『群神物語〜閃剣の巻〜3後半』 ... ジャンル:リアル・現代 ファンタジー
作者:玉里千尋
あらすじ・作品紹介
これは、神と人の世が混じり合う物語……。※登場人物、キーワード説明を『あとがき』に記載しております。
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三 『共鳴 一』
(十)
◎◎
ミハカシヒメが死んでから十四年の歳月が流れました。
スクネはイヅモの国におりました。イヅモにある大規模な鉄精練所の視察に来たのです。一年前にタラシヒコが死に、太子であるワカヒコが大王に即位しました。ワカヒコの信頼が厚かったスクネはいまや、ヤマトの内政、外交の処理を一手に引き受ける官庁の長官となっていました。当初ワカヒコからは、あまたの臣下の中でもっとも位の高い大臣(おおおみ)になるよう命ぜられたのですが、スクネはそれを固辞しました。
《大臣になどなったら、都から離れられず身動きがとれないからな》
イヅモの製鉄所はこのころようやく軌道にのってきていました。国産の鉄剣の量産体制も整いつつあったのです。
武器工場の視察もし、スクネは剣や鎧のできばえに満足しました。
スクネはたまに妙な気持ちになるのでした。
スクネの本当の主人はコマです。それはヤマトの臣下に名を連ねるようになって十五年たっても変わらないのです。スクネのもとには定期的にコマからの指示がきていましたし、スクネもヤマトの情報を逐一コマへ報告することを忘れませんでした。スクネの提言のもと、ヤマト朝廷は任那派兵に力を入れるようになっていました。シラギとの仲は険悪なままでしたが、クダラとは弱い同盟関係のようなものを築いていました。それはどちらかの国がシラギを攻めても互いに知らんふりをする、という程度のものでしたが、ヤマトと、そしてコマにとっては重要なことだったのです。
《いよいよコマがシラギを滅ぼす時期にきたか。その際はヤマトが任那の地を抑えコマを助けるのだ。ヤマトには任那直轄地の安堵と、カヤの港の優先使用権を与えるくらいでいいだろう。ここ数十年間の経験で、シラギが隣国として信用のおけない国だとヤマトもつくづく骨身に染みたことだろう。シラギにカヤを支配されれば、軍事的にも経済的にもヤマトにとって急所をにぎられることになってしまう。これについては俺が何度も口を酸っぱくして説明しているから、大王も理解しているはずだ。それにこれはけして嘘じゃない。シラギよりもコマのほうが、ヤマトにとってもいい相手であるのは間違いのないことなのだ》
任那では鉄の生産が続けられていましたが、いまやその成果物を手に入れることは、ほとんどできない状態になっていました。戦争に不可欠な武器を必要なだけ準備するためには、任那産の鉄に頼っていては追いつきません。イヅモ製鉄所が軌道に乗ったのは、ひとえにスクネがその人脈を駆使し、カラや中原国から大量の技術者をかき集めたおかげだったのです。この功績によりスクネは朝廷内でも強い信頼と発言権を獲得したのでした。
スクネがときどき妙な気持ちになるというのは、ヤマトの力を自分がせっせと大きくしているという事実に皮肉を覚えるからでした。しかしむろんこれはコマも承知していることです。
《敵の敵は、味方か。確かに弱すぎる味方は逆に足手まといだ。コマを超えないほどに、しかし使えるくらいの強さをヤマトには身につけてもらわなければ。それにそれなりの手はうってある》
実はスクネがヤマトに導入した製鉄の技術は少しだけ時代遅れのものなのでした。中原国では、より効率的で大規模な製鉄技術が開発され、コマでもそれを見習いつつありました。しかしその最新技術まではさすがにコマもヤマトに与える気はないようでした。
《さて、そろそろ次のコマからの報せをシチがもって来るころだな》
スクネには製鉄所視察のほかにもイヅモで色々用事がありました。カラに出張しているシチと港で落ち合うことになっているのも、その一つでした。
《それから、もう一つ。これが一番厄介な仕事だが……》
スクネ様、こちらでございます
スクネは製鉄所をあとにし、山ぎわに建てられた巨大な神殿の前まで来ると、乗ってきた馬を下りて門をくぐりました。
神官に案内されながらスクネはつぶやきました。
まったく、いつ来てもばかでかい建物だ
それに対し神官は愛想笑いを返しましたが言葉は発しませんでした。朝廷の権力者であるスクネになんと受け答えをしたらよいか分からなかったのです。ただほんのわずかだけ足を速めただけでした。スクネが早く目的地にたどり着きたいと考えているとでも思ったのかも知れません。
《早くあの方に会いたいのか、できれば会いたくないのか、俺にも分からんよ》
いくつもの角を曲がり、たびたび段を上って行った先、神殿のもっとも奥深くにようやく到着すると、神官はまたもや不得要領のあいまいな笑みを浮かべ、廊下の先を指し示しました。この場は身振りでものをいうのが一番適していると判断したようです。スクネも黙ってうなずくと、神官はすぐに装束をひるがえして足早にもと来た道を戻ってゆきました。それでスクネはなんだか途方に暮れたような気分に陥りましたが、気をとり直して奥の部屋へ入ってゆきました。
部屋の入口の両側に据えられた大壺には季節にかかわらず濃い緑色をした榊の枝が天井に届かんばかりにうず高く飾られ、辺りにはつんとするほどに沈香がたっぷりと焚かれているのもいつものとおりでした。部屋の中央には目隠しのため、天井から床近くにまで何枚もの白絹が垂れ下っています。
スクネが一歩中に入ると、奥のほうから一陣の風がさっと巻き起こったかとみえ、とたんに一人の少女が布をひらひらと揺らめかせながらスクネのほうへ駆けてきました。
スクネ!
スクネがものを言う前に少女はスクネに抱きつきました。スクネは一瞬息がつまりそうになりながらも少女を抱きとめ、そして無理やり体を離しました。
タラシヒメ様。お久しぶりでございます
スクネを見上げた少女の顔はふくれっつらでした。
お久しぶりじゃないわ。おお久しぶりよ。スクネ。この間ここに来たのは、どのくらい前だと思って?
ええと……、ふた月ほど前ですかな?
七十一日前よ。スクネ。お前は、わたくしの、いったいなんなの?
はあ。守り役を任ぜられております
七十一日にいっぺんきり顔を見せるだけで、守り役が務まると思っているの?
申しわけございません。都での用がなかなか片づきませんで
そんなの言いわけよ。亡きお父様はお前になんと言ったかしら。くれぐれも、タラシヒメのことを、よろしく頼む、こう、おっしゃったのよ
タラシヒメは、一つ、一つ、言葉を区切って、言いました。
くれぐれも、と、よろしく、というのは、どういう意味か、分かる?
タラシヒメ様のお世話に責任をもて、ということでしょう
するとタラシヒメは嬉しそうに手を叩きました。
スクネ! お前、ようやく分かったのね!
スクネはびっくりして目を白黒させました。
分かったとは?
男が女の世話をするっていうのは、もちろん妻にするということよ。そうでしょ。お前がそれをいつ言い出すのか、何年もずいぶん待ったわ。あんまり待ちすぎて、もう少しでお前を嫌いになるところだったわ。でも、わたくしがスクネを嫌いになったりするはずはないわね。だって、わたくしはお前の妻になる運命なのだもの
ちょっと、ちょっと、お待ちください
スクネはめまいがしてきて、タラシヒメを椅子に座らせ自分も座りました。
タラシヒメがスクネの顔をのぞきこみます。
どうしたのスクネ。顔色が悪いわよ。わたくしの前だからといってあんまり緊張しなくていいのよ
いや、緊張と申しますか……
スクネは額に手をやり少し気を落ち着けようとしました。そして一息つき、ようやく顔を上げました。いっしんに自分を見つめているタラシヒメから目をそらさないようにしながら、ゆっくり噛んで含めるように話しました。
タラシヒメ様。ようくお聞きください。確かに私は、亡き大王タラシヒコ様よりあなた様の面倒をみるよう命ぜられました。しかしそれは、あなた様がなに不自由なくお暮しになり、つつがなくご成長するよう気を配れ、ということであって、私があなた様を妻にする、などということを意味しているのではございません
嘘よ!
嘘ではございません。そもそも私は朝廷にお仕えする臣下の身であり、しかも異国の出身です。大王の皇女様と結婚するなどということができるはずはありません。そんなことをすればタラシヒメ様の尊い血筋を穢すことになり、あなた様を目に入れても痛くないほどに可愛がられていた前(さき)大王のご信頼を踏みつぶすことになってしまいます
タラシヒメはうなだれました。
お父様がわたくしを可愛がられていたなんて、嘘よ。わたくしが都にいては邪魔だからこんな田舎の神殿に押しこめて、ろくに会いにも来てくださらなかったわ
スクネは力をこめて言いました。
それは違いますよ、タラシヒメ様。都にとどめておくより、ここにおられたほうがタラシヒメ様のためになるという、大王の苦渋の決断があったからです。あなた様の母君ミハカシヒメ様を、タラシヒコ様はそれはそれは深く愛しておられました。ミハカシヒメ様があなた様をお産みになって間もなくお亡くなりになったとき、大王のご悲嘆は大変に激しいもので、クマソから都に戻ってきてからもしばらくの間臥せってしまわれていたくらいです。それほど愛された女人の忘れ形見であるあなた様を、大王は手中の玉のようにして大事にされておりました。ご自分のお名前をあなた様におつけになったのも、そのような愛情の表れです。しかし愛せば愛すほど、あなた様の身に危険が及ぶということに、そのうち大王は気づかれたのです。
今もそうですが、当時から朝廷でもっとも有力な豪族はミノのヤサカ家です。ヤサカ家は、今の大王ワカヒコ様の母君の、イリビメ様のご実家です。大王とてこのヤサカ家の意向を無視なさることはできないのです。タラシヒメ様は。廃家となったとはいえ、ヤマト朝廷と並ぶほどに古い歴史をもった由緒正しきハヤツ家の最後の血をひく方。血の尊さでいえばワカヒコ様に優っても劣るようなことはございません。それに大王のご寵愛がともなえば、これは女の方とはいえヤサカ家に対抗しうる力に成長しかねない。朝廷の人間はそのような勢力の高低に非常に敏感なものです。
タラシヒメ様をとり囲む空気が緊張感を増し始めたのを感じ、タラシヒコ様は、あなた様を都から遠ざけることを決心なさいました。ここイヅモはヤマト発祥の地であり、朝廷がもっとも敬うイヅモ神殿がある場所です。大王もここには年に一度は参詣なさいます。さらに鉄鋼山の開発も進み、経済的にも重要な拠点となりつつあって、治安も整い、都との往来も多くあります。ですから、なにかあればタラシヒメ様のもとに私なりがすぐに馳せ参ずることもできます。そうした様々なことをご考慮なさって、タラシヒコ様は、あなた様をイヅモ神殿にお預けになることにしたのです。タラシヒコ様はお亡くなりになる直前まであなた様の行く末をご心配され、私に何度もお頼みになっておりました。私は渡来人でありながら、タラシヒコ様に厚く引きたてていただき、こうしてヤマトでの重要な地位に昇ることができました。タラシヒコ様にはお返しできないほどの深いご恩をいただいているのです。ですから私には、タラシヒメ様をお守りし、幸せになっていただくための責任があるのです
タラシヒメは自分の長い髪の毛をくるくるといじりながら言いました。
わたくしを幸せにしたいと思うなら、わたくしと結婚してちょうだい
スクネは少し怒ったように言いました。
それはできませんと申し上げたはずです。だいたい姫様は、結婚するということがどういうことか、お分かりになっていらっしゃるのですか
タラシヒメはにこりと笑いました。
もちろんよ。わたくしには、もうお前の子を産むこともできるわ。去年そうなったの
スクネは思わず顔を赤らめました。
そのようなことを、深窓の姫君がおっしゃるものではありません
タラシヒメはむっとしたように言い返しました。
深窓に閉じこめたままにしておいたのはどこの誰なの。このようながらんとした寂しい場所で、辛気くさい神官たちに囲まれてすごす日々がどんなものか、お前には分かって?
