『かごめうた 〜完〜』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:rathi                

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――私は今から四年前、人を轢き殺し、逃げた。

 それは春先の事だった。
 私は仕事が終わり、会社の駐車場に留めてある車に乗り込んだ。車の中で背伸びを一つし、キーを差し込みエンジンをかけ、走り始めた。
 会社の周りには店、ビルなどはあるのだが、少し走らせると地平線すら見えそうな平坦な道となる。その理由は田んぼだ。昔私が住んでいた町は、現在住んでいる場所とは違い稲作が主な町だったからだ。
 そんな平坦な場所で、見渡しの良い場所で事故が起きるハズなんてない。そういった私の慢心から起きた事故だったのかもしれない。
 会社から私の家まで少し距離があり、車でも三十分程かかる。その間、ほとんどが平坦な田んぼ道で直線なルートだった。さらに仕事の疲れからか、強めの睡魔が私を襲う。信号もほとんどなく、ブレーキを掛けることもなく、ただアクセルだけを踏んでいた。それらの様々な要素が混ざり合い、私は堕ちるように眠りへと誘っていった。
 歌が、聞こえた。

――かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ?

 ドン。
 何かにぶつかった音と、鈍い振動で私は眼を覚ました。目の前には何もなかった。平坦な田んぼ道が続いているだけだった。無意識の内に私がブレーキでも掛けたのかと思っていた。
 だが、右側の前輪が”何か”に乗り上げ、そして乗り越えた。続いて後輪も”何か”に乗り上げたが、前輪ほど車体は上がらなかった。そして、”何か”を乗り越えた。
 私は少し進んで、車を停止させた。心音が上がる。きっと狸か何かだろう。そう思いながらサイドミラーを確認する。何も見えなかった。バックミラーを見る。何も見えなかった。バックミラーの角度を調整してみる。ようやく、その”何か”が見え、その”何か”が判別した。
――白い服を着た、少女だった。
 私はすぐに車を降り、その子の元へと駆け付けようとした。だが、”それ”を見て私は立ち止まった。医者でもない私でも、見た目ですぐに分かった。この子はもう、確実に助からないと。
 腕が千切れているワケではない。臓物が飛び出しているワケでもない。頭が、潰れていた。一瞬見ただけでは”それ”が頭と判別出来ない程に、潰れていた。タイヤに潰された後がハッキリと残り、はみ出るように中の”モノ”が地面に散乱していた。
 「う……ぅ!」私は崩れるように地面に膝を付け、込み上げる吐き気を必死に堪えた。
 私は、人を殺した。居眠り運転で、轢き殺した。終わりだ。私の人生は今、この瞬間全てが終わった。私の中で、何かが音を立てて崩れる。私は殺人者だ。犯罪者だ。人間の屑というレッテルを貼られるんだ。終わりだ。全てが終わりだ。なんで、どうしてこの子は避けなかったんだ。こんな真っ直ぐな道なら向こうから来る車なんてすぐに分かるハズなのに。
 私は立ち上がり、辺りを見渡した。本当に何もない。ただ平坦な田んぼ道が続いているだけだ。人っ子一人居やしない。本当に、誰も居なかった。
 「……」
 私は無言で車の前方を調べた。幸い傷も、何のへこみもなかった。私はもう一度辺りを見渡した。やはり、誰も居ない。
 内なる悪魔が、私に囁いた。
 私は血が付かないように少女を抱き上げ、トランクの中へと入れた。地面に散乱した”モノ”は、足でガードレールの向こう側に除ける。そして、車をある場所に向けて走らせた。
 それは、廃車場。ここを管理していた会社も倒産し、今は誰もここに手を付けることなく、廃車だけが山となって残っていた。私はこの廃車場によく腹を立てていたが、今ばかりは感謝せずにいられなかった。
 奥の方にある廃車のトランクを開け、そこに少女を入れた。トランクを閉め、鍵穴を近くにあった細い鉄棒を入れ、折り曲げて塞いだ。
 私はこの時、どんな思いで行動していたのかはよく覚えていない。ただ、必死に”それ”を隠そうとしていたことだけは覚えている。こんな所で、こんな事で人生を終わらせたくないと思っていたのだけは覚えていた。
 私は、この身を悪魔に売り渡したのだ。いや、もしかしたら私自身が悪魔に成り果ててしまったのかもしれない。四年経った今でも、人を轢き殺した事よりも、この事件が明るみにならないかと心配なのだ。そう、罪の意識に苛まれるよりも己の保身を思ってしまう。
 私は逃げるように会社を辞め、現在住んでいる場所に移り住んだ。
 そして今、犯した罪とは反するように私は幸福の最中に居た――。



 今日は会社が休みで、妻と一緒に家でゆっくりと過ごしていた。本当は出掛けたいのだが、妻は妊娠十ヶ月過ぎ。いつ生まれても不思議ではない。
 「うん……?」妻、香奈恵(かなえ)は大きく膨れたお腹をさすった。「ねぇねぇ辰弥(たつや)、今蹴ったわよ」
 「はは、さっさと出せ! って抗議しているんだろうな」私は微笑みながら香奈恵のお腹を見た。
 妻との出会いは三年前、二十四歳の時に今勤めている会社に初めて行ったときだった。彼女は会社の受付嬢をしていて、そこで初めて会った。最初は特に何も思わなかったのだが、その内知り合いになり、何度かデートをして、そして私達は結婚した。
 平たく言えば社内結婚というヤツだ。
 「本当にねぇ……。早く出てこないかしら? こう、ギューッと抱きしめたいわぁ」自分の胸の前で腕を交差させ、いかに自分が赤ちゃんを抱きたいかをジェスチャーする。
 「大丈夫だって。今月中には生まれるって先生も言っていたじゃないか。そしたら飽きるくらい抱きしめればいいさ。でも、あんまり力を入れるなよ?」
 「ふふ、分かっているわよ」香奈恵は私を見ながら微笑んだ。

――かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ?

