に、光は自分を見て微笑んでいる誰かを見たような気がした。


第6話


橘は必死で車を飛ばしていた。車の中には優の泣き声が響き、後部席には光るが横たわっている。
なぜ光は突然気絶してしまったのか。マンションに行った所為で記憶に刺激が与えられすぎたのか、それとも何かを一度に思い出しすぎたのか。橘はハンドルを思いっきり右に切りながら必死で考えたが、光はマンションにいる間は元気そうだった。鍵を拾おうとしたとたんに突然頭を抱え、倒れたのだ。
橘は右手で運転をしながら器用にバックから携帯を取り出し、ボタンを操作した。施設には光が倒れてすぐに電話した。電話帳から三田の番号を探し、そこにかける。2度の呼び出しで彼が電話に出た。
『ハイ、もしもし?』
「三田君?橘だけど」
『あれ、どうしたんですか?僕、今日休みでしたよね?』
三田はどうやら自分が休みの日を間違えたかと思ったらしい。橘は早口で三田に話す。
「今日、光さんの家に行って荷物取りにいったの、そう話したわよね?そしたら、光さんが倒れたの」
『ええ!?どうしてですか!?』
「わからないわ。詳しいことは後で説明するから、とにかく施設まで急いで来て!!じゃあ、今運転してるから!!」
三田が何か言う前に電話を切り、まっすぐ前をにらんだ。ここで事故ったらまったくくだらないことになってしまう。


