『夜光虫と猫』 ... ジャンル:リアル・現代 童話
作者:鈴木純平                

     あらすじ・作品紹介
両親を亡くしている池田美樹は、近所に住む高校三年生の秋山純平と仲良しだ。絵を描いている美樹に触発された純平は、芸術をしようと考え、夜光虫という曲を完成させた。広島県尾道市を舞台にしたハートフルストーリー!※童話というより児童文学です。故に 。」 や 。) は意図的に句読点を打ってます※完結した物語です

123456789101112131415161718192021222324252627282930313233343536373839404142
夜光虫と猫
      
第一章 ギターと筆
     (1)

 桜の花びらが散って、新緑の若葉が薄緑色に輝いている五月。朝日が瀬戸内海の港町、尾道を照らす。池田美樹は、しまなみ海峡大橋が良く見える庭で、三匹のネコに朝ごはんを与えている。
 生まれたばかりで、白地に黒の模様が付いている子猫はミッキー。お母さんネコの傍でスヤスヤと寝ている。
 ふさふさした白い毛並みの猫はサクラで、ミッキーの母ネコ。サクラは三匹の子猫を流産してしまい、生き残った子猫はミッキーだけだった。サクラは産後の体力が未だに回復しておらず、ダンボール箱の中でぐったりとしていて、ミルクを飲まない。
 毎朝、美樹の家にやって来る黒猫が純太で、ミッキーのお父さんネコだ。キャットフードをガツガツと食べている。
「はやく元気になってね。」
 サクラをなでていると「おはよう美樹。」と、元気な挨拶が聞こえて来た。その声の主は、近所に住んでいる高校三年生の秋山純平だ。朝はギリギリまで布団の中にいて、学校は一時間目の授業が始まる直前に登校するのがいつもの純平。そんな純平は、朝早く起きて散歩をするような人間じゃない。
「まだ、元気にならないんだな。」
「なんだか心配だな。純太は相変わらず元気なのに。なんか、こんな時にガツガツご飯が食べれる純太って、純君みたいで空気が読めないんだね。」
 美樹はちょっとだけ、嫌味を言ってみた。図星だったのか、純平は「あはは。」と苦笑いをして誤魔化している。
「ところでさあ、なんで今日の純君は早起きなの?」
 純平は良くぞ聞いてくれましたという表情で「新曲、出来たんだ。」と答えた。
「そうなんだあ。昨日の夕方に純君の家の前を通ったら、ギターの音が聴こえてたもんネ。」
「曲名は夜光虫。」
「ヤコウチュウ? 何か良く分かんない名前ね。所で、昨日はいつまで弾いていたの?」
 美樹が純平を見つめると、純平は指をパチンと鳴らして、テンション高めに答えた。
「一晩中弾いとった。じゃけん、今日の僕は徹夜明け!」
「えー、本当に! まさか、あのまま徹夜でやるとは思わなかった。」
 徹夜ということは、早起きをしたことにはならない。
(やっぱり純君は早起きをする人間じゃないネ。)
 美樹が納得して「うんうん。」とうなずいていると、純平は何を思ったのか、焦った口調で言い訳を始めた。
「ほら、徹夜をしたおかげで『夜光虫』が完成したんだよ。昨日、すばらしいメロディーが思いついたけん、それを忘れないうちに一晩かけて仕上げたんよ。」
「やっと出来たんだね、純君が『オリジナル曲の作曲宣言』をして、もう一ヶ月以上たったから諦めていたんじゃないかと思っていたけれど。まさか完成させるとは思わなかった。」
「美樹のように芸術をしようかと思ってね。ほら、美樹が楽しそうに絵を描いてる姿を見とったら、僕も頑張れたって言うか。」
純平は照れ笑いをしながら、ポケットに手を入れている。
「そうか、純君も芸術に目覚めたわけですね。」
 美樹が感心してうなずくと、純平はわざとらしく眉間にシワを寄せる。
「あっ、でも『完成させるとは思わなかった』は無いんじゃないか。そこは嘘でもかまわんから『純君は必ずやり遂げると信じていました』と言っておけば、今日の僕は機嫌が良いので帰りにお菓子でも買ってくるかもしれないのにな、残念でした、チャンチャン。」
「嘘です。純君なら必ず出来ると信じていました。」
美樹の声は、兵隊が部隊長に報告するようにキリッとしていた。背筋をピシッと伸ばし、右手を斜め上に傾けて敬礼をする。少し優等生な小学六年生の姿をアピールした。
「冗談じゃって。でも、そのリアクションは嬉しいかも。とりあえず明日にでも聞かせてあげるけんな。」
 美樹は(お菓子の件はスルーですか?)と、思った。でも、純平の新曲を聴いてみたい気持ちは大きい。
「明日には絶対に聴かせてよ、約束だからね。」
「ああ、約束。指きりげんまん。」
二人は指きりをするのだが、美樹は、お菓子のことでおちょくられたのが少し悔しいかった。だからもう一度、さっきよりも強い口調で「絶対だからね!」と、念押しをした。
 純平はニッコリとした柔らかな表情で「わかってる。」と返事をする。
「ところで純君の新曲は、純君の心がきちんと音になったの? たとえ、どんなに綺麗なメロディーや芸術的な歌詞でも、自分の心が込められていない曲だったら失敗作だよ。でも、どんなに聞き苦しい下手くそな曲でも、自分の心が形になっていたら、名曲だからね。」
「あぁ、僕の心は形になったけん。」
 純平の返事を聞いて美樹は純平に負けないくらいに大きな笑顔をした。
「それじゃあ純君の曲は名曲だね。」
「名曲じゃけん、明日まで楽しみに待ってな。」
「分かった。待ってるからね。」
 純平は手を振って、再び散歩を始めた。
 今日は金曜日だから、明日の朝になれば純平の新曲が聴ける。
 美樹はしゃがんでサクラをなでて、「楽しみだね。」と話しかけた。サクラはヒゲをピクンと動かして(たぶん。)返事をした。純太は相変わらずキャットフードをガツガツと食べている。

 美樹は小学一年生になった時に、捨て猫だったサクラを飼うようになった。そのうちに、飼い猫なのか捨て猫なのか分からない黒猫が、美樹から餌をもらうようになった。すっかり美樹の家に寄り付くようになった黒猫は、まるで純平みたい。だから、美樹は黒猫を『純太』と呼ぶことにした。
 今年の春に純太とサクラの間に子猫が生また。子猫の名前を『ミッキー』にしようと提案したのは純平だった。
「黒猫に僕の名前を使ったんじゃけん、子猫の名前も美樹から使うべきじゃろ。」
 というのが純平の主張で、美樹も反対しなかった。
「じゃあ、この子の名前はミッキーな。」
 そのまま名前は『ミッキー』に決定した。
(美樹だからミッキーか。)
 美樹は「ミッキー。」の名前を聞くたびに、くすぐったい気持ちになってしまう。

 純平が美樹の家に遊びに来るのは昔からだけど、高校三年生の男の子が、小学六年生の女の子の家にくるのは、世間的に見ると変わっていると思う。
 純平のお父さんと美樹のお父さんは、造船所の職人さんだったのだが、昔、作業中の事故で亡くなってしまった。お父さんが亡くなった時、美樹はまだお母さんのお腹の中にいた。だから美樹は、お父さんと会ったことが無い。
 事故が起こった時、純平はまだ幼かったために、お父さんに関する記憶がほとんどないらしい。それでも純平はお父さんを尊敬しており、将来はお父さんみたいな職人になって、潜水艦を作るのが夢だと語っていたことがある。
「どうだ、小型潜水艦を作ったぞ。」
 純平が、わざわざ美樹の家までやってきて、手作りの潜水艦を持って来たのは去年の夏のことで、その後は潜水艦に関する論文を書きはじめた。
「どうだ、論文を書いたぞ。」
純平が分厚い紙の束を美樹に見せて来たのは二ヶ月前で、小型潜水艦に関する論文を完成させていた。
美樹が「見せて、見せて。」とお願いすると、純平は「ああ、いいぞ。でも、小学生には難しいぞ。」と言いながら、論文を見せてくれた。純平の論文には、難しい漢字やら、へんてこな数式やらが沢山かかれてあった。
「くやしいなぁ、何が書いてあるのかサッパリわからない。」
「やっぱり、『小学生』の美樹には難しいな。」
 純平が『小学生』の所を強調して皮肉っぽい口調で言うから、美樹はムッとなって、「良いもん、私には芸術があるからね。絵で勝負したら、純君は美術クラブの私に、絶対に勝てないんだからね。」と、気合負けしないように叫んだ。
 美樹の言葉で、純平もムキになって、「俺にだって芸術くらい出来る。なんなら、美樹には絶対につくれないような名曲を作詞・作曲してやるけんな!」と挑戦して来た。
 あれから一ヶ月ほどたったのが今日で、純平は本当に曲をつくってしまったのだ。

 美樹はサクラをなでる手を止めて「ヤコウチュウか。」とつぶやいた。食事を終えた純太は何ことも無かったかのように、何処かへと立ち去ってしまった。
(ヤコウチュウって、どう言う意味なんだろう? 聞いておけば良かったな。)
 美樹は立ち上がって海を眺める。
 尾道市街と、造船所のある因島を結ぶ連絡船が目に入った。連絡船のブォーンという音は朝焼けの空に響き渡り、その空を小鳥達が飛んでいる。
 わずかに、潮の香がする。大きく深呼吸をすると、朝の空気はとっても美味しい。美樹は伸びをしながら「私も純君みたいに芸術を頑張るぞ。」とあくび交じりで大きな声をあげた。
 少しだけ冷たい春の風が、頬をなぞってくすぐったい。

     (2)

その日の朝、登校した美樹は靴箱でクラスメートの大久保君と遭遇した。
「おっ、妖怪筆女が来たぞ。」
 美樹は手に持っていた傘で大久保を叩いてやろうと思ったけど、我慢した。こういう人は、相手にしたら調子に乗るから無視するのが一番だ。
 ムッとなった大久保は「無視すんなよ。」と怒鳴った。
 怒鳴られるものだから、美樹は大久保のことを無視し続けるかどうか迷った。すると、ナイスなタイミングで親友の藤本奈々子が登校して来た。
「奈々子ちゃんおはよう。」
「おはよう。」
(奈々子ちゃんがいるから、大久保君のことは、やっぱり無視だ。)
 相手にされない大久保は「つまんねーな。」と吐き捨てて、スタスタと教室へと走った。
「大久保君が妖怪筆女って言って、ちょっかいをかけて来たんだよ。でも、無視した。」
「そうそう、無視するのが一番。筆を沢山持っているだけで妖怪筆女って言うのは、センスが無いよね。ぜんぜん面白くないよネー。」
 美樹は「だよネー。」と大きく相槌を打って、奈々子と顔を合わせた。そしたらなんだかおかしくて笑ってしまった。
 右手に黄色の傘を持っいる美樹は、左手を奈々子に差し出す。奈々子も右手を差し出して、そのまま手をつなぐ。
「もうそろそろ梅雨だから、奈々子ちゃんも置き傘、持って来た方が良いと思うよ。」
「でも、最近はずっと晴れだよ。まだ、置き傘は必要ないと思うな。」

 教室に入ると、いつものように男子生徒たちが遊んでいた。最近は卓球のボールで野球をするのが男子たちの間ではやりっている。卓球の玉は変化球が投げられるから楽しいらしい。美樹が、騒がしい男子たちを無視して奈々子と話をしていると、背中に卓球の玉が当たった。
「筆女に当たったからアウト。」
 クラスで一番ケンカが強くて、女子から嫌われている佐藤が大声で笑った。
「もうスリーアウトかよ。」
 バッターの松本は、田中に丸めた新聞を渡す。失礼にも程がある。
「もー、ちゃんと誤ってよ。」と美樹。
「そうだよ、美樹ちゃんに謝りなさい。」と奈々子。
 松本は「はあ?」と言いながら、怖い顔で美樹と奈々子を睨んだ。
 美樹はひるんでしまう。
 奈々子は松本に負けないように睨み返す。
「どうしたんだ妖怪筆女。お前も、妖怪ならもっと怒れよ。」
 様子を見ていた第三者の浅野が、茶化してきた。
「あんたは関係ないでしょ、引っ込んでなさい!」
 奈々子が怒ると、浅野は余計に調子に乗って「妖怪の手下だー」と冷やかす。
「もういいよ奈々子ちゃん。ほっておこう。」と美樹。
「そうね、バカを相手にしたら、こっちまでバカになっちゃうもんね。」
 奈々子は『バカ』を強調して言った。
「オメーにバカ扱いされる覚えなんかねーし。」
 浅野は怒りだして、奈々子と美樹の傍に近付いて来た。
 美樹は一歩だけ後ずさりする。あせって嫌な汗をかいてしまい、数回、瞬きをした。
「ええが、ええが。ほっとこうや。それより、一緒に野球やろうぜ。」
 浅野を呼び止めたのは、ピッチャーをしていた大久保だった。
 浅野は「そうじゃな。」と振り返った。
 美樹はフーと息をはいた。肩の地からがフワッと抜けた。
「俺の必殺ナックルボールを打ってみろ。」と、高らかに叫ぶ大久保。
「うおー、スゲー曲がるな。」と、はしゃぐ浅野。
「じゃろーが。」と、大久保は誇らしげな顔をしている。
 無邪気な大久保たちの声が、教室の後ろで響く。男子たちの意識が野球にいってくれた。

 クラスの男子たちは、美樹のことを『妖怪筆女』と呼ぶ。美樹の絵の具セットの中には十種類の筆が入っており、それを見た浅野が、最初に言い出したのだ。美樹や奈々子から言わせてみれば、何が面白いのかサッパリ分からない。
 小学六年生の男子なんて、つまらないことで笑いあうんだ。
(男子は幼いよな。)
 チャイムが鳴った。教室の後ろで野球をしていた男子も席に戻った。
 担任の糸崎みち子先生が教室に入ってきた。
「みんな、おはよう。出席をとるから、元気良く挨拶をしてちょうだい。まずは浅野君。」
「へーい、元気です。」
 浅野は、いつものようにふざけた返事をする。それにあわせて男子たちがゲラゲラ笑う。美樹は浅野と男子たちを少しだけにらんだ。
「池田さん。」
「ハイ、元気です。」
 浅野が「出た、妖怪筆女。」とささやいた。そばにいた男子たちも笑う。
「大久保君。」
 大久保は「ハイ、元気です。」と大きな声で答えた後に、チラッと美樹を見た。
 目が合った美樹は「なんで、いちいちこっちを見てくるのよ!」と心の中で叫びながら目を細めた。そしたら、大久保は視線をそらしてくれた。
 次々に生徒たちの名前が呼ばれ、先生による出席の確認が終わる。次は、日直が教卓の前に立って、朝の会の司会をしなければならない。
 今日の日直は、美樹だ。
 すぐ傍に座っている奈々子の「頑張ってね。」に押されて、美樹は教卓の前に立った。
「よっ、妖怪筆女!」
 松本の野次で、男子たちがどっと笑う。
 先生が「失礼でしょ。」と注意して、ほんの少しだけ笑いがおさまった。
 女子生徒は松本の野次に、しらけている。
「まず最初に、六月のクラス目標を唱和します。みなさん、起立して下さい。」
 男子たちは珍しい動物でも見るかのような目で、美樹のことを観察する。
 緊張して「せーの。」の声がうわずってしまった。
『一、雨の日は廊下を走らない』
『二、先生の話を静かに聞く』
「着席。」
 美樹は朝の会のカードを読む。
 すぐ目の前に座る佐藤が「早くしろよなー。」と野次を飛ばした。
 冷たい男子たちの言葉に耐えながら、美樹は司会を続けた。
「今日は月曜日なので給食当番の交代です。先週の当番の人で、エプロンを忘れた人はいませんか。」
「はーい、俺、エプロン忘れましたー。」
 佐藤が元気良く手を挙げた。それも、嬉しそうに。
「しかたないわね、予備のエプロンを使って。」
 先生は呆れてため息を付くが、佐藤は全く悪びれた様子を見せていない。

 美樹は司会を続ける。
「保健係の人は――。」
 すかさず松本が「あれ、掃除当番の確認はしなくていいんですか?」と、大きな声で野次を飛ばした。
 浅野たちも「しっかりしてくれよな。」などと、冷たい言葉をぶつける。
 男子たちの粗探しで、美樹は緊張し、声が小さくなってしまった。
「今週の掃除当番の確認をします。」 
 松本が「聞こえなかったので、もう一回言ってください。」と、ゲラゲラ笑いながら野次を飛ばす。男子たちはニヤニヤと笑いながら、美樹を眺めた。
(酷いよ、何で嫌がらせばっかりするんだよ。)
 奈々子をはじめとする女子生徒たちは、声が出なくなってしまった美樹に「大丈夫だよ。」と、励ましの言葉をかけてくれた。その言葉を支えにして、何とか朝の会の司会をこなすことができた美樹であった。

     (3)

 授業が進まない、それが美樹のクラス、六年一組なのだ。
 一時間目の授業は英語(アルファベット。)の勉強だ。今日はGとHとIを習う。 
 授業が始まって五分もたたないうちに、佐藤が手を挙げた。
「先生、トイレに行ってもいいですか?」
「ダメです、なんで休み時間に行かなかったのですか。今、授業が始まったばかりじゃないの。」
「でも、先生。それって、体罰にならないんですか。」
 佐藤は先生に対して偉そうに訴える。最近の小学生は権利や人権をかざして先生に反抗する。それに対して、先生は反論できない。PTAや教育委員会があるからだ。
「仕方ないわね、すぐに戻って来なさい。」
「やったー、それじゃあ行って来ます。」
 佐藤は堂々と教室を出た。
 今度は浅野が「先生、僕もトイレ。」と言い出した。先生が「ダメ。」と言っても、「佐藤君だけずるいです。生徒を平等に扱って下さい。」と反論する。先生は仕方無く、トイレへ行くことを許可した。
「先生、俺も、俺も。」
 今度は松本が、それに続いて、別の男子生徒も言い出す。
「早く行って来なさい!」
 いくら先生の口調が怒っていても、男子たちは平然としている。教員になったばかりの糸崎先生など、怖くも何とも無いのだ。大勢の男子たちは悪びれる様子も無く、大きな声でおしゃべりをしながら歩いている。
「佐藤君たちが戻ってくるまで待ってて。」
 男子たちがトイレへ行っている間は授業が進まない。
 教室に残っている生徒は自習をしたり、おしゃべりをしながら時間を潰した。
 美樹は男子たちの帰りを待っているあいだに、ノートにGとHとIのアルファベットを埋め終えてしまった。
 鉛筆を放り投げて、騒がしい教室を眺めると、大久保と目が合った。美樹が「なんでこっちを見るのよ!」と心の中で叫んで、目を細めるても、大久保の視線が離れない。頬っぺたを膨らませながら大久保を睨むと、大久保は何を勘違いしているのか分からないがうなずいている。そのまま大久保は真っ直ぐに手を挙げた。
「先生、様子を見てきましょうか?」
「そうね、お願い。」
 大久保は席を立って、なかなか戻って来ない男子たちを呼びに行く。大久保が教室を出るのを確認すると、美樹は深いため息を付いた。
(私、いったい何にたいして、ため息をついているんだろう?)
 しばらくたつと、大久保を先頭にして、男子たちがぞろぞろと教室に戻って来た。
 もう、授業が始まって二十分もたっている。
「Gはガ行の子音になります。Hはハ行の子音で、Iは母音のイです。それじゃあ、あいうえおの表で確認してみましょう。」
 何とか授業を再会することが出来た。

 給食の時間になって、松本が「エプロンを忘れた。」とさわぎだした。
 予備のエプロンは一つしかないから、誰かが給食場へ二回行かなくては行けない。
「朝の会の時に確認したのに!」
 美樹が怒っても、松本はヘラヘラとした態度だ。
「日直が行くべきじゃねーか。」と、浅野が発言をする。
「なんでだよ、女の子に二回も行かせないでよ。」必死になって訴える美樹。
「だって、他に行く人がいないんだもん。そしたら、日直が行くのは当然だろ。」
「日直とか関係ないし!」
 美樹と浅野が言い争いをしていると、大久保がひょいっとあらわれて「俺が行く。」と名乗り出た。
「お前は行かなくてもいいだろ。」
 松本が言うと、大久保は首を横に振る。
「いつまでもお互いに言い合ってたら、給食を食べる時間がなくなるだろ。」
 大久保の正論に、松本と浅野は納得した。
 美樹は大久保に小さく「ありがとう。」と言った。
 大久保は「オメーのために引き受けたわけじゃねーからな、自分のためだし。」と、ブツブツ独り言をつぶやいた。
(せっかく感謝の言葉をかけたのに……何か、感じ悪いな。)
 美樹は「モーッ。」と、うななり声をあげた。ついでに、ため息までついてしまった。

     (4)

 午後の授業が終わった。
 遊びほうける男子を無視して、掃除も終わった。
 帰りの会も無事に(美樹に対する野次や相変わらずだったけど。)終わって、放課後になった。
 あとは、美樹が最も楽しみにしているクラブ活動の時間だ。
 美樹の通う小学校では、五・六年生になるとクラブ活動をすることになっている。中学生になると部活動がはじまるから、その練習という意味合いがあるらしい。クラブ活動は月曜日と水曜日、それに金曜日の放課後で、美樹は美術クラブに所属している。
 尾道の街並みが一望できる山で、池田美樹と藤本奈々子は同じベンチに座って写生をする。瀬戸内海を駆け抜ける風に、新緑の香が溶け込み、耳をすませば音楽室から合唱クラブの歌声が聴こえて来る。
 瀬戸内海の街並みは写生の適地で、美樹が住んでいる尾道市内は、小林和作や中西利雄、中川一政などの、沢山の有名画家が写生をした場所として有名なのだ。
 顧問の先生が「せっかくだから美術クラブの生徒も写生をしよう。」と提案したので、美樹たち美術クラブのみんなは、野外で写生をすることになったのだ。
「もう少しで完成だね。」奈々子が筆を持ちながら話しかけてきた。
「うん、たぶん今日じゅうには完成する。」
 美樹の画用紙には岩の上でくつろいでいる子ネコが描かれている。
「美樹ちゃん、どうしていつも、美樹ちゃんの絵にはネコがいるの? 岩の上にはネコはいないよ。」
「ネコを描きたいから描くんだよ。」
「何それ、もっとわかるように教えて欲しいな。それじゃあさ、なんで美樹ちゃんはネコを描きたいの?」
 美樹は絵の中の子ネコを見つめた。
「私は心の中にあるモノを形にしたいと思うんじゃないかな。私の心の中にはいつも尾道のネコたちがいる。だから描くのかも知れない。」
 奈々子は「ふ〜ん。」と返事をするが、唇を尖らしている。ひょっとしたら、まだ納得していないのかもしれない。
 美樹は画用紙から筆をはずし、パレットに一筆あてたあとに動きを止めた。
「私のお母さんも、この筆で沢山のネコの絵を描いたって、おばあちゃんが言ってた。」
「えっ、美樹ちゃんの筆って、お母さんの筆だったんだ。」
「そうだよ。」
 美樹はパレットから筆を離して、再び画用紙を見つめる。
 奈々子は美樹の画用紙をのぞき込む。
 美樹の筆先には幸せそうな顔をしている子ネコ。子ネコにもう一筆、色を塗り足した。
「美樹は本当に、ネコが好きなんだなあ。」
 奈々子の言葉で、美樹は画用紙に向いていた顔を奈々子にむけた。最高の笑顔で「そう、ネコが大好きなの。」と答えた。
 美樹は手に持っていた筆を、絵の具バケツに入れた。九本も入っている筆入れから、三番目に細い筆を取り出して、水に濡らす。
「美樹のお母さんって、絵が上手だったの?」
「すごく上手。家に行けばネコの絵がたくさんあるんだよ。おばあちゃんから聞いた話なんだけどね。お母さんはネコが大好きで、大学生のときに全国に行ってネコの絵を描いていたんだって。そのなかでも、ネコのいる尾道の街並みが気に入ったんだとか。だから、尾道にはしょっちゅう来ていたらしいんだ。それでね、桜の木の下でネコの絵を描いていたら、『お上手ですね』と声をかけてきた人がいたの。その、声をかけた人が私のお父さんだったんだ。」
 美樹はパレットの上に青の絵の具を加え、筆に馴染ませる。青の隣にある白を少しずつ混ぜながら、さらに馴染ませる。
「なんか、ロマンチックな話だね。」
 美樹は奈々子のつぶやきに、「でしょ。」と返事をした。その声は、跳ね上がるようにウキウキしていた。
「男子たちはひどいな、絵描きをしていたお母さんの筆を持って来ただけなのに、妖怪筆女なんて言うんだよ。大久保君まで言うんだもん。」
 美樹が言うと、奈々子は遠くを見つめて「大久保君ねぇー。」と、つぶやいた。奈々子の声はしんみりとしていた。
 奈々子の口もとが、少しだけ緩んだ気がする。
「なんで笑うのさ。」と、美樹。
「別に笑ってないよ。あっ、私も早く写生を完成させなくちゃ。」 
 奈々子は視線を自分の画用紙にもどした。
 美樹も視線を画用紙にもどして「心を形にしたい、絵はそのための手段。」と心の中でつぶやく。筆の先端を画用紙にあてると、筆先がフワッとしなった。

