『贈り物 (後編・完結)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:明太子                

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後編 


   6

 夜更けに部屋の呼び鈴が鳴った。
 今や、こんな時間帯に物音がするだけでも心臓が止まるほどの反応を示していたが、今この時間のこの音だけは別だった。僕はそれが鳴ることを予想していた。
 というより、待っていた。
 誰だか分かっていたので、僕は黙って玄関に出て扉を開けた。
 扉の向こうには、バイトを終えた綾が立っていた。
「ねえ、何があったの?」
 自転車を全速力で走らせてきたのか、扉を開けるなりそう口を開いた綾の顔が紅潮していた。彼女が顔を赤らめると、肌が本当に美しい桃色に染まる。この色だけは誰にも出せないだろう、と少し誇らしげな気分でそれを眺める。
「まあ、あがって下さいよ」
 僕はそう言って彼女を部屋の中に招き入れた。
 当然ながら今日一日僕にあった出来事など何も知らない彼女は、真っ先に今まで甕が置いてあったスペースに目を向けて「あっ!」と大きな叫び声を上げた。僕は慌てて右手で彼女の口を塞ぎ、左手の人差し指を突き立てて自分の口の前にやった。
「バカ、夜中だっての」
 僕が小声で言うと彼女は大きく頷き、僕が彼女の口から手を離すと彼女は自分の人差し指を口に持っていって同じポーズをとった。
「ちょっと、どういうことよ」
 その口調に明らかに怒りを含ませつつも、綾はなぜか僕の耳元に顔を近づけて囁いた。
「いや、そこまで静かにしなくてもいいんだけど」
「話を逸らすな。バイト休んで一人で全部食べたってわけ?」
 そんな理由でバイトを休む奴がいるのなら是非お目にかかりたいものである。でも今は綾のまるっきり見当違いの解釈が心地良く、それだけで抱きしめたい衝動に駆られたが、その行動は客観的に見れば、綾が普段繰り出す行動と何ら変わりがないほど脈絡のないものに見えるはずなので思いとどまった。常に彼女を突っ込む立場に留まる、というのが自分に課した約束事だった。
 僕は彼女を抱きしめる代わりに、
「バカかおまえは。食っただけなら入れ物は残るだろう」
 と答えた。綾は、甕が置いてあった場所と僕の顔を交互に見較べて、未だ納得がいかないという顔をしていた。
「じゃあどうしたのよ」
「警察に持っていった」
「え?」
 彼女の表情が変わり、僕はようやく機会を得て彼女に一部始終を説明した。律儀に小声で相槌を打つ彼女につられて、こちらも囁くような声で説明を続けた。
「……で、二人とも俺の元同級生で、二人ともバラバラ殺人で首だけなくて、甕がタイミングよく二つやってきた。となったら、綾だったらどういう想像するよ?」
 僕は綾を少し怖がらせてやろうという悪戯心も湧いてそう問いかけてみたが、彼女はぽかんと口を半開きにしたまま、間の抜けた表情で僕のことを黙って見つめていた。どうやら閃くものが何もないらしかった。
 やはり僕の想像が飛躍しすぎていただけなのだろうか。実際に外れているだけに、綾の感覚がおかしいのだ、と自信を持って結論付けることができなかった。
「いいやいいや、ごめん」僕は顔の前で手を振って自分の質問を打ち消した。「とりあえず、俺はこの甕にその首が入ってるんじゃないかって想像してさ、後先考えずに通報しちゃったんだ」
 僕が先に答えを言うと、綾が表情を強張らせた。みるみるその顔面が蒼白になっていく。彼女の顔色は本当に芸術品だと思う。
「そうだよ! それ絶対首が入ってるって!」
 彼女が僕の腕を掴んで揺さぶった。その顔には演技ではない、真の恐怖に慄(おのの)く色が映し出されていた。それでも小声をキープするルールはしっかりと守っていた。
「いや、それが入ってなかったのよ」
 綾と話していると、今日一日の出来事が夢だったように思えてくる。僕もこんな軽いノリで説明していいのか、という不安が頭をもたげるのは避けられなかったが、それくらいは許してもらっても良いだろう。誰に許しを乞うているのか分からないが。
 しばらく、綾との会話に漂うコメディタッチの余韻に浸っていたかったが、残念ながら話はまだ続いた。僕は警察署に呼び出されたことやそこでの刑事との遣り取りも詳細に説明した。綾はいちいち大きく頷いてそれを聞いていたが、僕が受けた緊張感が伝わったかどうかという点には自信がなかった。
 それ以降を綾に打ち明けるかどうかはかなり迷った。ここから先の話は、普通であれば、聞いてしまった以上警察に通報しようと僕を説得するのが当たり前だろう。しかし僕はそのような言葉を聞きたくなかった。少なくともエースケと一度会うまでは、警察に言わないと決めたのだ。それが、この忌まわしき「非日常」から、本当の意味で抜け出せる唯一の方法だと思ったからだった。
 しかし結局、綾にこのことを話さない、という結論はあり得なかった。僕は、室内電話の横に置いてあった同窓会の招待状を取って彼女に見せた。
 彼女はそれを手に取り、長いことそこに書いてある文面を読んでいた。時折葉書を裏返したり中を開いてみたり、何故か上下逆さまにしてみたりしながら、物音一つたてずにそれを読み続けた。
 それは本当に長い時間だった。僕は何も補足することなく、ただ彼女の第一声を待った。
 彼女が葉書から顔を上げた。こちらを睨みつけるように見る。
「……で、行くんだ」
 彼女の第一声。
「ああ」
 その落ち着いた物言いと強い眼差しから、どうやら彼女は全てを察したらしいと悟った。
「じゃ私も行く」
 第二声。
 目だけでも通じたであろう、心地良い会話はここで崩れた。
「いやいや、それはダメだって」
 僕は即座に拒否した。
「なんで?」
「危ない……かもしれない」
「ダイゴだって危ないじゃん」
「俺はしょうがないんだよ」
 何がしょうがないのかよく分からなかったが、僕はそう答えた。
「じゃあ私だってしょうがないよ」
 何がしょうがないのかよく分からなかった。しかし、一心同体、とまではいかないかもしれないが、喜びも苦しみも分かち合って、常に対等であり続けよう、という彼女の思いだけは痛いほど伝わってきた。
 僕は腕を組んで沈黙し、視線を綾から外した。その先にある、ヤニで汚れた壁には僕の好きなヒップホップグループのポスターが貼ってあって、セロテープで何度も貼ったり剥がしたりしているものだから、四隅がテープごと持っていかれて三角形に白くなったり欠けたりしている。あのポスターの後ろだけはきっと壁が白いんだろうな、と関係ないことを考えている自分に気づいて、僕は再び視線を綾に向けた。
 結論はもう出ていた。
「何かあったら私が助けてあげるよ」
 綾が言った。
 ちゃんちゃらおかしい、とはこのことだろう。「誰が誰を助けるって?」と、いつもならそう言って大声で笑い飛ばし、綾を怒らせて遊んでいるところだ。それに僕は死なない。絶対に死なない。帰りの切符が挟まれていたから、という表面的事実から判断しているのではなくて、僕にはその自信があった――というよりも、ただ死なないことが分かっていた。
 でも言葉は時に、それそのものにはあまり意味がなくて、それを発する意思が伝わった時に相手を動かしたりするものなのだ。
 だから僕は何も言わずに、小さく頷いた。
 綾はニッコリと笑って僕にしばらく抱きついたあと、僕から離れて、明日の昼に出るなら準備しないと、と言って帰り支度を始めた。抱き合っていた時間はほんの僅かだった。もっと長く続いてほしいと思う時間は何と早く過ぎることか。その逆の心境を味わった直後だっただけに尚更だった。
 僕は、そんなことないだろうと分かっていながらも、帰り道で殺されるかもしれいよ、と彼女を脅かしてみたら、
「そんなこと言ってたらキリがないって。どうせいつか死ぬんだから」
 と鼻に皺を寄せ、目を強く瞑っておどけてみせた。まさか綾からこんな言葉が飛び出るとは思ってもみなかったので、僕は少なからず驚いた。
「明日、十一時に直接駅で待ち合わせしよう。じゃあね」
 そう言って彼女は自転車を漕いで颯爽と夜の闇に溶けていった。
 僕はこの時、帰ってきたら合い鍵を彼女に渡そう、と初めて思った。

 駅で待っていると、綾が傘を畳みながらすぐにやって来た。ぷよぷよした二の腕を曝け出したきつめのTシャツにジーンズという軽装で、腕からは黄色いトートバッグを提げていた。
 そのトートバッグのポケットから、サングラスが裸のまま差し込まれているのが見えた。綾がサングラスをかけている姿など一度もお目にかかったことはなかった。
「これ何」
「え? まあ、変装用というか」
 尤も、サングラス程度ならかけていたって違和感もなく問題ない。しかし僕は嫌な予感がしてそのポケットに手をかけてその奥を覗き込んだ。
「わあ、何すんの」
 やはりあった。
「おい、こんなもん絶対使うなよ!」
 僕はバッグのポケットの奥から封の切られていない医療用のマスクを取り出し、綾の前でそれをひらひらと振ってみせた。
「えー、せっかく買ってきたのに。勿体ない」
「アホか」
 勿体なくなんかない、マスクを買ってきた意味はもう充分にあった。
 みどりの窓口で問い合わせると、エースケから送られてきたグリーン車の座席の隣が空いていた。その座席が空いていなければ自由席に乗るつもりだったが、その必要もなくなったのでグリーン車の切符を買い、金はおとなしく折半した。僕が全額奢ろうとすると彼女が烈火の如く怒り出すのが分かっていたからだ、
 キオスクで自分用の缶ビールと、綾用のお茶を買ってから、すでにホームで待機していた車両に乗り込んだ。
「すごいね、グリーン車ってこんなにシートが違うんだ」
 綾が無理してはしゃいだ声を出し、尻を浮き沈みさせながらその反発力を確かめていた。その声の震えは隠しようがなく、僕はどことなく不憫な思いに駆られた。
「そういえば、二人で遠出するのって初めてじゃない?」
 綾は、自分の声の震えがまるで僕に悟られていないかのように、高いテンションを装って尋ねた。
「そうかもな」
「デートだってろくにしたことないからね」
「まあ、俺出不精だからなあ」
「え? 別に太ってないじゃん」
 僕は一瞬耳を疑って彼女を見た。真顔でこちらを見ている。どうやら冗談で言ったのではないようだった。
「おいおい、今の会話、周りに聞かれてねえだろうな」
 僕はそう言って席を立ち、周囲を見回してみた。幸いにもグリーン車の乗客はまばらで、近くに誰もいなかったので聞かれてはいないようだった。ふと自分の行動を振り返って、はしゃぎすぎた自分を窘(たしな)める。はしゃぐのは決して悪いことではないと思うし、綾がいるからこそそんなことができたのだと思う。しかし、綾を連れてきたのが果たして正解だったのかどうか、その根本に辿り着いてみるとやはりはしゃいでいる場合ではないのだ。
 僕は買った缶ビールを手にし、喉を開いて一気に流し込んだ。あまりに量の少ないショート缶は発車前になくなってしまった。僕は舌打ちしながら空になったアルミ缶を握りつぶした。
「うそ、もうなくなったの? 新しいの買ってこよっか?」
「いいよ、もう時間もないし」
 僕も元来、新幹線に乗るというだけで胸が高鳴るほどの単純な人間である。これがただの旅行だったらどんなに楽しいだろう、なんてことをつい考えてしまう。それを考えれば考えるほど気が滅入るというのに。
 ほどなくして新幹線が動き出した。
 エースケに会いに行くという決断と、綾を連れて行くという決断。
 腹を括ったはずなのに、いつまでも消えない不安だけを乗せて。



