『カルバドス』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:和泉                

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前略 
愛しい小夜子さん

ぶしつけなお手紙で失礼いたします。急に貴女に言葉を紡ぎたくなって筆を取りました。
小夜子さん、いつぞや貴女と語り合ったあの夜を覚えていらっしゃいますか。
 あの我が家の庭の木蓮は、まだ美しく咲き誇っているのでしょうか、気掛かりです。
 私は今日、シブーストという菓子を学びました。あの夜語った、林檎の酒を含ませて作るものです。
 覚えていらっしゃいますか。その酒のことも、この私のことも。
 どうか忘れないでください。きっと私は立派に西洋菓子を学んで帰ります。そして父よりも成功する男となることを誓います。
 貴女がか弱い女の身一つで残され、我が近江家で心細い日々を送ってらっしゃることを思うと、私も胸が苦しくなります。しかしどうか気をしっかり持って私のことを待っていて頂きたいのです。
 あと二月あまりで貴女の元へ戻ってまいります。
 私の妻になることを希望に、どうか辛抱していてください。
                         
草々  
近江 亘  


便箋の縁に微かに付いたインクの汚れを眺めながら、小夜子は、亘と語り合った夜のことを思い返した。亘が部屋に来いと言ったのも初めてだったし、語り合ったのも初めてだった。
あの時亘は小夜子のことをずっと前から愛していたと言い、父は金に物を言わせて小夜子を弄んでいる、小夜子が哀れだというようなことを言った。
小夜子はひどくおかしくて笑ってしまったことしか覚えておらず、お酒の話なんてしたかしらと、一人呟く。
「何と書いてあった」
と、静かな声が聞こえた。小夜子が驚いてばっと後ろを見やると、そこには近江佐野輔の姿があった。先ほどまで隣の間で大きな体を横にしていたにも関わらず、足音一つ立てない素早さが不自然であった。
 「近況と…愛の言葉が、少しあるだけです」
小夜子は気を落ち着けてやっとそれだけのことを口にした。佐野輔は鼻で哂うと小夜子の手からそっと手紙を取り上げた。
「あいつは、勉強していると、書いてあったか。真面目に、従順に、親の言いつけの通り」
そう囁きながら佐野輔は小夜子の白い首筋に息を吹きかけた。
「はい。確かに。お読みになられますか」小夜子は身じろぎもせず微笑を湛(たた)えた。しかし佐野輔は手紙を綺麗に畳んで漆喰の机の上に置くと、小夜子を背後から思い切り抱きすくめた。襖の開け放された二間続きの二十畳が、二人の世界と化した。
「旦那様」と小夜子は形ばかり貞淑を演じる。しかしそれも今や常のことで、逆に小夜子の恥らう仕草は合意の印となっていた。
 よく日に焼け、多少骨ばってはいるものの年の割には肉のついた男の右手が女の藤色の襦袢の中に滑り込む。佐野輔はあまり着物を脱がしたがらない。それはいつ人が来ても誤魔化せる様にというよりも、その方が高まるという、自身の性癖からであった。
「息子が下女に宛てた手紙を、どうして読む必要があろうものか」佐野輔は小夜子のうなじとも耳元ともつかぬ所で囁いた。
「気になりもせんが、お前が私に読んで聞かせたいというなら、聞いてやらないこともない、なあ、小夜子」
 小夜子はこの大富豪である主人が、意地の悪い顔をして笑う瞬間が好きだ。それは浅はかで、成金で、女を小馬鹿にしているこの男の奥底が一番脆く傑出する瞬間だと感じるからでもあった。
「旦那様、お昼間に、こんな広いところで、一体何をいたしますの」
そう小夜子が目を伏せると、佐野輔はその腹に圧し掛かった。二度目の恥じらいが、開始の合図だ。

 