涙ぐむタラシヒメに、スクネは口調を和らげました。
本当に、お寂しい思いをさせまして、申しわけございません
タラシヒメはぐずぐずと鼻を鳴らしました。
お前はいいわよね。あちこちと出歩いて遊んでばかりいるのだから
遊びでではなく、仕事で出ているのです
ついでに女遊びもしているのでしょ。知っているのよ。都ばかりでなく、地方の村々、どこにでもお前とわけありの女たちが大勢いるって。次から次へと女をわたり歩くくせに、わたくしだけには手もふれないなんてどういうこと? ばかにしているわ
な、なにをおっしゃいますか。それにいったい、どこからそんな話を……
イヅモで知らない者はいないわ。今宵もどうせ、イヅモに何人かいる女のうちの一人の家に行くのでしょう。そしてまたわたくしだけ、寒々とした思いで一人寝をするのだわ
二人の会話が痴話げんかじみてきたのに気がつき、スクネはなんだか頭痛がしてきました。
《まったく、なんてことだ。……いや、しかし、かえって例の話がしやすくなったかも知れん》
スクネは咳払いをしたあと、きり出しました。
今日は、タラシヒメ様に重要なお話をしにまいったのです
結婚以外の重要な話って、なによ
いえ、実はご結婚のお話です
タラシヒメはきょとんとしてスクネを見上げました。スクネは笑顔を作りながら話し始めました。
タラシヒメ様にご縁談をおもちしたのです。お相手はナカツ王子。タラシヒコ様のご長男、ヲウス様の一人息子でございます。
ご存知のとおり、ヲウス様は大王の勅命により、十四年前、ヒタカミ討伐のため北に出陣なさいました。紆余曲折のあと、ヲウス様はついにヒタカミの都ツガルに到着したのです。その間の様々な武勇伝は、朝廷にも伝えられ、語り部たちが物語にまとめて手に汗握る冒険活劇として今に伝えておりますので、タラシヒメ様もよく知っておられるはずです。
やがてヲウス様はツガルの都で運命的な出会いをなさいました。ヒタカミ国主の妹御、タツハ様と恋に落ちられたのです。討伐の総大将と、敵国の姫君とが結ばれることなど、本来どうあっても許されるものではありません。しかしヲウス様のタツハ様に対する愛は本物でした。タツハ様との愛を成就させるため、ヲウス様はヤマトとヒタカミとの和睦に骨を折ることを決意なされたのです。そこで一転、ヤマトの都へ戻り、タラシヒコ様にお許しを乞うたのです。むろんタラシヒコ様は最初お怒りになられました。ヲウス様がヒタカミにとりこまれたと思われたのです。しかしヲウス様の熱心さにうたれ、ついに許されました。ただしヲウス様がヤマトとヒタカミの間に居を定めて国境を守り、ヒタカミは毎年ヤマトに対し朝貢を怠らないという条件のもとにです。ヒタカミもこれを了承し、かくしてヤマトとヒタカミとの間に、歴史的な和睦が整ったのです。そして間もなく、その平和の象徴ともいうべき、ヤマトとヒタカミの双方の血をひく、ナカツ王子がお生まれになりました。今年、十三歳におなりです。タラシヒメ様よりも一つ年下ではございますが、背丈はすでにヲウス様を超え、今から王者の風格をそなえられた立派な若者に成長なさっているということです。
そしてこの度、ヒタカミ側から、ナカツ王子とタラシヒメ様との縁談の申しこみがありました。これはヤマトとヒタカミのつながりをより深くしたいという意志の表れです。朝廷内ではこれを慎重協議いたしました。ヒタカミとの間には過去に不幸な歴史もありましたが、いつまでもそれに囚われていてはよくない、また、シラギ出征もいよいよ現実化してきた今、背後の憂いをなくすことが大事である、という意見が大勢(たいせい)を占め、この申しこみを受けることを決定したのです。クマソ、ヤマト、そしてヒタカミの血を引くお二人がむすばれることにより、オホヤシマの地は、ようやく真実、一つの国となる第一歩を踏み出すことになるのです。お二人の間に生まれる御子様は、必ずやオホヤシマを一つにする重要なお方になることでしょう
スクネはそこで言葉をきりました。ヤマトがヒタカミとの和睦を決定した理由には、むろん朝廷や豪族たちの割りきった損得勘定の結果が大きかったのですが、スクネは、恋に恋する乙女に受け入れられやすそうな部分だけを脚色して話をしたのでした。しかしヲウスとタツハとの悲恋は事実で、都でも人気の恋愛物語になっていることは確かなのです。
《ナカツ王子との結婚は、自分も恋愛物語の主人公になるようで、タラシヒメも気に入ることだろう》
それでスクネは気恥ずかしいのを我慢して、多少語り部ふうに、おおげさに話したのです。
しかしスクネは、タラシヒメの顔を見やってぎょっとしました。タラシヒメは怒りのあまりくちびるまで真っ青になっていました。
縁談の申しこみを受けることを決定したですって? この、わたくしの、縁談を? 朝廷内って、スクネ、お前もその協議に関わったというの? 信じられない。こんなふうにお前に裏ぎられるなんて。なにがナカツ王子よ、なにがオホヤシマを一つにするよ。お前たちはわたくしをヒタカミに売ったのよ。ええ、わたくしは人身御供にさせられたのだわ。お前たちは自らの身が保てさえすればなんでもするのよ。わたくしの心の内などどうでもいいと思っているのよ。ヒタカミにくれと言われれば、そのうち三種の神器すら渡してしまうのでしょう。ひどい、ひどすぎるわ。わたくしは、いつ都に戻れるか、お、お前が、いつ、わたくしを迎えに来てくれるのか、一日千秋の思いで待っていたのに、その間にそのような話を進めていたなんて。お前は、わたくしの成長を待っていてくれているのだとばかり思っていたのに。わたくしは、お前のために、大きくなろうとしてきたのに……
タラシヒメはわっと泣いて立ち上がると、あっという間に奥へ走って姿を消しました。
スクネは呆然とそれを見送って、いつまでも立ち上がれませんでした。
くしゃくしゃと頭をかき回すと、小指の指輪に自分の髪の毛がからまってぬけ落ちました。その色は灰色です。
それを見るにつけてもため息ばかりがこぼれました。
《こんな年になっても、小娘一人言いくるめられんとは情けないことだ。シラギ出征は半年後に迫っているし、婚礼の準備もすでに始まっている。いったいどうしたらいいのだ。朝廷のやつらは面倒なことは全部俺に押しつけやがる。それにしても国同士の交渉ごとなら、どんな複雑なものでもなんとかする自信はあるのだがなあ》
タラシヒメはスクネの妻になるとやみくもに思い定めているらしい。ことは単純ですが、スクネにはそれをどうしてよいのか皆目見当もつかないのでした。
指輪をくるくると回すと、自然、亡きミハカシヒメの面影が浮かんできました。
《タラシヒメは日ごとにミハカシヒメ様に似てくる。今では瓜二つと言っていい。しかし、あの清純でしとやかなミハカシヒメ様の娘が、あのようなじゃじゃ馬に成長するというのは、まったく不思議としかいいようがない。あれを乗りこなすのは実に至難の業だぞ》
◎◎
結局スクネはタラシヒメの心を解くことをあきらめ、たんたんとナカツ王子との婚礼の準備を進めることとしました。オホヤシマの二大国同士の結婚ということで、その準備はいやが上にも大がかりなものになります。国中が盛り上がる中、一人、当のタラシヒメだけが不機嫌のまま、むっつりとイヅモに閉じこもったきりでした。
タラシヒメは縁談のことを知って以来、スクネが面会に来ても、話をするどころか会おうとすらしませんでした。スクネも強いて会おうとはしませんでした。
《若い娘のことだ。実際に結婚してみれば、俺みたいな中年男よりナカツ王子のほうを気に入るに決まっている。だいたい、タラシヒメの周りには、俺のほかには、さらし布みたいな顔をした神官どもしか男はいなかったのだから仕方ないかも知れんな。それに結婚前のタラシヒメにうっかり近づいて、あらぬ噂をたてられてもつまらん》
そう考えて婚礼の準備は役所の部下たちに任せ、イヅモに出張しても神社には足を向けず、自分は来たるべきシラギとの戦争に向け忙しい日々を送っていました。
お祝い気分で浮かれている国内をよそに、ヤマトとシラギとの間の緊張感はいよいよ一触即発のところまできていました。
シラギは、もう二年も約束された任那の品をヤマトに送ってきていませんでした。カヤの港はシラギ軍に占領され、クダラさえ追い出されている始末でした。カヤから生まれる鉄や金、珍しい果物など、価値のある特産品は、すべてシラギが押さえて、中原国などに売り払い、莫大な利益を独り占めしていたのです。
コマからの使者が密かにヤマト朝廷にやって来たのが一年半前。その者がもたらしたのが、シラギとの共同戦線をはるための密約の申しこみだったのです。
使者は、シラギは、コマとヤマトの共通の敵であり、シラギを倒すことこそ両国の繁栄と安全につながる共通利益であると説きました。これはスクネが十数年かけてヤマトに浸透させた考え方とぴったり一致していましたので、コマとの同盟はすぐに承認されたのです。
この使者が訪れた時期も絶妙でした。当時、タラシヒコは病床にあったとはいえ、まだ存命で、大王としての職務も続けていました。タラシヒコとしては、自分が亡きあとの政策方針を生きている間に決定し、次期大王のために遺しておきたいという気持ちになっていました。任那問題は長年の懸案事項だったので、これを将来どうすべきかはタラシヒコにとっても頭の痛い問題だったのです。ですから、コマからの提案はヤマトにとって明るいきざしとみえたのでした。コマは、ヤマトの出兵準備に惜しみなく援助を与えると力強く約束しました。タラシヒコは、任那についての方針を、シラギ討伐と、コマとの同盟によって解決すると決めることができ、ほっとしたのです。
コマの使者が去った四ヵ月後、タラシヒコは亡くなりました。すぐにコマからは、哀悼の意を伝える使者とともに、高価な見舞いの品が数多く届けられました。朝廷と大王は一年間の喪に服することになりましたが、水面下では、それまでにも増して盛んに政治的な動きが活発に続けられていたのです。
ナカツ王子とタラシヒメとの縁談もその一つです。これはヒタカミ側から申しこんだという形になってはいますが、むしろヤマト朝廷が積極的に進めたものでした。
ヒタカミ国主の妹、タツハと結婚したヲウスは、武蔵(むさし)の地に住むことになりました。ヒタカミの勢力はそれまで、駿河(するが)、相模(さがみ)にまでも及んでおりましたが、ヲウスが武蔵に腰を据えたことによって、自然、武蔵から西はヤマトの領土であるというふうになったのです。これだけでもヤマトは得をしました。さらに、ヲウスがいる武蔵は、名目上ヒタカミ国内ということになってはおりましたが、ヤマトの皇子が治める地ということで、朝廷は皇子への援助と称し人員や様々な品々をどしどし武蔵に送りこみました。そのため武蔵には、ヤマトの人間と物があふれ、町の様子も、あたかもヤマト国内と同じであるかのようになっていったのです。
むろん朝廷の次の狙いは武蔵も正式にヤマトの領土にすることでした。その計画の第一歩がヲウスの息子と婚姻関係をむすぶことだったのです。ですからこれは政略結婚以外の何ものでもありません。朝廷はこの結婚を決める際、当人の意志を確認するなどということはいっさいしませんでした。タラシヒメが指摘したとおり、この決定にはスクネも大きく関わっていましたが、スクネとてタラシヒメに事前に承認をとるなどということを思いつきもしなかったのです。このような重要な政治的決定に個人の意向が入りこむ余地などないことは当然のことだと頭から考えていたのでした。ヒタカミとの面倒で長々しい交渉がようやくまとまり婚礼の準備に手をつけようとしたところで、はたと、タラシヒメにまだこのことを話していなかったことに気づいたというのが実のところだったのです。