 美樹のお母さんは、美樹が生まれた直後に亡くなっている。お父さんとお母さんがいない美樹は、おばあちゃんに育てられた。だから美樹は、おばあちゃんっ子だ。そんな美樹は、両親の話を滅多にしない。奈々子の前で、お母さんの話題が出たのは今年になって始めてだった。
(やっぱり奈々子ちゃんも、私のお父さんとお母さんのことは、意識的に聞かないようにしているんだろうな。) 
 沈黙のあいだに、美樹はそんなことを考えていた。

 しばらくたってから、奈々子が「最近、男子たちが調子に乗っているよね。」とつぶやくので、美樹も「そうだね、でも、私たちにはどうしようも無いよ。」と元気の無い声でこたえた。
「でもさ、このままじゃあ授業が進まないよね。」
 奈々子がそんなことを言い出すものだから、合唱クラブの歌声に混じって聞こえるサッカークラブやドッチボールクラブなどの男子たちの声が、何だか急にめだってきた。
 得点が入ったのだろう、サッカークラブの男子たちの「ナイスシュート。」という声が、グラウンドに響いた。それらの歓声の中に「松本。」の名前が紛れ込んで来るものだから、奈々子は頬っぺたを膨らませて「なによ、松本の奴。私、あいつが一番嫌い。」と、グチをこぼした。
「私は大久保君が嫌いだな。なんか、一年くらい前から、私にちょっかいをかけるようになって来たんだよ。それに、ことあるごとに私の方を見て来るの。」
「そう言えば、大久保君と美樹ちゃんって、しょっちゅう口げんかをするもんね。けんかをするほど仲が良いって言うもんね。」
 奈々子の口元が、大きくゆるんだ。
 美樹は「そんなこと、無いもん。」と、奈々子を突いた。
「もしかして大久保君って、美樹ちゃんのことが好きなんじゃないの?」
 美樹は「それは無い。」と即座に否定した。
「でもさ、大久保君はまだマシな方だよ。とにかく、クラスの雰囲気が悪くなったのは、佐藤君が原因なんだ。松本君だって一人じゃ何も出来ないくせに、佐藤君と一緒になると調子に乗るのよね。そう考えると一番卑怯なのは、一人じゃなにもできない松本だよ。」
「浅野君も嫌いだな、クラスで揉めことが起こると一番楽しそうにするんだもん。」
「浅野君ねえ、アイツはただのバカでしょ。バカは相手にしない。」奈々子はやたらとバカを強調していた。
 なぜだかわからないけど、男子たちの悪口を話すと、きりが無い。気持ちだけじゃなく、視線までも、じわじわと沈んでしまう。
(こんな気持ちじゃあ、良い絵が描けない。)
 美樹は顔を上げた。
「もう嫌なことは忘れようよ、とにかく今は絵を描くことに集中しよう。」
「それもそうね。」
 美樹は筆を持ち替えて息を深く吐く。汚い空気が体から抜ける。今度は息を深く吸う、新鮮な空気が体に入った。
「よし、頑張るぞ。」
 絵に集中できた。
 
     (5)

 美樹は絵を完成させてから下校した。足取りも軽く、思わずスキップをしてしまう。
 機嫌が良いのは絵が完成したからだけではない、明日は学校が休みの土曜日なのだ。しかも、純平の「夜光虫。」を聴くことが出来る。楽しみで楽しみで仕方が無い。
(早く純君の曲を聴きたいな。)
 純平が通う学校の学生服を着た高校生が、歩道の向こう側に沢山いる。
 スカート丈の短い女子高生や、携帯電話をいじる学生。楽しそうにお喋りをしながら歩いている男子生徒の集団も目に入る。
 男子生徒のズボンの後ろ側には、ウチワが刺さっている。夏祭りのウチワや、携帯電話や車などの宣伝が書かれているウチワもある。その中で、二人の学生はウチワの変わりに白いタオルを入れている。左右に揺れるタオルが、なんだかおかしい。ネコのしっぽみたいだ。
 純平が通う学校の男子生徒の間では、衣替えに合わせてウチワをポケットに入れるのがここ数年のはやりだ。最近はタオルもはやってきているらしく、少数派ではあるが、タオルをぶら下げる人が出てきているのだ。
 五月は一年のなかで最も紫外線が強い季節だと聞いたことがある。だからだろうか、どうも最近は暑い日が続いている。
(やっぱり奈々子ちゃんの言うとおり、学校に置き傘を持ってくるのが早すぎたかな。)

 大きな道路を抜けて路地を歩いていると、前方に見覚えのある背中があった。
 その背中の男子高校生は、ベルトに黄色いタオルを挟んでぶら下げている。黄色のタオルは間違いなく純平。遠くからでもわかる。
(こんな中途半端な時間に下校するなんて珍しいな。いつもは極端に早いか、極端に遅いかのどちらかなのになぁ。)
 カバンを背中にかけて一人で歩いている純平。美樹は、純平が友達と一緒に下校するのを一度も見たことが無い。純平は一匹オオカミなのだ。
 美樹は純平に気付かれないように、ネコのようにソッと近付いた。一メートルほど接近したところで黄色のタオルが気になる。土ぼこりで少し汚れている黄色のタオルは、どう見たって、ダサい。
(タオルをぶら下げるのって、かっこいいのかな? それとも、いつでも汗を拭けるように準備しているのかな? でも、なんで純君のタオルだけ黄色なの?)
 そんなことを考えていたら、ちょっかいを出したくなってきた。
 美樹は「良い物みーつけた。」と叫びながら、ズボンのタオルをヒョイッと引っ張った。黄色いタオルはズボンからスルスルと離れる。しっぽとりゲームみたいだ。
「おっ、びびった。なんじゃ、美樹か。」
 美樹は「てへっ。」と笑って純平の顔を覗き込んだ。
 純平の顔は、眉間にシワが寄っていて、機嫌が悪そう。
(なんか、怒ってる?)
 おもわず「ごめん。」と謝る美樹。
「あせっただけじゃけん、そんなに謝らんでええで。」
「どうしたの純君、学校で嫌なことでもあった?」と、美樹は首を傾げる。
「そうなんじゃ、今日、担任の小野寺先生が、AO入試を受けんか、ちゅう提案をしてきたけん、わしは困ったで。」
 美樹にはAO入試が何なのか、サッパリ分からない。いつもよりも濃厚な広島なまりで喋る純平の様子からすると、相当に嫌なことだったのだろう。
 美樹は、とりあえず「なるほど。」と、相槌だけは打っておいた。
「ほんまに焦ったんじゃけん。先生は絶対に受けた方がええって、しつこう言うてくるんじゃけど、怖くて断れへんで。じゃけど、マジでAO入試なんて受けとう無いけん、とりあえず助かったわ。今日はなんとか逃げ切れたけん、月曜日まで先生に会うことは無いで。あとは先生がAO入試のことを忘れてしまえば時効じゃけん、それまでの辛抱じゃ。」
 感情的になった時ほど、純平の広島なまりは強い。
(とにかく、純君は小野寺先生からAO入試っていうのを受けてみないかと、提案されたんだな。それで、AO入試ってやつをどうにか断りたいわけか。でも、どうしてジコウというのになれば断れるのだろうか?)
 美樹は頭をかきながら「ジコウって何?」と尋ねた。
「時効っていうのはな、犯罪が起きてから一定期間が過ぎると、訴えられなくなることをいうんだ。」
 美樹は「なるほど。」とうなずいて「それじゃあ純君は犯罪者だ。」と、よろこんだ。
「そんなわけないじゃろ、時間がたてばウヤムヤになるっていう意味で時効って言葉を使っただけじゃけん。別に、僕は悪くないけんな!」
 どうやら美樹は、純平を怒らしてしまったらしい。
 いつもの純平なら、この程度のことでは決して怒らない。
「なんでムキになるのさ。」
「別に、ムキになんてなって無いけん。」
「なんで怒ってるの。」
「怒ってないけん。」
「怒ってる。」
「ちょっと苛立ってるだけです。」
「なんでさ。」
「小野寺先生とAO入試のことです!」
「AO入試ってなに? そんなに嫌なことなの?」
 純平は説明するのが面倒だったのだろう、「もう、ええけん。」と広島弁で吐き捨てて、歩き出してしまった。それも早歩きで。
 美樹は、みるみる離れていく黄色のタオルを見つめた。
(男の子の考えることはわかんないよ。)
 激しく揺れる黄色のタオル。純平の姿が見えなくなりそうな所まで離れてしまった。
 美樹は純平に向って「小野寺先生ってどんな先生なの?」と叫んだ。
「美樹はアイツのことを知らんでええけんな!」
 叫び声が帰って来て数秒後に、純平の姿が見えなくなった。
(高校三年生の男の子には、小学六年生の女の子がする質問なんてどうでも良いんだ。)
 美樹は唇を尖らせてフーと鼻をならした。
(寄り道でもしようかな。)

 少し歩くと、よく純平が寄り道する山本神社の前にたどりついた。
 本当のところを言うと、美樹には神社とお寺の違いがわからない。
(ん〜、でも、狛犬様がいるから、神社なのかな?)
 それに、難しい漢字も読めないから、美樹はこの神社(?)のことを、神主さん(?)の名前『山本さん』を使って、山本神社と呼んでいる。
 美樹は山本神社をのぞきこんだ。山本さんの姿が目に入った。
 山本さんはアジサイの花を、優しい笑顔で見つめている。
「あの、こんにちは。」
 美樹の声で、山本さんは顔を上げた。アジサイを見ていたときよりも、もっと大きな笑顔だった。
「そうか、それで、アジサイが気になっていたんだ。」
 山本さんは意味不明な独り言をつぶやいて、うなずいている。
「あの、どういう意味ですか?」
「美樹ちゃんは、アジサイが木だってこと、知ってたかい?」
「知ってるよ。」アジサイが樹木だってことを知らない人は多いけどね。
「そうか、それは賢いことだ。」
「それが、どうしたの。」
「きょうはアジサイの夢をみたんだよ。あの夢は何の意味があったのかって、朝からずっと、考えていたんだよ。そしたら、美樹ちゃんが来てわかった。あの夢は、今日、美樹ちゃんが尋ねてくることを知らせてくれたんだとね。」
「アジサイと私って、関係あるのかな?」
「美樹ちゃんの名前は、美しい樹と書いて美樹だろ。アジサイは、美しい樹だから。」
「あー、なるほど。」納得だ。
 山本さんは「雨の季節に咲く花は、趣があって良いですな。」とつぶやきながら、しんみりとしている。
(山本さんって、詩人みたいな人だな)
 美樹は「それじゃあ。」と手を振って、山本神社を後にした。
 
 美樹はおばあちゃんはから「美樹ちゃんの美樹はな、美しい樹と書いて美樹と読むんじゃけん。尾道の街がよく見える丘に立っている桜の木みたいに、美しい樹になってほしいと願って、付けられた名前なんじゃけん。」と、もう百回以上も聞かされている。
 だから美樹は思いついた。
(そうだ、あの桜のところに行ってみよう!)
 美樹は、少しだけ早歩きをした。

 路地を左に曲がって階段を登る。最初の数歩は一段ずつだったけど、歩幅は次第に大きくなって、一段飛ばしで歩いた。足の動きも早くなり、最後には走る。一番上に付く頃にはスッカリ息が切れて、顔が熱くなってしまった。
 公園の中に足を踏み入れて二十歩ほど歩いた。荷物の絵の具セットを地面において、手を膝の上に乗せる。少し呼吸を整えたら、両手をあげて背筋をのばし、バンザイのポーズ。
 心地よい風が袖の中を泳ぎまわるから、涼しくなれた。
 美樹は赤いランドセルを地面に放り投げて海の方角に体を向ける。
(綺麗だなあ。やっぱり、いつ見ても尾道の街並みは飽きない。)
 山陽本線を走る茶色の電車が、しまなみ街道大橋方面からやってくる。
 斜面の下を通過する電車は、そのまま尾道駅に吸い込まれて行った。
 駅前は整備されており、スッキリしている。バスターミナルのすぐ近くにも連絡船の船着場があり、ちょうど向島行きの船が出港した所だ。
 あの船は尾道水道を三百メートルほど進んで、到着は向島の船着場。
 向島の船着場の横には、純平のお父さんと、美樹のお父さんが働いていた造船所の工場がある。
「純君も、あんなに怒ること無いのになぁ。」
 つぶやいた後にベンチに腰掛ける。
 ベンチのすぐ隣には、思い出の桜の木がある。ここは、サクラを拾った場所で、純平も時々来ることがあるらしい。
 美樹は「それじゃあ純君は犯罪者だ。」と言ってしまったことを、少しだけ後悔した。

 美樹が生まれる直前に、美樹のお父さんも造船所の事故で亡くなったという話を、おばあちゃんから聞かされたのは、この場所だ。
 美樹のお父さんは、純平のお父さんの弟子だったから、二人はすぐ傍で作業をしていたらしい。二人の頭上に巨大な鉄板が落下したことにより、美樹のお父さんと純平のお父さんは帰らぬ人になってしまった。
 そんなことを、おばあちゃんは話していた。
 おばあちゃんに育てられた美樹は、友達からおばあちゃん子だと言われるのを嫌った。だから、意識的に標準語を使うようにしている。おばあちゃんのように広島なまりでしゃべるのを避けているのだ。
 美樹のお父さんと純平のお父さんが仲良しだったから……美樹と純平は昔から仲良しなのだと、美樹は思っている。
 美樹と純平は二人とも一人っ子だけど、二人はまるで兄と妹みたいなもの。仲良しだけど、ケンカだってすることはある。
(そう言えば、ケンカをするほど仲が良いって言うもんネ。)
 美樹は空を見上げた、空高くをトンビが飛んでいる。
 もう一度、尾道の街を眺めた。景色がにじまないように、目をこする。
 美樹は尾道の街並みが良く見える桜の木の傍に、長い時間腰掛けた。

 うしろからリンリンと、鈴の音が聞こえてきた。
「純太。こっちへおいで。迎えに来てくれたんだね。ありがとう。」
 呼び声に招かれて、純太が近づいてきて、か細く「にゃー。」と鳴く。美樹は純太を抱きかかえた。心臓の鼓動がトクトクと脈打っていて暖かい。
「良い子、良い子。」
 しまなみ海峡大橋の電灯が、夜に備えて灯されている。
 連絡船や車が景色の中を動いている。
 だいぶ暖かい日が続いているけれども、日が暮れはじめると涼しい。空気だって昼間よりも、ちょっぴり冷たい。
(少し冷たいほうが、空気の味が美味しいのは気のせいなのかな?)
 純太は美樹の腕から飛び降りて「にゃー。」と鳴き、家の方へと歩き始める。
 美樹は急いでランドセルを背負い、絵の具セットを手にとって、純太を追いかける。美樹は自宅へとつながる細い路地を、純太と一緒に早歩きした。

「おばあちゃんただいま。」
 美樹が玄関に入ってサクラをなでていると「遅かったね。夕食、出来たよ。」という、おばあちゃんの声が台所から聞こえてくる。美樹の家は、夕食の時間が早いのだ。
 美樹は「まあね。」と大声で返事をしながら、ネコ用のミルクを皿に注ぎ、キャットフードの缶を開けて別の皿に乗せた。
 ミッキーは一生懸命にミルクをなめる。
 純太はキャットフードにまっしぐら。
 美樹はぐったりとしているサクラをもう一度なでてから靴を脱ぎ、そのままカバンを置きに部屋へ。
 部屋へと続く廊下の途中で、美樹はおばあちゃんに声をかけた。聞き取りやすいように、大きな声でゆっくりと。
「おばあちゃん。今日、絵が完成したから。」
「そうかい。良い絵が描けたか。」
 階段の一段目を登りながら「うん。描けた。」と、廊下に響き渡るくらいに大きな声で返事をした。
 荷物を置いたら、すぐに手洗いうがいをして、おばあちゃんのいる台所に入る。
「おばあちゃん、お供え。」
「はい、お願いね。きちんと、今日の報告をするんよ。」
 美樹は仏壇にお供えを持っていき、リンを鳴らして手を合わせ、目を閉じる。
「お父さん、お母さん。今日はネコの絵が完成しました。」
 目を開けると、生前にお母さんが描いたネコの絵が目に入った。それを見ると頬っぺたが二ミリほど上がる。
「それからね、明日は純君の作った夜光虫という曲を聴きます。楽しみだな。」

     (6)
 
 土曜日の朝、電話のベルが鳴った。
 宿題のアルファベット練習に取り組んでいた美樹は、鉛筆を机の上に放り投げて、自分の部屋を出る。ドタドタと階段を下りて、受話器をとる。全ての動作がいつもより大きい。
「もしもし、美樹です。」
『もっしー、純平っす』
 美樹は、思わずガッツポーズをしてしまう。電話の相手が、美樹の予想通りだったのだ。
 ケンカをしたって、一日たてば忘れるものだ。
「あ、純君おはよう。早く聴かせてよ。」
『まあ、慌てるな。とりあえず僕の家へおいで。すぐに聴かせてあげるけん』
「純君が家に誘うなんて珍しいね。別に純君が私の家に来ても良いんだよ。」
『ほら、おばあちゃんに聞かれたら恥ずかしいだろ』
 美樹は「仕方ないなー、了解!」と返事をして受話器を置いた。
 階段を駆け上がり、筆記用具を机の中にしまう。鏡の前で髪の毛を整え、ポーチを手にとってすぐに階段を駆け下りた。
「美樹、どげんか行くんか?」
「うん、これから純君の家へ行って来る。」
「きーつけーなー。」
 おばあちゃんがニッコリ笑顔で見送ってくれたので。美樹は「うん、行ってくるね。」と爽やかに返事をして、玄関を飛び立つ。
 ホップ、ステップ、ジャンプで門をくぐった。
 背中に羽ねが生えて空を飛べるのではないかと思うくらいに、心がはずんだ。

 六月になったばかりの尾道は、最高に天気が良い。梅雨入り前の、晴天だ。
 さすがに蝉は鳴いていないけど、木々の葉っぱは青々としている。
 少し強い日差しで眩しい坂道を、早足で登れば、あっという間に純平の家に到着。
 呼び鈴を押すと、すぐに純平が出て来た。
 ドアを開けても、家の匂いを感じない。美樹の家の匂いと純平の家の匂いは、同じなのだ。
 玄関を入って靴を脱ぐ。奥の部屋からは、人の気配がしない。純平のお母さんは土曜日も仕事だから、家には純平しかいないのだろう。
「僕の部屋行くか。」
 純平の思わぬ提案に、美樹は戸惑い交じりに「うん。」と返事をした。
「なんか、純君の部屋に行くのって、はじめてだな。」
「部屋に他の人を呼ぶことはないけんなあ。」
 美樹は「そっか。」と相槌を打ちながら、廊下を歩く。
(一匹オオカミの純君は、やっぱり、友達を家に呼ばないんだろうな)
 純平が美樹の家に来ることはよくあるが、美樹が純平の家に行くことは滅多に無い。だから美樹は、少しだけ緊張してしまう。
 リビングが視界に入る。美樹が純平の家で時間を過ごす時には、ここに通されるのが普通だから、これより奥の廊下を歩いたことは一度も無い。
 美樹はゴクリと生唾を飲んで、純平の部屋へと続く廊下に足を踏み入れた。
 三メートルほど歩くと、そこには純平の部屋と廊下を仕切る引き戸があった。
「まあ、入れや。」
「失礼します。」
 美樹は純平に続いて部屋に入る。
(え、何にも無い。これが男の子の部屋なの?)
 純平の部屋には学習机と本棚と洋服タンス。それに丸い小さなテーブルだけ。畳の部屋だから座布団が三枚。他にある物と言えば……。
「これが僕のギター。」
 純平の指の先には、地味な色のアコースティックギターが立てかけてある。
「歌詞カードを出すからちょっと待ってて。」
 純平は机の中をガサガサとあさりだした。
 美樹は「うん、わかった。」とうなずき、純平の周辺をぼんやりと眺めた。
 机の上に写真が飾られているのを発見したので、目を凝らす。純平のお父さんと美樹のお父さんが映っている写真だった。二人とも作業着を着ており、背景には完成したばかりと思われる大きな船が写っている。二人は肩を組んでおどけた笑顔を見せている。
(造船所のお父さんって、職人さんって感じがして、かっこいいな。)
 美樹は頬っぺたに手をあてながら、写真を見つめ続けた。
 純平は歌詞カードを発見したらしく、「あった、あった。」とつぶやいた。
 純平の手には歌詞カードと音叉が握られている。
「チューニングするけん、ちょっと待っといて。」
 美樹は「うん。」とうなずく。
 音叉を使ってギターの音程を調節するらしい。
 純平が机の角に音叉をぶつけると、音叉が震えてポーンと微かに音が鳴った。震える音叉をギターの板に当てると、音叉の音がギターの中で大きく響く。
 純平は二番目に太い弦を親指で弾いて耳をすませる。どうやら音が外れているらしく、唇を尖らしながら、弦の張りを調節するネジを少しだけ回した。
 純平の、りりしい目つきに、美樹は少しだけ見とれてしまった。
(なんだか、職人さんみたい。)
 美樹はチューニングする純平の手元を見つめた。
 一本ずつ鳴らされるギターの音が、部屋の空気に緊張感を与える。
 ギターの先端、ネジの傍に、音叉を重ねたような絵がある。その傍にはアルファベットが並んでいる。
『YAMAHA』
 ちょうど今、学校で英語(アルファベット。)を勉強しているから、美樹はアルファベットを読む挑戦をしてみる。
(確か、Aは母音の『あ』で、YとMとHが子音だから、……YとMは習っていないから分からないけど、Hはハ行だからHAで『は』と読むんだな。だから、……何とかハ? だめだ、やっぱり読めない。)
 美樹はアルファベットが読めずに、ため息を付いた。

