『空に飛び込もう T〜Z』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:藍                

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初めに―
今、彼女をふった。
美人で頭がよくて、気がきく、クラスでもリーダー的存在の実にいい子だった。
普段は絵に描いたように完璧で、正義感が強いのに、ちょっとドジなところもあって、たまに何かを失敗したり、つまづいて転びそうになったりするときなんかは、格別に可愛かった。みんなの前ではしっかり者なのに、僕の前では甘えんぼで、よく「ぎゅってして?」なんて言ってた―。

さっき僕が「別れよう」と言ったとたん、海華の瞳から涙がこぼれ、すぐに彼女は膝をつき、最後は地面に頭をつけて泣いていた。「いやぁ、駿、いやぁ」って何度も言われ、僕は一瞬彼女を抱き起こして、抱きしめてあげたい衝動に駆られた。
でも僕は何もしなかった。自分を抑え、言い聞かせた。その方がいいのだと。

そんな申し分のない彼女をふったのはなぜか。そこまでして何故ふったのか?
わかるかい?



それは僕が死ぬつもりだから。
何かつらいことがあったわけでもないし、いじめられてるわけでもない。
もう、やりたいこと全部した。
この世に、思い残すことは何もない。
どうせいつか死ぬのなら、美しい若いうちに死にたい。
そう思ったから。


僕の両親は、僕が3歳の時に自殺した。
あの日、僕らの人生が変わった日、二人は僕を祖母に預けて買い物にでかけるところだった。僕は二人に「いってらっしゃい」っといって、手を振り、父がアクセルを踏んだ、その時、女の子が飛び出してきたのだ。 その子は頭を打って即死。近所の僕と幼なじみの子で、その日も僕と遊ぼうと思ってきたようなのだが、僕はよく憶えていない。
ただ、ピンクの服を着た子が、紙人形のように空を舞っていたことだけは、眼に焼きついて、いまだに離れないでいる。
ここまででもかなり衝撃的ではあるが、幼い自分の子をおいて自殺するまでの原因にはならないだろう。 一番の原因はその子が、父の会社が融資を受けていた銀行の頭取の愛娘であったことだ。当時、父は中小企業ではあったけれど、福祉関係の会社を経営していて、それなりに儲かっていた。しかし、早くに妻を亡くし、娘も失った頭取はショックで自殺し、融資も当然ストップ。 マスコミにもだいぶ騒がれ、政治家だった母の父まででてきて、もう毎日家はめちゃくちゃな騒ぎだったらしい。 僕はしばらく父方の実家に連れて行かれ、しばらく母に会えなくていつも泣いていた。やっと母のいない生活になれたころのある日、祖母が出かけている間に両親がいきなりあらわれ、僕に泣いて謝った。何度も何度も謝られ、僕はどうしていいのかわからず、ただオロオロするだけしかできなかった。それが、二人と最後に会った日となった。 二人は睡眠薬を飲み、川に飛び込んだのだ。
そう、この川に―。

T話
僕の目の前には川が流れている。僕の両親が死んだ川だ。 海が近いせいでこの川は川のくせに潮の満ち引きに応じて、水かさがえらく増えたり、全くなくなったりする。
今は干潮らしく、水はなく、所々に大きな水たまりがある程度だ。
僕はこの川が見たくてこの町に来た。 父方の祖父母に育てられた僕は、去年までこの川を見たことが無かった。祖父母が見たがらなかったからだ。でも僕はどうしても見たくて、この町にある高校を受験したのだ。レベルが高かったけど、無理して頑張った。 この高校しか受けなかったので、受かった場合は、祖父母は嫌でも僕がこの学校に来るのを許さざるを得ないだろうと考えたのだ。しかし、コレは僕にとっても賭けだった。 受かるかどうか分からなかったから、落ちたら高校浪人だ。 でも、僕はどうしてもこの川が見たかった。どうしても―。
明日からはこの高校に入って二度目の夏休み。悲しんだ海華の顔を見たくなくて、今日という日を選んだ。
まっ昼間の太陽は、容赦なく僕の肌を焼き、また漆黒のアスファルトはむせかえるような熱気で僕の頭を侵しつつある。 僕はさっきコンビニで買った炭酸飲料をかばんから出し、ふと前を見た。 
―?!
少し先の、そう、ちょうど川にかかる橋の真中の手すりに、白いワンピースと言うか、ドレスを着た少女が裸足で立っているのだ。 手すりの下には白いサンダルが揃えてあり、今にも飛び降りんばかりだ。
僕は走った。上靴も、課題テキストも、折れないように抱えていたポスター用の画用紙も、全部投げ捨てて僕は走った。 
彼女を後から羽交い絞めにしたところまでは良かったが、勢いが良すぎて尻もちをつき、僕は背中まで撃ちつけ、みぞおちには少女の腰骨が刺さった。
彼女は「きゃぁ」とも「ひゃぁ」ともあらわせるような、独特の悲鳴をあげ、僕の上から飛び退いた。
「い、いきなり何するんです?!」
透き通るような、でも芯のある、鋭い声で彼女は叫んだ。
「君が、自殺なんかしようとするからだろ?!」
思わず僕も叫んでいた。
彼女はビクっとし、そのあと
「ちがいますっ。自殺なんかしようとしてません!」
と幾分落ち着いて、きっぱりと言った。
僕は予想外の言葉に一瞬混乱し、何かもごもご口を動かした。
自殺しようとしてなかったのなら、とんだかん違いだ。
「私、自殺なんかしようとしてません。」
彼女はまだ地面に座っている僕に合わせて、しゃがみこんで言った。
僕は少し恥ずかしそうにしている彼女の顔を、まじまじと眺めた。いや、眺めてしまった。
大きな眼に筋のとおった小さ目の鼻。同い年くらいだろうか…? 年上?
「…あの、心配かけてごめんなさい。紛らわしいことしちゃって…」
彼女は申し訳なさそうに、下を向いた。
「あ、いや、こっちこそ…」
「私、飛びこもうって思っただけなの。」
僕の言葉をさえぎって彼女が言った。
彼女の言っていることがよくわからない。
彼女が立ち上がったので、僕もあわてて立ち上がって後を追った。
「ねぇ、川に? 水ないケド?」
僕は無様にまぬけな質問をし、彼女を見た。
「ううん。違うの。川じゃなくて…」
彼女は手すりから身を乗り出すようにして遠くを眺めていた。
「じゃぁどこ?」
僕は首をかしげて彼女を見た。
しばらくして彼女はくるっと僕の方に向きを変えて、悪戯っぽくニタっと笑った。
そして、こう言った