ナカツ王子とタラシヒメの新居をどこにするかというのは、ヤマトとヒタカミとの間で、相当もめたところです。ヤマトは武蔵よりもヒタカミ内部に入った上総(かみつふさ)と下総(しもつふさ)を主張していました。ヒタカミはヤマトよりの相模を推しました。どちらも譲らず、この交渉は決裂するかと思われたこともありましたが、結局ヤマトのほうが折れました。これはスクネの進言によるものです。下総はあまりにヒタカミによりすぎ、ヤマトの都から遠いように思われたからです。まずは足もとを固めるという意味で、武蔵のすぐ西、相模、駿河に万全な体制をとることが、結果的に早道であると説いたのでした。
スクネは朝廷における評議で演説しました。
上総と下総がヒタカミ攻略ののど仏なら、相模と駿河は手足にあたります。相模湾から下総までは船でひとまたぎ。相模を抑えればヒタカミはまさに手も足も出ないはずです。また地理的に言えば、武蔵と相模は一体です。ですから相模にヤマトの統治をゆきわたらせば、武蔵を完全に掌握することはまさに袋から物をとり出すがごとく容易にできることでしょう。政策の基本とは常になにがもっとも容易で効率的に成果を得られるかを考えることなのです
このあとヒタカミとの協議は流れるように進みました。
国内が落ち着けば、次は外交へと目が向けられます。喪明けとヒタカミとの縁談という祝事にともない、ヤマトの民に対する税高の減免がなされました。当然、新大王に対する国民の評価は高まります。また軍の増強のため全国に兵の募集がおこなわれました。これは強制ではありませんでしたが、手柄をたてれば高い報償が与えられると聞いて一攫千金を夢みる若者たちがぞくぞくと集まりました。対シラギ戦争への準備は着々と進みます。もちろんこれには莫大な費用が必要でしたが、それをヤマトはなんとか捻出しました。一部はいまや婚姻関係にあるヒタカミからの援助から、またコマからは技術者などの人的援助と、将来返すという約束をした借財を受けました。コマへの返済にはシラギから任那をとり戻したら、そのあがりの一部を充てるということになっていました。ともかく前大王の遺言ともなったシラギ討伐は、新政府にとってもまさに至上命題となっていたのです。
これらいっさいをスクネがとり仕きっていたのです。そのためスクネは体がいくつあっても足りないほどでした。
ですからタラシヒメとじっくり会って話をする時間など、どの道ないのでした。
(十一)
◎◎
スクネがタラシヒメと次に話をしたのは実に半年ぶりのこと。しかもナカツ王子とタラシヒメがむすばれる、まさに当日のことでした。
新居の場所は相模と決まっていましたが、婚礼の儀はイヅモ神殿で執りおこなわれることになりました。
これにも色々な理由がありますが、もっとも大きな理由の一つがタラシヒメ本人でした。いまだに結婚に同意していないかに見えるタラシヒメを急に無理やり遠い相模まで連れて行くのは困難だというのが、スクネも含めた周囲の者の結論でした。またヤマトかヒタカミの都で、というのは、それぞれのひざもとすぎて、互いにまだ多少の不信感をもち合わせている両国にとって具合が悪く、これも却下されました。結果としてタラシヒメが長年なじんだ場所であり、ヒタカミも親しみを感じているイヅモの地が適当だろうということになったのです。もっとも婚礼の儀式が終わり相模に移動する途中で、新郎新婦はヤマトの都によっていくことにはなっていました。
涼やかな秋のある日、ナカツ王子はイヅモの港へ到着しました。王子はいったん武蔵からヒタカミの都ツガルへ行き、ヒタカミ国主に挨拶をしてから、船に乗ってやって来たのです。
イヅモ神社は古い歴史と壮大な建物を誇っており、国賓を迎えるのにも遜色のないところです。
互いの客同士の盛大な宴会が山のふもとでおこなわれるのをよそに、ナカツ王子はひっそりと山に沿って上るように神社の奥のタラシヒメのもとに向かいました。
これもスクネの苦肉の策です。
ひと月ほど猶予をおき、まずは二人に本物の恋人同士になってもらってから、正式な婚礼の儀と披露の宴をおこなうことにしたのです。ですからナカツ王子の両親であるヲウス王子やタツハ姫、そしてヒタカミ国主やヤマト大王などの主賓はまだイヅモに来ていませんでした。
それほどにタラシヒメの抵抗は、スクネの予想外に大きかったのです。
ぽつぽつとたいまつが点る暗い神社の長い廊下を、ナカツ王子を案内しながらスクネは心から祈っていました。
《ナカツ王子がなんとかタラシヒメの心をつかんでくれるといいが》
とはいえ、とぼしい明かりの中で見てさえナカツ王子はスクネもほれぼれするほどに美々しい若者でした。十四歳とききますが、それ以上に大人びて見えます。真っ白な歯と健康的に焼けたなめらかな肌が印象的でした。
《ヲウス様も美しい方だったが、ナカツ王子はそれを超えるかも知れん。ヒタカミの血はヤマトと合うのだろう。混血はたいがい優秀な人間を生むものだ》
これならばタラシヒメも心を和らげるだろうと、スクネはまずは安心しました。
ナカツ王子様。この場で少々お待ちください。今、タラシヒメ様に先ぶれをしてまいりますので
ナカツ王子を一つ前の控えの間で待たせると、スクネは一人タラシヒメの部屋へ入ってゆきました。本来、花婿を花嫁のもとに案内する役目は父親と母親がおこなうものですが、タラシヒメはふた親とも亡くしているので、スクネがどちらの代わりもすることにしたのです。娘を婿に託して、初めて親の責務を終えることができるのでした。
《やれやれ。俺も早く肩の荷を下ろしたいものだ。親代わりなんて本来ガラじゃないんだからな》
そう思いながらスクネは部屋の入口手前に膝をつき、そっと中に向かって声をかけました。
タラシヒメ様。ナカツ王子がお着きになりました
しかし部屋の中はしんと静まり返っています。
タラシヒメ様。いらっしゃいますか?
《もしや行方知れずになっている、なんてことはないだろうな》
それにともなって起こり得るだろう無数の面倒を想像し、スクネはぞっとしながら部屋の奥へ進みました。いく枚もの布をよけていくと、ぽつんと明かりが灯された中に、寝台にうずくまるようにして座っているタラシヒメを見つけて、スクネは思わず安堵の息を吐きました。
タラシヒメ様。お返事がないので心配しましたよ
タラシヒメはちらりとスクネを見上げましたが、すぐにまた前に向き直ります。その顔は美しく化粧をほどこされていましたが、仮面のように無表情でした。
ご気分がすぐれないのですか?
これが、気分がいいように見えて?
タラシヒメの声が聞きなれたものだったので、スクネはほっとしました。
そんなにいつまでも機嫌を悪くなさるものじゃありませんよ。姫様は、このご結婚を、とにかく嫌がっておいでですが、ナカツ王子は本当に素晴らしい方です。それはこの私が保証します
スクネ。もうそれ以上言わないで
タラシヒメは震える声で言いました。
お前があと一言でもものを言えば、わたくしは泣いてしまう。泣き顔で花婿を迎えるのはよくないでしょ
スクネは口を開きかけましたが思い直し、黙って礼をしたあとすぐにその場を離れました。
ナカツ王子がタラシヒメの部屋の奥へと消えていくのを見届け、廊下を戻りながら、スクネは自分がひどく憂鬱な気分に陥っているのに気づきました。そしてそれが自分のどこからきているのか、しばらく分かりませんでしたが、ようやく思いつきました。
《ああ、ミハカシヒメ様が亡くなったと聞いたときと同じだ。俺の思うとおりにことが運んでも気が晴れず、かえって重くなるのは罪の意識だ。……罪の意識だって? この俺が? すべてのものを裏ぎり続けてきている俺が罪悪感に悩まされるなんて、奇妙なことだが、本当だ。手の中にある無力な小鳥を握りつぶすような、そんな気持ちだ。……本当にこれが一番よい方法だったのだろうか。いや何度も考えぬいた末だ。俺の目的を達するためには、やはりこれは必要なことだったのだ。俺の目的。コマの指示を果たすこと。そうだ、これを忘れんようにせねば。美しい小鳥のことなど思い出だけにしておけばよいのだ。小鳥だって俺のことなぞすぐに忘れてしまうだろう》
スクネは無意識に指輪をぐるぐると回しながら、どんどんと山を下りてゆきました。客人との宴会に顔を出す前に自分の部屋に戻るつもりでした。いったん間をおいて一人で酒でも飲まないと、とても接待の場になど出る気分になれなかったのです。
◎◎
それから一刻ほど経った時。スクネは、かたりと音がするのを聞きつけ、びくりと顔を上げました。部屋の入口に黒い人影がぼうっと浮かび上がっています。
誰だ!
スクネはわきに置いてあった剣を抜くと、それに向かって構えました。
それは意外な人でした。
スクネ。わたくしよ
スクネは驚いて立ち上がりました。
タラシヒメ様? いったい、どうなされたのです
タラシヒメは音もなくスクネのもとに駆けよると、ひそやかな、しかし、ひどくせっぱつまったような声で言いました。
スクネ。お願い。来て
スクネはまだ剣を持ったまま突っ立っていました。
どうしたのです? ナカツ王子はどうされたのです?
タラシヒメはいらいらしたようにスクネの腕を引っぱりました。
説明しているヒマはないわ。大変なことになったの。早く来て。そんな剣なんか置くのよ。剣は……、ほんとにいらないんだから
スクネはわけが分からないまま剣をしまうと、タラシヒメのあとについて部屋を出ました。
タラシヒメはほとんど走るようにしてスクネの前をひたすら進んでゆきます。スクネはその白い足首がうす闇の中で上下に動くのを見ながら、あとをついてゆきました。
タラシヒメは自分の部屋の前まで来るとぴたりと足をとめました。そうしてスクネを途方に暮れたように見上げました。
スクネはいぶかしげな思いのまま、そっと部屋の奥へと進みました。だらりと垂れさがっている布の幕をかき分けてゆくと、さきほどと同じように寝台がぼんやりと照らし出されています。そして、その上には……、
ナカツ王子!
ナカツ王子は寝台の上にあおむけで横たわっていました。その目はじっと天井を見上げています。スクネは王子を抱き起そうとして、はっとしました。王子の胸に広がる大きなしみ。それはまぎれもなく血でした。王子は息絶えていました。
《ナカツ王子が、殺害された》
愕然としてスクネが振り返ると、同じように青い顔をしたタラシヒメが立っていました。
タラシヒメ様……
スクネの視線を受け、タラシヒメは首を振って床のすみを指さしました。スクネは寝台わきのくらがりに目を凝らし、ぎょっとしました。そこにはもう一人別な人間が倒れていたのです。
誰です、これは
ヨモイ
タラシヒメは短く答えました。
ヨモイ?
スクネは寝台のそばにあった灯りを持って来てよく見てみました。それはスクネも顔見知りの若い神官でした。首の辺りが真っ赤に染まり、手にはしっかりと短剣をにぎっています。
いったい何が起こったのです?