 全ての弦をチューニングし終えた純平は、最後に右手を一振りして六本の弦をジャラーンと鳴らす。音符がはじけて部屋の空気が踊りだす。
「曲紹介をお願いします。」と美樹。まるで、ラジオの司会者みたいだ。
「それでは聴いてください。曲名は夜光虫。」
 ギターの透き通る音が、振動になって美樹の体に伝わって来る。
(弦が震えて音になる。心が震えて音になる。たぶん、そういうことなんだと思う。)
 詩人みたいなことを考えながら、美樹は純平のギターを眺めた。
(純君の作った曲って、どんな曲なんだろう?)
 純平は恥ずかしくて歌い始めることが出来ないのだろうか、伴奏が少し長い。
 美樹は視線をギターから少し上に上げてみる。純平の顔が少し赤くなっていた。
 美樹はやたらと長い伴奏に耳を傾ける。美樹が瞬きを三回したあとに、純平は歌い始めた。

『海にも星はある。今夜は夜光虫』
 純平は緊張しているのだろう。音を少し外してしまっている。
『曇りでも輝く君は
 小さな小さな勇者だね
 それなのに僕は輝いてないね 
 君のように美しく輝きたい』
 何とか音程を取り戻し、顔色もいつも通りに戻った。
 ココまで歌った所で、ギターの鳴らし方に少し迫力が出て来た。
『何もない暗闇に
 希望を与える小さな勇者になれ
 嵐の海に立ち向かえ』
 思わず口ずさみたくなるメロディーだ。
(たぶん、今の部分がサビだな。)
 純平の声に伸びがでてきた。
『波しぶきにもまれながら
 小さな命 輝いている
 だから僕も輝くって決めたんだ
 持てる力を振り絞って』
 純平は、噛み締めるように、もう一度サビを歌う。
(歌詞の意味は良く分からないけど、思った以上に良い曲な気がする。だって、心が形になっているのが伝わるもん。)
  
 歌い終えてすぐ、美樹は歌詞カードのタイトルを指差しながら、「ところでさ、夜光虫って何?」と尋ねた。
「夜光虫って言うのはな、海の中にすんでいるミジンコみたいな小さなプランクトンのことだよ。夜になると綺麗な光を出すんじゃけん。美樹は見たことないのか?」
「見たこと無い。海には、そんな生き物がいるんだね。」
 純平はお父さんの写真を見つめながら「ああ、いるけんな。夜光虫は曇りの日でも光る、海の勇者じゃけん。」とつぶやいた。
 美樹は一瞬だけ(なんでお父さんの写真を見たんだろう。)と思ったが、深くは考えないことにした。
 美樹が「もう一回聴かせて。」とお願いすると、純平はこころよく了解してくれて、伴奏を始めた。
 しばらく歌ていると、電話の呼び鈴が鳴った。
「ごめん、電話に出るからちょっと待って。」
 アンコールの演奏は中断させられた。

美樹は純平が部屋を出たのを確認して、閑散とした部屋を見まわした。
(本当に、何もないなあ。)
 特に面白そうなものが無いので、美樹の視線はギターにむけられる。
「少しだけなら良いよね。」
 美樹は、ギターを抱えた。
 左手でネックを握って、右手を軽く振り下ろしたが、上から三番目の弦が引っかかって音がひび割れた。純平みたいにキレイな音を出せない。
(ギターって思ったよりも難しいな。)
 一番太い弦を一本だけ弾く。
 ボーンと低い音が響いた。透き通ったきれいな音だ。
(何かの音に似ているな、……でも、何の音だっけ?)
 しばらくの間、一番太い弦を何度か弾いていると、それが何の音なのかが分かった。
(そうか、連絡線の音だ!)
 向島の造船所と尾道市街を結ぶ連絡船をイメージしたら、机の上にあるお父さんの写真が気になって来た。
(私のお父さんと純君のお父さんって仲良しだったんだなあ。)
 美樹はギターを抱えたまま目を細めた。
(私のお父さんと純君のお父さんって素敵だな。もしかして、夜光虫って、お父さんのことを思って作った曲なのかな?)
 美樹の視線が、夜光虫の歌詞カードに移る。いくら歌詞の文章をながめていても、父親を連想させる単語は見つからない。
(私の思い違いかな? でも、純君が夜光虫の説明をする時に、お父さんの写真を見つめていたし……。先生は文章を読むときは行間を読みなさいって言うもんなあ。だとしたら、やっぱり、夜光虫はお父さんのことを思いながら作ったのかな?)
 しばらく、そんなことを考えていると、少し眠くなってきた。
 ギターを抱えた美樹は夢うつつに暖かい気持ちになった。
 渋い色のギターから、木の温もりが伝わってくる。
 コクリ、コクリと、美樹の首が何度か動いた。












第二章 ファミリーレストランと家族食堂
     (1)

 美樹は純平の部屋で夢を見た。
 サクラの夢だ。サクラと出合ったときの出来事だ。
 美樹が桜の木の下で子ネコと出会って『サクラ』と名前を付けたのは、美樹が小学生になって、純平が中学一年生になった時で、その時の夢をみた。

 美樹はおばあちゃんと一緒に、尾道の街が一望できる桜の木の下にいる。お花見のために、ここに来たのだ。
 白い毛の子猫が、さみしそうに鳴いていた。
「おばあちゃん、子ネコだよ。すごく可愛い。」
「美樹はネコ好きなところが、お母さんによう似とる。」
「えっ、お母さんもネコが好きだったの?」
「そうじゃけん。お母さんは大学生のときに、ネコの写真を撮りに、はるばる東京から尾道に来たんじゃけん。この街のネコが日本で一番かわええと言っとった。美樹のお母さんはな、この桜の木の下でお父さんと出会ったんじゃ。お母さんが桜の木の下で子ネコの写真を撮っているところに、美樹のお父さんが声をかけたんじゃけん。」
 美樹はおばあちゃんを見上げる。
 おばあちゃんは微笑んだ。
 美樹は子ネコをなでながら「お父さんもネコが好きだったのかなあ?」と尋ねた。
 おばあちゃんは尾道の街を眺めながら「美樹のお父さんは尾道の街が大好きじゃったけん、尾道のネコも好きだったんじゃないか?」と答えた。
「お父さんは、お母さんと尾道の街、どちらの方が好きだったの?」
「どっちじゃろうか。きっと、お父さんは、お母さんのいる尾道の街が好きだったんじゃないんか。」
 美樹は「そうかあ。」とうなずいて、子ネコをまじまじと見つめた。
 前足の小さな肉球をさわると、プニプニしていて気持ち良い。なんだか、とっても愛らしくなってきた。
「もしかしてお仏壇に置いてあった子ネコの絵って、お母さんが描いた絵なのかな?」
 おばあちゃんは美樹が抱えている子ネコをなでながら「そうじゃ。」と答えた。
「お母さんはお父さんと出会った尾道の桜の木にちなんで、美樹ちゃんに美樹という名前をつけたんじゃけん。美しい樹になれって願いを込めてな。じゃけん、おばあちゃんは、あの絵をお仏壇に飾っとるんじゃ。あの絵の子ネコがまるで美樹みたいじゃけん、きっとお父さんもお母さんも喜ぶと思うてな。……この子ネコちゃんも美樹ちゃんとそっくりで可愛らしいなあ。」
 美樹は自分ができる一番かわいい目で、おばあちゃんを見つめた。
「おばあちゃん。この子を飼っちゃだめ?」
 おばあちゃんは少し考えて「家族が増えたほうが楽しいけんなあ。美樹ちゃんがちゃんとお世話をするんなら、飼ってもええよ。約束できるかな。」とたずねた。
 美樹は立ち上がって子ネコを持ち上げて「うん、美樹はちゃんと子ネコの面倒を見る。」と答えた。
 子ネコが「にゃー。」と鳴いたので、子ネコは喜んでいるのかもしれない。
「この子の名前はサクラね。サクラの木の下で見つけたからサクラ。この子は美樹みたいに美しい樹になるんだよ。」
 連絡船の音が、尾道の街に響き渡っていた。

     (2)

 美樹が夢うつつに「お母さん。」とつぶやいていると、ガタンと音がした。
 ビックリしてピクッと背筋が伸び、目を覚ました。
 どうやら、抱えていたギターが膝から落ちたらしい。美樹は周りを見回して純平が戻っていないことを確認してすぐに、ギターを元の位置に戻した。
 フーと安堵のため息を付いたら、美樹の視線は机の上にある写真に移った。
 美樹は「お父さんか。」とつぶやいてみる。頬っぺたが、ちょびっとだけ上がった気がする。
(そう言えば、まだ純君は電話をしてるのかな?)
 美樹は純平のことが気になったので廊下をのぞいた。
「特に問題はありませんが……、はい。」
 純平は受話器のコードを忙しなくいじりながら、誰もいないのに、お辞儀までしている。しばらく覗き込んでいると、純平と目が合った。純平が「もう少し待って。」、と目で合図を送ったので、美樹はうなずいた。
 しばらく様子を見ていると、純平は三回お辞儀した後に「はい、わかりました。」と、逃げるように電話を切った。
 純平は大きなため息を付いて「うそじゃろ。」とつぶやいている。
「あ、美樹。これから小野寺先生が家に来るけん。」
「なんで先生が来るの?」
「進路のことで話があるんだと。アイツはワシにAO入試を受けさせたいけんのう。ほんま、ええ迷惑じゃ。今日は母さんがおらんけんって言ったんじゃけど、どうしてもって聞かへん。そういうわけじゃから、美樹、今日は帰り。」
 純平の口調と広島なまりが少し強い。小野寺先生のことを相当に嫌がっているのだろう。
「私、純君の担任の先生、見たい。だからココにいてもいいでしょ。」
 純平は、しばらくウーンと唸った後に「構わんけど。」と答えた。
「純君の喋り方、いつもよりも広島弁が多くなってるよ。そんなに小野寺先生に会うのが嫌なの?」
「いやじゃ、いやじゃ。ぜってえ会いとうない。アイツはとんでもない人間じゃけん。でえれえ厳しい先生で、ワシなんかいっつも怒られとる。それに、あの先生は生徒を国公立大学に進学させることしか考えてないけんのう。今回のAO入試の話も、進路実績のためじゃけん、たまったもんじゃない。」
 美樹は純平と目を合わせて笑ってみた。それにつられて、純平も笑う。でも美樹には、純平の笑顔が作り笑顔だったのか、本当の笑顔だったのかは分からなかった。
 二人は純平の部屋に戻る。
 純平はギターを鳴らした。不協和音が響いて、不快な音色がした。美樹が膝からギターを落としたときに、音がずれたのかもしれない。
「なんか音がずれているな。もしかして、ギターを触ったか?」
 美樹は「え、触ってないよ。」と、とぼけた。

 三十分ほどしてから、ピンポンが鳴る。
(もう先生が来た。ホント、純君の家は学校から近いなあ。)
 二人は玄関に直行する。
 純平は「今、出ます。」と叫んで、ドアノブに手を置き、深呼吸をした。
 美樹はその様子を見守った。
(純君は〈小野寺先生は怖い先生〉と言っていたけど、どんな先生なんだろう。ヤクザみたいな先生なのかな?)
 美樹はゴクリと生唾を飲んだ。
 開いたドアの向こうから「こんにちわ。」という男性の声が聞こえた。
 どうやら男の先生らしい。でも、想像していた、どすの利いた声じゃなかった。山本さんみたいに優しいそうな声だ。
 純平の背中が邪魔で先生の顔が良く見えない。
「よいしょっと。」
 背伸びをして確認すると、先生と目が合った。
 先生の顔はタヌキみたいだ。
 顔を見るかぎり、小野寺先生は、純平が言うほどに怖そうではない。
「秋山、もしかして、この子が美樹ちゃんか?」
 純平は「そうですよ。」と美樹に視線を向けた。
 美樹は「始めまして、池田美樹と申します。純君は小さい頃からの友達です。」と、丁寧にお辞儀をした。
(先生は、どうして私のことを知っているのかな?)
 先生は「これはご丁寧に。秋山の担任の小野寺修と言います。」と自己紹介をする。
 表情がにこやかだ。こんなことを男の先生に言ってしまったら失礼かもしれないが、ふっくらとした頬っぺたが、なんだかカワイイ。
「立派な学生だと秋山から聞いていたが、この子がそうだったのか。」
 どうやら純平は、以前に小野寺先生に美樹のことを話したらしい。
「あの、先生。今日は純君の進路のことで来られたと伺っております。純君は、先生のような熱心な担任の先生がいて、うらやましく思います。」
 美樹は、学校で習ったばかりの敬語が上手く使えただろうかと緊張して、少し顔が熱くなってしまった。
「言葉遣いが丁寧で、たいしたものだ。いやー、感心した。秋山の言う通り、本当に利口なお譲ちゃんだ。」
 美樹は「お譲ちゃん。」なんて言われるものだから、余計に顔が熱くなってしまう。恥ずかしくて顔が上げられなくなってしまった。
 純平は「でも、いつもはこんなに敬語なんて使わないんだけどな。」と美樹を見た。純平は、むずがゆそうな顔をしている。
 先生が「緊張しなくて良いんだぞ。」と言うので、美樹は「はい。」と答える。思わず声が裏返ってしまったから、余計に恥ずかしくなった。
「そうか、それはちょうどいいなぁ。せっかくここまで来たし、今はちょうど昼前。お前ら、まだ飯食ってないだろ、一緒にファミレスにでも行くか。それから秋山、まだAO入試の件はどうなったのか聞いていないからな。」
 先生の機嫌はさらに良くなって来たらしい。
 美樹は大きな声で「ありがとうございます。」と返事をした。今度は声が裏返らなかった。
 純平も遠慮がちに「おねがいします。」と答えた。
 どうやら小野寺先生は太っ腹な人らしく、「今日は先生のおごりだ。」と言った。
 気持ちが大きいという意味で『太っ腹』という言葉を使ったわけで……決して、先生のお腹がタヌキみたいだなんて……いや、なんでもない。

     (3)

 ファミリーレストランに着くまで、純平は終始無言だった。
 そのかわり、美樹は先生と沢山お喋りをした。
「先生、ファミリーレストランって、家族食堂って意味なんでしょ。」
「ああ、そうだ。ファミリーは家族と、レストランは食堂と訳せるからな。」
「学校でアルファベットの勉強をしているから、少しだけなら英語が分かるんだ。」
「そうか、小学生も英語を勉強するんだなぁ。」
 先生が笑顔でうなずいているので、美樹の表情はうれしくなった。
 先生の笑顔は、やっぱり可愛らしい。
「家族で食事をすると、飯がうまいもんなあ。」
 美樹は、美味しそうにご飯を食べる先生の姿を、容易に想像できた。
(だって、先生……タヌキみたいなお腹だもん)
 美樹は元気に「うん。」と相槌を打って純平の方を見た。
 純平は相変わらず、俯きながら淡々と歩いている。
 美樹は何となく空を見上げた、ズッシリと重たい雲が、尾道の街に沈んできそう。気持ちが沈みそうになったから、美樹は元気を出した。
「私、ファミリーレストランに行くの、初めてなんだ!」
 先生が「そうか。」と笑顔をくれたので、沈みそうになった尾道の雲も、きっと持ちこたえてくれる。

『家族で食事をすると、飯がうまいもんな』

 先生の言葉が、なぜか美樹の心にストンと落ちてくる。
(確かにそうだよなぁ、一人でご飯を食べるよりも、おばあちゃんと一緒にご飯を食べるほうが、ご飯がおいしい……。純君が加わると、もっともっと美味しくなる……。一人でご飯を食べるよりも、家族と一緒にご飯を食べるほうが、絶対においしい。)
 美樹は腕を組んで立ち止まった。
「どうした、行くぞ。」と純平。
「ねぇ、純君。ファミリーレストランって、よく出来たネーミングだと思わない? だって、家族食堂なんだよ!」
「別に、普通じゃね?」そっけない反応の純平。
 美樹はボソッと「つまんないの。」って、つぶやいた。

 美樹と純平、小野寺先生の三人がファミレスに入ると、「いらっしゃいませ、三名様ですね。ただいま禁煙席が開いております。」ウエイトレスが丁寧なお辞儀をした。
 ウエイトレスのおかげで、美樹はお嬢様になった気分に浸れた。
 三人はウエイトレスの案内で一番奥の席に腰掛ける。美樹と純平が隣に座り、向かい側に先生が座った。
 さっそく先生は「ドリンクバー三人分。」と注文をした。
「かしこまりました。ご注文がございましたら、こちらのベルでお知らせください。」
 美樹は社会科見学のときと同じ気分で、ウエイトレスを見つめた。
「ドリンクバーはあちらにございます、ご自由にご利用ください。」
 ウエイトレスの一礼に対して、おもわず美樹も一礼する。
 純平の「美樹、早く来いよ。」で、美樹は自分がウエイトレスに見入っていたことに気が付いた。
 純平が「そんなに珍しいんか?」と不思議そうに尋ねるので、「そんなことないもん。」と強い口調で言い返した。
 先生はコーヒーを注いでいる。
 美樹はグラスに牛乳を注ぐ。
 純平は牛乳を注ぐ美樹に「お前はネコか。」と、小野寺先生に聞こえない声でつぶやいた。
 美樹は「別に良いでしょ。」と、純平の横腹を肘で突いた。純平は突き返して来ない。
(小野寺先生がいると、純君は大人しいなぁ。)
 美樹は純平の指先を見つめる。純平はコーラが大好きだから、コーラを選ぶだろうというのが美樹の予想だったのだが……。純平はコーラのボタンを押そうとする直前になって、動きが止まる。美樹が(どうしたのだろう。)と首をかしげていると、純平はオレンジジュースのボタンを押した。
 純平が何を思ってオレンジジュースにしたのか、美樹には分からない。
 ドリンクを持った三人は席に着いた。
 純平のとなりに座る美樹は、BGMのクラシック音楽(ビバルディの四季・春。)に合わせて、おもわず鼻歌を歌ってしまう。長い冬があけて命が芽吹く春の様子を表現した、この曲を聴くと、ウキウキ気分のルンルンになる。
 美樹とは対照的なのが純平で、背筋が伸びきっている。
 純平は緊張のあまり喉がカラカラになったのだろうか? グラスの中に入っているオレンジジュースを一瞬で飲み干してしまった。
 美樹は空になった純平のグラスを見つめた。グラスの周りには水滴が付いていて、ほとんど溶けていない氷が四個入っている。
「遠慮しなくて良いぞ、好きなのを選べ。」
 先生はやっぱり太っ腹だ。もちろん、心が大きいという意味だ。
 美樹は先生の言葉で、メニュー表をめくって「私、これにする。」と、迷わず選んだ。
 美樹の指の先には『お子様ランチ』の文字。
 純平は美樹をチラッと睨んだ。目が「オイオイ、小学六年生になってお子様ランチは無いじゃろ。」と、怒っている気がする。
 美樹はプイっとソッポを向いて、仕返しに持てる限りの笑顔を先生に向けて「先生、ありがとう。」と、甘え声のお礼をしてみる。こうすれば純平は嫌がるはずだ。
 先生の口元が緩み、照れくさそうに、人差し指で頬っぺたをかいている。タヌキが頬っぺたをかくと、今の先生みたいなんだろうなと、美樹は思った。
 純平は、美樹と小野寺先生のやりとりに関心を示すこともなく、メニュー表を見つめている。
(関心を示さないのは、わざとなのだろうか?)
「先生は日替わりランチにしようかな。」
「あ、僕も日替わりランチにします。」
 三人が注文を決めたので、美樹が「私、ボタン押す。いいでしょ?」と尋ねると、純平はニタニタした顔で美樹を見る。
 純平の表情が「お前は何歳なんだよ。」と言っている気がする。
 美樹はムッとした顔で純平を睨んで「私はまだ小学生だもん、押したいものは押したいの。別に良いでしょ!」と心の中で叫んだ。
 先生が「それじゃあ押してくれ。」と了解したので、美樹はボタンの音符マークをゆっくりと押した。と、同時に、ポーンという音が店内に響き、電光掲示板に7の数字が表示された。
 せっかく美樹が「純君、純君。見て見て。ラッキーセブンだよ。」と指差しているのに、純平はボソッと「だからなんだ。」と、つれない返事をする。
 ウエイトレスが来て、注文を終えた。
 純平はあいかわらずダンマリしている。これじゃあ会話が弾まない。
 純平のグラスに入っている氷はだいぶ溶けており、冷たそうな水がグラスの底にたまっている。純平は先生がよそ見をしているすきに、その水をグイッと飲み干した。
(やっぱり、純君は先生がいるから緊張してるんだな。)
 美樹も、自分のグラスに入っている牛乳を一気に飲んだ。
「純君、ドリンクバーのお替りをしに行こう。」
 純平はトーン高めに「そうじゃな。」とうなずいて、美樹より先に席を立つ。
 純平はドリンクバーでオレンジジュースを入れながら、美樹に「助かった。」とお礼をした。
 美樹は「どういたしまして。」と返事をしたついでに聞いてみた。
「なんで今日はコーラじゃないの?」
「だって、先生の前でゲップでもしたらどげんするんな。気まずくなるじゃろ。」
 美樹が「あー、そうか。」と大きくうなずいているあいだに、純平は携帯電話を取り出して「悪霊退散。」とつぶやきながらボタンを押した。
「もしもし敦、悪いが頼みがあるけん――という訳じゃから、いま僕は小野寺先生と面接らしきことをしているんじゃ。何とかこの場を切り抜けたいけん、電話を切って一分後に、僕のケータイに折り返し電話をよこしてくれ。とりあえず、バンドのことで電話をする、という設定でかまわんけんな。――そうそう、夜光虫のアレンジについて、――じゃあ、よろしく。」
(一匹オオカミの純君でも、バンドをするんだなあ。)
 美樹は感心しながら、純平の電話が終わるのを待った。
 電話が終わってすぐに、美樹は「小細工使うんだね。」と純平を茶化した。
 純平は「ええんじゃ、先生だってファミレスでご機嫌とろうとする小細工を使っとるけん。全然かまわん。」と答えた。
 純平はオレンジジュースを一気に飲んで、もう一度注ぐ。新しい氷を入れたら、美樹と純平はもとの席に戻った。

「ところで、美樹のお父さんは何のお仕事をされているんだ?」
 先生が尋ねた瞬間に、純平のポケットから着信音がした。
 純平は素早く携帯電話を取り出す。
「あっ、もしもし、純平です。……、はい。分かりました、ちょっとまってください。」
 純平はケータイ電話から顔を離す。
「先生すみません。緊急の電話が入ってしまいました。たぶん長くなると思うので外で話してます。料理がきたら二人は先に食べていてください。」
「おまえは忙しいやつだな。緊急なら早く行って来い。」
 先生が了解すると「あっ。お待たせ、それで例の件だけど……。」と偽の会話をはじめ、逃げるように(実際、逃げいている)店の外に出た。
 純平の完璧な演技に、美樹は口をあんぐりと開けずにはいられなかった。

 純平を見送った視線が戻ったときに、先生と目があう。そしたら何故か笑ってしまった。先生も美樹につられて笑う。穏やかな雰囲気になった、この瞬間を狙って、さっきの質問に早口で答える美樹。
「私のお父さんは造船所で、純君のお父さんと一緒に働いていたの。でも、純君のお父さんと同じ事故で、私のお父さんも亡くなったの。私のお母さんも、私が生まれてすぐに亡くなってしまったから、私はおばあちゃんっ子なの。」
 あんまり重く受け取って欲しくなかったから、あえてこのタイミングで言ってみたのだが、少し失敗したらしい。先生は「そうか。」とつぶやくことしか出来なかったのだ。
 さみしそうなタヌキ顔を、美樹は生まれてこのかた、はじめて見た。
 牛乳を少し飲んで見るが、やけに冷たくて、あまり味がしない。
 沈黙を防ぐために「先生、気にしないでください。」とフォローする。
 先生は湯気が立たなくなってしまったコーヒーを飲み干して「わかった。」とつぶやく。
 美樹は天気の話題でもしようかと思って外を見るが、今にも落ちてきそうな重たい雲が浮かんでいた。
(そう言えば、二日前から梅雨に入ったんだったよな。)
 美樹は心の中で「んー。」とうなった。

