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『贈り物は痕』 ... ジャンル:ミステリ リアル・現代
作者:森野りんご
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あらすじ・作品紹介
朝起きるとなんだか違和感。狭いワンルームで何かが起きている。違和感のまま過ごす真。どうしてこうなった?なんでこうなる!ヒントはすべて部屋の中。
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酷い頭痛がする。お気に入りのアイドルの低音質な着メロが部屋に鳴り響いている。ゆっくりと暗闇の世界を切り開くように瞼を開けると、カーテンの隙間から薄く光が漏れている。今日はいい天気だな、なんてのんきなことを考えながら人肌に温まった布団の中で俺は身じろいだ。安っぽい音でサビを何度もむなしく繰り返す携帯に手を伸ばし、片手でアラームを止める。時刻は9時を少し過ぎていた。今日はいくら寝坊しても良いのだ。休日なのだから。待ち受け画面には不在着信の通知が何件か表示されていた。番号は二種類で昨日の夜と、今日の朝に十数件。うわあ、気持ち悪いなあ、と誰もいない部屋で呟いて、すぐにその二つを着信拒否にした。しかし一つは既に着信拒否が設定してあるようで、履歴を見ればその番号からの着信と入れ代わりにもう一つの番号から着信がきているようだった。最近こういう電話とかでの詐欺が流行していると聞いたことがある。電話に出るとすぐ「知り合いが事故にあった、金が……」とか携帯サイトの架空請求とか……なんかやばいところに個人情報を漏らしてしまったのかもしれない。俺はすぐに携帯の電源を切ってローテーブルに広げっぱなしの昨晩の残骸たちを片づけ始めた。
昨日は飲みすぎたな、なんて考えながらぬるま湯でグラスたちを洗っていく。慣れ親しんだワンルームの水場は狭くて、でも一人暮らしには十分すぎるスペースだ。洗い物を拭いて、洗濯機に布巾を放り込む。朝食としては少し遅いが今日はどうするか、冷蔵庫を開けると見覚えのない食材をいくつか発見した。あれ、こんなの買ったかな?そういえばこの前実家から仕送りしてもらったんだっけ、と部屋の隅にある段ボールを振り返る。そうだ、そうだ。確かめちゃくちゃ送ってきたから床下にある便利な収納庫と分けながら少しづつ使っていたんだ、とまだ寝ぼけていた頭を回転させ、さして古くもない記憶を掘り返す。そうだな、これだけあればしばらく野菜には困らない。母さん父さんに心の中で感謝しながら昼飯は肉野菜炒めに決定。結局朝飯は大して腹が減ってなかったからトーストと牛乳にした。
テレビを点けると芸能ニュースや最近起きた話題の事件について華やかなセットの中、華やかな格好をした芸能人やキャスター、コメンテーターが深刻そうな顔をして話していた。現実に起こったことなのに、それを伝えたり話題にしている人たちはまるで現実の世界とはかけ離れた世界の住人なんだなあ、とぼんやりと思った。トーストの最後の欠片を口に入れて牛乳で飲み込むと満腹になったのか、また少し視界がぼやけてきた。眠いのかな。やっぱり昨日飲みすぎたんだ、と鞄に手を伸ばして薬を規定された数だけ牛乳と一緒にのどに流し込む。そうして俺は特に面白くもないワイドショーを頬杖をつきながらしばらく眺めて、睡魔の誘惑のままに眠りについた。
聞こえる。怒鳴るような声が、遠くから俺を呼ぶ声が。声は隣で聞こえるような、下から聞こえるような、誰かに呼ばれている?けど……俺にはわからない、それが誰なのか。