   7

 新幹線が動きはじめてからしばらくの間、綾とは駅についてからの行動を相談した。サングラスとマスクを持参してきた彼女は、さすがに一緒に「同窓会」に出席するのはまずいということを初めから理解していて、僕を尾行しながらどこかで時間を潰すと言った。
「尾行ってどうやってやるんだよ」
「まあ、任せといて」
 彼女が自信満々に答えるので、
「……じゃあ、任せた。ただ、俺らがどこかの店に入った時はくれぐれも後から入ってくるなよ」
 とだけ念を押したら怪訝そうに眉間に皺を寄せた。思った通り、尾行の何たるかはよく理解していなかったようだが、実は僕もなぜそれがまずいことなのか、確固たる理由を持ち合わせていなかったので、僕はその漠然とした危険性を訥訥(とつとつ)と説明した。カウンターだけの狭い店だったら間違いなく見つかる、という説を持ち出したあたりで彼女が大きく首を縦に振った。何とか納得してもらえたようだったので、僕は馬脚を現す前に説明を打ち切った。
 綾が僕に要求したのはただ一点、携帯電話の電源を入れたままにしておいて、彼女が電話をかけた時にはすぐに出てすぐに切れ、ということだった。僕の身の安全をそれで確認するのだ、と言った彼女の思い詰めたような顔を見ていたら、何も言い返せなくなってしまった。
 穏やかでない相談が終わると、それ以降お互い声をかけることすら憚られるほどピリピリした空気が僕たちの間を漂い、会話が自然と無くなっていった。
 綾はいつも買っているファッション雑誌のページをぱらぱらと繰っては戻したりとせわしなく手を動かし、テーブルに置いたお茶に頻繁に口をつけている。元々じっくり読む類の雑誌でないことは知っているが、それでも内容が全く頭に入っていないことは隣にいても痛いほど伝わってきた。
 僕は、窓の外の景色、というより電線をずっと眺めていた。一つの鉄塔から伸びたそれは、中途で緩やかにたわんで、また次の鉄塔に向けてぴんと張る。田んぼの海の真ん中にぽつねんと、はたまた木が生い茂った山の中腹に忽然と、鉄塔たちは場所を選ばず、電線という縄張りを巡らせて世界を支配するかのように聳え立っている。時折トンネルに入ってその連続性は途切れるが、電線だけを見ているとそれが本当に延々と繋がっていることが分かる。
 世の中は繋がっているのだ。僕はこの電線を通して故郷へと導かれている。
 やがて電線にも陶酔にも飽きて、その遥か下方にちらりと目を遣ると、田んぼの間を真っ直ぐな亀裂のように走る、軽自動車がギリギリ通れるほどの細い舗装道路を、一人の男性と一匹の犬が歩いている姿が見えた。
 男性は、年齢のほどまでは判別できないがあまり若そうには見えない。犬は柴犬と思しき色と大きさで、首輪などで繋がれずに、男性の前を自由気儘に駆けては立ち止まり、また男性の許へ戻ってじゃれる。男性はそんな柴犬にペースを乱されることなく、手を後ろに組んでゆったりと一定のペースで歩いていた。
 エースケが飼っていた犬もあんな感じだったと思い出す。
 名前はピンタで、彼の唯一の友達、だっけ。
 彼の家は金持ちで、驚くほど広い庭を持った豪邸に住んでいたと記憶している。そんな彼の家に遊びに行ったことは何回あっただろうか。二、三度は訪れているような気もしたが、何せ最初の一回が強烈に印象に残ってしまって、単数か複数かさえ定かではなくなっていた。

 ――こいつ、ピンタっていうんだ。
 ――俺、犬苦手なんだけど。
 ――こいつは大丈夫だよ。俺にとって敵か味方かってのをちゃんと解ってるんだ。だからダイゴには絶対吠えたりしないから。
 ――へえ。しかし、こんな家だから、ドーベルマンとか飼ってるのかと思った。
 ――あはは。でもやっぱり柴犬が一番かわいいと思うな。それに頭もいいんだ。
 ――お手とかするの?
 ――そんなの当たり前だよ。やってみな。
 ――お手。
 ――ほら。
 ――おお、すげえ、生まれて初めてお手された。なんかかわいいなあ。本当に人間の言葉が解ってるみたいだ。
 ――だろ? それにさ、柴犬ってなんか一番性格が良さそうな気がするんだよね。そんな気しない?
 ――さあ。それ「忠犬」ってこと?
 ――うーん、いや、ちょっと違うなあ。そういう上下関係じゃなくて、もっとこう、信頼できる友達みたいな、そうそう、友達だよ!
 ――友達かあ。
 ――前もさ、こいつと散歩してた時にトモキと阿部にばったり会っちゃってさ。また何かされるんじゃないか、ってビクビク震えてたら、ピンタが吠えかかって二人を蹴散らしてくれたんだよ。
 ――へえ、それはすごいな。
 ――もしかしたらピンタのヤツ、トモキには噛み付いてたかもしれないな。あいつ叫びながら走って逃げていったよ。ダイゴにも見せたかったなあ。
 ――でもさあ、そんなことしたらまた仕返しされるんじゃないの?
 ――そんなの関係ないよ。どうせそんなことがなくたって、やられることには変わりないんだから。
 ――うーん、確かにそうか……あ、ごめん。
 ――いいよ、本当のことなんだから。それ以来、こいつとは切っても切れない仲でね。今の俺には、友達はピンタしかいないから。なあ、ピンタ。
 その呼びかけに応じるようにピンタがエースケの許へ駆け寄って、前脚を上げてじゃれついた。
 ――うわ、すげえ。本当に言葉解ってるんじゃないの? ……でもお前、そういう悲しいこと言うなよ。
 ――あ、ごめんごめん、ダイゴも友達だよ。
 ――いや、そういう意味じゃなくて……でも、うん、ありがとう。
 ――ほら、ピンタもダイゴに尻尾振ってる。友達って認めた証拠だな。な、ピンタ?
 ピンタが一つ、嬉しそうに吠えた。犬嫌いな僕でさえ、それが嬉しさを表現した声だということを確信できるほどに、それは深く僕の心に刻まれた。
 何せ、今でも思い出せるくらいなのだから。

「おい! もう着くよ」
 綾の声と共に、頭に軽い衝撃をおぼえて目を覚ました。雑誌で頭を叩かれたのだと判った。
「おお、サンキュ」
「怖いよ、目開いてたよ」
 彼女にそう言われた僕は、眠っていたのか起きていたのかさえもよくわからない感覚に包まれていた。
 頭を振って脳に喝をいれた。そして、ふと今しがたの雑誌の当たり具合を思い出し、僕を叩く綾の手は震えていたのではないかという気がした。
 ちらと彼女を見やると、彼女は前の座席の背もたれのてっぺんに肘を置いて、所在なさげに自席から腰をあげた状態で立っている。
 僕は彼女に向かって、
「よし、もうここから分かれよう」
 と言った。その一言を発するには、やはりある程度の踏ん切りを必要とした。
「えっ?」
「待ち合わせがここの駅前だから、もう一緒にいない方がいいと思うんだ。だから、先に出てくれ」
「うん……」
 綾は、名残惜しそうな目線を僕に呉れてから、一大決心をするように振り返って乗降口へ向かった。
 僕が、人間ではエースケの唯一の友達だから大丈夫、と一言伝えてもいいかな、と考えて彼女を呼びとめようとした時には新幹線はもう完全に停車して、扉が開いてしまった。
 僕は時間を置いてから乗降口へ向かい、しばらくそこで時間を計るようにして立ち止まり、発車のベルが鳴り始めてからホームへと足を踏み出した。
 自分でも苛苛するほどゆっくりした足取りで下りの階段へ向かうと、階段を下りきったところで綾がこちらを向いて立っていて、僕の姿を認めるや、逃げるように駆け出して視界から消えていった。
 改札口を出て、待ち合わせ場所に指定された、駅前広場の噴水付近に歩を進める。さり気なく周囲をぐるりと見回してみたが、綾の姿はもうどこにも確認できなかった。
 エースケが来ているのかいないのかもわからないので、僕はとりあえず噴水脇の石段に腰を掛けた。一旦タバコと携帯灰皿を取り出して、もしここが喫煙禁止区域になっていたら、という不安が過ってすぐに仕舞った。駅前ではタバコを吸いづらくなった、などと日常的な愚痴をこぼしてみる。
 一回大きく深呼吸した。
 もう一度周囲を見回す。新幹線が停車する駅ということで、駅舎も立派で駅前広場も広い。場所だけみれば一大ターミナルのようだが、何より人の少なさが致命的で、その広さは閑散とした空気を無駄に強調しているに過ぎなかった。昔と何も変わっていない。
 向かって正面に見える、車待ちの人の姿もなく、人待ちの車の姿もなく、ただ標識だけが寂しげに立っているという奇妙な光景のタクシー乗降場に、一台のタクシーが滑り込んだ。降りてきた若い男性客が、降りてすぐさまタバコに火をつけて歩き出したのを見かけて、大衆心理に動かされた僕は反射的にポケットからタバコと携帯灰皿を再び取り出した。
「ダイゴ」
 不意に脇から声をかけられて、僕はそれらを手にしたまま、背後から心臓を木槌で叩かれたかのような衝撃と共に、咄嗟に起立した。
 声の主は涼やかな笑みを湛えながら、駅舎を背にして立っていた。

