『贈り物 (前編)』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:明太子                

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序章

 街路樹の葉も色鮮やかな梅雨入り前の晴れた昼下がりに、青年は街角で足を止めた。
 彼が立ち止まったのは、「詩」の路上販売の前だった。「詩」といっても、色紙に毛筆で、本来は「標語」や「フレーズ」などと呼ぶべきようなものが一言、二言書いてあるだけの代物である。
 細身で背が高く、髪もさっぱり刈り込んで高級そうなカジュアルスーツを着こなした青年はいかにもエリート然とした佇まいであるが、その表情にはどこかあどけなさを残していた。彼は腕組みをしながら、ビニールシートに広げられた何枚もの色紙を物色しはじめた。
 シミのついた白いTシャツに色あせたジーンズ姿の売り子は、身なりや無精ひげのせいで、青年よりは年齢がいくつか上に見えた。売り子は、せっかく足を止めてくれたその青年には目もくれず、本当は詩を売ることなどまるで興味がないかのように、ただぼうっと道行く人々を眺めていた。
 青年は、やがて一枚の「詩」に目を留めた。
「これ、いくら?」 
 青年が指差した色紙には、下手くそだが力強い文字で、

『振り返るな どうせ戻れない』

 と書かれてある。
「いくらでもいいっす。あ、でも色紙代くらいは」
 売り子は、声をかけられたことを迷惑がるように伏し目がちに、青年が辛うじて聞き取れるほどの小さな声で答えた。
 このような物の相場なんて見当もつかない青年は、財布から千円札を半分出しかけたが、しばし迷った後にそれを財布に戻して代わりに一万円札を一枚取り出した。
「これでいいかな」
 売り子は、度の強い眼鏡の奥の眼光を一瞬輝かせ、そこで初めて青年と視線を合わせた。青年は、売り子の反応に少し物足りなさを感じながらも、恋人に対してするような優しい微笑を彼に向けた。
 決して変な意味ではなく、魅力的な笑みだ、と売り子は素直に思い、それでも無表情に、
「ありがとうございます」
 とだけ返事をして、色紙を取って男に手渡した。
 青年は視線を逸らさず笑みも絶やさぬまま、その場にしゃがみ込んで、
「この言葉、気に入ったよ。よかったら、どういう時に思いついたのか聞かせてくれないかな。そのお代も込みってことで」
 と、子供を諭すような柔らかい口調で言った。
「いや、そういうのはちょっと。それだったら千円でいいです」
 売り子はうつむいて顔の前で手を振り、面倒臭そうに答えた。
 青年はそんな売り子をじっと眺めていたが、しばらくして、ふっ、と鼻を鳴らした。
「そうカタいこと言うなよ、トモキ君」
 青年が言うと、売り子は反射的に顔を上げて青年の顔を再び見た。その目は大きく見開かれていた。
 売り子は何かを思い出そうとして青年に釘付けになった。そしてしばらくしてから、今度はその口が大きく開かれた。
 青年は、売り子の動揺ぶりを面白がるように無邪気な笑顔を浮かべた。
「見いつけた」



前編


   1

 夕飯には少し早い中途半端な時間に、僕はテレビを観ながらコンビニ弁当をほおばっていた。
 この時間帯に放送しているのは、僕のような大学生にとっては退屈な情報番組といった類のものばかりだが、その退屈さこそが今の自分の生活を象徴しているようで、そういう番組を観ているとどこか気持ちが安らぐ。これから風呂にでも入って、ビールを飲みながら野球でも観て、明日は朝から授業だから早めに寝るかな、という程度の、何年後かに過去を振り返った時に決して記憶に残ることはないであろう一日。そんな一日を過ごすために欠かせないアイテムの一つだった。
 部屋の呼び鈴が鳴って、僕は食べていた弁当を床に置いて立ち上がった。玄関へ向かう途中、まだ封を切っていないほうの弁当を踏みそうになって、それを避けるために体勢を崩しかけたがなんとか堪えた。弁当はいつも二つ買って一度に食べる。ただし昼夜兼用である。そんな食べ方をしているのは、常に中途半端に満たされているよりも、空腹と満腹、苦痛と快楽の両方を体験するほうが楽しい、という理由からだ。人生の起伏をコンビニ弁当に求める慎ましさよ。
「はい」
 僕は扉越しに外へ向かって呼びかけた。
「あの、隣の者ですけど」
 隣人の顔は知らなかった。しかし“隣の者”という魔法の言葉一つで僕は何も疑うことなく、ドアスコープも覗かずに錠を外して扉を押し開けた。
 立っていたのは、黒縁の眼鏡をかけて無精ひげを生やした男だった。うす汚い格好をした、いかにもこのボロアパートの住人といった風情だ。
 そして両手に、胴体が完全に隠れてしまうような大きな甕(かめ)を抱えている。
「あの、桃山大悟さんでいらっしゃいますか?」
「はい、そうですけど」
「あ、そうですか」
 格好は汚いが、口調は想像に反して丁寧だった。事務的、といったほうが正確かもしれない。
 しかしそんなことよりも、視線がどうしても彼が抱えている甕に向いてしまう。
「で、どういった用件ですか」
「あの、これを、しばらく預かって欲しいんですけど」
 僕は眉をひそめた。
「はい?」
「実はちょっと旅行で長いこと部屋を空けるんですけど、その間だけ。部屋に置いてもらえるだけでいいんです」
「いやでも、僕だって部屋空けることありますよ」
「それは別に構いません。その間に盗られたりしたら、それはよほど運が悪かったということで。決して桃山さんを責めるようなこともしませんし」
 隣人は、特に哀願するといった風でもなく、何かを読みあげるような淡々とした口調で喋り続けた。
「それ、何が入ってるんですか」
「ぬか漬けです」
「ハア?」
 今度は眉をめいっぱい吊り上げてやった。漬物なんか別に盗られてもよかろう。
 僕の、やや失礼な反応に対しても隣人は表情一つ変えず、
「中に、貴重品も埋めてたりするんですけど」
 と付け加えた。
 結局僕は「まあ、そういうことなら」と言って甕を預かることを了承した。納得はしていなかったが、知らない人間と長話をするのがあまり得意ではないので、この場を早々に切り上げたいという気持ちのほうが強かった。物事を断るという行為は、精神力を浪費する。部屋に置いておくだけならその方がずっと楽だ。
 隣人から渡されたそれはずしりと重く、危うく腰が砕けるところだった。彼があまりに軽々と抱えているように見えたので、重量の見積もりを誤ったのだ。
「明後日に帰ってきます。その時また寄らせてもらいますので」
 僕は、“長いこと”って二日かよ、という思いが顔に出ていないことを願いながら「わかりました」と、努めて愛想よく返事をした。もっとも、期間が短ければそれだけ心配事を抱えなくて済むのでこちらとしても望むところではある。
 隣人は終始表情を変えぬまま頭を軽く下げると、ゆっくりと閉まる扉の向こうに消えた。
 僕は甕を抱えながら部屋に戻り、今の会話で受けた違和感の正体についてあれこれ考えながら、部屋の隅のスペースにそれを置いた。元々物があまりない部屋だから、邪魔になることはない。
 短い会話だったのですぐに色々と思いつくものがあった。
 なぜ僕の名前なんか確認したのか。それ以前に、表札も掲げていないのになぜ僕の名前を知っていたのか。
 また、ぬか床の中に貴重品を埋めるのは、主婦がへそくりを隠す場所としては聞いたことがあるが、一人暮らしなのであれば、それは泥棒が入ってもその甕には目を呉れないであろうことを目論んでの行動であるはずだ。なぜそれをわざわざ他人に預けるのか。
 しかし、これだけの疑問が具体化したのに、まだどうもすっきりしなかった。もう一つ、もっと大きな何かに気付いていないような気がする。
「あっ」
 首を傾げてあれこれ思索しながらテレビの前の“指定席”に戻ろうとして、僕は封を切っていない弁当を踏んづけた。
 なぜ先ほど踏みかけた時に退かしておかなかったのか。
 もう違和感や疑問などどうでもよくなって、こちらの方が俄然大きな問題になった。
 テレビでは、全く面白くない冗談で出演者たちが大笑いしていた。