タラシヒメは力なく椅子に座りました。
見てのとおりよ。ヨモイがナカツ王子を殺して、自分も死んだの
なんでまた、そんなことになったのです
タラシヒメは深いため息をつきました。
分からないわ。でも、たぶん、きっとわたくしのせいよ。ヨモイはわたくしを好きだったの。ううん、崇拝していたといってもいいわ。ヨモイはそれを口に出しては言わなかったけれど、もちろんわたくしはちゃんと知っていたの。わたくしはナカツ王子と結婚するくらいなら死んだほうがましだって、ヨモイに言っていたの。ヨモイはとても悲しそうな顔をしていたわ。わたくしは何度も同じことをヨモイに言ったわ。なぜかしら。たぶん、ヨモイの顔を見るのが面白かったのね。だって、一人の人間にそのように自分が影響を与えることができるなんて、楽しいじゃない? そんなふうにいじわるな気持ちになることが、わたくしにはたまにあるの。だからよ、きっと。
……ナカツ王子は部屋の中に入って来て、わたくしに挨拶なさったわ。王子はとても礼儀正しくて、優しかったわ。最初はわたくしも緊張していたけれど、ナカツ王子はヒタカミのことやご両親のことをいろいろお話ししてくださって、わたくしの心をときほぐそうとしてくださっているのが分かったので、わたくしもこれではいけないと思ったの。ナカツ王子は、自分は生まれたときからヒタカミとヤマトの懸け橋になる役目を負っているのだとおっしゃったわ。二つの国が争い続けることは誰のためにもならないって。人にはもって生まれた宿運というものがあって、自分が望んでもそうならないことも多くあるけれど、流れにさからわず時期を待って耐えていれば、おのずと道も啓(ひら)けていくのだって。わたくしと王子の運命は時が定めた同じ交差の中にあるから、こうして出会うことができたのだって。だから自分の星をみつめるように互いをみてみましょう、そうおっしゃったの。わたくしは自分が恥ずかしくなったわ。なぜなら、わたくしは今まで自分のことしか考えてこなかったのだもの。王子は笑って私たちは友達になれますね、と言ったわ。そうしたら、突然、ヨモイが現れて……
タラシヒメはしゃくりをあげました。
王子はさっと立ち上がって腰に手をやったのだけれど、剣は部屋の入口に置いて来ていたの。ヨモイは王子にぶつかったわ。王子はよろけてそのまま、寝台の上に倒れたの。わたくしが驚いて王子を見たら、王子の胸に剣が突き刺さっていたの。ヨモイはその剣を抜くと、今度はわたくしのほうを見たの。わたくしはヨモイに殺されると思ったわ。やめて、ヨモイ、と言うと、ヨモイはあの悲しそうな顔を浮かべて、そうして、自分の首を突いたの……
しばらく部屋の中はタラシヒメのすすり泣きだけが響きました。
ようやくスクネは口を開きました。
このことを知っている者は、ほかにいませんか?
タラシヒメは黙って首を横に振りました。
《あまりに間が悪すぎる》
スクネにはその夜の出来事がとても現実のものとは思えませんでした。タラシヒメは知りませんでしたが、実はスクネにとって衝撃的な事件が、この直前にも起こっていたのです。
スクネがナカツ王子をタラシヒメの部屋に案内したあと自室に戻ると、シチがおりました。シチはスクネに緊急の報せをもってきていたのです。
コマが滅びました
なんだって?
シチが語るところによれば、現在中原国には数十もの国が乱立しているが、そのうちの一つ、ヤンと名のる部族がコマの都を制圧し、コマ王は殺され、そのほかの貴族たちもみなほとんどが斬首の憂き目にあい、コマ軍もついに屈したということです。
マオは、どうした? マオは
スクネは息せききって訊ねました。マオとはスクネの妹で、コマの下級貴族に嫁いでいました。両親が亡くなった今、スクネの唯一の血縁がマオだったのです。
シチは沈痛な表情を浮かべて答えました。
分かりません。ただ、マオ様がいらっしゃる地方はことに戦いが激しく、コマ側も最後まで抵抗をし続けたところと聞いております。最終的にはヤン側が勝利をおさめ、貴族は女子供にいたるまですべて殺されて街には火がつけられたといいますから、おそらくは……
……そうか、分かった
スクネは震える唇を噛みました。
マオもコマに嫁いだ身。自身の運命を分かっていたことだろう
スクネ様。我々はこれからいったいどうしたらよいのでしょうか
シチは青くなって言いました。スクネも即座に答えられませんでした。ふた月後に控えたヤマトのシラギ討伐作戦は、コマの存在ありきでたてられたものだったのですが、いまやコマの援助を望むほうが無理であることは明白でした。
コマは本当に滅びてしまったのか。あの強大なコマが
スクネは信じられないように繰り返しました。
シチもコマに入国して調べたわけではありません。今コマはとても潜入できるような状態ではないというのです。シチはシラギやクダラに逃げて来たコマの難民たちから聞きこんできたのです。
ただ、どうも裏にシラギがからんでいるようです。コマの各都市での戦闘の模様を聞きますと、ヤンの攻撃と呼応するように、城壁の中からも火の手が上がったり混乱が始まっている場合が多くあるのですが、その場所はシラギ商人のたまり場だったという情報がいくつかありました。また、攻撃軍のうち南から来たものはシラギ軍に間違いなかったと言う者もおりました。とすればヤンとシラギが組み、北と南から計画的にコマを攻略したということになります
コマがヤマトと組んでやろうとしていたことを、シラギに先んじられたということか……
とりあえずシチには指示を待つように言って下がらせたものの、今後自分たちがどうしたらよいのか、スクネにも名案が浮かんでくるわけではありませんでした。
酒を口にすることも忘れ呆然としているところに、今度はタラシヒメが飛びこんできたのです。
《これで対シラギ対ヒタカミと、ヤマトが、つまりは俺が精魂を傾け築き上げた策がすべて崩れ去ってしまったわけだ》
スクネは自嘲気味に心の中でつぶやきました。自暴自棄になりたいところでしたがスクネの性質がそれを許しません。目の前にある懸案事項にどのように対処するか、スクネの頭脳はほとんど習慣のように目まぐるしく働き始めました。
《ナカツ王子が死んでしまったのは、もうとり返しがつかないことだ。さてこれをどのように処理するか、だが。
すぐにヒタカミの客人に王子の死を知らせるか? しかし王子の死に方が問題だ。これは明らかに他殺だ。誰が殺したか、というのも一見明白だが、ヒタカミはどう受けとめるかな。一国の王子をいっかいの神官が単独で殺したのだ、それは嫉妬のせいだ、などという説明を素直に信じるだろうか。これが俺だって信じないだろう。
殺された場所はタラシヒメの部屋だ。案内したのはこの俺だ。どう考えても謀略のにおいがする。ナカツ王子はヒタカミとヤマトの和睦の象徴だ。ナカツ王子の殺害をヒタカミは和睦決裂の証とみるだろう。そうでなくともヒタカミとの間には亀裂が入る。ヒタカミとの仲が不穏になれば、おちおちシラギになど出兵できるものではない。
だいたい、このことがなくともシラギに行くことができるのか? コマが滅びた今、ヤマトはそもそもシラギに行くべきなのだろうか。しかしこれまでの莫大な費用をかけた出征の準備はどうなる? 報償を期待して全国から都周辺に集まってきている兵士どもに、戦争はとりやめになったから田舎に帰れと言うか? 兵がそのまま暴徒になる可能性は大だ。ヤマトは混乱の渦に巻きこまれるだろう。そして朝廷はその責任を全部俺にかぶせてくるだろう。ちくしょう。やはりこのまま中原国にでも逃げるか。
いやちょっと待てよ。今夜起こったことが、本当は起らなかったとしたらどうだ? コマも滅びていないし、ナカツ王子も死ななかったとしたら。これを知っているのは今のところ俺だけだ。あとはシチとタラシヒメ。俺にはあとひと月これを延ばすことができるのじゃないか?
ナカツ王子はひと月の間タラシヒメと二人きりですごすことになっていた。ヒタカミ人だってそれを邪魔したりしない。ナカツ王子が人前に出ないのはタラシヒメと仲よくやっている証拠だと周りは思うだろう。むろんいずれはナカツ王子の死を明らかにしなければならんだろうが、それがひと月後だっていっこうに構わないわけだ。ひと月、このひと月があるのとないのではだいぶ違うぞ。その間ヒタカミ人をもてなして友好気分を高めることもできるし、コマの正確な情報を集めることだってできる。
そうだ、今夜でなければいいのだ。そして重要なのは、ナカツ王子の死体を誰にも見せないことだ。王子は殺害されたのではない。病死だ。そうだ。はやり病で亡くなったから、すぐに火葬にしたと言おう。通常は土葬か鳥葬だが、はやり病の場合だけは火葬にすることになっている。病は、もがさとしよう。もがさならすぐに火葬にしたと言っても無理はない。放っておけば大量の死者が出る可能性があるのだからな。
ヒタカミの客人には、ひと月の間クマソ見物にでも連れて行ってやるか。アソの温泉場でゆっくり湯治でもしておいてもらおう。そしてひと月後に、もがさによるナカツ王子の死を発表、実質的な夫婦になったにもかかわらずあっという間に夫となる人を亡くしたタラシヒメの嘆き、ヤマトとヒタカミとの壮麗な共同葬儀、うん、これだな≫
ここまで考えがまとまると、スクネはきびすを返し歩き始めました。タラシヒメは驚いて訊きました。
どこへ行くの、スクネ
シチを呼んできます。一人では重いので
どうするの?
ナカツ王子には、ひと月後に死んでいただくことにしました。ですが秋とはいえ、ひと月はもちません。死体をどこかに処分しなければ
どこかって、どこ?
そうですな。山に穴を掘って埋めるか、海に投げ捨てるか……。いずれにせよ、ここにいつまでも二人の死体を置いておくわけにはいかんでしょう
それでタラシヒメは黙ったので、スクネは急ぎ足で部屋を出ていきました。途中で死体とタラシヒメを一緒にしたままなことに気がつきましたが、ともかくシチを呼んでくることが先決だと思ったのです。
スクネがシチと一緒に戻ってみると、タラシヒメは同じ場所にじっと座っていました。顔色も心なしかもとに戻っています。
《案外肝がすわっている人だな》
スクネは感心しました。シチはすでにスクネから説明を受けていたので、二つの死体を見てもなんの反応もしませんでした。持ってきた何枚もの布で死体をくるむ作業をもくもくと続けています。
ねえ、スクネ。ナカツ王子をどこに持っていくの
スクネはタラシヒメの心中を思いやる余裕をようやく少しとり戻していました。
タラシヒメ様。本当に今夜は大変な目にお会いになりましたね。しかし姫様はなにも心配する必要はないのですよ。私たちがうまく処理をしますからね。あとで詳しくお話ししますが、ナカツ王子が今夜タラシヒメ様の部屋でこのような亡くなり方をしたことが知れれば、ヤマトとヒタカミの仲が非常に険悪なものになることが予想されるのです。それは両国の和睦を一番願っておられたナカツ王子の本意に背くことにもなるでしょう。またタラシヒメ様をめぐって王子が亡くなったということになれば、姫様のお立場も難しいものになります。ですから王子はひと月後に病でお亡くなりになった、ということにしたいのです。そうであればヒタカミとの和平も保ち続けることができるでしょうから。
このことによる責任のいっさいは私がとります。タラシヒメ様は、今宵この場にあったことはなにも見ずなにも聞かなかった、そうしていただくだけでよいのです
タラシヒメがこっくりとうなずいたので、スクネはほっとしました。ここでタラシヒメに騒がれれば、もうどうしようもないからです。
タラシヒメはすっくと立ち上がりました。
スクネ。お前の言うことはよく分かったわ。でもね、それを山や海に隠すのは、あまり利口とはいえないんじゃなくて? 山に埋めたら野犬に掘り返されるかもしれないし、海に沈めても浮かんでくるかもしれないじゃない
スクネはびっくりしてタラシヒメを見ました。
それはそうかも知れませんが、ほかに方法もありませんのでね
だからわたくしが、もっといい場所を教えてあげるわ
えっ。なんですって?
こちらへ来てちょうだい
タラシヒメはさっさと部屋の奥へ歩き出し、下げられた布の向こうへ入ってゆきます。スクネも仕方なくそれを追いました。
タラシヒメは壁の前に立って、なにやら羽目板を押したり引いたりしていました。
なにをされているのですか
もう、固いんだから!
