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『非武装カンパ二―』 ... ジャンル:アクション 未分類
作者:浦田おぼろ
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あらすじ・作品紹介
かつての技術的優位を失い、一時はテロリストが跋扈して衰退した日本。しかし、人型の生体ユニットを遠隔で操作し、戦闘を遂行する『クラスター』と呼ばれる技術が開発されたことで、日本の産業は息を吹き返す。世界中に質の高い特殊部隊を安価に供給すべく、いくつもの武装商社が結成さる。武装商社はクラスターの操作者として子供たちを幼少期から訓練し、将来の恩給と引き換えにその腕を競わせるようになる。 そんな子供たちの中でも、狩谷慧一は飛びぬけて優秀な成績を誇っていた。しかし、ある時請け負った任務で、とんでもない犯罪行為の片棒を担がされていたと後から知ることになる。捜査の手が忍びよる中、恩給を約束され、順風満帆だったはずの慧一の人生は音を立てて崩れて行く。
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非武装カンパニー
γ7
警報音がけたたましく鳴っている。背後から、いくつもの足音が追いかけてくる。
息が、足りない。体力がとうに限界を超え、肺が痙攣しているかのような呼吸しかできない。
それでも、残った力を振り絞って、肩から提げていた自分の腕ほどの銃身があるアサルトライフルを手に取り、振り向きざまに乱射する。
薄暗い廊下にいくつもの火花が散る。足の踏ん張りがきかずに反動で体が大きくよろける。銃弾が何にあたったかすら、良く分からない。
どうやら、これ以上逃げるのは無理なようだ。胸が熱い。足が重い。次の廊下の曲がり角まで、十歩ほど。窓から見える月の方が、まだ近そうだ。
走り続けるのを諦める。
そう、月の方が、まだ近い。
感覚がなくなった腕を叱咤し、窓ガラスに向けて銃把を振り上げる。
「ひるむな!」
後ろから声が聞こえ、追手たちがこちらに向かって銃を構える気配が感じられる。
無数の火線が、廊下を貫く。
しかし、もうそこには誰もいない。
一瞬早く窓ガラスをたたき割り、外に飛び出した体を、心地よい浮遊感が連れ去る。二階の窓から、地上への転落。
体中の力が抜け、疲労が癒される。
だが、それも瞬きする間の事。
すぐさま体が地面に叩きつけられ、強烈な痛みが肩口から全身を貫く。肩から、嫌な音が耳に響いた。受け身もろくに取れず、慣性の力のなすがままに、小さくバウンドし、体を地面に転がせる。
痛みに呻きながら意識をもうろうとさせていると、偶然、視野の中に人影が映った。銃口をこちらに向け、冷たい目で見下ろしてくる。
男の背後に、月が見えた。
――やっぱり、とても近い――
男の目が細まり、銃口が、跳ねた。
目の前が真っ赤になる。苦痛を感じたのは、ほんの刹那の間だけ。代わって、猛烈な恐怖が、心を捕らえる。意識が、底なし沼にでもはまったかのように、急速にまどろんでいく。
何も、考えられなくなる。ただ、考えられなくなることへの恐怖だけ、はっきりと残る。
……ま……た……これ、が、死………
α4
意識が完全に闇に包まれる寸前、大きな濁流にのまれたようにして意識が体から切り離された。いつもそうだ。死をギリギリまで体感することは出来ても、その先に進むことは出来ない。
手足の感覚が再び戻り、視野にも光が蘇る。
といっても、再び見えてきた景色はついさっきとほとんど変わらない、薄暗い廊下。そしてその先に二つ、警備員の背中が見える。
『パンパカパーン。地獄からの生還、おめでとう! よくぞ、三途の川までいって、帰って来てくれたね。キミが心地よく死んでいる間、ボクが必死になってサポートをしていたことも知らず、ほんと、良く帰って来てくれたよ。もうむしろ、いっそのことそのまま死んじゃえばよかったのに』
機関銃のようにまくしたてる、早口な声。
聴覚ではない。頭の中に直接、幼い少年の声が響く。だからこちらも、頭の中の声で答えながら、気配を殺して素早く警備員の背後に迫る。
『仕事はきっちりこなすさ。それなら、文句はないんだろ、オミムネ』
『へえ、上手い事いうじゃん。仕事はきっちり、か。そうだよね。こんなずさんなやり方で、実際に任務までまともにこなせなかったら……う〜ん、なんて呼ぼう? ゴミ屑野郎? それとも、宇宙のチリ?』
どうやら、相棒は今日、いつもにもまして神経質になっているらしい。
『心配するな。全て、いつも通り――』
警備員が物音に気付き、こちらへ振り向こうとした時には、もう遅い。
小振りなナイフが月明かりにきらめく。警備員たちはうめき声一つ発する暇もなく、気管ごと頸動脈を断ち切られ、倒れ伏す。
『失敗する可能性が、思いつかない』
はっきりと言いきると、頭の中の声は黙り込んだ。代わって、男たちの緊張した声が耳に届く。
中庭に面した窓から、銃を掲げた男たちが次々と集まってくるのが見て取れる。闇の中、目を凝らすと、男たちの中心、中庭の上を横切る連絡通路のちょうど真下の位置で、青年兵が一人、銃で額を打ち抜かれ、事切れていた。男たちはその周囲で、大声で指示を出し合っている。
「単純な奴らだ」
小さく呟くと、踵を返して中庭から離れながら、ポケットの中から小型のリモコンを取り出す。
「……じゃあな」
ついさっきまで、自分の体だった青年兵の死体に向けた、なけなしの弔いの言葉と共に、強く、スイッチを押しこむ。
閃光が走り、腹の奥に響く轟音と共に、背後のガラスを突き破った衝撃波が熱風となって廊下を吹き抜けていく。
『やれやれ、感傷的なんだか、非情なんだか、キミの事はほんと、つかみかねるよ』
頭の中の声に、沈黙でもって答える。
作戦は計画通り成功した。これで、目標までのルートはほとんど無人だ。
本命の作戦のために他のルートから侵入していたメンバーを糾合し、残されたわずかばかりの警備要員を排除していく。
容易に、目的の部屋の前まで到達することが出来た。
重厚な金属製の扉を前に、確認をとる。
『今回の任務は、この向こうにある目標物の回収。それで良いんだよな』
『そういうこと。それじゃ、今その扉を開けるから、少し待っててね』
扉の向こうから現れるのが、銃口でないという保証はない。部下と合わせて五人で配置に着き、扉を取り囲む。
静かな沈黙。
『オッケー。解錠完了!』
低いモーターの駆動音と共に扉が開きだす。内部から特に、銃撃される気配はない。
銃のグリップを握り直すと、意を決して、五人で一斉に部屋の中へ突入する。
部屋の中は、真っ暗だった。
いや、違う。
すぐに、雲で月が隠れただけだと分かる。まるで、砂時計の砂が落ちる音でも聞こえてきそうな、静かな時間が流れる。雲が風で流れ、部屋にあった大きな窓から、部屋の中に、ゆっくりと明かりが戻ってくる。
まず、童話の主人公たちが織り込まれた、メルヘンチックな絨毯が照らし出される。次に、大小様々な動物のぬいぐるみが置かれた飾棚。さらには、物語の世界でだけ見たことがあるような、天蓋付きの豪奢なベッド。
自分はどこか、おとぎの国にでも迷い込んでしまったのではないか。ここまでの無機質な施設内の様子とは正反対の空間を前にして、おかしな錯覚にとらわれる。
『これで、任務は完了。それじゃ、接続を切っとくね』
これで、終わりなのか?
しかし、聞き返す間もなく意識が体から引きはがされ、全身の感覚が遠のいていく。
じゃあ、目標物っていったい……。
その時ようやく、部屋の中央、ベッドの上に堂々と、何故か胸を張って一人の少女が鎮座していることに気付く。少女の勝気な視線は、真っ直ぐにこちらを捉えていた。少女の唇が開き、何か言葉を発する。
「やっと――」
しかし、薄らぐ意識の中、それ以上の声を聞くことは出来なかった。
1.テロ
あれは、いったい、どういうことなんだ?
狩谷慧一ははるか遠方の兵士と自身とをの電気的なつながりが切れると、慧一の全身を覆う様にして覆いかぶさっていた大型のプラスチック製カバーを乱暴に押し上げ、椅子の背もたれから体を起こすと、携帯を操作しながら、長く伸びた髪をかきむしった。
慧一の見た目は、良くいえば繊細な造りの顔、悪くいえばただの優男。せめて目を覆うまでに無計画に伸びた髪を切ればもう少し人が受ける印象も変わるのだろうが、今の彼は、失敗に打ちひしがれた元エリートととでもいった容貌だった。
その顔が歪み、真っ青になる。慧一の視線は、携帯電話の画面に釘付けになっていた。
「任務依頼の履歴が、消え、てる……?」
昨日、確かに慧一の所属しているツヴァイク社から送られてきた招集を報せるメールが、跡形もなく消え失せている。まるで、普段と変わらないと信じていた日常の隙間から、小さな昆虫が大量に湧き出てきたかのような、ぬぐいようのない気持ちの悪さが、慧一を捉える。
焦るな。落ち着くんだ、狩谷慧一。こういう時こそ、冷静に考えろ。
しかし、どれほど考えても、自分の身に何が起こっているのか、理解出来ない。ただ、最悪の事態に自分が巻き込まれつつある、それだけは確かだった。以前、同じような出来事があった時には――
慧一の体を耐えがたい寒気が襲い、体をぶるりと震わせる。それは、彼が決して思い出したくないトラウマだった。
いや、あの時と今回は、違う。あの時は任務をおれ一人でこなしたが、今回は相方であるオミムネが一緒だったのだ。そうだ、まずはオミムネに話を聞くべきだろう。
縋るような思いで、オミムネに電話する。
コールが一回、二回、三回――
「慧一、ご飯ですよ!」
階下から、母親の呼び声が聞こえる。オミムネは電話に出そうもない。仕方なく、慧一はコールを切ってリビングへ向かった。
どの道、着信履歴に気付けば向こうの方からかけ返してくるだろ。
ひっかかるのは、任務の目標物が、日本人の女の子だったってことなんだよな。
慧一は、夕食のそうめんを口に運びながら、思考を巡らせていた。前に座る両親は二人で互いに話すことに夢中で、黙々と食べ続けている息子には目すら向けない。まるで、レストランで偶然相席になった客と一緒に食べているかのよう。慧一に喋りかけてくるのは、せいぜい、テレビの中で今日のニュースを熱心に語っているニュースキャスターぐらいだ。
「戸締りには十分、お気をつけ下さい」「まだまだ気温は高いので、熱中症対策が重要です」
分かりきったことを、紋切り型の口調でいうばかり。両親はまるで気にしてもいない。
慧一は、そうめんをあえて大きな音を立てながらすすった。
不自然なほど、噛み合わない食卓。
しかし、これが狩谷家のいつもの食卓だった。
慧一の両親は慧一が中学に上がるまでの間、共働きで忙しく、とても子供を見ている余裕がなかった。そのため、慧一は幼い頃から祖父母の家で育てられてきたのだ。そのため、慧一は両親に対して親子という実感を持てずにいた。一方の両親の方も、祖父母が他界して突然手元にやってきた大きな息子をどう扱っていいかわからず、極力関わりを避けているというのが現状だった。
だが、慧一はこの生活にとっくに慣れてしまっていて、何も感じない。彼にとって目下重要なのは、そうめんの上に乗った氷より余程冷たい家庭環境ではなく、今夜の任務の事なのだ。
もし、目的地にいたのが金髪碧眼の美少女だったというのなら、これ程心配することはない。きっと狂ったこの世界には、そういう需要だってあるのだろう。少女誘拐だなんて正直お断りしたい任務だが、何か問題があるわけではない。任務の依頼など、依頼側の自由なのだから。しかし、あそこにいたのは日本人で、おそらくあの陰気な施設は、日本にあったのだ。それが何より、問題だった。
日本で軍用銃を持った迷彩服の男たちが街中を闊歩していたのは、もう二十年以上昔の話だ。今の日本の治安は決して悪くはない。
にも拘らず、日本で任務が行われたということは……
慧一の疑問に答えるかのようなタイミングで、ニュースキャスターが語りかけてきた。
「いま入ったニュースです。山梨県にある、ツヴァイク社の鳴沢共同研究所が午後八時過ぎ、テロリストと思われる集団による襲撃に遭いました。多数の死傷者が出た模様です。今のところ、詳細は分かっておりません。繰り返します――」
知らず知らずのうちに、慧一の手から箸が滑り落ち、音を立ててフローリングの上を転がる。両親が怪訝な目を向けてきたが、慧一は気付きもしなかった。
――山梨――テロリスト――襲撃――
目の前が、真っ暗になっていく。
間違いなく、これをやったのは、おれだ――おれが、テロリスト。
呆然自失していた慧一を正気に戻したのは、ポケットの中の携帯の震えだった。反射的に通話ボタンを押し、耳元に押し当てる。
「もしもし、狩谷? 留守電が入ってたけど、どうかしたの?」
のんびりとした、平和そうな声が携帯から聞こえる。
「どうかしたの、じゃないだろ! ニュース、見てないのか?」
「え? ニュースって?」
「いいから、テレビをつけてみろ。山梨で、テロリストの襲撃があったって、特報でやってるから」
大声でわめくようにして言いながら、急いでリビングを出て自分の部屋に移動する。扉を後ろ手に閉め、息を弾ませながら付け加える。
「おれたちだ。おれたちがさっきやった任務は、ツヴァイク社の研究所の襲撃だったんだ」
「山梨のニュースの事なら、知ってるって。それより、狩谷の学校、夏休みにはまだ入ってなかったよね」
「は? そりゃまだだけど、そんなこと話してる場合じゃないだろ。正気か? お前、まだ状況が分からないのか?」
自分とオミムネとの間にある余りの温度差に、慧一は焦れて言葉を荒げる。
「もう一度説明するぞ。この襲撃があった時間って、まさにおれたちが任務に就いていた時だろ。それに、あの施設だって、言われてみれば何かの研究所みたいだった。お前だって、バカじゃないんだから、これが意味することぐらい分かるだろ」
「そりゃつまり、ボクと狩谷さんが、ツヴァイクの研究所を襲った犯人ってことだろー?」
あっさりと、慧一が最も恐れていた答えをいってのける。分かっていたことだ。しかし、否定したかった事実を改めて人からはっきりと突きつけられ、逆に慧一が言葉に詰まってしまう。
「作戦場所が日本で、非合法なテロ行為に当たるって事ぐらい、最初から分かってやってたよ。もちろん」
「……じゃ、じゃあ、おれたちの雇い主のツヴァイク社が、自分で自分のところの研究所を襲撃するよう、指令を出したっていうのか?」
慧一には、まるで訳が分からない。それでも慧一が何とかパニックにならずにいられるのは、電話の向こうにいる弱冠十歳に過ぎない小学生が平然としていてくれるからだった。さもなければ、今にも大声で叫び出してしまいそうなほど、慧一は怖かった。
「そんな、気にしなくても大丈夫だって。ボクと狩谷は、任務をいつも通りこなしただけなんだから。狩谷って、任務中と私生活とで、コロッと性格が変わるよね。普段の狩谷は意外と心配星人なんだー。でも、安心してよ。狩谷が警察に捕まるなんてこと、ないからさ」
心配星人ってなんだよそれ?
緊迫した状況に、滑稽なほど合わない幼稚な言葉。ただ、今の慧一には突っ込む余裕すらない。
「そんな、ここまで大々的にニュースになって、大丈夫なわけないだろ。オミムネ、お前はいったい何を知ってるんだ? おれたち、いったい何に巻き込まれちまったんだ?」
核心を突いた質問にしかし、オミムネは沈黙する。
「おい、オミムネ?」
慧一の催促に対し、ややあって、ようやくオミムネは答えた。
「……狩谷、実は、どうしても一つだけ、伝えておきたいことがあるんだ」
「なんだよ。知ってることがあるんなら、全部話せよ。おれたち、パートナーだろ?」
かすかに、オミムネが笑う気配が伝わる。
「そーだね、ボクと狩谷は、パートナーだもんね」
「ああ。だから、教えてくれよ。おれだってこのままじゃ、寝覚めが悪過ぎるだろ」
「うん。実は、さ――」
携帯の向こうから、チャイムの音が聞こえる。
「あ、ごめん。誰かお客さんが来たみたいだ。また、かけ直すよ。それじゃ」
「ちょ、待て――」
だが、一方的に通話が切断される。
「くっそ、なんだよ、オミムネの奴」
携帯に向かって毒づくと、乱暴にベッドの上へ放り出す。オミムネから詳しい説明を受けるまでは、到底食事に戻る気にもなれず、自分もまたベッドの上に転がった。
焦って電気すらつけていなかった部屋の中、慧一はただじっと待ち続けた。
だが、結局朝までオミムネからの連絡は来なかった。代わりに翌朝、ニュースは大々的に襲撃事件の犯人について報じていた。曰く、今回の事件の主犯格はなんと弱冠十歳の少年Oであり、ツヴァイクの指令システムにハッキングし、偽造した指令メールを用いてクラスターに研究所を襲撃させた。そして自らに捜査の手がのびると、隠し持っていた拳銃で自殺を遂げた、とのことだった。
2.死者の呼び声
日本国における最大の輸出産業は傭兵である。
といっても、実際に日本人が兵士として海外の前線で戦っているわけではない。
2000年代初頭、衰退期にあった日本国で開発された画期的な兵器、クラスターが全ての始まりだった。クラスターとは、遠隔操作の無人兵器の一種だ。しかし、それまでの無人兵器とクラスターが決定的に異なっていたのは、スイッチやレバーによる操作を行わない、という点だ。操縦者の頚部に専用のソケットを手術により取り付けることで、神経の電位変化を直接機械に伝えてクラスターを操り、逆にクラスターの感知器が得た情報は直接操縦者の脳へと送ることができる。
この長距離同期システム、LTSによって地球の裏側からでも、兵器をまるで手足の様に操り、接近戦などでも瞬時の対応を行うことが可能となった。しかも、脳からの直接の指示で操作するため、訓練次第では一人の人間が多くの複雑な兵器を同時に動かすこともできる。
瀕死の状態だった日本の産業界は、クラスターに将来を託すことになる。だが、問題が一つあった。日本国政府自体は、第二次大戦以来の憲法や反戦の世論の下、到底クラスターという優秀な兵器を活かすことのできる状況になかった。
そこで苦肉の策としてとられたのが、民間会社による、クラスターの『貸出し』だった。クラスターを紛争の当事国に貸し出し、日本にいる武官と通称される社員が操作、依頼された任務をこなしていく。あくまでこれは武器の売買でもなく、ましてや日本が戦争を行っているわけではない。それが『武装商社』と呼ばれるようになったクラスター貸与会社と、政府の建前だった。
さらに時代と共にクラスターも進化し、現在クラスターとして使われているのはK―2という機種で、高価で整備にも手間のかかる機械ではなく、人工的につくられたヒト型の生体ユニットを採用している。つまり、現時点で日本は、熟練した特殊部隊を大量に全世界に輸出しているのだ。
そのクラスターが、日本国内でテロに使われた。それも、たったの十歳の子供にセキュリティを破られて――学校中が、昨夜のテロ事件の話題でもちきりだった。
「エニシ、聞いたかよ。実際にK―2を操作してた奴はまだ捕まってないけど、なんでもすごい腕前だったらしいぜ。厳重に守られてたツヴァイク社の最先端の研究施設を、たったの十人前後のクラスターだけで襲撃して、最深部にあった極秘資料を奪い取ったんだとよ」
クラスメートの及川颯(はやて)が、物知り顔で語ってくる。すぐ横で、彼の双子の妹である楓(かえで)が、「こわーい」と言って頬に手を当てている。エニシ、とは慧一の学校でのあだ名である。
「そりゃ、また、大した腕だね」
慧一は適当に相槌を打って、無理に笑って見せる。
「そういうエニシだって、任務達成率だけをみりゃ、ツヴァイク社トップの腕前だろ? コードネーム『カリヤ』と言えば、皆の憧れの的だ。なあ、お前だったら例のクラスター使いと同じこと、やれるか?」
いやいや、やれるもなにも、あの場所を襲ったのはおれなんだよ。どうだ? 驚いたか。
などと答えるわけにもいかず、慧一はやはり、意味のない笑みを顔に張り付かせて言った。
「いやあきっと、無理だと思うな。おれにはとても、十やそこらのK―2でツヴァイクの施設を襲うなんて、想像も出来ない事だし」
謙遜する慧一の言葉に、楓(かえで)が我が意を得たりとばかりに目を輝かせる。
「そうだよねー。慧一って、任務達成率はよくてもK―2の損壊率はやたらと高いし、何より本人は小心者だもんね」
「それもそうだ! エニシじゃとても、そんな大それたこと、出来やしないよな」
二人とも声を出して笑い、慧一もまた、二人に合わせて笑った。
一晩経って、慧一はもう、平静を取り戻していた。そして平時における、これが慧一のスタンスだった。適当に笑ってごまかしていれば、どんな辛いことも、時間とともに過ぎていく。そうやって、慧一は生きてきたのだ。
「でもさー、少年ゼロも、何者なんだろうね。テレビじゃ詳しい生い立ちとかは全く報道してなかったけど」
「そんなのもちろん、報道規制がかかってるに決まってるだろ? 逆に考えれば、少年ゼロはそれだけ政府の中枢に関わる機密に近付いてたってことさ」
楓(かえで)と颯(はやて)の会話についていけず、慧一が口をはさむ。
「少年ゼロって、誰の事?」
エニシ、そんな事も知らねえのかよ、と颯(はやて)が肩をすくめる。
「ツヴァイク襲撃の黒幕、少年Oの事だよ。オーじゃカッコ悪いから、ゼロ。ネット上じゃ、少年Oだなんて呼んでるやつ、もういないよ」
「ああ、なるほど」
少年O――オミムネのことだ。
しかし、こうしてオミムネの話を聞いても、慧一にはまるで実感がわかなかった。朝、ツヴァイク襲撃を指示した犯人のニュースを聞いてすぐ、間違いなく少年Oこそがオミムネだと確信したが、自分でも驚いたことに、何の感情の揺れも起きはしなかった。ニュースキャスターが語る事実はまるでもう、遠い世界での話の様にしか聞こえなかった。
あんな大それた事件に自分がかかわっただなんて、きっと夢だったんだ。何事もへらへらと笑って受け流していれば、きっとうまくやり過ごせる。
慧一は双子が事件について好き勝手な憶測と感想を並べたてていくのを聞き流しながら、そんなふうに思っていた。
だからだろう。突然ポケットの中の携帯電話が震え、メールの差出人表示に『オミムネ』と表示されていても、さして驚くことはなかった。
授業後、慧一が向かった先は駅裏の、風俗店などが立ち並ぶ怪しげな通りの一角にあるゲームセンターだった。
店の前では髪の色を思い思いに染め、独創的なファッションに身を固めた男女がアスファルトの上に座り込んでたむろしている。慧一は彼らと目を合わせない様に注意しながら、入口の自動扉をくぐっていった。途端に、ゲーム機器が生み出す様々な音楽、効果音が濁流となって慧一の耳に押し寄せ、激しく耳朶を打つ。平日の夕方とあって、慧一と同じ学校帰りと思しき制服姿の学生や、タバコをふかしながら暗い目をしてゲームの画面に没頭している中年など、様々な人間でホール内は賑(にぎ)わっていた。
慧一はホールに並ぶ色とりどりのゲーム機には目もくれず、店の最も奥に設けられたコーナーへと一直線に進んでいった。そこには、メタリックなデザインの仰々しい椅子が広い感覚を開けて並び、その前にはそれぞれ半球形をしたスクリーンが椅子に覆いかぶさるようにして配置されていた。
オミムネを名乗る人物からのメールの内容は端的だった。
『今日、ボクらが初めて出会った、あの場所へおいでよ』
突拍子もない内容に、慧一が返した返事も端的だった。
『お前はすでに、死んでいる』
これ以上、いうべき言葉が思いつかなかったのだ。しかし、返信は未だにない。イタズラだ、とは思いながらも、慧一はこのメールを無視することが出来ず、イタズラの仕掛け人に大笑いされることも覚悟の上で、こうして思い出の場所へとやって来たのだ。
慧一とオミムネ、本名、小海(おうみ)宗則(むねのり)が初めて出会ったのは一年前。多くの出会いがそうであるように、全くの偶然だった。
ゲームセンターに置かれている機種の中で最も人気があるのは、ダントツでクラスターでの戦闘を疑似体験できるマシンだ。もちろん、今時クラスターの操作など、学校で教えられる必修科目であり、いくら刺激的なものとはいえ、今の子供たちにとっては勉強の一部に過ぎない。さらに、慧一の様に武装商社と契約を交わし、既に実戦に出ている学生には各家庭にクラスターを操作するための特殊な機材が貸与されており、わざわざ身銭を切ってまで街に繰り出してK―2戦を繰り広げる必要性は皆無だった。
しかし一方で、武装商社からのスカウトを受けることが出来なかった落ちこぼれたちや、アーケード機での戦闘に大きな意味を見出したもの好きや戦闘狂たちも少なからず存在し、ゲームセンターに対する大きな需要を形成していた。
そんな中、慧一がゲームセンターへ足を運んだのは、単純に颯(はやて)たちに誘われたからというだけの理由だった。慧一にとってはその辺の学生などまるで相手にならず、大概、自身はたまに手を抜いて戦うだけで、颯たちが戦っているのを後ろから見ているのがほとんどだった。
一年前のこの日も、慧一は単なる付き合いのつもりで、待ち合わせをしてゲームセンターにきていた。ただ、思ったよりも早く着き過ぎてしまった。暇を持て余した慧一は、気まぐれで模擬戦闘用のマシンに腰を下ろした。颯たちが来るまでの時間つぶし。それだけのつもりだった。
「最近ここで調子に乗ってる奴って、お前?」
対人戦で、慧一が十人目の挑戦者を圧倒的な差をつけて快勝した頃、背後から声をかけられた。気が付けば慧一は人相の悪い青年たちに周囲を完全に囲まれていた。
「あっと、すいません。おれ、別にそういうつもりじゃ――」
とりあえず笑ってごまかそうとする慧一にしかし、不良が顔を近づけてすごむ。
「ああ? じゃあどういうつもりだってんだよ」
視野いっぱいに広がる不良の顔。口の中で、舌にはめられたピアスが照明の光に反射してギラリと光るのが見えた。
「えっと、その……すいません」
「すいませんじゃねーだろ。何か? てめえ、蕪木一尉にでもなったつもりなのか?」
蕪木一尉。クラスター界で神と呼ばれる人物の名前だ。慧一が心から尊敬し、憧れる人物でもあるが、この男の口からその名が呼ばれると、薄汚いものの様な気しかしなかった。
「はあ……」
「はあ、じゃねーだろ。どんだけ金すったか、わかってんのか?」
昔ながらの格闘ゲームの頃から変わらず、クラスターのアーケード機も対人大戦では敗者が常に金を消費し続けることを強いられる、弱肉強食のシステムが採用されている。いわばゲームの仕様であって、慧一には何の責任もない。しかし、不良たちにとってそんな事実は何の意味もない。現実世界では間違いなく、慧一が『弱者』なのだから。
慧一に出来ることは、笑顔を顔に張り付け、ただただ嵐が去るのを待って身を小さくしている事だけだった。
「すい、ません……」
「だーかーら、謝ってすむ問題じゃねえんだよ」
舌ピアスの粘着質な声に、横に立っていた背の低い不良が相の手を入れる。
「お、じゃあ、お財布チェック、いっちゃいます?」
舌ピアスが、いいね、といって同調する。
「なあ、お前、今いくら持ってる?」
不良たちの意図を察し、慧一の笑みが固くなる。
「えっと、千円、も、持ってない気が、します」
「あぁ? ふざけてんの、お前」
舌ピアスが笑う。しかし、眼は全く笑っていない。後ろにいた長髪の不良が、下卑た口調で尋ねる。
「やっちゃいます? こいつ。この辺りなら、いくらでも場所、ありますよ」
「あの、本当に、お金、ないんですよ。この間、ゲームソフト買って、それでもう、すっからかんで」
ははは、と今度は声に出して笑ってみたが、返って来たのは笑いではなく拳だった。
慧一の座っている椅子が、鈍い音を立てて揺れる。自分の頭のすぐ横にめり込んだ拳を見て、慧一のこめかみを冷や汗が伝った。
「おい、なめんじゃねえぞ。テメ―がツヴァイクの契約武官で、高い報酬貰ってるエリート様だってことは知ってんだよ」
慧一の笑みが凍る。どうしたらそんな個人情報を、ゲームセンターでとぐろを巻いている様な不良に知られることになってしまったのか、慧一には理解できなかった。
慧一の反応をみて図に乗った不良たちが、次々に脅しの文句を口にする。慧一は何も答えられずに、ただ笑っていることしかできなかった。
しかし、その視界にようやく、救いの光が映った。
颯(はやて)と楓(かえで)が、遠巻きにじっとこちらを見ているのに気づいたのだ。慧一は不良たちにばれない様に注意しながら、必死に目で救いを求めた。
この場に直接割って入ってくれとは言わない。せめて、店員に助けを求めてくれるだけでいい。
「おい、てめえら、何見てんだよ!」
チビの不良が、颯たちに気付いた。どうやらリーダー格らしい舌ピアスを意識しながら、チビの不良はやたらと高圧的に二人を睨めつける。
「とっとと失せろ! それとも、お前らもおれらとゲームでもやりたいのかよ」
不良たちの間で笑いが起こる。人を見下す、最低な笑い。楓が不安な表情で兄の顔を見上げる。颯は楓の手を取ると、慧一にもの言いたげな目線を送り、そのまま踵を返してゲームセンターを出ていった。
「なー、なんかもう、こいつムカつくからやっちまおうぜ」
「そうだな、ひとつ、ボコっとくか」
何でもないことのように、不良たちの間で話が進む。希望が断たれた慧一はただ、笑っていた。
「なに、こいつ。気持ちわる。何でこんな笑ってんの?」
「おい、何がそんなにおかしいんだよ」
腹に、ボディーブローが入る。慧一は体をくの字に曲げて咳き込んだが、それでも笑っていた。こんなもんか、と思いながら。
これぐらいなら、まだまだ、笑ってればやりすごせる――
「あれれ? キミたち、こんなところで何、弱い者いじめしてんのかな?」
場違いな、子供の声。慧一は最初、空耳だと思った。しかし、不良たちの輪が崩れ、その先から現れたのは、小学校高学年ほどの男の子だった。
「あ、いや、そういうわけじゃねえんだよ」
不良たちが、ばつの悪そうな表情で、顔を伏せる。
だが、男の子は不良たちの言い訳など聞く気ははなからないようで、彼らを無視してその間をまっすぐ、慧一の方へと歩んでくる。さらりとした真っ直ぐな黒髪に、丸い大きな目。小動物の様な愛嬌のあるその容姿は、強面の不良たちと並ぶと違和感しかない。だが、不良たちは突然の少年の登場に狼狽した様子だった。いや、それどころか、どこかこの年端もいかぬ子供に対し怯えている風ですらあった。
「彼らが粗相したみたいだね。ごめんね。彼らも根は……悪い奴らだから、どうしようもないんだよ」
慧一の前に立った男の子が、ケラケラと笑った。
こうして慧一は、不良たちに襲われていたところをたった十歳の男の子に救われるという、世にも奇妙な情けない体験をした。
後で知った事だが、オミムネはプログラミングにおいて天武の才を持っており、ゲームセンターなどをふらつくオミムネに何も知らずに手を出した人間はことごとく後々悲惨な目に遭っていた。持っているパソコンのデータが全て消し飛ぶなどというのはいい方で、警察から身に覚えのないデータの不正利用などの罪で検挙され、そのまま収監されることすらあった。一方で良好な関係を構築できた相手にはネット上で様々な便宜を図っていたので、地域の不良たちからは頼られる一方、不気味な存在として気味悪がられていたのだ。
この出来事以来、オミムネと慧一は親しくなり、クラスターによる戦闘で細かなマネージメントを行う相棒役に、慧一はオミムネを指名するようになっていった。
慧一は懐かしい気分になって、模擬戦闘機の席の一つに腰かけた。あのメールの差出人が誰なのかは、もうどうでもよくなっていた。どの道、用があるのなら向こうから声をかけてくるだろう。
ゲーム機に硬貨を投入し、スクリーンを見上げる。本物のクラスターではスクリーンなど存在せず、K―2が感じる視覚や痛覚、触覚と言った感覚は全て直接的に電気信号として脳に送られ、実体験となる。しかし、ゲームセンターの機械にそこまでのクオリティは望むべくもない。首あてが後頭部を覆う形状になっているのは本家と同じで、そこから電磁誘導によって脳の特定の位置で電位変化を起こさせるためだが、ここでは、操作するK―2全員の視界が、広いスクリーンにいくつにも区切った形で表示される。多くのK―2の視野を実際に映像として見ながら同時に把握しながら操作していくのは、本物のクラスター戦闘の場合よりも難しい。
それでも、慧一は起動画面で操作するK―2の数を最大数の二十に設定する。これでも、実戦で操っているK―2の数と比べればはるかに少ない。
どうやら、慧一の前の台でも誰かがプレイしていたらしい。自動的に乱入という形になり、対人戦闘が開始される。
マップは二階建てで、高い鐘楼を持った石造りの教会が一つに、木造平屋の建物が四十棟ほどならんだ、ごく平凡な途上国の市街地を模したものだった。対戦がはじまる前に、お互いが操る兵士の数とスタート地点が表示される。相手の数は八、お互い、マップ中央付近にある教会からは等距離に配置されている。ただ、教会に行くよりも、相手側のスタート地点に行く方が速い。勝利条件は制限時間内に自軍の損害より多くの敵兵を撃破する、または敵軍の殲滅。
さて、それじゃ、お手並み拝見と行きますか。
現実世界の出来事は全て、へらへらと笑っていれば過ぎ去っていく。しかし、クラスターの生み出す世界だけは違う。何を犠牲にしてでも任務を遂行できる者だけが、勝者となる。勝者と敗者。慧一が普段生活している世界ではあり得ないほど、この電気信号の向こうの世界は明瞭で、鋼の法則によって支配されている。
そしてこの硝煙と鋼の臭いが漂う世界において、『カリヤ』のハンドルネームを持つツヴァイク社の契約武官は、本物の英雄となる。
慧一は二十体のK―2を素早く五体ずつのチーム二つと、十体のチーム一つに分けると、その内一チームを教会に向けて全速力で直進させ、少し遅れてもう一チームに後を追わせる。
このマップでは鐘楼さえ奪ってしまえば、街全体を見渡すことが出来るようになる。間違いなく、鐘楼をどちらが先に制圧するかが重要になってくる。
慧一の右手に、チクリとした痛みが走る。鐘楼への直進ルートに、相手が待ち伏せを仕掛けていたのだ。先発部隊の一人が、道の横から銃撃を受け、倒れた。素早く退避行動をとらせ、道路わきの民家へ駆けこませるが、その間にもまた一体、手傷を負った。
多くのK―2を同時に操れば、それだけ意識は散漫になる。基本的な動作は各K―2が自発的に行ってくれるが、それでも狙撃の精度などは格段に落ちる。いつ、どこで、どのK―2に意識を集中し、うまく操るか。そこがクラスター戦における醍醐味の一つだった。
そして今、大量のK―2を操る慧一と、半分以下のK―2しか使っていない相手プレイヤーとの差が出始めていた。慧一側の撃った弾はことごとく遮蔽物に遮られ、コンクリートの壁を穿ち、無闇に埃を立てるばかりだった。逆にこちらは薄い木板を貫通した弾丸によって、順に手傷を負っていく。
「さて、ここまでは予想通り、かな」
慧一は小さく呟くと、先発部隊の後を追う形で進めていた第二陣に目を移す。敵部隊が待ち伏せ攻撃をしている間に、すでに彼らは戦闘地域を大きく迂回し、敵の後ろにぴったりとつけていた。攻撃を受けている間に、既に敵の所在地は全てつかんでいる。そして、第二陣の舞台に持たせた武器は遠距離射撃を得意とするスナイパーライフルだ。
第二陣のK―2たちが持つスコープが、鷹の目のごとく遠距離から敵部隊を捉える。
勝負は一瞬だった。
待ち伏せに相手プレイヤーが割いた四体のK―2は、自分たちの持つライフルの射程外からの精密射撃を前に、何故自分たちが倒れるのかも分からないまま、飛来する弾丸の餌食となっていった。
――残り、四人――
その居所は、考えるまでもなかった。再び慧一の手に鋭い痛みが走り、先発組で生き残っていた二体が、次々に噴き上がる自分の血を見つめながら崩れ落ちる。慧一は即座に狙撃手チームを屋根のある建物の下に移動させる。しかし、その間にも銃声も聞こえないまま、K―2の頭が跡形もなく吹き飛ぶ。
間違いなく、待ち伏せ部隊に足止めさせている内に、残りの敵部隊が鐘楼に到達、絶対的に有利な高所から、超遠距離で狙撃を開始したのだ。この状況ではもう、人数的な優位性など何の意味もない。家から出て遮蔽物のない道に出た途端、片っ端から狙い撃ちにされるだけだ。これでは、教会に近づくことはおろかまともに身動きすら取れない。その上、敵の損害四に対し、慧一の損害は六。僅差だが、負けている。この状況で建物内に立てこもっても、制限時間がくれば自動的に負けとなる。
恐らくこの状況は、このマップでありがちな完全な負けパターンなのだろう。
――ただし、普通のプレイヤーなら、な――
慧一の表情に、不敵な笑みが浮かぶ。普段の実生活では決して見せない、生き生きとした笑み。慧一の視野の先にあるのは、ゲーム開始時から戦闘に全く参加していなかった最後の部隊だった。彼らの視界を表すスクリーン上には、大きく教会の鐘楼が映し出されていた。
ゲーム開始当初から、慧一は彼らに戦闘地域を完全に迂回させ、弧を描くように大回りさせて教会へと向かわせたのだ。そのため、敵部隊より先に教会へ着くことは出来なかったが、鐘楼からの狙撃が始まった時には教会から二つ手前の建物にまで到達していた。
しかし、ここから教会へ数を頼りに無理矢理突撃しても、勝ち目は薄い。相手は間違いなくその可能性を考慮し、教会内に対人地雷をあるだけ仕掛け、鐘楼の入口に向けてサブマシンガンでも構えながら待ち構えていることだろう。それに、そもそもここに集まったK―2は一丁たりとも、銃を持っていなかった。
通常のクラスター戦では武器など予算の許す限り自由に選ぶことが可能だが、ゲームではバランスを保つため、重火器は数に限りがあるなど、ある程度制限がある。その条件下で、慧一が彼らに持たせたのは、ありったけの――手榴弾だった。
「チェックメイトだ」
十体のK―2が、一斉に建物の外へ打って出る。当然、そこへ待ってましたとばかりに狙い澄ました銃撃が襲いかかり、次々とK―2は倒れていく。しかし、死への恐れを知らない軍隊は仲間の死体を乗り越え、教会へと殺到した。そして、中でも運のよかったK―2四体が、無傷のまま教会の塀をよじ登って敷地内へと侵入することに成功した。
だがこれでも、状況は四対四。今頃、相手のプレイヤーは慧一の無謀な突撃を嘲り笑っている頃だろう。
さらなる火線が、生き残ったK―2へと降り注ぐ。
しかし、ここでK―2たちはあり得ない行動をとった。唐突に、唯一所持していた手榴弾のピンを引き抜き、鐘楼に向かって投げつけたのだ。直後、鐘楼からの火線が、生き残っていたK―2たちの四肢を弾き飛ばし、心臓を撃ち抜いた。
だがそれでも、投げ放たれた手榴弾はゆっくりとした放物線を描き、鐘楼の根元部分にあたると、跳ね、弾けた。
四つの手榴弾が同時に炸裂し、強烈な爆風を伴って空気を揺らす。そして、その直撃をもろに受けた鐘楼は、轟音を上げ、ゆっくりと倒れ始める。
街を見下ろす鐘楼は、爆炎の燃え盛る中、地に落ちた。
全ての画面が真っ白になり、K―2たちの疑似感覚が消えていく。スクリーンいっぱいに、大きな文字が映し出された。
You are winner
当然の帰結だ。
慧一は充足した溜息をつくと、背もたれに体を預け、大きく伸びをした。やはり、慧一にとって、クラスター戦での勝利は何物にも代えがたい喜びだった。
しかし、強烈な破壊音が、慧一の充足の時間を打ち破った。
続いて、怒り狂った猛獣の雄叫びの様な声。
「ちょっと、あんなの、あり? 建物ごと吹き飛ばすだなんて、ゲームのコンセプトを完全に無視してるじゃない!」
どうやらこれは、早々に撤退した方がよさそうだ。
オミムネが(おそらく)死んだ今、この治安の悪いゲームセンターで慧一を守ってくれるものは何もない。慧一は立ちあがると、向かいの台の方を見ないようにしながら、顔を伏せてそそくさと立ち去ろうとした。
「逃げるな! 卑怯者!」
迫撃砲でも着弾したかのような強烈な衝撃を背に受け、慧一は軽々と前方へ弾き飛ばされ、突っ伏すように床に倒れ伏した。
「な、つつつ……何が、どーなってんだ……」
唐突な肺の圧迫に咳き込みながら、痛みをこらえて起き上がる。
「この、おれに手を出して、後でオミムネに何をやられても――」
ハッタリにとオミムネの名を出した慧一の言葉はしかし、途中で尻つぼみになって消えていった。背中の痛みも、息苦しさも、何もかも飛んでいった。
慧一の目の前に、腕を組んで顔を上気させながら立っていたのは、昨夜の任務で最後に出会った、おとぎの部屋の少女だった。
3.死者は生まれ変わる
第一印象は、小学校を卒業したばかりの、ボーイッシュな女の子。野球帽の様につばの長い帽子の下から、メッシュの入った色の薄い髪がたれる。比較的小さな顔に対して、眼はやたらと爛々と輝き、勝気な色をしている。
鳴沢村の研究所で会った時には、暗かった上にすぐオミムネに接続を切られてしまったのではっきりと顔を見れたわけではなかったが、それでもこのやたらと挑戦的で、力のある瞳は見間違い様がなかった。
ただ、服装は当時とは明らかに違っていた。今はどこかファンタジーな幾何学模様が描かれた、襟周りのやたらと長いシャツを着ていて、一方の肩を出している。下はシンプルなデニムのホットパンツ。
思わず慧一は、言葉を失って、少女の顔を呆然と見つめてしまう。
「どう? 今の正義の鉄槌で、少しは反省する気になった?」
少女が勝ち誇る様に言う。どうやら、背後から蹴られるか殴られるかしたらしい。少女は呆然とする慧一の反応などまるで気にも留めず、言いつのる。
「だいたい、未来のクラスター界の女王に、なんて真似するわけ? ほら、謝罪しなさいよ、しゃ・ざ・い!」
そうか、そういうことか。
ようやく、慧一の中で合点がいった。
あのメールは、慧一をこの少女と引き合わせるためのものだったのだ。
でも、そうだとすると、本当にオミムネがあのメールを出したのか?
「さあ、土下座でもいいし、金品財宝を差し出してもいいわ。……そうね、美味しい料理とかなら、なおいいかも!」
「昨夜、鳴沢村の研究所にいただろ、あんた」
「ちょ、こいつ、全然あたしの話聞いてないし!」
「え? 話? 話なら後から聞いてやるから、とにかく答えてくれ」
「あ、あんたねえ……それに、昨夜って、あたしは昨日――」
「……気色悪い」
「へ?」
突然、少女の背後から幽霊のようにゆらりともう一人少女が現れ、慧一は狼狽した。その上、何故かその少女に第一声から人格否定までされてしまった。
つーか、あんたの方がよっぽど気色悪いだろ。
慧一が、心の中で反論する。新たに出現した少女は、長い黒髪にやたらと端正な顔立ちをした和風の美しさを備えていたのだが、服装は異常だった。ノースリーブの黒のワンピースに、肘まである黒の手袋、黒のソックスに黒の革靴、要するに、全身黒ずくめなのだ。良く見ると、手に持っている日傘まで、黒。
「……さてはあんた、来る場所を間違えたな。葬式場は、駅向こうの方だぞ」
などと、オミムネなら軽口を叩いていたところだろうが、慧一にそんな勇気などあろうはずもない。慧一に出来たことはせいぜい、いつも同様、無意味な笑みを顔に浮かべて、はあ、と意味のない相槌をうっただけだった。
「初対面の女の子に向かって、昨日の夜どこにいたか聞くだなんて、救いようのない変態ね、あなた」
喪服少女の冷たい断言に、慧一は反論する余地も見いだせず、やはり笑っていることしかできない。横でボーイッシュな方が呆れたように肩をすくめる。
「はは、相変わらず、涼香ちゃんは厳しいね。でも、あたしとしてはちょっとぐらい話聞いてあげてもいいんだよ? なんか、ウマい話かもしれないしさ」
涼香? その名前に、慧一はふと聞き覚えがあるような感覚を覚える。
当の涼香は、慧一を値踏みするような視線で見つめてくる。
「……そうね。ニケをコケにしてくれた借りもあるし、こうしましょう。あなたが今からクラスターでわたしに勝てたら、質問に答えて上げる。わたしが勝ったら、あなたにはこんなバカげた質問をした理由を話してもらう。ただし、あなたからの質問は一切なし」
このまま変態扱いされてゲームセンターを叩きだされるのかと恐れていたら、思ってもみない好条件を突然提示され、慧一は即座に快諾した。
「よし、のった」
横でニケと呼ばれた少女が嬉しそうに拳を突き上げる。
「やった! さあ、涼香ちゃん、がっつりあたしの仇を取ってきてちょうだい!」
ははは、と適当に受け流しながら、心の中で慧一はほくそ笑む。
確かに、ボーイッシュ少女、もといニケとやらの腕は決して悪くなかった。戦略は慧一が想定していたものの中で中級者レベルのものであり、直接的な銃撃戦での近接戦闘は上級者と言っても差し支えないレベルだった。だがそれでも、ツヴァイク社の『カリヤ』との間には越え難い差が存在する。恐らく、涼香は連れのニケよりも一回り腕がたつのだろうが、その程度ならば全く問題はない。残念ながら相手が悪いとしか言いようがない。
だが、そんな慧一の内心を見透かすように、涼香が台へと向かいながら冷めた声を投げてくる。
「あなた、何か勘違いしてるみたいだけど、ニケは今日、初めてクラスターを操作したのよ? 『外道のカリヤ』さん」
唐突に、ネット上での二つ名を呼ばれ、慧一は吹きだしそうになった。『外道のカリヤ』――慧一のプレイスタイルから付けられた、名誉なのか不名誉なのか良く分からないあだ名だ。
「どうして、おれがカリヤだと思うんだ?」
「さっさと席について。始めるわよ」
涼香の冷徹な声に、慧一は渋々引き下がってゲームマシンの前に座る。しかし、心の動揺は抑えきれなかった。何故、自分の名前がばれたのか。涼香は、相手がカリヤだと知った上で、どんな目算があってクラスターでの勝負を挑んできたのか。本気で勝てるつもりでいるのか。
考えれば考えるほど、思考は深みにはまり、混乱は深まる。
――いいさ。この勝負に勝てば、全て教えてくれるというのだから、勝てばいい。それだけの話だ――
スクリーンが白くなり、戦闘開始へのカウントダウンが始まる。
「なにがいけなかった、なにがだめだった、なにがわるかった、なにをまちがえた、なにを――」
「やった、涼香ちゃん! さすが!」
「相手が弱過ぎただけよ」
台の向こうから聞こえる冷たい声が、慧一の心に塩をぬる。
戦闘の結果は、救いがたいほどの慧一の惨敗だった。二十体動員した慧一のK―2は、四体の涼香が操るK―2の前に、手傷一つ追わせることが出来ず、全滅した。
「う、う、うそだ……」
慧一は頭をかきむしると、肩を震わせ、そのまま頭を抱え込んで俯いてしまう。クラスターを操ることにのみ自分の存在価値を見出しているといってもいい慧一にとって、受け入れがたい事態だった。
スクリーンを周ってやって来たニケが、勝ち誇って慧一に指を突きつける。
「どう? 涼香ちゃんの実力は! さあ、大人しく負けを認めて、あたしに謝罪しなさい!」
何故『あたしに』なのか全くの不明だ。だが、慧一には到底そこを指摘する余裕も気力もない。
「どうしてニケにあんな質問をしたのか、何故今日、ここに来たのか、教えてもらうわよ」
ニケに続いて現れた涼香が、うずくまる慧一を見下ろしながら、硬質な声を投げ付ける。
慧一はしばし黙りこんだのち、うずくまったままゆっくりと語っていった。
昨夜の任務の事、パートナーのオミムネが少年ゼロであったらしいこと、死んだはずのオミムネからメールが届いたこと。
決して人に話すべき内容でない事は分かっていたが、自暴自棄な気分になっていた慧一は、洗いざらいぶちまけた。
「――これが、おれの知ってる全てだよ。実のところ、おれ自身なにが起こってるのか、さっぱり分からないんだがな」
「じゃあ、昨日の夜あたしを助け出してくれたのって――」
眼を見開いて驚きの声を上げるニケを、涼香が制する。
「ニケ、こいつは負けたんだから、わたしたちの情報を与える必要はない。――さ、それじゃあ聞くだけの事は聞いたから、とっとと消えて。狩谷慧一」
涼香の言葉に、慧一は操り人形のように席を立って歩き出す。もう、なにも考えることが出来ず、フラフラとした足取りで出口へと向かって行った。
「待って」
涼香の声が、呼びとめる。振り向いた先にあった涼香の表情は、今までよりも少し、翳が濃いものになっていた。
「あなたは、それだけ奇怪で、かつ危機的な事態に陥っていながら、どうして真相を知らずに平気でいられるの? 今だって、わたしたちから真実が聞きだせるかもしれないのに、勝負に負けただけで、あっさり引き下がろうとしてる。なぜ?」
思いがけない問いだったが、慧一の答えは決まっていた。
「そりゃ、知りたいとは思うけどさ。現実では、物事、テキトーに笑ってりゃなんとかなるんだよ。だから、無理をしてまで知りたいとまでは思わない」
むしろ、目下慧一にとって重大なのは、クラスターでの戦いで負けたという事だ。
「え? でもそれ、笑っててもどうにもならなかったり、我慢できなくなった時はどうするの?」
涼香より先に、ニケが尋ねてくる。慧一は何を当然なことを聞くんだ、という顔で言った。
「その時は、さらに笑う。笑って笑って、全てを笑い飛ばしちまえばいいんだよ」
「へえ〜、そんなもんかな。でもそれさ、自分から一歩踏み出す大切な機会まで、笑ってる内に見逃しちゃいそう」
「そんなこと、…あるわけないだろ」
ニケはふーん、と腕組みするばかりで、半信半疑といったようすだった。
だが、慧一の返事は喪服少女の気にそぐわなかったらしい。涼香は急に興味を失ったような顔になると、顔を背けてしまった。もう話す気すら、ないらしい。
自分から聞いておいて、とんでもない女だな。
慧一は肩をすくめると、身を翻してゲームセンターを後にした。
それから二週間。慧一の近辺では何事もなく、学校は穏やかに夏休みへと突入していった。その間、オミムネからのメールは二度と来ることはなかった。慧一は時間と共に、あの二日間の出来事は何か悪い夢だったんじゃないか、と思う様になっていた。
おれが事件に巻き込まれるなんてあるはずがないし、ましてそこらのゲームセンターで完敗するなんてこと、絶対にあり得ない。
だが、そう思っていた矢先、夜中に家でネットサーフィンをしていたところ、偶然、見たくもない、少年ゼロ関係の記事を見つけてしまった。
さすがに情報が目の前にあれば、現実逃避よりも好奇心が勝る。慧一は恐る恐る、サイトのリンクをクリックした。
フリーのライターが、独自のコネを利用して警視庁内部の資料から得たという情報。そこには、慧一がこれまでにも何度か聞いたことのある単語が踊っていた。
――五人組――
近年、再び少しずつ増加し始めたテロ事件の裏にいるとされる、謎の集団。当初から陰謀論的な響きが強く、ネット上でも噂程度に言われているだけだった。大手メディアからは、ほとんど取り上げられていない。
しかし、記事は言う。今回テロを計画し、自殺した少年ゼロはこの五人組の一人だった。警察は押収した資料などから、彼と協力関係にあり、かつ各々テロリストの指導的立場だった人間が四名いることを調べ出した。さらに、互いの事を五人組と呼びあっていた痕跡も押さえた。しかし、下手に情報を小出しにすると他の四人が逃走を図る恐れがあり、警察は十分な情報を揃え、逮捕した上で全ての事実を明かすつもりでいる、とのことだった。
慧一は眉根をひそめた。
この情報はどこまで信頼できるかわからない。しかし、真実ならば、慧一のパートナーが、テロリストの首領の一人だったということになる。
たった十歳の男の子が、そんなまさか!
コンコン
考え込んでいた慧一を、窓に何かがぶつかる音が現実に引き戻した。
風だろうか。
しかし、そう考えている間にも再び窓が叩かれる。慧一は何気なく窓に近づくと、カーテンを開いた。
最初、赤い棒と金色の二つの球が浮いているのかと思った。しかし、すぐに闇の中から輪郭が現れ、赤い首輪をつけた、一匹の黒ネコがいるのだと気付く。
どうして、こんなところで人の家の窓を叩いてるんだ?