 二日どころか三日が経っても、なかなか例の隣人はやって来なかった。
 僕はどうしようか迷った挙句、とりあえず帰ってきているかどうかだけでも確認しようと、日が暮れかかる頃に甕を持って隣人の部屋に出向くことにした。
 こんなことになるなら部屋番号を聞いておけばよかった、と後悔する。僕の部屋は角部屋ではないから隣人は二人いる。もっとも、別に間違えたからといって死ぬわけではないので両方当たってみればいいだけなのだが、なんとなく気が重い。
 僕は甕を抱えて部屋を出、101号室の呼び鈴を押そうとして、甕がバランスを崩しそうになったので慌てて腿で支えて持ち直し、一旦下に置いてから呼び鈴を押した。
 はあい、と部屋の中から聞こえてきたのは女性の声だった。
「隣の者ですけど」
「はあい、ちょっと待って下さいね」
 鍵が開く音がして、扉が開いた。出てきたのは、化粧気のない、貧乏学生といった印象の若い女性だった。
「あの、すいません、ここ一人でお住まいですか?」
「はい、そうですけど?」
 彼女が怪訝そうな表情をした。無理もない。
 どうやらハズレのようだ。
「ああ、ごめんなさい。隣の人からこれを預かってたんですけど、反対隣の人だったみたいです」
 僕は自分が怪しい者でないことを印象づけるために、早口でまくしたてた。
「ああ、そうですか」
「すみません、失礼しました」
 扉を閉める時の彼女の表情からは警戒心が消えていて、僕はそれにものすごくホッとした。
 しかし、どうもこういう二者択一に弱い。大したことではないけれど、運命の神を恨むような気分で僕は甕を持ち上げて自分の部屋を素通りし、103号室の前に移動した。今度はあらかじめ甕を下に置いてから呼び鈴を押した。
 返事がない。もう一度呼び鈴を押した。返事がない。
 やはりまだ旅行から帰ってきていないのだ、引き返そう、と思っていた矢先に、何の前触れもなくいきなり扉が開いた。
 出てきたのは、寝起きであることを強調するかのように白いものが交じった髪を方々に乱した、顔色の悪い中年の男性だった。
 僕はその姿を見て、一体どんな表情をしていただろう。
 その中年が僕を睨みつけながら、なに、と機嫌悪そうに口を開いた。
「ああ、ごめんなさい。隣の人からこれを預かってたんですけど、反対隣の人だったみたいです」
  
 引っ越してきたら隣人に挨拶をしておくことの大切さを初めて知った日。



   2

「なにそれ? おもしろい!」
 甕の話をしたら、綾が子供のように目を輝かせて興味を示した。ほぼ予想通りの食いつきだった。
 まだ早い時間で客も一組しかいないので、僕と綾は暇を持て余して、バイト先である居酒屋の厨房の前で、店の制服である甚兵衛姿で世間話をしていた。
 この店は、特に料理が旨いわけでも安いわけでもなく、その上立地が悪いので滅多に混雑することがない。都心には違いないのでそれなりに客は入るが、僕がこの店で働きはじめてからは、まだ一度もパニックに陥るほどの忙しい目に遭った経験はない。僕は正に、そういう状況をこそ望んでこの店を選んだのだから、思惑通りといったところだ。
 一つ年上の綾とは、僕がこのバイトをしている期間とほぼ同じだから、付き合ってもうすぐ一年になる。僕の歓迎会も兼ねてバイト仲間で飲んだ時に、酒の勢いで無理矢理意気投合したような感じで、そのまま僕の部屋に来てズルズルいってしまってからの付き合いだ。きっかけが適当な割には長く続いていると思う。このような形で付き合うことの欠点は、恋の駆け引きというか、付き合うまでのドラマが一切ないということだが、僕はその点に関しては、むしろないに越したことはない、くらいに考えているので別に損をしたとは思わない。以前に、綾とそういった馴れ初めの話になって、その時僕が、どんな形の出会いであれ一期一会だ、というようなことを言ったら彼女が泣き出したことがあった。どういう感性を持っていたらそこで泣けるのか僕にはさっぱり理解できなかったが、ともあれ相性がいいことには違いないだろう。
「うーん、別に面白くはないけどな」
「だって、隣の者って言ってた人が隣の者じゃなかったんでしょ? ミステリーじゃん」
 そういえば綾はトレンディドラマよりも二時間サスペンスを観るのが好きだったっけ。
「何、『謎のぬか漬け』とか?」
「おお、いいじゃんいいじゃん。なんか、推理小説のタイトルにしたら売れそう」
「まあ、四冊くらいなら売れるかもね」
「えー? そうかなあ」
 綾は首を傾げた。本気で異議がありそうな顔をしているから返答に困る。
 彼女の性格は「天然ボケ」とはちょっと違うのだ。それについて、僕は何か彼女を一言で表現できる言葉がないかというのをずっと探していて、一月ほど前にようやく適した言葉を見つけた。『クルクルパー』だ。彼女にそれを言ったら、予想通り彼女はそのフレーズをいたく気に入ったようで、しばらくの間「クルクルパー、クルクルパー」と一人で言っては一人で笑い転げていた。クルクルパーの面目躍如だ。
「それで、今も一応触らずに部屋に置いてあるんだけどさ。どうしようかなあ、あれ」
「まあとにかくさ、今度行った時に見せ、あ、いらっしゃいませ!」
 入り口の引き戸がガラガラと開けられた音に咄嗟に反応して、綾は何事もなかったかのように仕事に戻った。
 彼女は、仕事はテキパキとしていて店長の信任も厚い。そこは、彼女の落ち着いた雰囲気漂う見た目のイメージ通りでもあるのだ。彼女のことを誤解しているのが周りなのか僕なのか、未だに判然としない。

「お先でっす」
 その日は午後十時という早めのあがり時間にしていたので、普段着に着替えた僕は他の店員に挨拶をしながら店を出た。後ろから普段着の綾がついてくる。
 彼女は、僕と入りが同じ日は必ずあがり時間を合わせてくる。僕たちは一応店でも公認の仲なので、周りもそれについてはニヤニヤ笑うだけで何も文句は言わないのだが、僕はそういう、明からさまに見せつけるような行為は苦手だった。かと言って、あがり時間を急に変えたりして彼女の機嫌を無為に損ねる必要性も、当然どこにもない。二人揃って店を出るのは、僕にとっては逃げ場のない、なんとも面映い瞬間だ。
 店の前で綾と別れ、一人で徒歩で家に向かっていると、程なくして後ろから自転車が近づいてくる音がした。そのうち、その気配がやたら接近してくるのを感じたので振り返ってみたら、綾がペダルから両足を放し、前方に投げ出した恰好で僕に向かって突っ込んでくるところだった。よける暇もなかった僕は自転車のハンドルに手をかけて力ずくで止めたが間に合わず、脛(すね)を前輪でしたたかに打った。
「……ものすごく痛いんですけど」
 僕は脛をさすりながらすがるように綾を見上げた。
「さあさあ、謎の物体を見に行こう!」
 綾は何事もなかったようにその場で自転車を降り、それを押して歩きはじめた。
「え、今から? 『今度』って言ってなかった?」
「気が変わった。それとも、今日は部屋に女でもいる?」
 お決まりのこのセリフはもう何百回と聞いているのだが、もしかして本気で言っているのではないか、という思いはいつまで経っても消えない。だから何百回と同じ言葉を返す。
「想像が飛躍しすぎ。……いや別に来てもいいけど、俺明日一限目から授業あるから今日は、コレで」
 僕はそう言って、顔の前で人差し指同士を二度叩くように交差させた。このサイン、本当は店のお勘定の合図なのだが、すっかり癖になって色々な用途で使ってしまっている。
「わかってるよ、エロオヤジ」
 通じてるし。それに彼女は、僕が一日最低でも六時間は睡眠を取らないと生きていけない人間である、ということをよく解っているので話も早い。
「大悟、カギ」
「ヘ?」
「カギ貸して」
 僕は言われるがまま、ポケットから部屋の鍵を取り出して彼女に手渡した。それを受け取った彼女は再び自転車にまたがった。
「自転車押して歩くのしんどい。おさきー!」
 綾はそれだけ言い残して、部屋の主より一足先にアパートへと向かった。
「へえ、これかあ」
 綾から遅れること数分、僕が家に戻ると彼女は部屋の隅に置いてある甕の前に座り込んで、さも珍しいものを眺めるかのように感嘆の声をあげていた。
「別に珍しくもないだろ。確かにデカいけどさ」
「なんで警察に届けないの?」
 そんなこと、考えもしなかった。
「うーん、突然引き取りに来ないとも限らないし、それにぬか漬けなんて届けてもなあ……」
「ぬか漬けって言うけど、大悟さあ、中開けてみたことあるの?」
 そんなことも、考えもしなかった。
「いや、ない」
「とりあえず空けてみようよ」
「でもこれ開けたら戻すの面倒だぜ」
 甕は、口の部分が布で覆われているので見えないが、おそらく大きなコルクのようなもので栓がしてある。そこに布が被せられた状態で、その上から甕全体を麻縄で十字型に縛ってあるという念入りさだ。
「じゃあ私が元に戻すから開けてよ」
「まあ、それならいいけどな」
 僕は渋々を装って返事をしたが、実のところ、綾に言われて俄然興味が湧きはじめていた。
 まず、机の上にあるペン立てからはさみを取り、麻縄の結び目にはさみの片刃をねじ込んで、ほじくるような感じではさみを回して結び目を緩めた。この作業はそれほど時間がかからなかった。
 縄がほどけて布を取り払ってみると、大きな栓は甕にかなり深く食い込んでいる状態だった。それは『蓋』と呼びたくなるほどの大きさだが、甕の口に差し込んであるのだからやはり『栓』だろう。
「そういえばこれ、なんか変じゃない?」
 作業をじっと見守っていた綾が言った。
「何が」
 甕の口の部分から僅かに姿を覗かせている栓の側部に指を当てて内側に力を入れ、少しずつ押し上げる。
「だって、ぬか漬けだったら普段から開け閉めしてるはずなのに、こんなに頑丈にしなくてもいいと思わない?」
「預ける時に、俺が勝手に開けたらすぐわかるようにしたんじゃないの? それこそあれだ、綾みたいにすぐ中を見たがるようなヤツもいるから」
 栓が持ち上がる感触はほとんどないに等しいが、甕全体をゆっくり回して、あらゆる方向から押し上げてみる。
「ねえ、もう刃物で刺して引っぱり上げたら?」
「クッ、なるべくどこも傷つけないように開けてんだよ。どうしても開きそうになかったらそうする」
「今さらそんな律儀にならなくても」
 なかなか栓は動かない。右手の、親指を除いた四本の指先が、圧迫しすぎて白く変色しかかっていた。時折血の巡りを回復させるために手首をブラブラと振って、甕が二周、三周しても側部から指で押し上げる作業を根気良く続けているうちに、栓は徐々に動きはじめた。脇で、綾が無音の拍手に合わせて「コ・バ・ン、コ・バ・ン」と、小声で意味不明なコールを始めた。それを聞いて、実は自分の心の片隅でもそのような期待が頭をもたげていることに気付く。バカバカしい。
 側部がだいぶ表に出てきた。ここまでくればあとは楽だった。
「よし、開いた」
 僕は、指先を酷使した右手を強く結んで大きく開いた。ようやく栓の全貌が姿を現して、甕の上に“載っている”状態になった。僕は、栓に手をかけて甕の口を塞いだまま綾の方を見た。
「いよいよだね」
 綾はなぜか僕の後ろに回りこんで、肩越しに甕を覗き込む。
「いきまっせ」
 そして僕は思い切って栓を持ち上げた……
「わっ!」
「うわあああ!」