施設のベットの上で、光は静かに眠っていた。脳波や心電図も検査したが、特に以上はなかった。
橘はひとつため息をついて、壁にもたれかかった。
三田に電話をした後10分ほどに施設につき、光は担架ですぐに病室に運ばれた。光は青白い顔をしており、呼吸が荒かった。
その後すぐに三田が来た。かなり急いできたらしく、Tシャツにジーパンという格好だった。どうやら白衣を持ってくるのを忘れたらしい。橘は三田に、車の中で泣き叫んでいる優の世話を頼み、自分も光の元へかけ付けた。
さまざまな検査をし、脳や心臓に異常がないことがわかり、ひとまずは安心だった。
橘が壁にもたれかかり目を閉じていると、病室のドアが開く音がして橘は顔を上げた。三田だった。どうやら施設においてあったものを借りたらしく、今は白衣を着ている。
「優ちゃんは?」
橘は疲れたかすれた声でたずねた。
「かなり興奮していました。光さんのところに行きたがって暴れたりしたんですよ」
優の暴れっぷりは、三田の頬の引っかき傷を見ればわかった。
「もう手がつけられない状態でした。そしたら、安藤さんが一度眠らせようっておっしゃいました。今は麻酔でよく眠っています」
「そう。まぁ、優ちゃんも太一さんの写真を見たりしたからね。不安定な状態だったから」
三田はうなずき、つぶやくような声で言った。
「…心細いでしょうね。太一さんが亡くなって、光さんも自分のことを覚えてない」
橘は光がはじめて優の名前を呼んだときのことを思い出した。光が優ちゃん、と呼んだとき、優は一瞬ショックを受けたような顔をした。が、すぐに笑顔でなぁに、と返事した。後でどうしたのかと聞いてみると、優は泣きそうな声でこういった。
「光、『優ちゃん』なんて呼ばなかったもん。『優』って呼んでたもん…」
その後優はわっと泣き出してしまった。
光もつらいだろうが、きっと優もつらい。いや、もしかすると優のほうがつらいかもしれない。
今は二人とも眠りについて、安らかなのだろう。いつか、目覚めていても安らかな気持ちでいられる日が来るだろうか。
ぼんやりと考えていると、ドアがかちゃりと開く音がし、橘は顔を上げた。40代ぐらいの女性が入ってきて、橘を三田を見るとにっこりと微笑んだ。橘は壁にもたれるのをやめ、しゃきっと背筋を伸ばそうとしたが女性はそれを手で制した。
「そのままでいいわよ、真奈美ちゃん。疲れてるでしょ?」
「いえ、それはみんな同じですから。安藤先生はお体大丈夫なんですか?」安藤加奈子は少し苦笑した。
「そんな年寄り扱いしなくても大丈夫よ」
「無理なさらないでくださいね」
三田が安藤を諭すように言う。安藤は懐かしむように三田の顔を見た。
「ずいぶんいっちょ前のこと言う様になったじゃない。大ちゃんも成長したわねぇ…ずっと真奈美ちゃんのお尻追っかけてたあの子がねぇ…」
「や、やめてくださいよっ」
三田が真っ赤になってもごもご言うのを見て、安藤は楽しそうに笑った。橘も、つられて思わずくすりと笑う。彼女は本当に葉を和ませるのがうまい。
安藤は橘と三田が通っていた学校に何度か講習に来たことがあり、二人と一緒に仕事をするようになった前からの知り合いだった。この道一筋14年の大ベテランで、二人にとっては大先輩だ。
安藤はしばらく笑っていたが、やがてまじめな表情を戻した。二人の表情も自然と引き締まる。
「さて、二人ともまた厄介な患者さんを引き受けたわね。ただの記憶喪失とはわけが違うわよ」
「どういう意味ですか?」
安藤は二人の顔を順番に見た後、ゆっくりと話し始めた。
「記憶喪失って言うのはね、脳に何らかの形で強い刺激が与えられることで起こるでしょ。その何らかの形が肉体的なダメージだった場合は、記憶喪失になる以前と同じ生活を地道に続けていけばいずれは回復するわ。
でも、精神的ダメージだった場合は、ただ時間をかけていくだけじゃダメ。そのダメージを少しずつケアしていかないといけないわ。そして、光さんの場合だけど…」