ネコを餌付けした記憶などない。
不審に思いながら窓を少し開けると、その小さな隙間から、すかさずネコが部屋の中へ飛び込んでくる。
「おい! よせ、入るんじゃない!」
思わず、声を上げてしまう慧一。
「まあまあ、そう固いこと言わずに、さ」
「……え?」
慧一は部屋に入ってきたネコを振り返ったそのままの姿勢で硬直してしまう。
今、間違いなくネコから声が聞こえたような……。
ネコは慧一の反応など気にも留めず、部屋の中央に陣取ると優雅に毛づくろいを始める。
慧一はこめかみをかきながら半信半疑で言った。
「今のは、空耳……だよ、な」
「あんなはっきりした空耳が聞こえたって言うのなら、聴覚検査を受けることをお勧めするよ、狩谷」
慧一は思わず、ネコから飛びのいてしまう。
ネコの口は動いていなかったが、間違いない。声はネコから聞こえた。
学校の奴らの、手の込んだいたずらか? でも、この声、この皮肉めいた喋り方は……
「オミムネ、なのか?」
「ネコに決まってるじゃん」
「おい!」
この憎たらしいクソネコ、保健所にでも通報してやるべきか。
怒りに頬をひくつかせる慧一を見て、ネコは可笑しそうに笑った。と言っても、やはりネコの表情は変わらず、小さな笑い声からそう感じられるだけだ。
「相変わらず、キミは面白いね。――久しぶり、狩谷」
「……本当に、オミムネなのか」
「だから、言ってるだろ? ネコだって。死んでもキミの事が心配でね。こうしてネコに生まれ変わってまで、キミの事を見に来てあげたんだよ。いや〜、閻魔大王に事情を説明するのは、けっこう大変だったよ」
黒ネコが大仰に首を振る。しかし、慧一はまだ半信半疑だ。
「生まれ変わりに、閻魔大王だって? 再生医療のおかげで体の部品を自由に交換できるようになったこの時代に、そんな話信じれるかよ」
「閻魔大王も悩んでたよ。人間が百歳を超えても平気で生きているようになっちゃったから、最近暇で暇で仕方がないって。だから、ボクの話も親身になって聞いてくれたんだよ」
「そ、そっか……そんなもんなんだ」
それならいつか、死んでしまった祖父母の生まれ変わりにも、会えることがあるのかもしれない。
慧一は人類が永遠に謎としてきた真実を知って、心から感動した。
「ま、もちろん全部ウソだけどね」
「え?」
慧一の目が点になる。
慧一の間抜けな表情がよほど面白かったのか、オミムネ・ネコはフローリングの上で身をよじって笑い転げた。
「アッハッハッハ、キミって、やっぱり、おもしろい〜」
「…………」
完全に遊ばれたのだと知って、慧一は無言でクローゼットの中から秘蔵のエアガンを取り出し、無礼なネコに向けて狙いを定めた。
「あ、ちょっと、タンマ。親友をエアガン何かで撃つ奴があるかよ!」
オミムネ・ネコが一瞬前までいたところへ、小型プラスチックの弾丸が連続して命中する。
「ごめん、悪かったって!」
オミムネ・ネコが命からがら戸棚の上へ逃げ込んだところで、ようやく慧一は銃撃をやめた。無言でネコに歩み寄り、ネコの首筋をむんずとつかみ上げる。
「へへへ……」
ネコは尻尾を揺らし、愛想を取る様な表情をする。もちろん実際にネコの顔が変化しているわけではないが、はっきりとそうしようとしているのが伝わってくる。
慧一は構わずネコの首輪を掴み、周囲を探った。
「思った通りだ」
そこには機械仕掛けのマイクと、ネコの毛皮の中へと入っていき、最終的には皮膚の中へ食い込んでいるプラグがあった。
「ありゃりゃ、ばれちゃったか。残念」
オミムネ・ネコがさして残念そうでもなく言う。
「話に聞いたことはあったよ。第二世代クラスターの中には人間型の生体ユニットを用いたK―2以外にも、偵察用などの他の動物型ユニットを採用しようという動きもあったってね。でも、現実には感覚器や神経系の構造が異なる生き物とでは情報伝達のやり取りに齟齬が生まれ、上手くいかなかったと聞いたけどな」
「このネコちゃんは、その時に廃棄されそうになってた試験体の一つだよ。ボクがこっそり横取りして、世話してたのさ。オミムネ・ネコ。略してオミムネコ。なんちゃって」
オミムネの下らない戯言には付き合わず、慧一はゆっくりとオミムネ・ネコを再び本棚の上に戻して、言った。
「でも、それは根本的な答えになってない。クラスターがここにいるということは、どこかに必ず操縦者がいる、ということだろ。オミムネ、お前は生きてるのか?」
「さあ、どうだろうね。その答えはきっと、これから決まるんじゃないかな」
「? どういう意味だよ、それ」
「さあね〜。それより、さっき外にいる時に見たんだけど、玄関前で、キミを尋ねてきたひとが待ってるよ」
「いま、夜中の十一時だぞ。どこの誰だよ。こんな時間に尋ねてくる奴って」
「行ってみれば分かるさ。ほら、キミの両親に見つかると何かと面倒なことになるから、早くした方がいいよ」
慧一は首をかしげながらも、言われた通りに部屋を出ていった。オミムネ・ネコはその後ろ姿を見つめながら、小さく呟く。
「彼女が叩くは、運命の扉、かもしれないね」
「じゃじゃーん、ひっさしっぶり!」
玄関を出た途端慧一を迎えたのは、無意味にハイテンションな少女だった。
「あんたは……確か、ニケ、だっけ?」
「だっけ、じゃないでしょ。どっからどう見ても、勝利の女神、ニケ様でしょ」
と言われても、まだこれで会うのは三度目であり、一度目は本当にちらりと見た、程度のものだったのだが……。とはいえ、このやたらと自信満々な瞳は、忘れようもないか。
「だいたい、勝利の女神が、おれ相手にぼろ負けしてたんじゃ、名前負けもいいとこだ」
「ちょっと、ぶつぶつ何言ってんの」
「いいや。こっちの話。それで、何の用?」
「ふふふ、聞いて驚かないでよ。今日は外道のカリヤ、あなたをスカウトしに来たの!」
ニケがびしりと人差し指を慧一に向ける。どうやら本人は、このポーズとセリフがかっこいいと信じているらしい。慧一は面倒臭そうに頭をかきながら答える。
「あんたな、人を外道とか呼ぶなよ。おれは実生活では狩谷慧一であって、それ以上でもそれ以下でもない」
「ええ〜、でも、『外道のカリヤ』の方があってるじゃん。この前あたしと戦った時だって、戦術は基本全てのK―2が捨て駒。最後のトラの子のK―2すら特攻に使うんだから、外道としか呼びようがないでしょ。涼香ちゃんだって言ってたよ。普通、人間と同じ外見をしていて、痛みや苦しみなどの感覚まで操作者と共有するK―2を、あそこまで平然と捨て駒扱いすることは、頭では割り切れても、中々出来ることじゃないって。まさに外道! としか言いようがないでしょ」
なるほど。あの涼香とか言う女子、おれのプレイスタイルを見て鎌かけたんだな。
分かってしまえば、どうということもない話だ。
「あれは人間じゃなくて生体ユニットに過ぎない。おれはそこをわきまえてるだけだよ。クラスターは、疑似的な生命体を使って戦闘を行うシステムなんだよ」
「といっても、戦って殺される相手は、実際にこの地球上で生きてる普通の人間なんだけどね」
触れられたくないところを突かれ、慧一はグッと言葉に詰まる。しかし、ニケには慧一の道義的な責任を問うつもりはなかったらしく、あっさり引き下がった。
「ま、呼び方が気に食わないって言うのなら、無理強いはしないよ。でも代わりに慧一も、あたしの事、あんたとか言わずに、キッチリあたしが指定した名前で呼んでよね」
「オーライ。なんて呼べばいいんだ?」
「そうねえ、まず、その時に思いついた最高の褒め言葉を枕に付けて、『○○な勝利の女神、ニケ様』かな。最後はニケ女王様、でもいいよ。例を上げるなら、今日も最高にお美しい勝利の女神、ニケ様、とかねー」
「おれ相手に負け越している勝利の女神ニケ様、どうでもいいからさっさと要件を言ってくれ」
「ちょっと! 勝利の女神の所に、全然心がこもってない! しかも、褒め言葉でも何でもないじゃない」
「思いつく限りでは、これが一番ましだったんだ……」
「って、頭ん中でどんだけ悪口考えてんのよ!」
地団太踏んで悔しがるニケを見て、慧一の口からついつい、笑みが漏れる。
彼女がどんな秘密にかかわっているかは知らないが、悪い人間ではなさそうだ。
「さっき、スカウトしに来たって言ってたけど、どういう意味なんだ?」
慧一の言葉に、ニケはパッと顔を上げ、大声で答える。
「そうよ! 忘れるところだった。慧一、光栄に思いなさい。あんたをこのあたしがガヴァナーを務める武装商社、タクノ社の契約武官として迎えてあげる!」
「……話は済んだみたいだな。それじゃ、おれもう寝るから」
家の中へ戻ろうとする慧一を、慌ててニケが呼び止める。
「ちょ、せめて、もう少し驚いて、ついでに喜びなさいよ! いい? このあたしがガヴァナーを務める会社よ? これから急成長間違いなしの、大穴会社よ!」
「だから嫌なんだろ……」
ガヴァナーとは、武装商社における文官の最高位で、商社から軍の管理及び占領地域の行政における最高指揮権を付託された存在だ。もちろん、そんな重役、目の前に立つ一介の少女にこなせようはずもない。
タクノ社がどの程度の規模の会社なのか知らないが、悪い冗談にも程がある。
本当に眠くなってきてあくびが出てきたところへ、唐突に違う方向から声がかかる。
「ガヴァナーは、その子じゃない」
暗闇から浮き出るように、少女が現れる。黒のワンピースに黒の長手袋。――涼香だ。今日は屋外だからか、黒の日傘をさしている。
……夜なのに。
慧一は鼻で笑って答えた。
「なら、あんたがやるとでもいうのか?」
実際、ニケがやるよりはましかもしれないが。
「そんなわけ、ないじゃない。ガヴァナーは、その手の事に慣れた、信頼できる人よ」
「ええー、ガヴァナーは、あたしがやるよ。タクノ社の計画は、あたしが考えたんだから」
「ニ、ニケが?」
「そう。武装商社を立ち上げて、それをどんどん大きくして、ゆくゆくはあたしがクラスター世界の女王として君臨するの! どう? この壮大な理想に感服したでしょ。さあ、跪いて未来の女王に忠誠を誓いなさい!」
「ニケ、とりあえずあなたを書類上はガヴァナーと言うことにしておいてあげるから、当座はそれで我慢して」
「ウムム……でも、書類上ガヴァナーなら、会社が十分大きくなったあとで、その成果だけを頂くことも――」
小声でブツブツと悩むニケを見て、慧一は目を丸くしながら涼香に尋ねる。
「えっと、正気か?」
「ええ、もちろん。新しい武装商社を立ち上げるってところまでは、十分本気」
涼香の言葉に、声を上げて笑った。
「おいおい、立ち上げるって、冗談だろ? その会社、まだ存在もしてないのかよ。武装商社の三大権利、知ってるのか?」
「募兵の権利、徴税の権利、そして宣戦と和睦の権利」
「そう。それだけ重大な権利を、そう簡単に政府がばらまくと思うのか? クラスターが民間で実戦配備され始めたばかりの創成期を除いてこのかた、新しい武装商社なんて一社も認可は下りてないんだぞ」
「それなら問題ない。わたしたちは、休眠していた武装商社、タクノ社の名前を買い取って企業を始めるから。認可はすでに持ってる。だから、問題は一つだけ。武装商社再開のための規定人数の武官を集めること」
「そーいうこと。武官六人以上っていう条件はクリアできそうなんだけどさ、現役の武官が最低一人って言うのがまだなんだよね。だから、入りなさい!」
「何で最後、命令口調なんだよ……。それに、おれじゃなくても隣にいるお友達を誘えばいいじゃねえか」
慧一が涼香をあごで示す。だが、涼香は平然と答えた。
「わたしは、武官としての正規のアカウントを持っていない」
「な、マジかよ。あの強さでか?」
武官として武装商社に勤め、それなりの成績を修めれば、未成年の間は賃金が支給されなくても、将来的には多額の年金が約束される。軍事産業以外にまともな就職先がない今のご時世では、誰もが欲してやまない立場だ。
慧一にはつくづく、この少女の心境が理解できなかった。
「とにかく、慧一にはタクノ者と契約してもらうから!」
なにがなんでも既成事実にしようとするニケに、慧一は道理の分からない子供を諭すような口調で反論する。
「あのなあ、良く考えてみろ。最大の武装商社であるツヴァイクと契約していて、さらにS級ライセンスの待遇までもらってるおれが、未だ休眠中で、かつ素性の知れない怪しげな連中たちが運営しようとしている会社になんて、移籍しようとすると思うか?」
「多重契約は可能なはずよ」
涼香から冷静な指摘が入るが、慧一は首を振った。
「そいつをやると、将来の年金額は大きく減ることになる。そんな冒険する気はないね」
「そう。あなたにとって大切なのは、将来の自分の安泰な生活ってわけね」
棘のある言葉に、慧一はムッとして答えた。
「それでなにが悪い?」
「べつに。わたしは最初からあなたなんかを会社に入れるのは反対だし。他を当たりましょ、ニケ」
涼香が長い髪をたなびかせ、颯爽と去っていく。ニケはでも、と言って逡巡している様子だったが、仕方なく諦めて涼香のあとを追って行った。
とんだ与太話に、無駄な時間を取られたもんだ。
慧一は溜息をつきながら、家の中へ戻った。
「ちょっと、何なの、あの子たちは。こんな夜中に」
たたきで慧一を迎えたのは、不機嫌そうな顔をした母親だった。
「ごめん、大したことじゃないよ。えっと……学校の課題で、共同研究をやるんだよ。だから、そのための資料をあの二人に貸してあげてたんだ」
「そうなの? でも、あの黒い服の子、あなたよりいっこ下の一年生じゃなかった? 問題児だって噂、聞いたことあるわよ」
適当にでたらめを言ったつもりだったが、思わぬ母親の言葉に慧一は完全に意表を突かれた。
うちの学校の、生徒……。
慧一はそこまで考えて、ハッとした。
涼香……そうだ、河西(かさい)涼香だ。家が新興宗教にはまっているとかで、下の学年の間でいじめに近い扱いを受けていると、以前聞いたことがある。道理で名前に聞き覚えがあるはずだ。
慧一は下の学年の名前などまず知らないのだが、河西涼香だけは学校中で有名だったので、名前だけは聞いたことがあったのだ。
だとすると、あの子が学校一の嫌われ者だったのか――
「ちょっと慧一、聞いてるの?」
「あ、うん。ごめん、すこし考え事してて」
「もう。とにかく、あの子とはあまり関わらない様にしなさいよ。慧一が悪い影響受けて、わたしまで学校に呼び出されるような事になったら嫌だから」
「……はい」
「それから、夜中に家の前で大声で喋らないこと。近所の迷惑になって、苦情が来たらわたしが困るでしょ?」
慧一は、何も言わずに頷く。
「それじゃ、明日も早いから、わたし寝るわ。もうこれ以上、起こさないでね」
母親があくびをしながら寝室に戻っていく。慧一はその後ろ姿を、冷たい目で見送った。
自分の部屋に戻ると、そこにはまだオミムネ・ネコがいた。
「なんだ、外にいる間もやってこないから、もう帰ったのかと思った」
横になっていたオミムネ・ネコは起き上がって気持ちよさそうに伸びをする。
「交渉の行方がどうなるか、ここから聞いてたのさ」
「なんだよ。なら、直接来ればよかっただろ。どうせ、オミムネとあの二人、知り合いなんだろ?」
しかし、オミムネは慧一の問いには答えず、逆に尋ね返してきた。
「慧一は、どうしてあの二人の提案を蹴ったの?」
「やれやれ。今度はオミムネまでおれを得体の知れない武装商社に勧誘するのかよ」
慧一は大きく息をつきながらベッドの上に腰を下ろした。するとそこへ、オミムネ・ネコが軽快に駆け上がってくる。
「なんだよ」
膝の上から間近に見上げられ、慧一は落ち着かない気分になる。だが、オミムネは狼狽する慧一に構わず言った。
「キミは、真実を知りたくないのかい?」
黄金の瞳が、真っ直ぐに慧一を捉える。
「真実って、何のことだよ」
「六年前の、『国立クラスター研究所焼打ち事件』さ」
突然ネコの口から飛び出した言葉に、慧一は眼を見開いた。――国立クラスター研究所焼打ち事件。慧一にとって、忘れようと思っても忘れられない名だ。
「あの事件とニケたちに、何の関係があるんだよ」
語気を強める慧一に対し、その勢いをかわすかのように軽やかに床へ降り立つと、オミムネ・ネコはゆったりと窓へ歩んでいく。
「あの二人が今回の計画のために担ぎ出した企業、タクノ社は、鳴沢村に一番初めにクラスター関連の研究所を作った会社だよ。そしてそれが、国立クラスター研究所の前身でもあるんだ。つまり、タクノ社の詳しい内部資料を入手できれば、もしかしたらあの事件の原因が分かるかもしれない」
「つまり、じいちゃんとばあちゃんがあの施設で殺された理由が分かるってことだな」
いきり立つ慧一の姿に、オミムネは苦笑する風を見せる。
「キミって、ホントにお爺ちゃん子なんだねえ」
「二人に育てられたんだ。当然だろ。それより、どうなんだ」
「必ずとは言えないけど、その可能性は十分あると思うよ」
「あの事件の、真実……」
六年前、防衛省管轄で最新兵器開発の一翼を担っていた国立クラスター研究所がテロにより焼き打ちに遭った。研究所があった場所は、鳴沢村。くしくも、慧一がオミムネにはめられて、ニケを連れ出したツヴァイク研究所が建っていたのと同じ場所だ。そして、この時にもテロリストは何だかの方法で国のK―2管理システムをハッキング、襲撃はK―2部隊によって敢行された。この時には百体近いK―2が制御を奪われ、結果として三棟あった施設が全て破壊された。さらに、テロリストは敷地の周囲にまで周到にK―2を配備、逃げ惑う職員たちを一人残らず射殺した。この時、施設で研究チームのリーダーをしていた慧一の祖父母もまた、命を落とした。
のちに警察は不満分子によるテロ行為と断定。大手メディアも警察の発表をそのまま垂れ流した。しかし、当時、K―2の力でテロ組織は往時の力を失っていたこと、襲撃者が執拗なまでに施設の情報を全て抹消しようとしたことから、ネット上では陰謀論が絶えなかった。
だが事件から六年、真相は闇の中へ葬られて久しい。今更、新しい証拠など出てきはしないだろう。
しかし、そう思いながらも、慧一は一度示された可能性を無視しきることは出来なかった。
「それにキミさ、将来の安泰が大切だって言ってたけど、今更そんなもの、本気であると思ってるのかい?」
「どういう意味だよ」
「騙されていたとはいえ、キミはツヴァイクの研究施設を襲撃した、実行犯なんだよ? もちろん、狩谷の身元が割れないよう、ボクがキミのパートナーだったという事実も含め、全ての証拠は完全に消し去っておいたさ。でも、警察だって今回の事件には面子がかかってるからね。ボクの今までの動向などから、いずれはキミに辿り着くだろう。そうなれば、年金も何もあったもんじゃないよ」
「全部、お前のせいだろ!」
殺気立つ慧一に対し、オミムネ・ネコは大して悪びれる様子もなく謝る。
「ごめーん。それは悪かったと思ってるよ。どうしても、キミにやってもらわなくちゃいけなかったんだ。ただ、ボクが言いたいのは、狩谷はもうとっくに、人生のレールから、脱線しちゃってるってことさ。えっと、こういう時に言うのは、ごしゅうしょうさま、だっけ?」
「何がご愁傷様だ!」
怒りに任せて、手近にあった本を投げ付ける。しかし、オミムネはネコだけあってひらりとかわすと、素早く部屋を横切って窓のさんへ飛び乗った。
「伝えるべきことは伝えた。あとは、キミ次第さ」
オミムネはそれだけ言うと、慧一がなおも問いを重ねるのを無視して、窓のさんへ飛び上がり、窓の隙間から外へと去っていった。
「クソッ、何なんだよ、あいつは」
大の字になって、ベッドの上へと倒れ込む。蛍光灯の強過ぎる明かりが目に刺さる。
オミムネの言っていることは正論だった。
今現在警察が自分の下へ来ていないからと言って、これからも来ないという保証などどこにもないのだ。いや、おそらくいずれは捜査の手が伸びてくるだろう。いつものように、笑って、ごまかして、問題を先送りにしたところで、待っているの破滅だけだ。
少年院送りか? いや、事件の重大性を考えれば、収監されるだろうか?
――そんなこと、あってたまるか!
慧一は勢いよく起き上がると、頭を必死に回転させた。
何か方法があるはずだ。捕まらずにすむ方法、警察から逃げ切る方法。
ツヴァイクとの契約を解除して、クラスターとのかかわりを断つか? いっそのこと、海外に移住するとか?
ダメだ、そんなことしたらおれの人生、無茶苦茶だ。クラスターしか取り柄がないのに、それなしでどうやって生きていくって言うんだ。
考えろ。発想を変えるんだ。捕まってもいいようにする。いや、むしろ、自分から名乗り出る――
慧一の頭の中で、稲妻のように一つのアイディアが閃く。
「そうだ、これしかない!」
慧一は立ち上がると、パソコンを立ち上げ、先程開いていたページを表示させた。
五人組。
おそらく、河西涼香は五人組に通じている。いや、もしかしたら涼香自身が五人組の一人なのかもしれない。慧一が五人組の情報を警察よりも先に手に入れ、五人組のメンバーを捕らえて証拠と共に発表したなら――きっと、利用されただけの慧一を誰も責めはしないだろう。それどころか、本物のヒーローになれるかもしれない。
慧一の胸に、固い決意が宿った。
4.契約
「エニシ、帰ろうぜ」
「悪い、ちょっと今日は用事があるから、先に帰っててくれ」
出校日。慧一は授業が終わると、颯(はやて)をはじめとする、普段一緒に帰る四人組に詫び、一人、一年生の教室へと急いだ。
河西涼香が所属しているクラスの前に着くと、まだ教師が帰りのホームルームで喋っている最中だった。他のクラスはもう終わっているらしく、廊下には涼香のクラスの友人を待つ人間がちらほらと所在なさそうに立っている。
どうやら、間にあったようだ。
慧一は乱れた息を整えながら、荷物を下ろすと周囲の生徒に倣って壁にもたれ、窓越しに中庭に目を向けた。
強烈な日差しの中、太い楠(くすのき)が、葉を青々と輝かせながら、風に揺れている。生を謳歌するセミの合唱が、窓越しにもはっきりと聞こえてくる。
慧一は少なからず緊張していた。何せこれから、テロリストの仲間に加わったように見せかけながら、彼らの情報を集めていかなければならないのだ。
河西涼香は、何者なのだろうか。S級武官である『カリヤ』を凌ぐK―2の使い手であり、それでいてどこの企業にも所属していない。ツヴァイクの『極秘資料』であるニケを手中に収める一方で、ニケの提案に従って、新しい武装商社の立ち上げという暴挙に等しい行為を計画している。
これだけの情報では、ただ不気味なだけで、その正体はまるで判然としない。しかし、ここで彼女がオミムネの仲間、つまり『五人組』の一人であると考えるのなら――
ゾクリと、鳥肌が立つ。
全ての線がつながる、というわけではない。しかし、何らかの方向性が見えてくる。
河西涼香、お前は――
「起立、さようなら」
「さようなら」
教室から聞こえてきた揃った挨拶に、反射的に慧一は出入り口のドアを振り返り、顔を出した。
「あっ!」
途端に、慧一の目の前が白い布で完全にふさがれ、次の瞬間には景気よく正面衝突していた。
「イタタタ……」
派手に打った肘を抑えながら起き上がる。見ると、同じように痛みに呻きながら起き上がるセーラー服姿の女子がいた。
「ごめん、わざとじゃ――」
少女と、目線が交錯する。
少女の目が、驚きに見開かれる。
河西涼香だった。
「おいおい、大丈夫かー?」
廊下にいた他の生徒が声をかけてくるが、ぶつかった相手が涼香なのを見て、露骨に嫌そうな顔をする。
「うわっ、あれ、新しい勧誘の方法かな」
「ぶつかられた人、可愛そー」
「迷惑な奴だよな」
周囲の視線が集まり、誰からともなく容赦のない非難の声がささやかれる。声をひそめているようで、涼香に聞こえる、ギリギリの大きさ。
慧一は周りの反応に気後れしながらも、口を開いた。
「突然押し掛けて悪い。だけど、話があるんだ」
「あなたと話すことなんて、何もない」
涼香はそれ以上慧一と目を合わせず、服の埃を払うと荷物を拾い、何事もなかったかのように歩き出した。
「待ってくれよ」
慌てて後を追おうとする慧一に、涼香はわずかに振り返って言い放った。
「消えろ」
慧一の心を凍てつく風が吹き抜ける。
最初に遭った時から冷たい印象だったが、それすらまだ甘かった。
涼香の言葉は鉄の様に重く、視線はあたかも氷の矢であるかのように、慧一の心を真っ直ぐに射抜く。
――雪(ゆき)黒(ぐろ)――
慧一は、学校で涼香に付けられているというあだ名の意味を、身をもって知った。
氷つく慧一をそれ以上気にも留めず、涼香は前を向くとそのまま歩き去って行った。
涼香の発言で静まりかえっていた周囲が、再びうるさくなる。誰もが涼香の態度をあり得ない、と非難し、一方で涼香に話しかけた物好きに好奇の目を向けた。
話声にハッとして、ようやく慧一は正気に戻る。
えっと、……それで、どうする? 追いかけるのか?
自問してみるが、正直なところ、もう一度あの、北極で死刑台にでも立たされたかの様な気分を味わうのは御免だった。だが、もし今日を逃せば涼香と接触できるチャンスは夏休み明けまでない。
仕方なく、ふらふらとまるで憑かれたような足取りで涼香の去って行った後を追う。
残された生徒たちの間では、男子生徒が雪黒に操られた、という噂が瞬く間に広まって行った。
あちこち探しながら走った慧一は、学校から少し離れた大通りに出たところでようやく涼香に追いついた。
乱れた息を整えながら、後ろから声をかける。
「涼香、おれ、条件次第ではタクノ社からのスカウトに、乗ることにしたんだ」
また冷たく袖にされてはたまらないと、今度は単刀直入に切り出す。だが、涼香は振り返りもしなかった。
「気安く名前で呼ばないで」
突き放した言い方だったが、声には先程までの底冷えのする刺々しさまではない。慧一は内心安堵しながら言った。
「なら、なんて呼べばいいんだよ。最初にニケから聞いた名前が涼香だから、いまさら河西さん、とか呼びにくいんだけどな」
付け加えるなら、河西、という名前には、既にいじめられっ子の生徒というイメージがついてしまっていて、どうにも今現在目の前にいる氷の様な少女とはギャップがあるのだ。
「ニケまで、呼び捨て?」
「仕方ないだろ。あいつの苗字とか知らないし。そもそも、ニケってあだ名か? それとも、クラスター用のハンドルネームか?」
「……もういい」
「え? なにが」
「好きな名前で、呼べばいい。雪黒でも何でも」
「そっか。ありがとな、涼香」
「涼香……懐かしい響き」
幻覚だろうか。一瞬、涼香が微笑んでいたような気がした。だが、すぐに鋭い目線をこちらに向けてくる。
「立ち話も何だし、どこかお店でゆっくり話しましょ」
「あ、ああ、そうだな」
慧一は曖昧な笑みを浮かべて頷いた。
結局、笑っているのはおれだけ。やっぱり、幻覚だろう。
涼香が慧一を連れて入ったのは、おしゃれで味にも定評があるが、料金が高過ぎて学生からは敬遠されがちな大人の喫茶店だった。
げげ、おれ、そんなに金持ってねーぞ
慧一が必死になってメニューから一番安い品を捜している内に、涼香がさっさとアメリカンコーヒーにパンケーキを注文する。
「くっ、ブルジョアめ。少しは貧乏人の苦労を知ったらどうだ」
「もちろん、料金はあなたもちよ」
「なぜそうなる! 今時、男女でこういう店に来ても、割り勘が普通だろ」
「話を持ちかけてきたのはあなたなんだから、当然でしょ」
こ、この野郎……! いつか必ず、K―2で目にもの見せてやる。
財布の中身を思い出し、差し引きを計算する。
……どうやら、自分の分を何か注文するのは無理そうだ。
慧一が溜息をついている間に、涼香のパンケーキとアメリカンが届く。ウェイターはもちろん、クラスターの一種で、店全体で実際に働いている人間は一人か二人に過ぎない。クラスターはただの兵器としてではなく、日本では生活の一部となっているのだ。
生クリームのかかった、見るからに美味しそうなパンケーキを前に、涼香が、待ってましたとばかりにフォークを取り、頬張り始める。ほおが緩み、眼が輝いている。いつものクールな雰囲気を保とうとしているが、嬉しさが隠しきれない様子だった。
まるで好物を前にして警戒しながらかじりついている小動物の様な仕草に、つい慧一の口元も緩む。
「何が嬉しいの?」
速攻でパンケーキを平らげてしまった涼香が、不審そうな目で上目がちに見つめてくる。
「いや、なんでもないよ」
涼香のこんな様子を見られたのなら、財布の中身が空になっても十分元が取れた気がした。
「それじゃ、本題に入りましょ」
いつもの調子に戻って、涼香が席に深く腰掛ける。慧一も、姿勢を正して切りだした。
「ツヴァイクと掛け持ちという形で良ければ、タクノ社に所属してもいい。任務の依頼についてはツヴァイクからのものを優先するけど、可能な限り受けるようにするよ」
「けっこう。それで、さっき話してた条件は何?」
「タクノ社が休眠する以前の、会社の情報が欲しい。特に、鳴沢村にあった研究所の情報が」
鳴沢村、という言葉に、涼香の目の奥が光る。
その眼を見て、慧一は直感的に思い至る。
涼香が五人組の一人なら、当時の事件に関わっていた可能性もあるじゃないか。下手をすれば、触れてはならない蜂の巣へ自ら手を突っ込んでしまったのではないか。
不安が入道雲のようにわき出てくる。だが、もう手遅れだ。一度出してしまった言葉を取り消すことなど出来ない。
慧一は固唾をのんで涼香の答えを待った。
「……いいわ。条件は、それだけ?」
すんなりとした返事に、慧一は肩透かしを食らったような気分になる。
理由すら、聞かないのか。
「あ、ああ。それだけだ」
「そう。連絡先を教えておくから、ツヴァイクへの申請が済んだら電話して。仕事の依頼が来たら、またこっちから連絡するわ」
鞄の中からメモ帳を取り出し、ページを破って電話番号を書き出す。
「おいおい、携帯でアドレスを交換すればいいだろ」
「そういうの、持ってないの」
何でもないことのように、さらりと言う。
今時、携帯も持っていない女子高生がいるとは。
慧一の反応に気付いて、涼香がどこか言い訳するように付け加える。
「携帯持ってたって、メールとかする相手なんて、いないし」
「そ、そっか」
「……」
「……」
気まずくなって、慧一は窓の外に視線を向けた。見慣れた、いつもの街の風景。
「『老人』どもは腐っている!」
喫茶店のBGMに混ざって、おしゃれな喫茶店には不似合いな声が聞こえてくる。外からだ。
「今の政府は軟弱で、『老人』どもの言いなりだ。そして、『老人』たちは保身のことしか考えていない! 国民を食い物にし、己の栄達の身にしか興味がないのだ! 国民よ、刮目せよ!」
窓ガラスを介し、くぐもった声は威勢よく現在の国の指導者たちを糾弾している。
大演説をぶちあげている張本人は、すぐに見つかった。大通りにかかった歩道橋の上で、柵から身を乗り出し、片手に長いコウモリ傘を掲げ、それをタクトの様に振り回しながら、声を張り上げている、六十がらみのお爺さん。
「『老人』たちはあろうことか若者を戦地に送り出し、殺し合いをさせた上、それで得られた暴利でもって、自分たちの寿命を贖っている。こんなことはぁー、ゆるせん!」
連絡先を書き終えた涼香がメモを差し出し、慧一の視線の先を不思議そうな表情で追う。
「傘おじさんだよ。いつものことだ」
「傘おじさん?」
「知らないのか? 学校の周りでよく現れるだろ。ほら、ああやって、傘を持って、いっつも通りがかりの人に大声で説教してるんだよ。晴れの日でも必ず傘を振り回してるから、傘おじさん。少しうるさいけど、ぼけちゃってるんだから仕方ないよな。害はないから、皆放置状態さ」
各武装商社における経営委員会の長たちが集まって武装商社評議会が形成されており、その評議員たちを通称『老人』と呼ぶのだ。老人たちは政府が弱体なこの国において、国策の多くに絶大な影響力を振るっている。彼らは皆、近年発達した再生医療のお陰で、百歳を超える年齢を誇っていたため、『金で寿命を買い続けている醜悪な連中』という暗に批判も込めて老人と総称されているのだ。
「あの人、傘おじさんって呼ばれてるんだ」
涼香が、どこか翳のある表情で呟く。どうやら、傘おじさんそのものを知らなかったわけではないらしい。恐らく、学校でのけ者にされているためにそうした話を聞くこともなかったのだろう。
自分まで陰鬱な気分になってしまった慧一は、切り替えようとわざと明るい声で言った。
「人間ぼけたらおしまいだな。若者を戦地に送り出してるって、何の話なんだか。戦地に送られてるのはK―2なのにな。それに、おれたちだって年取ったら再生医療を受けたくなるだろうし。ま、あんな風にぼけたりしたくはないもんだな」
「あなたは、老人たちの事も、この国の事も、まるで分かってない」
涼香の突き放した言い方に、慧一は言葉を失った。
「そりゃ、まあ、おれなんて所詮高校生だし、政治にそんな詳しいわけじゃないけど……」
冷めた視線を前に、ついしどろもどろになってしまう。
「連絡、忘れないでね」
涼香はつまらなそうな表情をすると、慧一の言葉は全く無視で、すっと立ち上がる。
「わ、分かってるよ」
ごちそうさまの一言も言わずに店を出ていく涼香の後姿を見ながら、慧一はどっかと背もたれにもたれかかった。
「なんなんだよ、あいつ」
だが、あんな発言をするということはやはり、涼香には反政府的な思想があるのだ。それが分かっただけでも収穫だろう。これからはタクノ社での仕事を通じて、涼香の持つより具体的な情報を探っていかなければならない。
仕事の連絡は、思っていたより早く来た。夏休みももう一週間で終わろうかと言う時期だった。
いったいどこの貧乏国家が、こんな出来て間もない零細武装商社に依頼を出したのか、と訝(いぶか)りながらも、慧一は集合場所に指定されたアパートの一室に向かった。少し古いが、一般的な五階建てのアパートだ。慧一は、錆の浮いた白い鉄製の扉を前にして、大きく深呼吸した。緊張で表情が固くなっているのが自分でも分かる。
もしかすれば、タクノ社の中には、涼香やオミムネの仲間である五人組の人間が混ざっている可能性がある。そうなれば、チャンスだ。上手く立ちまわれば、慧一はテロ組織の詳細を掴むことが出来る。しかし、逆にもし失敗して、慧一の意図がテロリストに知られることになれば、ただでは済まないだろう。
だが、やるしかない。
慧一は生唾を飲み込むと、チャイムを押した。
気の抜けるような余りに普通な呼び出し音が流れ、、すぐにドアが開けられる。
だが、ドアの向こうにあったのは壁――ではなく、天井に今にも頭が届きそうなほどの巨大な大男だった。
「え、ええええ?」
三十過ぎぐらいなのだろうが、とんでもない迫力だ。無造作に伸びた髪に、彫りの深い顔。Tシャツの袖口から伸びる、丸太の様な腕は剛毛で覆われている。
ただでさえ緊張していた慧一は、腰を抜かしそうになりながら思わず後ずさりして、アパートの標識を確認した。『留(とどめ)木(ぎ)』の文字の下に、『タクノ社本社オフィス』と書かれている。
この部屋で、間違いない。だが、このフランケンシュタインはなんだ!
「はい、れ」
フランケンシュタインの口が微かに動き、低い、どすの利いた声が漏れ出る。慧一は蛇に睨まれたカエルの気分で、さらに一歩下がった。
「アハハハハ、なにびくびくしてるの? おっもしろーい!」
大男にほとんど塞がれた入口の間から、ひょっこりとニケが顔を出していた。
「ニ、ニケ。じゃあ、このフラ、じゃなくて、お、大きな方は――」
「そう。新生タクノ社の新しい社員だよ。名前はアルゴス。この国では留木って名乗ってるけどね。見た目は大きいのに、意外と小心者なのよ。ね、アルゴス」
大男が、かすかに頬を釣り上げて頷く。笑っているつもり、なのだろうが、怖い、怖すぎる。こんな巨人相手でもいつもの上から目線を崩さずにいられるニケは、もしかしたらすごい器の持ち主なのかもしれない。
「よ、よろしく……」
とりあえず、二人に先導されて部屋の中へ入って行く。独身者用のアパートらしく、キッチンやトイレなどにつながる廊下の向こうに八畳ほどのリビングがあるだけのシンプルな造りだった。
リビングではすでに、座る余地がないほどに人が集まっていた。部屋の奥に置かれたモニターの横で来ている人間を見渡すような位置で立っているのが河西涼香。やはり、この会社で主導的な立場にあるようだ。それに対し、四人の中年男がベッドに腰をおろしたり、壁にもたれかかったりしている。二人は筋肉質な体格で、坊主頭の、いかにも謹厳な感じのする男たちだった。一方、残りの二人は逆で、目にかかる程伸びた髪に耳にはピアスをしており、体より一回り大きい服は汚れ、全身から不穏な空気を漂わせている。
そして驚いたことに、部屋の中央に置かれたテーブルの上には、ちょこりと黒ネコが座っていた。――オミムネだ。
張り詰めた空気に、慧一は気を引き締め直す。
オミムネがいるということはやはり、この会社はテロリストに関係しているのだ。ここにいる内の、何人がテロリストに通じでいるのか、誰が事情も知らずに巻き込まれているだけなのか、見極めていく必要がある。
「そろったみたいね」
三人が部屋に入って来たのを見て、涼香がモニターにつながれたパソコンを操作する。
良く見ると、モニターの横にはライブカメラとマイクが設置されていた。
「申請タクノ社、第一回会議へようこそ」
モニターに映し出されているのは『sound only』の文字。どうやら、どこからかネットを介して話しているようだ。
「吾(あ)は新生タクノ社のガヴァナー代行、栄(さかい)道楽(どうらく)である。まずは汝らに、タクノ社への契約、お礼申し上げる。汝らの選択の正しさは、これから世間に証明されていくことになろう」
時代錯誤な、やけに劇場ぶった喋り方だ。
慧一は心の中で溜息をついた。
そりゃ、頭のネジが一、二本外れている様な奴でなきゃ、こんな弱小武装商社のガヴァナーなんてやるはずないよな。
「さて、それではまず、会社の現状と、各員の待遇について説明しよう」
タクノ社が現在保有しているK―2はゼロ。任務の依頼があった場合、他企業からリースという形で借り受ける。また、K―2との通信設備については、これもまた、他社のシステムの一部を間借りして行う、とのことだった。
つまり、全てが借りものの、ろくに実態すらない会社というわけだ。
さらに細かい説明ののち、契約社員の名前とポストが発表されていく。
まず、K―2は操作せず、戦闘中のサポートや事前調整などを行う文官が、栄道楽、オミムネ、アルゴス。三人とも地位は文官で最下位のライター。実際にK―2を操る武官が慧一、涼香、ニケ、そして中年男四人組。これまで所属していた会社での成績は慧一だけがS級で、不穏そうな男たちがC級、謹厳そうな男たちが最下位のD級だった。ちなみに、ニケはガヴァナーなので、名義上は文官でもある。
「また、アルゴスには戦闘が行われる現地に向かい、現地の情報収集ならびに現地政府との調整役を果たしてもらう。さらに、戦闘時にはそのまま戦闘に参加する」
マ、マジか……!
驚いて周囲の様子を見るが、全員既に知っていたようで、慧一以外、誰も狼狽する人間はいない。
慧一は、窮屈そうに頭を下げている大男を見上げる。
確かに、この体格なら兵士にはもってこい、か?
無理矢理自分を納得させて、栄の話に耳を傾ける。
「以上が、我が社の戦力の全てだ。決して十分な人数ではないが、その分機動的な活動が出来るだろう。諸兄らの奮闘に期待する。それでは、今回の任務について、具体的な説明を河西からしてもらう」
「それでは、説明します」
涼香が一歩前に出て、マウスを操作する。モニターが切り替わり、スライドショーが開始される。
「わたしたちが戦闘を行うのは北西アフリカの小国、ベルベル王国です。ここで、王政に反旗を翻した過激派組織からの依頼で、リバティタウンという軍の駐屯地が置かれている中規模の都市を攻略します」
「おいおい、正気かよ」
不穏そうな方の中年男の間から、疑問の声が上がる。
「たったこれだけの武官しかいないのに、都市攻略って、無謀すぎるだろ」
男の指摘に、涼香は眉一つ動かさずに答える。
「問題ないわ。都市自体なら、わたし一人でだって、陥とせる」
涼香の疑問の余地を許さない断言に、男も返す言葉を失って黙りこむしかなかった。
涼香の言っていることは確かだ。きっと涼香なら、それぐらいやってしまうだろう。しかし、問題は――
「駐屯している軍隊の規模、装備、練度はどの程度なんですか?」
今度の質問は、謹厳そうな男たちの方から。
「規模は三百人。最新式の兵器で武装し、装甲車を六台所持している。練度も非常に高いわ」
男が生唾を飲むのが分かる。
ここで慧一は、最も重要な質問をした。
「その軍隊の、国籍は」
涼香が、無機質な声で答える。
「日本。わたしたちが戦うのは、日本国の、自衛隊よ」
5.襲撃計画
夜中、土部は非常を告げるベルと銃声で目を覚ました。一瞬、防衛大学時代に夜中、非常時を想定して度々行われていた訓練を思い出す。辛かったが、懐かしい日々だった。
しかし、ほのかな眠りの靄も、巨大な爆音とそれに続く小刻みな揺れによって無情にはぎ取られる。
訓練などではない。
土部は枕元に置かれていた眼鏡を何度もとり落としそうになりながらかけ、簡易ベッドから起き上がる。その間にも、四方から銃声が鳴り響いていた。
間違いない。この、リバティタウン駐屯部隊が攻撃を受けているのだ。
土部が手早く羽織った軍服の胸に輝くのは、陸上自衛隊一等陸佐であることを示すバッジ。この土部龍こそが、500余名からなる陸上自衛隊第103普通科連隊の隊長だった。
今すぐにでも、全体の指揮をとらねば――
そう思っていた矢先、蒼い顔をした部下の一人がやってくる。
「土部1佐、敵襲です。重武装した集団が、大挙宿営地内へ侵入してきました」
「そんなことはわかっている。無線で知らせればいいだろう」
土部は声を荒げながら、部下のわきを抜けて指揮所へと向かう。部下が情けない声を上げながら追いすがってくる。
「そうしようとはしたのですが、無線ではすぐには起きられなかったもので、それで直接呼びに行くことに」
自分も年を取ったということか。ふがいなさに、土部はほぞをかんだ。
「入口を直ちに封鎖、準備が整った分隊を片っ端から入口へ向かわせるんだ。装甲車(LAV)も回せ。何としても入口で食い止めるんだ」
ただでさえ、国内に反対の多いPKO活動なのだ。自衛隊員に死傷者が出るような事になっては後々面倒なことになる。
「そ、それが、既に敵の侵入を許してしまっていて――」
二十メートルと離れていない場所で、銃声が鳴り響く。続いて、くぐもった悲鳴。
「これ以上進むのは、き、危険です」
二人は慌てて近くのテントの影へと隠れた。土部は激昂した。
「もうここまで侵入されているだと? どうなっている! 哨戒役の分隊はなにをしていた!」
唐突に身に迫ってきた危険に、半ば悲鳴じみた叫びとなって、土部の声は銃声同様、辺りにこだました。
「おれの耳がいかれたのか、あんたの頭がいかれたのか、どっちだ? 今、聞き間違いじゃなけりゃ、自衛隊と戦うって聞こえたんだが」
慧一の挑発的な問いに、涼香はいつも通りの澄ました口調で答える。
「もちろん、どっちでもないわ。わたしたちはここにいるメンバーで、世界最高レベルの軍事予算がかけられた国の正規軍と戦うの」
「チッ、こんなの、付き合ってられるかよ」
怒気をはらんだ舌打ちをすると、踵を返して玄関へと向かった。だが、その前にアルゴスの巨体が立ちはだかる。
「おい、どけよ」
怒りに任せて食ってかかるが、逆にアルゴスから殺気のこもった目で睨み返され、たじろいでしまう。
「な、なんだよ」
「おで、裏切り者、ゆるざない」
アルゴスが両手を広げ、完全に廊下を塞ぐ。これでは到底、逃げ出すことなど出来ない。
「話は最後まで、聞くものよ」
冷静な涼香の声に、渋々慧一は前に向き直った。しかし、内心では冷や汗を禁じ得なかった。慧一はこの時になってようやく、自分以外の全員がテロリストなのではないか、という可能性に思い当たった。いま慧一は自分たちの理想のためなら、殺人すら厭わないであろう集団に囲まれているのだ。
その上、半ば強制的にしてその仲間入りをさせられようとしている。
だが、慧一の心などまるで知らずに、ニケが能天気な声を出す。
「慧一、そんなに怖がることないよ。だって、自衛隊なんて所詮過去の遺物でしょー? 今更、クラスターを使って戦うあたしの敵じゃない!」
無意味に、ガッツポーズ。
少なくとも、この能天気少女だけはテロリストではなさそうだ。
しかもどうして、『あたしたち』じゃなく『あたし』なんだ……。
しかし、今は話を脱線させる気にもなれないので、重要な点のみ端的に指摘する。
「確かに蕪木1尉が築いた黄金時代が終わってこの方、自衛隊はクラスターを使用していない。だが、それでも国内最強の軍事集団であることに変わりはないんだぞ。無理だ。無謀すぎる」
ニケが、見下すような目をしながら顔の前で指を振る。
「やれやれ、慧一も考えが浅いね。逆に考えれば、これで勝てば、あたしのタクノ社が、日本最強って事じゃない! こんなチャンス、見逃す手はないでしょ!」
「何がチャンスだ! どこの武装商社も引き受けたがらない無謀な任務が回り回ってとうとうタクノ社にまで来ただけだろ」
「だから、それをチャンスと言うんでしょ。見てなさい。このあたしが、自衛隊なんて木っ端みじんにしてやるんだから!」
「その自信は、どっから来るんだよ」
「ニケが、ニケで、ニケだから!」
ビシリ、と慧一に指を突きつけるニケ。
直後、その頭に本棚の上から木彫りの仏像が落下。
「フギャッ」
情けない声と共にニケはフローリングの上に倒れ伏した。
「って、なにすんのよコラ!」
即座に起き上ったニケが、本棚の上で澄ました表情で座っている黒ネコに食ってかかる。
「いや、なんか、ムカついたから」
平然と答える黒ネコに心の中で慧一も拍手喝采を送ったが、ニケにこのユーモアは通じなかったらしい。
「こんの人面ネコ! 今夜の夕食にしてやるんだから!」
ニケと黒ネコが、部屋の中を所狭しと走り出す。
「人面ネコって、ボクは人語を喋ってるだけで、顔は普通のネコじゃないか。あ、ごめーん、その歳でもしかして、『人面』の意味も分からなかったぁ?」
「食材になれ!」
テーブルがひっくり返り、物が飛び交う。
「ネコを食べるとか、野蛮人の発想じゃないか。やーい、やばんじーん」
「こ、こんのぉ〜!」
ニケは顔を真っ赤にして、さらに激しくオミムネ・ネコを追いたてる。だが、オミムネは身軽にかわし続けながら、挑発を続ける。
涼香が顔に手を当てて深い溜息を落とす。
「なんであの子は、十歳児と同じレベルで張り合ってるの……」
「精神年齢が限りなく近いんだろ。いや、むしろオミムネの方が上か?」
オミムネはわざとニケを怒らせて喜んでいるようだが、ニケは完全に本気で怒り狂っている。
しかし、狭い室内での鬼ごっこは突然終わりを告げた。
「ニケざんに、何言うだ、おまえ」
アルゴスが長い手を伸ばし、オミムネ・ネコの首筋をむんずとつまみあげる。不意打ちに対応できなかったオミムネは誤魔化すようにへへへ、と笑っている。
「いえいえいえ、ボクは別に悪気があってやったわけじゃないんだから、見逃して下さいよ〜」
「自分でいうな!」
ニケがアルゴスの手からオミムネを奪い取り、締め上げる。
「アルゴス、お手柄よ。さあ、この不届きネコ、どうしてやろう? まず、生皮を剥いでそれから――」
「ネコ殺しぃー! 動物虐待だー!」
騒動を見かねたのか、モニターの向こうから声が響く。
「ニケよ、それぐらいにしておくがよい。オミムネが使っておる体は、この会社にとっても、貴重なサンプルなのだ。傷つけること、まかりならぬ」
「でも、こいつ――」
「この武装商社のガヴァナーは吾(あ)である」
「書類上は、このあたしがガヴァナーよ」
「吾が、ガヴァナー也」
「く、この……!」
言ってることはほとんど時代劇じみたギャグなのだが、本人の声を分からなくするためか、モニターからの声は、ボイスチェンジャーを介してやけに低い重低音に変えられていて、命令には異様な重みがある。勝気なニケも、その圧力に抗し難いらしく、いつもの威勢がない。
「だいたいあんた、何者なのよ! モニターの向こうから喋るばっかで、自分だけ、何のリスクも侵さないつもり? みんなだって、そう思うでしょ?」
しかし、ニケの問いかけは沈黙を持って迎えられた。
「な……みんな、こいつが誰か、知ってるの?」
ニケが狼狽する。だが、この事実は慧一にとってもショックだった。栄道楽をスカウトしてきた張本人であろう涼香はともかく、オミムネはおろか、アルゴスまでもが気まずそうに目を伏せている。
彼ら全員が、タクノ社以外のどこかで繋がりがある。つまりそれが意味することは一つしかない。
ニケが悔しそうに唇を噛みながらオミムネを解放した。
「今回の作戦の指揮、突入から敵を混乱に陥れる所まではわたしが担当するわ」
場が落ち着いたのを見て、涼香が切りだす。
「あんたなら出来るって言うのかよ。世界最高練度を誇る軍隊が守る陣地に、機甲部隊もなしに侵入することが」
「できるわ。連中は確かに訓練量と兵器の質でいけば世界最高レベルよ。でも、腐敗し、堕落している。産業の多くが失われた国において、自衛隊員の地位は魅力的よ。だから、完全能力主義の武装商社と違って、年功序列の組織である自衛隊にいるのは金持ちや政治家の子弟ばかり。このご時世じゃあ安定して給料のいい職業なんてそうはないから、一部の人間が自衛隊の人事を私物化し、コネと売官がはびこってる。軍隊とは名ばかりで、実際に戦闘に参加することなんてあり得ないし」
その点は慧一もよく知っていたので同意する。
「ま、有名な話だな。特に武装商社で文官や経営を担当してるお偉方は、そうやって子供たちにハクをつけた上で、自分の会社へこう待遇で呼びもどすんだとか。だが、金持ちのボンボンでも武器を持てば兵士だ」
「でも、実戦経験もなければ、人を殺す覚悟もない。マニュアル通りに動くばかりで、何の応用性すら持ち合わせない。あんなクズ共、潰すのは簡単よ」
いつも異常なほど冷めている涼香の言葉に、やけに熱がこもっている。
もしかしたら、自衛隊に怨みでもあるのか?