 「ん……?」ふと、歌が聞こえた。”かごめうた”だ。テレビかと思ったが、今は医者のドラマを放送していて、とても”かごめうた”が流れるようなシーンではない。外かとも思ったが、耳を澄ましても、もう何も聞こえなかった。
 「どうしたの?」妻が不思議そうな顔で私を見る。
 「いや……、今”かごめうた”が聞こえたんだ」
 「え……?」香奈恵は怪訝な顔をした。「止めてよ、”かごめうた”なんて縁起の悪い歌……。今一番聞きたくないわ」
 「縁起の悪い歌? ”かごめうた”がか?」初耳だった。
 「そうよ、知らないの?」
 香奈恵の質問に、私は首を振る。
 「んふふ……。教えて欲しい?」少々怪しげな笑みを浮かべながら私に尋ねた。香奈恵の悪い癖だ。何かと勿体ぶる。
 「はいはい、教えて下さいな」ため息混じりに頭を下げた。
 「んふふ……。しょうがないわねぇ……」勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、香奈恵は自慢気に説明を始めた。「”かごめうた”ってのはね、妊婦が赤ちゃんを流産する歌なのよ。かごめ、漢字で書くと”かご”が入れ物の”籠”、”め”っていうのが”女”。合わせて書くと”籠女(かごめ)”になるわけよ」
 「籠女(かごおんな)? それが妊婦と関係あるのか?」
 「そう、そこが重要なのよ。女にとっての籠というのは、つまり”家”。妊婦になったらあんまり外に出られないから、家が”籠”になるワケよ」香奈恵は、ふふんと鼻を鳴らした。
 「なるほど……。つまり、次の”籠の中の鳥”というのは妊婦を指しているんだな?」
 「はずれ〜」香奈恵は頭上に手で大きくバツ印を作る。「正解は胎児、赤ちゃんでした。文学のセンスないわねぇ、辰弥」
 「うるさい」私はちょっと拗ねたようにそっぽを向いた。
 「あはは、ゴメンゴメン。ちゃんと説明するからさ。籠女の中の”籠”、つまりこの場合は胎盤を指しているのよ。そしてその中に居る”鳥”。多分これは直接赤ちゃんを指しているんじゃなくて、コウノトリとかと同じ意味で使っていると思うの。ほら、赤ちゃんを運んでくるって鳥。それと一緒よ」生き生きとした目で私に語る香奈恵。彼女は付き合った頃からこういう手合いの話をしていた。そんな博学な所が、彼女に惹かれた要因の一つでもある。
 「さすがに次は分かったぞ。”いついつ出やる”がいつ生まれるか? ”夜明けの晩に”が朝方っていうことだろう?」
 「ん〜……、まぁそんなところね。”夜明けの晩に”は私もちょっと分からないんだ。そのままの意味なのか、それとも別の意味があるのか」腕を組んで唸り声を上げる。
 「じゃあ、鶴と亀が滑ったっていうのは……?」歌の流れ的に、私はもう感づいていた。
 「何となく意味は分かったでしょう? そう、流産の事よ。鶴は千年亀は万年ってね。二つとも長寿の意味を表しているのに、その二つとも滑って転んだ。つまり、鶴と亀に見放されたか、それとも祝福を受けることが出来なかったか……。どちらにしろ、良い意味ではないわね……」香奈恵はお腹を撫でた。これから生まれるであろう我が子を心配しての行動だろう。
 「じゃあ最後の”後ろの正面だあれ?”ってのは?」この”かごめうた”が流産の話しだとして、今の流れからいくとこの最後の部分はどうにも引っかかるモノがあった。
 「う〜ん……。それは私も分かんない。最後の部分だけが流れ的に矛盾してるんだよね。赤ちゃんが流産して、それで最後に”後ろの正面は誰?”って質問。誰にどんな意味で質問しているのかさっぱりよ。まぁ、子供達の遊び歌として後付されたんじゃないか、って話しも聞くけど。本当のところは誰も分かんないのよ」両手を少し上げて、肩をすくめた。
 「んー……」どうにも最後の部分は引っかかるモノがあった。言葉では言い表すことの出来ない何かが、私の中にへばり付いていた。
 その時、『クルミ割り人形』の音楽が鳴り響いた。これは私の着信メロディだ。急いで私はテーブルに置いてあった携帯電話を取り、画面を見た。画面には、私の勤めている会社の名前が表示されていた。
 「はい、辰弥ですけど」
 「あぁ、辰弥君かね?」電話を掛けてきたのは社長だった。私の会社は従業員が私を含めて六人しか居らず、こうして社長自らが社員に直接連絡を取るのはよくある事だった。
 「はい、何かあったんですか?」
 「実はな、泊まりではないが出張を頼みたいのだが……。いや、休日というのは重々承知の上なんだがね、どうしても他の者の都合がつかなくてな。お願い出来ないだろうか?」
 「ちょっと待ってて下さい」私は社長に聞こえないように、電話の話し口を塞いでから香奈恵の方を向いた。香奈恵は何も言わず、別れを告げるように手を振った。「分かりました。お引き受け致します」
 「そうか、助かるよ。まぁ出張と言っても書類を取りに行くだけだから安心したまえ。場所は――」
 「……え?」私はその場所を聞いてぎくり、とした。その場所とは、私が以前勤めていた会社だった。そう、私が四年前に人を轢き殺した場所でもあった。「それは……、本当ですか? その場所なんですね?」私は意味もなく念を押して聞いてしまった。
 「え? あぁ、そうだが。何か不都合でもあったのかね?」
 「……いえ」自然と声のトーンが下がる。本来なら絶対に行きたくない。だが、”行きたくない”という理由だけで断るのは、理由として弱い。何より、社長に拾われるようにして今の会社に入ったというのに、その社長本人の願いを断るというのも無下な事でしかない。
 「頼んだよ」ガチャという受話器が置かれた音の後に、単調な電子音が私の鼓膜に響く。
 私は通話を切り、携帯電話をテーブルに置く。そしてソファーに倒れ込むように座った。
 「大丈夫……? 顔色悪いよ……?」香奈恵が心配そうに私の顔を覗き込む。
 「あぁ、大丈夫だ。……心配ない」せめて香奈恵に心配を掛けさせまいと思い、意気揚々と立ち上がった。時刻を確認すると午後一時過ぎ。あの会社まで、車で大体三時間といったところだろうか。「多分帰ってくるのは八時を過ぎると思う。夕飯ならその辺で食べるから、無理して作るなよ」
 「分かった」
 私は急いで背広に着替え、携帯電話と鞄を持つ。「行ってくる」靴を履き、玄関を開けようとしたが、何故か私は躊躇った。
 「辰弥……?」見送ろうとして玄関まで来ていた香奈恵は不思議そうな顔をする。
 「香奈恵……」私は言いようのない不安を拭い去るため、香奈恵と軽いキスを交わす。
 「んふふ……どうしたのよ、急に?」頬を赤らめ、少し恍惚な顔になる。
 「……何でもない、行ってくる」柄にもない事をするもんじゃないな、と思いながら私は外へと出た。



 私は車を走らせていた。運転しながら思うことは一つ。轢き殺してしまった少女の事だ。あれ以来、死体遺棄などのニュースはよく確認するようになったが、そのことに関して一度も報道されたことはなかった。つまり、あの少女は見つかっていない。今もあの場所に居るということだ。いや、居るというのは正しくない。”置いてある”という方が正確だろう。あれから四年経っている。腐乱はとっくに過ぎ、白骨化していることだろう。これで身元が割れにくくなっていると考えると、少しは気が楽になる。私は罪を背負っている筈だ。名も知らぬ少女を轢き殺し、隠蔽し、なのに私はこうして日々幸せに暮らしている。私が言うのもなんだが、酷く不公平に感じた。



