『笑えない男』 ... ジャンル:未分類 未分類
作者:taku                

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「僕、ちゃんと笑えてますか?」
 ファインダー越しの私に、その男は訊ねた。
 私はこの街で20年以上写真屋の店主として何百もの人間をカメラに収めてきた。椅子に座った人間を前に、ライトとピントを微調整して、準備は良いかと訊ねて、了承を得たらシャッターを切る。ただそれだけの仕事。独創性もクソも無い、誰でも出来る仕事だ。そんな風に構えていた私は彼の一言に頭を殴られたような気になった。
 男は白い幕の前で、姿勢良く椅子に座っている。ネクタイもスーツもシワが無く清潔だが、高級なブランド品ではない。左手薬指の指輪も腕時計も新しいが安物だ。だが全体のセンスは悪くない。まだ若いだろうに服を着こなしていた。
 それほどの格好にも拘らず、彼はドクロの死神に取り憑かれてたような顔をしていた。だから「笑えているか」という質問に対する私の答えはノーだ。
「鏡持ってきますね」
 答えの代わりに私は大きな鏡を男に向けると、彼は苦笑した。やはりそこには顔を引きつらせた男が映っていたのだろう。
「笑っている写真じゃないと駄目なんですか?」
 客の要望に応えるのがプロだが、如何せん予定の時間を大幅にオーバーしている。そろそろ次の客が来る時間だ。
 ―――結婚写真を撮るおとめか、お前は。
 苛ついてきた私はそこまで笑顔に拘る理由を知りたかったが、男は「また来ます」と代金を置いて帰ってしまった。

 一週間後、男はまた店へやってきた。前より少し痩せた印象を受けた。
「僕が笑ってると思えたらシャッターを押してもらえませんか」
 彼の提案はこうだった。自分はできる限り楽しいことを思い出すから、笑った瞬間を撮影して欲しい。笑顔かどうかの判断は全て私に委ねる、と。
 聞いたこっちが笑ってしまう話だが、あまりにも真剣だったので私はその提案を承諾した。私もプロだ。客の笑顔くらい撮影できる。できないはずがない。

 その翌日、開店前から彼は私の店へとやってきた。
 そう、昨日も結局彼の笑顔を捉えることはできなかったのだ。こうなれば彼と私の戦いではなく、自分自身との戦いだ。
「前にテレビで言ってたんですけどね……」
 私は昨晩徹夜して書き溜めたネタを話した。お笑い番組の抜粋から始まり、失敗談の再現、子供の頃のバカ話などを彼に披露した。しまくった。
 彼は興味深そうに私の話を聞き、微笑を浮かべてはいたが、私はシャッターを切らなかった。この仕事だけは妥協したくなかったのだ。
「休憩しましょうか」
 そう言って奥へと引っ込んだ時、私にはもう彼の笑顔を撮る自信など米粒ほども残っていなかった。
 ―――やはり自分には才能なんて無いのか。
 若い頃感じた挫折をこの年になって再び味わうとは思わなかった。これでは夢を諦めて田舎に引っ込んだ意味が無い。
 自嘲気味に笑いながら私は机の写真を手に取った。学生の頃の作品で、タイトルは『君』。この写真はある程度有名な賞で入選し、私は一気に新進気鋭のカメラマンとして祭り上げられた。だが、私の人生の中で高い評価を受けたのはその写真だけ。まだ片想いの人であった妻が私に笑いかけている写真だけ。
「……そうか」
 彼の痩せた頬とまだ新しい指輪を思い出し、私は彼の元へ戻った。
 まだ手は残されていた。いや、私は何も手を打っていなかった。何も分かっていなかったのだ。
 イスに座ってコーヒーを飲んでいた男に、私は訊ねた。
「奥さんは貴方がここに来ていることをご存知ですか?」
 彼は首を振った。
「じゃあ今度は奥さんと一緒に来てくれませんか」

 三日後、彼は私の言った通り奥さんを連れてやってきた。凛とした表情が魅力的な奥さんは亭主をひっぱるしっかり者だろう。似合いの夫婦だ。
 撮影は快調に進んだ。彼女が手を握っただけで彼の表情は柔らかくなり、彼女が何か言うたびに彼の口元はほころんだ。何人何十人と誰がどう見てもそれは笑顔と表現するであろう表情だった。
 私は夢中でシャッターを切った。彼のためだけでなく、私が撮りたい被写体がそこにあったのだ。

 現像した写真を渡してからちょうど二ヶ月後。彼の通夜はしめやかに執り行われた。
 奥さんから電話で訃報を聞いた時には「やっぱりな」と思った。彼が重い病にかかっていることも、それをあの時まで奥さんが知らなかったことも私には何となく分かっていたからだ。
 通夜の参列客たちは皆口々に良い奴だった、まだ若かったのにと嘆いていた。そんな中、目を腫らした奥さんだけが黙って祭壇を見つめていた。私もそちらに視線を動かした。
 そこには彼の遺影が飾られていた。
 彼を取り巻く世界が幸福で満ち溢れているかのような笑顔。弱さも強さも全てさらけ出している無垢な笑顔。だがそれが妻に全てを告白し、手を握られている安心感から来た笑顔であることは我々以外誰も知らない。
 そして、もう一度夢を追いかけてみたくなった男がいることも、誰も知らない。

2003/12/21(Sun)15:03:26 公開 / taku
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