「あ、そのことで少し引っかかるんですが」
三田がすかさず安藤に話しはじめる。
「光さんは、精神的にとても強い人間なんです。確かに、目の前で太一さんが亡くなったことも十分ショックだと思いますが、それだけじゃないような気がして…」
「いい推理だわ」
安藤はにっこりと微笑む。
「そう、問題はそこよ。光さんの記憶と周りからの正確な証言がない以上、本当に何が起こっていたのかはわからないのよ。二人はそのときはなれてあるいてた、それはなぜ?大学の友人の話では、二人は喧嘩した事がなさそうなぐらい仲がよかったそうじゃない。そんな二人がどうして距離を置いていたのか?」
安藤はそこまでしゃべってから、ひとつため息をついた。
「…つまり、ショックを与えた原因がわからないから、どういうケアをしていけばいいかわからないのよ。そこが他と違うところよ」
部屋の中の空気が張り詰める。橘は暗い絶望を感じた。ケアの仕様がない患者に、いったいどういう治療をすればいいの…?
「で、でもそれはあくまで仮説でしょう!?失礼なこと言いますけど、外れている可能性も高いんじゃないですか!?」
三田が必死に安東に問う。彼の額にはうっすらと汗がにじんでいた。安藤はじっと三田を見ていたが、やがてふっと笑った。
「そう、仮説よ。まだ何もわからないわ。ただ、恋人をなくしたことがショックなのかもしれないし、そっちの可能性も高いわ。あくまで、ひとつの例として考えといてもらえれば…」
「そういうわけには行きません」
橘はきっぱりといった。三田は驚いて橘を見つめたが、橘はただまっすぐ安藤を見ていた。安藤も橘を見つめ返している。橘は少し息を吸ってから話し始める。
「安藤先生は、ある程度の確信を持たないと人には話さない方でしょう?このことだって、確かに仮説ではありますが、何らかの形で確証を得ているんでしょう?ちがいますか?」
橘は言い終わってからはっと口をつぐんだ。安藤はただじっと自分を見ている。表情が読めないその目線に耐え切れずに、橘は目をそらし、うつむいた。
「…ゴメンナサイ、私…」
「いいのよ、真奈美ちゃん」
安藤の口調は優しかった。それでも橘は顔を上げることができなかった。
「へんにほのめかす様なこと言った私がいけなかったのよ。こちらこそゴメンナサイ」
「そんな、安藤先生は何もっ…」
橘は思わず顔を上げたとたん、安藤の目線にあった。少ししわが刻まれた顔は穏やかで、目は優しい光を放っている。
橘はまたうつむいた。まだまだ自分は未熟だ。他人の精神を探ってばかりで、自分の感情を抑えきれないなんて。
安藤は静かに言った。
「真奈美ちゃん、少し休みなさい。あなたは働きすぎよ。仮眠でもいいから、少し眠りなさい」
「でも、もし光さんが目覚めたら…」
「あ、僕が何とかしますから、気にしないでください」
三田の言葉に安藤もすかさずそうよ、と相槌を打つ。
「それに、ここにはいっぱいスタッフがいるんだから、大丈夫よ。ゆっくり休みなさい」
優しい言葉の中に、命令の色が混じっていた。橘はおとなしく従うことにした。実際、疲れは耐え難いほどになっていた。
部屋を出る前に、橘は振り返って安藤に尋ねた。
「教えてください。どこで確証を得たんですか?」
橘の言葉に、安藤は苦笑し、いたずらっぽく言った。
「確証なんて得てないわ。私のカンよ、カン」
そこまで言ってから、安藤は優しく微笑んだ。
「真奈美ちゃん、ちゃんと休息も取らなきゃダメよ。患者の前にあなたが精神的に参ってたら話にならないからね」
「…ハイ」
橘は安藤に頭を下げ、三田にも軽く礼をしてからドアを閉めた。ふらふらと休憩室に向かい、そこの白いドアを開ける。
ベットに倒れこむと、一気に睡魔が襲ってきた。安藤に聞いたことを自分なりにまとめようと思っていたのに、とぼんやりと考えながら、視界がぼやけていくのを感じていた。




