『水仙の君へ』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:ピンク色伯爵                

     あらすじ・作品紹介
作品説明がネタばれになりそうなくらいの青春小説。一応リメイクとという形式になりますが、話は全く異なるものになっています。刃物の持ち出しや人死には厳禁で行きます。

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水仙の君へ


プロローグ


「私はすごく嫌な女です。――でも、そばに居させて下さい。お願いします」

 そんなことを言ってもらう価値なんて、俺には無いはずなのに。
 悪いのは全部俺で、彼女達はただの被害者だというのに。
 彼女達にはいつも笑顔でいて欲しかったのに。
 涙でぐちゃぐちゃになりながら、電話越しに懇願してくる声。
 そして、
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」
 繰り返される謝罪。
 一カ月程前に買ったスマートフォンを耳に押し当てたまま、俺は微動だにすることができない。
 きっと、罰が当たったんだ。
 そう思うしかなかった。
「頼む……謝らないでくれ」
 手が震える。目を閉じて天を仰いだ。
「頼むから……」
 それでも彼女は謝るのを止めなかった。謝ったところで何も解決しないというのに、ただただ愚直に繰り返していた。
 親鳥しか知らないひな鳥。
 不謹慎にも、そんな言葉が思い浮かんでくる。
 俺は、どうしたらいいんだろう?
 俺たちは、どうしてこうなってしまったんだろう?
 巻き戻すことはできないのだろうか?
 止まっていた時間が動き出したあの時あの瞬間に――今すぐ戻りたい。
「私は――貴方の事が好きなんです。どうしようもなく」
 限界だ。これは愛の告白じゃない。呪いの言葉だ。
 震えていた手は、やがて腿の横に垂れ、握られていた携帯端末はアスファルトの上に音を立てて落下した。

 雨。

 激しい。いつからか降り出していた。雪でないことが不思議なくらいだ。曇天を見上げれば、冷たいしずくが頬を伝った。
 これはきっと、運命の雨だ。
 俺は――。
 どうすれば、いいんだろう。
「ねえ、ダイチ……。本当の恋って何なんだろうね?」
 とり落としたスマートフォンから微かに聞こえる残響。
 俺は当然答えられるわけも無く、途方に暮れて空を見上げ続けるばかりだった。


第一章  青春パッチワーク


 ……報告。
 ……九月二十日。

「オタマジャクシー、オタマジャクシー。お前は僕に何を伝えようとしているのー?」

 ……場所は第二音楽室。

「俺達の行く末とかじゃない? 国王サマ」
 俺こと御影ダイチは目の前で何かの楽譜を頭上に掲げてくるくる踊っている悪友に、割とまっとうな答えを返した。
「うむうむ。まさに絶体絶命であるのー」
 目の前の金髪イケメン(だけど色々残念な)野郎――岡本ノリフミが「ほほほほほ」と呑気に笑っている。いや、あれは呑気って感じじゃないな。半ば死を覚悟した諦めの境地の笑いって奴だ。
「誰の……せいだ……」
 部屋の隅っこでバリトンサックスを片手に筋トレしている筋骨隆々の親父顔が答える。熊みたいな巨体だけど、一応高校生だ。名前は春日野道タケシ。タケシはわかめみたいな髪の毛を豪快に掻き揚げて深呼吸する。額には筋トレによる汗が玉のように浮かんでいた。
「王サマに進言。かくなる上は、俺らのうち誰かを犠牲にするしかないと思います」
 眼鏡を押し上げ、俺は言う。こういうダラダラしている時間をもっと建設的な方向に使った方が良いと思うんだ。
 楽譜を手に新手の神秘主義教団みたく回転しているノリフミから目を放し教室を見回す。
 私立黒灘高校第二校舎三階隅っこ、第二音楽室。部屋の中には俺達三人だけだ。
 第一音楽室と比べても、床が木造でボロかったり、調律なんかはるか昔に行われて以来の、これまたボロいピアノが置いてあったり、俺らによって持ち込まれた菓子類や筋トレ用具(主にタケシが使用)、果ては十八歳未満は見てはいけない本とかが置いてあったりするくらいで使用感はあんまり変わらない。
 広さは長方形をした六畳間が四つくらい入りそうな感じ。
 壁は例によって防音加工(床は防音じゃないのに)。
 そして白を基調とした部屋の隅に置いてある、三つのティンパニー。
 俺達、『音楽総合部』なんかにはもったいない部室である。
「犠牲? 興味深いな! 苦しゅうない。名参謀、御影ダイチよ、遠慮せず提言するがよい」
 タケシとは対照的な体型をなよなよさせながらノリフミが先を促す。俺は体育座りをしていた床から身を起こした。
「つまり、ブラバンが消滅した時、嬉しそうに『秘密基地を調達してきた!』なんてほざいてやがった野郎が、舞台の上で全裸で土下座すればいいと思うんだ。ていうか土下座しろ。土下座して盛大に笑い取って来い。滑っても転んでも骨くらいは拾ってやるから安心して爆散してきやがれ。俺たちはお前の事を一年くらいは忘れない。多分忘れようとしても忘れられないと思う、ネタ的な意味で」
「賛成だな」タケシがハンカチで額を拭う。「今からじゃ文化祭には絶対間に合わん。大人しく予算をくすねていたこと、実は練習などこれっぽちもしていなかったこと、したがってオープニングセレモニーはできませんということを詫びるしかなかろう」
 俺とタケシが冷たい視線を送ると、ノリフミは芝居じみた仕草を止め、わたわたと手を振り始めた。
「ちょ、ちょっと待てよ! 何で僕がスケープゴートなのよ!? だいたいお前らだって部室使ってただろ! ダイチ! てめえはテスト前に図書館が混んで酸素が薄くなるからとか言ってここで勉強してた!」
「う……」
 鋭い指摘だった。
 それを言われると辛い……。お菓子完備のたまり場とかあったらついつい使っちゃうってのが人情だろう。人情の使い方間違ってるけど。
 ノリフミは言葉に詰まる俺に勝ち誇ったような笑みを浮かべ、今度は横の筋肉ダルマに人差し指を向けた。
「そして、タケシ! バリトンサックスは楽器であって、ダンベルじゃねえんだよ! 部屋が汗臭くなるから筋トレ止めやがれ!」
「む……」
「ほれ見ろ、何も言い返せねえじゃねえか! 僕だけ文化祭開幕土下座とか地球規模で理不尽だからな!」
「……」
「……」
 ノリフミが言い終わると、第二音楽室はシンとなってしまうわけで。
「……で、どうする? 生徒会、許してくれないんだろう?」
 俺のため息交じりの声で、ますますシーンとなってしまうわけで。
「まあ、するしかないのだろうな、演奏」
 タケシのトドメで、絶望が舞い降りるわけだった。

 ……現在の状況。俺たちは吹いたことも無い楽器で、文化祭オープニングを飾るということを、上からの圧力により強いられているのだった。若干自業自得だけどな。

      ×            ×               ×

「――で、結局どうしようもなくて、『ドラえもんのうた』をセレモニーで演奏することになったわけだ。参ったよ。明日までに『ドラえもん』をググって譜面探しとかないといけないとかさ。誰か助けて優しい人ー! ははははは!」
 そうして俺は、これまでの経緯を面白おかしく語ってみせたのだった。
「……話しはそれだけか?」
 病室の白いベッドから身を起こし、斜陽に白い肌を染められながら、水仙寺ワカバはイライラと訊き返した。
水仙寺は見た目は典型的な大和撫子だ。長い黒髪で、前は横一直線にそろえられている。肌は、陳腐な例えかもしれないけど、白磁みたいな感じ。唇は薄く、キリッと引き締まっている。まさに百人いたら百人が美少女と答えるだろう超絶美少女だ。……性格以外は。
「え? ああ。俺が今日体験しためぼしい事件はそれくらいだな」
 対する俺こと御影ダイチは、眼鏡に黒髪、太ってもいないし、ガリガリってわけでもない体型の普通の人間である。実に絵にならない、うむ。
「はあ……。お前、何で私の病室にいるんだ?」
「知っての通り、俺の姉貴が水仙寺の担当医なんだ。そんで、着替えを届けに来たついでに顔出した。姉がいつもお世話になっています。ぺこり」
「帰れ。お前のように掴みどころのない奴は嫌いだ」
 俺、そんなに正体不明かね? 普通に真面目な良い子ちゃんだぞ自画自賛。
「あと、水仙寺にプリント届けに来た。俺、後期クラス委員長だからさ。もうすぐ退院できるんだろう? そのときに勉強についていけるよう、プリントやっとけよ」
「余計なお世話だ」
 不機嫌そうにそっぽを向く水仙寺。俺はひょいと彼女の方に首を伸ばす。
「ボーカロイド、好きなのか?」
「……なんで?」
 なんでと言われても、窓際に置いてあるdynabookのPCに、発根ミクが映っているからだ。見れば普通は何とも無しに尋ねるものだろう。視線に気づいたのか、水仙寺はPCを俺から見えない角度にずらす。
 と、そのときPCに刺さったままにしてあったイヤホンがプツリと抜け落ちた。静かな個室に短調の曲が流れる。

