『カメレオン(Vシリーズ短編)』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:みのる
あらすじ・作品紹介
小さな町の片隅にひっそりと存在する「珈琲喫茶カメレオン」。この店で働く慧士は、ふらりと野良猫のような気ままさで現れる一人の少年を、とても気に入っていた。彼こそが、このコーヒー専門店で紅茶をあつらえる、ただ一人の珍客である。慧士はある事柄をきっかけに、少年への興味と感謝を抱く。そのことを伝えられる日が、いつか来るのだろうか。
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カメレオンというのは、寂れた裏通りにひっそりと佇む飲食店の名前である。
正式名称は「珈琲喫茶カメレオン」。
慧士
(
さとし
)
の曾祖父が開業してから、半世紀以上も細々と営業を続けてきた零細喫茶店だ。
私鉄の最寄駅から、徒歩約十五分。ロータリーから住宅地へ伸びるメインストリートらしき道路から、さらに奥まった場所に位置する。初めての客は、きっと地図がなければ辿り着けないだろう。
もっともそれは無用の心配というもので、カメレオンに新規の客が訪れることは滅多にない。ほとんど常連客だけで成り立っているような、小さな店なのだ。規模だけの話ではなく、敷地面積自体もこじんまりしていて、厨房も客席も実に狭い。ついでに言うと駐車場もなく、客は徒歩か自転車でやってくるのだが、特に問題にはならない。
慧士は、自転車をこいでいる間に冷たくなった指先に湿った息を吹きかけ、小刻みにこすり合わせた。
真冬の自転車通勤はつらい。しかし、店の開店は午前十時からとゆとりがあるので、太陽が昇らないうちに死ぬ気で布団から這い出す、という苦行だけは避けられる。ちなみに、通勤時間はチャリ五分である。
慧士はこの店の経営者の孫で、年齢は二十四歳。四年制の文系大学に進学していたが、二十歳の時、両親が事故で他界したため、大学卒業と同時にカメレオンを継ぐことを決めた。実務経験は二年程度の若造だが、幼いころから店に出入りしてあれこれ手伝いをしていたためか、常連さんにも可愛がってもらい、どうにかこうにか奮闘中の身である。顔立ちは、親戚一同から満場一致で「母親似」と断定される女顔。身長はそこそこあるのに、細身のせいか実際より高く見積もられがちである。明るい色合いに染めた髪は冗談半分で伸ばし始めたのだが、あるとき叔父に「お前、そうしていると本当に母さんにそっくりだなぁ」としみじみ泣かれて以来、切るに切れなくなってしまった。飲食店勤務であることを考え、不潔な印象を与えないよう、首の後ろでひとつに束ねているのだが、常連の奥様方には評判である。当の慧士自身は、いささか後悔めいた気持ちを抱いているのだが……。
いつも通り、開店時間の一時間前に職場に到着した慧士は、てきぱきと準備に取り掛かる。
慧士と、経営者である祖父の
慧一朗
(
けいいちろう
)
。このたった二人がカメレオンの店員であるわけだが、慧一朗は孫が店を継ぐ決意をしたことをいたく喜び、経理以外のほぼすべてを慧士に任せている。最低限のノウハウは教えるが、あとは好きなようにやればいい、というスタンスである。平たく言えば、面倒な作業を孫に押し付けているという次第で――従って、開店準備は慧士が独りですべてこなさなくてはならない。
忙しなく動き回っていると、タイマーが開店時刻を知らせた。
慌てて入口の鍵を開け、ドアノブにかかった札を「営業中」へと裏返す。