 僕は自分でも情けない声をあげた後、振り向いて、僕の肩を掴んでいる綾を睨みつけた。
「へへ、びっくりした?」
「お前、殺すぞ。大声出すと隣から文句来るだろうが」
 特に103号室の人から。
「まったく、大悟は肝が小さいなあ」
 可笑しそうに笑う綾を無視して僕は気を取り直し、改めて甕の中を確認した。
 栓の下に隠れていたものは、ほぼ満タンに入ったぬかだった。
「……そのまんまでしたな。ドラマ性、なし」
「なんだ、つまんないの」
「はい、じゃあ原状回復よろしくゥ」
「てゆうかさあ、これもう食べちゃおうよ」
「いや、まだそんなに経ってないから、もうちょっと様子見だな。そうだな、三日後にしよう。それでも取りに来なければ、好きにしてしまおう」
 綾が、冷めた上目遣いで僕を睨んでいた。三白眼になっている。何を言いたいのかは予想がつくが、いちいち相手にしていたらきりがない。おとなしく元に戻しなさい。
「今日はとにかくもう寝よう。俺ほんとに起きれなくなる。これ戻すの明日でいいからさ。……ちょっとトイレ」
 僕はその場から逃げるようにトイレに駆け込んで用を足しながら、そういえば貴重品も入ってるようなことを言っていたが、その価値によってはかなりの臨時収入を得ることができるのではないか、などと妄想し、すぐにそれを打ち消した。あの綾のコールのせいですっかり頭が物欲に支配されている。
 長めの小便を終えてトイレから出ると、綾はその間に、この部屋に持ち込んでいるスウェットに素早く着替え、布団を敷いて一人でそれに入って横になっていた。手品かと思うほどの早業だ。僕も着替えてから目覚ましを朝八時にセットして枕元に置き、室内灯を消して遠慮がちに布団へ入った。
 僕に背を向けていた綾は、あっという間に穏やかな寝息をたてはじめた。こちらがお願いしていたことをしっかりと守る。あまり辟易するような我儘を言わないのは、彼女の一番の長所だと思う。
 しかしこうもあっさり寝られると、それはそれで寂しいものがあるのだけれど。

『ダイゴ! 起きろ! バカ! ムッツリ! 変態! もうさあ、起きないんだったらさあ、私店長と浮気し』
 僕は叩き壊さんばかりの勢いで目覚まし時計を止めた。
 腹立つ。いつ聞いても腹立つ。
 綾も同時に目を覚ました。おそらく僕が時計を叩いた音が決定打だろう。
「まだ私の声の目覚まし使ってるんだ」
「これいいよ。ムカついて寝てられなくなるの。今もなんか殴りたくなってきた、お前のこと」
「おおい、やめてくれよ」
 いつも「浮気」という単語が出てくる前に止めることを目標にしているのだが、今日は失敗。普段なら、失敗した日の寝起きの悪さは倍増しているところだが、今日は一人ではないからだろう、怒りもすぐに治まって意外と爽快だ。
 今日の一時限目にある心理学の講義は、一定率以上出席さえしていれば単位をもらえる楽勝科目なので、出られるうちに出ておきたい。この朝の講義に出ていると、生活のリズムも無理矢理ではあるが元に戻るので、むしろ「利用する」気分で出席を続けているような感じだ。
 僕は簡単にシャワーを浴びて歯を磨いてから、洗濯したまま放り投げてある服の山から適当なものを拾って着替えた。これだけの支度が十五分もあれば済む。
「じゃあ、私はゆっくりして、あとあのぬか漬けも元に戻してから帰りますわ」
「おう。カギはいつもんとこに隠しといてな」
 いつものことながら綾に一応そう念押ししてから、僕はリュックを肩にかけて玄関に出、鍵を外して扉のノブに手をかけて押した。すると扉が何か硬いものにぶつかる音がして途中で引っ掛かった。
「あれ」
「どうしたの?」
 部屋の向こうから綾の声が聞こえた。
「開かねえ」
 綾の足音が近づいてきた。一旦閉めて再び開けようと試みたが結果は同じだった。開けることのできる幅は十センチに満たなかった。何かが外に置いてあって扉を塞いでいるのだという感触を得て、僕は扉に肩を当て、体重を預けてゆっくりと押し開いた。それは想像していたほど重くはなく、外へ出るに十分なスペースを確保してから、僕は首だけ突き出して扉の裏側を覗いた。
 一瞬、自分が何を見たのか分からなかった。
「何があったの?」
「……二号」
 綾が「え、なに?」と訊き返しながら、僕の体の下に寝癖がついた頭を潜りこませて、低い体勢から同じように扉の裏側を覗いた。
 アハハ、と綾が笑った。思わず、だろう。その気持ちはよく解るが、当事者の僕はとても笑える状況ではない。
「漬物屋でも開く?」
 綾が言った。