『止まっていた時間。
 膝を抱えて泣いていた。
 そんな私に貴方はほほ笑んで、
 「そばにいるから」と言ってくれた。……』

「これ、『水仙の君へ』か?」
 エレクトリックエンジェルと呼ばれる、少女をかたどったポリゴンが、人間そっくりに歌っている。
「……帰れ」
「良い曲だよな。確か百万再生くらい行ってたか? そういや水仙つながりでお前に縁がありそうだな」
「……ぅな……」
「ん?」
「私に、構うなぁっ!」
「ぐべえ!?」
 水仙寺は横に置いてあったフルーツバスケットからしなびたミカンを取りあげると、俺に向かって投げつけてきた。何とか眼鏡は避けたけど、唇にクリーンヒット。地味に痛かった。
 どうやら今日はこの辺りが頃合いらしい。ここら辺で撤退することにしよう。じゃないと次はしなびたリンゴが飛んでくるだろうからな。比喩じゃなく眼鏡が割れる。
 担任から、水仙寺が退院後にクラスに融け込めるように、学級の状況とかも教えといてやれと言われていたんだが、それ以前に会話が成立しない。
 なんでまた 引き受けちゃった クラス委員(字余り)。
 俺は予想通り飛んできたしわしわのリンゴをかわして腰かけていた椅子から立ち上がる。
 とにかく、今日のルーティンワークは終了だ。
 後は帰って、飯食って、風呂入って――『ドラえもん』か。
 いや、敵は奴だけではない。後期クラス委員長として、クラスの出し物の企画起案作らないといけないし、生徒会に主に予算面でかけ合えるよう色々数字いじったりしないといけない。地味に時間使う仕事が多いな。
 ……ところで、『ドラえもんのうた』なんてネットで転がっているものなんだろうか? ピアノとかならありそうなイメージだが、俺らが演奏するのは、サックスだ。それも、バリトンとテナーとアルトの三種類である。こいつらを見つけ出さないといけないんだが、基本的にこういうのって有料っぽい。まあ引き受けちまったからにはやるしかないんだけどさ……。お金はなるべくかけたくないんだよな、あとで色々ややこしくなるから。楽譜を無料で手に入れる方法を早急に考えないといけない。
 あと、加えて最後にして最大の問題があったんだ。
 ノリフミもタケシも楽譜読めないから『ドラえもん』にドレミファ打たないといけない。けど、実は俺もあいつら同様楽譜が読めなかったりするわけで。
 『音楽総合部』もノリフミに無理やり入れられただけで、したがって練習などするはずも無く、楽譜の類は中学校の卒業式以来触れたことが無かったりするわけで。
 ピアノとかの譜面ならギリ分かるんだけど、サックスってピアノとドレミファが違うって聞く。それも何とかして調べるしかないわけで。
 マジで前途多難だな……。

    ×             ×               ×

「これが教本のコピー。右がバリトン、左がテナーサックス。アルトは俺が担当だったな」
 翌日、HR前にノリフミとタケシを呼び集めた俺は、クリアファイルに入れてきたプリントを机の上に並べていた。
「んで、こっちが『ドラえもん』。サックス四重奏をちょっとアレンジした奴だってさ。俺らに与えられた時間からして、数回は繰り返さないと場が持たない。だから無理言って七通りのアレンジ譜面を貰ってきた。一応ドレミはこっちで打っといた。音楽記号は悪いけど教本参照してくれ」
「……お前、これどんだけ金かかったんだ?」
 俺の前の席の椅子を不法占拠しているノリフミがマジマジと見つめてくる。「『ドラえもん』のオリジナル譜面一個で三百円くらいするだろうが。ってことは、二千円? おいおい、僕今七十二円しか持ってねえぞ聞いてねえぞおい!」
「それは今月エロ本を十冊も買ったお前の責任だろうが」
 横で仁王立ちしていたタケシが突っ込む。
「うるせえよ! そう言うてめえは何円持っているんだよ!? さぞかし金持ちなんだろうな!」
「……六十八円。今月はダンベルを買いすぎた」
「五十歩百歩じゃねえか! 僕にお前は怒れないけど、一応言っとくと四円勝ったぜ、いやっほう!」
 教室の喧騒に負けないくらい騒いでいる二人に手を挙げて注意を喚起する。
「盛り上がっているところアレだが、楽譜は全部タダだ。昨日深夜枠開いていたニコ○コ動画の生主の何人かにコンタクト取って貰ったんだ。教本のデータも交渉したうちの一人がくれた。限りなく違法に近い違法、ていうかぶっちゃけ違法だけど、背に腹は代えられないってことで」
「ダイチ! おお、心の友よ! お前はいつだって僕達を助けてくれる! ちょっと見た目はホモっぽくて、口は結構悪いけど、お前は僕の親友だ!」
「くっつくな暑苦しい。まだ九月なんだぞ」
 そして余計な御世話だ。誰がホモっぽいだ。眼鏡かけて、暑いからワイシャツの胸元を開けているけど、ホモはねえだろ。結構傷つくから止めて欲しい。
「それはいいが……」
 タケシがもともと野太い声のトーンをさらに落とす。「お前ら、聞いたか、例の情報を」
「情報?」
「ああ。――文化祭でオレらのあとに、女子有志による仮ダンス部がダンスするらしい。完成度結構高いらしいぞ」
「マジ? じゃあ絶対観ないとな! 僕達のあとってことはうまくいけば舞台裏から超間近で観れたりする!?」
 嬉々とするノリフミに、タケシは渋い顔をする。いや、もともと親父顔で渋いけどさ。
「そりゃ見れるかもしれん。見れるかもしれんが、ノリフミ、この情報に何も思うところは無いのか?」
「へ?」
 クエスチョンマークを浮かべるノリフミ。俺はそんなノリフミの横から噛みしめるように言葉を絞り出した。
「なるほど。俺達のド素人な演奏のあとに、結構本格的な女子ダンス部か。観客からしたら、俺達かなり滑稽だろうな」
「ど、どういうことよ!?」
「分からんか、ノリフミ?」
 タケシが重々しい声を出す。「オープニングでオレらは、楽器に触った事もないというのに、何かしらの曲を吹かなきゃならん。まず間違いなく、まともな曲をまともに演奏することは出来んだろう。おそらく失笑モノのボロボロの出来だ。――そのあと、きらびやかな演出とともに、間抜けなオレらを蹴飛ばすようにして女子ダンス部が乱入。俺達の道化振りも相まって会場は割れんばかりの熱気に包まれる」
 タケシの説明にノリフミの表情が固まる。そうなんだよな。俺達が女子ダンス部に勝てるわけがない。それを承知で、生徒会はダンスを俺らのあとに組み込んで来ている。つまり、それって――。
「おいおい……。僕たちは当て馬かよ……」
 ノリフミが呟く。
「うむ……。さしずめオレらがヒール。ダンス部連中がヘビーフェイスってところだろうよ。生徒会はこの流れ一連をひっくるめて文化祭のオープニングセレモニーにしようとしているんだ」
 筋書きとしては、『音楽総合部』が舞台の上で土下座ないし下手な演奏、それをうまいこと演出に取り入れて、真打ち・女子ダンス部が華麗に登場って感じか。早い話しが、俺達『音楽総合部』は舞台を盛り上げるための生徒会公認の生贄だ。成功するかどうかは置いておいて、なんて悪趣味なんだろう。
「『ドラえもん』で対抗できるか?」
 俺が尋ねると、二人は黙りこむ。分かってた。聞くまでもなかった。
「……頑張ってくれたダイチには悪いけど……、こうなったら僕達、割り切って悪役を務めるしかないのかもしれないな……」
「俺はともかく、お前らの親御さん泣くんじゃないか? オイシイ役云々通り越して完全に馬鹿扱いされるんだぞ」
 言うと、ノリフミがよよよと泣き崩れる。
「酷い。あんまりだよな。生徒会は僕らに何か恨みでもあるのかよ」
「そりゃ毎月詭弁を弄して部費をかすめ取って、それを全部菓子代に使っていたらなあ」
「自業自得だった!」
「……で、どうするよ?」
 俺が現実に引き戻すと、ノリフミはスマホを取り出して再度現実逃避し始めた。
「webアーティスト級の奴が仲間になってくれたらなあ。恥かくどころか、逆に生徒会やダンス部連中の度肝を抜けるんだけど」
「むしろそんな奴らが仲間になったら、オレらは邪魔扱いだろう」
「あー! 皆の鼻を明かしたいよー! ドラえもーん」

『止まっていた時間。
 膝を抱えて泣いていた。
 そんな私に貴方はほほ笑んで、
 「そばにいるから」と言ってくれた。
 そうして私は恋をした。
 貴方も私に恋してくれた。
 幸せだった。
 止まっていた時間が動き出す。
 貴方がいてくれたから……』

