『アイデリアル天球』 ... ジャンル:リアル・現代 未分類
作者:風丘六花
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夜空のガラスは、誰かが粉々に割ってしまった。ひどく冷たい夜で、空であった。ガラスの粉はとてもとてもゆっくり、けれど静かに、暗い群青から黒へのグラデーションの中を流れている。一切のハーモニーを崩さずに、静寂を抱えたままに。粉の一欠片ずつが、日の光を身に受けて乱反射を繰り返す。それは、もしかしたら今は見えない太陽は、打ち砕かれてこの夜空に流し込まれているのではないかと錯覚するようであった。ともすれば、太陽はガラスで出来ているのかも知れない。
月を取ってと希うほどもはや幼くもないけれど、彼は夜空を見上げてほうと息を吐いた。ひとつふたつと降ってきたところで、秩序は、この世界の調和はそのままである気がした。それほどまでに、彼にはそのあり得ない未来が、明確なヴィジョンを持って目の前に見えた。星が降ってくる。遠い遠い空にあるはずの星の、ほんの一欠片が、きらきら煌めくなにか綺麗なもの、太陽の破片――それはきっと二酸化ケイ素なんて無情緒な結晶ではないのだろう――が、地球の重力に捉えられる。輝くガラスの欠片が、夜空を切り裂いて彼の目の前を雨粒のように落下していくのだ。ヴィジョンの美しさに彼は息を呑んだ。それは空想と呼ぶほどには、現実から遠いイメージではなかったように思えてしまった。
ふと伸ばしたくなった腕は、隣の視線に気付いて引き戻した。空を一心に眺める彼を、隣で少年がぼんやりと眺めていた。それは珍しい構図ではなかった。むしろ、彼等はいつでもそうであった。例え彼が落ちてくる星を掴み取ろうと手を伸ばしても、少年は何も言わなかったであろう。少年は、彼の隣にいることに関しては誰にも負けない少年であった。
「ねえ、宇宙には川があるのかな」
星を握る代わりに、彼は少年に問うた。隣の双眼が、きょとりと瞬いた。群青よりも黒いその色は、また違うガラスで、黒そのものの結晶であるのか知らんと、彼はぼんやりと考えた。
少年はううんと呻りを上げた。ないと答えてしまうのは簡単であった。星と星との間にあるのは、途方もない暗闇と、いくばくかの分子の粒だけなのであって、その途方もない寒さの中に、川が水が液体が、存在しうるはずがないのだと。それはまことに事実であったし、少年はそれを承知していた。けれど、そうは言わなかった。それが、少年が彼の隣にいることの出来る理由であった。彼が欲しくない言葉を、少年は決して口にしない。それは彼にとって必要ではないし、彼のなにを動かすものともなれないのだ。意味のない言葉を紡ぐよりは、無言の方が幾倍も価値があることを、彼も少年も知っていた。
「天の川は、あれは星の集まりと言うけれど、本当は本当に川なんじゃないのかな。綺麗な川を、綺麗なものがゆっくりゆっくり流れていてさ。大人たちは、そんな綺麗な川があると知られたくないから、星だなんて嘘をつくんじゃないのかな。だってほら、そうしたら僕達が足を突っ込んでいるこの小川はさ、ひどくどうでもいいものに思えてしまうじゃない」
澄んだ小川の流れが、二人の足首を擽った。透明な水は光の粉を飲み込んで、夜闇にふわりときらめいた。その軽い透明感に浸されて、僕の足首から先は溶けてなくなってしまうのではないかと。彼は、ふと不安に思った。どろり溶けるというよりは、じわりじわりと意識の端においやられて、何か他のことを(例えばこの夜空の美しさのことを)考えていて、ふと気が付いたらもうそこからなくなってしまっているような。朧気な恐怖が彼の背中を走った。
