『満月の夜に 【完】』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:森田信乃                

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 プロローグ

薄暗い部屋に溶け込んでしまいそうな黒装束の男だった。
彼の目は一点を凝視していた。彼の足元に座っている、一人の子供だ。
「…何をしている? 早くしろ」
「し…しかし……」
彼の右手には刃渡り1mはあろうかという大剣が握られている。両手持ちのバスタードソードだ。
「…だっ…だめです! 私には出来ません!!」
「…神の御心に逆らうのか?」
もう一人の黒装束の男の声に、彼の身体が萎縮する。
もう一人の男は豊かな口髭をたたえ、明らかに「彼」よりも格上に見えた。
「神はお怒りだ。この子はこの世に存在してはならんのだよ」
「しっ…しかしこの子には何の罪もないはず! 神は罪無き子供も召されるというのですか!?」
「召されるのではない。地獄へ『還す』のだよ」
口髭の男の声はあくまで穏やかだ。威圧するでも脅すでもない、まるで目の前の聖書を朗読するかのような、そんな優しい口調だ。
しかし、彼はその口調に逆らえなかった。
逆らえば、彼が「神の御心に背いた」ということになってしまう。それは彼にとって耐えられないことだった。
「さぁ、どうした? この忌まわしき悪魔を地獄の闇に還すことに、何をためらう?」
「…………」
じりっと彼が子供に近づく。
子供は恐れるでもなくこびるでもなく、ただじっと「彼」の目を見ていた。
表情はない。恐れのために引きつった表情を見せてくれれば、まだ彼の気持ちも幾分かは楽になっただろう。だが、子供は氷のように冷たい表情でじっと彼の目を見続けている。
「……恨まないでくれ…私も……主の御心に逆らうことは出来ないんだ…」
「そうだ。お前は忠実な主の下僕なのだからな」
暗い部屋の天井は高い。おそらく大聖堂だろう。
口髭の男の声が必要以上に響いて、ほぼすべての方向から聞こえてくる。それはまるで神が喋っているかのようだった。
「許してくれ!」
彼は大きく剣を振りかぶった。そして、一直線に子供の頭をめがけて振り下ろす。
子供の頭は真っ二つに割られ、血と脳漿が辺りに飛び散る…はずだった。
「…………」
口髭の男の顔が明るく照らされる。
真っ暗だった部屋が、今はきれいな青白い光で照らされていた。
「な……なんと…?」
口髭の男が後ずさりした。
それを追いかけるように、「彼」であったものが倒れ込む。
彼はすでにただの炭素の塊になっていた。青白い光は、彼の全身を包む高温の炎だった。
「何ということだ…」
男の顔は蒼白だった。
青白い炎に照らされているせいではない。顔から血の気が失せている。
子供が一歩前へ踏み出した。
男はそれに合わせ2歩下がる。
また子供が1歩前へ踏み出す。
今度は、男は1歩下がった。
「来るな…」
顔一面に脂汗を浮かべ、うろたえながら後ろへ進む。
だが、彼の神は救いの手を差し伸べはしなかった。
分厚い石壁が彼の道をふさいでいた。
「おじちゃんも…」
初めて子供が口を開いた。ボーイソプラノの、きれいな澄んだ声だ。
「『かみ』のなかまなんだね?」
「…く…来るな……」
「じゃあおじちゃんも…おねえちゃんをいじめたやつらのなかまなんだね?」
子供はさらに男に近づいて行く。ゆっくり、ゆっくりとではあるが、2人の間の距離は確実にゼロに近づいていた。
そしてついに、子供の小さな手が男の黒装束の裾を掴んだ。
「ひっ……」
「……しんじゃえ」
子供が小さく呟くと同時に、男の全身を青白い炎が包んだ。
悲鳴はない。
異様なほど静かだった。炎が出す音すらほとんど聞こえない。
青白い炎が聖堂の天井を照らす。
壁画だった。荘厳な壁画が、聖堂のドーム上の天井一面に描かれている。
鏡と鎖が描かれていた。
「…………」
子供はその壁画をちらっと見上げ、またゆっくりと歩き出した。

1

空は一面真っ赤に染まっている。
きれいな夕焼けだった。多分明日もいい天気になるだろう。
「んー…っ」
巫女服に身を包んだ少女が、竹ほうきを持ち上げて大きく伸びをする。
「ふぅっ、今日はこんなもんかな」
こうして境内の掃除をするのは、彼女の仕事だった。
彼女の家は小さいながらも歴史のある神社で、小さい頃からこうして   巫女服を着て境内の掃除をする、ということはよくやっていた。今となっては彼女のいいバイトだ。
神社の社へと歩いていき、2回柏手を打つ。どうやら御神体に掃除終了の報告をしているらしい。
境内の銀杏はきれいに色づいていた。
まだ散る量は少ないものの、もう少ししたら掃除も大変になるに違いない。
「さってと、休憩休憩♪」
巫女服のまま石段に腰掛け、またしても大きく伸びをする。
高台にあるこの神社の石段からは、街の様子が一望できた。彼女の昔からのお気に入りの場所だ。
いつかはこの景色を彼氏と2人で…などと考えてはいるが、残念ながら彼女には現在、一緒に見てくれるような相手はいない。
「…あれ?」
石段に腰掛けたままふと下を見ると、1人の青年が石段を登ってきていた。
雪和は生まれた頃からこの街で育っているが、見たことの無い顔だった。
見たところ20歳前後といったところだろう。手には地図を持って、左右をきょろきょろと見回しながら上ってきている。
「誰だろ…? 見かけないなぁ……」
少しずつ、青年が近づいてきた。
近づくに連れて顔も良く見えるようになってきたが、約20mほどの距離になった時点で、この青年がかなりの美形であることに気がついた。
「お参りですか?」
と、先に声をかけたのは少女の方である。
青年は少し驚いたような表情を見せたが、すぐににっこり微笑んで
「あぁ、ここ神社ですか?」
「はい、「しちすいじんじゃ」って読むんですよ。学問の神様なんです」
「学問…ですか。じゃああんまり縁はないかな」
「いえ、そんなことないですよ。他にも家内安全、無病息災、商売繁盛、
結び、子宝、安産祈願、交通安全となんでもやってますから。あ、今なら御札も安いですよ?」
「…いや、今は遠慮しときますよ」
石段を登りきったところにある鳥居をくぐって、青年はゆっくりと境内の砂利道を歩き出した。彼女もそれについていく。
「ここへは観光ですか?」
「いや、引っ越してきたんです。散歩をしてるうちに道に迷っちゃって」
苦笑しながら少女の方へ顔を向ける。
おそらく、そこらのジャニーズ事務所のタレントよりもはるかに美形といっていいだろう。女装をすればまず男だと思うものはいないはずだ。
「この辺にお住まいなんですか?」
「天神ハイツっていうアパートなんですが……どの辺か解りますか?」
「あぁ、天神ハイツならすぐ近くですよ。石段降りてまっすぐ行って、2つめの信号を左に曲がればすぐです」
「よかった、これで帰れますよ。ありがとう」
のんびりとしたペースで境内を歩いていると、社のわきにあるちょっとした広場に出た。
「ほら、ここからだったら街が全部見えますよ。…あ、あれです。あれが天神ハイツですよ」
「…あぁ、そうそう、あれですね。……なるほど、駅はあっちにあるんですか…」
「えーっと……あの…」
「ん?」
「よろしければお名前…」
「あぁ、そう言えばまだ言ってませんでしたね。仙道祐です。大学生ですよ」
「大学…っていうことは……緑葉大学ですか?」
「そうです。ところで…」
「あ、すみません、私は小早川雪和っていいます。高校3年生なんです」
少し大き目の眼鏡の位置を戻して、きちんとお辞儀をするあたり、そこらのコギャルのような女子高生ではないらしい。
「…おっと…もう暗くなってきたかな。そろそろ行かなきゃ」
「あ、はい。それじゃお気をつけて。また来て下さいね」
「時間があったら来ますよ」
そして、仙道祐と名乗る青年は石段を少し急ぎ気味に降りていった。
 
天神ハイツは8階建ての鉄筋コンクリート造りのマンションだ。最近になって建てられた割にはそれほど家賃も高くない。
ただ、駅から歩いて20分という立地条件のために、それほど入居のための競争率が高いというわけではなかった。ここに仙道祐が入居できたのも、そういった条件がいろいろとかみ合わさった結果だろう。
「ふぅ……」
まだ部屋の中は雑然としている。
食器棚と本棚をようやく片づけ、タンスを組み立てようとしたところで一旦休憩を取ることにした。
引っ越しというのは実に面倒くさいものだ。それが一人暮らしの部屋ともなると輪をかけて面倒臭い。
「いいや、あとは明日にしようかな」
決して荷物は多い方ではない。恐らく全ての荷物を片づけ終えると、2DKの部屋は結構がらんとした感じになってしまうだろう。
のんびりした足取りで窓へ歩み寄り、取り付けたばかりのカーテンを開けた。
すぐ近くの丘の頂上あたりに鳥居が見える。さっき行ってきた七帥神社だろう。
こんなところに神社があるというのはちょっと驚きだった。
東京都内のような都会ではないものの、この辺はちょっとした住宅街で、神社仏閣とは無縁の場所に思えたのだが…
「まぁ…いいか。神社があったからってどうなるわけでもないんだし」
少し面倒臭そうに呟き、財布をジーンズの後ろポケットにねじ込んで玄関へ向かう。
良く考えてみれば、今日の夕食をまだ買っていなかった。とりあえず何か食べるものを買わなければ。
彼が住む天神ハイツから少し歩いたところに、いかにも「住宅街のための商店街」がある。小さなレストランや全国チェーンのファミレスまであり、少し散歩をする分には退屈しない。
もっとも、さっきは「退屈しない程度に」散歩をするつもりで迷子になってしまったのだが。
「あっ、仙道さん?」
突然、後ろから声をかけられた。
「…?」
ゆっくりと振り向くと、大き目の眼鏡をかけた女の子が立っている。どこかで見覚えがあるが…
「あぁ、さっきはどうも」
「お買い物ですか?」
さっきの神社で巫女服を着ていた女の子だ。確か小早川という名前だったか。
今はごく普通の洋服を着ている。
「えぇ。晩飯のおかずを全然買ってなかったもんで。どこか惣菜屋とかあるとありがたいんですが…」
「あ、それなら美味しい店がありますから、案内しますよ。こっちです」
実にはきはきした女の子だ。
礼儀正しいところなどはいかにも巫女らしい。
「仙道さんは一人暮らしなんですか?」
「そうですよ」
「実家ってどの辺なんです?」
「デンマークです。ヨーロッパの」
「……え?」
「…ほら、あのー…えーと……何て言えばいいのかな…ずっとコペンハーゲンに住んでたんですけど…」
「ヨ…ヨーロッパの出身なんですか? でもお名前が…」
「別に向こうで生まれたからって、日本人の名前をつけちゃいけないって決まりはないでしょ?」
「…あ、そっか……」
よく見ると祐の肌はかなり白い。男性としては相当色白な部類に入るだろう。これも北欧の国で生まれ育ったからだろうか。
雪和もかなり色白な方だが、ヘタすると彼女よりも白いかもしれない。
「それで、どうして日本の大学に来られたんですか?」
「……まぁいろいろあったんですよ」
お茶を濁されてしまった。
それでも、このにっこり笑った顔を見ると、そんな事もどうでも良くなってしまうから不思議だ。
いつのまにか惣菜屋の前にたどり着いていた。本当に小さな店ではあるが、店先には種類、量ともに豊富な品揃えで惣菜が並べられている。
「…そういえば仙道さん、日本語お上手ですよね」
「あっちにいたときから日本語は喋ってましたからね。言葉には不自由しませんよ。和食も好きだし」
「それじゃあ納豆とかは…?」
「カラシ納豆は好きですよ。湯豆腐とか、あと天ぷらうどんとかも」
デンマーク出身者にしては随分と和風な好みだ。
だが、残念ながらこの3品は惣菜屋には置いていなかった。
「さて、どれにするかな…」
「アジフライとかお勧めですよ。あとメンチカツと、つくねも美味しいんです」
「なるほど、それじゃそれ全部食ってみようかな」
「……全部…ですか?」
「美味しいものはたくさん食う方がいい。…ってことで、アジのフライとメンチカツと、あとつくね4つください」
横で唖然とする雪和を尻目に、実に上機嫌で惣菜をぶら下げて歩き始めた。
「…ありがとう、今日は助かりましたよ」
「いえ、そんな大した事じゃないですよ。何かあったら力になりますよ」
「そう言ってくれると嬉しいね」
すでに空は赤黒くなってしまっている。
太陽は完全に沈み、もうすぐ夜の世界がやってくることを告げているようだ。
「明日も…いい天気になりそうですね」
「そうだね」
東の空には金星が見える。
宵の明星だ。
「それじゃあ私こっちで買い物していきますんで」
「あぁ、ありがとう」
「また神社の方にも来て下さいねっ」
少し深めにお辞儀をして、早足で歩いていった。
対照的に、祐は割とのんびりした足取りで歩き始める。
この町に引っ越してきたのはつい一昨日のことだ。まだ道など全然解らないし、どこに行けば何を打っているのかも知らない。
「さぁて……家はどっちだったっけ……」
左右をきょろきょろと見回す。
商店街の入り口まで戻れば大丈夫なのだが…
「まぁ…いいか。来た道戻ればいいんだ」
そしてその言葉通り、さっき歩いていた道をそのまま戻り始めた。
 
 
「殺せ! その子供を殺せ!!」
大雨の中を、黒装束の男達が走っていた。
各々の手には槍や短剣、モーニングスターなどの武器が握られている。
「主の御名において、その子供は絶対に生かしておくことはできんのだ! 何がなんでも殺せ!」
彼らの少し前方を、子供…というよりは少年という方が適切かもしれない。それくらいの年齢の男の子が走っていた。
彼の顔には若干の焦りが見られる。追われる焦りではなく、もっと切迫したものだ。
「その『悪魔』を殺せ!!」
ひときわ大きな声が響いた。
その声に少年が足を止めて振り向く。
両目には憎悪の炎が燃え上がっていた。
大の大人が6人、少年の一睨みで歩みを止めてしまっていた。
「何をしている! 早く殺せ!」
少年は肩で息をしながら、ゆっくりと大人達へと歩み寄っていく。
全身から湯気が立っていた。雨が蒸発しているようだ。
「悪魔だって…?」
澄んだ声だった。
雨音にかき消されそうな声ではあったが、その声は6人の男の耳にはっきりと入ってきていた。
「僕が何をした? どうして僕が悪魔なんて呼ばれなきゃいけないんだ?」
一瞬だけ、空が明るく光る。
どす黒い雲の下を、稲光が走った。
「悪魔はどっちだ! お姉ちゃんを殺したのも、僕を殺そうとしてるのもお前らじゃないか!」
「……主はお怒りだ。少年よ」
6人の男の内、最年長と思われる初老の男が穏やかな声で呟いた。
彼の右手には真っ直ぐに伸びた細身の長剣が握られている。
「少年よ、お前が生きていることそれ自体が許されざる罪なのだよ」
「どうしてだよ!」
「お前は生まれながらに…」
「うるさい! 黙れぇっ!!」
少年が絶叫すると同時に、6人全員が大きく飛びのいた。
ほんのわずかに逃げ遅れた2人が、一瞬の内に青白い炎の塊へ姿を変える。
「お前らの方が悪魔なんだ! 僕は悪魔なんかじゃない!」
「殺せ!! このまま逃がしては教皇様に合わす顔が無い!」
残った4人が一斉に剣を振り下ろす。
だが、その剣が少年の身体に触れる前に、彼らもまた青白い炎の塊と化していた。
「はぁっ…はぁっ……」
大きく肩で息をしながら、また少年は走り出した。
どこへ行こうとしているのか、自分でも分からない。
ただ、一つだけ解っていた。
この村、この国、この大陸には、自分の安住の地が無いということだけは。
 
「ここは学問の神様だそうですね」
突然、後ろから声をかけられて振り向くと、そこには見たことの無い色白の青年が立っていた。
「え? えぇ、そうです。学問の神様ですから、受験シーズンにはこの辺の学生の子達がお参りに来るんですよ」
巫女服よりは立派な神主の服を着た中年の女性は、慌てて笑顔を作ってそう答える。
七帥神社の神主としては、参拝客を怪訝な顔で見るわけにも行かなかった。
「…いいところですね、静かで。広いし」
「そうですね。私もここで育ちましたけど…ずっと好きなんですよ」
不意に吹いてきた風に目を細めながら、境内をちらりと見渡す。
彼女にとっては見慣れた風景だ。
彼女はここで生まれ、ここで育った。そしてここで一人娘を産んだ。いわば家そのものなのだ。
「今日はお参りですか? それとも何かご祈祷を?」
「いえ、ちょっと足が向いただけです。しばらくのんびりしていっても構いませんか?」
「えぇもちろん。のんびりしていって下さい。そこの道から入って少し登ると広場がありますから」
「ありがとうございます」
と、青年が境内の奥へ入ろうとしたときだ。
「ただいまぁー」
「あら、お帰りなさい」
鳥居をくぐって眼鏡をかけた女の子が入ってきた。
「あっ、仙道さん! 来てくれたんですね?」
祐を見つけるなり、その女の子は駆け寄ってきた。制服を着ているし、恐らく学校から帰ってきたところだろう。そう言えばもう5時を少し回ったくらいの時間だ。
「ヒマだったからね」
「雪和、お知り合いなの?」
「うん。あ、仙道さん、これ、私の母です」
「…はじめまして、仙道です」
「ごていねいにどうも。…雪和の彼氏さんですか?」
「いえ、残念ながら違いますよ」
苦笑しつつ否定すると、雪和がほんの少し不満そうな顔をする。
「お母さん、こちら仙道さんって言って、最近この近くに引っ越してきたの。デンマークにいたんですよね?」
「そう。デンマークのコペンハーゲンに」
「まぁ…ずっと向こうで?」
「はい。生まれたのも向こうです」
「でもその割に日本語お上手ですね。ご家庭では日本語だったんですか?」
「まぁ…向こうにいた頃からずっと日本語を使ってましたから」
「そうでしたか。でもまだ慣れないことばっかりで大変でしょう? 何か力になれることがありましたら、いつでも言って下さいね」
「ありがとうございます」
どうやらこの母娘、とことんお人好しというか世話焼きらしい。
ほとんど初対面の相手にこんな事を言えるくらいだ。並大抵の世話焼きではないだろう。
「仙道さん、今日時間は大丈夫なんですか?」
「あぁ、大丈夫だよ。家にいても特にすることないし、学校も来月からだから」
「それじゃすぐ着替えてきますね。ちょっと待ってて下さい」
というと砂利を敷き詰めた道をあわただしく走っていった。どうやら社の奥に家があるらしい。
「…すみませんね、騒がしい子で」
「いえ。賑やかでいいじゃないですか」
ちらりと街の方を見る。
高台にある神社だけに、街の全景を見渡すことができる。
「いい場所ですね。景色がいい」
「えぇ。でも最近でこの街も随分変わりましたよ。特に駅前なんか、昔は何も無かったのに…」
「…………神様…か…」
「え? 何かおっしゃいました?」
「いえ。何でもありませんよ。それより、ちょっと教えていただきたいんですが…」
「はい、何でしょう?」
「この辺はキリスト教の教会とかはたくさんあるんですか?」
「いえ、教会は全然無いんですよ。ちょっと遠くまで足を伸ばせば小さな教会がありますけど…クリスチャンなんですか?」
「いえ。違います。ちょっと…気になっただけですよ」
また街の方へ視線を戻す。
すでに西の空が少しだけ赤く染まり始めていた。
秋らしい夕焼けだ。
「お待たせしましたっ♪」
不意に雪和が戻ってきた。巫女服にスニーカーという、実にアンバランスな格好ではあるがなぜか違和感はない。
「仙道さん、私これから軽く掃除しなきゃいけないんですけど…」
「あぁ、それじゃこの辺でぼーっとしてるよ。終わったら声かけてくれればいい」
「はい、それじゃ早めに済ませちゃいますね」
いいでしょお母さん、と目配せをすると、『しょうがないわねぇ』とこちらも視線で返事をする。
「それじゃあ雪和、お母さん社に戻ってるからね」
「うん」
ゆったりとした足取りで砂利道を歩いていく。
どちらかというと若々しい方かもしれない。
「それじゃ俺はあっちにいるから」
「はい、すぐ終わらせますね」
すぐに終わるような面積ではないが、さすが手慣れたものだ。スタート地点や掃除の手法、経路その他もろもろの手順がすでに決まっているらしい。しかもそれらはすべて最短コースだ。
この分だと大体30分もすれば終わってしまうかもしれない。
石段の最上段に腰掛けて、街を眺める。
よくよく見るといい街だ。商店街も家のすぐ近くにあり、駅も歩いて行ける距離にある。静かな町だ。
「ふぅ……」
ちらりと後ろを見ると、相変わらず雪和は境内の掃除をしている。急いでいるとは言え、なかなか丁寧にしているようだ。
少し冷たい風が吹いてきた。
もう十月だ。そろそろ風が冷たくなっても全然不思議じゃないだろう。だが、この程度の風など、北欧で育った彼にとっては全く苦にならない程度のものだ。むしろ暖かい方と言っていいかもしれない。
空はさっきよりも赤味を増してきている。昨日にも増してきれいな夕焼けだ。
「仙道さーん」
「…ん?」
「もうすぐ終わりますから、もーちょっと待ってて下さいねー」
「あー、わかったー」
彼女を見ていると、どうも不思議な気分になる。
祐には姉がいた。
少し歳の離れた姉で、祐にとっては母親のような存在でもあった。優しく穏やかで、常に彼の側にいてくれるような、そんな姉だった。
その姉とは性格も容姿も全く違うが、なぜか雪和のもつ雰囲気は、祐の姉とそっくりだった。
「ふぅ、終わりました」
「お疲れ様。大変だね、こんな広いところを1人で掃除するんだから」
「いえ、もう慣れちゃいましたよ。それより仙道さん、何か考え事してたんですか?」
「ん? どうして?」
「何だか…ちょっとぼーっとしてるというか…」
「…まぁ正解だね」
「デンマークに残してきた彼女さんのこととか考えてたんですか?」
「あはは、そんなのがいれば考えてたかもしれないけどね。残念ながらそれは外れ。姉さんのことを考えてたんだ」
「あ、お姉さんがいるんですか?」
「うん、いた」
「………いた…?」
「今はもういないよ。随分前に死んじゃったからね。両親も」
遠くを見る祐の目がふと哀しい色に染まる。
西の空を見ているからだろうか、少しだけ目を細めたその表情は、とてつもなく哀しそうに見えた。
「……じゃ、じゃあ親戚とかは…?」
「いない。いたとしても、一回も会ったことが無い」
「…………」
「まぁ別に気にしたことも無いけどね」
「…どんな人だったんですか? お姉さんって」
「……優しかったな」
にっこりと微笑みながらも、祐の目だけは今にも涙があふれそうなくらい哀しかった。
それを見た瞬間、雪和は後悔した。思い出させてしまったのかもしれない。
「…ごめんなさい……」
「ん? 何が?」
「その…辛いことを思い出させちゃったみたいで…」
「いや、いいんだ。もう慣れちゃったからね」
雪和には、祐がどれくらいの時間を1人で過ごしてきたのかはわからない。ただ、肉親を亡くす悲しみは知っていた。
彼女には父親がいない。ここ七帥神社は彼女の母が1人で切り盛りしている。
雪和の父は、彼女が12歳の頃に交通事故で死んだ。その頃のことは今でも鮮明すぎるほど鮮明に覚えている。何しろ、彼女の目の前で父は車に跳ねられて死んだのだから。
「…おっと、もうこんな時間か。そろそろ買い物に行こうかな」
「あ、それじゃ私も行きます。着替えてきますよ」
「大変だね、巫女服を着たり普段着に着替えたり…」
「境内の掃除をするときは必ず巫女服着なきゃいけないって、お母さんからいつも言われてるんです。それじゃ急いで着替えてきますから」
玉砂利を蹴って社の奥にある家へと向かう。
退屈しない娘だ。
そう考えると、自然と笑みが零れてきた。

2

「な…なぜだ……なぜ神はオマエのような者を…」
血まみれの男が息も絶え絶えにそう呟いた。
彼の目の前には、1人の青年が立っている。麻と綿で出来た服を着ている、ごく普通の青年のようだ。
だが、彼は追われていた。
私怨や借金取りなどという生易しいものではない。彼を追い立てているものは…
「何故に神は…」
そこまで言って男は息耐えた。
彼を追うものは、神と人々に呼ばれている存在だ。
各地の教会、修道院が「彼」の来訪を知るや否や総出で彼を「狩り」に出る。
今も、彼は「狩り」の手から逃れている最中だった。
狩る者はフリードリヒ一世。赤髭王バルバロッサと呼ばれる、神聖ローマ帝国の皇帝だ。西からはフランスのフィリップ二世、さらに「獅子心王」と噂されたリチャード一世までが、彼を狩りに来ていた。
彼の首には多額の賞金が懸けられている。平民が1000年働いても得ることが出来ないであろうほどの額だ。そして、その賞金を懸けているのはローマに居を構える法王だった。
彼は「悪魔」として追われているのだ。
「いたぞ!!」
背後から声がする。
ゆっくり振り返ると、若い兵士が3人、槍を構えて立っていた。
恐らく、彼らも「狩り」に出てきた軍隊の一員だろう。
総勢100万を超えるといわれた大軍隊。
その大軍が目指すものは、公式にはキリスト教とイスラム教の聖地、エルサレムとされていた。
だが、彼らの目的は「悪魔」討伐である。
「3人一斉にかかれば…」
「へっ、何でぇ…ただの若造じゃねぇかよ」
じりじりと3人のと男が近づいてくる。
「行くぞ!」
3人が同時に槍を突き出した。
だが、「彼」の姿はそこには無い。
「なっ…?」
「いない……?」
3人の内2人が彼の行方を見失った。
残る1人が彼を見つけたとき、彼ら3人の人生は幕を下ろすことになる。
「……っ!?」
悲鳴はない。
全くの静寂の中での出来事だった。
深呼吸を一つするだけの時間、ただそれだけの時間で、彼ら3人はただの真っ白い灰になってしまっていた。
青年はその灰に一瞥もくれずにまた歩き出す。
彼の足は、ただひたすら東を目指していた。
山脈を越え、エーゲ海を越え、砂漠を歩き、川を渡り…
そして屍の山を築きながら東へ向かう。
彼の足の向く先には約100万の大軍が待ち受けていた。
それでも彼は歩みを止めない。ひたすら東へと歩きつづけていた。
 
祐が引っ越してきて約1ヶ月、ようやく街の地理も覚え、道に迷うこともなくなった頃だ。
「今週の土曜日? …うん、空いてるけど…」
「そ、そしたら……あの…一緒に映画でも……」
真っ赤な顔をしているのは雪和だ。
神社の石段に腰掛けて、竹ほうきをくるくる廻している。
「あっ、ほ、本当にヒマだったらでいいんです!」
「じゃあ一緒に行こうよ。ヒマだからさ」
「そっ…それじゃあ土曜日の朝10時に駅の改札前で待ち合わせしましょう! 映画館までは私が案内しますから!」
「そうだね。じゃあ土曜日の10時に駅の改札前で」
「はいっ」
すっと祐が立ち上がる。それに続くように雪和も立ち上がった。
今は巫女服の上にダウンジャケットを着て掃除をしている。そこまでして巫女服に拘る必要はないんじゃないか、とも思えるが、どうやら彼女自身、巫女服を気に入っているようだ。
「それじゃ俺はそろそろ行くよ。また土曜日にね」
「はいっ。気をつけて帰って下さいね」
にっこり笑って、そのまま石段をのんびりしたペースで下っていく。
この一ヶ月で、祐と雪和の間の距離はかなり近づいていた。
雪和の母も祐を知っているだけに、文句は何も言わない。それどころか、「今度一緒に映画に行きたい」といったら「資金はあるの?」と援助を申し出るくらいだ。
祐の後ろ姿が見えなくなってから、雪和も家へと向かう。
あたりはすっかり暗くなっていた。
だが、小さい頃から慣れ親しんだ境内だ。別に不便でも恐くも無い。
「ただいまぁ〜」
「はいお帰り。仙道さんはもう帰っちゃったの?」
「うん。今日も晩御飯買って帰らなきゃ行けないみたいだから」
「そう。…で、どうだったの? 映画は」
「OKだって♪ 何着て行こうかなぁ〜」
巫女服の袴を脱ぎながら、実に楽しそうな表情をする。恋する女の子の表情、というやつだろうか。
「土曜日でしょ? 明後日じゃない。まぁのんびり考えなさい」
「うん。…それで土曜日なんだけど……」
「はいはい、ちょっとくらいなら遅くなっていいわよ。そのかわり、ちゃんと仙道さんにここまで送ってもらうのよ?」
「うん。わかった」
 