 扉の裏には甕が置いてあった。



   3
 
 僕は甕を帰ってくるまで放置することにした。
 授業の始めに出席を取るので、遅刻は絶対に許されないという理由が一つ。もう一つは、万が一にも、帰ってくる頃にはこれを置いた人物が引き取っているのを願ってのことだった。
 綾が「これ中に入れないの?」と訊くので、僕は「ほっとけ」と顔の横で手だけ振った。すると綾は外へ出て、自力で部屋の中に入れようと甕を縛っている麻縄に手をかけたが、彼女一人の力で持ち上がる重さではなかった。
「くーっ!」と、食いしばる歯の間から漏れるような彼女の声を背に、僕はそのまま大学へ向かった。すぐに諦めてくれるだろう。
 僕は、一時限目の授業だけを受けるつもりが、結局「桃山、なんで居るの?」などと友人に笑われながら全ての授業を受けた。ずっと受けていなかった授業をたまに受けたところで頭に入るはずもないが、別に何かを学ぶために授業に出るわけではないから、僕の中の勤勉天使とサボリ魔の利害は一致した――というより元々利も害も存在していなかった。いずれにしろその行為からは何も生まれないのだ。その非生産性こそが僕の愛する「日常」。
 もちろん、一日中授業を受けたのは“万が一”の可能性を少しでも高めるためだった。
 空も薄暗くなってきた頃に、駅前のスーパーで出来たての惣菜を二食分買ってから家に戻ってみると、甕は当然のようにその場に残されていた。ただ、引きずる跡と共に、扉が開く軌跡の邪魔にならないように位置だけずらしてあった。甕にはセロテープで紙が張ってあって、そこには見慣れた丸い文字で『早く食べさせろ』と書いてあった。
 隠し場所から鍵を見つけて扉を開け、甕を抱えて部屋に入り、“一号”の甕の横に置いた。物がないとはいえ狭い部屋だ、甕が二つ並ぶとさすがに邪魔である。
 手と足を洗ってから米を研いで、炊き上がるのを待つ間しばらく寝そべってテレビを観ていたら、僕は先ほど視界に入れておきながらやり過ごしていたあるものに気付いて、肘を突きながら後ろを振り返った。
 “一号”の甕は、一度も開けたことがないものと見紛うほどに、見事に当初の状態に復元されていた。どちらがどちらなのか、一見しただけでは全く判別がつかない。
 誰もいない部屋で一人、思わず笑みがこぼれてしまった。
 綾の才能にはしばしば驚かされることがあるが、その才能といったらこんなものばかりで、いつも羨望の対象外だ。それはおそらく、東海道本線の駅を東京駅から順番に暗誦できる、といった類のものに近い。すげえ。以上。

 その翌日、綾が珍しく昼前に部屋にやってきた。何やら買い物袋をぶら下げていたので、訊けばカレーを作ってあげに来たとのことだったが、どうせ甕の様子が気になってやって来たというところだろう。
 綾が僕に料理を振舞ってくれたことは今までに一度もない。いつも僕が適当に作るチャーハンやらバイトで覚えた料理やらを、ぶつぶつ文句を言いながら食べる役回りなのだ。
 彼女が、僕の六畳一間の部屋の隅に燦然と並んだ二つの甕を見て、
「壮観壮観。二つ揃ったね。これ何かに使えないかな」
 と、いつもの考えなしと思しき発言。
「例えば」
「うーん、例えば……二人で頭から被って虚無僧ごっことか。ピーヒャララー」
「なるほど。お前はカレーを作ったら病院に行け」
 綾は、まるで他人事のような笑い声をあげて台所に立った。
 綾にカレー作りという時間のかかる作業に没頭され、突如時間を持て余した僕は、思い立っていつもと全く逆の立場になってみることにした。即ち、綾が料理をしている間に風呂掃除である。
 バスタブにシャワーで軽く水をかけ、濡らしたスポンジに洗剤をつけて磨いていると、台所に綾、風呂場に袖まくりをした自分、というこの状態がものすごくしっくりくるのを感じて心が躍った。これが正しい役割分担なのだと思いながらも、それを言うと綾に「女性差別だ」などと言われかねないので、上がる一方のテンションを必死に抑えてそれを口に出すことはしない。代わりに、
「なんかこっちの方が、同棲っぽくていいなあ」
 なんて言ってみた。声が風呂場内で反響した。
「よく言うよ、合い鍵作ってくれないくせに」
 綾の乾いた声が台所から聞こえた。その表情は容易に想像できた。笑っていない。
 やはりテンションが高い時の軽口は失敗する。彼女の言う通りだ。合い鍵を作ることを頑なに拒否している僕がよくもそんな科白を吐けたものだ。
 このままではいずれ綾に愛想を尽かされてしまうだろうと思いながらも、やはり綾と一緒にいる時というのは「イベント」なのだ。一人でいる常態の幸福感にはどうしても代え難い。誰にも侵されたくない領域への「鍵」を渡すわけにはいかない。綾のことが好きであるのとはまた別次元の話だ。
 僕は、綾がさらに畳み掛けて文句を言ってくるなら、その時にフォローの言葉を探すことにして、とりあえず何も返事をしないことにした。
 綾はそれ以上何も言わず、野菜を切ってまな板を叩く包丁の音だけが風呂場に届いてきた。その不定かつ遅いリズムは、出来上がるものに対する不安感を煽るに充分だった。
 結局、入居時よりきれいになっているのではと思うほどに風呂場全体を磨き上げても、さすがにカレーが完成するまでの時間を稼ぐことはできず、僕はやることがなくなって部屋に戻っていた。戻りがけに、煮込み中の鍋から何ともいえない香りが漂ってきた。表現力の貧困ではなくて、本当に何ともいえないのだ。
 確かカレーを作っていたはずだが。
 
 綾が、すでにご飯の上にカレーが盛り付けてある大皿を、片手に一枚ずつ持って部屋に現れた。その何気ない動きに熟練の技を見る。
 目の前に置かれたカレーから立ちのぼる湯気と香りを、僕は手で仰いで鼻孔に招き入れた。やはり微妙。
「私の好みで作ったから、ちょっと甘口だけど」
 綾がちゃぶ台の前に正座したまま、自分は食べようとせずに僕を凝視する。一瞬、穿った考えが頭をよぎるが、まずは他人の反応を見ようというのは当たり前かと考え直し、僕はこわごわスプーンを取り、いただきます、と言って一口食べた瞬間に不幸のどん底に落とされた。
「うわァ……」僕はスプーンを持っていない左手で口を覆った。一人で食べていたら間違いなく吐き出していただろう。「これ、チョコレートが」
「すごい、よくわかったね! 隠し味にチョコレート入れたよ!」
 綾が両手を合わせて歓喜の声をあげた。喜んでいる場合ではない。
「あのな、隠し味ってのは隠れてるからいいんであって、これチョコレートが一番前に出てるっていうかさ、結婚式の一族記念撮影で遠い親戚のおっさんが中央に鎮座してるっていうかさ、いやもう完全にチョコレートソースじゃんよこれ」
 綾は、顔を歪めながら必死に抗議する僕を、面白い生き物でも観察するかのように眺めて笑っている。僕の反応を見るために故意にこんな味に仕上げたのではと勘繰りたくもなってくる。
「ふふふ」
「ふふふじゃねえっての。いいから綾も食ってみろよ」
 綾はスプーンを持って「いただきまーす」と手を合わせてから、そのカレーのようなものを山盛りに掬って大口を開けて食べた。彼女は満たされたような表情で口をもぐもぐと動かしている。
「うん、うまいうまい」
 彼女は、問題などどこにあるのだと言わんばかりに、そのカレーのようなものをものすごい勢いで食べ進める。とても、塩辛い居酒屋メニューの残り物を嬉々として食べるその舌と同じとは思えない。
「あの、何もないの?」
「ないの、って何が?」
「吐き気とか」
「ぜーんぜん」
 その様子を眺めていたらなんだかそのカレーのようなものが旨そうに見えてきて、僕も彼女の真似をしてモリモリ食べてみることにした。幸せそうな表情を作ることを忘れずに。
 不思議と、さっきよりは喉を通りやすくなったような気がした。要は気持ち、なのだろうか。
 それでもチョコレートはチョコレートだ。
「で、これどれくらいの量作ったの?」
「カレールー全部使ったから、えーと、10食分って書いてあったかな」
 長い旅になりそうだ。
 それでも僕は、辛くもないのに額に汗を滲ませながら、カレーのようなものを必死に口に運んだ。これからしばらくお付き合いする相手だ。こんなハプニングもまた良し、と前向きに考えてみる。実際、こんなものを食べさせられても機嫌はそんなに悪くなかった。そして前向きになれば光は差してくれるもので、カレールーを足して甘さを薄めればいい、という名案もすんなりと浮かんだ。
「物騒だねえ」
 綾がテレビに顔を向けて何の感慨もなさそうに呟いた。ニュースキャスターが、どこかで起こった殺人事件のニュースを読み上げているところだった。悲しい哉、これも「日常」の一部であり、何より他人事だ。
「感情こもってねえなあ。全然そんなこと思ってないだろ」
「思ってるよ!」
 綾が突如声を荒げてちゃぶ台を叩いたので僕は飛び上がるほど驚いた。
 まただ。彼女の怒りのスイッチがどこにあるのか未だに全くわからない。沸点が低いのか高いのかさえも。