少年はぽちゃりと小川から足を引き出した。そこから生じた波が、一瞬の冷たい感覚を伴って、彼のすねを撫でて消えていった。水面の上に掲げた少年の足首から、爪先に向かって雫が伝って落ちる。水面に落ちた一粒が、光をまとって波面を描いた。中心から広がった円の端に、星の光が歪んできらめいた。
「星は星で、綺麗じゃないか」
「それでも、水を流れた方がもっと綺麗だろう。屈折して、いろんな方向に光が散らばるから」
「僕は、この川のほうが綺麗だと思う」
「どうして」
少年は、川縁に膝を抱えて座った。右手を水の中へ差し入れて、少年は魚のようにそれを泳がせた。細い指が、水面の揺らぎにゆらゆら揺れる。彼の投げかけた短い質問に、少年は薄く笑ってみせた。それから、たっぷりたっぷり時間を置いて、手のひらの魚を泳がせた。彼は少年を急かすことはしなかった。それが、少年が彼の隣にいる理由だった。少年の中に流れる時間と彼の中に流れる時間は、恐ろしく見事に独立していた。彼は少年と同じであるから、少年の時間を気にしない。
泳がせることに飽きたのか、答える時が来たと悟ったのか、それは少年にしかわからない。けれど、少年はそのタイミングで右手を水から引き上げた。そうして、彼には見えない少年の体の影に、両手ともを揃えてやってしまった。彼は、それを横目で眺めていた。
「ほら」
「わあ。まだ、いたんだね」
重ねて閉じた両の手を、少年は彼の前でそろと開いた。ぽわり。右と左の手のひらの隙間、狭く暗いはずの空間がぼんやりと黄色く染まった。彼は目を輝かせて、その鈍い光を覗き込んだ。指と指との間からも、黄色が漏れ出だしていた。それは、幻想的の一言が確かに相応しいとは思えたのだけれど。ロマンのどこかに、隣かあるいは後ろにいるようなリアリズムを感じる光であった。少なくとも彼はそう感じた。きっと、少年もそう感じてこの蛍を手中に収めたのであろう。
「蛍は綺麗な水じゃないと育たないんだよ」
「知ってる」
「天の川では、蛍は生まれない」
少年は重ねていた手を開いた。手のひらの真ん中に居た蛍は、戸惑ったように数瞬少年の生命線の真上に留まってから、飛び立って彼の鼻先を掠めた。黒い体を夜に溶け込ませて、そのまま飛んでいった。彼と少年が追うことの出来たのは、天上の星よりも眩しく輝くひとつの小さな明かりだけであった。明かりは草むらに隠れて消えた。それを見届けて彼は溜息をついた。俯いた二つの瞳は行くあてもなく、水面を映しとってゆらりと揺れる。拗ねるように彼はぽちゃぽちゃと水の中で足を前後させた。
「蛍なんかいなくたって、光っているんだからそれでいいじゃないか。星は綺麗だよ」
「星は綺麗だ。でも、僕は、蛍の方が好き。天の川より、蛍の育つこの川が好き」
だって傲慢は嫌いだもの。少年はその言葉を飲み込んで、彼に笑いかけた。彼は少年の表情を見て、眉を顰めて、それから少年に合わせて笑ってみた。そうすれば、彼の抱く違和の理由がわかるやもしれぬと考えた。けれど、わからなかった。少年は彼のことをよく知っていた。だから、彼の隣にいることが出来る。彼は、少年のことをよく知らない。だから、隣にいることができる。
「だけどさ、ねえ。ほら、今日は七夕だよ。願い事を叶えてくれるのは、蛍じゃなくて織姫星と彦星なんだ。今日くらい、君は星を尊重すべきだ」
「僕は星は好きだよ。天の川も好きだ、とても綺麗だと思う。でもね、遠すぎるんだよ」
少年は空を見上げた。彼がしていたように、星の川を目で追った。そうして、宙に腕を伸ばした。それは彼の決してしなかったことであった。手のひらをいっぱいに開いて、少年は星を掴み取ろうとした。
彼は手が伸ばせなかった。もしかしたら、もしかしたら届いてしまうかもしれない。あまりに現実的なヴィジョンに、もしやの思いが拭えなかったから、彼には出来なかった。少年は、知っていたから伸ばしたのだ。届くことのないことを、わかっていた。少年にとって、その行為は戯れであった。彼にとっては、そうもありきれなかった。