青年はその子供に名前をつけた。彼の姉と同じ、「リリス」という名前を。
戦争で両親を目の前で殺され、呆然と座っていた少女。
まだ自分の歳も、名前も分からないほど小さな子供だった。
その子は彼に救いを求めるように、たまたま通りがかった青年のブーツにしがみついた。
そして、彼女の旅が始まった。
旅の中でその子供は美しく成長し、養女から恋人へと変貌を遂げようとしている。
今がまさにその時だった。
「赤いな…」
「え?」
青年は窓際の椅子に座り、外を眺めていた。
夕日が遠くの地平に沈んで行くのが見える。
彼の影は長く伸び、向かい側の壁にくっきりとシルエットを作っていた。
「どうしたの?」
「ん? …いや、何でもないよ」
遠くからコーランを読み上げる声が聞こえてくる。
窓の外には、独特の形の屋根が連なっていた。
ターバンを巻いた男達、それに黒いケープで顔を隠した女達が礼拝を始めている。
夕方の礼拝の時間だ。
「ムスリム達はみんな敬謙ね」
「そうだな」
少女が窓に近寄ってきた。
少女、と呼ぶには少し大人びているようだ。ちょうど思春期辺りの年頃だろう。
彼ら二人はもうこの地に3週間もとどまっていた。
長く放浪を続けてきた彼らにとって、同じ土地にこれほど長くとどまる事は珍しい。
城塞都市、とキリスト教徒達は呼んでいた。
「……きれいね」
「ん?」
「ほら、夕日。…明日も晴れるのかな」
「だろうな」
空が赤い。
アル・アネクシオスにはこの赤が血の色に見えてしまう。
今までどれほどの屍の山を築いてきただろう。
どれほどの血の河を渡ってきただろうか。
その光景のいくつかは、今傍らに座っている少女も見てきたものだ。
「リリス」
「うん? 何?」
「…辛いか?」
「え?」
アルの眼は哀しかった。
いつも悲しそうな光を湛えてはいるが、それが今はいつにも増して哀しそうだった。
「辛かったら…俺から離れてもいいぞ」
「な…何言ってるのよ。私は自分で「アルについて行く」って決めたのよ? 離れろって言ったって離れないよ」
「………そうか…」
リリスの眼は真っ直ぐアルの目を見ていた
彼女は良く知っている。
今まで目の前の青年は何人もの、数え切れないほどの人間を殺してきた事を。
そして、この目の前の青年は人間ではない事も。
それら全てを知った上で、彼女はアル・アネクシオスという青年と共にいることを選んだ。
「アル…」
すっと立ち上がり、窓枠に腰掛けたアルに後ろから抱き付く。
「私…ずっと一緒にいるから。何があっても、絶対に離れないからね……」
ひょっとしたら悪魔かもしれない。
自分が一緒にいるこの男は、「奴等」が言うように悪魔なのかもしれない。
それでも、アルはリリスにとって育ての親だ。
今までの13年、彼女を守り、育ててくれた。
人間は彼女の親を殺し、彼女自身も殺そうとした。
それがどうだ? その人間に悪魔と呼ばれているこの青年が自分を助けてくれているではないか。
「アルが悪魔なら…私も悪魔になるよ」
「…………」
「…ねぇ、明日も…いい天気だよね?」
「……そうだな。きっと晴れるよ」
地平からほんの少しだけ、未練を残すように太陽が顔を出している。
もうすぐ日が沈んでしまうだろう。
沈まない太陽も、終わらない夜も、やむことのない雨もない。
尽きる事の無い命も、同様にあるはずがなかった。
いつ、彼の命は尽きるのだろうか。
「…アル、泣いてるの?」
「ん? …あぁ、眼にゴミが入っただけだよ」
太陽が、砂漠の地平へと姿を消した。
 
「ア…アル……」
「リリス! しっかりしろ! しっかりしてくれ!!」
「うそ…よね? 私……死んじゃうの…?」
「死ぬもんか! 頼む! しっかりしてくれ!!」
彼の腕の中には1人の少女がいる。
口の端から、真っ赤な血が筋を作っていた。
「何にも見えないよ……アル…恐いよ…」
「……リ…リリス…」
「私……死にたくない…アルと一緒にいたい……」
「死ぬな! リリス! 俺の手を握って!」
「ア………わた……死にたく……」
ぶるぶると震える手をまるで見当違いの方向に伸ばして、ほとんど聞き取れないほどの声で呟く。
その声もすでに途切れ途切れだ。
「リリス!」
「………ア…………」
まるで糸が切れた操り人形のように、伸ばした手が落ちる。
彼女の胸には大きな傷があった。
背中まで達するほどの刺し傷だ。
ロングソードで一突きにされたときの痕だった。
傷口からはもう血も流れてこない。
「…リリス…?」
息もしていない。
すでに息絶えていた。
青年の肩が小刻みに震えている。その肩の向こう、ちょうど彼の背後には剣を構えた1人の初老の男がいた。
「悪魔の娘を討ち取った! このフリードリヒが!!」
豪奢な鎧に身を包んだその男、赤い髭を持つ男が高々と剣を突き上げる。
後方から大きな歓声が沸きあがった。
その歓声に後押しされるかのように、フリードリヒ一世がゆっくりと近づいてくる。
「さぁ悪魔よ、お前も娘の後を追うがいい」
カチャっ、という剣を構える音がする。
だが、彼は振り向かない。
戦場で拾って以来、実の娘のように育ててきた娘が、たった今目の前の男に殺された。
何の罪も、殺される謂れもない娘が、この醜悪な男の手にかかって死んだ。そして自分はそれを助けてやることが出来なかった。
「せめて一撃で葬ってくれる!」
長剣の鋭い切っ先が、彼の後頭部めがけて一直線に襲い掛かってきた。
そこでようやく青年が振り向く。
「…っ!?」
長剣は間違いなく、青年の首筋に突き刺さるはずだった。
だが、フリードリヒの剣は、高い澄んだ音を立てて折れてしまっている。
「なっ…何……?」
「リリスが…」
ゆっくりと青年が歩を進めた。
その両目からは血の涙が流れている。
白い肌に、真っ赤な涙が異様なほど映えて見える。
「あの娘が……オマエ達に何をした!!」
神聖ローマ帝国軍の大軍が放つ大歓声が一気に静まるほどの咆哮だった。
目の前にいたフリードリヒ一世は身動きすることも出来ず、その場で失禁してしまっていた。
「あの娘は…リリスは戦災孤児だったんだ……それを…それをオマエ達は…」
次第に気温が上昇をはじめた。
風が異様な動きを始め、あちこちでつむじ風が発生する。
ざわざわと青年の髪が逆立ってくる。
「かっ……神よっ! この悪魔を退けたまえ!!」
フリードリヒの絶叫が、この青年の逆鱗に触れてしまった。
「神!!」
つむじ風が竜巻に変わる。
「神! 神! 神!! それがオマエ達の正義か!!」
気温の上昇は頂点に達した。
竜巻が炎を巻き上げ始め、合計15本の「炎の竜巻」が暴れ狂い始める。
「神とやら!!」
青年は天を仰いでなおも咆哮する。
「この恨みは忘れん!! 姉さんを殺したのも、リリスを殺したのも、この忌まわしい身体を俺に与えたのも全てキサマか!!」
炎の竜巻はその勢いを増し、半径20Km以内にあるもの全てを焼き尽くし始めた。
「何が神だ!!」
ついに竜巻は天に達した。
空が真っ赤に染まり、火の粉が雨のように降り注ぐ。
「オマエが神だというなら、俺は悪魔にでもなろう!! 永遠にオマエを呪いつづけてやる!!」
炎の竜巻が天に達した刹那、今度はどんよりと曇った雲から大粒の雹が降り始めた。
大人の握りこぶしほどの大きさの雹が、まるで滝のように降り始めた。
フリードリヒは雹と炎の嵐の中ですでに息絶えていた。
神聖ローマ帝国の大軍も、およそ半数以上を失い、残り半数も満身創痍の兵ばかりになっている。
それでも彼の怒りは収まらなかった。
炎の竜巻と大粒の雹はその後4日間暴れつづけ、周囲には「生きているもの」は何も無くなってしまっていた。
 
 
当てはなかった。
ただ足の向く方へ歩いていた。
もう何年が経っただろうか。愛娘を失ってから、どれくらいの月日が流れたのか、もう思い出す事も出来なかった。
彼は今、ルーマニアに来ていた。
ここから彼の故郷まではそれほど遠くない。だが、彼は故郷に戻ろうとは思えなかった。
故郷に戻れば、辛い思い出だけしか蘇ってこない。
姉や両親の墓などは、とうの昔に荒らされて今では墓標すら残っていなかった。
「ふぅ……」
街は完全に廃虚と化している。
道のあちらこちらには無残な屍が無数に横たわっていた。
「この街もか…」
いずれの屍も、肌が真っ黒に変色してしまっている。
丘に建つ教会も、原形をとどめてはいないほど朽ち果てていた。
黒死病、ペストだ。
この街の人口はすでに元の1割にも満たない数にまで減ってしまっていた。
病は恐ろしいほどのスピードで蔓延し、誰にも止める事は出来なかった。
死にゆく者の苦痛を和らげる神父や牧師ですら、今は廃虚と化した教会でその屍をカラスと蛆の糧としてしまっている。
時折、開いたままの窓から苦痛のうめき声が聞こえてくる。
恐らくまだ生きているのだろう。だが、恐らく今日か明日にはそこらの屍の仲間入りを果たすにちがいない。
街を歩きながら、青年はうっすらと口元に笑みを浮かべた。
いい気味ではないか。
彼が呪う神を信じた結果がこの惨状だ。
これがオマエ達の信じる神の御業とかいうものか。
これが毎日祈りをささげた事に対する報酬か。
これが神か。
これが神と呼ばれるものの本性か。
「…ふっ……」
つい堪えきれずに鼻でせせら笑ってしまう。
何が神だ。
先の十字軍戦争ではどれだけのムダな血が流れた?
罪もないイスラム教徒達を「神の御名のもとに」何人殺した?
血の海に踵までつかりながら、どれだけの虐殺を繰り返してきた?
これがオマエ達の信じる神とかいうものか。
「か……神様…」
屍のひとつだろうと考えていた男が、ほとんど聞き取れないほどの声で呟いた。
「たす……助け…」
「助かりたければ…」
青年はその男に歩み寄る。
全身に黒い斑点が浮かび上がり、すでに虫の息と化している。
「この病気を…呪いを広めた「神」に祈るんだね。オマエ達の神に」
そう耳元で囁くと、男はまるで絶望したかのように息を引き取った。
「……まぁ…祈ったところでどうなるものでもないがね…」
青年は黒い外套を翻すと、街の入り口へと引き返していった。
青年の心は荒みきっていた。
愛娘を失うまでは、彼は優しい青年だった。
だが、目の前で娘を殺されて以来、彼は神を呪い、神を信じるものに対しては冷酷に生きてきた。
考えてみれば、幼い頃から神は彼の仇でもあった。
両親の顔など覚えていない。彼の両親は「神の使徒」を名乗る者に殺された。
そして、まだ幼かった彼を育ててくれた姉は、同じく神の使徒に殺された。
彼自身、神の使徒と名乗る男達に殺されかけた。
そして彼の娘もまた、神の使徒を名乗る者に殺された。
「さて…ここにも用はないか…」
街の入り口を表すゲートはすでに倒れてしまっている。
彼はそのゲートを大股にまたいで、ゆっくりと歩き始めた。
これで12個目の街だ。
全ての街が廃虚となっている。
恐らくヨーロッパ中がこんな状況だろう。
だが、彼の胸はほんの少しも痛まない。
涙など枯れたはずだ。
娘を失った、あの日に。

3

何かが彼の服の裾を掴んだ。
雑踏の中で、薄汚れた格好の少女が、彼の外套の裾を握っている。
「……どうしたんだ?」
「…た……助…け……」
か細い、本当に消え入りそうな声でそう呟いた。
必死に彼の外套を掴むその少女の額には、脂汗がべっとりと滲み出ていた。
「熱があるのか…?」
その額に手を当ててみる。
熱い。
かなりの高熱だ。意識がかなり朦朧としているのだろう。さっきから囁くような声で「助けて」を繰り返している。
青年はその少女を抱えあげ、ここ数日泊まっている宿へと向かった。
「気がついたかい?」
「……ぇ?」
目を開けた少女は、起き上がる事も出来ずにただぼーっと天井から壁へと視線を移した。
「もう大丈夫だ。薬を飲ませたからね」
「……あ…あの……ここは……」
「俺が泊まってる部屋だよ。大丈夫、何もしやしない」
まだ頭がはっきりしないのか、呆けたような目で青年の顔をまじまじと見詰めた。
きれいな瞳だ。この近辺、少なくともヨーロッパではこれほどきれいな黒い瞳は珍しい。それに褐色の肌も。
「とりあえず……」
コップには暖めたミルクが入っている。それをその少女に手渡した。
「これでも飲むといい。栄養があるから」
「……あ、はい…」
少しおどおどした様子でコップを受け取ると、少しずつ飲み始めた。
「ずっと何も食べてなかったのか?」
「…はい……4日くらい…」
そこへあの高熱だ。まぁ食べないせいで体が弱っていたのかもしれないし、高熱で体が弱ったのかもしれない。どっちが先かはこの際どうでもいい事だ。
「家はどこなんだ?」
「……ありません」
「…ない? じゃあ家族は?」
「いません…」
「……ひょっとして君は…奴隷だったのか?」
「…………」
悲しそうな目をして小さく肯く。どうやら図星らしい。
考えてみればこの奴隷というのも哀れなものだ。買われれば何とか食べていく事は出来る。だが自由はない。
買われなければ、食も住も得る事は出来ない。つまり、あとは野垂れ死ぬしかない。
ふと、昔の事が思い出された。
戦場に一人取り残された、自分の歳も名前もわからないほど小さな子供。
あの時も確かこんな出会いだった。その子供には、彼が名前をつけた。出会った日を誕生日にして、彼が親となってその子供を育てた。
今、彼は退屈していた。
両親を失い、姉を失い、娘を失い、ただ一人で旅をするのにもそろそろ飽きてきたところだ。
「…もし良かったら…俺と一緒に来るか? とりあえず食べるものは不自由しない。まぁ住むところは決まってないけど…」
「え?」
「どこも行くところがないなら、俺と一緒にくるといいよ。どうする?」
「で…でも私……奴隷ですよ…?」
「そうみたいだね。だからと言ってどうってことはない。来るか来ないかだけだよ」
しばらく呆気に取られていたその少女は意を決したかのようにしっかりと、小さく肯いた。
「名前は?」
「シス…です」
「シスか…。じゃあとりあえずここで休んでるといい。それと、服も何とかしなきゃな」
青年はこの少女を寝かせて、街へ出ていった。
とりあえずは何か食べるものを調達する必要がある。それに、彼女に着せるものも。
金には不自由していなかった。彼のポケットには金が常に入っている。錬金術と俗に呼ばれるものだ。
彼自身、どういう理屈で砂を砂金に変えているかは、具体的には解らない。ただ、小さい頃から出来た芸当だという事は覚えている。
4日経った。シスの体力もかなり回復したらしく、今では部屋の中を歩く事も出来るようになっている。
服とパン、それに干し肉を買って帰ってくると、シスは大人しくベッドに横たわっていた。
出かける時に「ちゃんと横になっていなさい」という言い付けを律義に守っているようだ。
「ほら、ミルク飲むか?」
「…はい……」
身体が弱りきっているときにいきなり肉を食べさせると返って良くない。
こういう時はまず暖めたミルクか何かを飲ませて、ある程度回復させてからの方がいい。
「…ふぅ……」
「ちょっとは落ち着いた?」
「はい。ありがとうございます…」
にっこりと笑った笑顔。
その笑顔を見た瞬間、青年はまるで心臓を鷲づかみにされたような衝撃を覚えた。
見覚えがある。
遠い昔、この笑顔に出会った事がある。
どういうことだ? このシスという少女とは4日前まで、一度も会った事などないはずだ。
顔立ちも違う、姿形もまるで似ても似つかない。でも、この笑顔は見覚えがある。
心当たりは2つあった。
1つは、まだ幼かった彼を育ててくれた最愛の姉。
もう1つは、戦場で両親を殺され、彼が親となって育てた愛娘。
2人とも現在は生きてはいない。だが、彼の脳裏には彼女たちの笑顔が嫌になるくらい鮮明に残っていた。
その笑顔と、たった今シスが見せた笑顔が重なった。
「……どうしたんですか…?」
「…い、いや……なんでもないよ」
「あの……まだお名前を伺ってませんでしたが……」
「あぁ、俺の名前は…アル・アネクシオス。アルでいい」
「アル様…」
「様なんてつけなくていい。普通にアルでいいよ」
「いえ。アル様は私を拾って下さった上に、こうして助けてくれたんです。ですから…今からアル様が私のご主人様です」
「……まぁいいや。好きにするといい」
シスはコップに残ったミルクを飲み干すと、少し汚れのついた顔のまま、うっすらと微笑んだ。
「シスの……生まれ故郷はどこだ?」
「え? 私の…? 私の故郷は……ずっと東の方です。ユーフラテス河のもっと東にいったところです」
「遠いな…でもちょうどいい。この街も飽きたしね。そこに行ってみよう」
「えっ? あ、歩いてですか?」
「まさか。船を使うよ。とりあえず、カイロまで船で行こう。フィレンツェかジェノヴァから出てるはずだ。カイロまで行ったら、そこから紅海に出て、そこからまた船だ」
「……アル様は…何でも知ってるんですね…」
「伊達に長生きしてないよ。…とりあえず、もうしばらくここで休んで、体力が回復してから出発だな」
「はい」
シスの故郷は小さな村だった。
その村は第9回十字軍の遠征の際にいとも簡単に制圧され、そのときまだ11歳だったシスは奴隷としてヨーロッパに連れてこられた。
その時に、すでに故郷はなくなってしまったのだという。建物は完膚なきまでに破壊され、両親、兄弟、友人全て殺された。ただ一人、彼女だけがどういう訳か死を免れた。奴隷商人に二束三文で売り飛ばされ、すぐにヨーロッパで奴隷として売られていった。
そして6年後、熱病にかかったせいで奴隷として住んでいた家を追われ、今にいたる。
「シス」
「は、はい?」
「………何も心配しないでいいからな」
「え? ……は、はい……」
アルには彼女の過去が分かった。
どういう理屈かは分からないが、彼女の目を見ていると、それまでシスが辿ってきた道が見えたのだ。
この娘も「神」に蹂躪されてきたのだ。
「さて、俺はこれ食うけど…食えるか?」
シスの目の前にパンを差し出した。
ごくり、と喉がなる。
「ほら」
「…え? あ、で、でも…」
「いいから。腹減ってるんだろ?」
「……いいんですか?」
「あぁ。まだあるから食べるといい。あと干し肉もあるけど…これまもうちょっと体力が回復してからだな」
「あっ…ありがとうございます!」
突然、大きな声で礼を言うと、それまでの大人しさからは想像も出来ないほどの勢いでパンにかじりついた。
一応、パンにチーズを挟んだだけのものなのだが、こういったものも食べる事は滅多になかったらしい。
「…美味いか?」
「はいっ、美味しいです!」
あっという間に1つ平らげる。
「…ほら、好きなだけ食べなさい」
「は、はいっ」
木の皿に置いたパンを3つほど食べて、ようやく落ち着きを取り戻したようだ。
「随分元気になってきたな。もう熱も下がったみたいだし」
「はい、かなり楽になりました。もう大丈夫です」
「…もうちょっと休んでなさい。病み上がりっていうのは結構危ないんだ」
「…………」
「ん? どうかした?」
「……どうしてアル様は…私にそんなに優しいんですか?」
本当に不思議そうな顔でシスが尋ねてくる。
今まで彼女はこんな風に、普通に接してもらった事がないのだろう。奴隷として扱われてきたのだから、それもそうかもしれない。
「病み上がりの女の子に優しくするのは当然だろ? 元気になったら働いてもらうから、今は休みなさい」
「………は、はい…」
なぜか少し顔を赤らめて、またベッドに横たわる。
窓を開けると、少し冷たい風が入り込んできた。
もうすぐ秋になるのだろう。窓の外の木々の葉は少しずつではあるが色づき始めている。
旅を始めるには少し厳しい季節かもしれない。
ここからカイロ行きの船が出るジェノヴァまでは陸路で1ヶ月。
ジェノヴァからカイロまでは船で2週間。
カイロから陸路で紅海へ出て、そこから船でまた2ヶ月ほど旅をする事になる。
余裕を見て、だいたい半年ほどの旅になるだろうか。今のシスの体力では到底絶えられそうにない。今の内にゆっくりと休んで、体力を貯えておいた方がいい。
「それじゃあ俺はこっちで寝るから。具合が悪くなったらすぐ言うんだよ」
「はい…」
開け放した窓の外には、きれいな銀色の満月が浮かんでいた。
 
「きれいな月ですねー」
「そうだね」
祐と雪和の視線の先には、満月が浮かんでいる。
中秋の名月とは時期がずれてしまっているが、それでも満月というのは美しい。
「あの…今日も楽しかったです。ありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。悪いね、単なる買い物に付き合ってもらっちゃってさ」
「いいえ、私の方から一緒に行きたいって言ったんですから」
もうこれで何度目のデートになるか、二人とも覚えていなかった。
こうして週末になるたびに二人でどこかへ出かけるのが、もう当たり前のようになっている。金曜日の夜には、かならず祐から雪和へ電話する事になっていた。
「仙道さんってパソコンにも詳しいんですね」
「うーん、まぁ詳しいってほどでもないよ。毎日使ってれば誰でも俺程度にはなるんじゃないかな」
「そうですか? 私、機械オンチだからパソコン使える人って尊敬しちゃいます」
「そうかなぁ?」
「今度俺んちに来るといいよ。インターネットも出来るから」
「ホントですか!? そんな事言ったら私ホントに行っちゃいますよ?」
「あぁ、ホントに来ていいよ」
苦笑しながら雪和の頭をなでる。
髪が冷たい。冬特有の澄んだ空気でずいぶんと冷やされてしまったようだ。
「雪和ちゃん、寒い?」
「え? いえ、大丈夫です」
といいながらも少し寒そうだ。一応厚着をしてはいるものの、この寒さだ。大丈夫という事はないだろう。
「どうしようか? とりあえず軽く何か食っていく?」
「うーん……あのぉ…」
「…?」
「…えーとですねぇ……その……」
「どうしたの? この後何か予定が入ってるとか?」
「い、いえっ、そういう訳じゃないんです。…その……」
夕食の話題が出たとたん、雪和の顔が妙に赤くなった。しかもどこかもじもじしている。
「あの…今日、仙道さんはこの後何か予定ありますか?」
「ん? いや、別にないけど」
「そ、そしたら……あの…良かったら私の家で…」
「……雪和ちゃんちで?」
こくっ、と少し大き目にうなずく。
「あっ、あのっ、お母さんからいわれてたんです。『一回くらい仙道さんを家に招待しなさい』って。それで、今日は私が晩御飯作る事になってて、それで……どうかなぁ…って…」
語尾が少しずつ小さくなっていった。
どうやら、祐を夕食に招待したかったらしい。
「あっ、でも期待はしないで下さいね。私の料理ってまだまだ下手で、お母さんに見ててもらわないとまともに作れなくって、それで…」
「いいね、俺も雪和ちゃんの料理食ってみたいよ」
雪和の言葉を遮って、祐が彼女の冷えた髪を撫でる。
雪和はこうして頭を撫でられるのが好きらしい。何となく幸せな気分になれるのだそうだ。
「よし、じゃあ今日はご馳走になろうかな」
「は、はいっ」
本当に嬉しそうな顔で雪和が大きくうなずく。
それを合図にするように、二人並んで神社へと歩き出した。
 
「うわぁ……」
黒い、しなやかな髪が海風で揺れている。
「見て下さいアル様」
シスが褐色の指を伸ばした先には、イルカの群れがいた。どうやら船と競争でもしているつもりらしい。
さすがに海の上まで追ってくるものはいなかった。
この船に揺られ始めて今日で6日目になる。
もちろん、ずっとどこの港にもよらない、というわけではない。途中、4日に一度ほどの割合で近くの港による事になる。食料や真水、それに航海に必要な物資を買う必要もある。
「アル様はずっとこんな風に旅をしてたんですか?」
「まぁそうだね。もう随分長い間、旅ばっかりしてる」
「ご家族とかは…?」
「いないよ。まぁ強いて言えば…今はシスが家族かな」
「えっ? わ…私がですか?」
一気に顔が真っ赤になる。
どうもかなりの恥ずかしがり屋らしい。
「一緒に暮らしてるからね。家族みたいなもんでしょ?」
「は……はい…」
「もう……」
甲板のロープに掴まって遠くを見る。
もうどれくらい来ただろうか。 いろいろな所を旅してきた。
故郷を出てから地中海の周り、ヨーロッパを一周した。そして十字軍戦争の頃はイスラムの都市、アンカラで暮らした事もある。
再びヨーロッパに戻ると、黒死病が大流行していた。ルーマニアで訪れた村では、生きている人間にほとんど出会う事はなかった。出会ったとしても、その日の内に死人の仲間入りをするような連中だ。
フィレンツェへたどり着くまでにどれくらいの時間を費やしたのかはもう覚えていない。
フィレンツェの小さな街、そこでシスと出会った。
今はそのシスと、再び東を目指して旅をしている。特に行き先が決まっているわけでも、最終的な目的地があるわけでもない。ただ、足の向く方向へ進んでいるだけだ。
「アル様?」
「ん?」
「……あの…ずっと前から聞きたかった事があるんですが…」
「何だ?」
「アル様って……歳はどれくらいなんですか?」
「…どれくらいに見える?」
「……うーん……20歳…くらいですか?」
「じゃあ20歳って事にしよう。歳は俺も覚えてないんだ」
「えっ?」
「細かくはね。まぁいいさ。今日から俺は20歳だ」
「…………」
実際のところ、アルはもうすでに自分の年齢などどうでも良くなっていた。
ずっとこの外見のまま変らない。
生まれたのがずっと昔だ、という事くらいしか覚えていなかった。
この時点で、すでに生まれてから700年以上が過ぎていたのだが、彼は死ぬ事も老いる事もなく、ただずっと20歳前後の外見を保ちつづけている。
どういう理由でこうなっているのかは、彼自身にも解らない。
だが、解っている事はいくつかある。
彼は「死ぬ事」と「老いる事」が出来ない、ということだ。
「シス…」
「はい?」
「………シスはどれくらい俺と一緒にいてくれるんだろうな…」
「え?」
「俺がまだ生きてる間にシスが死んだら…多分また泣くんだろうな」
「…アル様……」
死ぬ事が出来ない。
何度死にたいと思ったかすら、もう覚えていない。
姉さんと呼ぶ女性が死んだとき、自分が育てた娘が殺されたときも、死のうと思ったはずだ。
彼が生きている間に、シスが死んでしまうであろう事は確実だ。
明日の事かもしれないし、ひょっとしたら何十年も先の話かもしれない。
それでも、いつかはそういう日はやってくる。
残酷なものだ。
どんなに大切に想っていようと、相手の方が先に死んでしまう。そして、相手が死んでも自分は生きている。死ぬ事すら出来ない。
何故こんな身体に生まれたのか…
「そ、そんな事言わないでください!」
「……」
「私、ずっとアル様の側にいますから! 何があっても絶対に一緒にいますから!」
「…そうだな……悪かった。ちょっと…ね」
「………アル様…」
冬とはいえ、この日は波もほとんどなく穏やかな海だ。空も晴れている。
こうして日向にいる分にはそれほど寒くはない。
後ろから風が吹いてきた。
それを合図にするように、帆がいっぱいに張られ、船は推進力を増して行く。
その真横では、まるでじゃれ付くようにイルカが群れで泳ぎつづけていた。
 