第7話


「真奈美ちゃん、なんだか機嫌悪そうね」
橘が部屋を出て行った後、安藤は三田に言った。三田もそれはうすうす感じていた。橘が仕事中に感情を表すことは珍しい。
「はい、光さんの担当になってからはなんだか…」
「やっぱり、旦那さんのことがあるからかなぁ…」
安藤がポツリとつぶやいた言葉に、三田はぱっと顔を上げた。
「旦那さんのことって、何かあったんですか?」
「あら、大ちゃん知らないの?あちゃあ、言っちゃいけなかったかなぁ」
安藤は困ったように頬に手を当てる。三田は安藤に詰め寄る。
「お願いします、教えてください」



ただ、驚いた。
三田は穴が開くほど安藤の顔を見つめた。安藤は淡々とした様子で語ったが、けして軽くは考えていないようだった。
「…本当ですか?」
「嘘でこんなこと言わないわ」
三田は呆然としてうつむいた。知らなかった。橘が、そんな影を抱えていたなんて。だとしたら、彼女はなんて気丈なんだろう。
安藤はしばらく三田を見ていたが、やがて静かに言った。
「あなたならわかってると思うけど、これは他言無用よ。あんまり知ってる人いないみたいだし…。真奈美ちゃんももう立ち直ってるみたいだけど、思い出させるのはかわいそうだから」
「わかってます。じゃあ、失礼します」
三田は安藤に頭を下げて部屋を出た。思わずため息をつく。仕事柄、精神的にやんでいる人は見れば大体はわかったが、こんなに身近にそんな人がいると思わなかった。
三田はふと、休憩室の前で足を止めた。橘は今、この中で眠っている。そして、病室では光と優が。眠りというのは、一時的な死だと三田は思っている。眠ってしまえば、もう何も見えない、何も聞こえない。世界からまったく遮断された自分だけの空間に入り込む。それが本当の死とは違う部分だ。本当に死んでしまえば、もう何も残らない。
死ぬとは、なんなんだろうか。何も残らないなんて思っているが、本当のところは誰もわからないのだ。天国とか地獄があるのか、生まれ変わるのか…。死ぬのはどういう感じなのだろうか。夜眠るとの何が違うのだろうか。太一は今、この地で眠っている。もう二度と目覚めることのない、永遠の眠り。死というのは、人ができることの中で一番大きなことだろ思う。どんな偉業よりも大きく、そして、重みのあること。
そう思う反面、たとえ人が死んでも、この世界は何も変わらないことを感じている。たとえば、太一。彼が亡くなったことで光は記憶を失い、優はただ泣いた。だが、彼が死んでも、この地球は何も変わらずに回り続け、人々は何も変わらずに生きている。
太一死ぬ瞬間、何を思ったのだろうか。そして今は、どうしているのだろうか。もう何も感じないのか、それとも遠くから光を見守っているのか。
死ねばどうなるんだろう。自分が死ねば、何が変わるんだろう。
もうやめよう。三田は休憩室の前から歩き出した。こんなことを考えても、答えが出るはずがない。自分も少し休もう。なぜかとても疲れていた。彼は隣の休憩室のドアを開けると、ベットに倒れこんだ。
だが、不思議と目は冴えていた。薄暗い部屋に中で、三田はただ一人考えた。光はなぜ記憶を失ったのか。太一を失ったこともだか、それをさらに重くする何かがあったはずだ。安藤は、二人が離れて歩いていたことに目をつけているようだった。確かに、その所為で太一だけが死んだのだ。なぜ離れて歩いていたのだろう。
まずはじめに、喧嘩していた、ということを考えた。だが、これはだめだ。まわりの話からもわかるように、太一と光はとても仲が良かったのだ。喧嘩していたというのは考えにくい。そのときは優も一緒だったし、きっと、二人の関係は穏やかだったのだろう。
三田は突然はっとした。光が記憶を失ったということは、太一の死には、何か光に負い目があるのではないか?そして、それに気づいた光が自分を責め、結果的に記憶を失った…。
三田は思わず起き上がった。起動が早くなっているのを感じる。この仮説は、かなりの可能性があるのではないか…?
もしそうだとしたら一体どんな負い目があったのか。光が突き飛ばしたなんていうのはありえない。一体どうして、太一だけが踏み切りの中にいたのか。いろいろ考えてみたが、これだ、というもの思いつかなかった。
三田はもう一度身を横たえた。まだこの仮設があたっているかはわからないが、とにかく、太一だけが踏み切りの中に原因を調べるのは早急にするべきだろう。
目を閉じる。意識がゆっくりと遠のいて、世界から離れていく。三田は自分だけの空間に、ゆっくりと沈んでいった。