 店内のBGMが『カノン』になっていることに気が付いた。何となく物悲しいメロディーが、美樹の心を振るわせる。
 先生は空になったコーヒーカップをいじりながら「秋山も美樹も、先生と同じだな。」とつぶやいた。
「同じってどう言うこと?」
「実はな、先生も小さい頃にお父さんをなくしたんだ。とはいっても、先生の場合は離婚だったけどな。だからお父さんのいない秋山のことがやけに心配でな。秋山は、いろいろと抱え込んでいるものがあるんだよ。だからほっておけなくてな。」
「でも、純君って心配するほど悩んでいるように見えないけどな。いつも元気だよ。」
「そうか、たぶん美樹の手まえ、悩んでいる姿を見せたくないんだろうな。」
「学校ではどんな感じなの?」
「なんだろうな。秋山はいつも何か考えていて、心ここにあらずって感じだな。授業中も空ばかり見ていて、先生の話をほとんど聞いていない。」
「なんか、先生って、純君のお父さんみたいだね。」
 先生はふっくらをした頬っぺたをかきながら「お父さんか。」と、つぶやいた。照れ笑いのタヌキ顔も、なんだか可愛らしい。
(そっか、普段は優しいから、怒ったときの小野寺先生は怖いんだろうな。)
 先生は人差し指と中指を額にあてて、しばらく考え事をした。
(先生は、何を考えているのかな?)
 先生は額にあてていた指を離して、神妙な表情で語りはじめる。
「美樹ちゃんの言うことは、あながち間違いではないかもしれないな。いま、言われてみて考えたんだけど、先生が秋山に対してしている行動は、父親が子供に対してする行動と同じかもしれない。んー、実に不思議だ。」
 先生は自分で言った言葉を、自分で確かめるようにうなずいた。そして、「先生は、本当に、秋山のお父さんみたいだな。」と言いながら笑った。優しいタヌキの顔で笑った。
「先生、でも、純君は何に悩んでいるんですか?」
「残念だけど、先生にもよくわからない。でも、なんとなく、秋山と昔の自分がダブって見える……秋山の心の中は、葛藤や苦しみでいっぱいなんだろうな」
 BGMの『カノン』が終わって、次の曲(曲名は分からないけど、物悲しいクラシックの曲だった。)に切り替わった時に、テーブルに料理が運ばれてきた。
 美樹はウエイトレスに自分の表情が見られたくなかったから、わざとうつむいた。なぜだかわからないが、たくさん瞬きをしてしまった。
 美樹は、ウエイトレスが離れたのを確認したあとに言った。
「私、純君を呼んでくる。ついでに、先生のコーヒー、入れてくる。」
「それじゃあ、お願いするよ。」
 美樹は先生から空のコーヒーカップを受け取って席を立った。
 
 純平は出入り口の階段に座り込んでぼんやりと景色を眺めていた。表情はわからないけど、背中がさみしそうに見える。
 美樹は、こんな姿の純平を始めて見る気がする。でも本当は、いつも見ている純平と一つも変わらないのかも知れない。さっき、先生からあんな話を聞いてしまったから、さみしそうに見えるだけなのかもしれない。
(純君は、いつも元気なのに……悩むことがあるなんて、知らなかった。)
 美樹は純平を呼ぼうと思ったが、声が震えそうになったので、ためらった。
(どうしよう、なんで私、こんな気持ちなの?) 
 口を開けずに立ち尽くしているうちに、純平が振り向いた。
「おお、美樹か。」いつもの純平だ。
「あ、その……。で電、電話、終わったの?」
 なぜだろうか、言葉がつっかえてしまい、心拍数が上がる。
「どげんしたんな、先生に何か言われたんか?」
「何も言われて無いよ。それより、はやく料理食べよ。電話、終わったんでしょ、先生も待ってるよ。」
 美樹は早口でしゃべって、純平の服の袖を引っ張った。
「わかった、わかったけん。とりあえず、はなしてくれ。」
「あ、ごめん。」
 純平は先に席に戻る。
 美樹は先生のコーヒーを注ぎにドリンクコーナーへ行った。

 美樹は深呼吸をして心を落ち着ける。気持ちの切り替えと、先生に対する愛嬌のために、ウエイトレスの真似をしながら席に戻る。
「お待たせしました、コーヒーでございます。熱いうちにお飲み下さい。」
「綺麗なウエイトレスさんが持って来てくれた。」という先生のコメントに、おもわず頬っぺたが上がる美樹。
 先生は一口飲む直前で、眉間にシワを寄せた。
「あれ? これ、コーヒーじゃなくて、ココアだぞ。」
「え、どうしよう。間違えちゃった。」あせる美樹。
「たまにはココアも良いな。」眉間のシワが緩む先生。
 太っ腹の先生は、笑顔でフォローしてくれた。
 美樹も大げさな笑顔をつくって首を少し横に傾ける。ついでに、人差し指を頬っぺたにくっ付けた。失敗を誤魔化すときの愛嬌だ。
(コーヒーとココアを間違えるなんて、私、どうしたんだろう? なんか私、変だな。)
 美樹の様子を見ていた純平は、勘違いをしているらしい。美樹を見てニコニコしながらうなずいている。
(私、先生に嫌がらせをするつもりじゃなかったんだけどな。)
 気まずい雰囲気を誤魔化すために「いただきます。」と、お子様ランチのピラフを一口食べる。その後に気が付いた。
(年上の人が食べる前に、食べちゃった。)
 もう一度、失敗を誤魔化すための笑顔をつくってみた。
 先生は気にしている様子も無く、「さあ、食べよう食べよう。」と言ってハンバーグにフォークを入れる。
 純平は箸でハンバーグを切る。
「さっきの話は秋山には内緒だぞ。」と、先生。
「分かった。」できるだけ可愛らしい返事をした美樹。
「先生、僕に内緒話ですか。なんか水臭いですよ。」
「残念でした。急用が無ければ聞けたのになぁ。美樹ちゃん、今の話は絶対に内緒だぞ。いつも授業をまじめに聞かない秋山には絶対に話しちゃだめだぞ。」
「うん、私、絶対に純君には、しゃべらない。」
 小野寺先生はネコを可愛がるように美樹の頭をなでた。
「ところで、秋山が小型の潜水艦を作ったことを知っていたか?」
 オレンジジュースを飲んでいた純平は、先生の言葉でむせてしまう。
「大丈夫か秋山? 急いで飲まなくても大丈夫なんだぞ。」
「はい、ゴホッ……大丈夫です。」
 美樹はむせいている純平を三十秒ほど眺めて、先生の質問に答える。
「うん、知ってるよ。私もその潜水艦見たもん。純君が珍しく夢中になってたもんなあ。なんか、純君はモノ作りをしている時が一番輝いてるんだよ。」
「おい秋山、珍しくお前が褒められてるぞ。」ゆるんだ笑顔の先生。
「先生、AO入試の話しをしたいんですよね。」鋭い口調で発言をする純平。
 先生のタヌキ顔が、引き締まった。
 美樹は、口の中に入っている料理をゴクリと飲み込んだ。
「お前がAO入試を受けたくないことくらい、先生は分かってるんだぞ。ただ、お前が珍しく一生懸命になって潜水艦を作っていたのを先生は見ていてだなぁ。せっかく高校生活の中で打ち込んだモノなんだから、論文を無駄にして欲しくないと思って提案したんだ。あれだけ打ち込んだことなら、『ヤル気の無い』純平もヤル気を出すと思ったんだが、やっぱりダメか。」
 小野寺先生は『ヤル気の無い』を強調している。
「潜水艦の件は十分満足しています。論文を書いたことは将来も役立ちます。僕はみんなと同じように一般入試で最後まで頑張ります。」
 どうしても気になった美樹は「AO入試ってどんな試験なんですか?」と尋ねた。
「AO入試ってのはな、学校のテストでは分からない、才能を見る試験なんだ。秋山の場合は、小型潜水艦を作ったうえに、優秀な論文まで完成させた。こんなことが出来る高校生は全国でもほとんどいない。高校時代に築き上げた実績や、専門分野にたいする熱意とかで、大学に入学しようというのがAO入試なんだ。」
 先生は、美樹にAO入試についてをさらに詳しく説明した。
 説明が終わると、先生は純平の目を見た。
 真剣な目だ。
 こんな目のタヌキ顔を、美樹は生まれてはじめて見た。
「所で秋山、結局AO入試はどうするんだ。受けるのか受けないのか、ハッキリさせたらどうだ。受けるなら先生も用意をしなくちゃいけないんだからな。推薦書やら内申書やらを用意するのは結構大変なんだぞ。」
「えーと、まだお母さんにも言っていませんし。」
 純平は平然とした表情。
 先生は深いため息を一つ。
 美樹も、先生の真似をして、ため息を付いた。
「秋山、本当に、それで良いのか?」
(純君、本当に、それで良いの?)
 秋山を必死になって説得する先生を、美樹はストローをくわえながら眺めた。
「僕もみんなと同じように、一般入試で受験したいんです――。」
「本当に後悔しないのか? せっかくのチャンス――。」
 先生の説得は、美樹がお子様ランチを全て食べ終えるまで続いた。
 純平のコップに入っている氷は、半分以上、溶けてしまっている。
「わかった、これからはAO入試の件を聞かないことにする。秋山はAO入試を受けないことで決定だな。まぁ、気が向いたらいつでも先生の所に来なさい。ただし、願書を出す直前に来られたら何も出来ないけどな。」
 純平はしっかりとした口調で「はい、わかりました。」と返事をした。
 純平の背筋は伸びている。
(結局、AO入試は受けないのか。純君って、男の子のクセに、根性が無いなあ。)
 美樹は頬っぺたを膨らませてみた。   

 先生と純平は、AO入試の話をしていたので、まだ料理が残っていた。
 美樹はドリンクバーのお替りをして、二人が食べ終えるのを待つ。
 ストローで氷を転がしていると、先生が話し始めた。
「そう言えば、席替えでくじを引いたら、なんで秋山はいつも、窓際の一番後ろの席に当たるんだろうな? 黒板から一番離れているあの席になるなんて、秋山は運が悪いな。これじゃあ選択問題で鉛筆を転がしても当たらないぞ。だからそのぶん、しっかり勉強しろよ。」
 先生の表情がニヤニヤしている。
 純平は「そうですね、本当についてないですよ。」とあいづちをうち、先生と同じニヤニヤ顔をした。でも、純平は無理やりに笑っているように見える。
 美樹は二人の様子を見て、首を斜めに傾けた。
(何でなんだろう、純君と先生のやり取りが不自然だぞ。)
 美樹がひじをついて、足をぶらぶらさせていると、先生は美樹に話しかける。
「なあ美樹、学校での秋山の様子を知りたいか?」
 純平は横目で美樹を見る。
 純平の視線に緊張しつつ、美樹は「うん、知りたい!」と、小学生らしい元気の良い返事をしてみた。
 純平は何も言わない。
「授業中の秋山はとにかくよく寝るし、一回の授業で、必ず十回はあくびをするんだ。」
 一度も授業中に寝たことの無い美樹には、授業中に寝るという純平の行動が理解できない。
 美樹が「信じられないですね。」と言った。
 純平は何も言わずに席を離れた。どうやら、ドリンクバーに行くらしい。
 先生はなおも話を続ける。
「体育祭で出場種目を決める時も、秋山が参加したのは、全員参加のクラス対抗リレーと綱引きだけだぞ。秋山は自分の参加種目以外の時間になると行方不明になるんだ。それで、クラスメートが探したら、体育館倉庫の裏で昼寝をしていたんだ。」
 美樹が持っていた純平のイメージが崩れてゆく。
 体育祭での純平の様子を、さらに詳しく聞いていると、純平が戻って来た。純平はティーカップを持っている。
「百人一首大会の時は、興味無いので帰りますと言って、早退しようとしたんだぞ。」
 美樹は相槌を打ちながら、先生の話を聞き続ける。
 純平は紅茶のパックをカップから出して、砂糖の封を切る。
「クラスの行事は参加しないといけないよな。」
 先生が純平に言うと、純平は小さく「そうですね。」とだけ返事をして、紅茶に砂糖とクリームを入れる。
「秋山は学校が招待した偉い教授の講演会までさぼったんだぞ。」
 先生が、純平の嫌がりそうな話題を続けても、純平は黙ってスプーンで紅茶を混ぜる。
「秋山は、体育の授業が始まる前は、必ずお腹が痛くなるんだ。」
 美樹は「それって、仮病でしょ。」と笑ってみるが、純平の視線はティーカップに固定されており、全く動かない。美樹と先生が話をしている間、純平のスプーンをグルグルと回す動作が止まることは無かった。
 先生が「それにな。」と、次の話題を出そうとした瞬間に、とうとう純平のスプーンがピタリと止まった。
「先生、ひどいじゃないですか。せっかく内緒にしていたのに。これは拷問ですか?」
「わかった、わかった。もう、この辺にしておく。」
 純平は紅茶に手を付けずに、残りの料理を次々に口の中に放り込んだ。
 話題が美樹の話しになる。と言っても、純平はふてくされており、会話に参加しない。純平は食事を終えて、紅茶を何度もお替りした。お替りの度に、紅茶に入れる砂糖の量が増えた。

 しばらくすると、先生も食事を終え、食後のコーヒーを飲み始める。
 純平は紅茶を一気に飲んで「違う!」と叫んだ。
 美樹と先生だけでなく、他のお客さんも、突然に大声を出した純平を見た。
 先生は「どうした。」と尋ねた。
 美樹は「純君びっくりした。」と反応した。
 純平が慌てて「いや、違います。この前のテストの問題は、僕の考えからが違ったんです。不意にそれを思い出したら、つい叫んでしまって。申し訳ないです。」と言い訳をはじめた。
 美樹は「変なの。」とつぶやいた。
(さっき、先生から学校での様子を言われたから、一人で考えていたんだな。)
 テーブルの上、純平の座っている位置には、沢山の砂糖やクリームの殻が転がっている。それを見ていると、何となく心まで、砂糖の袋みたいに空っぽになってしまいそうだ。
(このままじゃあ、いけない。)
 美樹の心が熱くなって来た。
「先生、でも。純君は、とっても優しいお兄ちゃんなんだよ。」
 美樹は必死になって、純平を弁護した。
「美樹の言う通りだ。だから先生は、秋山のことを応援しているんだ。」
 先生はふてくされている純平を見つめて「秋山には、お兄ちゃん思いの立派な妹がいるんだな。」とつぶやいた。
 先生の表情は、優しいタヌキだった。
 純平の目に力が無い。
 純平は美樹のコップを見つめて、何も言わずにコクリとうなずいた。
(純君って、私の知らない所では、こんな目をしているんだ。)
 美樹は奥歯をグッとかんだ。
 何となく、テーブルの上のコースターを一枚とって、いじる。
 しばらくいじっていると、水滴のついた空のコップが目にはいる。
 何となく、コースターでコップの水滴を拭う。
 先生と純平のティーカップが空っぽになっていることに気がついた。

「ごちそうさま。そろそろ帰るとするか。」
 先生の言葉で、三人は席を立った。
 支払いを終えてファミレスのドアを開けると、外の空気は湿っている。
 先生は「まだやることがあるので。」と言って学校へ帰ってしまった。
 美樹は純平と一緒に家路へと歩いた。
 時々、空から水滴が落ちてきた。どうやら雨が降っているらしく、本格的に降り始めるのも時間の問題だ。
 美樹の心に映っていた、頼もしいお兄さんの姿が、雨に濡れて溶けていく。
(純君は強がりの男の子なのに。これほどまでに……心の中に、弱い部分を持っていたなんて。なんで純君は、だれにも心の中を見せようとしないんだろう。)
 美樹は、どうしようもないくらいに、モヤモヤした気分になった。

     (4)

 しばらくのあいだ、二人はうつむいて歩いた。
 美樹の足取りは鉛のように重たい。
「小野寺は自分が評価されたいけん、AO入試を受けさせるんじゃ。」
 ふいにこぼれた純平の一言で、美樹の心に積もった、何かが決壊した。
「純君ずるい! そんなこと言うなんてひどいよ!」
 美樹は、自分でも驚くぐらいに、怒ってしまった。心を落ち着けて言い直す。
「先生が悪いというより、純君がしっかりしていないのが悪いと思うなぁ。」
「そげんなことあるもんか、先生はお節介がすぎるんだよ。」
 純平はいつも美樹の言葉に耳をかさない。だから、もう一度、美樹は怒ってしまう。
「お節介じゃない! 純君のことを思っているんだ!」
「なんで、そげんに怒るんな。」
 純平の指摘で、美樹は冷静になりきれていない自分に気がついた。だけど、心が沸騰してどうしようもないから「怒るよ!」と叫んだ。
「小野寺の奴、マジでウゼー。アイツのせいで恥かいたわ。」と、怒鳴る純平。
「小野寺先生は、とっても良い先生だよ。」と、必死に先生を擁護する美樹。
 先生のタヌキ顔を思い出すと、声が震えてしまった。
「お前、小野寺に何を吹き込まれたんだ? あの先生、なぜか女子には人気なんだよな。アイツのドコがええんかわからんで。」
「純君は小野寺先生のことが何にも分かってないんだ!」
「あいつはワシの担任ど、お前よりわかっとるわ!」
 美樹は何も答えない。正確には、何も答えられなかった。本当は先生が純平のことをどう思っているのかを言ってやりたいけど、上手く説明できる自信が無かったからだ。しばらく何も言わずに歩いていると、もう一度、純平が強い口調で言う。
「所で、内緒の話ってなんじゃったんな。」
「純君には教えない!」と、同じ口調で言い返す。
「別にええよ。どっせ、ワシの悪口じゃろ。」と、さっきよりもさらに強い口調。
「すぐにそうやって先生のことを悪く言う!」とうとう美樹は叫んだ。
 美樹は目を何度もパチパチして、あふれ出そうな感情を必死に堪えた。
「おいおい、いちいち泣くなよ。面倒だなあ。ワシにどげんしろと言うんな?」
「いいよ、何もしなくて良いよ。」と、弱弱しい美樹の声。
 純平はため息をついた。
 美樹は歯軋りした。

 そうこうしているうちに、二人は美樹の家にたどり付いた。
 美樹は必死で笑顔を作って「ばいばい。」と手を振った。
 すぐに家に入る。振り返らなかったから、純平がどんな表情をしていたのかを、美樹は知らない。
 純平の「それじゃあ、また。」という言葉だけが、美樹の胸の中で繰り返された。
 ドアを閉める。
 振り返ると、すりガラスに、純平の色が、かすかに見える。
 美樹のほっぺたに、次から次へと涙がこぼれる。涙を拭く動作が、すりガラス越しに見られる気がして。美樹は玄関に背を向けた。
 足元ではサクラとミッキーがお昼寝をしている。サクラは小さく呼吸をしていて、ミッキーが傍に寄り添っている。どんよりとした曇り空のせいで、玄関と廊下が暗い。
 美樹は電気をつけることも無く、階段へと続く廊下を走る。
 おばあちゃんに、ただいまの挨拶をしない。お仏壇の前に行って、お母さんとお父さんに、ただいまの挨拶をしない。
 階段を登る。
 部屋へ逃げ込んだら、ベットの上でうつぶせになった。
 枕の中で声を上げて、沢山泣いた。
 次第に疲れてきて、子ネコのようにスヤスヤと眠ってしまった。
第三章 大雨と大暴れ
     (1)

 ファミレスでのできごと以来、美樹は純平と会うことを避けていた。
 あれからもう、一週間以上もたっている。
 美術クラブの時間に、美樹は奈々子に言った。
「今日も男子たちのせいで、授業が進まなかったね。国語の授業なんて、二組より二十ページも進んでないんだよ。」
 奈々子は「一組になるなんて、私たちついてないよね。」と、深くうなずいた。
 奈々子は唇を尖らして窓の外を見つめる。
 美樹も同じように外を見つめる。
 天気は小雨で、気分もすっかり梅雨入りしてしまった。
 美樹は「でも、女子にはどうすることも出来ないよ。」とつぶやきながら、視線を白い画用紙に移した。
「美樹の言う通りだ。私たちに出来ることなんて何も無いよね。男子たちは放って置くしかないんだから。」
 奈々子の言葉で、美樹の視線はゲンコツ二個分も下がり、ひざの上まで落ちる。
 美樹は気を取り直して、淡々と下書きを始める。
 奈々子の「美樹ちゃん、でも頑張ろう。」に、美樹は小さな声で「うん。」と返事をした。その声が雨音でかき消されてしまいそうだ。
 画用紙が湿っているから、鉛筆の擦れる音がいつものように心地良くない。
 描いては消して、描いては消してを繰り返し、床は消しかすだらけになってしまった。
 何度描き直しても、良い絵が描けない。消しゴムで削られてしまったから、画用紙の表面がザラザラしている。
(なんか最近、クラブ活動中の話題が、男子の悪口ばかりだよなぁ。)
 二年一組の男子生徒の荒れ具合は目立つ一方なのだ。

 水曜日の昼休み、天気は八日連続のしとしと雨。
 外で遊ぶことのできない男子たちは暇で仕方が無いらしく、ちょっとした悪ふざけを考えたのだろう。
「すげぇおいしいジュース持ってきたぞ。」
 佐藤が特大の魔法瓶から「ジュース。」らしきモノをコップに注ぎ、それを松本に差し出したのだ。
 松本が「ホントに旨いのかよ。いたずらだろ、どーせ。」といぶかしげな顔で言うので、佐藤は松本からコップを奪い取り、一気に飲んだ。
「どうだ、俺が飲んだんだからまずいわけネーだろ。」
 松本は納得して「じゃあ飲ませろや。」と言った。
 佐藤はコップにジュースらしき液体を注いだ。松本は謎の液体の入ったコップを佐藤から受け取って、一気に飲んだ。
 松本が「おい。これ、酒じゃネーかよ。」と叫ぶと、佐藤は嬉しそうに笑った。
 松本も笑う。
 今度は松本が「あいつにも飲ませようぜ。」と、佐藤に提案した。
 佐藤は賛成して通りがかりの大久保を呼び止めた。
「大久保、これ飲んでみろ。すげー旨いぞ。」
 大久保が「何それ?」と尋ねると、松本は嬉しそうに答える。
「佐藤の作った特性スペシャル・ミックス・ジュース。マジで旨まいぞ。」
 大久保は興味を示して「またまたそんなこと言っちゃって。」なんて言い出す。それを聞いた松本は嬉しそうにお酒をコップに注ぎ、大久保に手渡した。
 佐藤が「イッキ、イッキ。」と、コールを始める。それに続いて松本もコールを始める。
「イッキ、イッキ、イッキ――。」
「いや、待てよ。なんか怪しいぞ。これ、なんか、変なにおいがするぞ。」
 大久保は警戒して飲むことをためらう。
 楽しそうにコールをする佐藤と松本を見た浅野と田中が興味を持って近づく。二人も、佐藤と松本に続いて、大久保をはやし立てる。
「イッキ、イッキ、イッキ――。」
「あれ、飲まないのかな。」と浅野。
「怖いのかな大久保君。」と田中。
「ここで飲んだら英雄です。」と佐藤。
「男なら躊躇うなよ。」と松本。
 何も知らない男子生徒は、興味を示して五人の様子を眺めている。
「分かった。俺が飲んだらお前らも飲めよ。約束するなら飲んでやる。」
 大久保の提案に対して、田中は「いいぞ、お前が飲んだら俺達も飲む。」と約束をした。
 大久保は「それでは行きます。せーの。」と叫んで、コップのお酒を一気に飲んだ。
 男子たちは大久保を囲んで盛り上げる。
 大久保がコップの中のお酒を全部飲むと盛大な拍手が鳴り響いた。
 大久保が「マズッ、これ酒じゃん。」と叫ぶと、田中が素早く空になったコップを奪い取った。
「約束だろ、次は俺が飲む番だ。」
「豪快に行けよ。」
 佐藤は嬉しそうにコップにお酒を注ぐ。周りの生徒が盛り立てる。
「イッキ、イッキ、イッキ――。」
 田中はお酒を一気に飲み、空になったコップを高らかと天に掲げる。
「オーッ。」
 歓声と拍手が教室に鳴り響く。
 その場はお祭りのような雰囲気だった。

