『ここ、そして、ここじゃない場所【1〜8】』 ... ジャンル:異世界 ファンタジー
作者:甘木
あらすじ・作品紹介
エルフや異人種が跳梁跋扈し魔法が存在するファンタジーの世界。そんな世界に迷い込んだ平凡な高校生の主人公・武馬悠騎に待ち受けているものは……剣と魔法の世界ならぬ、銃剣と科学の魔法の世界にようこそ。
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【1 武馬は舞い降りた −Buma Has Landed】
僕の十六年間の人生を回顧録にしたためたら、たぶん一行で終わる。一行どころか、たった漢字二文字で言い表せると思う。それは『平凡』の二文字。微細に書いても回顧録には『私のこれまでの人生はいたって平凡なものだった。そして、これからも平凡な人生が続くはずだ』と書かれているはず。
僕もそれを否定するつもりはない。
身長、体重とも高校二年生男子の平均値と同じだし、顔は他人から絶対的な好感を得られない代わりに、不快感も与えないと言われ続けている。つまり平々凡々な顔と言うこと。頭の方と言えば、小学校、中学校とも地元の公立学校に通い、当たり障りのない成績で卒業。その成績で入れる高校を選んだ程度。その結果、自転車を四十分激こぎしないと行けない学校になったのは、人生の中でも波風の部類に入ると思う。
他人に誇れる特技や趣味もなく、かといってまったく無趣味というわけでもない。あまり大きな声で言いたくはないが読書──それもライトノベルを読むのが好きなのさ。有名どころぐらいしか読んでいないけど。
まあそれぐらいに平凡というわけ。
友達は面白いこと満載の日々だの、刺激のある人生だの、漠然として現実味の薄い願望を持っているようだけど、僕はそんなものを望まない。たまにちょっとした刺激があれば、基本は波風のない日々を過ごすことこそが幸せだと信じている。じゅうぶん年寄りじみた考えなのは自覚している。だから、この考えを誰にも言ったことはない。
学校が突然消滅するとか、あからさまに怪しげな転校生が来るとか、学校一の美人の羽田美咲さんに恋の告白をされるなんてこともなく、今日も大過なく授業を受け、当たり前の火曜日を終えた。そして今は自宅までの長い道のりを愛用の自転車にまたがって必死にペダルをこいでいる最中だった──今日は妹の誕生日だから晩ご飯はすき焼きなのさ。世の中には色々と贅沢で美味しい食べ物もあるだろうけど、平凡を自認する僕にとってはすき焼きが最高のご馳走だ。だからペダルをこぐ足にもついつい力が入ってしまう。
* * *
今思えば下りコーナーでスピードを出しすぎていたのが原因の第一で、特攻精神溢れるカナブンが顔面めがけて飛んできたのが原因の第二だろう。
原因という以上、それに付随した結果があるわけで、結果として僕はガードレールに突っこんで崖から落ちた。落ちる最中、世間で言う走馬燈とやらを見た気もするけど、わずか十六年の平凡な過去は胸躍るシーンもなくヤマ場もなく、時間にして三ピコ秒ぐらいで終わった気がする。最後の瞬間、僕がいない食卓で親父と母さんと妹の由香が仲良くすき焼きをつついているシーンを見たようも気もするけど、その後は意識が真っ暗な渦に飲みこまれて…………。
「生きてるか? 生きてるなら返事くらいしやがれ……死にかけているのなら、あたしがとどめをさしてやるぜ」
聞いたことない女の子の声に引っ張り上げられるようにして、意識が暗黒の渦からサルベージされた。
「死んでるのか? だったら心臓と脳味噌に鉛弾をぶちこんでも文句はないよな」
なんか物騒なことを言われている。夢にしちゃ愛想がないなぁ。どうせ夢を見るなら美人の女の子にかしずかれて「御主人様、お目覚めの時間ですよ。目を開けて下らさないならキスしちゃいますよ」なんて、平凡な男子高校生には過分とも言えるシチュエーションがいいんだけど。
「おい、いい加減に生きているか死んでいるかはっきりしやがれ!」
苛ついた声とともに、生まれてから一度も経験したことのない衝撃が僕の胃袋を襲った。
ぎゅぇ! 肺から空気がすべて抜け出すのと同時に、魂の三分の二ぐらいも口から出ていこうとしたぞ。
「なにする!」
「生きてるのかよ。なら、生きてるなら生きてると返事しろよ。それともおまえは地面で死んだように寝るのが趣味なのか?」
腹の上にはだぶっとした迷彩模様のアーミーパンツを穿いた長い足があった。その足の先には……。
ピッタリとした黒のタンクトップを着た細身の身体。細いくせにムネだけは自己主張が激しく山のように突き出ている。そのムネに寄り添うように無骨なホルスターに納められた拳銃が見える。見上げているせいで顔の造作ははっきりしないけれど、陽に光る黒髪を後ろで束ねているのはわかる。
状況を忘れて見事なムネに見とれてしまった。けど、胃袋にのしかかる重みが嫌でも現実に引き戻してくれる。
「足をどけてくれよ」
謝罪の言葉もなく足がどけられ、やっと腹にのしかかる重みから解放される。脳味噌と意識の間に薄膜でも張っているような、いまひとつしゃっきりしない頭を振りながら立ち上がった。
目の前には僕と同い年くらいの女の子、それも今まで見たこともないほど美形の女の子──ちょっとつり上がり気味の切れ長の目。瞳はまるで闇を吸いこんだかのように深みのある漆黒色をしている。日焼けした健康的な褐色の肌。真っ直ぐに通った鼻筋、形の良い口、無駄のない顎のライン。背中の真ん中まである艶やかな黒髪を一つに纏めている──陳腐な言葉かもしれないけれど、完璧な美という表現が似合う。
綺麗すぎて常人の美人レベルを超えている。強いて言えば、人間離れした美しさとでも言うのだろうか。僕は意識の六パーセントくらい割り当てて女の子の美しさに見とれていた。残りの意識と言えば、女の子が美しい顔を歪めて僕の鼻先に拳銃を突きつけていることに八一パーセントと、通常の人間の三倍はありそうな長い耳に十三パーセントを振り当てていた。
なんでこの女の子はオモチャの銃なんか突きつけているんだ? というか、この銃はオモチャに見えないぞ。それに長い耳はなんだ? コスプレ? 作り物にしちゃ肉感があって本物に見える。
「あんた名前は?」
銃口をさらに押しつけて低い声で言う。
「僕に名前を聞くより先に、このオモチャをどけてくれよ」
「オモチャ? これがオモチャに見えるのか」
女の子は歪んだ笑みを浮かべて、左手で長い耳の後ろをかく。なんだか呆れているような雰囲気を漂わせたまま、拳銃の握った右手を下に向ける。
「オモチャはこんなことできるかよ!」
紙風船が割れるような乾いた音とともに、僕の足下の地面が土煙を上げ削れる。
今のなに? なんで地面がえぐれるんだ? 銃口から煙がでてるんですけど。まさか……本物?
「まだオモチャに見えるのなら、なんならテメエの身体で確かめてみるか」
「い、いえ、結構です」
「だったら、さっさと名前を言え」
「悠騎、武馬悠騎(ぶま・ゆうき)です」
「ブマ・ユウキか、変な名前だな」
女の子は改めて銃口を鼻先に持ってくると、口の中で何度も僕の名前を繰り返す。
ひとの名前を変とか言いやがって何様だ。そういえば何かの本に書いてあった。見知らぬ同士が緊張した場面で出会った場合は、下手にへりくだったりすると相手になめられて損をするってさ。だったら、この女の子を刺激しない程度に強気にでた方がいいのかもしれない。
「ユウキ。おまえは何者だ?」
「見りゃわかるだろう。高校生だよ。県立砂村高校の二年生だ」
「こう、こ、う、せい?」
女の子は初めて耳にする単語のようにぎこちなく発音すると、珍獣でも見る表情で僕の顔を凝視する。見つめながら「どっかで見たような顔だな」なんてつぶやいて首をかしげる。
なんだよこの女の子は?
「それより、あんたの名前は……銃なんて持って、何者なんだよ?」
この疑問はもっともだろう。目の前には口の悪い変な女の子がいて拳銃まで持っている。この状況で疑問も浮かぶことなく現実を受け入れられるほど、僕は人間が練れてはいない。だいいち日本国で拳銃を携帯しているのは、警察と自衛隊と麻薬Gメンとイリーガルながらヤクザ屋さんぐらい。で、この女の子はどれにも当てはまらないようなんだけど。
だけど答えは返ってこなかった。
女の子は首をひねったまま、「前に会ったような顔なんだよな……なんか嫌な思い出があったような……」とつぶやいている。
「あのぉ……聞いてます?」
答えは返ってこない。腕を組みため息をつき、頭をボリボリかいて苛立たしげに足を揺らす。
「名前を……」
「あーっ思い出せない! もういいや。お前、なんか言っていたな。なんだ?」
頭をかきむしったと思ったら、僕をにらみつける。
「あ、き、君の名前を……」
「あたしの名前ぇ?」
女の子は舌打ちして腰に手を当て胸を張る。
「あたしはウンデステン臨時政府のアオスタ候麾下遊撃小隊で小隊長をしているスーデル少尉だ」
「はい? ウ、ウンデ臨時政府?」
なにそれ? このスーデルって女の子は電波系なの? 空想の世界に浸りすぎて現実と妄想の区別が付かなくなった痛い人なんですか? それにしては狂気のようなものは感じられない。と言うか、狂気に陥るような繊細さはなく、どちらかというと体育会系の考えるよりも先に体を動かすようなタイプに見えるんだけど。
まてよ、誰かが僕を騙そうとして、この女の子を雇って三文芝居をしているんじゃないか? コスプレ好きのお姉ちゃんを手配してさ、銃だって地面に火薬を仕込んでおいて無線か何かで発火させればそれっぽく見えるし……そうだ、そうに違いない! 僕なんて騙して何の得になるのかは見当もつかないけどさ、そう考えるのが一番理論的だ。
「そんなちゃちな嘘が通じると思っているのかい。ここは日本だぜ。バカなお芝居はもうやめなよ」
「バカな芝居? 何言っているんだ?」
スーデルと名乗った女の子は、肩をすくめるようにしてため息をつき、拳銃を持ったままの右手で周りを指し示す。
「いいかユウキ。ここはおまえが言うニホンとやらなのか、周りをよく見て答えてみろ」
周り?
自転車で走っていた通学路は田園地帯を貫く農道で、途中の丘陵地地帯が続き、裾野には一面の畑が広がっていた。はず…………えっ?
えぇぇぇっ!
今いる場所を端的に表現するならば森。いや、森のはずれの高台って言った方がいいかもしれない。樹齢数百年はありそうな大木が生い茂り、先が見通せない昏い影をつくっている。僕たちがいる場所は森が途切れ、暗色の土がむき出しになった校庭の半分ほどの広さの空間だった。その先は切り取られたように地面がなくなっている。地面が途切れている場所に近付いて──眩暈と吐き気と足下からはい上がってきたふるえで、思わず後ずさりして尻餅をついてしまった──でも、確かに見た。遙か下に大きな湖があり、その周りにはヨーロッパの城塞都市のような壁で囲まれた都市があるのを。
通学途中には湖なんてなかった。少なくても高校入学以来一年以上の月日を費やして景色を見続けていたが、昨日まで湖なんかなかった。日本の土木技術がいかに優れていても、一晩であんなに大きな湖がつくれるほどSF的な技術は持っていないはず。ましてや畑が水没するほどの雨なんか降っていない。なにより日本の原風景にはあり得ないヨーロッパ風城郭建築。あんなものは昨日までなかった。神に誓って断言できる。古今東西すべての信仰対象や悪魔にも誓ったっていい。なんなら妹を生け贄にしたってかまわないさ。ということは……。
これまでの人生の中でこれ以上はないと言うほど真剣に、この異常な状況に対する可能性を検討してみた。
一。これは夢。
二。僕はあの事故で死んだ。ここは死後の世界。
三。僕が気絶している間に何者かがこの場所に連れてきた。
四。内緒♪
一、二は、ベタすぎる。これが新人賞の応募小説なら一次審査落ちは間違いない。
三は、ないとは言えなくともないかもしれないかもしれないけど(自分自身でも否定しているんだか、肯定しているんだかわからなくなってきた)可能性は低すぎる。だいいちここはどこなんだよ。どう見たって日本じゃない。だったら外国? でも僕を海外まで連れだす理由がわからない。
四は……内緒♪ ってなんだ! 内緒って。これは僕の脳内討論だろう。なんで自分の脳味噌が自分自身に内緒事をしなきゃいけないんだよ!
だから、
ここはどこなんだ!
【2 プライベート・ユウキ −When Trumpets Fade】
「あのスーデルさん、恐れ入ります。ここはいったいどこなんでしょう? 差し支えがなければ教えていただけるとありがたいのですが」
自分でも知らないうちに丁寧語になってしまうのは仕方ないことだよね。だって僕の知っている現実があやふやになっていて、確かなものがわからないいま、すがるべき相手は目の前にいるスーデルしかいないんだもん──たとえ相手が拳銃を持っていて、言葉遣いが荒くて、耳が少々長くても。状況を教えてもらえるまではスーデルの気を損ねるわけにはいかない。
「なんだ、真っ当な物言いができるじゃないか。だったら初めからそうやって話せよな。ま、変な名前をしているヤツに期待はしてなかったけどさ」
変な名前で悪かったな! と、いま怒鳴ったら僕の負けだぞ。
「それで、ここはなんという場所なんでしょう」
「ここか? ここはウンデステンの北の端にあるイエドノドゥーハー・イーズデンカの森だ」
「はい?」
スーデルの声には柔らかな響きがあったのに、発した言葉は魔術の呪文のように耳慣れないものだった。と言うか、全然説明になってない。ナントカの森はいいとしても、ウンデステンがどこにあるんだかまったく説明になっていないじゃないか。
「あのぉ、ウンデステンってどこら辺にあるんでしょう?」
「ウンデステンはアイマール帝国とヨス・ジョラムグイ王国の間にあるに決まっているだろう。バカかおまえ」
「アイマール帝国ってなんでしょうか?」
「ガザル地方の大国じゃねえか。そんなことも知らないのかよ。やっぱ間抜けだな」
「ガザル地方って……」
「うるせぇ!」
怒声と一緒に鉛弾が顔の横をかすめていった。
「あたしが丁寧に説明していれば、下らねえ質問を次々としやがって。少しは口を閉じることはできねえのかよ。そんなに口を開けていたいなら、二度と閉じねえように鉛弾で大穴を開けてやるからな」
どこが丁寧なんだ! てんでワケの分からない地名や固有名詞を言っただけじゃないか! あの説明が丁寧と言うなら、トイレに書いてある落書きは大長編小説並みの情報量を誇っている──と、腹の中で思っても口にはしない。それは僕が大人だからってことじゃない。これ以上スーデルを怒らせると、冗談じゃなく頭の後ろにも口ができそうだからだ。ま、銃さえ持っていなかったら僕だってはっきり言っていたさ。たぶん。
「いいか、少しの間黙っていろ。一言でもしゃべったら殺すからな」
冗談とは思えない冷たい眼光に気圧され、無言でうなずくしかなかった。
スーデルは指を丸め口に当てると口笛を吹いた。ぴぃぃぃぃと甲高い音が森に向かって響きわたる。
* * *
スーデルが口笛を吹いてから、どれだけの時間が経っただろう──僕は腕時計をしていないし、時計代わりだった携帯電話は崖から落ちた時に吹っ飛ばしたらしく見あたらない。感覚的には何十分も経った気がするんだけど、本当のところはまだ数分ってところなんだろうなぁ──とにかく目の前にいる相手が不機嫌そうで、なおかつ拳銃まで持っている状況というものは、どうやら時間の進みを遅くする効果がありそう。
体内時計で一時間四十一分。現実にはスーデルがタバコに火をつけて、それを吸い終わる時間が経過した時、森の中から一人の男が出てきた。
禿頭にサングラス、真っ赤なハイビスカスが描かれたアロハを着た大男。凄いマッチョでアロハシャツがはち切れそうになっている。大男の右手には蛮刀と言うのだろうか、板バネのように大きくて無骨だけど凄くよく切れそうな刀が握られている。それだけでも十分ビビったのに、大男の左のこめかみから顎にかけて裂け目のような傷痕が三本走って、モロ悪役って感じ。怒らせたら無言のまま斬りつけてくるような雰囲気がびんびん。銃を持った不機嫌女だけでも命の危機というヤツがバーゲンセール状態なのに、こんどは刃物大男だ。いまや僕の命は駅前で配っているポケットティッシュよりも軽い存在だろう。ぼ、僕どうなっちゃうんだよぉ……。
大男は蛮刀の背で肩をポンポンと叩きながら近寄ってきた。
「本当にこっちにいやがったのか」
大男は蛮刀をくるっと回すと、腰にぶら下げた鞘に音もなく差し入れ、地面にどっかりとあぐらをかく。
「まいったなぁ。ノールの沼まで行ったのに無駄足だもんな。藪は深いし、山犬に襲われるし、タバコはなくすし散々だ」
大男は首をこきこき鳴らす。
「あたしがこっちにいる気がするって言ったのに、あたしの言葉を信じない方が悪いのさ」
「女のカンなんて信じられるか」
「で、男のカンの結果がそのざまだ。男のカンもアテにならないね。ははははは」
むすっとしたまま黙りこむ大男の肩を叩いて、スーデルは明るく笑う。
「ともかくご苦労さん。まあ、目的は果たしたんだからよしとしよう」
タバコを二本くわえて火を付けたスーデルは、その一本を大男に渡す。
大男は二、三度美味そうに煙を吸いこみ、ゆっくり立ち上がる。唇が焼けるんじゃないかと思うほど根本まで吸ったタバコを投げ捨て、ビーチサンダルのような薄っぺらいサンダルで踏み消す。
大男が僕の前に立った。本当に背が高い。見上げないで真っ直ぐ向いたら大男の胸しか見えない。二メートル近くあるんじゃないのかなぁ。怖ぇ。
「日本人とは珍しい。学ランを着ているところをみると高校生、いや、中学生か?」
「えっ! 日本を知っているんですか?」
「よく知っているぜ。アキハバラ、ナカノ、イケブクロは俺の庭みたいなもんさ。アキハバラは一日おきに行っていたぜ。フィギュアショップに行って、同人誌屋にDVD屋にゲーム屋を覗いて…………」
さっきまでの雰囲気とはがらりと変わり、大男は声を弾ませて指を折りながら彼のプライベートの暴露をはじめる。おまけにマンガ、アニメ、フィギュア、ゲーム、同人誌など、日本の文化をいかに愛しているか力説まで始めた。
秋葉原、中野、池袋って行ったことはないけど、たしかオタクのメッカみたいな場所だったよなぁ。て、ことはこの人オタク? そりゃ僕だってマンガも読むしアニメだって観るのは好きだけど、ここまで熱く語れない。熱中できることがある人がちょっと羨ましいかな。ん? 感心している場合じゃない!
「あ、あの……お話の途中ですみませんが、ひとつ教えて頂けないでしょうか」
「ん?」
熱弁に水を差されたとばかり大男は不機嫌な空気を纏わらせ、両手を腰に当て僕を見下ろす。
や、ヤバイかな。怒っちゃったかな? まさか蛮刀でばっさり、なんてことになるんじゃ。スーデルに助けを求めようと姿を探したら、スーデルは離れた場所でしゃがんで地面をほじくっている最中だった。おーい、何しているんですか? アリの巣でも見つけたんですかぁ?