 細身で背が高く、髪もさっぱり刈り込んで高級そうなカジュアルスーツを着こなした彼はいかにもエリート然とした佇まいであるが、その表情にはどこかあどけなさを残している。
 チビ、チビ、と苛められて泣いてばかりいたあのエースケが今、僕よりも背が伸びて、見上げるほどの高さになって目の前に居る。
 この優男が、二人も殺した上に身体をバラバラにして、頭部を切断したのだろうか。そうだとしたら、彼は復讐の炎を燃やして積年の恨みを晴らしたのか、それとも僕がこの地を離れてから、エースケと殺された二人との間に何かがあったのか。
 色々な思いが頭を駆け巡るが、それがはっきりしたところで、その先にあるものは何も見えない。
 僕は彼に会って、これから何をしようというのだろうか。

「あの……桜井?」
 頭の中ではすでにエースケ。しかしいざ当人を目の前にすると、どう呼んでいいのかわからなくなった。
「やめてくれよ。エースケでいいよ」
 そう言って彼は僕に寄ってきた。一瞬怯んで後ずさりしたくなる気持ちを何とか抑えて踏みとどまった。
「久しぶりだなあ」
 彼は十年近く会っていない僕に臆することなく、軽く抱擁して背中をぽんぽんと叩いて僕から離れた。その顔からは白い歯がこぼれていた。
 目だけが笑っていない、ということでは決してなかった。それは本心から湧き上がる笑顔のように見えた。でも僕はその笑顔に素直に馴染むことができなかった。
 彼が殺人者だからではない。
 それは殺人者の顔というより、死人の顔のように見えた。



   8

 エースケを前にして僕は頭が真っ白になった。尤も、彼を前にして饒舌になれる方がどうかしているわけで、こうなることは分かりきっていたと言えばそうなのであるが、その感覚は『予想通り』というものとは程遠い。
「近くに店借り切ってるんだ。そこ行こう」
 他の同級生はどこに、なんて彼に訊くのも野暮だろう。同窓会は、二人だけで執り行われるのだ。これも初めから分かりきっていたことだ。
「あれ?」エースケは不意に辺りをきょろきょろと見回しはじめた。「彼女は? 彼女も一緒でもいいぜ、別に」
「えっ?」
 思考が一瞬停止する。その表情の変化にいちはやく気づいたのか、エースケが悪戯っぽく僕に笑いかけた。
「なんでそんな顔してんだよ。車内で一度目が合ったと思ったんだけどな。発車する前にダイゴがこっち向いたから」
 血の気がひいた。
 なぜ気がつかなかったのだろう。盗聴器を仕掛けたり、直接葉書を家に持ってきたりしていた男が指定した座席に、何も疑うことなく座るとは。同じ車両に乗っているなんていうのは、考えてみれば当たり前のことだ。
「ああ、あの、さすがに同窓会の邪魔になるだろうからって、どこかで時間潰すって言ってた」
 僕はようやくそれだけ言うことができた。果たして今さら、彼に対してこのような茶番を演じる意味があるのかどうかは多分に疑わしいが、エースケと会話するという意味ではちょうど良い練習になったかもしれない。これくらいのことで動揺していては、これから先一言も言葉を発することができないだろう。
 エースケは含み笑いしながら「まあいいや」と答えて、借り切っているという店へ僕を先導して歩き始めた。
 道すがら、エースケが皮の手提げ鞄をぶらぶらさせて歩くのを数歩後ろから目で追いながら、僕は空回りする頭で必死に考え、一つの安心できる推測を立てた。僕を『人質』に取っている以上、綾に危害を加える理由は何もないはずだ、と。その、おそらく外れてはいないであろう推測を拠り所に僕は気持ちを落ち着かせた。
 しかしそれは気持ちを落ち着かせる以上の効果があって、無駄に気分が大きくなってしまった僕は、彼にカマをかけてみることにした。
「あのさあ」
「なに?」
 前を歩くエースケが立ち止まり、律儀に百八十度振り返って僕を見た。
「いいのか、安心して」
「どういうこと?」
「だから、俺が警察張り込ませてないか、とかそういう心配はしないのかって」
 言ってすぐに後悔した。僕は努めて冗談であることをアピールしたつもりだったが、自分の顔がひきつっているのが目に見えるようだった。
 エースケは表情を消して立ち止まった。
「張り込ませてるのか?」
 彼は鼻息を一つ、勢いよく吐き出した。それに合わせて僕の心臓が一回だけ強く打った。
「いやいや、そういうわけじゃないんだけど」
「ならいいじゃないか。俺が何を心配することがある」エースケは、出会った時の柔らかい笑顔に戻って言った。「それにな。今この場で俺が捕まったとして、一番気が晴れないのはダイゴだ。そうだろう?」
 その通りだった。僕はそれ以上何も言わず、黙って彼のあとを歩いた。
 見上げると、空一面をモノクロに染める雲が低い位置で垂れ込め、息苦しさに拍車をかけるような天気だった。
 せめて空ぐらいは何の憂いもなく晴れ渡っていてくれよ、と僕は胸の内で思う。