 ノリフミのスマホから流れるしっとりとした曲。ボーカロイドの傑作の一つで、昨日もちょっと聞いた曲だ。
「ふむ……。発根ミクの『水仙の君へ』か。作者は確かyoung leavesだったか」
 タケシがスマホを覗き込む。「確かに、こいつクラスなら、今からでもオレらが簡単に吹けて、しかも格好がつく曲を作ってくれそうだな」
「かなしいかな、たらればの話だけどな」
 俺はため息をついた。それから、文化祭オープニングに馬子にもサックスな格好で舞台に立つ俺達を、ちょっとだけ想像してみる。うわあ、こりゃマジでピエロだ。マイナスの意味で。
 ……二人とも楽譜を手に入れてきた俺の顔を立てて口には出さないが、『ドラえもん』じゃどう考えても役不足だ。いや、ドラえもんが役不足なんじゃなくて、俺らが役不足なのか。どこかのウィーン合唱団なら格好つきまくりだからな。
 でも、無い物ねだりして努力を怠っちゃダメか。どこかのM岡S造氏も最後まで諦めてはいけないことを熱弁しているのだ。
 俺はバンと机を叩いた。
「young leavesみたいにすげえ奴が、俺らの周りにいるわけがないだろう! アホなこと言ってないで練習しようぜ!」
「よく言ったダイチ! んじゃ今から授業サボって三人で練習だ!」
「いや、授業は受けろ。後期クラス委員長として見過ごせない」
「僕はお前のそういうところが大好きだよ!」
 何でノリフミは泣いてるんだろう……。

     ×             ×               ×

 放課後になった。
 さて、さっそく音楽室に……と行きたいところだが、練習に向かう前にやることだけやっておかないといけない。クラス委員の仕事があるのだ。
 ロングホームルームでクラスの出し物を議論する前に、クラス委員はあらかじめやりたいことの候補を考えておかないといけないのだが、その候補を考えるにあたって色々生徒会に訊いておいた方がよかったりするのだ。話し合いをスムースに進めるためでもあるし、早期に生徒会に根回しをするためでもある。
 クラス委員は、周りの皆から文句が出ないように『広く分かりやすい候補』を考え、それを起案としてロングホームルームで皆に配布する。その際皆の意見を取り入れて『微』修正するのだけど、そのとき細かな予算や使える資材の限度、使用可能な場所等の幅をできるだけ大きく持たせる必要がある。早い話しが分捕り合戦だ。
 俺は、クラス委員の補佐二人を伴って生徒会室にやってきた。生徒会室にはいくつか長机が置いてあって、役員が腰かけて事務処理をしている。副会長や会計の席の前には、俺達と同様に起案を提出しに来た実行委員が起案の説明を行っていた。生徒会長がフリーだったので、俺はそっちの方へと歩いていき、起案のサンプルを提示し説明をし始める。
「――こんな感じで俺達二年E組は喫茶物やお化け屋敷、その他色々をやる予定です」
「ふむ」
 黒灘高の聖徳太子と言われる生徒会長が俺達の起案を検める。公平に物事を見れて、なおかつ結構優秀な生徒会長とかなり有名な人だ。俺に言わせれば公平の下に(笑)がつくんだが、そこはノーコメントで。
「どうでしょうか、生徒会長。二年E組は二教室を使用したいのですが」
「しかし、お化け屋敷をするなら、一般教室より体育館に行った方が良いだろう。いっそ教室を放棄して体育館に陣取ってはどうかね? 喫茶店をすることになっても、対応は可能だろう」
「いいえ。ロングホームルームの起案提出のさらに前段階として、俺と後ろの二人で皆の意見を聞いたところ、お化け屋敷と喫茶店の二択にした場合、喫茶店の方をやりたいと言う生徒の数が多かったんですよ。無論、他の候補があれば分散して異なる結果になる可能性がありますが、俺達の見通しでは起案提出と同時にほぼ確実に喫茶店に決まるかと」
 根回しは既に済んでいるからな。ロングホームルームなんていう無益な時間は五分もあれば十分だ。
「なるほど、あくまで教室は二教室、しかも二年E組とD組を使用したいと」
「準備や机を配置するスペースを考えれば当然でしょう。それにD組は事前の根回しでほぼ確実に劇をやることに決まっています。教室は不要だと彼らも言っています」
「だが、D組は折り紙展の会場になっているのだ」
 折り紙展――二年A組の折笠がやるアレだな。折り紙少年ということで全国的に有名な奴だ。俺は知らずに去年のこの時期まで知らずに付き合っていたけど、小さい頃にはテレビに出たこともあったらしい。
 実際、あいつの空間を把握する力とかはすごい。紙に設計図をかくだけで、あらゆるものを作り出せるのだ。去年は折り紙で涼峰ハルヒとか作っていたしな。今年は発根ミクを作っていたはず。
 もちろん、内外にあいつの力は知られているわけで、本校の文化祭の売りの一つなわけである。文化祭の顔を圧迫するわけにはいかないってことか。なるほどな。
「では、こうしませんか? 俺たち喫茶店内部に彼の折り紙を展示するんです。展示会場に特化するのも良いですが、それは一部屋もあれば良いでしょう。もう一部屋に関して、何かスパイスを利かせ、変化球でお客を引き入れるというのは面白くないでしょうか。喫茶店と展示会場を融合させるというのは悪い案ではないはずです」
 彼にとっても、俺たちにとってもな。
 うまくいけば彼の折り紙目当てでやってきた人間を客として確保出来る。彼の作品の中で遠目からでも特に目を引く物のいくつかは、椅子に座らなければ落ちついて観賞できない場所に設置しよう。
「しかし、折笠君は承諾するかね?」
「彼の表現の留保にはならないよう、展示物を配置する権利を一部彼に譲渡します。これなら文句は出ないでしょう」
 加えて、これで折笠の展示技術を無償で手に入れることができる。あいつはかなりセンスが良いから、喫茶店の飾り付けとかもこれにかこつけて押し付けてしまえば、他のクラスとは一線を画す出来になるはず。
「うまく考えたな、御影君。いや、早い者勝ちと言うべきか。うむ。よろしい、折笠君に提案してみよう。それで何か紛争がおこるようならこの件は取り消しだがね」
「ありがとうございます」
 折笠の性格的に争いはほぼ起こらない。これで場所はキープした。俺は安堵のため息をつく。問題だった場所の確保は思いのほかうまく行った。俺は振り返って補佐二人に親指を立てた。二人もにっこり笑って返してくれる。