第8話


「やだあああぁぁぁ!!だしてえぇぇ!!」
ものすごい叫び声で橘は飛び起きた。しまった、寝過ごしたと思いながら急いでベットから飛び降り、白衣を引っつかんで部屋から飛び出す。腕時計は午前2時半をさしていた。
白い壁で囲まれた廊下に、誰かの叫び声が木霊している。誰かといっても優しかいない。小さい子はこういう興奮状態に陥りやすいのだ。橘は声がするほうに向かって走った。三田に優の病室を聞いておくべきだったと内心舌打ちをする。
と、突然優の泣き叫ぶ声がふつりと途切れた。橘は思わず立ち止まる。廊下で少し滑って、靴がきゅきゅっと音を立てる。それと同時に、今度はがたんという何かにぶつかる音が聞こえた。
まさか、ショックで失神したんじゃ…。橘はまた走った。もう声が聞こえないから、ただ闇雲に走り回って探すしかない。優はきっと興奮状態で、あんなふうに叫んでいたんだろう。だが、突然あんなふうに声がやむとは考えにくい。その上、あの音は倒れた音ではないか。
病室についた表札を一つ一つ見ていくと、ようやく優の病室を見つけた。取っ手を引っつかんでドアを開ける。
部屋の中は薄暗くてよく見えない。よく目を凝らしてみると、優はベットの上で寝息を立てていた。橘は肩で息をしながら、それをただじっと見た。優は別に暴れた様子もなく、ちゃんと布団の中で静かに眠っている。どういうことだろう…そんなことを思っていると、突然がん!!というものすごい音がして飛び上がる。そのあとも何度もがん、がんと音が鳴る。優は良く目覚めないものだ。橘はもう一度優の病室から飛び出した。音は隣の病室から聞こえる。ドアに手をかけると、部屋には鍵がかかっている。
「お願い、出してえぇぇ!!」
部屋の中から絶叫が聞こえる。どうしよう、鍵を持っていない。と、ふと病室の鍵は外からなら簡単に開けられることを思い出す。橘は髪につけていたヘアピンをはずすと、鍵穴に突っ込む。ここの鍵はとても甘く、素人でも簡単に開けられてしまうのだ。
案の定、すぐに鍵が開くかちりという音がした、と同時に人が飛び出してきて橘ともろに衝突し、倒れこむ。橘は体を起こしながら、自分の上に倒れこんできた人物を見た。長い髪を振り乱し、目を血走らせてこちらを見ていたのは、光だった。叫んでいたのは、光だったのだ。
光はぱっと立ち上がると猛然と走り出した。橘もあわてて立ち上がり追いかける。ふと、廊下に転々と血がついているのに気づく。よく見ると、前を走っている光の手から血が流れている。どうしてそんなことになったのか知らないが、とにかくただ事ではない。
「光さん!!どうしたの!?」
橘が呼びかけても光は振り向きもせず、走り続ける。橘も全力疾走で光を追いかける。もともと運動も結構得意なのだ、これなら追いつける!
あと4メートル、あと3メートル、2メートル、一メートル、30センチ…。橘は意を決して光に飛びついた。光はバランスを崩して倒れる。橘は光の腕をがっちりつかんで押さえつけようとしたが、光は思った以上に激しく抵抗した。腕を振り解こうともがき、必死で前に進もうとする。よく見ると、彼女の左手の人差し指と中指、そして右手の薬指のつめが綺麗にはがれて、そこから血が流れ出していた。光がまた泣き叫ぶ。
「いやああああぁ!!離してぇ!!行かせて!!」
「おちついてっ、光さん!!どうしたの、何があったの?」
「離してえぇ!!太一が、太一が呼んでる、呼んでるのぉっ!!」
彼女の口から出た、意外な単語。「太一」…?記憶が戻ったというのだろうか?
「離してぇ!!」
「光さん、どうしたの、太一さんがどうしたの、記憶が戻ったの?」
「太一が、太一が行っちゃう!!お願い、離してっ、太一が呼んでるのぉ!!」
光は泣きながら必死で抵抗するが、橘は両腕をがっちりつかんで離さなかった。光は橘の腕につめを立てる。爪が深く食い込み、鋭い痛みが走ったが、それでも離さなかった。光は一体どうしたというのだ?
と、そのとき向こうから人の足音と声がした。橘は光の泣き叫ぶ声に負けないように大声で叫んだ。
「こっちよぉ!!お願い、早く来て!!」
「橘せんせいっ!?」
三田の声がした。そして、たくさんの足音が走ってくるのが聞こえる。良かった、異変に気づいてくれたのだ。
と、気が緩んだとたん、思わず光の腕を放しそうになる。光の声はかすれ、裏返って金切り声になっていたが、それでもまだ叫び続けている。
「太一ぃぃぃ!!!離して、太一が行っちゃう、太一が、太一、太一〜〜!!」
光は狂ったように太一の名前を呼んでいる。と、足音がすぐ真後ろまで迫ったのに気づき、振り返ると、三田と安藤を含んだ何人かがこちらに走ってくる。皆は来るとすぐに光を押さえつけ、安藤が橘を光から離れさせた。橘は光の爪が食い込んでいた部分をさすりながら、息を整え整え光を見ていた。中の一人が麻酔を取り出し光にうったが、光の興奮状態は極限にまで達しているようで、なかなか麻酔が効いてこない。光の様子はいつもの穏やかな様子とは凶変していた。目は血走り、涙で髪がひきつった顔に張り付いている。残りの髪を振り乱し、5人がかりで押さえつけられてもまだ激しく抵抗し、普段とかかけ離れた引きつった声で、もう何を言っているのかもわからないが、声の限りに叫び続けている。橘はそんな様子をただ呆然と見つめていたが、突然ぱっと立ち上がり、元来た方へ走り出す。光の爪から流れた血が点々と残っていたのですぐに戻ることができた。
思ったとおり、優が廊下で一人で泣いていた。騒ぎで目が覚めたものの、光はいないし、道はわからないしで泣いていたのだ。
橘が優ちゃん、と呼びかけると、優はぱっと顔を上げ、顔をぐちゃぐちゃにしながら駆け寄ってきた。橘も優をしっかりと抱きしめる。
「まなみせんせぇ〜…」
優は優で、普段とは違った。普段はしっかりしていてこんな風にあんまり甘えに来ないのだが。
廊下にはいまだに光の叫び声が響いている。橘は優をそのまま抱き上げると、光のところへ走った。優は不安げに光は?と尋ねたが、橘は答えなかった。