 駅前の小さな繁華街の果てにある路地を左へ折れ、数十メートル進んだ右手にある、目立たない地下への階段を降りた突き当たりにその店はあった。重厚な扉には『本日貸切』の看板が掲げられている。
「こんな時間にやってるのか」
「今日は特別だよ、特別」
 エースケが、僕の何気ない問いかけにさりげなく答えた。それはまるで『普通の』友人同士の会話だった。僕の目の前で二つの異なる世界が往来していた。
 店に入るや否や、携帯電話がポケットの中で震えた。僕は慌ててそれを取り出し、かけてきたのが綾であることを確認してから電話を切った。おそらく地下で電話が繋がるかを確認したのだろうと思った。
「誰?」
「いや、まあ、その」
「彼女か」
 僕は仕方なく頷いた。エースケは、そうか、とだけ呟いて、別段それを気にしている風でもなかった。
 店内は、暗めの色をした壁で覆いつくされ、ただでさえ薄暗い中で明るさを絞った照明が落ち着いたムードを醸しだしており、綾なんかと飲みに来るのならば何ら申し分のない雰囲気だった。カウンター席と、その後ろにソファー席があり、総勢でも二十人は入らないだろうという小さな店だ。
「カウンターとソファー、どっちがいい?」
「じゃあカウンターで」
 普段ならソファーと答えるところだが、ここは迷わずカウンターだった。正面を向いていてエースケの顔が視界に入るポジションにはどうしても就きたくなかった。
 僕は、何となくカウンターの右端から二番目の高椅子に腰掛け、ケースケはその左隣に座った。気分的には一番右端に座りたかったところだが、さすがにそれは画的に敬遠したのだった。
 物静かな風情の口ひげを生やしたバーテンが、何かを言いたそうにしてこちらを向いていた。しばらくしてエースケがその気配に感づいた。
「あの、お二人様、でいらっしゃいますか?」
 バーテンが少し驚いた様子で、ためらいがちに口を開いた。
「そう。二人で貸切。金はもう払ってるんだからいいだろ?」
 エースケが、何を訝ることがあるのかとバーテンを非難するような口調で返した。
「はい。もちろんそれは結構でございます」
 バーテンは、極めて落ち着いた口調に戻ってそう返事をすると、僕たちとは反対側のカウンターの端に移動した。
 僕にとっては今さら驚く内容ではなかったが、今の遣り取りで退路を断たれたような、嫌な気分に襲われた。
「なんか飲み物。なんでも好きなもの頼んでいいよ」
 エースケが言った。そうだ。もう時間など気にせず、酒を飲んでしまえばいい。酔えばこの逃げ出したくなるような緊張からも若干は解放されるだろう。
 カウンターの向こうにある棚に目を遣ると、知らない銘柄の酒ばかりがずらりと並ぶ中で真っ先に飛び込んできたのはジャックダニエルの瓶だった。
「じゃあ、ジャックダニエルのロックで」
「いいね。俺も同じもので」
 エースケが嬉しそうに同意して、人差し指を立ててバーテンに注文した。バーテンは、特徴のない落ち着いた物言いで、かしこまりました、とこちらを見ずに返事をした。
 バーテンが二つのグラスにロックアイスを落とすのを眺めていると、再びポケットが振動した。第一回目のコールからおそらく二分と経っていない。
 僕は舌打ちしてポケットから携帯を取り出した。
「なんだ、また彼女か?」
「ああ。ごめん」
 僕は電話を切りながら答えた。
「いやいや、いいよ、別に」
 そう言ったエースケの、赤ん坊のように白く透き通った頬は明らかに痙攣していた。僕はその震える肌に慄然として、通話ボタンに指をかけ、折りたたんだ携帯電話が親指を挟むような状態にして、そのままポケットに仕舞った。右手が完全に塞がってしまったが、電源を切るわけにもいかないしこうする他に術が見つからなかった。
 それによく考えてみれば、この交信は逆に、綾の無事を確認できる恰好の手段でもあるのだ。
 注文した酒と、付け出しのミックスナッツがテーブルに置かれた。僕はそれを左手で持ってエースケの前に掲げた。
「それじゃあ、九年、いや十年か? ぶりの、再会に乾杯」
 エースケがそう言ってグラスを合わせた。僕はグラスが当たるのを確認すると、少し勢いをつけて半分ほど口に含んだ。
「飲むの速いな。まあ、飲み放題にしてあるから、気にせず飲んでいいけど」
 エースケが僕のグラスを覗きこんで言った。当の彼は、飲んだのか飲んでないのかわからないほど、見た目の量は減っていなかった。おそらく、一滴舐めた程度だろう。
 彼はしばらくグラスを薄暗い照明にかざして、その琥珀色の輝きを楽しむように眺めていた。その間、僕は当然何も言わない。向こうから何かを切り出してくるまで、こちらから疑問をぶつけるという発想は微塵も湧かない。これほど会話のきっかけが掴めない瞬間は今までに経験したことがなかった。
「さて」エースケが、相変わらずグラスを恍惚の表情で眺めながら、大きく息を吐いた。「俺からの贈り物は気に入ってもらえたかな?」
 あまり気持ちのよくない以心伝心だが、確かに、まず話はそこからだ。
「そうだよ。あの甕何なんだよ」
 僕がそう言うと、彼はクックッと声を噛み殺したような笑いをあげた。
「何、って、漬物だよ。食べた? あれ美味いはずなんだけどな」
「食べるわけないだろう。それにお前、盗聴器ってどういうことだ」
 僕は念のため『盗聴器』という言葉だけ声を潜めて尋ねた。エースケは特に臆している様子もない。
「ああ、あれは悪いと思ってんだ。別にダイゴのプライベートを詮索したかったわけじゃないんだよ。ただ、二つ目の甕とか、同窓会の葉書とかを、持って行くタイミングを計るためだけに仕掛けたんだ。今日までずっとダイゴのストーカーみたいなことしちゃったけどさ、別にお前を愛してるわけじゃないから。そこは解ってほしいな」
 彼は平然と答えた。
 何かがおかしい。日本語はもちろん間違っていない。しかし、そこで「解ってほしい」と理解を求める感覚が、彼の内面を鮮明に映し出しているようで、強い抵抗を覚えた。彼は心の中に爆弾を内包している、と僕は直感的に思った。
 ポケットが再び振動した。僕はポケットの中で予め置いていた親指に力を込めて通話状態にし、そのまま親指で二つ隣のボタンを探って電話を切った。切ったあとにエースケの様子をうかがうと、彼は特段何かを気にしている様子でもなかったが、それでも間違いなく、今綾から電話がかかってきたことに気づいている、と僕は確信した。なぜ確信したのかはうまく説明できないけれど、今しがた背筋に走った悪寒の理由が他に思いつかなかった。
「あのタイミングは絶妙だっただろ?」
 僕は返事をしなかった。ここで「うん」と返事をする神経を僕は持ち合わせていない。そしてエースケも、僕の返事など最初から期待していなかったかのように、そのまま話を続けた。
「ただダイゴが事件との関連性にいつ気づくか、だけはどうにも予測できなかったからな。お前の頭の良さに期待してたんだけど、俺が予想してた最速スピードで気づきやがった。あれは感心したよ」
 全てエースケの掌の上で踊っていたということだ。これほど屈辱的な褒め言葉を僕は知らない。僕は、こんな時にもかかわらず変なプライドが呼び覚まされて、反論するかのように彼に尋ねた。
「もし俺が事件に気づかなかくて、そのままあの甕をそのまま警察に渡したりしてたらどうするつもりだったんだ?」
「そうならなかっただろ?」エースケは間髪入れずに答えた。「社会生活をしている以上、事件には遅かれ早かれ気づくとは思ってたし、ただのぬか漬けの甕を警察に持っていくなんて、そういう発想は生まれても行動には移さないだろうと思ってた。でも、もしそうなっていたら……そうだな、ちょっと荒っぽいやり方で、最終的に俺と会うように持っていく方法をとっただろうな」
「荒っぽいやり方?」
「例えば、彼女を人質にとるとか」
 彼は満面の笑みをこちらに向けた。不気味だった。
 そうすることは容易だっただろう。しかし僕はその言葉を聞いてむしろ安心した。今この場でエースケと会っている、つまり彼の目的が達成された以上、綾に危害を加える理由はもうない、と告白したようなもので、この店にたどり着くまでの間に立てていた推論を確固たるものにしてくれる発言だった。
 この話はもういい。あとは何だ。訊きたいことなんて山ほどあるはずなのに、なかなか思い浮かばない。
「そうだ」
 僕は思わず口に出してしまった。
「どうした」
「どうやって六車に持ってこさせたんだよ、俺ン家まで」
「ああ、あれね」エースケは再びグラスに口をつけた。中の液体の量はほとんど減らなかった。「簡単に操れる『道具』があるんだよ」
「道具」
 それが何のことだか分からなかったが、聞いても答えてくれなさそうな物言いだったので、僕はそのまま流した。
「それに、あの時六車の横に俺もいたりして」
 エースケはまた噛み殺した笑いを漏らした。
 自動的に、瞼の裏にあの時の光景が甦った。扉の陰に立つエースケの姿を想像して戦慄が走る。
 店内は沈黙に包まれていた。抑制された音量で流れる有線放送か何かのジャズが辛うじて僕を現実に引き戻してくれた。しばらくして、またグラスを持ち上げてじっと眺めていたエースケが「黄金比率」と呟いた。
「えっ?」
「いやね、このグラスに注がれたウイスキーと、空白との比率が美しいなあと思ってさ。だいたい二対八くらいかね、これ。ロックで飲むならやっぱシングルだよなあ」
 一瞬彼が何を言っているのか理解できなかった。そしてその内容を理解すると、今度はそれを発した目的が理解できない。沈黙を嫌っただけだろうか。
「俺、あれ警察に持っていったんだよ」
 僕はバーテンの様子を窺いながら、言葉を選びつつ何とか話の核心に迫ろうとした。
「ああ知ってる。聞いてたから」
 『聞いてた』。分かりきったことでも、改めて言われると気分が悪い。僕は一旦呼吸を整えた。
「そうしたらお前、発泡スチロールが入ってて、それがその……」
 僕はそこで言葉を止めてバーテンを見やった。その様子に気づいたエースケが、心配いらない、と僕を諭すように口を開いた。
「ああ、バーテンなら気にしなくていいよ。こういう店は、それを維持する秘訣ってもんがあってな。よほど決定的な発言をしたり、店内で暴れたりしない限り、彼は何も聞いてない、ってことになるんだよ」
 バーテンは、鷹揚な所作でグラスを拭いている。今の会話に聞き耳を立てている気配さえ感じさせなかった。
 僕はなるほどと少し感心して視線をエースケに向けると、またポケットが振動した。
 我慢の限界だった。このままのペースでやられては堪らないと思った僕は、決意して席を離れた。
「ちょっと、ゴメン。トイレ」
 エースケは返事をしなかった。僕はそのままバーテンに示された扉に駆け込んで電話に出た。
「おい」
「あれ? 何で出たの?」
 素っ頓狂な中にも神妙さが感じられる、今までに聞いたことのないような綾の声が電話の向こうから聞こえてきた。
「お前、ちょっとペースが早すぎるっての。せいぜい三十分か一時間に一回とかにしてくれよ」
「だって、電話切った直後に何かあったらどうするのよ!」
 必要以上の大声だ。綾も必死なのだろうと思った。
「そんなこと言い出したらキリがないだろう。俺は大丈夫だから。それより、無闇にあいつを刺激することになるからやめてくれ、頼むから」
 最後の言葉が効いたのか、綾は急に素直になって、うんわかった、と答えた。
「じゃあな」
 あまり長い時間を割くことはできない。僕は彼女に済まないと思いながらも乱暴に電話を切って、それでも念のため親指を挟んでおくことを忘れない。綾からの電話は、無視できないから厄介だ。無視すると、僕に何かあったと即断して警察に知らせるなりなんなりしてしまう可能性があった。僕は親指を挟んだまま携帯をポケットに仕舞い、席へ戻った。
 エースケの腕が震えていた。グラスを握るその手には渾身の力が込められているのが筋肉の動きでわかった。
 彼は僕が戻ってきたのを確認すると、神経質な人間の癖のように、鼻でフン、フン、と一定のリズムで強く息を吐き出した。それが彼の精神状態が平静でないことを何より物語っていた。
「ダイゴ、さ。まあ、あの、あんまり、気にしてないんだけどね」口を開いたエースケの声は、こちらが恐ろしくなるほど震えていた。「あのさ、もうちょっとさ、せっかくこうしてさ、久しぶりに会ってさ、話してるんだからさ、もっとこう、弁えてくれっていうか、こっちの身にもなってくれ、っていうか」
 彼の鼻息はまだ止まらなかった。この時、一瞬だけ死を予感させるような恐怖に包まれた。
「いや、すまん! 本当に申し訳ない」
「別に、気にしては、いないんだけどね。でもさ、これ、お前だから言うけどさ、気をつけて欲しいのはさ、俺、もう、感覚が、麻痺しちゃってるんだよな、色々と。いや、別に、お前にも、お前の彼女にも、何もする気はないんだけどな、この先どうなるか、自分でも、わかんないからさ」
 彼の呼吸は荒くなっていた。自分のペースの呼吸法の中で澱みなく話すという、人が普段無意識に行っていることが出来なくなっている証拠だ。
「わかった。わかった。もう電話しないように言ったから、大丈夫。本当にごめん」
 彼はまるで別人に変貌していた。それまでも、理解し難い科白など、その片鱗はちらちらと見せ付けられていたが、その全貌が一気に露出したような感じだった。
 僕は目の前に会ったジャックダニエルの残りを一気に飲み干して、バーテンにお代わりを注文した。一瞬でいいから、彼に近づいてきて欲しかったのだ。
 狙い通りに、空いたグラスを取りに来た時と、新しいオンザロックを持ってきた時の二度、バーテンが至近距離にやって来て『外界』との接触を確認すると僕は少しだけ平静を取り戻した。そしてそれは、エースケの精神状態さえも落ち着かせたようだった。 
「さっき『発泡スチロール』まで話したよ」
 落ち着いたらしきエースケが、ようやく鼻息を止めて、僕に口を開くタイミングを作った。
「ああ、うん」僕は、新しいジャックダニエルを口に含んで喉を潤した。「……で、その発泡スチロールが人の頭の形をしてた、って刑事が言ってたんだけど」
「本物の頭入れといて欲しかったのか?」
 エースケが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「いや、そうじゃないけど。あれ、何の意味があったんだよ」
「何の意味って、そのままの意味さ」
 エースケがグラスをコースターの上に置き、身体ごとこちらに傾けるようにして僕を見た。その眼は妖しく光っていた。
 やはり彼はすでに、僕が理解できる世界に住んではいない。
「お前に知って欲しかったんだ。俺が敵を討ったってことをな」
 話の核心へと突き進む号砲が鳴った。