考えながら、慧一は言った。
「言うは易し、行うは難しだ。具体的な見通しはあるのかよ」
「当然、ね。連中は愚かで、甘く、軍人としての自覚を持たない。そんな彼らに、わたしたち本物のプロが負けるはず、ないでしょ?」
涼香の瞳の奥に、炎が燃える。
「それじゃ、宿営地への侵入方法について説明するわ――」
「地元民の姿をした連中が大挙押し寄せてきて、止め切れなかっただと?」
指揮所へと向かうことを諦め、中央から逃れてきた分隊と合流、土部はようやく駐屯地で何が起こったか、知ることが出来た。
だが、最も情報が多く回ってくるはずの指揮所にいた彼らですら、混乱していて多くの事は知らなかった。
「そ、それが連中、地元の言葉で口々に何か叫んでいて、警備についていた者も地元民の抗議デモか何かと判断してしまったようです。そしたら、中に入ってきた途端、突然隠し持っていた手榴弾を辺りにばらまいたらしくて。入口を守ってた分隊も、それ以降は爆煙の中でもう訳が分からなくなったみたいで」
「ですが、そいつらはちゃんと食いとめたはずなんですけど、どこからともなく侵入して来た敵部隊に本部を急襲されたんです」
「違う違う、一部は取り逃がしたって聞いたぞ」
「いや、そもそも他の場所でも侵入されかけたって報告があったから――」
この話だけでも、指揮所がまともに機能していなかったことが察せられる。しかも、彼らは指揮所まで戦いの火の手が及ぶと、持ち場をあっさりと放棄して逃げ出して来たのだ。分隊の人間の中には、大の男だというのに顔をぐしゃぐしゃにして泣いている者までいる。
怒りと不安で、土部は部下を怒鳴り散らした。
「くそ、どうなっているんだ。だいたい、これ程の非常時でどうして指揮官のわたしの下へ集まってくる部隊がこれだけしかいないのだ」
土部は、未だ寝間着姿のままでいる者も多い部下たちを見回した。合流できたのは、比較的入口から離れたテントで寝泊まりしていた二個小隊、五十名だけだ。中には武器すら持たずに、何が起こっているのか周りに聞こうと思ってやって来ただけの者までいる。
「おそらく、急事を知った者は皆、規則通りまず指揮所に向かっているのだと思われます。 無線による特段の指示も出ていませんし」
「ふざけるな!」
平然と報告してくる部下の顔を、力の限り殴り飛ばす。
「指揮所が敵に制圧されたというのに、そこへのこのこ行ってどうする。テロリストの思うつぼだろうが!」
「で、ですから、それを誰も知らないわけでして……」
「黙れ! くそ、何て失態だ」
この作戦が終われば、土部は海外派兵の指揮官と言う華々しい功績が得られるはずだった。それさえあれば、曾祖父が経営する武装商社が彼を重役として迎えるのに十分な口実になる。土部の上官も、形だけの海外派兵だから、と土部を送り出したのだ。
「ええい、こうなったら、今ここにいる部隊で反攻する。どうせ敵は少数の、装備も軟弱なテロリストだ。指揮所さえ奪い返し、指揮系統を回復すればどうにでも出来る! 第四小隊は指揮所へのルートを確保、第三小隊は散り散りになっている自衛官を集めろ。特に、指揮所へは近づかないよう無線で伝えるんだ。それから、後方で待機している装甲車を持って来るんだ。さあ、行け!」
だが、指揮所の通信設備を使わなければ全体への一括した指示は行えない。土部たちの部隊は、指揮系統が完全に分断された状態でテロリストに立ち向かわなければならないのだ。
その事実を再確認し、土部は、暗然たる思いに襲われるのだった――
「と、ここまでがわたしの立てた作戦」
涼香がモニターに映し出された施設の図面を指していた指揮棒を置く。
「おそらくここまでで、指揮所での待ち伏せ攻撃を含め、敵兵員三百のうち、七、八十人の戦闘能力は奪えているはずよ。相手が自衛隊だからこそ上手くいく作戦だけどね。後は慧一、あなたに任せるわ」
突然振られ、慧一は戸惑う。
「おい、なんでそこでおれになるんだよ。やるなら最後までやれよ」
「わたしよりあなたの方が戦略を立てる技能は上でしょ。ツヴァイクでの任務成績だって、近接戦闘の技能だけで見たらぎりぎりAランク程度の腕前でしかないのに、任務達成率のみはトップ。この前わたしに負けたのだって、個々のK―2操作能力でわたしがはるかに勝っていたからってだけの話だし」
「……分かったよ」
持ち上げられていい気分になったわけではない。ただ、慧一はニケや涼香の言い分にも一理あると思い始めただけだった。
確かに、タクノ社の様な新参の会社がうまくやって行くためには、どうしても鮮烈なデビューが必要なのだ。おこぼれの割に遭わない仕事ばかりしていても、利益が少なく、いつかはジリ貧になってしまうだろう。それに、涼香が描いた通りに事が運べば、ここからなら何とか出来ないわけではない。
慧一は暫く考え込んでから、指揮棒を取って話し始めた。
「部隊の指揮官はきっと、退却することは考えないだろう。後から責任を追及されるのが怖いからな。なんとしても、その場で無理にでも解決しようとするはずだ。そのために必要なことは、装甲車を用いた反転攻勢と、指揮所の奪還だろう。次はそこを狙わせてもらう――」
ようやく部下たちも混乱から立ち直り始め、正確な報告が土部の下へと上がり始める。
「敵部隊の数は不明ですが、多くはM16(アメリカの代表的な軍用自動小銃)を所持し、服の下に防弾ベストなどを装備した重武装の歩兵と見られます」
「現在、指揮所周辺、並びに指揮所から宿営地出入り口までの地域が敵部隊に制圧された模様です」
「装甲車待機地点から指揮所へのルート、確保完了しました」
「現存する装甲車部隊4両、主装備をミニミ(軽機関銃)に交換完了。いつでも出発できます」
土部は大きく頷いた。
「よし、装甲車部隊を先頭に立て、残った分隊は各自装甲車の後ろで援護に回せ。敵の武装は思った以上に高度であり、練度も高い。これ以上死者を出さないよう、戦闘は極力装甲車部隊に任せるように。これより、前進して指揮所をゲリラどもから取り戻す」
状況が厳しいものであることに間違いはない。しかし、こちらが体勢を立て直した以上、もう好きにはさせない。彼らが混乱に乗じて一気に宿営地を制圧できなかったことは、敵部隊が寡勢であることを意味する。こちらが地に足をつけて進軍すれば、敵ももう小細工を弄することは出来ず、ゆっくりと敗北していくしかない。
どうやら、これで何とかなりそうだ。
土部は安堵しつつ、号令を発した。
「前進、開始!」
装甲車部隊が低速で走りだし、その後をアサルトライフルを手にした歩兵部隊が続く。さらにその最後尾を、土部は護衛の分隊とともに進んだ。
指揮所へのルートでは、拍子抜けするほど敵の抵抗はなかった。先行した小隊がルート上の敵を排除していたこともある。だが、それ以上に敵にもはや宿営地の内、指揮所より深部を脅かす力が残っていないのだと、土部は判断した。
出発直後こそ、いつどこから銃弾が飛んでくるのだろうかと言う慣れない不安に怯えていたが、今ではもう、足取りも順調だ。他の部下も同様で、徐々に歩みが速くなっている。
「よし、もうじき指揮所だな」
呟く声もどこか弾んでいる。
これならばきっと、容易に指揮所を奪還できる。
指揮所が見えてくる。指揮所として使われていた仮設の大型の建物からは煙が上がっていた。しかし、それでも敵はまだ内部や周囲に居座っているようで、現れた装甲車に対し、辺りの岩陰や指揮所の中から次々と銃撃が加えられる。
だが、装甲車の厚い装甲板の前では、軽火器による銃撃など何の意味もない。装甲車の天井ハッチ部分に取り付けられたミニミ軽機関銃が反撃とばかりに火を噴き、岩を削り取り、指揮所の壁を貫く。いくつもの血の花が開き、断末魔の叫びが流れ、そして次第に辺りが静かになって行く。
土部が無線を介して指示を送る。
「よし。装甲車部隊はそのまま進み、指揮所の周囲を固めろ。第四小隊、まだゲリラが潜んでいるかもしれない。指揮所と周囲のテントなどを検索しろ」
「了解」
歯切れのよい返事と共に、装甲車と自衛隊員たちが指揮所へと向かう。
――終わった。後は残党の掃討をするだけだ。
本国への報告では、どのようにして今回の事件を美談に書き換えられるだろうか? 殉職した自衛隊員たちを上手く英雄に祀り上げれば問題ないだろう。本国でのメディア関係にも、親のコネがある。報道内容など、どうとでもなる。
土部の思考が、現在から事件の後始末へと移った、その時だった。
強烈な閃光が土部の目を貫き、立て続けに起こった爆音と強烈な衝撃波が土部の顔面を襲った。
「ぬおぉ!」
土部は顔を庇いながら、思わず尻もちをついてしまう。周囲の自衛官たちも、同様に地面に倒れ込んでいる。
「な、なんなのだ!」
爆風が収まり、土部は恐る恐る目を開いた。そして、信じられない光景を目にした。
装甲車は四台とも全て横転、もしくはその場で炎上し、車体のそこかしこが吹き飛ばされていた。さらに、指揮所は跡かたもなく消え去り、そして周囲には先程まで指揮所へと進軍していた部下たちが、手や足、頭など、バラバラなパーツとなって無造作に散らばっていた。
頭の中が真っ白になる。
何も、考えられない。
「土部1佐、土部1佐、退却のご命令を。土部1佐」
部下に肩を揺すられ、土部は生気の失せた目で見返す。
「これ以上ここに留まるのは危険です。一度撤退し、近くの国連軍に応援を求めるべきです」
部下からの提案に、ようやく土部は正気を取り戻した。
そうだ、こうなったら一刻も早く、ここを離れるべきだ。
土部はよろよろと立ち上がると、無残な姿となった宿営地司令部に目を向けた。
――キラーズ・アイを、使ったな――
わき上がる怒りに、拳を強く握りしめる。
キラーズ・アイ。かつてクラスター対策として各国の軍隊に導入された強力な地雷だ。
自衛隊でクラスターが用いられていたかつての自衛隊の黄金時代、クラスターは人型をした装甲ロボットだった。第一世代クラスターと呼ばれるこの兵器には、市街戦において絶大な威力を発揮した。軽火器をものともしない装甲を持ちながら建物内に自由に出入りでき、加えてコンピューター制御により素早く爆風などからの回避行動をとるこのクラスターを前に、日本の自衛隊が守る街を落とすことは不可能とまでいわれた。さらに、武装商社の世界展開に伴い、紛争地域の市街戦の様相は一変した。
だが、それも一時的な話で、高性能なセンサーを持ち、いくつもの地雷が連動して広範囲な爆発を起こすキラーズ・アイと呼ばれる兵器が登場して以降、第一世代クラスターは一台一台のコストが高額であることも影響して、ふるわなくなった。
それと共に、専守防衛の自衛隊にクラスターは不用という世論が高まり、結果、自衛隊はクラスターの先駆者でありながら、クラスター事業から撤退することになったのだ。
キラーズ・アイこそが、自衛隊凋落のシンボルなのだ。
だが、クラスターが生体ユニットを用いたK―2に移行した現在、所有している軍隊は少ない。しかも、キラーズ・アイは製造に高度な技術を要し、貧者の武器とは言い難い代物なのだ。
――なのに何故、反体制派のゲリラに過ぎない連中がそんなものを持っている? しかも、あれだけの装備と練度、発展途上国の兵士ではあり得ない。
疑念が、土部の中で次々と湧き起る。だがどの道、全てはここを乗り切ってからの話だ。
「負傷者に手を貸せ。いったんこの宿営地は放棄。裏手のゲートから脱出する」
無線に向かって叫び、自身も銃を構えて倒れている自衛官たちの下へ向かう。
もうこうなれば、意地だった。どの道、責任を問われることは避けられない。ならばとにかく、一人でも多くの仲間を回収し、尻尾を巻いて逃げ出すしかない。
土部の表情に、固い覚悟が滲み出る。
土部という男は、典型的な自衛隊の高給将官だった。立場や、地位の事ばかり考える。しかし、彼自身は防衛大学を首席で卒業した、責任感のある優秀な男なのだ。
「おい、大丈夫か。しっかりしろ」
地面に倒れている自衛官を抱え上げる。横からもう一人の自衛官が肩を貸し、二人で何とか持ち上げようとする。
刹那、乾いた破裂音が響き、土部にかかっていた重みが一気に増える。
「なっ……」
横を見れば、手を貸してくれていた部下が腹から血を吹きだしながら倒れ込むところだった。
「く、そ、が……!」
胃の中からわき上がってくるものを抑えながら、負傷者を引きずるようにしてテントの影へと急ぐ。周りでも同様に救助に向かっていた自衛官が撃たれていく。
「急げ、とにかく近場のテントの裏にでも隠れるんだ!」
だが、再び銃声が響き、すぐ横に遭った自衛官の頭が吹き飛ぶ。生温かい滴が、土部の頬に飛び散る。
「う、おおおおおお!」
土部は腹の底から雄叫びを上げると、力を失った死体を投げ出し、一目散に走り出した。そのすぐ後を、銃撃によって上がった土煙が追ってくる。
テントの裏へそのままの勢いで転がり込み、伏せる。銃撃は止まず、テントを貫いて次々と撃ちこまれたが、めくら撃ちなので当たりはしない。しかも、運よく土部が隠れたテントの前には崩れかかった古い土壁があり、遮蔽物になっていた。ここに昔、現地民の家があったのだろう。
同じように、三人の自衛官が後を追ってテントの裏へ滑り込んできた。その度に銃撃が襲ってきたが、土部が応射するとそれもすぐに止んだ。
男四人が入るので精いっぱいの狭い空間に、つかの間の平穏が訪れる。
「完全に、散り散りに、なってしまいましたね」
息を切らせながら、部下が小声でささやく。
「ああ。しかも、どうやら完全に包囲されているようだな。ゲリラども、おれたちが負傷した仲間を助けに行くことも見越した上で、周囲にスナイパーを配置してたんだ」
「それにしても、あんなやり方ってないですよ。ゲリラだって指揮所の中にはまだ生きてる奴がいただろうに、それをまるごと吹き飛ばすだなんて」
「人の命を、なんだと思ってるんだろうな。その上、救助の隙をついてさらに攻撃してくるだなんて、まるで人の心を持たない鬼と戦っている様な気分だよ」
「鬼、ですか。確かに、そうかも知れませんね」
部下が、微かに笑う。
「さて、それじゃ、鬼の巣から脱出しますか」
自衛官になって間がないであろう、少年といってもいいくらいの歳の部下が、気を取り直すように言う。若者は、生きる力も、強い。
「よし、もうひと暴れしてから、逃げ出すか」
言ってみたものの、土部にも、残りの二人の自衛官にも分かっていた。おそらく、ゲリラたちは宿営地の周縁に狙撃手を配備しているだろう。逃げ切ることなど不可能だ。
だが、その時ふと、土部はテントの中のひとつに、こじんまりとした地下壕が存在したことを思い出した。この蒸し暑いアフリカの地で、部下たちが少しでも快適な場所を得られるようにと、かつてつくらせたものだ。宿営地全体が制圧されつつある中、あそこなら、敵からの捜索を逃れ、生き残ることが出来るかもしれない。
土部は急いで他の三人に思いついたことを説明し、生存の可能性を示唆した。
「あのテントまでの距離はおよそ三百メートル。テントとテントの間を上手く縫って行けば、走り抜けれない距離じゃない」
「でも、間違いなくここを出た途端、四方から狙撃されますよ」
部下のもっともな質問に、土部は肩をすくめるしかなかった。
「撃たれたら、運がなかったものと諦めるしかないな。どの道、ここに留まれば時間の問題で殺される」
「……やりましょうよ! それしかないんなら、やるっきゃないじゃないですか」
若い自衛官が、真っ先に同意する。残り二人の自衛官も、顔色は真っ青だったが、それでもゆっくりと頷いた。
「よし、それじゃ、やるか」
土部が極力威勢のいい声で宣言する。しかし、手の震えだけはどうすることも出来なかった。土部とて、死への恐怖を克服できたわけではない。それでも、この残虐なゲリラたちの手から生き残ってやろうという、気概が彼を動かしていた。
意見の一致を見たところで、四人が脱出のタイミングを見計らっていると、遠くから次々に銃声と悲鳴が上がり始めた。
「仕事熱心な奴らだ。もう攻撃を再開しやがったのか」
時間はない。土部は出発の合図をしようと、手を上げた。
「土部1佐、後ろ」
言われて振り返ると、テントと土壁の間から、通りをよろよろと歩く自衛官の姿が見えた。両手はだらりと下がり、目には生気がない。
「おい、危ないぞ、こっちへ来るんだ!」
土部の声に反応して、振り向く。にごった目が、土部を捉える。
「ば、化け、もの……」
かすれた声で叫んだ、その次の瞬間、横殴りの暴風の様に銃弾の嵐が吹き荒れ、自衛官は木の葉のように弾き飛ばされ、大量の血を吹きだしながら倒れ伏す。
――機関銃か!
即座に危機を悟った土部は、迷わず指示を出す。
「走れ、全速力で」
四人とも、一斉にテントの影を出て走り出す。そのすぐ後を、遠距離からの狙撃が追う。だが、テントなどの遮蔽物が多く、また狙撃に適した高い場所があるわけでもないので、狙撃を避けるのは比較的楽だった。
あと、問題なのは――
土部は、ちらりと後ろを振り返る。そして、戦慄した。一つ後ろの曲がり角を、山の様な大男が曲がって来たところだった。男はフルフェイスの防護メットに全身をカバーする防弾服を羽織り、明らかに手持ち用ではないはずの軽機関銃を片手で抱え、もう片手で機動隊が使う様な盾を持っている。ターミネーター顔負けの重装備だ。だが、それでも平然と土部たち以上の猛烈な速さで走っていた。
――間違いなく、化け物だ。
このままでは、追いつかれる。
同じことを思ったのだろう。次の角を曲がる際に、一緒に走っていた自衛官の内の一人が立ち止まり、後ろに向けて銃を構える。
声をかける間もなかった。
耳をつんざく轟音が鳴り響き、自衛官は襤褸切れのようになってその場に崩れ落ちる。
目を逸らし、土部は必死で走った。あと、百メートル。しかし、その百メートルが途方もなく遠く感じる。
再び機関銃の掃射音が響き、すぐ横を走っていた部下が倒れ、さらに土部の足にも強烈な痛みが走る。
土部は走っていた勢いのままもんどりうって倒れるが、何とかうまく受け身を取り、そのまますぐ横にあったテントの裏へと転がり込む。
生き残った若い自衛官の足音が、土部を置いて無情にも離れていく。もうこれで、土部が生き残る可能性はなくなった。足は銃弾がかすっただけだが、それでも腿の肉がごっそりと持ってかれていて、これ以上一歩たりとも歩けそうもない。
だが、きっと、これでいい。
テントに背を任せ、アサルトライフルを握り直しながら土部は思う。
きっとあの若者は、しっかりと生き残ってここで起こったことを余さず本国に報告してくれるだろう。それだけで、十分だ。
ただ、その為には今少しだけ、あの大男をここで足止めしなければいけない。
――死にたくない。
土部には約束された未来があり、自衛隊として死ぬためにここへ来たわけではない。
だが、自分の責任で数え切れないほどの部下が死んでいったのだ。もはや、自身だけが生きて帰ることなど出来ない。
土部は額に脂汗を浮かべながらも痛みに耐え、銃口をついさっき自分が撃たれた通路へと向けた。まっすぐ来れば、大男は間違いなくここを通る。この至近距離でなら、防弾ベストを貫くことも可能だろう。
――地獄へ道連れにしてやるよ――
今まで、自衛隊での役職は曾祖父の経営する会社へ就職するまでの、一時的な腰かけ程度にしか考えてこなかった。だが、こんな時になって、最後の最後になって、ようやく自衛隊員としての誇りが土部の中で激しく燃え上がっていた。
大男の重々しい足音が近づいて来る。
歯を食いしばって銃口を定めた。
――今だ!
土部が引き金を絞るのと、大男が現れるのとはほぼ同時だった。
すぐに、土部は自身の失敗を悟った。
大男は、盾を土部の側へ向けながら、その横から銃口を向けてきていたのだ。
土部のアサルトライフルから放たれた銃弾は全て盾に弾かれ、大男の機関銃が火を噴く。
貫くような痛みと共に、土部の体が飛んだ。
「あ、ぐ、あ……」
土部は泥の上に頬を押し付けた状態で、無様に地面の上に転がった。痛みが強烈過ぎて、自分の身に何が起こっているかも分からなかった。
視界の先に、大男の足が現れる。
「こ、の、野郎……!」
土部は渾身の力を込めて片手で体を起こすと、大男に銃を向けた。だが、本来あるはずの右手には銃がなく、そもそも右手の、肘から先がなくなっていた。
見れば、少し離れた場所に血まみれの腕が転がっている。
「ちく、しょう」
全身から力が抜け、土部の体は力なくアフリカの大地の上に倒れた。
「どうした、ほら、撃てよ」
生を放棄し、自嘲気味に言う土部を、大男は無言で見下ろす。だが、土部に銃を向けはしなかった。もしかしたら、指揮官である土部は殺すなと命令を受けているのかもしれない。
なら、ここは少しでも逃げ延びた部下のために、時間を稼いでおくか。
土部は痛みをこらえ、英語で話しかけた。
「お前たちは、いったい、何者なんだ?」
大男は沈黙したまま。それでも、土部は思いつく限りの英語を駆使して、とにかく言葉を続ける。
「何が目的でこんな真似をする。この国の人間じゃ、ないだろ。お前たち」
「……」
まるでウドの木に話しかけている様な気分だ。これ以上英語を使う気力もわかなくなって、土部は日本語に切り替えて言った。
「人を情け容赦もなく殺して、そのメットの中には、さぞかし醜い顔が隠れてるんだろうな」
「……お、おで――」
初めて、大男が口を開いた。しかし、すぐ横から現れた男が、それを制止する。
布で顔を隠していて、目しか見えないが、おそらくは二十歳前ぐらいの青年兵だった。
「そうか。何も、語らないつもりか。だがな、覚悟しておけよ。お前たちは、日本を敵に回したんだ。ただでは、済まないぞ」
どの道、彼らには日本語も英語も通じてはいないのだろう。だから、これはもう土部にとって、誇りと意地をかけた、負け惜しみだった。だが実際、土部は『老人』の曾孫という立場上、知っている。日本を今敵に回すことがどれだけの事態を意味するか。
「もうじき、日本では、新しいクラスター、第三世代クラスターが完成する。それさえ完成すれば、世界は、日本に、ひれ、ふす、だ、ろう」
血を流し過ぎたようだ。意識が薄まって行く。男たちは無言のまま、土部の前に立ち尽くしていた。
せめて、連中に自分たちがやってしまったことの重大さを分からせてやることが出来ないのが無念だった。
だがそれでも、伝わらないと分かっていても、最後に残った気力を振り絞って言葉を紡ぐ。
「おまえ、たち、が、どこの、国の、にんげん、だろうと、どこ、に、逃げようと、おしまい、だ。……じき、あた、らしい、じ、じだいが、はじ、まる……」
きっと、生き残ったあの若い自衛官は自分たちの末路を伝え、国家が仇を取ってくれる。そう信じて、土部は達成感に包まれながら、意識を手放した。
闇が、土部を迎え入れる。
6.それぞれの葛藤
PKO活動中の自衛隊部隊が、一人を残して全滅したというニュースは、日本中に強烈な衝撃を与えた。そしてさらに、それを実際に行ったのが、外国から依頼を受けたタクノ社という新参の武装商社だったという事実が、追い打ちをかけるように判明した。巷の話題も、ニュースの内容も、全てがこの事件一色に染まる。
そしてそれは慧一の通う公立八坂高校でも例外ではなかった。さらに、長かった夏休みが明け、学校が始まる頃には、どこから探り当てたのか、慧一がタクノ社と二重契約を新たに結んでいたことが知れ渡っていた。
「なあ、あいつが、同じ日本人を虐殺したんだろ?」
「ちょ、どんだけ外道なんだよ。そりゃ、前からクズだとは思ってたけどさ」
「終わってるよね。人として」
「しかも、あれだけ良い待遇で雇ってくれてたツヴァイクを裏切って、あの変な会社と契約してたらしいよ」
「酷い! 今のエニシって、ツヴァイクが色々教育して、育ててくれたからあそこまで強くなれたんでしょ? それを裏切ったの?」
ただでさえ、『外道』などという異名をもっている慧一の事を快く思わず、嫌がらせめいた事をして来る人間はたくさんいたのだ。
それが今日は、教室中が、遠慮のない慧一への非難と憎悪で満ち満ちていた。唯一の頼みの綱だった颯(はやて)と楓は、事実関係だけを確かめに来て、慧一が噂を肯定すると、何も言わずに去って行った。その間も、慧一はただ、無闇に笑っていることしかできなかった。
多少の覚悟はしていた。だが、これ程とは思わなかった。決して慧一は日本の法を犯したわけではない。今まで通り、任務をこなしただけだ。しかし、その代償は途方もなく大きかった。
席を立って戻ってくれば、席に大きく『ひとごろし』の文字。
授業中には、次々と物が飛んでくる。
そして放課になれば、慧一のクラスはもちろん、他のクラスからも生徒がやってきて、慧一に人の心はないのかとなじった上、気の向くまま殴り、蹴っていく。
それでも、慧一は全ての言葉に、暴力に、ただ笑っていた。笑うことしか、できなかった。
今まで、優秀なクラスターの操縦者だとして慧一の事を優遇してきた教師たちの態度も百八十度変わり、慧一の些細な行動に一々授業妨害だと騒ぎたて、挙句の果てに、それだからあんな残酷な真似が出来るのだと慧一を糾弾した。
昼食後の五時間目の授業で、慧一はとうとう、もう帰る様に、と言い渡された。もちろん、下駄箱におかれていた靴が無事に残っているはずもなく、慧一は上靴のまま、荷物を持って校庭を一人とぼとぼと横切っていった。
校舎から歓声が聞こえ、慧一は振り返った。
全校の生徒が、授業そっちのけで、窓に群がって慧一を見下ろしていた。そして、順に何人かで声を揃えて叫んでいる。
「死んじまえー」
「エニシ、死ね」
「二度と、学校来るな!」
慧一は自分の教室を見上げ、叫んでいる男女の中に、颯と楓を見つけた。
反射的に、慧一の顔に笑顔が浮かぶ。
でも、どうしてだろう。笑ってるのに、泣きそうになる。
家に帰れば、間違いなくあの自分たちの事にしか興味がない両親に、「わたしたちに迷惑をかけた」と言って延々嫌味を言われることになるだろう。
かと言って、他にどこか行くあてがあるわけでもなく、慧一は夢遊病者の様に無意識に街中をあてどもなく放浪した。そうして歩いていった末に慧一がたどり着いたのは、かつてオミムネや涼香たちと初めて出会ったゲームセンターだった。
なんだかもう、ここでニケたちと勝負をしたことが、ずっと昔の話の様に感じられる。他にすることもなかったので、慧一はクラスターのゲーム機へと向かった。昼過ぎに制服姿で、それも上靴をはいて現れた慧一を、クラスター制御の店員は胡散臭そうな目で見ていたが、この店は基本騒ぎを起こさない限り何も言わないのが基本なので、放っておいてくれた。
コインを投入し、片っ端からコンピューターが操る敵のクラスターを倒していく。
だが、まるでおもしろくない。まるで、楽しくない。
一時間以上プレイしてみたが、少しも集中できなかった。
気付けば、慧一の部隊は全滅し、ゲームオーバーになっていた。リトライの選択画面が暫く表示されていたが、それも消え、デモプレイが始まる。
いや、これはただのデモプレイじゃないな。
何気なく画面を見ていて、慧一は気付いた。
かつてあった、有名な戦闘を忠実に再現したものだ。
陸上自衛隊蕪木(かぶらぎ)一等陸尉による、テロリストからの国会議事堂奪回作戦。日本人ならば知らぬ者のいない伝説的な作戦であり、クラスターが初めて実戦投入された歴史的な戦いでもある。
当時、2011年ごろには経済政策の失敗と度重なる戦争により財政が破綻し、アメリカの国力が急激に減退。中華人民共和国の台頭も相まって、アメリカは太平洋側の防衛ラインを大きく後退させることを決定。第七艦隊の日本からの撤退が行われた。
結果、ただでさえアメリカと歩調を合わせるようにして凋落の一途をたどっていた日本国の防衛能力は著しく低下した。さらに当時の海洋資源発見ラッシュに伴い、日本国は周辺の国々による勢力争いの場と化した。
海外のスパイが国内に跋扈し、次々とテロ活動を誘発。国内の治安は極度に悪化し、日本人の中からも不満分子を組織化して民兵集団をつくる動きが起こり、ついにはゲリラが各地で割拠する事態に陥った。しかし、弱体だった時の政府は対応を二転三転させ、何一つ有効な対策を打つことが出来なかった。
そしてついに、久(く)良(ら)徒(ど)栄(えい)蛻(ぜい)と名乗るカリスマに率いられたテロリスト集団によって、国会が制圧されるという、前代未聞の事態が発生したのだ。
そんな混沌とした時代に、新兵器であるクラスターを携え、颯爽と現れたのが蕪木一尉だった。奇襲によって国政の主要人物が捕らえられ、指揮系統が混乱する中、蕪木一尉は産業界の重鎮、後の『老人』たちを解き伏せて後ろ盾とし、テロリスト断固鎮圧の論陣を張らせ、ついには鎮圧作戦の全権を握るにいたった。
この時用いられたクラスターとは、遠隔操作の無人歩兵のことだ。要するに、ヒト型のロボット。また、その当時は操作技術も未熟で、一人の自衛隊員が三体のクラスターを操るのが精いっぱいだった。
だが、それでもクラスターの威力は絶大だった。人間を内部に入れる必要がなく、装甲と武器とに重量の多くを割けた点は圧倒的なアドバンテージを産み、死を恐れぬ無人兵器による一糸乱れぬ波状攻撃の前に、当時の低火力な歩兵やゲリラは完全に圧倒された。
この物質的、戦術的有利によって、蕪木一尉は三十分に満たない間に久良徒を殺害、国会議事堂をテロリストの手から取り戻した。そして、一晩のうちに現代日本における軍神となったのだ。
この動画は、今でもクラスター戦術の金字塔として、多くの武官たちに好んでみられている。そして慧一もまた、その一人だった。
慧一は久しぶりに、蕪木1尉の華麗な戦術を、何度も、何度も見続けた。そして、心の中で問いかける。
蕪木1尉、あんたはいったい何を願って、新しい時代を切り開いたんだい? あんたが築き上げた自衛隊の栄光は、後から現れた武装商社に横取りされ、そして挙句の果てに、おれたちみたいなガキの手によって、跡形もなく叩き壊された。きっとあんただって、今頃後悔してるんじゃないか? 必死になって現実に抗って、作り上げた成果がこんなふうに砂上の楼閣みたいに崩れてく。笑ってごまかしてれば、全て、何事もなく、楽に済ませれたのに。
――そう、笑ってさえいれば――
「み〜つけた〜」
粘着質な声で、慧一は現実へと引き戻された。模擬戦闘機のヘッドバンドから頭を持ち上げて周りを見渡すと、そこにはずらりと、八坂高校の生徒たちが並んでいた。無表情の者やニヤニヤ笑いしている者まで様々だが、その眼にははっきりと敵意が宿っている。
ハッとして時計を見ると、既に授業が終わる時間を過ぎていた。どうやら、ご苦労なことに、授業が終わった後にわざわざ慧一の居場所を探し出して押しかけてきたらしい。いや、偶然ここに来た生徒の誰かが皆に伝えたのかもしれない。
慧一はいつまでも、のらりくらりとゲームセンターに入り浸っていた自分の迂闊さを呪った。どうやらこのゲームセンターとは、不運な巡りあわせにあるらしい。しかも、今回はオミムネの助力は期待できそうもない。
――いや、でも、気にするほどの事でもないか。全部、笑ってやり過ごせばいいだけなんだから。
彼らの用事は、思った通り、慧一の吊るし上げだった。好き勝手な意見を一方的にまくしあげ、慧一を様々な角度から皮肉り、罵倒する。「ひとごろし」「裏切り者」「日本の面汚し」「外道」「カス野郎」。だいたい、一通りの侮辱は全て聞いただろうか。だが、慧一の心には彼らの言葉は、一切響きはしなかった。ただ、笑って、笑って、へらへらし続けるだけ。
途中で慧一の態度に腹を立てた連中がアイスを投げ付けてきても、ペットボトルの中身を頭からかけられても、襟を鷲掴みにしてきても、殴られても、ただ、笑っているだけ。
なんだ、耐えられないほどのことじゃないじゃないか。
慧一は、自分で自分を笑った。
だが、慧一をいたぶる集団の中に、颯(はやて)と楓が現れた時、初めて慧一の笑みが強張った。
リンチに加わっていた中で、リーダー格の不良ぶった男子が、倒れ込んだ慧一の頭を無理矢理持ち上げ、二人の方へ向けさせて耳元で囁く。
「なあ、どうしておれたちがこんな簡単に、お前の居場所が分かったと思う? お前がいっつも一緒につるんでるあの二人が、教えてくれたんだよ。お前、あいつらに携帯の位置情報、公開してるだろ」
――ああ、そういうことか。
慧一の中で一つ、疑問が解けた。
颯と楓は、まるで他人を見る様な目で、慧一を見下ろしていた。
「ハッハ、あいつらは所詮さ、お前とつるんでれば、任務の時におこぼれがもらえる、助けてもらえる、そう思ってただけさ。お前はただ、利用されてたんだよ」
慧一は腫れ上がった顔で、痛みをこらえながら、何とか頬の端を釣り上げて見せる。
「知って、た、よ」
「へえ。そりゃ聡明なこって。じゃあ、このことは? ほら、お前ら、直接話してやれよ」
不良男が手招きすると、無表情のまま、颯と楓が慧一のそばに歩み寄り、慧一を見下ろす。
「おれたちが慧一に付けた、エニシって、あだ名なんだけどさ、実は、逆さ文字なんだよ」
「ほら、アルファベットで簡単に書くと、『ENISI』 じゃん? 逆にして、余分なIをとると、『SINE』つまり、『死ね』になるんだよ。戦国武将っぽいからとか、嘘ついてごめんね」
二人の顔に、残酷な笑みが浮かぶ。
「クラスの人間、みんな知ってたことなのにね」
爆笑の渦が巻き起こる。
そこまで、おれのことが憎かったのか。
慧一の心に、ピシリと一筋、ヒビが入る。
大丈夫。笑ってれば、大丈夫。でも、こいつらの笑いは、違う。違うだろ。笑いってのは、物事をやり過ごすための方法で、そんな使い方するもんじゃないだろ。
「ごめんね〜、エニシ。ほら、わたしたちだって、エニシに付き合ってると、ちょっとイラっと来ちゃうときとかもあったりして」
「そうそう。エニシ、へらへら笑ってるばっかかとおもったら、いきなり偉そうなこと言ってきたり、友達っぽく振舞うの、ホント、ストレスたまったぜ」
笑え。笑えば、大丈夫。
「ああ、そうそう、覚えてるか? エニシ。昔お前がここで、ヤンキーたちにからまれたことあっただろ。あれ、実は偶然じゃないんだよ。お前のこと、ボコりたいって人がいたから、その人と約束しあって、わざと取り決めた時間にお前を呼びだしたんだよ」
笑え。
「あれー? そんなことまでばらしちゃうの? 颯、ひっどーい」
笑え。
「あーあ、お前、とうとう数少ない友達からも、見捨てられちゃったみたいだな」
笑え。
「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよー。わたしたちは、友達役をやってあげてただけで、友達じゃないよー」
笑え。
「ああ、そりゃ悪かった。っつーことだから、エニシ。お前もう、学校来なくていーよ。教師も含めて、誰もお前に来てほしいとか思ってねーし。つーか、くんな。生きててくれなくていいからさ、早いとこ、首くくれ」
笑え。
笑え。笑え。
笑え笑え笑え笑え笑え笑え笑え―――――
もう、なんにも、笑えないよ
「やっほー。元気してる?」
わら――え?
心が砕ける寸前、思ってもみない明るい声に、慧一は顔を上げた。
ニケだった。慧一を囲んでいた男女を押しのけるようにして、両手を腰に当て、いかにも偉そうな態度で周りを睥睨していた。厚くもない胸板を前にそりだすその姿は、涙でぼやけた慧一の目には、どこか神々しく映った。
不良風の男子が下卑た笑みを浮かべて立ち上がる。
「なんだ? この男女(おとこおんな)。いったい何の用――」
皆まで言うより先に、ニケが消えた。
いや、宙を舞っていた。服の裾がふわりと浮きあがり、短い髪が美しく舞い踊る。
「だれが男女だ!」
次の瞬間、ニケの空中回し蹴りを食らった不良風男子が、強烈な音と共に群がっていた生徒たちの列の中に突っ込んでいった。
先程まで笑っていた生徒たちが、急転直下、悲鳴と苦痛の呻きが満ちる壮絶な状態となる。
その様を見ながら、髪を一撫でして、勝利の女神は平然とのたまった。
「あんまり舐(な)めたこと言ってると、たたむわよ?」
ニッと笑う唇の間から、犬歯がのぞく。迫力満点の言葉に、生徒たちの間に動揺と困惑が広がる。しかし、腕に自信のある人間は、先程の不良風男子だけというわけではなかった。
「てめえ、コラ、何のつもりだ?」
眉をハの字に曲げた、見るからに凶暴そうな男子たちが四人、ニケを取り囲む。クラスが違う慧一でも名前を聞いたことがあるような、札付きのワルどもだ。
だが、ニケの辞書に、怯むという文字はない。いつもと変わらない、消えることのない火が、ニケを体の中から支えている。
「何のつもりって、そりゃもちろん、慧一を守るつもりよ。例えあんたたちが何人にようと、どんな理由でここに集まっているのだろうと、ね」
慧一の心が、揺れる。
でも、ダメだ。こんな人数相手じゃ、いくらニケでも勝てっこない。
慧一は痛む体に鞭打って、何とか起き上がった。
「余計なこと、するなよ」
自分でも思った以上に、かすれた弱々しい声が出た。それでも構わず、言葉を続ける。
「初めから、分かってたよ。おれに友達とか、いないし、ぼっちなんだってことぐらい。頼れるものは、クラスターの腕だけ。クラスターの腕さえあれば、後は何にも要らないんだよ。こんな痛みだって何だって、わらってりゃ、何とかなるんだからな」
慧一の言葉に、不良たちも勢いづく。
「そうさ、こんな奴庇ったって、良いことなんて何もないぜ? 普段は笑って大人しそうに見せようとしてるけどな、心の中じゃ、自分よりもクラスターで弱い周囲の人間を見下してるんだぜ? 隠してても、態度の端々のそれが出てる、バカな――」
再びニケの回し蹴りが炸裂し、喋っていた不良が吹っ飛ぶ。
色めき立つ生徒たちに向かって、ニケはあっさり一言――
「話が、ながいわよ!」
「な、あんたな――」
慧一が、ニケの腕をつかむ。
「まだ分かんないのか? 人生、何でも笑ってやり過ごす。それがおれの生き方なんだよ。こんな低俗な連中に、何やられようが、言われようが、笑ってればいいんだよ。そうやって、一人で生きてきたんだから――」
突然、慧一の脳が揺れ、景気のいい音がゲームセンターに響き渡った。
一瞬の間をおいて、慧一はニケに平手打ちを食らったのだと理解する。
「一人ぼっちとか、なに、訳わかんないこといつまでも言ってんの? いまはあたしがいるじゃない」
慧一の目が、大きく見開かれる。
「慧一はあたしの仲間なんだから、あんた自身に何言われようが、絶対に見捨てたりなんて、しないよ」
凛とした、淀みのないニケの意志を前に、慧一は言葉を失った。
――おれたちの関係なんて、ただ単に同じ武装商社で契約してる、ただそれだけじゃないか。
慧一の中の黒い部分が叫ぶが、それを声にすることは出来なかった。
一方、思いもよらぬニケの言葉に、生徒の一人が白けた顔で言いつのる。
「おいおい、エニシが何やったか知ってんのかよ。同じ日本人を、それも三百人も殺したんだぞ」
周りの生徒たちが、頷き、或いは同意の声を上げる。だが、ニケは彼らの言葉を鼻で笑い飛ばす。
「だから何だって言うの? あんたたちだって、クラスターを使って、会社と契約して、任務をこなしてるんでしょ? その時には、どこの国の、誰かにせよ、絶対に人が死んでるのよ? 慧一がやったことと、その事実において何の違いもないじゃない! なのに、その事を棚に上げて、偉そうに寄って集(たか)って慧一だけを責め立てて。恥を知りなさい!」
「んだと……言いたい放題、言いやがって!」
腕に覚えのある男子数人が、青筋立ててニケに迫る。
慌てて慧一が再び、止めに入る。
「おれは、大丈夫だよ。こんなの屁でもない。笑ってりゃ、何とかなるんだからさ。だからもう、ほっといてくれよ」
「そんなのはダメ!」
はっきりとした、明確な否定。思わず、慧一も閉口してしまう。
「前も慧一、そう言ってたけどね、そんな悲しいこと、言っちゃダメなの。苦しいことや、間違ったことがあったら、変えてかないと、ダメなのよ。そうしないと、いつか耐えきれなくなっちゃうよ。生きてるのが、辛くなっちゃうよ」
ニケの必死な言葉に、慧一は、何も言い返せなかった。
ニケは周りの生徒たちに向き直ると、はっきりとした声で宣言した。
「クラスターのシステムに慣れきって、あんたたちは本質が見えなくなってる。クラスターはゲームじゃない。あんたたちが任務と呼ぶ行為の先で、実際に人が死んでくのよ? そしてその殺戮に、武装商社は子供たちを利用してる。……あたし、クラスターのシステムを初めて聞いた時ね、こんなの間違ってるって、すっごく思ったの。でも、あたしってさ、バカだから。クラスターの世界を牛耳って、システムを、国そのものを変えてやろうって方法ぐらいしか思いつかなかったんだよねー」
てへへ、と笑うニケ。しかし、その目は真剣そのものだった。
「だからあたしは、やるよ。この国を、世界を作りかえるの! そしてそんなあたしの野望に付き合ってくれる慧一は、かけがえのない同志ってわけ。だからまず、慧一の周囲をとりまくこの間違いを、あたしがぶっ壊してあげる!」
ニケの中にある火が、今、慧一は自分の中にも燃え移るのが分かった。呆れてしまうほど壮大な夢と、それを本気で達成しようという、途方もないエネルギー。それに何より、彼女が慧一を頼り、信頼して、仲間だと思ってくれていることが嬉しかった。
慧一の目から、自然と涙がこぼれ落ちる。
「あり、がとう……」
万感の思いを込めた、感謝の言葉。だが、これだけでは伝えきれない。これだけでは足りない。だから――
「おれも一緒に、戦うよ」
「アハハ、いい気概だね。でも、この勝利の女神、ニケ様の足を引っ張ることだけは、やめてよね」
「そんなことには、死んでもならない」
涙をぬぐい、前を見る。屈強な不良や、生徒たちの怒りの視線が一斉に体に浴びせられる。だが、もう、笑ってごまかしたりはしない。もう二度と、自分を偽ったりはしない。
慧一は自分でも驚くほどの雄叫びを上げながら、拳を振り上げ、自分を取り巻く『間違い』へと突進していった。
三十分後。店内で乱闘が行われているという通報で駆け付けた警察官は、八坂高校の制服を着た生徒たち総勢二十二名が折り重なって気絶している姿を発見したという。
「慧一って、リアルだとホント、救えないほどの弱さよね」
「……気合と根性だけでは、人間どうにもならない事があるって分かっただけ、今回は良しとしようじゃないか」
頭をコンビニで買った氷嚢で冷やしながら、言い訳がましいことを口にする。
「ま〜た無意味にカッコつけちゃって。あんたが立ってられたのって、一分? いや、三十秒?」
「……すぐ気を失ったから、良く覚えてない」
渋い顔で返答する慧一を見て、ニケは声を上げて笑う。
「ま、慧一はタクノ社であたしのために馬車馬のごとく働いてくれれば、それでいいんだけどね。肉弾戦は、あたしに任せときなさいって」
「というか、二十人はいた連中を一人でのすって、化け物かよ」
「化け物じゃなくて、勝利の女神!」
「あ〜、はいはい、そうでした」
「なに? そのやる気のない返事!」
「でもさ、ニケってどうしてそう、楽観的でいられるんだ? おれたち、もう現実を何も知らない子供って歳でもないのに」
「そりゃ、あたしには過去がないから」
突拍子もない言葉に、慧一は目を丸くする。
「過去がないって、どういう意味だよ」
「あの研究所を出てくる前の事、覚えてないのよ。ほとんど何も、ね。だから、あたしには未来しかないの。そんなあたしが、未来を信じなくて、何を信じるって言うの!」
人さし指を空に向けて掲げ、くるりと一回転する。ニケは晴れやかな表情をしていたが、慧一にとっては、驚愕の事実だった。
「記憶が、ない……。じゃあ、ツヴァイクの研究所で何をしていたのかも、覚えてないのか?」
「うーん、全く覚えてないってわけじゃないんだけど、ぼんやりしてるんだよね。ご飯食べて、寝て。なんかそんな平凡な動作の繰り返しだった気がする。――というわけだから、あたしは未来に生きる勝利の女神なの! 過去なんて振り返らないわ」
上機嫌で歩くニケとは対照的に、慧一は考え込んでしまう。
ニケは、元々ツヴァイクの研究所置く深くで、半ば軟禁されるようにして暮らしていた。そして、報道の様子などからすると、『ツヴァイクの極秘資料』、つまり世界最大の武装商社であるツヴァイク社の重大な秘密に関わっているということになる。しかし、当のニケには曖昧な記憶しか残っていない。
――そもそも、オミムネはどうしておれにニケを施設から連れ出させ、涼香に預けたんだ?
それは、今までずっと目を逸らし続けてきた疑問だった。だが、もう現実から逃げ出さないと、心に誓ったのだ。
「ニケは、前から涼香やオミムネとは面識があったのか?」
「んん? 涼香ちゃんとは慧一に助けられたあの晩、研究所から抜け出した先で初めて会ったの。あと、オミムネって……ああ、あの口をきく生意気ネコ? あいつは何度か、涼香ちゃんの家に現れてたから、知ってるだけ」
「そっか。それで、ニケは今、涼香の家で暮らしてるんだよな」
「家って言うか、宗教施設、なのかな。謎の呪文を唱えてる人たちが、集団で暮らしてる場所」
どうやら、涼香が怪しい宗教にはまっているという噂は、嘘ではないらしい。普段着ている黒ずくめの服装も、宗教に関わる習慣なのだろう。だが、新興宗教の信者が、どうしたらテロリストになるのだろうか?
「あ、そうだ。どうせ暇なんだし、涼香のバイト先にでも遊びに行ってみる? ゲーセンで時間をつぶすつもりだったんだけど、誰かさんのせいで無理になっちゃったし」
「あ、あいつ、バイトしてんのか?」
「うん。クラスターを導入してない、古臭い大衆食堂で働いてるのよ」
「意外過ぎるな……」
あのいつもしれっとした少女が、そんな形で校則を破っている上に、さらに接客業までやっている姿など、到底想像できなかった。
「終始無表情で対応してそうだ……」
「さあ、どうだろ。あたしも見に行ったことはまだないから。それじゃ、レッツ、社会見学!」
涼香のバイト先を見に行くことが社会見学になるのかどうかは謎だったが、慧一はいわれるままにニケについて涼香が働いているという大衆食堂に向かった。そこは、見るからに昔ながらの空気を残す、今時珍しい大衆食堂だった。
入口をくぐった先にいた威勢のいいおじさんの案内で席に着き、メニューを広げながら店内を盗み見る。
「フロアには涼香、見当たらないな」
「うーん、多分、厨房の方でも手伝ってるんじゃない?」
ニケは気のない返事をしただけで、目はメニューに釘づけになっている。
こいつ、自分で言いだしたくせに、食べ物にしか興味がないよ。
しかもどうやら、慧一におごらせる気満々のようだ。
慧一は首を左右にふると、声をひそめて、ずっと気になっていた事を尋ねた。
「なあ、第三世代クラスターって、聞いたことあるか?」
「え? 何それ? 今実戦で使われてるK―2が第二世代クラスターだから、次世代の新しいクラスターができたってこと?」
「いや、良くは分からないんだけど……」
慧一は言葉を濁す。
リバティタウンでの戦闘で、最後に自衛隊の指揮官が言っていたセリフが、ずっと慧一の中でひっかかっていた。後からあの指揮官の事を調べたところ、ツヴァイク経営委員会代表、鵺喰(やぐらい)巽(たつみ)の曾孫だったということが分かった。つまり、彼はツヴァイク内の極秘情報に触れることが出来た可能性が高い。
次世代のクラスターが開発されているということ自体は、驚くべきことではない。しかし、その事実を慧一が聞いたこともなく、ネット上でも全く公にされていないこと、また、指揮官の『世界は日本にひれ伏す』という言葉が、慧一の中に不気味な印象を与えていた。
「ねえ、一人で考え込んでないで、あたしにも教えなさいよ」
ニケが気分を害した様子で、つっついてくる。
慧一は話すべきか躊躇った。しかし、おそらく、様々な条件から考えてニケは五人組のメンバーではない。それどころか、タクノ社の人間の大半がテロリストであることすら知らないだろう。それにどの道、第三世代クラスターの話はアルゴスも一緒に聞いている。秘密にするほどの事でもないだろう。
慧一はかいつまんで先の戦闘での話を伝えた。
「ちょっと、あんた、なんでそんな大事な話を黙ってたのよ!」
ニケの剣幕に、慧一が怯む。
「鵜呑みにできる情報じゃなかったから、自分でも調べてみてから、と思ってたんだよ」
ニケはショックを受けたような表情をして、俯いてしまう。
そんなにおれ、悪いことしたか?
「いや、黙ってたのは悪かったと思ってるよ。でもな――」
「ふふふふふ――」
ニケから、奇怪な笑い声が聞こえてくる。俯いているので表情が見えず、気味が悪い。
「えっと、ニケ? 大丈夫か?」
「最っ高じゃない!」
ニケがばっと顔を上げて、高らかに宣言する。
「これで、世界は、このあたしのものよ!」
「は、はあ?」
呆気にとられる慧一に、ニケが得意げに語る。
「いい? これからクラスター業界はあたしが女王になるの。つまり、事実上、日本はあたしの意のままよ。そしてその日本の前に世界がひざまずくって言うのなら、つまりは世界があたしにひざまずくってことじゃない! きた! ついにきた! あたしに時代がきたよ!」
「ず、頭痛がしてきた……」
「なーに言ってんの。それじゃ、手始めに世界のクィーンとなるこのあたしに、豪傑照り焼きハンバーグ定食と、特得親子丼、秘伝絶品ラーメンを、献上しなさい!」
びしりと、慧一に人差し指を突きつけてくる。
「って、おい、どんだけ食べる気だよ」
「でかい仕事をやるには、栄養も必要なの。つべこべ言ってないで、早く頼みなさい!」
渋々、店員の呼び出しボタンを押す。
すると、厨房から出てきたのは、涼香だった。
涼香は事らに気付かず、まだ、厨房の方にいた他の女子と喋っている。そして何と、驚いたことに普通に笑って、しきりに手をひらひらさせているではないか。
普段の涼香からは考えられない、普通の女の子のような態度に、慧一は開いた口がふさがらなかった。何も知らずに見ていれば、可愛らしい女子高生にしか見えない。いや、確かに普段から涼香は美人なのだが、それが逆に、人を寄せ付けない潔癖過ぎる美しさだった。だが、今は不思議なほど人間臭い女の子になっていた。
ニケも同じ感想を抱いた様で、口をだらしなく開けたまま、固まってしまっている。
「それでは、ご注文をお伺いいたします」
二人の下へやってきて、笑顔でそう言ったあと、顔を上げ、ようやく涼香は相手が慧一たちであると気付いた。笑顔が面白いほどの勢いで驚愕の表情に変わる。
「あ、あ、あなたたち、ど、どうして、ここに?」
余程意外だったのか、完全にしどろもどろになってしまっている。
「ニケが、涼香の働いてる姿が見たいって言い出したんだよ」
涼香が、赤くなった顔をニケに向ける。
「ニケ! 来ないでって、言っておいたでしょ!」
「あれ? そうだったっけ。忘れちゃったー」
ニケが目を逸らして、適当に誤魔化そうとする。だが、それでは涼香が収まらない。
「忘れちゃったじゃないでしょ! だいたい慧一も、何よその格好。いくらここが堅苦しくない店だって言っても、いくらなんでも酷いでしょ」
痛いところを突かれて、慧一も赤面する。
慧一は学生服姿のままだったが、ワイシャツにはかけられたジュースの染みがはっきりとつき、襟元には血が点々とこびりついている。さらに慧一の顔や腕には、腫れは幾分ましになったとはいえ、至る所に青あざが出来ていた。
「しょうがないだろ。こっちは色々とあって、大変だったんだよ。涼香だって、いつものクールさはどこへ行ったんだよ」
「う、うるさい。わたしだって、素性を知られてないバイト先でぐらい、気を張らずにいたいの」
「いつもそんな、気を張ってたのか?」
学校で会った時の、涼香の様子を思い出す。確かに、クラスであんな扱いを受けていては、いつも他人に弱味を見せないよう、澄ましていなければやっていけれないのかもしれない。
「何よ、わたしがどうやって生活しようが、勝手でしょ。それより、あなたたち、まさか二人っきりでこんな所に来て――ま、ま、ま、まさか、デ、デートとかいうやつ?」
涼香の顔がさらに上気し、耳まで真っ赤になる。口調も再び怪しくなって、完全に動揺してしまっている。どうやら、深窓の宗教施設で育ったお嬢様には、そういった男女の関係に全く耐性がないらしい。
前は、自分から人を喫茶店に誘っといて、良く言うよ。
しかし、逆に考えれば涼香には本当にあの時、そういった類の意識はなかったということだろう。ま、当然だが。
「デートって、そりゃ男女二人で過ごしてるのを全部デートと呼ぶのならデートだけど――」
「そ、そんなの反則よ!」
「え、ええ? な、何が?」
「えっと、それは、その……そう、タクノ社では、恋愛は、禁止なの! 絶対、ダメなんだから」
「……絶対その規則、今考えたよな」
というか、本来契約している社員同士で顔を合わせもしない武装商社で恋愛禁止など聞いたこともないし、やる意味もない。
「そんなわけないでしょ! とにかく、禁止なんだから! 分かった?」
「あ、ああ……」
あまりの剣幕に、とりあえず頷く。涼香は安心したようによし、と呟くと、そのまま厨房へと戻って行った。
「涼香、注文取らずに行っちゃったよ」
ニケが小声で言って笑っていると、再び涼香が姿を現し、恥ずかしそうにしながら慧一たちのテーブルへと歩いて来る。
手に持っていたグラスを半ば落とすような勢いでテーブルの上に叩きつけ、中の水が跳ねてこぼれるのも気にせず、二人を睨みつけた。
「ご注文は、なんにしますか!」
自分が失敗した怒りをぶつけるかのように、やたらとつっけんどんな言い方だ。慧一は脅されている様な気分になりながら、注文を言い上げる。
「はい、わかりました。それじゃ、待ってて」
およそ店員の言葉とは思えない口調で述べると、涼香は大股で厨房へと戻って行った。――どう考えても、八つ当たりだ。
同じことを思ったらしく、涼香が苦笑いしながら言う。
「あちゃー。八つ当たりされちゃったわね。でも、ここでの涼香の様子見て、少し安心できて、よかったわ」
「冷たく突き放すばかりの冷血漢じゃないって分かったのは、収穫だったな」
「ちっがーう! そうじゃなくて、涼香ってさ、いっつも棘々してて、誰にも心を許してない感じだったじゃん」
「まあな。学校じゃ、もっとひどかったし」
「そうそう。そりゃ、涼香にだって色々事情があるんだろうけど、あたしも少し心配してたの。あんなに張り詰めてたら、いつか耐えられなくなっちゃうんじゃないかって。でも、こうやって素の涼香を出せる場所があるんなら、安心だなって思ったの」
「へえ。やっぱり、ニケにも打ち解けてるわけじゃなかったんだな。だけど、ニケが人の心配とか、珍しいこともあるもんだ」
「当然でしょ? 涼香がそんなことで心のバランスを崩してくれたりしたら、あたしのクィーン・クラスタープランに支障をきたすじゃない」
「そんな事だと思ったよ」
しかも、なんだよ、その変な計画名。
慧一は苦笑すると、ふと思い出したことを聞いてみた。
「やっぱり、おれたちが今やってることって、デートって事になるのかな」
「眠たいこといってると、諫早(いさはや)湾(わん)に沈めるわよ」
にべもない。ただ、ニケの場合は本気でやりかねないところが洒落にならない。
そうして他愛もないことを話していると、ようやく料理が運ばれてきた。
慧一が頼んだカツ丼と、ニケが頼んだ三食分の食事。
「はい、お待たせ」
運んできた涼香は相変わらずの無愛想で、硬質な声に無駄口は一切叩かず、どかどかと料理を乱雑に机の上に並べていく。
ここはツンデレ喫茶じゃないはずなんだが……。
「慧一、料理置ききれないから、あんたはずっとカツ丼を手でもって食べてよね」
ニケはニケで好き勝手なことを言ってくる。
おれは何で、こんな目に遭わないといけないんだ?
慧一は己の運命を呪いながら、できたてのカツ丼をほおばるのだった。
ニケと別れ、一人帰り道を歩いていると、携帯が鳴った。番号は、見知らぬ固定電話のものだ。
「もしもし? 狩谷ですけど」
「いま、どこにいるの」
名乗りもせずに、一方的に質問してくる。これだけ抑揚のない話し方をする知り合いなど他にいはしないので、すぐに相手が誰かは分かったが、わざと意地悪く答える。
「えー? どなたですか? 声に聞き覚えがないんですけど」
「わたし、河西涼香よ」
「そんな、まさか、さっきお店の中で顔を真っ赤にして大声でどなり散らしてた、あの人がこんな大人しい声で喋るわけ――」
ガチャ。
「……」
ツー、ツー。
「あーもう、あいつにはジョークってやつが通じないのか!」
一人でぼやきながら電話をかけ返す。
「もしもし、狩谷だ。いま、八坂駅の近くにいる。それで、何の用だ」
「最初っからそう、言えばいいじゃない」
「今日の一件で、あんたにユーモアのセンスでもあるんじゃないかと無駄な期待をしちまったからだよ。ホント、あれはボケとしてのセンスが――」
ガチャ。
――自分の用事を済ませる事より、おれの無駄口を封じることを優先するなよ――
呆れながらも電話をかけ直そうとしていると、聞きなれた演説が聞こえてくる。
カサおじさんだ。
「我々は、今こそ立ち上がるべきなのだ!」
勇壮な演説に、慧一は何気なく手を止めて聞きいる。
「クラスターが兵器としてだけではなく、国民の私生活にまで浸透してきたことで、我々は職を奪われ、弱い立場へと必然的に追いやられているのだ! そして子供たちはそんな大人たちの姿を見て、自分たちは同じ轍を踏むまいと、我先にクラスターによる海外遠征へ乗り出している。気付けよ国民! 気付けよ子供たち! 我々は老人たちによって、良い様に収奪されておるのだ!」
慧一はカサおじさんの演説を聞きながら、昼間のニケの言葉を思い出していた。ニケもまた、クラスターのシステムは間違っていると言っていた。長年、クラスターを通して自分の生を実感してきたといっても過言ではない慧一にとって、肯定し難い話だった。
ゲーム感覚でK―2を操り、海の向こうの世界に不幸をばらまいている。そんなことは、カサおじさんの言うところの『子供たち』はみな心の底では気付いていることだった。だがしかし、クラスターを操ることは慧一たちの世代にとって幼い頃から慣れ親しんできた日常的な行為であり、善悪の判断が出来るようになるより先に、優秀な武官候補生たちはクラスターを用いて海の向こうの土地を勇壮に駆け巡っていたのだ。それが当然であり、疑問の余地など挟みようがないのだ。
クラスターの向こうで現実に何が起こっているのか知るようになってからも、同じ事だ。それまでの積み重ねが、後戻りを難しくしていくのだ。そして、今まで通りの『自然』な行動を続けるか、それとも急に将来を棒に振ってまでこれまでの習慣を変えるか、と問われれば、答えなど決まっている。
極端な話、誰もが成績や年金のために海の向こうの人々を殺す中、自分だけが正義をわめいてクラスターから抜け出したところで、世界は何も変わらない。となれば、続けるにしくはない。慧一たちにとって、海の向こうの人々の命は、武装商社から届く戦績表より、はるかに価値が低いのだ。
「やっと見つけたわ」
突然後ろから声をかけられ、ギョッとして振り向くと、そこに立っていたのは涼香だった。
「電話を一方的に切っておいて、どういう風の吹きまわしだ?」
「べつに。ただ、渡したいものがあったから、バイトを早めに切り上げてきただけよ」
涼香がA4大の封筒を差し出す。慧一が何のことかと訝りながら封筒に手を伸ばす。
「中身は?」
「以前あなたが欲しがってた、タクノ社の情報」
つまり、この中に慧一の祖父母の死に関する情報が入っているかもしれないということだ。また、運がよければ五人組に関する話も出てくるかもしれない。
慧一はちらりと、涼香の表情を盗み見た。普段通り、能面の様な無表情だ。
慧一にはただの封筒にも意味深な重みがあるように感じられ、ゆっくりとした動作で封筒を手に取った。しかし、涼香はすぐには封筒を手放さず、言った。
「ただし。これを渡すのには条件がある」
「なんだよ、いまさら条件を増やす気かよ」
不満を口にする慧一に対し、涼香は顔を赤らめる。
「オ、オミムネや学校の生徒に、今日のバイト先で見たことは、言わないで欲しいの」
どんな条件が飛び出すのかと身構えていた慧一は、思わず吹き出してしまう。
「あ、あんた、そこまで今日の事を知られたくないのかよ」
「ど、どうだっていいでしょ。ただ、少し嫌なだけよ。それより、約束できるの? 出来ないの?」
「分かった、分かった。誓うよ。誰にも、今日の涼香の恥ずかしい話は言わない」
涼香は慧一の言葉を疑う様に暫く慧一の目をじっと覗きこんでいたが、これ以上言質の取り様がないと諦めたのか、溜息をついて手を放した。
慧一は封筒の中身を確認しながら言う。
「ニケが、安心したって言ってたよ。涼香のああいう自然な姿を見られて、良かったってさ。あいつ、自分のことしか考えていない様でいて、実は意外と周りの人間にも気を配ってるんだよな」
「そう……」
「それにおれもさ、あんたにあんな人間らしいところがあるって分かって――安心したよ」
涼香はテロリストなのかもしれないが、少なくとも、無表情で罪のない一般人を殺戮するような真似はしないだろうと、確信することが出来た。
しかし、涼香は慧一に苛立たしげな目を向けるばかりだった。
「いいから、さっさと封筒の中を見なさい」
どうやら、完全にいつもの冷徹な仮面を被った少女に戻ってしまったようだ。これでは何を言ってもろくな反応は期待できない。
慧一は素直に頷いて、封筒の中から書類の束を取り出し、軽く目を通していった。
内容は、意外な話ばかりだった。
まず目を引いたのは、タクノ社創立者の名前だった。
『蕪木(かぶらぎ)誠(まこと)』
この国で知らぬ者のいない、救国の英雄の名だ。彼が武装商社を経営していたとは、初耳だった。どうやら蕪木は自衛隊を途中退官し、当時の部下たちを誘って新しい武装商社を設立したらしい。
この旧タクノ社における主要業務の中の一つが、慧一の目を引いた。
『新型クラスターの開発』
これは間違いなく、後の第三世代クラスターのことだ。つまり、第三世代クラスターの研究はタクノ社が以前活動していた時期から、既に始まっていたことを意味する。ただ、この頃はどうやら戦闘用の技術というよりも、クラスターの技術を転用して人と人との感情や感覚を共有させる、テレパシーの様な技術を目指していたらしい。
さらに読み進めていくと、任務を選り好みばかりしていた会社の経営が、徐々に悪化していったこと、ツヴァイク社から開発過程の技術を売らないかと提案されていたことが書かれていた。だが、会社側はその提案を頑なに断った。理由については、会社の方針、としか書かれてはいない。しかし、新技術が実用化に結びつかない中、赤字を補てんしきれなくなったタクノ社はその半年後、技術部門を政府に売り渡している。だがそれでも、当時は武装商社が創成期で過当競争状態にあったことも災いして、タクノ社の採算は悪化し続け、ついに創設から僅か三年、2023年に社員との契約を全て解除し、休眠状態となった。
文章を読み終えた慧一は、どこか違和感を覚えた。
――何かが、決定的におかしい。
オミムネもまた、タクノ社の過去に、秘密が隠されていると臭わせていた。必ず、何かがあるはずなのだ。
唇に手を当て、必死で考える慧一に、涼香がやおら問いかける。
「ツヴァイクが、鳴沢村の研究所で研究していたものは、何?」
慧一はすぐに答えようそして一瞬逡巡する。しかし、結局は素直に答えた。聞いてくる以上、ニケもそれぐらいの情報はすでに手に入れているという事だ。
「第三世代クラスター……」
土部の話など、これまでの情報を総合すれば、そうとしか考えられない。おそらく、鳴沢村では代々、新世代クラスターの研究が行われてきたのだ。最初はタクノ社、次はタクノ社の技術部門を買収した政府、そしてテロ事件の後、用地を買い取ったツヴァイク――
いや、そんなはずはない!