電話のベルが鳴った。
と言っても、本当にベルが鳴るような大時代的な代物ではない。電子的な呼び出し音だ。
「はい、仙道です」
「あ、あの……小早川です…」
「あれ? 雪和ちゃん?」
雪和の声だ。
だが、いつもとは何か違う。
何かに脅えているような、何かを警戒しているような声だ。
「どうしたの?」
「あの……仙道さん、今から駅まで出てこれませんか?」
「駅まで? うん、大丈夫だけど…どうしたの?」
「黒尽くめの服着た変な人達が学校からずっとついてきてるんです。恐くて…」
「…雪和ちゃん、今いるところは、人気が多い?」
「はい、駅の構内です」
「じゃあ電気も点いてて明るいな。いい? そこから絶対に動いちゃダメだよ。俺がいくまでそこにいて。今すぐ行くから」
「…はい、すみません……」
受話器を置くと同時に玄関から飛び出した。
黒尽くめの服には嫌な思い出しかない。
過去、彼にとっての「大切な人」は、この「黒尽くめの服」を着た者に奪われた。
今また雪和にもその毒牙が伸びていると言うのか。
彼の家から駅まで、全速力で走れば大体10分程度だ。
「雪和ちゃん」
「あっ、仙道さん」
不安げに俯いていた雪和の顔がぱっと明るくなる。
周囲を見渡すと、確かに黒尽くめの服に黒い帽子をかぶった男が4人、こちらをみていた。
「ふぅ…もう大丈夫。俺が家まで送って行くよ」
「はいっ。…すみません、いきなり……」
「いや、いいよ。それより行こうか」
ごく自然に、雪和の肩に手を置いて歩き出す。
「あっ…」
「ん? …あぁ、ゴメン」
雪和が顔を少し赤くしているのに気付いたのか、祐も慌てて手を放した。
二人並んで駅から出たときだ。
目の前をものすごい勢いで消防車が走って行く。
「…火事かな?」
「そうみたいですね」
一応消防車を見ている振りをしながらも、周囲に対する警戒は怠らない。
どうやらあの4人組みはもうついてきてはいないようだ。
だが、彼らをさらに残酷な事態が待っていた。
「雪和ちゃん!!」
神社まであと歩いて5分というところまで来たときだ。
中年の女性が雪和を呼び止める。どこかひどく憔悴しきった表情だ。
「良かった!! 雪和ちゃん無事だったのね!」
「え? …無事…?」
「神社が火事になって……」
鞄が雪和の手から落ちる。
表情が消えた。
何が何だか解らない内に、彼女は走り出していた。
「雪和ちゃん!」
祐も慌てて鞄を拾い上げ、雪和を追いかける。
石段を登った雪和と祐の目の前に広がる光景、それは今まさに炎に包まれている七帥神社だった。
「…………」
震えていた。
何が起きているのか解らない、という表情で、雪和はその場にしゃがみこむ。
「…おかあさん……」
ぽつりと呟いた言葉で気がついたのか、急に立ちあがった。
「お母さん! お母さんは!?」
周囲にいる人垣から母の姿を探してみる。
だが、雪和の母の姿はなかった。
「お母さん!! お母さん!!」
必死の形相で母を探す。
だが見つからない。
無意味に時間が過ぎて行った。
そして、神社の火は消し止められ、雪和は母と対面する事になる。
煙にまかれ、すでに呼吸も止まってしまった、変わり果てた姿の母と。
 
「何を言っているのか…意味が分かりません」
シスの目付きはいつになく鋭かった。
彼女と、彼女の主人でもあるアル・アネクシオスは再びヨーロッパに戻っていた。現在彼らはスペインで暮らしている。
もう24歳になったシスを、黒装束の男が4人で取り囲んでいる。
「娘よ……オマエはあの悪魔と共に暮らしているのだな?」
「悪魔なんて知りません。それよりそこをどいて下さい」
毅然とした態度でそう答え、無理矢理男達の包囲から抜け出そうとする。
だが、彼女の眼前に鋭いナイフが突き付けられた。
「オマエも悪魔の手先となってしまったか…哀れな娘だ……」
「なっ…何をするんですかっ!」
「悪魔はこの世にいてはいけない……悪魔は手先もろとも抹殺する必要がある…」
男の目は本気だった。決してシャレや冗談を言っている目ではない。
その男の肩の向こうに、白皙の青年の姿が見えた。アルだ。
「ア…アル様! アル様ぁ!!」
「ちぃっ!」
ナイフの刃が褐色の肌に埋もれる。
それとほぼ同時に、シスの口から大量の血が溢れた。
「シス!!」
青年が絶叫して駆け寄ってくる。その行く手を4人の内3人が阻もうとした。
阻もうとはしたが、彼の手が触れた瞬間に、彼らは体中の水分を抜き取られてしまった。
「シス!」
青年がシスの体を抱きかかえる。
その瞬間に解ってしまった。
致命傷だ。
助ける事は出来ない。
「ア……アル様……ぁ…」
ごぼっ、と濁った音と共にまた大量の血が口から溢れ出る。
「死ぬな! 死なないでくれ!! シス!!」
「わた……私………」
「喋っちゃダメだ! 今すぐ医者に診せてやるから!!」
「アル…様と……一緒に…」
息を吐くたびに血が溢れる。恐らく傷は肺に達しているのだろう。
ぶるぶると震える手をアルの頬へ伸ばす。
また重なった。
リリスが殺された時の光景と同じだ。
胸を刺され、こうして自分の腕の中で死んでいった愛娘。
「一緒に………アル…」
腕の中の華奢な体が不意に重くなる。
目は閉じられていた。
つい10日前に買ってやった白い服が、真っ赤に染まっている。
「………シス……」
涙が出た。
もう100年ほど前に枯れたと思っていた涙が溢れてきた。
なぜだ?
何故シスもリリスも姉さんも殺されなければいけないんだ?
彼女たちが何をした?
どうして…?
「どうして……」
「悲しむ事はない。お前もすぐに後を追う事になる」
男のナイフが青年の首筋に突き付けられる。
ちくり、とかすかな痛みがあった。
「お前も……神の使徒か…」
「その通りだ、悪魔よ」
「…教えてくれ……シスが何をした…?」
「悪魔の下僕となったのだ。神のお怒りに触れても仕方あるまい?」
「……それだけか…? それだけでシスは殺されたのか?」
「魔女は裁かれねばならん」
アル・アネクシオスがゆっくりと立ち上がる。
両手を胸の上で組んだシスを抱え、そのまま歩き出した。
「どこへ行く! アル・アネクシオス!!」
「…………」
無言のまま、彼は真っ直ぐに街の出口を目指して歩きつづけた。
褐色の肌の女を抱きかかえて、ゆっくりとした歩調で歩いている。
不意に、彼の足に石が当たった。
子供が投げた石だ。
「あくま! さっさとでてけ!!」
その子供はもう一つ石を拾うと、今度は青年の頭をめがけて石を投げる。だが、その石は逸れてしまった。
街の出口に近づくに連れ、石の数はどんどん増えていった。
沿道を埋め尽くす人々が、道に落ちている石を我先にと投げつける。
ついには石はまるで雨のように青年に降り注ぎ始めた。
彼はその石を避けようともしない。
なぜか石は一つも彼に当たらなかった。全てが当たる直前で微妙に軌道を変えてしまうのだ。
「アル・アネクシオス!」
男が青年の前に立ちはだかった。
「お前は生きてこの街を出る事はない! その娘の後を追うがいい!!」
「…………」
青年の返事はなかった。
ただ彼の形相から、彼の心が怒りと憎しみ、それに悲しみに満ちている事だけは十分すぎるほど分かった。
男がナイフを振りかざした刹那。
彼はその姿勢から動けなくなった。
まるで彫像のように動かないその男をわき目に見て、青年は街から出ていった。
後に残されたのは、石となってしまった黒装束の男一人だ。
 
「雪和ちゃん、ほら、飲みなさい」
「…………」
祐が差し出したホットミルクを、真っ赤に腫らした目で見る。
昨夜、葬儀がすべて終わった。
雪和はたった一人の肉親でもある母を亡くしたことになる。
現在、彼女は着の身着のままで祐の家にいた。
「…気持ちは分かるけど……身体壊すよ?」
「……はい…」
すぐ側に座った祐からマグカップを受け取り、ほんの少しだけミルクを口に含む。
七帥神社は全焼だった。
雪和の母の遺体がほとんど焼けていなかったのは奇跡に近い状態だった。
神社も、そのすぐ近くにあった彼女の家も、全てが焼けてしまった。
「…仙道さん……」
「ん?」
「………せん…仙道…さん…」
大きな眼からぽろぽろと涙が零れた。
ここ数日、ずっとこんな調子だ。
寝ている時間以外のほとんどは泣いている。
ほとんど口も開かないし、ほとんど何も食べない。
よほどショックなのだろう。数日だけでも少し痩せたことがわかってしまう。
「…いいよ。我慢しないで。泣きたいときは思いっきり泣きなさい」
「…うっ……」
マグカップを置いて、祐の腕の中に飛び込んできた。
そのまま、まるで小さい子供のように声を上げて泣き出してしまった。
祐はただ、何も言わずに雪和を優しく抱いてなだめている。
こういう時に何か言われるよりも、ただこうして黙って泣かせる方が良い。
その事は祐も経験上よく知っていた。
時間が解決するのを待つしかない。自力で立ち上がれるようになるのを待つしかないのだ。
たっぷり30分は泣いただろうか。
泣き疲れていつのまにか眠ってしまったようだ。
恐らく不安なのだろう。
たった一人の肉親を亡くしたことのショック。
それに、将来に対する不安。
収入はない。当然、生活費も学費も何も当てが無い。
政府の保護は期待できない。かといって、アルバイトをしながら学校へ通いつづけるのも難しい。それに、アルバイト程度で稼げる金額では、学費と生活費をまかなう事は出来ない。
明日着るものも満足に無いような状態だ。
今のところ、祐の家にいるおかげで住環境は整っている。食べ物もある。
ただ、着替えが決定的に少ない。
下着の替えなどはまだ洗濯しながら使いまわせるくらいの数はあるが、これから寒くなる。
彼女が持っている分だけでは絶対に足りない。
「さて……」
祐は電話のすぐ側からメモ帳を取り出し、何かしら書いて、なるべく音を立てないように玄関から外へ出た。
『ちょっと銀行に行ってきます。すぐもどるから、お腹が空いていたら冷蔵庫のものを適当に食べてて良いよ』
という内容だ。
その通り、彼は銀行へと赴いた。
すぐ近くにATMがある。そこで現金を引き出した。
そして帰り道、夕食のおかずを買って帰る。
「すみません」
「はいいらっしゃ……あら…雪和ちゃんの具合、どう?」
「今は寝てます。ちょっと疲れてるみたいだから…しばらく学校も休ませようと思います」
「そうよねぇ、その方が良いわよねぇ」
初めて買い物をしたときに、雪和に案内してもらった惣菜屋のおばさんだ。
買い物を何度かしていたせいか、こうして普通に会話が出来るくらいに仲良くなっていた。
「あの子も可哀相にねぇ…あんなに真面目で優しくて良い子なのに…」
「……そうですよね…」
この店のおばさん、雪和が小さい頃から彼女を知っているらしい。
まぁ雪和は幼い頃から巫女服を着て、夏祭のときには神社のマスコット的な存在だったらしいからそれも不思議ではない。
「仙道さんみたいな方がいるのがせめてもの救いかしらねぇ。…あの子の事、よろしくね?」
「え? えぇ」
「それで、今日は何にする? おまけしとくわよ?」
「それじゃあ…アジのフライと、あと春雨のサラダと、ゴボウの金平にしようかな」
「はいはい。じゃあ…この肉団子、おまけしとくわね」
「ありがとう。それじゃ」
「それじゃあ。雪和ちゃんによろしくね」
良い匂いのする惣菜を持って、マンションへと向かう。
空を見ると、もう茜色から青紫へと移り変わっていた。

   3
夢を見ていた。
その青年はベッドに横たわり、心地よい振動を楽しんでいるかのようだった。
この鉄道はつい最近になって開通したばかりだ。
大英帝国から独立したばかりの合衆国で、初めて開通した鉄道。
その鉄道に特別に作られた寝台に、その青年は乗っていた。
彼の夢の中では、長い人生がまるで映画のように鮮明な映像となって浮かんでいる。
楽しい夢だ。
まだ小さい子供の頃、彼は姉に育てられた。
美しく、優しい姉だった。
いつも彼の事を庇ってくれて、いろいろな事を教えてくれた。彼はそんな優しい姉が大好きだった。
いつも側にくっついて、甘えては困らせていたものだ。
だが、その姉は殺されてしまった。
まだ小さかった彼にはその理由は分からなかったが、今なら分かる。
姉リリスが殺された理由は、自分自身であるという事。
自分を庇ったために、姉は殺されたのだ。
それ以来、彼はずっと放浪の生活を続けていた。
そんなときに役に立ったのが、姉が教えてくれた「錬金術」という技だった。
砂を砂金に変えてしまうという技術。
どういう訳か、これは彼とリリスにしか出来なかった。
リリスとアルの姉弟は不思議な点で共通するところが多かった。錬金術もその一つだが、彼ら2人で決定的に違っていた点がある。
姉は死んでしまった。だが、弟は「死ぬ事」が出来ないのだ。
何度も自殺を試みた。
首をつったり、毒を飲んだりもした。
だが、死ねない。
死ねない上に、老いる事もなかった。
どういう訳か、彼の容姿は20歳の頃から全く変らない。
今の姿になって、もうどれくらいの月日が過ぎただろうか。
確か彼が生まれた年は、今で言う西暦の782年。
もう1000年が過ぎている。
この1000年の間に、彼は愛するものを何度も亡くしてしまった。
姉、娘、恋人。
彼女たちは不思議な事に、姉リリスの面影を持っていた。
姿形、肌の色、瞳の色、髪の毛の色もすべて違う。
だが、面影や雰囲気は姉リリスのものと同じだった。
そして、姉リリスと同じく、彼女たちもまた彼の目の前で殺されてしまった。
『神の使徒』と名乗る者に、皆胸を刺されて死んでいった。
彼は疲れ切っていた。
死ぬ事が出来れば、彼女たちのもとへ行く事が出来るかもしれない。
死ぬ事さえ出来れば、この苦しみから解放される。
死ぬ事さえ出来れば……
「お客様、着きましたよ」
不意にドアの向こうから声がした。
その声で目が覚めたのか、青年はふらふらと身を起こす。
「お客様、終点ですよ」
「あぁ、降ります」
荷物を抱え、ドアを開けて外に出た。
なかなか大きな街だ。
英国からの移民が多く移り住む街だという。
上を見るとすでに空は薄暗い。もうそんな時間なのか。
『ワシントン・シティへようこそ!』という大きな看板が目に入った。
「ワシントン…か……」
確か独立戦争の指揮官がジョージ・ワシントンという名前だったか。その男の名前をつけた街、という事になる。
青年はさほど大きくはないバッグを抱えて、ゆっくりと歩き出した。
彼の目の前には、豪奢な造りのホテルがある。彼がこれからしばらく宿泊する予定のホテルだ。
ホテルのドアを開け、ロビーに入ると実に豪勢な内装が出迎えてくれる。
「いらっしゃいませ。ご予約のお客様ですか?」
「はい。アル・アネクシオスで予約しています」
「かしこまりました。アル・アネクシオス様でいらっしゃいますね」
ドアボーイが彼のバッグを受け取り、その場で待機する。
さっき声をかけてきた男がキーをもって戻ってきた。
「こちらへどうぞ」
どうやら部屋まで案内してくれるようだ。
こうした宿泊のための施設のサービスも随分変った。
昔はカウンターで金を払い、鍵を預かってそれっきり、という形だったのだが。
だが、これはこれで居心地は悪くない。だが、する事が無くなるというのは意外に退屈なものだ。
「ワシントン・シティへは観光で?」
「…まぁそんな所です」
「ここの他はどちらへ? ヨーロッパの方からいらっしゃったんでしょう?」
「特に予定はありませんよ。気が向いたら気が向いた方へ行くだけです」
「いやぁ、羨ましいですなぁ」
やたら背の高いドアボーイが屈託のない笑顔を向けた。
「私はずっとここで育ちましてね。他の土地へは行った事がないんですよ」
アル・アネクシオスが持ってきたバッグは決して重くはない。必要最小限の荷物しか入っていないのだから、重くなっては困る。
ドアボーイが鍵を取り出した。部屋の番号は306だ。
「はい、どうぞ。この部屋の鍵です。お出かけのときはフロントにこの鍵を預けていって下さい」
「どうも」
ポケットから1ドル札を差し出した。
チップとしてはかなり気前がいい方だ。ドアボーイはかなりの上機嫌で去っていく。
「…ふぅ……」
アメリカ合衆国は活気に満ち溢れていた。
独立したばかり、という事もあるのだろう。港に降り立ったときから、国中が活気で満ちている事がわかるくらいだった。
だが、そんな気運の中に身を置いても彼の心は疲れ切ったままだ。
ぼふっ、と音を立ててベッドに横になる。
ランプの灯かりが部屋をぼんやりと明るくしていた。
シスの事を考えていた。
褐色の肌に黒い瞳と髪の毛。
美しい娘だった。美しく素直で、優しかった。
彼女が死んでからもうどれくらい経っただろう?
彼女を亡くして以来、アルは一人だった。
もう誰も愛する事はないだろう。そう考えている。
愛したところでどうなる? また自分のせいで殺されてしまうのではないか?
殺されなかったとしても、また愛するものを失う悲しみを味わう事になる。
彼はもう疲れ切っていた。
しかし、同時に渇いていた。
1000年を生きてようやく、幼い頃に姉が言った言葉の意味が分かってきた。
『どんなに強い人でも、一人じゃ生きていけないの』
「一人で……生きてきたつもりなんだ……」
『姉さんね、アルの事が大好きなの。人を好きになるってすごくいい事なのよ』
「……姉さん…」
ベッドに仰向けに横たわったまま、天井をぼんやりと眺める。
さっきまで眠っていたせいか、眠気は全くない。だが、置きあがる気にはなれなかった。
『絶対に……離れないからね…』
『絶対に一緒にいますから!』
瞼の裏側に、リリスとシスの顔が浮かんできた。
彼女たちを失った時の心の痕はまだ癒えていないようだ。
彼女たちは確かに約束を守ってくれた。
だが、そんな彼女たちを守ってやる事は出来なかった。
「姉さん………姉さんの言った通りだ…」
視界がぐにゃりと歪んで、顔の側面に暖かい感触。
涙が自然と流れた。
「一人は……寂しいよ………」
もう今年で200年になる。
200年間、彼は一人でずっと旅を続けてきた。
200年の間、彼は誰も愛さずにいようと思いつづけてきた。そうすればあの哀しみからはまぬがれる事が出来る。
だが、その後に残ったのは、この例えようもない孤独と寂しさだけだった。
どうして?
どうして生きているんだ?
なぜこんな思いをしてまで生きてるんだ?
なんでこんな思いをしなきゃいけないんだ?
どうして死ねないんだ?
死ねば楽になれる。神の使徒とかに殺される事が出来れば、それで楽になれる。
なのにどうして?
「……俺は……いつになったら…」
ドアがノックされた。
返事をする前にドアがゆっくり開く。
「アル・アネクシオス殿ですな」
初老の男が入って来る。
かなり大柄で、手にはサーベルを持っていた。
「だとしたらどうする?」
「貴殿に話がある」
「ここで構わない。座りなよ」
ゆっくりと身を起こして、男の顔を見る。
見覚えはなかった。
「…では失礼する」
大柄な男は椅子に腰掛け、アル・アネクシオスと正面から向き合った。
「で、話って?」
「単刀直入に聞こう。貴殿は悪魔か?」
「そうだろうな。多分」
聞く方も聞く方なら、答える方も答える方だ。
まったく躊躇いなどなく、ズバリと言ってのけた。
「なぜそう思われる?」
「…神を呪ってるからね」
「なぜ神を呪われる?」
「死にたいのに死ねない。だからさ」
「なぜ死を望まれる?」
「…愛する者のいない世界に生きていても……意味はないさ」
「……なるほど…」
初老の男は腕を組んで考え込む。
どうやら今までアルが出会ってきた「神の使徒」とは違うようだ。
今まではアル・アネクシオスの名を聞くだけで襲い掛かってきた。だが、この男はまず話を仕掛けてくる。
行く行くはそのサーベルを振るうつもりかもしれないが、それでもこうしてまともな会話をしたのは初めての事だ。
「さて、それではこれで失礼する。お邪魔して申し訳ない」
「…殺さないのか?」
「あなたは死なない。死なない者を殺そうとするほど、私は愚かではないつもりだ」
「なるほど、もう知ってるって訳か…」
「それでは」
「あぁ、ちょっと待って」
青年は初老の男の背中に言葉を投げかけた。
「俺を殺す方法が分かったら、俺にも教えてくれよ」
「……承知した」
静かに、ほんの少しの軋みを残してドアが閉まった。
 
 
「も、申し訳ございませんご主人様!」
広い屋敷の中には、たった2人しか住んでいない。
一人は色白の青年で、この付近の農場主だ。何でもこの大陸にやってくる際、大量の砂金を掘り当ててその金で土地を買ったらしい。
農場主にしては珍しく、農夫達を大事に使うという評判で、続々と農夫が集まってきているそうだ。
そんな若き農場主の館で働くメイド。それが彼女だ。
小柄な身体ではあるが、よく働く。まじめな性格だ。生真面目といった方が適切かもしれない。
「おやおや……気をつけなさい」
「は、はい……」
不思議と、彼女がどんな失敗をしようと農場主は怒ったりしなかった。
まるで小さな子供の失敗を軽くたしなめるような、そんな口調だった。
今年で15歳になるメイド、シノは日本とか言う国からやってきたのだという。
小さい頃にアメリカに移住し、それ以来ずっとアメリカで暮らしていたのだそうだ。
だが去年、突然両親を事故で亡くし、路頭に迷っていたところをアルに拾われた。
日本人はどうやら働き者の民族らしく、本当に志乃はよく働く。言い付けは守るし、何よりも頭がいい。
彼女を拾ったときは、本当に自分に呆れ返ったものだ。
過去に何度もこういう事を繰り返して、その度に哀しい結末を味わってきたじゃないか。
それなのに……
「……あ、あの…ご主人様…?」
「ん?」
「…すみません…」
「あぁ、別に怒ってないって。それより怪我は?」
「いえ、大丈夫です」
ちょっと申し訳なさそうな顔で、上目遣いにアルを見る。
こういう仕種なども良く似ている。
「それより志乃、あとで俺の部屋に紅茶を持ってきて。ミルクティーでいい」
「あ、はい、ご主人様」
実に聞き取りやすい声だ。
それでいて耳障りでもない。澄んだ鈴の音を連想させる。
まるでシスの声を思い出させるような、そんな声だ。
「……そろそろ…俺も寂しくなったのかな……」
階段を上りながら、ぽつりと呟いた。
志乃と暮らすようになってからというもの、彼の心の渇きは次第に潤っていった。
彼女が側にいるだけで、それだけで以前感じていた孤独感や空しさが消えていく。
不思議なものだ。
彼女もまた「似ている」のだから。
笑顔や仕種、それに言葉づかいが、彼の姉のリリス、そして戦災孤児だったリリス、そしてシスに良く似ている。全体的な雰囲気が似ているのだろう。
最近彼は一冊の本を読んだ。
それは東洋のチベットとかいう国の宗教について書かれたものだ。
人は死んでもまた別の人間としてこの世に生まれてくる。これを輪廻転生というのだそうだ。
もしこの理論が正しいとするならば、姉もリリスもシスも、そして今恐らく一階のキッチンで紅茶を入れている志乃も輪廻とかいうものを繰り返しているのだろうか…
だとしたら、死なない自分はどうなるのか?
自分に輪廻とかいうものはあるのだろうか?
と考え事を巡らしている最中に、ドアをノックする音が室内に響いた。
「ご主人様、お茶をお持ちしました」
「あぁ、ありがとう」
「何か他にお持ちするものはありませんか?」
「…そうだな、クッキーか何かが欲しいけど…ある?」
「はい、今朝焼いたものが残ってます。それでよろしいですか?」
「あぁ。頼むよ」
紅茶を一口啜り、柔らかい椅子に身を沈める。
部屋は薄暗い。
ランプの灯かりだけが、この広い部屋を照らしていた。
ひょっとしたら志乃は、姉さんやリリス、それにシスが生まれ変わってきたのかもしれない。そんな突拍子もないことを考えてみた。
「ふぅ……」
天井を見上げると、ちょっとした絵が描いてある。
恐らく、そう芸術的な価値が高いものではないだろう。そこら辺の画家が描いたものらしい。
そう言えば、彼の子供の頃の記憶の中にも「天井の絵」がある。
どんな絵だっただろうか…確か鎖と鏡が描かれていたはずだ。
あの大聖堂はまだあるのだろうか?
「…ある訳ないか」
自嘲気味に苦笑して、もう一口紅茶を口に含む。
また、ドアがノックされた。
「ご主人様、クッキーお持ちしました」
「あぁ、ありがと。入っていいよ」
「失礼します」
メイド服に身を包んだ志乃が入って来る。
東洋人でもある志乃にメイド服が似合うかどうか、最初は不安だったのだが、どうやら無駄な心配だったようだ。
白いブラウスに紺のスカート。それと白いエプロンという、実にオーソドックスなスタイルだ。
この服装が意外なほど志乃にはよく似合っている。
「志乃も食べないか?」
「え? …よろしいんですか?」
「あぁ。一人で食うより2人の方がいい」
近くで良く見ると、まだ幼さが残る顔立ち。
本当に雰囲気がそっくりだ。
「本当に良く似てるな…」
「え? 似てる…って?」
「昔会った人にね。雰囲気がそっくりなんだ」
「は、はぁ…」
「……なぁ志乃、ここでの暮らしはどうだ?」
「楽しいですよ」
と、本当に楽しそうな笑顔で言ってのけた。
「だって本も好きなだけ読めますし、それに私、料理が大好きなんです。好きなだけ料理が出来て、「おいしい」って言って食べてくれる人が入るんですもの。凄く楽しいです」
「…そうか……」
こうして心が温かくなるのも随分久しぶりの事だ。
シスが死んで以来、こうして人と話しをしていて心が穏やかになる、ということはほとんどなかった。
心の底から安らげる、ということなど実に200年ぶりではなかろうか。
「…志乃が望むなら、ずっとここにいるといい。少なくとも衣食住は俺が保証するよ」
「はいっ、ありがとうございます」
にっこりと笑った笑顔。
思わず苦笑してしまうほど、よく似ていた。
彼の記憶に鮮明に残っている、姉リリスの笑顔だった。
またそれは同時に彼が育てた娘のリリス、そしてシスの笑顔でもある。
「さてと……今日の夕食は?」
「今日は…あの…私の故郷の料理を作ってみようと思うんですけど…」
「へぇ、ニッポンの料理か。面白そうだね。ぜひ頼むよ」
「はいっ」
 