目を覚ますと、胡坐をかいていたはずが横になってだらしなく寝ていた。二日酔いの頭痛だと思っていた痛みは頭をかくとたんこぶが出来ていたので驚いた。馬鹿だな、昨日酔っ払って暴れたのか。相当飲んだことは先ほど片づけた空き缶空き瓶の量で分かっていた。点けっぱなしになっていた薄型のテレビの右上に十三時を過ぎる時刻がご丁寧に表示してある。こんなに長く二度寝するなんてなんだか損した気分だ。しかしなぜ昨日はあんなにも飲んでいたのか、ヤケ酒をするようなことがあっただろうか……。だめだ、嫌なことは全部忘れてしまったのか。ありがとうアルコール、思い出せないだけじゃなくおまけにたんこぶもプレゼントしてくれるなんてな。自嘲気味に心の中で呟いて目覚まし代わりにシャワーを浴びることにする。脱いだ服を朝放り込んだ布巾たちと洗剤で一緒にして洗濯機のスイッチを入れる。ごうんごうんと動き出した洗濯機をしり目に俺は浴室へ。
体を石鹸でヌルついた自分の手が滑るのを眺めながら、ふと変なことに気づいた。浴槽に水が張ってある。そして、服を着ていたときには気づかなかったが左手の手首付近にも変な痕があるのだ。引っかかれたような、爪を食い込ませたような。さすがにこれには寒くもないのにぶるり、と背中に悪寒が走った。なんだこれ、なんだこれ。風呂場とトイレはホラーで定番だろ!と明るい時間なのに俺は少し背後が怖くなる。これが一人暮らしのつらいところなんだよなあ、なんかあっても誰もすぐに助けに来てくれない。一人暮らし始めたばっかりの時は金曜ロードショーとかで怖いもの見たさでついホラーとか見ちゃって白いシーツに頭まですっぽりかぶって朝を待った日もあった。まあ目を瞑ったらいつの間にか朝になったけど。しかし今回はちょっと違う。朝からこの狭いワンルームに俺は違和感を感じ続けている。まず、昨日の記憶がまったくないこと。これは本当に悪酔いしたならしようがないからいいとして、問題は謎の着信から始まるそして浴槽とこの手の傷。怖いけど、そうではないと思いたいけれど、これは誰かに掴まれたものではないだろうか。酔っ払っているとはいえ自分で自分の腕に傷がつくまで握るか?石鹸が赤い四つの爪痕に染み込み、ピリピリと痛みがはしる。数時間もしくは数十時間前には湯が張ってあったであろう浴槽には満タン近くまで水が張ってある。誰かが入った形跡はない、そして俺が浴槽に張った記憶もない。静かな水面は俺を歪んで映すだけで何も教えてはくれなかった。
バスルームから上がって洗濯を終えた洗濯機から衣類を取り出した俺は今度こそ悲鳴をあげた。洗濯機に、知らない洋服が入っているのだ。それは一着じゃなかった。念のためクローゼットをひっくり返すと十着以上の知らない洋服が出てきた。ああ、なんなんだ、なんの悪い冗談なんだ!今度はさすがに酔っていたの一言では済まされない。誰だ、誰か知らないやつが俺の部屋に出入りしているのか、それともどっきりなのか。出来れば後者であってほしいところだ。確かに大学の友人が部屋に出入りして何着か着替えを置いていくことはある。でもこんな服は知らない。まさか、勝手に俺がいない間に入ったのか?いや、常識的に考えてありえない。じゃあこれはなんだ!
濡れた髪からぽたり、フローリングの床に小さい水滴の水たまりが作られた。その時、ピンポーン、と玄関のインターホンの音がした。今の自分には心臓に悪すぎる。そしてぎくり、とした。今玄関のカギはかかっていただろうか。ただでさえ昨日は泥酔状態だったんだ、鍵なんてしめたかどうかももう曖昧だ。家に自分が居るときはいいか、なんてたまに思っていた自分を今は引きずり回してやりたい気分になる。ばくばく、と心臓の音が大きくなる。例えばこの違和感の存在を作り出しているのが俺の部屋にいつの間にか侵入していた不審者で、そいつが今扉の外で俺の反応を窺って楽しんでいるとしたら?返事をするか、するまいか。温まったはずの体はすっかり冷え切って身震いしてしまうほどなのに、心臓だけはいつもより早く、元気すぎるほどに体中に血を巡らせていた。
インターホンはそれから二回ほどなったが、しばらくして扉の向こうの人間は居留守に気づかなかったのかそのまま去って行った。俺は走って玄関まで行き、鍵が閉まっているのを確認して、ほっと胸を撫で下ろした。宅急便だとしたら、また来るだろうしとにかく今は人に会うのが怖い。しかし、このままこの家に居るのも恐ろしい。俺は朝から沈黙を貫いていた携帯の電源を入れた。