 三時間近く車を走らせていると、徐々に見慣れた光景が私の目に入ってきた。ここへ来たのは実に四年振りだ。やはり後ろめたいこともあって、ここへ来るのは極力避けていた。少女を轢き殺した道路は避け、別のルートを通って会社へと辿り着く。会社に入り、受付嬢に用件を話した。
 「少々お待ち下さいませ」ぺこり、とお辞儀をした後、電話で内部に取り次ぐ。「お待ちしました辰弥様。書類の方なんですが、まだ出来上がってないそうなので、もうしばらくお待ち下さいますか? あと一時間程で出来上がるそうなんですが……」
 フロントに飾られている鳩時計を見る。時刻は四時半過ぎ。本当なら今すぐにでもここから離れたいが、書類を受け取らなければ話しにならない。私は頷く他なかった。
 「そうですか、ここでお待ちになりますか?」
 私は首を横に振った。「いや、外で時間を潰してくるよ。久しぶりにここへ来たのでね」もっともらしいことを言って、その誘いを断る。これは建前で、本音を言えば昔の同僚に会いたくないからだ。『辞める』という電話以外、誰にも別れを告げていない。まるで夜逃げでもするように、私はこの地を去った。その理由を同僚に追求されたら、私は何と答えればいいのだろうか。
 私は、ここから逃げるように外へと出た。



 私は当てもなく、彷徨うようにぶらぶらと歩いていた。町の景色は変わり映えがなく、四年前に戻ったような錯覚に陥る。いつ開くのか不明のラーメン屋。くだらないギャグを連発する店主が居る魚屋。味は不味いが量だけなら文句がないコロッケ屋。ここには、それなりな思い出があった。私は高校卒業してすぐここへ就職し、一人暮らしを始めた。会社の成績はまあまあで、それなりな実績もあった。課長まであと一歩という地位に私は居た。きっと、このままこの会社に貢献し、定年退職を迎えるまで勤めているんだろうと思っていた。だが、人生とは何が起きるのかは分からないモノだな、と自虐的に笑う。
――ふと、遠くから子供達の声が聞こえた。
 「ねえねえ、つぎはなにしてあそぶ?」「う〜んと、ゆうびんやさん!」「うんうん、さんせい!」「さんせーい!」
 声の聞こえる方に歩いていくと、フェンスに囲まれた小さな幼稚園があった。私の知らない幼稚園だ。ジャングルジムに塗られたペンキがまだ新しく、校舎も真新しかった。きっと、私が出て行った四年の間に立てられたのだろう。ふと疑問に思ったのは、今の時刻は五時近くだというのに、何故か幼児達はまだ遊んでいるという事だ。
 一つの縄跳びを両端で持ち、ぐるぐると回し始めた。そして、幼児達は楽しそうに歌い始めた。「ゆうびんやさん、お入りなさい。てがみが十枚おちました。いちまい」幼児の一人が回っている縄跳びの中にぴょん、と入る。「にーまい」もう一人、ぴょん、と入る。「さんまい」そして最後の一人がぴょん、と入った。「よんまい、ごーまい、ろくまい……」五人の幼児達が数を数えながら、楽しそうに歌いながら飛び跳ねていた。「きゅーまい、じゅーまい、はいおしまい!」縄跳びを回すの止め、歓喜の声を上げながらみんなではしゃいでいた。
 私は、そんな幼児達の行動をフェンス越しに見ていた。あと少しすれば、私達の赤ちゃんが生まれる。そして、数年もすればあんな風に縄跳びを跳んだりするのだろう。自然と頬が緩む。
 「みんな上手ね、先生感動しちゃった」ぱちぱちと拍手しながら、幼稚園の先生らしき人が幼児達に近づいていった。歳はまだ若そうだったが、母性本能に溢れている優しそうな顔つきで、この人なら私の子供を任せても良いと思った。
 「えへへー」「頑張ったんだよ!」「先生も一緒にやろうよ!」好かれているのか、幼児達はすぐに先生へと群がっていった。
 先生は幼児達の頭を撫でながら、「お母さん達、遅いね」そう幼児達に言うと、寂しそうな顔をする。
 なるほど、まだここに残っている理由はまだ迎えの人が来ないからか。家庭の理由があってというのは分かるが、幼児達にとっては寂しいことこの上ないだろう。香奈恵には、ちゃんと時刻に迎えへと行くように言っておこう。
 「そうねー……、じゃあみんなで”かごめうた”を歌いましょう!」
 ――私は、ぎくり、とした。別に幼児達が”かごめうた”を歌うなんて普通のことだ。なのに、因縁めいたものを感じずにはいられなかった。よりによって、この地で”かごめうた”を聞くことになろうとは。
 私は覚えている。私が眠りに落ち、少女を轢く前に歌が聞こえてきたのを。そう、”かごめうた”が確かに聞こえてきた。思えば、あの歌は何故聞こえてきたのだろうか。あの少女が歌っていたのか。それとも、ラジオから聞こえてきたのだろうか。それとも――。
 いや、馬鹿馬鹿しい。私は頭を振ってそれら考えを捨てた。たまたま何処かから聞こえてきただけだ。それ以上でも、それ以下でもない。ただ偶然に”かごめうた”が聞こえてきた。それだけだ。
 「かーごめ、かーごめー」幼児達は五人で手をつなぎ合い、小さな円を作っていた。その円の中に、先生が顔を隠して屈んでいた。”かごめうた”の一番オーソドックスな遊び方で、最後の『後ろの正面だあれ?』という質問に円の中の人が答えるのだ。私も昔はこの”かごめうた”でよく遊んでいたものだ。
 「かーごのなかのとりはー、いーつーいーつーでーやーるー」幼児達は手をつなぎあったまま、楽しそうにぐるぐると回る。「よあけのばーんにー、つーるとかーめがすーべったー」楽しそうに、笑顔でぐるぐると回っていた幼児達が立ち止まった。
 『後ろの正面だーあれ?』、何故か最後の歌が聞こえてこなかった。幼児達は手をつないだまま、何も言わず立ち止まっていた。先生は聞こえてくるはずだった最後の歌が聞こえないことに疑問を感じ、怖ず怖ずと顔の前から手を除けた。幼児達は手を離し、円を崩した。そして今度は横一列に並んでいく。ざっ、まるで軍隊のように幼児達は何の乱れもなく、こちらを向いた。私と幼児達の目が合う。明らかに幼児達の様子がおかしい。まるで何かに取り憑かれたように、顔に感情が見られない。幼児達の異常な行動に先生は、ただ狼狽えるばかりだった。
 そして幼児達は、右手を上げ、人差し指で私を指しながら、コンマの狂いもなく、皆で声を合わせて最後の歌を歌い始めた。

――うしろのしょうめん だあれ?