「フロウフシ?」
「はい。日本の御伽噺であったんです」
志乃の話の中に、耳慣れない言葉があった。
フロウフシという言葉だったのだが…
「老いず死なずっていう意味なんです。人魚の肉を食べるとそうなるっていうふうに言われてるんですよ」
「老いず……死なず…か……」
これには少し驚いた。
まさしく自分の事ではないか。
老いる事も死ぬ事もない。だが、彼には人魚の肉など食べた覚えはない。今まで食べてきたのは、ごく普通の食べ物だけだ。
「でも、人魚なんて…いるわけないですよね」
「…そうだな」
志乃が持っていた御伽噺の本の中に、確かにこの話はあった。
日本語で書かれていたので、志乃に読んでもらったのだ。
その内、原文のまま自分で読んでみようと考え、彼自身も志乃から日本語を学んだ。
「……まったくその通りだ…」
原文を読んで、少なからず共感するところがあった。
この物語の主人公は、到底他人とは思えない。
永遠に生きなければいけない苦しみ。
死ぬ事が出来ない哀しみがそこに描かれている。
「ご主人様…?」
「志乃…もし俺がこの話の主人公みたいだったら…どうする?」
「え?」
大きな目をさらに丸く見開いて、驚きの表情を作る。
そう言えば、志乃がこの家で働くようになってからもう1年近く経つが、まだ彼女はアル・アネクシオスという人物の年齢を知らない。
どこの出身かも知らない。白い肌に鳶色の目と亜麻色の髪を持っているところから、おそらく東洋人ではないだろう。ヨーロッパの方の出身なのかもしれない。
ただ、不思議な部分は数多くあった。
大昔の出来事、例えば十字軍戦争やペストの流行、それにルネッサンス時代の事やメディチ家の話など、まるで自分の目で見てきたかのように生々しく話すことが出来るのだ。
もしもこの目の前の男が不老不死だったら?
人間の姿をしているが、人間でない生き物だったら?
「別に構いません」
「……?」
実にあっさりと言ってのけた。それも微笑みながら。
「ご主人様がどんな方であれ、今のままのご主人様でいて下さったら、私はそれでいいです」
「もし俺が悪魔だったらどうするんだい?」
「…アクマ…? あぁ、鬼の事ですね」
「……オニ?」
「私の故郷で言う鬼の事だと思います。鬼の中には優しい鬼もいる、って祖母から聞いた事があります。ご主人様が鬼だとしたら、きっと優しい鬼なんですよ」
にこにことした表情でそう話を続ける。
たとえこの場にいる男が鬼であろうと、今まで自分に対しても、それに彼の農場で働く農夫達に対しても優しく接してくれている。
彼は悪魔でも鬼でもない。志乃にとってはただの「優しいご主人様」なのだろう。
「志乃は…神っていうのを信じてるかい?」
「神様ですか……縁結びの神様とか学問の神様とか、あと大漁の神様なら信じてます」
「……?」
「…あ、日本ではたくさん神様がいるんですよ。八百万って言われるくらいたくさん」
「ヤオヨロズ……どんな意味だったっけ?」
「数え切れないほどたくさん、っていう意味です」
「………キリスト教とかとは違うんだな。東洋の宗教は」
「そうみたいですね。私もこっちに来てちょっとびっくりしました」
神が一人しかいない。
神の御業に間違いはない。
俗に言う「一神教」というものだ。この類の宗教は自然に発生する事はない。
自然発生する宗教は大抵、自然のありとあらゆる物事に神が宿っている、という考え方だ。
ギリシャ神話の神、ゼウスなどはどうだろう。
最高神という地位でありながら、妻のヘラには頭が上がらず、そのくせ女好きで浮気がバレてはヘラに癇癪を起こされる。何と人間臭い神だろうか。
考えてみれば、キリスト教が普及するにつれて土着宗教の「神」はキリスト教にとっての「悪魔」に姿を変えられてきた。
東洋では水の守り神とされているドラゴン。
龍神様といわれ、ニッポンでも豊かな水をもたらす神として崇められているという。だが、そのドラゴンがキリスト教ではどうだろう?
忌まわしい呪われた怪物として語り継がれ、ひたすら悪役の道を歩まされているようだ。
「東洋と西洋では根本的に考え方が違うんだね」
「…そうみたいです」
ユダヤ教のヤハヴェ神、キリスト教のイエス、イスラム教のアッラー。
これらはいずれも「唯一絶対の神」として扱われている。
東洋で普及している仏教、儒教、ヒンドゥー教では実に多くの神々がいる。その神は時に間違いも起こすし、人間臭さも持っている。
西洋社会ではまず考えられない。
「不思議なもんだな」
「えぇ……」
窓からは銀白色の光が優しく射し込んでいる。
満月だった。
 
館はきれいなオレンジ色の炎を上げていた。
暗い夜空が明るく染め上げられ、幻想的な雰囲気すら醸し出している。
「…大丈夫か?」
「はい……」
アルと志乃の2人は、館の入り口、門のところまで逃れていた。
玄関近くでは、彼の農場で働いていた農夫達が松明を持って何かを叫んでいる。
「……もう…ここにはいられないか」
「ご主人様…」
「志乃は好きなところへ行きなさい。もう俺に縛られる必要はない」
「えっ?」
「………俺はまたどこかに行くよ。当てのない旅になると思う。この砂金を持っていくと良い。当分食うには困らないだろうから」
「そ、そんな……どうして?」
館に火をつけたのは農夫達だった。
彼らの間では、ここ数日で急速にある噂が広まっていた。
農場主は悪魔だ、という噂が。
確信のない噂だったが、それでも噂は何度も何度も農夫達の間をぐるぐる回る事で、根拠のない信憑性を高めていった。
そして、彼らは火を放った。
火は悪魔を追い払う力があると思っていたのだろう。まだアルが館の中にいると思った彼らは、館のありとあらゆる所に火を放った。
木造の館が炎に包まれるまで、それほど長い時間は必要なかった。
「ほら、見つからない内に。見つかったら志乃もタダじゃすまない」
「……イヤです…」
「…?」
「私……アル様について行きます」
「……志乃…」
「私の居場所は…アル様の側だけなんです。他に行くところなんか……」
「…わかった。じゃあついてきなさい」
門をゆっくりと開け、馬車に乗り込む。
間一髪だった。
農夫達が馬の嘶きを聞きつけて駆けつけてくる。
彼らが門に辿り着いた頃には、アルと志乃はすでに馬車で走り出していた。
 
 
志乃は日向のソファで編み物をしていた。
もともと手先が器用だったせいか、毛糸を使った編み物もすぐに覚えたらしい。
特にこれといって変ったところのない、普通のマフラーだった。
「…うん、これで……」
窓の外では枯葉がかさかさと音を立てている。
もうすぐ本格的な冬になるだろう。マフラーの一本や二本、あっても困るものじゃない。
彼らはヨーロッパに戻っていた。
志乃にとっては初めてのヨーロッパなのだが、アルにとっては実に久しぶりのヨーロッパだ。
しばらく見ない内に随分変ってしまっていた。
道路は舗装され、街にはガス灯が点っている。
漆黒の闇に支配されていた夜の世界が、明るく照らされるようになっていた。
「ただいま、志乃」
「あ、お帰りなさいませ…」
ゆり椅子に座ったまま、にっこりと主人を迎える。
志乃はもうすぐ28歳になろうとしている。
彼女は病んでいた。
結核という、肺の病気に体を蝕まれていた。
「大丈夫か? 具合は?」
「今日は…だいぶ楽です。それほど寒くはありませんから」
「そうか…でも無理はするなよ」
「はい…」
誰も入ってこない部屋。
結核は空気感染する上に、治療法が見つかっていない、不治の病だ。
恐らく、このままでは志乃は死んでしまう。
だが、アルは不思議な安堵感を覚えていた。
今まで自分が愛したものは全て、『神の使徒』の手で刺殺されている。だが、 志乃は違った。
アルが背中をさすると、胸の痛みは不思議とやわらぐらしい。
こうして2人しかいない部屋で、志乃の背中をさすってやること。それがアルの日常だ。
「ご主人様は……ご病気にはならないんですね…」
「あぁ……イヤになるくらい身体は丈夫なんだ」
「…………」
何も言わずににっこりと微笑む。
随分痩せてしまった。
病気のせいだろう。ここ数日はあまり食べ物も喉を通らない。
「ご主人様…」
「ん?」
「私が……死んだら、誰か好きな女性を……大切な人を探して下さいね……」
「…志乃…?」
「だって…ご主人様、寂しがり屋なんですもの。誰かが一緒にいないと…私も安心できません」
「……あぁ、解った。時間はかかるかもしれないけど……そうするよ」
「…あ、でも……また私が生まれ変わって、ご主人様の側に行くかもしれませんね」
穏やかな笑顔だ。
アルには解っている。
もう死期がすぐそこまで迫っていた。
また愛するものを失ってしまう。
だが、志乃は笑顔のままだ。彼の記憶にある、苦痛と涙での別れではない。
静かな、穏やかな死がそこまで迫っている。
「あ、ご主人様」
「うん?」
「このマフラー……」
「…志乃が作ったのか?」
「はい。これから寒くなりますから…風邪を引かないように」
「…ありがとう。大切にするよ」
「…はい」
不意に志乃が咳き込む。
床に赤い滴が落ちた。
白く塗られていた床が真っ赤に染まる。すでに志乃の身体は限界だった。
アル・アネクシオスが優しく小さな背中をさする。そうすると不思議と痛みが消えていくのだそうだ。
「…すみません、ご主人様……」
「いや、いいんだ」
「……ご主人様…」
「…ん?」
「最後のお願い……聞いてくれますか…?」
「あぁ、何でも言ってごらん?」
「抱いて…下さい」
「……あぁ」
椅子に座っている志乃をそっと抱きかかえて、そのままベッドに腰掛けた。
軽い。
もともと小柄な身体がますます小さく、軽くなってしまった。
こうして抱きかかえている体には、力がまるで感じられない。
命の火がもうすぐ消えてしまうのだろう。
もうそれほど先の話ではない。おそらく、本当にもうすぐ彼女の命は尽きてしまう。
「……暖かい…」
「何も心配しなくていい。ゆっくりお休み」
「ご主人様…」
「ん?」
「最後に……キスして…下さい」
そっと志乃が目を閉じる。
顔を近づけると、本当にかすかにではあるが、呼吸が感じられた。
軽く閉じられた志乃の唇に、優しく自分の唇を重ねる。
志乃の目から、涙が一滴だけ零れた。
「……ご主人様…すごく……眠い…です」
「あぁ。心配しないでいいから。眠っていいんだよ」
「…………おやすみなさい…愛してます…ご主人様……」
「…おやすみ……」
うっすらと開けられた目が、再び閉じる。本当に眠るような、静かな別れだ。
志乃の目が開く事は、もう二度となかった。
 
 
世界大戦は終わりを告げた。
1945年、全世界を巻き込んだ大戦争は、ようやく終結した。
思えばこの戦争も、くだらないきっかけで始まったものだ。
志乃がこの世を去っておよそ150年が経っている。その間、彼はまた一人になっていた。
別に一人でいる事が苦痛に感じられるわけではない。
だが、やはり彼女が言っていた事は正しいようだ。
寂しい。
寂しさが次第に込み上げてくる。
それもそうだろう。150年間も孤独な放浪を続けていれば、誰だって寂しくなるはずだ。
彼の事を良く分かっていたのは、彼自身ではなく、彼と一緒に暮らしていた志乃だったのだ。
思わず苦笑してしまう。
1200年も生きていて、自分の事も分からないのか。
「…ふぅ……」
ふと空を見上げると、もう星がちらほらと見え始めている。
東の空にはひときわ明るい金星が見えていた。宵の明星というやつだ。
ここ数百年で街の風景はがらりと変ってしまった。
馬車は自動車に、松明の灯かりはガス灯から電灯に。
鉄の線路が引かれ、その上を電車が走る。
空は鳥だけのものではなくなってしまった。
船は太平洋を横断し、一度に大量の荷物を運ぶ事が出来るようになった。
電気の灯かりが夜を昼よりも明るく照らすようになった。
昔の、あの静かな夜はもう懐かしい昔話になってしまったようだ。
今ではこの場に居ながらにして、全世界の様子がわかる。
ラジオが音声を運び、新聞が文章でニュースを届けてくる。電話という便利な道具も出来た。これを使えば、手紙を出す事なく、ロンドンからニューヨークのホテルの予約が取れる。
テレビというものも出てきた。初めは驚いたものだ。今ではほとんど当たり前のように見ているが。
「ミスター・アネクシオス」
ドアがノックされた。
「ルームサービスをお持ちしました」
「あぁ、ありがとう」
チェーンキーをはずしてドアを開ける。
どちらかというと小柄なドアボーイが、サンドウィッチと濃い目のアールグレイの紅茶を差し出した。
「ミルクと砂糖は…?」
「両方使います。置いてって下さい」
「かしこまりました」
チップを渡すと、ドアボーイはさっさと出ていってしまった。
長年ホテルで暮らしていると、こういう事にも慣れてしまう。
窓から外を眺めると、ロンドンの町並みが一望できた。
今日はめずらしく天気が良かった。
ロンドンという街で今日のような抜けるような青空が広がる、という事はかなり珍しい。
たいていはどんよりと曇った天気になる。5時間後の天気が違う、というのもこのロンドンの特色の一つだろう。
「さて…と」
ハムサンドを3口で片づけて、ベッドに横になる。
明日から、彼はまたこのホテルを離れる事にした。
ここ数十年は「神の使徒」を名乗る者は現われない。さすがにあきらめたのだろうか。
昔に比べ、人々の信仰心は薄れているような印象を受ける。
そのせいだろうか。かつては悪魔と呼ばれた彼も、今ではごく普通の青年として生活できるようになった。
もっとも、彼には戸籍も何もない。ただ、あるのは砂金を売って得た天文学的な金額の預金だけだ。
 
墓地に一人の青年がたたずんでいる。
その手には抱えきれないほどのカスミソウの花束があった。
花束をそっと、墓標に添える。
その墓標は古く、苔が所々に生えていた。
かろうじてその墓の主の名が読み取れる。
「…リリス……」
墓の主は2人いる。
一人はこの青年の姉。
もう一人は青年の娘。
2人とも「リリス」という名前を持っていた。
そして2人とも、若くして死んでしまった。
「もう……どれくらい経ったのかな。俺もこんな服を着るようになったよ」
彼の姉の方のリリスの遺骨を見つけるのは大変だった。
かなり昔、彼の姉の墓は両親の墓ともども荒らされていた。
その場所を探して、ようやく骨の一部を見つける事が出来た。そして、姉は今この地に眠っている。
「姉さん……やっぱり姉さんの言った通りだったよ。一人じゃ寂しいね……」
もう姉が死んでからかなりの年月が経っている。だが、彼の脳裏には、まるで写真のように鮮明に、優しい顔が焼き付いていた。
「さてと…それじゃ行くよ。まだ行かなきゃいけないところがあるんだ」
青年はゆっくりと立ち上がる。
恐らく、この墓地を訪れる事は、この先しばらくないだろう。
彼は、故国デンマークでしばらく暮らす事にした。
「じゃあ。また何かあったら来るよ」
墓地のゲートをくぐり、青年はゆっくりと歩き去る。
古ぼけたマフラーが、秋の冷たい風に吹かれて少しだけはためく。
次に彼が訪れたのもまた墓地だ。
さっきの墓地からかなり離れたところにある。タクシーで1時間以上走っただろうか。途中、花屋に寄ってまた花束を2つ買った。
青年はそこでも、ある墓標の前で立ち止まる。
小さな墓標が2つ並んでいた。
「やぁ。久しぶりだね」
穏やかな笑顔を浮かべて、それぞれに一つずつ花束を一つずつ置いた。
これもカスミソウの花束だ。
「ちょっとここを離れる事にしたから……知らせに来たんだ」
墓標の一つは、それほど古くはない。といっても、その辺の墓標に比べると格段に古いが。
2つの内古いものは、もう200年か300年、あるいはそれ以上経っているように見える。
「2人とも…似た者同士だったからな。仲良くやってくれよ」
そう呟くと、青年は首に巻いたマフラーをはずし、新しい方の墓標にかけた。
「志乃……せっかく作ってくれたマフラーだけど…こんなにボロボロになったんだ。今度は志乃が使ってくれよ。……まぁ150年も使ったから…許してくれるかな」
しばらく墓標を懐かしそうに眺めて、また青年は立ち上がる。
「それじゃあ」
名残惜しそうに2度振り返ってから、墓地を後にする。
墓地の入り口ではタクシーが待っていた。
「ヒースロー空港まで」
「はい」
ポケットにはコペンハーゲン行きのチケットがある。
それと反対のポケットには、イギリス政府発行のパスポートも。もちろん不正な手段で手に入れたものだ。だが、戸籍も何もない彼にとっては「正当な手段」なのかもしれない。
タクシーはヒースロー空港へ向けて、静かに走り出した。

5

「仙道さん」
「ん?」
「……これ、誰ですか?」
雪和が祐のPCに接続されているプリンタから、一枚の紙を取り出した。
その紙には、4人の女性が描かれている。ホンモノの写真かと見紛うほどの精巧さだ。
「あぁ、それCGだよ。作ってみたんだ」
「…仙道さんが作ったんですか!?」
「そうだよ。どうかな?」
「……仙道さん、絶対にプロになるべきですよ!」
3DCGという技術を駆使して描いた4人の女性。
一人は長い亜麻色の髪にグレーの服。
一人は短く刈られた髪と、少しゆったりした綿の服を着ている。
一人は褐色の肌に真っ白な木綿のワンピースだ。
そしてもう一人は黒い髪と瞳、それに白い肌でメイド服を着ている。
「すごい……どうやったらこんな絵が…」
「あはは、まぁ慣れだよ。慣れちゃえば結構簡単にできるもんだよ?」
「…うーん……」
雪和が祐の家で暮らすようになって1ヶ月が過ぎた。
母の突然の死からも随分立ち直ったようだ。まだ完全に、とは言わないがひどく塞ぎ込んでいた時期から考えると、別人のように明るくなっている。
正確な表現をすると、元に戻りつつあるということだろう。
「この人達って…仙道さんの知り合いなんですか?」
「まぁね。知り合いというか…まぁ知り合いだねぇ」
どういうわけか、この4人の女性はどこか似ている。
顔かたちはそれほど似ているわけではないが、どことなく似ているような気がする。
「それより雪和ちゃん、あれからあの黒尽くめの男は見てない?」
「はい、あれ以来全然。あれって火事と何か関係あったんでしょうか…?」
「…どうかな……」
黒づくめの服というのはどうも好きになれなかった。
この4人の内3人は、黒尽くめの服の男に胸を刺されて死んでしまったのだから。
奇跡的に、このメイド服の女性だけはその運命をまぬがれた。だが、肺を患って早くに死んでしまった。
「……雪和ちゃん」
「はい?」
「雪和ちゃんは…胸に何か病気とか、それかケガとかはしたことある?」
「え? 胸…ですか? 肺とか心臓に?」
「そう」
「いえ、特にありませんけど……どうしてですか?」
「いや、何でもないよ。ただちょっと気になっただけだからさ」
ソファの背もたれに体重を預けて、のんびりとブラウン管に視線を移す。
ニュースが放送されている。
ヨハネ・パウロU世が訪日する、というニュースらしい。
そう言えば、「あれ」以来はずっと静かだった。
もしも七帥神社の火事が「奴等」の仕業だとすると、どうして今ごろになって…?
「仙道さん?」
「ん?」
「……どうしたんですか? どうしてそんな哀しい顔してるんですか?」
「あれ? 俺そんな顔してた?」
「はい。…あの、私でよければ話して下さい」
「…?」
「仙道さん、何か隠してます。私には解るんです」
なるほど、巫女というのは伊達じゃないらしい。
彼女はある意味で、ホンモノの巫女だ。自覚はないものの、どこか普通の人とは違ったものを持っているらしい。
しばらくの躊躇はあった。
話したところで、メリットは何もない。それどころか、彼自身の事を話す事で雪和が離れていってしまう事も十分考えられた。
すっと顔を上げ、雪和と視線を合わせる。
「……死にたい…」
「えっ!?」
「…でも…死ねないんだ」
ゆっくりと、祐は口を開いた。
その口からは、雪和が想像も出来なかった物語が語られ始める。
姉さんのこと、リリスの事、シスの事、それに志乃の事。
今まで彼が生きてきた軌跡が、言葉になって綴られていた。
雪和が今まで生きてきた軌跡を話そうとしても、これほど濃厚に、長くはならないだろう。
何しろ祐は1200年を生きてきたのだ。彼女の人生の80倍以上の物語が、そこにはあった。
全てを語り終えた頃には、時計の針は11時を指していた。
「もう……涙は枯れたと何度も思ったんだけどね…」
祐の両目からは涙が溢れていた。
雪和もまた泣いている。
「あはは、何でこんなこと……」
無理矢理笑っては見るものの、涙は止まらない。
こうして自分の長すぎる人生を話す相手など、今までいなかった。
姉にもリリスにも、シスにも話した事はない。志乃には話そうと思ったのだが、話す前に死んでしまった。
「仙道さん………」
「雪和ちゃんが泣く事ないんだよ。ほとんど…俺の独り言みたいなもんなんだから」
「…………」
ぐすっとすすり上げて、雪和もタオルで目頭を押さえる。
共感、というものだろうか。
彼女は話している相手の感情に、自分の感情をシンクロさせやすい性質なようだ。
「ほら、泣かないで」
「…仙道さん……私が…」
「ん?」
「これからは…これからは私が側にいます! ずっと、何があっても仙道さんの側にいます!」
シスの台詞と重なった。
何故だろう。
何故、こうして何度も同じ事を繰り返してしまうのだろう。
やがて別れが来るのなら、いっそのこと出会いなどない方が良い。そう思ったことも何度もある。何故、それでもこうして出会ってしまうのだろう。
「雪和ちゃん………」
「私じゃ役不足かもしれませんけど、でも…でもそばにいますから……だからそんな…死にたいなんて言わないで下さい!」
最後の方はほとんど言葉になっていなかった。泣きながら話していたせいだろう。
まるで小さな子供のように、すすり上げながら泣いている。
「…………解った。ゴメン。もうこんな事は…言わないよ」
小柄な雪和の身体をやさしく抱き寄せると、今度は雪和が声を上げて泣き出した。
こんな時、祐は必ず雪和の髪を優しく撫でてやる。
黙ったまま、ただ優しく彼女を抱いているだけだった。
 
 
「あのさ、雪和ちゃん」
「はい?」
「…こうして飯を作ってくれるのは凄くありがたいんだけど、学校に支障が出ない程度にしてね」
「はい、そうしてますよ」
ここ数週間、祐は最近では夢のような充実した食生活を送っている。
雪和が毎食、手作りの料理を作っているからだ。
もちろん、まだまだ上手ではないが、食べられない味でもない。美味くもなければまずくもない。まぁ飽きが来ない味、とでも表現すればいいだろうか。
「それにもともと朝は早く起きてましたから。特に負担にはなってないですよ」
「…ならいいんだけどね」
学校の制服にエプロン、というちょっとアンバランスな格好をして、台所で何かを作っている。卵焼きだろうか。
「あぁ、それと…ほら、PHS届いたよ」
「あっ、もう届いたんですか? もう使えます?」
「うん。充電も済ませてあるから。俺の方も同じ機種にしておいた」
一週間前、祐はPHSを契約した。
といっても、契約したときは雪和の名義を使った。戸籍など全くない、パスポートですらほとんど偽造の祐には契約というものは基本的に出来ないのだ。
やろうと思えばいくらでも手段はあるが、今はちょっと使う気になれないらしい。
「何かあったら、すぐ連絡するんだよ。それから、夜はあんまり出歩かないように。遅くなるときは必ず連絡する事。いいね?」
「はい」
別に雪和が狙われると決まったわけじゃない。
ここ百数十年、『神の使徒』とかの襲撃は全く途絶えている。
だが、それは祐、アル・アネクシオスに「大切な人」が居なかったからかもしれない。
だとすれば、今が一番危ない。
それも、身を守る術を何も持たない雪和が危険に晒されてしまう可能性は、今までの経験からして非常に高い。
だが、彼女も例の「黒尽くめの男」につけまわされたせいで、多少は警戒心も強くなったようだ。
「いい? くれぐれも気をつけて。もし誰かが後をつけてきてるようだったら、すぐ電話するんだよ」
「はい。そうします」
「さてと…それじゃそろそろ行こうか」
雪和がエプロンを外した頃合いを見計らって、祐も立ち上がる。
毎朝雪和が学校へ行く時間は、こうして駅まで送る事にしていた。
もちろん、帰りも祐が駅まで迎えに行く事にしている。雪和にとっては少し恥ずかしいらしいが、それでも危険を避ける、という意味では祐が一緒に居た方がいい。
「あの…仙道さん」
「ん?」
商店街をてくてくと並んで歩く。
こういう風景も、最近ではもう当たり前のようになってしまった。
「本当に私…仙道さんの家にいていいんですか?」
「あぁ、いいよ。一人だと退屈だし、それに…」
「それに…?」
「俺は雪和ちゃんのこと好きだからね」
優しい笑顔を雪和に向ける。
とたんに雪和の顔が真っ赤になってしまった。
「あっ…あの……えぇと…」
「あはは、ほらほら、そんなに硬くならないでいいって。自分の家だと思っていいんだからさ」
「はい……」
「雪和ちゃんは…絶対に守ってあげるからさ」
「……頼りにしてますよ、仙道さん」
「あぁ」
駅までは歩いて20分。少し遠く感じるが、ちょうどいい運動になる。
「さてと、それじゃ俺はここで。多分また図書館にいると思うから」
「はい。じゃあまた帰りに電話しますね」
駅から祐の家とは逆方向に歩く事約30分のところに、結構大きな図書館がある。県立図書館だ。
この図書館の蔵書はなかなかのもので、最新の推理小説から文学史の授業に出てくるような古い本まで置いてある。
最近の祐の日課は、この図書館に通う事だった。
この図書館で、彼は人魚に関する文献を読み漁っている。
かなり前、志乃が持っていた本で「人魚の肉を食べれば不老不死になれる」という部分を呼んだ事がある。
もしも事例があれば…?
その人魚の肉を食べて不老不死になった人間が現実にいればどうなる?
その人物なら、死ぬ方法を知っているのではないか?
もちろん、それが天文学的に低い確率である事は十分すぎるほど良く分かっている。
だが、文献の中に何か情報が載っていれば…
「失礼、アル・アネクシオス様でいらっしゃいますね?」
突然、後ろから声をかけられる。
この名前で呼ばれるのは実に久しぶりだ。
「……?」
怪訝そうな顔で声の主の顔を覗き込むと、そこには大柄な中年の男が立っていた。
どこかで見た顔だ。いつ、どこで見たのかは思い出せない。だが、どこかで見た事がある。
「私の曾祖父がアメリカであなたとお会いした事があります。私はヨハン・ミュンヒハウゼン四世です」
「……ひょっとして、あのワシントン・ホテルの…?」
「憶えておられましたか」
今から200年前、シスと出会う以前の話だ。
あの時の男の曾孫、ということになるのか。
「なるほど、あの時の……で? 何の用だ?」
「結論を伝えに参りました。その前に私と、私の曾祖父の事を話す必要があります」
「…そうだな、それじゃあその辺の店に入ろうか」
まだ朝は早い。マクドナルドなどのファーストフードの店がかろうじて開いているくらいだ。
「ジャンクフードは?」
「食べます」
「朝飯は済ませたかい?」
「いえ」
「んじゃあそこに入ろう。軽く何か食うといい。俺はもう済ませたから」
「…………」
ヨハンと名乗る男はモーニングAセットを注文し、トレイをもって戻ってきた。
「それでは改めて自己紹介させていただきましょう。私はヨハン・ミュンヒハウゼン四世。使徒騎士団の極東支部に所属しています」
「…使徒騎士団…か……」
「はい。私の父も、祖父も、そして曾祖父も使徒騎士団に所属していました」
使徒騎士団は、ヨーロッパに数ある「騎士団」の中でも最も古い部類に入る。
イスラム教が誕生した6〜7世紀にはすでに存在していたという。キリスト教至上主義の極右集団だ。
もっとも、その存在は公には明らかになっていない。
だが、祐は良く知っていた。
彼の両親、姉、そして娘、恋人全てを彼から奪ったのが、この使徒騎士団だ。
彼らは自らの事を「神の使徒」と呼び、神に背くものには容赦ない制裁を加えてきた。
「で、その使徒騎士団が俺に何の話があると? 以前のようにいきなり切り付けたりはしないのか?」
「死なないものに剣を振るうのがムダだと解るのに…実に多くの時間を費やし、多くの同胞が天に召されました」
「なるほど、ムダな事はしない…か」
「そのとおりです。我々も昔とは違う」
「だろうね。昔は剣だったのが、今では拳銃になってる」
ヨハンの顔が一瞬で青ざめる。
彼の懐には、確かに拳銃があった。純銀製の弾丸を打ち出すことができる、「神の祝福」を受けた拳銃だ。
「最初に一つ言っておくが…」
オレンジジュースを一口飲み込んで、祐が身を乗り出してきた。
「俺達に手を出すな。『池に石を投げれば波紋は自分にも返ってくる』ってことを良く憶えておくんだね」
「…………」
祐の目にはいつもの優しい光は宿っていない。
荒涼とした、氷のように冷たい光が、彼の瞳を支配している。
「さてと、そっちの話を聞こうか」
椅子の背もたれに体重を預け、尊大に構えた。
すでに祐のペースだ。ヨハンは大柄な身体全体から汗をかいている。
ひどく冷たい汗だった。
「…あなたは曾祖父に『殺す方法が分かったら教えてくれ』とおっしゃった。それに間違いは?」
「……あぁ、そんな事も言ったっけな」
「結論から申し上げます。方法はありません」
「…だと思ったよ」
苦笑混じりに、まるで吐き捨てるかのようにそう言い放つ。
祐が1200年捜し求め続けて、それで見つからなかったのだ。
たかだか100年や200年で見つかるわけがない。
「これで、俺を狙うのがムダだって解ったろう? もう俺には関わらないでくれ」
「…そうは行かない」
その言葉で、一瞬の内に空気が重くなる。
祐の視線が冷たい殺気を孕んできた。
「……同じ事を3度も聞けると思うな」
「あなたは『神の摂理』に背いている。我々の教義では神に背くものは皆悪魔だ。悪魔を許すわけには行かない」
「…ほう、大した教義だ。なら聞くが、神の摂理とは何だ?」
彼らの言葉は日本語からヘブライ語へとシフトしている。
誰も彼らの会話の内容を理解できない。ただ、その雰囲気から和やかに談笑をしている、という状況ではない事だけは理解できた。
「神はこの世のあらゆる物を造り給うた。命ある者を生み、命なき物を形作り、この世をお造りになられた」
「知ってるよ。聖書くらいなら読んだ事がある」
「命ある者はいつかは死ぬ。これは神が定めたもうた摂理だ。あなたはそれに背いている」
「ではまた聞くが…神とは誰だ? その摂理を定めたのは何者だ?」
「…そ…それは……」
ヨハンが知る教義では、「神は唯一絶対の存在で、決して冒してはならない。また、挑んでもならない」とある。だが、ただそれだけしかなかった。
神は何者なのか?
そんな事は考えた事もなかった。
「もう一つ聞こう。悪魔はなぜ悪魔なんだ?」
「…? 質問の意味がわからない」
「なら質問を変えよう。お前達にとっての『正義』とはなんだ?」
「神の御心だ」
「その神の御心で全ての物事が決められていると?」
「その通りだ」
「なら、ペストの大流行も、十字軍戦争で数十万のイスラム教徒を虐殺したのも、黒人差別も2度の世界大戦もその『神の御心』とやらによるものだな?」
「…そっ…それは……」
「『それは悪魔の仕業です』とは言わせんぞ。お前はたった今、『全ての物事は神の御心による』と言ったんだ。まさか嘘じゃあるまいな?」
「…………」
「神というのは虐殺をするものなのか? 自分に従わなかったという理由で、屍の山と血の河を作り出すほど残虐で冷酷なものなんだな?」
「ちっ…違う! 神は…」
男の手がぶるぶると震えてきた。
まさかこんな所で「神の正義」について論じるとは思っていなかった。
「この世を『正義』だけで説明しようとしてもつじつまは合わない。同じ事だ。お前らの考えだけが正義だと思ったら大間違いだ。俺にとっては、お前らを皆殺しにしてでも自分と大切な人を守るのが正義だからな」
「そっ…そんな事は神が許さんぞ!」
「なら神も殺すまでだ」
冷酷な声でそう言い放つと、アル・アネクシオス、仙道祐はゆっくりと立ち上がり、その場を後にした。
 