 そこでふと横から視線を感じた。

 右隣には、俺たちが生徒会長を相手にしていたように副生徒会長を相手に起案提出をしている女子二人組の姿。こっちは結構議論が紛糾しているようだ。彼女達は、確か、C組の連中だったか。
 その内の一人、髪が時代錯誤な縦ロールの女の子――の後ろでプリントを持って友人の舌戦を温かく見守っていた地味な女の子と目があった。
 瓶底眼鏡にヘアピンで前髪を七三に分けていたナチュラルショートのその女の子は、
「あ、あははー、どもー」
 と意外に軽いノリで会釈してくる。ふむ……。
 俺は副生徒会長と縦ロールに視線を向けた。
「ですから、上限は譲れません」
「な、なんでですの!? わたくし達のクラスは服飾喫茶をやると言っているでしょう! それなのにこれっぽっちの予算では不可能ですわ! 打開策としてわたくしのポケットマネーから幾らか出資して――」
「ですから、それはいけません。そんなことをすれば、同じようにしてエクストラでお金をつぎ込むクラスが出てきて、競争になってしまう可能性があります。市場とは違って、文化祭の出し物サービスには上限がない。無法地帯にならぬよう、生徒会は断固制止させていただきます。決められた上限予算で、無限の努力と工夫を継ぎこむ――わが校の文化祭のモットーです。どうか、ルールを守って下さいますよう、切に」
「あとちょっとですのよ! 不足分は! それくらいいいじゃないですの!」
「ですから、上限は譲れません」
 すごい押し問答しているな……。彼女には是非とも我を通しきって欲しいものである。クラス委員はそのためにいるんだしな。
「でも! このままでは服飾だけで予算が無くなってしまいます! 肝心のお茶が出せませんのよ!」
「起案を見れば、貴女方が熟慮されていることは分かります」
「そうでしょうとも! 昨日徹夜しましたわ!」
「ですが、上限は譲れません」
「きぃー!!!」
 何だかものすごく気の毒になってきた。俺は後ろの二人に振り返って起案を指差し二言三言説明する。二人はすぐに頷いてくれた。
「あの、盛り上がっているところ悪いんだけど……」
「なんですの!?」
 すごい迫力で睨んでくる縦ロール。これを一本調子で受け流していた副生徒会長には尊敬を通り越して畏敬の念すら抱くな。
 俺は両手を広げて、
「つらつらと行間を読むに、コスプレするのに加えて、それ以外の服飾も店内に展示するという(ちょっとカオスな)喫茶店をやろうとしているんだよな?」
「そうです! 入口にはわたくしの作ったウェディングドレスを飾るのです!」
「じゃあ、俺達と協力しないか? ちょっと人事がややこしくなるけど、喫茶店をすることになったら、あんたのところは服飾に特化する。こっちは料理部がたくさんいるからそっちの分までお菓子を用意させる。お菓子を大量に購入していた分をお茶に回せば、カツカツだけどなんとかなるんじゃない?」
「いいんですの!?」
 縦ロールが顔を輝かせる。俺は一歩後ろに後退しながら一つ頷いた。
「その代わりと言ってはなんだけど、服を作ったあとの余りでこっちの店員に付けさせるちょっとしたオプションを作ってほしい。女子には猫ミミとか、男子には――蝶ネクタイとか?」
「蝶ネクタイはナンセンスですが、その提案はエクセレント! 貴方達、E組の方々ですわよね! よろしくお願いいたしますわ!」
「ああ、よろしく。とは言ってもロングホームルームで正式に喫茶店をやるということにならないとこの話しはおじゃんだけどな」
「あら? まさかまだ根回しが済んでないのかしら?」
「まさか」
「なら問題ありませんわ。――副会長! 聞いての通りです!」
 縦ロールの勝ち誇った顔に、副会長はため息をつく。生徒会からしたら要らん仕事が増えたようなもんだからな。実に申し訳ない。
「……ふふん。御影君、そんな申し訳なさそうな顔をするのなら、我々を手伝ってはくれないか。罪滅ぼし大歓迎だよ。今なら君を生徒会に迎えてやってもいい」
 横で黙って様子を見ていた生徒会長が口元を歪める。後ろの二人には聞こえないような、小さな声だ。俺は慎重に返す。
「体の良い雑用はちょっとお断りですね。申し訳ないですけど」
「我々は真面目な部下を求めているだけなのだがね。――そうだ。もし生徒会に入ってくれるのなら、君らに科したペナルティから、解放してやってもいい。岡本ノリユキと春日野道タケシだったか? あんな馬鹿二人の巻き添えを食らって君まで恥をかくことはないだろう? 聞けばあの馬鹿どもは授業も真面目に受けん不良学生だと言うじゃないか。金を払って学び舎に来ているというのに、なんと物ごとの真髄が見えぬ愚か者だろうか! そんな不良連中と絡むよりは、私のもとで学校のために働いた方が益があるとは思わないかね?」
「――お言葉ですが、会長、俺はあいつらが馬鹿だとは思いません。あいつらは普段は不真面目ですが、やる時は爆発的な集中力を発揮する『できる子』です。やればできる子ではなく、『できる子』なんです。学業でも、人からノートを借りたりはしますが、必ず結果は出します。そういう気質なんですよ、彼らは。素行が悪いにもかかわらず退学になっていないのはそういうわけなんです」
 俺は続ける。
「そして彼らはそんな自分自身をきちんと弁え、やるべき時は全力でやってくれます。彼らにはきちんと真髄を見極める力がある。俺はそんなあいつらを深く信頼しています。会長、彼らの友人として言わせていただきます、俺の友人をそのように軽々しく侮辱するのは止めて下さい」
「ほう……? 君がそこまで怒るとは思わなかった。これは済まなかったな」
「俺に謝られてもなんとも。……そうですね、思いますに、ノリユキとタケシは短期の目標を断続的に与え続ければ、常に優秀な結果を残し続けます。生徒会長、貴方のような優秀な指導者が上にいれば、彼らは今以上に活き活きすると思いますよ。俺なんかより、彼らを勧誘されてはいかがでしょう?」
 ちょっとした皮肉を返す。ただ単に拒絶するだけでは会長も、それから俺も納得できないからな。
「ははははは」
 生徒会長は大きな声で笑うと俺の背中をバンバンと叩いた。「なるほど、単なるおためごかしでも、皮肉でもないところが、これまた憎らしい」
「……」
 俺は黙って腰を折った。会長はにやにやと笑って俺を見下ろしている。
「君の提案は悪いが却下させてもらうよ。私はあいつらが嫌いでな。ちょっと生徒会には来てほしくないんだよ。――しかし、本当にいいのか? 文化祭で恥をかくことになるんだぞ?」
「同じ釜の飯ならぬ、同じ金の菓子を食った仲ですし、一緒に心中しますよ」
「ふふふ。まあ、最後まであがきたまえ。演奏、楽しみにしているよ」
 意地悪く返す会長に一礼すると、補佐二人をともなって廊下に出る。二人とはそこで別れた。彼らはこれから塾があるとかでもう帰らないといけないらしいのだ。駆け足で廊下の向こうに消えていく二人を見送ったあと、廊下の隅に置いていた鞄と、アルトサックスの入ったケースを持ち上げる。
 ノリフミとタケシは――五時間目から姿を見ていない。俺の記憶が正しければ三時間目に早弁して、四時間目にはげっそりしていたと思うから、これは家に帰ったと考えて良いだろう。今月は金欠らしいから仕方ないのだろうが、俺達が置かれた状況もちょっとは考えて欲しいものである。今は練習が必要なのにな。
 携帯を持っていないから、あいつらに連絡を取ることもできないし、こうなったら俺がいち早く吹けるようになって、あいつらをサポートするしかないか……。
 まあ、会長にも言ったように、あいつらはなんだかんだ言ってできる子だから、今は放置安定――。
「あの!」
 そのとき。
 綺麗な声が背中にかかった。
「ほい?」
 振り返ると、さっきの縦ロール――ではなくて、その横にいた瓶底眼鏡が立っていた。何だろう? なんか不都合でもあったのかね。
「あの、ありがとう。ウメちゃんを助けてくれて」
 瓶底がチラリと生徒会室の中に顔を向ける。中では縦ロールと副生徒会長が最終確認を行っている。なるほど、あの縦ロール、ウメちゃんって言うのか。
「いや、こっちも助かる。喫茶店の小物って結構金かかるからさ」
「でも、君の方のクラスの予算はオーバーしてなかった。あたし達を助ける意味なんて無かったんじゃない?」
「人が人を助けるのに理由なんていらない――なんて綺麗事は言わないけど、まあ気が向いたからってことにしといてくれ」
「……」
「どした?」
 黙り込む瓶底に首をかしげる。
「ううん。ありがとう! ウメちゃんに代わってお礼を言います。あの子、素直にお礼言えない子だから」
「いえいえ」
「じゃあ、またね、眼鏡君!」
「うん、またな、眼鏡さん! ……と、そうそう、一つだけ」
 踵を返す彼女を呼びとめる。瓶底は「何?」という顔でこちらに振り返った。俺は鞄とアルトサックスの入ったケースを右肩に担ぎながら、
「足、具合悪いんだろ? 友達に付き合うのもいいけど、養生しろよ」
「え……?」
 そう、ずっと気になっていたのだ。縦ロールが副生徒会長と舌鋒を交えていたとき、瓶底はしきりに右足を気にしていた。右足に体重がかからないように何とかバランスを取って、時折失敗して痛みにビクリとなって。
 制服の黒いソックスのせいで分からないが、下には包帯か何かを巻いているんだろう。見ている方が痛くてたまらなかった。
 縦ロールに助け舟を出した理由をあえて答えるなら、傍で見ていて心苦しかったからだ。
 ……クラス委員失格だな、俺は。
 俺は瓶底に「じゃ」と軽く手を挙げて挨拶すると、その場を後にした。
 さてと、これでようやく練習に移れる。
 いい感じに夕焼け空になっているし、第二音楽室なんてシケたところじゃなく外でのびのびと演奏しようじゃないか。

    ×             ×               ×

「……」
「ムウア? どうしたんですの、呆けた顔をして」
「……」
「ムウア?」
「……ウメちゃん、私決めた」
「は?」
「私は決めたのです、世間の荒波に揉まれてみると!」
「は、はあ? 何を言っているんですの、ムウア?」
「そういうわけで、私帰るね! 悪いけど後は一人でやっちゃって」
「って、あ、ちょっとお待ちなさい、ムウア! ムウアー! わたくしを置いて行かないでー」

    ×             ×               ×

 ところで、アルトサックスって、主に主旋律を演奏するものらしい。テナーサックスもそうらしいが、重要度で言えばアルトサックスは他と一線を画している――と昨日楽譜くれた人が言っていた。
 俺としてはふーん、だから? という感じだった。重要だろうと重要でなかろうとやることは変わんないし、難しいから覚悟してとか言われてもいまいち実感湧かないし。
 自慢だけど、中学の頃とか、俺リコーダーは結構うまかったんだよね。毎日登下校で一人吹きながら帰っていたから当然と言えば当然だが、そういうわけで楽器には耐性がある。難しいとか言われても、楽譜なぞるだけの何が難しいのか、と思ってしまう。
 昔は、『となりのトトロ』とか『もののけ姫』とかちょっと難しい曲も一日でマスターしていたこの俺の有り余る才能。俺にかかればどんなジブリ作品もイチコロだった。『天空の城ラピュタ』とか木琴まで演奏できたし。

 そういうわけで、アルトサックスで『ドラえもん』とか一瞬で吹けるようになった。

「……って思うじゃん?」
 暮れなずむ空。間抜けな声を上げて赤い空を泳ぐ黒いカラス。
 黒灘高校の裏手にある病院の中庭で、俺は誰ともなしに呟いた。
 現在の状況、