 近江家は、一代で富豪の座に上り詰めた菓子屋である。昭和の世にはまだ珍しい西洋菓子を売って、旧公家や貴族たちの間を一世風靡している。戦前から高級和菓子屋としてそれなりには知られていたが、若くして跡を継いだ佐野輔が戦後すぐに洋菓子を店に出した。
 初めはチョコレート菓子やカステラなどの焼き菓子を長崎から横浜に取り寄せていただけだったが、最近は顧客の紹介で取引するようになったイギリス人やフランス人から材料を取り寄せて、生菓子を作るまでになった。
もはや先代まで引き継がれてきた和菓子は鳴りを潜め、近江家は毎日予約と品切れが続く人気洋菓子店に生まれ変わったのであった。
戦争が終わっても食べるものが無い庶民が溢れる中、旧伯爵家階級の貴族たちは毎日ピアノを弾き、晴れ着やドレスを着て、横浜近江家の洋菓子を食べている。小夜子も以前はその中の一人であった。父は貿易商人、母は旧公家の出身。名門の一人娘として華々しく毎日を過ごしていた。
しかしある日、その幸せは崩れた。父が外国から麻薬の密輸をしていると新聞に取り上げられたのである。父は検挙され、母は自殺をした。財産は警察と親族に搾り取られ、一家は離散した。小夜子は途方に暮れた。生まれてこの方贅沢以外の暮らしを知らずに育った。たった一人で一体どうして生きていけるものかと嘆いた。
しかし皮肉にも、それが逆に小夜子の中の強さを生み出したのであった。貧乏暮らしは絶対にしたくないという、高飛車で気位の高いお嬢さんらしい我儘で甘い考えが、小夜子を「富豪・近江佐野輔」の愛人にまで上り詰めさせた。
 たとえ下女として雇われたとしても、下女の仕事をしないで済むのならばどうでも良い。小夜子は自分の美貌と玉の肌に全てを賭けるしかないことを知っていた。
「私にはもう見てくれしか残っていない」そう思って何度か会ったことのある近江家の主人を訪ねることを思いついたのは僅か十四歳の時だ。動機は以前近江佐野輔から受けたことのある、自分への好色な視線の記憶のみであった。
 僅かな金で食いつないでいた一ヶ月あまりの末、小夜子は近江家の門を叩いた。小夜子の家が没落したことは近江の耳にも届いていたらしく、事情をよくよく話す間もなく客間に通された。しかし小夜子は本物の下女として雇ってほしいわけではない。勝負はここからであった。
 客間には近江佐野輔その人と、夫人と下女が二人待っていた。大人しそうな、しかし上品な夫人の雰囲気は、逆に近江家創業二百年以来の伝統を破った若旦那の細君には似つかわしくない印象を受けた。佐野輔と会話するのでさえ下女を通してするような、冷めた空気がこの夫婦を包んでいた。
この部屋に入るまで、小夜子は近江家の嫡男の許嫁にでもしてもらえれば万々歳だと考えていたが、一瞬で気が変わった。
 この夫婦の間になら入り込める。これならやれる。
そう思った。小夜子は自分の人生を賭けて、一か八かこの若旦那当人に勝負を挑むことにした。
 やがて客間で雇用と部屋の間借りをあっけなく認めた後、夫人とお付きの下女は退室した。この時勝負をかけたのは、小夜子だけでなく色好きの佐野輔も同じであった。
「小夜子さん、お前さんは綺麗な顔をしているね。何でわざわざこの近江家に下女で入る必要があるんだい」と、佐野輔は口を開いた。相手が女であろうが商売人であろうが、裏に探りを入れることから始めるのが佐野輔の遣り口だった。
しかし小夜子は、今だ、と思った。十四の少女に宿る金欲への執着は、彼女を独りでに大人の女へ変えてしまった。裏を読みたいなら存分に見せればいいと、小夜子は腹を括ったのであった。
「お前さんほどの器量があれば、たとえ後ろ盾が無くともどこぞの立派な旦那様に養女にしてもらえるだろうに」佐野輔の探りは続く。
「旦那様」と、しかしその憐れみとも挑発ともつかない言葉を遮って、唐突に小夜子は喋った。