今度はもう声を上げなかった。携帯の電源を入れた瞬間に不在着信が二十件以上。今度はまた新しい番号で二、三種類からだ。もしかして相手は知り合いなのか?しかし、なんで別の番号からわざわざかけ直してくる?もしかしたら例の不審者かもしれない。俺の反応をどこからか見ていて、面白がっている……?新しい番号たちを着信拒否に登録しながら、俺は履歴の中でひとつだけ留守番電話に録音されたメッセージを見つけた。それは携帯の番号から一回だけかかってきている。……登録されていないけど、こいつは俺の知り合いなのかもしれない。詐欺だとしても録音を聴くくらいなら大丈夫だろう。とにかく友人であることを祈って、俺は通話ボタンを押した。
携帯を耳に当てるとプルルルルと無機質な音が響く。ものの数コールですぐに留守番電話サービスに繋がり、機械的な女の声で録音日時とメッセージを再生する旨を伝えられる。聞くと日付は今日の十三時すぎ、俺が風呂に入っている間だ。ピーという音の後に雑音と少しの沈黙を置いて、メッセージを残した相手がしゃべり始めた。
「……真くん? あの、ひさしぶり。真里花です。お母さんから連絡、もらったの。みんな心配してるよ、どこにいるの? ……メッセージ聞いたら、連絡ください」
ブツリ、とマリカの声が途切れるのと同時にまた無機質な女の声が聞こえたので俺は通話を切った。そして続けて携帯番号の方へ電話をかける。今度はさっきよりも長い時間コール音を聞いていたが、唐突にコール音が途絶えた。
「……もしもし、真くん?」
予想通りの相手の声にほっとしながら、俺は今の緊張と興奮状態のままで口早にしゃべりだす。
「マリカ! お前携帯変えたなら言えよ! 俺、知らない番号から着信いっぱいきてびっくりしたんだからな!」
「ごめん。留守電、聞いてくれたんだね。……久しぶり」
「うん! でも久しぶりってほどでもないだろ? 一昨日サークルで会ったじゃねえか、そのあとはお前バイトとか言って帰っちゃうし」
「……うん、そうだった。真くん今どこにいるの?」
なんだかマリカの声を聴いてほっとしたのか、緊張で変に冷え切った手先がだんだんとほぐれていくように感じた。お気に入りのブルーの布団に腰を下ろしながら会話を続ける。
「どこって、家だよ家。昨日飲みすぎたみたいなんだけどさあ、なんか朝から変なんだよ。そういえば、母さんから連絡ってなんだよ?」
「あ、それはあの、真くんにお母さんが電話したみたいなんだけど繋がらなくて……最近、実家帰ってないんでしょ? それで、心配したお母さんが真くんは最近どうかって……私に電話してきたの」
「あー、もしかしてあれ母さんだったのか! なんだよ、まじ知らない番号だから俺ビビっちゃって着信拒否にしちゃったよ。なんかめんどくさいことさせちまって悪いな、まりか。まあこれも彼女の役割だと思ってさ、はは」
「……ははっ、やだなあ、もう真くんったら」
たわいもない会話でさっきまでの疑心暗鬼な気持ちが風船のように萎んでいくのがわかる。なんだ、俺やっぱり酔っ払ってたんだ。酔うとろくなことがないな。さっきまで宅配便に怯えていたのがバカみたいだ。この電話が終わったら、母ちゃんに電話してやらなきゃな。考えながら笑っていると、マリカが少し息を整えるのが分かった。
「そういえば真くん……信幸、知ってる?」
「えっ」
「あ、知らないならいいの」
なんだか電話の向こうでマリカが緊張しているような気がした。信幸は俺の親友だ。大学からの付き合いだが、いいやつで一度は真里花をめぐってケンカしたこともある。いろいろあって今ではマリカは俺の彼女だが、今でも三人で遊んだり俺の家に泊まって飲み明かしたりする、俺とは切っても切れない関係だ。
「信幸? いや、ここ最近は泊りに来てねえけど」
「……そっか。ありがとう! 来週のサークルの集まり……信幸だけまだ出欠聞いて、なかったから。」
「おー、了解。今度会ったときにでも聞いとくな。それよりマリカ、今日暇?」
「えっ、あーちょっと微妙なんだよね。歯医者さん予約してて、その後だったら大丈夫だけど」
「じゃあ俺今日暇だからさ、久しぶりに飯でも行こう」