古風な木製の扉は、若い慧士の視点からはうらぶれたように感じるのだが、常連客からは「情緒があってまことにに結構」とのお言葉をいただいている。ところどころ錆びついた看板も同じく。初代店主である曾祖父が存命のころから変わっていないはずなので、オンボロなのは致し方のないことかもしれない。
(ま、リフォームできるほど、うちが儲かってるとは思えないしなぁ)
経理に携わっていない慧士には、実際の損益など分らない。しかし、カメレオンに行列が出来ている場面を見たことがない。要するに、そういうことだ。
(ちゃんと毎月給料がもらえてるんだから、それでいいことにしよう)
苦笑いを浮かべながら店舗前の清掃をしていると、祖父の慧一朗がようやく姿を現した。
「おはよう、ケイシ。今日もしゃんと働いとるかの」
「おはよう。じいちゃんがアテにならないから、このとおり俺がばっちり働いてるんじゃないか。それより、俺の名前は『サトシ』だよ。ねぇ、週に一度はこのやりとりしてない? まだボケないでくれよ、じいちゃん」
そんな慧士の苦情を聞いているのかいないのか、「どれ、今日の一面は何かの」と呟きながら、ポストの朝刊を取り出して店に入る慧一朗。
慧士もそれ以上の文句は言わず、手早く掃除道具を片付けて、暖房の効いて暖まった店内に戻った。
客の入りが少ない。
それはいつものことなのだが、朝一番のモーニングタイムは、一日で一番混み合う時間帯のはずである。 それが、今日はどうしたことか。
先ほど、常連のひとりが会計を済ませて出て行ったが、開店から一時間以上経過しているというのに、レジ横に置かれた伝票は、その客の分の一枚だけ。
慧士が首を傾げていると、視界の端でチョイチョイと、慧一朗が手招きをしているのが映る。
前掛けで手を拭きながら近寄ると、目の前にひょいと、一枚のチラシが差し出された。どうやら、朝刊に挟まっていたものらしい。
慧一朗は、老眼鏡を微妙に前後させながら言う。
「そっちのほうに、お客が流れとるんかもしれんのぅ」
チラシに視線を落とすと、「凄腕パティシエの作るかわいいケーキを食べながらお茶しよう♪ カフェ『flower』オープン!」の文字が飛び込んできた。
「へぇ、駅前に新しいお店ができたんだ」
紙面に印刷された店舗の外装は、いかにも近代的で、開放された雰囲気を持っていた。さらに詳しく読んでいくと、今日から三日間はオープン価格で、すべてのメニューが三割引きなのだとか。
「こりゃ、しばらく暇になりそうだね。いやいや、しばらくならいいけどさ、このままずーっと暇だったらどうしよ。じいちゃん、うちの店、やばくないの?」
すると慧一朗は「ふんっ」と鼻を鳴らし、
「お前さんみたいなひよっこが、経営の心配なんぞせんでよろしい。まずは、己の技術を磨く事じゃ」
と、お決まりの説教を垂れた。
幼いころから、何度も聞かされてきた台詞である。慧士はひょいと肩を竦めると、
「はいはい、分ってますよ。いつかじいちゃんを超えるコーヒーを、淹れられるようになってみせるってば」
軽く受け流して、カウンター内へ戻った。
「それよりもさ。モーニングに合わせて、豆をローストしちゃってるんだよね。俺たちで飲んじゃおうか? このままだとあんまりお客さん来そうにないし、もったいないもんね」
「そうじゃの。ま、お前さんの修行の成果を見せてもらうとしようか」
慧一朗は、そう言ってにっかりと笑った。
つられて慧士も笑い、今朝ローストしたばかりの豆を挽き始める。
カメレオンでは自家焙煎のコーヒーを提供しているので、効率を考えて、自動焙煎機を導入している。「コーヒーの味は八割焙煎で決まる」と言われるほど大切な工程を、安定した全自動でこなしてくれる、実に便利な代物である。