「おい、嘘だろ……」
一つの可能性に思い至り、書類を持つ慧一の手が震える。動揺する慧一に、涼香は冷めた目で言った。
「ありのままの事実よ。ツヴァイク社は第三世代クラスターの技術を欲していた。けれど、おそらくは蕪木1尉の意向で、タクノ社の技術部門は政府によって買収された。その後に起こった、ツヴァイク社にとって都合の良過ぎる襲撃事件。その時に職員はことごとく殺され、資料は失われていたはずなのに、それでも再開された、第三世代クラスターの研究。全ての事実が、たった一つの結論をさし示しているわ」
涼香は言葉を切り、慧一を真っ直ぐ見据えた。
「六年前の襲撃事件は、ツヴァイク社が引き起こしたものよ」
慧一は息もできず、涼香を見返すことしかできない。
「これで分かったでしょう。あなたが真に仕えるべき武装商社が、どこなのか。そして、真に戦うべき相手が、誰なのか」
――ツヴァイクが、殺させた――いや、殺した――じいちゃんや、ばあちゃんを――
どうして涼香が慧一の過去を知っているのか、という疑念が頭をよぎったが、すぐに激情によって塗りつぶされていく。
これまで、慧一は血のにじむような努力を積み重ね、ツヴァイク社に貢献してきた。しかし、その当のツヴァイク社が、慧一を育ててくれた祖父母殺害の命令を発していたのだ。
怒りと、憎しみが慧一の心を覆い尽くした。
ぎりりと、歯をきしませる。
「許さない。絶対に」
涼香が試すように問いかける。
「分かってるの? ツヴァイクは今や武装商社の頂点に君臨している。会社のトップを務める鵺喰(やぐらい)巽(たつみ)は武装商社評議員の会長として、事実上政府すら自由に動かせる立場にある。彼を敵に回すということは、この国そのものを敵に回すということよ」
「そんなこと、関係ない!」
慧一はようやく、ニケの気持ちが分かった気がした。
そうだ、この国は狂っている。病んでいる。ならば、変えなければいけない。例えそのために、自分がどれ程の犠牲を払うことになったとしても。
「もし望むのなら、わたしたちはあなたの力になれるかもしれない」
涼香が手を差し出してくる。その目は、街灯の明かりに怪しく輝いていた。
「……反政府主義者たちを束ねる、五人組の力か」
「ええ。わたしたちはいつだって有能な人材を求めてる。あなたとなら、良い協力関係を組めるでしょう。何より、わたしたちの目的は一致している。あなたの協力があれば、政府に、老人たちの権力を打ち砕く強烈な一撃を与えることが出来る」
「そのために、タクノ社を設立したのか?」
涼香は口を閉ざし、ただ決断を促すかのように、慧一を真っ直ぐに見詰めた。だが、沈黙が十分な答えだった。
五人組と手を結べば、間違いなく老人たちへの復讐の近道になるだろう。
慧一の心は、決まった。
「腐りきった老人どもに、目にもの見せてやる……!」
「なら、答えは一つね。わたしたちで、この国の不条理を駆逐するのよ」
涼香の細い手が差し出される。
この小さな手で、どれほどのことを成し遂げようとしているのだろうか。
――おれだって、やってやる。必ず、この国を、変えて見せる!
二人は、力強く手を握り合った。
夜の路地裏を、黒ずくめの服に黒い日傘をさした少女が、一人ゆったりと歩んでいる。
少女の前に、物陰から一匹の黒ネコがひらりと姿を現した。
「その様子だと、首尾は上々のようだね、涼香」
黒ネコが発する少年の様な高い声に、少女は眉一つ動かさずに答える。
「あなたの言っていた通り、祖父母が関わる話になった途端、冷静さを失って、いいように誘導に従ってくれたわ」
少女の声はどこまでも冷徹で、ネコに目を向けようともしない。
「狩谷はクラスターでの戦術のせいで誤解されやすいけど、根は優しいからね」
「その優しい友達を、どうしてあなたはわたしたちの計画に引きずり込もうとするの?」
「へえ。キミがボクの行動に興味を持つなんて意外だな。もしかして、慧一に変な思い入れでもできちゃったかな?」
「そ、そんなわけないでしょ! ただ……」
初めて、少女が僅かに動揺を見せる。だが、すぐに冷静を取り戻して言った。
「ただ、あなたの真意が気になっただけよ」
「なら、そういうことにしておこうかな」
上から目線で答えるネコを、少女はきつい目でねめつける。ネコの方は、まるで意に介さず、平然と少女の斜め前の塀の上を歩き続ける。
「キミは狩谷を少し誤解してるみたいだね。狩谷だって何も、復讐のため、なんていう単純な目的のために怒り狂ってるわけじゃないよ」
「じゃあ、何のためだって言うの?」
「それは、時が来れば分かることさ。それより、キミだって最初は狩谷を仲間に入れるの嫌がってたのに、どうして心変わりしたんだい?」
「K―2を操る腕を見ていて、利用できると思ったから。それだけよ」
「ニケも懐いてる事だし?」
「ニケにはアルゴスがいるから、心配する必要はないわ」
「ああ、そうだね。あの二人は、不思議なほど波長が合うみたいだね。二人の存在理由が似通っているから、かな」
「どうでもいいわ。そんなこと。わたしたち五人組は、それぞれの道を歩む過程で、偶然同じところを通りがかった。ただそれだけの関係なんだから」
「ドライだねえ。ボクとしてはせめて、キミが連れてきたタクノ社のスポンサーの正体ぐらい、教えて欲しいところなんだけどね」
「それを言うなら、あなたがスカウトしてきた、画面の向こうにいるばかりのガヴァナーが何者なのか教えるのが先でしょう」
涼香の澄ました返答に、オミムネは溜息をつく。
「やれやれ。結局、ボクら五人組はお互いが何者かさえ、知ることが出来ないということかな。でも、例の計画を実行に移すまでには時間があるもんね。それまではせいぜい、お互い偽りの友情を楽しもうじゃないか」
オミムネはそれじゃ、と別れを告げると、建物の隙間へと消えて行った。残された涼香は、一人小さく呟く。
「計画さえ実現すれば、その時はあなたたちも――」
涼香の目が、暗い光を帯びた。
7.老人と特許状
タクノ社による自衛隊の殲滅は各方面に大きな衝撃をもたらしたが、それは後から見れば、新生タクノ社の快進撃における、ほんの始まりに過ぎなかった。
あれから二カ月。この事件で名を上げたタクノ社の下には世界各地の紛争当事国や武装ゲリラから依頼が相次ぎ、そうした任務の全てで、タクノ社は目覚ましい成果を上げていった。タクノ社が鮮烈なデビューを飾り、さらにその後の勝利でそれが偶然ではなかったことを証明すると、腕に覚えがあり、自分たちを評価してくれる新しい場を求めていた文官武官が先を争ってタクノ社との契約を申し出るようになり、会社は規模を拡大していった。
任務の中にはツォレル社やフジサキ社など、既存の中規模武装商社と競合するものもあったが、他社の武官たちでは、少数精鋭を誇るタクノ社の武官の前に敵ではなかった。
「実際、この会社のメンバーは優秀だし、連携も非常にうまくいってると思うよ」
タクノ社本社オフィスとなっているアルゴスのアパートで、慧一はタクノ社の現状についてオミムネ・ネコと話し合っていた。
「連携、か。やっぱりタクノ社の快進撃を支えているのは、そこかな」
慧一が、口に手を当てて考え込む。オミムネは毛繕いしつつ答える。
「大きな要因の一つであることは、間違いないだろうね。規模が大きくなったと言っても、武官はまだ二十人ほどしかいないから、横のつながりが造りやすいんだと思うな。ただ、それ以外にも理由はあるよ。今だって、こうしてキミが油を売っている間にも、アルゴスが依頼のあった現地に飛んで、現地を直接見て、様子を伝えた上で、最適な形で自分も戦闘に参加してくれているわけだし」
オミムネの軽口に、慧一はごろりと横になって答える。
「これは油を売ってるんじゃない。今後の方針のために、現状の把握に努めてるんだよ。でも、オミムネの言う通り、アルゴスの八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍はでかいよな。戦闘になっても一人であの戦力って、どうかしてるだろ。おれだってあんなの絶対相手にしたくないよ」
あの巨躯を活かして重火器に防弾用具を持って走り回る姿は、重戦車さながらだ。一度など、たった一人でK―2の分隊を全滅させてしまった程だ。
「ああ。その上、キミみたいな戦略特化型のS級ライセンス所持者と、その戦略を現実にする力のある近接戦闘型の涼香がいるからね。涼香はモグリだったからライセンスこそ持ってないけど、間違いなくS級の実力はあるし」
「……あいつ、正式な登録をなんでもらおうとしなかったんだろ」
「彼女もまた、現行のクラスターシステムに思うところがあるってことだよ」
「やっぱり、そういう理由なのか。ニケも似たようなこと、言ってたな」
ゲームセンターでの事を思い出し、頬が熱くなる。
ニケの武装商社に対する拒否感は、涼香が植え付けたものなのだろうか?
「ま、それでボクが涼香に頼まれて、彼女がギガノス社の任務を受けられるよう、ニセのアカウントを提供してあげてたんだけどね」
さすが、小学生ハッカー。日本でトップクラスのセキュリティを、事もなげに破ってくれる。
「オミムネ、そんなことまでしてたのかよ」
「まあね。これはボクが生きてた頃の話だけど」
「……やっぱり、お前ってもう死んでるのか?」
「さあ、どうだろうね」
相変わらず、肝心な問いにはオミムネは答えない。慧一は未だに、オミムネが本当に自分の味方なのかどうか、はかりかねていた。テロリストの仲間であり、そこへ慧一を巻き込んだことは間違いない。しかし、オミムネにはどうにも、タクノ社にいる他のメンバーと志を同じくしている様な、同志という雰囲気はまるでないのだ。
いったいこのネコは、何を考えているのだろうか?
慧一の思いを知ってか知らずか、オミムネはあっさりと話題を変える。
「あと、タクノ社の強みといえば、ニケかな。彼女のセンスは驚異的だね。この三カ月で、キミや涼香に迫る勢いじゃないか。純粋な銃撃戦の能力だけだったら狩谷、負けちゃってるんじゃないかい?」
薄々感じていたことをつかれて、慧一はぐっと言葉に詰まり、舌打ちする。
「ほっといてくれよ。それより、見せたいものがあるから作戦会議に早めに来るようにって言ったのはオミムネだろ。なんだよ、見せたいものって」
「ああ、後で見せるから、ちょっと待ってて」
「なんだよ、そんなにタイミングが大切なものなのか?」
慧一が首をかしげながら伸びをしていると、部屋の中にチャイムの音が鳴り響いた。
「ほら、狩谷、お客さんだよ」
軽くあしらう様に指示されて、慧一はムッとしながら玄関へ向かう。
とは言え、まさか黒ネコが「いらっしゃい」などと言って来客を出迎えるわけにはいかないのだから、仕方ないのだが。
「はいはい、どなたです――かあ!」
ドアを開けた向こうがさらに壁になっていて、うっかり間抜けな声を出してしまう。壁の向こうから可笑しそうな笑い声が聞こえてきて、慧一は忌々しげな表情をする。
「くそ、いつまで経っても、慣れないんだよ。ほら、アルゴス。突っ立ってないで早く入れよ」
「わ、わがっだ」
どうやら任務先から帰って来たらしいアルゴスと、にやけ笑いをしているニケを招き入れる。しかし、そのさらに後ろに、二十歳前後の、サングラスをかけた見るからに怪しい男がいた。
「えっと……?」
慧一が対応に戸惑っている間に、男は無言で部屋の中へと入って行く。やけに図々しい態度だ。
「ニケ、この人は?」
眉根をひそめる慧一に対し、ニケはあっけらからんと笑って答える。
「ああ、彼はあたしの仁徳に感銘を受けたって言って、あたしに弟子入りしたの。やっぱりあたしって、徳高い香りが滲み出ちゃってるのかな」
「な……このバカ……!」
慧一は慌ててニケを玄関の隅へ引っぱりこむと、小声で怒鳴った。
「素性の分からない人間をひょいひょい連れ込むんじゃない! ここの秘密が余所へ漏れたら、ことなんだぞ」
「そんな、隠すほどの秘密があるわけじゃないでしょー。それより、彼が仲間に入れば、タクノ社も社員が増えて、さらなる発展間違いなしよ!」
『ここがテロリストの巣窟だなんて世間にばれたら、おれたち終わりなんだよ』
と叫びたい思いは山々だったが、何も知らないニケに言うわけにもいかず、ぐっと言葉を飲み込む。
「それじゃ、新人の加入を言わって、パーっとパーティーでも開いちゃいましょ! 何でも食べ放題の立食パーティー。ああ、なんて良い響き!」
料理の山を想像してよだれを垂らしている少女を、どう説得しようかと慧一が頭を悩ませていると、オミムネが声をかけてきた。
「狩谷、心配する必要ないよ。彼はボクが操ってる、K―2だから」
慧一とニケが、揃って肩を落とす。もちろん意味はそれぞれ違い、慧一は安堵によるもので、ニケは落胆によるものだ。
「ちょっと、なによあんた! このあたしをおちょくったってこと!」
見るからに不機嫌そうな顔でオミムネに迫って行く。
「アハハ、ごめん、ごめん。まさか本気にするとは思わなかったんだよ」
謝る気があるのかないのか分からないような事を言いながら、サングラス男の足元へ駆けより、一気に体を伝って男の肩まで駆け上る。
青筋立てているニケにはいつも通り、目もくれない。
「さて、これが、キミたちに見てもらいたかったものだよ」
オミムネの言葉と同時に、サングラス男が肩にかけていた鞄の中から、直径二十センチほどの金属製のリングを取り出した。
「狩谷、これを首にはめてスイッチを入れてみてくれよ」
「おいおい、体に害のあるものじゃないだろうな」
「ああ、問題ないはずだよ。きっと」
「……」
「そんな疑いの目で見ないでよ。大丈夫、失敗したからって、命に別条はないから」
「あってたまるか」
憎まれ口をつきつつ、慧一が恐る恐る言われた通りリングを首に付け、スイッチを押す。その様子を、ニケとオミムネが興味深そうに見つめていた。
リングが閉まっていき、首にぴったりのサイズになったところで停止する。
慧一の耳に、羽音の様な重低音が響きだす。
「これは、いったい――」
猛烈な不安に襲われ、リングを外そうとするが、リングはしっかりと首に固定されていて、びくともしない。
次の瞬間。
慧一の意識は宙に舞い出ていた。
いや、正確には、二人の人間の間。慧一自身の体と、オミムネが連れてきたサングラス男。二人の感覚が、平等に慧一の頭の中に流れ込んできていた。
「まさか、これは、クラスターシステム?」
オミムネが、得意げに頷く。
「その通り。そいつは、操縦者の体もまた、クラスターの内の一体として操ることが出来る、画期的な装置なんだよ」
「すごい!」
オミムネの言葉に、ニケが目を爛々と輝かせる。
確かにこの技術は、革新的なものだった。本来、クラスターを操っている間、操作者本人の体の感覚は一切失われる。循環、呼吸などといった最低限の体の機能が維持されるだけだ。
「でも、だから何が出来るってわけじゃないよな」
慧一の冷めた意見に、オミムネは首を振る。
「分かってないな、慧一は。この技術さえあれば、クラスターでの戦闘をこなしつつ、学校の宿題をやることだってできるんだぞ」
「銃を撃ちながら数学の問題を解いてるって、違和感しか感じないぞ……。しかし、クラスターで操作できるのは、特殊な処理がなされた生体ユニットだけだって聞いたのに、何でこんな事が出来るんだ?」
「こいつは、ツヴァイクで開発されていた新技術だからね。いままでの原則なんて通用しないんだよ。そもそも、生体ユニットって言ったって、作りは人間と何ら変わらないしね」
あっさりと、とんでもないことを聞いた気がして、慧一は背中に寒気が走るのを感じた。「なあ、それなら、一般の人間も、その気になればクラスターで操ることが出来るってことか?」
「理論上は、そうなるよ。でも、自分自身と他人を操るのとじゃ、根本的に状況が異なるしね。それに、倫理上の問題もあるから、ツヴァイクでもそういう研究はやってなかったよ」
二人の話に、ニケが興奮して割って入る。
「そんなことより、オミムネはどうやってその技術を手に入れてきたの? 非公開品なんでしょ?」
「そりゃ勿論、ツヴァイク側のコンピューターネットワークにちょっとした混乱を起こさせてだ――」
オミムネがネット上での英雄譚を語りだしたが、慧一は聞いてはいなかった。
もしオミムネの言葉通りなら、人と生体ユニットとの間には、どれほどの差があるというのだろうか?
武装商社や政府の見解では、生体ユニットは道具であって、人ではないし、人としての感情も持たないとされている。だが、今、慧一が慧一の体を操っているように、他人が慧一の体を自由に操れるようになれるのだとしたら、生体ユニットとの差は、限りなく希薄なものになってしまう。
慧一の脳裏に、かつてカサおじさんが声高に叫んでいた言葉が蘇る。
――『老人』たちはあろうことか若者を戦地に送り出し、殺し合いをさせている――
まさか、このことを言ってたのか?
慧一が考え込んでいたところ、勢いよく玄関が開き、涼香が入って来た。
「やあ、涼香。作戦会議が始まるまでまだ時間があるのに、早いね」
しかし、涼香はオミムネの言葉には答えず、厳しい表情で言った。
「まずいことになったの」
部屋にいた三人が、思わず顔を見合わせる。
慧一は自分の体に意識を戻して尋ねた。
「まずいことって、また何か難しい任務でも来たか?」
慧一は涼香から国立クラスター研究所襲撃の真相を聞いて以来、ツヴァイクからの任務は一切受けていない。あの時、ニケは告げた。いずれ、慧一の力を借りる時が来る。だからそれまでは、時機を待っていて欲しい、と。
ツヴァイクへの復讐を誓った慧一にとって、待ちきれない日々だった。そしてその分、慧一はタクノ社での依頼はどんなものでもこなしてやろうと、意欲満々だった。
だが、涼香の返答は慧一にとって想像だにしないものだった。
「さっき武装商社評議会から連絡があって、タクノ社の武装商社としての特許状を取り消すかどうか、責任者を喚問した上で審査にかける、と伝えられたの」
「なんだと?」
「なんですって?」
「なんだって?」
「なんだべ、ぞれ」
居並ぶ全員が、それぞれに驚きの声を上げた。
さらに涼香の話をきき、慧一たちはタクノ社がどれ程危機的な状況におかれているかを知った。どうやら、以前の自衛隊に対する作戦が評議会で国家に対する反逆として問題視されたらしい。
あんまりな話に、慧一は思わず涼香に抗議してしまう。
「せっかく会社が軌道に乗り始めたのに、なんだよそれ。そんなこと言ったって、どこの国、どこの軍隊に対しても宣戦布告の自由を持つのが武装商社だろ? 文句をつけられる言われはないじゃないか」
「わたしに言っても仕方ないでしょ。ただ、老人たちの本音は、このままだと自分たちの既得権益が侵されるのが嫌ってことみたい。だからあえて、二カ月も経ってから問題にし始めたのよ」
オミムネが場違いな伸びをしながら付け加える。
「でも、きっと評議員の長、鵺喰(やぐらい)巽(たつみ)だけは本気でそのことを問題にしようとしてるだろうね。なにせ、曾孫が殺されたんだから、黙っちゃいないよ。間違いなく、全力でボクらを潰しに来るだろうね」
「じゃ、じゃあ、あたしたちって大ピンチってこと?」
うろたえるニケに、涼香が肩をすくめる。
「だからみんな、焦ってるんじゃない」
「というより、鵺喰巽に目の仇にされてる時点で、ほとんど詰んでるよな」
「ムムムム……」
しかし、ニケは暫し押し黙ると、急に高笑いし始めた。
「ニ、ニケ、大丈夫だか」
ニケの異常な行動にアルゴスが心配そうに顔をのぞきこもうとするが、ニケはそれを手でさえぎる。
「な〜んにも、心配することなんて、ないじゃない! そう、このニケ様が、ヨボヨボの老人どもを、ちゃちゃっと、たたんじゃえば良いんでしょ?」
胸元を、どんと叩いて見せるニケ。
「……」
他の面々は、一様に顔を見合わせ、溜息をつく。
「とりあえず、もっともらしい言い訳を急いで考えた上で、申し開きをするしかないわね」
ニケだけがきょろきょろする中、涼香の言葉に全員が疲れた表情で頷いた。
評議会からの喚問に行くメンバーは、ガヴァナーであるニケ、これまで評議会との連絡役を務めてきていた涼香、そして老人たちにも顔が売れているということで慧一が参加することになった。
当初、ニケには下手な発言をしないよう、猿轡でも噛ませて連れていくべきだとの主張がオミムネから出され、慧一からも厚い支持を受けたが、慧一にとって誠に遺憾なことに、二人がニケの回転回し蹴りを食らった上、一時的に部屋から追放されたため、没になってしまった。
「それにしても、アルゴスはともかく、栄道楽はどうして来なかったんだ? ガヴァナーとしての仕事は、あいつがやってるんだろ?」
評議会が置かれているビルへ向かう道すがら、慧一が涼香に尋ねた。
「彼はモニター越しに事務手続きや会社の長期的活動計画何かを立ててくれるだけよ。素顔をさらしてわたしたちと運命を共にする気はないわ」
「ほーんと、使えないガヴァナー代理よね。でもま、真打(しんうち)たるこのあたしがガヴァナーとして君臨している限り、何の問題もないけどね」
ニケが頭の後ろで手を組む。ニケも涼香も、慧一と初めて会った時同様の、アクの強い私服姿だ。そんな格好でいいのだろうかと不安になるが、慧一も学生服姿に過ぎないので、人の事は言えない。
タクノ社を実質的に支えているのはこんな、スーツも持っていない子供たちなのだと、改めて実感させられる。
「でもさ、老人って、百歳を軽く超えたお爺ちゃん集団なんでしょ? 話とかまともに通じるのかな。ボケてるか、耳が遠いかのどっちかな気がするよね」
「ニケ、頼むからそういう頭の悪い発言を官舎についてからしないでくれよ――イタッ」
頭を思いっきり小突かれた慧一に代わって涼香が答える。
「彼らは常時、再生医療を利用して造り出したスペアの体と老いた体を取り換えているから、身体的には若いままなの」
「ええ? じゃあ、不老不死ってこと?」
「違うわ。現代医学を持ってしても、神経系だけは取り換えることが出来ないの。そんなことをしたら、本人じゃなくなっちゃうから。だから、彼らでも中枢神経に異常が起これば、ただでは済まないわ」
「要するに、ボケたりはするってこと? ならいいわ。あたしが、そのボケたなんちゃって老人どもの首根っこを締め上げてやるんだから」
「た、頼むからビルの中では喋らないでくれ、ニケ……」
あれこれと話している間に、目的の庁舎が見えてきた。
地上六十階、敷地の周囲には広大な庭園を誇る、外事貸与省だ。K―2という武器を貸与しているに過ぎない、という建前からつけられた名だが、現在では、そのどこかふるわない名前とは裏腹に、老人たちを後ろ盾に政府内で最大の影響力を誇っている。
まるで権限の大きさを象徴するかのように、威圧的に庭園の上にそそり立った巨大な建物は、確かに見上げると圧巻だった。
「ここが、この国の中枢、老人たちの根城か」
ここへ来るのは決して初めてではないが、やはり、来るたびに身が引き締まるような思いになる。涼香の表情も、いつもより固い。一方、ニケは慧一の灌漑になどまるで無頓着で、回転扉をみて喜んで、くるくると扉を回し続けている。
彼女に、敬うという概念はあるのだろうか。
三人はそのまま係員の誘導に従い、黒塗りの扉の前に辿り着いた。両サイドには、厳めしい警備員が立っている。この向こうに老人たちが待っていると思うと、観音開きの扉から、強い威圧感を感じる。慧一でも、ここまで来たのは初めてだった。老人たちと話したことはあるが、通信回線を介して音声のみでやり取りしただけだった。老人たちは自分たちの姿を公にさらすことを極度に嫌っており、その素顔を知る者は限られている。
「どうぞお入りください」
係員が扉を指示した時、唐突に係員が持っていたPHSの呼び出し音が鳴った。
失礼します、と断りながら、電話に出る係員。二、三会話のやり取りをして、電話を切ると慧一たちに向き直って言った。
「申し訳ありません。喚問は中止ということになったそうですので、一階の窓口で、営業継続に関する通知だけ、お受け取りください」
唐突な話に、涼香が感情を抑えた声で聞き返す。
「延期ではなく中止とは、どういった意味でしょうか」
「議論は喚問の必要なく結審したそうです。ですので、ご足労頂き、まことに恐縮ですが、喚問は行われません」
つまり、タクノ社側の言い分を聞くことなく、特許状の取り消し決定が下されたということに他ならない。
涼香の顔が青くなる。
「わたしたちには、抗弁する権利があるはずだと認識しています。そのような措置は、納得できません」
「はあ……。と、わたしに言われましても」
線の細い係員は、困り果てた、と言う表情で頭をかく。確かに、上からの指示通りに動いているだけのこの男に、何を言ったところで無意味だろう。
「……どうする?」
訳が分からず、慧一が涼香に尋ねるが、涼香は唇を強くかみしめて言った。
「どうしようも、ないわ。こちらの正しさを主張する場すら奪われたのでは、もう方法はない。だからと言って、大人しく通知を受ければ、二度とタクノ社は武装商社として活動することが出来なくなるわけだけど」
「そんな……」
涼香が、黒塗りの扉を睨みつけながら、絞り出すように言った。
「後一歩、後一歩で連中に手が届くのに、どうして、こんな所で……!」
係員が、淡々と声をかける。
「では、こちらへどうぞ。通知を受けた後、簡潔な手続きなどもございますので」
手は尽きた。初めから、新興の武装商社を発展させていくなど、無理な話だったのだ。
絶望と諦めの帳が下りる。
だが、耳をつんざく強烈な衝撃音が、帳を一瞬にして打ち払った。
慧一は顔を上げて、愕然とした。
ニケが、評議会への扉を、鍵ごと力ずくで蹴破っていたのだ。
「こんな結末、このあたしが、許すわけないじゃない!」
「何てことをするんだ、君は!」
控えていた警備員たちが慌ててニケを止めに入るが、ニケは二人の手をするりとかわし、扉の向こうへと駆けこんだ。
猿轡(さるぐつわ)だけじゃなくて、首に縄でもつけとくべきだったか?
度肝を抜かれて唖然としていた慧一たちも、我に返って慌てて後を追う。
議会の中へ踏み込むと、ニケが議場の中央まで達したところで警備員たちに取り押さえられていた。議場の中は薄暗く、一段高い位置に円形に席が並び、二十人弱の少年たちが座っていた――そう、暗いために細かくは見えなかったが、間違いなく外見は少年だった。ただ、刈り上げられた頭だけは醜く膨れ、肌の合間から金属のプレートなどが醜く飛び出していた。
これが、この国を裏で支配する、老人たち――
警備員――おそらくはK―2だろう――に床の上に抑えつけられながら、ニケが叫ぶ。
「放しなさいよ! こののぼせ上ったガキども、ヒキガエルみたいに地面にはりつかせてやるんだから!」
檻に入れられた獰猛な獣のような叫びに、警備員がたじろぐ。その隙に拘束から抜け出し、一撃で警備員の一人を打ち倒す。残った警備員が縋りつき、完全なもみ合いとなった。
「ニケ、やめろ!」
言ってはみたものの、ニケが聞くはずもなく、髪を振り乱して猛然と警備員に殴りかかっていく。
咄嗟に、慧一は二人の間に割って入った。だが、すぐさまニケの拳が顔面に命中し、目の前を星が舞い、体がふらつく。
くそ、容赦なく殴りやがったな。
鼻の奥から熱いものがこみ上げてくるのが分かるが、気にしている余裕もない。なんとか倒れずに踏みとどまり、二人を引き放そうとする。
今度は、警備員のひざ蹴りが脇腹に命中し、体がクの字に折れ曲がる。
横目に見ると、係員はうろたえるばかりで、涼香は渋い顔をして立ちつくしていた。
どうやら、助けは期待できそうにない。
「ニケ、落ち着けって!」
「どいてよ! こいつらまとめて、たたんでやるんだから!」
ニケの肘鉄が慧一の背中を捉え、さすがに耐えきれずに慧一が足元から崩れ落ちそうになった時、澄んだ高い声が割って入った。
「よい、やめよ」
声に従い、警備員が素早くニケから離れる。ニケはなおも追いすがろうとするが、慧一が押しとどめるとようやく諦めた。
慧一は血が止まらない鼻を抑え、息を整えながら声の主へと向き直った。どうやら、議場の最も奥、一段高い位置に座る少年が警備員を留めたようだ。見た目は十二、三歳ほどで、オミムネより少し年上だが、彫像の様な、整っているが冷たい印象の顔立ちをしている。
少年がオロオロしてばかりいる係員に尋ねる。
「こちらの方々は、以前連れてくるようにと命じてあった、タクノ社の者たちか」
係員は縮みあがって答える。
「は、はい、そうです。それが突然、喚問が中止になったと聞くと暴れ出して」
「あんたたちの勝手な都合なんて、知ったこっちゃないわよ!」
ニケの揶揄に、少年は苦笑する。
「なるほど。たしかに、いささか身勝手であったかもしれぬの。係員並びに、警備員、下がってよい」
古風なしゃべり方と見た目のギャップが激しい。口調も一見やさしくはあったが、目の奥は爬虫類の様に感情を感じさせない。間違いなく、この少年の体の中には老練な国家指導者の魂が潜んでいるのだろう。
「で、ですが……」
「聞こえぬのか。いまより喚問を行う故、下がれ」
憐れな係員は縮みあがって頭を下げると、逃げ出すように部屋を出て行った。警備員も気絶している同僚を引きずるようにして立ち去り、扉が閉ざされる。
タクノ社の三人だけが、居並ぶ老人たちの中に取り残された。途端に、居心地が悪くなる。落ち着いて自分たちの姿を見てみれば、到底、国家権力者たちの前に立つべき姿でないことは明らかだった。ニケは元から長めに設計されている服の襟がさらに伸びてしまい、下着が襟元から見えてしまっている。さらに袖は破れ、髪は台風でも通り過ぎたかのように乱れきっている。慧一もカッターシャツに血と胃液が垂れ、鼻からは未だに出血している。涼香はそもそもからして黒一色で統一された謎の宗教ファッションだ。
余りに恥ずかしくなって、慧一は床の上に目を落とす。
こんな怪しい三人組が弁明などしたところで、到底受け入れてはもらえないだろう。ただ、せめて話を聞いてくれると言ってくれた、代表者らしい老人だけが頼りだ。
その老人が、口を開く。
「さて、それでは一応、わしぐらいは自己紹介をしておこう。ツヴァイクの経営委員、委員長で、この評議会の議長を務めておる、鵺喰(やぐらい)巽(たつみ)だ」
切れ長の目が、見下すようにして慧一たちを見つめる。
しまった。唯一味方かもしれないと思った相手が、最大の敵とは。
老人の言葉に、少しでも期待を持ったのが愚かだったようだ。いずれにしろ、八方ふさがりの状況には、何の変りもない。なにしろ、ここにいる老人たちの中で、誰ひとりタクノ社を存続させる理由を持たないのだ。
「では、わたしも――」
順に、老人たちが簡単に自己紹介していく。当然のことながら、全員が名のある武装商社の代表だ。彼らの多くは慧一たちを取るに足らないもの、とでも言う様に見下している様子だったが、中には明らかな敵意を目に宿らせている老人もいた。ツォレルやフジサキといった、タクノ社がこれまでに打ち負かしてきた武装商社の代表たちだ。
自己紹介が終わると、鵺喰が口を開いた。
「さて、それで、今回君たちを呼びだしたのは、分かっておるだろうが、自衛隊との戦闘の件に関してである。何か申し開きがあるのなら、述べるように」
来た。慧一が涼香に目配せする。筋道だった言い訳は事前に完璧に考えてある。全ては、この申し開きにかけるしかない。
だが、と慧一は思う。
審問を取りやめた時点で、老人たちの結論は決まっている。それを、理論でもって覆すことなど出来るだろうか?
涼香も同じことを思ったらしく、考え込むように押し黙っている。
「どーしてあたしたちが、申し開きなんてする必要があるのよ!」
あ、このバカ。
ニケの口を急いで押さえようとするが、ニケの手に払いのけられる。老人たちの目が、明らかに不愉快そうな色を宿す。
「申し開きすることはない、と申すのか」
鵺喰の問いに、ニケは胸を張る。
「ええ、当然でしょ」
ニケの傲慢な態度に、老人の一人が体を乗り出して声を上げる。
「そうだ、この連中の行為は、申し開きなど出来るものではない。これで審問の結論も出た。すぐに、タクノ社など潰してしまえ!」
誰かと思えば、ツォレル社の代表だ。さらに、フジサキの代表を中心に同意の声が上がる。ツォレル代表は、ますます勢いづく。
「よし、鵺喰どの、結審を! こんな連中、路頭に迷うのがお似合い――」
パァンッ
剣呑な場にそぐわない明るい音と共に、ツォレル代表の顔面にサンダルが命中する。
「あんたの顔には、そのサンダルがお似合いよ!」
ニケが、履いていたサンダルを投げ付けたのだ。余りの蛮行に、老人たちが目をむく。
「お、の、れ〜」
ツォレル代表の顔が見る見ると赤くなる。
「評議会において、評議員にこのような真似をして、ただで済むと思うな! 即刻、監獄送りにしてやる!」
唾を飛ばしながら怒り狂う少年姿の『老人』に対し、ニケは平然と答える。
「あんたみたいなガキが、このあたしを監獄送りになんてできるわけないいでしょ」
「小娘が、我らの力を侮るか!」
「力って言ったって、あんたたちがそこに座っていられるのは後少しの間だけよ」
「なんだと?」
「あたしのタクノ社が、あんたたちの会社なんか全部ぶっ潰しやるんだから。ま、せいぜい、いまの内にその椅子の座り心地を楽しんでおきなさい!」
びしり、とツォレルの代表に向けて指を突きつける。突きつけられた相手は、怒りに頬を痙攣させている。
「こ、小娘、言いたいことは……それだけか!」
申し開きどころか、宣戦布告してどうするんだよ。
慧一はもう、こめかみを押さえながら青くなっていることしかできなかった。
いまさらニケを止めたところで、どうにもならないだろう。もう、お終いだ。
怒りのあまり発言もままならなくなったツォレル代表に代わって、鵺喰が口を開く。こちらは打って変わって静かな口調だ。
「ふむ。これはどうやら、特許状の取り消しという穏便な方法だけで済ますわけにはいかないのう」
少年姿で、あごひげをしごくような動作をする。重鎮の言葉に、周囲から一斉に同意の声が上がる。
――冗談じゃない。このままじゃ、ツヴァイクの研究所を襲ったことがばれるより先に少年院にでも送られかねないじゃないか。
慧一は涼香に抗弁するよう目で合図したが、涼香は気付いているのかいないのか、黙ったままどこか憎々しげな表情で鵺喰巽を見上げるばかりだった。
「へえ、面白いじゃない。やれるもんならやってみなさいよ。どんな障害も、このあたしが粉砕してやるんだから!」
慧一の気も知らずに挑発を続けるニケ。仕方なく、慧一はニケを遮る様にして前に出ると、頭を下げた。
「すみません、こいつは昔から礼儀を知らないんです。タクノ社には評議会に逆らう意志などありません。どうか穏便な処置を、お願いします」
ニケの頭も無理矢理下げさせようとしたが、ニケは慧一の手を振りきってしまった。
「なによ! 謝る必要なんてないじゃない! いい? このガキども。あんたたちはこのニケ様を敵に回したのよ。覚悟しておきなさい! あとで吠え面かいても――」
「いいから黙っててくれ!」
慧一が焦ってニケの口を塞ぐ。
「いいか、世の中、自分が間違っていようがどうだろうが、頭を下げないといけない時だってあるんだよ。そうしないと、世の中渡ってくのなんて不可能なの!」
小声で注意するが、ニケは構わず大声で答える。
「正しいのに頭を下げるなんて、凡夫のすることよ。このあたしを、誰だと思ってるの!」
ニケの言葉に、鵺喰が、面白そうに尋ねる。
「ほう、それではお嬢さんは誰なのかな?」
ニケは待ってましたとばかりに鵺喰へと向き直ると、大声で宣言した。
「あたしはニケ。クラスターも、この国も、世界も、全てを手に入れる勝利の女神よ!」
「それはそれは、大したものだ。して、その自信の根拠は?」
「ニケが、ニケで、ニケだから!」
アアアアアーーーー!
慧一は心の中で悲痛な雄叫びを上げながら、頭を抱えてうずくまった。
もう、どうしようもない。全て、終わりだ。
だが、聞こえてきたのは鵺喰の甲高い笑い声だった。
「その心意気や、良し。気に入った。そなたらに、挽回の機会を与えよう」
信じがたい言葉に、慧一は狐につままれたような気分で顔を上げる。周りの老人たちも多くが意表を突かれたようで、目をしばたいている。
「なに、簡単な賭けじゃよ。近日、旧・中華人民共和国領の西部にある、グルジャという都市にて大規模な戦闘が予想されておる。そこでもし、グルジャの市民政府側に着き、街を守ることが出来たらそなたらの勝ち。特許状の継続を許そう。もし失敗したら、その時にはタクノ社に解散してもらう」
――グルジャ――
聞きなれた名に、慧一は目を見開く。慧一はこの時になってようやく、鵺喰の目が少しも笑っていない事に気付いた。
だが、止める間もなくニケは即答していた。
「そんなの、余裕に決まってるでしょ! その勝負、乗ったわ!」
「ちょ、おま、分かってるのか! グルジャがどんなところか」
「へ? 慧一、何か知ってるの?」
ニケが不思議そうに聞き返してくる。
やっぱりこいつ、何も知らずに勢いで承諾しやがったのか。
グルジャとは、いま、クラスター界で最も熱い地名だ。米第七艦隊撤退以降、アジア各国の間で紛争や分離独立運動が頻発し、そうした中で事実上の独立を勝ち取ったのが、旧中華人民共和国西部の街、グルジャだ。しかし、近年における中国の政治状況の安定に伴い、再びグルジャを支配下にくみいれようという活動が活発化。ただ、軍を直接派遣するのは体裁が悪いということで、民間団体が有志を募るという形で、グルジャへの信仰が行われることになったのだ。そして、この大国が持つ巨万の富を目当てに、ツヴァイク、ギガノス、クーノンという武装商社の中で三強と呼ばれる三社すべてが、中国民間の企業連合に雇われているという異常事態が発生していた。これまで、一社だけでも十分過ぎる規模を持つこれらの企業が手を組むなど、一度もなかったことだ。事実上中国政府の意向の下にある企業連合は、武装商社各社に十一月十一日に総攻撃を仕掛けると通達している。このクルス決戦と呼ばれる戦いで、グルジャ政府側の兵士は一人残らず根絶やしにされるだろうと囁かれていた。
「だから、こんな勝負、勝てるわけがないんだよ!」
だが、事情を説明してもニケには馬耳東風だ。あ、そーなの、という気のない返事が返ってきただけだった。
「しかし、わたしもその案には反対ですな」
他の老人たちから、声が上がる。しかし、鵺喰が、ほう、と言って見返すとすぐに委縮して目をそらしてしまう。だが、それでもツォレル社の老人だけは余程怨んでいると見え、頑固に主張し続けた。
「わ、わたしも賛成しかねます」
「ほう? まさか、我がツヴァイク社が新参の武装商社などに後れを取るとお思いか?」
自社の敗北をあてこすられ、ツォレルの代表は顔を歪めたが、それでも引き下がらなかった。
「そうではありません。ただ、この条件では結局連中の特許状を奪えるだけにしかなりません。これでは、連中のリスクが少なすぎます」
「当然、それについては考えがある。彼らには、現地死守の契約を結んでもらう」
「何と――それは、その、いくらなんでも……」
今度は、逆にツォレルの代表が躊躇する。老人たちがざわつく。
当たり前だ。グルジャで現地死守など、ブラックユーモアにも程がある。
だが、ユーモアなどではないようだった。
鵺喰が周囲の反応を無視してニケに目を戻す。
「そなたは知らぬかもしれぬ故、言っておこう。現地死守とは文字通り、K―2だけでなく武官までもが現地に入り、命がけで現地を死守するという契約じゃ。つまり、街の陥落はそなたらの死を意味する。グルジャの戦況は、ついさっきそなたの友が話した通りじゃ。して、どうする」
試すような鵺喰の言葉に、ニケは不敵に笑う。
「くどい! 乗ると言ったら乗るの! むしろあんたたちの方こそ、これで負ければ評議会だとか何とか言って、でかい面二度とできなくなるんだからね」
「よかろう。そなたらが勝てば、我等は二度と、タクノ社の行動に口を挟まぬと誓おう」
急な話の流れに、慧一は血の気が引くのを感じた。
「ま、ま、ま、待って下さい。命がけって、さ、さすがにその条件は――」
「まさかそなた、命が惜しいと言うのではあるまいな」
鵺喰が、慧一に目を移す。その瞳なのかに底冷えのする殺意があるのを見て、慧一は思わず後ずさった。慧一はこの時初めて、自分たちがはめられたのだと言うことを悟った。
「我が曾孫は、戦場で倒れた。軍人であれば、それは致し方なきこと。なればこそ、あの者を殺めしそなたらもまた、戦場で死ぬ覚悟は出来ているのであろう……」
初めてだった。これ程の憎しみを向けられたのは。同級生たちの、どちらかと言えば嫌悪に近い憎しみなど、比べ物にならない。心がまるで、氷のまな板の上に載せられ、切り刻まれるような気分。
そこにはまぎれもなく、肉親を殺された、人としての怒りがあった。慧一は、恐怖に歯が鳴るのを止められなかった。
「お、お、おれ、は……」
何か言わねば、と思うが、思考が空転するばかりで言葉が出てこない。
「その日が来るまで、怯え続けよ。そして、はるか海の向こうの地で、無様に屍をさらすがいい」
老人は、呪いの言葉を残すと、席から立ち上がり、議場の奥へと消えて行った。残りの老人たちも、次々にその後に従う。
慧一は、へなへなとその場にへたりこんでしまった。
「なんで、どうして、こんなことに」
きっと、鵺喰巽の瞳を、一生忘れることは出来ないだろう。だが、その一生すら、あとひと月と立たないうちに終わる。
「慧一、そんなに落ち込むことないでしょ。要は、勝てばいいんだからさ」
ニケが肩に置いてきた手を、慧一は乱暴に払いのける。
「ふざけんな! 勝てばいいだって? なんにも分かってないくせに、適当なこと言うんじゃねえ!」
慧一の怒声が、人気(ひとけ)のなくなった議場に響き渡る。
「いいか? ツヴァイク一社だけでも、その気になればK―2を軽く十万体は動員できるんだぞ? それが、三社だ。どうやったら勝負になると思う?」
「でも、少数精鋭のあたしたちなら、大丈夫だって!」
「S級ライセンスの持ち主は、日本中見回しても、たしかに少ないよ。全国で、二十四人しかいない。でもな、その内、二十三人までが、武装商社の三強のうちのどこかに所属してるんだぞ? おれを除いても、二十二人のS級ライセンス所持者を相手になんて、できるわけないだろ。こっちはたかがS級の奴が二人やそこらいるだけなんだぞ」
「……むり、かな」
「当たり前だ!」
涙で、目がかすむ。いっそのこと、プライドも何もかもかなぐり捨てて、泣きじゃくりたい気分だった。だが、
「でも、あたし、勝ちたいんだよ。あたしには、これしかないから。これしか――」
傷ついたニケの表情を見て、涙が止まる。
ニケは、ただ必死に、未来を信じているのだ。そして、それしかないのだ。そんなニケの思いを、どうして否定できるだろうか。
でも、それに巻き込まれて、おれまで死ぬのかよ。
慧一の心が、出口のない袋小路へとさ迷いこんでいると、頭上から声がかかる。
「狩谷、君だけは、少し話があるので、残りたまえ。他の二人は、直ちに退出するように」
見上げると、評議員席に二人だけ、老人が残っていた。記憶が確かならば、武装商社三強の二社、ギガノスとクーノンの評議員だ。
ニケは慧一と老人とを見比べて迷っているようだったが、慧一が出て行くよう促すと、不満そうな顔をして出て行った。先程から黙りこくっていた涼香は、慧一にもの言いたげな視線だけ残してニケの後に続く。
議場の中は、慧一と、二人の老人だけになった。重い沈黙が室内に流れる。慧一は目をこすり、服の汚れを払って、できるだけまともな格好を取り繕って老人たちと真正面から向き合った。クーノンの評議員が先に口を開く。
「さて、君は一応、今でもツヴァイクの契約社員でもあるわけだ」
「ええ。そのつもりですが」
任務をこなしてはいないが、二ヶ月間ならばまだ、任務を拒否し続けてもぎりぎり契約上許される範囲のはずだ。だが、今回の様な事態になっては、契約の内容も守られるかおぼつかない。
「まさか、契約解除、という話ですか?」
「いやいや、誤解しないでくれたまえ。鵺喰議長は公私混同したりするような人ではないよ。ツヴァイクの経営陣とて、君の働きに感謝こそすれ、契約破棄しようなどという考えは今のところ全くないよ」
「そうですか……」
自身の祖父母を殺すよう指示した人間に今なお評価されてると聞かされても、素直に喜ぶ気にはなれない。だが、そうなるとこの二人の老人の意図が読めない。なぜ、慧一だけを残す必要があったのだろうか。
「それでは、話、というのはなんなんですか?」
慧一は単刀直入に尋ねた。二人の老人が目配せし合う。今度は武装商会二位、ギガノスの代表の方が語りだす。物腰柔らかなクーノンの代表と違って、こちらは見た目も子供の割にはがっしりとしていて、無骨な口調だった。
「まあ、そう急かすな。実は、おれたちは長年、新型のクラスター開発を共同で行っていてね。そして近年ようやく、その実用化の目途が立ったのさ」
老人の側から第三世代クラスターの話が出たことに、慧一は驚いた。
何故この場で、自分たちの秘密をばらす必要がある?
慧一は表面上は平静を装いながら、そっけなく答えた。
「それはおめでとうございます。またきっと、クラスター業界がさらに発展していくんでしょうね」
慧一の答えに、評議員たちが笑う。しかし、慧一にはなにがおかしいのか分からず、困惑するばかりだった。クーノンの代表が、さらに謎めいたことを言う。
「我々が手に入れたのは、君が想像している様なちゃちな代物ではない。――古の伝説に描かれる、神に等しき力を、手に入れたのだよ」
なんだ? どういう意味なんだ?
慧一は隠しようがないほど狼狽していた。老人たちの意図がまるで読めない。ただ、慧一の反応を見て面白がっていることだけが分かる。
「いったい何の事だか、自分にはさっぱり――」
「君はタクノ社の履歴や議長の曾孫である土部から多くの情報を手に入れているのだろう? 何も分からぬわけではあるまい」
全身から、冷や汗が噴き出る。全て、把握されている。
「我々は人類が望み続けた夢を、遂に叶えたのだよ。我々は魂の鎖を断ち切る術を見出したのだ。これで神話の世界は現実となり、我々こそが、新たなる神となる」
土部はかつて言っていた。第三世代クラスターの前に、世界はひざまずく、と。そして今の、老人たちの言葉。
いったい、何が起ころうとしている?
ただ慧一に分かるのは、彼らが途方もない力を手に入れようとしているということだけ。
「狩谷、君は十年前から武装商社と契約し、業界の発展に多くの貢献をしてきてくれた。十歳の頃には既に神童の呼び声高く、我々も新しい世代の活躍に大いに期待してきたし、議長もまた、君に様々な便宜を図られたと思う」
「それには、重々感謝してます」
礼を返したものの、話の方向が見えない。
「君ならば、我らの仲間となり、神々の一人となる資格がありそうだ」
クーノン評議員の言葉を引き取って、ギガノス社の代表が口を開く。
「タクノ社との契約を破棄しろとは言わない。ただ、これからはおれたちの指示に忠実に従ってくれるだけでいい。そうすれば、おれたちが得る力の秘密を明かし、同胞として迎え入れよう。現地死守の契約についても、うまく回避できるよう、手配しよう」
ようやく、話の意図が見えてきた。
つまりこれは、悪辣な引き抜き、というわけだ。鵺喰の意志が関わっているかは不明だ。いや、おそらくギガノスとクーノンの独断だろう。S級の武官を会社に引き入れることができれば、途方もなく大きな利益につながる。
慧一は乾いた唇を舐めると、言った。
「もし、断るような事があったら?」
「そんな愚かな選択、お前ならしないと信じているよ。それに、誰よりもお前自身が、断ったらどうなるか分かっているんじゃないか?」
ニケが無謀にも結んだ現地死守の契約による、名誉の戦死。余りにも分かりきった結末だ。
だが、分からない。彼らが手に入れた力とは、何なのか。K―2は強力な戦闘システムだ。しかし、それは歩兵による銃撃戦が主となる市街地においての話だ。今でも野戦では戦車の方がはるかに強力であり、特定の建物を破壊するだけならば空爆の方が余程手っ取り早い。例えK―2が少しばかり改良されたところで、世界を制圧することなどできるはずがないのだ。
しかし、直接的に聞いたところで、答えは返ってこないだろう。となれば、外堀から攻めるしかない。
「タクノ社では休眠前、新世代クラスターに関する研究が行われていたと聞いています。そしてその指揮をしていたのが、英雄、蕪木1尉だ、とも。あなた方の得た力、と言うのはやはり、蕪木1尉に端を発したものなのですか?」
今度は、クーノンの代表が答える。
「ああ、その通りだとも。かの英雄の意志を引き継ぎ、我々は研究を続けてきたんだよ」
「ですが、蕪木1尉の研究成果は、六年前の国立クラスター研究所襲撃事件で失われたと聞いています」
「うむ。あの当時、テロリストの襲撃を受けた職員たちが、テロリストに研究データを奪われることを恐れ、全てのデータを破棄してしまったため、研究成果のほとんどは失われた。だが、試作品のクラスターが残されていた。それを活用して、我々はついに、蕪木1尉が夢見た技術を完成させたのだよ」
さらに、ギガノスの代表が忌々しげに言いそえる。
「だがしかし、七月にあったツヴァイク研究所の襲撃で、最も重要な、コアとなるデータと、試作品が奪われたのだ」
「赤土どの、お喋りが過ぎますよ」
クーノンの代表がたしなめるが、手遅れだった。
老人がぽろりと洩らした言葉に、慧一は戦慄した。
――六年前の襲撃で、残された試験体――
――今回の襲撃で、奪われた試作品――
間違いなく、ニケだ。ニケとしか、考えられない。
テロリストのオミムネや涼香が、なぜニケを研究所から誘拐し、匿っているのか。全て、説明がつく。
じゃあ、ニケは人ではなく、生体ユニットなのか?
ニケは言っていた。過去の記憶がない、と。それはつまり、ニケが生体ユニットとして管理されていたからだと考えれば、説明がついてしまう。
ついさっきまで、この議場で目を輝かせ、自信たっぷりに国の最高権力者と問答を繰り広げていたニケの姿が蘇る。
そんなはずがない。そんなはずが、あってたまるか!