そういうとマリカは待たせるのも申し訳ないし、今日は俺の家に来ると言い電話を切った。マリカの手料理なんて久しぶりだ。二人でゆっくり周りを気にせず過ごせる。昨日飲みすぎたというのに、俺は懲りずに酒と足りなそうな食材を買い足しに出かけることにする。髪をいい感じにセットして出かける支度をする。適当にチョイスしたジャケットに携帯を突っ込み、電話を忘れていたことに気づいた。浮れるのもいいが着信拒否にまでして、いい加減母さんがかわいそうだ。でも、この四、五件の番号の中のどれが母さんの番号なんだろうか。どうやってこんなに沢山の番号からかけたんだよ。必死になった母さん恐るべし。まさに手段は選ばずといったところだろう。軽いヒステリックに近いものがあるなと思いつつ、とりあえず最初に着信拒否にした携帯番号にかけてみる。数コールも鳴らないうちに携帯はすぐにツーッツーッツーと無機質な音を繰り返した。
「電話中かよ」
これじゃあ留守電にメッセージも残せない。しょうがないから次の番号にかけようと試みるが画面の右端に表示された時刻はマリカがくる時間が迫っていることを告げていた。まあ、一応あっちの携帯には着信履歴に残っただろうし、大丈夫だろうとたかをくくって玄関の扉を開いた。
家からスーパーまでは十分近くかかる。坂道は女の人や子供にはキツイくらいで、夏に上れば坂を超えることには汗だくになってしまう。ビニール袋の中身は数本のアルコール入りの炭酸飲料とマリカの好きな赤ワインと固形のカレールーと豚のひき肉、そして夜のお供だ。これを買うのは久しぶりな気がする。しばらくしてないし、いつもマリカが用意してくれるから今日は俺が用意しよう。こんなものを買ったからか、久しぶりにレジで緊張してしまった。他人と話すって緊張するな、なんか周りの人の視線とか気になる。まるでコンビニで安いチューハイを初めて買った高校生の気分だ。見慣れたアパートが見えてきた。今までは信幸や友人のために郵便桶のダイヤルを回して、中に鍵を入れていたがこれからはこの方法は怖くて使えない。郵便桶のダイヤルを回して中から郵便物だけを取り出して俺は部屋に戻った。
それから三十分もしないうちにマリカは来た。なんだか少し大人びたように見えるマリカは可愛い花柄のワンピースに淡い色をしたカーディガンを着ていた。マリカの白い肌によく似合っている。短いワンピースの裾からすらりと伸びる足を思わず撫でたくなった。いや、飯の前にがっつこうとするなんて俺は中学生か、と自分に言い聞かせ水場に腕まくりをしながら向かうマリカの後姿を見つめる。こんなかわいい彼女がいるなんて、俺は幸せ者だ。あとはカレーを一緒に食べて、テレビでも見ながら談笑して、のんでつまみでも適当につまんで、風呂に入って、お楽しみを待つだけだ。そうこう考えているうちにキッチンからいい匂いがしてきた。
前述では狭いと記してあるこのワンルームでも、二人で狭すぎるというわけではない。むしろ少しゆとりがあるくらいだ。とは言っても特にこう感じるのはマリカが部屋にいるときだけである。男友達共が押し寄せると狭いわ暑苦しいわで大変だ。しかし自分の部屋にマリカと二人きりなんて長いことなかった気がする。いつも外出先とか、信幸がいるとか……。二人きりのワンルームで隣に座るマリカからカレーとは全く違う、いい匂いがする。なんだか気づかないうちにマリカはますます大人っぽく、かわいくなった気がする。酔いが回ってきているのだろうか、マリカに触りたくてたまらない。
「マリカ……」
いつもより少し赤いマリカの頬にそっと手を添えれば、マリカは驚いたように目を少し見開いて手に手を添えて俺の名前を呼んだ。ああこんなにも可愛い女が俺の手の中に居る。なんて幸せなんだ。マリカの額に優しく口づけるとくすぐったそうにして笑う。今度は触れていない方の頬に口づけると困ったように笑った。
「真くん……あの、その」
「マリカ、好きだよ」
言い終わるのと同時にマリカの唇にキスをした。マリカは体を固くして、ふれあっていた左手は少し震えていた。なんて初々しい反応だろうか。こんな愛らしい人は他にはいない。こういうところでも真里花は僕を魅了する。唇を離せば頬を先ほどよりも赤らませ花のように笑うマリカ。
「マリカ、マリカ、俺っ」