期待外れだった。
図書館にある文献には、彼が今の時点で持っている知識以上のものを与えてくれるものはなかった。
人魚の肉を食べれば不老不死になる、とは書いている。
だが、そのあとどうなるかは全く書いていない。
この「人魚の肉」もただの御伽噺だったのか。
そう言えば、古代中国、秦の始皇帝も不老不死にあこがれたという。
「…ロクなもんじゃないよ、こんなの……」
図書館の中庭でコーラを飲みながら、ポツリと呟いた。
今日でこの図書館にある「人魚」関連の文献は全て読んでしまった。
明日からはどうしようか?
他に何か興味をそそる本があったか?
まぁ無ければ無いでいい。またいつも通りのんびりと過ごすだけだ。
街をふらふらと歩いて、雪和からの電話を…
突如、ポケットの中のPHSがなった。
このPHSの番号を知っているのは雪和だけだ。つまり、これは雪和からの連絡という事になる。
「もしもし」
「あ、仙道さん、雪和です」
「あぁ雪和ちゃん。どうしたの?」
「学校、もう終わりましたけど…今図書館ですか?」
「うん。…あ、もう4時か…」
「はい。今から帰りますね」
「解った。じゃあ駅で待ってるよ」
わずか30秒の電話。
便利な世の中になったものだ。
これさえあれば、どこにいても連絡を取る事が出来る。
すぐに駆けつけてやる事は出来なくても、何かアドバイスをしてやる事は出来る。
これが1200年前にあったら…
「さてと…そろそろ行こうかな」
ここから駅までのんびり歩けば、ちょうど雪和が駅に着く頃に辿り着けるだろう。
空缶をくずかごに入れて、少し広すぎる図書館前の広場を歩き出した。
 
「…雪和ちゃん?」
「えっ?」
暗がりにいた人影が振り向いた。
電気を点けると、そこにはコップを持った雪和が座っている。
「何だ、雪和ちゃんだったのか。どうしたの? こんな時間に」
「え? あ、あの……何でもないですっ」
怪しい。
あからさまに慌てている。
どうみても「何でもない」という顔じゃない。
「…何かしてたの?」
「な、何にもしてないです!」
「じゃあその箱は?」
雪和の足元には、古ぼけた桐の箱があった。
確か、七帥神社が火事になったときにも奇跡的に無事だったという御神体だ。
「それ…何してるの?」
「……なっ…なんでも…」
ひょいっと桐の箱の蓋を取り上げると、そこにはやたらと読み取りづらい字で何かが書いてある。
「人………魚…肝……?」
人魚の…肝?
「まさか…まさか雪和ちゃん!!」
「……こうするしか…」
「何てことしたんだ! 早く吐き出して!!」
「もうダメなんです!! もう……もう遅いんです…」
「どうして!?」
「もう…全部飲んじゃったから…」
桐の箱の本体には、もう何も入っていなかった。
恐らく小さく削って水で飲んだのだろう。
「何でこんなことを……」
「だって……だって私も仙道さんの側にいたかったんです!」
夜中だけに、声が良く響いてしまう。
静かな台所に、雪和のきれいな声が反響して聞こえている。
「私がずっと仙道さんの側にいる事が出来れば…私も仙道さんももう辛い思いをしなくて済むから…」
「そんな事のために…雪和ちゃんは解ってないんだ! どれだけ辛い事になるか!」
「辛くなってもいい! 辛くてもいいから仙道さんと一緒にいたいの!!」
「後悔するぞ!」
「絶対にしません!!」
普段は物分かりのいい雪和が一歩も退かない。
よほどの決心をしたのだろう。
本当に効果があるのかは分からない。この人魚の肝というのも本物かどうかも確証は持てない。
それでも、かなりの無茶をした事に変りはない。なにしろ得体の知れない物体を飲み込んでしまったのだから。
「……明日、病院に行こう」
「イヤですっ! 絶対吐き出したり…」
「そうじゃない。変な病気にでもなったら大変だ。一応、血液検査とかをしてもらうだけだよ。本当だ」
「……じゃあ…」
「…そこまでの覚悟があるなら、俺には止める権利はないよ。ただし、今は良くても後で後悔するかもしれない。それはよく憶えておきなさい」
「……はい…」
翌日の検査では、特に異常は見られなかった。
血液中の成分もまったくの健康だ。どうやら、例の御神体を飲んだことで、健康に支障が出るということはないようだ。まだ様子を見る必要はあるが。
「七帥神社の御神体が人魚の肝だなんて…驚いたな」
「……本当はあの神社、学問の神様じゃないんです。治水の神様なんです」
七帥神社が建てられたのは西暦1200年ほど。
そのころ、この付近はまだ埋め立てられておらず、海に面していた。
漁師や海女が数多く済んでいて、極端に豊かな漁場というわけではないが、小さな漁村になっていた。
その浜辺に、一人の人魚が打ち上げられた。
息も絶え絶えで、ほとんど死にかけていた。
だが、その人魚を若い海女が家に連れ帰り、看病をしたが敢え無く死んでしまう。
その霊を弔うために建てた社が七帥神社の前身なのだそうだ。
七帥の名前は、その当時の村の名前だという。
「……なるほどね…」
「その社を建てて以来、ずっと大漁が続いたり、そこだけ台風が逸れたりしたんだそうです。それで、社を神社にして、人魚を祭ったんです」
「そういう事か…」
2人でゆっくりと歩き出す。
「あのさ、雪和ちゃん」
「はい」
「……俺と一緒に来る?」
「え?」
「その…高校卒業したら、俺と一緒に……色んな所を転々とすると思うんだけど、それでもついてくる?」
「………はい」
雪和にはもう身寄りはない。母が唯一の親類だったのだ。
さほど友人も多い方ではない。学校でも少し孤独な方かもしれない。
それなら、祐と一緒にいた方がいいのではないか。
日本にこだわる必要も無い。時間は有り余るほどあるのだから、言葉もいろいろと覚えられるだろう。とりあえず英語なら多少は解る。
「あの、私行きたいところがあるんです」
「…へぇ、どこ?」
「……志乃さん達のお墓です。私にもお墓参りさせて下さい」
「そうだね。そうしてやらなきゃ。志乃に教えてやらなきゃ行けないからなぁ」
「教えるって…?」
「約束したんだ。志乃が死ぬときに、『誰か大切な人を作ってくれ』っていわれてね。ようやく出来たから」
「……あ…」
雪和の頬が赤くなる。
今となっては、仙道祐にとって「大切な人」とは小早川雪和の事になっている。
「私は…本当にずっと仙道さんと一緒にいますからね」
「…………」
この先、恐らく2人で生きていく事になるだろう。
ひょっとしたら地獄を生きる事になるのかもしれないし、天国のような幸せを永遠に味わう事になるのかもしれない。
どちらかは解らない。
だが、一つ言える事は…
「もう…俺達はお互い以外のものを失ったんだ。それは憶えておいてね」
「…はい」

6

「使徒」はかなり動揺していた。
アル・アネクシオスに加えて「不死」の人間がもう一人いるというのだ。
新たに「神の摂理」に背いたものはコバヤカワユキワという、やたら長く発音しにくい名前の少女だという。
「さて………」
窓を背にした老人が円卓の上で手を組みなおす。
「困った事になった。まさかあの悪魔のほかにも主の摂理に逆らうものが出ようとは……」
「大老、本当に不死などというものがあるんですか? ヤツらも生き物であれば死ぬのでは…」
「それが無いから、我々は奴等を『悪魔』と呼んでいるのではないかね?」
老人の声は穏やかで、昔話を小さな子供に聞かせるかのような口調だ。
円卓には合計12人が座っている。
いずれも歴史ある騎士団で、かなりの地位にあるものばかりだ。
彼らを統率するのが、「大老」と呼ばれる老人だった。
「情報によると…」
顔の下半分を髭で覆った男が立ちあがる。
この12人の中では最も若い部類に入るだろう。彼はつい先日、アル・アネクシオスと接触したばかりだ。
「この雪和という人物は人魚の肉を使う事で不死を得たものと考えられます。東洋の伝説では、人魚の肉を食べたものは不老不死になるといわれています」
「…その人魚の肉の入手経路は?」
「彼女が住んでいた神社の御神体です。それが人魚の肉であったと思われます」
「やれやれ……東洋の神を祭るなど………」
大老がため息を吐いた。
彼は徹底したキリスト教至上主義者だった。
イエス・キリストのほかに神など存在するわけがない。
もちろん、仏教で言う大日如来、道教で言う関帝聖君も、ましてやイスラムの神アッラーやヒンドゥー教のブラフマンなど、絶対に認められない。なぜならば、これらの神々はイエス・キリストではないからだ。
「それで、本当にその女は不死になったのか?」
「確かだと思われます」
「確認は?」
「まだです」
確認をしたところであまりメリットはない。
ここ百数十年、騎士団はアル・アネクシオスとは一定の距離を保ってきた。コンタクトをとったのは、ヨハンが今世紀に入って初めてのものだ。
不死かどうかの確認をするには、実際に普通の人間であれば確実に死ぬ、という手段を用いて雪和を襲う必要がある。
だが、そうする事で、またしてもアル・アネクシオスと騎士団は苛烈な敵対関係に戻るだろう。
そうすればどうなる?
相手は不老不死、しかも炎を操り、100万の大軍にもまったくひるむ事が無かったという。
いくら1300年の歴史を持つ騎士団とはいえ、こんな化け物に勝てるわけはない。なにしろ相手は死ぬ事が無いのだから。
「諸君」
老人の口調が変った。
先ほどまでの穏やかな口調ではなく、厳粛な雰囲気をもつ口調へと。
「由々しき事態だ」
一言一言、まるで絞り出すように言葉を紡ぐ。
老人の声は部屋の中で必要以上に反響し、部屋全体が喋っているような印象さえ受ける。
「神の御心を守る騎士団として、彼らを許すわけにはいかん」
彼の目は、老人のそれではない。
老人の目というにはあまりにも情熱に溢れていた。
もうすぐ80に手が届こうという年齢でありながら、彼は精力的に大老の勤めを続けている。
恐らく、彼の人生ももうすぐ幕を閉じるだろう。だが、騎士団は揺らがない。
大切なのは「大老」本人ではなく、「大老」の椅子なのだ。
そこに座る資格があるものさえいれば、騎士団は変りなく存在する。
「『悪魔を地獄の闇へ』」
それほど大きな声ではない。
普通に話をする時の声なのだが、逆らい様の無い威圧感があった。
大老を除いた11人が立ち上がる。
そして右手を左胸にあて、敬礼をする。
そのわずか2分後、この部屋は無人となっていた。
 
 
「全てがどうでも良くなる時期が必ず来る。でも、それを乗り切れば普通に戻るんだ」
祐と雪和は自転車で海辺まで来ていた。
2人が乗っているのはマウンテンバイク。公園で貸し出しているものだ。
「必ず…ですか?」
「そう。俺はちょうど…どれくらいだったかな、800年目くらいか。本当に何もする気が起きないんだ。ただ一日、こんな風に海辺に座ってぼーっと過ごしてた」
「どうやってそれを乗り切ったんですか?」
「簡単さ。ただひたすらぼーっとするんだ。何もしない。何もしたくないときは何もしない」
雪和にとっては解らない事だらけだ。
時間の観念が一桁どころか二桁ほどずれてしまいそうだ。
祐のアドバイスはかなり参考になるところがある。だが、それすらあまりにも雄大な時間の中での話なので、どうも現実感を伴わない。
「ま、仕方ないさ。…要は『いつも通り』を心がけてればいいんだ。そうすれば何とかなるから」
「は、はい……」
「ピンと来ない?」
「…はい」
「あははは、そりゃそうだろうね。…まぁその内慣れるよ。のんびり構えてればいい」
「そ、そうですね。初心者なもので……」
思わず吹き出してしまった。
不老不死の初心者か。
それを言ったら、祐はベテラン中のベテランという事になる。
「あ、そうだ」
「ん?」
「何か『これはしちゃいけない』っていうのはないんですか? 例えば満月の夜は外に出なきゃいけないとか、棺で眠らないといけないとか、生き血を飲まなきゃいけないとか…」
「いや、そういうのは全然無いよ。普通に生活すればいい。巫女服着てもいいし、肉だって食べていい。特に意識しなきゃいけない事はないんじゃないかなぁ」
事実、祐は一回も意識した事はない。
特にタブーというものはないようだ。吸血鬼のように日光に当たってはいけない、十字架に触ってはいけないなどという事もない。
「ただ、これは俺のケースだからね。雪和ちゃんみたいに後天的なケースでこれが当てはまるかどうかは解らない。だからあんまり無茶はしないようにね」
「はい」
海風はかなり冷たい。
寒い地方に慣れている祐にはそれほど苦にならないが、雪和には寒いらしい。少し震えている。
「…ちょっと待っててね。コーヒーでも買ってくるよ」
「え? あ、私もいきます」
「じゃあ一緒にいこう。あそこの売店に売ってるみたいだ」
自転車を走らせようと、サドルに跨ったときだ。
進もうとした方向に黒尽くめの服を着た男が見えた。
「…せ、仙道さん……」
「大丈夫。俺に任せて」
そのまま、祐と雪和の2人は自転車を走らせる。
彼我の距離が10メートルを切った辺りで、ようやく顔が見えてきた。
顔の半分が髭で覆われた大男。
祐がブレーキを握る。
「あんた確か…」
「先日はどうも」
流暢な日本語だ。日本流の挨拶まで身につけている。
「こんな所で会うとは、奇遇だな」
「全くです」
「で、どうするんだ? この子を殺すのか?」
「……今日は金曜日です。金曜日には働くわけにはいかない。それが主の御心です」
「なるほど、そうだったっけ。…じゃあ何の用だ?」
「今日はあなたではなく、そちらのお嬢さんに聞きたい事があります」
帽子の奥の目が雪和を捉えた。
冷たい目だ。温かさや思いやり、それどころか感情そのものが全く感じられない目だ。
「あなたはなぜ、そのような事を?」
「…………」
そのような事、という言葉が何を指しているのかはすぐに分かった。
ちらっと助けを求めるような視線を祐に投げかける。
大丈夫、何も心配しなくていいから。という視線でそれに答えた。
「……一緒にいたかったからです」
「あなたは主の御心に背いた。罪の意識はないのですか?」
「なんで罪の意識を感じないといけないんですか?」
「……なるほど、あなたのお気持ちは良く分かりました。それでは失礼します」
黒いコートを翻すように、男は身体の向きを変え歩き出した。
「あれが…使徒騎士団だよ」
「多分そうだと思いました」
「まぁ、今となっては特に気にする必要はないよ。さ、コーヒー飲もうか」
まるで何事も無かったかのように祐が自転車を走らせる。
少し遅れて、雪和もそれに続いた。

 
 
「これで出国手続きは終了です。待ち合いカウンターでお待ち下さい」
「ありがとう」
赤いパスポートを受け取り、ゲートをくぐった。
「成田空港って…広いんですねぇ。私初めて来たんですけど…」
「迷子にならないようにね」
「はいっ」
彼ら2人の手にはロンドン行きのチケットがあった。
冬が過ぎ、春がやってきて雪和は高校を無事卒業した。
進路は一応就職、ということにしている。
彼女はもともと、高校にもそう友達が多い方ではなかった。
そのお陰か、日本を離れるという事にあまり抵抗を感じてはいない。英語は比較的得意だったし、彼が教えてくれるという。
もちろん、雪和が英語をマスターするまでは、彼が通訳をする事になるだろう。
「アルさんって…何ヶ国語話せるんですか?」
「んー…どれくらいかなぁ……日本語と英語とフランス語、スペイン語、ドイツ語、オランダ語、ギリシャ語、ロシア語、中国語、ポルトガル語、イタリア語、ヘブライ語、ヒンディー語、タンガロンゴ語、ベトナム語…」
「……とにかくたくさんなんですね」
「うん。長生きしてればねー」
苦笑しながら軽々と話す。
どうやら彼とくっついていれば、世界中どこにいても、言葉に困る事はなさそうだ。
「雪和ちゃんも少しずつ憶えていくといいよ。使ってる内に話せるようになるからさ」
「は、はい…」
雪和も少し変った。
髪が少し伸びて、三つ編みにする事が多くなった。
そして、以前は彼の事を「仙道さん」と呼んでいたのが「アルさん」に変った。丁寧な言葉づかいは変らないが、それでもこれは雪和にとっては大きな変化だ。
彼も、「仙道祐」という名前を使う事をやめた。
もちろんパスポートには「仙道祐」と書かれているが、このパスポートももう使う事はないだろう。
イギリスの国籍を取得したら、あとはどうとでもなる。またアル・アネクシオスの名前に戻す事にした。
「さてと…まだちょっと時間あるね。何か飲む?」
「そうですね。私買ってきますよ」
「いや、いいよ。俺が行くから。雪和ちゃんは荷物見てて。何かリクエストは?」
「あ、アイスココアがいいです」
「OK、じゃあちょっと待ってて」
とうの昔にアルは気付いている。
実にあからさまに視線を送ってきていた。
黒尽くめの服装の一団。使徒騎士団だ。出国待ちロビーにいる。人数は8人。
「……まぁ…手を出さなければいいけど…」
雪和の方を見ると、いつもどおりのんびりと椅子に座っている。時折こちらを見てにっこりと笑ったりしている。どうやら彼女は気付いていないらしい。
自動販売機の取り出し口からアイスココアを二つ取り出し、少し早足に戻る。
「はい、ご希望のアイスココア」
「ありがとうございます」
「…気をつけて。あいつらがいる」
「…え?」
「まぁ振り向いてもいいけどね。見たくないなら見なくても大丈夫だよ」
「は、はい…」
すでに「あいつら」というだけで、何者かが解ってしまうようになった。
「まぁあいつらも飛行機爆破とかの無茶はしないと思うけど…とりあえず様子を見ようか」
「はいっ」
カコっ、という変な音を立てて、缶を開けた。
成田発ヒースロー空港行きの飛行機の離陸時間まであと1時間。
「…そうだ、こういう技術もあるんだ。見せてあげよう」
「え?」
「俺の影を見て」
「かげ…ですか」
アルの足元からは、ごく普通に影が伸びている。何の変哲も無い、普通の影だ。
だが、その影が動いた。
アルは微動だにしていないのに、影だけが動いている。
「影を使って飛行機の中を調べてくる。爆弾とか入ってないかね」
「……ど…どうやったらそんな事が…」
「魔法だよ。不老不死の悪魔は魔法を使えるんだ」
ちょっとおどけたようなそぶりで軽々と言ってのける。 雪和にとっては本当に魔法そのものだ。
騎士団はアルの影には全く気付いていない。ひたすらアルと雪和の2人に神経を集中させている。
「アルさん…何でも出来ちゃうんですね」
「亀の甲より年の功って言うでしょ?」
「…そのことわざって、このシチュエーションで使うものじゃないと思います」
「あれ? そうだったっけ?」
どこまでも飄々としている。
追われるものの悲壮感などどこにも無い。
以前のアル・アネクシオスとは明らかに違っていた。
大切な存在を失う事はもうない、その確信が彼を変えたのかもしれない。
「…おっ、爆弾見つけた」
「えぇっ!?」
「ほらほら、静かにしないと…」
「あ…ご、ごめんなさい……」
「えーっと……はい、解除完了。起爆装置は外しておいたから大丈夫だよ」
「そ、そんなにあっさりと…」
「慣れてるからね。…あ、もう一個あった」
と、この調子でひょいひょいと4つの爆弾をただの「限りなく燃えやすい燃えないゴミ」にしてしまった。
「これで大丈夫。何も心配要らないな」
「は…はぁ……」
アルにとってはこんな事はいつもの事らしい。実にあっけらかんとやってのけた。
それにしてもこのアルの力は何なのだろう。
炎を操ったり、自分の影をまるで別の生き物のように操ったり…
しかも、それらの能力をまるで当然のように使いこなしている。
「さーてと…あと45分か。暇だね」
「そうですねー。何か読むものでもあればいいんですけど」
「あるよ。ほら、ロンドンの観光ガイド。雪和ちゃんロンドンは初めてでしょ?」
「は、はいっ、初めてです」
「どこか行きたいところはある? 案内したげるから」
「あ、あのっ…大英博物館とか行ってみたいです! あとテディベア博物館とかおもちゃ博物館とか、それとあと…えーと…」
「よしよし。じゃあとりあえずは博物館だな。ほかには?」
「えーと…あとは……バッキンガム宮殿とか、ロンドン塔とか、あとセントポール大聖堂とか…」
「んじゃあのんびりと観光スポット巡りでもしようか。時間は腐るほどあるんだからさ」
「は、はいっ」
 
 
 
墓参りに訪れるのは1945年、第二次世界大戦が終わった年以来だ。
小さな墓標が二つ並んでいる。
「ただいま。戻ってきたよ」
日本語でアルが呟いた。
彼の腕の中には、抱えきれないほどのカスミソウの花束がある。
以前もこの花だった。どうやら彼が好きな花らしい。
前にこの墓地を訪れたときは一人だったが、今は傍らにもう一人、小柄な少女がいる。
「志乃…」
アルが右側の墓標の前でしゃがみこんだ。
もう建てられてから150年は経過しているだろう。そのとなりはさらに古くもはや遺跡のような年代物だ。
「ほら、連れてきたよ。約束通りね」
しゃがんだままで雪和の方を向いた。
「志乃と同じ日本人だよ。すごくいい娘だから、安心してていいから」
雪和もアルのとなりにしゃがみこんだ。
彼女はおもむろにバッグの中から何かを取り出した。
小さな杯のような容器、それに米と水だ。
「…それなに?」
「お供え物です。神道ではこういう風にお供えをするんですよ」
「へぇ…」
「あ、でも志乃さんって仏教なのかも…」
「まぁいいんじゃない? 細かい事にはこだわらない娘だったしさ」
「…そうですね」
志乃とシスの墓標にお供えをして、なぜか懐かしそうな目で2人の墓を見る。
不思議と懐かしい気分になれた。
ずっと前に別れた友人にまた出会えたような、そんな不思議な安堵感を憶えている。
「これからは私が…志乃さんやシスさんの代わりにアルさんの側にいますね……」
小声でそう呟くと、軽く微笑んだ。
何故だろう。
どうも他人のような気がしない。少なくとも、この墓で眠っている2人は、どうしても他人だとは思えなかった。
自分と同じ境遇だったから、という理由だけではなく、何かもっと大きな理由がありそうな気がしている。
「どうしたの?」
「え? …いえ、何でもないです」
にっこりと笑うと、ようやく立ち上がり、伸びをしながら辺りを見回す。
いいところだ。緑が多く、静かで落ち着ける。
近くには小川も流れていて、本当に映画で見たような風景だ。
「いいところですね」
「…まぁね。ここは志乃が大好きだったところなんだ」
アルも立ち上がった。
膝についた芝を軽く払って、彼もまた大きく伸びをする。
「100年前と全然変らない。静かでいいところだよ」
「……本当、のんびりしてて…この辺だったらすごく暮らしやすそうですね」
「ロンドンからはちょっと遠いけどね。どうする? この辺に家を借りて住もうか?」
「…え?」
少しきょとんとした表情の雪和。
彼女はてっきり、イギリスでの家はもう決まっているものと考えていたらしい。
「いやぁ、実は決まってなかったんだ。正式に決まるまでロンドンにあるホテルで過ごそうと思ってたからね。ずっとホテル暮らしでもいいんだけど、やっぱり家はあったほうがいいでしょ?」
「そ、それは確かに…」
「よし、それじゃあ今日はこれからホテルに行って、明日から2週間くらい観光、その間に不動産業者にいい家を探してもらおう」
「は、はぁ……」
ずいぶんとのんびりした日程だ。
てっきりこの日の内に不動産屋を回るのかと思っていたのだが、実際に家を探し始めるのは2週間後になる。これも長い間生きているかそうでないかの差ということだろうか。
「志乃さんと一緒に住んでた家って…もう無いんですか?」
「残念ながらね。第二次大戦で焼けちゃったんだ。今はごく普通のマンションが建ってるよ」
「……なんだか…寂しいですね」
「そうかな? もう慣れちゃったからね」
考えてみれば、アルにとっては「形あるものいつかは崩れる」など、至極当たり前の話なのだ。
大昔からずっと変らずにあるものといえば、彼の記憶の中にはほとんど無い。砂漠の風景くらいのものか。
「さてと、じゃあそろそろ行こうか。ここからロンドンまではタクシーで1時間くらい走らなきゃいけないんだ」
「ホテルはもう予約してあるんですか?」
「あぁ。いつも使ってたホテルがあるからね。そこに予約を入れてある」
墓地から出て待つ事約30分、ようやく通りかかったタクシーに乗り込んで、ロンドンへと向かった。
 