「空!」


U話
変な人に関わってしまったのだろうか? 全然そんな風には見えないけど。 彼女はまだにたにた笑っている。 とりあえず僕は、さっき投げ捨てた荷物を拾うことにした。 上靴やテキストは無事だったが、よりによって画用紙に自転車のタイヤの跡が付いていた。 飲みかけだった炭酸飲料はしばらく開けたくはない感じ。 僕はあきらめて、画用紙を折り曲げた。
「駿君?」
振り返ると彼女が首をかしげて立っていた。
僕も首をかしげた。なんで僕の名前を知ってるんだろう?
そういえば、どこか出会ったような気もする…。 …いや、気のせいだ。こんな美人な子、見たことない。 僕が考え込んでいると、彼女はニタァと笑った。 僕は彼女の笑顔だけは可愛くないと思った。
「なんで私が、駿君の名前知ってるか知りたいんでしょ?」
彼女は高飛車に言った。僕は負けを認めるみたいだったから、頷かなかった。
「今日、髪の長い、可愛い彼女は?」
なんでこんなに詳しいんだろう? 彼女はしてやったりと言う顔をして、まるで子供が、母親を上手く騙したときみたいな顔になった。
僕が黙っていると、彼女が口を開いた。
「私、いつもあなたと彼女がいっしょに帰ってるとこ見てたの。気づかなかったでし ょ? あなたの彼女が、あなたのことを『駿』って呼ぶから名前も知ってんの。」
全然気づかなかった。彼女に見られていたなんて。こんな綺麗な子、絶対目立つのに。
「駿君の彼女、可愛い子よねぇ? 何て名前なの?」
僕は苛立ちを覚えた。なんでこの子に、しかもこのタイミングで、そんなことを聞かれなければならないのか。
「海華のことはきかないでくれ。今日別れたんだ。」
僕は投げやりに言って、立ち去ろうとした。
「ホント?! 私も美夏って名前なの。偶然ね。 でも別れちゃったんだぁ。…ふられたの?」
僕はホントにウンザリしてきた。『空に飛び込む』って言ったかと思えば、初対面なのに(こっちだけ?)なれなれしく名前を呼んできたり、人のこと根掘り葉掘り聞いてきて、まじでわけわかんねぇ。
「俺がふったんだよ!」
つい、強い口調で言ってしまった。ここ何年か、怒った事なかったのに。ましてや、女の子を怒りに任せて怒鳴ったのは初めてかもしれない。
「まぁ。 もったいない。」
彼女は全く動じていなかった。
「あなたみたいな自分勝手な人、初めて見たわ。 あんなにあなたのこと思ってくれてる彼女をふるなんて、一体どうゆうつもり? ねぇ駿君、私が駿君の名前を知ってて、彼女の名前を知らなかったの何故だかわかる?」
ぬけぬけとよく言ったものだ。どうゆうつもりかこっちが聞きたい。 僕は、おまえの方がよほど自己中だと言ってやりたかったが、ぐっとこらえて、
「さぁ」
っとだけ言った。
「それは、駿君が海華ちゃんのことを、私の前で一度も呼ばなかったからよ。 海華ちゃんは私が覚えるくらい、駿君の事呼んでたのに。」
彼女はすまして言った。 確かに、そうかもしれない。僕は海華のことを、大切にはしてなかったのかもしれない。いや、してないだろう。すこし、悪いことをしたかもしれない。なにか、もったいない気がする。海華のことを好きだってこと、もっと伝えるべきだったのかもしれない。 そう思うと、海華との時間を、もっと大切にしておけばよかったっという気持ちが、泉…というより、温泉の源泉が噴出したように僕の心を満たしていった。 目頭が熱くなる。何故だか、よくわからない。 僕が自殺したときに、海華のショックを少しでも軽減してやる、最善の策としてこの方法を選んだのだ。後悔は、していなかったはずだ。 泣くなんて、無様なまねはしたくない。 それより、涙の意味がわからない。僕は死ぬんだ。そう決めた。 両親の、変わり果てた水死体を見たとき、僕は「どうせ死ぬなら美しく死にたい」と思った。そして、無念のまま死んだ二人の二の舞にはなりたくない。自分の死に際は、自分で決めたい。誰かの運命に指図されたくない。そう、強く思った。
だから、一番幸せだと、一番楽しいと思ったとき死ぬことに決めた。 欲は持たない。もっと楽しいことがあるかも…、もっと幸せになれるかも…とは思わない。それは、破滅への道だから。 この夏休みの間に、僕の夢は実現する。後悔なんて、馬鹿々しい。幼少のころからの夢。 何て暗い夢なんだろう。そう、思うかもしれないが、この感情は、自分の愛するものが、唯一の支えが、膨らんで誰だかわからないような姿で目の前に転がされた、あの衝撃を受けた者にしかわからないと、僕は思う。
僕は、明日死のうと決意した。 海華に会いたくてどうしようもなくなってしまう前に死ぬ必要があった。僕の夢は、たった一人の女なんかに指図されてはならないのだ。
「みか…」
口から、自然に声が出た。 ビクっとして顔を上げると、そこに美夏の姿はなかった。