 美樹は奈々子に「また男子たちが悪いことしてるね。さすがに飲酒はまずいよ。」と言った。
 奈々子は呆れ顔だ。
「男子たち、ホントやりたい放題ね。これ以上調子に乗ったら何をやらかすか分からないわ。このことを先生に言いましょう。」
「うん、じゃあ二人で先生の所へ行こう。」

 職員室へ行く途中で、鬼ごっこをしている下級生たちとすれ違った。
 廊下は雨で滑りやすくなって危険だ。
「廊下を走るな!」
 女子生徒の声が耳に入る。
 学年が違っても、落ち着きが無い男子たちがいるのは同じらしい。
 女子生徒からすると迷惑な話だ。
 二人で「失礼します。」と声を合わせて、奈々子が職員室のドアを開けた。職員室はクーラーが効いていて涼しい。
 美樹が「糸崎先生はおられますか。」と担任の先生を呼ぶ。
「池田さんと藤本さんじゃないの。どうしたの?」
「あの、先生……。」美樹は言葉に詰まる。
「先生、男子たちが教室でお酒を飲んでいます。」強い口調で奈々子が訴えた。
「え、本当に? 詳しく教えて。」
 先生は腰をかがめて、目の高さを、美樹と奈々子に合わせた。
 奈々子は、教室で起こったことを、詳しく話した。
 美樹は奈々子の言葉に相槌を打って、説得力を与える。
 先生はうなずきながら話を聞いた……険しい表情だった。
「それじゃあ、当事者を放送で呼び出しましょうか。」
 先生の言葉に、美樹は「先生。」と小さく訴えた。
 先生は優しい声色で「どうしたの?」と、尋ねた。
「先生、あの、私たちがチクッたことは、絶対に言わないでね。」
「わかったわ、報告してくれてありがとう。」
「それじゃあ、失礼します。」
 美樹と奈々子は職員室から出て、図書室へと避難した。

『二年一組の松本君、佐藤君、大久保君、田中君は職員室に来るように』

 スピーカーから放送が流れる。
 美樹は奈々子を見た。
 奈々子も美樹を見る。
 奈々子が「とうとうだね。なんか緊張する。」と、話しかける。
「どうしよう。チクッたことがばれたら、私たち男子から何言われるか分からないよ。」
 動揺の美樹に対して、奈々子は平静。
「大丈夫だって。ばれないよ、それに、ばれても私がいるじゃん。」
 美樹は「うん。」と返事をするが、喉の奥が重たい。
 美樹の奈々子は、しばらくのあいだ沈黙した。
 もうそろそろ大丈夫だろうと考えた美樹と奈々子は、図書館を出た。
 二年一組の教室の近くに来た所で、もう一度放送が入る。

『二年一組の松本君と佐藤君は、すぐに職員室に来るように』

 美樹と奈々子は恐る恐る教室をのぞき込んだ。
「チクッたの、ゼッテー、二組のやつじゃろ。」
 松本が叫んでいた。
「その可能性はある。ドッチボールクラブの連中とか、俺たちのこと悪く言ってたもんな。あいつらだったらぶっ殺す。」
 佐藤が「ぶっ殺す。」と言った瞬間、美樹は奈々子の手をさらにギュッと握った。
 美樹は微かな声で「奈々子ちゃん、怖いよ。」と、に奈々子に訴える。
 奈々子は「大丈夫だよ。」と、もう片方の手をそえた。
「うザってー。まじで、うザってー。」
 佐藤は机を蹴り飛ばした。
 机は二メートルほど飛んだ。
 松本も教卓を蹴り飛ばし、唾を吐く。
 佐藤と松本がいた周辺は机と椅子が横たわっている。佐藤は「死ね!」と叫んで教室を出る。すれ違いに、美樹は一瞬だけ佐藤と目を合わせてしまった。佐藤の顔は怒りに満ちており、鋭い目つきだった。
 すぐ後ろを松本が歩く。美樹は佐藤と目を合わせないために、視線をそらした。奈々子が手を握ってくれていたから、安心した。

「まじやベーかも。」
「良かったー、俺の名前呼ばれなかった。」
「俺、関係ないからな。」
 残りの男子たちは口々に言っている。
 女子生徒はあくまでも「自分とは関係ない」という雰囲気をかもし出して、関わろうとしない。
 クラス委員長が机と椅子を直しはじめた。
 奈々子も片付けを手伝う。
 美樹は腰が抜けてその場にへたり込んだ。
「私もこの机と椅子みたいになっちゃうのかな。」
 美樹は目の前に横たわる机と椅子を見て感傷した。
 むなしく横たえる机と椅子は委員長と奈々子の手によって、もとの位置に戻された。

 昼休みが終わる。それでも放送で呼び出しを喰らった男子生徒は戻って来ない。
「なんかやばくネーか。」
「もしかして、俺のこともばれたんじゃねーか。」
「うわっ、まじダリー。」
 浅野の「先生来たぞ。」で、男子たちはいっせいに自分の席へ帰る。
 それでも、おしゃべりは止まない。
「起立、きょうつけ、礼。」
「よろしくお願いします。」
 生徒たちのヒソヒソ声の中で、糸崎先生は名簿を開き、男子生徒の机をチェックしていく。
「何人かの男子はもうすぐ戻ってくると思います。この時間は自習になったので、英語ドリルと、算数ドリルの続きを解いていてください。それから、浅野君。今から私と一緒に、職員室へ来るように。皆さんは、静かに自習をするのですよ。」
 先生は浅野を連れて、教室を出てしまった。
 美樹は英語ドリルを開く。
 今日の授業で習う予定だったX・Y・Zの所を練習書きするのだが、集中できない。
 窓の外を見ると、やっぱり雨は降り続いている。
 美樹は視線を少し下げる。大久保の席が目に入った。大久保は……いない。
(なんで私が苦しまなくっちゃいけないんだよ、男子なんて、サイテーだ!)
 美樹は嫌なことを忘れるために、ノートにアルファベットを書きなぐった。
 ものすごく汚い字になった。
 この字だと、再提出になるかもしれない。
 
 うるさくなる原因を作る男子が職員室へ行ったために、本当に静かな自習だった。
「なんか、久しぶりに静かな自習だったね。」
 奈々子が美樹に話しかける。
 美樹は放送の件が頭から離れず、自習に集中出来なかった。上の空になった美樹は「うん。」と、魂の抜けたような返事をした。
 奈々子は心配そうに「気にしない、気にしない。気にしたら損だよ。私たち、ただでさえ男子たちのせいで損しているのに、これ以上あいつらのせいで損したらもったいないじゃん。」と励ましてくれた。
 美樹は「うん。」と返事をするが、それでも俯いた顔を上げられない。
「知ってる? 梅雨はまだ、一週間くらい続くらしいよ。なんか、雨ばっかりだと気分が暗くなるなぁ。」
 委員長のつぶやきは、尾道の空よりも、ずっとずっと重い。

     (2)

 次の授業は国語で、糸崎先生は素早くチョークを走らせ、授業の遅れを一気に取り戻す。
 じゃまをする男子がいなくなるだけで、授業の質が格段に良くなった。
 この日の授業が全て終わり、掃除を始める。男子たちが野球をしなかったおかげで、いつもよりもはやく掃除が終わった。
 数人の男子生徒がいないだけなのに、平和な学校生活が戻った。
 なぜ佐藤たちが職員室に呼び出されたのかを、だれも聞かなかった。そもそも、聞く必要なんて無かった。みんな、知っていたから。
 ホームルームで『集団飲酒』のことが明かされた。糸崎先生の説教は怖く無かったが、重苦しかった。
 せっかく今日はクラブ活動がある水曜日だというのに、男子たちのテンションは低い。でも、そんなことは女子には関係ない。
 グラウンドを使うクラブは、雨の日になると体育館に集まり、全員でドッチボールをする。それはそれで盛り上がるらしいが、やっぱり、サッカークラブの生徒はサッカーがしたいらしい。サッカークラブの男子たちの表情が暗いのだ。
(まあ、どうでもいいけど)
 写生の終わった美術クラブの今日の活動は、美術教室で「梅雨。」をテーマにして絵を描くことになっている。
 美樹は画用紙の前で無言だった。
 山本さんに見せてあげるために、アジサイの絵を描くのだが、まだ下描きは途中だ。
「美樹ちゃん、頑張ろう。気持ちの切り替えだよ。だって、私たち、何も悪いことしていないんだよ。」
 奈々子の励ましは美樹の耳に入っているのだが、心の中にまでは届かなかった。美樹はどうしても鉛筆をとる元気が出てこない。
 画用紙の前でずっと座ったまんま。終始、上の空だ。
 結局、その日は何も描かずに(何も描けずに)下校の時間になってしまった。
(なんで私、こんな気持ちなんだろう?)
 気が付くと、誰もが浮かれ気分だった春は過ぎ去っている。
 晴れの日が続いた五月が夢のよう。いまはジメジメのジトジトの、みんなが大嫌いな梅雨だ。尾道は雨の多くない町のはずなのに、もう八日間も雨が降り続いている。

     (3)

 木曜日の朝も、天気予報の通りで、やっぱり雨だ。しかも今日は、大雨だ。
 校門前の階段で、オレンジ色の傘を発見した美樹は「奈々子ちゃんおはよう。」と、声をかけて走りよる。奈々子は振り向いて「おはよう美樹ちゃん。」と返事をした。二人は並んで校門をくぐった。
 靴箱についたら、傘をたたんでトントンと水滴を落とす。コンクリートの上に、水でできた大きな円形が完成した。
 傘たてにオレンジ色の傘を立てかけたら、二人は手をつないで教室へ向う。靴下がびしょぬれになっているのが少し気になるから、教室に入ったら履き替えようと思う。
 教室の前の方では、クラスの女子たちが話していた。
「結局、呼び出された五人はクラブ活動に来なかったらしいよ。」
「保護者まで学校に来たんだって。」
「お酒を持って来た松本君は、校長先生に頭を下げたらしいね。」
 掃除道具入れの傍には松本と佐藤、大久保、浅野がいる。いつも、この時間には登校しているはずの田中の姿が見えない。この四人はなにやら話しているが、ココからは会話が聞こえない。
 しばらく様子をうかがっていると、松本と目が合った。鳥肌が立ってしまい、目をそらす。
(私がチクッタこと、ばれちゃったのかな?)
 美樹は自分の机に筆記用具を入れて、奈々子の席へと向った。
「奈々子ちゃん、大変なことになったらどうしよう。」
 奈々子は「大丈夫だって。」と笑うが、表情が硬く、無理やりの笑顔だ。不安なのは美樹だけではないらしい。

 美樹と奈々子が靴下を履き替えていると、左側にいる女子達の会話が耳に入ってきた。
「田中君、今日は学校休むらしいよ。」
「浅野君が言うには、昨日、田中君が、明日は学校休むって言ってたらしいよ。」
「つまり、仮病ね。」
「そうだね。」
 チャイムが鳴ったので、美樹と奈々子は自分のロッカーに、濡れた靴下を入れて、自分の席に戻る。
 しばらくたってから、いつものように「先生、来たぞ。」と、浅野が報告をする。
 着席していない生徒も、自分の席へと戻りはじめる。だけど、おしゃべりは相変わらず続いている。……いつものことだ。
 日直がホームルームの司会をする。先生からのお知らせになり、先生が口を開く。
「全校集会のため、一時間目の授業は中止です。皆さん、体育館に集合してください。それから、男子生徒は集会の後も、体育館に残るように。」
 一人の男子生徒が叫ぶように訴えた。
「ちょっと待ってください、僕は何もしていません。なんで関係の無い男子まで体育館に残らなくてはいけないんですか、意味わからんし!」
「男子が体育館に残らなくてはいけない理由は、集団飲酒だけが理由じゃありません。学校生活全体に関して指導をするために残らせるのです。」
 先生の言葉で、波紋が広がる。
「なんだよそれ、じゃあ、女子も残れよ。」
「先生のそういう上から目線、腹立つ。」
「指導とか、意味分からんし。」
 男子たちが不満の声を上げて教室が騒がしくなった。
 女子生徒もヒソヒソと話をしている。
 先生は必死に男子たちを説得するが、あまり効果がない。
(なんか、しゅうしゅうが付かなくなって来たな。)
 美樹は奈々子と顔を合わせる。
 奈々子は眉毛をピクリと動かして、棒杖を突き、ダンマリを決め込んだ。
(どうしよう、このままじゃあまずいよ。)
 美樹は教室を見渡す。
 浅野をはじめとする集団飲酒の当事者は、教室が静まるのをまっている。
 美樹はため息を付いた。
(この場を静めることの出来る人は、いないのかな?)
 美樹は我知らずのうちに、大久保を見つめていた。
 大久保は窓の外を眺めながら、なにやら考えており、自分の世界に入り込んでいる。
(大久保君、お願いだからなんとかして!)
 心の中で叫んでも、大久保の意識は教室の外だ。
(大久保君!)
 美樹は渾身の思いを込めて、大久保を見つめた。美樹の強力な目力でも、大久保は動かない。
 美樹は思わず「なによ!」と叫んだ。と同時に、美樹は教室中の視線を浴びてしまった。
「うるせーよ、筆女!」と、騒いでいた男子。
 男子たちの批判の矛先は、先生から美樹にかわった。
「体育館に残らなくても良いからって調子に乗るなよ。」
「良い子ぶってんじゃねーよ。」
 美樹の口と心が、一瞬でふさがって、うつむくしか無かった。
 美樹のピンチに「あんたらが悪いんでしょ!」と、奈々子が鋭い声で言い返した。
「はあ? 聴こえないなあ。」と男子。
 先生はケンカをやめるようにと、必死に説得する……が、効果はいまひとつのようだ。
 美樹は黙って机の上を見つめるが、焦点が合わなくてぼやけてしまう。机の木目がグルグルまわって吐き気がしてきた。
 美樹は机から視線をそらす。
 もう一度、大久保と目があった。ゆっくりと、大久保の顔に焦点があう。
(吐き気がおさまるまで、このままでいよう。)
 たまりかねた大久保が「もう良いだろ!」と、大声で叫んだ。
 一瞬だけ、教室から音が消えた。

「なんだよ、お前が原因だろ!」と、誰かが叫び返して、再び教室は騒がしくなった。
 今度は、批判の矛先が奈々子から大久保に移る……と、思われたが、
「黙って聞いてりゃうるせーな。おまえら、しばくぞ!」
 佐藤の一言で、口げんかがおさまった。
 だれ一人として、何も言い返さない。
 それもそのはず、クラス最強の佐藤に逆らえる者など、だれもいないのだから。
 荒れた教室の雰囲気が凍りついた。気まずい空気が教室を包み込む。
「まあ、ええが。早くホームルームを終わらせて体育館に行こうで。」
 浅野の言葉で、凍りついた教室の空気が、溶け始めた。いつもヘラヘラしている浅野だが、こういうときには活躍してくれる。
「そうね、そうしよう。」
 クラス委員長が、浅野に賛成し、事態はしゅうしゅうした。

 体育館へ向う廊下で、奈々子は「元気出しなって。」と、美樹を励まし続ける。
 美樹の返事も、昨日同様に魂が抜けており、相変わらずだ。
 美樹の心はいまにも大雨で出来た霧の中へ迷い込みそうだ。
「だりー、今日休んだ田中とか、マジでラッキーだよな。俺も休めば良かった。」と佐藤。
「飲酒くらいで全校集会って、どうなの?」と松本。
「俺、別に関係無いのにな。」と、別の男子。
 大久保は無言で歩いている。視線がずっと下を向いていて、何かを考えているみたいだ。
(また、大久保君に助けられちゃったなあ。本当はこんな時に、私が大久保を励ますべきなんだろうな。)
 美樹は、大久保を励ますことの出来ない自分に対して、自己嫌悪に陥りそうになった。
 廊下は湿って滑りやすくなっている。
 雨雲は手を伸ばせば届きそうなくらいに厚くなっていた。
 朝だというのに、あたりは暗い。
 体育館前の靴箱に到着すると、全校生徒がひしめきあっており、身動きが取りづらくなるほど狭い。
 激しい雨音と、生徒たちの雑談が騒がしい。
「なんで急に全校集会なんだよ。」
 他学年の生徒の大半は、集められた理由が分からない。
「最近服装が乱れてるとかじゃねぇの。」
「交通事故とか。」
「いやいや、不祥事とかかも。」
「意外性をついて新しい先生が来るとか。」
「いや、新しい先生が来るぐらいで全校集会は無いよ。」
「ちがうって、大雨のため今日の授業は中止とかじゃけん。」
「それ、ありえる。」
 事情を知らない学生は、自分たちの憶測を語り合っている。
 二組の男子が小さな声で「やっぱりあのことがばれたんじゃねぇか。」と、佐藤に言った。
 佐藤が「オメー、チクッタだろ。」と怒鳴る。
 二組の男子は、静かな口調で答える。
「チクッてネーよ。別に俺がチクッタところでメリットないだろ。現に俺たちまで集会に参加させられてるじゃんか。」
 その言葉で、いつもは強気なはずの佐藤が黙ってしまった。
 睨まれた男子生徒は「まあ、ドンマイだな。」と苦笑いを浮かべながら、佐藤をフォローした。
 全校生徒が体育館に集い、整列が完了したところで、全校集会が始まった。
 教頭先生が話し始める。
「皆さんに残念なお知らせがあります。六年生のあるクラスで集団飲酒が発覚しました。」

『集団飲酒』

 その言葉が美樹の心に深く圧し掛かる。
 美樹は息苦しくなって左手を胸にあてた。
 会話が聞こえる。斜め前の女子生徒は「予想外。」と、その右側の男子生徒は「マジかよ。」と、その前にいる男子生徒は「その程度で集会かよ。」と。とにかく、口々に言っている。
 体育館がざわめきだした。
「静かにしなさい!」
 教頭先生の怒鳴り声で、騒がしかった体育館が一瞬で静まりかえった。
 人の音が消えた体育館に、激しい雨音が響きだす。
 美樹は落ち着きを取り戻すために目をつぶり、景色の音に意識を向けて、ゆっくりと呼吸をする。美樹の耳に入ってくる雨音が、大きくなった。
「ある学生が水筒にお酒を入れて学校に持ち込み、昼休みにそれを飲んだそうだ。おふざけのつもりかもしれないが、未成年の飲酒は法律で禁止されている。しかも、教育の場である学校で起きてしまいました。先生たちは――。」
 左をチラリと見ると、いつも楽観的でヘラヘラしている浅野が「終わった。」という表情をしている。あんなに引きつった表情をしている浅野を、美樹は始めて見た。
 先生による説明が始まった。一組の生徒のほとんどはうなだれている。二組の方からヒソヒソ声が聞える。
「それって一組じゃねぇ。」
「噂にはなっていたが本当だったか。」
「知ってるか、一組のことだぜ。」
「ゴシュウショウサマです。」
 今ごろ、事件を起こした男子たちに、鋭い視線が向けられているだろう。
 美樹は終始うな垂れまま、顔を上げられなくなってしまった。
(私は何も悪くない、悪いのは男子たちなんだ。)
 そんなことは分かっているはずなのに、やっぱり美樹は顔を上げられない。
 喉がつっかえる。
 床がぐるぐる回っているみたいに、平衡感覚までおかしくなって来た。
(だって、だって……私は。)
 美樹は漠然とした『何か』に、言い訳を始める。けれど、自分が誰に対して言い訳をしているのかが分からない。なぜ、自分の心がこんなにも動いているのか分からない。

 長い全校集会のあと、男子たちは体育館に残った。
 休み時間が終わっても、男子たちは帰ってこない。
 二時間目の授業は自習になった。
 もはや美樹は、自習どころではない。
「奈々子ちゃんどうしよう。」
 奈々子は不安がる美樹を「大丈夫だよ。」と励ます。
 美樹は外を眺めた。
 運動場の半分以上が水溜りになっていて、次から次へと落ちてくる雨粒が水面を容赦なく叩きつけている。
 土は雨水を吸収しきれなくなり、グラウンドには茶色い川ができている。
 川の水は排水溝にドッと押し寄せる。
 今日で九日連続の雨だ。こんなに沢山の雨は、瀬戸内海では滅多に降らない。
 朝の天気予報では、雨は夕方まで続くと言っていた。
(サクラと純太とミッキーは大丈夫かな? ずぶ濡れになっていないと良いけど。)
 猫たちのことが、やけに気になって仕方が無い。
 授業時間が残り十五分くらいになった頃。男子たちは、落ち込んでいる様子でぞろぞろと教室に戻って来た。
 こうして、二時間目の自習は終わった。

     (4)

 給食の時間になると、遠くの方から落雷の音が聴こえはじめた。
 昼休みになると、閃光と落雷音の間隔が次第に短くなってきた。
「もう先生、教室出たぞ。」
 浅野が知らせると、松本と佐藤が教壇の前に立った。
「チクッタのはこのクラスの女子の誰かだろ。」
 佐藤がどすの利いた声で怒鳴った。クラス委員長が言い返す。
「なんで私たちを疑うのよ!」
「一組の連中はチクッてないんだ。それなら、チクッタのは、このクラスの女子しかいないだろ。」
「そもそもチクられるようなことをした自分たちが悪いんでしょ。」
「なんだと、オメーがチクッタのか。」
「別に、私はチクッてないし、だって私はあの時、ずっと教室にいたじゃない。それより、チクッた人を探すとかみっともないと思う。あんた達、サイテーだよ。」
「ウルセーな。」
 松本がクラスの女子に向って怒鳴りつける。
「チクッタのがこのクラスの女子だってことは、もう分かってるんだよ!」
 教室には約半数の女子生徒が残っており、その中に美樹と奈々子もいた。
 閃光がしてドカーンと大きな音が轟いた。さっきまで鳴り響いていた雷が、学校のすぐ傍まで近付いてきている。
「チクッタのはだれだ、今のうちに出て来たほうがいいぞ。」
 二組の女子たちは、雷がどうのこうのと話をする余裕なんて無い。
 佐藤と松本、それに浅野の脅しに近い問いかけが続く。
 他の男子たちは無関心を装う。
 時々、大久保が美樹たちの様子をチラチラと見る。
(気になるなら、助けてよ。)
 美樹は自分の手をギュッと握った。……冷や汗で湿っていた。
 