「当たり前じゃないか。あんなものが近くにあったら、君はあっという間もなくどろどろに溶けてしまうよ」
「光の速さで、ベガまでは十五光年。アルタイルまでは十七光年。そんなに待つくらいだったら、触れる蛍に託した方が幾分か現実的だとは思わないかい」
「ナンセンスだよ。願い事なんて、あんな小さな蛍には重すぎる」
彼は肩を竦めた。少年は彼を見た。膝を抱えて小さくなったまま彼を見て、そうなのかもしれないね。と呟いた。
「だけどね、僕は願いが帰ってくるまでの三十年を待てるほど鷹揚じゃないんだよ」
「どうして三十年なんだい? 願いより光が速いだなんて、そんなのわからないだろう」
彼の言葉を聞いて、少年は笑った。彼を馬鹿にしたふうなものではなかったけれど、なにかといえばそれは諦観であった。あり得ないんだよ。少年の笑顔はそう語っていた。そして、誰もにそれを疑わせることのない笑顔であった。少年の瞳に、映っていたのは星空ではなかった。
「光より速いものなんて存在しないんだ」
「どうして?」
「アインシュタインが、そう言ったから」
「理由になってないよ」
「そうだね。アインシュタインは発見しただけだ。世界は、出来た時からずっとそうなんだよ」
一秒間に地球を七周半、それよりも速いものはない。それが世界の真理であるのだと、少年は言った。小さな粒の塊で出来た何もかもいっさいの物が、途方もなく大きな、地球なんてものに引かれながら転がっている。どこかの誰かが発見したそれもまた紛いもなく真理と真実であって、僕達の住む世界はそう作られているのだ。秩序と論理の元に、整然と規則的に。少年はまるでセレナードを歌うように彼に語った。彼は何も言わずに聞いていた。
「つまりね、僕らの体が小さな粒々で出来上がっていて、僕がこうして喋るのも動くのも全てその粒々のなす回路に通る微弱な電気のなせる技だってことだって、悲しくも事実なんだよ。願いより光が速いのと、同じに」
「この世界の空気を22.4リットル掬い取ったら、アボガドロ数の粒子があるように?」
彼の問いに、少年はひととき目を丸くして、悲しそうな表情は一切見せないままにそうだねと頷いた。
彼は身を屈めた。そうして、川に差し込んだ足の真正面に自分の手を入れた。両手を椀の形にして、彼は水を掬った。彼は自分の目の前にそれを掲げて見せた。月光と星の光を受け止めて、彼が切り取った水は揺れる波面にさんざめいた。それが透明と名の付く色であると、本能的な理解のいくほどに、それは暗い中で静かに白を発していた。少年は彼の動作をただ見つめていた。彼は両手の椀を傾ける。細い糸になって水が川に戻っていく。音のない世界に、水と水とがぶつかり合う音が響いた。糸は水に溶けて、まるで境がわからなくなる。少年の瞬きの音も、或いは星の瞬きの音も。今なら聞こえるか知らんと、彼はぼんやりその透明な糸が姿を消すのを眺めていた。
「ねえ。あの夜空の星をアボガドロ数集めたら、空にはいくつの天の川が出来るのかなあ」
空っぽになった手を見つめながら彼は少年に問うた。彼の右手と左手の間には、ぽっかりと空間が浮かんでいた。それがあまりに空虚な隙間であったので、そこにはもしかしたら真空であって、重力すら存在しない論理外の存在があるのかもしれないと錯覚してしまいそうになるほどであった。少年はその空間を見つめた後に、頭上の天の川に目をやった。ゼロが幾つ並ぶのかさえ明確にはわからないほどの距離が、十把一絡げに少年の視界に飛び込んできた。星の光が何十光年をも旅して少年の網膜に届くのであれば、それは少年の視覚が星に向かって数十光年旅をしたのと同じ事ではないのだろうか。光と同じ速さで帰ってきたそれにおかえりを行って、いずれにせよ遠すぎるのだと、少年は溜息をついた。持ち帰ってきた蛍の欠片を、少年はぼんやりと眺めていた。