「ま、真くん……落ち着いっ」
うるさい唇は塞いで、マリカの肌に触れる。白い脚に指を這わせて左手は胸元へと手を伸ばす。最初はむずがるように体をねじるだけだったが、塞いだ唇から洩れる鼻にかかった息と俺の左手をぎゅうっと掴むマリカの右手が抵抗の色を見せているのに気付いた。抵抗は俺の指が動くたびに大きくなり、ついに舌先を噛まれることで俺はマリカの唇を離した。
「は、はあっ……まこ、とくんっ、待ってって、言おうと思ったのに……」
赤いマリカの顔はさっきみたいに笑ってなくて俺を非難するような顔をしていた。俺は口端に滲んだであろう血を右手で拭った。
「……ごめん、嫌だったのか?」
「……そ、そういう訳じゃないけど。……今日は出来ないから、そういう気分になって生殺しにするのかわいそうだなって」
なるほど。がっついた俺も悪いがせっかく二人きりでいい雰囲気だったのになんだかぶち壊しにされた気分だ。俺の心と比例するように舌先がジンジンと痛む。
「そうか、悪かった。今日は止めよう」
「ううん。私も噛んじゃってごめんね。今度しよう?あっ」
反省したように眉を下げて謝るマリカはやっぱりかわいい。マリカの視線を辿って俺の背後を振り返れば、その先は昼過ぎの持ち主不明の大量の洋服を詰め込んだ半透明のごみ袋だった。
「どうした? これに見覚えあるのか?」
「あ、えーっと……うん。これによく似た服を信幸が着てるの見たことあるなあって……」
「本当か?! あいつ、やっぱり勝手に置いていきやがったのかー。俺朝起きて知らないやつの洋服いっぱいあるからびっくりしちゃったんだよな。まったく、今度来たら説教してやる!」
大体、勝手にクローゼットに入れとくとか家主かよ!と一人でツッコミを入れるとマリカも眉を下げて笑った。数時間前まであんなに不気味だったこの部屋もマリカが一緒に居てくれるだけでこんなにも明るくなる。結局朝の不在着信は母さんだし、服は信幸のだしミステリーにしては陳腐でよく考えればわかることだったんだ。ああ、ビビっていたのがバカみたいだな。
「そういえば、お母さんには電話した?」
マリカの言葉で思い出した。そういえば母さんに電話はしたけどまだ声は聴けてないんだった。ハンガーにかかったジャケットから携帯を取り出すと切ってないはずの電源が切れている。そういえば全然充電してなかった。あたりを見回して充電器を探すが見つからない。コンセントに違う機種のコンセントは刺さってるけど俺の携帯は対応してない。
「誰だよ充電器忘れてったやつ!」
絶対今困ってるだろ、とマリカに言うとそうだね、と一緒にそこら辺を探してくれる。もしかしたら充電器を忘れていったバカが俺の充電器を持って帰ったのかもしれない。そうなったら絶対信幸だな、と俺は思った。信幸は残された充電器と同じメーカーの携帯を使っていたからだ。結局いくら探しても見つからないから今日は充電器を諦めて風呂に入ることにした。一緒に入ろうと提案したが、体調が体調だしマリカは後で入るというので寂しく一人風呂。バスルームでは水の張ったままの浴槽が静かに俺を迎えた。昼間は色んなことを考えていたから水を抜くのを忘れていたなあ、なんてのんきに考えながらシャワーの栓をひねった。温かい湯が頭から降ってくるのを感じながらボディーソープに手を伸ばした。
「いてっ」
シャワーの音がバシャバシャとうるさいバスルームでは、いくら響くといっても俺の声は扉の向こうまで響かなかっただろう。痛みの先を確認すれば左手の手首、昼間見た時よりも赤が増えていた。先ほどマリカにキスした時に、長い女らしい爪で握られたからだろう。小さい爪のあとがくっきりとのこっている。そしてその痕に沿うように右手で左腕を握った時、俺は心臓を掴まれたような気がした。
バタン、ガラガラという音と共にバスルームより少し温度の低い空気が侵入してきた。いきなりのことにびくりと肩を反応させて後ろを振り向けば、ドアの向こうに逃げ出した白い蒸気を浴びるようにたったマリカが居た。マリカは無言でうつむいて、震えていた。
「ど、どうした?」
「……ったの?」
「え?」
「っ信幸を、どうしたのよおっ!!!!」