 私の背筋は凍り付いた。私の後ろには、この世のならざる”何か”が居る。ずるり、ずるり、と何かを引きずりながらこちらへと歩いて来ている。振り向いてはいけない。私の脳、身体、全神経がそう告げていた。振り向いてはいけない。だが、私もまた、”何か”に操られるように意志とは無関係に頭が動く。振り向いてはいけない。私の脳、身体、全神経に命令するが、全て無視されるように動いていく。振り向いてはいけない。振り向けば――。
 そこには――何も居なかった。夕暮れに照らされた町並みが見えるだけだった。
 張りつめた物が切れ、私は膝から地面に崩れ落ちる。「はぁ……はぁ……!!」全身からは冷や汗が溢れるほど出て、心臓は壊れるほど激しく鼓動を繰り返す。「はぁ……はぁ……!!」上手く呼吸が出来ず、酸欠になりそうだった。それでも何とか酸素を取り入れ、何度も大きく深呼吸して自分を落ち着かせた。
 地面に膝を付けたまま幼児達を見ると、何事もなかったように無邪気にはしゃいでいた。幼児達の異常な行動にただ狼狽えていた先生は、私に向かって何度も頭を下げて謝ると、幼児達を連れて幼稚園の中へと消えていった。
 しばらくの間、私は膝を地面に付けたまま、気を失ったように何も言わず、何も考えずに、ただ呆然とそこに居た。 



 五時半前には会社へと行く予定だったが、会社に着いたのは六時過ぎだった。
 「随分と遅かったですね。ここには四年振りでしたから、つい長引いてしまったんですか?」書類を手に握りながら受付嬢は、くすっ、と笑った。
 「……ああ、まぁそんなところだ」私は適当な相槌を打って、言葉を濁した。本当の事を話せるワケもない。まだあどけない幼児達が、あんな異常な行動を取ったなどと。「……ん? 私がこの町に四年振りということを何で知っているんだ?」先ほどここを訪れたときに、そんなことを口にした覚えはない。かといって、この受付嬢と過去に面識があったワケでもない。
 「あらやだ? もうお忘れになったんですか?」彼女は再び、くすっ、と笑った。「私はここに四年前からずっと居ましたよ?」
 「え……? そうなのかい?」
 「はい。けれど、会ったのは一瞬でしたから、記憶になくても当然かも知れませんね」
 私は彼女の顔をじっくりと見た。ここへ勤めていた時の記憶を掘り出し、照合させてみる。自慢ではないが、私は記憶力には自信がある。円周率を三桁近く言うことだって出来る。だが、彼女を見たという記憶はやはりなかった。「すまない、やはり記憶にない」私は済まなさそうに言った。
 彼女は微笑みながら、「いいえ、別に構いませんよ。本当に一瞬でしたし」と言ってくれた。さすがは受付嬢、といったところだろうか。「そう言えば……」彼女は明後日の方向を見ながら、古い記憶を掘り出すように言った。「四年前と言えば……女の子が一人行方不明になりましたね……」
 「……え?」――私は、ぎくり、とした。何とかその動揺を抑え、顔には出さないようにした。「そうなのかい? それは初耳だね……」
 「あれ……? 知らないんですか? ここに住んでいる人達はみんな知ってますよ?」
 「それは多分、私が去った後にその子が行方不明になったんじゃないかな」私はもっともらしいことを言う。内心、冷や冷やとしながら。
 「うーん……、そうかも知れませんね。ちょっとした入れ違いみたいですね」彼女はそう言って、あははと笑った。
 私のそれにつられ、愛想笑いをする。普段だったら一緒に笑えると思うが、今は精神的に余裕もなく、愛想笑いが精一杯だった。
 「じゃあ、その子の事を教えてあげましょうか?」
 轢き殺してしまった相手のことなど、知りたくなかった。知れば、もっと重い十字架を背負うだけだ。「遠慮しておくよ。もう、過ぎ去った事だしね」
 「その女の子の名前はですね……」私の返答が聞こえてなかったのか、彼女はその女の子について話し出す。
 「いや、いいよ。早く会社に帰って書類を届けなければいけないんだ」そうだ、私はまだ書類を受け取っていない。まだ彼女の手の中にある。だが、彼女はこちらの声が聞こえていないのか、無視しているのか、止めようとはしなかった。
 「高橋 紗世(さよ)って名前なんです。行方不明になった時の歳は八歳だったそうです」
 「いいってば! 止めてくれ! 私は急いでいるんだ!!」彼女に向かって怒鳴るように言うが、まるで効果がなかった。
 「行方不明になった時、その子は毬(まり)を持って外へ行ったそうです。この辺りには子供が少ないせいか、その子にはあまり友達は居ませんでした。その子は毬つきをするのが好きで、よく一人で外に行っては一人で毬をついていたそうです」彼女は、子供に童話でも聞かせるように、一言一言丁寧に語っていた。「その子はある歌が好きで、毬をつきながらよく歌っていたそうです」彼女は空いている左手で、毬をつくように手を上下させ、歌い始めた。
 私にはすぐに分かった。私が轢き殺した女の子、紗世が好きな歌、それは――。

――かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ?

 そして彼女は、にやり、と笑った。それはまるで口裂け女のような、醜悪な笑い方だった。
 「う、うわぁぁぁーーー!!」私は、彼女が握っていた書類を奪うように取り、そのまま外へ逃げ出した。途中、床に置いてあった段ボールにぶつかるが、そんなことは気にも留めず車へと走る。胸ポケット入れてある鍵を震える手でなんとか握り、車のロックを開けると同時に、車の中へ逃げ込む。エンジンをかけ、振り返ることもなく会社を後にした。そう、振り返ってはいけない。振り返れば――。