「旦那様、今日から小夜子の旦那様は、佐野輔様お一人でございます。私は、そうなることが嬉しいのです。恐れ多くも以前から時折宅へお見えになる佐野輔様を、私、お慕い申しておりました。佐野輔様のお届けくださったお菓子を、頬を熱くして頂いておりました」
一息にそこまで口にすると、緊張で紅潮した頬がその言葉の真実味を増すようで丁度良かった。小夜子は相手の出方を待った。上目遣いに佐野輔を見ると、彼はどうとも取ることの出来ない表情のまま、口を開いた。
「小夜子さん、大人をからかってはいけないよ。貴女は離散したとはいえ旧公家の血筋を引くお嬢様だ。それが私のような一介の菓子屋に想いを寄せるなど、ありえないよ。おべっかを使わなくてもちゃんと雇ってあげるから安心しなさい」
しかし言葉とは裏腹に佐野輔の目は妖しく光っていた。小夜子は勝利の確信を胸に抱いて、畳み掛けた。
「いいえ、いいえ、決してそのような…そのようなことは思っておりません。佐野輔様、小夜子は哀しゅうございます。佐野輔様には良家の出である奥様も、立派なご嫡男もいらっしゃると聞き及んでおります。それに引き換え私は恥ずかしくも没落した家の、嫡子でした。よもやこの想いを成就しようなどとおこがましい事は毛頭思っておりません。けれどもどうかお傍にだけでも置いていただきたいのです。そしてただ哀れなこの小夜子の焦がれる想いを一時だけでもお心の隅に留めておいて頂きたかっただけなのです。どうか、お気を悪くされないで下さいませ」
 佐野輔は十四の、自分よりも二十も年下のこの少女を警戒していた。
警戒はしていたが体を異常な速度でめぐるように迫ってくる色欲に抗う気も無かった。以前から目を付けていた、決して手の届かない令嬢が、全てを失って成り上がりの自分に媚びまで売って、縋り付こうとしている。金も名声も良家の妻も手に入れた幸福の只中であるからこそしたくなる冒険が、そこにはあった。
 佐野輔は、美しく穢れを知らない少女が自分の手の中で、貧乏と引き換えに恥を受け容れる様を見ることを想像すると堪え切れなくなった。伏目がちに自分の人生の勝敗を賭けているこの少女を弄んでみたかった。
そしてこの少女がいかに自分を利用し、脅かす気なのかを知りたかった。
 「小夜子さん、確かに私には妻も子もいるが、私だって想いを寄せたことがあるのは貴女一人きりです」
わざとらしい、嘘で塗り固めた言葉が零れ落ちた。
小夜子は自分の勝利に僅か打ち震えた。感極まり無いという様子を作って(実際小夜子は別の理由で感極まり無かった)正面の佐野輔を見やると、佐野輔はもう既に自分たちの交わりを垣間見たかのような顔つきで見返してきた。

小夜子はその日から佐野輔の寵愛を受けるようになった。下女としての仕事を何一つしないでも誰かに何かを言われることは無かった。夫人と夫人の下女たちは常に離れにいて、今ではあのときの小夜子の何倍も大切な客が来たときでさえ、夫人は姿を見せなくなった。
小夜子は毎日幸せを噛み締めていた。自分が最も卑下し、恐れてきた貧乏をしなくて済むのであれば、その上こんなに豊かな生活が出来るのであれば、惜しくない。そう思っている。佐野輔に捧げた純潔は、惜しくない。後悔はしたことがなかった。
実際、二人は仲睦まじい。始めこそお互いが騙し合うような形の関係ではあったが、佐野輔は見る見る間に小夜子の美貌と若さと、居丈高な気位に酔っていった。小夜子は小夜子で、決して顔かたちの悪くないこの大器たる富豪にしっかりと男を見出している。
 

「旦那様…亘さんは、…あと二月で…お帰りになるそうですね…」
行為の途中、小夜子は佐野輔にそっと囁いた。小夜子にとっても佐野輔にとっても、本当は亘の手紙のことなどどうだって良かったが、小夜子はわざと口にした。そうすることで佐野輔がいつもより激しくなることを知っているからだ。