V話
結局のところ僕は死んでない。 でも海華に会いに行くようなマネはしてない。毎日海華のことを考えているのは事実だが。
今日は7月31日、ちょっと8月気分を味わうのもいいかなっとも思いはじめている。最期の8月になる予定だから。
あの日、美夏と出会った日に僕は気づいた。死に急ぐ子を止めるという、あたりまえのこと?が、僕にはまだできるということに。美夏が実際死ぬところではなかったというのは痛いところではあるケド。 そういえば―、美夏はなんで空に飛び込むなんて言ったんだろう?からかいか、ただの冗談か、なにか深い意味があるのだろうか? それとも―、ホントに死ぬつもりだったのだろうか? あぁ、また同じことを考えてる。 そこで僕はふと我に帰る。何度同じことを考えただろう? あの日から海華のことを想っては、それを忘れる為に違うことを考えようとする、すると自然に美夏の言葉が頭に浮かんで、気がついたら―クーラーを効かせた部屋でぼーっとしている自分に気づく。まだ生きている自分に。 
僕は戸惑っていた。馬鹿な自分に。死ぬ死ぬと、そればかり考えていたくせに、具体的なことを何一つ考えてなかった自分に。 遺書は書くか、書かないか、書くなら何を?祖父母に挨拶はする? 両親の墓参りは? そしてなにより僕は、どうやって死ぬかという基本的なことですら考えてなかった。 死=川と、無条件に思っていたけど、よく考えたら死に様がまったく美しくない。あの二人と同じになってしまう。 このマンションで飛び降りるもつぶれそうで嫌だ。 首吊りは失禁してしまうと聞いたことがあるし、失敗すると内臓が口から出るなんていうおぞましい噂も聞いたことがある。 とりあえず、具体的なことは何も知らないのだ。 テレビでは銃をこめかみに当ててドンッってのをよく見るが、銃なんてどこで手に入れるんだか…。 
僕の理想は、なんていうか、散りゆく桜のように儚げに死ぬってこと。 みんなが、僕のことを人という夢だったって思えるように、静かに死にたい。 なのに、その方法が思いつかない。もどかしくて、苦しくて、気が変になりそうだ。いや、もう変なのか? 僕は膝を抱えたまま、カーテンの隙間から見える空を眺めた。 入道雲の子供みたいなやつがたくさん、流れて行った。
「海華・・・」
海華に会いたかった。 後ろから、あの白い細い手が伸びてきて僕の首にそっと巻きついて、耳元で言って欲しかった。
「駿、こっち向いて? かまってよぉ。。」って。
僕は首だけ海華のほうへ向けて、彼女の唇をちょっと僕の唇で噛む。海華はきっと「きゃっ」とか「きゅっ」とかって奇声をあげる。
それから本格的に後ろを向いて彼女を抱きしめてキスをする。今度は声なんか出せないくらいの深いやつを―。
馬鹿みたいだ。妄想なんかしちゃって。 僕は本当は生きたいのだろうか?生きても、海華がもう自分のものじゃないから、死のうとしてるんだろうか? ふと、そんなことが頭をよぎった。 いやいや、そんなのは不本意だ。 じゃぁ、僕の本意って何なんだ?
僕は顔を上げた。
少し大きめの入道雲の子供が、カーテンの陰へ隠れていった。


W話
8月7日、今日は七夕祭りだ。あれっ?っと思う人もいるかもしれないが、僕の町では毎年この日に七夕祭りをする。 旧暦だと聞いたこともあるが、僕は夏休み中のほうが人が集まるし、準備や練習がしやすいからじゃないかと思っている。
僕はこの一週間死にかけのような生活をおくった。 外に一歩も出ず、空を眺めたり、携帯を分解したりして過ごした。 冷蔵庫の中はとっくに空っぽだ。最後の方二日間は水しか飲んでないという有り様だ。 でも、不思議なことに腹は減ってなかった。それに寝てないのに気分は悪くない。むしろ爽快に近くて、頭も冴えている。
死ぬ方法が決まったせいかもしれない。
一番シンプルで、自殺の王道。何故すぐ思いつかなかったんだろう?
手首を切る。
それが一番いい。『蒼白い手首に流れる緋色の鮮血』…カッコいいではないか。
目をつぶって想像する。 腕をつたうワインレッドの液体。絶対、綺麗なはず。そう思うとゾクゾクした。
きっとこのときの僕は、自分に酔っていた。死を想う自分に。