 閃光と同時に激しい音が学校中に響き渡った。ほぼ同時に、振動も伝わった。
 どうやら学校の近くでも落雷があったらしい。廊下では「落ちた、落ちた!」と二組の生徒達が叫んでいる。それに、叫んでいるのは二組の生徒だけではないようだ。一年生の教室周辺でも、生徒たちが歓声を上げている。まるで、何かのイベントでもあるかのような盛り上がりだ。
 二年一組の教室は殺伐とした雰囲気で、雷どころでは無い。
 美樹にとっては、いまの松本の方が、雷よりも遥かに怖い。
 美樹は松本と顔を合わせてしまった。恐怖のあまり、体が熱くなる。
 佐藤が美樹の動揺した様子に気がついて、歩み寄ってきた。
「そう言えば、放送で呼び出しを喰らって教室を出るときに、オメーは教室に戻って来たよな。」
「確かにそうだった。筆女の奴、俺と目があうのを避けていたぞ。」と、松本も問い詰める。
 佐藤が「テメーか!」と叫ぶ。
 松本と浅野が、美樹と美樹の傍にいた奈々子を取り囲んだ。
「オメーらだろう。チクッタのはこのクラスの人間だってことは分かってるんだよ。」
 浅野も美樹を罵る。
 美樹は腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。あまりの怖さで体が震える。
 奈々子は美樹の手をギュッと握った。
「あんた達、サイテーだわ。」
 奈々子は佐藤たちに向って必死に叫んだ。
 美樹の目からはボロボロと涙が流れる。
「ひどいじゃないの!」委員長の声だ。
 それを聞いた佐藤は、キレて机を蹴飛ばした。
 蹴飛ばされた机は二メートルほど転がる。
 美樹は小さく体を丸めて頭を手で押さえる。体の振るえが止まらない。まるで痙攣しているみたいだ。
 恐怖で声すら出せない美樹の代わりに、奈々子が「助けてー。」と叫ぶ。
「ひどい、暴力反対。女の子に暴力をふるうなんて男の子としてサイテーだわ。」
 誰かが叫んだ。女子の声だ。
 それをきっかけにして、教室にいた別の女子たちも「やめなさいよ。」と叫びだす。
 動揺している美樹には、誰が叫んでいるのか分からない。
 雷の光が、カメラのフラッシュみたいに光った。ほぼ同時に、音が響いた。
 一年生の教室周辺の騒がしさも増してくる。
 もはや、尾道第二中学全体が大変な騒ぎになっている。
 誰かが「あんた達何やってんの!」と、叫んでいる。
 もしかしたら、隣のクラスの女子かもしれない。
「もうやめとけって、見苦しいぞ。」
 今度は男子の声だ。
 周りの人達が敵に回ったことで、佐藤の怒りは頂点に達した。
 佐藤は、今にも美樹に殴りかかりそうだ。
「暴力はやめとけって。相手は女子だぞ。」松本の声だ……たぶん。
「やべー、やべー」これは、浅野の声かもしれない。
 恐怖で混乱している美樹には、声の主を聞き分ける余裕がない。
「何だよテメー、こいつのせいで校長に頭下げなきゃいけなくなったんだぞ。ぶっ殺す。」
 もはや佐藤は、自分の感情をコントロールできなっている。
 とうとう佐藤は、美樹に殴りかかってきた。

「キャーッ。」

 佐藤の握りこぶしが、美樹の体に振り下ろされようとした瞬間だ。
「落ち着け佐藤!」
 叫び声と一緒に、佐藤の体が右側に倒れた。
 それと同時に、大久保の体が美樹の視界に入った。
 大久保が佐藤に体当たりをしたのだ。
 吹き飛ばされた佐藤は、左腕を激しく机にぶつけた。
 それによって、周りの机と椅子が激しく倒れる。
 体当たりの勢いで、大久保の体は、佐藤の上に圧し掛かってしまう。
 佐藤は「なにすんだよ、痛いだろうが。」と怒鳴って、大久保の顔面をぶん殴った。
 殴られた大久保は気を失って倒れこんでしまう。
 佐藤は立ち上がって美樹をつかみかかろうとする。
 あせったのは美樹や奈々子だけではない。
 松本と浅野があわてて佐藤を抑える。
 奈々子も美樹と佐藤の間に立って、美樹をかばう。
 二人が取り押さえても、佐藤は獣のように暴れる。
 このままでは二人の制止を振り切ってしまう。
「マジで、やべーぞ。」
 今まで見て見ぬふりをしていた男子が、佐藤の制止に加わった。
「オメーらぶっ殺すぞ。」
 それでも佐藤は暴れ続ける。
「俺、先生呼んでくる。」
 別の男子生徒の声が耳に入り、その場にいた生徒だけでなく、他のクラスの生徒も二人の制止に加わった。
「お前ら何してる。」
 すぐに二組の先生が駆けつけてくれた。
 先生による柔道の固め技が決まり、佐藤は身動きを取れなくなった。
 それでも佐藤は抵抗を続ける。まるで、殺虫剤をかけられても動き続けるゴキブリみたいだ。
 五分以上が経過した。松本は疲れたことにより、冷静さを取り戻し始める。暴走により、佐藤の周辺四メートルの机と椅子は、ことごとくひっくりかえってしまった。
 いつのまにか大久保は、意識を取り戻して、美樹のことを見つめていた。
 美樹は涙を拭いた。美樹の服は、汗と涙でびしょびしょになった。
 先生と松本の格闘が終わる頃に、放送があった。
「一年生が雷で騒いでいるとのことです。大雨の廊下は滑りやすく危険なので大人しくしてください。」
 放送によって一年生の教室周辺も落ち着きを取り戻しはじめる。
 稲光と落雷の音の間隔が次第に長くなってきた。どうやら雷も遠ざかっているようだ。

     (5)

 教室では、松本と先生の言い争いが始まった。
 松本を避けるために、美樹は奈々子と一緒に保健室へ移動する。
 美樹をかばって顔面に青あざをつくってしまった大久保も、一緒に保健室へ向った。
 うつむきながら歩く美樹は「大久保君、ありがとう。」と、小さくお礼を言った。
 大久保は雨の降りしきる外を見ながら、ぼそっと「どうも。」と返事をした。
 奈々子も「たすけてくれて、ありがとう。」と、お礼をする。
 大久保は天井を見ながら「まあな。」と返事をした。

 保健室に入って、大久保は治療を受ける。
 大久保が氷で顔を冷やしている間に、奈々子は保健室の先生に事情を説明した。
 話を聞いた先生は、心配して大久保に尋ねた。
「本当に病院へ行って精密検査を受けなくても良いの?」
 大久保は「そげんに大げさなことせんでええよ。」と、余裕の表情を見せている。
 担任の糸崎先生が保健室に来た。
「みんな、大丈夫? ケガは無かった? いったい、何があったの?」
 奈々子が淡々と説明をして、美樹は相槌を打つ。
 時々、大久保が奈々子の説明に補足を加えた。
「先生、私、教室に戻るのは……佐藤君が怖い」
 美樹はどうしても佐藤と会いたく無いと言って、教室へ戻ることを拒んだ。
「そうね、今は松本君と会いたくないだろうし。分かった、しばらくここに居なさい。」
「ありがとうございます。」
 すかさず大久保も「先生、僕も残ります。」と言う。
 糸崎先生は、大久保君が保健室に残ることも許可した。
 奈々子が小さな声で「やっぱり、大久保は美樹ちゃんのことが好きなんだよ。」と、耳打ちをする。
 美樹は「ないない。」と否定するが、心の中では奈々子の言う通りな気がした。
(たぶん、大久保君は私のことが好きだから、たすけてくれたんだ)
 奈々子は美樹の耳元に顔を近づける。
「美樹ちゃんと大久保君を二人きりにしてあげる。」
「もー、冗談はやめてよ。」
 そうやって美樹と奈々子がヒソヒソ声で言い合っていると、授業開始のチャイムが鳴った。奈々子と糸崎先生は教室に戻る。
「がんばってネ。」
 奈々子が保健室を出る瞬間に見せた笑顔が、ニヤニヤしていた。
(もーっ、こんな時に!)
 美樹はムッとした表情で奈々子を見送った。

 ひたすらに鳴り続ける雨音が、保健室に響く。
 雷の音が無くなってから、変化の無い音が空間を包み込んでいた。
 保健室の先生は、紙に何かを書いている。
 特に視線を向ける場所の無い美樹は、椅子に腰掛けて曇り空を眺めた。
 大久保も美樹の隣に腰掛けて外を見ている。たぶん、美樹と同じ空を見つめている。
 近すぎず遠すぎない微妙な距離で、二人が座る椅子が並んでいる。ちょうど、三十センチ物差し二つ分の距離だ。
「あのさ。」
 最初に口を開いたのは大久保で、視線は外に向けられたままで、ぶっきらぼうな言い方だった。
 美樹は大久保と同じ声のトーンで「なに?」と返事をした。
 大久保は少しだけ黙る。
(なに? もしかして告白とか? ちょっと、やめて欲しいな。)
 美樹は手をモジモジさせながら、視線を保健室の床までおろした。良く磨かれている綺麗な床だった。
 大久保が口を開くのを待つ。
(男の子から告白されるなんて経験、一度はしてみたかったから……)
 男の子が、こういうシュチュエーションで女の子に話しかける時は、告白の瞬間だと考えるのが妥当だ。言い出すのに躊躇っている時点で、その可能性は濃厚。
 告白されるのも、まんざら悪くない。でも、美樹の返事は、既に決まっている。
『友達として、これからもよろしく』
 これが、一番ベターな返答。
(別に、大久保君のことが好きとかそういうのじゃ無いもん!)
 美樹は生唾をゴクリと飲む。

 結構な時間がたった。
(早く何か言ってよ!)
 美樹の心の声が聞えたのかもしれない、大久保が口を開いた。
「あのさ、池田って。」
 恐る恐る口を開く大久保に対して、美樹は心の中で「来た!」と叫んだ。沈黙の間に返答の内容は考えている。
『友達として、これからもよろしく』
 これで決定だ。心の準備はもう、完了している。

「おばあちゃんっ子なんだよな。」

 大久保の思わぬ質問に、美樹は「ふぇえ? まあ、そうだけど。」と、間抜けなリアクションをしてしまった。「そうだけど。」の部分なんて、完全に声が裏返っている。
「ほら、なんで池田んところは授業参観で婆ちゃんしか来ないんだと思っててさ、浅野に聞いたら、池田はお父さんとお母さんがおらんって言うから。それで、知ったんだ。」
「いつ知ったの。」
「一年半年前。」
 一年半前と言えば、大久保が美樹にちょっかいをかけるようになった時期だ。
「スゲーと思うぞ。」
 さっきから、全く予想外のことを言ってくる大久保に対して、美樹は少しだけムッとなった。だから、語気を強めにして「何がすごいのか説明してほしいな。」と言って。口を尖らした。
「そりゃあ、何と言うか、何となく。」
 美樹は「何となくですか?」と小さくつぶやいたあとに、ため息を付いた。 
 大久保は男子たちと話をするときにはよく喋るくせに、こういう時には無口になる。
「大久保君って男兄弟でしょ。」
「よう分かったな。弟が四人おる。」
「えーっ、大久保君って、五人兄弟の長男なの?」
「そうだよ、ショウシンショウメイの男兄弟。でも、今年の秋に家族が一人増える。おかんが妊娠中なんだよな。じゃけん、女が生まれたら、脱男兄弟ってことになるな。」
「そっか、だからか。だから、大久保君は女の子と話すのが苦手なんだぁ。」
「うるせーよ!」
「大久保君は女の子と話をしないもんネー。」
「別に、そんなことねーよ……今、話してるし。」
 美樹が大久保の目を見ると、大久保は目をそらす。ビニール袋の中の氷が音を立てて動いた。
(大久保君は、私のことを好きとか嫌いとか思ってなくて、私のことを心配してくれていたんだろうな。女の子とどう接っして良いのか分からなくて、何となく気まずいだけなんだろうな。変に意識しすぎなんだよ。この次期の男の子は面倒臭いなあ。)
 おもわずクスっと笑う美樹。
「ごめん。」
 大久保がポツリと誤るが、何に対して謝っているのか、美樹には分からない。
 気まずい雰囲気になってしまったことを謝っているのだろうか?
 今まで筆女と言ってからかったことについてを謝っているのだろうか?
 飲酒事件で迷惑をかけたから謝っているのだろうか?
 それとも、両親のいない私に対して何もしてあげられないから?
「大久保君って、実は優しいんだね。」
「実はってなんだよ!」
「素直じゃ無いなぁ。」まるで純君みたいだよ。
「うるせぇよ。優しいと言うより、なんかほっとけないんだよ。」
「でもさ、なんで私がおばあちゃんっ子だからって、心配する必要があるの?」
 大久保は雨を見つめながら語り始める。
「俺って、五人兄弟の長男だろ。じゃけん、いっつも弟の面倒を見なくちゃおえんのよ。わがままでウザイやつらばっかりじゃけど、何か、可愛いんだよな。何か気になるんだよ弟たちのことが。じゃけんな、ついつい色々と気にかけてしまうんだよな。困ってたらほっとけないっていうのかな。ってか、それが習慣になって。学校とかでも、困っている人とか、何かに悩んでいる人を見ると無視できないんだよな。」
 美樹は「ふーん。」と相槌を打つが、納得がいかない。
(私、べつに悩んだり、困ったりしていないもん。)
「実は今日、一番下の弟が熱で寝込んどるんよな。で、家で弟の看病しているおかんのこととかが心配だったんだ。一日中そのことを考えていたんだよな。」
 朝から物思いにふけっていたのはこのことだったのかと、美樹は納得した。
「家族のみんなは、俺が飲酒事件を起こしたのを知らんのんな。妊娠中のおかんを心配させたくないから家族には言わないでくれって、必死こいて先生に土下座したんだ。」
 大久保の視線は固定されたままで、淡々と話している。大久保の家庭内事情を始めて聞く美樹は、心の底からうなずいた。

「佐藤のことじゃけどな。」
 佐藤の名前と同時に、大久保は美樹を見た。
 真剣な目だった。
 大久保の目があまりにも透き通っていたから、美樹は一瞬だけ目をそらしてしまった。
「あんまり怨まないでくれよ。」
「大久保君は、あんなに殴られたのに、佐藤のことを許せるの?」
「アイツにも、いろいろと事情があるんだよ。」
 意外すぎる大久保の言葉に、美樹は生唾を飲み、重々しく「事情って?」と尋ねる。
「アイツの家の親父は暴力団と関係があるって知ってたか?」
「噂では耳にしたことがある。」
「じゃあ、説明は要らないな。そういうことじゃけん。」
「どういうことさ。」
「アイツの家庭内は複雑というか悲惨というか。俺の口から、話していいのかわからんけん、池田には詳しいことは言えんのじゃ。学校で、家庭でのストレスを晴らしているから仕方が無いんだ。あいつ一人を責めるわけには行かない。それはもう、どうしようも無いことじゃけん。ここで俺が怨んでも、あいつはどうにもならない。まぁ、許すしかないよな。」
 美樹は、お人よし過ぎる大久保のことを理解できない。
 口をへの字にして、奥歯を擦り合わせた。
「佐藤と松本は近所に住んでるんだ。松本の家は共働きだから、アイツは鍵っ子なんよ。じゃけん、夜遅くまで松本と夜遊びをしてるんだよ。それが、二人がつるむ理由な。」
「なんで佐藤君と松本君が同じクラスになるんだよ。あの二人のせいでクラスがメチャクチャになったんだよ。私、許せない。それに、浅野君があの二人を調子付けるんだ。」
 少し声を荒げてしまったために、保健室の先生がチラリとこっちを見た。
 美樹は「大丈夫ですよ。」と愛想を振りまく。
「俺は浅野に感謝しとる。」
 キッパリと言う大久保に、怒りをぶつけそうになったが、叫びたい心を抑えて「なんでだよ。」と小さく問いかけた。
「もしも浅野がいなかったら、クラスの男子は松本と佐藤に対してビクビクしなくちゃおえんくなっとった。でも、問題が起こりそうになったら、浅野はヘラヘラしながら場を和ませてくれるんだ。あいつのおかげでケンカが起こらんし、男子たちも普通に接することが出来るんだ。」
「それって、男子の都合でしょ。女子は良い迷惑だよ。クラスの女子はみんな、男子たちのことが嫌いなんだから。」
 美樹の意見で、大久保は深いため息を付いて「だよなぁ〜。」とつぶやいた。
 大久保の言葉に元気が無くなれば、こっちが優位に立てる。
 美樹は強気になって、大久保に言葉をぶつけた。
「それから、私の質問には答えてないでしょ。なんで私がおばあちゃんっ子だったら、そんなにかわいそうなわけ? あんたに同情される筋合いは無いんだけど。」
 美樹は奈々子のように強気に言えたことに爽快感を抱いた。ついでに「どうなの。」と、トゲのある言い方で、大久保に対して精神的な圧迫をかけてやった。
「それは……。」
 いつも男子たちから言われ放題だった美樹は、心の中で「行ける。」と叫んで、発言を続ける。
「それは、じゃあ分からない。男の子ならはっきり言いなさいよ!」
 美樹は、完璧に大久保を制圧している。
「さっきも言ったけど。俺って七人家族だろ。じゃけん、俺んちってスゲーにぎやかなんだよ。男兄弟が五人もいれば当然、ケンカばっかりで……食事中なんか戦争みたいな状態なんだぜ。じゃけど、兄弟が一人かけただけで、なんか食卓がさみしくなるんだ。不思議だと思わないか?」
「確かに不思議ね。でも、一人減ったくらいで静かになるわけないでしょ。」
「池田の言う通りで、食卓はいつものような戦争状態なんじゃけど、……不思議なんだよな。何故かこう、穴が開いたような感覚になるんだ。弟達に、このことを話したら、自分もそう思うって言うんだぜ。親父もおかんも同じことを言う。」
 美樹は「ふーん。」と相槌を打つが、どうしても、さっきまでの勢いが出てこない。
『ファミリーレストラン――家族食堂』
 なぜか美樹の心に、そんな言葉が浮かび上がる。

 楽しかった時間。
 喧嘩はしたけど、純平のことが少しだけ理解できた気がする。
 小野寺先生は純平のことを心配していて、気にかけていて。
 純平は、そんな小野寺先生のことを理解できずに嫌がっていて。
 美樹は、小野寺先生のことが大好きになって。
 先生のことを理解できないでいる純平に対してイラッとしていて。でも、そのイライラの原因は純平のことを大切に思っていたから。
(ファミリーレストラン〈家族食堂〉での短い時間で、こんなにも沢山のことを感じられた。でも、これって、当たり前のことだったんだ。お父さんとお母さんのいる皆は……。兄弟の沢山いる大久保君は、もっともっと沢山……こんなにも暖かい気持ちを、感じていたんだな。それも、毎日。)
 生まれ育った環境は変えることが出来ない。それは、仕方がないこと。
(私は、生まれた時から、ついていなかったんだ。)
 おばあちゃんと自分。大久保の話を聞くと、おばあちゃんとの食卓が一本の細すぎる糸のように感じた。変えることの出来ない「おばあちゃんっ子。」という事実を、無性に認めたくない美樹は、強く念じる。
(別に私はそんなに不幸な人間じゃないもん!)

 奥歯をギシギシとこすり合わせていると、電話(内線)が鳴った。
 保健室の先生が電話に出る。
 美樹は時計を見た。それにつられて大久保も時計を見る。
 もうそろそろ、四時間目の授業が終わる頃だ。
 あせった大久保は結論を言う。 
「毎晩二人だけで食事をするのも辛いだろうなって思ってさ。」
 止めを刺された。
 負けたと思った。
 ここで泣いたら、もっと負けてしまうとも思った。
 でも、喉がつっかえる。
(限界だよ。)
 先生はまだ、電話で話している。大久保がつぶやいた。
「今日の夕方には雨が止むらしいぞ。」
 美樹の沈黙で会話が続かなくなってしまった。

 何の変化の起こらない保健室で、時間だけが流れる。
 大久保はモジモジしていて落ち着きが無い。教室へ帰るタイミングを見計らっているみたいだ。男兄弟の大久保は、女の子が隣に座っている状況に慣れていないから、もう限界に来ているのかもしれない。
 先生が受話器を置くと、大久保の体かピクッと動いた。それにつられて美樹の心もピクッと動く。
「先生、俺、もうそろそろ教室に戻ります。」
 大久保は先生から許可をもらって、逃げるように保健室を出た。
 大久保の退室と入れ違いになるように、先生は電話の内容を美樹に伝える。
「おばあちゃんが、もうすぐ学校に来るそうよ。それまでここで待っててね。」
 その言葉を聞いた瞬間に、美樹の心に大久保の言葉が甦る。
『毎晩二人だけで食事をするのも辛いだろうなって思ってさ』
 大久保の言葉と、先生の一言がグチャグチャに混ぜ込まれて、一文では要約できないほどに、沢山の思いが沸きあがって来たのだ。
 美樹の顔が一瞬にして熱くなった。
 美樹の心が大きく動き始めた。
 自分が不幸な人間である可能性。
 おばあちゃんを心配させたことへの後悔。
 それでも、おばあちゃんに甘えたい気持ち。
 もしかしたら、それ以外の理由なのかも知れない。
 言葉よりも先に、大粒の涙がこぼれてきた。
 スカートの上に、涙の雨が降り始めた。
 どうして自分が悲しんでいるのか、涙の理由がよく分からない。
 美樹はうつ伏せになった。
「大丈夫、池田さん?」
 暖かい声は保健室の先生で、美樹の顔を覗き込んでいた。
「人間、辛いことがあると、何事も悲観的に見えてしまうものよ。世の中、そんなに悪いことばかり起こらないんだから。ほら、外を見てごらん。あんなに降っていた雨がやんでいるじゃない。止まない雨は無いって、昔から言うでしょ。人生山有り谷あり。辛いことのあとには、楽しいことが待っているものなんだから。」
 美樹は雨がやんでいることに気がついていなかった。
 雲の隙間から太陽の光が差し込めば、七色の、
「虹が。」
 先生と美樹の声が重なった。
 どうやら二人とも、同じことを言おうとしていたらしい。
 美樹と先生は、思わず笑ってしまった。
「虹が出ると良いね。」と先生。
「うん。」
 返事が少しだけ震えていたれど、そんなに大きな震えでは無い。
(大丈夫、大丈夫。これなら、私の心は、悲しい気持ちに勝てそうだ。)
 大粒の雨の雫は、淡々とリズムを刻むメトロノーム。
 美樹は、ゆっくりとしたリズムに耳をすませた。

     (6)

 美術準備室で、美樹は椅子に座って俯いていた。
 雨音に混じって、廊下から靴音が聞こえる。
 その音が保健室の前で止まった。
 美樹はドアを開ける音に反応して顔を上げた。
 開いたドアにおばあちゃんの姿が現れる。
 美樹はおばあちゃんを見た瞬間ワァっと泣き出した。
「美樹ちゃん。おばあちゃんだよ。よく頑張ったね。美樹ちゃんは偉い子じゃけん。」
 おばあちゃんも、目に涙を浮かべていた。
 担任の先生が、申し訳無さそうな顔をして二人の様子を見ていた。
(おばあちゃんが来ても、絶対に泣かないと決めていたのに。……だめだ、甘えたい気持ちが勝っちゃった。)
 おばあちゃんの温もりの中で泣いていると「心配じゃったけん、来た。」純平の声が聞こえて来た。
 学校の制服を着ている純平が、ひょこっと顔を出した。
(純君が来てくれた!)
 それだけで、ものすごく心強かった。
「泣きたい時にゃあ、泣きゃあええんど。いっぱい泣きゃあ元気になるけんのお。ほれ、ハンカチじゃ。」
 純平は、黄色のタオルを渡した。いつも身につけている、黄色いタオルだ。
「純君、これはハンカチじゃないよ。」
「やっぱり美樹は、笑った顔が一番かわいいな。」
(私、いま、笑っているんだ)
 悲しくて泣いているのか、うれしくて泣いているのか……、うれしくて笑っているのか、おかしくて笑っているのか……、それとも、安心しているからなのだろうか……、いろんな感情が交じり合って、良く分からない。でも、どの感情も、暖かいことは確かだと思う。
 純平は黄色いタオル(純君が言うにはハンカチ)で、美樹の涙を拭いてくれた。
 純平のタオルは湿っぽくて、ものすごくカビ臭い。
 美樹は咳き込んでしまった。
(ひどい匂いだけど、王室で使うような高級なハンカチよりも、ずっとずっと特別な、純君のタオル。)
 その匂いをかいでいると、なぜか懐かしい気持ちになれる。
 湿って冷たくなっていたタオルも、美樹の体温で暖かくなってきた。
 でもやっぱり、タオルの匂いと、嗚咽が交じり合って咳き込んでしまう。
 純平は美樹の頭を優しくなでた。ミッキーをなでる時みたいに、ゆっくりと、なでなでしてくれた。