スーデルに助けを求めるより先に大男が口を開く。
「おい、何が聞きたいんだ。用件を言えよ」
「い、いえ、け、結構です。お話を続けてください」
「どうせ俺の話など面白くないだろう」
「め、滅相もないです。きょ、興味深く拝聴させていただいていますです。はい」
「なにか聞きたいことがあるんだろう、だったらとっとと言えよ! ウジウジしやがって腹が立ってくるぜ」
大男の右手が腰の鞘に伸びかける。
「質問します、質問します」
もうヤケだ。
「あなたはどちら様で、ここはどこで、僕はどうしてここにいるのでしょう?」
「ずいぶんと質問が多いな。スーデルから聞いてないのか?」
「スーデルさんには聞いたんですけど、さっぱり要領が得られなくって」
大男はまだしゃがみこんでいるスーデルの方に顔を向け、
「スーデルじゃしょうがないか」
にやりと笑った。
「俺はフリドリン・フォン・ゼンガー・ウント・リュットヴィッツ。元アメリカ陸軍軍人だ。長くて言いづらいだろうから、略してトムでいいぞ」
どこをどう略したらフリドリン・フォン・ゼンガー・ウント・リュットヴィッツがトムになるんだ?
「で、ここは?」
自称トムは一度言葉を止め、サングラスを外して僕を真っ直ぐ見る。青い目だぁ。本当に外国人なんだなぁ。
「おまえはファンタジーやSFは読んだことはあるか」
「えっ? えぇぇとぉ、有名なヤツなら読んだりアニメで見たことはあります」
急に話を変えて何が言いたいのだろう。
「なら話は早い。ここはファンタジーでお馴染みの異世界だ。おまえは空間の歪みに引っかかってこっちの世界に落ちてきたというわけだ」
えぇぇぇっ! と言いたいところだけど、そんな気が薄々してたよ。見たことのない地形や景色が広がっているんだからさ。これが死後の世界でもない限り、急にこんな場所に来られるはずがない。
「やっぱり」
「なんだよ、驚かないのかよ。つまらねぇな」
トムは禿頭をつるりと撫でる。
「アメリカ軍人ってことは、トムさんも地球から迷いこんだんですよね」
「元アメリカ軍人だけどな」
「で、どうやったら地球に帰れるんですか?」
「たぶんないんじゃないか。少なくても俺は帰り方を知らない」
「えぇぇぇぇっ!」
こっちの答えは本当に驚いた。だってマンガやアニメじゃ事件が起これば魔法使いが異世界から主人公を勇者として召喚して、事件が解決すれば魔法で元の世界に帰してくれるだろう。それが異世界の常識じゃないの? なのに帰れない? 僕は現実世界が好きだったんだよ。異世界なんて来たいわけじゃない! それに……晩ご飯が……すき焼きが…………。
「おい、大丈夫か? すき焼き、すき焼きとブツブツ言っているけど、すき焼きがどうしたんだ?」
乱暴に肩を揺すられた。
「へ? あ、トムさん」
「あ、トムさんじゃねぇよ。うつろな表情でブツブツ言いだしやがって、気持ち悪いヤツだな」
「すみません。ショッキングな事実に意識が混乱して」
「そうかい。ならもう一つショッキングなことを教えてやるよ」
トムはにんまりと表情を歪める。
「あそこでしゃがんでいるスーデルはエルフ、それもハイエルフなんだぜ。その証拠に耳が長いだろう」
エルフ? それもハイエルフ?
「えぇぇぇぇっ!」
「驚いたろう」
トムは嬉しそうに肩を揺らし豪快に笑う。
そりゃ驚くよ。だってエルフだよ。エルフと言えばたおやかで物静かで紅毛碧眼で美男美女で、争いを好まず森の中で自然と共に暮らしているんじゃないの? なのにスーデルといえば、乱暴で短気で色黒で黒髪黒目だよ。
「俺もスーデルの正体を知った時は腰が抜けるかと思ったぜ。ハイエルフっていったら森の哲人とか、高貴なる自然の守護者みたいなイメージだったのに、現実のエルフが軍人崩れの山賊みたいな乱暴者だもんなぁ、夢も希望も萎んじまったよ。いまだから白状するけどな、俺の初恋の相手は日本のアニメに出てきたエルフだったんだよ。綺麗で凛としていて凄い美人だったんだ。なのに現実はスーデルだぜ」
トムはスーデルを指差し、同意を求めるような笑みを浮かべる。
「きついっすね」
なんだかトムに親近感を持っちゃったよ。自分の頬が緩むのを感じながら、うんうんとうなずく。
「それだけじゃないぜ、スーデルのヤツは本当に短気でよ。すぐにケンカしちまうんだ。そのたびに俺が尻ぬぐいだぜ。もう、勘弁してくれって感じよ」
「あのひとの傍にいたらトラブルが絶えない感じですよね」
「絶えないなんてもんじゃねぇよ。すぐに発砲しやがるし、あいつはエルフじゃなくって禍神じゃないかと思うことがいつもさ」
「わかります。僕だって初対面で銃を突きつけられましたもん」
「この前だってよ……おっと、スーデルがこっちに来やがった」
スーデルが軽やかな足取りで近付いてきた。大好物の魚を食べた猫のような満足そうな表情を浮かべている。
「いやぁ、アリの巣のほじくりかえすのは楽しいねぇ。思わず熱中しちゃったよ」
本当にアリの巣ほじくっていたのか!
「スーデルはよぉ、アリの巣を壊すのが趣味なんだぜ。変な女だろう。ありゃ前世はアリクイだったにちがいない」
スーデルを盗み見るようにしながら、トムは背中を丸め小声で言ってきた。
「そうっすね。でもアリクイってあんなに凶暴でしたっけ?」
「普通のアリクイじゃねぇよ。アメリカ軍が南米で密かに研究していた、メス豹の遺伝子を注入されたアリクイのキメラさ。ジャングルの中で迅速に音もなく敵兵に近付いてよ、背後から近寄って耳の穴から長い舌をチュルリと差しこんで脳味噌を食べるんだ。一九八九年のアメリカ軍パナマ侵攻だって、表向きは麻薬王のノリエガ将軍排除と言うことになっているけど、本当は逃げ出したキメラの回収をカモフラージュするためって噂もあるしなぁ」
それ、冗談すよね。でも、なんか目がマジなんですけど。と言うか、アメリカ軍はそんな怪しげな研究をしているんすか。
「トムもユウキもあっという間に仲良くなったじゃない。なにかあったの?」
スーデルはトムと僕の顔を怪訝な表情で見比べる。
「ああ、共通の話題ってヤツがあったからな」
「共通の話題? なんだそれ?」
「たいしたことじゃねぇ。それよりタバコくれよ」
トムはスーデルの質問をさらりとかわす。
うーん、見事。さりげないッス。言えないよなぁ、スーデルの悪口で盛り上がってなんてさ。ばれたら絶対撃たれる。
「で、こいつにはこの世界というものを教えておいたぜ」
いえ、教わっていないんですけど。
「へぇ、大変だったろう。あたしも苦労したよ。ユウキはバカだから何度説明しても理解できないから」
何度どころか、まともに説明なんてされてない!
「男同士なんとかなったよ」
全然なっていないですって。
「ところでフレンオラーンはどこいったんだ? まだ森の中にいるの?」
スーデルは森の方を振り返りキョロキョロと見回している。
「姐御なら服が汚れるから嫌だって言って、スーデルが森に入るのと同時に独りで町に戻ったぜ」
「なにぃ! あのワガママ女は、いつもいつも勝手やりやがって。上官のあたしの命令を無視するとはいい度胸だ。こんどというこんどはただじゃおかねぇ! 帰ったら脳天に風穴開けてやる!」
顔を真っ赤にしたスーデルはホルスターから無骨な拳銃を抜き出し、目にも止まらぬ早さで大木の幹に三発の銃痕を穿つ。
「落ち着けよスーデル。ユウキがこの世界に来ることを察知したのは姐御のおかげだし、無事見つけることもできたんだから」
スーデルは握った拳銃を小刻みに揺らしながら不躾な視線を僕に向けて、
「でも見つけたのがこんなのだぜ。頭は悪いし、弱そうだし。あたしはトムみたいに戦力になるヤツが来てくれるかなって期待していたのに、とんだ期待外れだ」
これ見よがしにため息をつく。
「しょうがないさ。でもな、バカだろうが弱かろうがこいつは異世界の人間だ。異世界の人間であれば使い用は色々あるだろう」
「でもなぁ」
トムの言葉にスーデルはむーっと口をへの字に曲げる。
「アオスタ候は異世界の人間をほしがっていたから、こいつを連れて行けば臨時ボーナスくらい出るかもしれないぞ。金が入ればアルヒの店のツケだって払えるかもしれないぜ」
「アオスタのオヤジがボーナス? いいねぇ、それ」
スーデルはマタタビを前にした猫みたいなキラキラした目で僕を見る。頭のてっぺんからつま先まで、商売人が品定めするような目で。
そんなにジロジロ見られると、くすぐったいんですけど。快感と悪寒が混ざった電流のような不快感が、尻の穴からうなじまではい上がる。僕は平凡が信条の奥ゆかしい人間だから、見つめられることは苦手なんだよ。
「そんなに見ないでください」
「金づるは黙っていろ!」
スーデルは俺を見つめたまま「一〇〇ムング、いや、二〇〇ムングは出すかもしれねぇ」などと呟いている。
「おい、スーデル。そろそろ日も落ちる時間だし町に戻ろうぜ」
トムは大儀そうに伸びをして僕をちらっと見た。
「その前に一応、ユウキの希望も聞いておけよ。俺たちはあくまで志願兵なんだからな」
「トムに言われなくてもわかっているよ」
スーデルはもう一度ため息をつくと拳銃をホルスターに戻し、僕の正面に立ち睨むような視線を投げかけてくる。
「いいかユウキ、おまえには三つ選択肢がある。一つ目は、あたしの小隊に入ること。二つ目は、あたしの誘いを断ってこの世界で一人で生きていくこと。三つ目は、この場で自分の命を絶つこと。さあ、どうする? 死ぬんならこれを貸してやる」
スーデルはブーツに差したナイフを抜き差し出す。細身のナイフだけど刃がキラキラと光を反射していて凄く切れそう。
「ユウキ、死にたくなかったら小隊に入れ。この世界に一人でおっぽり出されたって、のたれ死にするのがオチだ。それに自殺はしたくないだろう」
サングラスをかけながらトムはどうでもいいとばかりに投げやりに言う。
「どうするんだ。あたしが三つ数えるまでに答えろ」
どうするって……どうすりゃいいんだよ。こんなワケの分からない世界に来たかったわけじゃないし、目の前には短気で危ない人がいるし。
「三」
でも独りじゃこの森からだって出られそうにない。
「二」
今晩のすき焼きの肉は僕の分も由香が全部食べちゃうんだろうなぁ……って、そんなことどうでもいいだろう!
「一」
まだ死にたくない。
「ゼロ」
「は、入ります!」
スーデルはにやっと笑ってナイフをブーツに戻す。
「しゃあねぇな、あたしの小隊に入れてやるよ。じゃあ、おまえは今から二等兵だ。隊長のあたしの命令は絶対だからな肝に銘じておけよ。ま、こんなヤツでも下っ端ができればホムスも喜ぶだろうからな」
空っぽになったタバコの箱を握りつぶしたスーデルは、空箱を僕にぶつけ、
「トム軍曹、ユウキ二等兵、宿舎に戻るぞ。今日は金づるの入隊、じゃなくって新兵入隊を歓迎して朝まで飲むぞ、覚悟しておけよ!」
スーデルは楽しそうに命令し、大股で森の中へと入っていく。
「と言うことだとさ。まあ、死なない程度に飲めよな、ユウキ二等兵」
笑みとも困惑ともつかない表情を浮かべたトムは、僕の肩をドンと叩くと「最近肝臓の調子が悪いから深酒はしたくないんだよなぁ」と呟きながらスーデルの後を追う。
ファンタジーな世界で二等兵になるなんて……どうして? 僕がなにか悪いことでもしましたか神様?
【3 深く静かに潜航せよ −Run Silent Run Deep】
ジャングルのような森をさまよい歩き──空を覆うように伸びた木々の枝葉で暗いし、大木が乱立していて視界は遮られるし、シダやツタが絡み合って歩きづらいし、スーデルたちには置いていかれそうになるし、変な虫に刺されて痒いし、転んで泥だらけになるし、散々だったけど──森を抜けると目の前には畑地が広がっていた。背丈の低い作物がどこまでも植わっている。すっかり陽の落ちた畑には人の姿はなく、ぽつんぽつんと置かれた案山子たちが月明かりの中で暗い影をつくっている。
スーデルは森と畑の際で立ち止まったまま、畑地をじっと見つめている。トムは森の古木に寄り添うようにして太い幹に体を預けている。なぜだか右手を蛮刀の鞘に置いたまま。
スーデルがすーっと腰を落とすのと同時に、
「伏せろ!」
腕を引っ張られて、僕は地面に押しつけられた。
「わぁぁ」
柔らかい地面に顔ごと突っこんでしまい、土の匂いが鼻腔や口腔の奥に広がる。
「バカ野郎、声を出すな」
スーデルは猫のように地面にピッタリと張り付いて、片手で僕の口を覆う。
何? 何? 何がどうしたの?
「トム、やるぞ」
「やっぱりか」
スーデルの横に並んで地面にはいつくばるトムは、畑に顔を向けたまま小声で答える。
「トムは右に迂回してくれ」
「迂回ということは、俺は囮役かよ。今日は苦労ばっかで嫌になるねぇ。まあ、体を動かした方が酒が旨くなるから我慢するか」
ぞんざいな物言いだったけど、トムの顔には笑みが浮かんでいた。まるでこれから楽しいことが待っているかのように。
「そういうことだ。あたしには足手まといがいるんだから、せいぜい派手に敵を引きつけてくれ」
スーデルが僕を見て苦笑いのように口の端を歪める。
「囮はいいけどよ、どこで落ち会う?」
「合流地点はエムゲンフルスのカタツムリ岩」
トムは頷くと、
「んじゃあ、ユウキ二等兵の活躍を期待しているぜ」
僕に向かって白い歯をにぃーっと見せ、中腰になって畑の中へと入っていった。
厚い雲が月にかかり畑が闇に沈んだ時、
「いいかユウキ。おまえにはこいつを貸してやる」
スーデルがブーツからナイフを抜き出し、僕の鼻先に突きつけた。
「ここから先、こいつが必要になるからな。けど、なくすなよ。高かったんだから」
「えっ、僕こんなの使ったことないよ」
そりゃあカッターや包丁など刃物は扱ったことはあるよ。でも、スーデルが差し出したナイフは細いくせに両刃で、切り裂くとか突き刺すとか、いかにも禍々しい用途しかない感じの物体だ。何となく触るのが怖い。
「いいから持っていろ」
スーデルの真剣な表情に押されナイフを受け取った。動物の角を細工したナイフの柄は、スーデルの温もりが残っていてほんの少し湿っている。スーデルのような怖いもの知らずがこんなに汗をかくなんて……凄く危険なことが待っているのだろうか。自分の心臓が苦しげに加速していくことを感じながらナイフを握りしめる。
「そろそろトムが動くはずだ」
闇を見通そうとでもしているのか、スーデルは目を細め前を見つめたまま呟く。
「あたしの後をしっかりついてこいよ。あたしと離れたら命の保障はしないからな」
これから何があるんだよ。説明ぐらいしてくれてもいいじゃないか。心の準備があると無いとじゃ全然違うんだよ。と、文句のひとつも言ってやろうとした矢先、畑のずっと前方で光が灯った。
「行くぞ! ついてこい!」
スーデルは言い終わらないうちに跳ね起き駆けだした。細身の体のどこにそんな瞬発力があるのかと思ってしまうほど、スピードがありしなやかな動きで畑の中を突き進んでいく。それもただ走っているだけじゃない。狙撃をかわす兵士のように中腰のまま右に左にジグザグと走る。
なんだか野生の動物のような綺麗な動きだなぁ。って、見とれている場合じゃない。置いていかれたら命の保障が……ま、待って!
「だわぁぁっ!」
スーデルを見習って中腰のまま畑に足を踏み入れた途端、けつまずいて転けた。いや、僕がドジっこスキルを持っていると言うわけじゃない。物理的な障害によって転んだんだ。
何? 目を凝らしてみれば、ツル草に繋がってバスケットボール大の作物がなっていた。カボチャのような色と形と大きさをしている。でも、カボチャほど硬くはないようだ。僕がぶつかったヤツは見事に割れてしまっていて、スイカのような真っ赤な中身が見え甘い匂いを漂わせている。なんという作物かわからないけど、とりあえず僕はこいつをスイカボチャと命名してみた。
さっきスーデルがジグザグに走ったのは狙撃を怖れたんじゃなくって、このスイカボチャを避けていたからなんだなぁ。
「ユウキ、モタモタするな」
畑の真ん中でしゃがんでいるスーデルから、苛立ちの混ざった声が飛んでくる。
「早くこっちに来い!」
ツル草に隠れて見えないスイカボチャを避けながらスーデルの元へと急いだ。
「見ろよ、凄ぇだろう」
スーデルはしゃがんだままツル草をかき分け、
「あたしが見た中でも一番でかいぜ」
バスケットボールを三回り大きくしたようなスイカボチャをポンポンと叩く。確かに他のスイカボチャの倍はありそうだ。
「ユウキ、おまえのナイフでツタを切れ」
はい?
「これだけでかけりゃ食いでがあるぞ」
えっ?
「スーデルさん……あのぉ、僕たちは何をしているんです?」
「見りゃ分かるだろう。タルヴァスの実をかっぱらっているに決まっているだろう」
そっかぁ、スイカボチャはタルヴァスって言うんだ……じゃない!
「僕たちはタルヴァス泥棒をしにきたんですか?」
「ま、そうだ。せっかく森から出たところにタルヴァス畑があったんだ、持って帰らないわけにはいかないだろう」
眉根を寄せたスーデルが何を今さらと言った表情を浮かべる。
「怖い思いをして盗まなくっても、買えばいいじゃないですか。この世界だって泥棒は犯罪でしょう」
と言うか、僕がどれだけドキドキしていたのか知っているのかよ!
「バカ野郎。タルヴァスは貴族や金持ちしか食べられない高級品なんだぞ。あたしたちが買えるわけないだろう。それにここいらの畑はニンゲンの持ち物さ。あたしたちが盗むことはウンデステン臨時政府のためにもなるんだよ」
なに言っているんですか、この人は。ウンデステン臨時政府がなにかわからないけど、泥棒が開き直っているだけにしか聞こえないんだけど。
「文句を言う暇があったら、ツルを早く切れ。なんのためにナイフを貸してやったと思っているんだ」
ナイフを貸してくれた理由はそんなことだったのか。僕の身を案じてくれたわけじゃないんだ。
「早くしろユウキ二等兵。これは上官命令だ」
「で、でも、泥棒は……」
額に硬くて冷たい物が押しつけられる。ごりりと押しつけられた銃口は僕の額に張り付いたように動かない。
「上官への反抗は銃殺だ。なんならここで銃殺にしてやろうか」
笑いの途中で凍りついてしまったような歪んだ表情のスーデルが、妙に低い声で一言一言かみしめて言う。ト、トリガーに力が入っているようなんですけど。マジに殺る気だ。
「武馬悠騎二等兵。ただいまよりタルヴァスのツタを切らせていただきます」
タルヴァスのツタはやたらと硬かった。実はつまずいただけで簡単に割れたのに、ツタの方はまるで登山用のロープのように太くて硬い。いくらナイフの刃をたてても一回に切れるのは数ミリ程度。植物相手に悪戦苦闘する僕を励ますように(?)、スーデルが「グズ! 役立たず! 穀潰し! のろま!」と好き勝手なことを言ってくれる。
ああ、うるさい。さっきから一生懸命切っているだろう。切れないのは僕のせいじゃなくって、スーデルが貸してくれたナイフがなまくらなだけじゃないの! と、文句のひとつも言ってやりたいのは山々だけど、言えば「上官に文句を言うヤツは銃殺だ」とか言われて発砲されるのがオチだし。しかし、本当に切れないなぁ。
「イライラしてきた。ユウキ、そこを動くなよ!」
「へっ?」
ツタを握りしめたまま顔を上げるのと同時に火焔と破裂音が二度響く。
なに? なにが起きたんだ?