7

ロンドン塔はテムズ河の辺に建っている。
10世紀頃に建てられた城塞で、水門や城壁などが当時の姿をとどめていた。
「…ってワケで、ここは本来監獄みたいなものじゃなかったんだ」
「テレビだと最初から監獄として作られたようなイメージしかなかったんですけど…本当にお城なんですね」
「そうだよ。ここに『第二のアフリカの星』っていう、世界最大級のダイヤがあるんだ。見に行く?」
「え? 見れるんですか?」
「まぁね。あっちに展示してあるよ」
宝石館とでも言うべき建物へ入ると、意外と近代的な設備になっている。
エリザベス女王の即位の際のVTRなどと共に、イギリス王室の財宝とも言える宝石の数々が上映される。
「…実物はないんですか?」
「あるよ。ほら、あそこ」
アルが指差す先に、確かにガラスケースに守られた宝石がある。
なおかつ、その周りはベルトコンベアーになっており、立ち止まって長々と眺めるわけには行かないようだ。
「まぁ観光の名所だからね。たくさんの人に見てもらうにはこれが一番いいんだよ」
2人で並んでベルトコンベアーに乗り、次第に目の前に近づいてくる宝石へ目をむける。
「………うわぁ…」
もはや雪和は言葉も出ないようだ。
大英帝国の王冠、インド帝国の王冠、そして王錫などが次々に目の前に現れる。
巧妙にライトアップされ、異様なほど光を反射して見えた。
「これが世界最大級のダイヤだよ」
「…でっかい……何だかこんなに大きいと現実感が無いです…」
「あはは、そうだろうね」
それこそ、「これでもか」といわんばかりの数だ。
これだけの宝石があれば、普通なら曾孫の代まで、余裕で遊んで暮らせるだろう。
だが、少なくともアルにとっては、宝石はそれほど縁遠いものではない。
彼が生きるために使う手段、つまり金を得るための手段はまさしく宝石なのだ。
「アルさんは…砂金を作る事が出来るんですよね?」
「まぁね。金塊は作れないけど、砂金なら好きなだけ作れる。今のところ、物価が変らなければ300年は使いつづけられるくらいの預金があるから、心配しないでいいよ」
「…300…年?」
「そ。一年に5000万くらいずつ使ったとして、300年」
「……えーっと…」
「大体150億ってところかな。海に行けばいくらでも砂があるからね」
これまた現実感の無い話だ。
一ヶ月のお小遣い数千円で過ごしていた雪和にしてみれば、100万以上の金は想像がつかない。あまりの額の大きさに混乱してしまっているようだ。
「あ、あのー…」
「ん?」
「150億って………ポテトチップス1億袋…?」
「…あっははははは、そうそう、そんな感じだよ!」
「え? え? そそそれじゃあ…あのー…えぇと……」
「ほらほら、とりあえず落ち着いて。まぁ今の生活費は全部利息から出てるから、元金が減る事はないと思っていい」
「…………は、はぁ…」
天文学的な数字を聞かされてよほど驚いたのか、ロンドン塔を出て河縁を歩き出すまで、雪和はぼーっとしたままだった。
「この錬金術、もとは俺のお祖母ちゃんが使ってたやつらしいけどね」
「アルさんの…お祖母さんですか?」
「そう。ダーナ・アネクシオスっていうお祖母ちゃん。俺が生まれたときにはもう死んじゃってたけど、砂を砂金に変える技術でアネクシオス家はどんどん勢力を伸ばしていったらしい」
ダーナ・アネクシオスが開発した錬金術は孫娘のリリス・アネクシオスに受け継がれ、その後リリスの弟、アルに引き継がれた。
最初は田舎貴族で小さな領土しか持たなかったアネクシオス家だったが、この金のもたらす富で有力な貴族にまでなったのだという。
「まぁおおっぴらにはしなかったけどね。そんな事したら狙われるだけだから」
「なるほどぉ…それで、そのお祖母さんってどれくらい前の方なんですか?」
「えーっと……大体1400年くらい前かなぁ。結構長生きだったらしいんだ」
これまた悠久な話だ。
どうやらこの金銭と時間の桁と単位については、雪和が慣れるしかないらしい。
「そうそう、言い忘れてたけど」
川辺の塀に寄りかかって、振り向きざまに話し始める。
「俺がデンマーク生まれっていうのは本当だよ。まだデンマークって名前すらついてなかった頃だけどね」
「じゃあ、アルさんのご両親はデンマークの方の貴族だったんですか?」
「そうらしいよ。まぁ親の事はあんまりしらないけど。物心ついたときにはもう姉さんしかいなかったから」
「……そうだったんですか…」
「時間が出来たら行ってみよう。いいところだよ、デンマークは」
「そうですね。私も行ってみたいです」
空は快晴、というわけではないが、決してどんよりと曇っているわけでもない。
実にあいまいな天気だ。こういう天気もまたロンドンらしい。
「さてと、それじゃ次はどこに行く? ここからだったら聖ポール大聖堂が近いよ」
「あっ、そこ行きたいです!」
「よし。んじゃあ行こうか」
考えてみればおかしなものだ。
神の敵、悪魔と呼ばれるアル・アネクシオスが神を祭る大聖堂に観光に行くなど、通常なら考えられない。
「えーっと…確かこの辺だったと思うんだけど…」
聖ポール大聖堂はかなり大きな建物だ。
特に天蓋部は思わず見上げたまま立ち尽くしてしまうほど大きい。
運が良ければ、パイプオルガンの演奏も聞く事が出来る。
「あっ、あれじゃないですか?」
「んー…そうそう、あれだよ」
雪和が指差す先に、やたら荘厳な壁が見えた。
大きい。とりあえず圧倒されてしまう。
「…すごい……」
聖ポール大聖堂は、イギリスの「庶民の大聖堂」となっている。
正面の入り口には荘厳な彫刻が施されており、まず中に入る前に圧倒されてしまう。
「ほらほら、そんなに上ばっかり見てると首が痛くなっちゃうよ」
「あ、はい…」
アルが金を払い、2人分のパンフレットを持って戻ってきた。
彼の視線の矛先は雪和ではなかった。
その事を感じ取った雪和がアルに近づきながら振り返る。
騎士団だ。
黒尽くめの服に身を包んだ男が数名、アルと雪和をじっと見ていた。
まるで「この聖地を汚すな」とでも言わんばかりの、今にも噛み付きそうな鋭い目だ。
「やれやれ……せっかくの観光中に、熱心な事だなぁ…」
感心しているのかあきれているのか分からないような顔で、ちょっと大袈裟に肩を竦めてみせた。
「ア、アルさん…」
「大丈夫。そんなに怖がらなくていいよ」
にっこりと笑ってパンフレットとジュースを雪和に手渡す。
「ちょっと持っててね」
「は、はい」
まるで何の警戒もしていないかのような表情で、アルが騎士団へと近づいていく。
ゆったりとした歩調、それに余裕すら伺える表情。
以前のアル・アネクシオスとはどこかが違っていた。
自信に満ち、まるで何も恐れるものが無いかのような、そんな雰囲気だ。
「選択肢を与えてやる」
流暢な英語でそう切り出したのはアルだ。
「黙ってこの場を去るか、それとも3日後に死ぬか。好きな方を選ばせてやるよ」
「…3日後?」
「ここで殺したんじゃ警察が来る。3日後、悶え苦しんでのたうち回りながら死ぬようにしてやる。さぁ、好きな方を選んでいいよ」
「…………」
4人の男の顔が青ざめる。
この悪魔なら可能かもしれない。
普通の男が言った言葉なら一笑に伏す事も出来ただろう。だが、この言葉は彼らが1200年にわたって追いつづけてきた悪魔の台詞だ。
「答えは出たか?」
「…………」
無言だった。
が、既に答えは出ていた。
4人の男は若干遅目の歩調で、聖ポール大聖堂を後にした。
まだ若い騎士団員だったのだろう、最初からアルの敵ではなかった。
「お待たせ」
「あ、あの…あの人たちは?」
「帰ってったよ。顔が真っ青だったからね、腹でも壊したんじゃないかな?」
「は、はぁ…」
「雪和ちゃんも水には気をつけないとダメだよ。日本と違って蛇口から出た水はそのまま飲んだりしたらいけないんだ。基本的にミネラルウォーターにすること。いいね?」
「は、はい…」


 
やたらと古ぼけた墓標だ。
すでに「墓標」というよりは遺跡と言った方が良いかもしれない。それくらいの古さだ。
墓碑に刻まれた名前はもうほとんど読む事が出来ない。
「これが…?」
「そう。これが姉さんの墓。ここにリリスもいるよ」
「2人一緒にいるんですか?」
「うん。同じ名前だしね」
花束をそっと置いて立ち上がる。
周囲の風景は、志乃とシスの墓がある墓地と良く似ていた。
緑に包まれ、穏やかで静かな場所だ。
「ここは…他のお墓は全然無いんですね」
「まぁね。昔はあったんだけど、やっぱり時間が経つと墓参りに来る人も少なくなる。それで埋もれていっちゃうんだ」
2人のリリスの墓は、こうしてアルがたまに墓参りに訪れるお陰で埋もれずに済んでいるようだ。
この付近にはあまり人が立ち入らない。
幽霊が出る、人魂を見た、などの怪現象が頻発しているからだろう。
だが、そんなことは「悪魔」と呼ばれているアルにとっては何でもない。それこそ、彼らの存在自体が怪現象なのだから。
「雪和ちゃん」
「はい?」
「寒くない?」
「あ、はい。大丈夫です」
「そう、ならよかった」
にっこりと笑って、空を見上げる。
珍しく晴れ渡った空だ。雲が所々に見えるが、空がものすごく高く見える。
イギリスでこんなに良い天気になるのは珍しい。たいていは曇りがちで、どうもはっきりしない天気が一日中続いたりする。それがこれほどきれいな青空が広がっている。
「何か良い事でもあるのかな」
「え?」
「何となくさ、晴れてるとそういう気にならない?」
「あ、それ解ります。あと朝起きたときに目覚めがいいと、それだけでも何だか良い事が有りそうな気になっちゃいますよね」
「そうそう、そういう日には無性に出かけたくなるんだよなー」
こうして話をしているところを見ると、ただの若者にしか見えない。
彼らを見て、片方が齢1200年の悪魔だと気付くものは誰もいないだろう。
「…さてと、そろそろ行こうか」
「えっ? もういいんですか?」
「あぁ。もうこれっきりここに来ないって訳じゃないんだ。また来るさ」
「……そうですね」
「帰りに何か美味いもの食って行こう。美味いレストランを知ってるんだ。ホテルのすぐ近くにあるから」
「あ、はいっ」
 
 
その聖堂はデンマークとノルウェーの国境近くにあった。
やたら古ぼけた聖堂で、近隣の住人もほとんど近寄る事が無い。そのせいか、外面のほとんどが蔦に覆われている。
いつごろからそこにあるのか、何のために建てられたのか。
それを知るものは誰もいなかった。
聖堂を中心とした一帯は、大昔は貴族の領地だったという。
特に交通の便が良いわけでもなく、かといって産業が盛んな地域でもなかった。ごく普通の農村だったところだ。
入り口は頑丈に閉ざされ、誰も入る事は出来ない。
だが、第一次世界大戦中に入り口の扉が一度だけ、開いた事がある。
何かの拍子で「開いてしまった」のか、人の手で「開けられた」のかは、今となっては解らない。だが、「開いた」ことだけは事実だ。
そして、数名の兵士が中に入り、そのまま出てこなかったという。
「その兵士は…どうなっちゃったの?」
まだ幼い子供が振り返りながらそう尋ねた。
子供の後ろには少し腰の曲がった老婆がいた。
「ねぇおばあちゃん、その兵士ってどこに行ったの?」
「…さぁねぇ……悪魔にさらわれたのかもしれないねぇ……」
「さらわれちゃうの!?」
「そうかもしれないよ。だからここにはあんまり近寄っちゃダメだよ?」
「…う、うん…」
老婆はエプロンで手を拭いて、孫の手を引いて聖堂から遠ざかり始めた。
この時、子供の耳には誰かが読んでいるような声が聞こえていた。
「…ねぇおばあちゃん、誰か……呼んでるよ?」
「振り向くんじゃないよ! 悪魔にさらわれるから!」
「う、うん…」
だが、声はどんどん大きくなる。
呼んでいるような、それでいてただ唸っているかのような声。
その声は明らかに聖堂から聞こえている。
空には満月が浮かんでいた。
「神様…」
老婆が呟いた。
寝付けない孫の相手をしている内に、なぜかこの聖堂に足が向いてしまった。
これほどの後悔と恐怖は、彼女の70年の人生の中でもそれほど無かったほどのものだ。
孫の手を引いて、どんどん歩く。
腰が曲がっている老婆とは思えないほど、早足で歩きつづける。
このペースなら、あと5分ほどで道路に出るはずだ。
「……あぁ…神様…」
だが、目の前に現れた建造物を見て、老婆は天を仰いだ。
彼女たちの目の前には、なぜか聖堂があったのだ。
真っ直ぐ歩いたはずだ。
真っ直ぐ、この聖堂から遠ざかっていたはずなのに、どうして同じ場所に戻ってきてしまったのだろう。
「お…おばあちゃん…」
「いいかい、おばあちゃんの手を離すんじゃないよ」
「うんっ」
子供はすでにべそをかいている。
声はもう耳をふさいでも聞こえてくるほどになっていた。
手で両耳をふさいでも、まるで鼓膜を通り越して直接聴神経に響くような、そんな声だ。
「神様…どうかこの子をお守り下さい」
空に浮かぶ満月に祈り、老婆はまた歩き出した。

 
捜索願いが出されたのは、その翌朝の事だ。
「いやぁ…全く、これで4件目ですなぁ」
バートリー・ロドル保安官は2週間前からずっとこの渋い顔のままだ。眉間にはかなり深くシワが寄っている。
2m近い身長に100Kgを越える体重という、実に立派な体格の持ち主な割に、実はハーブ栽培が趣味という、どこかアンバランスな人物だ。
「やれやれ……どうなってんだ全く…」
左手に持ったペンでこめかみを軽く掻いて、また視線を上げる。
その先には、ほとんど全体を蔦で覆われた聖堂があった。
彼も良く知っている。子供の頃は「絶対に近づくな」と良く言われたものだ。
「それで、何か変な物音とかは聞きませんでしたか?」
「いえ…」
比較的若い女性が真っ青な顔をしている。
膝ががくがくと震え、夫に支えられてようやく立っている、といった状況だ。
「きっと…さらわれたんだわ……」
「『大聖堂の悪魔』にですか?」
「だってそれしか考えられないじゃないですか!」
大聖堂の悪魔、とこの近辺の住民達は呼んでいた。
この大聖堂には悪魔が住んでいる。そう子供の頃から言い聞かされている。
科学が発達し、人類がもうすぐ火星に降り立とうというこの時代に、この地方では未だに悪魔が信じられていた。
むしろ、神よりも悪魔の実在を信じているものの方が多いかもしれない。
かといって、ここは決して悪魔信仰の村などではなかった。敬謙なクリスチャンが多い、実に静かな村だ。
「…相変わらず鍵はかかってるな…」
バートリーが大聖堂の入り口を確かめる。
ドアの周りにはホコリがつもっており、少なくとも最近は開けられた形跡は全く無い。
だが、この近辺で探していないのはこの大聖堂の中だけだ。
「かといって……」
このドアを開ける勇気があるものなど、この村には一人もいない。
いわば巨大なパンドラの箱だ。
災いが飛び出てきて、最後に「希望」などというものが残っている保証も無い、凶悪なパンドラの箱。
飛び出るのが災いならまだしも、悪魔が出てこようものならどうしようもない。
「悪魔の仕業です」
突然、バートリーの背後から声をかけるものがいた。
実に低い、落ち着いた声だ。
「この聖堂には確かに悪魔が棲み付いている」
「ちょ、ちょっと! 今ここは関係者以外立ち入り禁止…」
ですよ、と言いかけて止めた。
黒尽くめの服装に、胸には銀のロザリオ。
敬謙なクリスチャンでもあるバートリー・ロドルにとっては牧師、神父、司祭は逆らえない存在だ。
「あ、あの……」
「ロドル保安官ですね?」
「そ、そうですが…?」
黒尽くめの男が帽子を取ると、見事に側面を残して髪の毛が禿げ上がった頭が現れた。
「私は使徒騎士団のリチャード・ホーキンスといいます。神のお導きで参りました」
軽く頭を下げ、十字を切った。
「神の…?」
「その通りです。…こちらのご婦人は?」
「行方不明の子供の母親です。彼女の母も行方不明になっています」
「………お悔みを申し上げます。残酷なようですが、あなたのお子様とお母様はもう生きてはおられない」
「………ぁ…」
小さく、喉から絞り出すように声を出して、その場に泣き崩れてしまった。
「何を証拠にそんな!」
すかさず、夫が噛み付かんばかりの勢いで詰め寄った。
だが、リチャードと名乗る男は少しもたじろがない。
落ち着いた様子でポケットから、小さい水晶でできた棒を取り出した。
水晶の棒には銀の鎖が取り付けられ、振り子のような構造になっている。
リチャードはその水晶の棒をぶら下げ、じっと腕を水平に保つ。
「…?」
「どうぞお静かに……」
次第に水晶が動き出した。最初は旋回運動だったのが、いつのまにか縦の往復運動へと移っている。
「…こちらですな」
リチャードが静かに歩き出す。
バートリー保安官と若い夫婦もその後に続いた。
そのまま数百メートル歩いたところに、2人は「いた」。
2人とも目を見開き、何かにおののいたような表情のままで固まっている。
呼吸はなかった。
「これで…4件目だよ……」
バートリー保安官がぽつりと呟いた。
 
 
バートリー・ロドルの机には厚さ4cmにもなる書類の束が重ねられている。
ここ1ヶ月で、連続して4件の失踪、死亡事件が発生している。
明らかに異常だ。
彼はここで生まれ育ち、裏道の一本一本がどこに通じているかまで熟知している。
彼が生まれてからの31年間、少なくとも今月までは殺人事件など一度も起きた事はない。せいぜい起きたとしても、郵便が届かないだのトラクターが故障しただの、隣の夫婦喧嘩がうるさくて眠れないだのという、実にのどかな事件ばかりだ。
それがどうだろう?
4件の突然の失踪、そして失踪した者は全員死んでいる。
「ふぅ……」
12本目の煙草を灰皿に押し付け、ファイルを開いた。
「バートリー、吸い過ぎじゃないのか?」
「…ん? あぁ、そうか?」
バートリーの前に座っている同僚保安官、ルイス・ボルドーがあからさまに煙たそうな顔をしている。彼は煙草の煙が大の苦手なのだ。
「…なぁルイス、お前どう思うよ?」
「吸い過ぎだよ。やっぱり煙草は健康の敵だな」
「……いや、煙草じゃなくて、この失踪事件の話」
ルイスとバートリーは幼なじみだ。
家がすぐ近くで、子供の頃はよく一緒に遊んだものだ。
地元の学校に通い、そして2人一緒に保安官になった。今でも仕事の帰りによく一緒に飲みに行ったりする。
「そうだなぁ……ヘンって言やぁ変だな」
「だろ? あと、昨日来た『使徒騎士団』って男なんだけど…あれも結構怪しいな」
「黒尽くめの男か? それなら俺も見たぜ」
「…見たのか?」
「あぁ。リチャード……何て言ったっけ?」
「リチャード・ホーキンス。ダウジング使って死体を見つけたんだ。まぁ捜査に協力してくれるのはありがたいけど…気味の良いもんじゃないな」
「確かにね」
少し大袈裟に肩を竦めて、コーヒーを口に運ぶ。
「まぁヘンな男だったけどね。俺の名前を調べてたみたいだし、どうも好きになれないね」
「同感」
と、少しおどけた顔でバートリーが13本目の煙草に火をつけようとしたときだ。
電話のベルが鳴る。
この事務所の電話は本当に「ベル」がなるというタイプの電話だ。年代物だが、未だに現役で働いている。
「はい、保安官事務所です」
バートリーが受話器を取る。
何度か肯いた後、彼の顔から血の気が引いた。
そして、静かに受話器を置く。
「なんだよ? どうしたんだ?」
「……5件目だ…」
「………おいおい…勘弁してくれよ…」

 
「何かあったのかな?」
デンマーク国境近くの小さな村の入り口に、2人の若者が立っている。
一人は色白の青年。もう一人は黒い髪に黒い瞳の少女だ。
「何だか…騒がしいですね」
「おかしいなぁ…ここって静かな村だったんだけど…」
「ここに住んでたんですか?」
「500年ほど前にね」
500年も経てば様子が変ってもおかしくない。むしろ変らない方がおかしいだろう。
アル・アネクシオスがこの村に住んでいたのは1200年前から累計しても、大体100年ほどだ。
その他の時間は大抵放浪して過ごしてきた。
だが、ここは彼にとっては「故郷」といえる場所でもある。何しろ生れた土地なのだから。
「何かあったんですか?」
アルが実に自然なデンマーク語で保安官に尋ねた。
見るからに屈強そうな男だ。工具で言えば特大のハンマー、といったところだろう。
もう一人、大柄な保安官の隣にいる男も保安官の制服を着ている。
「いやぁ、失踪事件ですよ。ちょっと前までこんなこと無かったのに…」
大柄な男が頭を掻きながらそういうと、もう一人の保安官が少し訝しげな視線を投げかけてきた。こちらは工具で例えれば鋭いナイフといったところか。
「ここへは観光で?」
「そうです。2人でのんびりしようと思って…」
「めずらしいですね。こんな辺鄙な村に」
「だからいいんですよ。のんびり休むにはちょうどいいでしょ?」
「…なるほど」
この村には一件だけホテルがある。
実はこの村、デンマーク国内でもマイナーではあるが、「知る人ぞ知る」バカンス地なのだ。
ごく一部の金持ちの別荘も何件かあることはある。それに、一軒だけあるホテルも、外見はこの村の雰囲気に相応のものだが、内装はかなり立派なものだ。
「どれくらいの期間のご滞在ですか?」
「まぁ気が済むまでですよ。のんびり休む予定ですから」
「そうですか。…あ、私はバートリー・ロドル。こっちはルイス・ボルドーです。この村で保安官をしています。何か困った事がありましたら、保安官事務所までご連絡下さい」
「わかりました。ありがとう」
「それから、夜の外出は控えた方が良いですよ。ここ1ヶ月で5件も失踪事件が起きてるんです」
ちらりとバートリーが視線を向けた先、そこにあるのは普通の家だが、その延長線上には、大聖堂があった。
「夜はホテルで大人しくしてますよ。それじゃあ」
「それじゃあごゆっくり」
2人の若者は少し大き目の荷物を持って、小高い丘の上に立つホテルへと歩いていった。
この村に来る観光客は大抵が金持ちだ。
日本人観光客はこの村の存在すら知らないだろう。世界有数の金持ち民族なのに、もったいない事だ。
「あーぁ、まったく、どうしてこう…観光客ってのはこういうタイミングで来るのかねぇ」
「しょうがないだろ。観光客はこっちの事情なんて知らないんだからさ」
ほとんど諦めかけたような顔で、バートリーとルイスはお互いを見合わせ、パトカー代わりのジープに乗り込んだ。
アルと雪和が泊まるホテルは、雪和の想像に反して実に立派なものだ。
外見はそれほど大きくはない。ただ古めかしい建物というイメージなのだが、内装は実に洒落ている。
下手すると日本の豪華ホテルに泊まるよりも良いかもしれない。
「…ここって…1泊いくらくらいするんですか?」
「えーっとねぇ…日本円で一泊8000円。そんなに高くないでしょ?」
「8000円? 80000円とかじゃなくてですか?」
「あはは、そんなに高くないよ。食事は別だけど、泊りだけなら1泊8000円だよ」
「へぇ…」
フロントにはやたら太った中年の女性が座っている。
何か嬉しい事でもあったのか、やたらにこにこしている。人のよさそうなおばさんだ。
「予約を入れていたアル・アネクシオスです。ダブルの部屋を取っているんですが…」
「はいはい、アネクシオス様ですね。確かに承っております。それではこちらが部屋の鍵になりますので」
「ありがとう」
どうやらドアボーイなどはいないようだ。
無駄なサービスを省いて低料金を実現しているのだろう。
「さ、行くよ」
「はいっ」
「6階の…609号室。角の部屋だね」
「ここって景色もいいんでしょうね〜」
「景色は抜群にいいよ。あっちの方向には渓谷があるし、逆の方向には滝があるんだ。明日にでも行ってみようか?」
「はいっ、行きたいですっ」
村の様子が変っても自然の景色はそうそう変るものじゃない。
彼が言った通り、渓谷も滝も、アル・アネクシオスが幼かった頃とほとんど同じ姿を保っていた。
この村の主な産業は酪農と鉱業だ。
すぐ近くの山には銀とプラチナの鉱脈があり、この村の男はほとんどがその鉱業に携わっている。
「ちなみに、俺の両親が健在の頃は、この土地の主な産物は金だったんだけどね」
「…あ、砂金ですね」
「そう。どう考えたって異常だよなぁ。1日で丼いっぱいの砂金が採れるなんてさ」
「……た、確かに…」
「そのころは婆ちゃんが砂金を作ってくれてたから、鉱脈なんて探す必要が無かったんだ。ここで鉱脈が見つかったのは…いつだったっけ? 120年前くらいだったかな?」
こうしてアルの昔話を聞いていると退屈しない。
何しろそこらの「お爺ちゃんお婆ちゃんの昔話」とは歴史が違うのだ。
実際に目で見て、耳で聞き、自分の手で触り、肌で感じ、舌で味わったのだから、内容も濃度が段違いだ。
「さぁてと…今日は疲れたでしょ? うろうろするのは明日からにして、今日はもうホテルの中でのんびりしようか」
「はい、さすがにちょっと疲れちゃいました」
この後、雪和が部屋の中のやたら大きいダブルベッドを見て、一人で赤面してしまった事は言うまでもない。

8
「…ここは……?」
真っ暗な部屋の中で声が異常なほど反響する。
何も見えない。はるか上の方に、かすかに光を見る事が出来るが、自分の足元には何があるのかも見えない。
「何…? なんなの?」
まだ若い女性だ。
ブロンドの髪に真っ白い肌。それに鍾乳洞の湖を思わせる美しい蒼い眼。
彼女の表情にはありありと恐怖が浮かびあがっていた。
確かに自分はベッドの上で寝ていたはずだ。
それがどうしてこんな暗いところに?
「………どうなってるのよ……」
少し目が慣れてきた。ぼんやりとではあるが、すぐ近くのものなら見えるようになってきた。
彼女は自分の足を見て愕然とする。
鎖でつながれていた。
鉄の足枷をはめられ、その枷は長く太い鉄の鎖でどこかに縛りつけられていた。
重い。
満足に歩く事はおろか、立ち上がる事もままならない。
身動きするたびに、じゃらっという重く冷たい音が響く。
「誰か…誰か助けて……」
自分のこの境遇が夢である事を祈りながら、呟くような声を喉から絞り出した。
だが、誰も答えない。冷たい空気の中に、自分の声が反響するだけだ。
足が痛い。
鉄の枷が足首に食い込んでいる。
鎖が重い。
床は石で出来ているのだろうか、硬くて冷たい。
這いながら、壁を探した。
彼女は壁も何も見えないほど真っ暗なところにいるのだ。せめて、身を寄りかからせる事が出来る壁があれば、少しは楽になるかもしれない。
そう考えて、鎖を引いたときだ。
「あぐぅっ!!」
何かが彼女の足に繋がれた鎖を勢いよく引いた。
その拍子に、彼女は身体ごと5mほど引きずられてしまう。
「あ……ぁ…」
恐怖のあまり、声も出てこなかった。
ただ、引きずられた方向を見つめ、がたがたと鎖が音を立てるほど震えているだけだ。
少しだけ、足を手前に引いてみる。
鎖は相変わらず重かったが、特に何かに引っ張られているという感触はない。
再び、少しだけ足を手前に引いた。
「っひぃいっ!?」
今度は勢いよく、10mは引きずられただろうか。またも鎖を引いた。
石の床でこすれて、彼女の背中、太股、腕、そして頬からは血が出ていた。
普段は街ですれ違う男の視線を独占していたであろうその美しい顔も、今では恐怖のために涙と脂汗でぐしゃぐしゃになってしまっている。
また、鎖が引き込まれる。
何かがいた。
暗がりの奥、何かが彼女を力づくで引き寄せている。
「…………」
奇妙な音を立てて息を吸い込んだまま、彼女は動きを止めた。
影が、彼女の網膜に飛び込んでくる。
鎖はその影の「手」らしきものに溶け込むように同化している。
恐怖のあまり、彼女は失禁していた。だが、それすらお構い無しに、影は鎖を引き寄せる。
そして…
「…っ!?」
冷たい「影」が彼女の足を掴んだ。
 
 
 