「いくつの星があれば、その集合体は天の川と呼ばれるんだい」
「君に情緒はないの? 天の川すら定義してしまおうって言うのかい」
「冗談。あそこは神様の箱庭さ。僕たちに与えられた世界の外側だ」
「外側を自分たちの世界に引き込もうとはしないのかい」
「僕に言わせれば馬鹿げたことさ。外を内に引き込もうとしたら、裏表がひっくり返ってしまうだろう」
ボールを裏返すのと同じ。とそう少年は付け加えて、自らの両手で作った歪な球を彼の目の前で反転させてみせた。指先と指先をぴたりとくっつけて、親指と小指、薬指と人差し指から順繰りに右と左を離していく。指と指とを支えていた微かな力は全て少年の手の真ん中の指に集まって、そのままぐるりと右手と左手の甲が口付けを交わした。
「それは大変なことだね」
「そう、大変なことなんだ」
少年は、ちっとも深刻そうでない表情でそう告げた。少年は、例え少年の世界の裏と表があべこべになってしまったとしても、同じ表情で「大変だ」と呟くのだろう。それともあべこべになってしまったら、表情も反対になるのだろうか。言葉も、姿も? 彼にはそれがまったく想像出来なかった。少年の中には、それにも答えがあるのだろうか。気になったけれど彼は聞かなかった。
少年は川縁に大の字に寝転がった。それまでずっと少年の上にあった星空は、今や少年の真正面にまで降りてきていた。彼も同じように星空を落とし込もうとして、どうにもそれが出来なかった。彼にとってそれはひどく恐ろしいことであった。太陽の破片が、瞼のカーテンを引いた自分の二つのガラス目掛けて降り注いでくる幻影にかられるのだ。それは視界そのものまでどろどろに溶かしてしまうほどの熱を孕んでいて、彼の瞳はあっという間に融点を超えて二酸化ケイ素が繋いだ手を離してしまう。そうなってしまえば、今映っている光も闇も少年の姿も川の揺らめきも、全てが混ざり合って渦を巻き、色を共有しあってブラックホールの如くひどく重たい黒を生み出すのであろう。それが視界を覆い尽くした後に彼が見ることとなる、瞼の裏に浮かぶ極彩色すらを排除した完全な黒の色であるのだと思うと、彼は途端に目を開けることが怖くなる。加法混色のゼロと減法混色の無限大を同一の物としてしまった完全な黒を想像した途端、彼は自分が眺めている星空の遥か彼方には自らの後頭部が見えるのではないかという気分に陥った。ブラックホールは、ゼロと無限をイコールで繋いでしまう。
彼は、背中を地に付ける前に肘を立てた。そうして、寝転がることを諦めて再び小川に足を浸す道を選んだのだ。その冷たさが、浮き立った彼の心を沈み込ませて温度を下げる。思考が現実を捉えた時、天の川は変わらず彼の頭上にあった。それは、やっぱり落ちてきそうだと思わせるほどにひどく鋭利に輝いていた。
「星は、落ちてこないのかなあ」
「君は身の程を知らない。いつだって論理の先を求めようとする」
「与えられたものに満足していたら、足踏みにしかならないよ」
「この世には、与えられたものしかないんだよ」
少年は両腕を地面に投げ出した。ひどく満足そうに笑っていた。全身の筋肉を弛緩させて、少年は自分そのものを自分と地球との間の引力に任せてしまった。ぴくりとも動かぬ少年の体は確かに地球を引いていたのだけれど、地球が少年を引く力の方が遥かに大きかったのが事実であるため、少年はぴたと地球にくっついていた。少年はその事実を甘んじて受け入れた。その姿が少年の価値観全てであった。
彼は少年の顔を覗き込んだ。少年の瞼は開いていて、たまに思い出したように瞳を覆った。それは星の瞬きと同じリズムであった。少年はただ、あるがままに世界を享受していたのだ。それは土の柔らかさと芝生が肌を擽るこそばゆさであり、川の水が流れて彼の足に当たる微かな音であり、風が草むらを靡かせる摩擦音であり、そして目の前にある神の箱庭を内から眺めているという事実であった。