   9

 号砲は鳴ったが、スタートは切らない。『敵』という意味深なキーワードを吐いたまま、エースケはなかなかその内容に迫ろうとはしなかった。僕ももちろん、それを急かすような発言ができるわけでもない。
「俺ら、よくいじめられたよなあ」
 エースケが、その科白の次に吐いたのはこんな言葉だった。その語尾の余韻が、不思議な魔力をもって時間を引き戻す。
 実は僕には『いじめられた』という自覚があまりない。確かに、プロレス技をかけられて泣いたりもしたけれど、それは単に痛いから泣いたのであって、そこに悲しみという感情は一片も混じっていなかった。僕が『いじめられていた』というのは、エースケに植えつけられた概念で、それを聞いても、なるほどそういう捉え方もあるのか、なら『いじめ』なんて大したことないな、と思った程度だった。尤も、それは当時の小学生が行う程度の、まだ悪質になる以前のものだったからかもしれない。
「そうだっけかなあ」
 だから僕は、ここはエースケに同調しておくべきだという計算も忘れて、そんな返事をしてしまった。
「そうだよ、何言ってんだよ」彼が僕の上腕を肘で小突く。しかしそれは紛れもなく、純粋に昔話に興じている人間の所作だった。「俺は、単に家が金持ちで、みんなと違う服装してたってのがいじめの発端だったな。よく覚えてるよ。ダイゴはなんでいじめられてたのか覚えてるか?」
「全然覚えてないなあ。力が弱かったからかな」
 彼の口調から、殺気のようなものが完全に消失してるのを敏感に察知した。そのせいか、僕も昔を懐かしむような緊張感のない口ぶりになっていく。
「そんなんじゃない。俺はよく覚えてる。お前がいじめられたのは、俺が『桜』井で、お前が『桃』山だからだよ。いわゆる『とばっちり』ってやつだな」
「何だそれ。そんな理由だった?」
「そうだよ。関係あるんだかないんだか、よくわかんない理由だけどな。まあ、ガキのいじめなんてそんなもんなんだろうな」
 思い返してみれば笑い話にもならないようなきっかけだ。しかしエースケが言う通り、子供とはそういうものなのだと思うし、現にそういう過去があったという事実には変わりがない。要は事故のようなものだ。
 ふと『梅』津綾のことを思う。しかしそこから発展していった仮想は、もしあのクラスに彼女がいたら、なとどいう暗いものではなくて、彼女は小学校時代も今とあまり性格が変わってないのだろうな、という、有難くも明るいものだった。そちらに導いてくれたのは言うまでもなく彼女のキャラクターだった。
 早く二人で新幹線に乗って帰りたい。グリーン車で。ビールを飲みながら。会話を弾ませて。
 その空想世界を打ち砕くようにエースケが口を開く。
「あの時、ああ見えても、俺はいじめには耐えてたんだよ。全部お前のおかげだった。俺が便器に顔を突っ込まれて泣き叫んでいる隣で、お前は同じように便器に顔を突っ込まれても、わあわあ笑いながら叫んでたじゃないか。俺はダイゴがいたことでどれだけ励まされたか」
「あったなあ」
「一緒に帰った時の、お前の言葉が忘れられないよ。俺がべそかいて歩いてる横でお前、『俺たち、お笑い芸人なんだよ。俺テレビ観て研究してる』だもんな。今だから言うけどあの時、ダイゴは本物のバカなんじゃないかって思ったよ。実は、今でもちょっと思ってるけどな」
「俺は本物のバカだよ」
 僕の頬を緩めることなく答えた。確か、便器に顔を突っ込まれたことについても、便器を洗浄するための水が汚いわけないじゃないか、なんて訳知り顔でエースケに主張したっけ。あれは励ましていたのではなくて、本当に水が綺麗だと思っていたのだ。
 束の間の逃避。束の間の同窓会。僕が何のためにここにいて、隣にいるのがどういう人物なのか、本当に失念しそうになると頭の奥で警告が鳴り響いた。
(攻めろ)
 教室の引き戸の上に黒板消しを挟むという古典的な悪戯に対しても、僕は廊下を歩いていてすでにそれに気づいていながら、わざと頭からかぶりにいったものだ。
(攻めろ)
 今思えば、あそこで『いじめ甲斐』を失わせていたからこそ、成長するにつれて悪質になっていくいじめを避けることができたのかもしれない。
(攻めろ)
 暗い過去であることには違いないが、それでも所詮過去は過去だ。こんな話題で盛り上がって、このままお開きになったらどんなに良いだろう。
(攻めろ)
「でもそれも真理を突いてるんだ。もし、本当にダイゴの『研究』の成果が出ていたら、あいつらも嘲笑じゃなくて、腹の底から面白くて笑うようになって、いじめは無くなってたかもしれないな、って思うよ。ただ、お前はその成果が表れる前に転校しちゃったし、俺はその後もそれができなかった。むしろ、お前がいなくなって、周りも年齢重ねて小賢しくなってきてから、いじめはエスカレートしていったよ」
 エースケが続ける。できれば止めたくはなかった。
 攻めろ。
「でもな、俺が転校したあとのことは分からないけど、俺がいた頃のいじめなんてかわいいもんで、その……特に復讐するとか敵討ちするとかいうほどのことじゃなかったと思うんだけど」
 僕は彼の回想を断ち切るように、息継ぎもせずに、いやできずに、一気に言い切った。
 エースケの顔から笑みが消えた。
「そりゃそうだ。いじめに対しての復讐なら二人じゃ治まらない。俺へのいじめは今回の件とは関係ないんだ」
 そう言って、彼はグラスに残っていたウイスキーを一気に空にしてバーテンを呼んだ。バーテンが近づいてくるタイミングで、僕も同様に飲み干してお代わりを頼んだ。
 来た当初から付け出しとして提供されているミックスナッツは一粒も減っていない。それはちょうど薄暗い照明によるスポットライトを浴びる位置にあった。元から食べるためには置かれていないかのようだ。
 流れる沈黙の中、バーテンが二人分のお代わりを持ってくると、僕たちはほぼ同時にそれに口をつけ、ほぼ同時にコースターの上に置いた。それが再開の合図のようでもあった。
「でもさっき『敵を討った』って……」
「敵を討ちたかったのは俺じゃない」
 エースケはそう言ってから一拍置いた。それは明らかに、演出するための間だった。彼にもまだそのような洒落っ気が残っていたことに驚いた。
「ピンタだ」そして彼が決めゼリフを吐くように言った。「俺はピンタの手足となって動いただけだ」
「あの、飼ってた犬か」
 新幹線の中でみた白昼夢を思い出す。全ては繋がっている。
「ああ」
「ピンタもいじめられたのか」
「いじめじゃない」
 エースケが、やれやれといった表情で首を振った。僕もそんな気がしていた。しかしそれに続く彼の言葉は、それでも痛いほどの衝撃を僕に与えた。
「中二の夏だ。家族全員が旅行で留守の間に、ピンタが首を切られて家の門の前に飾られてた」
 一瞬、彼が何を言っているのかわからなかった。
「……え?」
「帰って来たらピンタの首がお出迎えさ」
 彼の顔が歪んでいた。無理に笑っているのかもしれなかった。
 僕は腰あたりまでしかない低い背もたれに背中を預け、首を上に向けて天を仰いだ。
 黒く塗られた穴だらけの防音壁と裸電球が視界に入る。
 僕は目を瞑った。
 決してエースケの行為を賞賛する気持ちはない。しかし、たかがそれしきのことで、と無下に切り捨てることもできない。ただ、僕の全身を徐々に染め上げていくこの名状しがたい感情は、倫理やら善悪やらを全て吹き飛ばしてしまった。
 僕はただ、彼が阿部健司と六車智樹を殺してその首を切断した理由を刹那のうちに理解し、受け容れてしまった。到底理解できる範疇になく、別世界にあるものだと思っていた行動は、実は僕のすぐ近くに存在していたのだ。
「……そうか」
 僕はようやくその三文字だけを搾り出すことができた。
「殴られるの覚悟で一人一人訊いて回ったよ、お前がやったんだろう、お前がやったんだろう、ってな。もちろん、訊いた奴全員に否定されたし、全員に殴られた。けどあの二人だってすぐに分かったよ。あんなのは、眼を見ればすぐ分かる。絶対あいつらがやったんだ」
 警察から家への帰り道、車の中での千葉刑事の言葉を思い出した。全ては繋がっている。
「お前が去って、ピンタが消えて、もう俺には友達がいなくなった。でも不思議なもんで、その時点から生きる気力が湧いてきたんだよ。あいつらに復讐するってな」
 結局彼にとって「友達」とは、自分を助けてくれる存在、という意味しか持っていなかったのだろう。その考えの是非よりも、そういう捉え方しかできなくなってしまった彼の境遇を思うとやるせなくなった。
「ずっと機会を待ってたんだ。阿部もトモキも、俺なんかよりずっと力も強いし、凶器を使ったところで、一人殺っただけで捕まったら元も子もない。そうこうしてるうちに成人しちゃったけど、もちろんそんなことは関係ない。それに綿密に計画してるうちに、これを、共犯と思われないようなうまい方法でダイゴに何とか知らせることができないかなって考えついたんだ。それができたらピンタも喜ぶだろうと思ってな。ピンタにとっても、友達は俺とダイゴしかいなかったから」
 僕はグラスを持ち、食べてはいけないミックスナッツをじっと見つめながら彼の話を聞いていた。
「ここまでは本当に長かったけど、気持ちが萎えることはなかったな。それでついに『道具』を手に入れてからやっと動きだしたんだ。最初に見つけたのは阿部だった。まあ地元にいたからな。阿部は真面目、かどうかは知らないけど、ちゃんと働いてた。それに敬意を表してさっさと殺してやった。トモキを探すのはちょっと骨だったけど、同窓会の案内を送りたいからってあいつの友達伝手に何とか住所聞きだして見つけたよ。トモキだけは許せなかった。あいつには、長い時間恐怖を味わわせてやろうと思って、お前の家まで甕を運ばせるってのを思いついたわけだ」
「あいつは、何をやってたんだ?」
 僕がおそるおそる訊くとエースケがその場で屈んで、テーブルの下に置いてあった皮の鞄に手をかけた。
「これ見てくれ」エースケが、鞄から正方形の紙袋を取り出して僕に手渡した。「これをあいつが路上で売ってたんだ」
 僕は袋から色紙を取り出してそれを眺めた。
 そこには毛筆で、味があるんだかないんだか判らないような字で、