光はまだ眠っていなかった。なかなか麻酔が効かないらしく、さっきよりは鈍くなっているが、まだ激しく抵抗している。優はそんな光を見ると、橘の腕から滑り降り、泣き叫びながら光に駆け寄り、光を押さえつけている手にかじりついた。
「やめてぇ!!光をいじめないでぇ!!」
「優ちゃん!」
橘はあわてて優に駆け寄った。優はどうやら勘違いしてしまったらしく、大声で泣き喚きながらも腕にしがみついて離れない。橘は優を引き離そうと駆け寄った、と、そのとき、光がぱたりと暴れるのをやめ、優を見つめた。優はしゃくりあげて泣いている。光はただボーっと優を見ていたが、やがてまた泣きながら、震える声で言った。
「優…太一は…」
と、光ががっくりと頭をたれた。橘は優を抱きしめながら、光を見ていたが、光はもう動かなかった。光を押さえつけていた者たちが光をそっと床に寝かせる。光の顔は涙で濡れていて、髪はぼさぼさだった。指から血が流れているのを優に見せないように強く抱きしめながら、あまりに異様な光の行動に混乱するばかりだった。



優をなだめすかして寝かしつけてから、橘は光の新しい病室に行った。光は指に包帯を巻き、今は穏やかに眠っていた。
一体なんなのかさっぱりわからなかった。光の前に病室のドアには光の血がべっとりとついていた。どうやら必死でドアを引っ掻いたらしく、はがれた爪も落ちていた。部屋にあったイスをドアに投げつけたあともあった。なぜそんなに必死で部屋から出ようとしたのかわからないが、それよりもっとわからないのは、光が始終叫んでいた「太一が呼んでる、いってしまう」という言葉だった。そして麻酔で眠ってしまう直前に、「優」と呼んだこと。記憶を失って以来、光は「優ちゃん」と呼んでいた。どういうことだろう。記憶が戻ったのだろうか。記憶が戻って何か大切なことを思い出したのだろうか。
どんなに考えても答えは出なかった。もう疲れ果てて脳が正常に機能していなかった。光のことは任せてもう休め、といわれたので、その言葉に甘えることにした。
今日は大変なことがありすぎた。光のマンションに行き、光が倒れ、施設に運び込んで、落ち着いたかと思ったら突然太一の名前を泣き叫び…。夜が明けるまでに、もう何も起きないことを祈って、やたらと重いまぶたを閉じた。腕についた光の爪のあとがじんじんと痛んだ。




第9話


目の前を、誰かが走っていく。ただ追いかける。だんだんと距離が広がっていく。と、かちゃんと何かが落ちる音がしてそれを拾っていると、緑色の何かがその「誰か」をかき消した。