しかし、豆を挽くのは手動ミルの仕事だ。一回、また一回と挽くごとに、香ばしいコーヒーの香りが深まる。これはもう、効率ではなく趣の世界である。
沸騰した湯をケトルに移し替え、ドリッパーにセットした細挽き豆に、細く繊細に湯を注ぐ。まるでまんじゅうのようにふっくらと膨らむ豆の様子を楽しみながら、じっくり四投を終え、サーバーからカップへ注ぎ分けた。
「はい、じいちゃん。カメレオン自慢のグアテマラブレンドだよ」
コーヒーを差し出すと、慧一朗は老眼鏡を外し、
「うむ。ま、香りだけは一人前じゃがのぅ」
と憎まれ口を叩きながら、それでも美味そうに一口目を含んだ。
慧士も祖父に倣い、グアテマラ独特の甘みと苦みを堪能した。
時計の秒針が刻む、静かな時間。ゆっくり丁寧に淹れたコーヒーを、じっくりと味わう。喫茶店に勤めて良かった、と慧士が贅沢に思う時間だ。
ときおり自動車の走り抜ける音を遠くに聞きながら、この機会に道具の手入れをやろうと戸棚を開き、普段使わない食器や古い道具などを、カウンターの上に並べていく。
そんな孫の様子を、朝刊をめくりながら横目で観察していた慧一朗が、あるものに目を留め「そういや、最近あの坊主はどうしとるんかのぅ」と呟く。
慧一朗が視線で示したのは、丸い陶器のティーポットだ。周りには、同じシリーズのティーカップとソーサー、ミルクピッチャーなども置かれている。白地に清楚な青い花を散らし、金縁を施したティーセットは、慧士がバザーで見つけてきたお気に入りだが、自分のために収集したものではない。
この「珈琲喫茶カメレオン」には、たった一人、紅茶を注文する客がいるのだ。
祖父の言う「あの坊主」が誰のことかすぐに察した慧士は、
「おととい来たよ。その一週間ほど前にも。どっちのときも、じいちゃん出かけてていなかったから」
と答えた。
「ほっほ。そりゃあ良かった。どうにも、姿を見んことにゃ落ち着かんでの」
慧一朗は満足げに頷き、コーヒーを含む。
話題のその人物こそ、コーヒー専門店で紅茶を注文する、一風変わった客である。
(お客っていうか、野良猫みたいなもんか。代金は払ったり、払わなかったりするしな)
慧士は彼の名前を知らなかったから、シンプルに「少年」と呼んでいる。
いつも学ランを着て、おもしろくなさそうな顔でトボトボやって来る彼のためだけに、ティーセットを揃えて待っているのだ。
やわらかな布でそれらをそっと拭いながら、慧士は、少年に初めて出会った夜のことを思い出していた。
* * *
あれは年の瀬だった。
夜七時、定時に店を閉めた慧士は、数日分の売上である現金をバックパックに入れて背負い、駅前に向かって自転車を飛ばしていた。
本来なら、売上は週に三度、取引先の信用金庫が集金に来てくれている。そのやりとりは慧一朗と渉外担当職員の間で行われ、慧士は一切タッチしない。
ところが、その慧一朗が風邪をひいて寝込んでしまった。慧士はさっぱり要領が分からず、困り果てて慧一朗に相談したのだが、「お前は、そんなことは知らんでいい」の一点張り。
仕方なく信用金庫の集金を断り店舗で現金を管理していたのだが、定休日を翌日に控えた水曜日、ついに慧士は決心して祖父に詰め寄った。多額(とは言えないかもしれないが、貴重な売り上げだ)の現金を店舗に置いたまま丸一日放置するのは危険だし、自宅にもそんなものを保管しておける金庫などない。金融機関に預けるべきだ、と。<
慧一朗はしばらく考え込んでいたが、結局は慧士の意見を受け入れることにしたようである。「ここに、釣り銭以外の金を振り込んでおけ」と一枚のメモを渡してくれた。
駅前のATM目指し、白い息を吐きながら疾走していた慧士だが、突然耳障りな金属音がしたかと思うと体に激痛が走り、気付いた時には、自転車から放り出され地面に倒れていた。