『振り返るな どうせ戻れない』

 と書いてある。
「まあ、言葉そのものは悪くないと思うよ。ただ、どの口でそれを言ってるんだ、って感じだよな。まあ、この場合は口じゃなくて手か」彼は再び鼻を鳴らしはじめた。「俺さ、これ見た時、アイツに問い質したんだ。『どういうつもりで、これを書いたんだ』ってな。あいつは、何も、答えなかった」
 彼の語調が強くなる。
「あいつ、きっと、いじめる対象が、いなくなって、生きる目的、失ったんだろうな。それとも、この言葉は、あいつが、ピンタに対して、やったことを、無かったことに、しようとしてるのかな」
「いや、それは」
「そうに決まってる! 他に、どう解釈できる? え?」
 僕には全くわからなかった。トモキが書いた言葉の真意も、エースケの解釈も。
「悠長に、こんな、落書き、売りつけて、他人に、人生の、指針を、与えようとしてやがった? あいつが? わ、笑わせるな!」
 彼のボルテージが上昇していくにつれ、僕はどうしても気になってバーテンの様子を見やった。バーテンはもはや、こちらに神経を集中させて聞き耳を立てているのがはっきりとわかる。
 するとものすごい力で僕の肩が掴まれ、強引にエースケの方に向き直らされた。
「おい、そっちは気にするなって言ってるだろう! 聞けよコラ!」
 あまりに無防備だった。右手をポケットに突っ込んだままという不自然な体勢も災いしただろう。僕はその強引な力の働きに、椅子から滑り落ちた。右手をポケットに突っ込む不自然な恰好をしていたため受け身がとれなかったが、隣の椅子などに引っ掛かったおかげで床に落ちる衝撃は和らいだ。それでも右肘と腰をしたたかに打った。足が届かないほどに高い椅子もひっくり返ってものすごい音をたてた。
 そしてほぼ同時に、汗ばむ右手がずっと触れていた携帯電話が震えた。まるで僕に「何かが起こった」という信号を綾が感知でもしたかのように。
 ケガの功名というのだろうか、僕の無様な姿でエースケが我に返ったようだった。彼は短距離を全力疾走したあとのように早い呼吸をたてていた。
「ごめん。お前に手を出すなんて俺もどうかしてるよ。許してくれ」
 許す許さないの選択肢を僕は持っていない。今僕にできることは、恐怖に身を震わせながら、彼を宥める方向に事を運ぶことだけだ。
 僕は痛む箇所を押さえる前に、まずポケットの中で携帯電話を操作して通話を切った。今度は、気が動転しているらしきエースケからそれを察したような気配は感じられなかった。 
「いいよいいよ、俺が滑っただけだから。気にするなって」
 それでも、無意識のうちにバーテンの様子を窺うことは止められなかった。さすがのバーテンも動揺を隠し切れなくなったのか、完全に身体をこちらへ向けて、エースケと僕を見較べている。
「もう出よう」呼吸を落ち着かせてからそう言ったのはエースケだった。バーテンの気配に彼も気づいていたことは間違いなかった。「俺には時間がなかったんだ。お前にこれだけ伝えることができて、本当によかった。お前ももう、知りたいことはほとんど聞いただろう」
 『時間がない』。確かに警察が捜査していく過程で、桜井栄佑の名前は否が応でも容疑者として浮かび上がってくるはずだ。それに、この店を出た途端にバーテンが通報する可能性だってあるのだ。
「駅まで送っていくよ」
 エースケが立ち上がって、バーテンに軽く手を挙げてから店を出た。料金は先に支払っていたのか、バーテンは彼を引きとめようともせず、恭しく「ありがとうございました」と礼をして彼を見送った。
 僕は、返してよいものか判断がつかない色紙を手にしながら、彼のあとについて店を出た。その足取りが、行きと比べて軽くなっているような気がした。それは心が軽くなっているのか、足に力が入っていないのか。いずれとも形容しがたい不思議な浮遊感に身を委ねながら階段を上り、屋外へ出た。
 一時間にも満たないこの同窓会は、取調べなど比較にならないくらいの苦痛だった。しかしそれを望み、自ら身を投じたこの時間は、本当に自分にとって意味があったのか。その確信は未だ僕の中で生まれることがなかった。



   10

 行きとまるで変わらぬ曇天は、この時が未だ終わらぬことを暗示するかのように世界から色を奪い取る。
 店を出て地上へ出ると、隣の店の前に立つ電柱の陰に人の気配を感じた。そちらに目を遣ることはできないが、そこにいるのが綾であろうことは疑いようもなかった。エースケは気づいているのかいないのか、そ知らぬ顔で駅に向かって歩を進める。
 綾の隠れ方がヘタクソだから僕もエースケも気づいて、ただエースケは気づかぬふりをしてくれているのか。それとも僕と綾との絆のようなものが、僕だけにその気配を察知させてくれたのだろうか。後者であって欲しいと願う。切に願う。
 繁華街を引き返して駅へ向かう。世の中が発展しても、この田舎町には人が増えない。昔とほぼ変わらぬ景色に懐かしさなど微塵も感じることができなかった。
 久しぶりの故郷をもう少し堪能したい、などという感情はもう湧かない。願わくば、このまま東京の平和なボロアパートに帰してほしいと思うのみである。
 まだ午後四時にもなっていないこの時間帯で、シャッターを下ろしている店舗は少ない。しかしその開かれた店の奥にも人がする気配がまるでない。その音のなさといったら、殺人犯がいるからと避難勧告でも出ていて、ほとんどの住民がどこか別の街に逃げているのではないかとさえ思えてくる。
 ふと人の笑い声が聞こえて、そちらに目を遣ると一軒の立ち飲み屋がこんな時間から営業していた。入口を開け放たれた狭いその店内にだけ、隠居した老人や近所で道路工事をしていた労働者と思しき人たちがひしめきあい、めいめいがグラスに入った安酒を呷りながら談笑していた。
 洒落たバーでウイスキーを傾けた僕たちと彼らとの間には、目に見えない大きな壁が確かに存在する。
 僕はああいう人たちの中に入りたくないから大学進学を決めたのではなかったか。今、あそこの輪に入りたくて仕方のない自分に向かって、もう一人の自分がそう呼びかけている。学歴なんて、今のこの状況と何の関係もないことは解っているけれど。
 
 道の突き当たりで、現実から目を背けた街のシンボルである駅舎がその姿を誇示している。エースケは脇目もふれぬといった様子で、そこを目指して一直線に歩いていく。このまま本当に終わるのだろうか。
 終わってくれるに越したことはない。しかし、それならば僕から口火を切らなければいけないことがある。
 最後に一つだけ、なかなか口に出せない疑問が残っていた。
 それは、僕が知る必要はないし、知らないほうがいいのかもしれない。でもこのまま知らずに帰るわけにはいかなかった。
「エースケ」
 僕は道の真ん中で呼びかけた。それは自分の口から出た言葉なのに、懐かしい響きだった。彼も同じ気持ちだったのだろう、立ち止まってにこやかに振り向いた。
「やっと『エースケ』って呼んだな。……何?」
「……本物の首は、どこにあるんだ?」
 その時、口を封じようとするかのように強い向かい風が通り抜けた。でももう遅い。
 たぶん僕の声は震えていたと思う。
 エースケは一瞬だけきょとんとした表情を見せてから、ふっ、と鼻で笑った。
「知りたいか?」
「ああ」
 僕は頷いた。エースケは一旦下を向いて、暫し考えるような仕草をしてから再び顔を上げた。
「……決まってるじゃないか。ピンタに捧げた」
 彼はそれだけ言うと、踵を返して再び歩き出した。
 その場に立ち尽くしながら考える。
 ああ、僕が知りたかったのは“場所”ではなかったのか。 
 答えはそれだけで充分だった。

 駅前広場に立つ。
 しかし未だに心のどこかで『継続』の信号が点灯しつづけている。
 エースケが、噴水前の、ちょうど僕が最初に待っていたあたりで立ち止まり、僕に正対して手を差し出した。
 別れの握手、だろうか。僕は頭で考える前に自分の手を差し出していて、彼の手を握った。
「俺さ、ピンタが死んだ時、本気で自殺しようと思ってたんだ。でも考えが変わった。どうせ死ぬならあいつらを殺してからでも一緒だってな」
 エースケが、僕の手を強く握りながら言った。彼にしてみれば渾身の力を入れているように感じられたが、握力はあまり強くなかった。
 婉曲的な言い回しも、僕にはこれ以上ないほど直截的なものに聞こえた。
 やはり、彼はもう死んでいたのだ。
「……お前、死ぬなよ。情状酌量とか、あるかもしれないじゃないか」
 本当に無責任な言葉だったと思う。しかし、言葉とは時にそれそのものには意味がなくて、それを発する意思が伝わった時に相手を動かすこともある……はずなのだ。
 エースケがそれを聞いて微笑んだ。
 これほどまでに諦観を剥き出しにした笑みを僕は知らない。
「ありがとう。でももういいんだ。こんなことのためだけに生きているのがどんなに辛いか、ダイゴには解らないだろう、絶対にな。……でも、俺は後悔してないよ。これでよかったんだ。死ぬのがちょっと遅れただけなんだ」
 エースケが依然僕の手を握りながら言う。その手は明らかに震え、そして脂汗にまみれていた。
 そこに目を向けたのは本当に偶々だったとしか言いようがないのだが、彼が腕を伸ばしているが故に、彼が着ているジャケットの内側が露になっていて、僕はその内ポケットに差し込まれている物体をはっきりと目撃した。
 六車を動かした『道具』。
 僕はそれに釘付けになりながら、思わず彼の手を強く握り返した。エースケはそれに反応して、がっちり握った僕の手を強く上下に振った。
 あのバーで、体勢的に無理だったため我慢していたタバコが無性に吸いたくなる。こんな時に。
「俺と会ったことで今後ダイゴがどんな迷惑を被るのか、よくわからない。でも今のうちに言っておくよ。許してくれ、全部。俺にはこれしか言えないよ」
「いいよ、そんなの」
 それは紛れもなく僕の本心だった。彼に比べたら、僕が今後巻き込まれる厄介事なんて遊びみたいなものだろうと本気で思っていた。
 彼はそれを聞いて満足げに大きく頷いた。
 まるで、もう思い残すことはない、と言わんばかりに。
「じゃあな」
 彼はそう言って手を離した。僕の手には、彼の脂汗と、痺れるような熱さが残っていた。
 別れの握手。
 エースケが、もう僕の姿など見えないとでも言わんばかりに、ふらふらと僕の脇をすり抜けるようにして歩き出し、背後に消えた。僕はその場に立ち尽くして、どうしたらいいのか迷っていた。自殺をはっきりと予告した彼をこのまま帰して良いのかという思いと、ここで彼を引き止めて僕に何ができるというのかという思い、その狭間で葛藤していたのだ。このような状況を前にして、僕の中にいる天使も悪魔も、ただただ沈黙するばかりだった。
 僕は、結局返すタイミングを失い、ずっと手にしていた色紙に目を落とす。もっとも、もう彼はこんなものを欲しがらないだろう。
 何度読んでも変わらない。
 色紙にはこう書いてある。