慧一は、上ずった声で無意識のうちに問いを重ねていた。
「つまり、おれに、やって欲しいことと言うのは……」
クーノンの評議員がやれやれと肩をすくめる。
「単刀直入でいて、核心を突いた質問だ。君については、無気力で、いつも現実に流されてばかり、クラスターの中の世界でしか生きられない、と報告を受けていたのだが、どうやら認識を改める必要がありそうだ。頭も切れるし、立ちまわりもうまい」
慧一には、自分が賢いかどうかなど、認識のしようがなかった。ただ、オミムネにはめられて研究所を襲撃して以来、自分の頭で考え、行動せざるを得なかった。それが、慧一を徐々に変えてきたのかもしれない。
「おれの質問に、答えて下さい」
慧一が、語気を荒げる。どうしても、知らなければいけない事だった。
クーノンの評議員は目を細め、考えるような仕草をした。
「……なるほど。しかし、そこまで気付いていると言うのなら、あえて隠す必要はないでしょう。我々は君に、タクノ社に集っている『五人組』が隠し持つ、第三世代クラスターのコアデータと件(くだん)の試作品がどこにあるのかを、探って欲しいのだよ」
何もかも、知られていたのだ。慧一や涼香たちは、彼ら老人の手の上で踊らされていたに過ぎなかったのだ。慧一は途方もない無力感に襲われた。
だが、おかしい。そこまで知っていて何故、ついさっきまで目の前にいたニケを見逃す? 彼らにとって、『試験体』を取り返す絶好の機会だったはずだ。
しかし、その疑問の答えはギガノス代表が続けた言葉によって、すぐに分かった。
「お前たちの行動は、お見通しだったってことさ。ただな、小海(おうみ)宗則(むねのり)を捕まえようとした時の様に、何の証拠も残さずあっさり死なれたのでは、こっちも堪らない。だから、方針転換して、内部の情報を手に入れ、確実にデータを取り戻せる状況を作ろう、という話になったわけだ。実はおれたちすら、データがどんなものかは知らないわけだしな」
クーノン代表が、肩をすくめて付け加える。
「機密情報と言うのも困ったものです。情報の共有を少なくしているために、その情報元のパソコンがクラッキングを受けて、さらに実際に関わっていた者を殺されてしまうと、元の情報を知る術がほとんどなくなってしまう。とは言え、鵺喰さんは知っておられるようですが、我々には教えてくれないんですよ」
つまり、『試験体』の名前や容姿すら、彼らは知らないということか。
「……じゃあ、ここに鵺喰議場がいない理由は?」
「お察しの通り、君が後から仲間に、引き抜きの勧誘を受けた、と言い訳できるようにするためですよ。全ては、議長の指示のままに」
そういう、ことか。
おそらく、慧一の知らない水面下で、第三世代クラスターを巡り、老人たちと五人組との間で、熾烈な駆け引きが行われてきたのだろう。涼香たちはきっと、老人たちに自分たちの事を知られることを承知の上で、武装商社を立ちあげたに違いない。そして、老人たちが仕掛けてくるより先に、K―2を使って何か仕掛けるつもりなのだ。
慧一の中で、多くの謎が解けていく。だがそれでも、ニケが第三世代クラスターだという事実だけは、どうしても受け入れることが出来なかった。
「さて、随分とおしゃべりをしてしまったが、君もそろそろ結論が出た頃だろう。我々につくか、それともクルス決戦で戦死するか、答えを聞かせてもらおうか」
裏切りか、死か。
極端な二つの選択が、慧一の前に迫る。しかし、ここで老人たちにつくことを、そもそも裏切りと言うだろうか。慧一をはめてタクノ社へと引きずり込んだのは、他ならぬオミムネたち、五人組なのだ。慧一が、彼らに義理立てする理由はない。当初の慧一の計画でも、五人組の情報を売って、襲撃の罪を帳消しにしようとしていたのではないか。これはまさに、渡りに船のはずだ。
だが――鵺喰巽は、祖父母を殺すよう指示を出した、張本人だ。許すことなど出来ない。
迷う慧一に、クーノンの代表が語りかける。
「もし、五人組が第三世代クラスターを手に入れることになれば、大変なことになる。あれの力は絶大だ。日本は、いや、世界は再び二十年前の暗黒時代の様に、不満分子がテロを繰り返し、各地でゲリラが割拠するようになるだろう。かつて、久(く)良(ら)徒(ど)栄(えい)蛻(ぜい)が支配した闇の帳が、世を覆うことになる。それどころか、彼が構想した、テロリストによる国家転覆が、今度こそ現実のものとなってしまうかもしれないのだよ。だが、ここで彼らを食い止めれば、君は英雄だ。さあ、何を迷う必要があるのかね? もし仮に、ここで我々に抗ったところで、待っているのは死だけだよ」
最後の一言が、決定的だった。
死。
死ぬ。
この歳で。
K―2を操作している時に何度も体験した、死の感覚が蘇る。暗い、底なしの闇の中へ引きずり込まれる。そして、今度はそこから二度と戻ってくることは出来ない。
未来にあるのは、死だけ。
慧一の答えは、一つだった。
8.迷いゆく
建物の全ての入口に部下を配備し、一斉にドアを爆破、突撃する。
多方向からの突撃にうろたえる敵を、マシンガンの掃射で次々となぎ払う。
一階のフロア―を瞬時に制圧し、部隊を二つに分け、一方を二階へ向かわせ、自身はもう一隊を率いて地下室に回る。廊下で待ち伏せていた敵に対し、閃光弾を投げ込み、無力化した上で撃破。さらに奥へと向かうべく、廊下を駆け抜けようとする。
しかし、廊下の両脇の部屋に隠れていた敵部隊から銃撃され、やむなくいったん退避し、階段わきで銃撃がやむのを待つ。
銃撃が途切れたのを見計らい、再び閃光弾を投げ付ける。強烈な音と光がばらまかれ、辺りが一瞬真っ白になる。
これで、敵はまともに反撃できなくなったはず。
部下たちと共に一気に突撃しようとするが、再び火線に襲われ、隣を走っていた仲間が倒れる。反撃する間もなく、障害物にまた隠れるしかなかった。
一人、やられた。
大きく舌打ちする。
どうやら、敵は閃光弾が来たと同時に、ドアを閉めて扉の向こうに退避したようだ。これでは、いくら閃光弾を投げ付けても効果は期待できない。
暫くしてまた敵からの銃撃は止んだが、さりとてこちらは手づまりだった。地下では窓から回りこむことも出来ない。仕方なく、廊下に出ては銃撃し、また隠れる、という動作を繰り返す。射撃精度の差と絶妙な連携プレーで、相手の数は確実に減っていくが、繰り返す内にこちらにも負傷者が出始める。
それでも、もう一度廊下に体をさらした時、肩を弾き飛ばされるような衝撃に襲われ、床に倒れ込んでしまう。一拍遅れて、肩口に銃弾を受けたのだと認識する。部下たちが援護射撃を行ってくれたおかげで何とか追撃は免れ、壁の後ろに戻れたが、肩からは止めどもなく血があふれ、痛みが感覚を鈍らせる。
これではとても、戦闘を続行できそうにない。
無事な左手でアサルトライフルを握り直したところで、頭の中に声が響く。
『狩谷、何ゆっくりやってるんだよ! 後ろ、もう来てるって』
ほぼ同時に、背後から無数の足音が聞こえる。驚いて振り返ると、階段からサブマシンガンを手にした男たちが下りてくるところだった。
「しまった――」
他の建物から敵の応援がきたのだ。
部下たちは一斉に後ろを振り向くが、アサルトライフルを構える間もなく、敵の火線の餌食となっていく。近くにいた部下も、全身を貫かれ、操り人形のように力なくよろめいて倒れる。
「やめろぉ!」
雄叫びと共に発砲し、二人の敵を血祭りに上げる。だが、すぐに他の敵が気付き、寄ってたかって銃口を向けてくる。
反応の早かったものから順に撃ち殺していくが、それでも片手しか使えない状況では限界がある。さらに二人を戦闘不能にしたところで、腹部を銃弾が貫いた。
手から黒光りする武器が滑り落ち、口元に熱いものがこみ上げてくる。
さらに殴られたような衝撃が次々と体を襲い、視界が反転し、真っ赤になった。
体の感覚が消えていく――
慧一はそれ以上躊躇することなく操っていたK―2から意識を引き離した。かわりに、指揮下にあるK―2全体に感覚を広める。
目を覆うばかりの惨況だった。
建物の二階へ送った部隊も既に挟み撃ちにあって全滅に近い状態にあり、さらに制圧した地域を見回らせていた部隊は各所で散発的な敵の待ち伏せを受け、半減していた。まともに機能しているのは、制圧済みの建物に配備したスナイパー部隊のみだ。
『これでも、キミがろくに操作しない間、上手く凌いだ方なんだぞ』
非難されると思ったのか、オミムネが言い訳がましく主張してくる。
慧一は何も答えず、生き残ったスナイパー部隊と見回りの隊とを合わせ、挟み撃ちを受けた部隊の救出に向かわせる。
『ええっ? 正気かい? そんなことしたら――』
オミムネがみなまで言い終わるより先に、救出部隊が敵の斥候と遭遇、敵にこちらの位置と意図を悟られる。
――それでも、全速力で行けば間にあう――
間にあわなかった。敵はすぐさま慧一の動きに対応し、狙撃の狙いを建物へのルートに変え、さらに挟み撃ちを行っていた部隊の一部を反転させ、慧一の部隊が建物内へ入るのを阻ませてくる。
慧一の部隊はみるみる数を減らしていき、ついには最後のK―2が頭を打ち抜かれ、血の海に倒れた。
全身の感覚が一瞬大きく揺れたかと思うと、自分の体に戻っていた。
全体の戦況を表したマップだけが唯一、慧一の頭脳に届き続ける。
慧一以外の武官は確実に制圧地域を広げ、街から敵を駆逐しつつあった。
当たり前だ。今回は、タクノ社の側が、装備でも兵員の数でも上回っていたのだから。ただ、慧一が担当していた場所のみ、円形に敵を取り囲むはずだった制圧区域の穴となり、敵に逃げ場を与えてしまっていた。
「どういうつもりだよ、狩谷」
敗北を喫しながら、悔しがるでもなくぼんやりとしている慧一の膝の上に、黒ネコが飛び乗ってくる。抗議のつもりか、尻尾をピンと立て真正面から見据えてくる。
「地下の廊下に踏み込んだ時、なぜ力ずくで突破しなかったんだい? もたつけば余所から応援が来ることくらい、キミだって分かってたろ?」
慧一は面倒くさそうに、あっちへ行けと手を振る。
「まだ戦闘は続いてるんだから、しっかり他の奴らのサポートをしてやれよ」
「やってるよ。ここでキミと話しながら武官たちの尻拭いをすることぐらい、簡単なことさ。第一、完全な勝ち戦だしね。一部を除いては」
オミムネの嫌味に、慧一は目を逸らす。
「少しドジっただけだよ」
「少し? 少しだって? こんな、取るに足らない作戦を少しのドジで失敗できるだなんて、キミにはドジの才能があるみたいだね」
「それをサポートするのが、相棒たる文官の務めだろ」
「そりゃそうなんだけどさ、ここまで初歩的なミスをやられると、さすがに処理しきれないよ。メインで意識を置いてないK―2の操作も余りにずさんだし。こんな調子で本当に、四日後のクルス決戦は大丈夫なのかい?」
「……問題ない」
オミムネが慧一の膝の上に息を落とす。
「その答えに、ボクは、どこが? としか言いようがないよ」
さらに、横から声がかかる。
「あたしにも、到底問題ないようには見えなかったけどな」
ニケが意識を取り戻し、こちらを向いていた。慧一が顔をしかめる。
「ニケ、まだ任務は終わってないだろ」
「大丈夫よ。この前オミムネが持ってきた、携帯型のクラスターシステムを使ってるから。残党処理ぐらいなら、これで十分よ」
これって便利、などと言いながら、首元のリングを叩いている。
マップを見ると、既に敵の主力は壊滅し、慧一が抜けた部分から潰走を始めているところだった。これなら、片手間でも問題ないだろう。
「それで、ニケまで何だって言うんだよ。おれのミスが、そんなに嬉しいかよ」
苛立たしげに椅子の肘起きを人差し指でたたく。それに対し、ニケは少し考える風だった。
「というか、最近の慧一って……らしくないよね」
「どこがだよ」
「今までなら、K―2の被害なんてお構いなしに、というよりわざと被害出そうとしてるんじゃないかって思えるぐらいの戦略を平気でとって、それで相手の裏をかいてたのに、このごろはK―2を失うのを怖がってるみたいじゃない」
横でオミムネが同意する。
「そうそう、それだよ。クルス決戦への参戦が決まってからかな。おかしくなったのは。そんなことじゃ、クルスの決戦でキミが足を引っ張るはめになるよ?」
「おれにだって、不調な時ぐらいあるんだよ!」
ついつい、怒鳴ってしまう。
涼香もオミムネも、予想外に激しい慧一の怒りに、キョトンとしている。
気まずい沈黙の中、慧一はそれ以上何も言えずに、視線を落とした。
自分の戦略が決定的に変わってしまったことも、そして二度と、かつてのような作戦を自分は行えないであろうということも、慧一自身、痛いほど自覚していた。理由は考えるまでもない。評議会で知らされた事実が、未だに慧一の心に重くのしかかっているのだ。
何も語ろうとしない慧一の態度に不貞腐れ、腰に手を当てているニケを見上げる。
――なあ、どうしてあんたに、お前は人間じゃない、生体ユニットに過ぎないんだ、なんて言える? どうして、操っているK―2が実は人間と同じように感情を持ちうる、人間と何も変わらない存在だと知って、彼らを平然と死地に追いやれる?
だが、慧一の心の嘆きがニケに届くはずもなく、ニケは不自然に見つめられ、首をかしげるばかりだった。
慧一は失望の溜息をつくと、立ち上がった。
「もういい。仕事も終わったことだし、おれ、帰るわ」
「ちょっと、なに勝手なこと言ってんのよ。今は社員も増えたんだから、みんなの戦い方を見て、アドバイスとかしてあげなさいよ。英雄『カリヤ』に憧れてタクノに来た人だって、多いんだから」
クルス決戦への参戦が決まって以降、タクノ社はこれまでよりさらに多くの武官が必要となり、業界で有名な慧一を客寄せパンダに利用し、なりふり構わぬリクルート活動を展開していた。その結果、会社規模は雪だるま式に拡大し、今では百人を超える武官と契約を交わしている。しかし、これでもまだクルス決戦には足りない。
オミムネもニケに賛同する。
「それに今日はメディアの取材が入ることになってるから、狩谷にはいてもらわないと困るよ」
膝から追い落とされ、オミムネは不満顔だ。このネコは、会社のリクルート戦略を実質的に仕切っていたりもする。
「オミムネがテレビに出演して芸の一つ二つでもやれば、十分受けるから問題ないさ」
「それもそうかも」
ニケが真剣に思案する顔をする。
「おーい、ニケぇ?」
ひげを垂らして憐れっぽい声を出す黒ネコを尻目に、慧一は玄関へと向かう。
「ああ、慧一、今からもしかして学校に行くの?」
振り返って声をかけてくるニケに、慧一は煩わしそうに答える。
「まさか。夏休み明けのあの一件以来、学校になんて一回も行ってないよ」
「ええ? あんた、ちゃんと学校ぐらい行きなさいよ」
「良いんだよ。行かなくたって。このご時世、高校に真面目に通って卒業したところで、良いことなんて何もないんだから」
高校で好成績をとり、名のある大学に行けたとしても、就職先などありはしない。日本における産業の大半はクラスターとそれを整備する期間工によって支えられており、机の上で学んだ専門知識など必要ないのだ。
残された知識を必要とする専門職の多くは既に雇い入れている中高年労働者に独占されており、会社側は彼らの雇用を守ることを最優先していて、新規雇用の戸口は限りなく狭い。しかも、その採用枠ですら、コネを持つ人間によって埋められてしまうため、大卒者は結局、能力に合わない低賃金労働に甘んじるしかないのだ。
きっと外部からは非常に閉塞的な社会と見えるだろう。しかし、慧一にとっては都合のよい社会だった。K―2の操作は幼い頃からいかに脳神経にその操作法を刻み込むかにかかっている。そしてその点において慧一はプロフェッショナルであり、この技術さえあれば、少なくともツヴァイクからの契約が切れようが、タクノ社が潰れようが、契約先はいくらでもある。少なくとも、慧一が学んだ操作法よりも、優れたアルゴリズムにより構築された操作法を学んだ次世代の子供たちが育つまでは、慧一の立場が脅かされることはない。
だが、ニケはそんな慧一の説明には耳を貸さなかった。
「せっかく学校に行けるんだから、行きなさいよ。涼香なんて、今日は学校があるからって任務の参加を断ってたのに」
「涼香が? 学校に?」
予想だにしなかった話に、慧一は思わず聞き返してしまう。
「そうよ。夏休みが終わってから、涼香は真面目に毎日学校に通ってるんだから」
「な、あいつ、正気か?」
河西涼香は、家が新興宗教と関わりを持っているということで、これまでもかなり過酷な虐めの対象になってきた。慧一が接してきた限りでは服装以外に怪しい宗教を信じている気配はまるで感じられなかったが、高校の生徒にとってはそんな事は関係ない。
そこへ、自衛隊を殲滅した事件が加わったのだ。慧一ですら耐えがたい目に遭ったというのに、涼香への周囲の風あたりどれ程厳しいものになっているか、想像もできない。
「涼香は、現実から目を背けたり逃げ出したりはしないの。あたしなんて、行きたくても学校に行けれないんだから、あたしの分までしっかり行ってきなさいよ」
「なんだよ、その理論」
慧一は文句を言いながらアパートを出たが、結局、ニケに言われた通り、学校に向かった。理由は二つ。ひとつには、涼香が学校でどうしているのか、気がかりでならなかったから。もう一つは、ニケとクラスターの事を、どうしても涼香と二人きりで聞きたかったからだ。気は重かったが、これ以上悩み続けて夜もまともに眠れない日々を過ごすのは耐えられない。
二カ月ぶりの学校。昼放課、クラスの生徒たちが騒がしくあれこれと話している声が聞こえる。慧一は大きく息を吸うと、教室の中へ、踏み込んでいった。
教室を満たしていた話声が、まるで消火器でかき消されたかのように、どんどんと静まっていき、慧一が席の近くへたどり着いた時には、静けさだけが残された。
クラスメートの視線が集中する中、慧一が椅子を引き、腰掛ける音が教室中に響く。
徐々にざわつきが戻ってくる。だが、皆の声は低く、視線は慧一に向けられたままだった。誰ひとり、直接慧一に声をかけてくる人間はいない。
予想通り、針のむしろだ。
慧一は学校に来たことを早くも後悔し始めながら、教室を見渡した。
おや、と思う。慧一以外にも、一人ぼっちで椅子に座り、背中を小さく丸めている生徒がいたのだ。
及川楓(かえで)だった。
いつも颯(はやて)にくっついている楓が一人でいるのが不思議で、慧一は目で颯の姿を探したが、見当たらなかった。クラスの雰囲気も、慧一に対してだけでなく、楓に対してもいつになく余所余所しい。
「ねえ、狩谷君が、タクノ社の作戦で、全体の指揮を取ってるって本当?」
どうしたのだろうと考えていると、いつの間にか目の前に来ていた女子にいきなり話しかけられた。クラスは同じでも、ほとんど喋ったことのない女子だ。さらにその子に隠れるように、後ろに二人の女子が立っている。
彼女たちの意図がわからなかったが、機械的に答える。
「ああ。基本的に作戦案の大本を作ってるのはおれだよ」
後ろにいた女子たちが、パッと顔を明るくして、慧一のそばに寄ってくる。
「じゃあ、この前のメキシコでの作戦も慧一君が立てたの?」
「大まかなところは、だけどね。作戦中の細かい調整とかは、文官のオミムネに任せっぱなしだし」
「え? え? オミムネって誰なの?」
「あのタクノ社でそんなに大切な仕事してるってことは、相当すごい人なんでしょ?」
女子たちの興味深々な瞳に、慧一は困惑するばかり。そこへさらに、遠巻きに囁き合っていた男子の一団まで加わってくる。
「自衛隊とか、一体どうやって勝ったんだよ」
「タクノって、今どんだけ武官いるんだ?」
「いっつも戦闘の最前線にいる、jkidって何者なんだ?」
「いや、それよりナイキが何者なのかこそ、気になるって。近接戦闘の腕前じゃ、クラスター界最高らしいじゃん」
矢継ぎ早に質問がおしよせ、まるで処理しきれない。その上、質問のいくつかは明らかに答えるわけにはいかない内容だ。
適当に話をぼかしながら答えていると、さらに核心的な質問が飛んでくる。
「クルス決戦で三大武装商社と戦うって聞いたけど、勝てるの?」
皆の尊敬の眼差しにほころんでいた慧一の表情が固くなる。老人たちがリークしたのだろう。評議会での会談後、現地死守の話を含め、情報は全て、ネット上にあげられていた。
幸い、現地死守の契約は武官の中でも高位の人間にしか適応されないため、人集めには影響しなかったが、それでもこの行為は自衛隊との戦闘同様、日本そのものを敵に回す行為として、メディア上で批判にさらされている。
「最善を尽くす、としか言いようがないよ」
だが、慧一の硬質な声を意に介さず、質問の洪水はさらに続いていった。
喉が渇ききるまで喋り続け、ようやくチャイムが鳴り、教師が入ってきて慧一は質問攻めから解放された。教師は教室に入ってくると意外そうな表情で慧一を見たが、それ以上は何の反応もなしに授業を始めた。しかし、ここでもやはり、以前の様な慧一に対するきついあたりはなくなっていた。
落ち着ける環境になって、ようやく慧一は冷静に考えることが出来るようになった。当然のことだが、二ヶ月半前に慧一が自衛隊に対して行った行為が変わったわけではない。変わったのは、クラスの慧一に対する目、タクノ社に対する考え方だ。その証拠に、教室の一部からは相変わらず慧一に対し敵意のこもった目が向けられている。ゲームセンターで手酷くニケに痛めつけられた連中だ。
慧一の気分は複雑だった。慧一たちに対する評価を変えたのは間違いなく、タクノ社のここ二カ月半における快進撃だろう。古参の文官や武官が幅を利かせる既存の武装商社に対し、自分たちと同世代の人間が縦横無尽に活躍するタクノ社の姿は、彼らの胸をすっとさせたに違いない。批判も多い一方で、ネット上ではタクノ社を擁護する声も多いことを慧一は知っていた。
だが、先程頬を上気させながら慧一を取り囲んでいた生徒たちは、かつて直接的な行動こそとらなかったが、慧一が孤立していくのを黙認していた。それがいま、タクノ社が成功したと分かると、手の平を返して恥じらいもなく慧一にすり寄ってくる。
こんな風に考えてしまうのは僻(ひが)みだ、とは分かっていても、慧一には彼らの行動が醜く見えて仕方がなかった。まだ、マイノリティと化して教室の端から怨嗟の視線を送っている連中の方が理解できる。
クラス中の人間からちやほやされて、気分がよくなかったと言えば嘘になる。S級ライセンス保持者として、英雄の様にもてはやされる日が来るのを、夢想したことは一度や二度ではない。だがどうしても今の教室は慧一にとって居心地が悪く、終業のチャイムと共にすぐ、再び質問攻めにあうより先に教室を出た。
速足で、涼香の教室に向かう。
もしかしたら、涼香への対応も、変わっているのではないかと淡い期待を抱きながら。
しかし、そこに涼香の姿はなかった。
明るい日差しが差し込む教室で、高校に上がって間もない一年生たちが思い思いに自由な時間を過ごしている中、その一角だけが、まるで切り取られたかのように闇に淀んでいた。一つの机の上だけに、うず高くゴミが積まれ、机の脚には細かく、『死ね』などと刻まれている。椅子はバラバラに解体され、床の上に散らばっていた。机の上のゴミも、よく見ると元は教科書だったものの破片が混ざっている。
――この教室に鬱積した憎悪の念は、慧一の予想をはるかに超える深さだった。
「ねえ、どうして?」
急に背後から声をかけられ、慧一は驚いて振り返った。
「ねえ、エニシなら、知ってるんでしょ? 教えてよ」
暗く、かすれた声。及川楓だった。
どうしてここに?
教室で遠くから見た時には気付かなかったが、髪は乱れ、目は落ちくぼんで黒々とくまが出来ている。夏休み前の頃とは別人の様な病的な姿に、慧一は『エニシ』と呼ばれたことに怒ることすら忘れ、うろたえた。
「教えてって、何のことだよ」
「どうして……どうして、颯は死んじゃったの?」
憑かれた楓の顔が、じっと慧一を見つめてくる。慧一は、驚きの余り言葉を失った。
「……颯が、死んだ……?」
確かに、今日、颯は教室にいなかった。しかし、だからと言って――
「ねえ、教えてよ。評議会にも出入りしてるエニシなら、知ってるんでしょ?」
「ま、待て。順を追って、話してくれ。颯に、なにがあったんだ?」
「わたしにだって、分かんないよ……。クラスターを操作してたら、急に叫び始めたの。頭が、割れるように痛いって。それで、病院に行ったんだけど、原因は分かりませんって言われるばっかりで。でも、颯はどんどん痛がるようになってって……」
楓が、目に涙を浮かべる。
「一カ月前に、急に、死んじゃったの」
わっと声を上げて泣き出して、楓が慧一の胸に飛び込んでくる。胸元で泣きじゃくり、小さな拳を振り上げて慧一の胸板を叩く。慧一はどうしていいかまるで分からず、呆然としてされるがままになっていた。
――颯が、死んだ――
頭の中でその言葉だけが、何度もリフレインする。だが、実感はまるで伴わない。
慧一を、裏で毛嫌いしていた颯。ことあるごとに上から目線で慧一に接し、慧一を利用しようとしか考えていなかった颯。最後には慧一を見捨て、クラスの大多数に混ざって慧一を痛烈に罵倒した颯。
本来なら、今目の前で泣いている楓も、憎くて仕方がないはずだった。すぐにでも楓を引きはがし、良い気味だと笑ってやるのが相応の報いと言うものだ。
だが、ぽっかりと大きな穴が開いてしまった胸には、憎しみも怒りも、湧いてくることはなかった。全ての感情が穴から流れ出てしまう。
「病院や警察は、死因については何ていってたんだ?」
楓が、しゃくり上げながら答える。
「な、何も……。でも、颯が契約してた、武装商社の人が、お医者さんにも、け、警察の、人にも、付き添ってた」
「それは、いったい……」
「だ、だれも、どうして颯が死んだのか、言わなかった。だけど、わたし、分かるの。颯は、クラスターを操作していて死んだ。クラスターに、殺されたんだ!」
楓の小さな肩が、慧一の胸元で震える。細かな振動が、慧一の体に伝わってくる。
そんな事が、あるだろうか?
クラスターは、操作者にとっては絶対安全な装置のはずだ。副作用も何もない。だからこそ、老人たちはクラスターを『人道的』とさえ表現していた。
半信半疑の慧一に、楓はたたみかけるように言いつのる。
「その武装商社の係員の人が、パパとママと、話してるのを聞いたの。年金については上乗せして払うから、どうかこのことはご内密にって。颯は、殺されたのよ!」
楓の悲鳴のような叫びに、教室内にいた生徒たちが一斉に振り向く。しかし、慧一には彼らの視線を気にしている余裕などなかった。わななく唇を動かし、尋ねる。
「それを、証明できるものは、あるのか?」
楓は顔を上げると、信じられない、と言う表情で後ずさる。
「慧一だけは、わたしのこと、信じてくれると思ってたのに。クラスの誰が、信じてくれなくても」
「違う、そうじゃない! おれは、ただ――」
「ひとごろし!」
楓の悲痛な声が、廊下に響き渡る。
「あなたたちが、寄ってたかって颯を殺したんだ! 絶対に、許さないんだから! いつかきっと、あなたたちも殺してやる!」
楓は身を翻すと、制服の袖で顔を擦りながら走り去ろうとする。慧一は反射的に、その手を掴んでいた。
「放してよ!」
楓の手が閃き、慧一の頬を張る。だがそれでも、慧一は手を放さなかった。
「全ての真相が分かるとは、限らない。それでも、心当たりはある。一緒に、来ないか?」
慧一にも、確信があるわけではなかった。ただ、オミムネか涼香なら、何か知っているのではないか。そんな気がしたのだ。
慧一の言葉に、楓はよろよろと近寄って来た。吸い込まれるように、慧一の目を覗く。
「本当、なの?」
「事実だ。さっきは、疑って済まなかった」
だが、楓は慧一の謝罪など聞いてはいなかった。一人でうんうんと頷いている。
「わたし、行くよ。絶対に、颯の仇を、討ってやるんだ」
楓の瞳に狂気の色を見て、慧一は顔を曇らせながら、近くにいた生徒に涼香のことを尋ねた。案の定、涼香は一度学校に来た後、普段寝泊まりしている宗教施設に帰った、という話だった。
涼香が所属している宗教団体の総本山『黒蝶の家』は、いつみてもいつみても壮観だった。熱帯雨林をほうふつとされる鬱蒼とした広大な庭の奥に、黒曜石をふんだんに使った大きな聖堂がどっしりと構えている。マンションなどが立ち並ぶ住宅地にあって、ここだけ異世界が迷い込んできたかのようだ。
車が五台は並走して通れようかという門には、この施設を運営している宗教団体、『黒蝶会』のトレードマークである黒蝶の飾りがびっしりとはめ込まれていた。
「ここと颯の死と、何の関係があるの?」
楓は困惑しているようだった。当然だろう。誰だって、良いことを教えてやると言われて、突然新興宗教の施設へ連れていかれたら警戒する。
「ここに、真相を知っている可能性がある人物がいるんだよ」
日を改めて学校やタクノ社で聞いてもいいのだが、ここに来れば涼香自身のことをもっと詳しく知ることが出来るような気がして、やって来たのだ。
慧一は恐る恐る横にあるインターホンに手を伸ばした時、門に続く塀の上を、見覚えのあるネコが伝って来るのに気付いた。
「オミムネ、どうしてこんな所にいるんだよ」
つい、声をかけてしまう。しまったと思ったが、もう遅い。
「エニシ、何言ってるの?」
隣にいた楓が不審そうな顔をする。
「あ、いや、その、近所に住んでるネコなんだよ。それより、早く中へ――」
「どうも、狩谷のパートナーをやってる、オミムネでーす」
黒ネコに話しかけられ、楓の表情が凍りつく。オミムネは片目だけ細め、悪戯っぽい表情をする。
「あれ? ボク、喋っちゃいけなかったかな?」
――むしろ二度と喋れない様に、絞め殺してやりたい――
慧一は殺意のこもった目でオミムネを睨みつけると、楓に向き直った。
「このネコの首輪にマイクやカメラが仕込んであって、遠くからでも会話が出来るようになってるんだ。すごいだろ?」
颯の死の真相を探ると言っても、タクノ社の秘密を全て教えるわけにはいかない。
慧一としてもかなり怪しげな説明だったが、楓は颯のこと以外は頭にないらしく、そう、と言ってあっさり納得すると、すぐにオミムネへの興味を失ってしまった。
「涼香に会いに行くのかい? それなら丁度いい。ボクも同伴させてもらおうかな」
オミムネが音もなく塀から飛び降り、慧一の前に立つ。慧一は頭をかきながら、想定外の同伴者二人を連れ、『黒蝶の家』のチャイムを鳴らした。
「涼香のことは口に出さずに、見学に来た、とだけ言った方がいいよ。外部の人間に教団内のことを探られるのを、こういう施設はことのほか嫌がるから」
というオミムネのアドバイスに従い、慧一たちは悩み多き学生であり、友達の勧めで試しにやって来た、との設定になった。
案内に現れた、これまた黒衣の老婆は、それはそれは、と言って目を輝かせ、施設内へと案内してくれた。オミムネは老婆の視界に入らないようにしながら後をついて来る。
老婆の話によると、どうやら今日は集団礼拝の日らしく、三十分後には礼拝堂に信者一同が集まって黒蝶様に礼拝を行うので、そちらへ案内された。これならば、労せずして涼香に会えるだろう。
いつだったか、学校で涼香に冷え切った瞳で睨みつけられた時のことを思い出して、背筋が寒くなる。それとも、ここではバイト先での様に、気がねない姿で生活しているのだろうか。
老婆は慧一の思いなど知らずにのべつ幕なし教団の自慢話を語っている。
「黒蝶会もついこの間までは、安定した土地も持たず、ビルのろ会議室などを借りて、礼拝やセラピーを行ってたんですよ。それがようやく、黒蝶様のご加護のお陰で、昨年からこうして自前の聖堂を持つことが出来るようになったんですよ。この施設の何が素晴らしいかと申しますとですね――」
廊下などですれ違った信者たちは皆愛想良く、顔見知りでもない慧一たちに笑顔であいさつし、さらには「元気か」などと声まで掛けてくる気安さだった。聖堂の入口では受付で住所や名前などを書かされたが、全てでたらめに書いておく。ふと不安になって隣の楓を見て見たが、さすがにここは正気を保っていて、しっかりと『驫(とどろ)木(き)光(ぴか)宙(ちゅう)』と書いていた。
――どういうネーミングセンスだ……。
とにもかくにも、ここの経典らしい本を貸してもらい、二人で聖堂の中へ足を踏み入れる。そのすぐ後を、人々の足をかいくぐってオミムネが続く。
礼拝堂は広々としていて、何より天井が抜けるように高かった。壁には美しいステンドグラスがはめ込まれ、あちこちに蝶をあしらった飾りが置かれていた。そして何列も並べられた椅子の先、中央の祭壇の後ろには特別美しい、青光りする黒蝶が羽をいっぱいに広げている。まるで、花畑から蝶たちが教会へと迷い込んできたかのようだ。
慧一は暫く立ったまま様子を眺めていたが、席へ座っていく、これまた黒衣の老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)の中に涼香を見つけ、さりげなく近寄っていき、隣が埋まっていたのですぐ後ろに座った。横に不安げな表情をした楓が座り、素早く椅子の下にオミムネが入りこむ。
「こんなことしてて、エニシの言う真相を知ってる人と、いつ、会えるの?」
楓が小声で囁いて来る。慧一の耳を、楓の息がなぜる。
「あ、いや、成り行き上、仕方ないだろ。後で時間はちゃんと作るから、ここは適当にやり過ごしてくれ」
「……分かった」
不満そうな顔をしながらも、楓が頷く。
慧一は安心すると、前に座る涼香を見た。後姿では例の『冷血モード』なのかわからないが、いずれにしろ、さすがにここでクラスターやタクノ社での話をするわけにもいかないだろう。
――にしても、おれがやってることってほとんどストーカーだな。
自分でやっていて、悲しくなってくる。
一人落ち込んでいると、入口の方が急に騒がしくなった。
「さあ、皆の者、聞けい! このわしが、ありがた〜い、お説教をしてやる!」
独特の渋いハスキーボイス。振り返ると、入口で必死になだめようとする信者たちを前に大声を出していたのは、街の名物、カサおじさんだった。
「え? うそ、あれってカサおじさんでしょ? あの人、ここの信者だったの?」
楓も興奮し、少しだけ、普段のお喋りな少女に戻る。慧一にとっても、もちろん意外だった。カサおじさんは信者たちが制服の様に着ている黒服を着るわけでもなく、いつも支離滅裂ではあるが政治的な主張ばかり繰り返していた。彼は気がふれていても、黒蝶会に入信しているようにはとても見えなかった。
「こら、無礼者ども、どかぬか! このわしを誰だと思っておる!」
カサおじさんが周りに集まる信者たちを追い払おうと、トレードマークのコウモリ傘を振り回す。信者たちもこれには手に負えず、二、三歩引き下がる。
「やめてよ、パパ」
――え?
カサおじさんが暴れるのをやめる。急に優しい表情になって、カサを下ろし、声の主に微笑みかけた。
「おお、涼香。いたのか。さあ、それじゃ、涼香にもわしの話を特別に聞かせてやるぞ」
――りょう、か?
慧一は、恐る恐る振り返る。一つ前の席で立っていた少女と、すぐに目が合う。少女もまたこの時初めて慧一の存在に気付いたらしく、ハッとした表情でこちらを見返していた。
どうやら、河西涼香の家庭環境には思った以上に難しい問題が横たわっているようだ。
説法と、それに続く聖歌斉唱、そして教団の活動報告は一時間ほどで終わった。ここまでの様子から察するに、どうやらここは、キリスト教系の宗教団体らしい。説法の内容は周りを思いやれだの、あなたは決して一人ではないだの、平凡な内容を独特な論理でもって語るものだった。
暇つぶしに読んだ経典の内容と合わせて要約すると、人類の道徳心の根底には一人ひとりの魂を守護する黒蝶がいるらしい。その黒蝶こそが、人々を全なる道へと導き、幸福を与えてくれる。さらに、黒蝶たちの長の名はクエル・ウル。そしてそのクエル・ウルが人となって下界に現れたのが、黒蝶会の教祖であり、唯一黒蝶たちと相互的に意志疎通できる存在なのだ。
自分を黒蝶であると言ってはばからない痩せこけた中年教祖の言葉に、信者たちは熱心に聴き入り、時々頷いている。
突っ込み待ちとしか思えない光景だ。
この間、涼香は前を向いたまま、二度と後ろを振り向かなかった。カサおじさんはカサをぶんぶんと振り回しながら、教団に立つのが自分ではない事に不貞腐れていた。
「真相を知ってる人って、まさか河西涼香?」
楓が小声で聞いてくるが、慧一は曖昧に頷いた。
「彼女は、周りが思っているよりずっと、奥が深いんだよ」
なにしろ、今現在おれが涼香のさらなる秘密を知ってショックを受けてるんだからな。
合同礼拝が終わると、今度はセラピーと呼ばれる時間になった。これは信者たちが小グループに分かれて行うものらしく、慧一は素早く涼香と同じグループに入れるよう、さりげなく涼香の脇へ移動する。
慧一たちを連れてきた老婆も同年代の方が受けがいいと考えたのか、涼香に案内を任せて去って行った。
小部屋へ向かう廊下で、周りに人がいなくなって初めて、涼香は口を開いた。
「わたしを、蔑みに来たの?」
うう、やばい……。
案の定、涼香は冷血モード全開だった。
「クラスメートまで連れてきて、興味本位でひっかきまわして。もう充分楽しんだんでしょ。いますぐ消えて」
言葉の一つ一つが、やたらと心に突き刺さる。
「いや、おれはそういうつもりじゃなくて――」
「聞こえなかった? 即刻、消えなさい」
まともに取り合う気はないようだ。助けを求めるようにオミムネの姿を探したが、肝心な時に見当たらない。
プライベートに土足で立ち入った、こっちが悪いんだから仕方ない、か。
慧一がいたたまれなくなって去り際を考えていると、突然楓が涼香の肩を掴む。
「教えて」
「なによ、あなた」
涼香が、視線だけで相手を殺せそうな目つきで楓を睨みつける。だが、楓は怯まなかった。
「颯が、死んでしまったの。いいえ、殺されたの。誰に殺されたのか、あなたなら分かるんでしょ?」
「……そう。あなた、及川颯の妹の楓ね。お気の毒さま。でも、わたしがあなたに話すことなんて、何もない」
涼香の突き放すような言い方に、慧一がつい、口を出してしまう。
「そんな言い方、ないだろ。楓だって、突然兄貴が死んで参ってるんだから」
「あなたも、とんだお人良しね。分かってるの? クルス決戦まで後四日なのよ。四日後、わたしたちは死ぬかも知れない。なのに、人のことなんて気にしてる場合じゃないでしょ。特に、立場が悪くなったらすぐに手の平返すような子のことなんて、忘れなさい」
どうやらきっちり楓のことを把握していたようだ。さすがと言うべきか。
涼香の言う通り、慧一自身も、楓に同情する必要などないし、今自分たちにはそんな余裕がないことぐらいは分かっていた。だがそれでも、どうしても半狂乱になって取り乱す楓を見捨てる気にはなれなかった。それだけではない。
「もし、颯の死にクラスターや武装商社が関わっているというのなら、おれにとっても重要な話だ。聞かないわけにはいかない」
慧一の理詰めに対し、涼香は慧一の表情を見つめたまま黙りこむ。横で楓が何を言っても、無視し続ける。まるで本心を見透かされてるような気がして、慧一はたじろいだ。
「な、なんだよ……」
「……『外道のカリヤ』。あなたは、戦場で敵も味方も、容赦なく殺戮してきた。なのに、どうしてそんなに優しいの」
涼香の静かな声に、慧一はさらに戸惑う。
「いや、おれはただ――」
「そんなふうだから、わたしやオミムネに利用されるのよ」
涼香の目は、どこか悲しげな色をたたえていた。
「え? どういう意味だよ」
だが、涼香は慧一の問いには答えずに目を逸らした。
「楓。あなたの考えは正しいわ。クラスターシステムには、決定的な欠点があるの」
「! それはななんなの! 答えなさい!」
興奮した楓が、涼香につかみかかろうとするのを、かろうじて慧一が止める。涼香はいつもの調子に戻って、つまらないものでも見るかのような目で楓を見下すと、言った。
「クラスターシステムは同時に何人もの生体ユニットの感覚情報を一人の人間に集める代物よ。でも、そもそも人の脳はそれ程たくさんの情報を処理できるようには作られていない」
楓を抑えながら、慧一が口をはさむ。
「だから、今の子供たちは幼い時から訓練を受けて、脳内に特有の神経回路が出来るようにしてるんだろ?」
「そう。人の脳には可塑性があって、小さい内から訓練すれば、そうした大量の情報にも対応できるようになる。でも、それは無理に無理を重ねた結果なのよ。クラスターを使い続ければ、脳に多大な負荷がかかることになる。そして、最終的には――」
「死ぬのね!」
楓が興奮して叫ぶ。廊下の先から通りがかりの信者がこちらに訝(いぶか)しげな目を向けているのを見て、慧一は必死に楓をなだめようと口に人差し指を当てて見せるが、まるで効果はない。
「やっぱりそうだ! 颯は、殺されたんだ! 武装商社の連中に、老人どもに殺されたんだ!」
「政府も老人たちも、この事実をひた隠しにしてる。だから、あなたがどれだけ騒いだところで無駄よ。マスコミも警察も、取り合ってはくれないわ」
だが、涼香の言葉など楓は聞いてはいなかった。
「あいつら、許さない! 必ず、地獄を見せてやるんだから!」
慧一の腕を振り払い、元来た通路へと走り出す。
「おい、どこへ行くつもりだよ!」
「アハハ、報いを、受けさせてやる! 絶対に!」
狂気じみた声を上げながら走り去っていく楓を、慧一は呆然としながら見送った。
もしかしたら、楓をここへ連れてくるべきではなかったのではないか。
漠然とした後悔に襲われるが、もう手遅れだ。
「心配しなくてもいいわよ。あの子にはどうせ、何も出来はしない。それより、あなたも早く消えて」
慧一はゆっくりと涼香へ視線を戻し、尋ねた。
「涼香はどうして、クラスターが危険だと知ってたんだ? 極秘事項だったんだろ?」
「……以前、父から聞いたの」
「父って、カサおじさんから?」
おいおい、どんだけ不確かな情報だよ。
唖然とする慧一に、涼香は何でもないことのように言う。
「パパがあんな風になる前、話していたの。パパは口癖のように言ってたわ。子供たちは国の未来だ。その未来を食いつぶして今の繁栄を買うクラスターの様なシステムは、絶対に存続させちゃいけないって。さあ、あなたの質問には答えたんだから、消えなさい」
「ちょっと待ってくれ。それじゃあ、カサおじさんも、クラスターや武装商社と関係がある人だったのか?」
それも、極秘情報を知れるような立場に。
ふと、不気味な考えが頭をよぎる。
かつて圧倒的なカリスマ性で反乱分子をまとめ上げ、ゲリラたちの頭目として君臨していた久(く)良(ら)徒(ど)栄(えい)蛻(ぜい)。彼は国会議事堂事件で公式には死んだとされていたが、ネット上では彼の死を疑問視する声が多く挙がっていた。曰く、重傷は負ったものの、国会の地下に張り巡らされていた地下通路を使って逃げ出した。または、国会を占拠したのは久良徒の影武者であり、彼は遠くから無線で指示していたに過ぎない。そんな説が流布し、時よりネット上に上がる久良徒からの檄文といったものが、彼の生存説を後押ししていた。
そして、涼香もまた五人組と呼ばれる、テロリストの頭目たちの一人なのだ。
下らない与太話ではある。だが、ひょっとして、ひょっとすると――
「カサおじさんって、まさか――」
しかし、涼香が答えるより先に、通りがかりの信者が声をかけてきた。
「おい、いつまでそんな所で油を売ってるんだい。セラピーが始まってしまうよ」
涼香は一瞬躊躇するような仕草を見せたが、さらに男に催促されると、小さな声ではい、と答え、セラピーが行われるという部屋へと慧一を連れて行った。
途中、小声で
「だから、早く帰るよう、言ったのに。どうなっても、知らないんだから」
と呟く。慧一はどういうことか、聞き返そうとしたが、監視するようについてきた信者の目がはばかられて、何も言うことが出来なかった。
セラピーは小さめの会議室で、十人一組が車座になって行われた。ベテラン信者のような人が司会となって、まず始まったのが宗教活動の報告。要するに、一人ひとりが今週、教団のために何をしたかを語っていく。内容は、寄付であったり、布教活動であったり、隣人への奉仕活動であったり、様々だ。
そして、涼香の番がくる。
「では、河西さん。報告をお願いします」
司会者の言葉に合わせて、涼香が立ちあがる。
「わたしは、日々、教団の発展と、人々の幸福のために祈っています」
能面の様な無表情で、目には何の感情も浮かべていない。端正な顔立ちと相まって、無感動な人形そのものだった。
司会者が鼻の上に皺を寄せて指摘する。
「河西さん。それだけでは不足だと、いつも言っているでしょう。大切なのは、祈りと、その先にある行動なのです」
腰回りに肉のつき始めた中年男の司会者は、自分の言葉に酔う様に、両手を広げ、顔を天井に向ける。
「祈りによって、まず、黒蝶様に思いを伝え、さらに行いによって己の誠なる心を実際に示すこと。それが大事なのです。黒蝶様は、いつもわたしたちを見ていらっしゃる。わたしたちは、一人ではない」
どうやら、最後のフレーズが合い言葉だったらしく、信者たちが一斉に唱和する。
「黒蝶様は、いつもわたしたちを見ていらっしゃる。わたしたちは、一人ではない」
寒気がする光景だったが、涼香も負けず劣らず冷たい瞳で司会の男を見下ろしている。
「以上です」
司会の言葉を完全に無視して、席に着いてしまう。信者たちから批判的な声が上がるが、それもすべて無視だ。司会者は軽く笑うと、とりなすように言う。
「まあ、まあ。今日彼女は新しい友を連れて来てくれたようですので、良しとしましょう」
全員の目が、一斉に慧一に向かう。突然話を振られ、慧一はどう対応していいかわからず、誤魔化すように笑みを浮かべるしかなかった。
「では、狩谷君、せっかくだから、君にも黒蝶様への言上(ごんじょう)をしてもらおうかな。どうやればいいのかは、今までの様子から、だいたい分かるだろう」
予想外の不意打ちに、慧一は焦った。ただの見学者なのだから当然順番を飛ばされると思いこんでいたのだ。
「は、はい」
急いで立ち過ぎて、椅子を倒しそうになる。周りから失笑が漏れた。
慧一は顔を赤くしながら、思いついたことを適当に口に出した。
「えっと、おれは最近いつも一緒にいるある人に関わる大切な秘密を知ってしまって、ただ、その秘密のことを本人は知らなくて……。でも、その秘密をその子に伝えたら、きっとその子は傷つくから……」
ああ、おれは何言ってるんだ! ここでニケに対する悩みを口にするなんて、場違いにも程があるだろ。
だが、周囲の反応は慧一の思った以上に好意的だった。
「なるほど、狩谷君はその子のために、その秘密を伝えるべきなのか否か、悩んでいるのだね」
「ええ、まあ」
慧一が曖昧に頷く。司会者はやおら大きく手を広げ、声を張った。
「諸君! 素晴らしいとは思われませんか。この少年は、隣人のために悩み、隣人のために何を為すべきか、真剣に考えています。これこそ、黒蝶の道にかなう、人の歩むべき道です」
信者たちが同調するように、深く頷く。これで良かったのかと胸をなでおろそうとしていた慧一だったが、ただ一人無表情で慧一を睨みつける涼香と目が合い、温まりかけていた心を北風が吹き抜ける。
「この内容は、丁度次の浄化のカンファレンスにもつながるものですね。ではせっかくですから、心を無にした上で、そのまま狩谷君の話を聞くとしましょう」
司会者が慧一には理解し難い発言をした上、部屋の奥に置かれていたテーブルの上から人数分の湯のみが乗ったお盆を持ってくる。
「さあ、これで心が洗われますよ」
そう言われて慧一が手渡された湯呑の中には、小さな木の葉が一枚浮かんだ、どす黒い液体が入っていた。臭いは科学の実験で教わった刺激臭そのものだ。
「え、えっと……これを……飲むんですよね」
飲み物かどうかすら、疑っていたが、信者たちが躊躇なく飲み干していくのを見て、飲むしかないのだと判断する。だが、彼らも飲んだ後に顔をしかめているところからすると、やはり相当な味の様だ。涼香だけは安定の無表情で湯呑を空にしていた。
飲み干した信者たちの目が、慧一の手元に集中する。
毒ではないはずだ……多分。
意を決して湯呑を手に持つと、口元へ持っていき、鼻で息をしない様に注意しながら一気に流し込んだ。
強烈な刺激が喉に走り、吐きそうになる。
さらに刺激は胃へと移動し、燃えるような痛みで胸が熱くなる。
慧一は椅子の上でうずくまりながら、必死で吐き気と戦った。
「いやはや、やはりこの浄化作業は、業を重ねていない初心者には少しばかり厳しいようですね」
だったらやらせるな!
恨みのこもった目で司会の男を見上げながら、それでも吐き気が止まらず、口を抑える。
「じき、苦しみは引いていきます。それまでの辛抱です」
司会の言葉に、周りの信者たちからも口々に励ましの声が上がる。どうやら、恒例の通過儀礼らしい。
薬を飲んでから三分ほどして、徐々に胃の中の痛みは、全身の火照るような熱に代わって行った。吐き気が薄らぎ、逆に体の底から力が湧いてくる。
「へえ、これは、すごい……!」
慧一の素直な感想に、司会者は満足げに頷いた。
「そうでしょう。秘伝の漢方薬に黒蝶様の霊験を加えた、奇跡の黒蝶スープですから。さて、それでは浄化カンファレンスを始めましょうか」
それから慧一は、体の熱にせかされるように、再び自分の悩みを語った。もちろん伏せるべき話はしっかりと伏せたが、徐々に緊張もほぐれ、弁舌はなめらかになっていく。信者たちも飲み物のせいかほおを紅潮させながら、相槌を打ちつつ熱心に聞き入り、適切な場面で意見を加え、また時に信者同士で意見をぶつけ合う。それがまた一層嬉しく、慧一はいつしか一心に信者たちと語り合っていた。涼香の冷めた視線も、もう気にならなかった。
そうして一通り話し終えると、今度は初心者ガイダンスがあると言われ、涼香や他の信者に別れを告げ、慧一は司会者に地下にある部屋へと案内された。そこでは驚いたことに、慧一と同世代の少年少女が七、八人座って慧一が来るのを待っていた。
「さあ、若者同士、語ることも多いだろう。皆で、心行くまで語り合い、黒蝶の教えへの増資を深めなさい」
司会者はそう言って再び例の黒蝶スープを皆に振舞うと、部屋から去って行った。
今度は迷わず、黒蝶スープを飲み干し、少年たちと向き合う。初対面なのだからもの怖じしてもいいはずなのだが、今日は気分がよく、自分から積極的に話しかけて行きたくなる。
「今日はじめてきた、狩谷慧一です。よろしくお願いします」
学校ではついぞ出したことのない様な明るい声が出た。他の面々も笑って慧一を受け入れてくれ、彼らはすぐに打ち解けあった。
学校ではいつも浮き気味だった慧一にとって、これだけじっくりと腹を割って何人もの同世代の人間と語り合えるのは、初めての体験だった。
どれだけの時間話しこんでいただろうか。ふと、慧一は尿意を感じて席を立った。部屋にいた内の一人が気を利かせてトイレへと案内してくれる。慧一はトイレの前で待っているというその少年にお礼を言いながらトイレに入った。
思った以上にフレンドリーで、良い場所なのかも知れないな、ここ。
そんなことを考えていると、小さな、物を叩く音が聞こえてくる。
何の音かと思って目を向けると、トイレの端についている、小さな曇りガラスの向こうに人影が映っていた。
先程までの高揚した気分が一気に吹き飛び、背筋に冷たいものを感じる。
気付かない間に時間が過ぎていたらしく、日はとっくに沈み、外は真っ暗になっている。
ま、まさか、幽霊とか、な……
ここが宗教施設なのだということに思い当り、余計に寒気が増す。
慧一は恐る恐る窓へ近づいた。
ゆっくりと、窓を開ける。
「うわああぁ!」
窓の外を見て、慧一は思わず声を上げてしまった。
「どうしたんですか!」
トイレの外にいた男子が、驚いて駆け込んでくる。慧一は咄嗟に窓の前に立って、外が見えない様にしながら、何事もない風を装った。
「あー、タイルが少し濡れてて。転びそうになっちゃってさ。つい、情けない声が出ちゃったんだよ」
「なんだ。そういうことですか」
「そうそう。あ、でもこの濡れてるの、もしかして……」
「きっとこの時間帯だと、掃除のおばちゃんたちが来てる頃だから、水洗いした部分を噴き忘れただけですよ。心配しないで下さい」
慧一の冗談に安心したように笑うと、では、と言って出て行った。それでも、外で慧一を待つつもりなのだろう。監視されている様な気がして、慧一は気分が悪くなった。
「――それで、男子トイレなんて覗いてそんなに楽しいか? 涼香」
「うるさい。別に、好きでやってるわけじゃないんだから。それにあなただって、わたしの顔を見て叫ばないでよ」
窓の下から現れたのは、顔を赤らめた一つ年下の女子高生だった。この無表情な少女が男子トイレのすぐ外に無言でたたずんでいたのだから、驚くなと言う方が無理だ。
「まさか、あの涼香がこんな破廉恥な真似をするとは思わなかったからな。驚くだろ」
「……それ以上言ったら、絞めるわよ」
「……ご、ごめんなさい」
冷たい殺気のこもった表情で言われては、素直に謝るしかない。慧一は外で待っている男子がまたやって来ないか心配しながら、小声で聞く。
「何の用だよ。まだ、浄化ステップ2の途中なんだぞ」
「今すぐ、ここを出るのよ」
「な、だから、そんなこと言っても、まだ途中なんだって。心配しなくても、終わったら帰るよ」
「それでは、遅いの。道は教えるから、この窓から外に出て今すぐ帰って」
「だから、なんでだよ。確かに言ってることはかなり怪しげだけど、ここの人たち自身は悪い人じゃないだろ」
「どうだか。これを見て」
涼香が、ポケットの中から小さな錠剤を取り出して見せる。
「なんだ? そりゃ」
「さっき、あなたが飲んだ黒蝶スープに入れられてた薬よ。ごく微量ではあったけどね。いわゆる、合法ドラッグ」
「えっと……なにそれ?」
慧一の反応に、涼香がじれったそうに言う。
「覚せい剤の一種よ。法律で取り締まられている覚せい剤の構造をほんの少しだけ変えることで、法の網目をかいくぐれる様にしてあるの。それでも、効能は正真正銘の覚せい剤よ」
突然出てきた、覚せい剤という実生活と縁遠い言葉に、慧一は狼狽する。
「で、でも、みんな飲んでたじゃないか。涼香だって」
「わたしは、飲んだふりをして後からハンカチに染み込ませてたの。微量だから一回飲んだだけでどうなるってことはないわ。けど、今すぐ逃げ出さないと、後戻りできなくなるわよ」
涼香は、真剣な表情で慧一を見つめる。しかし、慧一は躊躇(ためら)ってしまった。
「そりゃわかるけど、でも、これだけお世話になっといて、挨拶もなしに逃げ出すのはちょっと……」
特に、友達同士の様に接してくれた同世代の男女相手に、顔に泥を塗るような行為をするのは抵抗があった。
「全部、あなたを勧誘するためでしょ。あなたを教団に引き込めば、関わった人間は全員、『功績あり』として功徳書がもらえることになってるの」
「功徳書って、もらってどうするんだよ」
「要するに、昇進するためのポイントみたいなものよ。功徳書を何冊ももらえるってことは、それだけ教団に貢献してるとみなされて、平信者から地位が上がっていくの。みんな、その為に必死なのよ。あなたのためにやってるわけじゃない」
「そうだとしても、それでも……」
踏ん切りがつかないでいる慧一に、涼香は一瞬俯くと顔を上げ、真剣な表情で問いかけてきた。
「ねえ、慧一は、ニケのことが好きなの?」
「な……なん、の、話でしょうか」
いきなり処理不能な直球ど真ん中の質問を浴びせられ、慧一の目が宙を泳ぐ。
「答えて」
吸い込まれそうなほど美しい、深く黒い瞳が真っ直ぐに慧一を見つめる。慧一はごくりと唾を飲み込むと、静かに答えた。
「好き、かどうかは分からない。……でもあいつは、おれが本当に苦しい時に、おれのことを仲間と呼んで、助けてくれた」
そう、この感覚は『好き』や『嫌い』といった言葉で表せるようなものではない。恩義とも、少し違う。もっとずっと、深くて堅い。
「そう……おれはきっと、ニケに今のまま、ずっと未来を信じて笑ってて欲しいんだよ。現実は、あいつが思ってるほど、甘くない。汚いことも平気で行われてるし、そうでないと、世の中は回らない。それでも、そんな現実を全部、木っ端みじんに砕きながら、前に進んでいって欲しいんだ」
いつでも簡単に思い出すことが出来る。希望を信じ、明日を信じるあの自信に輝く瞳。それは、慧一がはるか昔に失ってしまったものだった。
でも
「おれは、そんなあいつの姿を見て、救われたから」
慧一の確固とした言葉に、涼香はどこか満足した様な笑みを浮かべた。
「なら、こんな所で道草を食ってる場合じゃないでしょ」
涼香の言葉に、慧一はハッとした。憑き物が落ちるような思いだった。
おれは涼香にニケのことを聞きに来たのに、何をしてるんだ。
体を覆っていた熱が薄れ、くすぶる様に残った微熱も、もう不快なものとしか感じられなかった。
「涼香、聞きたいことが――」
「おおい、まだかあ?」
廊下から声がかかり、中に入ってくる気配がする。
「来て! 急いで!」
涼香の指示に、慧一は慌てて大きくもない窓を無理矢理通り、トイレの外へと出た。
「あれ? 狩谷君?」
トイレの窓明かりから漏れる声を背に、慧一は建物の外、涼香の後を追って走っていく。慧一たちがいたのは半地下で、窓の外側に建物との間にかろうじてひと一人が走れるだけのスペースがあり、建物の反対側は地上まで九十度近い崖になっている。涼香はそんな狭い空間を器用に走り抜けていく。
「外から地上に登れる場所なんて、あるのか?」
「あるわけないでしょ。一度屋内に戻って、階段なりエレベーターなりを使うしかないわ」
「なる、ほど」
息を切らしながら横を見ると、次々と室内の電気が灯されていっており、騒ぎが広がりつつあることが窺えた。彼らはどうやら、慧一をそう簡単に逃がすつもりはないらしい。
「やれやれ、二度とあの施設から出られなくなるんじゃないかと、冷や冷やしたよ」
夜の歓楽街を歩きながら、慧一は大きく肩をなでおろした。
「注意することね。実際に、そうなる寸前だったんだから。一度教団につかまったら、物理的に施設の外に出られても、心は二度とあそこを出られなくなる」
涼香は相変わらず、恐ろしいことを平然と言う。
「そんなに追い詰められた状況で、逃げこむ先が教祖の部屋って、どんだけ肝が据わってるんだよ」
信者たちの追跡は予想以上に執拗で、階段や玄関、門を押さえられ、慧一たちは早々に逃げ場を失った。しかし、そんな中涼香が慧一を連れ込んだ先が、なんと黒蝶会教祖の部屋だったのだ。
「感謝しなさい。あそこ以外のどこに逃げ込んだとしても、間違いなく見つけられてたんだから」
ツンとすました涼香に、慧一は苦笑いするしかない。
「さすが、S級クラスの武官は戦略も立派なことで」
「当然の選択よ。あの部屋には、怖がって信者の誰も近づかない。相手にとって、アンタッチャブルな常識こそ、こちらにとっては最も有効な武器なんだから」
「アンタッチャブル、ねえ。大した哲学だ。――いや、待てよ」
「? どうしたの?」
だが、慧一は黙り込むと、道の先の一点を凝視して考え込んでしまった。
それ以上涼香も何も言わず、会社帰りのサラリーマンや垢ぬけた大学生たちが脇を通り過ぎて行く中、二人は黙ったまま肩を並べて歩き続けた。
「……いや、やっぱり無理があるな。クルス決戦に使えるかと思ったんだけど」
「そう。結局、クルス決戦を乗り切る策は思いつかなかったわね」
「ああ。おれたちは四日後、死ぬことになる」
どうしようもない事実を、慧一は告げる。しかし、涼香は極めて淡白な口調で、そう、と言うだけだった。
死を受け入れているのか、それとも独自の秘策があるのか。
感情の起伏が感じられない涼香の横顔からは、慧一は何とも判断できなかった。仕方なく、話だけを進める。
「でもその前に、どうしても聞きたいことがある」
「ニケのことね?」
涼香に先手を取られ、口を閉ざす慧一に対し、涼香は矢継ぎ早に答える。
「ええ。そうよ。あの子こそ、最初の第三世代クラスター。老人たちが血眼になって追いかけている、旧国立クラスター研究所の試作品よ」
「やっぱり、そうなのか。……涼香は、五人組はニケをどうするつもりなんだ?」
「わたしたち五人組の目的は一つ。この国に、政府に、老人たちに、二度と立ち直れないほど強烈な一撃を与えること。その為に、使わせてもらうわ」
「使わせてもらうって、ニケが、自分が人間じゃなくて第三世代クラスターなんだと知ったらどうするつもりなんだ!」
徐々に熱くなる慧一を、涼香は冷めきった目で、じろりと無遠慮にねめつける。
「別に、どうもしないわ。わたしたち五人組の目的には、関係のないことよ」
涼香の冷めきった態度に、慧一は思わずカッとなった。
「あいつの気持ちはどうなる? あいつは、道具じゃなくて人間なんだぞ! なのに、自分が生体ユニットだなんて知ったら……」
「人間なのに生体ユニットなんて、随分と矛盾した言い方ね」
言葉尻を捉えられ、慧一はほぞを噛む。だが一方で、信じられなかった。ニケと涼香は気の置けない仲良し二人組というわけではなかったが、それでも互いのことを信頼し合っているのだと思っていた。
「涼香、それがあんたの本心なのか?」
涼香が足を止め、正面から慧一を見据える。目には剣呑な空気を漂わせている。
「そうよ。だから何だって言うの? 道具は所詮、どこまでいっても道具なのよ! これまでは利用価値があったからオミムネが研究所から盗み出し、わたしが面倒を見てきた。でも、価値がなくなったら捨てる、それだけのことよ」
「だったらどうして、さっき黒蝶の館からおれを連れ出す時、ニケのことが好きかだなんて聞いたんだよ」
涼香は一瞬、苦しそうな表情で目を逸らしたが、すぐに開き直った表情になって声を荒げた。
「あなただって、望んでいることはわたしたち五人組と同じ、老人たちへの復讐でしょう」
「そうだよ。強欲な武装商社も、それを容認しているこの国も、おれたちの世代を食い物にしている老人たちも、許せない。何より、じいちゃんや、ばあちゃんを死に追いやった鵺喰(やぐらい)巽(たつみ)は、どれだけ憎んでも憎み足らない。だから、あんたたちに協力すると言ったんだ。だけどそのために、おれにとって大切な人たちが傷ついて欲しくない」
「あなたは、何の犠牲もなく彼らへの復讐が出来ると思ってるの? 途方もない権力を持って、この国を牛耳る彼らと張り合うには、自分の命も含めて、持てる全てを差し出したって、足りないかもしれないのに!」
「分かってるさ。そんなことぐらい。だけど、それとニケを道具の様に扱っていいかは別問題だろ。それに、もし隠し通せるものなら、ニケには何も伝えないべきだ」
「それは無理な話ね。あの子だって政府との大切な取引材料になる。そうなれば、自然とあの子も真実を知ることになる。それに、真実を伝えたところであの子が死ぬわけじゃない」
「例え真実を伝えるにしても、大切なのは、どういう形で知るかだろ! それに、涼香だって、ことを起こせばただじゃ済まないんだぞ! 過去に何があって、どんな理由で国や老人たちを怨んでるのかは知らない。だけど、本当にそれでいいのか?」
「愚問ね。むしろわたしには、慧一がどうしてそんな事を聞くのか分からない。そんなぬるい覚悟しか持てない人間になんて、用はないわ」
涼香が、凍れる目で慧一を一睨みして、立ち去ろうとする。慧一は思わず叫んでいた。
「理由も何も、涼香も、傷ついて欲しくない大切な相手だからに決まってるだろ!」
涼香が、目を丸くして振り返る。思いもよらない言葉に、心底驚いている様子だった。
しかし、驚いたのは涼香ばかりではなく、周囲の通行人たちも、どうしたことかと慧一たちの方へ視線を投げかけてくる。
「あ、え、いや……その」
急激に恥ずかしくなり、慧一は照れ隠しに頭をかく。
「どうして、そんなことを言うの……!」
顔を上げると、驚いたことに、涼香が両目に涙を湛えながら慧一を見上げていた。
え? え? え?