「僕たちがゼロと一で二次元を支配しているのと同じように、僕たちもまたどこか高次元の何かにプログラムされた存在なのかもしれないと、思ったことはない?」
少年は彼に問うた。彼は小さく首を横に振った。それが否定の意思を表す動作だったのか、少年の突飛な発言に呆れたことを示していたのかはわからなかった。
「一体どうやって」
「そんなことはわからない。だけどほら、僕たちの全てを司っているこの脳みそは電気回路に成されているんだよ。これは巧妙に設計された作り物であって、僕がこうやって喋っている言葉も、どこかの誰かの意思なのかもしれない」
「なんてホラーなんだい、それは」
彼は今度こそ呆れたような溜息をついた。リアリズムと論理を謳う少年が発するには、それは些か空想の世界に足を踏み入れすぎたもののように思えたのだ。少年は仰向けに寝ころんだまま、少年に相応しい無邪気な笑みを浮かべた。それは言葉とは似ても似つかない笑顔であった。その顔は、少年を少年よりも更に幼く見せるものであったのだ。
「まあそれでも、僕が幸せを感じられればそれでいい」
「ひどく刹那的だね」
「見事なまでに典型的なアイデアリストで空想家の君に言われるのも」
「それは正論かもしれない」
彼は少年の隣に居て、少年は彼の隣に居る。それはひどく歪な関係だった。彼らを支える地面の真上に広がる星空は、リアリストとアイデアリストを包括して輝いている。それは決して相容ることは出来ないものであるけれど、手を握り合うだけが隣にいることではないのだと二人は知っていたのだ。互いにわかっていたのは、自分の主張で相手は決して変わらないということ。油と水が混じり合わないのなら混ぜなければいい。それはひどく簡単なことだった。そのひどく簡単なことが、二人を繋いでいた。
彼は足を浸した水を指先でかきまぜた。指が水面に顔を出す瞬間にぱちゃりと音が鳴った。静かな空間をほんの少し音は弾いて、あっという間に虚空に消える。彼はまた空を見上げた。限りなく調和された光と闇は、それでも同一になりきることなど出来ない。彼と少年の関係と、それはひどく似通っていた。
「僕らには秩序が与えられた。数式と論理で構築された完璧な世界が与えられた。それが全てで、それが世界なんだよ」
空を見上げる彼の横で、少年は瞼を閉じて流れるように語った。少年の声は、真っ直ぐに彼に染み入った。それは体のどこにも触れずに突き進んできた放射能が甲状腺に溜まり込むように、気が付いたらふと彼の真ん中そこだけに巣くっていた。積み重ねていたガラスの欠片がその言葉に融かされる。彼は星空を見上げていたはずだったのに、見えていたのは醜い二酸化ケイ素の結晶のひとかたまりであった。それは共有結合の結晶でありガラスであり水晶であり、星であり恒星であり太陽であった。彼にはとうてい噛み砕くことの出来ないものだ。
「この夜空はね、僕たちの創造主の箱庭だ。僕らには触れることが出来ない」
「アポロ十一号は月に行ったじゃないか」
「きっと創造主は鷹揚なんだ。僕らがあまりに外を見たいと熱烈に希ったから」
少年は少年の顔の前に右手を開いて星にかざした。神様のおもちゃを指と指の間に閉じこめて、檻に入れてしまったようだと少年は微笑んだ。だけれどそれが詭弁であることを少年が知らぬはずもなかった。少年は檻の中から星を覗いている。どちらが真理であるかなど、少年には問うまでもないものだ。吹いた風の揺らした髪が、少年の首元をくすぐった後に彼の足下の水を揺らした。濡れた足を風に吹かれて、彼はひとつ身震いをした。生きているじゃないか。思ったのはそれだった。
「人間はどこまで行けると思う?」
「気まぐれに許される限り」