痛みに意識が遠のきかけたが、気力を振り絞って上半身を起こす。狭い視界の中に、路上に転がる自転車が映った。後輪はカラカラと勢いよく回転しているが、前輪は完全に停止している。強引に差し込まれた、鉄パイプのせいで。
悪意の存在に気付いた慧士は、素早く立ち上がろうとした。しかし、それより早く、左腕を強く引かれて、体を持ち上げられる。
「……っ」
地面に叩きつけられた体の左側面の痛みに、望まぬ呻き声が漏れる。
薄目を開いて伺うと、相手は若い二人組の男だった。黒っぽい服装に、目深に被った帽子。似たような格好をしているが、違いといえば、慧士を引っ張り上げている男は大柄だが、もう一人はかなり痩身だということか。
「おぅ、兄ちゃん。有り金置いてきな。じゃねぇと、もっと痛い目みるぜ?」
痩身の男が、にやにやと嫌な笑い方をしながら脅す。
後から思い返せば独創性の欠片もないセリフだが、人通りのない細い路地裏、ナイフをちらつかせる男に脅迫された慧士は、背筋の凍る思いをした。声もなく頷いて、空いている右手で財布を差し出す。
中身を確認した痩身の男は、「けっ。ケチな野郎だな」と吐き捨て、大柄な男に顎をしゃくって合図を送った。すると彼は、慧士からバックパックを奪い取った。
その中には、店の売り上げが入っている。
蒼白になった慧士は、
「そ、それはダメだ! 返してくれ!」
と叫んだが、返ってきたのは冷たい拳だった。
慧士には、荒事の心得などない。まともに左頬を殴られ、再び路上に沈んだものの、そのまま腰を抜かしているわけにはいかない。
「やめろ! 俺の財布ぐらいならくれてやるけど、それはうちの店の金なんだよ!」
本能的に大柄な男を避け、痩身の男に取り縋ったが、横から伸びてきた太い腕に羽交い絞めにされてしまう。
バックパックを漁っていた男は、慧士を捕えた大柄な男と、嘲笑を交わしあった。
そして、意見を代表したように痩身の男が言う。
「これっぽっちが、店の金? 儲かってねぇんだな、あんたの店」
余計なお世話だ、と言いたいのは山々だが、背後に立つ男からの無言の圧力にそれも叶わず、悔しさのあまり唇を噛み締める。
慧士の身長は、痩身の男とほとんど変わらない。百七十センチそこそこはある。しかし大柄な男は、慧士より頭ひとつ分も背が高かった。加えて、体つきはがっしりしていて、衣服の上からでも、鍛えられた筋肉がついていることが分かる。運動が不得手とまでは言わないが、ケンカ慣れしているであろう男二人を相手に立ちまわることなど、とても出来そうにない。
痩身の男は愉快そうに笑い、
「じゃ、金はもらってくぜ。ありがとうよ、きれいな顔の兄ちゃん」
そう言って、大柄な男を伴い、立ち去ろうとした。
でも慧士は諦められなかった。正確には、逆上していた。謂れのない暴力を振るわれ、金を奪われ、生来のコンプレックスである女顔にまで触れられたのだ。
「待てよ! それは渡さないって、言ってるだろ!!」
「あんだと? 金だけで済ませてやろうって言ってんのに、サンドバックになりてぇのかよ」
痩身の男は不機嫌に凄むと、闇雲に突っ込んだ慧士の胸倉を掴み、地面に引き倒した。
冬のアスファルトの冷たさを感じる暇などありはしない。丸まった慧士の体のあちこちに、容赦のない拳や蹴りが降り注ぐ。彼らが意味もなく喚き散らすのを頭上に聞きながら、慧士は体を小さく丸めて耐えた。
その時だ。
ふいに、足音が響き、男たちの暴力が止んだ。
痛みに霞む目を努力して開くと、路上に一人の少年が佇んでいた。
街灯を背にしているのではっきりと目鼻立ちは分からないが、中学生かせいぜい高校生くらいにしか見えない、細身の少年だ。