「…さん…光さん!!」
誰かの声ではっと目を覚ますと、心配そうな顔が二つあった。明らかに寝不足な橘と、少し泣いたような顔をした優。
光は額にびっしょりと汗をかいていた。体を起こそうとベットに手をつき力を入れると、ものすごい痛みが走った。ふと見ると、指に包帯が巻かれている。不思議に思いながら、今度は恐る恐る体を起こす。
「あの…この手は…?」
光が尋ねると、橘は怪訝そうに光を見た。
「覚えてないの?」
「え…?」
「うそでしょ…」
橘は脱力したように、がっくりと座り込んだ。光はわけがわからなくて、橘にたずねる。
「あの、どういうことですか…?」
「…あなた、昨日大変だったのよ。ものすごいドアを引っかいて、爪がはがれるまでね」
橘はちらりと光の指を見て、またはなし続ける。
「部屋から出たと思ったらものすごく叫んだの。…ずっと、太一さんの名前を呼んでたわ」
「私が…?」
光はものすごいショックを受けた。自分が彼を呼んでいた…?彼のことを、まったく覚えていない自分が…?
「…本当に、何も覚えてないの…?」
「…はい」
「そう…」
橘は残念そうに顔を伏せた。光は申し訳なくて仕方がなかった。おそらく、昨日は迷惑をかけてしまったんだろう。それなのに、何も覚えてないなんて。
「ゴメンナサイ…」
「ううん、いいのよ。あせる必要はないわ」
橘が少し微笑む。そして、優のほうを見て言った。
「ねぇ、優ちゃん。三田君、わかる?」
「あのめがねのお兄ちゃん?」
「そうよ。あのね、あのおにいちゃん、すごく寂しがりやさんなの。一人じゃ寂しいだろうから、行ってあげてくれる?それで、光さんが目を覚ましたって伝えて」
「はーい」
優はとことこと部屋から出て行った。
優を見送ってから、橘は光のほうに向き直った。彼女は優をあえて追い出したことは明らかだった。
橘はふうと息をついてから光を見、ゆっくりと話し始めた。
「あのね、光さん。今朝はやく、あなたのご両親が来られたの」
「えっ!?」
「…ご両親は、太一さんとあなたの交際を反対してたわ。覚えてる?」
「…家を飛び出してきたことは覚えてます。でも、なぜかは覚えてないんです…」
「そう…とにかく、ご両親は、太一さんのことを覚えてないんならちょうどいい、光を連れて帰る、っておっしゃってるのよ。あなたはまだ寝ていたから、とりあえずは帰ってもらったんだけど…きっと、また明日来られると思うわ」
橘は静かに、しかしはっきりとした口調で光に問いかける。
「あなたはどうしたい?ご両親と一緒に帰りたい?」
「イヤです!!私は…太一さんのことも、優ちゃんのことも思い出したいんです…」
「そういうと思った。でもね、光さん」
橘は真剣そのものの表情で光を見ている。今まで見てことがないほど、真剣な顔だった。
「記憶を取り戻せば、あなたはきっと、とても辛いことを思い出す。思い出すことがあなたにとっていいことかどうかはわからないわ。それで…よく考えてほしいの。記憶を取り戻すことは、あなたにとってとても辛いこと。もし…それに耐え切れないと思うのなら…もう、このまま生きていってほしいの」
光は驚いた。まさか、そんなことを言われるとは思っていなかったのだ。光はあわてて反論する。
「そんな…!!それじゃ、優ちゃんはどうなるんですか!?」
「ご両親は、優ちゃんも引き取るといっておられるわ」
「それでも…!!私は、思い出したいんです!!」
「待って、光さん」
橘は手を上げて光の言葉をさえぎった。
「今すぐ答えを出さなくてもいいの。ゆっくりと考えて。私たちは、あなたが決めたことには反対しないわ。どうしても思い出すって言うのなら精一杯協力するし、もし、もういいのなら…」
橘は立ち上がり、ドアに手をかけた。そして、こちらを見ないで背を向けたまま、
「私たちは反対しない。あなたにとってどうすることが一番いいか、よく考えて」
と静かにいうと、部屋から出て行った。