――被害者は、行方不明中であった無職の六車智樹さん、二十歳と判明……

「ん?」
 テレビから突如飛び出した言葉に僕は反射的に画面に顔を向けた。綾はまだ、ちゃぶ台の上に拳を載せたまま、仔犬が威嚇するような迫力のなさでウウウと唸り声をあげてこちらを睨みつけているが、僕はそれに相手をするどころではなくなっていた。
 ムグルマトモキなんて名前は、おそらく生涯で二人と耳にすることはないはずだ。
「この被害者、俺の小学校時代の同級生だ」
「うそ?」
 綾が先ほどまでの怒りをケロッと忘れたように普段の声に戻った。
「間違いねえよ。歳も一緒だし」
「へえ。なんかすごい」
 やはり感情がこもってない、と片隅で思いながら、僕の脳の大部分は六車智樹の同級生時代の顔を思い出す作業に追われていた。
 それはどんなに足掻いても止めようのない作業だった。
 そして閃く。
 全くお呼びでない閃き。“閃き”なのに目の前が暗転するような閃き。
「あああっ!」 
「どうしたの? なによ今度は」
 心配そうに僕の服の袖を引っぱる綾の声が僕の耳を通り抜けた。
「おい、これどんな事件だっつってた?」
「え? 全然聞いてなかったけど」
 キャスターは既に次のニュースを読んでいた。
 言われなければ絶対に気付かなかったのに、言われてみれば間違えようがない、記憶なんてそんなものだ。引き出しの奥に長いこと仕舞われていたものが、あるきっかけで不意に取り出されると、それは思ったほど劣化していない。
 もうその存在さえ忘れかけていた、“あの時”の違和感の正体がようやく掴めた。

 不意に「日常」が遠ざかる。
 しかしすぐに、それはただの錯覚なのだ、と思い直そうとした。未来は全てが「非日常」で、それは現在という濾過装置を通して「日常」となり過去に流れていく。僕はそんな図をおぼろげに頭に描いて、これから迫り来るであろう、途轍もなく大きな「非日常」の渦を難なく受け流す自分を想像してみたが、装置はすぐに壊れてしまいそうだった。
 僕は成す術もなく、ただ巻き込まれていくことしかできないのだろう。

 あの甕を持ってきた“隣人”は、六車智樹だ。



   4

 バイトがあるから、と言って綾が帰ったあと、僕は完全に時間を持て余してしまった。正直に言うと「一人にしないでくれ」という気持ちもあったが、そんなことを口に出せるはずもないし、また、あのニュースを観てしまってからは綾と普通に会話ができる自信もなかった。
 どちらかと言うと、帰ってくれて助かった。今になってみれば、彼女の帰り際の心配そうな表情からして、実は僕の気持ちをそこまで察していたのかもしれないとも思うし、それは単に希望的観測であって、綾に限ってそんなに鋭いわけがないとも思う。
 要するに、綾はいなくなって、僕はやることがなくなった。
 単に『金がないから』という理由を『そんなもの必要ないから』という理由に脳内ですり替えて今まで持とうとしなかったパソコンが、こんな時にあればどんなに便利だろうと思う。そんなものを持っていない僕が、今やることといって思いついたのは、タバコを吸うことくらいだった。僕は、タバコを半分も吸わないうちに灰皿で揉み消しては次のタバコに火を点けるということを繰り返した。一箱があっという間に消えた。吸うタバコが無くなって、部屋に充満する煙がようやく気になって窓を開けると、白く濁った空気が網戸に吸い込まれるようにして外へ出て行った。
 本来は遠い世界での出来事であるはずだった、昔のクラスメイトの死が、僕の身に蔦のように絡みついているから厄介なのだ。結び付けているものは、もちろんあの甕だ。
 甕が勝手にこの部屋に舞い込んできたように、これからも何らかの事件が勝手に起こっていくのかもしれない。しかしそれを座して待つほどの精神力は持ち合わせていないし、この問題を何らかの形で消化しないと、この先なにをやっても手につかないだろう。
 さんざんタバコを吸った挙句に思いついた行動は、寝るということだった。
 こういう時はとにかく寝るに限る。その場しのぎの現実逃避。今日くらいいいじゃないかと自分に言い聞かせた。
 どうせ逃げ切れないのだから。
 僕は日が暮れる前に寝床に就いた。胃の中で蛆虫が無数に蠢いているような気持ち悪さが抜けなくて、こんな状態では眠れない、しかもこんな時間に、と思いながらいつの間にか眠っていた。

 しとしとと降る遠い雨音で目が覚めた。まだ陽も昇りかけの早朝だった。それでも十二時間近くは眠っていたことになる。そんなに長いこと眠れたのは、実は神経が図太いからなのか、逃避したいという気持ちが強かったからなのかはよくわからない。
 昨日夕飯を抜いていたので激しい空腹に襲われていた。僕は台所に出て、コンロの上に置いてある鍋とその中身を一瞥してから、コンビニに朝食を買いに行くことにした。
 雨はずいぶん久しぶりのような気がした。この当たり前の自然現象が日常に引き戻してくれるような気がして、僕は雨が傘を打つ音を慈しみながら、歩を緩めていつもより時間をかけてコンビニへ向かった。
 コンビニの入口前で、自動ドアのすぐ向こうに新聞が売っているのが見えた。買おうか、と思った矢先に別の考えが浮かぶ。新聞を買って、もし自分が欲しい情報が載っていなかったら勿体ない。それならば、定期券で行ける大学の図書館で新聞をチェックすればよい。金は無いが時間は余るほどある、という今の状態に慣れると、当たり前のように出てくる発想である。それに今は時間をたっぷりかけて何かをしたい。
 僕はおにぎりとお茶とタバコだけ買って、またゆっくり歩いてアパートへ戻った。
 部屋に戻ると僕は窓を開け、窓際に胡坐をかいて雨音を聞きながらおにぎりを頬張った。時折、斜めに降る雨の雫が膝の上に落ちた。
 食べ終わると僕はその場で買ってきたばかりのタバコを開封して火を点け、深呼吸するように吸い込んでは網戸に吹きかけ、図書館が開く時間をひたすら待った。
 タバコの煙の行方を追っていると、窓の外の右手から漆黒の毛を持つ猫がゆっくりと現れ、窓の前を優雅に歩いて横切ろうとしていた。よく見かける猫だが、毛並みがいいので近所の飼い猫かもしれなかった。
 猫は、網戸を挟んで僕のちょうど目の前で立ち止まると、首だけをゆっくりとこちらに向けた。
 目が合って、僕は猫と長いこと睨み合った。
 僕は何も言わない。向こうも何も言わない。
 お前は何かを伝えようとしているのか、と僕が猫に向かって声をかけようとすると、猫は大きな欠伸を一つしてからゆっくりと首を正面に戻し、再び優雅に歩いて窓の左手に消えていった。
 黒猫が自分の前を横切った……ことになるのだろうか、これは。