「吹けない」

 というか、『ド』の音が出ない。
 もっと言うと、そもそも音らしい音が出ない。
 多分吹き口はココで合っているはずなんだけど、いくら息を吹き込んでも、カスッ、カスッと謎の空気音が鳴るだけでそれっぽい音が全く出ないのだ。
「おっかしいな……」
 見上げれば赤い空の端は紫色に変わりつつあった。
 練習し始めてもう二時間。
 予定ではそろそろドラえもんアレンジバージョンその一を完璧にマスターしているはずだったのに、俺はまだまともに音を出すことさえできずにいた。
 おかしい。マジでおかしい。こんなはずじゃなかった。リコーダーとか最初から『ド』の音が出るから、サックスだってすぐに吹けるようになると思ってたんだけどこれは一体どうしたことだ。
「壊れてんのかなあ、このアルトサックス」
 でも、他の楽器は全部錆ついて嫌な臭いしていたのだ。さすがにあれは手入れしても吹く気にはなれない。
 あまりの音の出なささに、俺はついにぷちんときた。
「あーもう! 音出やがれー! この馬鹿楽器!」
「おい!」
「あ?」
 頭上からの声に顔を上げると、さらさらの黒髪が揺れていた。パジャマ姿の水仙寺が手に腰を当ててふんぞり返っている。釣り目がちな目はアルトサックスにやつあたりする俺を見てスッと細くなっていた。
「よう、水仙寺。今日はプリント無いぞ」
 膝を抱えて彼女に背を向ける。たった今俺のプライドは粉々に粉砕されたのだ。そっとしておいてほしかった。
 水仙寺は鼻を鳴らす。
「別にプリント欲しくて話しかけたわけじゃない。お前、楽器を粗末にするな」
「ああ、悪い。音が出なくてついカッとなってやりました」
「私でなく楽器に謝れ」
「すみませんでした」
 草の上に置いたアルトサックスに五体投地する男が一人。何やってんだろう、俺。
 水仙寺はみっともなく頭を下げた俺を見て満足したのか、表情をふっと緩める。九月の風が彼女の黒髪を揺らす。風は少し甘い香りを含んでいた。これはシャンプーの匂いとかじゃなく、彼女の体臭だろう。
「――相変わらず尻に敷かれているねぇ」
 俺が土下座していると、水仙寺の後ろから、白衣を着たやさぐれた感じの女がやって来た。俺と同じ真っ黒な髪に、気だるげだけど、一応普通にしていれば美人の部類に入る顔。目元には大きな隈を作っている。ポケットに両手を突っ込んで、煙草を口に咥えている。
 突如やってきた医者、括弧ハテナな女の人。実はこの無気力な医者、俺の知り合いだったりする。まあ、知り合いも何も、こいつと俺は同じ屋根の下で同居してるんだけどな。
認めたくはないけど、これ俺の姉貴なんだよね。夏休み前くらいに水仙寺の担当になってからずっと担当。多分退院まで担当だろう。
「姉貴、歩きたばこ禁止条例」
 俺は身を起こして正座になりながら忠告する。姉貴は朱に染まる空を見上げ、紫煙を吐き出した。
「どこの国の法律だ」
「隣の府の一部の地域。でも言っていることは間違ってない」
「てい」
 姉貴は煙草を吐きだすと足でもみ消した。最低だ。
 そして何事も無かったかのように俺の方を見て、じろじろ観察してくる。姉貴は口を開いた。
「それで? 我が弟にジャズの趣味があるとは知らなかったぞ」
「演奏するのは『ドラえもん』だけどな。文化祭のオープニングで演奏することになったんだ」
 姉貴は一瞬呆けたような表情になって――次の瞬間笑い声を爆発させた。姉貴の隣では水仙寺が渋い顔をしている。何なんだよ。
「だ、ダイチ、お前、ぶ、文化祭で――しかもよりにもよってオープニングで、『ドラえもん』演奏するのか? ぶははははは!」
「笑うな。そうだよ、悪いかよ。言っとくけど七種類のアレンジがあるんだぞ。今さら驚いたって遅いからな。超スタイリッシュなアレンジとかあるんだからな」
「あ、ああ、悪い。ドラえもんだってかっこよくなれるよな。でも、お前が演奏するってだけで……ぶはははは!」
「今すぐ帰れ仕事に戻れ二度と煙草吸いに外に出てくんじゃねえ」
 憮然となってそう返す。姉貴はトーンを落としこそすれ、笑うことを止めなかった。全く……人の努力を笑う奴は馬に蹴られるんだぞ、やさぐれ不良医師め。
「……おい、お前――御影ダイチ」
 と、水仙寺が珍しく俺の名前を呼んでくれた。見れば、こっちに向かって手を差し出している。
「私が見てやる。貸してみろ」
「見てやるって、お前楽器とか分かるの?」
 俺が尋ねると、横の姉貴が「何言ってんだ、お前」という表情を作る。
「ダイチ、分かるも何もワカバは――」
「アスカ」
 水仙寺が姉貴を止める。彼女は俺からアルトサックスを取り上げると裏返したり、キーをペコペコ鳴らしたりし始めた。
「別におかしなところはない。むしろ状態はかなり良好だ。最近お前以外の誰かが吹いていたんじゃないか?」
「止めろよ……。ノリフミとかだったらどうすんだよ……」
「まあ、アルトサックスは音が出るまで大変らしいからな」
「そうなのか?」
「天性の才能のある奴で一日。普通は二週間くらいで、『ド』のなりそこねの音が出る」
「詳しいな」
「昔ちょっとかじっていただけだ。まあ、焦らず……うん?」
 水仙寺が大きな傷の付いた右手を止める。そして、おもむろに吹き口にかぶせていたキャップを外した。それから思いっきり顔をしかめて憮然となる。
「おい、馬鹿」
「おう、馬鹿とはなんだ」
「そこのファイルに入っている教本のコピー、ちゃんと読んだのか?」
「へ? 一応……」
 水前寺が草の上に投げ捨ててあったクリアファイルを拾い上げ、中から教本のコピーを取り出す。それから得心したようにため息を漏らした。
「おいおい、どうしたんだ? 俺に分かるように説明してくれよ」
「この教本のコピー、いきなり三ページ目から始まっているな。一ページ目と二ページ目はどうした?」
「サックスを吹くときの姿勢とか、付属品を確認しようとかだったらしいけど、手間を省くためにその分のデータは遠慮しておいたんだ」
 教本くれた人も、当たり前のことが書いてあるだけだから要らないって言ってたし。
「リードが足りない」
「リー……ド?」
「吹き口のところに付ける、竹製のオプションだ。口笛で言えば、唾液で湿らせた唇にあたる」
「はっはっはっ。なるほどなるほど、唇が無ければ口笛うまく吹けないな」
「そうだな、吹けないだろうな」
「……」
「……」
「……え?」
「……馬鹿」

    ×            ×             ×

 リードは消耗品で無くなる度に店で買わなければならないという。ケースの中に無かったのは、前の使用者がリードを使いきっていたからなのだろう。
 そういうわけで、ジャズの街へ買い物に繰り出すことになった。
 俺は電光石火でアルトサックスを片付けると、そのまま電車に乗り込んで隣町までやってきた。隣町は巨大な都市だ。ビルの中にショッピングモールが丸ごと入っているセントラル街があったり、中国の方の住む街があったり、海の方へ行けば大きなタワーが建っていたりする。夜、高所から下町の様子を見れば初見なら感動することまず間違いなし。百万ドルの夜景という奴だ。
 楽器屋とかどこにあるかは知らなかったけど、多分セントラル街に入ってさえしまえば何とかなるんじゃないかね。あそこで揃わない物はないんだから。
 俺は程なくして楽器屋を見つけ、リードを大人買いした。
「……って思うじゃん?」
 本日二回目だな。期待は裏切られるためにある――紳士語録より。
 結論から言うと、というか結論だけ言えば十分なのだが、楽器屋が見つかりませんでした。そしてあろうことか結構道に迷っていたりします、てへ。
 ふざけている場合じゃない。スマホがあれば調べられるんだけど、俺は携帯持っていないからネット検索というスキルを使えない。買わないとな、携帯電話。
……さてさてそれはそうと、これからどうしようか? 北に上がって、電車の沿線にぶち当たり、そこから東にずっと歩いて行くしかないかね。最悪気付いたら隣の駅とかありうるけれども、それが一番リスクの少ない方法だろうか。
 俺は日が暮れて昼より明るくなったセントラル街を北上していく。
 人込みをかき分けて北上していると、対面から少しびっこを引きながら歩いてくる女に目が止まった。足を怪我しているのだろうか、人込みをかき分けるのに悪戦苦闘しているようだ。
 彼女に目が行ったのは、彼女の奇抜な格好のせいだ。足をちょっと引きずり気味ってのはそのあと気がついた。
 俺がびっくりしちゃった彼女の格好だけど、黒いヒラヒラドレスに白いニーソックス、頭には小さなハット、靴は黒のヒールとかいうおとぎの国からやってきましたみたいなものだった。セントラル街のメイド喫茶の周囲とか歩いていたらたまにそう言う種族がいるけど、こんな一般道路のど真ん中であんなコスプレして歩いている猛者がいるとは思わなかった。
 ぱっちりした目、茶髪でナチュラルショート。ツンと高い鼻に控え目な口元と顔はかなりかわいいのに、どうしてこんなセルフ羞恥プレイしているんだろうか。特殊なプレイ好き――って感じじゃないな。快活でいかにも活発そうな美人さんだもん。そういう方面に関しては必要以上に健康そう。
 そうこうしているうちに俺達は歩道ですれ違った。
 瞬間、俺の脳にビーンと電流が走る。
 あれ?
 コイツ、今日、どこかで、ミナカッタカ?
 俺は驚いて振り返った。すると彼女も驚き顔で振り返っていた。俺達は互いを見つめ合い、あんぐりと口を開ける。