「ざまみやがれ。タルヴァスのくせに逆らいやがってよ」
硝煙が立ち上る拳銃を握りしめたスーデルは肩を大きく上下させている。
「思い知ったろう」
凄味のある笑みを浮かべて、タルヴァスの実を軽く蹴る。
タルヴァスがゴロリと転がった。あれだけやっても切れなかったツタが千切れている。
スーデルを怒らせるなんてバカなヤツ。でも、なんだかこれからの我が身を見るようで、少しばかりタルヴァスに同情しちゃったよ。
「ユウキ、モタモタしてないで早くそいつを持てよ。ノンビリしていたらヤツらに見つかっちまうじゃないか」
「はい、はい。わかりましたよ」
ナイフをスーデルに返し、タルヴァスを抱え上げた。腕にずっしりと重みが伝わってくる。たぶん五、六キロはあるんじゃないかな。
「とっととずらかるぞ……ちっ!」
スーデルの言葉は、舌打ちとともに断ち切られた。闇の中に幾つもの青白い光が浮かぶ。ライト? 見つかった? そりゃ銃をぶっ放せば見つかるよなぁ。
「ユウキがノロノロしているから見つかったじゃないか」
見つかったのは僕が手間どったことより、スーデルの発砲が原因でしょう。
やば、光が近寄ってきたよ。でも、ライトにしちゃユラユラした光だなぁ。小さな光点がくっついたり離れたりしていると思ったら、光の強さが増しカーテンのようになって周りを囲った。えっ? みるみるうちに高さ三メートル程の光の壁になってしまった。見回しても一面光の壁だ、出口なんて見あたらない。僕たちは半径一〇メートルほどの光の檻に入れられたようなものだ。ユラユラと輝くだけだけど、光そのものが冷たい感じがして見ていると悪寒がしてくる。
「スーデル隊長、なんですかこれ? どうなっちゃうんですか?」
「こいつはウィル・オ・ウィスプだ。おおかたニンゲンに雇われた術者が、こいつらを夜間ライト代わりに術でこの畑に縛り付けているだろう。侵入者が来たら照らしだすためにな」
ウィル・オ・ウィスプってヨーロッパの怪談とかに出てくる鬼火のことだよなぁ。なんでファンタジーのものが現実にいるんだよ。トムはここは異世界と言っていたけど……そう言えばスーデルはエルフだっけ……ここは本当にファンタジーの異世界なんだ!
「ユウキが心配することはねぇよ。こいつらは光っているだけだから。それより問題はあいつらの方だぜ」
スーデルは前を睨んだまま少し腰を落とし拳銃を握りなおす。
光の壁の向こうに数体の人影が浮かび上がった。頭がやたらと大きくて、てるてる坊主みたい。でも、てるてる坊主と違って手はあるし、その手には死神が持つような大きな鎌が握られている。そいつらは鎌をかかげたままのそりと動いている。光の向こうにいるせいで黒っぽい影にしか見えないけど、ハッキリ見えないぶん不気味さが増してくる。ゆっくりとした動きだけど確実に近寄ってきている。このままじゃ、袋の鼠だよ。どうすればいいのかわからず、ただスーデルを見つめていた。
スーデルは銃を構えたまま小刻みに首を動かして相手の出方をうかがっている。
と、影が一斉にするすると動いた。ウィル・オ・ウィスプの壁をすり抜け姿が……タルヴァスのお面? 目の前にいるのは、目と口の形をくりぬいたタルヴァスを被った怪人物だった。マントのような服からにょっきり出た腕は枯れ木のように細くて長い。こいつ本当に人間? 宙に浮いているようなんですけど。おまけに、お面の中ががらんどうにも見える。
「ぼけっとするな! あたしに後ろに回れ。ユウキは何があってもそのタルヴァスを守るんだぞ!」
僕よりタルヴァスが大事なんですか。さっき入隊したとは言え、いちおう部下なんですよ。少しは心配もしてくれてもいいじゃないですか。
べしゅっ! 怪人物の頭が突然破裂した。
「わぁっ!」
べしゅっ! べしゅっ!
銃声と共に怪人物の頭部が消し飛ぶ。
「うじゃうじゃと鬱陶しい。死にたいヤツから前に出てきやがれ!」
後ろに回っている僕にはスーデルの表情は見えないけど、肩が楽しげに上下して声が弾んでいる。
「そこ!」
振り返りざま拳銃を撃つ。
べしゅっ! 僕の後ろに近付いていた怪人物の頭が粉々に割れ、生暖かい液体が降り注ぐ。頭が無くなった怪人物は地面に倒れヒクヒクと痙攣している。
「ひ、人殺し」
「人じゃねぇ! こいつらはジャック・オ・ランタンだ。知能もないし自我もない単なる操り人形だ。こんな低級邪霊はいくら殺したって罪に問われねぇよ! それよりタルヴァスは無事だろうな?」
「へっ? あ? ぶ、無事です」
理解の範囲を超えた出来事の連続に、いまのいままで自分がタルヴァスを抱えていることさえ忘れていた。
「身を挺してでも守るんだぞ。なぁに、おまえがタルヴァスをかばって死んだら二階級特進させてやるよ。さて、さっさと片づけてトムと合流するぞ」
スーデルは視線を前に向けたまま、腰のマガジンポーチから新しい弾倉を取り出し装填する。
酸鼻極まるとか、阿鼻叫喚とか、死屍累々という単語は知っていたけど、まさか現実にそれを実感する日が来るとは思っていなかった。でも、目の前に広がる光景はまさにそれだ。周りには頭を失った十数体のジャック・オ・ランタンが転がって足の踏み場もない。ジャック・オ・ランタンたちは鎌を振り上げたまま、早足ほどの速度で真っ直ぐ進んでくるだけだからいい標的でしかない。しかし、まだ数十体のジャック・オ・ランタンが控えている。いずれはこっちが根負けしてしまうのは確実だ。
「ちっ! やべぇ、こいつで弾切れだ」
マガジンポーチに手をやったスーデルは、舌打ちすると最後の弾倉を取りだす。
「えっ! どうするんです。まだ、あんなにいるんですよ」
「ジャック・オ・ランタンは畑に入ったヤツを襲うだけだ。術に縛られているから畑の外には出られねぇよ。畑から出ちまえば大丈夫さ」
「だったら、早く逃げましょう」
「あたしはあの光の壁を越えられないんだ」
スーデルは吐き捨てるように言うと、左側から寄ってきたジャック・オ・ランタンを吹き飛ばす。光の檻の中いるジャック・オ・ランタンはこいつで最後だった。さすがにジャック・オ・ランタンも懲りたのか、こちらの出方をうかがうように光の壁の向こうで立ち止まっている。
ヤツらの侵入が一段落したのはありがたいけど、スーデルが気になることを言ったような。
「越えられない? どういうこと?」
「ウィル・オ・ウィスプの光は人間には何ともないんだけど、あたしのように力を持った存在はウィル・オ・ウィスプの魔力と干渉してしまって出られないんだ」
「じゃあ僕は平気なんですね」
「ああそうだ。だけど一人で逃げたら敵前逃亡で銃殺だぞ。そのために最後の一発は残しておくからな」
振り向いたスーデルの瞳には昏い色が浮かんでいる。
「め、滅相もありません。隊長殿を残して一人で逃げることは絶対しません」
「よろしい。それでこそあたしの部下だ」
満足げに頷いた途端、ため息を漏らす。
「しっかし、このままじゃじり貧だよなぁ。やりたくないが背に腹は代えられねぇ……しゃあねぇ、やるか」
ブツブツと呟きながら、スーデルは突然ホルスターを外しはじめる。それだけじゃない、ガンベルトを外し、ブーツの紐をほどき、アーミーパンツまで脱ぎだした──パンツは濃紺と淡い水色のストライプ柄だった。
「カワイイパンツですね」
「見るなバカ!」
怒声とともに銃弾が頬の横をかすめていく。
「ひっ! すみませんでした!」
慌てて回れ右した僕の前にガンホルダーやアーミーパンツやブーツが投げ出される。
「これを持ってろ」
「な、何をするつもりなんですか?」
「あたしはこれから、ユウキの影に入る」
「はい?」
「あたしは他人の影と同化できる力があるんだよ。ユウキの影と同化しちまえばウィル・オ・ウィスプの魔力には干渉されないんだ」
「はぁ……でも、なんで服を脱ぎだしたんです?」
「金属を身につけていると同化できないんだよ」
拳銃やナイフはもちろん、ガンベルトやブーツにも金属のビスがついている。
「でも、ズボンまで脱がなくていいじゃないですか」
「そいつには防刃用に細い金属が編み込んであるからな」
そうなのか。ん? ブラジャーがないなぁ。ブラジャーって金属のホックやワイヤーを使っているんじゃなかったけ? スーデルってノーブラの人だったの? それとも動きやすいようにスポーツブラなのかなぁ。まさかサラシってことはないよなぁ。
「いま変な想像してなかったか?」
背後から冷たい声をかけられる。
「考えてません。ブラジャーのことなんて考えてません!」
「バカ野郎!」
後頭部に衝撃が走る。
痛っ! 銃把で殴らなくてもいいじゃないか。素朴な疑問なのに。
「いいか、これからあたしが言うことを脳味噌に叩きこんでおけよ。あたしがユウキの影に入ったら、あたしの荷物とタルヴァスをしっかり持ってウィル・オ・ウィスプを突破しろ。ただし影に入っている間は、あたしはなにもできないから気をつけろよ」
「でも、向こうにはジャック・オ・ランタンがうじゃうじゃいますよ」
「だから、ウィル・オ・ウィスプを通り抜けたら、あたしにすぐこのポーチと銃を渡せ」
後ろから拳銃と女の子の弁当箱ぐらいの大きさのポーチが差しだされる。
「なんですかこれ?」
「火薬だよ。火薬を固めたものが入っているんだ」
「火薬? あぶ、危ないじゃないですか」
「大丈夫だ。簡単には爆発しねぇよ」
「でも、ウィル・オ・ウィスプって鬼火じゃないですか。火の中を通り抜けようとしたら爆発するんじゃ」
僕はスーデルが差しだすポーチから離れた。
「ウィル・オ・ウィスプの火は陰火だ。物を燃やす火じゃないから心配するな。向こうに出たら、こいつでまとめて吹き飛ばしてやる」
「だったらここから投げて吹き飛ばせばいいんじゃないんですか」
「ユウキは本当にバカだな。これ一個しかないんだから退路を見極めて使わないと、向こうに出ても囲まれちまうだろう。さて、そろそろ行くぞ」
スーデルはタルヴァスの上に自分の荷物を載せていく。
チラチラ見えるスーデルの縞々パンツと、アーミーパンツの上に無造作に置かれた火薬入りポーチが気になって、いま自分が何をしているのかわからなくなってきた。本当に火薬はウィル・オ・ウィスプの火で爆発しないんだろうなぁ。ウィル・オ・ウィスプを通り抜けた途端、待ちかまえているジャック・オ・ランタンに襲われるんじゃないの? スーデルの計画は成功するんだろうか……。
「ユウキ、行け!」
足下から響く声に、条件反射のように足が動きだしてしまった。あぁぁ、もう破れかぶれだ!
「うあああああああああ」
ウィル・オ・ウィスプの中に飛びこんだ。視界が青白い光に満たされる。ウィル・オ・ウィスプは熱くなかった。それどころか冷たい。ウィル・オ・ウィスプに中に入った途端、背筋に氷の塊を押しつけられたような冷気が走り全身に鳥肌が立つ。冷気の中に肉の腐ったような臭気が混ざっている。うわぁ、気持ち悪い。こんな中にいるのなら、まだジャック・オ・ランタンに囲まれていた方がマシだ。生理的嫌悪にも後押しされ走る足にも力が入る。
「ユウキ、今だよこせ!」
スーデルの言葉で自分がいつの間にかウィル・オ・ウィスプを通り抜けていたことに気がついた。でも、加速がつきすぎて咄嗟に止まれない。スライディングのように地面を滑ってスピードを殺すと、タルヴァスを地面に置いてポーチと拳銃を後ろに放る。
「よくやった。ここからはあたしの出番だ」
僕の背後に立ったスーデルが拳銃とポーチをキャッチしてニッコリ笑う。
スーデルは左手に持ったポーチを確かめるように握りしめ周りを見回す。左斜め前で首が止まり、ぺろりと口の端をなめる。
「畑の出口はあっちか。いまから左前の群れを吹き飛ばすから、ヤツらが吹き飛んだらユウキは死ぬ気で走れよ。さあ、いくぞ!」
スーデルは左手を振り上げると、ポーチを勢いよく放り投げた。ポーチは緩い山をつくってジャック・オ・ランタンの群れの中に落ちていく。ポーチが地面につく瞬間、スーデルの拳銃が火を噴き──閃光と轟音に包まれた。
そこから先のことはよく覚えていない。頭の中がガンガンとして自分では何も考えられなくなった。微かに「ユウキ、走れ!」と聞こえたような気がしたから、土埃が舞っている斜め左前に向かって駆けだした。どこをどう走ったのかも、途中で何があったのかも一切記憶にない。
気がついた時は、僕たちは背の高い草が生い茂る川岸で、大の字になって寝転んで互いに笑っていた。
「あはははは、作戦成功だぜ。しょせんジャック・オ・ランタンごときじゃ、このスーデル様には役不足だったのさ」
スーデルは反動をつけて立ち上がり、ぱんぱんとお尻についた雑草を払う。
「さて、あたしの荷物をくれよ。トムも待ちくたびれているだろうから、急いでエムゲンフルスに行くぞ」
鼻歌交じりでアーミーパンツを穿くスーデルの縞々パンツを盗み見ながら、妹の由香も同じようなパンツを持っていたなぁなんて、下らないことを思い出しつつ、この世界が僕の知らない世界だということを改めて実感していた。
【4 ワンス・アンド・フォーエバー前編 −We Were Mercenaries】
「…………まったくユウキがもたもたしたせいでウィル・オ・ウィスプに囲まれちまうし、ジャック・オ・ランタンはワラワラわいてきやがるしよ。ま、あんなヤツらあたしの敵じゃないけど、ユウキがぶるっちまってよ。こいつションベンちびりそうな顔をしていたんだぜ」
「そりゃぁ大変だったな」
トムと合流してからスーデルはずっとこの話ばっかりだ。スーデルがいかに活躍して、どれだけ僕がヘタレだったかをトムに吹聴している。スーデルの横で生返事を繰り返していたトムは歩みを緩め僕の横に並ぶ。
「スーデルの言うことなんか気にするなよ。無事逃げ切っただけでもたいしたもんだ。それにタルヴァスを守りきったんだから、初陣としては合格どころかおつりがくるぜ」
と小声で言って、トムは白い歯を見せてにやりと笑う。
「それにしてもでっかいのをかっぱらってきたな」
「トムさんだって凄いじゃないですか。そんなに大きいのを二つも持ってくるなんて」
僕が両手で抱えているタルヴァスを一回り小さくしたサイズのやつを、トムは片腕だけで器用に二個も持っている。
「まあな。せっかくのタルヴァスだ、見逃すテはないよな。でもよ欲張っちまったから戦いづらいったらなかった。ハッキリ言ってやばかったぜ」
と言いながらもトムには傷ひとつついていない。片手だけで戦って無傷なんて、元軍人って言うのはウソじゃないみたい。
「トム! ユウキ! 男同士でひそひそ話しやがっておまえらホモか! ま、ホモだろうが何だろうけどいいけどさ、たらたら歩いてるんじゃねぇよ」
前を歩いていたスーデルは坂の上で立ち止まり、腰に手を当てて苛立たしげに地面を蹴っていた。
* * *
体内時計で一時間ほど歩いたところで城壁に囲まれた町に着いた。昼間に崖の上から見ていたから町を囲む城壁と分かるのであって、知らずに見ていたら刑務所の壁と思ったろう。高さ五メートルほどの垂直の壁──壁の上には鉄条網が設置され、所々に鐘楼のような付属物が付いている──すべてを拒絶するような威圧感がある。これだけ物々しい城壁なのに、街道に面した部分に幅一〇メートル程の開口部がある。それも扉も城柵もなくぼっかりと無防備に開いているのだ。その不釣り合いさに違和感を覚えた。
城壁の中には太い街路が延び、石造りの建造物が整然と立ち並んでいる。路床は石畳で舗装され、まるで古い町並みを残したヨーロッパの町のようだ(と言ってもテレビで見ただけどさ)。街灯が煌々と輝き、家々の窓からは明るい光が漏れている。いまがこの世界で何時に当たるのか分からないけど、たくさんの人が行き交っている。
普通そうな町だ。よかったぁ。
ほら、スーデルやトムが住む町だから無法者が集まる荒れ果てた町や、軍隊が駐屯する殺伐とした町をイメージしちゃって不安だったんだ。歩いている最中にどんな町なのか聞いても、スーデルはぶっきらぼうに「ふつうの町だ」としか答えてくれないし、トムは「着けばわかる」と言ったままニヤニヤするだけなんだもん。
この町なら真っ当な文化生活ができる……たぶん。
「おい、ユウキ。なに、ぼけっとしているんだ」
「えっ? ここじゃないの?」
「ここはフンの町だ。あたしたちの町は」スーデルは輝く城内を険悪な目つきで一瞥し、開口部に向かってくわえていたタバコを吐き捨てる。「こっちだ」
スーデルは城壁に沿って足早に歩き出し、背中からいらいらオーラを放出しながら街灯もない暗闇の中に入っていく。
「ねぇトムさん。どうしてスーデルは苛ついているの? あれ? トムさん?」
横にいたはずのトムの姿がない。
「スーデル隊長、トムさんが」
……って、スーデルもいないじゃん。
「スーデル隊長! スーデル隊長ぉ! どこですか? スーデル隊長ぉぉぉぉ!」
「あたしの名前を気安く呼ぶんじゃねぇよ。モタモタしてないで早くこっちに来い!」
闇の中から怒声とともにスーデルが姿を現す。と、また闇に沈んでいく。
「あ、待って下さいよぉ」
スーデルの背中を見失わないよう必死に後を追っていたら、闇の先に弱々しい黄色っぽい明かりが見えてきた。やがて光は数を増やし、明かりが大きくなるにつれ、スーデルが目指す場所がぼんやりと見えてきた。
「着いたぜ。ここがあたしたちの町ドゥンスゲルだ」
スーデルは振り返ると、芝居がかった動作で右手を伸ばし町を指し示す。
ドゥンスゲルはフンの町の城壁に張り付くようにあった。
木造と石造りの建物が不規則に混在する町並み。フンの通りとは比べようもない土むき出しの狭い通り。おまけに軒を並べる露店が通りをより狭くしている。街灯はないけど露店にぶら下げられたランプが曖昧な明るさをつくりだしている。露店には食べ物のようなもの、武器のようなもの、雑貨のようなものが──のようなもの、としか言いようがないんだ。バケツみたいに大きな器に取っ手をつけたものや、死神の鎌のようなものが何に使うものかなんてわからない──乱雑に並べられている。おまけに食べ物の臭いと酒の臭いとゲロの臭いが混ざり合って、生温かくって粘りつくような空気を醸しだしている。
怪しげで、猥雑で、活気があって、ひと言でいえば発展途上国のスラムって雰囲気。
ただ、発展途上国の町とは決定的に違うところがあった。それは、通りを埋めるモノの存在だ。それは……角が生えているモノ、牙が伸びているモノ、ヒトの形をしていながら半透明なモノ、羽根のついたモノ。マンガやアニメの中でしかお目にかかれない、奇々怪々な様相のモノが通りを行き来している。マンガなら絶句するシーンなんだろうけど、数が多すぎて現実感がないままぼんやりと見ていることしかできなかった。
異形なモノばかりじゃない。スーデルのようなエルフもいっぱいいる。背が低くてがっちりしたモノはドワーフだろうか。とにかくここは人種の坩堝どころか、魔女の鍋のように怪しげさがいっぱい。比較的人間に近い外観のモノが多いのが救いと言えば救いだけど。
「おい、マヌケ。往来のど真ん中に突っ立ちやがって通行の邪魔だ。ニンゲンだからって偉そうに邪魔しやがって。どけねぇとおめぇの骨を抜いて今晩の薪にしちまうぞ!」
後ろから怒声が飛び……わぁ!