一週間ぶりに外に出た。死ぬ前にもう一度外を見るってのもいいと思った。七夕祭りっていう幻想的な感じが僕の外出欲?を掻きたてたというのも事実だ。 でもなにより僕には用があった。
ナイフを買いに行く。
僕はふと思い出したのだ。去年、祭りの屋台で、いやあれは露店と言うのか、ごついネックレスやリングと一緒にナイフを売っていた。 あのころはまだ海華とも付き合いはじめたばっかりで、二人ともどこかテレていた。海華は紺地に淡い薄紫の桔梗の柄が入っている浴衣を着ていた。高く結い上げた長い髪の下から見える白いうなじが、紺に映えて美しかったのをよく覚えている。 
刃物は家にもある。でも包丁や黒くさびたカッターナイフで死ぬってのも味がない。どうせなら、とびきり奮発して高いナイフを買おう。 だってもう金なんて使わないのだから。
外はたった一週間でも全く違った姿をしていた。いたるところにゆれる笹の葉と短冊。 大きな玉状の飾りが上からぶら下がってたりもして、かなり邪魔だ。 でも夕闇とあいまって、なかなか幻想的であることに僕は満足していた。 ちょうど、美夏と出会った橋の上を歩いてたときだ。
「駿!」
いきなり名前を呼ばれた。 ビックリしてふり返るとクラスメートの涼と、その彼女の花梨がいた。
「あぁ、ひさしぶり。」
僕は笑って答えた。
「駿、心配したぜ?何度メール送っても戻ってくるし、電話もつながらないしさ。」
涼は走り寄ってきて、全く困ったよって顔をして言った。 後から浴衣を着てるせいか、花梨がぎこちなく走って追って来る。
「あ、あのさ、携帯壊れたんだけど携帯ショップに行くのが暑くて面倒でさぁ。ごめんごめん。電話って、俺に何か用だったの?」
我ながら上手い嘘だと思った。僕の笑顔は崩れない。
「今からね、徳原と彩香を誘ってお祭り行くの。 ホントは駿君と海華も一緒に行けたらいいなって…。」
そう言って花梨は下を向いた。
「おまえさ、海華と別れたんだって?」
花梨の言葉の続きを代弁するように涼が言った。
「なんか、おばさんの話によると海華、飯も食わずに部屋から出てこねぇらしいぞ。 駿、一体どうしたんだよ?」
僕は動揺した。海華は強い人間だ。そう思っていた。 僕一人が彼女の生活に関与しなくなったくらいで、弱くなるなんてことは思ってなかった。 そりゃ泣くくらいはするだろう(してほしい?)けど、次の日には笑って、「新しい恋を見つけるわ!」って言う、そんな子だと思っていた。
幸い、彼女には新しい恋をするには十分な美貌や性格をもちあわせているし、慰めてくれる男や友達なんか、腐るほどいるはずだ。なのに―
―まじかよ?―
「なぁ、どうしたんだよ?」
涼が僕の顔を覗き込む。
「海華が悪いんじゃないんだ。ただ、僕らは合わなかったんだよ。 …いや、僕が悪いんだ。」
僕は、うわごとのように呟いた。このときの僕は奇異な存在だったと思う。 目の前に涼たちがいることはトウに考えていなかった。むしろ忘れていたんだ。別のことが頭を占領して、彼らの事を考える余裕なんて、僕の脳みそにはこれっぽっちも残っていなかったんだ。

僕は気がついたら家にいた。手にはしっかりと、重たい折畳式の銀のナイフが握られていた。 朦朧としながらも、ナイフはちゃんと買ったようだ。財布から、札が数枚なくなっていた。 家に着いた安堵と、記憶の混乱、そして空腹と寝不足でその日僕は、そのまま玄関で眠った。


X話
ざぁーっという雨の音で、僕は目を覚ました。ベッドから起き上がって時計を見ると、まだ朝の5時だった。 僕は肌寒さを感じ、何週間かぶりにクーラーを切り、そのかわりにこれまた何週間かぶりにテレビをつけてみた。ぱっと明るくなった画面にショートカットの賢そうな女が現れ、真剣な顔をして25歳の女性の遺体が…などと言っていた。 
僕はのそのそとベットから這い出て朝食づくりにとりかかった。 ここ数週間、僕はいくらかまともな生活をしている。食料の買出しにも行ったし、ベッドで寝るよう心がけている。 
そして、自殺の準備もはじめた。遺書は書くことに決めた。 祖父母や海華が的外れな責任を感じて苦しむのは、あまり後味がよくないと思ったからだ。 僕はできればみんなに、自分のことを忘れて欲しい…は言い過ぎかもしれないが、いい思い出くらいで、何年か後の同窓会で「そんなやつもいたなぁ…」くらいの存在、そのくらいのできごとに僕の自殺を位置付けたいのだ。 
まぁ、その一歩として昨日、便箋と封筒を買ってきた。ついでに万年筆も。何でそんなものを買ったかというと、誰かがぼくの形見として持つことになるかなと思ったのだ。 ならなかったら、それはそれでいいのだが。
「8月12日、火曜日のお天気は、朝のうちは昨晩からの雨が残るところがありますが、日中はくもり、夕方から晴れるでしょう。」
画面の見慣れた日本地図のひとかけらに、雲のマークがゆれていた。
12日…12日…? そうか、今日は登校日だ。 それにしても、七夕の晩からまだ一週間も経ってなかったとは。本当に驚きだ。すでに20日くらいにはなっているかと思っていたのに。
 登校日、行ってみようか?最後にもう一度制服を着るのも悪くない。最後にみんなの顔を見るのも悪くない。 じゃぁ海華は?会ってもいいのだろうか? 会ってしまったら、僕はもう止められないかもしれない。 涼は、食事をとってないって言っていた。きっとやせ細った海華なんかを見たら、僕は抱きしめずにはいられなくなる。きっと。 どうする?我慢できるだろうか? 我慢するくらいなら、いっそ会わない方がいい。その方が海華も傷つかないんじゃないだろうか? …でも、一目会いたい。死ぬ前に愛する人を見るくらい、バチは当たらないんじゃないかな…? 
そこで僕はフっと笑った。
どうせ自殺するんだからバチ当たり者か。
死ぬ前くらい、好きにしよう。成り行きに任せよう。海華とはクラスが違う。運が悪ければ(良いのか?)会えないかもしれない。 その時はその時。会うなってことなんだろうって諦めよう。 会えたらその時にどうするか考えよう。それほどの余裕があるかどうか怪しいけど。
チンッっとトースターの音がなった。