慧一は戸惑い混乱しながらも、素直に答える。
「そんなことって、本心、だけど」
慧一にとって、涼香も、ニケも、大切な存在だった。涼香が何を考えているのかは知らないし、分からない。それでもこの三ヶ月間が、かけがえない時間となったのは、二人がいてくれたからだ。
「慧一やニケといると、この時間が、永遠に続くような気がしてしまう。タクノ社は単なる新参の武装商社で、ずっとこのまま、みんなであれこれ言い合いながら、一緒にいられる。――夢を、見そうになる」
「それじゃ、だめなのかよ。クルス決戦だって、きっとおれが、何とかして見せるから――」
慧一の縋るような言葉に、涼香はゆっくりと首を振った。
「やっぱり、あなたに復讐なんて無理ね。あなたは、優し過ぎる。でも、夢を、ありがとね」
そう言って、涼香は目に涙をいっぱいにためたまま、切なく笑った。慧一は、心臓がぐっと掴まれるような気がした。
だが、すぐに涼香は涙をぬぐうと、いつもの冷めた表情を取り繕う。
「もし、あなたが心の底から何かを守りたいと思うのなら、それを両手に握って、決して離さないことね。いい? いくつも守ろうなんて、考えちゃダメ。たった一つを、全力で守りなさい」
それだけ言うと、踵を返して去っていく。慧一はその背に問いかけた。
「どうしても、戦うつもりなのか?」
五人組は、決して一枚岩ではない。それぐらいは、タクノ社の中に身を置いていて、慧一も気付いていたことだった。きっと涼香の闘いは、途方もなく孤独なものになるだろう。振り返ることなく、涼香は言った。
「大丈夫。あなたは死なない」
「どうして、そんな事が言えるんだよ」
「ただの予言よ。でも、オミムネとガヴァナーの栄道楽には、気をつけることね。あいつらの目的は、わたしにも分からない。第三世代クラスターのコアデータをもっているのも、あいつらよ」
それ以上慧一の問いかけに答えることなく、河西涼香は夜の街の中に消えていった。
死亡が伝えられながら平然と慧一の前に姿を現したネコと、画像の向こうにしか現れない謎のガヴァナー。彼らが、世界を牛耳る鍵のもう一方を手にしているということか。
彼らに、真相を問いただす必要がありそうだ。
9.クルス決戦
とうとう、クルス決戦の日がやって来た。
だがしかし、なかなかオミムネは慧一の前に姿を現さず、結局、コアデータのことは聞けずじまいだった。
グルジャは、中国の西方、カザフスタンとの国境近くにあり、旧ウィグル自治区に属していた大都市だ。かつて、第二次世界大戦終結前に一時的に存在していた国、東トルキスタンの首都であり、中華人民共和国による併合後も独立運動が活発で、共和国崩壊に際して多くの国々同様、独立を達成した。ただ、国内には資源が豊富で、それが新生中華連邦の食指を引き寄せることとなった。
イリ川が街を東西に貫き、南北を山地が塞いでいる。開放的な東西方向にはすでにグルジャ政府によって要塞が建設されており、しないにも十分な物資が蓄えられていた。ここが、タクノ社とツヴァイク、ギガノス、クーノンが雌雄を決する、決戦の地となる。
慧一にとって、グルジャは初めて実際に訪れる外国だった。しかし、オミムネと事前準備を完全に済ませてくれていたため、ほとんど指示通りに行動するだけで、容易に指定されたグルジャ市内のホテルに到着することが出来た。
さすがに中華連邦による侵略の間近とあって、グルジャ市内は物々しい雰囲気に包まれていた。マチの出入り口付近は家財道具をトラックに積んで街を脱出しようとする人々でごった返し、一方市内の店はほとんどがシャッターを下ろし、立ち並ぶ古めかしい土壁づくりの民家も厳重に窓に木板を打ち付け、来たるべき戦災に備えていた。
ウィグル語などまるで分からない慧一にも、住民たちが浮足立っているのが伝わった。
――当然だろう。攻めよせる日本のそうそうたる武装商社の面々に対し、グルジャ軍は憐れなほど貧弱で、彼らが雇い入れたのはこんな辺境では全く知られていない、新興の武装商社なのだから。
だけど、勝ってみせる。あれからこの日のために、何度もシュミレーションを重ねてきた。計画通りにやれば、必ず勝てるはず。勝って、思いあがった老人たちに、目にもの見せてやる。
おしよせる大軍に対する策は一つだった。『細かく削る』。それだけしかない。
優秀な指揮官を持ち、数で圧倒する彼らを一網打尽にする様な妙策など、存在するはずもないのだ。だからこそ逆に、街中に細かい罠を張り巡らせ、敵軍のK―2を確実に減らしていくしかない。
それが、慧一の結論だった。
勝てる見込みは決して多くない。だが、やるしかないのだ。
慧一は、必勝の決意を胸に、最後の詰めの戦略会議に当たるべく、早朝、ホテルの会議室へと向かった。扉を開け、壇上に立って声を張る。
「いよいよ、今日、タクノ社の命運をかけたクルス決戦となる。……て、あれ?」
予定では会社の幹部全員が集合しているはずの会議室には、誰ひとりおらず、物悲しげに整然と椅子が並んでいるだけだった。
「部屋を、間違えたのか?」
思わず声に出して自問自答していると、後方のドアが開いてニケが駆けこんできた。
「あ、危ない。寝過ごした! って、あれ? みんなは?」
目をしばたかせるニケに、慧一は答えるべき言葉を持たなかった。ただ、言い知れぬ不安だけが胸に沸き起こる。
ニケもここに来たということは、集合場所や時間に誤りはない。にも拘らず、涼香やアルゴス、オミムネと言った面々がいない理由は?
「きっと、他の用事が立て込んでるんだろう。待ってれば、その内来るさ」
半ば自分に言い聞かせるように言った言葉に、ニケは納得して席に着く。
「なあんだ。みんな、集合時間にちゃんと来れないなんて、だらしないなあ」
ニケたちの集合時間は慧一よりも早かったので、十分ニケも遅刻しているはずなのだが。
しかし、今は指摘する気にもなれず、慧一は黙って椅子に座って待ち続けた。
十分が経ち、二十分が経つ。
ニケはすぐに座ったまま待っているのに飽き、部屋の中をうろちょろと歩き回りだす。来ていない面々の携帯にはニケが既に何度も嫌がらせの様に電話をかけていたが、誰ひとり応答する者はいなかった。
慧一は湧き起る不安を押さえながら、待ち続けた。
「あー、もう! みんなして、何やってるのよ! 今日こそは、あたしのタクノ社が世界最強だってことを証明する、記念すべき日なのに!」
小一時間が過ぎ、ニケがとうとう痺れを切らした。
「仕方ない、フロントで涼香たちが泊まってる部屋を聞いて、一人ずつ訪ねてみるしかないな」
既にクラスターの配置は済み、戦闘準備は整っているとはいえ、これ以上会議が遅れれば作戦に支障をきたしかねない。
ぶつくさと文句を言うニケを引き連れて、ホテルのフロントに向かう。だが、幹部の中の誰の名前を上げてみても、誰ひとり、チェックインした形跡はなかった。
「ちょっと! どういうことよこれ! まさかみんなして、直前になって怖気づいたんじゃないでしょうね」
わめき散らすニケの横で、慧一は体が芯から冷たくなるのを感じた。
「……もしかしたら、他のホテルにいるのかも」
と言うことで、急遽グルジャ市内のホテルを虱潰しに探してみることになったが、これもまた完全な無駄足だった。そもそも攻囲戦間近と言うことで、営業しているホテルそのものがほとんどなく、すぐに探すあてはなくなった。しかし、そうこうしている内にさらに一時間が経過し、監視に当たっていた部隊からグルジャ包囲軍に動きが出始めていると報告が入り始める。一度戦闘が始まれば、グルジャの正規軍だけでは半日と持たずにこの街は陥落するだろう。
さらに、グルジャの政府が契約の履行のため、既定の人員が政府監督下へ来るよう、要請が送られてくる。
「ちょ、これは、どうなってるの?」
訳が分からず頭をかきむしっているニケに、慧一は力ない声で告げた。
「恐らく、もう誰も来ない。見捨てられたんだよ。おれたちは」
「そんなこと、あるわけないじゃない! ……でも、ここは一度、戦略的撤退にうつるわよ」
「撤退って、逃げるってことか?」
「ちがーう! あくめで、戦略的撤退。転戦ってやつよ。涼香たちなしじゃ、さすがに厳しいから、ここは一度退いて体勢を立て直すのよ。幸い、あたしたちはまだここの人たちに義務を果たすか監視されてるわけじゃないんだから、街を抜け出せるわ」
「だから、抜け出すって、どうやって? この街はもう、陸からも空からも封鎖されてるんだぞ。それが分かってるから、グルジャ政府もおれたちの身柄を無理矢理拘束したりしようとしないだけだ」
「ゲゲっ」
ニケの口から、およそ年頃の少女らしくない、はしたない声が漏れる。
「じゃ、じゃあ、あたしたちのこの状況って……」
「絶望的だよ。ガヴァナーの栄道楽やニケ、涼香たちに捨て石にされたんだ」
慧一は手が白くなるほど強く拳を握る。
――甘かった。ここ三カ月、共に働いてきたことで、タクノ社の面々をつい信用しきってしまっていたのだ。彼らは油断のならないテロリスト集団だと、分かっていたはずなのに。
ここで、慧一もニケも死ぬ。
「なら、やるしかないわね」
ニケの予想外にあっさりとした声に、慧一は顔を上げる。
「やるって、何を?」
「決まってるじゃない。慧一が立てた作戦を、あたしとあんたとで、実行するのよ」
平然と言ってのけるニケに、慧一は口を大きく開けたまま呆然としてしまう。
「……自分で言ってることの意味が分かってるのか?」
「無理そう? もし別な案があるなら、話を聞くわよ」
返す言葉もなく、額を押さえながら頭を振る。もとより、何度も模擬選を繰り返し、唯一得られた僅かな可能性だったのだ。今更になって、より良い案など浮かぶわけがない。しかも、慧一は評議会での一件以来、まともに奇策を考えられなくなっている。
慧一は無言で首を振った。
「そう。ならいいわ。さっさと指揮系統を再確認して、涼香たちがいなくなった分を埋め合わせないと」
「……無茶だ。勝てっこない」
どこまでも前向きなニケに対して、慧一は床を見つめながら吐き捨てた。
「初めから、こんな闘い勝てるわけがなかったんだ。その上、涼香やオミムネまでいないんじゃ、話にもならない」
「だったら、諦めるの?」
ニケの存外強い語気に、慧一は顔を上げられず、沈黙する。
「ここで諦めて、どうなるっていうの? やって来たツヴァイクやクーノンのK―2に大人しく殺されて上げて、連中の手間を省いてあげるの? そんなの、あたしは絶対ごめんだから。あなたが戦わないって言うんなら、あたし一人でも、戦うよ」
ニケの言葉は、悔しいが正しかった。しかし、だからと言って希望が見えるわけでもないが。
「わか――」
慧一が口を開こうとした時、腹の底に響くような轟音と地響きが会話を中断させた。稲妻の様な輝きが閃き、遠くで火柱が上がった後に煙が立ち上る。
すぐに、慧一の持つ携帯が茶苦戦を受けて震えだすが、電話に出るまでもなかった。
始まったのだ。戦争が。
「さあ、いくわよ、慧一」
「くっ、是非もない」
慧一たちが急いでクラスター用の設備が用意されている本部となるビルへ行くと、そこには見慣れた先客がいた。
「やあ、遅かったじゃないか」
ゆったりと伸びをしながら慧一たちを迎えたのは、黒ネコのオミムネだった。
「オミムネ! 今の今まで、どこで油売ってたんだよ」
「涼香がいきなり雲隠れしちゃったから、どこに行ったのかと探してたんだよ。大方、キミらも似たような理由で外に出ていたんだろ?」
「ああ、そうだが、オミムネにだって何度も連絡したんだぞ。どうして出ないんだ?」
「ボクだって、忙しかったんだよ。それより、こんなところで無駄話してる場合なのかい? 既に政府軍の要塞二つが、ギガノスとクーノンの部隊の迫撃砲を受けて壊滅寸前になってるけど?」
「分かってる!」
慧一は声を荒げると、クラスター用の席に座る。
「ニケは西部の指揮を取ってくれ。東部戦線の指揮はおれがとる!」
「アハハ、やっとやる気出したみたいじゃん。そうこなくっちゃ」
ニケが高らかに笑って席に着く。
「ありがとな。ニケのお陰で、踏ん切りがついたよ。ウダウダ悩んで手もどうしようもない以上、やるしかない」
「そーいうこと! やっと分かったみたいね」
得意げなニケに頷き返すと、オミムネに視線を転じる。
「オミムネは、ニケの補佐、及び予備兵力の融通を状況に合わせて行ってくれ。その上で、全体の戦況を十分ごとにおれに知らせるんだ」
「はいはい、了解、司令官殿」
オミムネとニケの準備が整うのを待って、慧一は高らかに宣言した。
「全部隊、作戦開始――」
こうして、ツヴァイク・ギガノス・クーノン連合軍のK―2およそ三十万体と、タクノ社及びグルジャ政府軍K―2五千体との戦いの火ぶたが切って落とされた。
『南西部イリ川沿いの商業地区、陥落。完全に敵の制圧かに置かれたみたいだよ』
『山間部の隘路から、敵が侵入を試みています。至急、応援を送ってください!』
頭の中に流れ込んでくる戦況は予想通り、タクノ社側が一方的に劣勢だった。
「当然だけど、勢いだけでどうにかなるもんじゃないな」
K―2の口を借りて、慧一が呟く。
各方面からは続々と守備部隊壊滅の報が届き、東部攻撃を任されているギガノス社は、グルジャ正規軍の立て籠もる要塞を瞬く間に陥落させ、破竹の勢いで制圧圏を広げている。だが、これでも敵の最大勢力を誇るツヴァイクが戦線に参加していないというのだから、気が遠くなる。
『好川隊を山道の防御に向かわせろ! 好川隊が抜けて出来た穴には敵部隊を誘い込み、十分進撃させたところで退路を断って遊撃部隊で叩くんだ!』
しかし、状況が一度ここまで悪化してしまうと、小手先の策では挽回の仕様がない。
――考えろ。ギガノスの武官は優秀で、攻めにめっぽう強く、大胆だが綿密に連携を取った攻撃をとる傾向にある。だが全体を統括する文官は、これほど大規模な戦闘をさばいたことなどまずないはず。付け入るなら、そこしかない。
慧一は頭の中に街の見取り図を呼びだすと、素早く思考を巡らせた。仕掛けられたトラップや部隊の配置、どんな建物があるのか――
街に備蓄された巨大なガソリンの集積場が慧一の目にとまる。
――これだ。
『よし、イリ川沿いの部隊を後退させろ。敵部隊がガソリン貯蔵施設を越えてきた時点で爆破するんだ』
慧一の指示に、オミムネが口をはさむ。
『狙いは分かるけど、いくら大量のガソリンがあるって言っても、爆発させたところで大した火力にはならないよ?』
『それでいい。爆発に直接連中を巻き込むのが目的じゃないからな。それより、おれは後退した部隊と合流するから、この辺りに他の部隊を寄越しておいてくれ』
『お望み通りに。でも、いいの? 一般の施設に手を出して。後で絶対問題になるよ?』
『じゃあ、石油タンクを枕に討ち死にしろってのか?』
『それもそうだ』
慧一の部隊が持ち場を離れ、乱れた戦列をオミムネが素早く修復していく。
予想通り、ギガノスの部隊は撤退していくタクノ社の部隊に食い付き、すぐ後を真っ直ぐに追ってくる。ただし、罠の可能性を考慮したうえで、前線を隙間なく保ったままでの進撃だ。
だが、その中途半端な警戒心こそが命取りになる。
敵軍の動きは、オミムネのハッキングにより手に取るように分かる。
――オミムネ、恐るべし。
慧一はタイミングを見計らって、爆破の指示を下した。
グルジャの街中に揺れが走り、天を衝く様な黒煙が一斉に沸き上がる。だが、高原を吹き抜ける強い風に流され、すぐに黒煙は横にたなびき、街の北側を覆う様に広がっていく。
『慧一、今の揺れは何?』
ニケから通信が入る。慧一は、にやりと笑って答えた。
『ギガノスが、崩れ落ちる音だよ』
通信先を後退させていた部隊に切り替える。
『敵軍の視界はほぼ奪った。いかにK―2といえど、この状況下では戦列を維持することにしか気を回せないはず。全軍、前進して立ち往生しているギガノスの軍勢を粉砕しろ!』
後退過程で合流、終結を済ませていたタクノ社の部隊が、煙の中に取り残され、混乱するギガノス戦線へと突撃していく。慧一もまた、最精鋭の部隊を連れて黒煙に覆われた戦場へと飛び込んでいった。
限られた視界の中で銃火が飛び交い、悲鳴と怒号が混じり合う。
慧一は電光石火の勢いでギガノスの戦線を切り裂くと、さらに陣を立て直そうとやって来る後続を粉砕、体勢を立て直す暇を与えずに、残されたギガノスの部隊の横腹を突く。
さらに防御に徹していた前線の部隊を一斉に前進させ、ギガノス部隊のさらなる動揺を誘う。
数の有利に頼り、完全に油断していたギガノスの戦線はもろくも崩れ、あわや全滅というところを、後詰の部隊が支援に駆けつけ、多大な損害を出しつつも何とか撤退していった。
『すごい! やるじゃん、慧一。さっすが、タクノ社の名軍師!』
『おだてたところで何も出ないぞ、ニケ』
『何よ、勝ったんだから、喜べばいいじゃない』
『喜ぶのはまだ早い、と言ってるんだ。こちらも、今の作戦で少なからず被害を受けた。陣形も乱れているから、このまま第二波攻撃を受けきるのは厳しいだろう。それに――おいでなすったぞ』
ギガノスの部隊が後退し、明らかに入れ替わりに別の部隊が前に出る様な動きを見せる。
オミムネはギガノスのセキュリティを下準備の段階で容易に突破してしまったが、ツヴァイクのそれは未だに完全には破れておらず、細かい動きまでは分からないのだ。
案の定、オミムネから警告が入る。
『連中の通信をキャッチしたよ。どうやら、東部、西部共に、S級武官を先頭に物量戦を仕掛けてくるつもりみたいだね』
ついに、ツヴァイクが動いた。
『全軍、所定の狙撃ポイント、及び籠城地点に移動。最大限、敵軍の足を止めろ!』
だが、この慧一の指示も、ツヴァイクの前では虚しいだけだった。
一人ひとりが涼香や慧一に匹敵する突破力を秘めたツヴァイクS級武官たちは、東西で次々と防御拠点をなぎ払う。タクノ社の戦線は瞬く間に寸断されてしまった。
「くっ、化け物過ぎるだろ!」
まるで通常の部隊では歯が立たない。時間稼ぎにすら、なっていない。
あっという間に、東西の前線でニケと慧一の部隊だけがそれぞれ孤立した形で前方に取り残されてしまった。それ以外の部隊は全て、殲滅されるか後退を余儀なくされたのだ。
だが、離れ小島の様に取り残された慧一とニケの陣地を、ツヴァイクの部隊は気にも留めずに通り過ぎて行く。
オミムネが、不思議そうに呟く声が頭に響く。
『あれ? 連中、どういうつもりだろ? これだと、慧一たちに後ろを取られることになるけど』
オミムネの言う通り、腑に落ちない動きだ。……いや、しまった!
後衛に回っていたギガノス、クーノンの部隊がそれぞれ、素早く移動して取り残された二つの部隊を包囲しようと運動を開始しているではないか。
二人なしでは、グルジャの中心部は半時と経たずに陥落してしまうだろう。
『ニケ、今すぐ包囲を抜けて、本陣に合流しろ!』
急いで指示を飛ばしながら、自分でも全部隊を率いて出口を今にも塞ごうとしているギガノスの部隊に対し突撃をかける。だが、ギガノス側もそう簡単には道を譲らず、さらにツヴァイクの増援まで加わって行く手を阻もうとする。
結局、ニケの部隊も慧一の部隊も、中央軍に再び合流は出来たものの、多大な損害を被り、またその間に市街地の四分の三近くがツヴァイクの手に落ちていた。
はめられた……!
失われたK―2を補充すべく他の武官のK―2と部隊を再配分しながら、慧一は歯を噛みしめた。
残されたタクノ社のK―2は三千に満たない。一方、ギガノス社は全部隊の三割近い大損害を出して後方へ下がったが、ツヴァイクだけでも十四、五万のK―2を擁している。もしこれが前時代的な生身の兵士同士の戦いであれば、まだ勝ち目もあったかもしれないが、指揮系統が少しばかり崩されても、K―2の割り当てを変えるだけですぐに復旧できるK―2の部隊相手では、手の打ちようがない。
早い話が、タクノ社側はジリ貧の状態に追い込まれたのだ。
慧一とニケとが担当する地域だけは何とか劣勢を覆し、敵の波状攻撃を受け止めるが、それも局地的なこと。全体では、確実に押され続け、とうとうタクノ社司令部がある市街中心部まで砲弾が届くに至った。
『慧一、敵の小隊がこちらの防衛ラインをすり抜けて、本部へ向かったわ! 対応、お願い!』
『こっちだって、手いっぱいなんだよ! 長崎隊、応戦しろ!』
『狩谷。もう長崎隊はついさっき全滅したよ。連中を止めるには、狩谷の指揮下から部隊を出さないと無理だよ』
オミムネの忠告に、思わず慧一は舌打ちする。
『第十三地区は放棄、戦線を縮小し、七(なな)○(まる)突出部からも撤退する。それで余った戦力を向かわせればいいんだろ?』
『そういうこと。でも、急いだ方がいいよ。連中、丁度今――』
K―2を操る意識全体に揺れが走る。どうやら、慧一の体が置かれている建物付近に、迫撃砲が着弾したらしい。一分と経たない内に本部へと迫られるほど、慧一たちの防御線は後退しているのだ。
『チクショウ! これじゃあ、どうしようもないじゃねえか!』
『泣き言いってる暇があったら、少しでも働いてよ!』
ニケがどれ程叱咤したところで、絶望的な状況は蚊ほども変わらない。
『とうとう、グルジャの市庁舎がツヴァイクに制圧されたみたいだよ』
オミムネから、さらに心を暗くする報告が届く。
さらに他の部下からも、薄くなった防御線が急速に崩壊しつつあると、報告が上がる。
『くっ、これ以上は、もう……』
慧一の指揮下にあるK―2は既に百を割り込んでいる。
慧一は残されたK―2を慧一たちがいる地区に集結させると、意識を大きく広げ、全部隊を自身の操作下においた。敵の部隊が素早い蜂の様に次々と攻撃を仕掛けてくるが、さすがに慧一が操作するクラスターは強く、敵部隊の攻撃をしっかりとはね返す。だが、それも時間の問題だろう。
『タクノ社の栄光も、ここで、終わりみたいだな』
連合側の銃火と慧一が放った炎によって赤く燃え上がる街並みを、クラスターの目を通して見つめ、慧一は投げやりな気分で呟いた。腹立たしい話だが、この景色こそまさに、一つの栄光の時代を築いた武装商社の終わりにふさわしい。
『諦めるのはまだ早い! もしかしたら、涼香たちが助けに来てくれるかもしれないでしょ?』
あくまで希望を捨てないニケの言葉に、慧一は苦笑する。
『今更涼香たちが来たところで、この戦況はいかんともしがたいさ。もう、戦いにすらなってない』
ついに最後の防御線も崩れ、ツヴァイクの部隊が慧一たちのいる建物へと押し寄せる。出入り口に配備していたK―2が、事前に設置されていたバリケードを盾に、最後の抵抗を試みる。
『こんな所で、終わっちゃうって言うの?』
ニケが、悲痛な叫びを漏らす。しかし、ニケの部隊ももう、残すところ数人だけだ。オミムネも現状について、何一つ報告を上げなくなっていた。
『ニケ、最期に、一つだけ言っていいかな』
『何よ! 忙しいんだから、手短に言ってよね!』
――守ってやれなくて、ごめん――
だが、この期に及んでも必死の抵抗を続けるニケに、慧一はその言葉を告げることが出来なかった。代わりに、最期のK―2が倒れると同時に、自身の体へ意識を戻し、護身用にと置かれていた拳銃を手に取る。
二人がいる部屋の入口は一つだけ。十秒ぐらいは、時間を稼ぐことは出来るだろうか。
最期まで、あがいて、あがいて、あがきぬく――
おれたちには、お似合いの最期かもしれないな。
慧一は、ちらりと後ろで椅子に座って目を閉ざしているニケの姿をかえりみる。心が少しだけ、楽になった気がした。
――評議会で老人側に内通するよう迫られた時のことが思い出される。
あの時、慧一の心は死の恐怖に完全に押しつぶされていた。
『さあ、これが最後の問いです。狩谷慧一。我ら評議会に、従いなさい』
最後通告を突きつける、クーノンの長。その目には、『二度は言わぬ』という強い意志が滲み出ていた。もはや、選択の余地などなかった。なかったはずなのに――慧一の口から出たのは、思いとは裏腹の言葉だった。
『僕は、あなた方には従えません』
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
『それが、君の結論ですか。残念です』
本当に残念そうな表情をするクーノンの代表とは対照的に、ギガノスの代表は額にしわを寄せ、怒りをあらわにした。
『ちっ、そんなに死に急ぎたいのなら、勝手にするがいい』
老人たちはそれ以上何も言うことなく、無言で部屋を去って行った。
もしあの時、大人しく老人たちに恭順の意を示していれば、こんなことにはならなかっただろう。啖呵を切ったものの、死ぬ覚悟が出来ていたわけではないのに。
今になっても、慧一の足は死への恐怖で小刻みに震えていた。
だが、この段になって、慧一はあの時どうしてはあんなことを言ってしまったのか、ようやく理解できた。
ニケを守る側から、傷つける側に回ることなど、決して出来ないと分かっていたからだ。
死ぬ覚悟がないのと同じぐらい、そんな非道な真似をする覚悟は、慧一にはなかったのだ。
――でも、それでよかったのだと思う。だって、せめて最期まで、ニケの傍で、ニケを守るために立っていることが出来たのだから――
『ニケ、お前さ、初めてあの研究所で会った時、別れ際に何て言おうとしてたの?』
絶望の言葉の代わりに、ずっと気になっていたことを尋ねる。
『ああ、あの時? あの時はさ、ずっと研究所の中で、やることもなく、ただ生きてることに、飽き飽きしてて――』
ニケの話が途切れ、ニケの操るK―2が敵に向かって銃撃を行う気配が感じられる。少しして、残されていたニケのK―2を示す輝点が、地図上から全て明滅する。
ニケが目を覚まし、椅子から立ち上がりつつ話を続ける。
「そんな頃、あたしのパソコンにメールが来たの。あたしをあの場所から救い出して、自由にしてくれる。一生、あたしを守ってくれるって。一年くらい、前の話かな。それからずっと、それこそ一日千秋の思いで、待ってたんだから」
リノリウムの床の上に下り立つと、振り返った慧一の顔を真っ直ぐに見つめる。
「そんな時よ。慧一があの部屋に、あたしを救い出しにきてくれたのは。だから、あたしは言ったの。『やっと』――」
肝心要の所で、ニケが言葉を切る。部屋の出入り口に目を移し、不思議そうな表情をしている。慧一は敵が来たのかと思って廊下へ銃口を構えなおすが、誰もくる気配はなかった。
――いや、気配がなさ過ぎる。
ここでようやく、慧一も異変に気付く。先程まで、絶え間ない爆音と銃声に包まれていた街が、急にスイッチを切られたかのように、しんと静まりかえっていたのだ。
不気味な静けさ。
これはいったい、どういうことなのだろうか?
慧一とニケは揃って顔を見合わせた。
そこへ、オミムネが割って入る。
「二人とも、朗報と呼ぶべきか、凶報と呼ぶべきか分からない情報が届いたよ」
慧一が眉をひそめて答える。
「この状況をさらに悪化させることのできる知らせがあるとは思えないけどな」
「そうかい? でも、せっかくだからいい話から先に伝えておこうかな」
「どうでもいいから、もったいぶってないで早く言いなさい! 口じゃ説明できないようなら、二、三個穴を増やしてあげるから」
苛立ったニケが、拳銃を手に取り、その先をオミムネに向ける。散々戦闘をこなした後で、本当に引き金を引きかねない勢いだ。オミムネはぶるっと体を振るわせると言った。
「もう、わかったよ。まず、ついさっき、連合軍側の全武官に、攻撃中止の命令が伝達された」
「え?」「うそ!」
二人が揃って、目を丸くする。この完全な勝ち戦で、しかも最後の最後、ツヴァイクの本部を制圧すれば全てが終わるというこの段階で、老人たちが攻撃を止める理由などどこにもない。慧一は半信半疑で聞き返す。
「情報源は、確かなのかよ。いや、そもそも、攻撃中止って、おれの聞き間違いか?」
「命令は日本国内から、ほとんど公に近い形で大々的に送られてきている。確実だよ。そしてこれは、キミの聞き間違いでも、なんでもないさ」
「やった……あたしたち、勝ったんだ……」
勝利を知ったニケが、徐々にその事実を受け入れ、ついには喜びを爆発させた。
「やった! 勝ったんだよ、慧一、オミムネ。あたしたちタクノが、老人たちご自慢の三大武装商社を、見事、叩き潰したんだよ!」
飛び上がって喜ぶニケを見つめながら、慧一はまだ呆然自失の体だった。
勝った……この状況で、本当にそんな事が言えるのだろうか。
「それで、オミムネ。攻撃中止の理由は分かってるのか?」
オミムネが、待ってましたとばかりに、ニヤリと、黒ネコの唇を吊り上げて見せる。
「もちろん。そしてこれは、キミらにとっての凶報かな。本日、日本時間十時十五分。タクノ社契約武官、河西涼香が日本国に反乱を起こしたのさ」
棚の上へと飛び上がったオミムネに明かりが遮られ、部屋の中に長い影が落ちた。
10.英雄が残したもの
日本へと飛行機で急遽帰国した慧一たちが真っ先に向かったのは、東京都、永田町。かつて、日本国の中枢を担っていた街だ。しかし、二十年前の国会襲撃事件を機に主要施設は青梅に移された。現在この街では文化遺産として歴史的な建物群が保存され、一部は資料保管場所として利用されている。中でも旧国会議事堂は、かつてテロリスト対策として要塞並みの防備を施されていた点をかわれ、国家機密に関わる重大なデータ、プログラムなどを収めたコンピューターが並ぶ、情報集約センターとしての機能を担っている。
「その国会議事堂が今日、巳の刻(九時〜十一時)、突如として現れい出た第一世代クラスター部隊により占拠された」
国会議事堂の目と鼻の先にある赤坂離宮外縁部に設けられた緊急対策本部で、慧一たちはノートパソコンの向こうから語る栄道楽に説明を受けていた。老人の意向を受けた政府は直ちに全武装商社に布令を出し、自体鎮圧のため、武官およびクラスターの供出を命じた。帰国間もない慧一たちも、即座にこの命令によって、ここへと呼び出されることになったのだ。
「涼香が……そんな、うそだろ?」
未だにショックが抜けきらない慧一に対し、オミムネが諭すように言う。
「狩谷、分かってたことだろ? いつかはこうなるって。今は迷ってるときじゃない。まずは、栄ガヴァナーの話を聞くべきだよ」
だが、慧一は虚しく笑うばかりだった。
「ハッ、こんなに訳が分からない状況で、昨日まで仲間だった奴と、どうして戦えるんだ?だいたい、さっきまでグルジャで戦ってたって言うのに、突然日本に呼び出されたと思ったら、涼香がクーデターを起こしてるって、どういうことなんだよ」
慧一が苛立ちに任せて暗い画面に向かって喚き散らす。だが、画面からは無機質な声が返って来るばかりだった。
「言葉どおりの意味だ。河西涼香は日本国に反旗を翻した。故に、我々は武装商社が特許状と引き換えに政府に対して負っている応召義務に従い、これから旧国会議事堂を取り返す。それだけの話であろう」
「そんな説明で、納得できるかよ!」
ノートパソコンの置かれた机を、力任せにどん、と叩く。
それだけの理由で、涼香と戦えだって?
慧一には到底、理解し難い、いや、理解したくもない話だった。
ニケも思いは同じようで、腹立たしげな声で抗議する。
「だいたい、あんたは、クルス決戦をほっぽり出して連絡ひとつ寄越さなかったくせに、今更あたしたちの前に顔出すなんて、いい度胸してるわね! あたしに、二、三回ダウンをとられる覚悟は出来てるんでしょうね」
ニケが両手のこぶしを突き合わせてすごむ。だが、荒れるニケに対し、栄道楽はどこまでも冷静だった。
「あの戦いについて、吾(あ)は汝らに全権を任せていたのだ。吾には他にも為さねばならぬ仕事があった。許すがよい」
「なによ、それくらいで言い逃れ――」
「今は時間がない故、そのことについては後に語ろうぞ」
「ニケ、これ以上言っても無駄だよ」
今にもモニターを叩き壊しそうなニケを、横からなだめる。
暗い画面の向こうから、はっきりと、『これ以上は何も言うつもりはない』という意志が伝わってくる。聞きたいことは山ほどあったが、これでは引き下がる他なかった。
ニケは怒り収まらぬ様子だったが、近くにいたオミムネを蹴り飛ばして鬱憤を発散して、それ以上の追及は諦めた。
「な、なんでボクが蹴られるんだよ〜」
オミムネが悲鳴を上げるが、
「ただの八つ当たりよ」
返事は身も蓋もない。
栄はこれで問題は解決したとばかりに、話を進める。
「彼らは犯行声明を出している。まずはそれを見るのが上策であろう」
sound only と出ていたモニターの表示が消え、テレビで見慣れた国会の議場が映し出される。だが、議場のところどころには銃痕がはっきりと残り、割れた照明や飛び散った木の破片などが、まざまざとここで戦闘があったことを伝えていた。
そして画面中央、議長が普段ならば座っているであろう場所に、二人の男を従えて涼香が立っていた。
それを見て、ニケが声を上げる。
「あ、この二人、タクノ社の初めての会合の時にいたさえないおじさんじゃん!」
ニケの言う通り、彼らはタクノ社の初期メンバーで、やたらと筋肉質だった二人だった。今は黒い陸上自衛隊の制服を着ている。
「日本国民の皆様、こんにちは」
涼香が、ゆっくりと口を開く。服装はいつも通り、黒一色でノースリーブのワンピースだが、左右に八九式(自衛隊で用いられている歩兵銃)を持った男を従えていると、浮世離れした服装は、逆に言葉に重みを与える。
「今日、午前十時三十三分をもって、ここ旧国会議事堂と、その付属施設は、わたしたち陸上自衛隊・東部方面軍、特殊第五小隊が制圧しました。わたしは、指揮官の蕪木(かぶらぎ)涼香です」
慧一は、耳を疑った。
蕪木、涼香?
また、特殊第五小隊といえば、かつて蕪木一尉指揮の下、国会奪還作戦を行った高名な部隊だ。
画面の向こうの涼香は、慧一の困惑など知る由もなく、淡々と語り続ける。
「わたしたちの下には現在、九十七名の国会議員とその同伴者、並びに若干の議事堂職員が捕らえられています。しかし、わたしたちは何も要求するつもりはありません」
ここで涼香の目が、ぐっと厳しいものになる。
「願いはすべて、わたしたち自身の手で遂げる。誰にも邪魔はさせない。わたしたちを裏切り、見捨てた日本国を、わたしたちは許さない。かつて、この国の政府はわたしの父、蕪木誠を英雄と祀り上げながら、父が開発したクラスターの技術を賄賂に目がくらんで民間に売り渡し、反対した父の部下たちを、時代遅れの用済みとして閑職に追いやった挙句、解雇した。あまつさえ、父が職を失った仲間を集めて始めた武装商社すら、その技術欲しさに潰した」
涼香は高らかに弾劾する。その声には力がこもり、目の奥では激しい紅蓮の炎が燃え盛っている。
「わたしたちは、許さない。国家に全てを捧げた人間を、ゴミの様に投げ捨てた、この国の政府を。それを容認した、自衛隊を。そして父によって与えられた平和を貪ることしかせず、事態を看過した、国民を。わたしたちは、許さない。まずこの怨嗟の対価、わたしたちの手の中にある九十七名の国会議員の命で払ってもらいます。二十四時間以内に彼らは自らの罪の重さを知るでしょう。ですが、あえて申し上げましょう。――これは、復讐の始まりに過ぎない」
映像が途切れ、画面がやみに包まれる。程なくして、再びsound only の文字が浮き上がる。
だが、慧一は事態がまるで飲み込めず、呆然自失していた。
涼香の父親が、蕪木誠? それはつまり、あのカサおじさんが、おれがずっとあこがれ続けてきた、伝説の英雄だってことなのか?
心を病み、路上で政治談議を大声で叫ぶ老人。彼と光り輝く救国の英雄とでは、あまりに違いがあり過ぎる。
「ちょっと、涼香、違うでしょ! せっかくこんな大チャンスで、どーして要求を出さないのよ! あたしのタクノ社のために、やれることがあるでしょ! それに、自分の名前間違えてるじゃない!」
ニケのピントの外れた自己中心的な叫びで、慧一もようやく我に帰った。
そうだ、今はとにかく頭を整理して、状況を把握していかないと。
手始めに、混乱しているニケを落ち着かせる。
「ニケ、涼香は間違えたわけじゃないよ。むしろこれまで、偽名を使ってたんだ。その有名過ぎる名字から、出自がばれない様にね」
「へ? 蕪木……だれだっけ?」
「かつて、テロリストたちのリーダーだった久(く)良(ら)徒(ど)栄(えい)蛻(ぜい)の手から国会議事堂を奪い返した英雄だよ」
「ああ、あの人ね。じゃあ、今度は逆にその娘が、国会を占拠しちゃったってこと?」
「そう……歴史の皮肉だな」
英雄の娘から、テロリストへ。涼香の憎しみは、日本人の誰もが羨む光を闇へと変えてしまうほど、深いものなのだろう。
「涼香は、本気で国を滅ぼす気なのか? 人質の国会議員を無条件で殺すと宣言すれば、すぐにでも機動隊や武装商社による制圧を受けることになるのに」
慧一の自問に対し、モニターから返事が来る。
「事実、政府もすでに、汝らが来る前に弱小武装商社のK―2部隊と機動隊に、突入を命じておる。我々にはまだ待機指示しか出てはいないが、現在も、戦闘は続行中だ」
散発的に聞こえてくる銃声は、そのせいか。やはり、涼香はどこまでも本気の様だ。
「だいたい、どうして使われてもいない旧議事堂に、百人も議員がいたんだ?」
「何者かが党役員の名を語り、旧議事堂へ来るようにとのメールをばらまいていたそうだ。詳細は不明はであるが、議員たちのパソコンがハッキングを受けていたという話もある」
ハッキング……。
思わず、慧一の視線がオミムネに向かう。
「ぬ、濡れ衣だよ。ボクは今回のハッキングになんて関わってないって。だいたい、クルス決戦のサポートをしながらクーデターの手伝いまで出来るほど、万能じゃないよ」
「それもそうか……。いや、それよりも、涼香はどうしてこのタイミングで、こんな真似をしたんだよ!」
「さてな、それは吾に対して言うべき言葉ではなかろう」
栄道楽の、言う通りだった。答えを知りたければ、涼香に直接聞くべきだろう。だが、内心では慧一も分かっている。涼香は、慧一たちを囮に使ったのだ。
クルス決戦のために主要な武装商社のクラスターは出払い、涼香たちの蜂起を止められる戦力が国内にいなくなった、その時を狙ったのだ。クルス決戦で自分がいなくなれば、ただでさえ厳しい戦況が絶望的なものになると分かっていながら――
「なんでだよ――」
にぎりしめた拳を、机の上に叩きつける。
この三カ月、涼香と過ごした時間が、会話が思い出される。
いつか、涼香が国家に対し、戦いを挑むだろうとは知っていた。涼香が国を激しく恨んでいたことも。だが、涼香は慧一と共に、この国の不条理を正そうと誓ったのではなかったのか。なのに――
「おれたちは、結局、捨て石なのかよ。自分の復讐を、自分の手で叶えるための、道具だったのか……。おれは、信じてたのに」
それが一番、悔しくて、悲しい。
慧一の拳が、ぶるぶると震え、目頭が熱くなる。
「何言ってんのよ」
暗く沈む慧一の耳に、まるで朝の日差しが差し込むように、明るい声が響く。
「涼香は、あたしたちを助けてくれたのよ。バカね。そんな事も分からないの?」
慧一は目線だけ上げてニケをねめつける。今は、どんな暖かな日差しでも、浴びたい気分ではなかった。
「どこをどうしたら、そんな結論になるんだよ」
ニケは肩をすくめると、物の分からない子供に語るような調子で話しだす。
「やれやれ。分からないんなら、教えてあげるわ。いい? クルス決戦には、現地死守の契約をしていたにもかかわらず、タクノ社の幹部連中はほとんど尻尾を巻いて逃げ出した。そこのガヴァナーも含めてね」
ちらり、とニケがモニターに向けて流し目を送る。
「あんな状況じゃ、あんたがどれだけ上等な策を練ったところで、勝ち目はほとんどなかった。例え、涼香が来てたとしてもね。でも、結果はどうなったかしら? 涼香が日本でクーデター騒ぎを起こしてくれたおかげで、三強のK―2部隊はすぐさま本国に取って返さなきゃならなくなって、あたしたちは首の皮一枚でギリギリ助かったじゃない。涼香が、あたしたちを助けてくれたのよ」
目から鱗が落ちるとは、まさにこのことだった。
確かに、そうだった。そう、考えられなくもない。
慧一は暫し、呆然としてニケの顔を見上げてから言った。
「だけど、そうなると、そもそもニケがクルス決戦なんて無茶な条件引き受けなきゃ、こんな事態にはならなかったってことだよな」
「う……それは、まあ、結果オーライってやつよ」
目を逸らすニケを見て、慧一はついつい吹きだしてしまう。
「何が結果オーライだよ、調子いいことばっかりいいやがって」
「いいのよ! これぐらい。未来を信じるのと同じぐらい、あたしは涼香を信じてるんだから!」
ニケはいつでも、直球ど真ん中だ。慧一には考えるのも恥ずかしい言葉を、平然と口にする。だがその力強さこそが、周囲を動かしていく原動力なのだろう。
お陰で慧一も、自身が進むべき道を見出すことが出来た。
――いくつも守ろうなんて、考えちゃダメ。たった一つを、全力で守りなさい――
――あなたは死なない――
最後に会った時の、涼香の言葉が蘇る。
そうだ。あいつはあの時から、こうするつもりでいたんだ。自分のことはいいから、ニケを守ってやれと、そう言っていたんだ。
きっと涼香は最後の最後で、慧一やニケをこの五人組による陰謀の渦中から遠ざけようとしたのだろう。
でも涼香、あんた分かっていないよ。おれにとって、涼香だって、守りたい相手の一人なんだから。
慧一は、覚悟を決めた。
「なら、次はおれたちの番だな。おれたちが、涼香を止めてやらないと」
「止めるの? 手伝うんじゃなくて?」
心の底から意外そうな顔をするニケに、慧一は苦笑する。ニケならば、信頼した相手のために、平気で国家だろうが世界だろうが、なんだって敵に回してしまうのだろう。
「止めるんだよ。こんなやり方、間違ってる。旧議事堂を占拠したって、国会議員を皆殺しにしたところで、この国は変わらないし、変えられない」
子供たちを残虐な殺戮マシーンへと変え、さらに死の危険にすら晒すクラスターシステム。本来ならば人と変わらない存在でありながら、『生体ユニット』として使い捨てられるK―2たち。第三世代クラスター。
そして、それら全ての不条理の上で胡坐をかきながら、さらなる力を求め続ける老人たち。
間違いは、正されなければならない。しかし、それは決してこんな形ではない。
「涼香の憎しみや苦しみがどれ程の物なのか、本当のところおれたちには分からない。だけど、その憎しみが大き過ぎて自分で止められなくなったって言うのなら、おれたちが、止めてやるべきだ」
ニケは、もちろん、とばかりに腕まくりをする。
「そうね。涼香を一発殴り飛ばして、正気に戻してあげるのが、親友たる務めってやつでしょ!」
ニケと慧一が、笑って深く頷き合う。そこへ、オミムネが声をかける。
「二人とも意見が一致したところで、朗報だよ。制圧部隊の第二陣による攻勢が終わったみたい。次はきっと、ぼく等にお呼びがかかるから、準備しておいた方がいいよ」
急な話に、慧一は目をしばたかせる。
「第二陣って、戦況はどうなってるんだ?」
「第一陣の機動隊と寄せ集めのK―2部隊は、門一つ突破できずに壊滅的な打撃を受けて撤退したよ。第二陣――つまり、クルス決戦に参加していた武装商社三強の精鋭武官が率いる部隊は、ついさっき、内部に誘い込まれた上に包囲されて、全滅したよ」
「なっ――」
慧一は愕然とした。二十人以上のS級武官を擁し、クルス決戦でも圧倒的な武力を見せつけた彼らが、全滅――慧一には、信じがたい事実だった。
慧一の表情を見てとって、オミムネは付け加える。
「クラスターの大半はグルジャから戻せていないから、戦闘に参加したK―2の数は三千弱だよ。それでも、武装商社の沽券にかかわる事態だから、武官は最強の布陣で臨んだだろうけどね」
さすがのニケも驚いた様子で尋ねる。
「で、でも、旧議事堂に立て籠もってるのは百前後のクラスターって聞いたわよ。S級の武官なんて、涼香しかいないのにどうやって戦ったのよ」
「クラスターはクラスターでも、第一世代って言ったろう? 銃声の聞き過ぎで、耳がおかしくなったのかい?」
「ええ! 第一世代クラスター? ……って、なに?」
慧一が額を押さえながら解説する。
「第二世代が戦闘に生体ユニットを用いるのに対して、無人戦闘兵器を用いてたのが、第一世代クラスターだよ。そんな骨董品、涼香はどこから持ち出したんだ?」
「市ヶ谷駐屯地の地下に、極秘裏に保管されてたらしいね。きっと武装商社の登場でK―2を使うことが出来なくなった自衛隊にとっての、切り札の様な意味合いだったんじゃないかな」
「その切り札が、よりにもよってテロリストの手に落ちたのか。……こいつはやっかい過ぎるぞ」
唸る慧一に対し、説明を聞いてもなおニケは納得できない顔をしていた。
「どうして? 一世代前のポンコツなんでしょ? そんなの、あたしと慧一で軽くスクラップにしてやるわよ!」
「『古い』ことが、『弱い』ことに直結するならな。話からすると、涼香たちが使ってるのは第一世代最後のクラスター、八式重型。通称、『火天』。生産コストの高さとキラーズ・アイと呼ばれる高性能地雷の普及によって前線から消えたが、その純粋な戦闘能力は、さながら市街地を自在に走り回る軽戦車のようだったと聞いているよ」
「その通り。しかも、彼らは基地に置かれていた武器庫を事前に襲い、重武装している。加えて、テロリストの中には自衛隊出身者が多く混じっているようでさ、議事堂の防御システムが完全に連中に乗っ取られちゃってるんだよねー」
「だよねって、本気かよ!」
さすがに、慧一の顔が青くなる。ニケは話についていけず、頭の上にはてなマークを浮かべるばかりだ。
「それって、そんなにまずいことなの?」
「まずいとかいうレベルの話じゃない。あそこの防御システムは元々、蕪木一尉が国内のゲリラたちを一掃する以前の暗黒時代に、不満分子による様々な襲撃を想定して造られた代物なんだぞ。自動制御の機関銃座はもちろん、砲台から高射砲まで取りそろえてる、鉄壁の要塞だ。K―2なんて、近付くまでもなく全身打ち抜かれて襤褸切れみたいにされるのがおちだ」
「げげ。何それ。そんなの、武装商社がどうにかできる話じゃないじゃない」
「だから、そういってるんだろ! あそこを落としたいなら、超高度からの空爆か、自走砲による長距離砲撃でもなけりゃ無理だ」
髪をかきむしる慧一に、興味深げにオミムネが言う。
「さすが、伝説の蕪木一尉の動画を良く見てるだけあって、詳しいね。だけど、あの場所を知り尽くした、キミになら、いや、キミだけが、旧議事堂を涼香たちの手から取り戻すことが出来るんじゃないかな。ちなみに、いくらなんでも国会議員たちもろとも空爆や砲撃で皆殺しにすることは出来ないし、老人たちも、メンツがかかってるから、自衛隊に手出しさせる気はさらさらないよ」
「だけど、おれ以外にだって、あんな有名なビデオ、見てる奴はいくらでもいるだろ!」
「そうだね。でも、議事堂の間取りを熟知していて、かつ涼香の戦術を知り尽くしている、S級クラスの武官は、キミしかいない。キミだけが唯一、議事堂の防備を突破できる可能性を持っているんだよ」
栄道楽がさらに横から付け加える。
「老人たちにはそのことは伝えてある。第二波攻撃にも失敗した今、国内に残されたK―2は限られている。うつ手を失った老人たちは匙を投げ、汝に賽は回って来るであろう」
突然突きつけられた戦況に、慧一はみじろぎする。
「だけど、そんな状況からじゃ……」
「おそらく、キミで無理ならば、老人たちは遅かれ早かれ、空自に作戦指揮権をゆだねるしかなくなるだろうね。そうなれば、涼香は助からないよ」
ニケも、オミムネの言葉を後押しする。
「慧一、あなたならできる。大丈夫よ! この勝利の女神たる、ニケ様がついてるんだから!」
慧一は、ぐっと言葉に詰まり、考え込む。そこへ、栄道楽が告げる。
「いま、評議会から連絡が入った。残されたK―2百二十体の全指揮権を、望むのならば吾が社に授けるそうだ」
全員の視線が、慧一に集まる。慧一は大きく息を吸うと、覚悟を決めた。
「――やろう。いや、やらせて下さい。おれたちで、涼香を止めて見せる」
ここに、後に第二次国会戦争として歴史に刻まれる戦いが始まった。
「で、本当にこれ、大丈夫なんでしょうね?」
国会議事堂をとりまく防護柵。その中でもとりわけ細い路地に面した部分に、K―2もつれずに二人でやって来た慧一に、ニケは不信の目を向けた。だが、慧一は余裕の表情で三メートル近い有刺鉄線付きの柵を見上げる。
「二十年前、久良徒栄蛻がどうやって防御システムを破るパスもなく国会議事堂を占拠しえたのかは、説明しただろ?」
「え、ええ。でも、最後にもう一度、確認しておこうかなって思って」
「怖いなら、後から別行動してもらっても構わないよ」
肩にしょっていたリュックから鍵付き縄を取り出し、柵の上に放り投げる。
「こ、このニケ様が、こ、怖いわけ、ないでしょ。一度、確認してみただけよ」
見るからに表情が強張っているが、それでも慧一に倣ってリュックからロープを取り出すと、柵の上へ投げる。隣では、慧一が何度か縄を引っ張り、鍵先がしっかりと固定されたのを確認すると、おもむろに柵を登り始める。
ニケが慌ててその背中に尋ねた。
「ねえ、この市街地と国会議事堂とを区切る柵を乗り越えたら、自動制御されてる砲台に狙われることになるのよね」
柵を登りながら、慧一は事もなげに答える。
「ああ。門以外の場所から入れば、狙撃の対象だよ。法律上でも、この柵を無断で乗り越えれば射殺しても構わない、とされている」
慧一の説明に、ニケは数秒躊躇う様に手を止めていたが、不安を振り払う様に大きく頭をふると、一気に柵を登りだす。
「ええい! こうなったら、自棄(やけ)よ! いいわ、矢でも鉄砲でも、来るなら来い!」
勇ましい声と共に、慧一を追い越して、皮手袋で鉄条網をより分け、柵を乗り越える。
慧一は小さく笑むと、急いでニケの後に続いた。ちらりと手の平を見れば、汗でぐっしょりと濡れている。ニケに心配させまいと余裕を装って見せたものの、慧一も怖くて仕方がなかった。何しろ、機関銃の弾が一発当たっただけでも、人間の体など容易に腰から上が全て吹き飛ぶのだ。バラバラになった自分の死にざまなど、想像しただけでも怖気が走る。
二人はほぼ同時に柵から飛び降り、国会議事堂の敷地内に下り立った。
「止まれ! お前たち、何をしに来た!」
音割れした、耳障りな器械音声。
幸いなことに、慧一たちを迎え入れたのは大口径の銃弾ではなく、黒いフレームに流線型の赤いラインが入った、大男ほどの大きさの兵器だった。第一世代クラスター、『火天』だ。
ニケと慧一は、目線だけで頷き合う。
まず、第一関門は突破した。かつて、久良徒栄蛻は議事堂周辺施設の間取りに注目し、敷地内にごくわずかだが、どの自動制御砲台の射撃範囲にも含まれていない場所があることを発見したのだ。もちろんこれは後に政府の大失態として糾弾されるはずだったが、ネット上で行われたこの指摘を、政府は完全否定。事実そのものを隠蔽し、久良徒栄蛻たちの侵入は内部からの手引きによるものと決め付けた。
その結果、今でもほんのわずかに自動砲台には死角が残されているのだ。
「でもこの状況って、あたしたちに向けられる銃口の口径が心持ち、小さくなっただけよね」
ニケがぼそりと呟く。実際、その通りで、慧一たちは未だに、遠くの物陰からこちらに銃口を向けている機体まであわせて、二十体もの『火天』に囲まれていた。対応を僅かでも間違えれば、すぐにハチの巣にされるだろう。状況は何一つ好転はしていない。
だが、と慧一は思う。
これで少なくとも、三つまで、賭けには勝ったことになる。
二階部分まで吹き抜けになった、広々とした木目張りの部屋。そこはかつて、衆議院本会議場と呼ばれ、国家の中枢を担っていた場所だ。しかし、ここを訪れたものが、そう感じることはまずない。放射線状に並んでいた議席は多くが取り払われ、代わって現在は政府が保有する膨大な記録を保存した巨大なコンピューターが壁際に何台も置かれ、高級感あふれる議場の内装とちぐはぐな情景を造り出している。ここはもう、ただ過去が淀み、堪る場所でしかないのだ。だが今、そこに新たな住人が現れ、この国を動かそうとしていた。
「土倉、資料の抽出はまだなの?」
刺々しい涼香の問いに、タクノ社の武官でもあった男、土倉が答える。
「今暫く、お待ち下さい。パスワードの内の一部は、蕪木一尉が自衛隊に所属しておられた頃とはかえられており、解析には時間がかかるのです」
「そう。でも、急いで。日本国内にいたK―2はあらかた始末したけど、時間がたてば海外に散っていたK―2が集まって来る。そうなる前に、全てを終わらせるのよ」
「了解です。お嬢」
土倉は歯切れのいい返事を返すと、僅かに残されていた議席の上に置かれたノートパソコンの前に座りこみ、次々とデータを打ち込み始める。比較的高齢な人間ばかりの中で、土倉は数少ない情報処理技能に精通したメンバーだ。
涼香は土倉から目線を外すと、手元の時計を確認した。
十五時半――外では日は傾き、夕暮れが迫っている頃だ。
慧一たちが無事であれば、今頃唖然として家でニュースを見ているのか、それとも政府からの招集を受けて赤坂離宮の陣地にいるのだろうか。
「心配ごとですか、お嬢」
もう一人のタクノ社創設時のメンバー、久留槌が声をかけてくる。彼は火天の部隊を補助する、文官の役回りを担っている。
「この国の首都のど真ん中で、国家の象徴の一つである議事堂を乗っ取っているのだから、心配の種なんて尽きるわけないでしょ」
「いえ、自分はてっきり、タクノ社のお友達方を心配しているのかと」
「下らないことを言ってないで、現状の報告を、怠らないで」
いつものポーカーフェイス、冷たい少女を装って命令を下すが、彼らには通じなかったようだ。「はい、ただいま」などと言いながらも、二人とも口元が緩んでいる。
土倉も久留槌も、涼香の父の部下だ。涼香のことも涼香が小さかった頃から知っており、昔からお嬢、お嬢と呼んで可愛がってくれた。そんな彼ら相手では、涼香もいくら外面を装ったところで無駄だったようだ。
涼香はその端正な眉をひそめながら、野外に設置された監視カメラのモニターに目を落とす。
やはり、心配でならなかった。
ニケや慧一は、無事だろうか?