そう叫ばれた瞬間、俺は息をのんだ。そして心臓は昼間よりももっと早く鳴っていたように思う。なぜなら、蒸気が流れできって、マリカの手に持たれた包丁がはっきりと見えたからだ。
「えっ、どういうことだよ……何の冗談だよマリカ!」
「とぼけないで!! 信幸はどうしたのよ?!」
うっすらマリカの目には涙が浮かんでいる。しかしそれ以上に目が、この状況を冗談やおふざけではないと伝えていた。しかし俺にはまるっきり覚えがない。信幸の服があったからってなんだっていうんだ。むしろ勝手に置いていかれて俺が迷惑しているっていうのに。
「信幸に、なにかあったのか……?」
「っ……」
質問には答えず今にも泣きそうな顔をして、マリカは俺に向かって包丁を振り上げだ。全裸じゃ刃に触れただけでも致命傷になるかもしれない。防ぎようもないからとっさに真里花の包丁を持った手を掴む。腕力なら負けないが、今のマリカはまともじゃない。半狂乱になりながら、声にならない声をあげて手を掴まれながらも必死に腕を振り回す。
「おいっやめ、やめろ! あぶないから!」
「いやあああああっ、はな、してええええっ」
マリカを傷つけないように抑え込もうとするが相手はもう正気じゃない。壁際に追い詰められ、必死に説得しようとする。何も聞こえてないマリカの爪が俺の顔を引っ掻いた。
「……」
ごぼごぼという水面を揺らす音はしばらくすると聞こえなくなった。とんでもなく胸が熱い。熱い血潮が薄い皮膚の下を物凄い勢いで流れているのを感じた。しかし俺の皮膚の表面は酷く冷えている。バスルームの床に転がった包丁は俺の肌を少し引っ掻いたが特に致命傷にならなくて本当に良かった。そして、
「マリカ……」
どうしてこんなことしたんだ、と問い掛けても返事はない。もう永遠に帰ってこない。身の危険を感じて無我夢中になった俺はマリカの包丁を払い落して、マリカの首を後ろから絞めるようにして満タンに近い冷たい浴槽の水に浸けた。マリカはしばらく抵抗していたが、徐々に俺の手を掴む力が抜けていき――
「ごめんな……」
バスルームに仰向けに寝かせたマリカの濡れた前髪を拭ってやる。その顔は青白く、表情はとても安らかとは言えなかった。どうしてこんなことしたんだ。マリカ、お前はどうして。悔やんでも悔やみきれない。でもあのまま半狂乱のマリカを説得するなんてこと、俺にはできただろうか。こうしなかったら俺が殺されていたかもしれない。ぞくり、と寒気がした。死んだマリカの隣でそれ以上シャワーを浴びる気にもなれず冷たい体のまま俺はバスルームを後にした。
先ほどまでマリカと座っていたテーブル付近には信幸宛ての郵便物がいくつも転がっていた。その中に見慣れた字の便箋を見つける。どうやらメモ書きのようだが、内容は意味不明だった。
『昼過ぎに窺ったのですがお留守だったようなので、書置きを残していきます。昨晩はご連絡ありがとうございました。せっかく情報を頂いたのですが残念ながらまだ息子は見つかっていません。もしかしてお宅にお邪魔しているのではないかとも思ったのですが……。信幸さんとは大学時代に息子と仲良くしてくださったそうで、本当にありがとうございました。そして、今回の件大変ご迷惑をおかけして申し訳ありません。また、息子についてご存知でしたら連絡を頂きたいです。信幸さんと連絡が取れず、マリカさんも心配なさっています。余計なお世話かもしれませんがこちらを見たら是非連絡を差し上げてください。 真の母 』
「なんだよっこれ……」
文面を見るに、失踪したのは俺でしかも失踪後に信幸と会っている。そしてマリカの口ぶりとこの文面の通りであるなら俺の母に連絡したあと信幸も失踪している。どういうことだ。現に俺はここに居るじゃないか。しかもここ最近俺は信幸と会っていない。何かがおかしい、おかしいぞ。大体この母さんからのメモ書きはいつ書かれたんだ。