学校にはすっかり変わったみんなの姿があった。 日に焼けた子や、髪を染めた子、パーマをかけた子、「暑かったから」と坊主になってる子など、少し見ないうちに人って変わるんだなと、僕はそんなことを思った。
「おい駿、おまえ痩せたんじゃねぇ?」
ふり返ると、そこには日に焼けた徳原の姿があった。
「海華ちゃんの事が頭から離れなくて、拒食症にでもなったのか??」
徳原は白い歯を見せてニタっと笑った。
「まぁ、そんなトコ。 暑いし、夏バテかな?」
僕も笑った。 僕の笑顔はいつも完璧だ。
「チャイム鳴ったけど、先生こねぇな。」
徳原も笑い、そのあと話題を変えた。
「そうだね、何かあったのかな?」
ちょうど僕が答えた時だ。担任の金原先生があわてたようにダンボールを抱えて入ってきた。
「みんな、久しぶり。 ちょっと事件があってな、橋のトコが通行止めになったらしい。それで、校長先生と数人の先生方がまだ学校に着いてないんだ。だから、全校集会がまだできない。 先に夏休みの課題の解答をわたすぞ! 2学期までに丸付けと、課題テストの勉強をしておくこと。」
先生は早口で言うと、ダンボールから冊子を取り出し始めた。
「先生ぇ、事件ってなんなんですか?」
佐野が聞いた。
「先生もよくわからないんだ。 他のクラスにはまだ来てない生徒もいるようだしな。」
「私見たわよ。」
教室の真中辺りに座っていた澤田さんが声をあげ、みんな一斉にそっちを向いた。
「飛び降り自殺ですって。女の子が飛び降りたんだって。 私が学校にくる時はまだ救急車がついてなくて、おばさんたちが騒いでたもの。」
澤田さんはまっすぐ前を見て言った。 普段はおとなしい子なのに、いつになく声が大きい。いや、よくとおると言うべきか。
「私も見たわ。」
誰かも言った。
「まじかよ?自殺?」
教室が騒然となった。先生が静かにしろと声を上げた。
僕は立ち上がった。涼が呼び止めたようだったが、ふりはらった。 先生の驚いたような顔もちらっと視界に入ったが、もう回りの声さえ聞こえなかった。
美夏だ―。そう、思った。

でも僕は聞かなかった。聞くことができなかったんだ。
「その女の子、うちの制服着てたわ」
僕が出て行った後で、澤田さんがぽつんとと言ったのを。


Y話
僕は、とりあえず走った。どうしてかわからないケド、よく考えてみれば美夏とは一度会っただけで、深い関わりも無いんだけど、夢中だった。美夏が死ぬかもしれないと思ったら、本当に焦った。足がもつれるほど走った。 だから、橋の手前に美夏が立っていたとき本当にびっくりした。混乱したといった方が正しかったかもしれない。
「駿君!」
美夏が僕を呼び止めた。僕は何か言おうと口を開いたが、何も言えなかった。言う事が見つからなかったのだ。
「あなたが来るのを待ってたの。」
美夏は真剣な顔で言った。表情から深刻さがにじみ出ていた。
「落ち着いて聞いてね。」
僕はその顔に圧倒されて黙って頷いた。
美夏は目をつぶり、深呼吸をして、ゆっくり目を開いた。それから僕の目しっかりとを見てから口を開いた。

「飛び込んだのは海華ちゃんよ。」

僕には『みか』という言葉がすぐには『海華』につながらなかった。それくらい僕は、海華がこんなことをするとは思ってなかったのだ。
「あなたの彼女の海華ちゃんよ。 手首を切って、飛び降りたの。」
美夏が僕に言い聞かせるように言った。それでも僕は信じられなかった。何か夢を見ているようで、ぼんやりとしていた。 ちょうど夢が覚める直前に、『あぁ、これは夢なんだ。だからこんな事が起こるのか。』って思うときみたいな、夢と現実が混じっている世界を僕は体験していた。
「どいてください! 道をあけてください!!」
辺りがあわただしくなった。気が付くと、辺りには三十人近くの人がいて、あれやこれやと心配そうな顔を浮かべて話をしていた。 
こんなに人がいたんだ…。
対岸側から車輪付きのベッドが走ってくるのが見えた。 上には毛布でくるまれた人らしきモノが見えた。僕は吸い寄せられるようにベッドの方へ歩いた。野次馬たちは皆一様に橋の両側により、救急車とベッドの間には、『道』ができていた。
僕はその道を歩いた。何を考えていたのかわからない。ただ、その時僕は、それが自分のためにできた道のように感じていた。
 