タラシヒメがかんしゃくを起こしたように、どんと壁を叩くと、ぱかりと板がはずれて隙間ができました。
ここの板が二枚だけ外れるの
ほう
スクネが板を外すと、さっと冷たい夜気が奥から流れ出てきました。中をのぞくと土のにおいがします。
こんな隠し穴があったとは。確かにこれは絶好の場所ですな
でもね。これはイヅモの神官なら誰でも知っていることよ。だけれど、神官も知らない場所がこの奥にあるの。そこなら絶対に見つかる心配はないわ。何故なら、私でさえ同じ場所に二度と行くことができないのですもの
スクネはタラシヒメの言っている意味が分からず困惑しましたが、タラシヒメはきびきびと命令しました。
ともかく、ナカツ王子とヨモイを連れて来て
(十二)
◎◎
血がしたたり落ちないように何重にもくるんだ死体は、やはりひどく重いものでした。ナカツ王子をスクネが、ヨモイをシチが、それぞれ肩に背負って、タラシヒメを先頭に三人はそろそろと部屋の壁の奥に開けられた穴の中に入ってゆきました。
気をつけて。段になっているわ
穴はすぐに広い場所に出ました。しかし相変わらず真っ暗です。
スクネは重さで顔をゆがめながら訊きました。
ここは、いったい、なんなのです
タラシヒメは灯りをかかげて右のほうをしきりに調べながら答えました。
ちゃんとした名前は知らないわ。でもここは神殿が建てられている山の中腹にある洞窟で、たくさんの枝穴が四方に延びているの
ふむ
スクネはわずかな明かりで洞窟内を見わたしました。暗くてよく見えませんが、音の反響のしかたからかなりの広さと思えました。
少し潮のにおいがしますね
シチが言いました。
海に通じている穴が、そちらにあるわ
タラシヒメが少し離れた場所から言いました。スクネはタラシヒメの示した方向と神社の位置関係を頭の中で組み合わせてみました。
すると、ヒの岬がある場所辺りだな
スクネ様。ヒの岬ならば岩も多く、その陰に隠せば見つかりにくいのではないでしょうか
シチは言いましたが、スクネがそれに答える前にタラシヒメの甲高い声が二人を呼びました。
あったわ。早く来て
ともかくタラシヒメの言う場所に行ってみよう。そこがだめなら海にすればいい
スクネはそうシチにささやくと、ナカツ王子を背負い直しタラシヒメのところまで行きました。
タラシヒメは洞窟の横壁に開いた一つの枝穴の前に立っていました。スクネとシチがそばによると真剣な表情で言いました。
いい? 二人とも。絶対にわたくしから離れてはだめよ。それからもう一つ、とても重要なこと。けして後ろを振り返ってはいけないの。いいこと?
後ろ? なぜですか
しかしタラシヒメはそれに答えずに穴の中へ足を踏み入れたので、スクネとシチもそれに続きました。
そこはひどく急な下り坂で、重い荷物を背負った二人にはかなりの悪路でした。足もとは固い岩盤をくりぬいたようでしっかりはしていましたが、表面をおおっているざらざらした砂でたびたび滑りそうになります。しかも坂は下ると同時に、ぐるぐると曲がりくねっていっているのでした。
後ろを見てはいけないというのは、どういうことですか?
スクネは前のタラシヒメの背中に向かって言いました。タラシヒメは前を向いたまま答えました。
後ろを向けば道をみ失うと言われているの。理由はよく分からないわ。でも一応そのとおりにしたほうがいいのじゃなくて?
確かにその通りだ、とスクネも思いました。
ここが神官も知らない場所なのですか
ええ。正確にいうと、知っているけれど神官は絶対に入らない場所、ということなの。なぜならこの穴は黄泉の国につながっているといわれているからなの
黄泉の国?
スクネはぎょっとしました。後ろでシチが息を呑むのが分かりました。
つまり、私たちは黄泉の国に向かっているということですか?
そうよ
タラシヒメの説明はこうでした。
洞窟のことを教えてくれたのはヨモイよ。
ここに神殿を建てたときには、誰もこんな洞窟や穴があるなんて知らなかったそうなの。でも百年ほど前、大きな地震が起きてあの部屋の壁が崩れたのですって。それで修復のため板や土をのけてみると、あのような洞窟が発見されたのよ。
実は滅びたイヅモ国には、昔から黄泉の国に通じる穴がどこかにあるという伝説があったそうなの。それで神官たちは洞窟から延びるたくさんの穴のうち、どれかがそうだと思ったので、急いでまた部屋の壁をふさいだの。それでも完全にふさがなかったのは、半年に一度、水無月(みなづき)の夏越(なつこし)と、極月(ごくづき)の年越(としこし)の日に、大祓いの儀式をするからなのよ。
神官って、とても変なのね。神官たちはここをすごく怖がっているのよ。黄泉に通じる穢れた場所だと思っているの。そして同時に、とても神聖で大事な場所とも思っているのよ。穢れていて、神聖だなんて、矛盾していると思わない?
わたくしは半年に一度、何故自分が一日部屋から遠ざけられるのか、不思議で仕方がなかったの。それでこっそり部屋に戻ってみたら、神官たちがぞろぞろと奥に開いた穴の中に入っていくので驚いてしまったわ。それであとからヨモイを問いつめたら、洞窟のことを話してくれたの。
わたくしはさっそく洞窟に入ってみたわ。ヨモイは最初とめたけれど、わたくしがきかないので仕方なく一緒について来てくれたの。わたくしは正直腹がたっていたのよ。何故なら、神官たちはわざとわたくしの部屋をあそこに決めたのよ。しかも、そのことをわたくしに一言も教えずに。ヨモイが言うには、穢れが外に出ないようにするには清いものでその出口をふさぐことがいいのですって。だからあの部屋は白絹や榊や香でいつも清めていたのだけれど、一番良いのは清らかな処女をおくことだというの。ひどい話じゃなくて? 要はわたくしはふた≠フ代わりをさせられていたのよ。
今回ナカツ王子との結婚が決まって、神官たちはわたくしを別の部屋に移動させようとしたけれど、わたくしは絶対にいやだと言ったの。神官たちはとても困っていたけれど、どうしようもなくてあきらめたようだわ。その代わり、別な棟でひと月の間こっそりと祓いの儀を続けることにしたようよ。おそらくひと月後わたくしが部屋を出たら、さっそくあの場所を大急ぎで祓うつもりでいるのでしょう。神官には、結婚したとたんわたくしが、けがらわしいものになるように思えるのでしょうね。
百年の間、神官たちが少しずつ調べた結果この穴を見つけたの。ほかの穴はすべて行きどまりか、外に通じる普通の穴だったの。でもこの穴だけが普通ではなかったわ。つまり、この穴に入った者は、二度と戻って来ることがなかったからなの
えっ
スクネは思わず声を上げました。反射的に後ろを振り向きそうになりましたが、ようやく我慢しました。
心配しないで。わたくしはもう三回ほどここを往復しているのだから。言ったでしょ。わたくししか知らない場所だと。
この穴に入ろうとすると、ヨモイはすごい形相で反対したわ。何人もの神官がこの穴に入ったきり戻って来ないというのよ。そう言われれば気味が悪いのは確かよ。でもわたくしは、この穴の奥がどうなっているのかどうしても知りたかったの。かといって知っても、また戻って来られないのでは意味がないわ。
それでヨモイに、鼠をつかまえてくるよう命じたの
鼠、ですか?
そうよ。ヨモイは白い鼠を一匹探してきてくれたわ。わたくしはその鼠を大事に飼ってよく馴れさせたあと、その尾に長い絹糸をつけて穴の中に放したの。そうして糸の端を持って、その鼠が帰ってくるのをじっと待ったわ。
鼠はなかなか帰って来なかったわ。それでも糸は少しずつ長く伸びていくので、鼠が奥へ進んでいることが分かったの。宵のうちに放した鼠がわたくしのもとに帰って来たのは、もう夜が明けるころだったわ。鼠は思いもかけない場所から帰って来たの。それは同じ穴ではなくて、洞窟の反対側の別な穴からだったの。二つの穴は奥でつながっていたのね。
わたくしは不思議だったわ。なぜなら鼠が出て来た穴は行きどまりのはずだったから。もう一度入ってみても、やっぱりすぐに壁にぶつかって、どこにも穴なんてないのよ。糸を反対にたどって行こうとしたけれど、途中でぷっつりと切れていたの。同じことをあと五回もしたけれど、結果はすべて同じだったわ。鼠はこの穴から入って、別の行きどまりなはずの穴から出て来る。それでわたくしは自分でも、入ってみることにしたの。ヨモイに話せば反対するに決まっているから、言わずに入ったわ。
鼠を先頭にして、糸を持ちながらわたくしは穴に入って行ったわ。穴はこのとおり、右まわりのらせん状の下り坂だった。後ろを振り向くな、というのは、かつて穴に入った神官が奥から外に叫んだ言葉だそうなの。もちろんその神官はその言葉を最後にして、二度と戻っては来なかったのだけれど。後ろを振り向いたら本当はどうなってしまうのか、今でもわたくしには分からないわ。たぶん分かってしまったら、やっぱり外には戻れなくなってしまうのでしょうね。
わたくしは後ろを振り向かずに、前だけを見て穴を下って行ったわ。そうしてようやくそこにたどり着いたの。そしてそこには、やっぱり黄泉への入口があったのよ
スクネは何も言わずに黙々と歩きました。荷が重いということもありましたし、タラシヒメの話になんと相槌をうってよいのかも分からなかったのです。黄泉へ通じる道を死体を背負っていく。スクネにはとてもうつつのこととは思えませんでした。ですからもう何も考えず、ひたすら歩き続けたのです。
着いたわ
タラシヒメの背中がぴたりととまりました。スクネはその横に並んで、タラシヒメがかかげる灯りで目の前に広がるものを、見ました。
それは、巨大な穴でした。穴の奥にはさらに大きな穴があったのです。天井はそれほど高くはないようですが、下のほうには深く深く開いていました。
これが、黄泉への入口ですか
スクネは穴をのぞきこみましたが、茫漠たる闇のみが見えるだけでした。タラシヒメが足もとの大きめの石を拾って穴に投げこみました。石が風をきって落ちていく音がしばらく続きましたが、底をうつ音はついに聞こえませんでした。
耳を澄ませてみて
タラシヒメに言われ、スクネはじっと聴き耳をたてました。こまくが変なふうになってしまいそうなほどの静寂のあと、ふいにゴボリ≠ニいう唾を呑むような音が、足もとから伝わってきて、スクネの心臓は跳ね上がりました。
この奥に何かいるのですか?
タラシヒメは肩をすくめました。
どうかしら? でもなにかを投げ入れると、このように呑みこむような音がするの
スクネはぞっとして穴から半歩ほど下がりました。隣でシチがおののくような荒い息をしているのが聞こえます。
ここに、ナカツ王子を?
スクネは自分の声が震えるのを感じました。正直、人生の中でこれほど怖いと感じたことはありませんでした。
タラシヒメの声がたんたんと響きました。
ね? ここなら絶対に誰にも見つからないでしょ?