振り返るとそこには、骸骨がいた。ローマ人のように布を巻き付けただけの骸骨が、真っ赤に瞳を輝かせ骨で作ったナイフを掲げている。
「すまねぇなヤス。このマヌケの骨を抜くのは待ってくれないか。こいつはあたしの小隊の新兵なんだよ」
スーデルは僕の頭をこづきながらニヤニヤする。
「あん? スーデルのところの新兵?」
ヤスと呼ばれた骸骨は、僕をジロジロと眺めナイフを布の中にしまう。
「スーデルに捕まっちまったのかい、そりゃ災難だったな兄ちゃん。でも、くじけちゃいけねぇぜ。生きてりゃきっと良いこともあるからよ。ま、死んじまったら俺がおまえさんの骨でナイフを作って大事に使ってやるよ」
僕の肩をポンッと叩くと、ヤスは「可哀想に」と呟きながら雑踏に中に消えていった。
可哀想って……それ、どういう意味? 僕の状況って骸骨に同情されるほどなの?
「スーデル隊長。あの骸骨の言った意味は?」
「気にするなって。ヤスは昔から悲観主義なんだよ。それよりあたしたちの駐屯地に行くぞ」
さっきまで漂わせていたいらいらオーラはもうなく、スーデルは弾むような足取りで通りをかき分けていく。
* * *
スーデルは表通りから暗い路地の中に入っていった。路地にはゴミの山、酔いつぶれたコボルト、走り回るネズミのような小動物。とても歩きづらくて気持ち悪くて不気味なのに、スーデルは気にする風もなくスタスタと歩いていく。そして路地の突き当たりにある一軒の建物の前で立ち止まる。
「ここがあたしたちの駐屯地だ。なかなかシブイ建物だろう」
スーデルは振り返り自慢げに胸を張る。
暗くてハッキリとはわからないけど、石造りの建物はもともと三階以上はあるものだったようだ。けど、三階以上が崩れていまは二階建ての建物になっている。建造当時は白かったと思われる壁には雑多なシミが浮かんで奇妙な模様を作り上げている。どこをどう見たらシブイって感じがするんだよ。単なる廃屋じゃん。とても人間の住む場所には思えない。
なのにスーデルはその建物のドアに手をかけ、
「ただいま〜ぁ! 戻ったぜ!」
重そうな木製ドアを勢いよく開けた。
なにここ? お店?
内部は飲食店のようなつくりだった。背もたれがないイスが並ぶカウンター、使いこんで汚れたソファーが置かれたテーブル席が三つ──たぶん元は喫茶店かスナックのような店だったんだろう。でもここが店として使われていないことは確かだ。だって床には穴が開いているし、テーブルは入り口近くのひとつを除いて荷物が乱雑に積まれて客席としての機能をなしていない。
「あっスーデルさん。お帰りなさい」
カウンターの中から元気な男の子の声がかえってきた。
「お疲れ様」
カウンター席に座った女性が柔らい声でスーデルをねぎらう。
「ホント疲れたよ。はやいとこメシを頼むぜ」
四人掛けのテーブル席に座りこんだスーデルは、テーブルの上に足を投げだし、「にゃぁぁぁ」とネコのような声を漏らして伸びをする。
「急いで作りますね。ところで、このタルヴァスを抱えたニンゲンは誰なんですか?」
中学生くらいの男の子がエプロンで手を拭きながらカウンターの中から出てきた。青みがかった灰色の目がくりっとしていて、茶色い短い髪の毛がぽわぽわと立っているのと、童顔に背が低いのも相まってなんだか子犬を連想してしまう。
男の子は大きな瞳を輝かせ、興味津々って感じで僕を見つめている純真そうな瞳で見つめられると凄く恥ずかしいんですけど。
「おい、ユウキ。そんなところに突っ立っていないで自己紹介ぐらいしろよ。まったく気がきかねぇヤツだよホント」
テーブルの上に置いてあったナッツを食べていたスーデルは、手にしたナッツを僕めがけて投げつける。
「早くしろよ!」
二個目のナッツが飛んできた。
自己紹介をすればいいんでしょう、自己紹介すれば。このまま何も言わないでいたら短気なスーデルのことだ、ナッツの代わりに鉛玉を飛ばしかねないよ。
「えーとぉ、武馬悠騎です。よろしくお願いします」
名前を言ったもののその先が続かない。なにを言えばいいんだろう? これが学校なら好きな歌や趣味でも言えば事が済むけど、この異世界で日本のことが通じるとは思えない。頭を深々と下げ、お辞儀だけで済ましてしまった。
「ボクはホムスです。こちらこそ、よろしくお願いします」
こんな短い挨拶なのに、ホムスは丁寧に頭を下げてくれた。
「わたしはフレンオラーンよ。階級は准尉。よろしくね」
カウンター席の女性も長い金髪を揺らして会釈してくれる。
フレンオラーンさんは美しかった。清廉な水のような美しさと言うべきか、暗い木立の中に一輪だけ咲いた可憐さと言うべきか、自分の語彙不足が悔やまれるほど綺麗な人なんだ。柔らかくウエーブした髪、ルビーのような赤い瞳、不純なものを含まないミルクを連想させる白い肌、優しげに浮かべる笑み。そして長い耳。
長い耳をしていると言うことはスーデルと同様エルフだろうか。そうだよ、エルフというのはフレンオラーンさんみたいに清楚な人を言うんだよ。スーデルが動を代表しているなら──動と言うより粗野とか粗暴代表という方が似合うけど──フレンオラーンさんは静の代表だ。やっぱエルフはフレンオラーンさんのように優雅あってほしいよなぁ。
「それだけかよ。つまらない挨拶しやがって。せめて笑いをとるとか、芸を披露するくらいしろよ」
と、粗暴代表のスーデルが酔っぱらいのオヤジみたいなヤジを飛ばしてきた。
んなこと言われたって、僕は無芸だし特技もない。無理に芸をやれば失敗して冷笑ぐらいはとれるかもしれないけど、初めて会う相手を前に恥を晒す気はない。
「しゃあないな。あたしが代わりに紹介してやるよ。こいつはユウキ二等兵。フレンオラーンの姐御が出現を予知したニンゲンさ。ただしトムのように強くもねぇし、タルヴァスひとつかっぱらうのも手間取るどんくさいヤツだ。わざわざイエドノドゥーハー・イーズデンカの森くんだりまで出向いたのに、とんだ骨折り損さ。どうせ予知するならどんなヤツが現れるか具体的に言ってほしかったよ」
ぽりぽりと小気味いい音を立てながらナッツを食べるスーデルは、「予知」の言葉に力を入れ横目でフレンオラーンさんを見る。
フレンオラーンさんは「わたしは千里眼じゃないわよ」と言ってちょっと頬を膨らませ、僕の前に立つ。
スーデルより十歳以上は上だろうか、シンプルな白いブラウスに濃紺のロングスカート姿ということもあり、落ち着いた大人の女性って感じがする。
「よく見れば真面目そうな感じの子じゃない。きっとわたしたちの力になってくれるわよ。期待しているからねユウキ君」
何でもできそうな気分にさせてくれる笑みだなぁ。さっきの頬を膨らませる子供っぽいしぐさも可愛いけど、今みたいな微笑みはお姉さん的で胸の奥が温かくなる。フレンオラーンさんの頼みなら何でも聞きますよ。そんな言葉が思わず口をついて出そうになった。
「はっ! ユウキが役に立つなんてことは、ウンディーネが砂漠に住む以上にありえないね。おっ、そうだ!」
と、スーデルは反動をつけソファーから立ち上がる。
「ホムス、喜べ。今日からおまえは一等兵に昇格だ。ユウキは二等兵だから、おまえがユウキに新兵とはなんたるかを教えろよな」
「ボクが教えるんですか。自信ないなぁ」
ホムスは大きい目をさらに見開いて、僕とスーデルの顔を交互に見る。
「難しく考えることはねぇよ。雑用係ができたと思えばいいんだよ」
あのぉ、わけのわからない世界に来ちゃって、何が何だか理解できないうちに遊撃小隊に入隊させられて、そのうえ雑用係ですか。ふつう小説やマンガじゃ異世界に迷いこんだ主人公って救世主だったりするんじゃない。なのに僕は二等兵で雑用係? これって不公平じゃないッスか。そりゃ、救世主なんてできないけどさ……。
「えっと、ボクがユウキさんの教育係になったみたいです。改めてよろしくお願いしますね」
ホムスは恥ずかしそうな表情を浮かべながらも右手を差し出してくる。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
スーデルよりホムスの方がまともそうだから、よかったのかもしれない。でも、どうせ教えてもらうならフレンオラーンさんの方がよかったかなぁ。
「悪ぃ、遅くなった」
ホムスと握手するのと同時に、大きな箱を抱えたトムが入ってきた。
「トムさん、どこに行っていたんですか? なんですかその箱?」
ホムスはオモチャを見つけた猫のように全身から「それ何? それ何?」オーラを立ち上らせる。
「ユウキの歓迎会の品物を手に入れるため、ちょいとフンの町に寄っていたら時間をくっちまった」
「フンに行ったんですか」
ホムスが僕の手を握ったまま、箱の中を見ようとトムに近寄る。手を握られている以上、僕もトムのそばに寄ることになる。まあ、箱の中が気になっていたからちょうどよかったんだけど。フレンオラーンさんも箱が気になるのか僕の横に並ぶ。
で、箱の中だけど、大男のトムが胸の前で抱えているから、身長一七〇センチの僕でも上の部分しか見えない。飲み物のビンや食べ物がぎっちり詰まっていることしかわからない。
「あら、凄いわね」
横に並ぶフレンオラーンさんは長身で僕より背が高い。おまけにハイヒールを履いているから余裕で箱の中を覗きこんでいる。
「なんですか? 何が凄いんですか?」
トムの箱を見ようとした最後の一人は──スーデルは興味がないのか、またテーブル席に戻っている──残念なことに背が低かった。ホムスの身長はたぶん一五〇センチちょっと。その身長では何か策を講じない限り箱の中を覗けるはずがない。で、ホムスがとった策はジャンプすることだ。ホムスはトムの正面でしきりにピョンピョンと飛び跳ねる。
あのぉ、手を握ったまま飛び跳ねられると、全身揺さぶられて酔いそうなんですけど。いい加減に手を放してくれないかなぁ。
「ねぇトム、こんなにたくさんの物をどこで手に入れたのよ?」
フレンオラーンさんの問いかけに、トムは悪戯がうまくいった子供みたいな表情を浮かべる。
「ボダルダーチンの店ですよ姐御。俺のタルヴァスが盗品と分かっているものだから、ボダルダーチンの野郎は足下を見て値切ってきやがって。そのとき姐御がボダルダーチンがアルドトゥメン倉庫の政府備品を横流ししているって話を思い出してね。そのことをフンの町のツァグダーにばらすぞと言ったら喜んでこれと交換してくれましたぜ。いやぁ大漁、大漁、姐御の情報には感謝しますぜ。見てくださいよ。酒でしょう、肉でしょう。これだけあればユウキの歓迎会に充分でしょう」
トムは戦利品を読み上げながらカウンターの上に並べていく。十本以上の酒、大きな肉の塊、パン、チーズ、色とりどりの果物。
やっと手を放してくれたホムスは、ずらっと並んだ食べ物を前に「すごい。美味しそうですね。こんないい肉は久しぶりですよ。今日は腕をふるって美味しい料理を作りますね」と感嘆の声をあげる。僕も次々に出てくる箱の中身に感心していた。
タルヴァスって本当に貴重な食べ物なんだなぁ。
こつん! 後頭部に小さな痛みが走る。
なんだ?
振り返った僕の顔めがけて殻付きのナッツが飛んできた。避けようとしたけど額に当たってしまった。
「ユウキ、ぼさっとしていないでホムスの料理を手伝えよ。せっかくトムがおまえのために手に入れてきたんだからな」
「僕の歓迎会と言うことは、僕が主賓なんじゃ……主賓が料理を手伝うのって」
「ゴチャゴチャうるせぇよ。ここはセルフサービスなんだよ。それと」
スーデルはナッツを握ったまま立ち上がる。
またぶつけられるんじゃと身構えたが、スーデルは僕を無視して荷物を積んだテーブルをあさり始める。
「こいつを貸してやるからシャワーを浴びてこい。そんな泥だらけのままで料理をされたらかなわないからな」
スーデルはナッツの代わりに黒い塊を投げてきた。
ん? 黒いTシャツにアーミーパンツ?
「これは?」
「着替えだよ。あたしの持っている服で一番でかいヤツだ。それならユウキでも着れるだろう」
「えっ、スーデル隊長の服ですか?」
「あたしの服じゃ不満かよ」
スーデルは眉を寄せて鋭い視線を投げかけてくる。
だって女の子の服じゃん。確かに僕が着ている学生服は泥とタルヴァスの汁で汚れているし、どこで引っかけたのかズボンの裾は破れていた。だけど……。
妹の由香はよく僕の服を勝手に着ていたよ。女の子が男物の服を着るとだぶだぶなのがかえって可愛いけど、その逆はヘンタイじゃん。
「不満じゃないけど」
「ひょっとして姐御のスカートを借りたいからぐずっているのか。ユウキが女装趣味があるとは思わなかったぜ」
スーデルは腰に手を当てからかうように嫌らしい笑みを浮かべる。
「あら、わたしのスカートでいいのなら貸してあげるわよ。でも、ユウキ君のウエストじゃちょっときついかも。ウエストに余裕のあるスカートを持っていたかしら」
「いえ、結構です!」
真面目な顔でスカートの有無を思い出そうとするフレンオラーンさんを押しとどめる。
冗談じゃない、女装趣味はない。たとえ女装趣味があったとしても、フレンオラーンさんは凄く細い。ウエストなんて僕の半分くらいしかないんじゃないのか。何があったって着られるはずがない。
「ボクが服を貸せればよかったんですけどね。でも、ボクのは小さすぎてユウキさんには無理だし」
ホムスが済まなさそうに言う。
「俺の秘蔵の服を貸してやろうか」
トムはもぅとタバコの煙を吐きだして変な笑みを浮かべる。
「やめとけ。やめとけ。トムの秘蔵は趣味が悪いぞぉ。やたらの目玉のでかい半裸の女を描いたシャツだぞ」
スーデルは渋面を作って、やめろ、やめろと手を振る。
「どこが趣味が悪いんだ。魔女っ娘メイメイちゃんのコミケ限定三〇枚発売のレア物なんだぞ。ネットオークションに出せば最低でも一〇〇〇ドルはする貴重品なんだ」
「あんな気色の悪いシャツを欲しがるヤツがいるなんて、おまえらのいたチキュウには悪趣味のヤツしかいないのかよ」
スーデルは舌を出して肩をすくめる。
「ユウキもそんなのが着たいのか?」
「い、いや。メイメイちゃんはちょっと」
魔女っ娘メイメイちゃんって夜中に放送していたアニメだったよなぁ。確か主人公は小学生の女の子だけど魔法の力で変身して、世界征服を狙う悪のボディビルダーと戦うっていう、壮大なんだか矮小なんだかわからない作品だったような。やたらとパンチラシーンが多くて話題にはなっていたから記憶には残っている。とにかく小学生の女の子の半裸を描いた服を着る勇気はないッス。
結局スーデルの服で手を打つことになった。シャワーに行く時、「メイメイちゃんの良さがわからないなんて、ユウキは本当に日本人か」なんて声もかかったが、当然無視。
なお、貸してくれた服はTシャツはちょうど良かったけど、アーミーパンツは長すぎて裾をまくることに……スーデルって僕と背の高さが変わらないのに……ちょっと悲しかった。
【5 ワンス・アンド・フォーエバー後編 −We Were Mercenaries】
「ユウキぃ、ちゃんと呑んでるかぁ!」
間延びした言葉とともに、スーデルが首に腕を回してきた。
「今日はおまえの入隊祝いなんだから、呑まねぇとタダじゃすまさねぇからな!」
「ちゃんと呑んでますよ。ほら」
臭いのキツイ酒が入ったコップを一気に空けてみせる。三分の一ぐらいしか残っていなかったけどね。
「それ、本当にぃ酒かぁ」
「正真正銘の酒ですよ」
「全然酔ってないじゃねぇかよ。顔色も変わってない」
自慢じゃないけど酒は強いんだ。父も母さんも酒が強い。その両親の遺伝子のおかげか僕も滅多なことでは酔わない。未成年者の飲酒は法律違反なのは知っているよ。だから頻繁には呑まないけどさ、高校生になれば付き合いというものもあるじゃん。
「おまえ中味を入れ替えているだろう。白状しろ」
「く、苦しい」
スーデルの腕に力が入り、僕の首を絞めていく。
あ、お花畑が見えてきた…………綺麗だなぁ………………。
「ほら、ほら、スーデル。遊んでいないで。こっちでゆっくり呑みましょうよ」
危うく三途の川を渡りそうになったところを救ってくれたのはフレンオラーンさんだった。カウンター席に座る僕の背後にへばりついていたスーデルを引き離すと、まるで猫の首を掴んで運ぶようにスーデルのタンクトップを掴んでひょいと持ち上げる。
フレンオラーンさんってめちゃ怪力なんですね……いくらスーデルより背が高いっていっても片手で持ち上げるなんて常識外れと言うか、ありえねぇ状況じゃないッスか。なのにトムもホムスも驚いているそぶりはない。ぶら下げられている当のスーデルですら駄々はこねているが、持ち上げられていること自体には驚いていない。
「は、放せよ! あたしはユウキと呑むんだよ」
「ユウキ君はトムやホムスと男同士の話があるみたいだから邪魔しちゃダメよ。女の子は女の子同士、あっちで楽しく呑みましょうよ」
スーデルはぶら下げられたままジタバタと暴れる。
「嫌だぁ。あたしはユウキに新兵はなんたるかを教えるんだ。それに姐御はもう女の子って歳じゃないだろ……ひっ!」
息を飲むような声を出してスーデルが大人しくなった。いや、フレンオラーンさんの右手の先で、だらーんと力無くぶら下がっている言う方が正しい。
「スーデルったら、女の子同士でも言っていい冗談と悪い冗談があるのよ。あんまり冗談が過ぎるとお仕置きするわよ」
フレンオラーンさんは宗教画の聖母じみた柔らかい笑みを浮かべたまま、左手でスーデルの顔面をがっしりと握っている。左手には力強い筋肉が浮かび上がり指はスーデルの顔面にめりこんでいる。
あのぉ、それってお仕置きのレベルを超えているんじゃ。スーデルの身体が釣り上げられた魚のようにピクピクと震えている。
「あら、大人しくなった。やっとわたしの言うことをわかってくれたのね。素直な女の子は好きよ。じゃあ、あっちで呑みましょうね。それじゃユウキ君、邪魔者はいなくなるからゆっくり呑んでね」
フレンオラーンさんは右手を小さく振ってバイバイする。ぐったりとしたスーデルをつまみ上げたまま。
* * *
「会った時から思っていたんですけど、皆さん日本語が上手いですね。日本にいたことがあるトムさんはともかく、皆さんはどこで覚えたんですか?」
さっきから気になっていたんだ。外国人、いや、ハイエルフのスーデルや骸骨のヤスまで日本語を話しているんだ。どうしてなんだろう?