三人もいた救急隊員の人が止められなかったくらいだから、僕はかなり俊敏な動きをしていたんだと思う。

僕は、ベッドの上の毛布を剥ぎ取った。

そこには蒼い顔をした海華の姿があった。唇も紫で、白い夏服のセーラー服は左の袖からおなかの辺りまで紅く染まっていた。 ワインレッドではなかった。どちらかと言うと、習字の丸つけをする朱色の墨のような色をしていた。それは僕の想像よりリアルで、鳥肌が立った。
隊員の人に突き飛ばされ、僕は尻餅をついた。 頭は真っ白だった。脳裏には海華の姿と、両親の姿、そして空を舞う少女の姿がランダムに映った。 それらは一瞬僕の頭を占拠し、また、その次の瞬間には全く姿を消して、次の画像が現れた。耳は聞こえなかったし、その時の僕に眼はなかった。

僕を置いていかないでくれ―。



僕は人がいなくなるまで、そこに座っていた。

Z話
「病院行こうよ」
静かに、僕の後ろで美夏が呟いた。
僕は入道雲を目で追いながら、海華が死んだ場合を想定して、悲劇のヒロインならぬヒーローを演じている真っ最中だった。
「ねぇ、駿君、病院・・・」
なおも美夏は僕に話し掛ける。
青い空はまさに夏で、響く蝉の声に僕は一瞬、自分を失いそうになる。
何故、こうなってしまったのか。
「駿君、病院行った方がいいよ。ここであれこれ考えてもはじまらない。でしょ?」
駄々をこねる子供をあやすような口調で、美夏はそういい、それからしゃがみこんで僕の顔を覗き込んだ。 
僕はあわてて顔をかばった。 泣き顔を見られたらやばいと、咄嗟に思ったのだ。
こんなときまでプライドと言うものは付きまとうのだ。

触れた指には、水分を感じなかった。

頬に手を当てる。 涙なんて全く流れてなかった。 止まったわけでもない。泣いた後のベタベタ感すら感じないのだ。

泣いてない―?

てっきり僕は、自分は泣いていると思っていた。正確に言えば、おかしなことだが、泣いていることを前提としていままで行動していた。 だって愛した人が死ぬかもしれないのだ。それも、浅はかな僕のせいで。 ショックで涙が出ないってやつか? 

次の瞬間、僕の口から笑みが、こぼれた。
もちろん嬉しかったわけではないし、楽しかったわけでもない。 どうしようもなかったのだ。狂ったってやつ。 
どうしようもないんだから泣いたって笑ったっておんなじだろ?
「駿君・・・」
美夏は今にも泣きそうな顔をしていた。眉間に皺をよせ、唇を噛んでいた。でも美夏は泣いていなかった。 きっと、僕より、何倍も強いのだろう。
「海華ちゃんに会いに行こう。今会わなかったらきっとあなたは後悔する。」
美夏の言葉は懇願に近かった。でも、まっすぐ僕を見ていた。
確かに、ここで入道雲と追いかけっこをしても何もはじまらない。 でも、僕が病院に行ったところで一体何ができるって言うんだ? きっと僕は何一つまともにできやしない。海華を助けられるのは僕ではなく医者だ。僕は邪魔者にしかなれないのだ。

「海華ちゃんが死んじゃったらどうするの?!」

ふいに、美夏が大声をあげた。目には涙が浮かんでいた。そこから発っせられる視線は僕をしっかり捕らえていて、僕は逃げようがなかった。ぼんやりと美夏の顔を眺めた状態で固まった。 美夏の視線は入道雲のように流れていかない。 やはり、美夏にはどこかで会ったことがあるように感じた。この目に、僕は見覚えがあった。 
記憶の糸をたぐる。 何を引き寄せても海華の顔が脳裏にちらつく。息をはく。気持ちをリセットしよう。

僕は父と母の死体を目の裏で具象化する。
何かに迷った時はいつもこうする。幼いころからの知恵だ。 死を身近に想うことで全てを止める。全ては儚いものなのだと、そのことを思い出す。
こうやって僕は今まであらゆる事を抑え、我慢し、そして忘れてきた。
忘れられない事象の元に全てをひきつけ、つぶしてきた。 いままで、そうやって生きてきた。
父の青い唇と浮腫んだ頬の傷の形。母のスーツのジャケットは脇の部分が裂けていて、張り付いた髪の毛の間からは不釣合いな赤い唇が覗いていた。
いまでもありありと浮かべられる二人の死体が僕の心を落ち着ける。
月夜の入り江のように、冷たい水と冷たい光が僕の心を満たす。
美夏の視線は変わらない。でも僕の心は変わった。
美夏の目をまっすぐ見つめ返す。
「病院に行こう。」