確かに……
《しかし、本当に、こんなところにナカツ王子を投げこんでしまってよいのだろうか》
スクネは思いましたが、肩にくいこむ死体の重さにあと押しされました。
《ええい。ここまで来て迷っても仕方がない。どちらにしろ死体はどうにかして処分せねばならんのだ。海に捨てようが、得体のしれん穴に捨てようが、同じことだ。それにこれを背負って、また同じ長さを上る体力はもうない》
スクネは思いきってナカツ王子を穴の中に投げ入れました。続けてシチもヨモイを落とします。びゅうびゅうという空気を裂くような音のあと、長い沈黙があり、それからゴボリ、ゴボリ≠ニいう音が二つ続けて鳴りました。心なしか先ほどの音よりも大きく感じました。それがスクネには、なんだか舌舐めずりをともなっているように聞こえました。
さあ、行きましょう
タラシヒメはぶるっと一度震えると、さらに奥へと進んでゆきます。スクネとシチは慌ててそのあとを追いました。
どこへ行くのです
タラシヒメは相変わらず前を向いたまま言いました。
もちろん、外へ戻るのよ。帰り道は行きとは別な道なの
タラシヒメは、穴のふちにぐるりとつけられたような細い道を慎重に歩いてゆきました。人一人がようやく歩けるくらいの幅しかなく。壁に手をつけながらでないと足を踏み外しそうでした。片側はむろんさきほど死体を呑みこんだ穴となっています。
スクネは冷や汗をかきながらゆっくりと進みました。そのうち、左手にふれる壁の感触の、あることに気づきました。
木か何かが壁にはってあるようですね
タラシヒメが答えました。
木の枝か根が、びっしりとおおっているようなのよ
帰り道は行きとまったく同じようならせん状の上り坂でした。スクネは穴を一回りして同じ道に戻って来たのではないかと思いましたが、タラシヒメはそれを否定しました。
ここは先ほどの道のちょうど反対側にあるの。確かに似ているけれど、違う道よ。その証拠に、らせんが右まわりになっているでしょう。行きが右まわりなら、帰りは本当は左まわりになるはずよ
確かにそうですな
上りとはいえ、荷物がない分帰りはずっと楽でした。タラシヒメもいくぶん早足でした。スクネはむしろ走り出したいくらいでした。うす気味悪い穴から少しでも早く遠ざかりたかったのです。後ろを振り返りたい誘惑も行きよりもずっと強く襲いました。背後から聞こえてくる足音が通路の中で反響し、二重、三重にもなって聞こえるので、本当に後ろからついてくるのがシチであって、ナカツ王子やヨモイではないことを確かめたくなるのでした。
シチ、ちゃんとついて来ているか
はい
スクネが問う度返事が返ってきますが、ひどく押し殺した声なので、
《シチの声はこんなふうだったか?》
とスクネは思うのでした。
ようやく穴を出て広い洞窟の中にたどり着いたときには、スクネはへとへとになっていました。
胸いっぱいに空気を吸いこむと、なつかしい海の香りが流れこんできて、どっと安堵感が広がります。
もう振り向いてもいいわよ
タラシヒメは自身もくるりと振り返りました。スクネが振り向くと、そこにいたのは、ちゃんとシチでした。シチの顔はひどくこわばっていましたが、自分も同じような表情をしているのだろうとスクネは思いました。
スクネは辺りを見回してみて、確かに自分のいる位置が入った場所と違うのを発見しました。タラシヒメの部屋から流れるぼんやりとした明かりの方角が、それを物語っています。潮の匂いが最初よりずっと強く感じるのは、こちらがヒの岬に通じる穴により近いせいでしょう。
タラシヒメに、
今、出て来た穴をのぞいてごらんなさい
と言われ、スクネはそうしてみて唖然としました。たった今、長い道のりを歩いてきたはずのらせん状の通路は、あとかたもなく、数歩歩いただけで固い岩壁にぶちあたってしまったのです。
そんな、ばかな
スクネはシチと顔を見合わせました。
スクネ様。私たちは、確かにここから出てまいりましたよね
シチは混乱した様子でした。
ああ……
スクネもなんと言っていいやら分かりませんでした。スクネが見やるとタラシヒメはちょっと笑いました。
わたくしに訊いても答えられないわ。そうなっているのだとしか言えないのだもの。ともかく、わたくし以外の人間は、ヨモイですらこのことは知らないことよ。だから死体が発見されることは、けしてないはずよ
確かに、それだけは間違いないようでした。
◎◎
タラシヒメの部屋に戻り、壁板をもとのようにはめ直すと、スクネはがっくりと疲れて、思わず卓に置かれた瓶から酒をたて続けに何杯も飲み干しました。明けない夜をいく晩もすごしたようでした。
タラシヒメはその様子を寝台に座ってじっと眺めていました。
スクネは盥(たらい)の水で顔や手を洗うと、ようやく息をつきました。
シチが二人の血の跡をきれいに掃除し香も強く焚き直していったので、部屋の様子はナカツ王子が来る前とすっかり同じようになっていました。
しかしむろん二刻前とはなにもかもが違っているのです。
タラシヒメ様。それでは私もこれで下がります。この部屋に誰も近づかぬよう、シチには一晩中廊下の端で見はりをするよういってあります。また明日からの身の回りのお世話も、私の手のうちの者にやらせますのでご安心を。これからひと月の間この部屋にいていただくことになり心苦しいのですが、我慢なさってください。私もシラギ出征まではイヅモにいることにしますので、なにかあればすぐにお呼びになってください。ともかく、今夜の我々の仕事は終わりました
そう言ってスクネが部屋を出ていこうとすると、タラシヒメがさっと立ち上がりました。
いいえ。スクネ。お前には、まだ仕事が残っているわ
なんでしょうか
スクネは振り返りました。タラシヒメはゆっくりとスクネに近づいてきます。
わたくしと、ちぎるという仕事よ
え……
タラシヒメはスクネの両手にそっと手をすべらせました。
お前は言ったわね。ナカツ王子にはひと月後に亡くなっていただくと。わたくしは、今夜結婚するはずだったのよ。ねえ。お前は言ったわよね。わたくしとナカツ王子との間に生まれた子は、ヤマトとヒタカミとを一つにするのだと。でも、その子が生まれなければオホヤシマは二つに分かれたままよ。そう、子供が必要なのよ。わたくしと、ナカツ王子との子が。わたくしにそれを与えることができるのは、お前だけよ。さあ、これは命令よ。お前はわたくしの命令に背くことはできないはずよ。お前にだって、わたくしとわたくしの子が必要なはずだもの……
スクネがタラシヒメを抱きよせたのは、疲れや酔いのせいだったのでしょうか。それともタラシヒメの言葉になにか逆らうことのできないものを感じとったからなのでしょうか。スクネは思考力が停止したように、ただタラシヒメの髪に移った香の匂いや、その細く柔らかい肢体だけを感じていました。
◎◎
スクネははっと目を覚まして、自分が一瞬間だけ寝てしまっていたことに気づきました。
なにか、複雑で密度の濃い夢をみていたようでしたが、ふと隣を見ると、実はそれは現実にほかならないのでした。
タラシヒメはうつぶせになって横たわっていました。死んだようにぴくりとも動きません。
スクネはそっと声をかけました。
大丈夫ですか
タラシヒメの目が黒髪の奥からスクネをのぞきました。
これで、わたくしはお前の妻になったのね
スクネはため息をつきました。
申しわけありません。こんなことになってしまって
《謝っても仕方がないことだが……》
本当ならここにいるのは、あの若く美しいナカツ王子だったはずです。タラシヒメも王子のことを気に入りかけていたようでした。二人なら似合いの夫婦になったことでしょう。
しかしタラシヒメは言いました。
いいえ。たとえナカツ王子と結婚したとしても、わたくしのお前に対する気持ちは変わらなかったでしょう。わたくしがお前のどこに惹かれたと思う? お前の若さよ。お前は、ほかのどんな男よりも、そう、ナカツ王子よりも、生気と若さにあふれている。目じりのしわも、鬢(びん)にある白いものも、お前の若さを損なうことはないわ。なにがお前をそうさせるのかしら。お前はきっと死ぬ瞬間までその若々しさを保つのでしょうね。不思議なことだわ。わたくしには、お前の命が明るくきらきらと燃えているのがみえるの。その光はなによりもわたくしにとって好ましいもの。それさえあれば、たとえほかが闇でも、耐えることができるほどなの
ほかが闇でも……
闇にタラシヒメを引きずりこんだのは、ほかならぬ自分なのではないかとスクネは思いましたが、しかしいまや、その闇の中に自分自身も足を踏み入れているのです。
大王の皇女の、夫となる王子の死を隠し、代わりに自分が皇女を犯す。その結果身ごもった子は、王子との間の皇子として育てる。皇子はその血筋のよさから、将来は大王にさえ名が挙がるかも知れません。しかしそれは、偽りと穢れから生まれた罪の結晶にほかならないのです。
スクネがやろうとしているのは、これでした。
確かにタラシヒメが言ったように、スクネにもタラシヒメとナカツ王子との子が必要でした。
そのときの朝廷の権力争いの焦点は、次の大王が誰かということに移っていました。今の大王であるワカヒコには子がいませんでした。それで太子としては甥にあたる王子をたてましたが、それはあくまでも暫定的なものでした。別のもっとふさわしい皇子が登場すれば、当然太子も変更されるでしょう。ワカヒコの母の実家、ヤサカ家は、ワカヒコに一族の女たちを何人も嫁がせて、なんとかヤサカの血をひく皇子を得ようと必死になっていました。
ヤサカ家が焦るのはワカヒコに子がいないためだけではありませんでした。朝廷では、ヤサカの次に強い力をもっているのは、いまやスクネでした。しかしいくら政治力があっても、大王という権威の後ろ盾がなければ、その権力は玻璃(はり)のように脆いものです。スクネには今までその血の権威という背景がありませんでした。そのため、あくまでその立場は一臣下からぬけ出せず、黒幕とはなりえなかったのです。しかしスクネが実質的な後見人となっているタラシヒメと、ヒタカミの王子であるナカツが結婚することになったことにより、事情が変わりました。もし二人の間に皇子が生まれ、この皇子をスクネが次の太子として擁立しようとするようなことがあれば、どうでしょうか。スクネの政治力と、タラシヒメの高貴な血と、ナカツ王子の背後にあるヒタカミ国という大国の影、これらは朝廷の勢力図をがらりと変えるだけの大きな力をもっているのです。
それまでスクネはヤマト朝廷にあまり深く介入しないようにしてきましたので、大臣の地位も断りましたし、タラシヒメとナカツ王子が住む場所も都から遠く離れた相模に決め、大王という駒をめぐる権力争いから一歩引いた態度をとってきました。そのためヤサカ家もまずは安心していられたのです。
しかしスクネ側の事情も、一晩で反転するように変わってしまいました。
ナカツ王子の殺害をうまく隠し、ヒタカミとの戦争という最悪の事態を避けることができたとしても、ヤマト朝廷でのスクネの苦しい立場は変わらないでしょう。スクネの肝いりでおこなわれるシラギ出征には、コマの滅亡という暗雲が最初からたちこめています。主人を失ったスクネは、これからもヤマトで生き続ける道を模索していかなくてはならないことになりました。タラシヒメがもし本当に皇子を産んだなら、たとえナカツ王子が亡くなっていたとしても、スクネにとって朝廷という権力の海を渡ってゆくための、大きな武器になるでしょう。そしてこれは、ふた親を亡くしたタラシヒメにとっても同じことです。
《俺が力をつけることは、タラシヒメを守ることにもなるのだ》
スクネはこう自分自身に言いわけをしました。言いわけせずにはいられなかったのです。
それは、スクネにとって初めての経験でした。
毎日暗くなったとたん、スクネは仕事を途中で放り出し神殿へ向かいました。そして白絹の幕を払って部屋の奥に飛びこむように入ると、憑かれたようにタラシヒメを抱きました。
《この俺が、女におぼれるなんて信じられぬことだ》
そう思いつつも、タラシヒメを強く求める気持ちを抑えることができないのでした。
あるいはスクネは、ただ怖かっただけなのかも知れません。
スクネは、コマが滅び、たった一人の妹が死んだと聞かされた瞬間の、あのなんともいえない喪失感を忘れることができませんでした。
《俺は、単に仕事と割りきってコマの命を受けているつもりだった。しかし間違いだった。それは、俺の行動を決定づけ、正当化し、精神を安定させるよすがのすべてだったのだ。マオがいるコマのために働くことが、俺の命のみなもとだった。そのためなら俺はいくらでも冷酷になることができたのだ。マオとコマがなくなってしまえば、俺はどこに帰ればいいのだ、なんのために生きればいいのだ。俺は自分一人では生きる目的を決められない人間なのだ》
スクネは、今ではタラシヒメとでだけ、この世とつながっているという気がしていました。タラシヒメを守り、タラシヒメとともに生きることが、スクネのすべてになっていたのです。
《もう二度と失いたくない。そのためになら、俺はなんでもする》
世界はひどくあやふやで脆いものだという気がスクネにはしていました。それは常にしっかりと抱いていなければ、ばらばらになってしまうものなのです。
実際、黄泉との境で、死者の代わりに、亡き人に生き写しの顔を抱いていると、確かなものなど何一つないように思えてくるのでした。
《俺がいる場所はいったいどこなのだ。うつつか、黄泉か。俺と彼女は生きているのか、死んでいるのか。そしてあれは本当に黄泉への入口だったのだろうか……》
スクネはふと思い出してタラシヒメに訊いてみました。
ヒメ。あなたはあのらせん通路を三度往復したということでしたが、二度と同じ場所に行けないともおっしゃいましたね。どういう意味ですか?