実にさわやかな朝日が東向きの窓から差し込んで来ていた。
「んー……っ」
ベッドの中で大きく伸びをして、体を起こす。
「…あれ?」
隣を見ると、誰もいなかった。
確かに夕べはここで一緒に寝たはずなのだが…
と、そこまで思い出して、一人で顔を真っ赤にしてしまった。
何も着ていない。
裸のままで寝ていた上に、豪快に伸びをしてしまっていた。
「やだっ!」
慌てて毛布を身体に巻き付け、そのまま服を掴んでバスルームへと向かう。
間一髪だった。雪和がバスルームに入ったと同時に、部屋のドアが開いて聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「あれ? 雪和ちゃん?」
「あ、お、おはようございますっ」
「あぁ、風呂?」
「いえ、その……とりあえず服を…」
「…あぁ、なるほどね。そろそろ朝飯食いに行こうと思うんだけど、どうする?」
「あっ、行きますー」
「じゃあ部屋の外で待ってるよ。着替え終わったら出てきて」
「はいっ」
服を着ながら、夕べの事を思い出してしまっていた。
昨日の夕食に出たワインが妙に口に合ったせいで、ついつい飲んだ事もない酒を飲んでしまった。
そのせいだろうか、アルに抱きかかえられてベッドに連れて行かれても、恐いとも何とも感じなかった。それどころか、奇妙なほど安堵感を憶えていた。
初めて抱かれるはずなのに、以前にも抱かれた事があるような、そんな軽いデジャ・ヴュまで感じてしまっていた。
「はぁ………」
鏡に映った自分の身体をしげしげと眺める。
自分でもそれほどプロポーションがいいとは思っていない。胸はそこそこ大きい方ではあるが、決定的に背が低い。中学生と間違えられてしまうくらいだ。事実、彼女の背は中学3年生の頃から全く伸びていない。
だが、夕べはこの小さな身体を抱いてくれた人がいる。
ドアを2つ開ければ、そこでその人が待っていてくれる。
いつでも待って…
「…いっけないっ!」
そのドアの向こうで、アルが待っていることを思い出したのか、大慌てで服を着だした。
「す、すみませんっ、お待たせしました!」
「…随分慌ててたみたいだね」
「は、はい…」
「シャツが裏表になってるよ」
「えっ?」
見てみると確かに裏表だ。
「ほら、着替えなおしておいで。慌てなくていいよ、朝飯は逃げたりしないからさ」
「は、はい」
朝食はごく普通のメニューだ。
パンにウィンナー、スクランブルエッグとコーヒーという、洋風の朝食のお手本のようだ。
「美味しいですね、このチーズ」
「そうだね。この辺は酪農もやってるらしいから」
「…あの、アルさん」
「ん?」
「夕べ……その………」
片手にフォークを持ったまま真っ赤な顔でもじもじしている。
どうやらまだ気にしているらしい。
「わ、私……ヘンじゃありませんでしたか?」
「いや。全然」
「そのぉ………し…志乃さんと比べて…」
「あははは、比べる事無いよ。志乃も小柄だったし、なんだか懐かしかったな」
「…は、はぁ……」
「心配しないでいい。すごく良かったよ」
「えっ!?」
ただでさえ赤い顔が、今度は首筋まで真っ赤になってしまった。
「はいはい、この話はもうお終い。それより今日はどこに行くのか考えておいた?」
「あ、は、はい」
アルは憎たらしいほどマイペースだ。
まぁ1200年も生きていれば、女性経験も豊富すぎるくらい豊富だろう。
「で、どこに行く?」
「えーと…昨日言ってた滝を見てみたいです」
「うん、じゃあ…そうだね、これ食ってしばらくそこら辺をふらふらしてから行こうか」
「はいっ」

 
バートリー・ロドル保安官の机の上の書類は4センチから6センチへと厚みを増していた。
「ったく……何が起きてんだよ…」
この日早くも11本目の煙草に火をつけて、ぼやき混じりに呟いた。
「おいおい、ちょっとペース速いんじゃないか? 最近吸い過ぎだぞ」
「ん…あぁ、気をつけるけどさ…」
さすがに自分でも吸いすぎたと思ったのか、この11本目はあまり吸わずに灰皿に置いたままだ。
「結局…5件目の被害者はまだ見つかってないし……」
「やっぱりあの大聖堂だと思うか?」
「…迷信を信じる気はあんまり無いけど……それしか考えられないな」
行方不明になったのは小学校の教師だ。
独身で、この近辺、特に鉱山で働く若い男達からは絶大な人気があった。
「あの大聖堂…なんだと思う?」
「あの大聖堂が何だって…?」
「普通さ、大聖堂って言ったらもっと人が集まる場所に建てるだろ? それを何でこんな所に?」
「ふーむ…」
「それにどうしてあの大聖堂には誰も近づかないんだ? 本当に何かが中にいるのか?」
「俺達が聞かされた話だと…悪魔が棲み付いてるって話だけどな」
「…どうなんだろうなぁ」
「こうもコトが続くと……信じたくないけど信じざるを得ないな」
大きくため息を吐いて、椅子にどっかりと腰掛ける。
ルイスの頭の中にはあの黒服の男の姿がこびりついている。
使徒騎士団と言っただろうか。
世間一般にはあまり知られていないが、この地方ではけっこう有名だ。
大昔、この地に住み着いていた悪魔を追い払ったとか言う逸話も残されている。
「なぁ、あの…リチャード・ホーキンスとかいうやつ、まだここにいるかな?」
「なんだよ、あの薄気味悪い男に協力でも頼むのか?」
「そうじゃないけどさ……でも4件目の被害者の居場所は一発で当てたんだろ?」
「…まぁな」
「じゃあ今回だって何とかなるかもしれないぜ?」
「………気が進まないが…まぁ仕方ないな」
顔を見合わせると、さっき火をつけたばかりの煙草を灰皿に押し付け、保安官事務所のドアを開いた。
黒尽くめというのはこの付近では結構目立ってしまう。
村の中心部を走る事わずか10分、リチャード・ホーキンスはすぐに見つかった。
「ミスター・ホーキンス、私はルイス・ボルドー保安官。捜査にご協力願えないかな?」
「…これも神のご意志でしょう。よろこんでご協力いたします」
最初は断られるかもしれない、と覚悟していたのだが、あまりにもあっさりと了承を得られてしまった。返って拍子抜けしてしまったくらいだ。
「助かります」
「それで、どうすれば解りますか?」
「あの大聖堂です」
ルイスとバートリーが顔を見合わせた。
やはりあの大聖堂か。
「まだ天に召されてはいません。ですがもう手遅れです」
「手遅れ!? どういうことだ?」
「……行けばおわかりになるでしょう」
普段から荒っぽいバートリーの運転が更に荒くなる。
そのお陰か、大聖堂までわずか30分で到着した。もちろん、何度となく舌を噛みそうになったが。
大聖堂は相変わらず、冷たく異様な雰囲気だった。
ドアが開けられた形跡はなく、また、付近に人が立ち入った形跡も無い。
いつもと何ら変らない大聖堂だった。
が、
「…おい……」
「…………」
リチャード・ホーキンスがしゃがみこむ。
その正面には、行方不明になっていた女性教師が座っていた。
うつろな目でくすくすと笑っている。
「…何てこった……」
生きてはいる。
だが、精神に異常をきたしていることは明らかだった。
「とりあえず病院だ。救急車を呼ばないと」
「あ、あぁ」
何があったというのだろう。
彼女が行方不明になったのは2日前。
この2日間で、彼女の精神を壊してしまうほどの「何か」があったはずだ。
「…何なんだよ一体……」
無線で救急車を手配し、ジープに戻ろうとしたときだ。
「……ルイス! 今の聞いたか!?」
「…やっぱり……聞こえたか?」
バートリーとルイスの2人の顔からは血の気が引いている。
何かが呼んだ。
いや、呼んだかどうかは解らない。何かが「聞こえた」。
2人揃って声の聞こえた方向へ視線を向ける。そこには…
「大聖堂の……悪魔…」
建物全体を蔦で覆われた大聖堂がある。
「ミスター・ホーキンス! 今のは!?」
「悪魔の声です」
いつも通り、リチャード・ホーキンスは冷静そのものを装ってはいたが、それでも若干声が震えている。
ロザリオを持つ手に力が入った。
「…この中にいるのか…?」
「そのようです。早くここを離れた方がいい」
「あ、あぁ。そうだな」
突如、女性教師が立ち上がった。
その表情は先ほどとは明らかに違っている。壊れてしまった精神ではなく、明らかに別の「何か」が宿っている。
バートリーもルイスも、この女性教師を以前見た事はある。話した事はないが、それでも今のこの表情がいつもの彼女の表情でない事だけは確かだ。
「な……」
「お二人とも下がって下さい。悪魔憑きです」
「…嘘だろ……?」
女性の口が禍禍しい形に歪む。まるで嘲笑っているかのようだ。
「悪魔よ!」
リチャード・ホーキンスがロザリオを彼女にむけて差し出す。
女性が一歩下がった。
「この方の身体から出て行くのです!」
リチャードが大股に一歩踏み出した。
正確に同じ距離だけ、彼女も退く。
「父と、子と、精霊の御名において!」
さらに一歩踏み出した。
彼の計算では、彼女はさらに一歩退くはずだった。
だが、それとは逆に彼女はリチャードとの距離を詰めた。
「…っ!?」
冷静で威厳に満ちたリチャードの表情が一気に崩れる。
彼女はロザリオを握ったままのリチャードの右手を掴んだ。
同時に異様な音を立てて、彼女の両手から煙が立ち始める。
「な…なんだよ……何が…?」
彼女は笑っていた。
いつもの清々しい笑みではなく、まるでリチャード・ホーキンスを嘲笑うかのような、禍禍しい笑みだ。
「は、離せっ!」
リチャードは手を引こうとする。
だが、彼女はそれを許さない。
二人の間から発生する煙は、その量を加速度的に増していた。
そして、
「………ミ…ミスター・ホーキンス!!」
彼女の身体から焔が噴き出した。
赤でもオレンジ色でもない、青白い焔。
その焔はあっという間にリチャード・ホーキンスの全身を飲み込んだ。
二人が真っ白い灰になるまでに要した時間は、たったの2分だった。
 
 
「きれいですねー」
「ここは本当に昔から変らないなぁ」
冷たい水飛沫が霧のように舞っている。
二人の前方約20mほどには、さほど大きくはない滝がある。
アル・アネクシオスが子供の頃よく訪れたところだという。
「この滝の水は一年中冷たくてね。それにほら、水きれいでしょ? 飲めるよ」
「えっ? 本当に飲めるんですか?」
岩の上にしゃがみこんで、水を手で掬い取る。
「…うん、1000年前と全然変らない。飲んでみる?」
「あ、はいっ」
雪和も同じようにしゃがんで水を飲んでみた。
冷たい。
都会の水道水か、コンビニで売っているペットボトルのミネラルウォーターくらいしか飲んだ事が無かった雪和にとっては新鮮な味だ。
水に味がある、という事自体初めてなのだ。
「すごい…水ってこんなに美味しいものなんですか?」
「まぁね。それにほら、ずっと歩いてたからのど渇いてたでしょ? それもあるよ」
「水筒か何か持ってくれば良かったなぁ」
「あはは、そうだね」
今の季節は秋。残念ながら、この滝壷で泳ごうという気にはなれない。
「あっ、アルさん、あそこお魚!」
「ん? あぁ、イワナみたいだね。ここは水がきれいだから、色んな魚がいるよ」
「すご〜い! こういう所なら住んでみたいです」
「雪和ちゃんはずっと都会育ちでしょ? だったら新鮮だろうね」
「はいっ、こんなきれいなところ……初めてです」
日差しが明るい。
木々の間からの木漏れ日が優しい。
自然というのはこんなにも美しいものだったのか、と今更のように考えてしまう。
「雪和ちゃん」
「はい?」
「そろそろ行こうか。もうすぐ昼だよ」
「あ、はいっ」
くるっと振り返ると、そこにも自然の風景が広がっている。
だが、その風景の中にどうしても溶け込めない物があった。
黒尽くめの服に黒い帽子、それに黒い髭。
「こんな所でお会いするとは、奇遇ですな。サー・アネクシオス」
「まったくだね。観光か?」
「そうであれば良かったのですが」
帽子を取ったその男には見覚えがある。
雪和がアルの背中に隠れるように身構えた。
ヨハン・ミュンヒハウゼンだ。
「で? 何の用だ?」
「とぼけないでいただこうか。つい先程、我々の同士が一名、天に召された」
「そうかい。お悔みを申し上げておこうかな」
「…あなたではないのか?」
「何の事だ? 俺は今日はずっとここにいたんだが」
「あなたでないとすれば、誰がやった?」
「さぁね。そんな事知るかよ。それに知ってても俺がアンタらに教えると思うか?」
「……なるほど…」
ヨハンの両手に力が入る。
この悪魔にはロザリオも聖水も、何も効かない。
だとしたら、隣にいる少女は?
彼女には効果があるのではないか?
ヨハンの右手が動いた。
ロザリオを雪和になげ渡す。
「あっ…」
とっさに彼女はそのロザリオを受け取った。
…何も起こらない。
雪和も何がどうなっているのか解らず、受け取った銀のロザリオをしげしげと眺めるだけだ。
長いため息。
「失礼した。それではこれで」
帽子をかぶりなおして、ヨハンはアルと雪和に背を向けた。
「ちょっと待った」
アルが急にヨハンを呼び止め、歩み寄る。
黒い服を纏ったまま、ヨハンが身構えた。
「あぁ、別に危害を加えようってワケじゃない。ちょっと聞きたい事があるだけだ」
「…私に?」
「そう。あんたらここで何してんだ?」
「……決まっている、神の御教えを説いている。ただそれだけだ」
「へぇ、その神の御教えを説くためには銃が必要なのか?」
とっさに懐に手を入れてしまった。
「昔はサーベルとか剣だったんだが…最近は随分と便利になったもんだな」
「…何故銃の事を…?」
「あれ? ホントに持ってたのか? 当てずっぽうだったんだけど」
みるみるヨハンの顔が怒りに支配されていく。
こんな若者におちょくられていることは我慢できなかった。
だが、見た目は若者でも、相手は1200年を生きた魔物だ。下手に手を出すとどういう事になるかわからない。
「こないだも言ったよな。俺達に関わるなって。これが最後の警告だと思えよ」
そういうと、アルは雪和を庇うように手を引いて歩き出す。
アルの手は暖かかった。
雪和の手のひらから、アルの体温が感じられる。
少しだけ冷たい空気の中、安らぎを感じるほど暖かい。
なぜこんなに暖かい手を持っている人が、悪魔などと呼ばれなければならないのだろう。
ただこの人は静かに暮らしていたいだけなのに。
ただ静かに、愛する人と一緒に静かに暮らしていたいだけなのに。
それをなぜこの騎士団という人達はかき乱すのだろう。
なぜこの人から次々と愛する人を奪っていったのだろう。
「アルさん…」
「……さ、そろそろ昼飯にしよう。ちょっと多めに食おうか」
「…はいっ」
雪和の声に振り返ったアルの表情は穏やかで優しかった。
小さな娘を見るような、慈愛に満ちたまなざしだ。
そのアルを、敵意と憎悪に満ちた眼差しで、ヨハン・ミュンヒハウゼンは見送っていた。
 
 
街は騒然としていた。
鉱山から大勢の男達が押し寄せ、保安官に詰め寄っている。
「落ち着け! みんな家に帰るんだ!」
「うるっせぇ!! もう黙ってなんかられねぇ! あの大聖堂ブっ壊してやる!!」
罵声と怒号が飛び交っている。
その罵声は、決して保安官に向けられたものではなかった。
彼らが先ほどまでいた、大聖堂に向けられたものだ。
「…大聖堂?」
その罵声を聞き止めた青年がいる。
小柄な少女を連れて歩いていた、恐らく観光客だろう。
「この辺に大聖堂があるんですか?」
「ん? …誰だアンタ」
「観光客ですけど…」
「あぁ、観光客なら近づかねぇ方がいいぜ。悪魔が棲んでるからな」
悪魔が棲む大聖堂。
この近隣の住人はそう呼んでいた。
いつからそこにあるのか。
なんのためにそこにあるのか。
誰が建てたのか。
何も解らない、謎だらけの大聖堂。
だが、なぜかその大聖堂は取り壊される事もなく、ひたすらそこに存在しつづけた。
「………大聖堂か…」
「え?」
「…いや、何でもないよ。それよりこれじゃ昼飯どころじゃないね。ホテルに戻ろうか」
「あ、はいっ」
さすがにホテルには喧燥はなかった。
相変わらず静かに、村の中心の大騒ぎが地球の裏側の出来事のように感じられるほど、それくらい静かだ。
ふと窓の外を見る。
よく晴れた空だ。多分今夜は満月だろう。
「今夜は部屋の中から月見でもしようか?」
「あ、いいですね〜。お団子とか欲しいですね」
「あははは、さすがに団子は売ってないだろうなぁ。紅茶とクッキーとかならあるかもよ?」
「うーん…それでもいいですけど…」
今から昼食を食べに行こう、というときに夜食の話をするあたり、この二人の緊張感の無さが十分すぎるほど伺える。
だが、それくらいでちょうど良かった。
もう何も恐れる事はない。
愛する者を失う事も、失って哀しむ事もない。
彼らには、もうお互い以外に失うものなど何もないのだから。
同時に、お互いを失う事など、もうありえないのだから。

 
鎖と何か硬い物が擦れる音がする。
その音はやたら高い天井で反響し、必要以上に耳障りな音になって帰ってくる。
何かが蠢いていた。
光も差し込まない暗闇の中で、「それ」はゆっくりとではあるが、確かに動いていた。
息をしている。
ゆっくりと、もどかしいくらいゆっくりと胸を上下させて、呼吸をしている。
スローモーションかと思えるほど、ゆっくりと身を起こした。
そして、数十メートル先にある入り口へ視線を移した。
ドアが破られようとしている。
「彼」の聖域へ進入しようとする、招かれざる客がやってこようとしている。
恐らく、「彼」の居場所は壊されるだろう。
だが、それは同時に「彼」を亡き者にする手段を永遠に失う事でもある。
「彼」の口元が緩んだ。
禍禍しくはない。むしろ、優しく微笑むような表情だ。
「彼」は立ち上がった。
何かが爆発するような音を立て、ドアが壊れた。
太陽の明かりが彼の聖域を照らす。
奥までは照らせない。入り口辺りを何とか明るくする程度だ。
「出てきやがれこの野郎!!」
野太い声が、高い天井と硬い壁に反射して、木霊のように何度も何度も反響する。
その声に答える者はいなかった。
「いるのは解ってんだ! ブっ殺してやる!!」
数十人の男達が次々に入ってきた。
不意に、明るい光が建物の内部を照らす。
内部には何も無かった。
ただあるのは、石の床と壁、それに天井。そして…
「……何だありゃぁ…」
男の一人が懐中電灯の灯かりをむけた先には、彼自身の姿が映っている。
鏡だ。それもかなり大きい。
「何でこんなとこに鏡が…?」
男達が集まってくる。
その鏡は相当な年月を経たものらしいが、なぜか表面には汚れも曇りもない。毎日誰かが磨きつづけたかのように、輝きを保っている。
「まぁこんなモノぁどうでもいいんだ。それよりさっさと悪魔見つけてふん縛ってやろうぜ」
と、ハンマーを持った男が鏡に手を触れたときだ。
「……お…おい!!」
男の大柄な体が、まるで吸い込まれるように鏡の中へと入って行った。
彼の姿は、鏡の中だけに映っている。
そして、「それ」は姿をあらわした。
「…ひっ……」
鏡のすぐ近くにいた男はツルハシを床に落としてしまった。
懐中電灯の灯かりが「それ」を照らす。
鏡の中にだけ見えるその姿は、一見したところどこにでもいそうな青年だ。
長い髪に涼しげな目元。それに、かすかに笑みを浮かべた優しい表情。
だが、決定的に違っていた。
彼は鏡の中にしかいない。いくら男が後ろを振り返っても、眼を擦ってもその姿はなかった。
「あ……悪魔…」
青年は優しそうな笑みを浮かべて、ただそこに立っているだけだ。
そして、鏡の中に入ってしまった男が、その青年に気付いた。
「いたぞ!!」
鏡の中から声が聞こえた。
その声に大勢の男達が一斉に振り返り、鏡の前へと駆け寄ってきた。
「こいつだ! こいつが…」
鏡の前に集まった男達を見て、ハンマーを持った男は愕然とする。
「な…なんだよ…? 何で皆鏡の中にいるんだ!?」
「何言ってる!? 鏡の中にいるのはお前だろうが!」
「何言ってやがる! 俺はこうしてちゃんと…」
と、何かを言いかけたところで青年がくるりと背中を向け、ハンマーを持った男の方を向いた。
一瞬で男の表情は恐怖という二文字に支配されている。
青年は相変わらず、まるでマリア象のような笑みを浮かべていた。
だが、それはマリア象の笑みとは異質のものだ。
「お、おい!! たた助けてくれ!!」
「早くこっち側に来い! 出てくるんだ!」
「出来るわけねェだろ! 何とかしてくれ!!」
青年が男を指差した。
全ては一瞬だった。
一瞬の内に、男の全身を青白い焔が包み、ものの数秒で真っ白い灰になってしまった。
そして、青年は振り返る。
「うぁああああああ!!」
一人の男がハンマーを振りかざした。
次の瞬間、鏡は粉々に砕け散っていた。
鋭利な破片が辺り一面に散らばる。
「…や……やったか?」
鏡はただの鏡になっていた。
覗き込んでみても、そこらの家においてある普通の鏡と同じく、自分の顔が見えるだけだ。
その中に悪魔はいなかった。
「やった……みたいだな…」
「…へっ、終わってみりゃあっけないもんだな」
「……これで…終わったんだよな?」
「終わった……よな」
あまりにもあっけない。
終わってみればこんな物なのだろうか?
あの青年は誰だったのだろう?
何故鏡の中にだけ存在したのだろうか?
疑問は数えてみれば山ほどある。
だが、これで終わったのだと考える事にした。誰が言い出したわけでもなく、各々が自分の中で決着をつけることに成功したようだ。
もちろん、今夜の彼らの安らかな睡眠のためには、聖書か度数の高いウィスキーが必要となるだろうが。
 
 
「彼」はソファに身を沈め、一人考えていた。
とうとう奴等は鏡を壊してしまった。
これで終わったと思っている。
もう「彼」が死んだと思っている。
彼はもう「そこ」から出る事は出来ない。それと同時に、「奴等」が「そこ」に入る事も出来ない。
鏡を壊されたのは予期せぬ出来事ではあったが、それはそれで構わない。
彼はその程度では死ぬ事はないのだから……
彼はもう、死ぬ事は永遠に出来ないのだから……
 
 
アルの頭の中にはずっと一つの疑問があった。
それは、彼にとっては至極当たり前に持つべき疑問で、もう長い間ずっと考えつづけてきた疑問だ。
「どうしたんですか?」
「ん?」
雪和が少し心配そうな顔をしている。
「頭痛いんですか…?」
「いや、ちょっと考え事」
「考え事…ですか」
「うん。どうして俺は死なないのかなー…ってね」
もう1200年経った。
普通なら、身体は腐り、肉は融けて水になり、骨も土に返るはずだ。
それがどうだろう? 彼の身体は20歳の頃と全く同じ姿を保っている。もちろん髪形を変えたりはしていたが、それでも1200年ほど前に彼と出会った者が見れば、一目でアル・アネクシオスだと気付くほどだ。
雪和は人魚の肉を食べて不死になった。どうして人魚の肉で不死になるのかは解らないが、とにかく死なない身体になった。
だとしたら自分は?
自分はどうして死ぬ事も老いる事も無いのか?
今の外見は20歳の時と全く変らない。
ということは、少なくとも彼の時間は20歳の頃までは普通に…かどうかは別にしても、一応進んでいたのだ。
ならばそれ以降は? なぜ彼の時間はそれ以降止まってしまったのか?
「20歳くらいの頃、何か大きな事件があったとか…?」
「20歳くらいかぁ……よく憶えてないけど…多分特に無かったと………!?」
思い出した。
いや、思い出してしまった。
今から1200年ほど前になるだろうか。
彼は「あの」大聖堂にいた。
幼い頃、姉がまだ生きていた頃に一度だけ行った事のある大聖堂。
確か天井には鏡と鎖の絵が描かれていたはずだ。
その大聖堂には大きな鏡があった。
そこで彼は、有り得ないものを見た。
鏡に自分が映っている。
確かにその姿は自分自身のものだ。だが、通常の鏡に映った自分ではなかった。
彼は驚きの表情を浮かべた。
だが、鏡の中の「彼」はうっすらと微笑んでいる。
アル・アネクシオスの姿ではあったが、それはアル・アネクシオスではなかった。
鏡の中の「彼」の口がゆっくりと開いた。
そして、「彼」はこう言ったはずだ。
『やぁ、アル・アネクシオス。久しぶりだね』
確かに彼は「久しぶりだね」と言った。
久しぶり?
なぜだ? 自分自身に出会ったことなど、今まで一度も無い。普通はあってはならない事だ。
それが何故「久しぶり」なのだろう?
そう考えた。
「その…何故? の答えが……」
「答えが…?」
「彼は……確か…」
恐る恐る、アルが鏡に触れる。
冷たい。
冷たく、硬質な感触が指先にあった。
普通の鏡であるはずだ。しかし、なぜこの鏡の中にはもう一人アル・アネクシオスがいるのだろう?
『僕は君の…』
「君の………」
「君の…?」
「……ダメだ。思い出せないよ」
「………仕方ないですよ。1200年も前の話なんですから。…それにほら、何も考えてないときに限って思い出したりするって、よくあるじゃないですか。気楽に考えましょうよ」
「…そうだね。そうしようか」
鏡と鎖の壁画。
その絵にどんな意味が隠されているのかは分からない。
だが、その大聖堂はもう無いはずだ。
1200年もそのまま残っている建物など、そうそう滅多にあるものではない。あれば遺跡か史跡として有名になっているはずだ。
もうその大聖堂がどこにあったのかも憶えていない。
それでもいいはずだ。
もう、大聖堂が存在するはずはない。
「考えてもムダなことは考えない…ってコトにしようかな」
「そうですよ、その方がいいですよ」
「…ふぅっ、とりあえず何か食いにいこうか? ちょっと小腹が空いてきちゃった」
「あ、それなら一階のレストランにいきませんか? ケーキセットがおいしそうだったんですよ〜」
ふっと気が緩んだ。
こういう所など、シスや志乃と同じだ。
アルが何か張り詰めているときには必ずこうして和ませてくれる。
この笑顔に何度救われた事だろう。
「……そうだな、ケーキもたまには良いか」
アル・アネクシオスと小早川雪和は、二人並んでホテル一階のレストランへと向かった。

9

「おめでとうございます、男の子ですよ」
「おぉ! そうか!」
豊かな口髭を貯えた男が、実に嬉しそうな顔をする。
すぐにドアを開け、妻のもとへと歩み寄った。
「…よく頑張ってくれた」
「……えぇ…」
妻の顔は青ざめていた。難産だったのだ。
一時は母体の生命すら危ぶまれた。だが、何とかこうして無事に男の子を産み落とすことができた。
妻の顔には生気がなかった。
息も絶え絶えだ。今にも死んでしまいそうなくらい弱々しい。
「…医者を呼んでくれ。すぐにでも診察させる必要が有る」
「かしこまりました、旦那様」
その光景を、覗き込むように見ていた少女がいる。
「…お母様…?」
「リリス? まだ起きていたのか?」
「お母様、大丈夫?」
「…えぇ、大丈夫よ。ほら、あなたの弟が産まれたの」
その少女は静かに赤ん坊に歩み寄ると、そっと指を差し出した。
赤ん坊が小さな手でその指を握る。
「……かわいい」
「リリス、今日はもう遅い。そろそろ寝なさい」
「はい、お父様」
妻が青白い顔で夫を見上げる。
「この子を……」
顔には生気がない。
素人目にも、もう命が助からないことははっきりと解った。
「この子を…リリスをお願いします……」
「…わかった」
このとき、彼らはまだ知らなかった。
これがすべての悲劇の始まりだということを。
これが我が子に塗炭の苦しみを味あわせる結果につながる、ということを。
 
 
彼もまた、普通の子供と同じように両親の愛情をたっぷりと受けて育つはずだった。
だが、彼の母はもうこの世にはいない。
彼はこの先、母の顔を知らないまま生きて行く事になるだろう。
「ほらアル、抱っこしてあげるからおいで〜」
しかし、彼には姉がいた。
歳が離れた姉で、まるでアルの事を自分の子供のように可愛がっている。溺愛、といってもいいほどだ。
「よーしよし、いい子ね〜」
赤ん坊は姉の腕の中で楽しそうに笑っている。
母を知らない代わりに、姉のぬくもりとやわらかさ、それに優しさを受けて育っている。
まだアルは言葉を話す事は出来ない。
泣く事と笑う事でしか、感情を表現する事が出来ないようだ。
「リリス」
「…あっ、お父様」
父が部屋に入って来る。
ここ数ヶ月でずいぶん老けたような気がする。
「お体の具合は…?」
「あぁ。もう随分楽になった。それよりどうだ? アルは」
「……ほら、お父様よ」
リリスがそっとアルの顔を父に近づける。
にっこりと笑った。
どうやら目の前の人物が自分にとって身近な者である、ということは分かっているらしい。
アルの笑顔につられてか、父の表情も綻んできた。
「…すまんな、アルを任せきりで」
「いいえ。お父様もお忙しいんですもの。私にはこれくらいしか出来る事がありませんから」
「………この子は…どんな領主になるんだろうな」
「え? どうしましたお父様?」
「いや、何でもない。それじゃあ私は執務室に戻る」
「はい」
リリスもアルも、この先の自分達の運命など知るはずも無い。ただ、仲のよい姉弟として、こうして穏やかな時間を過ごしていた。
「アル〜、ほらほらおいで〜」
床にアルを座らせて、少し離れたところから名前を呼ぶ。
その声に反応して、嬉しそうな顔でリリスのもとへと這い寄る。
彼はもう知っていた。
姉のもとへ辿り着いたら、優しく抱いてもらえる事。
柔らかくて暖かい、日向の匂いがする胸元に抱き寄せてもらえる事を。