わからない。しかしもう事件は起きてしまっている。マリカを俺は殺してしまった。マリカは最初俺の母さんから連絡がきたと言っていた。もしかしたら昨日の母さんの大量の電話で繋がらないから心配した故なのかもしれない。しかし一晩電話にでないくらいで失踪扱いするだろうか?一人暮らしの息子だというのに。そして……そうだ、マリカは信幸のことを俺に電話できいていた。あの時はサークルのことだと言っていたが、もしかしたらそれで信幸の失踪に気づいたのかもしれない。そして留守の信幸の家まで行って郵便物を見て勘違いして、これらを持ったまま俺の家に来た。
でも実際俺は失踪していないし、信幸とも会っていない。大体信幸は本当に失踪しているのか。それにこれだけのことで騒ぐ母さんもおかしいし、信幸が失踪したのに俺が関係し半狂乱になるマリカもまともじゃない。俺はつい十数分前に素肌に包丁を突き立てられそうになったのだ。……母さんとマリカ、そして信幸はもしかしてグルになって俺を異常者に仕立て上げようとしているのか。それとも何かの勘違いでこんな悲しいことになってしまったのか。出来れば後者であってほしい。このメモ書きが本当に俺の母さんのものだとしたら信幸と母さんが連絡をとったのはいつだ?事件はどうして始まったんだ?俺は確かにここにいるというのに。
その時、静かなワンルームに簡素なメロディが流れた。聞いたことのない明るいアイドルが歌うような曲だ。音の先を見やると先ほどまで食事をしていたローテーブルの上、マリカの携帯がチカチカと光を放ちながら震えていた。もう、この携帯の持ち主はいない。その現実が俺を言い知れぬ背徳感と絶望に突き落とした。
「あ、あ……、マリ、カ」
うろたえるしかできない俺は風呂場に行って今すぐマリカに起きてと言ってしまいそうだった。そんなことをしても意味がないのに。恐る恐る携帯を拾い上げ、表示された文字に俺は心臓を跳ねさせた。
『真くんのお母さん』
どくん、とはっきりと聞こえた。今一番聞きたいようで聞きたくない人の声だ。人を殺してしまった俺が、どう母さんと向き合えばいいんだ。もう失踪どころの話じゃない。母さんは俺が電話に出て驚くかな……。もうだめだ。
俺は汗の滲む手で携帯を握り、通話ボタンを押した。
「っもしもし! 真里花ちゃん?!」
「…………」
「大丈夫? 真とは会えた? ごめんなさい、あなたにこんな役目……真里花ちゃん?」
「…………」
「真里花ちゃん? 真里花ちゃん聞こえてる? ……もしかして、ま」
「母さん」
俺の声は震えていたと思う。俺はとんでもない勘違いをしているんじゃないだろうか。左手首がじくじくと痛む。
「ま、真? 真なの? あなた、真里花ちゃんは? 今どこにいるの?」
「……マリカは、寝てるよ。俺は自分の家」
「っ……あなた、家って――一人暮らしなんてしたことないでしょう?!」
手の先が酷く冷えていくのを感じた。寒くて、痛いなあ。耳から携帯を離し、画面の向こうの母さんを無視して玄関まで歩く。途中で半開きのバスルームのドアからマリカがこっちをみているような気がしたけど、俺は振り向かなかった。ガチャリ、重いワンルームのドアが開く。少し冷たい外気が部屋の中に流れていく。
「……ははっ」
俺は少し息を漏らして笑った。携帯の向こうでは少し機械的な母さんの叫ぶような、怒鳴るような声が聞こえた。あの時の真里花の声に似ているな、と少し思った。
「だよなあ、やっぱりそんな気はどっかでしてたんだ」
完璧に思い出したよ、と携帯を耳元に戻して俺は続けた。見慣れたワンルームの玄関、その左には汚い字で『白井信幸』と書いてあった。ネームプレートは薄汚れていて、大学のころから変わってない。
「母さん」
「真、あんたもしかして信幸くんのこと」
「ごめんね」
母さんが何を言おうとしていたのかはすぐに分かった。だから言いたいことだけ言って、切った。今頃母さんは本当に半狂乱だろうな。俺はすぐに携帯の電源を切らずに、母さんの携帯番号を着信拒否にした。ここにもすぐに警察がくるだろう。だけどその前にやらなくちゃいけないことがある。
ことの顛末はこうだ。