「んだよ。ガキじゃねぇか。おぅ、ちょうどいい。てめぇも有り金置いてきな」
不遜に言いながら歩み寄る痩身の男に対し、
「キグーだな。俺も、そう言おうと思ってたとこだよ」
少年は口の端に笑みを浮かべ、いきなり助走をつけると、右足で腹を蹴り飛ばした。
さほど威力があったようには見えなかったのに、痩身の男が吹っ飛ぶ。
「てめぇ!」
蹲る仲間の脇をすり抜けて、大柄な男が躍りかかる。
少年が拳で殴られることを予想して、慧士は息を呑んだ。
しかし、殴られて呻き声を上げたのは、殴りかかった男のほうだった。左頬を片手で押え、憎々しげに、闖入者を睨み据える。
「ガキだと思って優しくしてりゃ、つけあがりやがって!」
叫んだのは復活した痩身の男だが、もう一人も怒りは同じなのだろう。二人とも臨戦態勢だ。
その様子を見ても、少年は怯むどころか、余裕さえ感じさせる口ぶりで挑発した。
「へぇ、優しくしてくれてたんだ。どーもア・リ・ガ・ト」
憤りに目を血走らせた男二人は、奇声を上げながら少年に突っ込んだ。
少年は突撃をやり過ごし、背後へ回ると、痩身の男の腕を捩じる。悲鳴を上げる彼を大柄な男へ向かって突き飛ばし、体勢を崩させると、下から伸び上がって、顎に一発ブチ込んだ。
大柄な男は、不安定に視線を彷徨わせながら崩れ落ちる。
「ひぃ……っ」
それを見た痩身の男は、仲間を見捨ててさっさと逃げようとする。
しかし、少年はそれを見逃さなかった。
「金、置いてけっつってんだろ」
男のパーカーを引っ張って道の真ん中へ引き摺り戻すと、たたらを踏む体に、横合いから鋭い蹴りをお見舞いした。
路上に倒れ伏す、二人の男。
冬の路地裏は、ようやく静けさを取り戻した。
少年は息を乱した様子もなく、軽快な足取りで倒れた二人に歩み寄ると、持ち物を物色し始めた。
「なんだ、威勢のわりには大した額持ってねぇでやんの。お、こっちはまだマシか」
少年が「マシ」と指したのは、慧士のバックパックだ。
「あ……」
慧士は、思わず声を漏らしてしまった。<
その声は、少年の耳にも届いたようだ。彼が、慧士を振り返る。
精悍と言って良い顔立ちの、すっきりとした容姿の少年だった。しかし、髪はあちこち跳ね放題、学ランと思しき黒服は汚れていて、この寒空の下、中に一枚パーカーを着ただけの軽装である。服のだぶつきや、細すぎる顎のラインがくっきりと目立っていて、もしかすると先ほど少年に倒された痩身の男より痩せているのではないかと思われた。
気だるげな黒い瞳が、地面に座り込んでいる慧士を流し見る。
「なに。これ、ひょっとしなくても、あんたの?」
慧士は、無言で頷いた。
先ほど見た、少年の強さは網膜に焼き付いている。色素の薄い瞳には、きっと怯えの色が浮かんでいることだろう。そのことを自覚していてなお、慧士は、この少年が自分に暴力を振るう情景を想像することができなかった。
少年は「ふぅん」と、無感動に呟いた。その相槌とも独り言とも取れる返答に戸惑っていると、彼は手にした戦利品の中から、バックパックと慧士の財布だけを放って寄越した。
「これも、あんたのだろ? 連中のより趣味いいから」
バーゲンで買った地味な財布だったのだが、なるほど、男たちのものと思しき財布には、鎖やら髑髏やら色々なものがひっついている。
「あ、ありがとう」
「礼なんか、いらねーよ。それは、俺んじゃないから。それだけ」
慧士が小さく礼を言うと、少年は怒ったようにそっぽを向いてしまった。
年相応の表情を垣間見た気がして、ふっと慧士の心が軽くなった。張り詰めていたものが、霧散していくのが分かる。