「海華、海華の病室はどこですか?」
受付の若い看護婦が顔をしかめる。
「名字は?」
整った綺麗な顔立ちから少しむっとした感じが伝わる。
「あの子じゃないかねぇ、朝運ばれてきた川に落っこっちゃった子だろう?」
ナースステーションの奥から眼鏡をかけたおばさんがゆっくり出てきた。さっきまでいた若い看護婦は逆にそそくさと奥へひっこんだ。 
「たぶん・・・」
僕はゆっくり頷いた。 おばさんの看護婦はゆっくり目を細めて僕の顔をじっと見た。 黒ぶちの眼鏡はなにか厳粛な感じがした。
「海華さんには、会えません。」
近くで見るとおばさん看護婦はおばあさんに近かった。 悲しいとも残念ともいえる表情が読み取れる一方で、おばさん看護婦の顔は初めから一向に変わってないようにも思えた。
「なんでですか?」
僕の頭に最悪の結果がよぎる。声にも自然と力がこもる。
海華が死んでしまったら…そう考えずにはいられなかった。 心臓は誰かに掴まれたように収縮し、息が苦しい。
「手術は成功してね、手首の傷もふさがったよ。 でもね、命に別状がないとはいいきれません。」
おばさん看護婦はまた眼鏡の奥の目を細めて僕を見た。僕の中で、ギリギリまで引き伸ばされていたゴムが一瞬緩んだ。
「今は?今海華は?」
僕は不安を拭い去るかのように間髪いれずにおばさん看護婦に迫った。
「坊や、そんなにあわてても仕方ないときは仕方ない。 時には時期ってものがある。 今は考えなさい。海華さんの心を。 海華さんは今眠っていますよ。意識が戻ってないんです。」
おばさん看護婦はゆっくり、諭すように言った。
「佐原海華さんは面会謝絶です。意識が戻っていませんし、危険な状態ではありませんが予断は許さない状況です。非常にデリケートな問題ですし、ご家族以外の面会はお断りしております。」
僕とおばさん看護婦の間に、さっきの若い看護婦の声が割って入った。 おばさん看護婦はにっこり笑って奥の方へ消え、若い看護婦はあからさまな目線で僕を追い払った。

今は考えなさい、か。

海華が何を考えていたかなんて、僕にはきっと見当もつかないよ。僕は待合室のソファに座って、おばさん看護婦の言葉を繰り返した。 海華は僕の中で完璧な子だった。 頭がよくて、可愛くて、しっかり者かと思えばドジで、そんなところがまた可愛くて、優しい両親と庭付き一戸建てに住んでいて、何不自由なく過ごしていたんだと、こんな事が起こるまでそう信じて疑わなかった。 シェリル・クロウとか言う外人の歌が好きで、カーペンターズを僕にしきりに勧めた。料理はできなかったけど、掃除は大好きで二ヶ月に一回は部屋の模様替えを開催していた。 寒がりで、夏でも長袖を着てたし、冬はよく僕の上着を貸したっけ。そいいえば化粧はしなかったな。 海華のことは次から次に思い出せる。
でもそれは、みんな外面的なことで、海華と少し仲が良くなれば誰だって知りえたことだろう。
っとなると僕はこの一年間、一体海華の何を知っていたんだろう?
ただ、一緒に帰って、映画を見たり、英語の予習を教えあったりして、たまにキスしてじゃれあう。
その繰り返し。
僕って、もしかしてたいした事してない?
じゃぁ、何で海華は自殺を?
僕みたいなどうでもいい奴がいなくなってくらいで、生活には何も支障はないだろう? なぁ、海華?

「駿君・・・」
突然名前を呼ばれ、びっくりしてふり返ると、そこには海華の両親が立っていた。 母親ははねた髪をむりやり大きなバレッタでとめ、花柄のブラウスに小さい水玉のフレアスカートをはいていた。
お世辞にも趣味がいいとはいえない格好に、僕は驚いた。 海華の母親はいつも家にいるときでもセンスのいい小洒落た服を着ているからだ。 父親はポロシャツにズボンと言う普通の格好だったが、いつも撫で付けられている薄い髪はあさってな方向に広がっていた。
「海華の意識が戻ったの。 会ってあげてくれないかしら。」
海華の母親は、涙目で僕に言った。

[話
病室は廊下のつきあたりの個室だった。 そういえば、海華の父親はどこかの会社の重役だと聞いたことがある。廊下が異様に長く感じられた。 心臓は激しく鳴り、喉にはマラソンの後のように薄い膜が張り付いていた。
母親が先にゆっくりと扉をあけ、僕を招き入れた。僕はかろうじで会釈をしたが、顔はこわばっていただろうし、足は震えていた。二人は僕に向かってうなずき、扉をまたゆっくり閉めた。バタンという音が、どこかの迷宮に取り残されたかわいそうなヒーローを思わせた。
白いカーテンの向こうには海華がいる。
そう思うと鳥肌がたった。 本当に、怖かった。 