 車を二十分程走らせると、見慣れた光景はもうなくなっていた。その間、一度も振り返ることはなかった。私はハンドルを握ったまま、何度も何度も頭を振る。会社の受付嬢が私が轢いた少女のことを知っており、まるで誘導尋問のように少女のことを私に言って聞かせた。いったい何の意味があってあんな行動したというのだ。その前の幼児達もそうだ。物の怪でも取り憑いたように――。
 私は、ハッ、となった。”物の怪”、そう物の怪だ。いや、違う。正確にいえば”怨霊”だ。私が轢き殺し、それを隠蔽(いんぺい)した私に復讐すべくして現れた、紗世の怨霊なのだ。そんな馬鹿な。私は激しく頭を振ってそれを否定しようとするが、それ以外に思いつかなかった。幼児達の変化、受付嬢の台詞。紗世の怨霊が乗り移ってやったとした思えなかった。
 車内に軽快な音楽な鳴り響き、エンジン音を掻き消す。私の着信メロディ、『クルミ割り人形』だった。道路の左側に寄り、左ウインカーを付け、車を停止させる。助手席に置いてあった携帯電話を手に取り、訝しげに画面を覗き込む。画面には香奈恵が通っている個人病院の名が表示されていた。何かあったのか。沸き起こる不安を抑えつつ、私は急いで通話ボタンを押した。
 「も、もしもし!?」
 「あっ、辰弥様ですね?」若い看護婦の声だった。「こちら産婦人科なのですが……」
 「つ、妻がどうかしたんですか……?」走馬燈のように、起きては欲しくない考えが私の目の前をよぎる。
 「”おめでた”ですよ」しかし、私の心境とはうってかわって明るい口調で話す。「おめでとうございます! ついに赤ちゃんが生まれようとしてますよ!」看護婦はまるで自分のことのように、嬉しそうにだった。
 私はその報告を聞いて、ほっ、と胸をなで下ろす。「そうですか……。妻は今どちらに?」
 「分娩室です。今日の午後二時前に激しい陣痛があり、それでこちらの方に連絡が来ました」
 私が家を出て直ぐじゃないか。もう少し社長からの電話が遅かったら、香奈恵の側に居られたというのに……。「分かりました。直ぐにそちらへ向かいます。それと」私は言葉を付け足した。「妻に頑張れって、伝えて下さい」分かりました、と看護婦の声が聞こえてから通話を切った。
 ついに、ついに私の子供が生まれる……。喜ばしいことなのに、訳の分からない不安はヘドロのように蓄積されていく。私の身に何か起ころうとしているのか、それとも、香奈恵の身に何か起きようとしているのか……。
 助手席に携帯電話を置こうとすると、再び『クルミ割り人形』が鳴り響く。今度は会社の名前が表示されていた。
 「もしもし」
 「辰弥君か? 書類は受け取れたかね?」電話の主は社長だった。
 「ええ、受け取りましたよ」
 「そうか、それは良かった。済まないが中身を確認してもらえないか? こちらへ持ってきて間違っていた、なんてオチは勘弁してもらいたいからな」電話の向こうで、社長は豪快に笑った。
 「分かりました。じゃあ今確認しますね」携帯電話を肩と首で挟み、助手席から書類を手に取る。書類の紐を解き、少々厚めの中身を取り出した。
 中身は写真だった。B5用紙ほどの大きさで、撮るときに失敗したのか写真はピンぼけしている。かなり激しくピンぼけしている為、どこかの風景を撮ったというぐらいしか分からなかった。
 「社長、ピンぼけ写真が入ってましたけど? これで合っているんですか?」
 「そうだ。枚数が足りんかもしれんから、数えてくれ」
 この写真にいったい何の意味があるのか分からなかったが、取り合えず枚数を数えることにした。
 一枚目、先ほどのピンぼけ写真。
 二枚目、やはりピンぼけしていて、どこかの風景を撮った写真だった。
 三枚目、先ほどの風景写真に何やら黒い丸が、中央に追加されていた。
 四枚目、その黒い丸が車だというのが判別出来るほど大きくなる。
 五枚目、私が写っていた。今までのピンぼけ写真とは違い、鮮明に私が写っていた。私の瞳は、閉じてあった。
 六枚目、再びピンぼけ写真に戻る。今度は風景ではなく、青い空が写っていた。
 七枚目、真っ黒で何も写ってなかった。
 八枚目、パイプのような物が写っていた。このパイプには見覚えがあった。私の車を下から見たときに、このパイプが見えるハズだ。
 九枚目、再び真っ黒で何も写っていなかった。
 十枚目、ピンぼけの空がまた写っていた。
 十一枚目、絶望に打ち拉がれて、地面に跪(ひざまづ)いていた私が写っていた。
 「しゃ、社長……!? これは……!?」
 「ちゃんと確認してくれよ。枚数が足りなくては困るからさ」
 すぐに私は気づいた。この写真は私が紗世を轢き殺してしまった、その前後の光景だ。紗世の網膜に焼き付いていた映像を取り出す、なんてSF染みた事が出来るわけがない。だが、写真はここにある。これも、私に対する怨念が生み出した産物なのだろうか。
 私は怖くなって写真を窓から捨てようとした。だが、手が凍り付いたように動かない。顔を背けるが、何かの力によって写真に顔を戻される。目を閉じようとしても、全く目蓋は動かなかった。身体全てが、金縛りにあったように動かなかった。いや、手だけは写真をめくるために動こうとしていた。止めろ。私は見たくない。これ以上見たくない。だが私の意に反するように、十二枚目の写真が姿を現した。
 「よく撮れているだろう?」
 十二枚目の写真には、”何か”を見つめている私が写っていた。その瞳は絶望の色に染まっており、顔は痙攣したように引きつり、誰かに犯された後みたく精気が感じられなかった。だが、なぜか口元は笑っていた。絶望の中に一筋の光を見つけた、そんな笑い方だった。もっとも、その光はどす黒く、人間として最低の行為を思いついた瞬間でもあった。
 これが……私なのか。こんな醜悪な笑みを浮かべているのが、私なのか……。
 「ははは、随分と良い顔をしているじゃないか? 辰弥君」
 「止めてくれ! あんたは私が轢き殺した少女なんだろう!? なんでこんな物を見せつけるんだ!?」私は悲鳴のように叫んだ。だが、社長の声をした紗世からは返答がなく、代わりに写真が一枚めくられた。
 十三枚目、紗世の頭から飛び出た”モノ”を、一生懸命足で道路脇に掃いている私が写っていた。その背中は、矮小な存在にしか見えなかった。
 「止めろ! こんなことをして、何が楽しいんだ!?」
 十四枚目、紗世を車のトランクに乗せ、閉める途中の写真だ。動かぬ紗世を見つめる私の瞳は、哀れんでいるのか、嘆いているのか、喜んでいるのか……。
 十五枚目、感光したように真っ黒い写真になる。白い、光のような点だけがやけに栄えて見えた。
 十六枚目、やはり真っ黒で、白い点が少し移動しているだけだった。
 十七枚目、少女は未だトランクの中だ。今頃、私は廃車場へと向かっている途中なのだろう。
 十八枚目、白い点すら消え、真の闇と化していた。
 十九枚目、トランクが開けられ、廃車の山を背景に私が写っていた。私は何ともいえない笑みを浮かべていた。犯罪を隠蔽する瞬間、人は皆、こんな笑みを浮かべたりするのだろうか……。
 「頼む……! 止めてくれ……!!」懇願に言うが、その願いは無視され、写真はめくられていく。
 二十枚目、廃車の山を歩いていく私の顔が写っていた。頬にある一筋の汗が太陽に反射し、きらり、と光っていた。
 二十一枚目、ここでまたピンぼけ写真になる。写真の上下には黒い縁取りのような物があり、太陽を背に私が写っていた。これはトランクの中に紗世を放り込んだ時の写真だ。
 二十二枚目、上下にある黒い縁取りの感覚が狭まる。私がトランクを閉めようとしているのだ。縁取りの感覚が狭まったせいで、私の鼻から上が見えなくなる。まるで犯罪者のよう……いや、犯罪者そのものだった。
 二十三枚目、再び一筋の光だけを残して紗世は暗闇の中へと閉じこめられることになった。
 二十四枚目、その一筋の光も、私が細い鉄棒を入れ、塞いでしまった。写真は感光したように、真の暗闇となった。
 「うあ……! うああ……!!」気が狂いそうだった。いっそ、私の眼前に悪霊となって出て来てもらった方がまだマシだ。自分の醜い部分を、全て網膜に焼き付けられたみたいだった。「悪かった……! 私が悪かった……!! もう、もう止めてくれ……」ぼろぼろと涙をこぼしながら、私は謝った。いくらでも謝罪します。すぐに貴女をトランクの中から出して、埋葬します。警察にも出頭します。だから、だから……。
 「許して、下さい……」
 ふっ、と金縛りが解け、身体が自由になる。私は座席に寄りかかり、安堵のため息を漏らした。その拍子に手から写真がばらけて下に捲かれ、首と肩の間に挟んであった携帯電話は下へ滑り落ちていってしまった。
 数十秒ほど、私は放心状態だった。何も考えられなかった。焦点の合わない目で、沈んでいく夕日を眺めていた。カラスが、鳴いていた。「ふぅ……」私はもう一度、安堵のため息を漏らした。なぜか私の心は晴々としていた。身体に重くのし掛かっていた錘(おもり)が、何処かへと飛んでいったような気分だ。己の罪に耐えきれず、警察へ出頭する前に味わう気分とはこんな感じなのだろうか。身体はやけに軽い。己が背負った十字架が下ろされた、それが私にとって良い事なのか悪い事なのか、今は判断が付かなかった。