わたくしには、あの場所、らせん通路の奥にある場所がいつも同じものなのかどうか分からないの。確かに道はいつも同じで、奥にはいつもあのような大きな穴が開いているのだけれど、その様子は行く度に少しずつ違っているようなの。一度目に行ったとき、わたくしは目印に壁をつたわる木の根に刀で傷をつけておいたのだけれど、次にそれはどこにも見あたらなかったわ。それから置き忘れた予備の松明も、なくなっていたの。わたくしはあの中央に開いた大きな穴の中に潜むものが持っていったのかとも思ったわ
あの穴の中にはなにかがいるということですか
どうかしら。穴の中になにかがいるのか、それとも、穴自体がなにかなのか。わたくしはあの穴の中に色々なものを投げこんでみたわ。石や、木のきれ端や、鼠なんかを
鼠ですって?
前に話したでしょ? わたくしをあの場所に連れて行ってくれた白い鼠の話を。あの鼠を穴の中に入れてみたの
スクネはタラシヒメの目の奥をのぞきこみましたが、それは相変わらず無心に澄んでいるのでした。
なにを投げ入れても、やっぱり穴は呑みこむような音をたてたわ。ねえ、スクネ。あの穴は本当に黄泉への入口だと思う? そもそも黄泉とはなんなのかしら
分かりませんね
スクネは正直に答えました。タラシヒメはうなずきました。
わたくしにも分からないわ。でもあれが黄泉につながる場所だとしても、行ったきり絶対に戻って来られない場所ではないのじゃないかしら
といいますと?
だって、わたくしの鼠は戻って来たのだもの
なんですって?
わたくしが、ある日ヒの岬に座って海を眺めていたら、波間を白いものが泳いでくるのが見えたの。それはみるみるうちにこちらに近づいて海から上がり、するすると崖をよじ登ってきたわ。よく見るとそれは真っ白くて赤い目をした小さな蛇だったの。その目を見たとたん、わたくしはこれがあの鼠に違いないと思ったわ。わたくしの鼠もやっぱり同じ目をしていたから。蛇はじっとわたくしを見たあと、林の奥に入って消えてしまったの
スクネはなんと言っていいか分かりませんでしたのでなにも言いませんでした。タラシヒメが訊きました。
ねえ。ナカツ王子やヨモイも、帰って来るかしら?
まさか。王子やヨモイは穴に投げ入れられる前から死んでいたのです。一度死んだものは生き返ったりしませんよ
タラシヒメは独り言のようにつぶやきました。
本当に、そうかしら……?
スクネはタラシヒメの言ったことを考えてみました。
《ナカツ王子がよみがえる? そんな、ばかな。しかしもしよみがえってきたとしても、俺がすべきことはただ一つ。ヒメを守ることだけだ》
スクネはちらりとそばに立てかけてある剣を見ました。それはナカツ王子の剣でした。
《もし王子がよみがえったなら、この剣でもう一度殺してやる。百たびよみがえっても、百たび殺してやろう。俺とヒメが生きる道はもうそれしかないのだから》
お前のその癖が好きだわ
不意にタラシヒメが言いました。
癖?
タラシヒメの手がそっとスクネの手に重ねられます。
その、指輪を回す癖よ
これが私の癖ですか?
気づかなかったの? なにかをじっと考えているとき、いつもお前はそうしているわ
スクネは小指にはめた金の指輪を見下ろしました。そしてそれをはずしました。
これはあなたにさし上げます
いいの?
ええ。私にはもう必要のないものです
指輪はタラシヒメの左手のくすり指にぴったりとはまりました。タラシヒメは嬉しそうにそれを灯りにかざしました。
素敵。これで独りでいるときにも、わたくしはお前と一緒にいるような気持ちになれるわね
ヒメ。来月シラギへ向かう船が出ます。私もそれに乗らなければなりません
タラシヒメの顔が暗く沈みました。
わたくしは、またお前を長いこと待たなければならないのね
いいえ。よろしければあなたも一緒にシラギに連れて行きます
タラシヒメの顔が明るく輝きました。
本当?
はい。神官も、朝廷の人間も、私たちの味方ばかりとは限らない。そんな中にあなたと、……そして、私たちの子を残しておくわけにはいきません
スクネはそっとタラシヒメのなめらかな腹を撫ぜました。タラシヒメの中には、二人の子が宿っていたのです。
荒海を渡る船や、戦地も、危険には変わりありませんが……
タラシヒメはスクネに抱きつきました。
いいえ。お前がいるところならどこだって、わたくしにとっては一番安心できる場所よ。お願い。わたくしを連れて行って。わたくしを離さないで
スクネもタラシヒメを強く抱きしめました。
私はあなたのそばを離れません。私のすべてはもうあなたのものです
(十三)
◎◎
突然のナカツ王子の死の発表に、ヤマト朝廷も、ヒタカミも唖然としたふうでしたが、同時にタラシヒメの妊娠を伝えると、人々は悲劇の中にも光をみつけようでした。
そのころコマが他国に攻められたという噂が、ようやくヤマトの都にも届くようになっていました。当然朝廷でシラギ出征の是非が検討されましたが、スクネは作戦の続行を強く主張しました。長い間かけて準備してきた出征をここであきらめてしまえば、なにもかもが水の泡になるだけでなく、多大な損失のみが残ること、もしシラギがコマ攻撃に関わっているのなら、コマの同盟国であるヤマトはその仇(かたき)を討つ責務があること、このままシラギを放置しておけば必ずや次はクダラやヤマトを標的にしてくるだろうなどと、説いたのです。
さらにスクネは、タラシヒメもシラギ出征に同行すると伝えました。そしてその理由を、神託によるものとしました。ナカツ王子が亡くなり、悲しみにうち沈んでいたタラシヒメのもとに神が降り、シラギ征伐を自身の手でおこなうこと、なによりもそれはナカツ王子が望んでいることであるという啓示があったのだと説明したのでした。
すべての人々がそれを本当に信じたかどうかは分かりませんが、それに真っ向から反対する者もおりませんでした。イヅモ神殿の奥深くに幼いころから住むタラシヒメは、それだけでヤマトの都人たちには神秘的な存在であり、そういうこともあるだろうと思えたのでした。また、スクネとタラシヒメの存在を煙たがっている人たちの中には、二人が国外の危険な地域に行くことを、かえって都合のよいことだと考えた者もいたようでした。
結局すべてにおいてスクネが全責任をとるという条件のもと、朝廷はスクネの案を承認したのでした。大王は、出発前のスクネに征シラギ将軍と大臣の称号を与えました。今度はスクネもそれを拒みませんでした。
《朝廷も大王も、今度のシラギ出征はほとんど失敗に終わるだろうと予想しているらしい。俺にくれた将軍や大臣の名も、死出へのはなむけとでも考えているのだろう。しかし、そうとばかりもいえんぞ》
タラシヒメとともに生きると思いを定めた瞬間から、スクネはその目標に向かって自分の全能力を注ぎこんでゆきました。またこのころから、スクネは自分の名に宿禰≠ニいう字をあてるようになっていました。ヤマトで生きてゆくという覚悟を、その中にこめたのかも知れません。
《渡来人の俺と、天涯孤独のタラシヒメが、ヤマトで確たる地位を占めるためには、朝廷の奴らに有無をいわさぬような一発逆転の大きな出来事が必要だ。つまりそれは、誰もが不利だと思うシラギ戦に勝利を収めることだ。しかもただ勝つだけではだめだ。それはヤマトの勝利ではなく、タラシヒメの勝利でなければならない。タラシヒメが受けた神託により出征をおこない、タラシヒメ自らの手によってシラギに対する勝利をつかむことが必要なのだ》
スクネは、シチに有能な部下をつけ、コマやシラギの様子を詳しく探らせました。その結果、コマが、ヤンという中原国からやって来た部族に主要な都市を制圧されたことは、やはり間違いのない事実のようでした。しかしコマ人の全部が完全に屈したわけではなく、一度は散り散りになったコマ軍も、生き残った者たちが山などにたてこもって今でも粘り強く抵抗運動を続けていることなどが判明しました。
シチは抵抗軍のいくつかと話をすることができました。彼らはヤンを手助けしたシラギを、ヤンと同じくらいに憎んでいました。シラギはコマの混乱に乗じて、国境近くのコマの都市に軍を配備し、実質的な支配を始めようとしていたのです。シラギ軍の主力がコマに振り分けられていることを確認すると、シチは、コマ軍に対し次のような提案をしました。
つまり、最初にヤマト軍がシラギの首都へ攻め入る。当然その知らせはコマに駐屯しているシラギ軍にもたらされ、軍は都を助けるためシラギへ戻ろうとするでしょう。コマ軍はその進軍を待ち伏せし、思いきり叩く。そうすればシラギは必ずや降伏するだろう、その降伏条件として、シラギのコマ及び任那からの完全撤退を突きつけよう、というものでした。むろんこれは、シチに対しスクネが前もって与えておいた策なのです。
コマ軍はこの作戦にのることを約束しました。コマとしても自身の国をとり戻すためには、この策にのるしかないだろうということは、スクネには初めから分かりきっていました。
コマ側は、死地に活路を見出したようだと喜んでおりました
時期などもすべて相談の上、帰国したシチが、スクネにそう報告しました。
《死地に活路を見出そうとしているのは、こちらも同じだ》
スクネは思いました。しかしスクネは死ぬ気はありませんでした。いざとなれば周りのものすべてをなぎ払ってでもタラシヒメを守り、生き延びる決意ではいたのです。
そしてついに、スクネとタラシヒメは、西へと向かう船に乗りこんだのでした。
《いよいよ、か》
晩秋の霧深い朝、船団はすべるように出発しました。
部下たちとの細かいうち合わせを終えると、スクネはタラシヒメの姿を探しました。タラシヒメは船のへさき部分にいて、じっと前のほうを見つめていました。
ヒメ。こんな寒い場所にいてはなりません
スクネが声をかけると、タラシヒメは振り返り、黙って前方を指さしました。
スクネが見ると、濃い霧が潮のように流れる甲板の上に白い影が浮かび上がりました。
それは、一羽の大きな鵠(くぐい)でした。鵠は長い首を揺らしながら、タラシヒメに向かってゆっくりと歩いて来ました。スクネは腰にさした剣を抜き、タラシヒメの前を守りました。
ヒメ。お下がりください。鵠は力の強い鳥です
コーイ!
突然、鵠が大きな声で鳴きました。
スクネは、驚いて鵠を見ました。鵠は、スクネが持つ剣をじっと見つめていました。
コーイ!
もう一声鳴くと、鵠は大きく羽ばたき空気を揺らしたあと、スクネとタラシヒメをかすめるようにして飛びたちました。二人が見上げると、鵠の姿はすぐに灰色の霧の中へ消えてゆきましたが、その鳴き声から、船が進んでゆくのと同じ方向へ飛んでいったことが分かりました。
コーイ! コーイ!