 しかし佐野輔は、くっと押し殺したように哂うと、小夜子の打算を見通したように動きを止めた。
そして小夜子に、自分を愛していると、言わせた。
 
気がつくともう夕方近くまで日が傾いていた。小夜子は佐野輔の腕の中で、ふと考えた。
「いままで私に愛を約束させたことなど無かったのではないか」と。
佐野輔は小夜子に呪文のように愛を語ったが、一度とて小夜子にそれを求めたことは無かった。むしろ小夜子から愛を求めるつもりは無いような態度であった。小夜子はずっとそのことを、愛人に対する佐野輔なりの距離の置き方なのだと解釈していた。
つまり、自分の中の愛情の有無が全てなのであって、その発言の余地を女には与えないのだと、思っていたのである。しかしでは何故今日は、唐突にそんなことをさせたのだろうか。
日頃佐野輔は、往々にして小夜子の恥ずかしがることをさせるのが好きだ。それはその行為を是非とも見たいというのではなく、むしろ恥らう小夜子を是非とも見たいという風に見える。今日の、愛を語らせたあの行為もその一つなのかしらと、小夜子は呟く。
しかしもし本当にその一つであるとすれば、それはひどく哀しいことのように思えた。
小夜子は佐野輔を愛していた。愛している人間に愛を語るとき、それを余興のように受け止められるのは哀しい。関係や行為が遊びだとしても、心まで否定されるのは嫌だった。
真意を測りかねて、眉を寄せていると、本当に寂しくなった。二間続きの二十畳が、一人と一人の世界に戻ってしまった。
もしや自分にさほどの愛が向いてないのではないかと思うと、お嬢さん気質の小夜子はもう我慢ならない。佐野輔の腕の中を抜けて近江の屋敷を出て、久しぶりに街にでも出てやろうとまで思った。そうすれば佐野輔は困る。きっと必死で自分のことばかりを考えるはずだ。
小夜子はそう踏んで静かに佐野輔の傍を離れた。乱れた襦袢をかき寄せ、羽織を掛けて、そろそろと身支度を整えた。しかしそうして外に出ても平気な格好になっても小夜子はまだ愚図愚図としている。
ちらりちらりと何度も寝ている佐野輔を振り返るが、一向に起きる気配は無い。その様子にまた腹が立ち、しかしもしも嫌われてしまったらという気持ちもあった。
不思議にもそのとき小夜子の心にあったのは、佐野輔の機嫌を損ねて捨てられ、貧乏になることへの恐れではなく、佐野輔の寵愛を失うことへの恐れであった。
もはや小夜子の中には金銭欲を上回る何かがが芽生え始めていた。
薄暗闇のだだっ広い畳の上で、一人散々に迷った挙句、小夜子は佐野輔の寝ている場所まで戻り、そっと元居た腕の中に、ちょこんと納まる結果となった。佐野輔からはいつも良い匂いがする。甘い、菓子のようなほんわかとした匂いに包まれると、小夜子はいつもうっとりとなってしまうのだった。
おかしいくらい勇気の出ない自分の自尊心を傷つけながらも、小夜子はどこか安心して佐野輔の胸に顔を埋めた。すると寝ているはずのその太い腕がぐっと小夜子の背を抱いた。
「お…起きてらしたんですか」
小夜子は驚いて身を引こうとしたが佐野輔はそうさせなかった。そして無言でしかし強く小夜子を抱き締めた。その優しさに小夜子は我慢しきれず、心中の感情を解き放つ。
 「小夜子は…亘さんのお嫁になるのでございましょうか」小夜子は不覚にも泣きながら、一番気になっていたことを尋ねた。亘から来た手紙には、確かにそう書いてあった。
 殆ど面倒を見てくれたこともない父親に、反抗もせずフランスに行って西洋菓子を学んでいる亘。両親が不仲なことに対しても働きかけをせず、自分と五つしか違わぬ愛人の小夜子にも嫌味どころかいつも優しい言葉を掛けてきた。
 その亘が、父の定めぬ女と付き合おうとも、父の定めた女を断ろうとも思えない。亘が小夜子を愛しているといったのは渡仏の前夜だったが、それからずっと、小夜子はそれを佐野輔に言い出せずに居た。