「眼鏡さん!?」
「眼鏡君!?」

「……じゃ、ない……?」
 最後に付け加える俺。だって彼女、今眼鏡してないんだもん。

    ×               ×              ×

「驚いたなあ。あんなところでウチの高校の生徒さんに会うなんて」
 人通りの少ない住宅街に入ると、前を歩いていた彼女が俺の横に並んできた。さっきまでは二人並んで歩けないくらいの人込みだったのだ。その間に俺は彼女との会話をどうつなげるかシミュレートしていた。いや、かなり詳細にやっていたからほとんどエミュレートの域だったと思う。気合い入れて会話内容考えちゃうくらい何を話していいか分かんなかったんだよな。だって学校で瓶底眼鏡している奴が、路傍で出会ったらゴスロリファッションでチャラチャラ歩いてましたとかどんなドッキリだよ、何話していいか分かんねえよ。
「ね。どうしてあんなところにいたの? あのまま北に上がっていたら高架下だよね?」
 だけど、そんな俺の固いガードを簡単に解してしまうくらい彼女は気さくだったわけで。
「そう言えば自己紹介がまだだったよね? 私は、田井中ムウア。念のため言っておくと外国人じゃないから。月にアジアの亜でムウアね」
 その快活さに、俺は怖いくらい惹かれていたわけで。
「俺は、御影ダイチ」
「知ってるよ」
 え……? 理由も無く胸がざわついた。いや、うまく説明できないだけで、理由は何となく分かる。言葉であえて説明するなら、そう――言い方が艶めかしかった、とか?
「試験結果の張り出しでいつも名前のある御影ダイチ君だよね」
「よく知ってるな……」
 名前があってもあんまり目立たないところだと思うんだけど。そう……確かに成績優秀者の中に俺の名前が入っていることもあるんだけど、俺の位置はその中でもあんまりパッとしないところなのだ。俺は基本的に学校でしか勉強できないし、もとからそんな頭が良いわけでもない。単にやるべきことを真面目にこなしているだけの地味な野郎なのだ。だから、折り紙の折笠みたいな天才には絶対勝てないし、家でこつこつ復習とかしている奴なんかにはもっと勝てない。そういう華々しい奴らの名前があって、その下に俺の名前があるくらいなのだ。だいたいの奴は一番から十番くらいまでの名前見てそのあとは流し見だろうから、俺の名前なんて大半の奴が知らない。
「それより、御影君はどうしてあんなトコにいたの?」
 ムウアが訊いてくる。
「恥ずかしながら道に迷ったのだ」
「あはは、恥ずかしい割には堂々と言うんだね」
「そう言う君は何であんなところにいたんだ?」
 そんな恰好で、というのは心の中で付け加えておく。すると、ムウアは俺の前に出てきて、手を腰に当てた。
「私の名前は田井中ムウア。別に外国人ってわけではありません。漢字は、夜空に浮かぶお月さまの月に大東亜共栄圏の亜です」
「お、おう……。さっき聞いた」
「何その痛い子を見るような目つき」
 だってお前――なんでもありません。ここは真に受けず、「名前で呼べ」という彼女の言外の意思表示を尊重すれば良いんだよな。
「田井中さんは夜の散歩?」
「少年、その答えはイエスでもありノーでもあるのだよ。答えは私を見る者によって変わって来る――それが真実さ」
「おお、何と言うことでしょう! ならば今日の俺と明日の俺とで答えが変わってくるわけですね! 同じ物を見ているはずなのに、今日と明日とで顔が違う! まさに貴方は夜空の月だ! ――って、去年のクラス劇の脚本じゃないか。よく覚えているなあ」
「マジレスすると、ジャズバーからの帰りだったのです」
「じゃずばー?」
 まあここはジャズの町だし、新種の小豆バーだと解釈するよりは、ジャズでお酒飲んじゃう大人なアレって考える方が良いよな。でも大丈夫なのかな、法律的に。
「私がこれを持っている時点で何となく予想はつかなかった?」
 そう言って彼女が揺らしたのは、右手に持っていた直方体の箱である。その形状に、俺はどこか見覚えがあって。
「もしかして、アルトサックス?」
「残念、今日はギターでした」
「酷いハメだな……。エフェクターケースに入れてるとか普通分かんないから」
「でも昨日はサックスだったよ。もうすぐ祭典があるから、お母さんのお店で練習させてもらってたんだ」
「祭典? もしかして、田井中さんってすごい人?」
「ただの道楽だよ。別にジャズが専門じゃないし。ニコ○コとかに【演奏してみた】上げてるくらい。気楽にやっているだけなの」
 でも、かなりうまそう。だってギターケースが結構本格的だし。ゴスロリファッションは話を聞けば素敵なユニフォームに思えてきたし。
 彼女が仲間になってくれたら――そんな馬鹿な考えが脳裏に浮かぶ。いや、どう考えても迷惑だろう。文化祭のオープニングで、俺達みたいな素人と演奏して、一緒に恥かいて。そんなの誰だって嫌だ。
「御影君?」
「あの、さ。田井中さん」
 おい、馬鹿止めろ。何口走ってんだ。
「あのさ、もし良かったらなんだけど」
 だからやめろって!
「どうしたの? いきなりもごもごしちゃって」
「もし良かったらなんだけど――今俺達ってどこ向かって歩いてるか、教えて欲しいかなって、ははははは……」
 そうじゃねえだろ、俺……。いやいや、何を言っている、これで良いんだ。むしろグッジョブだった。合ってる。だいたい合ってる。何も問題は無い。
 俺の葛藤には全然気づいていないムウアはきょとんとした顔になる。
「最寄りの駅だよ? あれ、もしかしてまだ帰りたくないとか? 迷子なのに肝が据わってるねー」
「いや、あのさ」
 そうじゃなくて、と言おうとしたら、彼女は俺に向かって親指を立ててニッと笑った。
「その意気や、グッド! 私も遊びたい気分だったんだよね! よーしっ、んじゃ今から遊んじゃおっか!」
「へ……? え、おい!」
 呼び止める声も虚しく、ムウアはくるりとターンすると、住宅街の奥に駆けていく。
「田井中さん!」
「早く来ないと置いてくよー!」
 酷い! 俺の抗議の声も受け付けず、本当に俺を置いて先に走って行っちゃうムウア。俺は慌てた。
 ちょっと待ってくれよ! こんなところに置いて行かれたらまた迷子になっちゃうから!