 短い期間のうちに、朝一から二度も僕のことを大学で見かけた友人が、幽霊にでも遭遇したかのような驚愕の表情で「お前、何かあったの?」と本気で心配するような声で訊いてきた。うん、と答えたかったがその後の説明が面倒なのでやめた。
「いや、今日は図書館に用があって」
「図書館?」
 友人はますます目を丸くした。僕は、呆然と見送るその友人に手を挙げて別れを告げながら、“いつもの日々”を過ごしている彼を羨ましく思った。
 傘立てに傘を差してから、図書館の入口の前で立ち往生する。財布の中は飲み屋の割引券やら色々な店のポイントカードやらで溢れ、図書館の利用証がなかなか見つからなかったのだ。僕は苛々しながら、財布からカード類を一旦全部取り出して、トランプを一枚一枚確認するように利用証を探していたら最後の方に出てきた。使用頻度の低いものは後ろからチェックしていくべきであることに気付いたのは見つかった後だ。
 僕はようやく入口を通って、入ってすぐ左手にある新聞のコーナーに向かった。朝一なので学生もまだあまりいない。全国紙から地方紙まで、各紙毎に過去何週間か分の新聞が分けられている。僕はその中から、たまたま利用者のいなかった全国紙のコーナーに陣取った。
 まず、斜めを向いていて下部にストッパーの役目を果たす出っ張りがついている台の上にすでに広げられている、今日の新聞の社会面をめくった。最近巷を賑わせている汚職事件についての記事が紙面の大半を占めていたが、僕が探している事件もそれなりのスペースが割かれていた。
 その記事でまず分かったのは、遺体の発見現場が故郷に近い山中であること。故郷とは、僕の故郷であり、六車の故郷だ。記事によれば、六車はずっとその県内に住んでいたようだった。
 それから、猟奇殺人であるため、怨恨の疑いが強いこと。そして同じような手口の殺人事件が十日前にもあったこと。
 つまり六車の事件は二件目で、彼とは別の被害者がいるということだ。その被害者の名前は記事には載っていなかった。
 僕は嫌な予感と共に、棚の下に積まれてある過去の新聞の山から十一日前、十日前、九日前の三日分の新聞を探してゆっくりと引いて抜き出し、今日の新聞の上に載せてそれぞれの社会面に目を通した。
 若干指先のコントロールが失われているのがわかる。目には見えないが、ただ大きいという気配だけは感じ取れる何かがいきなり姿を現すかもしれないことへの恐怖のせいだろう。
 その記事は、九日前の新聞の隅に小さく載っていた。まだ一人目の被害者だから、話題性の低い「よくある」殺人事件の扱いだ。僕はその記事をゆっくりと読んだ。
 声を封印されたかのようなこの空間のところどころで、新聞紙を繰る乾いた音だけが響く。それも聞こえなくなる瞬間は、空気の分子同士が擦れあう音さえ聞こえてきそうで、鼓膜を圧迫するような静寂に包まれた。
 ビンゴ。
 嫌なビンゴだ。
――鑑定の結果、被害者は土木作業員・阿部健司さん(二十)と判明。
 アベケンジ。たとえテレビのニュースで聞いていたことがあったとしても、そんな平凡な音の名前が心に引っ掛かるはずがなかった。
 しかし阿部健司は、確かに同じクラスにいた。僕と、六車智樹と。
 嫌な予感は的中した。しかしだからどうなのか、という、そこから先の思考を巡らす。死んだ知り合いが一人から二人に増えた。この事実から何が導き出されるというのだろう。
 僕はしばらく、何を読むでもなく紙面をじっと眺めた。少し寄り目にして文字や写真をぼかせて、頭を空っぽにした。そして目を瞑り、新聞記事やら二人の顔やら甕やらを入れ代わり立ち代わり思い浮かべてみた。
 一瞬のことだ。突然全てが結びついて、脳天から足の先へ稲妻が突き抜けた。
 僕は台に手を突いて伸ばしていた腕が、始めは小刻みに、そして次第に激しく震え出すのを止めることができなかった。

 被害者が二人。
 僕の同級生。
 甕が二つ。
 一つ目の甕を持ってきたのは二人目の被害者。
(二人で頭から被って虚無僧ごっことか。ピーヒャララー……)
 綾の何気ない一言が耳元で再生され、そして先ほど読んでいた今朝の新聞記事の文字が残像となって瞼にちらつく。
 その文字は分裂し、増殖し、拡大されて、やがて僕の精神では消化できない大きさに変わっていった。

――二人の被害者の遺体は共に



 頭部が見つかっていない



 
 呼吸の仕方さえ忘れた。
 そして、地も割れんばかりの大声で叫ばないと、そのまま崩れ落ちて下の絨毯に溶けてしまいそうだった。
 ここは図書館で、周りに人がいる。辛うじてそれだけは認識できて、僕は叫ばなかった。いや、周りに人がいたからこそ、最後の一線を越えずに済んだのかもしれない。
 僕は叫ぶ代わりに走った。歯を食いしばり、出口を突き抜けた。傘の存在には気付いていたが、あえて無視して外に出て、雨に打たれながら大学の正門まで全速力で走った。門を出て人通りが少ない歩道を走った。勢い余って歩道脇に停めてある自転車に腰をぶつけ、それを倒してしまっても構わず走った。赤信号に引っ掛かると、そのまま左折して走り続けた。最初はアパートに戻るつもりだったが、今や目的地などなくなっていた。ただ走っていればよかった。
 何だ、何なんだ、これは。
 交番を通り過ぎる。今駆け込んではダメだ。上手く説明できそうにない。現物もない。家に帰ってからの方がいい。それに今は走っていたい。
 ひたすら走った。肺が痛い。心臓が痛い。タバコの吸いすぎだ。でも少し安心できた。痛みが恐怖を和らげてくれた。何ならこのまま肺や心臓が破れても構わなかった。雨の冷たさも恐怖を和らげてくれた。ほとんど歩きと変わらぬ速度しか出せなくなっても走った。
 なぜ。なぜ俺が。俺は関係ない。
 走っているうちに涙が溢れそうになって、僕は必死に堪えた。人に見られるとか、雨に紛れて周りからは気付かれないだろうとか、そういう問題ではなかった。どういう感情から湧き上がる涙なのかは自分でもわからない。ただ泣くことを自分に許してしまうと、箍(たが)が緩んで元に戻れないような気がしたのだ。そのために僕はさらに力を込めて脚を持ち上げ、地面を蹴った。
 普段利用しない駅の前で、足首も自由に動かせなくなって本当に体力の限界にきた僕はようやく立ち止まった。両膝に手をついて、声を出して荒く呼吸する僕を周りの人たちが怪訝そうに見ているのは判ったが、その視線に対して何がしかの感情を抱く心のスペースはなかった。漏れる声が嗚咽にならないことだけに意識を集中させた。
 何も感じることができないうちに、僕は電車に乗り込んだ。
 運良く角の座席に座ることのできた僕は、電車に乗っている間、手すりを握り潰さんばかりに強く掴んで、前屈みになって下を向いたまま、ひたすら叫びたい衝動に耐えていた。
「大丈夫ですか?」
 ずぶ濡れの僕の隣に座っていたサラリーマン風の男性が声をかけてきた。僕は顔を上げずにゆっくりと頷きながら、感謝の意思と「構うな」という意思がごちゃ混ぜのまま手を軽く挙げた。
 一度電車に乗ってしまうと、もう降りたくなかった。このまま人ごみの中に紛れていたかった。
 あの時ぬかに手を突っ込んでいなくて良かった。あるいはもし、あの朝僕が大学に行ったあと、綾がつまみ食いでもしようとしていたら……。
 僕はまた震えが起こって、手すりをさらに強く握った。震えを止めるつもりのその行為は、震えをさらに大きくさせてしまった。
「あの、本当に大丈夫ですか?」
 サラリーマンが再び声をかけた。今度は「構うな」という意思だけで、僕は先ほどと同じ動きで彼を制した。
 気力を振り絞って最寄り駅で降りてからは、僕は歩いてアパートへと向かった。もう、走りたいという衝動よりも、あの部屋に戻りたくないという気持ちが勝って足の動きを鈍くしていた。
 アパートに着き、ポケットから鍵を取り出すと戦慄が走った。僕はぼんやりとした恐怖を想像していた。何ら具体的なものではないが、無用に恐怖感だけを煽るもの。
 部屋の向こうに何かいる、もしくはあるのではないか。
 僕は意を決して鍵を差し込み、玄関の扉を勢い良く開けた。
 目の前に広がっていたのはヤニ臭いいつもの部屋で、どこも変わりはなかった。もっとも、首が二つあるということを「変わりがない」とすればだが。
 僕は甕が視界に入らないように横向きに部屋に入り、カーテンを全開にして採光し、少しでも明るさを確保してから、再び甕を避けるように横滑りに電話機の元へ戻って受話器を取り、大きく深呼吸してから、たった三つの番号を間違えないように慎重に押した。
 この期に及んで、家賃を三千円ケチらずに二階の部屋を借りておけばよかった、などと場違いなことを思う。
 相手はすぐに電話に出た。焦燥感を駆り立てるような声。
 僕は相手に訴えかけるように話した。はじめこそ声が裏返って震えていたが、矢継ぎ早に相手から繰り出される質問にもしっかり答えたつもりだ。しかし、声だけが大きくて、その内容は支離滅裂だったかもしれない。
 僕はどうしても納得いかないことがあってそちらに気をとられ、理路整然と説明することができなかったのだ。