それで体中の痛みが消えたわけではないが、呻きながらもどうにか立ち上がると、壊された自転車を道路の端に寄せた。回収は、また明日にでも誰かに頼むことにしよう。
痛みに顔を顰めながらバックパックを抱えなおしたところで、少年の姿が遠ざかっていることに気付く。
声の届かない距離ではなかったが、少年の背は、はっきりと会話を拒絶していた。
その背が宵闇の奥へ消え去った後も、しばらくの間、慧士はじっとその方角を見つめて立ち尽くしていた。
慧士の顔の痣が目立たなくなってきた頃。
夕闇の濃くなる時刻に、少年はふらりと、カメレオンにやって来た。
「あ……! いらっしゃい」
慧士は早足で、彼に歩み寄った。
もう一度会ってきちんと礼がしたいと、ずっと考えていたのだ。その機会が思いがけず与えられ、気持ちが弾む。
しかし。喉まで出かかった言葉を、告げることができなかった。
照明の下で見る少年は、ひどく疲れて見えた。
無造作に伸ばされた髪はボサボサ、恰好はあの夜見たものと同じように思うが、学ランもパーカーも、見下ろせばスニーカーも、ひどく汚れている。髪も肌も、ずいぶん傷んでいるようだ。なにより、少年は、慧士が思っていたよりも、ずっと痩せていた。
あの時は助けてくれてありがとう――そう言いたいのに、言える雰囲気ではなかった。
少年の、何か重苦しいものを無理やり沈めたような、気だるげな黒い瞳は、ぼんやりとただ目の前を見つめていた。その視線の先には慧士がいたが、慧士を見ているわけではない。ただ眼に映ったものを見ているだけ、そういう感じがした。
慧士は、余計な会話はするまい、と決めた。再会の喜びも、窮地を救ってくれたことに対する感謝も、今の少年には届かない気がした。それどころか、彼を余計に傷つけかねないと、直感的に悟っていた。
だから慧士は、敢えて初対面の客に対するように振る舞う。
彼を窓際の席へ案内し、「ご注文は?」と訊く。
少年はメニューを手に取ることもせず、
「ミルクティー……めちゃくちゃ甘いやつ。あと、なんか食いもん」
そう言ったきり、疲れ切ったように瞳を閉ざした。
慧士はさっと身を翻し、すぐ支度に取り掛かった。
最近ではコーヒーでも紅茶でも中国茶でも、バリエーション豊かなメニューを揃える飲食店も増えたが、あいにくカメレオンはコーヒー専門店だ。しかし、それを理由に、少年の注文を断る気は、慧士にはなかった。
ちょうど客はおらず、慧一朗も出掛けていて留守だ。出来る限りのことをしてやりたい。
慧士は、自分の荷物の中から、アッサムの茶葉を取り出した。自宅用に買ったものである。いつもコーヒーの香りばかり嗅いでいるせいか、ときどき無性に紅茶が飲みたくなって、買い求めることがあるのだ。今日がその日で良かったと、慧士は幸運に感謝した。
戸棚から掘り起こした雪平鍋に湯を沸かし少量のスパイスを落とすと、茶葉を入れて弱火で煮出す。完全に茶葉が開いた頃合いを見計らい、低温殺菌牛乳を分量どおり注ぎ、砂糖はしこたま放りこんで、全体的にぶわっと泡立たせてから火を止めて茶葉を濾し、大きめのカップに注いだ。
ふつう、日本で「ミルクティー」と言えば、常温のミルクとともに提供されるイギリス式のものが主流だが、いま慧士が淹れたものは、甘いほど美味いと言われる、インド式のミルクティーである。少年の「めちゃくちゃ甘い」紅茶というリクエストに応えるためには、こちらのほうが良いだろうと考えたのだ。
その間に、サンドイッチをこしらえる。とにかく炭水化物とタンパク質を、と思ったので、分厚く切ったパンにたっぷりの玉子とハムを詰め込んだ。それだけでは足りなかろうと、もう一枚パンをトーストして、バターといちごジャムをこれでもかと塗る。余っていた焼き菓子も盛っておいた。