 振り返るな


 不意に、世の中の全ての音が消滅し、残ったのは背後からの声。
「ダイゴ! 俺は」


 どうせ戻れない


 乾いた音が鳴り響く。
 あまり迫力のある音ではなかった。
 『道具』を使った音。
 これでマラソンか何かがスタートするだけならどんなによかっただろう。

 死も別れの一つの形。
 何の前触れもなく突然離れ離れになるよりも、きっちりと区切りをつけて別れたのだったら、その方がのちに引きずらないこともある。
 まったく役に立たない僕の脳は、言い訳がましくそんなことを考えている。

 僕のすぐ後ろでびちゃびちゃと液体が地面を叩き、そのあとを追うように人が倒れる音がした。そして、どこに潜んでいたのか、方々から人の嬌声。
 その一連の流れは、演奏楽器が徐々に増えていくオーケストラの導入部のように、静かで、計算されたもののようだった。
 駅前の交番から警察官が走ってくる。
 全てはスローモーションで動くパノラマ映像のようで、まるで現実感がない。

 天は僕に迷う時間さえも与えてくれなかった。

 見たくもないのに、僕の首が勝手に反転する。そこに広がっていたのは、モノクロの景色を残酷なまでに鮮やかに彩る真紅の血溜りと、ずっと茨のような生にしがみついてきた、今はただの肉塊。
 エースケという名の『非日常』が、己でも制御できなくなるほどに大きく膨らんで、ついに弾けてしまった瞬間だった。
 それは、両親はおろか両方の祖父母まで健在の僕にとって、初めてみる死体だった。何だ、こんなものかと思う。
 しかし、この先どんな厄介事が待ち受けていようとも、これでもうエースケを恨むことはできなくなった。なんともうまい逃げの一手を打ったものだ。
 僕は思う。今、敢えてこの場で彼がこのような行動をとったのは、それを衆目に晒すことによって、後々僕が変に疑われないようにするための優しさだったのだ。
 今さらだけど伝えてやりたい。もし死後の世界があるとするならば、向こうの地獄なんてこちらに比べれば大したことはないだろう、と。
 ようやく楽になったエースケは、神々しさを帯びて大地に頬擦りしていた。

 それは最初、遠い遠い叫び声だった。
 方々からあがる嬌声の中から一際大きなものがこちらに近づいてきて、それが綾のものだと判明しても、僕は身動き一つとることができずにいた。やがて、綾が倒れ込むようにして僕の腰のあたりにすがりついて、ようやく彼女を見やる余裕ができた。
 彼女は似合わないサングラスをかけて、でも約束通り医療用マスクはつけずに、半狂乱のような状態で泣き叫んでいる。何かを喋っているようだったが、それは全く言葉になっていなくて、「ダイゴ」の連呼以外何も聞き取ることができなかった。
 その姿がいかにも綾らしくて、滑稽で、クルクルパーで。
 それを見ていたらなんだか力が抜けて、膝から崩れ落ちて、僕も綾の真似をして泣いた。

 エースケ。
 お前のこと助けられなくて、ごめんな。

 涙が視界だけでなく時間軸をも歪ませる。
 僕は恥も外聞も忘れて、声をあげて泣きながらあの頃の自分に還っていた。



終章
 
 部屋中をカレーの香りが満たしている。
 今度は間違いなく、カレーの香りである。
 綾があの時以来、僕の部屋で料理をするのは二回目になる。また性懲りもなくカレーで、彼女曰く「リターンマッチ」なのだそうだ。リターンマッチ開催までの間隔がプロボクサー顔負けであるが、おそらくここまでそれを控えていたのは、僕に気を遣ってのことだったのだと思う。何せ前回のカレーは、(味云々に関係なく)強烈な思い出との結びつきが強すぎることを彼女もよく知っている。そういったことへの遠慮と、早くリターンマッチがしたいという欲望との狭間でウズウズしている彼女の姿を想像すると、独り笑いを禁じ得ない。
 つまりあの事件後も、綾はびっくりするくらい綾のままだ。
 あれからもう一年が経っていた。

 弾けとんだ『非日常』の残渣が、しばらくの間僕を苦しめた。
 エースケが駅前で自決した直後から丸四日間、僕は県警に拘束されて同じような質問を繰り返し受けた。綾も最初は一緒に連れていかれて取調べを受けたが、直接の関係がないということが判明してすぐに解放された。初日の夜も更けて遅くなり、当然ホテルなどとっていないしどうしようと思っていると、仮眠室ならあるがと刑事が言い、よくよく聞いたら留置所の空き部屋だというので丁重に断って警察署を出、綾に電話をかけてみると、一人で帰れと言っておいたにもかかわらず彼女は警察署付近でずっと待っていてくれて、そこから一緒にビジネスホテルを探して宿泊した。
 二日目以降の取調べは、『辟易』なんて表現ではとても言い足りぬしつこさで、何十回と繰り返し同じことを言わされ、疲労と相俟って途中から時間の感覚が完全に麻痺するほどだった。変な話で、なおかつ不謹慎でもあるが、僕は厳しい取調べにくじけそうになるたびに、エースケが噴水前で倒れている姿を思い出すことでそれを乗り切った。元々アイツのせいなのだから、それくらいさせてもらっても罰は当たらないだろう。それに夜にホテルに戻れば綾が待ち構えている。僕は彼女の温もりを感じて眠れるだけでどれだけ救われたか知れない。
 刑事という人種はよほど人を脅すのが好きなのか、『ギケイギョウムボウガイ』の次は『軽犯罪法違反』、それに『ハンニンゾウトクザイ』なんて物騒な名前の罪状を持ち出されたりもして肝を冷やしたが、結局僕が、彼が犯人であるという“確証”を得たのは彼に出会ってからであること、また彼が拳銃を所持していたということで、僕にはその時通報することも彼の自殺を止めることもできなかったという結論に達し、犯罪者になることだけは免れた。ある意味、僕は最速のタイミングで警察に事情を説明しているということになっていた。ただ、確証がなくとも推測はできたわけで、その時点で通報しなかった非協力的な一般人、ということでさんざん嫌味を言われ続けたが、これはもとより覚悟の上だった。
 東京に戻ると、今度は千葉刑事に呼び出されてこってり絞られた。彼はゴミ箱を蹴って発狂寸前に怒り狂った。彼に対しては裏切って申し訳ないという気持ちが強く、僕は素直に頭を下げるばかりだった。手柄の仕組みなどはよくわからないけれど、そのへんの利害関係なんかも絡んで怒っているのだろうなあ、と彼のことを半分憐れみながら。
 阿部健司と六車智樹の首については、僕は県警にありのままを話し、場所はわからないけれど飼っていた犬の墓の近くにあるのではないかと答えていた。東京に戻ってから数日と経たぬうちに、首は彼の自宅の庭から発見されたと千葉刑事から連絡があった。
 僕は自分を、こういう特異な経験をしたら友達などに言わずにおけない人間だと自分で思っていたのだが、それが大きな間違いだったのか、あるいは経験そのものが大き過ぎて完全に持て余したのか、いずれにしろ誰かに言い触らすようなことはできなかった。未だに、おそらく綾と僕の両親、それに何日も仕事を空けてしまって事情を説明せざるを得なかったバイト先の店長を除いて、周囲で僕がエースケと関係があったことを知る者はいないはずだ。
 事件後しばらくは何も手につかず、三年次の前期は大学の単位を落としまくった。僕は両親から心理セラピーを受けることをしきりに勧められたが、自分ひとりの力で這い上がらなければ意味がない、という意地だけで断固として拒否した。後期は人が変わったように勉強に打ち込んだ。こんなことをするために大学に入ったのではないのに。
 そして後期の成績通知を受け取り、期せずして「優」の評価がたくさん並んでいるのを見て、ちょっとやり過ぎたかなと反省の念が湧いた。単位さえ取れればオール「可」でいいのに、と苦笑い。
 僕が完全に立ち直ったのはこの瞬間だったと思う。
 四回生になり、ぐうたら大学生活を取り戻したばかりの僕にとっては憂鬱な、就職活動の時期に突入した。ところが、立ち直ったはずなのにどうにもやる気が起きない。どうやらこれは過去を引きずっているのではなくて、僕の生まれながらの性分のようであるということにやがて気づいたが、原因がはっきりしたところでモチベーションが上がるわけでもない。自分でも気のないとわかる面接を繰り返しては選考から落とされ続けていた。
 そんな状況を変えてくれたのはまたしても綾だった。
 この間、バイト先の居酒屋が二号店を開く運びとなり、その二号店の店長になんと綾が抜擢された。綾が店長というのも信じがたいが、それよりも二号店開店という事実にまず驚いた。あの客の入りでそれができたということは、相当なボッタクリ料金だったのだろう。確かに、自分が客ならここには来ないだろう、という料金ではあった。
 その話を綾から初めて聞いた時に、僕が「ふーん。良かったね」などと適当に返事をしていると、彼女はこう言ったのだ。
「まあ、ダイゴが就職に失敗しても、最悪仕事はあるからさ。私の下で奴隷のようにこき使われるけどね」
 そして勝ち誇ったようにシシシと笑った。彼女本人にしてみれば軽い冗談のつもりだったのかもしれないが、僕はそれを聞いたら無性に自分に腹が立ってきて、結果的には綾のその言葉に触発されて俄然就職活動のやる気が湧き、今ではそこそこ名の知れた二社の最終面接を控えているという状態にまでこぎつけている。
 そして、朝早くに二社目の最終面接に残ったという電話連絡を受けた今日、僕はエースケが出てくる夢をみた。
 それは小学生時代のエースケでも、去年会ったエースケでもなく、年齢や時間などを超越した『エースケ』だった。彼が傍らにピンタを従えて――いや、ピンタと“並んで”――登場した時には、もうこれが夢だと頭で理解している半覚醒状態で、ほとんど時間が残されていなかった。
――ダイゴ、内定おめでとう。
――いや、まだ内定じゃないよ。
――まあ似たようなもんだろ。何にせよよかった。それにしても、悪かったなあ。
――何が。
――いや、俺のわがままで、ダイゴには迷惑しか掛けなかったから。
――ああ、いいよそんなの。
――俺もずっとダイゴのことが気になってて、今日まで登場できなかったよ。
――……ん? 何かそれ、俺の夢をエースケがコントロールしてるみたいだな。
――そうだよ。
 あまり考え込むと脳が活性化して目覚めてしまうので気にしないことにした。
――そうか。
――とにかく、ダイゴに謝っとこうと思ってな。
――もう謝ったじゃないか、事前に。
――それはそうなんだけどさ、まあ一応ね。……じゃ、用件はそんだけ。そういうことで、帰りますわ。
 僕は彼がさっさと消えようとするのを引き留めた。僕ももう起きそうだったし、最後に何か言い忘れているような気がしていた。彼は僕の次の言葉を待つように身構える。
――こんなこと、今さら言うのもあれだけど。
――だから何?
――エースケ、がんばれよ。
――…………。
 エースケの動きが止まる。僕も何を言っているのだろう。彼は拳を握っていた。
――バーカ、俺はもう死んでるんだっての。おいピンタ、死人を励ます腑抜けの生者に喝を入れてやれ。
 彼の一言に反応して、ピンタが威勢良く吠えてから僕に向かって突進してきた。
 ピンタの頭が僕の鳩尾(みぞおち)を直撃する。
――ぐおっ
 衝撃と共に現実と交錯。
「ぐおっ」
 僕は鳩尾を抑え、だんご虫のように丸くなって身悶えた。何事かと周囲を確認すると、綾がいつの間にか部屋に入ってきていて、僕のことを見下ろして笑いながら立っていた。
「こんなに天気がいいのに、大の字になって寝てるなよ」
「いってえ……いいじゃねえか、俺の部屋なんだから。それよりお前、呼び鈴くらい鳴らしてから入ってこいよ」
「なんで? 勝手に入ってくるための鍵でしょ」
 綾が、本皮仕様の、およそ女の子らしくないキーホルダーをつまんで、僕に見せびらかすように部屋の合い鍵を揺らした。
 言うまでもなくその合い鍵は、“留守の時には”勝手に入っていいよ、という意味合いで渡したものであり、僕が部屋に居るのに勝手に入っていいという意味ではなかった。
 一度はっきりと文句を言ったことがある。しかし、僕が、綾にすら見せられないような行為に及んでいる最中だったらどうするのか、と冗談めかして怒ったら、なによ、女連れ込んでるの? 呼び鈴が鳴ったら窓から逃がすの? なんて逆に詰め寄ってくるものだから、僕はああしまった、そう来るのはわかっていたはずなのに、と後悔してそれ以上の議論を交わすことをやめてしまった。
 僕は無意識にずっと腹をさすっていた。鳩尾の痛みがなかなか引かない。
「それよりさ」
「なに?」
「お前今、俺のこと踏んだだろ」
「踏んでないよ! ちょっとグーで突いただけだよ」
 綾が真顔で、なぜかちょっと怒り気味に答えた。嘘をついているのではないようだった。いくら僕が無防備だったとはいえ、いつも大皿を片手で軽々と支える彼女の腕力を侮っていたようだ。
 その彼女の足元に食料が入った買い物袋が二つ置いてあって、どういう風の吹きまわしだと訊いたら、リターンマッチでカレーを作るのだと不穏なことを平然とのたまった。
 ルーを足しても足してもチョコレートの味が薄まらない、あの無間地獄のようなカレーを泣きながら食べつくした悪夢を思い出す。
「おい、チョコレートはもう入れるなよ」
「はいはい、わかってますよ。もう、小さいことにこだわる男だなあ」
 実はあの事件以来、今まで不思議とエースケが出てくる夢を一度もみた記憶がなくて、今日初めて、しかも何とも不思議な登場の仕方で彼が夢に出てきたものだからこれは何かの暗示に違いないと思っていたら、何のことはない、綾がカレーを作るという予知夢だったようである。もっとも、大事件なんてもう懲り懲りだし、予知といってもこの程度のほうが有難い。