でも―、海華の姿が見たい。

そんな想いとは裏腹に、頭には両親の死体が浮かんで離れないでいた。 僕はまだひきずっているんだ。あの衝撃が与えた『しびれ』を、まだ消し去れずにいるんだ。そう思うと、なにかくやしかった。
足が動かない。
足が震える。
前に、進めない。
「駿、いるんでしょ。」
カーテンの向こうから、僕をとりまいていた澱んだ空気をさっと吹き飛ばすような澄んだ声が、海華の声がした。
たった一ヶ月、その長さを思いしった。
海華の声が懐かしく、僕の心を震わせた。 海華に会いたかった。あの終業式の日にもどって、海華と楽しく夏休みを過ごせたらどんなによかっただろうと、そんな愚かしいことを考えた。
僕は目を閉じ、息を吸い、カーテンに手をかけ、そっとめくった。 目を開くと、隙間から海華と目が合った。
やさしくもない、鋭くもない、その視線は僕を不安にさせた。僕がその格好で固まっていると、海華はそっと目をそらし、天井を見つめた。 僕はそれを待っていたかのようにカーテンをくぐり、海華の姿を、海華の全身を見た。
小さな顔にふつりあいな酸素マスクが痛々しかった。
僕は何も言えず、ただ立っていた。
海華もただ天井を見つめていた。
僕の上にのしかかっている空気が、声を出すことも、動くことも、この静寂をやぶる全ての行為が禁止してるように感じた。 空気が皮膚にささり、喉には空気が張り付く。僕はどうしようもなく、本当にただ立っていることしかできなかった。
「駿―」
海華の声が静寂をやぶった。消し去ったといったほうがいいのかもしれない。 その声は今まで静寂なんかなかったかのように、完全に僕が感じていた空気をなくしてしまった。 いや、もしかしたら、そんな空気なんて初めからなかったのかもしれない。
海華は上を見たまま酸素マスクを少しずらして喋っていた。
「ねぇ、駿―」
僕は居たたまれなくなって、海華の口元から目をそらした。

「あたしのこと、嫌い?」

はっと顔を上げたとき、海華はまっすぐ僕を見ていた。
胸に圧縮した空気をドンッと当てられたような気がして、一瞬呼吸ができなかった。
海華の涙が枕を濡らす。
喉が熱い。
『そんなことない!』そう言って、海華を抱きしめたかった。
でも、体も、唇も、ぴくりとも動かなかった。
僕は、メデューサでも見たみたいにただ立っていることしかできなかった。立っているだけで精一杯だった。
どのくらいだろうか。
そのとき僕には永遠のように感じられた時間は実際には数秒だったと思う。
海華はぱっと目をそらし、また天井を見つめた。
僕は途方もない脱力感に襲われて、その場にガクンと膝をつき、ダラリと手を伸ばして、何もかも放り出したくなった。 全てをなかったことにしたい―都合のいいことだと分かっていたけど、そう思わずにはいられなかった。

「あたしね、駿には言ってないけど、捨て子なの。本当の両親に捨てられたの。」
唐突に、海華が話しはじめた。昨日見たテレビ番組について話すみたいな明るい声が、僕の鼓膜を震わす。
「小学4年までシセツで育ったの。それから、今の両親に拾われたってわけ。」
海華の声は本当にえらく明るかったけど、目は天井から動かなかった。
「別に苦労したわけじゃないのよ。 今の両親からは愛されてるし、他の子とかわらないように育ったの。」
そこで、海華は息を吐き出した。
「でも、でもね、これだけはやめられなかったの。」
そう言って、海華は袖をまくった。
手首に巻かれた真っ白い包帯の上に、無数の切り傷があった。
かさぶたのついたものや、肉がもりあがっているところ、赤い線のようになっているもの、本当に様々だった。
僕の口はカラカラに乾いてたし、まばたきもできなかった。
本当にグロテスクだったのに、目は傷跡を凝視してはなれなかった。後ろにレスラーみたいなのがいて、頭をがっちり押さえて、まぶたをこじ開けてる、そんな感じだ。
「小学校2年だったかな。ドラマを見たの。 きれいな女の人が手首を切って自殺するシーンを見たの。 そのときね、あぁ、こうやったら死ねるんだって、そう思ったの。」
海華の声はあいかわらず明るかった。
「それがきっかけだったのかな、リストカットって言うの?これをはじめたの。 初めはね、はさみで傷つけるくらいだったの。血も出ないくらい。 でもだんだん深く切らないと、切らないと…、はぁっ、快感って言うか、焦りがなくなるって言うか、そう言うものをね、感じなくなっていったの。それで、それでね…」
海華の息遣いはだんだん荒くなった。 明るい声の裏に、涙を隠しているのだろうか?
「ねぇ―、駿、はぁっ、私、駿に会ったとき、この人なら、はぁっ、駿なら、私のこと分かってくれるって、はぁっ、そう、思ったの。」
海華の目が僕を見つめる。 海華の息は荒く、言葉が途切れ、笑顔が苦痛にゆがむ。
「あたし、間違ってなかった。はぁっ…そう思うよ。」
海華が唾液をを飲み込む。 目が、まっすぐ僕を見る。
「あたし、あたしね、駿のこと、大好きよっ!」
最後の力を振り絞るみたいにして海華は言い、そのあと激しく咳き込んだ。
僕のメデューサの魔法が解けた。
「海華!」
僕は海華に駆け寄った。苦しそうな海華の顔が僕を混乱させる。
とりあえず、酸素マスクをつける。 それからナースコールの赤いボタンを連打する。
「海華!海華!」
僕の叫び声に海華が薄目を開けた。もう僕はためらわなかった。 先のことなんか考えてる暇はなかった。
「海華、大好きだから、愛してるから―」
僕の頬に涙がつたう。 海華がマスクの下でかすかに微笑む。海華の目からも涙がこぼれた。 
僕は海華の手を握り、必死に叫んだ。
海華は、笑って、本当に笑って、そっとうなづいた。

「佐原さーん、どうされましたー?」
二人の世界に、看護婦と医者が割り込む。
僕は扉の外に放り出され、祈ることしかできなかった


2004/06/27(Sun)03:55:45 公開 /
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