軽食しか扱っていない喫茶店で、これが慧士にできる精一杯だ。
慧士が近付くと、少年は瞼を開くより前に、ひくんと鼻をうごめかせた。
「……あ? すげぇ、甘いにおいがする」
ゆっくりと瞬きする少年の前に、紅茶と食事を差し出す。
少年は無言でカップを手に取り、おそるおそる一口含むと、
「……あめぇ」
と実に素直な感想を漏らした。
「チャイって言うんだよ。インド式のミルクティーだと思ってもらえればいい。甘くて美味いでしょ?」
慧士が解説すると、黒い瞳が初めて、慧士の顔を真正面から捉えた。
じっとこちらを窺うその仕草が、なんだか野良猫に似ているなと思ったが、もちろん口には出さず、ごく控えめに微笑むだけにとどめる。
少年はすぐに視線を逸らし、食事に取りかかった。美味いとも不味いとも言わずひたすら食べ続ける彼から、慧士はそっと遠ざかり、カウンター内へ戻って洗い物を再開した。
それからしばらく経ち、食事を終えた少年がレジへやって来た。空腹が満たされたためか、幾分表情が和らいで見える。
少年に「いくら?」と訊かれ、「五百円」と答えた。
百円硬貨五枚を受け取りながら、
「うちさ、若いお客さん少ないんだ。良ければ、ちょくちょく遊びに来てよ。サービスするからさ」
そう言った慧士の気持ちは、ちゃんと少年に伝わったようだ。
店を出た少年は、何気ない仕草で、営業時間と定休日を確認していた。
食器を下げながら、慧士は心の中で「ありがとう」と「また来てね」を繰り返した。
* * *
以来、少年はときおりカメレオンを訪れるようになった。
居心地悪そうに背を丸めて入って来るが、定位置と決めたらしい窓際のソファーに腰掛けると、ほっとした様子を見せる。
そのことを、慧士は喜んだ。この喜びは、気難しい野良猫の餌付けに成功したときの気持ちと似ている。
祖父にも少年に助けられた顛末を話し、こうして彼は、カメレオンとってある意味で「お得意様」になったのだった。
「ほほ、噂をすればなんとやら、じゃわい」
老眼鏡の奥から、慧一朗が窓の外へ視線を流した。
慧士がその姿を捉えるより早く、扉の鐘が鳴り、少年が入って来る。所在無さげに立ち尽くす彼に、「よぅ来たな、坊主」と慧一朗が声をかけ、少年はぼそぼそ返事らしきものを返していた。
慧士がカウンターの中から注文を訊くと、「今日は、お茶だけでいい」と小声でリクエストして、そそくさと席に着いた。
慧士と慧一朗は、こっそり視線で苦笑を交わしあった。
少年がこういう言い方をするときは所持金の少ないときで、そして三回に一回くらいは、無銭飲食をして去っていくのである。
冷蔵庫に差し入れのチョコレートケーキがあったことを思い出した慧士は、チョコによく合うアールグレイティーをストレートで用意した。今ではすっかり茶器も調い、申し分のないティータイムを演出できる。
彼専用のティーカップに紅茶を注ぎ、ケーキを添えて出すと、少年は心なしか嬉しそうに手を伸ばした。どうやらチョコレートは好物らしい。これは新しい発見だ。
ちなみに、お茶だけと注文しておいてケーキがつくことに対して、少年は疑問を抱かない。
カメレオンでは、コーヒーの注文を受けると茶菓子を添えて提供する。そして、カウンター端の籠に詰まっているお菓子は、おかわり自由ということになっている。ただし、いくら客が少ないとは言っても全員にケーキを出したりしては赤字になるので、焼き菓子程度のものであるが。
(出血大サービスなんだけど、その甲斐があったみたいで良かった)
満足気に紅茶を啜っている少年を見て、慧士はこっそり微笑む。