俺は昨晩ある場所から逃げ出して、母さんはそれに気づいた。俺は大学時代に仲の良かった信幸を訪ねる。でも信幸は俺を家に向かいいれるが裏切って母さんにこっそり連絡する。そしてそれに気づいた俺が信幸を殺害。不運なのは信幸を殺す前に信幸が真里花に連絡したことだった。次の日から信幸に連絡が取れないことを真里花は不安に思い、片っ端から俺の友人に連絡をとる母さんが真里花にたどり着くのは難しいことじゃなかった。そして、母さんは俺が自分の部屋、と思い込んでいた“信幸”のワンルームに昼間たどり着く。俺の知らないと思っていた服は本当に信幸のもので俺が見たことがないだけだった。
ああ時間がなくなってきた。俺は死者しかいないワンルームにまた足を踏み入れる。携帯を操作し、あるダイヤルに着信をかける。耳元でプルルルルルと機械的な音が響く。
そして俺は――
無人のワンルームにかすかに鳴るバイブレーション。玄関から一歩進むごとに音が大きくなる。廊下から部屋の隅にかけて段ボールが見えた。おかしくないのに笑えてくる。――冷蔵庫の見覚えのない食材、俺はいつ収納庫から出したんだ?特に昨晩は料理をした形跡もないのに酔っ払った状態で、何のために小分けに使っていた野菜たちを冷蔵庫に入れたりしたんだ――そうだよ。俺のためじゃない、信幸の母さんが信幸のために送ってくれた野菜を収納庫から出したのは俺だよ。そして代わりに空いたスペースには……。
機械的なヴーンヴーンという振動音は収納庫の天板の真下から聞こえた。真里花の携帯画面に表示された『白井信幸』という字。しばらく見ていると留守番電話サービスに繋がった。
「ごめんなあ、信幸」
「俺忘れてたんだよ、いろいろ」
「お前らが社会人になったことも」
「お前らが俺に内緒で付き合いだしてたことも」
「俺が真里花に振られてお前らと気まずくなったことも」
「そのころから俺の心はどんどん荒んでいったな」
「それでお前らが俺を訴えて――」
外で何台もの車の音が聞こえる。あれ?サイレンないんだ。そりゃそうだ、逃げられたら困るもんな。
「精神病院に隔離された、なんてことも」
俺は一瞬でも楽しかったよ、信幸と友達に戻れて。好きだった真里花と一瞬でも恋人になれて。全部全部嘘だったけど。
俺は自分の持ち出した鞄をひっくり返して病院から持ち出したありったけの薬を全部飲み干した。さようならお二人さん。次起きたら全部忘れてるか、思い出す必要もなくなるか、もしかしたら向こうでも惚気られるのかな。そうなったら、少し嫌……だな。
俺は冷たくなった真里花の手にキスをした。かわいい爪には俺の血が少し滲んでいる。体を横たえて目を瞑るとまだ左腕にまだじんわりとした痛み。これは忘れちゃっても残るといいな、親友だった二人の最期のお揃いの爪痕。
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2012/03/01(Thu)01:51:49 公開 / 森野りんご
■この作品の著作権は森野りんごさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
まずここまで読んでいただき、ありがとうございます。
森野りんごと申します。
初めての投稿で正直自分でも書いていてよく書いたなあと感じました。
楽しんでいただけましたでしょうか?伏線大好きですがうまく伝えられているかが非常に不安です。あからさますぎても嫌だし、伝わらないのも悲しいですね。
語り手が犯人だとどうしても本人に説明させる形になってしまうので(特にこの設定だと)、たぶんこの作品は読者さまの脳内補完にかなり頼る形の作品になってしまったと思います。
正直こんな落ちで気分を害した方がいらっしゃったらすみません。
でも語り手が犯人落ちは書いてみたかった設定でした。
ここまでの長さは初めてですが、創作を一応満足する形で書き上げることができてよかったです。
質問やわかんない、ここおかしくない?等、ありましたら教えていただけると嬉しいです。
感想ももちろんお待ちしております。
ここまで長々と本当にありがとうございました。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
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