鵠の声は遠ざかりながらも、なにかを告げるように、いつまでも霧の奥から聞こえていました。
タラシヒメが、スクネの持つ剣の刃をそっと撫でました。
あの鵠は、この剣を見ていたわね
そうですな
スクネは、剣を鞘にしまいました。
お前が来る前、鵠は、わたくしのお腹を見ていたのよ
…………
きっと、あれは、ナカツ王子ね
スクネもそれを疑いませんでした。確かに、あの鵠の目はナカツ王子と同じ目でした。胸から血を流し、あおむけに倒れて、じっと天井を見つめていた、あのときの目でした。そして、スクネが佩(は)いていたのは、ナカツ王子の剣だったのです。
《ナカツ王子はなにを言おうとしていたのだろうか。我々が向かう先は、本当に活路なのだろうか》
スクネには分かりませんでした。
ええ、私にも分かりません。
スクネとタラシヒメはシラギに渡り、大勝利を収めました。ヤマトの人々は凱旋したタラシヒメを熱狂的に出迎えました。帰国したタラシヒメは皇子を産みました。その皇子は次の大王になりました。なにもかも、スクネの計画したとおりになったのです。
任那は一時期ヤマトが掌握しましたが、シラギが力を盛り返すと、やはりその権益をめぐって争いが絶えませんでした。コマはシラギから領土をとり返し、さらに長い間かかって自力でヤン族を追い出すと、またカラの北の雄の地位に復活しました。
スクネとタラシヒメの時代から、カラに対する我が国の方針は基本的に変わっていません。つまり、カラにおける任那は、ヤマト固有の支配圏であり、これを侵すものに対しては武力に訴えても対抗する、というものです。任那は位置的にシラギに近く、また、シラギは、昔から任那を含むカヤ一帯を手に入れようとしてきましたので、結果、過去何度も、ヤマトとシラギは剣を交えてきました。
ヤマトが任那をあきらめきれないのは、一つには、数百年にもわたり多大な労力や費用をかの地に注ぎこんできたため、今さら手を引くに引けなくなってしまったことがあります。さらに、タラシヒメが得たシラギ征伐の勝利があまりに鮮やかであり、美しく神秘的な彩りにも満ちていたため、ヤマトがいつまでもその記憶を忘れられなかったということもあるのです。それらはすべてスクネの演出によるものでしたが、ヤマトは彼がみせた夢にいつまでも酔いしれ、そこから醒めることを拒み続けてきたのです。
五十年前に、任那がシラギに完全に奪われてからも、朝廷はいく度なく任那に兵を派遣してきました。私が現在仕えている、炊屋姫(かしきやひめ)大王の御代になってからも、一度任那出兵をおこないシラギと交戦しています。しかしシラギは、ヤマトが兵を引くと、やはり任那を侵すことを繰り返しています。遠方のヤマトは大軍を任那に駐屯し続けることができないのです。
私は、摂政に就任した当初から、任那に派兵し続けることの愚を唱えてきました。しかし、当時私はまだ若く、朝廷内での発言権も弱いものでした。数百年にわたるヤマトの政策方針を転換させるだけの力がまだなかったのです。
大王ご自身も、私の進言を、もっともなことだと理解なさっておいででしたが、やはり周囲の有力豪族たちを抑えることがおできになれず、出征をよぎなくされました。任那には豪族たちの既得権益が根深くからんでおり、任那をあきらめることに対する彼らの抵抗は非常に激しいものがあるのです。
私はこの時、任那出征をとめることはできませんでしたが、私自身の外交政策を別に遂行させることはできました。それが隋への使者派遣です。私はかねがね、カラの背後には常に中原国の存在があると思っていました。古来、様々な新しい技術や文化は、カラからもたらされてきましたが、結局のところそれは中原国発祥のものが多いのです。それならば、中原国から直接とり入れたほうが、早く正確なものが得られるはずです。ちょうど私が生まれた前後、それまで複数国に分かれていた中原国は、隋という一つの大国に統一され、使者を送りやすい状態になっていたことも、遣隋使を始めるよい嚆矢(こうし)でした。
現在ヤマトは任那出征を完全にとりやめております。その代わり遣隋使はすでに四度を数えております。三度目からは、学生や僧を多く隋に留学させ、最新の学問を学ぶことができる体制をつくりました。任那から手を引く政策を明確にしたことにより、シラギとの関係も改善しつつあります。現在カヤ地方は、シラギの影響が強いものの、どの国にも属さず一定の自治権をもった一種の特別区のような位置づけになっています。もしかすると、五百年前カヤ人が夢みた、自由で平和なる経済立国が、これから誕生してくるのかも知れません。
しょせん任那は他国の領土なのです。その土地は、その土地で生まれた民族が住み、自分たちのやり方で治めることが一番よいのです。もし彼らの間で争いが起こった場合は、その解決もやはり彼らに任せるべきなのです。そして私たちは、自分たちの土地をしっかりと守り、その土地でとれるもので満足するべきなのです。その上で、自分たちにないものは交易という方法で平和的に手に入れればよいのです。正当な対価を払うものに文句を言うものはありません。そのためには自らの力を貯え、外に門戸を広げても耐えられるようにすることも必要です。
私が歴史などを研究した結果、我が国の外交政策について得た基本方針が、これでした。今ようやく、その政策が実現しつつありますが、ここまでたどり着くためには多くの犠牲が必要でした。
第一回目の遣隋使は私が自費でおこなったものです。しかしそれでも、私が従来のヤマトの外交政策を変えようとしていることに、豪族の多くが反発しました。さらに、シラギがまた任那へ侵攻したことや、シラギの間者が対馬で捕らえられた事件などが重なり、任那権益をもつ朝臣たちは、大規模なシラギ出征計画を実行しようとしたのです。これは、すでに伝説的となっていたタラシヒメのシラギ出征を再現しようとするものでした。そして、その出征の総大将として、なんと私の実弟である来目(くめ)が指名されました。それは、私や、私に同調する者たちへのあからさまな圧力でした。来目も、私の考え方に賛同し応援してくれていた一人だったからです。しかし2大王の名で出された勅命を受けないわけにはいかず、来目は出征準備をするため筑紫に向かいました。シラギ出征軍は、タラシヒメの故事に倣い、イヅモから出発することになっていましたが、兵や兵糧、そのほか多くの軍備は、クマソで調達することになっていたからです。
筑紫に着き、戦争の準備を進めるうち、来目はクマソの実情を目(ま)のあたりにしました。クマソは、ヤマトがするカラ出征にあたり常にその兵や軍備調達にかかる中心拠点となってきていましたが、度重なる負担に民の暮らしは限界にきておりました。働き手となる若い男たちはみな兵隊にとられ、長年にわたり造船のための木を伐り出し続けた結果、山は荒れ果てておりました。クマソは、ノワケが多い地域ゆえ、裸になった山々を大雨が洗うように流れ、毎年のようにふもとで洪水が発生し、作物は不作続きでした。人々は飢え、朝廷に対する怨嗟の声が里に満ちておりました。
来目は何度も朝廷にあてて手紙を出しました。クマソの実情を述べ、とても必要な軍備を整えることができないこと、シラギ出征よりも国内の統治を優先すべきことを訴えたのです。しかし、いったん大王の名で出した命令を簡単にくつがえすことは困難でした。来目は、このまま出征を敢行すれば、クマソのみならず、ヤマトそのものが滅びてしまうと思いました。そしてそれを朝廷に分かってもらうため、絶食をするという手段で主張を貫くことにしたのです。この絶食による抗議行動には、来目の家族や部下たち、クマソ人などを合わせ、五百名もの人間が参加したのです。朝廷は来目に対し、出征の準備を早く進めるよう何度も催促の使者を出しましたが、来目は頑として聞き入れず絶食を続けたのでした。
数ヶ月後、来目は亡くなりました。来目とともに絶食を続けた者たちも、その多くが亡くなったのです。出征軍の核となる者たちを失ったことにより、朝廷もシラギ出征をあきらめざるを得なくなりました。総大将自らの出征拒否という前代未聞の出来事に、これ以降、任那に対する方針を再考しようとする気運が朝廷内で高まったことは、まぎれもない事実です。私が以前から出していた外交政策に関する提言にも、あらためて目が向けられるようになりました。その結果、任那権益の実質的放棄、遣隋使の派遣という政策の大転換が可能となったのです。
私が歩もうとする、この国のあるべき姿への道すじは、来目がその身を犠牲にして啓いてくれたものです。来目は、理想の政治を実現するには、ときに多くのものを失わなければならないこと、しかしその実現はけして不可能ではないことを教えてくれました。
私は、来目や来目と行動を共にした多くの人々のためにも生きて、そして、この国のためによりよい政治を行う責務があるのです』
そう言う厩戸の目には、さすがに光るものがあった」
◎◎
十三夜の月は正中をすぎ、傾きつつあった。
龍一は、じっと、ニニギが話す古代の物語を聞いていた。しかしそれは同時に、新しい物語をきくことでもあった。
「『この国のよりよい政治をおこなうということには、神器を盗み、朝廷に黙ってヒタカミとこっそりやりとりすることも含まれているのか?』
俺は、厩戸に訊いてみた」
ニニギが話を続けた。
「厩戸はにやりとした。
『神器のことだけではなく、ヒタカミとのこともご存じとは、さすがでございますね。確かに私は、現在国交が断絶しているヒタカミと、ひんぱんに人や情報の交換をおこなっています。しかしそれは、あくまで非公式かつ個人的なものですが』
『大王の摂政というお前の立場で、完全なる個人的≠ネ言動というものがあると思うかね?』
厩戸は笑った。
『むろん、ありません。政治家という職業は、それ自体が、その者の生き方であり、人生哲学の表現方法なのです。ですから政治家に、厳密な公私の区別というものがあるわけがありません。私は、私の政治哲学に基づき、ヒタカミとの交流をおこなっているのです。ただそれが、今のところ朝廷の承認を正式に得られていないというだけなのです』
『お前の、対ヒタカミの政策とは、どういうものなのだ』
『私の政治哲学は、一言で申しますと和≠ニいうことになります。つまり、人と人との間には、必ず相通じ合うものがあり、協調できないということはない。それは、国と国との間であっても同じです。和≠ニは、相手を併合したり、同一のものにするということではありません。互いの違いを理解しつつ、共通点を探してゆく、ということなのです。もしかするとそれは表面的で部分的なものに終わってしまうかもしれません。また、大変時間や手間がかかることでもあるでしょう。それでも、互いの存在を認めようとする試みこそが大きな意義をもっていると、私は思っています。要は継続することが大事なのです。
ヤマトとヒタカミは確かに、住む人も違えば、風俗も違い、それぞれがもつ歴史も異なっています。しかしヒタカミは、カラとは違います。同じオオヤシマという一つの自然の中に抱かれ、四季を共有し、言葉も似ています。空や川に境がないように、ヤマトとヒタカミの間にも、本来厳密な境はないはずです。現に民同士は盛んに行き来し、交易や婚姻関係も多くあります。下にできて、上にできないということはないはずです。ええ、和≠ニは、自然ということです。ヤマトとヒタカミが交流し合うことは、自然なことなのです。自然に逆らってはいけません。逆らえば必ず無理が生じます。私は、任那から手を引いたのと同じ考え方に基づき、ヒタカミとつながりをもっと深めるべきだと思っているのです。その結果、二つの国が、将来一つの国になるか、それとも二つのままなのか。それは時の自然な流れが決めることでしょう』
厩戸はそう言って、穏やかに微笑んだ。
厩戸は、けして激高したり熱く語るということはなかった。話し方も常に穏やかで、強すぎる言葉は使わなかった。しかしそれはあくまで表向きであって、あいつの中には、燃えるような情熱と、金剛のような意志が備わっていた。厩戸は、俺にも自分の心の内を開けてみせるようなことはしなかった。一つ一つの言葉の裏には必ず深い意味があって、すべての行動は先々をみすえた上での布石であり、いくつもの役割を同時に果たすようになっていた。
そのことが最近になって、この俺にもようやく分かってきたのだ」
第四章『共鳴U』につづく
2012/02/12(Sun)09:44:36 公開 /
玉里千尋
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■作者からのメッセージ
【古代編】
◎登場人物◎
★厩戸(うまやど):ニニギの子孫であり、飛鳥時代のオホヤシマ(古代日本)における強国ヤマトの摂政。優れた政治家であり、見識、霊力ともに優れたヤマト随一の人物。ニニギ神との対話の中で、オホヤシマの歴史を語る。
(1)
★ヒコホ王:ニニギの実子で、ヤマトの初代国王。母はカラ出身でニニギ亡きあとのヤマトの実力者・コヤネの娘サヰ。
★イツツヒコ:ニニギの実子で、クマソを治める地方王。母はニニギと同じく平原出身のウズメ。
★オシヒ:イツツヒコの忠実な腹心。
(2)
★スクネ:厩戸の祖先。渡来カヤ人。使命を帯びてヤマト政権に近づく。
★ミハカシヒメ:イツツヒコから数代後のクマソ女王。
★タラシヒコ:ニニギから数代後のヤマト大王。
★タラシヒメ:ミハカシヒメがタラシヒコとの間にもうけた遺児。
★ナカツ:タラシヒコの皇子ヲウスと、ヒタカミ国主の妹タツハとの間に生まれた一人息子。
◎キーワード◎
★オホヤシマ:古代日本の名称。主要国としてはヤマトとヒタカミがある。
★任那(みまな):オホヤシマと海峡を挟んだカラ半島における、ヤマトの駐屯地。ヤマトがカラ内に主張する権益そのものを指す場合もある。
★カヤ:周辺国から自国を守るためヤマトと同盟を結び、国内に任那駐屯地をつくった。国としての形はスクネの時代には滅びている。
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