「はい?」
カウンターの中のホムスはグラスを持ったまま首をかしげる。
「俺もホムスも、いや、誰も日本語は話してないぜ」
顔をしかめながら酒を飲んでいたトムは──顔に似合わずトムは甘党だった。酒は飲めばいくらでも飲めるけど、好きじゃないそうだ──ぐいっとグラスを空けると、横に置いてあるタルヴァスにかぶりつき「甘くて美味い」なんて呟いている。
「へ? 日本語を話していない?」
「ニホンゴってなんですか?」
ホムスはグラスを両手で抱えて、くぴりと酒に口をつける。
誰も日本語を話していない? だったらなんで言葉がわかるんだ? おかしいじゃん。
だって自慢じゃないけど、僕は英語のテストは平均点以上とったことがない。特にヒアリングはいつも赤点すれすれなんだ。だからトムが英語で話していたら聞き取れるはずはない。ましてやホムスたちが異世界の言葉を話していたらわかるはずないじゃん。
「ユウキは窒素ってものを知っているか」
トムはカブトムシのようにタルヴァスに顔をくっつけたまま唐突に聞いてきた。
「知っていますよ。地球上の生物を構成する必須物質で、空気に一番多く含まれている物質でしょう。確か八〇パーセントぐらいが窒素だったと思うけど」
「おっ、よく知っていたな」
トムはタルヴァスから顔を上げ、口の周りについた汁を掌でなで取る。
「そりゃ知っていますよ」
僕のことをバカにしているんだろうか。その前に窒素がどうしたと言うんだよ。
「俺たちのいた地球には窒素が植物の生育や生物の身体を構成する物質として役立っていたよな。地球の窒素と同様に、この世界の空気にはアガールと言う物質が山ほど存在しているらしい。アガールはこの世界の魔力の源であると同時に、ある知能レベル以上の生物が発する言語を統一化する性質を持っているんだそうだ。だから俺たちが別々の言語で話していても相手に通じる。と、言っても俺も聞いた話だけで詳しいことはわからないんだ。アガールについてはホムスに聞いてくれ」
トムは禿頭をなで顎でホムスを指し示す。
突然話しを振られたホムスはグラスを握りしめたまま、トムと僕の顔を見比べている。
「アガールですか。うーん、ボクも長老に聞いただけだから上手く説明できる自信がないですけど」
「それでも俺よりは詳しいだろう。話してやれよ」
トムの言葉に「たぶん」と曖昧な返事をして、ホムスはそれでもいいですか? とばかり、じっと僕の目を見る。
「うん。なんにも知らないから教えて欲しいんだ」
「わかりました。本当に概略のようなものですが話しますね」
「お願いします。ホムス先生」
「せ、先生じゃないですよ。ホムスって呼び捨てにして下さい」
僕の言葉にちょっと照れたように頬を紅潮させ、ホムスはアガールの説明を始める。
「アガールはこの世界には普遍的に存在している物質で色も形も匂いもありません。見えないけれど存在している物質なんです」
ホムスが語ったことを要約すると──
・アガールは地上だろうが水中だろうが、この世界のどこにでもある。
・原理は不明ながらアガールがある限り異種間の言葉が通じ合う。でもテレパシーのようなものではないから相手の心の中までわかるわけではない。
・異種間の言語伝達が可能だが、ジャック・オ・ランタンのような知能の低い邪霊などとは意思疎通はできない。
・アガールは〈魔力〉を持つ者に対して〈魔力〉を発揮させる源となる。それはスーデルの影と同化する能力や、フレンオラーンさんの予知能力が〈魔力〉と呼ばれるものらしい。しかし〈魔力〉には個人差があり皆同一の力を持っているわけではないし、一人で幾つもの〈魔力〉を持っている者もいる。
・魔力を持っている者の多くはニンゲン以外の種である。ニンゲンにも魔力を持つ者はいるが、圧倒的に数は少ない。
・特殊な状況でアガールが欠乏すると〈魔力〉は発揮できない。
「ざっと説明するとこんな感じです。わかりましたか」
「何となくわかった。ねえ、ホムスにも何かの魔力があるの?」
「えっ! え? ええ、まぁ……魔力と言うほどのものじゃありませんけど…………」
「やっぱり魔力があるんだ。どんなの? 見せてよ」
「た、たいしたもんじゃないんです。とてもお見せするようなものじゃないんです」
ホムスは歯切れ悪く答える。なんだかとても言い辛そうだけど、気になって仕方がない。ならば、
「トムさんはホムスの魔力を知っているんですか」
本丸がダメなら外堀からだ。
「ん? まあ知っているぜ」
「教えて下さいよ」
「俺の口から言うより、ホムスに直接見せてもらった方がいいぜ。なんたって面白れえ魔力だからな」
「ちっとも面白くなんかないですよ」
「いいや、あれは面白い芸だよ。地球で見せたら金を取れるぜ」
面白い芸? 面白い魔力ってなんだろう? 凄く見たくなってきた。
「お願いします。見せて下さいよ」
ホムスに向かって両手を合わせる。両手を合わせることがこの世界で懇願の意味になるかはわからないけど、念ずれば通ずるだ。拝んで、拝んで、拝み倒してでも見てみたい。
「こんなにユウキが頼んでいるんだから、もったいつけないで見せてやれよ」
トムも後押ししてくれる。
「で、でもぉ」
「お願いしますホムス先生、お願いしますホムス先輩、お願いしますホムス一等兵殿」
「変な呼び方しないで下さいよ。ボクのことはホムスでいいですって」
「いいえ。見せてくれるまで止めるつもりはないですよホムスさん。本当にお願いしますホムス様」
ホムスはう゛ぅぅと唸り居心地悪そうに顔を下に向ける。
「ホムス師匠。ホムス上官殿」
「わかりました! ボクの魔力を見せますから変な呼び方は止めて下さい」
ホムスはため息とともに言葉を吐く。
「うん、うん。止める、止める」
「見せますけど」
ホムスはいったん言葉を切り、トムに顔を向ける。
「トムさん、絶対ボクを守って下さいよ」
トムはにやにやしながら「だいじょうぶだ、俺に任せておけ」と片手を挙げる。
守る? ホムスの魔力って自分自身に危険が及ぶものなの? なのに面白いってどんな魔力なんだろう。
ホムスはテーブル席にちらっと視線をやると僕の横に立つ。
「トムさん本当にお願いしますよ」
トムに念を押し、ホムスは両手を胸の前で握りしめる。
「じゃあ、いきます」
目の前からホムスの姿がかき消えた。
「き、消えた!」
凄い。消える魔力なんて凄い!
「消えてないですよ。ボクはここにいます……ぎゃぁ!」
ホムスの声が足下から聞こえたと思ったら叫び声に変わった。
「あーん、カワイイ、カワイイ!」
いまさっきまでテーブル席で呑んでいたはずのフレンオラーンさんが、なぜか僕の横にいた──瞬間移動ですか──茶色い毛だらけの何かを両腕手抱きしめてぐりぃぐりぃと顔を押しつけながら。
「く、苦しい。ト、トムさん……た、助けて……」
フレンオラーンさんの胸からホムスの声が聞こえる。
でも、フレンオラーンさんの胸には茶色い毛の塊がいるだけ。
ホムスはどこ?
毛の塊は全身を揺るようにしてフレンオラーンさんの束縛からの脱出を試みている。でも、フレンオラーンさんは逃さないとばかりさらに力強く抱きしめる──スーデルを片手で持ち上げた怪力で。
「ぎゅ、ぎゅるじぃ……だ、ず、げ……でぇ…………」
「姐御、姐御。いい加減にしないとホムスの中味が出ちまいますよ」
トムはフレンオラーンさんの腕を掴み強引に放させようとする……放れない……放れない……トムの両腕はパンパンに膨れあがってぶっとい血管が何本も浮かび上がっている。なのに放れない。当のフレンオラーンさんはトムが腕を掴んでいることなど気にならないようで、「カワイイ、カワイイ」と嬌声をあげ、毛の塊に顔を埋め続ける。
「姐御ぉ正気に戻ってくれ。シャレにならないって」
フレンオラーンの腕にすがりついたトムが苦しそうな声で叫ぶ。
気のせいだろうか、毛の塊がグッタリしてきたような……。
!! 突然、空気が爆発した。
違う。爆発したんじゃなくって何かの音が炸裂したんだ。ただ、音が大きすぎて音として認識できなかっただけなんだとわかったのは、フレンオラーンさんがくたりと床に崩れ落ちた後だった。
「へへへ、気絶したな。さすがの姐御でも頭の横を六〇口径弾がかすめていったら、ただじゃすまないよなぁ」
どう見ても五〇センチは超えているバカみたくでかいリボルバー拳銃を構えたスーデルが、両肩を大きく揺らしながら呟く。
いや、そんなことしたら普通の人間は死にますって。というか、それ本当に拳銃ですか? どう見ても人間の扱える武器じゃないでしょう。昼間持っていたのはアニメの主人公が持っていたようなオートマチック拳銃だったよなぁ。色々と持っているんだ。ひょっとしてスーデルって銃マニアなの?
僕は咄嗟の判断能力を失い、床に倒れるフレンオラーンさんを眺めながら、どうでもいいことばかり考えていた。
「バカ野郎! 室内でツェリザカなんてぶっ放しやがって。耳がおかしくなっちまうだろう! あぁあ、壁に穴開けっまってよ。って、それどころじゃない。ホムス、だいじょうぶか? 生きてるか?」
トムは床に倒れるフレンオラーンさんの腕から毛の塊を引きずり出し、カウンターの上に置く。
それは──犬。どう見ても柴犬の子犬にしか見えない生き物だった。
「トムさん、この犬なんすか?」
「無駄だよ。すぐ横で撃っちまったからトムは当分耳が聞こえねぇよ。そいつはホムスだよ。それに犬じゃない。ワーウルフだ」
シリンダーから排莢しながらスーデルがトムの代わりに答える。
「ワーウルフ?」
ワーウルフって狼男だったよね。でもカウンターの上でのびているのは、フレンオラーンさんの言葉じゃないけどカワイイ子犬。ワーウルフと言うよりはワードッグ。いや、ワーワンコ。
「そう。ホムスはワーウルフだから狼に変身できる。まあ、変身しても狼には見えないけれどな」
「ワーウルフって満月じゃないと変身できないじゃないの? でも、さっき見た月は満月じゃなかったよ」
僕が読んだ本ではワーウルフとかライカンスロープのような人狼は満月の夜だけ変身していた。でも、今日は満月じゃない。おかしいじゃない。
「はあ?」
スーデルはバカにしたような目で僕を見上げる。
「ワーウルフの変身に月は関係ないのは常識じゃない。そんな大きな図体していてこんなことも知らないのか。チキュウっていうのは随分と未開の土地なんだな。ま、ユウキを見てたらそうじゃないかなとは思っていたけどさ」
未開なのはこの世界だろう! バケモノじみたヤツはウロウロしているし、電気だって通っていないじゃないか──と、叫びたかったけど、僕の口から出た言葉は、
「知り合いにワーウルフなんていなかったからさ」
だった。ヘタレと呼ぶなら呼べばいいさ。バカでっかい拳銃をぶら下げた短気女を目の前にして反論できるヤツがいたらお目にかかりたいね。
「ユウキの無知ぶりも問題だけど、まずは姐御が目を覚ます前にホムスの変身を解かないとまた大変なことになっちゃうな。姐御のカワイイもの好きは見境がないからなぁ。しゃあない。ユウキ、ホムスを風呂場に連れて行ってシャワーでも浴びせてきな。そうすりゃ目が覚めて変身も解けるだろう」
スーデルは床に落ちているホムスの服を掴んで僕に投げつける。
ホムスの変身が解けた後は、またも宴会だった。
「絶対守って下さいって念を押したじゃないですか。約束を破るなんて酷いですよ。ボクは死ぬかと思ったんですよ」守ってくれなかったことをグチグチと言いながらもホムスはトムや僕のために料理をつくってくれたし、トムは「姐御のあのスピードにはついていけねぇよ。だから俺に罪はない」と嘯きながらタルヴァスに食らいつく。
正気を取り戻したフレンオラーンさんは、しゅんとなってホムスに詫びると「わたしもう寝ますね」と言って奥に行ってしまった。
そして、フレンオラーンさんの監視がなくなったスーデルは、僕やトムの襟首を掴み「さあ徹底的に呑むぞ。もし呑まないなんて言ったら鉛弾を喰らわしてやるからな」とバカでかい拳銃ちらつかせ、にゃるんと意地悪ネコのような笑みを浮かべる。
僕は十六年の人生で初めてアルコールで意識を失うという貴重な経験をした。
【6 分隊、ゼルゲルデーへ −Down Periscope】
「ユウキさん、もう朝ですよ」
朝? どうやら僕はあのままテーブル席のソファーで寝ちゃったようだ。
「ホムス、おはよ……うっ!」
体を起こした途端、頭が割れるように痛んだ。思わず頭を押さえて前屈みになってしまう。
「どうしたんです?」
カウンターの向こうからホムスが心配そうに尋ねてくる。
「頭が痛い。それに気分も悪い……どうしちゃったんだろう…………?」
頭に走る金属的な痛み、目は開いているのに視野がぼやける不快感、胃袋から重い塊が這い上がってくる苦しさ、暑くもないのに全身から滲みでる粘つく汗、全身がむくむ怠さ。風邪と腹痛がいっぺんに襲ってきたみたいだ。
「たぶん二日酔いですよ。ユウキさん、昨日はスーデルさんに散々呑まされましたからね」
「二日酔い? これが二日酔い?」
二日酔いってこんなに辛いものなのか。
「二日酔いにはガショーンのジュースが一番です。ちょっと待っていて下さいね、すぐ作りますから」
「ありがとう」
ホムスの声が脳味噌に突き刺さってくるのを我慢しながらソファーの背に身体をあずけた。
「よぉユウキ、盛大に不景気な顔をしているな。どうした? 腹減って元気が出ないのか?」
上半身裸でショートパンツ一丁のトムが元気すぎる声で入ってきた。
「ト、トムさん、もう少し声を小さく……」
頭が割れる。苦痛度はホムスの比ではない。頭の中で鐘がガンガン鳴り響いている感じ。
「トムさん、ユウキさんは二日酔いなんですよ。いまガショーンのジュースを作っているところです」
「ああ、それでこの匂いか」
トムが鼻をひくつかせる。
「あれくらいの酒で二日酔いじゃ、この小隊でやっていけないぞ。ま、ガショーン飲めば二日酔いなんて一発で治るから安心しろ」
「できましたよ。はい、どうぞ」
ホムスが小さなコップに入ったレモン色のジュースを差しだす。頭の中の靄が晴れていく爽やかな甘酸っぱい匂いがする。
「ぐっと飲み干せ。そうすりゃ元気モリモリだぜ」
ガショーンがなんなのかわからないけど、この気持ち悪さが治るのならどんなものでも飲んでやる。コップを受け取り一気に飲み干した。
苦っ! 匂いとは違ってメチャクチャ苦い。口の中が、胃が苦い。胃袋が絞られるような苦味に呼吸が止まった。
「ユウキさん、水飲んで、水!」
ホムスが大きなお鍋に入った水を渡してくれた。鍋に直接口をつけ、苦さを薄めるべく飲み続ける。もうどれだけ飲んだのかわからないけど、苦味は消えない。それどころか苦さが強すぎて痛い感じまでしてきた。と、猛烈な吐き気がこみ上げてきてトイレに駆けこんだ。
自分が蛇口になったんじゃないかと思うほどジャージャー吐いて、さらに追い打ちをかけるように襲ってきた肛門への圧迫感に便器に座りこむこと一〇分。
「どうだスッキリしたろう」
トイレから出ると、トムがニヤニヤしながら声をかけてきた。
「え? あっ! 気持ち悪さがない」
頭痛も、吐き気も、倦怠感もすっかり消えている。それどころか身体の中に力が戻り、心地良い空腹感まで湧いてきている。
「ガショーンはよぉ、身体の中の悪いものをすべて出させる効果があるんだぜ。上からも下からしっかり出たろう。俺も初めてガショーンを飲んだ時は驚いたぜ。コレラにでも罹ったんじゃないかと思うほどだった。でも気分が良くなったろう」
「え、ええ」
「シャワー浴びてこいよ。その間に朝飯もできるだろう」
トムに言われて風呂場に向かった。
シャワーから出て戻ると朝食が並び、フレンオラーンさんも来ていた。
「おはようユウキ君。ガショーンのお世話になったんですってね。朝から災難だったわね」
フレンオラーンさんが慈母じみた優しい笑顔で会釈してくれる。
「ええ。シャワーも浴びたし、バッチリ復活しました」
「どおりで。男前が上がっているわよ」
社交辞令だとはわかっていても、美人のフレンオラーンさんにそう言ってもらえると嬉しくなる。だって生まれてから十六年で男前なんて言われたことがなかったんだもん。
「よぉ男前」
「ふぇえ!」
トムの声に変な声が漏れてしまった。心を見透かされたのかと心臓の鼓動が跳ね上がった。
「男前のユウキに朝食前に任務がある」
「任務ですか」
はっきり言って迷惑だ。だってガショーンのせいでお腹がぺこぺこなんだもん。目の前にはホムスが作ってくれた美味しそうな食事があるのに。
「露骨に嫌な顔をするなよ。難しいことじゃねぇ。二階で寝ているスーデルを起こしてくればいいだけだ。今日は巡回任務があるからそろそろ起きてくれなきゃ困るんだよ」
「えーっ、女の子の部屋に入るのは気が引けるんですけど」
妹の由香の部屋の勝手に入ったことがばれてメチャクチャ罵倒された嫌な思い出が脳裏に甦ってきた。べつに変なことをするために入ったわけじゃない。以前貸した漢和辞典を返してもらおうとしただけなのに、僕の人間性を全否定されるほど非難された。貸した辞書をなかなか返してくれなかった由香の方が悪いと思うんだけどさ。とにかく女の子の部屋に入るのは抵抗があるんだ。
「あのぉフレンオラーンさん代わりに行ってもらえませんか」
「嫌よ。スーデルの部屋って汚いんですもの」
香りのいいお茶を飲みながらフレンオラーンさんは素っ気なく答える。
「だったらトムさん、お願いしますよ」
「こう見えても俺は紳士なんだ。寝ている女の子の部屋に入ることなんてできないな」
なにが紳士です。紳士はメイメイちゃんのシャツなんて買いません。けど「わかるよな」ってトムに凄まれたら反論はできなかった。
「じゃあ、じゃあホムス、頼むよ」
「すみません。いまウンドゥクを茹でている最中なんです。火加減が難しくて手が放せないです」
カウンターの向こうから切迫感のある声が返ってきた。
「と言うことだ。とっとと起こしてこいよ」
「で、でも、寝ているところを起こしたりしたら撃たれたりしませんか」
昨日散々ぶっ放しているところを見ているから、これは当然の心配だろう。
「それは絶対にないから安心しろ。もしスーデルが銃を撃ったら俺の命の次に大切な『マジカルプリンセス・ミゥミゥ娘々(にゃんにゃん)』の原画師マルヲが自ら作った世界にただ一体しかないミゥミゥ娘々のフィギュアをユウキにやってもいい」
……その、なんとか娘々って何ッスか? 知らないんですけど。それに僕の命とフィギュアを同列で言わないでくださいよぉ。
「わかりました。行きます。起こしてきます。それでスーデルの部屋はどこなんですか」
「二階の突き当たりの部屋よ」
トムが絶対発砲しないと確約してくれるし、お腹も空いたから、観念して二階に向かった。
スーデルの部屋のドアの前に立って息を整えるとノックした。
……反応なし。
もう一度ノックしたけど反応がなかったのでノブを回した。フレンオラーンさんが「鍵はかかってないから勝手に入っていいわと」と言う通り、ドアはなんの抵抗もなく開いた。
なにこれ?
脱ぎ散らかした服や酒の空き瓶が床を埋めていて、本来は板の間であるはずなのに木目はほとんど見えない。壁には拳銃やライフル銃が飾られ、背の低い家具の上には銃の弾が無造作に置かれている。とても女の子の部屋には見えない。いや、男の部屋だってこんなに凄い部屋は少ないと思う。映画で見た薬物中毒のギャングの部屋を思い出してしまった。
当のスーデルは壁際に置かれたベッドの上で丸くなって寝ていた。カーキ色の毛布がわずかに掛かっていたけど、黒いスポーツブラのような下着が丸見え──やっぱりスポーツブラだったんだ。下は残念なことにジャージ生地のハーフパンツを穿いていた。
スーデルも寝ていると可愛いなぁ。起きていると短気でトラブルメーカーだけどさ。できればこのまま寝ていてくれた方が平穏な日を送れる気がするけど、お腹の方がそれを許してくれない。さっきから自分でもうるさく感じるほど腹が鳴っている……しょうがない。起こそう。
「朝だよ。起きなよ」
「…………」
全然反応がない。
「朝だ! 起きろ!」
声を大きくして呼びかけても、
「…………」
効果なし。本当に幸せそうな顔で寝ている。
「起きてくださいよスーデル隊長」
身体を揺すってみた。
スーデルはぱっと上半身を起こすと真っ直ぐ僕を見る。
「うにゃあ」
「うにゃあ? 寝惚けてないで起きてくださいよぉ」
「にゃぁふっん」
ネコが顔を洗うように、スーデルは拳で顔をこしこしこする。
僕をからかっているのかな?
