『もう二度と会えない君へ』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:瑞穂                

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「逃げられる内は、逃げてれば良いんだよ。せっかく逃げ道があるんだから」

君の言葉を思い出す。
もう二度と会えない君に縋って生きるのは、楽ではないけれど。
まだ、切り捨てて進むことはできないんだ。
もう少し、あと少し、君に縛られたまま。
絶望のどん底で膝を抱えていても良いですか?
 
 
 
「君と歩いたあの道を」 presented by mizuho tachibana.
 
 
 
「ねえ、ホントに大丈夫なの?」
節子は心配そうに裕也の顔を覗き込んだ。公園のベンチに腰掛けて、手元の本に視線を落としていた彼は、節子の言葉の意味を理解する為に少しだけの時間を要し、顔を上げた時には微笑んでいた。真冬の風が裕也の首元のマフラー揺らす。
「大丈夫だよ、あれから何年経ってると思ってんだよ? ……三年、もう大丈夫も何もないだろ」
「だってその本、沙織のでしょ。この間読んでたのもその前も、全部あの子の残していったモノじゃない。
ううん、沙織が死ぬまで裕也君本なんて読まなかったわ。あの子から離れられない証拠よ」
悲しそうに俯く節子を暫く眺めた後で、裕也は溜息を吐いた。
「確かに、沙織がいなくなってから時間を持てあましてるからな。本くらい読むようになるよ。で、沙織の遺品の中には凄い量の本があったんだから、拝借するのは別におかしいことでもないと思うんだけどな」
おどけた様子で肩をすくめてみせる裕也に、節子は黙るより他なかった。
あの日、沙織が亡くなったあの日から、目の前の少年は変わってしまった。変に大人びて、自分の心を他者に晒さなくなって。
それまでは怒ったり笑ったり騒がしいヤツだと思っていたのに。節子はあの頃の裕也が好きだったのだ。
不器用で優しくて、真っ直ぐで。沙織もきっと、彼のそんなところに惹かれたに違いない。
だと言うのに。

「結局逃げてるだけじゃない」

小さく呟いた言葉は誰の耳にも届かずに、12月の冷たい空気に混じって消えていった。



「…………はあ」
裕也は溜息を吐く。節子は用事があるからと帰っていったが、彼は3時間近く寒々しい公園の安っぽいベンチでハードカヴァーをめくっていたのだ。
吐き出された吐息も、当然白く濁ってはいなかった。
むき出しだった指先の感覚が麻痺していることに気付いて、苦笑する。
「……馬鹿馬鹿しい」

節子が言う言葉はいつだって正しいのだ。
少し気遣いが足りないような気もするが、基本的に裕也を心配してくれている。
酷くありがたいことではあるのだが、その事実が裕也を追い詰めることを、彼女は知らずにいるのだった。
言葉にしない優しさ。知らない振りをする思いやりも、確かに存在する。

そんなことも、彼は沙織から教わったのだ。
裕也が深く落ち込んでいる時、彼女はよく隣で何も言わずに本を読んだ。
丁度今、裕也が手にしている分厚いハードカヴァーのような。
静かに流れる時間が、少しづつ彼の気持ちをなだめてくれるまで。
まるで裕也なんてその場にいないかのように、ゆっくりと紙の上の文字を追った。
そうして彼が顔を上げる頃、思い出したように呟くのだ。

『逃げられる内は、逃げてれば良いんだよ。せっかく逃げ道があるんだから』

わだかまった自己嫌悪が緩やかに溶けていくのを感じる度に。
彼女の細やかな気遣いに抱き込まれる度に、裕也は沙織を愛しく思った。
日常生活に溢れる何気ない暖かさに、どれ程救われてきただろう。

忘れられる訳がない。
本当は、大丈夫でなんてありはしないのだ。

彼女の残した本を開いている間は、手の届かないところに行ってしまった沙織を近く感じることができた。
朽ちた心に、少しだけ暖かさを感じた。
手放せる、訳がない。

「俺、あとどのくらい逃げてられると思う? 沙織…………」
 
久し振りに呟いた愛しい人の名は、まるで見当はずれに掠れていた。



交通事故だった。

相手側の車の前方不注意だとも聞いた。
けれど、裕也にとって問題だったのは、そんなことではありはしない。
沙織の喪失。
それ以外のどんなことも、裕也の興味は引かなかった。
もう二度と会えない。それだけが彼の意識を占領し、次第に彼は沙織の面影に縋るようになっていったのだ。

手に持ったハードカヴァーに目を落とす。
もう一冊読み終えてしまった。毎日毎日、架空の物語を相手に睨めっこをしているのだ。
沙織の残した本はもう全て読み尽くしてしまったが、そうすると裕也は2度目のローテーションに入った。何度も何度も繰り返す無限ループ。
この本も、多分7回は読んだだろう。内容もラストもしっかり覚えている。
けれど、そんなことは問題ではないのだ。
物語の内容など、どうだって構わない。
重要なのは。

この本が沙織のものだということだ。
沙織が読んだ本を読むことが、裕也には重要だった。
 
 
 
キキィイィィィィイイィィ……ッ
 
 
 
唐突に響いた物質音に思考を引き裂かれて、裕也は顔を上げる。
車の急ブレーキの音だと認識するまで、少しかかった。
そういえばここは、車通りが多く事故が多発しているとこの辺りでは有名な小道だった。
車道ギリギリの場所を歩いていたと知って、裕也は驚く。
自分はそんなにも追い詰められていたのだろうか。
無意識のうちに、沙織に会いに行きたいと死を願っていたのだろうか。
 
「…………あ」
不意に、遠い昔の一コマが頭をよぎる。
 
 
 
『ほら。裕也は車道側』
沙織がそんなことを言いだしたのは、つきあい始めて3ヶ月程経った頃だっただろうか。
その日は雪が降っていて、並んだ足跡が酷くくすぐったかった。
訳がわからずに空返事をする裕也などお構いなしに、沙織は嬉しそうに笑ったっけ。
『私は彼女、裕也は彼氏。彼氏が彼女も守るのは当たり前。だから外』
私、こういうの憧れたんだ。馬鹿みたいに。
そう付け足した裕也の彼女は、変なところで子供っぽくて。
そんなところも可愛くて仕方がなかった。

沙織が居なくなってから、もう3年も経つというのに。

「ホント、馬鹿みてぇ……」
 
 
 
すり切れた本の表紙。

一人分の足跡。

隣の空白。
 
 
 
少しづつ、確実に。心は浸食されている。沙織のいない世界に。
 
 
 
君と過ごした優しい時間も、君からもらった尊い記憶も、いつの日か思い出となってこの胸に息づく時が来るのだろうか。
明けない夜はない。冬来たれば春遠からじ。どこかで聞いた言葉だっけ。
もしもそれが本当だとして。
いつかは凍える心に光が差すとして。
けれどそれは、きっとそれは…………霞む程に遠いだろう。

君と歩いたこの道で、止まらぬ涙の暖かさに嫌気がさした。
逃げ道なんて最初からありはしなかったのだ。けれど、もし許されるというのなら、もう少し、あと少し、君に縛られたまま。
 
 
 
絶望のどん底で膝を抱えていても良いですか?



2004/01/01(Thu)08:34:09 公開 / 瑞穂
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■作者からのメッセージ
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蹲って気が済むまで泣いたら、きっと思い出になってしまう。
だから、私は今日も無理して笑ってみせるのです。

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