 エースケは夢であんなことを言っていたが――というより僕が勝手にそんな夢をみただけだが――僕は決して彼が自分に迷惑ばかりかけたとは思っていない。彼は何より大切なものを残してくれた。
 僕はカレーの香りが漂う台所に目を遣る。
 あんなぬか漬けではない、彼からの本当の『贈り物』は今台所で、完全オリジナルと思しきでたらめな鼻歌をうたいながら、手にはおよそカレー作りに必要ないだろうと思われるものを持って、何やら怪しげな動きを見せていた。陶酔しかけていた僕は慌てて立ち上がる。
「ちょっと待て!」間に合わないと思って僕は部屋の中から大声で呼びかけた。綾がすんでのところで動きを止め、不思議そうにこちらを見る。「おい、なんだそれ」
「え? ヨーグルトに決まってんじゃん」
「そんなの見りゃわかるよ。これどうするつもりだって訊いてんの」
「カレーに入れるんだよ。昔、チョコレート入りが不評だったから、今回はこれで試してみようかなって」
 綾の目は本気だ。
「いや、あんたの場合、問題は材料の種類じゃなくて量なんだけど。お前まさかこれ全部入れようってんじゃないだろな」
「うん、そうだよ」
 彼女が手にしているのは、大きなファミリーサイズのヨーグルトだ。
「バカでしょあんた。ねえ。バカでしょ」
 僕は彼女から素早くヨーグルトを奪い取った。彼女は意地になって、それを奪い返そうと僕の腕を掴んで手前に引く。さすがに僕も一般女性に力負けはしないが、それでも彼女の腕力がかなりものであることが改めてわかる。
「返してよ、入れてみないとわかんないじゃん」
「わかるよ! いいから、ここはおとなしく俺の言うことを聞け。スプーン二、三杯で充分だから。な」
「でも、実験の精神がなかったら美味しい料理は生まれないよ」
「そんなハイレベルなもの生み出さなくていいから、まず普通の食い物を作れ」
「わかったわよ、けち!」
「その『けち』の意味が全然わからないんですけど……」
 彼女は結局諦めて、煮込み中の鍋を覗き込む。僕も同じように覗き込む。ここにファミリーサイズのヨーグルトを全部ぶち込もうという発想が全く理解できない。僕はスプーンを取って、ヨーグルトを三回掬ってカレーに入れてやると、身柄を保護するように残りを持ったまま部屋に戻った。
「そんな、わざわざ部屋に持っていかなくたっていいじゃない」
「ダメ。お前は信用できない」
 僕は部屋に戻ると、なんとなくそのヨーグルトを一口食べてみた。すると、特に驚くことのない味と一緒に、身体の奥底からこみあげてくるものを感じた。
 時間こそかかったが、現在という濾過装置はちゃんとその役目を果たし、今こうして僕は意味もなくヨーグルトを食べている。
 この『意味もなく』というところに重要な意味があるのだ。
 もう一口食べてみた。今度は何もこみあげてこなかった。『日常』の味がしたのは一口目だけで、二口目はそれがもう当たり前のものになってヨーグルトと同化していた。
 感慨にふけっていると急に眠気が襲ってきた。僕はヨーグルトとスプーンをちゃぶ台の上に置くと、その場に倒れ込むようにして横になった。
 重くなって閉じようとする瞼を堪えるようにして、ふとステレオの上の壁を見た。そこには例の色紙が掲げてある。
 エースケをたまには思い出すため、『振り返るな』という詩を読むことによってたまには振り返るため、僕は色紙を捨てずに残しておいた。
 その色紙が、窓からの光を浴びて後光が差すように輝いている。
 それはなんだか笑っているようにも見えたが、たぶん気のせいだろう。
 僕は、今眠ったらまた鳩尾をやられるぞと思いながら、睡魔に勝てず大の字になって目を閉じた。
 ヨーグルトのことはもうすっかり忘れたのか、再び流れはじめた綾の調子外れの鼻歌が、換気扇が回る音と共に鼓膜を撫でた。
 何度でも寝てやる。寝たい時に寝てやる。意味のない日々を、時間を、もっともっと重ねていきたい。
 世界で最高に贅沢な子守唄を聴きながら、僕はもう一度心地良い眠りにおちる。 



<了>

2004/07/25(Sun)21:41:38 公開 / 明太子
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■作者からのメッセージ
前編は「作品集その4」に棲息しております。

第十回レス返し(あ、読者が増えてる!):
バニラダヌキさん>10の冒頭の一文、“悪い予感”が頭の中を占めている雰囲気を何とか出したくてあのようになってしまったのですが、失敗でしたか(汗)
笑子さん>説明不足を、事後的に情に訴えるという卑怯(?)な手で補おうと試みたのでした。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
神夜さん>クルクルパー、使ったはいいけど、前半のリフレインであることを忘れられていたらどうしようと思っていたので安心しました。終章は、私本人の解放感から、どうにもはっちゃけてしまった予感……
卍丸さん>いろいろ構成には凝ったつもりだったのですが、実は最終章が一番難しいということに今になって気づきました。毎回のご感想、本当にありがとうございます。
楽人さん>何よりここまで読んでいただいたことに感謝。確かにまだまだ粗だらけであり、とにかく考えて書いてを繰り返し、精進します。
エテナさん>よくぞ戻ってこられました(笑)。エテナさんの感想にはいつも励まされておりました。後編は、前編に比べて苦労した点が多く、楽しんでいただけたなら幸いでございます。
律さん>他の登場人物とは比較にならないほど苦心したエースケに愛着を持っていただけると何だかホッとします。終章はやり過ぎたかもしれませんが、楽しんでいただけたら幸甚です。
冴渡さん>謝ってばっかりですね(笑)。読む読まないについて作者があれこれ言えるわけもなく、従って「お気になさらず」と言うのも変ですし、とにかく「お戻りいただきありがとうございます」の一言でございます。

なんとか完結です。
終章は、あえて何も起こさなかったのですが如何でしょうか。
正直、これが今の精一杯です。燃え尽きた……
内容はともかく、これだけの分量を書ききったというのが何よりの収穫です。
完結したからこそ見えたものも確かにありました(ほとんど反省点ですが)。
これもひとえに皆様の感想による後押しのお陰でございます。本当にありがとうございました。

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