「そう言えば美樹って、小学六年生なんだよな。来年から中学生か。」と、純平は美樹に話しかけた。
 美樹と純平の様子を見ていた先生はクスッと笑った。
「池田さんって、時々、先生のことをお母さんって呼ぶことがあるんだよ。」
「あるある、そういう失敗って、あるよな。僕も小学校の時にはよく間違えたよ。」
「二人を見ていると、なんだか親子に見えたからおかしくて。先生もね、生徒たちのことが自分の子供みたいに見えるんだよ。だから、美樹ちゃんが悲しいと、先生まで悲しくなっちゃうんだ。」
 純平は糸崎先生の話しに、かなり共感したらしく。大きくうなずいている。
「年が近い兄弟よりも、年の離れた兄弟の方が仲が良いもんなんですよね。」
 純平の言葉に、糸崎先生も「確かに、そういわれてみればそうね。」と、うなずく。
「もしかして、純君って、私のことを娘みたいに思っているの?」
「あっはー、ばれたか。」
 美樹は頬っぺたを膨らまして「なんか悔しい。」とつぶやいた。
「別に、悔しがる必要は無いだろう。」
「だってさぁ。」だって、何だろうか?
(自分でも分からないけど、なんか悔しい。よりによって純君だから? でも、……本当は嬉しいのかもしれない。)

 しばらく雑談をした後に、本題に入った。
 美樹は純平たちに、教室で何があったのかを、こと細かに話した。
「そうなんですか事情は分かりました。とりあえず美樹は被害者だったんですね。」
 担任の先生は自分の至らなさに悔いているようである。
 そんな先生を、純平は励ました。
「先生もそんなに悔いないでください。これは誰か一人の責任ではないです。相手の保護者だって家で子供を十分教育できていなかったわけですし。学校も事件の可能性を予測出来ていませんでした。それに、松本と佐藤は学校の外でも悪さをしていました。近所の人たちが彼らを叱ることが出来なかったのも問題です。もしかしたら美樹と関わることの多かった僕にも問題があったかも知れません。だから先生は一人で抱え込まないでください。こういうことはみんなで助け合いながら解決すべきことです。」
 久しぶりに会う純平は、とっても頼もしかった。




第四章 お父さんとお母さん
     (1)

 美樹たちは先生と相談して、今日は早退させてもらうことにした。教室に置いてあるランドセルや教科書、それに体操服は、奈々子が保健室に持って来てくれた。
 奈々子は、保健室から出る直前に「大久保君とはうまくいった?」と、聞いてきた。
 美樹は唇を尖らせて「あんな奴、知らない。大嫌い。」と、吐き捨てた。
 奈々子は「そっか、断ったんだね。」と、うなずいた。
 完全に、奈々子は勘違いをしている。

 美樹はおばあちゃんの右手を握って、校門を出た。
 しばらくのあいだ、太陽の光を反射して銀色に輝くアスファルトを歩いていると、純平が美樹の右手を握った。
「いまから、美樹がサクラを見つけた公園にいこうぜ。」
 純平の視線は斜め上に向いており、ぶっきらぼうな言い方だった。
 美樹はおばあちゃんの顔を覗き込んだ。
「ゆっくりだったら、大丈夫じゃけん。」
 おばあちゃんの言葉に安心した美樹は「うん、行こう。」と、元気に返事が出来た。
 三人は、ゆっくりと、ゆっくりと、路地を歩いた。純平は美樹とおばあちゃんの前を、三人の荷物を抱えて歩いた。

 山本神社の境内から、民謡と思われる歌声が響いた。
「純君、あの声は山本さんだよね?」
「そうだな、山本さんで間違いない。」
 純平が「ちょっと、寄り道しようぜ。」と言うので、美樹はおばあちゃんの顔を覗き込んだ。おばあちゃんがうなずいたので、美樹は「うん。」と答えた。
 神社の境内をのぞくと、山本さんと目がった。
 山本さんは歌を中断した。
「山本さーん、久しぶりに晴れましたね。」
 純平の大声に、山本さんは「おー、純君か。元気がええのう。」と、すがすがしい返事をした。
「山本さん、ご機嫌ですね。」笑顔の純平。
「まあなあ。インスピレーションが湧いたんじゃ。雨が止んだら、だれか尋ね人が来るんじゃないかと思っとったら、ほんまに来たで。」
 山本さんは嬉しそうに笑った。
 美樹が「なんでいつも、誰か来ることがわかるんですか?」と尋ねたら、山本さんは神妙な表情で「この仕事をしていると、霊感がさえるんじゃわ。」と答えた。
「ところで、学校はどうしたんだ。」
 山本さんの問いかけに、美樹と純平は、ことのいきさつを説明した。
 全ての話を聞き終えた山本さんは、静かに目と口を閉じ、眉間に深いシワを寄せて「んー。」と唸った。唇の両端が延びており、笑窪ができている。
 三十秒ほど唸ったあとに、引き締めた顔をひょいとほどいて目を開いた。山本さんの目は優しい眼だった。
「美樹ちゃんの両親が、大久保君を通して助けてくれたんじゃろうな。」
 不思議なことを言う山本さん。
 美樹は首をかしげて「どういうことですか。」と尋ねた。
「わしの同僚で霊が見えるっちゅー人がおるんじゃけど、その人の話しによるとじゃ、死んだ人間が、愛する人の守護霊になることがよくあるっちゅーんじゃ。たぶん、美樹ちゃんのお父さんが、守護霊となって、美樹ちゃんのことを見守っとると思うんじゃ。ちゅーても、残念じゃけど、わしは霊眼が開けとらんから、確かめられんけどな。」
 山本さんは自分で言ったことばに納得するようにうなずいているが、山本さんの話は、いまいち美樹にはピンとこない話だった。
「お父さんと大久保君は関係ないと思うけどな。」
 美樹が納得していないのが不思議だったのだろうか、山本さんは一瞬だけ眉毛をピクンと動かした。
 今度は真剣な表情で「生きている人間よりも、死んだ人間の方が、ずっと傍にいることがあるんじゃけんな。」と言う。
「どういう意味ですか。」
「死んでしまった人間ちゅーのは、生きている人間に触れたり、話しかけたりすることは出来へん。じゃけど、二十四時間、いつでも、見守ってあげることができるんじゃな。死んだ人間ちゅうんは、体がないから、逆にもっと近くにいるんじゃ。それとな、肉体がなくても、心は永遠に存在するんじゃけん。」
 美樹は、山本さんの言っていることがサッパリ理解できない。
 美樹と対照的なのが、おばあちゃんだ。おばあちゃんは「ほんまじゃ、ほんまじゃ。」とつぶやきながらうなずいている。
 純平が難しい表情で「つまり、美樹のお父さんは、大久保の体をかりて、美樹を助けたって、ことですか。」と、質問をした。
 山本さんは「そうじゃ。」と答えて、詳しく話しをしてくれた。
「死んだ人間は、ごく稀に、地上に留まることがあるんじゃ。幽霊とか悪霊なんかもそうなんじゃが、守護霊として留まることもあるんじゃけん。」
 山本さんはしゃがんで、顔を美樹と同じ高さにした。
「なあ、美樹ちゃん。美樹ちゃんのそばには、いつでもお父さんとお母さんがおるんじゃけど、気がついとんか。美樹ちゃんの心に語りかけとんじゃけど、気がついとんか。」
 美樹は少しだけ目をそらして「わからない。」と答えた。
「守護霊は本人の心に尋ねてくるんじゃ、じゃけど、たいがいの場合は気がついてもらえへんのじゃわ。」
 山本さんはさみしそうな目をした。
「美樹ちゃんのお父さんとお母さんは、いつでも美樹ちゃんのことをはげましとんで。」
「そうなのかな。」首をかしげる美樹。
「そうだとも。」深くうなずく山本さん。
「そんなこと……わからない。」
 守護霊に見守られているなど、美樹は一度も感じたことがない。
「普通なら死んでいたような事故にあって、奇跡的にたすかったっちゅー話しはよう聞かへんか。」
「テレビとかで、時々、聞く。」
「あれなんかが守護霊が助ける典型例じゃな。じゃけどな、あんなのは稀じゃ。守護霊っちゅうのは奇跡を起こして助けることは滅多にないんじゃけん。ほとんどの場合は、もっと地味な形で助けとるんじゃけん。本人が気が付かないくらい、地味にじゃけん。」
「どういうこと。」
 山本さんは、二十秒間ほどだまったあとに、もういちど口を開いた。
「近くにいる人のなかから、自分の心情と近い心を持っている人を選んで、その人の心の中に飛び込むんじゃ。飛び込まれた人間は、助けたい衝動に駆られるんじゃけん。理由はわからんけど、心が引っ張られるんじゃな。たとえば、道がわからなくなったときに、通りがかりの人が教えてくれたり、ハンカチを落としたときに、知らない人が拾ってくれたり。」
 純平が「すげー地味だな。」と笑った。
 山本さんは「美樹ちゃんがピンチのときに、美樹ちゃんのお父さんかお母さんが、大久保君の心に飛び込んだんじゃろうな。」とつぶやいた。
 美樹は俯いた。雨に濡れた地面は、雨で濡れていた。

『美樹』

 心の中から優しい声が聞こえて来た。
「お父さん。」
 理由はわからない、だが美樹には、その声の正体がお父さんだと、はっきりとわかった。会ったことも、喋ったこともない、お父さんの声だと。
 心の中に、温もりが広がる。お父さんの優しさが広がる。
 おばあちゃんが「どうしたんじゃ。」と問うので、美樹は「いま、お父さんの声が聞こえて来た気がする。」と答えた。
 山本さんが「そうか、お父さんを感じたんじゃな。」とつぶやいた。
 感情がこみ上げてきた。
「お父さんが、見守ってくれてたんだね!」
 美樹は涙をこらえきれなかった。

「おっ、あんなところに、美樹のお母さんがいる。」
 美樹は「どこどこ。」と言いながら、慌てて周りを見回した。
「純君、お母さんが見えたの?」
「なんちゃって。」
 美樹は涙を拭きながら「もー、純君。」と怒った。
 純平はおどけながら「あーっ、美樹のお父さんが僕の心に飛び込んできたー。」と叫び、美樹をお嬢様だっこで軽々と抱えた。
 美樹は「キャッ。」と叫んで暴れた。
「恐怖のメリーゴーランドだぞー。」
 グルグル周りはじめる純平。
 景色が横に流れる。
 おばあちゃん。
 山本さん。
 賽銭箱。
 石碑。
 柱。
 小屋。
 松の木。
 神社の門。
 紫のアジサイ。
 もう一度、おばあちゃん。
「怖いよ、怖いよ。落ちちゃうよ。」
 純平は「俺の意思じゃないもんねー。美樹のお父さんの仕業だもーん。」と笑う。
「やめてよ純君。」と叫ぶが、純平は回転をさらに加速させる。
 十回転ほどすると、純平は息をきらした。
「遠心力で美樹の涙が吹き飛んだから、恐怖のメリーゴーランドは終点っと。」
 純平は美樹を下ろしてくれた。
「もーっ、純君。」と怒ってみる……でも、たしかに、涙がぜんぶ、遠心力で吹き飛んだ。
 冗談じゃなくて、本当に、純平の心に、お父さんが飛び込んできたんじゃないだろうかと、美樹は思った。

 山本さんが口を開いた。 
「美樹ちゃんのことを見守ってるのは、ご両親だけじゃないんじゃけん。美樹ちゃんの周りには、八百万の神様がおるんで。」
「八百万の神様って。」
「山や川や海といったすべてのものに、魂が宿るとされとるんじゃ。じゃけん、美樹ちゃんの周りには、沢山の神様がおって、いつでも、美樹ちゃんのことを見守ってくれとるんで。」
「でも、妖怪みたいに、祟りを起こすような神様もいるんでしょ」
「確かに、祟り神はいる。でも、祟り神だって、いつも悪さをするわけじゃない。菅原道真は学問の神様として有名だけど、あれだって、祟り神なんだぞ。祟り神だって、心を込めて祭ってあげると、良いことをしてくれるんだ。いつも良い子にしている美樹ちゃんを祟るような神様は、いないんじゃないかな。」
 美樹は小さく「そうかぁ」とうなずいた。
 山本さんは話を続ける。
「……そうだな、八百万の神様のなかには、お化けみたいな姿のものもいるけど。そういう神様こそ、じつは良い奴なのかもしれないぞ。そりゃあ、いろんな神様がいるからな。ちょっとばかし、化け物みたいな姿をしている神様だって珍しくないはずだ」
 おばあちゃんは「八百万の神様たちは、美樹ちゃんの守護神なんじゃなあ。」と、山本さんの話しにうなずいた。
「尾道ってさ、沢山の神社がひしめき合っているだろ。だからこう、スゲー賑やかなんだと思うぞ。今だって、八百万の神様が、泣き虫の美樹のことを笑ってたりして。」
 妖怪みたにケラケラ笑う純平を、美樹は「モーっ。」と唸りながら、蹴飛ばした。
「あうっ、今のは痛かった。」
 美樹はフーンと、鼻を鳴らした。
 妖怪は純平みたいに悪ふざけをする神様のことで、ほんとうは妖怪だって、優しいのかもしれない。
 美樹はわざと真剣な顔をつくって純平を見つめた。
「純君、わたしね、今まで隠していたことがあるの。」
「え、何だよいきなり。」
「私……。」わざとうつむいて、泣いたふりをする。
「どうしたんだよ。」少し戸惑った純平の声。
 美樹の嘘泣きが震える……笑いをこらえているのだ。
 美樹は笑顔をつくって顔を上げ、「私、妖怪筆女だったの!」と叫んだ。
 冗談だと気がついた純平は「そうだったのか!」と、わざとらしく驚いて、美樹をお嬢様だっこで抱えた。
「恐怖のメリーゴーランドで妖怪退治だー。」
 純平の突然な行動に、美樹は「やめてよ。」と抵抗した。
 純平は「やだねー。」と言いながら、周り始めた。でも、美樹は恐怖のメリーゴーランドに慣れてしまい。逆に、楽しんだ。
 純平が美樹を降ろすと、美樹は「もう一回、お姫様だっこして。」とねだった。
 純平は「しゃーねーなー。」と言いながら、美樹を抱えて周った。
 美樹は疲れ果てた純平に「もう一回。」と、ねだり続けた。
「ギブ、ギブ、マジで疲れたから。」

 山本神社を出た美樹たちは、ゆっくりと石段を登り、例の公園に到着した。
 公園で待っていたのは黒色の福石猫(尾道の街のいたるところに置いてある石で出来たネコの置物)で、純太と同じ色合いだ。
 傍に立てかけてある蒲鉾板に、何か書いてある。
『お腹をなでなでしてほしいな 純太』
 美樹は純平の表情をうかがう。
 純平はニタニタと笑っている。
 美樹は福石猫を手にとって、裏側に向けた。
 福石猫のお腹には、修正ペンでメッセージが記されていた。
『この前は怒ってゴメンって、純君が言ってたよ。 純太』
 純平ではなく純太と書いてあるのが、ちょっぴりおかしかった。
「純君のしわざだね。」
「ご名答。」弾んだ声の純平。
「普通に謝ればいいじゃない。」
「だって、最近、美樹は僕のことを避けてるだろ。」
「それは……。」その通りだ。
「美樹がよく来るここなら、きっと気がついてくれると思って、三日前から仕掛けておいたんだ。」
 間抜けな顔が「純太そっくり。」――だね。
「俺って、絵の才能もあるんじゃないかと、思ってるんだぜ。」
「でもさ、黒く塗って目とヒゲを描いただけじゃない。」
「単純な作業ほど、熟練した技術が必要であってだな、まずは――。」
 ろうろうと語る純平を無視して、美樹はおばあちゃんに「下手くそだよねー。」と話しかけた。おばあちゃんは「これはこれで、あじがあって可愛えよ。」と言う。でも「上手に描けてる。」とは言わない。
(やっぱり、純君には絵心が無いね。)
 美樹はクスッと笑った。

 連絡船の汽笛が、高らかに鳴った。
 眩しい光が、尾道の街を照らしてくれた。
 純平の「あれを見ろよ。」で、虹が出ていたことに気が付いた。
 おばあちゃんは「きっと、お母さんとお父さんが、ここにつれてきてくれたんじゃろうな。」とつぶやき、両手を合わせて目を閉じた。
 純平は「アリガトー、虹の神様!」と、小学生みたいに叫んだ。
 美樹も「ありがとう、お母さーん、お父さーん」と、叫んだ。

     (2)

 気象庁より、梅雨明けが発表された。
 時期を同じくして、サクラが息を引き取った。
 美樹は冷たくなったサクラの体をなでた。
 サクラのすぐ傍にはミッキーがいる。サクラの体を舐めるミッキーは、母親の死を理解できているのだろうか。
(ミッキーも私みたいに、お母さんがいなくなっちゃったんだな。)
 残されたミッキーと自分がダブって見えてしまう。だからこそ、美樹は涙をこらえた。
「大丈夫だよミッキー、あなたのお母さんは守護霊になって、ずっと、ミッキーの傍にいるんだよ。困ったときは、助けてくれるんだよ。」
 美樹はミッキーを抱きかかえて、膝の上に乗せた。喉のあたりを撫でてあげると、ミッキーは気持ち良さそうに目を閉じて、ゴロゴロと喉をならした。
 おばあちゃんが美樹のそばに来たので、美樹は「ミッキーは一人じゃないんだよ。」と。優しい声を絞り出すように、言った。
「ミッキーがすくすくと育ってくれたら、サクラも未練がないんじゃけん。美樹が元気じゃったら、お母さんも未練がないのと同じじゃな。きっと、美樹ちゃんのお母さんが教えてくれたんじゃろうな。」
 美樹は泣いた。
 悲しくて泣いたのではない、嬉しくて泣いたのだ。
 お母さんを感じたから、泣いたのだ。
 雫が、ミッキーの頭の上にポツポツと落ちた。
 ミッキーの毛が、少しだけ湿ってしまった。美樹は服の袖でミッキーの頭に付いた水滴をふき取った。
「良いこと思いついた。わたし、お母さんの筆で、サクラの福石猫をつくる。サクラは八百万の神様になるんだよ。それで、尾道のみんなを見守ってくれるんだ。」
「そうか、そうか。そりゃー良え考えじゃ。」

 美樹は美術クラブの時間を使って、福石猫の製作をはじめた。
 丸い石に下塗りをしていると、奈々子が「美樹ちゃん、何をつくるの。」と尋ねた。美樹は「サクラの福石猫。」と、元気に答えた。
「そっか、サクラちゃんの……可愛い福石猫ができると良いね。」
「任せて、お母さんの筆さえあれば、とっても可愛らしいネコちゃんに仕上がるから。」
「楽しみだね。」
 美樹は、夢中で福石猫を作った。休み時間も美術室に通って、作業を続けた。
 サクラの福石猫を作っている時間は、楽しくて楽しくて仕方がなかった。心が弾んで、石に命が吹き込まれるのを、感じた。心が形になるのを感じた。

 ある日、お母さんの筆を持って、美術室へ向っていると、浅野が「やーい、妖怪筆女。」と、冷やかした。
 八百万の神様の話を聞いたから、妖怪なんて怖くない。ちょっとだけ、悪戯が好きな神様を、人間が妖怪と呼んでいるだけの話だ。だから言ってやった。
「知らないでしょ、妖怪はとっても可愛いんだからね。怖い妖怪は、ホンの一部なんだよ。だからね、妖怪筆女って言われも、全然くやしくないんだからね。むしろ、嬉しいくらいだ。悔しかったら、あんたも妖怪になってみなさい!」
 奈々子みたいに、強気で言い返せた。
(妖怪筆女の特技は、お母さんの筆を使って、石に魂を宿らせることなんだよ。それから、心を形にすることも得意なんだよ。)
 心のなかで補足した。
「なに言ってるんだ。妖怪は怖いにきまってるだろ。」
「あれ? 男の子が妖怪を怖がるんだー。だっさいねー。私でも怖くないのに。」
 今のは急所を突いたらしく、浅野は「別に、怖いわけじゃねーよ。」と語気を強めた。
「じゃあ、私が妖怪でも、なんの問題もないじゃない。」
「うるせーよ、妖怪はな、妖怪は。」今度は語気が弱くなった。
「妖怪はどうだと言いたいの? はっきり言わないとわからないでしょ。」
「妖怪は。」続きの言葉が出てこない浅野。
 美樹は「はいはい。」と、浅野をあしらった。
 浅野は苦し紛れに「うざいんだよ。」と叫んで、どこかに行った。
 すぐ後に、頭を掻き毟りながら「くっそー、筆女の奴。」と独り言をつぶやいている浅野を見た美樹は、爽快な気分になった。
(男子たちって、口げんかが弱いんだな。)
 これからは奈々子の助けが無くても、男子たちを追い払えそうだ。
 ちなみに、浅野から筆女と言われたのは、これが最後だった。

 大雨の日の事件から、佐藤と松本は、美樹に対して嫌がらせをしなくなった。そうとうに怒られたらしく、もう懲り懲りなんだとか。時々、浅野がちょっかいをかけてくるが、その度に、口げんかで負かしてやった。こちらが悔しがらない限り、口げんかで男子に負けることはない。弱そうにしているから、嫌なことを言われるだけなのだ。
(私には、お父さんとお母さんと、八百万の神様が付いてるから、怖いものなしだ!)

 福石猫が完成したので、三日間だけ自分の机の上に飾っておいた。上出来だったから、気に入っていたのだ。男子たちに見せびらかしてやりたいという思いも、少しだけあった。
 三時間目の授業の後だった。トイレから帰ってきたら、大久保が美樹の机に置いてある福石猫をながめていた。
 美樹は気付かれないように大久保の背後に回りこみ「この子の名前はサクラ。」と声をかけた。ビックリした大久保は背中をピクンとさせた。
「びびったじゃネーか、おどかすなよ。」
「へっへーん。」
「これって、路地とかに置いてある猫の置物だよな。」
「もしかして、大久保君って、福石猫のこと知らないの。」
「なんだ、福石猫って。」
「丸い石にネコの絵を描いた置物で、尾道の街に千体以上も置いてあるんだよ。幸運を呼ぶ、ネコの神様なんだ。」
「あれって、福石猫っていうんだな。」
「だよ、ちなみに、この福石猫はサクラっていう名前。」
「白猫なんだな。」
 美樹は誇らしい気持ちで「うん。」と答えた。
「わたし、全然さみしくないんだからね。」
 美樹の言葉に、大久保は「何が。」と、問うた。
「この前、保健室で言ってたじゃない。毎晩二人だけで食事をするのも辛いだろう、みたいなこと、言ってたでしょ。」
 大久保は「あー、あれか。」とうなずいた。
「お父さんとお母さんは、いつでも私のことを見守ってくれているから、ぜんぜん、さみしくないんだ。それに、尾道には沢山の神様がいて、とっても賑やかなんだよ。だからね、わたし、ぜんぜんさみしくないんだよ。」
「ふーん。」
「納得してないでしょ。」
「別にー。」そっけない感じの大久保。
「大久保君ってかわいそう。沢山の神様がいることを、知らないんだね。」
 美樹は、逆に大久保のことを同情してやった。
 ついでに「サクラも神様になったんだ。」と、補足してやった。
 大久保は、美樹が何のことを言っているのかわかっていない様子だ。
(あー、可愛そうな大久保君。)
 美樹は、自分でも顔がニヤ付いていることがわかった。
 大久保と話をしていると、糸崎先生が傍に来て腰をかがめた。
 糸崎先生はサクラをなでながら「可愛らしいネコちゃんだね。」と言った。
(今のは、糸崎先生の心に飛び込んだ、お母さんの声だ。)
 だから美樹は、思いっきりの甘え声で「うん!」と答えた。

 糸崎先生を通して、私のお母さんは……語りかけてくれる。
 純君を通して、私のお父さんは……語りかけてくれる。
 純君のお父さんだって、小野寺先生を通して……純君に語りかけてくれる。
 ぜんぜん、さみしくなんかない!