 今僕のそばに綾がいない、ということがどうしても納得できなかった。



   5

 話は何とか先方に伝わった。「首がある」と言い切ったら、近くの交番から慌てた様子で警官がやってきて、僕に色々と質問を浴びせかけながら甕を回収した。こちらから連絡するまでなるべく遠くに出掛けないようにしてくれ、と言って帰っていく警官がパトカーに乗り込むのを、外に出て見送った。101号室の住人も部屋から出て来ていて、心配そうに「何かあったんですか?」と声をかけてくれたが、僕はその時もう、誰かに何かを説明するという作業にはウンザリしていたので「いえ、大丈夫です。御迷惑かけてすみません」と曖昧な笑顔を浮かべて誤魔化した。
 すると背後で扉が閉まる音がして、振り返ったら誰もおらず、閉じられた103号室の扉だけが視界に入った。さすがに気になって、扉を少しだけ開いて様子を覗いていたのだろう。
 僕は今晩入る予定だったバイトを休み、場合によっては明日も休む旨を店に連絡した。詳しいことは説明したくなかったが、幸いにも店長は深く詮索せずに了承してくれた。その電話を切ったあとは、再び灰皿に吸殻の山を積み上げる時間だった。
 半日でタバコは二箱空になった。それでも二箱で“済んだ”と言うべきだろう。鑑定まで一日くらいかかるだろうから電話が来るのは明日か、と勝手に予測していたら、その日の夕刻に携帯電話が鳴り、僕は充電器に差してあった電話に飛びついた。
 どうやら交番ではなく、所轄の署から直接かかってきているようだった。
「ちょっとS署まで来てもらえますか。できれば、なるべくすぐだと有難いんだが」
 電話の向こうの話し手は、ひどく焦っているような、苛立っているような口調に聞こえた。僕は相手に聞こえないように深く息を吸った。
「はい、すぐに行けますけど」
 もとよりいつでも飛び出せる態勢だ。それに、嫌なことは早めに済ませてしまいたい。
「それは有難い。今から、一時間以内には来られますかな」
「一時間もかからないと思います」
「それじゃあ署に来られたら、そうだな、誰でもいいや、運転免許課のカウンターに座っている人にでも名前を名乗って、『捜査一課の千葉に呼び出された』と言ってもらえれば通しますから」
「わかりました」
 すでに外出できる恰好で待機していた僕は、そのまま財布と携帯電話をポケットに仕舞って玄関へ出た。
 扉を開けようとして、突如命の危険を感じる。警察に通報したことで、犯人が僕を殺しに来るのではないか、などという臆病者の妄想が膨らんで足がすくんだが、僕を殺す気があるならもうとっくにやっているだろうと開き直り、意を決して扉を開けると果たしてそんな危険はどこにもない。
 扉の向こうの世界を照らす陽光の有難味を肌身に感じた瞬間だった。

 徒歩で二十分ほどの距離を早足で移動してたどり着いたS署に入るのは初めてだった。入口の自動ドアをくぐり、奥へ進んだら電話した刑事が言っていた「運転免許課」の札が天井からぶら下がっているのが見えて、その下のカウンターに座っていた気難しそうな警官に、自分の名前と千葉刑事の名を伝えて連絡をとってもらうようお願いした。
 カウンターの前にあったソファーで待つこと二、三分、奥から小柄な壮年の刑事が小走りで現れた。白いものが混じった天然パーマが、どことなく芸術家といった印象を与えないこともなかった。しかしヨレヨレの白いワイシャツを着て色褪せた紺のネクタイの首元を緩め、折り目も消えて腿の部分がテカテカに光ったスラックスを穿いているという出で立ちは、ステロタイプの刑事像から一歩も出ていなかった。
「桃山さん?」
「はい」
 初めて言葉を交わす“刑事”に緊張したせいか、いつもと違う声が出た。
「どうも、千葉です」
 刑事は軽く頭を下げて名乗った。
「どうも」
「早かったね。じゃあちょっとついて来て」
 その声色と表情からは、いかなる感情も読み取ることはできなかった。僕は、構わず歩き出す千葉刑事の後を追って奥へと進んだ。彼は一言も口をきかず、階段を上って二階にある扉の一つを開けると、僕に中に入るよう促した。
 通されたのは、コンクリート剥き出しの取調室ではなく、白い壁に囲まれた、会議室といった風情の小さな部屋だった。テーブルと、パイプ椅子が二脚ずつ向かい合って並べられていた。
 それでもおそらく三畳程度の狭い部屋だったので、息が詰まるような圧迫感は充分にあった。
 僕は勧められるがままに奥の椅子に掛け、向かいに千葉刑事と、もう一人、部屋で待機していた若い長身の刑事が座った。
 どういう話を聞かされるのだろう。やはり容疑者の一人ということで取調べを受けるのだろうか。喉から内臓が出そう、という表現はこういう時に使うのかとしみじみ思った。
 千葉刑事は、背筋を伸ばして手を机の上で組み、やたら良い姿勢で一つ息を吐いてから切り出した。
「例の、二つの壺のことだがね」
「はい」
 僕は唾を飲み込んだ。壺か甕か、なんて今はどうでもいい。
「たいへん美味しかった」
「……はい?」
 反応が一拍遅れた。千葉刑事がそれを無表情で言ったせいもある。また彼が、僕が想像していたよりは口調が穏やかだという、何の関係もない思いだけがやたらと頭にこびりついたせいもある。とにかく彼の言葉を噛み砕く時間が必要だった。
「あの中には、生首なんて入ってなかったよ。ただのきゅうりのぬか漬け。……もっとも、首が入ってたなら、状態にもよるけど、普通は死臭が漂うはずだからな。こっちも迂闊ではあったんだが」
 何と返して良いのかわからなかった。ただ一つだけ解ったのは、この場での、僕個人にとっての“最悪”の事態とは首が入って“いない”ことだったのだ、ということだ。
 最悪とはなんぞや。
 僕は確かに何も見ていない。甕を開けた時に、一杯に詰まっていたぬかの表面を見ただけだ。その後の出来事の流れや仕入れた情報から、あのぬかの下には首が入っているに違いないと、百パーセント間違いないと、思い込んでいただけだったのだ。
 しかし、何も入っていないのならば、あの甕の存在理由がなくなるのだ。僕の想像が外れているはずがないと信じ切っていた。
「『偽計業務妨害』ってのがあってな」
 千葉刑事が突然そう言ってニヤリと笑った。それが悪意を含んでいるのかいないのかは判然としなかった。仕事柄、もうこういう笑顔しか作れなくなっているのではなかろうか、などと頭の中で勝手に始まる余計な詮索を打ち消す。
 ギケイギョウムボウガイ。そんな言葉は初めて聞くが、もちろん意味は解る。漢字も浮かぶ。二十歳になっていきなり前科がつくのだろうか。
 僕が黙っていると、刑事が例の複雑な笑顔のまま続けた。
「まあ、それは冗談だ。そう青い顔せんでもいいよ。君の証言はあの壺を回収した連中から簡単に聞いているが、君が被害者の二人を知っていた、というのは調べればすぐ解ることだから本当だろうし、うち一人が壺を持ってきたのも本当だろう。少なくとも狂言だったなんてことは俺たちも思っちゃいない。それにだな、例の壺には両方とも発砲スチロールの塊が入って嵩上げされてたんだが、その発砲スチロールがご丁寧に人の頭の形をしてた。君は中身を確認してなかったんだな?」
「はい」
 僕は、心の底からの無念と後悔の思いを込めて答えた。
「そうか。じゃあ、状況とか時期とかから判断して、あるいは気が動転して通報したというところか。壺を持ってきた奴の罠にまんまと嵌ったというわけだな」千葉刑事は脂で光る鼻の頭を人差し指で掻いた。「まあ、単なる悪戯と考えられんこともないが、あの殺人事件と全く無関係と言い切るには、ちょっと時系列的に辻褄が合い過ぎるな」
「はい」
 僕は、少しずつ自分の表情が和らいでいるのを自覚していた。こういう話をしてくれるということは、僕を犯人だと思っていない証拠だろうと思ったのだ。すると刑事は、僕の安堵の表情を咎めるように笑顔を消して眉間に皺を寄せた。
「安心してもらっちゃ困る。だからといって『ハイお疲れさん』とはいかないんだ。こっちはこのクソ忙しい時に、君の軽率な判断のせいで漬物運びをやらされてるんだからな。君が知っていることを洗いざらい喋ってもらわないと割りに合わない、ってのは解るな?」
「はい、すいません!」
 僕はテーブルに額がつくくらいに頭を下げた。若い方の刑事が、フッと鼻息を漏らした。
「その『すいません』は、君が殺したという意味かな」
 千葉刑事の突然の質問に一瞬思考が停止する。
「え、あ、違います違います! その、ご迷惑をお掛けしたことに対して」
 僕は慌ててそう否定してから、こういう時はどういう言い方をすれば信用してもらえたのだろうか、と考えた。そういうことを考えながら発言すると却ってわざとらしさが出て信憑性を失うのだろうか。だとしたら今の咄嗟の返事で正解だったのか。頭が混乱して股間がムズムズする。一つだけはっきりしているのは、僕はもう返事をしてしまって、今さらそんなことを考えても後の祭りだということだ。
 千葉刑事は、僕の言葉の真偽を量るかのようにしばらく僕の眼を覗き込んでいた。こういう時、眼を逸らすと嘘と思われはしないだろうか、という不安がもたげて、僕は辛いながらも眼を逸らすことができなかった。
 しばらくして千葉刑事は溜息と共に視線を逸らした。そんな態度にも不快感は微塵も沸かなかった。ただ、これから自分はどうなってしまうのだろう、という不安だけに支配されていた。
 それから僕は、第一の甕が部屋に舞い込んできてから通報するまでのいきさつを、細部に至るまで事細かに説明した。これは、甕を回収に来た警官に話したことと内容はほぼ同じだったので、落ち着いて説明することができた。しかしそのあとが問題で、阿部と六車とは小学校四年生までの付き合いで、五年生になってすぐに僕が転校して以来、約十年の間一度も会っていないし手紙やメールの遣り取りもしていないこと、転校する前も、二人とは特に仲が良かったわけではないこと、十年も前の人間関係はよく覚えていないので犯人の心当たりなど見当もつかないこと、などの「自己弁護」は自分でもしどろもどろと分かるほどに下手クソな説明内容だった。何一つ嘘は喋っていないのに、僕が一つ一つの質問に答えた後に千葉刑事が僕の目の奥を覗き込むように凝視するたびに、自分の説明に自信を失いかけた。千葉刑事の横で若い刑事が、調書か何かを書いているのだろうか、一心不乱にペンを走らせる音も不安を増幅させた。
「本当に心当たりはないのか。例えば、二人を殺したことを君に伝えるメッセージだとか、そういうことも考えられるんだがね……君が犯人でないと仮定しての話だが」
 千葉刑事はそう言ってまた僕の目を覗き込んだ。いちいち語尾に私が犯人云々のフレーズをつけてくることに対しては、怒りよりも恐怖が先に襲ってくる。
「すいません。本当にありません」
 僕は手のひらに浮かぶ脂汗を、机の下で指で拭いながら答えた。
 もうどれくらいの時間が経ったのか見当もつかなくなった頃、千葉刑事はようやく、
「よし。今日はもういいや。お疲れさん」
 と言った。その瞬間の解放感といったら、過去に味わった記憶のないものだった。
 二人の刑事が立ち上がるのを確認して、僕も椅子から腰をあげた。
「ああそうだ、大事なこと言うの忘れてた」千葉刑事は、扉に向かって一歩踏み出したところで立ち止まり、こちらを振り返った。「あの甕の一つにな、盗聴器が仕掛けられてたよ」
「え」
 それを先に言わんかい、と僕は関西弁で心の叫びをあげてみた。そんなユーモアでも織り交ぜないとどうにかなってしまいそうだった。本当は、先も後も関係なく、聞きたくもなかった話だ。
 胃が熱い。ここのところそんな思いばかりしている。そのうち胃が焦げついてしまいそうだ。僕は再び、今や遠ざかってしまった世界のことを思う。この話、綾には絶対言えないな、と。
「まあ、あまり得体の知れないものは部屋に持ち込まないことだな」
 そう言うと千葉刑事は再び歩を進め、部屋に入る時にそうしたように、扉の前で立ち止まって僕を廊下に出るよう促した。
 署を出ると、外はもう真っ暗だった。先にステップを軽快な足取りで降りた千葉刑事が僕に手招きした。
「何があるか分からん。乗っていけ」
 部屋まで僕を送ってくれるようだった。僕は素直にそれに従った。
 千葉刑事は覆面パトカーのハンドルを握って夜道を走らせながら僕に言った。
「俺も伊達に何十年もこの仕事やってないからな。やってるかやってないかなんてすぐ判るんだよ。君はやってない。それは判る。ただ組織ってのはそう簡単に収拾がつくもんじゃなくてなあ。とりあえず二人の同級生だった人間、というのはもう地元の県警の方で当たってるだろうけどな。まあ、念のため身辺には気をつけて、何か情報があったら知らせてくれ」
 その言葉にどれだけ救われたか知れない。僕は思わず後部座席で、その場で動かせる最大限まで深く頭を下げた。千葉刑事がタバコを咥えたまま左腕を回して、凝った肩をほぐすような仕草をした。
 アパートの前で降ろされ、周りに不審人物がいないことを確認してから、千葉刑事を乗せた車は去っていった。
 僕は鍵を開けて部屋に入った。玄関の三和土(たたき)に郵便物が落ちていた。扉の内側に受けるものが備わっていないので、外から郵便物を入れると全て三和土に落ちる。拾いあげると、それは折りたたみ型の返信用葉書だった。
 僕は台所の照明のスイッチを入れ、表に「桃山大悟様」とだけ書かれているのを確認して葉書を裏返して読んだ。
 もう、手が震えたりはしなかった。突然の出来事に免疫がついてきているのだろうか。受ける衝撃の度合いは段々弱まっているように感じる。
 それでもまだ、「終わらない」ことには変わりがない。
 