「今日は巡回があるんでしょう。早く朝ご飯食べて準備しましょうよ」
が、スーデルはベッドから出るどころか、毛布に潜りこんでわずかな隙間から僕を見ている。目が楽しげにキラキラ輝いている。
「遊んでないで出てきてくださいよ」
毛布をとろうと伸ばした僕の手が、
ぱしっ!
毛布の中から伸びてきたスーデルの手に叩かれた。
ネコの真似? 家で飼っているネコのミルクも布団や袋の中に隠れて、僕が手を伸ばすと今みたいに前足を伸ばしてきたなぁ。この世界にネコがいるのかわからないけど、スーデルは遊んでいるようだ。
「朝からなにバカなことやっているんです」
伸ばした手が、
ぱしっ! ぱしっ!
またも叩かれた。
スーデルは毛布の中からほんの少しだけ顔を出し、僕の次の行動を待っているようだ。なんか毛布の中で楽しげにリズムを刻んで腰まで振っているよ。ああ、もう埒があかない。
「隊長! いい加減にしてください!」
朝から遊んでいられるか! 僕はお腹がすいているんだ。無理矢理にでも毛布から引っぱりだしてやる。
「ふにゃ! にゃにゃあ! ふにゃにゃあ! ふにゃにゃにゃにゃあ!!」
「痛っ! 引っ掻くな!! か、囓ったな! ぐへっ……そ、それネコキックじゃなくって膝蹴り…………」
「HAHAHAHA。苦労したようだな」
トムはアメリカナイズされた笑い声をあげる。
「ボロボロですよ。大丈夫ですか?」
驚いた表情のホムスが駆け寄ってくる。
「大丈夫じゃないかも」
引っ掻かれた頬が痛い、囓られた左手が痛い、蹴られたお腹が痛い。自分じゃどうなっているかわからないけど酷い状態になっていることは間違いない。
「乱暴な女でごめんねぇ。で、どうしてスーデルを背負っているの?」
「うにゃぁふん」
背中に張りついたスーデルがしつこくネコの真似を続け、答えになっていない返答(?)を言っている。
「僕が後ろを向いたら突然乗っかかってきたんです」
スーデルの部屋で起こったことをも簡単に説明した。
「なんなんです? スーデル隊長はどうしちゃったんです?」
「こりゃあ、まごうことなき二日酔いだな。あれだけ呑めば二日酔いになるかなとは思ったが見事的中だ。俺が起こしに行かなくて正解だったな」
スーデルの顔を覗きこんでいたトムが安堵の声を漏らす。
「重いでしょう。とりあえずスーデルをそこのソファーに下ろしたら」
「あ、はい」
フレンオラーンさんにそう言われたがスーデルは軽かった。女の子の体重がふつうどのくらいなのかわからないけど、たぶんスーデルは四十キロを切っている。栃木県で農家をやっているお祖父ちゃんの家で担いだ四十キロの豆袋より軽い。でも、スーデルの身長ならもっと体重があってもおかしくないと思うけど、きっとエルフと人間じゃ身体の組成とか違うのかもしれない。
ソファーに降りたスーデルはテーブルに置かれた朝食に顔を近づけクンクン匂いを嗅いでいる。
「二日酔いなんですか、これ?」
「俺が知っているハイエルフの二日酔いはみんなこんな感じだったな。姐御、エルフの二日酔いってこんな感じですよね」
「そうねぇ、ハイエルフはみんなこんな感じになるわね。大きい図体でじゃれまわるから本当に邪魔よね。こらっ、スーデル! ホルホイなんか追いかけないで!!」
スーデルはうみゃと吠えながらピンク色の虫を追いかけている。強いていえばピンク色のカブトムシといった感じの角の生えたすばしっこい虫で、カサカサと床を這い回って風呂場の方に逃げていく。その後を四つんばいになったスーデルが跳ねるように追いかけていく。まるでゴキブリを見つけたネコみたい。風呂場の方でふにゃにゃにゃと騒いでいる。
「あのぉ、フレンオラーンさんも二日酔いだとあんなふうになっちゃうんですか?」
このお姉さんって感じの綺麗な人……じゃなくって、エルフの人もネコみたくなるのかなぁ。
「わたしはダークエルフだからハイエルフのように無様はさらさないわよ。みんなと同じで気持ちが悪くなるだけ。あんなふうになるのはハイエルフだけよ」
フレンオラーンさんはドタバタうるさい風呂場の方に冷ややかな視線を送り優雅にお茶を口に運ぶ。
そうだよなぁ。フレンオラーンさんがスーデルみたくネコっぽくなるところを想像できないもん。
ん? いま何か言わなかったか? いや、言ったよ。ダークエルフって!
「フ、フレンオラーンさんってダークエルフなんですか!」
「そうよ。言っていなかったかしら」
なにを驚いているの? とばかり小首をかしげる。
だって、だって、ダークエルフって肌が浅黒くて、髪の毛は銀髪や黒髪で顔つきなんかもきつくて、邪悪の化身のようで、スーデルのような容姿をしているんじゃないの。
「ユウキ、こっちの世界じゃ姐御みたいなのがダークエルフなんだ。ダークエルフと言ったってダークサイドに堕ちているってわけじゃねぇ。黒魔術的な力を使えるからダークエルフと言うようだ」
トムが耳打ちしてくる。
「そういうことなんですか」
納得。
「それで、スーデル隊長の二日酔いはどうするんです? やっぱりガショーン飲ませるんですか?」
いまの状態のスーデルが素直にガショーンを飲んでくれるとは思えない。僕やトムやホムスで押さえつけて無理矢理飲ませるしかないのかなぁ。
「いや。ハイエルフにはガショーンが効かないし、腹いっぱいメシ食ったらすぐに治るぜ」
「そうなんですか」
ご飯を食べたら治るなんてスーデルらしいというかなんというか。
と、スーデルが戻ってきた。さっきとは違って二本足で立って、口をもぐもぐさせている。
ひょっとしてあの虫を食べてる……って、そんなことはないよね。
「スーデル。朝ご飯できたわよ」
「うにゃん!」
まだネコは抜けていないようだ。
戦場のような朝食──主にスーデルがネコ化していて、朝食を一人占めしようとしたせいなんだけど──が終わると、トムの言う通りスーデルはいつものスーデルに戻った。でも、二日酔いだった間の記憶がないようで、
「メシができたんならさっさと起こせよなぁ。まったくユウキは気が利かねぇな。せっかくの朝食が冷めちまったじゃないかよ」
と、文句を言っていた。
* * *
「今日は二手に分かれて回るぞ。フンの町からゼルゲルデーまでは姐御とトムとユウキで回ってくれ。あたしはホムスとオイロルツォーの町を巡回する。最近はアイマール帝国の動きに不審なものがあるそうだ。せいぜい気を付けてくれ。というか金にならねぇことには首突っこむなよ。その代わり金の匂いがしたら食らいつけ。んじゃ行くか」
スーデルはくわえていたタバコを灰皿に押しつけソファーから立ち上がる。ホルスターに拳銃を差し入れガンベルトを巻く。
「俺たちも準備するぞ。ゼルゲルデーまでならたいした装備はいらないな」
と言いながらトムは荷物置き場と化しているテーブルからショットガンを取りだし、デイパックに散弾銃の弾を詰めこむ。さらにはベルトにリボルバータイプの拳銃を差しこむ。
あのぉ、散弾銃や拳銃がたいした装備じゃないんのなら、たいした装備ってどんなものを持って行くんですか?
「姐御は何を持っていきます?」
「そうねぇ、トムとユウキ君もいることだし手ぶらで行くわ。武器って重いから嫌いなのよ」
スーデルを軽々と持ち上げられるフレンオラーンさんがなにを言うかなぁ。
「ユウキ、おまえはどうする。銃は撃ったことあるか?」
「な、ないッスよ」
冗談じゃない。銃なんて撃ったことはない。というか日本国内で撃ったら一部の例外を除いて捕まるって。
「だよなぁ。日本は銃規制が厳しいもんな。だったらド素人でも扱えるヤツじゃないとまずいよな。なにかあったかな」
荷物置き場をゴソゴソあさりだす。
「おっ、これならいいだろう」
一メートルほどの棒状のものを掘り出してきた。円柱の先にドングリみたいな金属の塊。どこかで見たことがあるフォルムだ。
「なんスか、これ?」
「紛争地でお馴染みの携帯式対戦車擲弾発射器、略してRPGだ。こいつなら少々狙いが不安定でも効果があるし素人にも扱える。引き金さえ引けばまとめてドガンだ。でも、撃つ時は後ろに気を付けろよ。結構な後方噴射があるから人がいたら大火傷じゃ済まないぜ。それに近くに壁とかあると炎が壁にぶつかって自分にくるぞ」
「そんな恐い物嫌ですよ」
「死にたくなきゃ持っていろ。この世界じゃいたるところでドンパチをやっているんだ。この辺りはたまたまアイマール帝国とヨス・ジョラムグイ王国の緩衝地帯となっているからいいが、傭兵崩れの盗賊団もいるし、いつ戦闘が始まるかもわからないんだぞ。ここは平和な日本じゃない」
僕には返す言葉がない。だってこの世界のことはほとんどわからないし、昨日だってスーデルやトムが銃や刃物を持っていても誰も変な顔をしなかった。と言うことは、武器の所持が当たり前なほど危険ってことだよね。でも、武器は恐い。ましてそれを自分が使う姿なんて想像できない。
「そんなに心配しなくていいわよ。フンもゼルゲルデーも平和なところよ。騒ぎなんて起こらないと思う。でも万が一を考えて武器はあった方がいいわ。だからお守りのつもりで持って行けばいいのよ」
「フレンオラーンさんが言うのなら……」
結局僕はRPGを持って行くことになった。このRPGが見た目と違ってけっこう重い。たぶん一〇キロぐらいある。肩掛け用の革ベルトが付いているんだけど肩にめりこんで痛い。トムの話しだと軍隊ではこのRPG本体の他に予備の弾頭を詰めたケースを背負うそうだ。そんなもの背負ったら確実にへばるよ。
と言うかドゥンスゲルからフンの門の前に着く頃にはうっすら汗が浮かんで、忌々しいRPGを放り出したくなっていた。
「とっとと巡察を片づけてゼルゲルデーで買い物でもしますか」
「いいわね。ユウキ君の服も買わなきゃいけないし、たまにはスーデルにも服を買ってあげましょう。あの娘ったらいつも色気のない服ばかりだから、たまにはオシャレさせないとエルフ全体の品位が落ちちゃうわ。トム、タルヴァスを売ったお金まだ残っているんでしょう」
トムの提案にフレンオラーンさんは手を打って賛同する。
「金は残ってますけど、スーデルが着ますかねぇ……ま、ここで話していても始まらない。行きましょう」
手に持っていたショットガンを肩に掛けトムはフンの町の門をくぐる。僕とフレンオラーンさんも続いて町に入った。
城郭内は普通の町だった。石畳の道路を挟んで高層の建物が並び、建物一階には様々な業種が店舗を構え、ガラス張りのショーケースの向こうには商品がこれ見よがしに飾られている。昨日はチラッとしか見なかったから気づかなかったけど、ドゥンスゲルと違ってここには電気が通っていた。店舗内ではいくつもの電球が光り輝いている。まだ明るいから点いてないけど街灯もたぶん電灯だろう。通りは人や馬車がひっきりなしに行き来し、たまに自動車も走っている。第二次世界大戦時代を舞台にした映画やドラマに出てくるようなクラシカルな自動車だ。フンの町を見ているかぎり文化レベルは二十世紀初期ぐらいなのかもしれない。
「おいユウキ、なに見ているんだ、こっちにこい。表通りには用はねぇ。俺たちが行くのは旧市街地だ。こっから先は道が入り組んでいるから迷子になってもしらねぇぞ」
いつの間にかトムとフレンオラーンさんはずいぶん先に行っていた。
路地から路地に抜け、何度も角を曲がって裏通りのような場所に出た。建物の階数は減り全体的に古びている。道幅は狭く、軒を並べる店も表通りと比べるとみすぼらしい。でも、活気はあった。多くの買い物客が押し合いへし合い歩いて、歩行者を押し潰さんばかりに馬車や荷車が走っていく。
表通りには綺麗な服だとか貴金属の工芸品とか高そうな商品が競い合うように並んでいた。それに対してこっちにあるのはいかにも日用っていう物品や肉や野菜の食料品、それに銃やナイフなどの武器が狭い店舗からあふれ出さんばかりに売られている。雰囲気的にはドゥンスゲルに似ている。ドゥンスゲルから怪しさと汚さとを抜いたら旧市街地になるだろう。だけどドゥンスゲルと決定的に違うのはここにいる人たちだ。見たかぎり人間がほとんど。人間と違う種族もいるけど圧倒的に人間が多い。ドゥンスゲルじゃ逆に人間をほとんど見なかったのと真逆。
「フンの表通りにはエルフとかドワーフとか人間以外っていなかったけど、ここにはたくさんいるんですね」
「表通りはニンゲンの住居区だからな」
トムは面白くなさそうな表情で言葉を続ける。
「フンの町の入口には結界が張ってあってニンゲン以外は入れない。ニンゲン以外でこの町に入ってこられるのはニンゲンが出した許可証を持っているヤツか昔から住んでいるヤツぐらいだ。フンのヤツらは選民意識を持っているのさ。アイマール帝国の真似をして白い肌で青い瞳で金色の髪の毛のニンゲンが一等市民、肌や目の色や髪の色が違うニンゲンは二等市民、ニンゲン以外はゴミ同然と差別していやがる。嫌な町だ」
そう言えば表通りにはトムが言っていた一等市民しかいなかった。僕たちが歩いていると不審な目で見ていた。でもそれはトムや僕が武器を持っているからだと思っていた。本当は僕やトムが二等市民で、さらにはニンゲン以外のフレンオラーンさんまでいるから冷たい目で見ていたのか。
「二等市民やニンゲン以外は旧市街に追いやられているってわけさ」
だからなのか。旧市街にいる人は肌の色が濃い。そしてここではフレンオラーンさんの美しさに見とれる人はいても、僕たちを不審な目で見る人はいない。
「ということはフレンオラーンさんは許可証を持っているんですか?」
「持ってないわよ。必要ないもん」
「えっ? 結界が張ってあるって」
「姐御のような魔力の強い人には結界は効かねぇ。だが、スーデルやホムス程度の魔力だと結界にはじき飛ばされてしまう。今日の巡回を二手に分けたのもそういうわけだ」
門にはタルヴァス畑で見たウィル・オ・ウィスプの光の壁みたいなものがあるのか。だからこの町は壁が高くて壁の上には鉄条網まで置いているのに門は開けっ放しになっていたんだな。さっきまではフンには電気も通っていて綺麗で物がいっぱいあって、ドゥンスゲルと比べたら文明的でいい町だと思っていたけど、急に色あせて見えた。
旧市街は迷路のように路地が伸びていた。路地というより建物と建物の隙間と表現したい通路もどきを三十分も歩いた末、金属製のドアの建物の前に着いた。倉庫のように窓もなく、無骨なドアばかり目立つ建物だった。
「メデー、開けろ。いるんだろう。俺だ、トムだ」
トムはドアをガンガン叩く。
「うるせぇな、俺様の家のドアを壊すつもりか」
文句と一緒にドアが開いた。
「ネコ?」
僕の目の前には一メートルほどのネコが二本足で立っていた。全身黒毛で胸の辺りに白い模様がある。おまけに葉巻をくわえて偉そうな感じだ。
「俺様はケット・シーだ。ケット・シーのメデー様だ。覚えておけニンゲン」
メデーと名乗った生意気なネコは、僕を無視して、
「よぉトム、久しぶりだな。おや、今日はフレンオラーン嬢もご一緒でしたか。相変わらずお美しい。そうだ、絶品のザガス料理を食べさせる店ができたんですよ、よろしければこんどご一緒していただけませんか。ただ、店の場所が不便な場所でして、日帰りは難しいのが難点なんですが。なに心配は無用です。その店の上はホテルになっていますから、時間を気にせず美味い酒とザガスを心ゆくまで堪能できます」
フレンオラーンさんに下心いっぱいに挨拶する。
「あら嬉しいお誘いですわね。でしたら、その時には精いっぱいおめかししてスーデルと共に参りますわ」
「げっ、ス、スーデルですか……」
「ええ、スーデルはザガスが大好物ですからきっと喜びますわ。もしわたし一人だけ招待されたと知ったら怒りのあまり、この店に押し入って銃を乱射するでしょうから。あっ、でも好物のザガスを食べたら歓喜のあまり銃を乱射するかもしれないわねぇ。あらあら、どちらにしても乱射になるのね。どうしましょう」
「そ、そうですか……乱射はいけませんよねぇ……」
メデーは目を泳がせ、声がしだいに小さくなる。
「おい、メデー。うちの姐御にちょっかいだそうなんて百年早ぇよ。それより仕事だ」
「仕事ぉ、やる気が起こらねぇな」
トムを一瞥すると、わざとらしく煙をぶわっと吐きだす。
「やる気が起こらないか。ストレスが溜まっているのかもしれねぇな。それは心配だな」
トムはソファーにだらしなく座って葉巻を吹かすメデーを見下ろす。
「そんな時は気分転換がいいぜ。そうだな、スーデルと一緒にザガスを食いに行くなんてどうだ。俺の影に入ればスーデルもフンに入れるから連れてきてやる。なに、美味いザガスを喰って酒を呑んでスーデルと一緒に銃を撃ちまくれば一発で気分爽快間違いなし。今すぐ呼んできてやる」
チェシャ猫じみた笑みを浮かべて入口に向かう。
「ま、待て! 待ってくれ!! 仕事する、仕事をさせてください」
ドアに手を掛けたトムを引きずるように引き留める。
「おや、やる気が戻ってきたようだな。いいことだ」
「うるせぇ。で、今日の用件はなんだ?」
「アオスタのオヤジのところに連絡を取ってくれ」
「電話か? それとも無線?」
「無線だ。それも暗号無線で頼む。通信文は『ニンゲンを入手。いつそちらに行けばいいか』だ。大至急で頼む」
「暗号無線なら代金は三ムングだ。それでいいか?」
「ああ、それでいい」
「じゃあちょっと待ってろ」
トムから紙幣を受け取ると、隣の部屋に入っていってしまった。
「トムさん、ここ何なんです?」
部屋の中央に木製の無骨な机があり、来客用なのかソファーとテーブルがあるだけ。ここはまるで事務所のような作りだった。
「ここは通信屋だ」
「通信屋って?」
「この世界にも電話や無線通信機もあるんだぜ。驚いたろう。だが、俺たちがいた世界のようにどの家にも電話があり、個人が携帯電話で気軽に話すようなレベルまではなってない。この世界で個人で電話を持っているのは金持ちぐらいだ。一般人が電話や無線を使おうとすれば通信屋に頼むしかない。通信屋は依頼者から金を取って電話や無線機を使わせるってわけだ」
「へぇ」
この世界にも電話があるのか、案外と文明が進んでいるんだなぁ。でも、違和感ある。だってファンタジーの世界ってヨーロッパの中世みたいなイメージがあるから。なのに電話や自動車だよ、中世と全然違うじゃん。ましてや僕の肩にはRPG。どこがファンタジーの世界だよ。
「ドゥンスゲルにも通信屋はあるが、暗号無線機はここにしかないからな。値段は高いがここを使うしかないんだ。ま、それに他の用事もあるしな……おっ、キューバ産じゃねぇか、ネコのくせに生意気だな」
トムは机の上に置かれた葉巻を数本アロハシャツの胸ポケットにつめる。
「待たせたな」
少ししてメデーが紙を手に戻ってきた。
「ほら、返答が来たぞ」
その紙をテーブルの上に置く。
紙に書かれていたのは数学記号とアラビア文字が結婚したような文字とも絵ともつかないものだった。メデーが単に字が汚いだけかもしれないけど、とにかく文字には思えない。
「『三日後、アオスタ候の館に出頭せよ』だそうですよ。どうします姐御?」
なのにトムには読めるようで、文面を読み上げ紙をつまみ上げフレンオラーンさんに訊ねる。
「行くしかないわね。命令だからしょうがないわよ」
「ですよね。まあ、観念して行くしかないか」
トムは紙をデイパックに仕舞う。
「トム、用事が済んだのなら帰ってくれ。おまえさんのような無愛想なヤツがいたら怖がって他の客が逃げ帰っちまう」
メデーは不機嫌そうにシッポを振る。
「わかった、わかった。退散するよ。でも、もう一つ教えてくれ。最近のアイマール帝国の動きが知りたい」
「アイマールか」
ふんふん揺れていたメデーの尻尾が止まった。
「アイマール治安警察隊のヘルツギー大佐が暗殺されたのは聞いているか?」
「ヘルツギーというとあの人種差別主義者の巣窟の治安警察隊の親玉だろう。酷ぇヤツだって噂じゃねぇか。くたばったんなら万々歳だ」
しかめっ面になったトムが吐き捨てるように言う。
ここじゃトムは二等市民クラスだ。きっと嫌な思いをしていたんだろう。
「ああ、ヤツは正真正銘のクソ野郎だった。ヤツが死んで悲しむニンゲンは親兄弟でもいねぇよ。ヤツの人徳のおかげか、殺した犯人は捕まっていない。ウンデステンに逃げたって話もある。そのせいでアイマールとウンデステンの国境は厳しく管理されている。なにせヘルツギーの叔父は内務副大臣だから面子もあるんだろうよ」
「犯人がドゥンスゲルに逃げて来ねぇかな。逃げてきたら俺が酒を奢ってやるのによ」
「その犯人なんだが、噂によれば妖精種らしい。それもブテーフのメンバーらしい」
「ブテーフ? 初めて聞く名前だ。姐御、ブテーフって知っています?」
フレンオラーンさんは肩をすくめて首を振る。
「俺も詳しくは知らないんだがな、ブテーフはアイマールの差別主義に対抗してつくられた地下組織だそうだ。リーダーはエレなんとかモリと言うヤツらしいが、そいつがニンゲンなのかニンゲン以外の種なのか、男なのか女なのかもわからない。実は存在してないんじゃないかという噂もある。俺の耳にもこのくらいしか入ってこない。とにかく謎が多いんだ」
「アイマールに地下組織があるなんて初めて聞いたぜ。さすがはメデーだ。他にはなにか情報はないか?」