    ×              ×               ×

「何度でも、確かめるように言葉を紡いでいく〜。
 今は悲しくて、後ろ向きな声だって君へと続く〜。
 バカみたいに一人ぼっちに感じてしまうときは、
 何度でも歌うから教えてよ、そのわけを〜」
 アップテンポのノリの良いサビが終わり、間奏に入る。
目の前で揺れるクリーム色のカーディガン。テンポを取るデニムショートパンツ。同じくテンポをとる黒いタイツに包まれた足。カツカツと音を鳴らす紺色のパンプス。
テーブルの上には、水滴の付いたグラスが置かれている。俺の真上からはクーラーが強烈な冷風をぶつけてくる。とても寒い。
 状況を説明しよう。何を言っているか分からねえかもしれないが、俺は気付いたら何故かカラオケボックスに来ていた。状況説明終わり。
 ほんと何でだ。どうしてこうなった。どうしてこうなったんだ。
 確か――あの後、ムウアの後を追っていったら、彼女のマンションに着いて、彼女が着替えてきて、家から仕事に行くムウアの母上様と三人でタクシーに乗って、駅前のジャンプカラオケの前で下ろされた。それで彼女が綺麗な字で『田井中月亜』と書いて、「サイ○ーダムで」と言ったかと思えば、こうなっていた。まるで魔法の言葉だな、サイバー○ム。これを唱えれば夢の国へレッツゴーである。
「ご静聴、ありがとうございましたー!」
 曲を歌い終わったムウアがぽすんと腰を下ろしてくる――当然のように俺の横に。
「ふぅー。あっついねぇー。もっとクーラーの温度下げよっと。あ、もう飲み物無くなっちゃった? 私はメロンソーダにするけど、ダイチ君何か飲む?」
「あ、いただきます。ウーロンティーで」
「あははー、なに借りてきた猫みたいに大人しくなってるの? もっとテンション上げていこー! あ、もしもし? 六十五番ですけど、メロンソーダとウーロン茶追加。はい、一つずつで。え? 期間限定チェリージュース? あ、じゃあそっちを頂きます。メロンソーダはいいです。ダイチ君、チェリージュースいる? あ、要らない。オッケイ、要らないです。はい、はい、はい、はい。どもー」
 がちゃっと電話を置くムウア。それから鼻歌交じりに次の曲を入れ始める。
「田井中さん、歌うまいんだな」
「ムウアでいいよ」
「いや、でもな……」
「ムウア」
 もう何でもいいよ。俺は半ば投げやりに言葉を紡ぐ。
「ムウアは疲れないの?」
「疲れるよぉ! ほらダイチ君も何か歌ってよ」
 さっき『君が代』を入力したら笑顔で予約取消されたところだけどな。
「じゃあこれで……」
 俺が曲を入力していると、ムウアが覗き込んでくる。うおお! 腕に当たっているこのやわらかいものはなんぞや? ……いや、考えては駄目だ。ただ感じろ――紳士語録より。
「あ、『水仙の君へ』? 良い曲だよね。ボカロとはなかなか良い趣味してる」
「ははは、どうも……」
「どしたの? なんか変な顔してる」
 俺の微妙な表情に気がついたのか、ムウアが眉毛をハの字にする。しまったな、女性と一緒にいるってのに、シケた面するとか。
 でも、ここで「何でもない」と言えば、余計微妙な空気になってしまいそうだ。ちょっと躊躇したけど、俺は正直に言うことにした。
「ちょっと驚いたんだよ。田井中……じゃなかった、ムウアがこんなにノリの良い奴だったなんて知らなかったから。学校でかけてた瓶底眼鏡だってしてないし、全然イメージが違っていて、戸惑っているんだ。決してつまらないとか、委縮しているとかじゃないから」
 すると彼女は肩を下げて苦笑する。
「あはは……、確かに、ダイチ君の言いたいことも分かるかな。私学校では地味であんまり目立たないもんね。いきなりこんなふうに色気づいちゃって、普通は退くよね」
「そ、そうじゃない! 退いてなんかいない! 俺はただ、緊張しているだけなんだ」
「緊張?」
「あ、いや……」
 女の子と二人で薄暗い個室に入ったら、否応なく緊張してしまうわけで……。うわあ、何か顔が熱いし、汗もかいてきたぞ。さっきまではものすごく寒かったのに。
「ふぅん。なるほどね。よかった。退かれちゃってるのかと思ったけど、違ったんだね」
 そう言う彼女の顔はものすごく嬉しげで。
 不覚にも心臓が跳ねてしまった俺は、照れ隠しのように言葉を繋いでいく。
「あのさ。どうして学校じゃあんな――目立たない格好してるんだ? そうやって普通にしていれば、その、普通に人気出そうなのに」
「ダサいって言ってくれちゃっていいよ。目立たない格好を何故しているのか、か。うーん、目立ちたくないって言うのが理由じゃいけないのかな? 別に目立つ必要は無いし、目立ったら人間関係が複雑になる可能性だってある。リスクがあるのに、私に返って来るのは何もないじゃない? じゃあ目立つ意味はないよね。そう思って、あんな格好してる。誰かのために見栄を張る必要も、これまで無かったし。――でも」
「でも?」
 訊き返す俺に、彼女はしっかりと見つめ返してくる。彼女のあふれるような生命力が、視線を介してこちらに流れ込んでくるような、不思議な感覚がした。彼女は、確かに、俺には無い物を持っている。そう思った。
 目が離せない。
 彼女から目を離すことができなかった。
 それだけ強い力が、彼女の瞳には秘められていた。
 あるいは、それに抗うだけの理由がまだ俺には無かった。
「御影ダイチ君」
 彼女は俺の手を引き強引に立ち上がらせる。
「私は、ここに生まれ変わることを宣言します。リバースです!」
 ムウアが俺にマイクをよこす。曲が始まる。さあ、準備は良いか? 始まりのフレーズは、『止まっていた時間』だ。
「ダイチ君、私と一緒に歌いましょう! 誕生祝いです!」
 嫌な汗が脇に滲む。何かに絡め取られてしまったような、心地よい感覚。ああ、感覚がおかしい。なんか狂っている。カラオケの空気に当てられたのかもしれない。

 ……そうして。
 俺は、彼女とデュエットしたのだった。

    ×             ×              ×

 それから結局俺とムウアは二時間くらい歌っていた(主に歌っていたのはムウアだったけど)。
 そして三時間パックも切れ、フロントから電話がかかって来て、お金を払って、俺達は駅の裏手の駐車場に出てきていた。
 時間はもう十二時前。大都市の駅の周りとは言えさすがに人の姿もまばらになって来ていた。
「はぁー、すっごく楽しかったねー」
 そう言って「うーん」と伸びをするムウア。俺は、
「そっすね。すごく楽しかったっすね」
 うわ、まだテンションおかしいよ。
 でも仕方が無いんだ。女の子と二人でカラオケとか行ったことないし、あんな至近距離に座られたことなんて今まで無かったし、チェリージュースの上に浮いていたサクランボを食べるときのムウアが妙に色っぽかったし。
 ……駄目だ。静まれ俺の煩悩。
「む、ムウアはさ、家まで歩きで帰るのか?」
 手探りで物を探すような俺の声が、誰もいない屋外駐車場に響く。
「ううん。タクシーだよ。さすがに遠いからね」
「そうか。いや、もし歩いて帰るのなら送って行こうかと思ってたんだ」
「えっ……。そ、そうなんだ……。じゃあ、歩いて帰ろっかな……」
 ムウアが何かもごもご言っている。俺はにわかに静かになってしまった場を取り繕うように声を張り上げる。
「えっと、じゃあ帰るわ! もう十二時前だし、明日学校あるし」
「そ、そうだね! 寝坊して遅刻はカッコ悪いよね!」
 一瞬の間の後、くるりと右へ回れをする俺達。目の前には終電を前にした静かで気だるげな駅の建物。俺は足早にその場を後にしようとする。
「ダイチ君!」
「はい?」
 呼び声に振り返ると、ムウアが小走りで俺の目の前まで近寄ってきた。
「あの、今日うろうろしてたのって、もしかしてリードが足りなくなっていたから?」
「――――え? ……ああッ! そうだ! そうだった! 今日リード買いに来たのに結局買ってねえ! うわあ……何やってんだ俺……」
 文化祭まであと一カ月無いのだ。今日カラオケで遊んでしまったことも合わせると、明日も練習できないのは地味に痛かった。
 落ち込む俺に、小さな紙箱を差し出された。俺は「へ?」と彼女の顔を見上げる。彼女の顔は何故か赤く染まっていた。
「これ、私の部屋にあった予備のリード。あ、心配しなくてもサラだから。新品だから」
「え、くれんの? 俺に?」
 こくんと頷く彼女。俺はぎこちなくお礼を言うと、彼女からリードの入った紙箱を預かる。と、そのとき彼女の指先に俺の指先が触れてしまった。俺はそれにドキリとして。
 濡れてる……?
 彼女が指に汗をかいていたことにもう一度ドキリとした。
「じゃ、じゃあ、私行くね!」
 パッと手をひっこめ、俺が止める間もなく地面を蹴るムウア。彼女は駐車場の車止めに足をひっかけながら駅前の大通りに飛び出し、手をあげてタクシーを拾う。俺が動けずにいる間にタクシーのドアは開いて、ムウアが乗り込んで、また閉じて、そうして発車してしまった。
 その姿を見て。
 手の中に残った、少し温かい紙箱を見つめて。
 俺は何だか気分が楽になっていた。