     (3)

 サクラを見つけた桜の木の下に、サクラのお墓はつくってある。
 今日は純平と一緒に、サクラの福石猫を、置きに来たのだ。
 時間帯は、街灯の明かりが灯りだした夕方だ。
「純君の福石猫って、下手くそだよね……でもさ、心が形になってると思うよ。だから、名作だと思う。それに、純太そっくりだから、可愛い福石猫だよ……だからね、純君の福石猫を、サクラのお墓に置いてもいいかな。そしたら、純君の作った福石猫の隣に、わたしの作った福石猫が並ぶの。雛人形みたいで可愛いと思うんだ。」
 純平は「別に、良いぞ。好きにしてくれ。」と了解してくれた。ついでに、「あっ、でも『下手くそ』は無いんじゃないか。そこは嘘でもかまわんから『純君の福石猫は、プロ級の仕上がりでした』と言っておけば、今日の僕は機嫌が良いので、晩飯にラーメンでもおごってやるのになぁ、残念でした、チャンチャン。」と、補足した。
 懐かしいネタに、美樹の頬っぺたが上がった。
「嘘です。純君なら必ず出来ると信じていました。」
兵隊が部隊長に報告するようにキリッとしていた声で、背筋をピシッと伸ばし、右手を斜め上に傾けて敬礼をする。少し優等生な小学六年生の姿をアピールした。そう、純平の夜光虫が完成した朝と、おなじように。
でも、今日の純平は返事が違った。
「本当におごってやるよ。」
 今日の純平は、小野寺先生みたいに太っ腹だ。

 いったん家に帰る道すがら、美樹と純平は話をした。
「AO入試を受けることにしたけん、滑り込みで願書も出した。」と報告する純平。
「あんなに嫌だって言ってたのに、なんで急に受けようと思ったの。」
「逃げてばかりだと、死んだ親父が恥ずかしがると思ってな。合格して、小野寺の奴をぎゃふんと言わせてやるんだ。上手くいけば、今年度で最初の国立大学、合格者になれるんだぜ。じゃけど、倍率が十倍で、一次試験と二次試験があるけん、ちょっと大変だな。」
 美樹の頭に、小野寺先生のタヌキ顔が浮かんだ。優しい目つきに、ふっくらとした頬っぺた。美樹の口元は、おもわずほころんだ。
「あんなに難しい論文を書いた純君なら、大丈夫だよ。それから、小野寺先生と仲良くするんだよ。小野寺先生は、とっても良い先生なんだから。」
 あいかわらず純平は「ゼッタイに、嫌だね。小野寺なんかと仲良しなんて、ありえないね。」と、言っている。
 先生つながりで、今度は美樹が語り始めた。 
「今、学年で噂が流れてるの。学級が荒れた責任を取るために、先生は担任を辞めなくてはいけなくなるかもしれないって。糸崎先生が、先生を辞めなくちゃいけなくなったらどうしよう。たぶん、私のせいだ……私がチクッタから。」
 純平は余裕しゃくしゃくの表情で「八百万の神様がいるから、大丈夫だって。」と言う。
「でも。」
 純平はニコッと笑って、歌詞の一部を変えて、夜光虫を歌いはじめた。
「それなーのにー僕はー、輝いてーないねー。美樹のように美しくー輝きたーい。」
 純平は『君』の部分を『美樹』に変えていた。
「純君、何それー、私じゃない。」
「あっ、でも。僕は本当に美樹のように輝きたいんだよ。」
「私なんかより純君の方が輝いてるって。」
 純平は続きのサビ部分を歌う。
「何もーない、くらやーみーに、希望をー与えるー、小さな勇者にーなーれー、嵐のー海にー、たーち向えー。」
 美樹は「そうだ、嵐の海に立ち向かうんだ。」と、掛け声を上げた。
 純平が笑った。美樹も笑った。たぶん、お父さんとお母さんも、笑った。それから、私たちのことを見守っている八百万の神様も、つられて笑ったと思う。

 いったん自分の家に帰った美樹は、おばあちゃんに「晩御飯は、純君と一緒にラーメンを食べるから。」と伝えた。
 玄関の前で純平と合流したのだが、なぜか純平は、ギターケースを手に持っていた。
「どうしたの。」
「何となく持って来た。」
(そんなものを持ち歩いて重くないのかな?)
 純平の話によると、ラーメン屋は坂を下りて、国道二号線の脇を歩いたところにあるらしい。街灯の光が、美樹と純平の道しるべになった。
 国道沿いの道にでたところで、純平が話し始めた。
「これから行くラーメン屋は、僕が小さい頃にお父さんと一緒に行った場所なんだ。たぶん、四歳か五歳か、そこらだったかもしれない。まだ、歩き方にたどたどしさの残る年齢のときだったと思う。」
 純平がお父さんの話をするのは、本当に珍しいことだ。
 美樹は慎重に相槌を打った。
「僕は、お父さんの手を握りながら、この道を歩いたんだ。お父さんの手は大きくてゴツゴツした職人の手だったなぁ。僕はお父さんの手を一生懸命に握っていたのを覚えているよ。今にしてみれば、家からラーメン屋までは対して長い距離に感じないけど、当時の僕は、ものすごく長い道のりを歩いたように感じたんだ。今みたいに、歩道のすぐ横を次から次へとトラックやら車やらが通りすぎてた。」
 純平は道路を確認して立ち止まった。
 美樹も立ち止まる。
「このくらい、しゃがんでみろ。」
 美樹は純平の言われた通りに、しゃがんでみた。
 美樹と純平の横を大型のトラックが通過した。ディーゼル車の排気ガスを、もろに浴びてしまい。軽く咳き込んでしまった。
「もういいぞ……。背の小さな子供ってさ、排気ガスをもろに吸い込んでしまうんだよな。その時の僕も、やっぱり咳き込んだんだよ。それでも、僕は黙って歩き続けたんだ。それこそ、小さな小さな純平君は、立ち向かうように歩き続けたわけだ。」
 交通量の多い国道二号線。いま二人が歩いている向い側に、JRの山陽本線がある。窓から明るい光を放った旅客車両が、賑やかな音をたてながら通過した。その電車と行き違う形で、今度は長い貨物列車が通過する。その音が消えるまで、純平は沈黙した。

「道路を歩く僕とお父さんは何も喋らなかったんだよな。だけどな、繋いだ手と手を通して。僕とお父さんは会話をしていたのかもしれない。言葉よりも確かな親子の交流だったように思う。よく〈親父は背中で語る〉とか〈昔の職人は師匠の姿を通して技術を学ぶ〉とか言うけど、たぶんその類じゃないかな。」
 純平は立ち止まって、何の変哲もない街灯を懐かしそうな目で見つめた。
 美樹も立ち止まって、純平と同じ場所を見つめた。
「お父さんはこの街灯のあたりでしゃがみ込んだんだ。僕はそれが何を意味するのかがわかったから、何も言わずに父親に抱きついたっけ。お父さんは僕を軽々と抱き上げて、そのまま立ちあげたんだ。お父さんに抱えられた僕は、高い位置から尾道の明かりを見つめていて、僕は小さな両手で父親にしがみ付いた。落ちないように、めいいっぱいにな。」
 美樹は、純平がお父さんにしがみ付いた時に見た景色を見てみようと、少しだけ背伸びをしてみた。
 ほんの少しだけ、視界が広くなった気がした。
 当時の純平とお父さんがそうしたように、美樹と純平は、黙々と歩いた。
 しばらく歩いた後に、純平は唐突に尋ねた。
「最初っから、僕を負ぶって歩いたほうが、早くラーメン屋に着いたと思わないか。」
「でも、重いじゃない。そんなことしたら、疲れちゃうよ。」
「なあ美樹。良く考えて見ろ。お父さんは日ごろから力仕事に慣れてるし、五歳かそこらの僕は体重が軽い。のろのろと歩く僕のペースにあわせる方が、よっぽど疲れるぞ。」
「そんな、ものかな?」ちょっとだけ首をかしげる美樹。
「そんなものだ。だから僕は、今まで不思議に思っていたんだ。なんでお父さんは僕に歩かせたのか、その理由がわからなかったんだ。」
 美樹と純平は、通路に入った。
「でも、最近になって、その理由がわかったんだ。理由がわかったから、AO入試を受けることにした。受験の動機はそれだけだ。小野寺をぎゃふんと言わせるとか、そういうのは関係ない。」
「どうして、お父さんは純君を歩かせたの?」
「言わない。美樹も、大きくなれば理解できるようになる。」
 美樹は頬っぺたを膨らませて「なんだよー。」と言った。
「ねえ、理由を教えてよ。」
「ほら、着いたぞ。ここが、例のラーメン屋だ。」
 美樹の質問は、あっさりとスルーされた。
 
 こじんまりとした、ドコにでもあるようなラーメン屋だった。
 いかにも、地元の人しか知らない店って感じ。
 とにかく、カウンターが狭い。それに、お客さんはサラリーマン風の人が一人と、知らないおじさんが二人だけ。
 店長は純平の顔を見るや「純君か、久しぶりだな。ちょっと見ない間に大きくなったものだ。」と、懐かしそうに言った。
「なんか近所のみんなは、いまだに僕のことを純君ってよぶんですよね。一応、僕は高校三年生ですよ。まあ、べつに良いんですけど。
「時間がたつのは早いなあ、昨日まで、ガキんちょだったのが、嘘みたいだ。ところで、そちらの譲ちゃんはだれだい?」
「ああ、近所に住んでる……妹……的な?」
(最後のクエスチョンマークは何?)
 純平の紹介が頼りなかったので、美樹は店長に自己紹介をした。美樹の自己紹介を聞いた店長は「なるほど、妹的な存在か。」と、納得した。
 美樹と純平はラーメンを注文した。店長はサービスで餃子を焼いてくれると言った。
「おっちゃん、ペン、借りるから。」気さくに声をかける純平。
「好きに使え。」フレンドリーな店長。
 純平はコースターに夜光虫の歌詞を書きはじめた。

 歌詞を書き終えた純平は「これ、やるよ。」と、美樹にコースターを手渡した。
「あ、うん。ありがとう。」
 唐突に渡されたので、美樹は戸惑い交じりに受け取った。
「これ食ったら、お父さんの働いていた向島の造船所に行って、夜光虫を見るか。」
「夜光虫って、光る虫みたいなやつだよね。」
「虫というか、プランクトンな。夜光虫は赤潮の原因になるプランクトンだから、漁業をしている人は嫌がるんだよな。でも、あいつらは綺麗な光を放つんだぜ。まじで、海の星だよ。」
 手早く麺を切りながら、店長が話しかけてきた。
「純君のお父さんは、かなりの溶接技術を持ってたんだぞ。」
 美樹は「へー、そうなんだ。」とうなずく。
 純平は「だぞ。」と言って、誇らしげな顔をした。
 店長はスープの中に麺を流しいれる。手早く具をのせながら、続きを話す。
「名前は良くわからんが、有人潜水艦の溶接を手がけたらしいぞ。潜水艦ってのは、かなりの水圧に耐えなきゃならねーから、中途半端な溶接はできん。だからこそ、信頼できる職人に、溶接をさせたんだ。その信頼できる職人の一人が、純君のお父さんだった。だからな……そりゃあもう、純君のお父さんに憧れて、弟子入りすつ若者もようけおったらしい。」
「わたしのお父さんって、弟子の一人だったんでしょ。」
 純平は「まあな。」と、誇らしげに答えた。
 美樹の心はピンポン玉みたいにはずんだ。
 店長は仕上げにノリを一枚ずつ載せて、威勢よく「ほいよ、ラーメン二丁。」と言った。

 尾道ラーメンは、シンプルな醤油味。この香りが、たまらない。
 熱々のラーメンをすすりながら、純平が言った。
「AO入試で合格したら、来年には東京へ行くけん。そしたらお別れじゃな。」
 美樹は「受かってから言ってよ。」と、冗談みたいに笑うけど、心が震えた。
「おいおい、泣くなよ。」
「泣いてない!」はずなのに。
 おかしい、最近はどうも涙もろくなってしまった。
「わかった、わかった。それじゃあ、おまじないの言葉を教えてあげるぞ。」
 美樹は小さく「うん。」とうなずく。
「夜光虫、守護神純太の、おまじない。」
 純平の川柳に、美樹も川柳で返す。
「純君の、おまじないだよ、夜光虫。」
 タイミングよく餃子を持って来た店長も、すかさず川柳。
「これ食って、受験頑張れ、純平君。」
 店長と純平、それに美樹は思いっきり笑いあった。

     (4)

 お腹がいっぱいになって、心地よい気分になった美樹は、向島を往復するフェリーに揺られて、少しだけ居眠りをした。
 夢うつつに、幸せに包まれた。
 体が温かくて、お母さんに抱きしめられているような気がした。

『美樹ちゃん』
 
 心の中から、お母さんの声が聞こえて来た気がした。
 時間と空間と、言葉……それら全てを越えて、お母さんはコミュニケーションをしているのかもしれないと、美樹は思った。
「ついたぞ。」
「あっ。」美樹は目を覚ました。
「なんか、すごい幸せそうに寝てたぞ。……そうそう、ミッキーみたいな寝顔だった。」
「あのね、いまね、お母さんの声が聞えた気がするの」
「山本さんが言ってたあれか?」
(山本さんは言っていた……、お父さんとお母さんは、いつも私の心に尋ねてくるって。お父さんとお母さんは、いつでも私の傍にいてくれるんだよって。)
「うん。そうだよ。」
「そっか。」
「うん。」

 尾道水道は百メートル足らずの海峡で、フェリーで渡っても、五分もかからない。だから美樹と純平は、あっというまに向島にたどり付いた。フェリー乗り場のすぐ傍に、美樹と純平のお父さんが働いていた造船所はあった。
 もう夜だから、作業場には人がいない。
「夜光虫が見えるのは、ここだよ。」
 二人が覗き込んだ海は、深い深い漆黒……なにもない暗闇が広がっていた。
 船が擦れあってギーっと音を立てている。
 空は、厚い雲のために、月明かりすら見えない。
 美樹はホンの少しだけ怖くなった。ギーっという音が、幽霊の音のように思えた。
 純平が「ちょっと、ギターを持っててくれ。」と言うので、美樹は「うん。」と答えて、純平のギターを抱えた。
 純平は船のロープを握り「水中のロープを、よーく、見てろよ。」グイと引っ張った。
 すると、波しぶきが立った。一瞬であったが、その波しぶきの中から青っぽい光がこぼれた。
「光った、光ったよ。あれが、夜光虫?」
「そうだ、あれが夜光虫だ。良かった、今日は見れた。見えないこともあるけんあ。じつは僕、ちょっと心配しとったんじゃけん。」
「夜光虫が見れて、ほんとうに良かった。」
「星っていうのはなぁ、空だけじゃなく、海にもあるけんなって、お父さんは言っとった。地元の人は、その星のことを夜光虫って呼ぶとも、言っとった。」
 純平が波しぶきを立てるたびに、夜光虫は暗闇に光をともした。
「私もやる。」
 美樹はギターを純平にかえして、ロープに手を伸ばす。美樹は一生懸命にロープを動かした。重いロープから生じる小さな波しぶきの中で、夜光虫は力強く光った。一瞬の光は、漆黒の暗闇を明るく照らす。小さな小さな明かりは、美樹の心にあった暗闇の恐怖をやっつけた。
「夜光虫って、小さな勇者みたいだと思わないか。」
 純平の優しい語り口調で、美樹は気が付いた。
(夜光虫って、やっぱり、お父さんとの思い出を歌った曲なんだ。) 
 美樹は力いっぱい、ロープを揺すった。
「すごい、すごい。光ったよ。」
 美樹の歓声が、夜の海に響き渡った。

 純平の「来て良かったか?」に対して、美樹はロープを引っ張りながら「うん。来て良かった。」と返事をした。たぶん純平も、幼いときにはこうやって、返事をしたのだろう。
「お父さんが言っとった。純平もこの夜光虫みたいに立派に輝くんだぞって。そのとき僕は、夜光虫みたいな小さな勇者になるって、約束したんだ。これが、お父さんとした最初で最後の約束。この約束は、いまも大切に、胸の中にしまっとる。」
 純平は防波堤に腰掛けて、ケースからギターを取り出した。
 街灯に照らされたギターには、金色の『YAMAHA』という文字。
 最近、美樹はローマ字を全部、覚えたばかりだ。だから、こんどこそ、解読してみる。
(Yはヤ行の子音、Mはマ行の子音。Hはハ行の子音。Aは母音のア。だから、YAMAHAは……ヤマハと読むんだ!)
「純君、これって、ヤマハって読むんでしょ。」
 自信満々に、美樹は言った。
 純平は、声を弾ませて答えた。
「さすがだな、もう美樹は、英語がわかるんだな。」
 純平の声は、とても暖かい声だった。
(今のは、純君の心に飛び込んだ、パパの声だ。)
 そう思った瞬間に、美樹は辛い出来事の数々を思い出してしまった。でも、そんなときも、そばで見守ってくれていたお父さんやお母さんの存在に気がついて……心が震えた。
 美樹の心に圧し掛かっていた心の荷物が、静かに降ろされた。
「私、男子たちが好き勝手しているときも、一生懸命にアルファベットの練習をしてたの。パパとママは、そんな私を見守っていて、応援してくれていたの。私、一人ぼっちじゃなかったんだよ」
 純平は美樹の肩を優しくたたいて「そうだな。」とつぶやいた。
「パパとママは、いつでもそばにいるんだよ。」
「そうだな。」
「パパとママは、美樹のことが好きなんだよ。」
「そうだな。美樹は、パパとママに愛されてるよ。」
「美術クラブで絵を描いているときも、パパとママはそばにいたんだよ。」
「そうだな。美樹の絵は、美樹の心が形になってたもんな。パパもママも喜んでいたと思うぞ。」
(私、なんでお父さんとお母さんのことを、パパとママって呼んだんだろう? 小学生になってから一度も、パパなんて言葉、使ったことないのに……。)
 ふと出てきた疑問も、純平の大きな手を見ると、すぐに答えが得られた。
 美樹は、弾むような声で、純平に言った。
「あのね、純君のパパが、なんで純君を歩かせたのかわかったよ。それから、純君がAO入試を受けようと思った本当の理由もわかったよ。」
「おっ、さとりましたか。」
「うん、さとった。」
 美樹は、物凄く近くに、お父さんを感じた。

「知ってるか、ヤマハって会社は、職人さんが沢山いるんだ。それにな、あの会社は楽器だけじゃなくて、船のエンジンも作ってるんだぜ。楽器メーカーが機械を作ってるんだぞ。スゲーだろ。だから僕は、ヤマハのギターを選んだんだ。」
「へー、そうなんだ。」それは知らなかった。
「やっぱり職人って、かっこ良いよな。憧れるよな。僕は大学の工学部を出て、ヤマハみたいな会社に就職して、潜水艦を作るんだ。スゲー潜水艦を作って、親父を越えるんだ。」
 純平の目は生き生きしていた。
(いまの純君の目を、小野寺先生に見せてあげたい。)
 純平は音叉を取り出して、チューニングをはじめた。
 純平は職人さんみたいに、真剣な表情で音に耳をすませている。
(この目を見たから、小野寺先生は、純平にAO入試を受けさせたのかもしれない。もっと言えば、純君のパパが、いまの純君の目を見ていたのかもしれない。)
 チューニングを終えた純平は、右手を振り下ろしてYAMAHAのギターをジャラーンと鳴らす。音符が、夜光虫の光みたいにはじけた。夜空にいろどりを与える、美しい音だった。
 街灯の光をたよりにして、美樹はコースターに書かれた夜光虫の歌詞を見つめた。

 夜光虫   作詞・作曲 秋山純平
    
  海にも星はある
  今夜は夜光虫

  曇りでも輝く君は
  小さな小さな勇者だね
  それなのに僕は輝いてないね
  君のように美しく輝きたい

 ※何もない暗闇に
  希望を与える小さな勇者になれ
  嵐の海に立ち向かえ ※

  波しぶきにもまれながら
  小さな命輝いている
  だから僕も輝くって決めたんだ
  持てる力を振り絞って

 ※ 繰り返し

 少し滲んでいて、斜めに傾いた大きな文字。読みにくいけど、男らしくて、かっこ良い字だ。
 純平は、自信たっぷりに歌っている。
「海ーにーも、星はあるー、今夜はー夜光虫ー。」
 歌詞の通り、今夜は夜光虫だ。

(やっぱり、純君の歌は心が形になっている。名曲だ。)

 美樹は防波堤に座り、純平の曲に合わせて体を左右にゆらした。サビの部分だけ、美樹は声をそろえて歌った。それが、楽しくて楽しくてしかたがなかった。
 サビが終わると、こんどはBメロと呼ばれる部分で、純平の鳴らすギターの音が、力強くなった。それこそ『持てる力を振り絞って』演奏している。

 純平は、間奏を演奏しながら、教えてくれた。
「航海に出ると、船が作った波に夜光虫が光るんだ。」

 美樹は思う。
 親元を離れる子供のように、これから純君は生まれ故郷の尾道を旅立つのだろう。
 波の静かな瀬戸内海を抜ければ、大海原の太平洋。
 嵐の海に立ち向かうことだってあるのかもしれない。
 そんなとき純君は、夜光虫のように、一生懸命に命の光を輝かせるんだろうな。
 私、知ってる、年に一回くらいは、修理や点検のために船はドック入りするんだ。
 尾道に帰ってきたら、心の傷をいやして、もう一度、航海に旅立つんだ。
 そのときに、成長した私の姿を、純君にみせてあげるんだ。

 間奏が終わった。
 美樹と純平は声をそろえて、サビの部分を歌った。最後の繰り返し部分だ。
「何もーないー、くらやーみーにー。」
 遠くまで伸びる、純平の声。
 美樹も、負けないくらいに、大きな声を出した。
「希望をー、与える、小さな勇者にーなーれー。」
 純平と美樹の声が重なり合った。
 最高のコーラスだ。
 美樹と純平は、力強く歌った。
 
「嵐のー海に、たーち向かえー。」

                                   【おわり】

2011/09/18(Sun)01:18:25 公開 / 鈴木純平
■この作品の著作権は鈴木純平さんにあります。無断転載は禁止です。
■作者からのメッセージ
 私は数年前に路上ライブをしていたことがあり、十曲ほどのオリジナル曲を歌っていました。夜光虫はそのうちの一つです。夜光虫の歌詞から物語を作れないだろうかと考えて挑戦してみました。「自分の好きな街」+「広島県民の親戚がおり、広島弁を理解している」という理由で舞台を尾道に設定しました。造船所や連絡船、坂が沢山あり猫が生息している……そんな尾道に行けば、小説を書きたくなりますよ。ちなみに、尾道は文学の街だそうです。
 それにしても、児童文学は難しい。ぶっちゃけ、一般小説の方が楽ですね。いや〜、児童文学は奥が深いです。ちなみに、小学校高学年から中学生レベルで理解できるように書いたつもりでしたが……ちょっと小学生には難しいかもOTL
 それから、
 最後まで読んでくださってありがとうございました。

作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
MSIEではフォントサイズによってアンチエイリアス掛かるので、「拡大」して見ると読みやすいかも。
2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。