「あとはたいした情報はないぞ。この町にもアイマールの治安警察や軍のヤツらがたまに入りこんでいるようだが目立った動きはしていない」
「そうか。それならいいんだ」
トムは二言、三言、メデーに話しかけ、僕たちは通信屋を後にした。
そのあと飲み屋や故買屋に寄ってアイマールについて訊ねて回ったが、メデーの情報ほど詳しいものはなかった。
「これ以上フンで聞き回っても進展はなさそうですね」
「そうねぇ」
「んじゃ、ゼルゲルデーに行きますか。今から行けば昼飯時に向こうに着くでしょうし、買い物をする時間も必要ですからね」
「メデーに言われたからじゃないけど、今日のお昼御飯はザガス料理はどうかしら。ゼルゲルデーに安くて美味しいお店があるのよ」
「おっ、いいですね。おいユウキ、ゼルゲルデーに行くぞ。異論はあるか?」
この世界についてなにもわからない僕に異論があるはずはない。
「トムさん、そのゼルゲルデーって近いんですか?」
昨日、イエドノドゥーハー・イーズデンカの森から見下ろした時はフンの町しか見えなかった──ドゥンスゲルもあったけど、フンにくっついているし区別がつかなかった。でも、あの時は気が動転していたし、じっくり観察する余裕もなかったからなぁ。
「ここからだと二〇マイルぐらいかな」
えっ、二〇マイル? 一マイルってだいたい一・六キロだから三二キロじゃん。オリンピック級のマラソンランナーでも二時間以上かかる距離だよ。歩いたら何時間かかるんだろう……あっ、この世界にも自動車があったんだ。
「自動車で行くんですか?」
「いいや。俺たちは車を持ってねぇし、俺たちをゼルゲルデーまで乗せて行ってくれるような物好きもいねぇよ」
「まさか、歩き?」
「スーデルのような体力バカならともかく、俺はロス生まれの都会っ子で頭脳労働者なんだ。二〇マイルも歩けるかよ。汽車で行くんだよ」
「汽車があるんだ」
考えてみれば自動車や電気があるんだから汽車が走っていても不思議はない。でも隣に耳の長いダークエルフのフレンオラーンさんがいて、さっきまでケット・シーに会っていたんだよ。ファンタジー世界の登場人物じゃん。移動するなら馬車とか魔法と言われた方がしっくりくるんだけどなぁ。
「それじゃ駅に行くぞ」
僕たちは路地から表通りに出て、入ってきた門とは正反対にある門に向かった。駅はフンの町中にはなく、東門と呼ばれる門の先にあるとのことだ。
運が良いことに、駅に着いてそんなに待たされずに汽車がやってきた。けど……。
「あのぉ、これ貨車ですよね」
「ああ、その通りだ」
窓もない車両。開けっ放しになっている貨車の扉の向こうには牧歌的な風景が流れていく。粗末な木造の車両内は明かりもなく薄暗く、おまけに座席すらない。僕たちは他の乗客同様、床に直接座って揺られていた。
「僕たちはどうして貨車に乗っているんですか。この汽車にはちゃんと客車もついてましたよね。僕はいいけどフレンオラーンさんは女性なんだから普通の客車に乗せてあげましょうよ」
こんな綺麗な人が貨車に押しこめられているのを見るのは男としてしのびない。貨車に乗っているのはほとんどが男。ドワーフやノームのようなむさくるしい雄ばっか。女性もいるのかもしれないが、フレンオラーンさんのような綺麗な人はいない。汽車賃が幾らなのか知らないけど、僕やスーデルの服を買う金でフレンオラーンさんぐらい普通の車両に乗せられるんじゃないのかな。
「ありがとうユウキ君。でも、貨車に乗っているのはわたしのせいなの。ユウキ君とトムだけならニンゲンだから二等車に乗れるのよ。でもわたしはダークエルフだから客車には乗れないの。そういう規則なの。トムが気をつかって一緒に貨車の乗ってくれたのよ。こんなところに乗せることになってごめんなさいね」
フレンオラーンさんは小さく頭を下げた。
「違いますぜ姐御。一番安いから貨車にしたんです。たかがゼルゲルデーまでの旅、貨車で十分。二等車に乗らなきゃ一人五〇〇ゾース浮くんですぜ。俺とユウキで合わせて一ムングだ。浮いた金で美味いものを食った方がいいじゃないですか。それに二等車じゃタバコが吸えねぇ。でもここならタバコだろうが酒だろうがお構いなし。俺にはこっちの方が楽でいい」
トムはタバコを床に押しつけ消し、吸い殻を扉の向こうに投げ捨てる。
「そうね。ゼルゲルデーに着いたらお腹いっぱい食べましょう」
* * *
小一時間ほどでゼルゲルデー駅に着いた。
ゼルゲルデー駅の駅舎を出た途端、喧噪が襲ってきた。話し声、笑い声、怒声、悲鳴、泣き声、鳴き声。四方八方から聞こえてくるから、どこに注意を払えばいいのかさえわからない。お祭りの最中かと思うほどの人混みが目の前に広がっていた。駅前通りを挟んで様々な店や家が軒を並べている。フンのように一〇階建ての建物や城のような構えの立派な店はなかったけど、低層の建物がどこまでも続いている。それぞれの店には何人ものお客さんがいて、テレビで見た東南アジアのマーケットみたいにけたたましく賑わっている。店々の前、駅前通、店の中には数え切れないほどの大勢の種族がいた。ミノタウロス、オーガ、エルフ、その他にも名前すらわからない種族、そして肌の色や髪や目の色が違う二等市民と呼ばれる人もたくさんいる。
ハーピーの店員と値段交渉をする人間のおばさん、酒屋とおぼしき店の前でタバコを吸いながら談笑するケンタウロスたち、角の生えた女の子とウロコに覆われたトカゲのような男のカップル。ドゥンスゲルで人間以外の種族に慣れたつもりでいたいたけど、数の多さに圧倒されて僕の視線は定まらなかった。
「ここには変な選民意識なんてねぇ。フンから来ると清々するぜ」
大きくのびをしたトムはしみじみと言う。フレンオラーンさんも楽しげな表情だ。
「ユウキ、行くぞ。腹が減ってかなわねぇ。姐御、その店はどこにあるんです?」
「こっちよ」
ザガスとは鮭のような魚のことだった。フレンオラーンさんが勧める料理は美味しく、僕もトムも一心不乱に食べて、気がついた時には空になった皿の山ができていた。
食事の後は僕とスーデルの服を買うことになったのだが……トムが悪趣味なのは知っていたが、フレンオラーンさんもトムに劣らず悪趣味なことがわかった。フレンオラーンさんはシックで大人びた格好をしていて、それがすごく似合っているからファッションセンスはいいと思っていたんだけど、僕に勧める服はホストが着るようなフリルが付いたシャツや、鮮やかな緑地にショッキングピンクの水玉模様をちりばめたジャケットとかばっか……これってイジメっすか? それとも罰ゲーム?
フレンオラーンさんの勧める奇っ怪な服を無視して、無難なTシャツや生地が厚くて丈夫そうなシャツとズボンを選んだ。フレンオラーンさんは不満そうに地味だわとブツブツ言っていたけど、「スーデル隊長の服は買わなくていいんですか?」と尋ねたら、忘れていたわと言って意識は僕から離れてくれた。
ああ良かった。
で、スデールに選んだ服はというと、僕の時とは大違いでマトモな服だった。清楚な感じのする白いワンピースと麦わら帽。腰のところに付いた薄いピンク色のリボンがアクセントになっている。麦わら帽にもリボンが付いていて服とお揃いだ。どこかのお嬢様が初夏の高原で着ていればすごく似合うと思う。だけどスーデルにはどう考えても似合わないとしか思えない。客観的に見ればスーデルは性格を除けば美少女だ。でも、いかにも女の子っていう柔らかな感じじゃなくって、精悍や凛々しさと言った格好いい系の美しさだ。
「姐御、さすがにそれはスーデルには似合わないんじゃないか。どっちかというとこういうヤツの方が似合うと思うんだ」
トムはメイド服としか言いようのない服を差し出す。
「やっぱり女の子はメイド服にネコ耳でしょう。これを着たスデールが『お帰りにゃさいませ、御主人様』なんて言ったらたまりませんぜ。スーデルはネコっぽいから絶対似合うはず。それにああいう勝ち気のヤツがメイド服を着るアンバランスさがそそるんだよなぁ。ねぇ姐御、どうせ買うのなら、これにしましょうよ」
メイド服を握りしめたままトムが力説する。
「トム、言いたくはないけど、あなた趣味が悪いわよ。スーデルに似合うわけないでしょう」
「お言葉ですが、姐御こそセンスがないですよ。スーデルがそんなお嬢様みたいな服が似合う相手ですか? スーデルが同じ服を着ていると知ったら世の中の本当のお嬢様は確実に全員自殺しますぜ」
どっちもどっちだと思うんだけど、フレンオラーンさんもトムもひこうとはしない。自分の選んだ服の良さを熱弁し、相手の服を貶す。フレンオラーンさんに対しては丁寧に話すトムも、これに関しては譲れないようでメイド服を片手にツンデレ属性のスーデルが恥ずかしそうにする「萌え」について熱く語る──ツンデレと言うより粗暴とか暴君という言葉が似合いそうだけど。
「ユウキ君!」
「ユウキ!」
いきなり僕の名前を呼ばれた。
「わたしとトムの服、どっちがスーデルに似合うと思う? はっきり言ってちょうだい」
「遠慮はいらねぇ。本当のことを言えよ。ウソを言ってごまかそうとしても、姐御はウソを見破る能力を持っているから無駄だぞ」
えっ! 二人とも似合うと思いますよ──微塵も思っていないけど──とでも言って、お茶を濁そうと思っていたのに。だって二人とも血走った目で怖いんだよ。
「で、どっちなの?」
「はっきり言えよ!」
う゛う゛う゛。どっちもスーデルに似合わないと思うし、スーデルが気に入ると思えない。
えーい、ままよ!
「どっちも似合わないと思います」
ああぁ、本音を言っちゃった。
「だったらユウキ君はどういうのがスーデルに似合うと思っているの」
「そうだ。そこまで言うのなら似合うと思う服を持って来いよ」
フレンオラーンさんもトムも目が真剣。ここで服は思いつきませんなんて言ったら確実に殺される。とにかくスーデルに似合いそうな服を持ってこなきゃ。命の危機を感じながら女の子向けの服を置いているコーナーに行った。
「いつもの服と変わらないじゃない」
「姐御の言う通りだ。面白味も目新しさもねぇな」
僕が選んだ服は上着はデニムのような生地で作られたジージャン、同じ生地のミニスカート、インナーにダークブルーのタンクトップ、胸のところにワンポイント的に幾何学的な模様が入っている。そしてボトムに黒のニーソックス。
「でも、スーデル隊長は活動的だから、フレンオラーンさんやトムさんの選んだ服みたいのじゃなくって、こういうヤツの方が好むと思うんですけど」
「そんなのいつもの服と変わらないから意外性がねぇ」
「そうよ。今日はスーデルにオシャレさせるために来たのよ」
「そうかなぁ。これだってじゅうぶんオシャレだと思うんです。オシャレって着る人に似合うことが大事なんじゃないですか。フレンオラーンさんやトムさんが選んだ服が似合うとは思えないッスよ」
「昨日来たばかりのユウキのくせにたいした自信だな」
トムはそう言うけど、ぜったい似合うのは僕の方じゃん。
「それならばスーデルに選んでもらいましょう。みんなが選んだの買って、あの娘に決めてもらうのよ。そうすれば誰がファッションセンスあるかわかるでしょう」
「いいッスね。でも俺が勝つのはわかりきってますけどね」
「あら、言ってなさい。真実は一つだけよ」
トムとフレンオラーンさんは互いに変な笑みを浮かべてにらみ合っている。
「ユウキ、荷物持ちはおまえな」
「えっ!」
結局、三種類の服を買うことになった。服も三着となると重くはないがちょっとした荷物だ。どうせ僕が勝つのは確実なのに無駄なことするなぁ。
「それじゃあ、巡察に行きますか」
【7 友よ、フレンオラーンに抱かれて −Gardens of Stone】
「自分で見たわけじゃないから確実とは言えないけど、国境地帯に駐屯していたアイマール帝国軍が増えているって話よ。ウチに来るお客さんが言うには、ヘルツギーの事件で国境には帝国軍の他にも治安警察隊や国境警備隊が増員されて簡単には入国できないそうよ」
「貿易商のザルダルって知っているか? えっ、知らない! まぁいいや。ザルダルが教えてくれたんだけど、アイマールの北にあるガザル・ドール鉱山で騒ぎがあったらしいぜ。けっこう大きな騒ぎで軍隊出たらしい。ガザル・ドールだけじゃなく、他でも騒ぎがあって軍隊が火消しにかりだされたって噂だ」
「ほら、最近アイマールじゃ擾憂が多いじゃろう。なんでもブテーフという組織が扇動しているらしい」
「この町でもアイマールの治安警察の野郎を最近やたらと見かける。当人は治安警察とわからないように変装しているつもりらしいけどバレバレ。あいつら偉そうにしていて本当に腹が立つんだ」
「ヨス・ジョラムグイ王国の動き? 動きねぇ……内務大臣派と長老派のゴタゴタで身動きがとれない状態らしい。もちろん戦争なんてもってのほかだろう」
「この前の戦争でヨス・ジョラムグイはボロ負けしてアイマールにフドゥー地方を占領されたろう。あの戦の敗因は異界のニンゲンにあるとわかったらしく、最近はやたらと召喚魔法を使って異界のニンゲンを呼びこもうと躍起になっているってさ。次こそ勝つ気満々。でも、召喚魔法なんて百回やっても一回成功するかどうかわからないのにご苦労なこった」
いろいろな種族が自由に活動しているからゼルゲルデーは交易が盛んで、入ってくる情報もフンとは比べものにならなかった。そしてなによりフレンオラーンさんの顔の広さがものを言った。水商売の女性たち、雑貨商、地回り、古書屋の老人、飲食店の店員。様々な職種の人と顔見知りで色々と情報が集まった。
「こんなところか。いろいろあるようだけど俺たちに直接関係なさそうだな」
ココアのように甘い匂いをさせるお茶を飲みながらトムはひとりごちる。
僕たちは情報収集の途中で喫茶店でひと休みしていた。
「トムさん、昨日から気になっていたんですけど、僕たちの身分ってウンデステン臨時政府アオスタ候麾下遊撃小隊と言うことになっていますよね。で、この臨時政府って何なんですか?」
「前にも言ったろう。ウンデステンはアイマールとヨス・ジョラムグイの緩衝地帯だって。元々は小国が乱立する地帯だった。けど、この前の戦争でこの辺りも戦渦に巻きこまれ小国のほとんどが消滅した。アイマールやヨス・ジョラムグイが吸収合併もできたと思うんだが、新たな国境線を引くとなるとまたも紛争が起こる。そこで大国同士の妥協の産物として互いの国境を接しないために独立国をつくらせることにしたのさ。この地方で一番勢力を持っていた領主ユルンヒローグチをトップに据え小国の領主たちを組み入れてつくった国がウンデステン。ところが中にはユルンヒローグチがトップであることが気に入らねぇヤツもいるんだ。そういうヤツらが集まってできたのが臨時政府だ。ユルンヒローグチから見れば反政府組織なんだが、お互いたいした軍事力がない上に大国の思惑もあって、いがみ合ってはいるが直接的な戦争も起こらないで今に至っているのさ」
なんだか難しいことになっているんだ。
「そのおかげでわたしたちも仕事があるのよ。ウンデステン政府はアイマール寄りで、臨時政府は反アイマールで相容れないのよ。だから、わたしたちのような傭兵を使っているの」
「えっ、僕たちって傭兵だったんですか」
スーデルはアオスタ候麾下遊撃小隊っていうから正規軍かと思っていた。そりゃメンバーがスーデルをはじめ凄く怪しくて変だなぁとは思ったけどさ。
「フレンオラーン。話がある」
僕たちがお茶をしていることころに凄い美人が声をかけてきた。
冷たい印象を与えかねないほどの透明感のある金色の瞳、白磁のような透明感のある肌と真っ赤な唇。フレンオラーンさんも美人だけど、この人は美しさの種類が全然違う。蠱惑的とでも言うのか、見ているだけでクラクラしてくる。
「あら、ヘーンツェルじゃない。久しぶりね。でもどうしたの? まだこんなに日が高いのに出歩くなんて珍しい」
「いま、この店の上に住んでいる。だから外に出なくてもこの店には来られる」
ヘーンツェルさんは僕とトムの方に視線をやって何か言いにくそうに口を開く。
「この二人……」
「ああ、この二人なら安心していいわよ。二人ともニンゲンだけどわたしの仲間で信用できるわ」
そう言うと僕とトムを紹介し、
「この娘はわたしの古い知り合いでバンパイアのヘーンツェルよ」
ヘーンツェルさんを紹介してくれる。
僕たちのテーブルに着いたヘーンツェルさんはお茶を注文すると黙ってしまった。
スーデルやフレンオラーンさんで美人は見慣れたつもりでいたけど、これだけの美人が黙ったまま目の前にいると緊張して心臓がバクバクする。トムも表情こそ変わらないけど、やたらとタバコを吹かしているところを見ると落ち着かないのかもしれない。
「ズーフを覚えている?」
お茶が来てやっと口を開いてくれた。
「ええ覚えているわよ。久しく会っていないけど、相変わらず元気に世界中を回っているんでしょうね。いまはどこにいるのかしら」
「戻ってきた」
「ここに戻ってきたの?」
「少し前に」
「それで話って、ズーフのことなの?」
ヘーンツェルさんは小さくうなずいた。
「この前、ウチの店にズーフのことを尋ねにニンゲンが二人来た。ニンゲンは『ズーフは今どこにいる? どこに住んでいる? 最近見かけていないか?』ってしつこく聞いてきた。その二人から凄く嫌な感じがしたから、私は『知らない。見てない』って言った。店長が言うには二人はアイマール治安警察隊らしい」
そこまで一気に話すとお茶に口をつける。
「でも、本当は昨日ズーフに会った。近いうちにまたこの町を離れると言っていた」
「治安警察隊に追われていて逃げるって言うこと?」
「わからない。仕事かもしれない」
首を振ったヘーンツェルさんはフレンオラーンさんをじっと見る。
「ズーフはあなたに会いたいとも言っていた。あなたがこの店にいる聞いたので伝えに来た。用件は伝えた」
そう言うと、ふらりと立ち上がり店の奥へ行ってしまった。
「別嬪さんだったけど、えらく変な話し方だったなぁ」
緊張が解けたようなのんびりとした声でトムがつぶやく。
「たぶん寝ぼけていたのよ。ヘーンツェルはバンパイアだから、普段なら太陽が出ている間は寝ているのよ。夜の彼女は話も上手くてお客さんの評判もいいわ。今のあの姿を見ても信じられないでしょうけどね。うふふ」
と、フレンオラーンさんは笑う。
「それにしてもズーフがわたしに会いたがっているって何かしら?」
真顔に戻ったフレンオラーンさんはわずかに眉を寄せる。
「フレンオラーンさん、ズーフさんって何をやっている人なんですか? さっきの話だといつも出歩いているみたいだけど」
「ズーフは運び屋よ。表向きは旅商人ってことになっているけど、本当は禁制品を運ぶ仕事をしているわ」
「ふーん、密輸屋か。だったらいろんな国の裏情報にも詳しいだろう。まだ時間もあることだし、その人も姐御に会いたがっているようだから会いに行ってみませんか?」
「でも、ズーフの家って離れたところにあるのよ。この町の外なの。行くのが大変だわ。ヘーンツェルにわたしたちの駐屯地を教えておけば向こうから来てくれると思うのよ」
フレンオラーンさんは手を振って遠慮する。
「いや、せっかくゼルゲルデーに来てるんだし、行きましょうぜ姐御」
「そう。なら行ってみましょうか」
* * *
「ズーフの家はこの川の上流にある共同墓地のところにあるのよ。ここまで来ればあと少しで着くわ」
ゼルゲルデーを出た僕たちは町の側を流れる川に沿って歩いていた。昼なお暗いという言葉が似合うほど深い森で人通りもない。すぐそばに川が流れているはずなのに見通しがきかず川音しか聞こえない。
小一時間も歩いたろうか、森の先に明るさが見えてきた時、
「ちょっと待て! なんか様子がおかしい。姐御たちはここで待っていてください」
トムが腰をかがめて森の出口に向かう。
僕は側に生えている大木に身を寄せ辺りをうかがう。
遠くの方から乾いた破裂音が響いてきた。
「ユウキ君、これ銃声よ。何があるかわからないからRPGを用意しておいて」
フレンオラーンさんも木の陰に身を隠す。
「姐御、ユウキ、無事か?」
「ええ、わたしたちは平気。で、何があったの?」
「墓場の向こうにある小屋がガルムの群れに襲われていた。あの小屋ってズーフの家ですよね。中から反撃しているけど、このままじゃドアや窓は破られる」
トムはデイパックの散弾をショートパンツのポケットに詰めこみながら言う。
「どうしてガルムがいるの? ガルムは誰かが召喚しなきゃ地上にいるわけないわ」
「そういや、ニンゲンが一人いたなぁ。たぶんそいつが召喚師でしょう」
「ど、どうしましょう」
珍しくフレンオラーンさんが動揺して声を詰まらせる。
「どうもこうもないっすよ。ズーフを助けにいくしかないでしょう。ユウキ、余計な荷物はそこいらに隠しておけ。おまえはRPGだけ持ってくりゃいい」
「えっ! えっ!! 戦うんですか! ガルムって何なんですか?」
「魔犬だよ。目が四つあるでかい犬だ。いいからついてこい!」
トムがショットガンを腰だめにした姿勢で走りだし、慌てて僕とフレンオラーンさんが後を追った。
「あ、あんなにいるんッスか」
森の出口の藪に身を隠した僕の目の前には信じられない光景が展開していた。
土饅頭のような墓が続く開けた土地の端に小屋があった。そしてその小屋を大きな獣が囲んでいる。
あれがガルム?