 
「ねぇアル、どんなに強い人でもね…一人じゃ生きて行けないの」
「ふーん……ぼくはだいじょうぶだよ。おねえちゃんがいるから」
「うふふっ、そうね」
城は朽ち果て、すでに彼らの居場所はこの場には無かった。
近隣の貴族から攻められ、彼らが住んでいた城はもう瓦礫の山と化している。
父も死んでしまった。
もう頼れるものも何も無い。
ただ、姉には生きるための術があった。祖母に教えてもらった錬金術だ。
彼女はそこらの砂を砂金に変える事が出来た。その技術を用いて、今までずっと旅をしながら生きてきたのだ。
「お姉ちゃんも……アルがいなかったら寂しいな」
アルはさっきからチーズを挟んだパンにかじりついている。
小さな宿に、もう何日ほど滞在しているだろうか。
「美味しい?」
「うんっ」
満面に笑みを浮かべて、本当に美味しそうに食べている。
リリスはこの表情が大好きだった。
無邪気で、本当に嬉しそうに笑うこの弟の笑顔が、彼女にとっては何にも代え難い宝物だ。
この宝物があるからこそ、「使徒」の迫害にも耐える事が出来る。
17歳の少女にはあまりにも重過ぎる荷かもしれない。
ただ砂金を作る事が出来る、というだけで魔女扱いされ、こうして逃亡のために流浪の生活を続ける。
とてもではないが、街に暮らす普通の、同年代の少女のように恋をするような余裕など無かった。
使徒の手から弟を守り、自分の身を守る。
ただひたすら、生きることだけで精一杯だった。
「おねえちゃん、たべないの?」
「え? う、うん。食べるわよ」
不思議そうな顔で、アルがパンを一つ差し出した。
チーズを挟んだだけの、あまり味気ないパン。
今食卓に並んでいるのは、このパンと豆のスープ。
いつごろまでこうして、アルと同じ食卓で食事をする事が出来るだろうか。
「ねぇアル」
「うん?」
「お姉ちゃんね、アルの事が大好きなの」
「ぼくもおねえちゃんのこと大好きだよー」
「…ありがとう。……誰かを好きになるって、すごくいい事なのよ。だから、たくさんの人を好きになりなさい。そうすればたくさんの人に好かれるようになるから」
「…ふーん…」
あとどれくらい、アルと一緒にいられるだろうか。
あとどれくらい、アルは自分の事を必要としてくれるだろうか。
あとどれくらい……
 
 
「おねえちゃん!」
ごほっ、と咳き込むと、床に大量の血で血溜りが出来た。
彼女の胸には大きな傷がある。
鋭い剣の切っ先は背中まで達していた。
アルの背後には、長剣を持った男が立っている。
姉の胸に剣を突き刺した張本人だ。
「おねえちゃん! しっかりして!!」
「ア…アル……」
口から血を吐きながら、無理矢理笑顔をつくる。
まるで、まだ少年とも言えない年頃の弟を心配させまいとするかのように。
「一人でも……大丈夫よね? お姉…ちゃんがいなくても……大丈夫よ…ね?」
「イヤだっ! おねえちゃん!! おねえちゃん!!」
「男の子…でしょ? 泣かないで…」
「だって…だっておねえちゃん!」
「…お姉ちゃんの…最後……の…お願い…聞いてくれる?」
「……」
アルはもう声を出す事すら出来ない。
ただ、リリスの手を握って肯くだけだ。
「……い…」
「…い?」
「………生きて…強く……生…」
「うんっ! つよくなる! つよくなるよ! だからしなないで!!」
リリスの表情が穏やかになる。
まだ小さい頃、優しく彼の事を抱いてくれたときのような、優しい笑顔だ。
だが、その優しい笑顔で、リリスがアルに語り掛ける事はもう無かった。
「…おねえちゃん……?」
呼吸は止まっていた。
彼女の罪は「怪しげな術で金を作り出し、人心を惑わした」事だった。
生きて行くために必要な技術。それを使った事が、『生きていた事』が彼女の罪であり、死の要因だった。
「おねえちゃん…おねえちゃん! おねえちゃん!!」
少年の絶叫は、不意に吹いてきた強風にかき消された。
まだこの少年は気付いていない。
この強風、熱風は自分が呼んだものだという事に。
「さぁて…このガキも殺しちまうか」
剣を構えた男が近づいてくる。
何故?
なぜ殺す必要があったのか?
少年の頭の中で、この男に対する憎悪がどんどん膨れ上がる。
この男に対する憎悪はやがて「この男を動かしたもの」への憎悪へと変って行く。
男の胸には十字架があった。その十字架には茨の冠をかぶり、脇腹を槍で刺された痩せた男の象がある。
これか。
これのために殺されたのか?
これは何だ? 一体なんだというのだ?
やがてそれは黒い塊になり、自分でも抑え切れないほど熱く、大きくなっていた。
そして、少年は初めて自分の力を全て解き放った。
 
 
「雪和ちゃん」
「はい?」
「俺ちょっと出かけてくるよ」
「え? どこにですか?」
「ほら、街でちょっと聞いたでしょ? 大聖堂だよ」
「…で、でも…もうこんな時間ですよ?」
「どうしても気になるんだ。今なら人もあんまりいないだろうからね」
「それなら私も行きます。一人で留守番は嫌ですよ」
「……そうだね。じゃあ一緒に行こうか。月見もかねて」
夜空にはきれいな満月が浮かんでいた。
お陰で道は明るく照らされ、迷う事も無かった。
「大聖堂って…どこにあるんでしょうね」
「さぁねぇ…ただ、大聖堂って言うからにはそれなりにでかい建物なんじゃないかな」
などと実にのんきな事をいいながらてくてく歩いていると、あからさまに「大聖堂」と書かれた案内板があった。どうやら道に迷わずに済むようだ。
月明かりは相変わらず冷たく辺りを照らしている。
吐く息が白い。さすがに夜になるとかなり冷え込むようだ。
辺りに人気は全く無い。
大聖堂に続く道だというのに、石畳の間から雑草が生え、あまり人が入り込まない場所だという事を物語っている。
「随分と寂れてるね」
「そうですね。キリスト教の人が多い割には…」
建物が見えた。
全体を蔦で覆われ、長年使われていないということがはっきり解るほど古びている。
そして、入り口のドアは破壊されていた。
「…どういうことだこりゃ……?」
「さ、さぁ…」
大聖堂の内部はほとんど何も無かった。
椅子も、神父が説教をする演壇も、懺悔の部屋も、それどころか壁と床以外、ほとんど何も無い。
ただ、奥の床一面にガラスか鏡の破片が散らばっていた。
「…大聖堂…なのかな?」
「どうなんでしょう…?」
ふと上を見上げる。
暗くて何も見えない。まだ暗闇に眼が慣れていないせいだろう。
「とりあえずは目が慣れるまであんまり動かない方がいいね」
「そうですね」
風が吹いていた。
そよ風というレベルのものだが、空気が動いている、という事ははっきりと感じ取れる。
目が慣れてきた。
足元の床が石で出来てる事が解った。
そして、視線を上に向ける。
「!!」
アルの動きが止まった。
雪和も、アルのこれほどの驚きの表情は初めて見たかもしれない。
上を見上げたままぶるぶると震えていた。
あきらかにうろたえている。動揺している。
「そ…そんな……そんな事が…」
天井には鏡と鎖の壁画があった。
鏡と鎖。
幼い頃の記憶のなかで、数少ない鮮明な記憶。
青白い炎に照らされた、鏡と鎖の壁画。
「ここが…?」
あの大聖堂だった。
ここが、幼い頃アルが殺されそうになった、あの大聖堂だ。
生れて初めて、自分の力を放った場所。
20歳の頃、もう一人の自分とであったあの場所。
それがこの大聖堂だった。
しかし何故?
殺されそうになった事など、今まで数え切れないほどある。
それがなぜこの場所だけが鮮明に記憶に残っているのか?
「ア…アルさん?」
この場所と自分は何かつながりがあるのか?
「あの記憶」が何か意味を持つのか?
「あの記憶……そうだ! 鏡だ!」
「え?」
「鏡だよ! ずっと昔、鏡の中に俺がいたんだ! あの鏡を探せば!」
「その鏡って……もしかしてあれ…」
雪和が指差したのは、粉々に砕け散った鏡の破片だ。
割られていた。
だが、比較的大きな破片を取り出して、中を覗き込む。
普通の鏡だった。
「…確かにここだったんだ! ここで俺は!」
「アルさん…アルさん、落ち着いて下さい。どうしたっていうんですか?」
「ここで俺は俺に会ったんだよ! 鏡の中の俺に!」
「…………」
「あいつは確かに俺に『僕は君の…』って言ったんだ! あれの先が聞きたい! 出てきてくれ!!」
だが、アルの声はむなしく反響するだけだった。
何も答えない。
ただ、風が吹きぬける音だけが聞こえていた。
「お前は俺の何なんだ!!」
何も答えは返ってこなかった。
だが、本能的に「この中に何かがいる」という事だけは解った。
その確信が事実に変るのに変った時間は、わずか2秒だ。
月明かりが差し込み、鏡の破片にあたる。
その光は鏡で反射して、壁に明るい光の塊をつくりだした。
その光の塊を見て、二人とも動きが止まった。
アル・アネクシオスがそこにいる。
鏡の中のアル・アネクシオスはゆっくりと顔を上げ、そして口を開いた。
『やぁ…久しぶりだね、アル』
にっこりと笑ったその表情は、いつものアル・アネクシオスが見せるものと全く同じ物だ。
『君が聞きたい事は全て解ってる。僕は君の何なのか、そして君は何故死なないのか…そうだね?』
「あ…あぁ。そうだ。答えてくれ」
『答えてもいい。だが、君は絶望する事になるかもしれない。それでもいいね?』
「あぁ。構わない」
鏡の中のアルは、鏡の中の世界の椅子に腰掛けて話し出した。
こちら側の世界には椅子はない。
という事は、こちら側と鏡の向こう側は全く別の世界という事になる。
『まず…僕は君の何なのか、から話そうか』
「あぁ」
『結論から言おう。僕は君の「命」だよ。産まれてくるときに身体の中に持っているべき「命」だ』
「…命……?」
『そう。どういう訳か……僕はこちらでは身体を持たずに産まれ、君はそちら側で命を持たずに産まれたんだ』
「ど…どういう事だ!? どうしてそんな事が!?」
『それは解らない。「何かの拍子に」ってものかもしれないし、何か意味があってのことかもしれない。だけど、その事は僕にも分からない。…これは僕の仮説なんだが…』
「仮説でも何でもいい! 聞かせてくれ!」
『こちら側の世界…まぁ君たちから見れば「鏡の中の世界」になるのかな。だけどこちら側から見ればそっち側が鏡の中の世界なんだ。だから僕は今鏡を覗きながら話してる』
鏡の中のアルは鏡の中の世界に住んでいた。
産まれたときから鏡の中の世界の住人だ。
本来はつながりの無い、リンクのない二つの世界。つまりは「鏡の向こう側の世界」と「こちら側の世界」は全く別の世界であるはずだった。
だが、そこで「つながり」をもつ者が出てしまった。
それがアル・アネクシオスだ。
彼らは本来一つの生命体としてこの世に産まれるはずだったのが、なぜか二つの世界に命と身体が別々に産まれてくる事になってしまった。
つまり、アル・アネクシオスは二つの世界に同時に存在しているようなものだ。
片方の世界のアル・アネクシオスを殺そうとしても、もう片方の世界のアル・アネクシオスを殺さない限り、彼は死ぬ事は無い。
なおかつ、彼は命と身体が独立してしまっている。
『だから僕らは死なないんだ』
「じゃあ…じゃあ歳を取らないのは?」
『それは解らない。君も知ってるだろう? 老化が遺伝子によるものだってのは。ある遺伝子の長さが、細胞分裂を繰り返すたびに短くなる。そうして遺伝子の正確なコピーが作れなくなり、やがて細胞が正常じゃ無くなる。それが老化だ。その事は知ってるだろう?』
「あぁ。聞いた事がある」
『恐らく…その遺伝子の長さが、僕らの場合は……いや、正確に言えば君の場合は短くならないんじゃないか? そうだとすると説明がつく。老化が起きないから、歳を取らないように見えるんだ』
「……なるほど……」
納得してしまう。
この説明なら、仮説の域を出ないが、今までのアル・アネクシオスに起きた現象、今起きている事を説明する事が出来る。
『ただし…』
「?」
『この世には科学や理屈では説明できない事だってたくさんある。僕らの存在がいい例だ。科学は万能じゃない、その事はよく憶えておく必要がある』
「…そうだな。確かにその通りだ。それで、単刀直入に聞くが、俺達が死ぬ方法はないのか?」
『無くなったよ。今日ね』
「……今日? 無くなった?」
悲しそうな眼でそう呟くと、鏡の中の彼もまた涙を流した。
同じ望みを持っていたのだろう。
だが、それが永遠にかなわないものになってしまった。
「どういう事だ?」
『今日…この鏡は割られたんだ。この魔鏡が「こちら側の世界」と「そちら側の世界」を結ぶ窓だったんだけどね』
「それが壊された…で、でもお前は現に今……」
『もうじき消える。今はかろうじてこの魔鏡に残された魔力を吐き出してるだけだ。以前は月の光を浴びれば、いつでも行き来できた。でも今はもう無理なんだ』
「…満月の夜なら……そっちに行けたのか…」
『満月の夜ならね。それから、この事は使徒騎士団は知らない。君から言わない限り、彼らは永遠に不死の謎を解けないだろうね』
不死の謎、という言葉にぴくっと反応した者がいる。
雪和だ。彼女はつい最近、人魚の肉を使って後天的に不死になった。
彼女はどうなのだろう。
「最後に一つ教えてくれ。この娘は後天的に不死になったんだ。この子は?」
『心配要らない。こっちにもいるよ』
鏡の中のアルが何か手招きしている。そして、その手招きに応じてやってきたのは…
「ゆ…雪和……ちゃん?」
「私が…向こうに?」
その雪和も、彼女の命が鏡の向こう側に行ってしまったものだという。
『今のところ、この世界の住人は僕ら二人を含めて9人だ。賑やかじゃないけど、それほど寂しくも無い。少なくとも僕らは、こっちでも二人で暮らしてるよ』
これで長年の謎が解けた。
彼が死なない理由、それは非常に単純なものだった。
彼は、自分の体内に命をもっていないのだ。
彼の命は鏡の向こう側にある。
誰の手も届かない。
誰も手出しは出来ない。
もちろん自分でさえも。だからこそ、彼らは死ぬ事が無い。「死ぬ」ということは「命を失う」ということなのだから。
『さて…そろそろ……終わりだな』
「もうひとつだけ教えてくれ。俺のこの力は…?」
アルのもう1つの疑問は、彼自身の力だ。
幼い頃から、彼は炎を操る事が出来た。特別に意識する事無く使えた力だが、考えてみればこれも不自然だ。
何も無いところに突然炎を出したりする事が、子供の頃からまるで自分の手を動かすかのような感覚で出来た。
自分の身を守るために身に付けたものだろう、という事は分かる。だが、原理が分からない。
『念力っぽいものだと思うよ。多分』
「念力? それがどうして火と関係が?」
『物の温度はその物質を構成する原子の固有振動で決まる。その振動の振幅の幅を大きくしたり、振動のスピードを速くしたら温度が変わるだろ?』
「……なるほど。その振動に力を加えるって訳か」
『そう。……僕の場合は、この力はこの大聖堂に近づく奴を追い払うために使ってたけど……結果的に命を奪うこともあったな』
鏡の中の表情が少し悲しそうに曇る。
彼もまた、命を奪う事に対して多少なりとも罪悪感を持っていたのだろう。
『さてと……そろそろお別れだな。もう二度と会う事はない』
「あぁ……」
『自分自身に対して言う台詞じゃないかもしれないけど…二人ともお幸せに。こっちは幸せだよ』
「……あぁ。ありがとう」
鏡の中の雪和がアルに寄り添ってにっこりと微笑む。それを見てこちら側の雪和も微笑む。
ふっと月明かりが雲に遮られ、鏡の中のアルは姿を消した。
魔鏡もただの鏡に姿を変える。
覗き込むと、見慣れた顔が見えた。
 
10

ホテルは燃えていた。
真っ赤な炎が建物全体を包み、火柱がかなりの高さまで上がっていた。
「な……何だよこれ…」
アルも呆然としていた。
村人総出で、ホテルに火を付けていた。
松明を投げ込み、ガソリンをかけ、まるで一刻も早くこのホテルを焼き払おうとしているかのようだった。
「何が起きたんだ…?」
人ごみが不意に動いた。
ざわめきが周囲へと広がって行く。
喧燥は静まり、次第に静けさが辺りを支配して行った。
人垣が割れて行く。
まるで、アルと雪和に道を譲るようだった。
だが、人々の視線は冷たく鋭い。
「なるほど…アンタか」
「なかなか悪運は強いようですな、ミスター・アル・アネクシオス」
黒服に黒い帽子、黒髭の男。
「最後の警告を無視したな。これが使徒騎士団の返事か?」
「その通りだ。やはり主は悪魔の存在をお許しにはならない」
悪魔、という言葉に人々がざわめく。
この村は敬謙なキリスト教徒が多い。悪魔である以上、すなわち彼らの敵ということになる。
「主の御名において!!」
ヨハンが叫んだ。
群集がじりっと歩み寄る。
「雪和ちゃん」
「…はいっ」
「これから雪和ちゃんはかなりショッキングな光景を見ることになる。それでも俺のそばにいてくれる?」
「…はい。何があっても」
「……ありがとう」
雪和の方を向いてやさしく微笑む。
だが、ヨハンのほうへ向き直ったとき、その表情は消えていた。
「最後に一つだけ、選択肢を与えてやる」
雪和をかばうように抱きかかえ、ヨハンに一歩近づいた。
群集がそれぞれ後退する。
「黙って道を開けるか、それとも全員死ぬか。好きなほうを選べ」
「お前に譲る道などない!」
「…そうか……」
一瞬だけ、哀しそうな目を見せたが、すぐにその色は消えた。
ホテルの炎はどんどんその勢いを増していく。
建物全体を飲み込んでなお、空まで到達しようかというほどの勢いだ。
さすがにそれが異常だ、と気づいたのはバートリーとルイスの二人だった。
「お…おい……」
「あ、あぁ…」
ただ単に確認をし合っただけだが、それでも十分意志の疎通は取れた。
炎は異常に大きくなっている。
やがて、その炎は渦を巻き始めた。
炎の渦はやがてその高さを加速度的に増し、ついに雲を貫いた。
空が真っ赤に染まる。
満月のやさしい銀色の光ではなく、まるで血のような真っ赤な光だ。
「邪魔するやつは誰であれ許さない。俺達はただ静かに暮らしたいだけだ。それを邪魔する奴は…」
炎は雨となって地上に降り注ぐ。
辺りが阿鼻叫喚の地獄絵図に変わるまでに、それほど時間はかからなかった。
「誰であれ……」
炎の渦はホテルから離れ、アル達がいる方向へとやってきた。
群集はすでに狂ったように逃げ場を求めている。
だが、逃げ場はなかった。
彼らは決して刃を向けてはならない存在に刃を向けてしまった。
後悔というものはいつも遅すぎるものなのだ。
業火が村を飲み込んだ。
炎の竜巻が暴れ狂い、周囲にあるものすべてを焼き払おうとしていた。
「ヨハン・ミュンヒハウゼン」
辛うじてヨハンに、アルが歩み寄る。
その表情には慈悲などという感情は微塵も宿っていない。
ただ氷のような冷たい表情。それに炎のような憎悪を宿した目がそこにある。
「お前はまだ殺さない。お前の神とやらがこの炎を消せるのなら消してもらおうか?」
「くっ…………」
煤にまみれた顔でアルを睨み付ける。
力に差がありすぎた。
群衆を扇動すれば何とかなる、そう考えていたのだが、それは甘い考えだったようだ。
「お前にはまだ役目がある」
砂利を踏みしめて、アルがヨハン・ミュンヒハウゼンに歩み寄った。
すでにヨハンの戦意はかけらほども残っていない。
「本部にもどれ。お前達の神は怒ってるかも知れんが、悪魔はそれ以上に腹を立ててる。それを伝えておけ」
「…………」
「次からは…もう警告はないぞ」
吐き捨てるようにそう宣告すると、雪和の手を引いて村のゲートをくぐった。
その先には、ルイスとバートリーの二人、そしてホテルの中年の女性がいまだに腰を抜かして座っている。
歩み寄ってくる二人の悪魔を見て、既に声も出ないほどおびえきっている。だが、目の前の残酷な悪魔の口から出た言葉は、意外なものだった。
「お騒がせしました。もうここには近寄りませんから」
そして、可愛らしい顔をした方の悪魔は、たどたどしい英語で、もっと意外な言葉を残したという。
「ごめんなさいおばさん、えーと…あの、チーズケーキ、美味しかったです。ごめんなさい」
まるでこの村を訪れたときのような穏やかな口調と表情でそういうと、この二人はゆったりとした歩調で歩き出した。
 
 
重厚な樫の木で出来たドアが軋んだ。
一人の老人が車椅子に乗って入ってくる。巨大なテーブルには対になるような椅子が並べられている。
それらの椅子には整然と黒い衣装に身を包んだ男達が座っている。
老人がドアから最も離れた上座に就く。
男達が一斉に立ちあがる。
「良い」
老人がそう言うと、またしても全員が一斉に椅子に腰を下ろす。
部屋には窓が多くあった。
窓の外には美しい山々や木々、緑の自然に囲まれた館だった。
一見したところ、別荘地に建てられたごく普通の洋館だ。だが、この館は世界中に多くの支部を持ち、千数百年もの歴史を持つ「使徒騎士団」の本部だ。
西洋のみならず、世界中の歴史を動かしてきた騎士団の大老の椅子。
そこに座るものは世界の歴史を動かす事が出来る。また、数十万人にも上るといわれる騎士団員を指先一つ、言葉一つで動かす事が出来る。実質的な「王」と言える。
「ヨハン」
大老が傍らにいた男の名を呼んだ。
一人の中年の男が緊張した面持ちが立ち上がる。額には脂汗とも冷や汗ともとれない汗が浮かんでいた。
「…失敗したそうだな?」
「は、はい……」
「まぁ仕方あるまい。我々は貴奴等の力を直に見た事が無かった。侮ってしまうのも無理はない」
大老の口調は穏やかだ。
部下の失敗を叱責するでもなく、ただ事実を事実として認識しているようだ。
「問題は……」
大老が樫のドアへ視線を移した。
まるでドアの向こう側まで見透かしているかのようだ。
「貴奴等がここへやって来ている、という事だ」
「何ですと!?」
騎士団員が一斉に色めき立つ。
不意にドアが開いた。
侍従らしき男がドアを開き、その向こうから若い男女が入ってくる。
騎士団員、特にヨハン・ミュンヒハウゼンの表情には見る見る憤怒という文字が浮かびあがりつつあった
「まぁそういきり立つなよ」
アル・アネクシオスが適当な席に就く。その隣には申し訳なさそうに雪和が腰を下ろす。
「悪魔よ、この聖地に何用か?」
「とりあえず、最後の警告にね」
大老よりも尊大に構え、堂々としている。
「俺達二人に手を出すな。手を出す奴は容赦しない。以上だ」
「もし出来ない、と言ったら?」
「一人残らず死んでもらう」
きっぱりと言い切って、大老側の返事を待つ。
だが、騎士団の返事は決まっていた。
彼らがアルの要求を飲むとは考えられない。無論、彼の予想は正しかった。
「返答は…言わずとも解ろう?」
大老の声を合図に、椅子に腰掛けていた騎士団員が同時に立ち上がる。
彼らの手には銀の拳銃があった。神の祝福を受け、悪魔を殺す事が出来る…と考えられている武器だ。
「雪和ちゃん」
だが、そんな武器を持った大勢の男達を目の当たりにしても、悪魔は全くたじろがない。
「目を閉じてなさい。俺がいいって言うまで開けちゃだめだよ」
「は、はいっ」
ぎゅっと力を入れて雪和が目を閉じる。
轟音。
冷気が全身を包んだ。
一瞬の轟音の後は、異常なほどの静けさが残る。
「さ、もう良いよ」
「え? もうですか?」
雪和が目を開くと、そこには氷の彫像となった数十人の男が立っている。各々の手には凍り付いた銀の拳銃が握られている。
だが、その引き金は永遠に引かれる事はない。
氷は永遠に解ける事はない。彼らが動き出す事は、永遠に無くなってしまった。
「ふぅ……」
凍り付いた椅子の背もたれに体重を預けて、天井を見上げる。
天井も凍っていた。
全てが凍っている。
「アルさん、これって…?」
「ん? あぁ、慣れない事したからちょっと疲れたけど、大丈夫」
「いえ、あの…そうじゃなくて……」
「…原子の運動を止めたんだ。だから凍ったんだよ」
「…………」
実にあっさりと言ってのける。
炎を操れるというよりも、物の温度を操る事が出来るからこそ、できる芸当だ。
「さぁ、もうここにはくる事も無い。出ようか?」
「はいっ」
館を出ると、そこにはいつもと変わらない美しい自然が広がっていた。
雪をかぶった山脈、そして緑の木々。
小鳥の囀りや葉擦れの音が、彼ら二人を出迎えてくれる。
「さてと、それじゃあロンドンに帰ろうか?」
「え? もう帰っちゃうんですか?」
「ん? もうちょっといる?」
「せっかく来たんですから、もうちょっとのんびりして行きたいです」
苦笑気味にアルが微笑んだ。
強い子だ。この子なら、永遠に生きる苦しみに耐える事が出来るかもしれない。
この娘と一緒なら、永遠に生きるのも良いかもしれない。
そんな事を考えているアルの顔を覗き込む雪和の表情も、穏やかに微笑んでいた。
 
エピローグ

アルは本を読んでいた。
イギリスに帰ってくるなり、毎日のように国立図書館にこもり、一日中本を読んでいる。
もちろん、雪和もそれに付き合っていた。もちろん彼女はアルの付き添い、という形でだが。
パラレルワールド仮説、というものがある。
今この時点、この瞬間にも、世界は分岐に満ちている。
今もしAという分岐を選んだとしよう。そしたら選ばれなかったBやC、果てはZの選択肢の先に続いていた世界はどうなるのか?
通常であれば、A以外の世界は消えてしまうはずだ。
だが、もしも消えていなかった場合は? その世界はどうなるのか?
これがパラレルワールド、多重世界仮説だ。
さらに、もしもこの多重な世界に相互接点があったらどうなるのか?
「あの時こうしていれば」の結果を見る事が出来るかもしれない。「あの時こうなっていたら、世界の歴史はこうなっていた」の正解を垣間見る事が出来るかもしれ無い。
だが、その接点は無いはずだった。存在しないはずだった。
魔鏡は、二つの世界を結ぶ窓だったのだ。
鎖でつるされた魔鏡。
あの大聖堂の壁画そのものだ。
あの壁画は、もしかしたらアル・アネクシオスの運命を暗示していたのかもしれない。
魔鏡によって不死の身体になり、不死という鎖でがんじがらめに縛りつけられた運命。
もう、長い間の望みはかなわないものだと解ってしまった。
だが、今はもうその望みは持っていない。
「アルさん、コーヒー買ってきました」
「あぁ。ありがとう」
隣に小柄な娘が座る。黒い髪に黒い瞳、それに白い肌の少女だ。
暖かい缶コーヒーを一つ手渡し、自分もプルトップの蓋を開けた。
缶の口から暖かい湯気が立ち上る。
「ごめんね、毎日付き合わせちゃってさ」
「いいえ。私も本読むの好きですから。でも英語の本ばっかりでちょっと時間かかっちゃいますね」
「あははっ、それもそうか。まぁすぐに慣れるよ。時間はたっぷりあるんだから」
「そうですね」
にっこりと笑って、窓から空を見上げる。
もう空は暗くなっていた。真っ黒い夜空に、月が浮かんでいる。
「今日も月がきれいですね」
「そうだね…」
満月だった。
優しい銀色の光が当たりを静かに照らし出している。
「花間一壷酒 独酌相親無 杯挙迎明月 影対成三人……」
「…どうしたんですか?

2004/04/30(Fri)22:29:26 公開 / 森田信乃
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