グルジャへの攻撃は途中で差し止めとなり、占領地も放棄して撤退したとの報道が流れていた。だが、だからといって、二人が生きているという保証にはならない。
「どうか、無事で」
涼香が小声でささやいた時、久留槌から報告が上がる。
「北西部の自動砲台死角付近で敵K―2に動きがあった模様です。しかし、距離はあるので、気にするほどの事でもないでしょう。……おや?」
「どうした、久留槌」
「あ、その、現場から、発砲条件に関する質問が上がっております。どうやら、K―2でもない生身の人が、大した武装もなく敷地内に侵入してきた模様です。場所はちょうど砲台死角部だったため、即座に撃たれることはなかったそうですが、若い男女の様で、現場は殺害するのにも忍びないと思っているようです」
若い、男女?
涼香はドキリとした。
まさか――
だが、次の瞬間、立て続けに起こった爆発音によって、涼香の思考も吹き飛ばされる。
「何が起こってるの!」
議事堂全体を揺るがすかのような爆発音が連続して起こり、照明が激しく震える。
「わ、分かりません。現場も混乱していて、情報が――」
「爆発のあった場所は、先程、不審人物二名が侵入していた箇所です」
久留槌の言葉を遮り、土倉が答える。涼香は土倉の言葉に、目を見開いたが、即座に正確な判断を下す。
「そこから、すぐに火天を下げなさい。それから、遊撃部隊に出撃準備を。わたしが直接操作する」
涼香は、首に付けていた携帯型クラスター操作機を作動させる。
さらに細かい指示を加えていると、土倉がようやく火天の状況を報告しだす。
「砲台の死角を重点的に守備させていた部隊に、多数の損害が出た模様。えー、全壊十八です。駈けつけた周辺の部隊が、至急応援を要請しています」
全壊十八。つまり、死角部の防衛にあたっていた部隊が全滅したということだ。
上辺だけでも冷静を保とうとしても、混乱を隠しきれない。
何故? どうやったら、目ぼしい武器もなく、たったの二人で火天を相手にそんな事が出来ると言うの?
唇を噛みしめながらも、クラスターシステムを展開。一気に意識を広める。火天十五体。戦力としては申し分ないが、侵入者がどんな手を使って火天を破壊したのか分からない限り、心もとない。
――この奇抜なやり口。やはり、侵入者は慧一とニケだろうか?
二人のことが頭をよぎるが、すぐに思考から追い出す。
これは、戦争なんだ。相手が誰であれ、引き金を絞るのを躊躇ってはいけない。
涼香の不安と決意をよそに、慧一とニケは防御柵からすぐ近くの日枝(ひえ)神社へと駈け込んでいくところだった。
「とり、あえず、上手くいったわね」
境内へと続く林の中、道なき道を行きながら、涼香が息を弾ませながら言う。慧一も、走る速度を緩めず、木の根に足を取られないようにしながら答える。
「ああ。だが、すぐにここにも敵の応援が来るはずだ。早く次の手を打たないと」
慧一たちの後ろからは、防御柵突破後に呼び入れたK―2が続く。その数三十。出来る限りの重武装をさせてはいるが、まともに火天とやりあえばひとたまりもない。
きつい上り坂が終わって視界が開ける。大きな山門と広々とした境内が目に入る。
国会議事堂の防備が大幅に強化され、敷地が広げられた際に、この日枝神社だけは、その歴史的な重要性が考慮され、防御塔によって厳重に守られた敷地内に存続を許されたのだ。ここならば、基本的には駆動輪を用いて移動する火天は境内を取り囲む林と石段に阻まれ、十分な機動力を発揮することは出来ない。
「よし、計画通り、ここを拠点に議事堂を制圧する」
周辺の守備へと、K―2を散会させる。
だが、林を出て山門前の砂地へと下り立ったK―2の体に、次々と血の花が咲く。
「な、なに?」
慧一の横で、ニケが目を白黒させる。
山門の裏手から、黒い影が飛び出してくる――火天だ。
「伏せろ!」
叫びながらニケの肩をつかみ、転がり込むようにして坂の腐葉土の上へと二人でもつれながら倒れ込む。
直後、機関銃の掃射音が続き、反応が遅れたニケの操作するK―2が血祭りにあげられる。さらに敵の火天は執拗に掃射を続け、慧一たちの頭上を無数の弾丸が飛び交う。
太い木の枝が折れ、木の葉が舞いあがり、さらにその子の葉が銃弾でズタズタにされていく。慧一たちは頭を上げることもできず、ただただ落ち葉の上で銃撃がやむのを待つしかなかった。
「こんなにすぐ対応されるなんて、完全に予想外じゃない! 慧一、早く何とかしなさいよ」
銃声に負けじと、ニケが声を張り上げる。慧一は銃声に身をすくませながら答えた。
「準備させてるところだよ。それより問題なのは――来た!」
火天が二台、サイドから回りこむようにして坂の中へと飛び込んでくる。一トン以上ある自身の体重で滑りおりながら、体を横に向けて機関銃を撃ちこんでくる。狙いは正確で、伏せていたK―2たちが片っ端から撃ち抜かれる。
慧一はかろうじて木の裏に隠れたが、ニケは相手の強引な手法に逆上し、あろうことか死んだK―2の手からショットガンを奪い、火天に向かって突撃する。
「こん、のぉ〜」
「自殺行為だ! よせ!」
慧一も木の陰から飛び出して止めようとするが、ニケは振り向くことなく火天に向かって突撃していく。火天の両手部分に固定された機関銃が、素早くニケへ向けられる。
「やめろー!」
慧一の必死の制止をよそに、ニケは火天の銃が火を噴くとほぼ同時に横へ飛びのき、木の蔭へ。絶対の殺意を秘めた凶悪な弾丸はすんでのところで虚しく空を切る。ニケはさらにそこから横へ移動して、背の高い雑草が生い茂る中へと転がり込んだ。まさに肉食獣の様な素早い動きだった。
火天の銃火がその後を追うが、追いつかれるより先に、ニケは藪から飛び出て、火天から十メートルほどの位置に達していた。非力なショットガンでも、火天の装甲を撃ち破れる距離だ。
ニケの牙が、火天に届いた。機関銃の銃声を切り裂くようにショットガンの咆哮が鳴り響き、二台の火天は轟音と共に炎に包まれる。
「このあたしにかかれば、ざっとこんなもんよ!」
ニケが、ショットガンを肩に乗せて勝ち誇る。
クラスターも用いず、あっさりと火天を破壊してしまうなど、信じ難い戦闘スキルだ。これもまた、ニケが第三世代クラスターであることに由来するのかもしれない。
だが――
「気を抜くな!」
慧一が叫ぶと同時に、さらに二台、火天が坂の上に姿を現す。不意を突かれたニケは、完全に敵の前に無防備な姿をさらしてしまっている。
「やっば――」
ニケの体が固まる。このタイミングでは、どうあがいても新手二台の火線を避けられない。
だが、ニケが死を覚悟した刹那、火天のボディに、拳大の穴が穿たれる。
「へ?」
呆然とするニケの目の前で、二台の火天は黒炎をまき散らしながら爆散していった。
「どうにか、間に合ったな」
安堵のため息をもらしながら、慧一が立ちあがる。
「は、は、ナ、ナイス。慧一」
さすがのニケも、ひきつった笑みを漏らす。
「あんまり無茶はするなよ。その体に、代わりないんだからな」
心の中で、例えニケがクラスターだったとしても、と付け加える。
そこへ、山門の側から聞き慣れた声が届く。
「さすがね、慧一。議事堂の敷地外縁に伏せたK―2による、対物ライフルを用いた長距離射撃。しかも、照準は全てあなたの視覚に同期させ、障害物も気にせず正確に火天の装甲が薄い部分を撃ち抜くことが出来る」
「これって、涼香の声?」
ニケが、慎重に坂の上を見上げる。
「ああ。火天を通して、喋っているんだろう」
入口付近にいた火天と比べて、先程襲撃してきた火天ははるかに動きが良かった。操作者は涼香はないか、と慧一も考えていたところだった。
涼香の声が、神社の林に響く。
「ここに来るまで、どうやってあなたが二十体近い火天を瞬時に破壊出来たのか、謎だった。でも、今のを見て、良く分かったわ。防御柵突破の作戦はこうでしょ? まず、元自衛隊員であるわたしの部下が撃つのをためらう様に、あなたとニケだけで敷地内の、砲台の死角へと侵入する」
慧一は小声で、そうさ、とだけ呟く。
この作戦は、涼香が自衛隊の駐屯地を襲撃する時にとったものを元にしている。皮肉なことに、その特質は涼香が指揮した旧自衛隊の部隊にも通じたというわけだ。
「そして、彼らが発砲を躊躇している間に、防御柵の向こうに潜ませておいたK―2たちに火天を対物ライフルで狙わせ、一斉に狙撃した。通常のライフルと比べて口径がはるかに大く、反動も強烈な対物ライフルは、戦場の持ち運びには適さない。でも、極端に威力が高く、長距離を真っ直ぐ弾が飛んでいくから、千メートル以上離れていても、火天に対して十分に致命傷を与えられる。武器の威力や機能が制限されたクラスターの模擬戦ばかりやっていたわたしには、到底思いつかない戦略ね」
見事に、正解だった。あえて付け加えるならば、堅実な戦略を好む涼香が、砲台の死角に多くの火天を配備しており、効率的に火天の数を減らせるだろうという読みもあった。また、全体の指揮に忙しい涼香は、直接戦闘には参加していないだろうとも考えていた。
「さて、種がわれてしまえば、どうってことない話ね。対策はどうとでも出来る。諦めて、投降してもらえないかしら。わたしは、あなたたちを撃ちたくない。でも、復讐のために必要なら、躊躇わない」
最後は、氷でできたナイフの様な声音だった。慧一の額に、冷や汗が流れる。
涼香は、本気だ。これは、殺し合い。戦争なのだ。
だが、ニケは涼香の言葉に対し、慧一とは異なる感慨をもったらしい。あろうことか、真っ直ぐに坂の上へ向けて駈け出したのだ。
「ニケ、行くな!」
慌てて慧一がニケの後に追いすがる。だが、ニケの体は若い雌鹿の様に俊敏で、まるで追いつけない。それでも、無我夢中でニケに向かって手を伸ばす。
だが、唐突にニケが止まり、慧一は勢い余ってニケにぶつかってしまう。
その時になって初めて、慧一は勢い余って自分まで林を抜け、坂の上に出て来てしまっていたことに気付く。
すぐ目の前には、火天の機関銃が鈍い光を放っていた。
「良い判断ね。でも、投降するのなら、その手に持ってる物騒なものを捨ててくれる?」
火天越しに涼香が指摘した通り、ニケの手にはショットガンが握られたままだった。
「投降なんて、しないよ。あたしは絶対に負けないんだから!」
この状況で、火天にびしりと指を突きつけ言い放つニケは、きっと頭がどうかしているのだろう。
「そう。なら、あなたは死ぬだけよ」
涼香が引き金を引こうとする気配を感じ、咄嗟に慧一はニケの腕を引いていた。
ニケがいた空間を、銃弾が容赦なく引き裂く。間一髪、危機を逃れたニケは、目を白黒しながら慧一の後ろで尻もちをつく。
「……ニケのために、命を捨てる気?」
火天の矛先が、ニケを庇う様にして立つ慧一に向けられる。
涼香は、本気だ。
慧一は心臓が凍りつく思いだったが、それでも懸命にこらえ、真っ直ぐに涼香の操る火天を見返した。
「囮にK―2じゃなくて自分を使おうと決めた時から、覚悟は出来てる」
クラスターをもう、使い捨てのコマと見なせなくなった慧一が下した結論は、ならば自分自身を囮にすればいい、というものだった。そして、テロリストに占拠された議事堂に向かう慧一を、ニケは決して一人で行かせようとはしなかった。
だから、せめてニケだけは守って見せる。
それが、狩谷慧一の意地だった。
「だから、ニケだけを守っていなさいと言ったのに」
火天から、憂いを帯びた声が響く。
「ああ。そうかもな。家に閉じこもって、国会占拠のニュースなんて見ずに、目をつむって、耳を塞いでれば良かったのかもな。でもおれは、もう現実から逃げ回るのはやめたんだよ」
「へらへら笑ってばかりだった慧一にしては、信じ難い言葉ね」
「ああ。自分でも驚いてるよ。そして、何もかも、ニケや、涼香に出会えたおか――っげ!」
「隙あり!」
いきなりニケが慧一を突き飛ばし、背後から飛び出す。同時にいくつもの発煙弾が投擲され、火天の周囲で炸裂。火天の視界を奪う。
「くっ!」
火天が煙からの回避行動を取りながら闇雲に機関銃を乱射するが、姿勢を極端に低くとり、矢のように火天の下へと走り抜けていくニケには当たらない。
「涼香、あんたは、あたしが止めてあげる!」
火天の駆動音と銃声を頼りに、ニケが火天の下へと迫る。
だが、涼香の動きはニケの上を行っていた。
ニケが銃を構えるより先に、ニケの方へ向かって突っ込んできたのだ。煙幕の向こうから突然現れた火天に、ニケは慌てて銃を向けようとする。
それより先に、神速の速さで襲いかかった火天が機関銃を振り上げる。
機関銃が、傾いた太陽の日差しに輝く。
勝負はついた。
ニケは火天の振り下ろした機関銃に殴打され、気を失って砂地の上に倒れ込んだ。
だが、すぐにその火天を銃撃が襲う。
ニケの動きを見てとった慧一が、喋っている間に密かに山門を包囲させていたK―2を突撃させたのだ。
さらに、ニケが倒れたのを見て、慧一自身もショットガン片手に突っ込む。
「ニケ!」
最早、なりふり構っている場合ではなかった。
火天は状況不利と見て、ニケを置いて山門の裏へと引いていく。動きが速過ぎて、対物ライフルでの狙撃は間に合わない。慧一はK―2に山門に続く土壁へ手榴弾を投げさせると、他のK―2と共に気絶したニケを回収、素早く坂の方へと逃げる。
抱え上げたニケは意識を失っており、額が切れ、流れ出た血が短い髪と服を赤く染めていた。
――こんな目に合わせて、ごめん。
慧一は自身の無力さに歯噛みしながら、林の奥、木の裏へと駆けこんだ。
追撃するように、山門から次々と火天が現れる。左右に素早く往復運動を繰り返して狙撃をかわしながら、慧一たちへと迫って来る。
「これで終わりよ」
涼香の声が林に響く。
「なら、受けて立つまでさ」
慧一は木の根もとに寝かせたニケをちらりと顧みると、残されたK―2へと一気に意識を広げた。山門から黒い炎が燃え広がる様にして飛び出してきた火天は二十五前後。慧一の手元にいるK―2は十四人。慧一が圧倒的に不利だが、K―2の側には整った陣形と遠方からの対物ライフルによる支援がある。
平地にいる間、火天は、遮蔽物に隠れていられるK―2の格好の的だった。だが、数体の犠牲を出しながらも、火天が装甲を頼りに弾幕を突破してくると、状況は変わった。林の中に突入してきた火天に対し、K―2は後退しながら木々の影を利用して反撃を試みる。一方の火天は火力では圧倒しているものの、常に対物ライフルの脅威にさらされ、立ち止まって撃ちあうことが出来ず、機関銃の狙いは定まらない。
新旧のクラスターが入り乱れ、歴史ある神社の林で混戦が繰り広げられる。
「涼香! こんなことをしてなんになるって言うんだ!」
慧一が、自らの体もクラスターの一つとして操りながら叫ぶ。
「五人組、タクノ社、テロ――全ては、復讐のためよ」
火天たちのスピーカーから発せられる声が折り重なり、深い怨念を表すかのように不気味に四方から響く。
「それだけじゃないだろ。クラスターの仕組みも、老人たちが支配するこの国の制度も、間違っている。そう思ったからこそ、立ち上がるべきだと考えたんじゃないのか!」
火天の猛攻を避け、走りながら問う。余計に息が切れやすくなるが、気にしなかった。涼香の側も、容赦なくK―2たちに銃撃を浴びせながら答える。
「ええ。そうよ。間違っている。だから、壊すの。この施設にある高射砲や砲台をうまく転用すれば、移転された官庁がおかれている青梅を廃墟に変えられる。その上、ここにある国家機密や第三クラスターについての情報を暴露すれば、この国は大混乱に陥る」
慧一の体が木の根に足を取られ、派手に転倒する。口の中が切れ、服が泥まみれになる。それでも手をついて、ふらつく足を叱咤しつつ立ち上がりながら、なお問いを重ねる。
「変えたいんじゃ、なかったのかよ。ここは、あんたの父親、蕪木一尉が命がけで守った国だろ。それをどうして、壊すだなんて言えるんだよ」
「祖父母を殺されたと言っても、両親の下でぬくぬくとぬるま湯につかっているあなたに、何が分かるって言うの!」
火天が、装備していた擲弾器(てきだんき)から一斉に手榴弾を発射する。木の裏や岩に隠れていたK―2が遮蔽物もろとも吹き飛ばされ、慧一自身も、爆風により紙きれのように宙を舞う。
涼香は怒りをぶつけるかのように、そこへ仮借なき追撃を加える。
「英雄だったはずの父さんやその部下を、政府は平然と使い捨てにした! 武装商社にクラスター技術を譲り渡すため、武官の教育に出向させた挙句、父さんの部下たちを時代遅れの用済みとして閑職に追いやり、間接的に辞職させていったのよ。自衛隊の仲間は、我が身かわいさで見て見ぬふりをするばかりだった。それでも父だけは、部下たちを見捨てることが出来ずに、自分も自衛隊をやめて、新しい武装商社タクノ社を作り、みんなの居場所を作ろうとした」
木の上に隠れていたK―2の奇襲を受け、火天が三体、炎に包まれる。だが、即座に別の火天による逆襲を受け、K―2は自身の作った血だまりの上に倒れこむ。
「政府にとって、クラスターの人体に対する危険性を知り、それを声高に叫んだ父は邪魔だったのよ。必要だったのは、『蕪木一尉』という伝説だけ。そして、父が新しいK―2の利用法をタクノ社で独自に開発すると、その技術の有用性に目をつけ、奪い取った。ただでさえ、有能な子供たちを安く利用する他の武装会社に押され気味だった零細のタクノ社から、ね。わたしが物ごころついた時には母は心労でいつも病院にいて、父は部下たちの給料を確保するため、金策に四苦八苦してた」
慧一は、傷ついた右手をかばいながら、ふらふらと走り続けた。左手で思い出したように背後へ発砲するが、爆風で方向感覚がマヒして、そもそもどっちに敵がいるのかすら分からない。他のK―2も満身創痍で、戦闘は完全に一方的なものになりつつあった。
「母が死んで、タクノ社が破産して休眠状態になると、父は心を病んだ。そこへあの、黒蝶会の伝道師が付け込んできたのよ。父は、残っていた家も何もかも、黒蝶会に与えてしまった。そして今では……あなたの知っている通りよ。それ以来、わたしは砂を噛むような思いで、父を食い物にした団体に養われ、クラスメートからは忌み嫌われてきた」
回りこんできた火天に、慧一は行く手を遮られる。周りを見渡せば、四体の火天に完全に取り囲まれていた。火天の数は半分以下にまで削られているはずだが、K―2はもう、全滅していた。
「議事堂を制圧したメンバーはかつて、父の部下だった人たちよ。これでやっと、わたしたちの復讐が叶うの。誰にも、邪魔はさせない」
機関銃が、慧一へと向けられる。
慧一は何も言わず、無言で血の塊を吐き出すと、首に付けていた携帯型クラスター操作器を無造作に取り外し、腐葉土の上に投げ捨てる。
「なに? 今更、降参するつもり?」
「ここですぐに引き金を引かない涼香だって、十分優しいよ」
最後に会った日の言葉を持ち出され、火天の向こうからムッとした空気が伝わってくる。
「わたしが、あなたを殺せないとでも思ってるの?」
「いいや。涼香が本気だってことぐらい、おれだって分かってる。だからこそ、本気の言葉には本気で答えないと、だめだろ」
さらに、手に持っていたショットガンを投げ捨てる。涼香はその様子を、黙って見ていた。
「おれはもう、現実から逃げないと決めた。……だけど、そう言いながら、ずっと逃げ続けてきたことがある。目を向けるのが怖くて、誰にも言わず、自分でもずっと考えない様にしてきた。どうしようもないぐらい、苦しいことだから。でも今こそ、明かすべき時だ」
慧一は火天を、その奥にいる涼香を正面から見つめた。
「おれのじいちゃんとばあちゃんは殺されたんじゃない――殺したんだ。おれが、この手で」
突拍子もない話に、涼香の動揺を反映し、火天がたじろぐ。
「な――それは、どういうこと!」
「六年前、最年少でS級の武官になったばかりの頃に、ツヴァイクから指令が来たんだ。ある施設を破壊し、そこの職員も、一人残らず殺害ように、と。おれはいつも通り、何も疑問に思わずにK―2を使って指令を実行したよ」
いつも通りの仕事のはずだった。ただ、普段と違っていたのは、機密保持のためとして、クラスターのマイク機能が奪われ、周囲の音声が聞こえなくなっていたこと、そして人の顔がプログラムによって見えない様にされていたことだけだった。
だが、指令をこなしてみると、慧一のパソコンから、携帯から、全てその時の指令に関するデータが消されていた。そして、ニュースで国立クラスター研究所が襲撃されたことを知ったのだ。
「それで、当時研究所の所長だった祖父母を殺したの?」
「ああ。当時、小学生に過ぎなかったおれには、自分の身に何が起こっているのか、何をしてしまったのか、まるで見当もつかなかったけどな。そもそも、クラスターをゲームの延長線上の様にしか考えず、その向こうで人が死んでいるだなんて、頭では分かっていても現実には理解できていなかったんだ。おれはようやくあの時、クラスターが兵器だったのだと思い知った。ただ、おれは罪の意識に耐えきれずに、一番やっちゃいけない選択をした。全てを忘れ、何も語らず、なかったことにしたんだ」
いつ、警察が自分の下へ来るのか、いつ、自分は肉親殺しとして裁かれるのか、恐怖におびえ、悪夢にうなされ続ける日々が続いた。
「二人の葬式の日には、悲しみからじゃなくて、怖くて泣いてたよ」
それでも時間と共にあの事件のことを忘れ、慧一は現実を抗えぬものとして受け流すことが出来るようになった。
「そんなおれの平穏を、オミムネは最悪な形で破ってくれた。それでも、おれは現実を思い出したくなくて、爺ちゃんたちのために復讐する、なんて、本気で言ってた。――でももう、やめにするよ」
「そう。それであなたは、もう一度自分の道を歩むことにした、というわけね。つまり、どうあってもわたしの道を遮る、と」
冷たく、突き放す様な声。だが、慧一は泥で汚れた顔で微笑む。
「そうだよ。だから涼香にも、現実と正面から向き合って欲しい」
慧一の言葉と共に、議事堂の周囲、あちこちから砲声が起こり、各地で爆炎が上がる。
「この状況から、何を……!」
火天から、狼狽した空気が伝わってくる。それに対して、慧一は極めて平坦な口調で答える。
「この敷地内に入った時に、一部のK―2を砲台へ派遣しておいたんだよ。砲台は、外部からの侵入者は確実に仕留めるが、内部からなら、容易に接近できる。あんたは父親である蕪木誠から託された極秘パスを使って、議事堂の防御システムを奪ったんだろう? だから、同じパスを、各砲台の手動操作パネルに打ち込んで、操作を奪ったんだよ」
火天の向こうから、怒りに燃える涼香の表情が見えるようだった。事実、涼香の声は怒りに上ずっている。
「そんな真似をして、生きて帰れると思ってるの?」
「思ってないさ。でも、涼香にも真実を知って欲しかった。おれがこのパスを持っているということが、どういう意味か、分かるだろ」
各地で機関銃と砲撃の音が鳴り響く中、火天は完全に沈黙した。
きっと今、敷地の周辺部では、慧一にコントロールを奪われた砲台が他の砲台や火天を激しく攻撃しているのだろう。暫くして、戸惑う様な声が聞こえてくる。
「そんなはず……ない」
「でも、これが現実だよ。おれは、作戦の指揮を任されてから、すぐに黒蝶の館へ、蕪木一尉を訪ねに行った。おれやニケだけでは、どうにもならないと判断できたからね。おれの話を、あの人がどこまで理解してくれたかは分からない」
蕪木誠は始終呆けた様な顔をしているばかりで、黒蝶の会の信者からは何度も出て行くように、しつこく促された。だが、それでも粘り強く彼の娘がやろうとしている事を訴えると、彼は無言で手元にあった紙に一連のコードを書き込んだのだ。
「父さんが、わたしを裏切っただなんて、嘘よ!」
「蕪木誠はおれたちの去り際に、こう言っていたよ。娘を、頼むと」
慧一を囲んでいた火天のうちの一台が、重機関銃の弾を受けて爆散する。どうやら、慧一がコントロールを奪った守備砲台の標的がここにまで及んだようだ。慧一は爆風に抗う体力もなく、されるがまま、腐葉土の上に倒れ込んだ。
だが、残された火天は回避行動を取るでもなく、ただ慧一に銃口を向けたまま、呆然としていた。
「そんなこと、あるはずない。父はもう、完全に正気を失っていたんだから」
火天が、さらに二台破壊される。残されたのは一台。だが、それでも十分、慧一を撃ち殺すことは出来る。
「パパ……ごめんなさい」
最後の火天が撃ち抜かれ、炎に包まれた。
「お嬢、議事堂周辺施設は、自動砲台による攻撃と柵を乗り越えて侵入してきたK―2によって完全に制圧されてしまいました。ど、どうすればいいでしょうか?」
久留槌が狼狽しながら報告を上げる。
涼香はクラスターの遠隔操作器をつけたまま泣きはらしていたが、久留槌の声に、すぐ涙をぬぐうと、いつもの冷静な口調に戻って答える。
「問題ないわ。火天はまだ、三十体近く残ってる。議事堂までは砲撃も有効に機能しないから、防衛は十分可能よ」
苦しければ苦しい時ほど、冷たく、冷めていなければならない。現実を他人事のように眺めていなければならない。それが、涼香が悲劇的な境遇の中で身につけた技だった。
――もしかしたらわたしも、慧一と本質的には同じだったのかもしれない。
心の中で呟く。だが、もう全ては手遅れだ。
ノートパソコンと睨み合っている土倉に声をかける。
「情報の抽出は終わったの?」
「はい。今、内容を整理しているところです」
「そう。なら後はここを包囲しているK―2を殲滅した上で、その情報をマスコミに流すだけね」
「そうですね。……失礼。どうやら、スポンサーから連絡が入っているようです」
思わぬ話に、涼香は首をかしげる。
「このタイミングで? わたしと繋がっていた証拠が残れば後々致命傷になるだろうに、慎重なあの人にしては珍しいわね」
涼香は土倉からヘッドホンとマイクを受け取り、無線の向こうの人物とやり取りする。
「そう。彼がここに向かってるのね。……ええ、分かったわ」
話が終わると、土倉と久留槌、そして入口の警備に当たっていた部下に、退出するよう命じた。
「わたしには少し、一人でやることがあるから、作業は他の部屋でやっていて。火天の操作は、手の空いてる人に暫く任せておくわ」
「ですが、それではこの議場の警備が――」
「いいの。これは命令よ」
「……そうですか。それでは」
二人は不思議そうに顔を見合わせていたが、一礼して去って行った。議事堂の扉が、重々しい音を立てて閉ざされる。
一人になった涼香は、大きく息をつくと、誰にともなく言った。
「さて、と。どうやら、招かれざるお客さんの相手をしないといけないみたいね」
涼香がゆっくりと振り返った先には、一匹の黒ネコが尾を宙に漂わせながら座っていた。
「招かれざる、だなんて、失礼だな。仮にもタクノ社の仲間に、敵に対するみたいな言葉遣いはどうかと思うけど?」
だが、涼香はおどけたオミムネの態度には一切対応しない。刃物じみた目で、オミムネを見据える。
「来るとは思っていたわ。でも、残念ね。あなたの思い通りには、させない」
「へえ? ってことは、キミもボクが何をしようとしているのか、知っているということかな?」
「ええ。調べはついてるわ。あなたの持つ第三世代クラスターのコア・データ。ドッペルプログラムが、全ての答えだった」
真実をつきつける涼香。しかし、オミムネは、さして意外でもなさそうな口調で応じる。
「なるほど、ね。さすがは蕪木誠の娘、といったところかな。それで、ボクの名前を語って、ボクの組織を動かしたってわけかい」
「ドッペルプログラムによって生かされている存在でしかないあなたが、どうしてハッキングのような、独創性を要求される動作が出来るのか、疑問だった。まさか、生前に造り上げたハッカー集団に指示を出すことで、あたかも自分がハッキングを行っているかのように見せているとは、盲点だったわ。でもそのお陰で愚かな議員たちをここにおびき寄せることが出来たし、あなたを裏で動かしている、栄道楽の正体も知ることが出来た」
「そいつはおめでとう。でも、ボクの方は結構苦労したよ。キミのスポンサーが誰なのか、分からない事にはキミがいつ動くのか把握できなかったからね。でもまさか、あれほど政府を憎んでいた君が、彼と手を結んでいたとはね」
「結局のところ、わたしたち五人組はそれぞれ全く異なる目的を持ちながら、その過程として、テロを、クーデターを必要とした。互いに利用し合うだけの関係でしかなかったというだけの話よ」
「悲しい事実だけど、否定はしないよ。大方、キミのスポンサーは今回の事件を機に政府の弱体さを露呈させ、第三世代クラスターによる新時代への露払いにしようとしたんだろうね」
「どうでもいいの。彼の思惑なんて、わたしには関係ない。わたしは、わたしの復讐を遂げるだけ」
「そして、ボクの計画の礎となってもらうよ」
平然と言い放つオミムネに対し、涼香は正面から睨みつけた。
「絶対に、あなたの思い通りになんて、させない」
涼香の手にはいつの間にか銃が握られ、真っ直ぐオミムネに向けられていた。オミムネは一切ひるむ様子を見せず、大げさな仕草で悲しげに首を振る。
「やれやれ。キミとはそれなりに利害が一致していると思っていたんだけどな」
「そうね。『復讐』を個人的な目標にしている点は、同じかも知れないわね。でも、その相手はどうやら決定的に違うみたいね」
終始どこか遊んでいる様な雰囲気を漂わせていたオミムネが、ここで初めて目を大きく開け、本気で驚いた表情をする。
「まさか、どうして、それを――」
「気付いたのは、ついさっきよ。慧一が、教えてくれたの」
涼香の言葉は端的だったが、オミムネにはそれで充分だった。
「慧一が――なるほどね。ボクもここに入りこむのに忙しくて、そこまでは気にしてなかったなぁ」
「そもそも、ネコの子一匹だって通さない様に指示してあったのに、どうやって入って来たの」
「ああ。狩谷とニケが火天たちの動きを乱してくれたおかげで、ちょっと監視カメラに細工を仕掛けるだけで、容易にここまで辿り着けるようになったからね」
オミムネは、何てことでもないと言う様に顔を前足で擦っている。涼香はそんなオミムネに、汚らわしいものでも見ているかのような視線を向けた。
「あの子たちを、利用したのね」
黒ネコは手を止めると、くつくつと笑った。――少なくとも、涼香には笑っているように見えた。
「キミも、さ。蕪木涼香。全ては、ボクの手の内だよ」
涼香の手に握られていた拳銃が、火を噴く。
だが、それより先にオミムネの声を合図に、天井から巨大な影が降って来る。衝撃音と共に床の上に下り立ったのは、片手に対物ライフルを、もう片手に鋼鉄の盾を持ったアルゴスだった。銃弾は全て、鋼鉄の盾によって軽々とはじかれる。
「アルゴス一人で、わたしに勝てると思ってるの?」
涼香が銃を下ろして冷笑すると、背後のドアを撃ち破り、素早く二体の『火天』が室内に滑り込んでくる。
ニケとオミムネ、そしてアルゴスは、一瞬、無言で睨み合う。
オミムネが静かに告げる。
「……見えてない。キミにはなに一つ、見えてないんだよ」
涼香の瞳に怒りの炎が走る。
『火天』の銃声が、議事堂に鳴り響いた。
傷つき気を失ったままのニケを背負いながら、慧一は戦闘を継続していた。
砲台群を沈黙させると、周囲に待機させていた狙撃部隊を前進させ、敷地内を徐々に制圧していく。敷地内には議事堂以外にも旧参議院会館などの施設があったが、全て無人で、一切抵抗を受けることはなかった。
どうやら、涼香は残存の戦力を議事堂に集結しているらしい。
「だけど、ニケを背負ったままじゃ、あそこまで行くだけでも、一苦労じゃん」
人通りの途絶えた道を歩きながら、慧一は一人愚痴る。事実、慧一の体も傷だらけで、ニケを背負った状態では足元もおぼつかない。だが、それでも慧一にはニケを置いていく気など毛頭なかった。
すっと、慧一は横を見る。驚くほど近くに、安らかな表情をしたニケの寝顔があった。ニケの短い髪が慧一の首筋をくすぐり、ニケの体温が服越しに伝わってくる。
――おれたちは、二人で涼香のところへ行かなきゃいけないんだ。ふたりで、涼香を止めるんだ――
慧一の決意は、固い。
つけ直した遠隔操作器を使って、K―2へと意識を広げる。どうやら涼香が最後の防衛線を張っているのは議事堂と、それにへばりつくようにして建てられている旧衆参両院の別館の様だ。既に、それ以外の建物は全て制圧済みだった。
「それじゃ、こいつが最後の決戦だな」
慧一の呟きと共に、議事堂に向けて援護用の弾幕がはられ、議事堂を包囲していたK―2が一斉に突撃する。
ここまでくれば、力対力。純粋な力勝負だ。
慧一の脳裏に、かつてゲームセンターで涼香に完敗した時のことが蘇る。たった三か月前のことだったが、はるか昔の出来事のように思える。
今日こそ、あの雪辱を晴らす時だ。
張り巡らされたスモークや弾幕をくぐり抜け、K―2たちが議事堂に向けて殺到する。至近距離から火天の装甲を撃ち抜くべく、敵の機関銃を恐れることなく勇猛果敢に突進していく。
突進して――え?
「どういう、ことだよ」
思わず、慧一と感覚を共有したK―2たちが一斉に呟いてしまう。
議事堂側からは、一切の反撃も、応射もなかった。
弾幕の向こうでK―2たちを迎えたのは、完全にコントロールを失い、物言わぬ鉄の屍と化した火天たちだった。
降服するつもりなのか?
それならば慧一にとってこれ以上嬉しいことはない。だが、何かがおかしかった。慧一の胸の奥で、得体の知れないものがざわめく。
漠然とした不安は、旧参議院分館にK―2が達して、確たるものとなって現れた。
さして広くもない分館の室内。陸上自衛隊の制服を身にまとった中年過ぎの男たちが、血の海の中で事切れていた。ある者は頭の上半分を失って床に倒れ、またある者はクラスター操作用の座席の上に座ったまま、腹に巨大な穴を開けられている。
立ち上る血の臭いに、慧一は思わず口に手を当てる。
――何かが、起こったのだ。おそらくは、涼香すら想定していなかった何かが。
慧一はそこまで考えて、慌ててくたびれた足に鞭打って走り出す。
――まさか、涼香の身にも何か起こったんじゃ……!
最悪の予感が、頭をよぎる。そして、得てして最悪の予感ほど、良く当たるものだった。
「涼香!」
既にK―2が先行して内部を固めていた議場内に、大声で叫びながら駈けこむ。
そこに何があるかは、K―2の眼を通して、自分で見たかのように知っていた。それでも、やはり、自身の目で確かめなければ納得できなかった。
歴史ある、開放的な旧衆議院本会議場。
その両端には破壊され、黒焦げた火天の残骸が転がる。そして、中央に敷かれたくすんだピンクのじゅうたんの上に、真っ赤な血が広がっている。その血の中央に横向きに倒れているのは――間違いない――涼香だった。
「涼香、しっかりしろ!」
背負っていたニケをK―2にまかせ、涼香にかけ寄る。
だが、抱え上げた涼香の体にはまるで力がなく、肌は信じられないほど冷たかった。それでも、微かに涼香の目が開く。
「けい、いち。きて、くれたん、だ……」
掠れた、弱々しい声。普段の冷たくも凛々しい様子は、微塵も感じられない。
「涼香、何が、何があったんだ!」
涼香の腹部から、止めどもなく血が流れ出てくる。撃たれたのだろう、ということまでは想像がつく。だが、誰に。
「あな、たに、最期に、あいた、かった」
「最期だなんて、言うなよ!」
応急処置をしなくては、とは思うが、どうすればいいのかまるで分からない。ずっと、殺す方法ばかり学んで来た。傷付いたK―2など、これまで使い捨てるだけで、助けようとする必要などなかった。
これもまた、報いなのか?
慧一は、自分の無力さに歯噛みする。
だが、涼香は何とかしようとする慧一の手の上に、震える手をそっと乗せ、慧一の動きを制止する。
「いい、の。もう」
氷のように冷たい涼香の手を、慧一は握り返す、
「いいわけ、ないだろ。死ぬな、死なないでくれ」
涼香は、間違いを犯した。それは事実だ。だが、決して慧一もニケも、涼香に死んで欲しくて、ここまで来たわけではない。ただ、止めたかっただけなのだ。
なのに――
「けい、いち。わたしを、止めてくれて、あり、がとう。あな、たと、あえて、よかった」
「涼香……」
「あな、た、たちと、過ごした時間が、わたしを、復讐、だけの、じん、せい、から、救い、だして、くれた。あり、がと、う」
涼香の頬に、かすかに笑窪が浮かぶ。
笑っている。
「けい、いち、にげ、て……」
最後の言葉と共に、涼香の体から力が抜け、手がだらりと下がる。涙でうるんだ瞳は、虚空を見つめる。
遺骸となった涼香の頬に、水滴が滴り落ちる。慧一は最初、それが自分の涙だとすら分からなかった。涼香をゆっくりと絨毯の上に下ろすと、その両目を閉じてやる。
復讐に燃え、それでいて心の底では他者からの愛情を求め続けていた、孤独な少女の冥福を祈って。
涙をぬぐい、立ち上がった慧一の視界に、黒ネコの姿が映る。
「ありがとう、狩谷。キミのお陰で、全てのピースが揃った」
慧一の目に、押さえがたい怒りが燃え上がる。
「お前が、お前が涼香を殺したのか……!」
涼香は逃げろと言っていたが、慧一には逃げる気などさらさらない。相手が誰であれ、許しはしない。
「やれやれ、涼香だけじゃなく、キミまでボクをそんな目で見るのかい? ま、間違っちゃいないけどね」
オミムネの眼が、不気味に光る。
「涼香も以前、言ってたな。オミムネと、栄道楽は信用するな――つまり、涼香の恐れていた通りに事が運んだってことか。……この裏切り者!」
慧一の憎しみのこもった怒声を、オミムネは平然と受け流す。
「いいや。正確には、まだだよ。ボクの、いや、ボクらの真の目的は、これから達成される。キミも見ているといい。伝説が神話へと足を踏み入れる、その歴史的瞬間を」
「そんなこと、どうでもいい! お前だけは、許さない――」
オミムネに詰め寄ろうとした慧一はしかし、背後から聞こえてきた苦悶の声で立ち止まった。振り返った先では、意識を取り戻したニケが、頭を抱え、目をむいて苦痛に顔を歪めていた。
「に、ニケ、どうした!」
だが、ニケは慧一の問いには一切反応せず、その口元から、形容し難い低い唸り声を発し続ける。
「くっ、オミムネ、何をした!」
周りに控えていたK―2が一斉に銃を構える。だが、オミムネは全く意に介さない。
「キミだって知ってるだろ? このネコもまた、クラスターに過ぎない。壊してくれても構わないけど、キミには何のメリットもないよ。それに、ボクはニケに、直接的には何もしちゃいないよ。ただ、全てのピースが揃った。それだけのことさ」
オミムネの言葉に、ようやく慧一はハッと気づく。
「そうか! 遠隔操作器か!」
操作者の体すらクラスターの一つとして操れるあの機械ならば、その本人の意識に介入出来うる。しかも、あれを作ったのはオミムネだ。事前にどんな罠も仕組むことが可能だ。
「御名答。でもおしいね。ちょっと遅かったかな」
オミムネの言葉と同時に、既にニケの唸るようなうめき声がピタリとやむ。だからと言って正気を取り戻した様子もなく、ただ無言でうつむいていた。
「御紹介しよう。偉大なる、新時代のリーダーの、再臨だよ」
オミムネが冗談めかした言葉を発する。だが、慧一は聞いてなどいなかった。
急いでニケの下へと走り寄る。
「ニケ、大丈夫か!」
だが、首に着いた遠隔操作器を外そうとした慧一は、ニケの手によって振り払われ、尻もちを着いてしまう。
「に、ニケ……?」
困惑する慧一をしかし、ニケは冷たい目線で見下ろした。
「吾に気安く触れるな、下郎」
ニケの声。だが、その凍れる目も、人を路傍の小石のように見下す声音も、決してニケの物ではあり得なかった。
この喋り方、この雰囲気なら知っている。妙に時代ぶった、尊大な口調。いつもモニターの向こうから指示を出すばかりだった、タクノ社の謎のガヴァナー。
「栄、道楽……!」
だが、ニケは静かに首を振る。
「否。それは、吾がドッペルとして器械の中に囚われし頃の仮の名」
「じゃあ、誰だって言うんだ」
「吾が名は久(く)良(ら)徒(ど)栄(えい)蛻(ぜい)。この惰弱なる世界に、新たなる秩序をもたらす者なり」
「そんな、冗談だろ……」
戦慄する慧一。久良徒栄蛻と言えば、二十年前国家転覆を狙ってこの国会議事堂を占拠したテロリストたちの頭目だ。当時、圧倒的なカリスマ性で国内の不満分子をまとめ上げ、強大なテロ組織を築いて日本を恐怖のどん底に叩き落とした。
「だが、久良徒栄蛻は蕪木誠によって殺されたはずだ」
目の前の事態を信じられず、額に手を当てる慧一に対し、オミムネが冷静な調子で答える。
「そうさ。久良徒栄蛻も、ボクも、その肉体を一度は失った身だ。けれど、精神までがともに滅びたわけじゃない。――それこそが、第三世代クラスターのコア・データ、ドッペルプログラムの機能だよ」
「ドッペル……まさか、人の精神そのもののプログラム化か?」
「そのまさか、さ。彼、久良徒栄蛻は部下たちを使って、その特異なプログラムの構築に初めて成功した人物でもあるんだよ。そして、この議事堂で自身の死に直面した時、己の精神を、ここのコンピューターに託すことで、自らをデータの結晶に変えたのさ」
ニケ、いや、久良徒栄蛻が邪(よこしま)な笑みをたたえる。
「そして吾は、今日この日、ついに再び受肉し、蘇ったのだ。この世界の、救世主として」
大きく手を広げて見せる。芝居がかったその仕草は、本当に救世主にでもなったかのような様だった。
その大仰な態度に圧倒されかかった慧一だったが、ここで弱気になるわけにはいかない。
「あんたの下らない妄想になんて、興味はない。今すぐニケの体から出て行け。さもないと、妄想ごと地獄に送り返してやる」
議場の出入り口が一斉に蹴破られ、K―2が次々に突入してくる。総勢三十人のK―2部隊だ。彼らが手元にある限り、ニケの中にいるのが伝説的人物であろうが誰であろうが、慧一の優位は揺らがない。
だが、無数の銃口をつけてもまだ、久良徒は余裕の表情を崩さない。
「狩谷慧一。今回の計画において、汝が果たした役割は大きい。吾の計画に賛同し、参加せよ。さすれば汝にもまた、望むものを与えよう」
「ふざけるな! 涼香を殺した上、下らない妄想にニケを巻き込みやがって! さあ、ニケの体から今すぐ去れ!」
「これはこれは異なことを。この少女が、巻き込まれた、とな? この肉体はそもそも、このために造られたものであろう」
薄笑いを浮かべる久良徒の言葉に、慧一は動揺する。
「まさか、これが第三世代クラスターの目的なのか?」
「いかにも。かつて吾が夢想し、憎き蕪木誠や評議会の老人どもが跡を継いでせっせと造り上げた、人が神になり変わる新たなる道よ。汝にもいずれはこの神の力、不老不死を与えよう。さあ、答えよ。服従か、死か」
慧一は腕を大きく横に振り、叫んだ。
「答えなんて、口に出すまでもない!」
周りで控えていたK―2が、一斉に久良徒とアルゴスの下へ殺到する。
ニケの体を傷つけるつもりはない。一度取り押さえた上で、方策を探ればいい。
「――愚かなり。いと小さき者よ」
久良徒が、口の端を吊り上げる。
久良徒へ迫っていたK―2の動きが、一斉に止まる。広がっていた慧一の意識が、引き千切られたかのように狭まり、慧一の感覚は元の肉体の中に押し戻された。
場違いな静寂が議事堂を支配する。
「な、何がどうなってるんだ」
慧一は狼狽し、目を白黒させながらK―2たちを見回す。しかし、K―2たちは銃の狙いを久良徒に定めたまま、呆然と立ちすくむばかりで、さっきまで手足のように操れた彼らを、一ミリたりとも動かすことが出来ない。
視界の端で、ふわふわとオミムネの尻尾が揺れているのを見て、慧一は何が起きたのかを悟る。
迂闊だった。
この遠隔操作器に仕組まれた罠が、ニケに対してだけだ、などという保証はないことを、慧一は失念していたのだ。特に、K―2との回線を遮断するくらい訳のないことだろう。おそらくは、涼香もまた同じ理由で命を落としたのだ。
――逃げて――
涼香の言葉の意味を、今更ながらにして思い知る。
「涼香、ニケ……」
慧一の視線が、二人の間でさ迷う。オミムネに制御を奪われたK―2たちが、ゆらりと慧一に向き直り、銃口を向ける。これでは、逃げ場も何もない。
久良徒は打つ手を失って立ちすくむ慧一を気にも留めず、オミムネに指示を出す。
「オミムネよ、議事堂内のネットワークを外部と接続せよ。それから、参院本会議場に蕪木の娘が議員どもを集めておったな。連中は既に不用故、始末せよ」
「了解、ボス」
「な――」
余りにあっさりとしたやり取りに慧一が絶句した瞬間、巨大な爆発音が大きな地鳴りとともに慧一たちのいる議場を襲う。天井から土ぼこりが舞い落ち、蛍光灯が明滅する。
「まさか、参院を議員たちごと爆破したのか……!」
机に手をついてバランスを取る慧一に、久良徒は冷徹に答える。
「そうだ。これこそが、これから、吾が新たなる時代、新たなる国、新たなる世界を創造する。そのために、旧き世界は不要。全て、消し去るのみだ」
「狂ってる……」
慧一の額を、冷や汗が流れる。ニケの瞳の奥には、間違いなく狂気に侵された、残忍な意志が宿っていた。
「そう、吾を拒絶し、吾が命を奪ったこの世界など、破滅すればよいのだ。――惰眠に酔いしれた愚民どもも、今すぐ、叩き起こしてくれよう。オミムネよ。防御砲台、及び高射砲の制御権を奪い返せ。その上で、制限プログラムを解除、街へ向けて、一斉砲撃」
「……!」
慧一は言葉もなく、オミムネを見返す。オミムネならば、砲台の制御パスを知っている。これでは、慧一とニケが命がけで戦ったことも、全て無意味となり、議事堂一円は廃墟と化す。
「おおせのままに」
オミムネの至極あっさりとした返事。K―2のうちの数人が指示を実行すべく、議場を出て行く。
――このままじゃ、この国はお終いだ。
だが、未だ十を優に超えるK―2に見張られている慧一には、どうすることもできない。
さらに次々と久良徒はオミムネに指示を出し、K―2やオミムネの手によって実行に移されていく。慧一はただ呆然と、その様子を眺めていることしかできなかった。
暫くして、ふと思い出したように久良徒が慧一に視線を戻した。
「おお、すっかり忘れてしまうところであったな。さて、ではそこにいる小さな勇者に、そろそろ審判を下さねばなるまい」
久良徒がオミムネに目で合図を送る。オミムネに操られたK―2たちが、慧一に向けて銃を突きつける。
「これでお別れみたいだね、狩谷。ちょっと残念だけど、仕方ないかな」
オミムネがいつも通りの口調で、死刑宣告を下す。
終わりだ。逃げ場などない。
しかし、久良徒が最後の命令を下そうとした時、モーター駆動音と共に、天井の一部が動き出した。久良徒が怪訝な表情をオミムネに向ける。
「オミムネ、何の真似だ?」
だが、オミムネも目をパチクリさせて首をひねる。
「いや、これはボクじゃないよ……どうやら、議事堂のスタンドアローンを解除したことで、外部からの侵入を受けたみたいだね」
話している間にも、さらに床の一部が動き、慧一が慌てて飛びのくと、円盤状の機器が下から出てくる。そして、天井からのライトが円盤を照らす。ようやく、慧一はその装置が何なのか気付いた。
「立体ホログラムか」
おそらくは、かつて議会として実際に使われていた頃のシステムだ。
「へえ。外部と接続を復旧してから大して時間も経ってないのに、もうこちらへハッキングしてくるなんて、あちらさんにも思ったより優秀なプログラマーを抱えてたんだね」
オミムネは感心しながらなりゆきを見守っている。
光が像を結び、小柄な人影が映し出される。
「狩谷慧一よ、現状はどうなっておる、報告せよ」
映し出されたのは、評議会議長、鵺喰(やぐらい)巽(たつみ)その人だった。
「や、鵺喰議長。どうして、あんたが」
慧一に祖父母を殺すよう命じた張本人であり、今回の事態の遠因を作ったこの国の最高権力者。何故、彼が突然こんな形で慧一に連絡を取って来たのか、慧一にはまるで理解できなかった。だが、鵺喰は慧一の姿を認めると、吐き捨てるように言う。
「どうしたも何もないわい。旧参院が爆破されたと思えば、部下から今度はネット上に次々と政府の機密に関する情報が流されていると報告があった。もちろん、第三世代クラスターの情報までだ。その上、久良徒栄蛻を名乗る人物が反政府主義者に檄を飛ばす映像が盛んに動画サイトにアップロードされておる。挙句の果てに、日本中のコンピューターで誤作動が相次ぎ、発電所も電車も、全て機能を停止しおった」
老人たちの代表は一気にまくしたてると、大きく息を吸って言った。
「そして、これら全てのアクセス元に、ついさっき突然広域ネットにつながってきた議事堂のスーパーコンピューターが関与しているときておる。これはいったい全体、どういうことなのだ!」
久良徒の手回しの速さに慧一は舌を巻いた。オミムネに単純な指示を与えながら、これ程のことをこなしていたと言うのか。
慧一が答えるより先に、久良徒が不敵な笑みを浮かべて口を開く。
「至極単純な話だ、議長。二十年前に起こるはずであったこの国の再創造が、今日再び始まったのだよ」
しかし、久良徒の見た目はニケのものだ。鵺喰は不愉快そうな顔をしただけだった。
「……そなたは確か、評議会に力ずくで殴りこんできた、タクノ社の武官であろう。今は冗談など聞いている場合ではない。見たところ、テロリストの制圧は順調に終わっているようだが」
鵺喰が議場を見渡す。破壊された火天に、血まみれの涼香。真実を何も知らない人間が見れば、タクノ社の勝利だと思うのも、無理はない。
だが、せめて鵺喰にここで現状を把握してもらえれば、事態を好転させる糸口がつかめるかもしれない。例えその相手が、どうしようもなく憎くても、だ。
慧一は必死に訴えた。
「鵺喰議長、奴の言葉は真実です。第三世代クラスターの機能を利用して、議事堂内のコンピューターに残されていたデータから、久良徒栄蛻がこの世に舞い戻りました。一刻も早く、そちらでも対策を取って下さい!」
鵺喰が、信じられないと言った様子でニケの姿をした久良徒に目を向ける。
「そんな、何をバカな……」
狼狽する日本の最高権力者を見て、久良徒があざ笑う。
「をこ(愚か)なる者に、何を言ったところで無駄なことよ。だが、二十年前、吾とこの国の未来を語らっておきながら、汝が時代を読み切れず蕪木の説得に心変わりして吾を裏切ったために、吾は随分と苦労したぞ」
久良徒の言葉に、鵺喰の表情が固まる。
「そ、そなた、何故それを……!」
「しかし、それもまた許そう。今回は、汝も吾が計画のために、五人組の一人として、よくぞ働いてくれた」
――鵺喰が、五人組の一人?