 それは亘の本心ではなく、父の命令なのではないかと、思っていた。
 佐野輔の寵愛を受けてから十年、小夜子は佐野輔の考えていることを外した試しが無い。しかし今回ばかりはその予想に確信を持ちたくは無かった。
 佐野輔は腕の中で震えている小夜子を感じていた。抱き締めた力を緩めると、小夜子の頬を伝う涙を拭ってやった。そして正面から見つめると、はっきりと言った。
「お前はまだ若い。私が死んだ後も長く生きるだろう。その時に哀れな思いをさせたくないのだ。亘と亘の妻がこの家の主となれば、お前のどこに、この近江で生きる居場所があろうか。私の妻が健在なら尚更、お前は路頭に迷うだろう。そんな苦労はさせたくない」
 恐れていたことが的中してしまった。佐野輔の優しさが今だけことさら憎々しかった。
 小夜子はもう何と言っていいか分からず、小さくかぶりを振って、いやいや、と泣いた。この十年間で初めての反抗だった。
 以前の小夜子なら喜んで受け入れていただろう。この近江家が沈む気配はまだ全く無い。財産も豊富だし、亘は癖の無い良い息子だ。一生遊んで我儘放題に暮らすには願ってもない好条件だった。
 けれども小夜子にはもうお金以上に大事なものがあった。それがこの佐野輔と佐野輔から注がれる愛情であった。どうしたってもうそれは手放すことが出来ない。小夜子には貧乏をすることになると言われても、微塵も迷う気持ちは無かった。
 「旦那様、小夜子は嫌です。旦那様はまだお若いうちから何故そのような意地悪を仰るのですか」
小夜子はくぐもった声のまま、懇願するようにそう言った。確かに佐野輔はまだ四十四歳、死を考えるには早かった。
「小夜子、私が死ぬのを待っていてはお前の婚期も亘の婚期も過ぎてしまうよ。亘だってあんまり結婚が遅ければ妻も取引先も黙っては居ない。私がどんなに尽力してもお前を嫁には出来なくなるだろう」
佐野輔は静かにそう言って、後はもう小夜子がなんと言っても答えなかった。貧乏よりも佐野輔を失うほうが怖いといっても、佐野輔のことを愛しているといっても、小夜子を抱き締めたまま何も答えなかった。小夜子の大好きな佐野輔の胸の香りが、するだけだった。


その後しばらく佐野輔は仕事が忙しく、小夜子は小夜子で部屋に引き篭もっていると、ある日ひょっこりと亘が帰ってきた。二月先だと手紙には書いたものの、思ったよりも早く船の切符が取れたので一月で帰ってきたのだと言った。フランスまでは遠く、片道だけでも一月かかるのである。
 亘は渡仏前と変わらず明るく爽やかで従順な空気を持っていた。小夜子はやりきれなくなって仮病を使って部屋から出て行ってもらった。
「亘さん、旦那様にはもうお会いになられましたか」亘が退室する間際に、小夜子は尋ねた。
すると亘は少し曇った表情を見せて、言った。
「いえ、これからです。…しかし小夜子さん、貴女は久方ぶりに会った私よりも、あんなひどい父のことの方が気掛かりなんですね」
いつもより少し大きな音を立てて閉められた襖が、心に痛かった。誰も、幸せではないではないか。佐野輔も小夜子も亘も、誰も。亘は恐らく父に小夜子との結婚のことを言われてから、一生懸命小夜子を好きになろうと努力し、そして今、本当に愛しているのだろう。渡仏中も小夜子のことを考え、父を悪者に仕立て上げ、必死で努力したに違いない。亘は優しい子だ。表現こそ違えど、父の優しさを受け継いでいるのだ。
 小夜子は亘を嫌いにはなれない。佐野輔のように通じたことも無ければ心を揺さぶられるようなこともないが、しかし夫とするに文句のつけようが無いほど、人間として好感を持てる人物であった。
 しかし小夜子はどうしても頷くつもりは無かった。小夜子さえ我慢すれば丸く収まると分かっていても、受け入れがたいことであった。