「ねえ、それはやっぱり僕らが決めることではないのかなあ」
彼の問いに、少年はあっさりと一言宙に浮かべた。言葉が抱いていたのは、星と星の間の黒と同じ色の虚空だった。その言葉は形に見えないのに確かに質量だけそこにあるように感じられた。その重さを彼は自分の心臓で受け止めた。「僕らに決定権なんてないんだよ」とが少年の言葉であった。それは、彼と同い年の少年が発するには諦観に満ちすぎた響きであった。その響きが、彼にとってはひどく重かった。だから彼は、少年が綺麗だと形容した、この川から足を抜けない。
「自分の人生をプログラミングするのが僕らだと、信じるのは愚かかい?」
例えば、手を伸ばせばあの星に届いてしまうだとか。上を向いたら星空が落ちて来るだとか。
彼はもはや星を見ることが出来なかった。満点の星空は川を描いて、先刻よりもほんのすこしボールを転がした位置を保っていた。天の川が川であったっていいじゃないか。与えられた物より美しいものを望んだって、ねえ君はそれさえも。心のうちで問うてみて、彼は思わず自嘲した。答えなんて知るはずもなかったし、きっと理解の及ぶ範疇にそれはない。だからこそ少年の隣にいるのだ。
「それはね、僕に言えたことじゃない。君が信ずるものを決めるのは僕じゃない」
少年の言葉は相も変わらず歌うようであった。歌うように星へ謳った言葉を、少年が誰に向けたのか彼にはやはり理解が付かなかった。理解が付かなかったから、ただ彼は足を水に浸していた。川から彼は離れることが出来なかった。跳ねた水が彼の膝にかかって、臑を伝ってつうと水面に潜り込む。もしもこの感触すらが誰かに規定されていると言うのなら、ほんの少しだけでも書き換えてくれればいいのにと彼はぼんやり闇を見つめた。エーテルに満たされた絶対性理論の成り立つ世界に、エンターボタンひとつで変わるのなら星だって夜空から落ちてくるかもしれない。
「この世界は君のアイデアルかい?」
自らのアイデアルがリアルの範疇を超えないことを彼は知っていた。ともすれば、彼のリアルはアイデアルの中にあるのだろうか。少年は彼の隣に居る。彼は少年の隣に居る。二人は常に積集合だ。
少年は頷いた。瞼を閉じて星を見つめながら、ほんの微かに顎を引いた。
「それは虚しくないのかな」
彼は地面に寝転がった。上を向くことは出来なかったから、横向きに体を倒した。
空は相変わらずに星を湛えていた。彼の中から消えないヴィジョンが、喉を通って二酸化炭素と一緒に吐き出されて、そのまま空へと上っていった。星は輝いていた。ダイヤモンドが内から発光しても、これほどまでに真っ直ぐな光は出てこれないであろう。それはブラックホールのちょうど反対であるように思えたのだ。全てを吸い込む黒の反対、全て全て真っ白に真っ直ぐ吐き出して、それはもしかしたらかつて吸い込まれた星の残骸で、そうしたら光は全て星であるのかも知れない。星で出来た光がガラスで出来た太陽から吐き出されたら、グリニッジの天文台は何時を指すのだろうか。
「だって傲慢は嫌いだもの」
少年は静かに呟いた。
2011/12/19(Mon)00:50:41 公開 /
風丘六花
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風丘六花さん
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■作者からのメッセージ
お久しぶりです、風丘です。
別所にも投稿させていただきましたが、いろいろな方の意見を聞きたかったのでご無礼をお許しください。
高校生向けの文芸賞に応募して、見事落選した作品です。
感想・御批評などお願いできれば幸いです。
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。