どうすればいいのだろう。
光は一人で頭を抱え込んでいた。今までは、ただ思い出したい一心でいた。だが、思い出せばつらい現実に直面するのは確かだろう。自分が愛した人はもう、この世にはいない。まずそれを思い知らされる。そして、事故現場を…自分が記憶を失うほどショックだった事故現場を。私はそれに、耐えられるだろうか。
昨日太一の名前を呼んだことにも、まったく覚えがなかった。どういうことだろう。昨晩、記憶を取り戻したのだろうか。なら、何で今は覚えていない?光は唇を噛む。太一の記憶を、夢の中に置き忘れてきてしまった。また同じ夢を見れば、思い出せるのだろうか。
「…ああ、もうっ!!」
光はバンと机をたたいた。机の上に置いた花瓶がカタカタと音を立てる。光は少し乱れた息を整えながら髪をかき上げた。最近、どうもいらいらしていていけない。そう橘に相談すると、それは精神が不安定な証拠だといっていた。何かあったらいつでも相談してね、と笑っていた。
…そう、笑っていた。優しい笑顔。いつでも優しく、自分を包み込んでくれた。そんな橘が、さっきは光を突き放すような言い方をした。
もう、嫌気がさしたのだろうか。手間ばかりかけて、その上何もおぼえていない自分に嫌気がさして、見放されたのだろうか。そう思うと、光は突然怖くなった。これからどうすればいいのだろう。自分の支えであった太一はもういない。そして、現在の支えだった橘にも見放された。優のことは大好きだけど、こんな中途半端な状態ではきっと面倒は見ていけない。もう、記憶はあきらめて親のところへ帰ったほうがいいのだろうか。太一のことも優のことももう忘れて、今から大学に行き直して、もう一度やり直していく。だんだんと年老いてくる両親を介護しながら、お見合いで知り合った男と結婚して、子供を二人ぐらいもうけて、一人の母親として死ぬまでずっと同じ生活をして…。
寒気がした。鳥肌が立った腕をそっとさする。自分はどうしたいのだろう。本当に太一のことを思い出したいのだろうか。
もう何がなんだかわからなかった。何も考えられない。ただ心細くて、悲しくて、光はただただ泣いた。大粒の雫がぽたぽたと零れ落ち、どうしてもとまらなかった。



誰か、私を助けて…



                ◇


「ねぇ、大輔」
優はさっきから三田の白衣のすそを引っ張っている。三田は困ったように優を見た。何で橘は「真奈美先生」で自分は「大輔」なんだろう。自分と2つしか違わないのに、どうしてもそういう、大きい人に見られる橘がうらやましかった。
「真奈美先生のところに行かなくてもいいの?」
「あのね、優ちゃん。俺にも仕事があるんだよ。真奈美先生は真奈美先生の仕事をしてるから、俺が手伝わなくても大丈夫だよ」
俺、なんていったのは結構久しぶりな気がする。仕事中はそういう、「自分」を出すことを自分で禁じていた。それは、橘を見て学んだことだった。彼女も仕事中は必ず「私」というが、本当は「あたし」だと知っていた。橘とは高校から同じだったのだ。そのときからしっかりとしていて、頼れる存在だったことを覚えている。
「ねぇ、大輔。今日ね、光のお父さんとお母さんが来たよね」
「あれ、知ってたの?」
「うん。あのね、あの人たちね、光のこと連れて帰っちゃうんだって」
三田は驚いた。自分がそんなこと知らなかったもあるが、何よりも、なぜ優が知っているのかが不思議だった。そして、それを知っても泣いたりしない優が。
「どうしてそんなこと知ってるの?」
「真奈美先生に聞いたの」
思わず目を見開く。橘はもともと患者を傷つけまいと極度の注意を図るタイプだった。そして、もっとも過敏になるのが子供への応対だった。傷つきやすく、言葉の意味を間違えて捕らえやすい子供には刺激を与えるようなことはほとんど言わないのに、なぜ優が最大にショックを受けそうなことを話したのだろう。
「橘先生、なんていってた!?」
思わず急き込んで話した三田に、優がびくっとなる。三田ははっとして、少し黙り込んだ。優はおずおずと三田を見上げている。少し息を吸って、今度は優しい口調で話しかける。
「…なんて、言ってたのかな」
「…光がもし…帰りたいって言ったら、それが光にとっていいことだから、とめちゃだめだよ、って…」
優の声は最後のほうが涙声だった。三田はそれを、ただつらい気持ちで見ていた。優にとってそれは、光との別れを意味するのだろう。それを、こんな小さな子が受け止めようとしている。光のためを思って。

2004/08/29(Sun)00:24:13 公開 /
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■作者からのメッセージ
こんばんわ。
新連載始めました。もう片方のほうがなかなか思い浮かばないので;

時間の都合上、当分丁寧に返信をすることができなくなると思います。まことに申し訳ありません。


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