 なんだ、要するに、彼女だって緊張していたんじゃないか、と。

     ×              ×              ×

 家に帰ると当然のように明かりは点いていなかった。どうやら姉貴はまだ帰って来ていないらしい。俺はポケットから鍵を出すと、ドアを開けて中へと入る。玄関で靴を脱いで揃えて、廊下を軽やかに歩いてキッチンへ。緊張がほぐれたら何だか小腹が空いてきたのだ。
 と、そこでキッチンの方でテレビの音がするのに気がついた。暗い中青色や黄色、白色の光が目まぐるしく点滅している。訂正、姉貴は帰って来ているみたいだった。
「ただいま」
 俺がキッチンに入ると、予想通り姉貴がだらけた体勢でぼーっと深夜番組を見ていた。白衣こそ着ていないが、格好は病院で仕事をしているときの服のままだ。どうやら帰って来てまだ間も無いらしい。
「おかえりんご」
 右手でノンアルコールの梅酒を揺らしながら姉貴が陽気に挨拶する。ちなみに姉貴は「ごめりんご」とか普通に言っちゃう世代の人だ。つまり、今三十代半ば。信じがたいことに、あと数年したら四十代だ。
 姉貴は俺の服に鼻を近づけ、すんすんと臭いをかぎ始める。俺は気にせず冷蔵庫から朝から冷やしておいた麦茶を取り出した。
「汗臭い。ダイチ。お前、カラオケの臭いがするぞ」
「ああ、ちょっと友達と出会ってな。学生は夜中入れませんって言ってる割には結構無警戒だった」
「お前のところの制服って夏服だとそこらのサラリーマンと見た目変わんないもんな。しかもダイチは入社して二年目くらいの新人社員っぽいし、雰囲気とか」
「ほっとけ」
「なあ、ダイチ。お前、汗臭い」
「悪うござんしたね。姉貴から風呂入れよ。疲れてんだし、明日も早いんだから」
 素っ気なく言って麦茶を口に含む。姉貴はじとーっとした目でこっちを睨んで、
「女のにおいがする」
「ブッ!?」
 思いっきり吹きだしてしまった。俺はむせながら冷蔵庫の側面に貼りつけてあるティッシュ箱からティッシュをいくつか引き出す。
「なんだ、図星か」
「ち、ちちがわい! つうかどうして分かった!? あ、で、でも彼女とかじゃねえから!」
「まあ、そうだろうな。だってお前――」
 姉貴はそこで梅酒をぐいっとひっかける。「ぷはーっ、オニウマー! ダイチ、何かつまみ作ってよ! 今日はゲロ吐くまで飲むぜ! もう吐きそうだがな、ゲロー、ゲロー。ぶははははは!」
「……姉貴、あんたそんなんでいいのかよ」
 御影アスカさんじゅうろくさい。ステータス、独身。
「このままで、いい、か……。そうさねー……。もう恋愛する気力も無し。このまま仕事に情熱を捧げて老いさらばえるのを待つとしよう」
「もう恋愛する気力無いって、昔はあったのかよ」
「あったぞぉ。大恋愛だった。大恋愛して、結局、負けた」
 重いよ。本当かどうか知らんけど。
 俺は陽気な姉貴を黙らせるため、フライパンを取り上げる。別に後頭部を殴ったりするためじゃない。何かつまみを作ってやるのだ。冷蔵庫を覗くと、卵とちりめんじゃこが残っていたから、ちりめんじゃこ入り卵焼きでも作るかね。
「私はちりめんじゃこ嫌いだ」
「好き嫌いはあかんよ、姉貴」
「おお、ダイチ。貴様には聞こえぬのか、この幾千もの雑魚どもの嘆きが。痛いよー、熱いよー」
「魚に痛覚ねえよ」
 大丈夫なのかな、この医者。

    ×              ×               ×

 次の日俺は初めて寝坊した。
 初めて遅刻しました。
 やってしまった。三年間無遅刻無欠席を狙っていたと言うのに、二年目の秋にしてついに野望は途切れてしまった。それもこれもあのダメ馬鹿女医のせいである。ちりめんじゃこ入り卵焼き作ったら、それに気をよくして次は相伴しろとか言ってきやがったのだ。俺は振り切ろうとしたんだが、粘着してくる姉貴を突き放しきれず、結局風呂に入ったのが午前四時だった。ノンアルコールだったから何とか一時間ほどの遅刻で済んだけど。
 俺は一時間目の休み時間に昇降口を駆けあがり、職員室に報告に行って、「お前が遅刻するなんて明日は雪が降る」なんて言われて教師連中から目を丸くされ、はれて人生初の重役出勤をすることになったのだった。
 皆に奇異の目で見られるんだろうな、とか思ってしまう。
 廊下を歩き、二年E組へ。俺は扉を開けた瞬間集まるだろう視線を想像して、気合いを入れる。
 ガラリとドアを開いた。
「……あれ?」
 でも、真面目ちゃんで通っていた俺が遅刻したことなんか、クラスの連中は全く眼中に無いみたいで。
 一時間目の休み時間に派手な音を立てて扉を開けた俺を見た奴なんて誰もいなかったわけで。
「……なんだ?」
 俺は鞄片手にハンカチで額を拭いながら教室を見回す。室内は明らかに浮ついた雰囲気になっていた。いや、二年E組に限った事じゃないような気がする。そう言えばここまで来るまでに、二年の廊下のあちこちでそわそわとしたざわめきが起こっていたような……。
 首を傾げながら席に着くと、向こうから木造の床をギシギシ言わせながら、タケシがやってきた。右手には五キロのダンベルを持って上げ下げしている。
「む。重役出勤か、ダイチ。おはよう」
「ああ、おはよう、タケシ。昨日姉貴に絡まれてさ。そんで酒の相伴させられて寝たのが四時半だったんだ」
「オレならば徹夜するな」
 タケシが呆れたような声で言う。
「徹夜したら授業中寝ちゃうだろ?」
 首をかしげる俺。
「お前は授業中に寝るという選択肢を端から考慮に入れてないのだな。本当に生きる化石だよ、お前」
 ため息をつくタケシ。俺は尋ねた。
「ところで、クラスが、っていうか、学校全体が浮ついてるような気がするんだけど、何かあったのか?」
「ああ……」
 タケシが俺の机の上にダンベルを置く。「それはだな――」

「おいおいおいおいおい! ダイチじゃねえか! 遅刻かぁ!? こんな日に遅刻なのかぁ!?」

 タケシが状況説明しようとしたときにうるさいのがやってきた。俺は鞄の中身を取り出しながら、ビービーさえずりながら教室に飛び込んできた奴に挨拶する。
「おはよう、ノリフミ。朝からテンション高いな」
「そりゃテンションも高くなるって!」
 ノリフミは両手を前で握って早口でまくしたてる。「何てったって誰もが予想もできなかった新生かわこちゃんが誕生したんだからな!」
「意味かぶってるぞ。かわいこちゃん? はいはい。いきなりそんなこと言われてもね。確かこの前も同じように騒いでいたよな? 何組の誰それがイメチェンした、とか。でも、ふたを開けてみれば残念、所詮進学校の女子はそんなもんでした、みたいな」
 つうか眠いんだよ。耳元でうるさく騒がないで欲しい。俺のしがない態度に、ノリフミは全く気付いていないようだった。
「今度は違うんだって! その証拠に、今回は僕だけじゃなく、二年の男子全員が騒いでるっしょ?」
「悪い。眠いから二時間目始まるまで寝るわ」
「聞けよ! ていうか、あと三分だよ! 寝る暇無いよ!」
 授業開始十秒で寝ている奴に言われたくない。俺はダンベルを横にどけて机に突っ伏した。
「なあ、タケシ、ノリフミの言ってること信用できるの?」
「人によりけりだとは思うが、少なくともオレは可愛いと思うぞ」
「「え?」」
 俺とノリフミがタケシを見つめる。こいつ、今、可愛いって言ったか? この筋肉ダルマが、渋いおっさん声で?
 俺らの視線を受けてタケシが頬を染める。そして渋い声で、ビールのCMで飲んだあとみたいに、
「いと……うつくし……」
「ノリフミ、どうしたんだ、タケシの奴?」
「皆冷静じゃないってことさ」
 映画俳優みたいに肩をすくめる。顔は問題ないけど、中身がアレだから、コイツの性格知っている俺からしたらギャグにしか思えない。俺はため息をついた。
「もういい。あと二分あるから寝る」
 そう言った瞬間、廊下からのざわめきが一際大きくなった。寝れねえぞ、おい。
「む、教室移動か? 当の本人が来るようだぞ」
 タケシが顔を上げる。俺は答えずに腕の中に顔をうずめた。ざわめきはE組にかなり伝播してきている。本当にうるさい。
「お、おい、ダイチ! こっち来る! こっち来るぞ!?」
 ノリフミが何か言っている。
「うるさいなあ……。一体何なんだよ……」
「こ、これはッ!? お、おい、ダイチ起きろ! どういうわけか、彼女がこっちにくる!」
 タケシの慌てた声。
 なんだよ、もう……。タケシまで……。
「ダイチ君」
「ああー! もう、うるっさい――」
 鈴のような呼び声に俺はキレながら顔を上げ、
「――な……」
 そして、言葉を失った。
 机から顔を起こし、不機嫌にどなり散らしてしまった相手は、
「あ、寝てたんだ? ごめんね」

 さらりとしたナチュラルショートヘアの、快活な少女だった。

 というか、ムウアだった。眼鏡をかけていなくて、髪留めで七三分けにもしていない。昨日一緒にカラオケではしゃいだままの姿で、彼女は俺の横に立っていた。
「え……?」
 言葉を失う俺に、ムウアはにっこりと笑いかける。
「遅刻はカッコ悪いよ、ダイチ君」
 そんな彼女に、俺は「あ、悪い」という間の抜けでありきたりな言葉しか返せなかったわけで。

 周りの男どもから、焼き殺さんばかりの嫉妬の炎が集中するのは、そうあとのことじゃなかったわけで。



――――更新履歴――――
2月26日第一章途中まで。
2月28日第一章終わりまで(変なところで終わっていたので、きりが良いところまで掲載)。
次回→「文化祭フラッシュ・バック・サウンド」近日中。

2012/02/28(Tue)18:33:42 公開 / ピンク色伯爵
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