――――かごめ かごめ 

 下に落とした携帯電話から、”かごめうた”が聞こえてくる。きっと紗世が歌っているのだろう。社長の声ではなく、幼い少女の声で。

――かごのなかのとりは いついつでやる 

 あれだけ不気味に感じていた”かごめうた”も、今となっては心地よい子守歌に聞こえる。私は罪の意識から解放された。私の子供が無事生まれたら、警察に出頭しよう。そして、償おう。何年間刑務所の中に入ることになるのかは分からないが、何年でも甘んじて受けようと思っていた。

――よあけのばんに つるとかめがすべった

 もしかしたら、私の子供は今日生まれるのかも知れない。鶴と亀が滑らないように祈るだけだ。上等な絨毯でも下にひいて、滑らなくしたかった。
 『子供が無事生まれる、それだけで良いのか?』
 誰かの声が聞こえた。辺りを見渡しても、人一人見当たらない。下に転がっている携帯電話からでもない。
 『香奈恵と子供を置き去りにし、自分は警察に出頭。メデタシ、メデタシ。本当にそう思うか?』
 これはきっと幻聴だ。悪魔の声だ。私は耳を塞ぐ。
 『香奈恵は後ろから人差し指で指される存在になり、子供は”ヒトゴロシ”の子供になるというワケだ』
 耳を塞いでも、その声は聞こえる。やめろ。私に語りかけるな。私を誘おうとするな。
 『お前が居なくちゃ、おまんまは食えない。子供を養う為に香奈恵は水商売へと手を出す』
 「止めろ! 止めろ! 止めろ!!」語りかけてくるその声を振り払うように、私は両手で耳を塞いだまま頭を激しく振る。 
 『少々の金で、お前の知らない、香奈恵も知らない男達と交わることになるワケだ』
 「うわあああーー!!」
 『お前が刑務所を出て、果たして香奈恵はもう一度抱いてくれるかな? 子供は温かく歓迎してくれるかな? 無理だよな。自分達を破滅に追い込んだお前を、誰が歓迎しようか』
 私は、もう耳を塞ぐことを止めていた。小刻みに震える自分の手を見つめている。この手で、香奈恵を抱くことが叶わなくなるのか。子供を抱くことが出来なくなるのか。怖かった。今まで味わってきたどの恐怖よりも、怖かった。「どう……したら、いいんだ……?」
 『それは、至極簡単なことだろう?』
 にやり、と笑うように内なる悪魔は言った。私は、ゆっくりと頷いてしまった。

――うしろのしょうめんだあれ?