    F市立泉丘小学校四年一組同窓会のお知らせ

    鬱陶しい梅雨空が続く季節、皆様いかがお過ごしでしょうか。
    この度、有志にて同窓会を開催致したく、皆様にご案内させていただいております。
    人生の僅か四分の一程度しか経過していないとはいえ、
    色々な悩みや困難にぶつかっている方もあるでしょう。
    飲める年齢にも達したことですし、昔を懐かしみつつ
    気が置けない竹馬の友と酒を酌み交わし、
    日ごろの鬱憤なども晴らしていただきたく思います。
    皆様のご参加を心よりお待ちしております。
 
    幹事 : 桜井 栄佑


 返信用葉書を見開く。“同窓会”の開催日は明日だ。返事欄には、すでに「御出席」の「御」が斜線で消され、「出席」に太いマジックで丸がすでに囲まれていた。「御欠席」の文字に至っては、見え消しの域を超え、執拗なまでに真っ黒に塗りつぶされている。
 返信先の住所が予め書いてあるはずの面に、新幹線の切符が二枚、ペーパークリップで挟まれていた。一枚は、明日の昼に出発する電車。グリーン車で、行き先はもちろん故郷への最寄り駅だ。もう一枚は、一定の期間内ならいつでも使えるエコノミー切符だった。帰りの分ということだろう。
 表をもう一度確認してみたら、果たして、郵便局の消印などどこにも押されていなかった。確かに、あんなでかい甕を二つもここまで持ってこられる人物が、葉書一枚持ってこられないはずがない。
 切符を引き抜くと、その下、本来返信先の住所が書いてあるはずの場所に手書きの小さな文字が殴り書きしてあった。

    俺には時間がない

 エースケ。
 刑事に「心当たりは」と訊かれた時、決してエースケの存在が浮かばなかったわけではない。しかしそれは警察に話すほど確証があるものではなかったし、何より僕は、心の中でずっとそれを否定し続けていた。僕は決して、警察に隠し事をしたのではない。
 胸が締め付けられた。
 アパートの中に入るとすぐ右手に台所があるので、コンロの上に置いてある鍋は嫌でも目に入る。
 このカレーのようなものを食べたら、少しは楽しい気分に戻れるだろうか。僕は藁にもすがる思いでコンロのスイッチをひねり、弱火に調整した。
 そして部屋の電話機の前に立つ。やむを得ない。すぐに連絡しなければならない。
 僕は番号を押して受話器を耳に当て、相手が出るのを待った。
「……ありがとうございます! 呑呑亭です」
「あ、桃山です。すいません、店長に代わってもらえますか……いえ、あの、明日も休ませていただきたいと……」
 エースケには相手が拒否するという発想がなく、僕にも拒否する発想がなかった。「拒否できない」というよりは「逃げられない」という思いだったかもしれない。
 いずれにしろ、自分でもどうかしていると思う。

 それでも僕はこの時こうすることしか思い浮かばなかったのだから、これが正しい選択であるに違いない。




<後編へつづく>

2004/06/27(Sun)17:48:09 公開 / 明太子
■この作品の著作権は明太子さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
ミステリータッチ(あくまで「タッチ」)を目指した前編です。
しつこく出てきた甕もようやくお役御免です。
これだけのレスがつくとは思いませんでした。
ここまでお読みいただいた方々、本当にありがとうございます。
後編もよろしくお願いします。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。