面白いのはここからで、代金を払えない少年は、食べ終わった途端に挙動不審になる。ポケットに手を突っ込んでは出してみたり、わざとらしく頬杖をついて外を眺めてみたり、足をゆすったり。
慧士は必死に平静を装って、さりげなく客席に背を向け、食器を片付ける。そしてレジの番をしている慧一朗は、うつらうつら、居眠りを始める。これは彼の十八番で、本当に舟を漕いでいるのかそれとも単なる演技か、孫の慧士にさえ分らないのである。
少年は周囲の様子を窺いながら、そっとレジの前に立ち、代金を置いて(あるいは置くふりをして)、店を後にする。
扉が閉まるのを確認した慧士は、ようやく声に出してくつくつと笑った。
「あ〜、思い切り笑えないのがつらいよ。で、今日はやっぱりタダ飯?」
片目を開けた慧一朗はにっかりと笑い、
「いんや。百円置いていきよったぞ」
そう言って、慧士の手のひらに百円硬貨を置いた。
慧士はそれを、縁の欠けたコーヒーカップへ入れた。底に重なり合っていた硬貨とぶつかり、チャリンと高い音が響く。このカップが少年専用の会計で、これが一杯になると、取引先の信用金庫を通じて、恵まれない子供たちへ寄付しているのである。ちなみにカップの中には、ごくまれに千円札が入っていることもある。少年の財布が潤っているとき(おそらくケンカ相手が金持ちだった場合)のみ、彼はレジに千円札を置いて、釣銭を受け取らずに去って行くのだ。
「あれじゃの、いつか若い娘といっしょに来てくれると、おちょくり甲斐があってえぇんじゃがのぅ」
どうやら慧一朗は、少年をからかいたくて仕方ないらしい。
慧士も気持ちは良く分かるので笑って頷いたが、ふと考えなおして、
「いやいや、マズイよじいちゃん。彼女の前で無銭飲食なんてしたら、店を出た途端にフられるよ」
と首を振った。それではあまりに情けない。
慧一朗は「そうかのぉ」としきりに顎を撫でていたが、
「まぁそんときゃ、うちの店で下働きとして使ってやるかの。失恋記念っちゅうやつじゃ」
名案だと言わんばかりに、何度も手を叩いて笑った。
「う〜、楽しそうだけど、俺の胃が痛くなりそうだなぁ。第一さ、バイト雇うほどの余裕ないでしょ、うちの店」
自分の給料が出ているだけでも不思議だと思う慧士は、軽く手を振って祖父の妄想を打ち払った。
「さて、どんなもんかの」
背後で慧一朗が囁いた気がしたが、慧士は返答しなかった。
鐘が鳴り、扉がギィと開いて、常連の老夫婦が入って来る。
「いらっしゃい。お二人とも、いつものでいいですか?」
慧士はにこやかにお客を迎え入れた。
カメレオンは、今日も細々と、町の片隅に息づいている。
2012/03/03(Sat)14:37:35 公開 /
みのる
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■この作品の著作権は
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■作者からのメッセージ
初めまして。みのると申します。
スキルアップを目指し、こちらのサイト様の胸をお借りすることにいたしました。チキンハートですが、ビシバシご指導のほどよろしくお願いします。
本作に関して。
今後「少年」を主人公とした長編を書くにあたり、彼の為人を外堀から眺めてみよう、という意図で書いてみました。
良い感想であれ、悪い評価であれ、なんらかのリアクションをいただけると大変参考になります。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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