 ビタン、軽い衝撃と共に”何か”が車の後部座席に入ってきた。目だけ動かし、バックミラーで確認しようとするが、何も映らない。
 ヒュー……。
 空気が漏れるような音が聞こえる。それが人の呼吸している音だと気が付いたのは、もう一度その音が聞こえた後だった。
 ヒュー……。ずるり。
 後部座席で、何かが蠢く。紗世だ。紗世が直接復讐しに来たのだ。「…………!」許してくれ、そう叫ぼうとしたのに声が出なかった。
 ヒュー……。ずるり。べちゃり。
 紗世の息づかいが私の首元に掛かる。車の椅子一つ分しかない距離に、紗世は今居るのだ。来るな。来るな。来るな。
 ヒュー……。ずるり。
 私の全身が動かなくなった。まただ。今度は何を見せるんだ。何をするんだ。
 ヒュー……。ヒュー……。
 機械のように、ギクシャクした動きで私の右手が動き始めた。下に落ちている写真を数枚拾い上げた。それをまた私の眼前に持ってきて、めくり始めた。
 一枚目、暗い、真の闇が広がっている。何も写っていない。二枚目も、三枚目も、四枚目も……。
 五枚目、私はそれを見て凍り付いた。トランクが、開いていた。青い空が写っていた。馬鹿な。そんな馬鹿な。今後ろにいるのは、紗世の”怨霊”じゃなくて、”本体”だとでもいうのか。ゾンビのように生き返り、私へ復讐しに来たというのか。
 ヒュー……。ヒューー……。ヒュー……。
 私の視線が、助手席へと動く。空になった書類入れと、写真の束が置いてあった。私の右手は、その写真の束と今持っている写真を持ち替えた。そして、私の眼前に持ってくる。
 一枚目、私と香奈恵が写っていた。私はビジネススーツを着ていて、香奈恵は受付嬢の格好をしていた。これは、私と香奈恵が初めて会った時だ。紗世が見ていた、とでも言うのか。またしても右手が勝手に動き、写真をめくっていく。
 二枚目、洒落たレストランで食事を摂っている私と香奈恵が写っていた。
 三枚目、絡み合う私と香奈恵が写っていた。こんな所まで見ていたのか……。
 四枚目、教会で華々しい結婚式を挙げている私達が写っていた。皆に祝福され、私達は人生最高の笑顔を見せていた。
 五枚目、白衣を着た老人と香奈恵が写っていた。香奈恵の顔は、結婚式の時に見せた笑顔に負けないくらい良い笑顔をしていた。チェック柄の服装から、多分医者から妊娠を告げられた時の写真だと思う。
 六枚目、手を取り合って喜んでいる私達が写っていた。この時の事はよく覚えている。香奈恵に妊娠していることを告げられた時だ。私は、ついに子供が出来たと大いに喜んで、香奈恵と手を取り合って喜んだ。
 その後も、次々と写真は見せられていく。私達が喧嘩した時の写真や、くだらない日常風景、笑顔で話し合っている時など。紗世は、私達をずっと見ていたんだ。自分は不幸になってしまったというのに、不幸にしたその張本人が何故こんなにも幸せでいるのか、と妬んでいるようにも思えた。
 十五枚目、携帯電話を片手に応対している私と、大きくなったお腹が重そうに椅子に座っている香奈恵が写っていた。いったい何の意味があってこの写真を私に見せているのだろうか、そう思っていると次の写真へ移った。
 十六枚目、微かに触れるようなキスをしている私達が写っていた。玄関を出る直前に感じた不安は、こういうことだったのか。
 十七枚目、大事そうにお腹をさすっている香奈恵だけが写っていた。なぜ私ではなく香奈恵を見ているんだ。いったい、何の意味があって……。
 十八枚目、大きく膨らんだお腹を手で押さえ、苦痛に歪んだ顔で電話を掛けている香奈恵が写っていた。陣痛が始まったんだ。私が側に居てやれば、香奈恵の負担も減っただろうに……。
 十九枚目、景色は一変し、白い壁に囲まれた廊下と、担架で運ばれていく香奈恵が写っていた。陣痛で顔が苦痛に歪んでいたが、これから生まれるであろう子供を思ってか、微かな笑みも混じっていた。
 二十枚目、白い廊下の奥に、両開きの白い扉が写っていた。その扉の上には、”分娩室”と書かれていた。近くにあるランプが赤く光っていた。香奈恵の出産が始まっているのか…。
 写真はそこで終わっていた。今まで動かされていた手は、動くことなく写真をずっと握りしめたままになっていた。身体も、動かない。
 ヒュー……。ヒュー……。ヒュー……。
 紗世の呼吸が首に掛かる。嫌悪感と同時に、こうなってしまったのは私のせいだと罪の意識も感じた。
 ヒュー……。ヒュー……ァ。ヒュー……ァ。
 漏れるような呼吸音の中に、今までとは違う音が聞こえた。何かを言おうとしている。そんな気がした。
 ヒュー……カ。カー……ヒュー。カーゴー……ュー。
 漏れる息と、唇を調整して紗世は何かを言おうとしている。時折、パリパリと何かが剥がれるような乾いた音が聞こえた。
 カーゴーメー……。ヒュー……。カーゴーメー……。
 私は耳を塞ぎたかった。紗世は、”かごめうた”を歌おうとしている。誰かを触媒にしてではなく、私によって潰されてしまったその口で。止めてくれ。お願いだ。もう、止めてくれ……。
 つーるトかーめガ……。ヒュー……。スーべったー……。ヒュー……。ヒュー……。
 紗世は、一際大きく息を吸った。そして、もう一度その部分を歌った。
 つーるトかーめガ スーべったー……。ヒュー……。
 鶴と亀が滑った、紗世は何故か二度その部分だけを歌った。
 つーるトかーめガ スーべったー……。ヒュー……。
 三度。 
 つーるトかーめガ スーべったー……。ヒュー……。
 四度。 
 つーるトかーめガ スーべったー……。ヒュー……。
 そして五度と、狂ったラジオカセットのようにその部分だけを繰り返す。何が言いたい。紗世はいったい何が言いたいんだ。今こうして私に己の罪を認めさせるのが復讐ではないのか。私の精神をギリギリまで追い込んで、発狂させようとしているのか。
 つーるトかーめガ スーべったー……。ヒュー……。
 紗世は何度もその部分だけを歌う。漏れる息と、唇を調整して同じ部分を何度も何度も。
 気が狂いそうだった。だが、香奈恵と生まれてくる子供を思えば、瀬戸際で踏み止まることが出来た。我が子をこの手で抱くまでは、絶対に死んでたまるか。 
 つーるトかーめガ スーべったー……。ヒュー……。
 それでも飽きずに、紗世は歌う。鶴と亀が滑った。今こうして歌う意味はあるのだろうか。私の精神を狂わそうとするならば、もっと効果的な方法があると思う。もっと、他の意味があって歌っているのだろうか。その部分の意味を改めて思い出そうとした。
 ――瞬間、全身の血の気が引いた。考えてはならないことが頭を過ぎった。まさか。まさか。そんな馬鹿な。それだけは駄目だ。それだけは止めろ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
 紗世が私の真後ろで、にやり、と笑った気がした。
 つーるトかーめガ スーべったー……。
 もう一度だけ歌うと、私の金縛りは解け、後ろからの圧迫感は消え去った。
 「はぁ……はぁ……!」呼吸が酷く荒れている。身体が酸素を求めているのか、それともこれから起ころうとしている事態を危惧してなのか。「嘘だ……!」頭を振って、その考えを振り払おうとする。「嘘だ! それだけは止めてくれ……!!」ここにはもう居ない紗世に向かって懇願する。だが、声は届かない。紗世は、己の目的を果たすべく移動したのだ。あと少しでこの世に生を授かろうとしている私の子を、流産させるために。
 「くそっ……!!」悔しさで溢れる涙を拭きもせず、私はエンジンを掛けた。掛かったと同時に、フルアクセルで車を発進させる。
 絶対にそれだけは止めてみせる。自分がどうなったって構わない。お願いだ、神よ。貴方が慈悲深いのなら、私の命を捧げる代わりに香奈恵を、子供を助けてやってくれ。助けてくれるのなら、喜んで地獄に堕ちよう。だから、お願いだ。助けてやってくれ……。
 一時停止を無視し、赤信号も無視し、カーブでもほとんどスピードを落とさずに曲がる。直線では、回転数がレッドゾーンに突入するがスピードは緩めなかった。私は、今紗世も向かっている場所、香奈恵が居る病院へと急いだ――。



 道路の左側に香奈恵が居る病院が見えた。時刻は九時過ぎ。病院の消灯時間は早く、一部の部屋を残して明かりは消えていた。香奈恵が通っているこの病院は個人にしては大きく、三階建てだ。県内では一番の大きさだと、香奈恵が言っていた気がする。
 車を専用駐車場に止め、外へと出た。
 夜間外来用の入り口から入るべく、歩を進めようとする。だが、数歩進んだ所で私の足は止まった。右足が地面にへばり付いたように動かない。ぐっ、と力を入れても、踵すら上がらなかった。
 ざわざわ、と音が聞こえた。その音は、私の右足から聞こえてくる。黒い、細長い物が私の足に絡みついていた。闇の中で、鋭い瞳が浮かぶ。蛇だ。私の足に、無数の蛇が絡みついていくのが見えた。勿論、本物ではないと分かっていた。触れても鱗の感触などなかったからだ。
 無数に絡みつく蛇を引きずるように、一歩、また一歩と進んでいく。蛇達は私の左足にも絡みつき、やがて腰の下全てが蛇に絡みつかれた。内なる自分が警告しているのだろうか。この先に行けば命の報償はない、と。見てはいけない地獄絵図が待っている、と。
 一度目を閉じ、瞑想する。幻影だ。これは幻影だ。香奈恵と、子供を助けるために私は進まなくてはならない。私は、自分自身にそう言い聞かせた。
 目を開けると、絡みついていた蛇は全て消えていた。私は一度深呼吸してから、夜間外来用の入り口へと向かっていった。

 ガラスのドアを押し、中へと入る。すぐ側に夜間外来用の受付があった。
 「すいません」受付に声を掛けるが、返答はなかった。念の為、正面玄関の受付にも行ってみるが、誰も居ない。一人くらいは絶対に待機しているハズのナースステーションにすらも、人が居なかった。
 嫌な予感がした。まさか、もう既に紗世は――。

――かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ?