思いもよらぬ事実に、慧一は愕然とする。鵺喰も驚きの余り二の句がつけずにいるが、こちらは図星を指されたことによる驚きだった。
「……本当に、栄蛻、なのか……」
喘ぐような声。それに対し、久良徒がゆっくりと、大きく頷く。
「そうだ。吾だ。タクノ社のスポンサーよ」
その表情は、老人の困惑を楽しんでいるようだった。だが、鵺喰とて武装商社を束ねる日本国の最高権力者だ。いつまでもうろたえてばかりはいなかった。
鵺喰の眼に、暗い闇が宿る。
「そうか……ならば、そなたたちを生かしておくわけにはいかぬ」
小さな体に羽織った厳めしいコートの襟を整えると、断言する。
「そなたらにはここで、死んでもらう」
「……第三世代クラスターの技術は、諦める、と?」
「第三世代クラスターも、所詮は技術。その実験体の体がなくとも、また開発すればよい。米軍による超高空からの爆撃ならば、議事堂の対空システムでも防ぎきれまい」
鵺喰の言葉に、久良徒が面白そうに笑う。
「国の首都に、他国の軍でもって爆撃を加えるか」
「かつて大陸の国家と裏でつながっていたそなたに非難される義理はないわい」
「吾が理想のためには、そのようなこと、つまらぬ些事よ」
「わしにとっても、ここを潰すのは些事だ。人は真実など、知らぬ方がよいのだ。ここでそなたらの口を封じれば、全ては元通りだ」
「汝らしい考えよの。しかし、吾は死なぬ。吾は生前から、ドッペルを無数に各地のコンピューターに残してきた。そして吾の最後の記憶を持つドッペルとそれらが繋がった今、吾は不滅。全てのドッペルが同期し、肉体が何度滅びようとも吾は蘇る。そして、この国のネットワークも、何もかも、世界中に散らばった吾のドッペルによっていつでも自由に制御できる」
久良徒が両手を広げ、高らかに宣言する。
「吾は、この世界の、神となるのだ!」
久良徒の宣言に、鵺喰は顔を歪めながらも、それでも引き下がらない。
「ならば、そなたのドッペルを、わしの権力でもって、一つ残らず消し潰してくれるわ!」
「さて、そのようなこと、できるかな?」
鵺喰も久良徒も黙りこみ、睨み合う。
「ふざけるな!」
二人の沈黙を破ったのは、他でもない、慧一だった。
その横にいて二人のせめぎ合いを聞きながら、慧一は当初、この状況からどのようにして逃れるかばかり、考えていた。こんなところで、あっさりと無駄死になど、したくはなかった。
しかし、二人のやり取りを聞くうちに、ふつふつと怒りがこみ上げてきて、我慢ならなかった。時間を稼いで逃げ道を探ろうなどという細かい思考は消し飛び、逆らい難い激情のままに叫ぶ。
「二人揃って好き勝手なことばかり言いやがって、人を、ニケをなんだと思ってるんだ! 高みに立って他者(ひと)を駒のように扱って……いい加減にしろ!」
銃口を向けられ、何の力も持たない状況に置かれていても、黙ってはいられなかった。涼香の死を招き、ニケの体を奪い、それでもまるで全てを盤上での出来事であるかのように平然と語る二人が、許せなかった。
「あんたらの理想や野望なんて、知ったことか! だが、殺し合いをしたいだけなら、あんたら二人だけでやればいい! この下らない争いのために、どれだけの犠牲を出すつもりだ!」
感情のままに猛りながら、慧一はこの時ようやく、かつてニケがどんな思いで研究所に囚われていたのかを理解していた。窓もない部屋の中に軟禁され、ただ物としてしか扱われず、毎日、実験ばかりの変わり映えのしない日々が永遠と続く。
いつか、ニケと初めて出会った研究所の情景がまざまざと蘇る。薄れゆく景色の中、ニケが言葉を発する。
『やっと――』
だが、今度こそ、分かった。ニケの口の動きが、はっきりと見える。
『やっと、助けに来てくれたね――』
薄暗い研究所の中、代わらない日々で、ニケはずっと、助けを求めていたのだ。必ず、誰かが来てくれると信じて。必ず、より良い未来が待っていると信じて。
そうだ。おれは、助けにいかないといけないんだ。未来を信じている少女を。バカみたいに、未来ばかりを信じている女の子を。あいつを、過去が生み出した怪物の餌食になんて、しちゃいけない!
体の奥から、熱い力がみなぎってくる。もう、恐れるものなど何もない。
久良徒が、気分を害した、という表情で慧一を見る。
「汝のことなど、すっかり忘れておったわ。童(わっぱ)、何の力もなくいきがったところで世の中は何一つ動かぬ。子供の癇癪になど、付き合っている暇はない」
久良徒がオミムネに指示を出す。
「こ奴を始末せよ。もはや、語るべきこともない。吾は、最高の席でこの街が生まれ変わる様を見届けてくるとしよう」
言い残して、久良徒が議場を出て行く。オミムネは、ピョコリと尻尾を揺らす。
「はーい」
扉の向こうへと消える久良徒を、鵺喰が焦って呼びとめようとする。
「待て、まだ話が――」
だが、鵺喰の制止の声より早く、慧一は動き出していた。
――何があっても、ニケだけは、救って見せる!
少しでもオミムネの注意がそれている今がチャンスだ。久良徒が出て行った出口へ向け、姿勢を低くして弾丸のように駆け抜ける。だが、そこにもK―2が二人陣取り、行く手を阻む。しかし、背後に控えるK―2は扉の向こうにまだいるであろう久良徒に弾が当たることを恐れて、発砲出来ない。
風のように流れて行く視界の先で、二人のK―2がまさに引き金を引こうとしている。全てがスローモーションのように感じられる。不思議な感覚だった。だが、初めてではない。むしろ、慧一にとって余程慣れ親しんだものだった。それはこれまで、クラスターを操る時に感じていた感覚だ。
そう、慧一にとって、クラスターはまだ一人だけ残されていた。最後の一人、自分自身というクラスターが。
人を操り戦うのがクラスターシステムだと言うのなら、操る対象が自分であっていけないはずがない。そして、自分の体ならば、完璧な精度で操れる。
極限の状態において、慧一の脳が反射的に選びとった選択だった。慧一の思考、感覚の全てが、瞬時にしてK―2たちを操る時のそれに変化する。
目の前のK―2が引き金を引く瞬間、慧一の体が横へ跳ね、射線をかわして相手の懐へ飛び込む。相手が反応する暇を与えず、慧一の右手が閃き、K―2が持っていた銃を弾き飛ばす。さらに、突進した勢いのまま、額をK―2の顔面にめり込ませる。
味気ないほどあっさりと、K―2が地面に膝をつく。そこへ、横に控えていたK―2が発砲してくる。だが、慧一は素早く一人目のK―2の襟首をつかみ、その体を遮蔽物代わりにしたまま二人目のK―2へと突進した。防弾チョッキを着たK―2の体は良い壁になる。K―2二人は派手に激突すると、もつれ合う様にして地面に倒れ伏す。かんばつ入れず、その手からアサルトライフルをもぎ取る。
そのまま、流れるようにして扉をくぐり、廊下へ飛び出す。背後でオミムネの悪態に続いて銃声が轟くが、木製の扉を貫通した銃弾が慧一にあたることはなかった。
「久(く)良(ら)徒(ど)栄(えい)蛻(ぜい)!」
ありったけの声を振り絞って叫びながら、久良徒に迫る。しかし、振り返った久良徒との間を、巨大な影が遮る。
「おで、ここ、お前とおさない。命令、ざれだ」
後一歩というところで、最悪の敵が立ち塞がる。お馴染みの重武装に身を包んだ、アルゴスだった。だが、例え相手が誰であれ、慧一にはここで引く気はさらさらない。
「そこを、どけ!」
走りながら、アサルトライフルを乱射する。弾の多くは防楯で弾かれるが、一部は肩口に命中する。いくら重厚なアーマーをきていると言っても、慧一とアルゴスとの距離は十メートルもない。アサルトライフルから発射された弾丸は分厚い防弾性の生地を貫き、アルゴスの肩から血がほとばしる。
――よし!
だが、慧一は忘れていた。アルゴスの最大の武器はその身にまとう重火器やアーマーではなく、巨体から生み出される底知れぬ力、そこから生まれる圧倒的な暴力であり、それこそが、武器も、計略も、全てを無意味にしてしまうのだと言うことを。
喜んだのも束の間、アルゴスは一切ひるむことなく、むしろその巨体からは信じられない素早さでずいと慧一に接近してくる。思わ動きに、慧一の反応が遅れ、二人の影が、銃を持ったまま重なる。
次の瞬間、アルゴスが神速でもって繰り出した盾により、慧一は横の廊下へと弾き飛ばされる。余りの衝撃に、意識が途切れかける。文字通り宙を舞った慧一の体は、壁に叩きつけられた上、転がりながら無様に倒れ込む。
「アルゴス、その者を始末しておけ。用済みだ」
衝撃から立ち直れず、床に這いつくばって息を吸うのがやっとの慧一の耳に、久良徒の声が届く。
「ニ、ニケ? おめえ、どうじだだ? ようずが、へんだぞ」
きっと、ニケの体に久良徒が宿っていることを知らないのだろう。アルゴスがあからさまに困惑している。
「なに、ただ中身を入れ替えただけのこと。ここにいるのは、吾、久良徒栄蛻よ」
「久良徒ざま? だども、おめえは、ニケだ。どういうごっだ?」
説明されても、アルゴスには到底理解できないらしい。久良徒はその様子に苛立ち、それ以上説明はせず、一方的に告げる。
「汝の知ったことではない。本来ならば、新世代クラスター開発における失敗作として廃棄されるはずだった汝を引き取り、使命を与えたのは吾ぞ。汝は、吾が命に従っておればよい」
「だ、だども――」
「くどい!」
久良徒は言い捨てると、足早に立ち去って行った。残されたアルゴスは、ぶつぶつと呟きながらその背中を見送る。
「ニケが、いない。おで、ニケ守る。でもニケ、久良徒ざま。ニケは、久良徒ざま? おではどうずる。おでは――」
その隙に、何とか慧一はショックから立ち直り、よろよろと廊下の角の向こうへ回り、壁を背に隠れる。鼻から溢れ出る血を押さえながら、じっとアルゴスの出方を待つ。アルゴスと慧一は、廊下の角を挟んで対峙することになる。この状態からでは互いの姿は見えず、どちらが先に十字路に姿を現すかが、勝負の分かれ目となる――はずだった。
乾いた破裂音と共に、慧一の頭のすぐ後ろを風が吹き抜ける。驚いて振り返れば、向かい合った廊下の壁を直線でつなぐようにして、巨大な弾痕がくっきりと残っていた。
慧一はようやく、己の失敗を悟った。アルゴスの持っていたのは、慧一も火天の破壊に用いていた、対物ライフルだった。あれでは、建物の壁などこの距離からなら紙切れ同然だろう。
「何て奴だ。本当に滅茶苦茶だな」
慧一が毒づいている間にもさらに次々と壁を突き抜け、弾丸が撃ち込まれる。あてずっぽうに撃っているだけなのだが、それでも一方的に撃たれると言うのは途方もない脅威だった。さらに、議場の方からK―2たちが出てきた気配がする。このままでは、八方(はっぽう)塞(ふさがり)になってしまう。
――まだだ! まだ、負けるわけにはいかない。何か、何か手はあるはずだ――
慧一のすぐ脇をアルゴスの銃弾がかすめる。服が破れ、左腕の皮膚が引き裂かれる。
痛みにうめき声がもれる。だが、その一方でクラスターの操縦者としての慧一は冷静に思考していた。
そう、今しかない!
咄嗟の判断で、まさに今、銃弾が通り抜けた穴へ銃口を押し付ける。瞬時に反対側の穴との位置関係を見極め、引き金を引いた。まさに今、アルゴスが放った銃弾を全く同じ軌道で撃ち返すかのような形で、穴の向こうに連続して銃弾を撃ち込む。
全ては、瞬時の出来事だった。もしこの間に、アルゴスが再び同じ場所へ発砲していれば、慧一の腕は火天の装甲をも貫く銃弾によってもぎ取られていただろう。だが、慧一は賭けに勝った。
廊下の向こうから銃声とは明らかに異なる爆発音が響き、同時に獣の様な叫びが響き渡る。慧一の銃弾が、まさにアルゴスの銃身の中にぴったりと命中し、対物ライフルを暴発させたのだ。
慧一は一拍間を置いて、十字路へ飛び出した。十字路の先では、右腕を血まみれにした山の様な大男が、怒りも露わに立ち塞がっていた。そして、アルゴスの左手からは盾が捨てられており、代わりに巨大なガトリングガンが握られていた。
背後でも、K―2たちが銃を構えるのが分かる。
「けい、いちいいいい!」
アルゴスが吠える。だが、双方の発砲と同時に、慧一は大きく体を沈めていた。
出来うる限界まで、まるで地を這うかのように。
怒り狂ったアルゴスが放った無数の弾丸は、あっさりと慧一の頭上を通り抜け、その背後にいたK―2たちを引き裂き、肉片に変える。
アルゴスはK―2の被害には一切構わず、ガトリングガンの先を下に向け、そのまま慧一を狙おうとする。だが、いくらアルゴスの巨体でも、片手だけで反動の激しいガトリングガンを操るのは容易ではない。
一瞬、火線が慧一に届くのが遅れる。その一瞬だけで、慧一には十分だった。
アルゴスの横へ頭から飛び込んだ慧一は、床の上を転がりざま、アルゴスの脇へ、首筋へ、アーマーの薄い個所を狙って、ありったけの銃弾を叩きこんだ。
「ウオオオオォォォ!」
議事堂全体を揺るがすかという咆哮がアルゴスの口からほとばしる。
――勝った――
滑り込んだ勢いのまま、床の上に倒れ込む。アサルトライフルが手から転がり落ちる。体は限界を訴えている。すぐに起き上がる気力など、残ってはいなかった。
「はは、どうだ、化け物」
だが、肩で息をしながら慧一が見上げた視線の先で、アルゴスが、ゆっくりと慧一へと振り返る。
「そんな、嘘だろ……完全に、致命傷だったはずなのに」
慌てて残った力を振り絞ってアサルトライフルに手を伸ばすが、到底間に合わない。
「くそっ」
慧一の表情がひきつる。
しかし、慧一の耳に届いたのは、ガトリングの咆哮ではなく、風が漏れだすような掠れたアルゴスの声だった。
「ありがどう。ごれで、ようやぐ、らぐに、なれる」
「アルゴス、お前……!」
予想外の言葉に目を見開く慧一を尻目に、アルゴスは再び議場側へと向き直る。そこには、負傷したK―2たちの陰に混じって、オミムネの姿があった。
「アルゴス、まさかキミ、この期に及んで裏切る気かい?」
「……命令、ざれだ。ごごは、ごれ以上、だれも、どうざない」
「そっか……。なら、キミの死体を踏み越えて行くだけだよ!」
オミムネが、言葉と共に一斉にK―2を突撃させる。盾を持たないアルゴスは彼らの一斉射撃をその身にまともに受ける。
「な、アルゴス!」
だが、アルゴスは一歩も引かなかった。巌のような体そのままに、ガトリングガンをゆっくりと構える。
「ニケを、だのむ」
ガトリングガンが美しい火花を散らしながら高速で回転し、K―2たちの体に血の花を咲かせていく。
いつだったか、オミムネは言っていた。アルゴスの存在理由は、ニケと似ている。だから、二人は心を通わせやすいのかもしれない、と。クラスターの失敗作であるアルゴスの存在理由は、とうに失われていた。だが、ニケの存在が、そんな彼に再び意味を与え、人としての感情を揺り起こしたのかもしれない。
「……あんたの意志、確かに、引き受けた」
慧一はそれだけ言い残すと、ろくに言うことを聞かなくなった体を無理矢理動かし、久良徒の後を追った。
「ここにもいない! 久良徒の奴、どこに行ったんだ」
出血の止まらない左腕を押さえながら、慧一は議事堂内を駆けずり回っていた。いまのところ、アルゴスのお陰か、追手のK―2がくる気配はない。だが、いつまでも悠長に構えていることなど出来ない。
『最高の席でこの街が生まれ変わる様を見届けてくるとしよう』
久良徒の言葉を思い返す。だが、議事堂の最上階である三階にいる様子はなかった。
では、どこに?
立ち止まって悩む慧一の視界の端で、小さな倉庫の様な一室で、何かが点滅しているのが見える。小型の、携帯型ホログラム装置だ。
まさか――
そう思ってホログラム装置を手にとり、起動してみると案の定、姿を現したのは鵺喰(やぐらい)巽(たつみ)だった。
「ようやく、連絡が取れたわい。しかし、そなたが無事とは驚きじゃな」
「悪いけど、無駄話をしてる時間はないんだ。久良徒栄蛻が今どこにいるのか、心当たりはない?」
「そうよの、ない事はない、かの」
「どこだ!」
勢い込んで尋ねる慧一に対し、鵺喰はありもしない口髭をしごくような動作をしながら答える。
「屋上じゃよ」
屋上。そこは、慧一も思い至らなかったところだった。
慧一は鵺喰から屋上への扉のパスワードを聞きだすと、よろよろとした足取りで、屋上へと向かった。
屋上。有名なピラミッド型の屋根から見下ろされるようにして広がるスペースに出た慧一は、我が目を疑った。
議事堂周辺に設置された砲台が、轟音と共に街中へ無差別に砲弾を吐き出し、そうして放たれた砲弾によってあるビルは炎に包まれ、またあるビルは途中でへし折れ、倒壊していた。武装商社が本陣を敷いていた赤坂離宮の方角は炎と煙に包まれ、夕暮れ時の天を、さらに赤黒く染め上げている。まるで、地獄絵図だった。
だが、よくよく目を凝らして見るとそれだけではない。街から迷彩服を着た兵士の集団や装甲車の車列が議事堂に向け、順に進撃しているのだ。中には数台、戦車も混じっている。さらに、彼らの一部が指揮を取って、周囲の市民を非難させている様子が見える。
「まさか、自衛隊の連中め、わしらの待機指示を無視して、勝手に動きだしおったのか」
手の中のホログラムが、不満を漏らす。
「これで反乱が鎮圧されるんなら、それに越したことはないだろ」
慧一の反論に対しても、老人は鼻を鳴らすばかりだった。
だが、事態はそれほど単純ではなった。議事堂へと進む自衛隊に対し、黒い影が素早くハチの様に接近したかと思うと、自衛隊員たちが血まみれになって倒れ、または装甲車が爆炎を上げた。
――火天だ。
オミムネか久良徒のどちらかは分からないが、ついに涼香が残した火天の制御まで手に入れたらしい。議事堂の敷地を飛び出した火天たちは縦横無尽に街中を走りまわり、各地で自衛隊の部隊を撃破していく。さらに、それを援護すべく、砲台の照準もまた、自衛隊の装甲車などに合わせられている。一方、戦車は砲台からの攻撃に対し、遠距離射撃で対抗している。また、別な場所では避難しつつあった一般人の列に火天が乱入し、容赦なく機関銃を乱射して血の海を現出させる。夕日によって赤く燃え立つ空を砲弾が飛び交い、各地で爆音が鳴り響く。
「地獄絵図――いや、違う。――こいつは、戦争だ」
ずっと、海の向こうの出来事だと思ってきた。それがついに、巡り巡ってこの国の現実となって帰って来たのだ。
「全ては、一時的なことに過ぎぬ。既に、この区域一帯の破壊は在日米軍に依頼済みじゃ」
「ダメだ」
咄嗟に、慧一は鵺喰の言葉を否定していた。もし空爆などされれば、ニケは助からない。どうしても、やらせるわけにはいかなかった。しかし、それを聞いた鵺喰の声には不満がにじむ。
「自ら指揮権を与えるよう名乗り出ておいて、見事に失敗したそなたに、これ以上何が出来るというのだ。そなたは早急に議事堂から離脱し、評議会からの審問を待つのだ」
鵺喰は慧一たちの失敗の罪を問う、と暗に告げていた。しかし、この状況で、そんな脅しがどれ程の役に立つと言うのだろう。
「まだ可能性はある。もう少し、待って下さい」
「いいや。もうそなたにできることなどない。死にたくなければ、ここから撤退せよ」
こちらの言葉をまるで聞く気がない鵺喰の返答に、慧一は頭にカッと血が上るのを感じた。本来なら、理詰めでうまく鵺喰に増援を出させるよう、説得するつもりだった。だが、ただただ自己保身しか考えていない鵺喰の無責任な態度に、慧一は我慢できなかった。そして、気が付けば本心をぶちまけていた。
「嫌です。おれは、逃げません。黙って聞いてれば、どういうつもりだ! ここまでくれば、おれにだって第三世代クラスターが何だったのか、見当ぐらいつく。あれはつまるところ、あんたたちの体のスペアを作るための技術だったんだろう?」
鵺喰は慧一の語気の前に、沈黙するばかり。慧一は構わず声を張る。一度言いだすともう、止まらなかった。
「再生医療を使って百年を優に超える寿命を得てさえ、あんたたちは満足しなかった。だから、当時蕪木一尉が開発していた人と人とを繋ぐクラスター技術に目をつけたんだ。おそらく、クラスターの危険性に気付いた蕪木一尉は、日本の新しい生きる道として、クラスターの別な利用法を模索していたんだろう。だから、老人たちの意図に気付いた蕪木一尉は技術部門をあんたたちには決して渡そうとせず、国に売ったんだ。だが、あんたたちはその夢を平気で踏みにじった。さしずめ、政府に圧力をかけ、国立クラスター研究所の研究目標を、人の精神を移し替えるスペアを作ることに変えさせたんだろう。そしてそれだけでは不安になり、おれに、研究所を破壊させたんだ。事業を完全に自分たちの者にするために」
慧一の弾劾に対し、鵺喰が重々しい口調で答える。
「……全ては、国のためだったのだ。わしらなしでは、まだまだこの国は立ち行かない。わしらはまだ、この国のために、死ぬわけにはいかんのだ」
「違う! あんたたちはただ、死を恐れているだけだ! 死を受け入れることが出来ず、権力の座にしがみつき、醜悪なまでに生を渇望し続けたんだ!」
「じゃが、この技術は間違いなくこの国のためになる。不老不死。人々が千古の時代より求め続けた、神の力。これさえ手中に収めておれば、世界中の国家指導者たちが、さらなる生を求め、わしらの前にひざまずく。この国は、技術という至極平和な方法で、世界を正しき方向へ指導していくことが出来るようになるのだ」
――神の力――
――世界がひれ伏す――
今ようやく、土部の言葉の意味がはっきりとする。全てはそういうことだったのだ。
慧一は体中を駆け巡る怒りに身を任せ、立体投影装置を投げ捨てる。鵺喰の映像が乱れるが、一部が歪んだ鵺喰の映像を流し続ける。慧一の怒りはそれでもまだ収まらない。
「あんたたち老人の、その思い上がった妄執が、死後の世界から、歴史が産んだ鬼子を呼びもどしたんだ! 不老不死だなんて、存在しちゃいけない技術だったんだ。人には過ぎた技術だったんだ」
「……そなたにも、いずれ分かる。年老い、死が近づいた時、どれほど永遠の命が輝いて見えるか」
「そうかもしれない。未来のことなんて、おれには想像もつかないよ。でも今、一つだけ言えることがある。今のおれにとって、自分の命より、何より大切なものがある。だから、おれはもう一度、闘う。大切なものを、取り戻したいから」
慧一はアサルトライフルを強く握りしめる。
「ここで、議事堂を墓標に死ぬことになったとしてもか」
老人の問いに、慧一ははっきりと、深く頷く。
「今こそこの命、賭(と)すべき時だ」
慧一の決意は、揺るぎない。
「ほう。汝、中々骨があるではないか」
上から、高笑いと共に声が降ってくる。慧一が驚いて見上げると、議事堂の頂上、ピラミッド状に石段が並べられたその上に、ニケの体を乗っ取った久良徒栄蛻が立っていた。
「久良徒……ニケの体を、返せ」
砲声や銃撃戦の音があたりを支配する中、銃口を持ち上げ、声を張り上げる。だが、久良徒は胸に手を当て、余裕な表情で朗々と答える。
「残念だが、この体は既に吾のもの。じきにドッペルプログラムから送られてくる吾の記憶に合わせてニューロンの再編成が終われば、吾そのものとなる」
「つまり、まだ完全にニケが消えたわけじゃないってことだな」
慧一は内心ほっとする。だが、急がなければならない。
「そのような些事より、今日は、日本国、いや世界の救世主が蘇ったいとめでたき日。さあ、共に祝うがいい。せめて、その矮小な命ぐらいは、見逃してもよいぞ」
「救世主? 視覚の接続が上手くいってないんじゃないか? 周りの状況を見ろ。あんたは、単なる気の触れた破壊者だ。断じて、救世主じゃあない」
片手で久良徒に銃の照準を合わせながら、もう片手で、阿鼻叫喚の戦場となった街中を指し示す。
「偉大なる創造の前に、破壊は付き物。かつて、吾が唯一犯した過ちは、国の最高権力者さえすげ替えれば、国民の目も覚めると錯覚したこと。愚民どもは所詮、愚民に過ぎぬ。吾を見捨て、滅ぼした愚民どもは一人残らず消し去り、吾に着き従う者たちと共に、理想郷を築くのだ!」
「狂ってる……」
慧一が奥歯を噛みしめる。横から、鵺喰が言いそえる。
「第三世代クラスターは、あくまで生きている人間の主観を、ドッペルプログラムを介してクラスターに移す技術。元が死者では用を為さぬ。あそこにいるのは、人に非ず。久良徒栄蛻が死ぬ間際に残した、言わば怨霊じゃ」
「では、その銃で吾を撃つか? 童よ」
久良徒はそう言うと、二メートル以上ある石段から飛び降り、屋上の上に下り立つ。慧一は銃を構えながらも、返答に窮する。
「どうだ。できまい? その上、例えこの体を拘束し得たところでそなたにできることは何もない」
そこで、久良徒は慧一の視線の先に気付き、微笑する。
「この首にある遠隔操作器か? 確かに、これを破壊すれば吾に関する情報をこの体に送り込むことを、一時的に止めることは出来よう。されど、既にこの体に宿りし吾の意志は消えぬ。――そなたに出来ることなど、何もないのだよ」
「出来るかじゃない! やるんだ!」
操作器さえ破壊すれば、意識の支配権は曖昧になるはず。そして、ニケならばきっと、久良徒の意識になど打ち勝つに決まっている。
現実はいつだって、こちらがどれ程努力しても、鉄の壁の様に泰然と行く手を遮り、揺るがない。真正面からぶつかっても、苦しく、辛いばかりだ。
だが、それでも――
「もうおれは、現実から逃げたりしない!」
心の底からの叫びと共に、慧一はアサルトライフルを手に久良徒へ向けて駈け出していた。
「よせ、狩谷!」
背後で鵺喰が制止の声を上げ、久良徒が見下すような笑みを浮かべる。
「場合によっては臣下に加えてやってもよいと思っておったのにな。つくづく愚かな童よ」
走っていた慧一を遮る様に砲弾が飛びこみ、閃光と共に炸裂する。慧一は強烈な爆風に、木の葉のように吹き飛ばされる。敷地の防御砲台が、狙いを変えて発砲して来たのだ。
「吾が生前に残してきたドッペル達は、ネットワークの中に無数に広がる吾そのもの。一度制御を握れば、いかなる器械も吾の思いのまま。わかるか。これこそ、神の持つべき力なのだ」
屋上の端々、三方向から、九体の火天が飛び出てくる。ワイヤーを使って、壁面を一気に登って来たのだ。
「く、そ……」
口の中が切れ、血と砂が混じった唾を吐き捨てる。衝撃のために、立ち上がることすらおぼつかない。
火天たちの機関銃が、三方から慧一に狙いをつける。
現実は、やはり途方もなく堅い。だが、それでも――諦めない。
視界の端に映るアサルトライフルに向けて手を伸ばす。
その様を、久良徒は汚いものでも見るかのような目で見下す。
「ここまでくると、見苦しきものだな」
「なんだ。もう、お楽しみは終わっちゃったのかい?」
半開きになっていた扉から姿を見せたのは、オミムネだった。左右に、四体のK―2を従えている。その服に着いた血の染みを見て、慧一の心に愛惜の情が吹き抜けるが、今はそうした思いにとらわれている場合ではない。
「おお、汝か。良きところに来たな。汝は、この童に両親を殺されたのであったな。ではせっかく故、汝にこ奴の息の根を止める役を命じよう」
何とか銃を手にとった慧一は、久良度の言葉に耳を疑った。
――おれが、オミムネの両親を殺した?
「そいつは、何の話だよ」
慧一の口から、自分でも驚くほどかすれた声が出る。オミムネは片方の目だけを大きく開き、思案するように黙っていたが、暫くして、何でもないことの様にあっさりと告げた。
「ただ単に、ボクの両親は鳴沢村研究所で第三世代クラスターの研究をしていた。それだけの話さ」
「な――」
唐突な話に、慧一は絶句する。
「もちろん、ボクはキミに会った時からそのことを知っていたけどね。いや、正直に言えば、それだからこそ、キミのあの一切信頼できない友達もどきに依頼して、ゲームセンターに連れて来させたんだよ。この新世代クラスターを巡る争いに巻き込んだのも何もかも、キミにボクの両親を殺した代償を払ってもらうためさ」
「全て、計算の内か」
「ああ。そういうことになるね」
感情を宿さないネコの瞳を見つめながら、慧一は深く、思う。自身が振りまいてきた不幸の種がまた、ここでも悲劇を生み出していたのだ。ただ、自分が甘え、現実を見ようとしなかったばかりに。
「こんな時になってまで、自分のしでかしたことの重さをまた、突きつけられるなんてな。確かに、おれはオミムネに殺されても、文句は言えないし、言うつもりもない。だがその前に、おれはニケを助けなくちゃいけない。後でどんな惨(むご)い殺され方をしてもかまわない。だから、少しだけ、待ってくれないか」
「悪いけど、そう言うわけにもいかないんだ」
K―2たちが、慧一の周囲に立つ。
銃把を握りしめながら、ほぞを噛む。
あと一歩、ニケはもう、目の前にいると言うのに――
諦めるつもりはない。だがそれでも、現実は、余りにも動かし難い。
――慧一、これがわたしからの、最初で最後のプレゼント――
「え?」
頭の中に、響く声。
同時に、慧一の意識が、一気に広がる。
知っている。これは、クラスターに接続したときの感覚だ。そして、接続した先は、慧一を取り囲む、火天の内の二体。
「バイバイ、慧一」
オミムネの尻尾が、大きく揺れる。
慧一の脳細胞が、クラスターを最も効率的に運用すべく、対応する。
合図の声と共に銃弾で打ち抜かれたのは、慧一ではなくK―2たちだった。
「な、なんだ?」
オミムネが思わぬ事態に目を白黒させる中、慧一はさらにもう一体の火天の機関銃で、久良徒が操る火天を二体、破壊する。
「火天の制御を何故汝が……! これらの火天は、そもそもこの童の機器には接続されていなかったはず」
久良徒は動揺しながらも残された火天を使って自らの前面を守らせる。だが、その隙に慧一は全身に残った力を振り絞って立ち上がり、久良徒に向かって走り出していた。
あの声は、涼香の声だった。慧一にも、何が起こったのか分かっているわけではない。しかし、一つだけはっきりと伝わった。涼香は、慧一にニケを救えと、そう言ったのだ。
さらに慧一の操る火天が、敵方の機銃を素早くかわしながら反撃し、また一体の火天を屠(ほふ)る。
「議事堂内のドッペルプログラムに、一部分だけど、走らせた形跡があるよ。まさか、涼香、キミは死ぬ前にドッペルプログラムを使って、最期の意志を託したっていうのかい?」
オミムネが気付き、久良徒が吠える。
「おのれ、蕪木の一族め! 小娘までもが、吾が道を遮るか!」
狂気に燃える瞳が、慧一を捉える。
「神に逆らう愚者よ! その罪、千の肉塊となりて思い知れ!」
久良徒が手を振ると共に、砲台から、次々と砲弾が飛んでくる。
「こんなもので、何が神の力だ!」
意識を、さらに明確に火天へ繋げる。全方向に向け搭載された無数にある火天の高感度カメラ。そこから、砲台の砲身の動き、向き、全てが読み取れる。
「遅い!」
砲弾が自分に向けて発射される刹那、慧一は火天を素早く動かし、自らの体を拾わせ、久良徒に向けて高々と投げさせる。
次の瞬間、何発もの砲弾がコンクリート製の屋根で炸裂し、敵味方の火天ともども議事堂の一角を吹き飛ばす。だが、そこに慧一はいない。
激しい衝撃と共に、コンクリートの上を転がる慧一。受け身に失敗し、嫌な音がする。見れば、左手はおかしな方向に曲がっている。痛みに気を失いそうになる。だがそれでも、体の中に沸き起こる強烈な力に押されるように、慧一は立ち上がり、走り出す。
「おのれ! 小賢しいわ!」
久良徒が残された自身の前に立つ二体の火天を慧一に差し向けてくる。だが、そのすぐ横、土煙の中から慧一の残された最後の火天が飛びだす。
一体を機銃で破壊する。だが、もう一体の反撃を受け、両腕の部分を破壊される。
「うおおおおおおお!」
慧一の口から、腹の底からせり上がってくるように、雄叫びが上がる。
被弾し、炎上しながらも、慧一の操る火天はそのまま突撃していく。そのまま相手のに組みつき、二体は絡み合う様にして屋上の縁(へり)を越え、慧一の視界から消えた。そして数秒後、地上から爆発音が響く。
久良徒を守る火天はもういない。
「これで、終わりだ!」
土煙がもうもうと上がり、火薬のにおいが立ち込める。そうした淀んだ空気を切り裂きながら、慧一は駆ける。
「甘い!」
砲台が火を噴き動き、慧一の横、数メートルに着弾する。強烈な爆風に、慧一の体は木の葉のように吹き飛ばされる。
「まだ、まだあ!」
倒れ伏して痛みに呻く暇などない。転がった勢いのまま立ち上がり、駆けだす。額が切れて、血が目に入る。だが、構うものか!
慧一はついに、久良徒まで二、三歩の位置に辿り着いた。ここからならば、久良徒の首に装着された器械を撃ち損じることはない。
「あり得ぬ、こんな愚かな子供に――」
久良徒が腰から拳銃を抜き、慧一に向けようとする。だが、それより早く、慧一のアサルトライフルが拳銃を弾き飛ばす。
「あんたの、負けだ!」
アサルトライフルが再び火を噴き、遠隔操作器を正確に撃ち抜いた。破壊された操作器が、ぽとりと久良徒の足元に落ちる。
辺りで響いていた砲声や銃声がやみ、静寂が訪れる。
「ニ、ケ……」
慧一に操作器を撃ち抜かれたままの姿勢で呆然としている久良徒――もといニケに、慧一が恐る恐る声をかける。
「……」
ニケの返事は、ない。
「ニケ、おれだ、狩谷慧一だ。分かるか」
慧一が、よろよろとニケに近づく。
「――ああ、分かるとも。童(わっぱ)」
ニケの顔に歪(いびつ)な笑みが浮かんだかと思うと、慧一の頬にニケの拳が食い込み、慧一は無様に倒れ込んだ。
「言ったであろう? 操作器を壊したところで、一時的に『久良徒栄蛻』という人格のダウンロードが止まるだけで、元になど戻らぬ、と。この体に宿っていた人格など、仮初(かりそめ)の代物に過ぎぬ。器に中身が満たされれば、自然と消えてなくなる。当然であろう」
最悪の、結末だ。だが、それでも慧一は起き上がろうと力の入らない手足でもがきながら訴える。
「嘘だ! ニケ、目を覚ませ! お前が望んだ未来は、こんなものじゃなかったはずだ。そんな、過去の遺物に食いつぶされるほど、お前の意志は弱くなんてなかったはずだ」
「学ぶがいい。愚かなる童よ。願いとは、届かぬものだ。どれ程思い、希(こいねが)っても、遂げられぬ。かつて、吾もまた、そうであったように!」
階下から、再び火天たちが次々と屋上に昇ってくる。さらに、砲台も街中への砲撃を再開する。
「全ては、元の木阿弥(もくあみ)。無駄だったのだ」
「違う、ニケは決して、あんたなんかに屈したりしない」
「愚か。現実を直視できぬとは。この世界に散らばるドッペルは、既に吾との同期を終えておる。機器で直接操らずとも、吾の思いを汲み動く。――そなたはよくやった。安らかに眠るが良い」
火天たちが近づいてくる。だが、慧一はニケに呼びかけるのをやめなかった。
現実を直視しない? 違う。慧一は、一分の疑いの余地もなく、信じているのだ。だから、違う。慧一が今まで逃げ続けてきた現実に、むしろ慧一はこの時、正面からぶつかっていた。
「ニケ、お前は器なんかじゃない。久良徒栄蛻でもない! やたらと勝気で、自信過剰な、勝利の女神だろう! 勝利の女神にも無理なら、おれがお前の信じる希望に満ちた明日を守って見せる、過去を、楽しい日々だったと振り返れるようにしてやる! だから、戻って来い! ニケ!」
土ぼこりと血に汚れた姿で、掠れた喉を振り絞りながら叫ぶ。慧一の心の底からの叫びであり、誓いだった。
「くどい! 汝の望みは断たれた。さあ、潔く、う、ウウ――」
顔をしかめ、久良徒が頭を押さえる。火天たちも動揺し、動きが乱れる。
「何だ、これは……頭が、頭が割れるように痛む……」
ニケだ。慧一は確信とともに声を張り上げる。
「ニケ、目を、覚ますんだ!」
「馬鹿な、クラスターが、その役目に反して、吾が意志に歯むかうなど、出来るはずがない……!」
だが、間違いなく久良徒は目をむき、苦しんでいた。
あと一歩、あとひと押し。
「おれは、今度こそ本当に、お前を救いに来たんだ――その暗闇から、出て来い! ニケ!」
「ウオ、オ、オオ、オオオオオオオオ!」
久良徒の体の奥底、魂から解き放たれたかのような叫びが、果てしなくこだまする。
そして、唐突に止んだ。
「ニケ……」
慧一が、よろよろとニケの体に歩み寄る。
放心状態になっていた少女の瞳が動き、慧一に向けられる。そして――その表情に、悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「慧一の恥ずかしいセリフ、もうちょっと聞いてたかったな」
――慧一の声が、届いたのだ。
余りの嬉しさに、慧一はニケに駆けより、抱きついてハグ――しそうになったが、緊張の糸が切れたため、全身の力が抜けてしまい、数歩進んだところでたたらを踏む。
「わ、ちょ、慧一!」
前のめりに倒れかかる慧一を、ニケが慌てて抱きとめる。だが、ニケもまだ思う様に手足に力が入らなかったらしく、二人揃って倒れ込んでしまう。
「慧一……重いんだけど」
絡み合う形で慧一の下敷きになったニケが不平を漏らすが、慧一は聞いてなどいなかった。
「よかった……本当に、よかった」
ニケの存在を確かめるようにその手を取ると、強く握りしめる。目頭が熱くなり、こびりついた血の上を、涙が濡らしていく。
ニケは諦めたように溜息をつくと、同じように強く握り返してくる。
二人の目が合い、糸で結ばれたように、強く、重なる。どちらからともなく、次第に二人の口元から笑いが漏れ、気が付けば、二人は折り重なったまま、声を上げて笑っていた。痛みも疲労も、笑いによって、洗い流されていく様な気がした。
だが、二人の笑い声は、銃声によって断ち切られた。
一拍早く気付いたニケが咄嗟に慧一を突き飛ばし、自身も反対方向に転がる。二人の間をわかつように、銃痕による線が穿たれる。
素早く立ち上がったニケが、周りに目を走らせる。
「こいつら、どうしてまだ動くの!」
二人に機銃を向けながら、一度は止まった火天が、動き出していた。ニケの問いに対する答えは、火天のマイクから発せられた。
「吾が記憶を受け継いだ汝なら分かるであろうに。汝の中にいた吾は、世界中のネットワークに散らばる遠大なる吾の一部に過ぎぬ。汝が器の身でありながら吾の意識を退け、肉体を再び得たことは計算外であった。されど吾にとっては修正可能な、些細な過ちよ」
「あんたね、このあたしの体を奪おうだなんて大それたことしておいて、よくもぬけぬけとそんなこと言えるわね」
立ち上がることもまともに出来ない慧一を無視して、ニケがびしりと火天に人差し指を突きつける。
「汝はどうやら、器としては不良品の様だ。なれば、ここでその童ともども始末してくれる!」
屋上に新たに現れた火天は六台。一方、こちらは立ち上がることすらできない人間に、未だに全身の感覚を取り戻しきれていない丸腰の少女。ここまで強気を保ってきた慧一の心にも、絶望がさざ波のように押し寄せる。
ここまで来て、もう、ダメなのか?
活路を求め、周囲を見回すが、屋上では逃げ場などない。
余りの条件の悪さに気付いたのか、さすがのニケも表情が固くなる。
「ちょ、ちょっと慧一、人を助けるんなら、もう少しまともな状況で助けなさいよ」
無茶苦茶言っている。
だが、このままでは――
火天の動きが突然加速し、神速でもってニケに襲いかかる。
「ニケ!」
逃れる間もなく、火天のアームに捕らえられたニケは、首を絞められたまま宙づりにされる。
「吾が手を煩わせ続けた汝は、楽には殺さぬ」
「く、こい、つ……はな、しな、さいよ」
ニケが両手で必死にアームを振りほどこうとするが、凶悪な戦闘マシンの力の前には、赤子の抵抗に等しい。ニケの首筋に血管が浮き出て、見る見る顔色が青くなっていく。
「チクショウ!」
慧一は無様にアサルトライフルの下まで這うと、震える手で反応を押さえながら、火天に向けて引き金を絞る。フルオートで放たれた弾丸が間断なく火天の装甲を襲うが、金属音が鳴り響くばかりで、傷一つ負わせることが出来ない。久良徒は慧一に構わずニケの首を絞め続ける。
「吾は決して死なず、この神の力でもって、世界を再創造する。第三世代クラスターも、また作ればよいだけのこと。火天も止まらぬ。砲台も止まらぬ。さあ、せめて新しい時代の幕開けを見れたこと、喜びながら死にゆくがよい!」
「けい、い、ち……」
目に涙を浮かべ、口の端から唾液を垂らしながら、ニケの手が慧一の方へ向けられ、そして力なく落ちる。
「やめろおお!」
火天へと駆け寄ろうとした慧一だったが、すぐに足がもつれ、その場に倒れ伏す。
――結局おれは、誰も救えないのか?
慧一の心に絶望がせり上がってくる。
「違うね。死ぬのはキミさ、久良徒栄蛻」
鈴を鳴らすような、場違いな子供の声が響く。その場に居合わせた全員が言葉を失う中、黒ネコは不気味に目を細める。
「いや、とうの昔に、死んでるか」
全方向でほぼ同時に、巨大な爆発が巻き起こる。防御砲台が一斉に爆発したのだと理解するのに、慧一は一拍の時間を要した。
「こ、こいつは……!」
砲台だけではない。自衛隊を圧倒し、街を荒らしていた火天たちもまた、遠くで次々と爆発し、炎に包まれている。
「じ、自爆している?」
訳が分からず、慧一は唖然としてその様子を見つめる。
「そ、そそそ、そんな、はずは」
久良徒の狼狽が火天に伝わり、アームが緩んでニケが滑り落ちる。ニケの顔は真っ青だったが、すぐに咳き込み始める。
――よかった、間に合ったんだ。
慧一の口から、安堵のため息が漏れる。
一方、慧一たちを囲む火天からも狼狽しきった様子が伝わってきていたが、すぐに我に帰り、この事態を引き起こした犯人に火天の機銃を向けようとする。しかし、動きは極めてぎこちなく、放たれた銃弾はあらぬ方向へ飛んでいく。
「汝、汝か、オミムネ! おのれ、なにをした!」
怒声に火天のスピーカーの音が割れ、くぐもった声となって響く。だが、平然とした様子で尾を宙に浮かべている。
――まさか、オミムネがおれたちを助けてくれたのか? 両親の仇であるはずの、おれを?
慧一は信じられない思いだったが、そのまさかだった。
「いやー、苦労したんだよ。オリジナルと一時的に同期させるためにつながっていたとはいえ、その時の回線を割り出して、世界中に散らばるキミのドッペルを、一つ残らず一斉にクラッキングするなんて、並大抵じゃない労力なんだから」
「こ、こ奴、この段になって、裏切るか!」
動きがおかしくなった火天が、それでもよろよろと、オミムネに向かっていく。そんな久良徒に対し、オミムネは面白がるように言う。
「裏切るも何も、キミにも何度も言ったろう? 全て、ボクの計画通りさ。何のつながりもなく別個に世界中に眠るキミのドッペルを一つ残らず潰すのは、いくらボクでも、無理だからね。キミを手伝って、全てのドッペルと接続するその瞬間を待っていたんだよ。これで、キミは二度とニケを狙うことは出来なくなる」
「お、おおおお、愚かな。そんな真似をすれば、吾と同じく、ドッペルプログラムにて生かされておる、そなたもまた、消滅するのだぞ! 何故(なにゆえ)……!」
目の前に立つ火天を見上げ、オミムネはあっさりと告げた。
「理由? 簡単な話さ。ニケは、ボクの両親がかつて、自分たちの細胞を使って造り出した試験体なんだ。つまり、この世でたった一人残された、ボクの肉親なんだよ。だから、命に代えても守って見せる。そう、決めたんだ」
「え? あ、あたし?」
予想をはるかに超える話に、呼吸を回復したばかりのニケが頓狂な声を上げる。慧一もまた、ショックの余り口を半開きにしたまま呆然としてしまう。
まさか、ニケとオミムネが姉弟だったなんて。
だが、考えてみれば、オミムネのニケに対する態度は、姉に対する、甘えの表れだったのかもしれない。命を失った上で得られた、切なすぎるほど悲しい甘え――
「愚か、愚か愚か愚か愚か愚か愚か愚か愚かあ!」
全ての火天から、憎しみと怒りに燃える声が轟く。その声は、まさに地獄の底から響く様な、底冷えのするものだった。
「吾は、吾は、こんな者たちに、敗北するのか! ただの器に、過ぎぬ体に、入れ込んだだけの、者たちに。吾の理想は! 吾の夢は!」
天に怒り、己の不遇を怨む亡者を前にして、慧一は初めて久良徒に憐れみを感じていた。彼の理想も、夢も、歴史に名を刻ませるほど、素晴らしいものだった。きっと放っておいても、誰かが彼の想いを継いでいただろう。だが、久良徒は他者に任せるを良しとせず、ひたすら一人で背負い続けようとし、結果としてその想いを変質させてしまった。ドッペルが死の直前の姿を映し出していると言うのならば、久良徒栄蛻は、真の意味で、とうの昔に死んでしまっていたのかもしれない。
そして今、中身を失った久良徒の理想が何故敗れるのか、答えは明白だった。慧一の口が、自然と動く。
「生きて、考え、何かを願う。そんな存在を、器としか見られなかった。だからあんたは負けたんだ! 今こそ、あるべき場所へ帰るんだ!」
慧一の言葉を合図にするように、オミムネが大きく尻尾を振る。
「待て、吾はまだ死なぬぞ! 吾は、神に――」
テロリストの声を、その見果てぬ野望もろとも、一斉に巻き起こった火天の爆発がかき消していく。
全てが、終わったのだ。
「さて、後は議事堂を含め、世界中に残されたドッペルプログラムの基礎データさえ全部壊しちゃえば、第三世代クラスターは事実上利用不能になり、ニケを狙う人間もいなくなる。万事解決だね」
赤々と燃える夕日に照らされ、静けさを取り戻した屋上で、オミムネがポツリと口を開く。慧一はオミムネに感謝の視線を送りながら、ずっと気になっていたことを訊ねる。
「オミムネ、全てがお前にとっての、復讐だったんだな。両親を殺したおれを、憎んでいたんだろう」
「まさか。ボクはただ、キミに真実を、全てを知って欲しいと願っていただけさ。キミを怨んだことなんて、一度もないよ」
「だが――」
言いさした慧一に、オミムネは優しげな瞳を送る。
「だって、キミはボクの、たった一人の友達だったんだから」
オミムネが微笑む。ネコの姿を通して、その向こうに、幼くも天使の様な慈愛に満ちた笑みを浮かべた少年の姿が、慧一にははっきりと見えた。
「ああ。お前は、おれの友達、たった一人の大親友だよ」
慧一の目から、涙があふれる。オミムネは、茶化して言った。
「お互い、友達が少ないみたいだね」
「全くだ」
もう、涙をぬぐう気も起きず、慧一はただ一心にぼやけた視野でオミムネを見つめ続けた。
「狩谷。ニケを、頼んだよ」
そこへニケが駆けよってくる。
「オミムネ、本当にあなた、あたしの弟なの?」
「遺伝子的には、ね」
その返答に、やはり現実を受け止めきれないのだろう。ニケが目を丸くする。その表情を見て、オミムネはどこか悲しげに笑う。
「いいんだよ、別に。ニケがいきなりこんなこと言われて、混乱するだけなのは分かってるから。これは全部、ボクが勝手に、好きでやったことなんだから。キミは何も、気にすることはないよ」
「なーに言ってんのよ!」
予想外の明るい声に、オミムネが驚いて顔を上げる。ニケは、そんな黒ネコにニッと笑って見せる。
「信じるに、決まってるでしょ。あたしは仲間の言葉を疑ったりなんて絶対にしないし、ましてついさっき、命がけであたしを助けてくれたんでしょ? そんなあんたの言葉を、疑うわけ、ないじゃない」
今度は、オミムネの方が信じられない、と言う表情でニケを見返す。
「じゃあ、本当に、ボクを弟だと、思ってくれるの? こんな、ネコの姿をしていても?」
「あんたが根っからのネコ科の動物だって言うんじゃなけりゃね」
軽口を叩いた後、ニケはふっと黙って、オミムネを見つめる。
「……こんなあたしにも、家族がいたんだ……」
ニケの頬を涙が伝い、オミムネを、そっとその胸で抱きしめる。
「おねえちゃん……」
慧一の目にははっきりと、互いに抱擁し合う、男の子とニケの姿が見えた。
慧一は、この二人から両親を奪ったのだ。そう思うと、胸に棘が刺さった様な気分になる。だが、それでも、その想いを抱え、現実を見据えながら生きて行くのが、慧一に課せられた責務だろう。
オミムネが、すっとニケの胸から抜け出る。
「オミムネ?」
怪訝な表情をするニケに、オミムネは告げる。
「ごめんね。でも、もう行かないと。ドッペルプログラムの基礎データまで破壊しないと、久良徒栄蛻は完全に滅んだことにならないんだ」
思わず、慧一は口をはさむ。
「オミムネのデータだけ残して、他を消すことは出来ないのか?」
だが、オミムネは静かに首を振る。
「それは出来ないよ。久良徒は自身が消去されにくいよう、プログラムの根幹にくっきりと自分のデータを焼き付けているから。それに、ボクはとうに死んだ存在だ。死んじゃった人間が命を望んでも、ろくなことにならないことはキミだって十分わかっているだろう?」
「……そうだな」
「せいぜい、天国だか地獄だかで、涼香に謝りにいくよ。ああ、せめてもっと違う出会い方をしてたら、涼香ともボクはずっと友達でいられたのかな」
その言葉の中に強い悔恨の思いを察して、慧一は口を閉ざした。どれだけ言葉を尽くしても、決してオミムネはこの世に留まりはしないだろう。
「オミムネ、そんな、やだよ」
ニケが、泣きじゃくりながら張り裂けそうな声を上げる。
「ごめん、おねえちゃん。本当は、ボクもずっとおねえちゃんと一緒にいたかった。おねえちゃんと一緒に歳を取って、一緒に笑って、そんな毎日がずっと続けばいいと思ってるよ。でも、今日まで一緒にいられた日々だけでも、もう死んじゃってるボクにとっては、十分過ぎるほど幸せだったよ」
「宗則、だめ、いかないで!」
オミムネは、照れたように笑う。
「初めて、下の名前で、呼んでくれたね。ありがとう。バイバイ、おねえちゃん、バイバイ、慧一――」
夕日がはるか遠くのビル群の間にかかり、オミムネの後ろから、辺り一帯を、まばゆいばかりに白い光が満たす。
全てを光が包み込んでいく。
そして、日がが沈んだ後には、いとけない声で鳴く一匹の黒ネコが残された。
エピローグ
「おはよう」
朝、二階の自室から降りてきた慧一が両親に声をかけるが、二人からの返事はない。どうやら、ツヴァイクとの契約を切ったことを、今でも起こっているらしい。
慧一はそれ以上に気することなく、テーブルに置かれたパンを口に運びながらテレビに目を向ける。
相変わらず、朝のニュースは先週起こった国会議事堂占拠事件と、それに伴って世界中に暴露された評議会の第三世代クラスター計画の話題でもちきりだった。
どうやらオミムネはニケの身の安全を担保するために、ニケに関するデータ以外の第三世代クラスターに関する秘密と、それに関わる老人たちの暗躍を証拠付きでネット上に上げていたらしい。世界を揺るがそうとした老人たちの各策は海外メディアにまで大々的に報じられ、さすがに彼らの情報統制も及ばず、全ては白日の下にさらされることとなった。評議会の権力はいずれ、地に落ちることになるだろう。
「いってきまーす」
支度を整えた慧一は、早々に家を出て行く。今日は日曜日。慧一が向かった先は、かつてアルゴスが暮らしていた、旧タクノ社の事務所だ。
老人たちの野心をはっきりと見せつけられた世界の国々は既に多くが武装商社との契約を取りやめており、直に政府が商社の特許状を凍結すると言う噂も出ている。
慧一が入って行った玄関の横には、『非武装商社タクノ』の文字。
簡素な部屋の中で慧一を待っていたのは、この新生タクノ社の新しいガヴァナー、ニケだ。
「遅い! 慧一、五分の遅刻だよ!」
「悪い。まだ片手での生活に慣れきれてないんだよ」
包帯で吊られた左腕を掲げて見せる。
「そんな怪我、気合で治しなさい!」
「そんなんで治ったら、医者なんていらないだろ……」
慧一が呆れていると、ニケの足元に、黒ネコがすり寄って来て、甘えた声を上げる。
「あ、ごめん、オミムネ。朝ご飯、まだだったね」
部屋の奥からネコ缶を取り出し、中身をエサ皿に入れる。黒ネコは待ってましたとばかりにかぶりつき、心底幸せそうな表情でほおばっている。
「ニケが動物を飼うだなんて、すぐに餓死させそうだと思ったけど、意外にちゃんと世話をしてるんだな」
「失礼だな。あたしにだって、ネコの世話ぐらい出来るに決まってるでしょ」
ニケが頬を膨らませて抗議する。
特許状を自主返上したタクノ社に残された社員は、慧一とニケ、そしてただの黒ネコに戻ってしまったオミムネだけだった。
「さあ、それじゃあ、新生タクノ社で、いかにしてこの国を制覇していくか、計画を立てるわよ!」
ニケが気合満々といった様子でこたつの横に座る。慧一も苦笑しながらこたつに向かう。その途中、ふと黒ネコが目に入る。口の周りにエサをこびりつけた黒ネコは、『どうしたんだい?』と言いたげな表情で慧一を見返しながら、舌でこびりついたエサを取る。
――ニケのこの笑顔を、お前は命がけで守ってくれたんだよな、オミムネ――
慧一は心の中で語りかけると、こたつの前に腰を下ろした。
朝日が窓から差し込む中、二人の間でタクノ社の将来に対する、途方もなく遠大な談義が繰り広げられていく。
「まずは……そうね、蕪木一尉が遺してくれた技術を使って、新しい事業を開始するところから始めましょ」
「――この年ごろには、きっと億単位の利益が稼げてるはずよ」
「得られた資金で政治家どもをひざまずかせて――」
武装商社を失い、クラスターによる収入の道が断たれたこの国は、これから大きな困難に直面していくだろう。ツヴァイクとの契約を打ち切った慧一も、前途多難だ。ニケに至っては、住む家もなくタクノ社の事務所に間借りしている状況だ。
だが、きっと全てはうまくいく。
未来を信じ、目を輝かせる少女の前に座りながら、慧一は心の底からそう確信することが出来た。
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2012/01/02(Mon)14:48:55 公開 / 浦田おぼろ
■この作品の著作権は浦田おぼろさんにあります。無断転載は禁止です。
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■作者からのメッセージ
はじめまして。今回初投稿させて頂きました、浦田おぼろと申します。
これからの創作活動の指針を考えるため、またブラッシュアップのために是非とも客観的な意見を頂きたいと思い、投稿しました。
かなり長い代物になってしまっていますが、途中読み、飛ばし読みなどでもかまいませんので、是非ご意見、ご感想など聞かせて頂けたら幸いです。
今まで小説は何本か書いてきましたが、やはり、より多くの人に読んでもらい、今回の小説をさらに改善していき、自分としての到達点の一つにしていきたいと考えております。
内容は近未来の日本を舞台にした、エンターテイメント小説になっています。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。