 何故なら小夜子は忘れてしまったのだ。亘が小夜子に愛と共に語ったというあの林檎酒の名前を。亘は小夜子を林檎酒に喩えて愛を囁いた。その芳しい香りのような人だと確か言った。
 けれども小夜子はそのとき佐野輔のことを考えていたのだ。佐野輔がこれを知ったらどう思うだろうと。これが佐野輔の仕掛けたことだとしたら哀しくて生きていけないだろうと。そんなことを考えていたのだ。
 結婚できるわけが無い。小夜子はもう、旧公爵家の血を引くお嬢様でも、親を失くした憐れな下女でも、貧しさを恐れるあまり身を売る金の亡者でもなかった。
 小夜子は佐野輔の寵愛を受ける恋人であり愛人であった。彼女の自尊心はそこにあり、彼女の幸せもそこにあった。
十年前、佐野輔の元に来たのは、以前、年端もいかない小夜子に好色な目を向けたことのある男だったからだ。佐野輔が自分を受け入れたのも、小夜子を好き勝手に弄べるからだ。彼女も佐野輔の金と暮らしぶりにしか興味は無かった。全てはお互いの利益の元に成り立った合理的な関係だったはずだ。
 しかし佐野輔は自分の色欲よりも小夜子の幸せを考えるようになった。小夜子は金のことよりも佐野輔との愛を求めるようになった。ここに確かに愛は存在するのだ。
 小夜子はもう、堪らなくなって襖を勢いよく開けると部屋を飛び出した。そして二階にある佐野輔の部屋に声も掛けずに飛び込んだ。部屋には佐野輔と先ほど小夜子の部屋を退室した亘が居て、何やら話している途中だった。しかし小夜子はそのことに全く頓着せずに大きな声で泣きながら言った。
「亘さん、小夜子はあなたと婚姻は結べません、小夜子は旦那様が大好きです。たとえこの先何がありましょうとも、離れたくありません。たとえ貧しい生活を強いられようとも、佐野輔様以外にお慕いする方はおりません。小夜子は一生を掛けて旦那様と共に歩み、生きていきたく存じます。どうか、お許しくださいませ」
 亘は小夜子の見たことも無い取り乱した姿に、しばし呆気にとられていた。その横で佐野輔は燻らせていた煙管を皿の上に置いて、畳の上に跪(ひざまず)く小夜子に目を細めた。その目尻には僅かながら涙が溜まっていた。
「…小夜子さん、私が以前…あなたに喩えた林檎酒の名前を、お忘れになってしまったんですね」
唐突に亘は言った。小夜子は真意を掴めずに間抜けな顔をした。
「お怒りに、なっていらっしゃるのね」と小夜子が気まずそうに答えると、亘は頭を振った。
「その香りは、父の香りです。貴女からはいつも父と同じ香りがした」
小夜子は益々訳が分からなくなって、恐る恐る佐野輔を見た。佐野輔も小夜子のことを見ていた。佐野輔の優しい目を見ているうちに、突如として何かが石火の如く脳天を貫いた。その記憶は、佐野輔と二人きりで愛を噤んでいる光景だった。
「ああ…カルバドス…」と、小夜子は呟いた。それは佐野輔の体からするあの甘い、匂いの名前だった。
 亘の会話のどんな端々からも思い出せなかった林檎酒の名前が、以前佐野輔に教えてもらった洋菓子を作るときに使うという甘い香りと同じだとは考えなかった。あんなに考えても分からなかったことが佐野輔に絡むと当たり前のように口から紡がれるのだった。
 小夜子は立ち上がった。そして俯きながら退室する亘と無言ですれ違う。小夜子は今、暖かな日差しを感じていた。
「旦那様、小夜子にも下さいますか」
佐野輔は椅子から立って、小夜子を思い切り抱き締めた。小夜子の胸の内には、どんなに裕福でも決して感じたことの無かった穏やかな気持ちが広がった。
空っぽだった心は、佐野輔の服からむせ返る、カルバドスの匂いで満たされていった。

2004/04/28(Wed)11:20:53 公開 / 和泉
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