 ”かごめうた”が聞こえてきた。紗世の声ではない。一人ではなく、何人かが歌っているようだった。
 全身から汗が噴き出て、手は小刻みに震え出す。嘘だ。まさか。そんな馬鹿な。私は”かごめうた”が聞こえる方に、ふらふらと歩いていく。”産婦人科”と書かれた受付を過ぎ、廊下を右に曲がると、突き当たりに”それ”が見えた。
 ――分娩室、歌はそこから聞こえてきていた。
 「嘘だよなぁ……」私は喘ぐように呟いた。まるでゾンビのように身体を引きずりながら私は歩いていく。分娩室に近づくに連れて聞こえてくる歌声は大きくなっていく。中から聞こえる歌声は、子供が歌っているみたく無邪気に、そして楽しそうだった。
 白い、両開きの扉の前に立つ。ここの役目を記すかのように、上には”分娩室”と書かれてあった。近くにあるランプは消えている。「嘘だよなぁ……」もう一度私は呟いた。ここを開けば、香奈恵が居て、看護婦に抱かれている私の子供が居て、香奈恵が『生まれたわよ』と嬉しそうに私に言うんだ。そして私は、私の子供を抱いて、人生で最高の喜びを噛み締めるんだ――。
 私は、扉をゆっくりと開け放った。

――かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ?

 医者と看護婦達は、楽しそうに手を繋ぎ、円を作って回っていた。異様な光景だった。狭い部屋の中で、誰かを囲うように小さな円を作り、”かごめうた”を歌いながら回っていた。楽しそうに、くるくると。

――かごめ かごめ かごのなかのとりは いついつでやる よあけのばんに つるとかめがすべった うしろのしょうめんだあれ?

 もう一度”かごめうた”を歌いきると、医者と看護婦達はばらけ、部屋の奥へと歩いていく。そして、円の中心となっていた”モノ”が見えた。
 ――腹を裂かれた、香奈恵だった。蛙の解剖みたく奇麗に裂かれ、臓物が分娩用のライトに照らされ、てらてらと光っていた。
 嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。嘘だ。
 「嘘だーー!」私は香奈恵に飛びつくように近づいた。ぴちゃり、と粘着性のある液体を踏む。足下を見ると、夥(おびただ)しい量の血がベットの下に池を作っていた。
 「あぁ……」香奈恵の顔にそっと手を触れてやる。冷たかった。元々白かったその肌はさらに白くなり、唇はルージュを塗ったように青くなっていた。「香奈恵……香奈恵……」愛する者の名を呼ぶが、応えは返ってこない。
 視線を腹部に移す。膨れ上がっていたお腹は”中身”が取り出され、香奈恵が妊娠する前の体型になっていた。
 「子供を……、私と香奈恵の子供をどこへやった!?」奥に居る医者と看護婦達を睨みつけながら吼えた。「紗世……! 出てこい!! てめぇをぶっ殺してやる!! 何故私だけを殺さなかった!? 何故香奈恵を殺した!? 答えろ!!」
 横一列にならんでいる左端の看護婦が、それに答えるように話し出す。
 「貴方を殺すだけじゃ、つまらないから。殺しただけじゃ、私の気が晴れないから。貴方の全てを壊して、絶望を味わせたかったから」
 その言葉を紡ぐように、隣の医者が話し出す。
 「私は貴方に轢かれて死んだ。そして車のトランクに隠された。誰にも見つけられず、空の棺桶で葬式は挙げられて、土に帰ることすら許されなかった」
 「暗い暗い闇の中。私はずっと其処にいた。籠の中の鳥のように。貴方を憎むあまり、私は怨霊と化し、生まれ変わった。鶴と亀に見放されながらも、世の理に反した姿で私は生まれた」
 「貴方に復讐するために。貴方の全てを壊すために。貴方に絶望感を味わさせてやるために。貴方に絶対的な恐怖感を味わさせてやるために。私は、ここに居る」
 最後の言葉を紡いだように、右端の看護婦が話し終わった。

――かごめ かごめ

 手をつなぎ合い、身体でリズムをとりながら医者と看護婦達は”かごめうた”を歌い始めた。

――かごのなかのとりは いついつでやある つるとかめがすべった

 そこまで医者と看護婦達が歌うと、ぴたり、と歌うのを止めた。横一列に並んだ医者と看護婦達は、ゆっくりと右手を上げた。そして人差し指で私の後ろを指さす。
 ヒュー……。ぴちゃり。
 私の背筋は凍り付いた。紗世だ。最後の仕上げをするべく、紗世の本体が現れた。
 ヒュー……。ぴちゃり。ぽたり。
 何かの液体を啜(すす)るような嫌な音がする。いったい、私の後ろで何をしているんだ。
 ヒュー……。ぴちゃり。がぶり。ぽたり。
 柔らかい”何か”を食べている、そんな感じだった。
 ヒュー……。がぶり。がぶり。がぶり。ぽたり。
 紗世はムシャムシャと、一心不乱になって”何か”食べていた。
 ヒュー……。がぶり。ぴちゃり。ぽたり。ぽたり。
 足下に、”何か”の液体が流れてきた。それは真っ赤な液体で。つい先程も見た気がした。いや、見た。
 「まさか……! 嘘だ……!? 止めてくれ……!! 紗世……!!」
 私はその”何か”を取り返すべく、後ろを向いた。もはや、手遅れと分かっていても……。
 「うわぁぁーーーー!!」

――うしろのしょうめん だーあーれ?



                           【了】

2004/06/07(Mon)22:30:31 公開 / rathi
■この作品の著作権はrathiさんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
申し訳ない。皆さんに感謝を述べるのを忘れておりました。
終わらすのでいっぱいいっぱいでしたので…。
改めて感謝を述べさせてもらいます。

冴渡さん、オレンジさん、夢幻花 彩さん。
卍丸さん、笑子さん、遥さん(ひらがなの”はるか”さんと同一人物ですよね?)。
石田壮介さん、雫さん、ねこふみさん。

皆さん、読んで頂き本当にありがとうございます。
私のモットーは”日々精進の月日也”ということなので、益々励んでいきたいと思ってます。
現在次の小説に向けて構想を練っております故、しばしのお待ちを。ではでは〜

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。