見た目は犬なんだけど大きさが全然違う。牛並みのサイズだ。そんなばかでかい獣が少なくても六匹いる。いや、七匹だ。一匹は地面に横たわったままぴくりとも動かない。撃ち殺されたのかもしれない。
「いいかユウキ。おまえはあの手前の群れに向かってRPGをぶちこめ」
「当てる自信ありませんよぉ」
僕は日本の平凡な高校生なんだ。こんなもの当てられないよ。
「俺も当たるなんて都合のいいことは考えてねぇよ。とにかくRPGを撃ったら小屋まで死ぬ気で走れ。おまえらが小屋に入るまで俺が囮になってやる。姐御はガンドを撃てましたよね」
トムは前方を睨みつけたまま指示を出す。
「撃てるけど、ガンドじゃガルムは倒せないわよ」
「いいんですよ。相手の気を逸らせれば御の字です」
「で、でも、RPGって一発撃ったら終わりなんでしょう。小屋に入ってからどうすりゃいいんです?」
「ああそうだったな。姐御は魔法があるからいいとして……しゃあねぇ。これ貸してやるよ」
腰に差していた拳銃を渡してきた。
「安全装置は外してあるから引き金を引けばいい。でも弾が六発しかないから無駄に使うな」
ここは嫌がっている場合じゃないことはわかっているんだけど、本物の拳銃、それもすぐ弾が出る状態の拳銃を渡されて手の震えが止まらない。RPGはなじみがなさ過ぎて武器って感じはしないけど、拳銃はテレビなんかでよく見るだけに怖い。
「いまから二〇数えたらRPGを撃ちこめ。俺は向こうの茂みから攻撃を仕掛ける。いいな。二〇だぞ。数えろ!」
トムは腰を低くしたまま音もなく茂みに入っていく。
「ユウキ君。RPGを撃つ時は先を下に向けちゃだめよ。心持ち上に向けてね」
心の中で数を数えながら、フレンオラーンさんの言葉にうなずく。
……十五……十六……十七……十八……十九……二〇!
肩を揺さぶられるような衝撃と身体が前に押しやられるような力を感じた。
次の瞬間、墓地の中央に土煙が上がった。ガルムの巨体が一匹宙に舞ったけど致命傷を与えられたかなんてわからない。
「ユウキ君、行くわよ!」
フレンオラーンさんのかけ声とともに、RPGの発射装置を放り投げ地面を蹴った。
走りだすと同時にトムが飛び出してきてショットガンをぶっ放す。
「こっちに来ないで!」
こっちに気づいて駆け寄ってきたガルムに、フレンオラーンさんは走りながら右手の人差し指を向けてガンドを撃つ。ガンドは北欧の呪術で指さした人間に呪いをかけるものだったはず。呪いなんて猛獣に効くんだろうか。
「ぎゃん!」
まともにガンドを受けたガルムが顔を振りながら飛び退く。
ガンドって効くんだ……。
「きやがれファッキンドッグ! 俺様がてめぇらをミンチにしてハンバーグにしてやるぜ。まとめてかかってこい!!」
飛びかかってくるガルムを避けながらトムがショットガンを乱射する。一匹のガルムが腹から血を吹き出して倒れる。トムは飛びかかってきたガルムの鼻面にショットガンの銃尻を叩きつけ、転がりながら大きな土饅頭の陰に入る。
「装弾!」
トムの大声が空気を振るわせる。
「ユウキ君、撃って! トムが弾を込めるまで援護するのよ」
立ち止まったフレンオラーンさんがガンドを連発する。僕もわけがわからないまま拳銃の引き金を引いた。
拳銃って凄い音がするんじゃないの? 僕の耳には何の音も聞こえない。ただ、銃を握りしめた両手に経験したことがない衝撃が走った。
「ユウキ君、右を撃って!」
狙いなんてつかない。撃った弾がどこに飛んでいったのかもわからない。でも、トムの方に向かっていたガルムの一匹の方向を変えさせる効果はあった。
「完了! 姐御、ユウキ、行け!」
土饅頭から飛び出したトムが小屋を指差す。
駆けだした僕らに向かってガルムが突進してくる。
「頑張って! 死ぬ気で走るのよ!」
フレンオラーンさんの言葉を裏切って僕の足は思うように動いてくれない。
「伏せろユウキ!」
トムの怒声に地面に身体を放り投げた。
僕がさっきまでいた辺りを大きなガルムが飛び抜け、空中で頭が吹き飛び血をまき散らしながらべちゃっと地面に落ちる。僕の顔にも服にもガルムの血が降りかかった。
怖い。怖い。怖い。
「ユウキ君、左!」
「逃げろバカ野郎!」
すぐ側にガルムの巨体があった。
「ユウキ君!」
「ユウキ!」
逃げなきゃ。逃げたい。なのに腰にも足にも力が入らない。嫌だ。死にたくない。嫌だ、嫌だ、嫌だ!
目をつぶったまま何度も引き金を引いた。
死にたくない。死にたくない。死にたくない。
「よくやったわね」
へ?
目の前に右側の顔を半分削られたガルムの死体があった。
あ……当たったの?
長い舌をでろりと口蓋から飛びださせ、左の目が虚ろに僕を見ている。
僕が殺したの? 僕が殺しちゃっちゃの? 僕が……急に世界が色を失っていった。
「ユウキ君行くわよ……ユウキ君? どうしたの? 怪我したの? しっかりして。しょうがないわね……」
遠くでフレンオラーンさんの声が聞こえていたと思ったら、右頬にものすごい衝撃がきた。
叩かれた?
「しっかりしてユウキ君。今ここで腑抜けていたら死ぬのよ」
怖い表情のフレンオラーンさんが僕の両肩をつかんで揺さぶる。
「で、でも、僕が殺しちゃった……どうしよう……」
全身が柔らかく温かいものに包まれる。
フレンオラーンさんが……僕を抱きしめていた。全身のこわばりを溶かしてくれるような心地よさ。
僕は……僕は何をしていたんだ? 世界に色が戻った。
ガルムのうなり声と銃声。飛びかかってきたガルムを転がって避け、転がりながらショットガンを撃つトム。
現実があった。
「いい。あなたが今しなきゃいけないことは生き残ることなの。生き残った後なら後悔でも反省でも好きなだけすればいいわ。でも今は戦いなさい。わかったわね!」
僕から離れたフレンオラーンさんはじっと僕の目を見る。
「は、はい」
「目に光が戻ってきたわね。いい子ね。じゃあ行くわよ」
こんどは左頬を優しく叩かれた。
「ズーフ!」
室内はメチャクチャだった。窓は割れ、家具は倒れ、石造りの壁が崩れているところもあった。床には頭を撃ち抜かれた男の死体、窓際の壁にもたれかかる血だらけの羽の生えた老人。本当は白い羽だったのだろうが今は赤黒く染まっている。右手にはライフル銃が握られている。老人は振り向きざま銃を撃った。けど、額から流れる血でよく見えなかったのか、左肩から胸にかけて引き裂かれた傷のせいか、銃弾は見当違いの方向の床板にめりこんだだけだった。
「待ってズーフ! わたしよ! フレンオラーンよ!!」
ズーフは銃を向けたまま目を細める。出血が激しくて視点が定まっていないようだ。真っ青な顔をして肩で息をし何度も目をしばたかせる。
「お嬢……フレンオラーンお嬢ちゃんか……」
フレンオラーンさんとわかると安心したように崩れ落ちた。
「ズーフ!」
駆け寄ったフレンオラーンさんが首に手を当て容態を診る。
「気を失ったわ」
安堵の表情を浮かべたフレンオラーンさんは窓から身を乗り出すようにして叫ぶ。
「トム、小屋に着いたわ! わたしもユウキ君も無事よ」
「わかった。俺もこいつらを始末したらすぐ合流する」
トムの声が返ってくる。
「わたしはズーフの手当をするから、ユウキ君はトムを援護して」
「弾が、弾がないんです」
「しょうがないわね。ごめんなさいズーフ、銃を借りるわよ。あ、こっちも弾切れ……ちょっと待ってて」
フレンオラーンさんは倒れている男が持っていた拳銃に手を伸ばす。
「装弾!」
トムの声と同時に拳銃を押しつけられた。
「ユウキ君、撃って!」
いつの間にかガルムは一匹になっていた。ガルムは警戒しているのか、トムが隠れていると思われる土饅頭の周りをジグザグに飛び回っている。
当てる自信はないけど狙いをつけて引き金を引いた。
「うわぁ」
拳銃なのに機関銃のように続けざまに弾が撃ち出された。
弾は当たらなかったけど、ガルムをトムから遠ざけることには成功した。
「完了!」
立ち上がったトムはショットガンを腰だめにしてガルムに向かって走っていく。
「ガルムは全部殺ったけど、召喚師には逃げられちまった。ふーっ疲れた」
泥だらけになったトムが入ってくるなりショットガンを投げ出しソファーに座りこんだ。
「トムさん大丈夫ですか?」
「ああ、俺は平気だ。で、ここの主のズーフはどうした?」
「大怪我していて、フレンオラーンさんが隣の部屋で手当てしています」
「そうか」
トムは葉巻に火をつけ満足そうに煙を吐きだす。
「トム、ご苦労様」
血で汚れた手を布で拭きながらフレンオラーンさんが戻ってくる。
「で、容体は?」
「いまは落ち着いて寝ている。止血はしたけど良くないわ。こんなことになるとわかっていたらスーデルを連れてきたのに失敗したわ」
小さく首を振るフレンオラーンさん。
「スーデル隊長ですか? そりゃあスーデル隊長がいればガルムなんて一発で倒したかもしれないけど、僕たちが着いたときにはもうズーフさんは襲われていたんですから……」
「違うのよ。わたしは治癒魔法が使えないけど、あの娘は治癒魔法が使えるの」
「マジですか!?」
「ええ、見かけによらないでしょう」
弱々しい笑みを浮かべフレンオラーンさんは小さく息を吐いた。
「応急手当はしたけど、わたしじゃこれが限界。あとは容態を診ることしかできない。これだけ傷が深いと町までは保たないし、治癒魔法じゃないと助からないわ」
うつむいたフレンオラーンさんの言葉には悔しさがにじんでいた。
「残酷な言い方になりますが、看病する時間はそんなにないかもしれませんぜ。召喚師を取り逃がしちまったから、いつ戻ってくるかわからない」
「ええ……でももう少しだけここにいさせて。ズーフは本当に古い知り合いなの」
トムは答えず、了解とばかり右手を挙げる。
* * *
「姐御、これを見て下さいよ。やっぱりこいつアイマール治安警察隊ですぜ」
死体を調べていたトムが円形の中にたくさんの三角形が描かれた紋章が刻印された手帳を差しだす。
「治安警察隊……いったい何があったのかしら?」
「なんにしろ相手が治安警察隊となるとありがたくねぇ話だ。そろそろズラかる準備をしますよ。いいですね」
フレンオラーンさんは小さくうなずいた。
「お嬢……お嬢、いるのか……」
「ズーフ気がついたの?」
隣の部屋から声が聞こえ、フレンオラーンさんは小走りに隣室に向かう。僕らも後を追った。
「手当てしてくれたのはお嬢かい……ありがとうよ」
弱々しい声。顔色は真っ白だ。痛むのか顔をしかめながらも身体を起こし、わずかに微笑んでみせる。
「ねえズーフ。いったい何があったの? 死んでいるニンゲンはアイマールの治安警察隊だったわ。アイマールと何があったの?」
ズーフはフレンオラーンさんの顔をじっと見る。
「お嬢……ワシの頼みを聞いてくれないか……聞いてくれるのなら…………何があったか話すよ」
「聞くわ。聞くから話して」
「ニンゲンの小僧……そこの棚の……上から二番目の引き出しを開けてくれんか……開けたら開けっ放しにして……一番下の引き出しを開けてくれ」
言われるまま引き出しを開けた。
「次は……一番上の引き出しを開け、そのまま閉じて」
わけがわからないまま引き出しを引き出し戻すと、カチっと音がして何かが床に落ちた。
「それを……こっちに」
僕は茶色い紙袋をズーフに渡した。
ズーフは震える手で封筒の中から手帳ぐらいの大きさの金属板と小さな箱を取り出す。鈍色した金属板には文字のような記号と模様が描かれている。箱は何かわからない。
「これを…………ナマルという人物に渡してほしい」
金属板をフレンオラーンさんの手の上に乗せる。
「これは?」
「道行きのアミュレット…………ごほっごほっ」
ズーフは前屈みになりながら咳きこむ。
「無理せず、横になって」
寝かそうとするフレンオラーンさんを押しとどめ、ズーフは重い息を吐いた。
「このアミュレットには魔法の力である物の受け渡し場所と時間が書かれている……はぁはぁはぁ……アイマールにとっちゃつごうの悪い物だ………はぁはぁはぁ……だからヤツらは襲ってきたんだよ」
肩で息を整えながら話し続ける。
「いいか……はぁはぁはぁ……九日後にそれを持ってバローン・ウヌムの西通りにある……ホールという店に行ってくれ……はぁはぁはぁ……そしてその店で料理を注文する……料理は何でもいい…………注文の時にサリムスのスライスをつけてくれと言えば……ナマルに連絡を取ってくれる……はぁはぁはぁはぁ…………これをナマルに渡せば報酬に一ツァーサンムングが貰える……はぁはぁはぁはぁ……その金は、お嬢にやる……ワシにはもう使う機会がなさそうだからな……はぁはぁ」
一気に話したせいで顔色は蒼白となり、ズーフは力なくベッドに倒れこんだ。
「姐御、やべぇ! あいつらが戻ってきた。こんどはオーガまで連れてきやがった。残弾もねぇし逃げないとこっちが殺られる」
窓際でずっと見張っていたトムが叫ぶ。
「ズーフ、辛いでしょうけど、わたしの背中に負ぶさって」
「いや。ワシはいい……どうせあと少しの命だからな」
「そんなこと言わないで」
「ワシの身体のことはワシがよく知っている…………そこのデカイの。お前さんの足下にある箱をこっちに持ってきてくれ……はぁはぁはぁ」
トムは窓に視線を向けたまま箱に手をかける。一瞬動きを止め、きつい表情でズーフを一瞥し、箱をベッドの上に置いた。
「隣の部屋……はぁはぁ……暖炉の奥に隠し扉がある…………隠し通路だ……はぁはぁはぁはぁ……裏の森に出られる……お嬢たちはそこから逃げろ」
脂汗を浮かべ上半身を起こしたズーフが小さな箱を手に取り、フレンオラーンさんに投げてよこす。
「なに?」
蓋を開けると透明な材質で作られた綺麗な有翼の女の子の像が入っていた。
「はぁはぁ……お嬢が子供の頃ほしがっていた…………ツェヴェルの人形だ……やっと手に入ったんだよ……はぁはぁはぁはぁ……遅くなってすまなかったな……はぁはぁ」
「ズーフ」
フレンオラーンさんはズーフを抱きしめた。
笑みを浮かべたズーフもフレンオラーンさんを抱きしめ、
「行け! 早く!」
押しやるようにフレンオラーンさんを離しうなずいた。
隠し通路は想像していたものより広くて天井も高かった。背の高いトムはしょうがないとしても、僕もフレンオラーンさんもかがむ必要はない。楽々と走ることができる。
「姐御、ズーフに渡した箱なんですけど、あれ火薬の箱でしたぜ」
「そう……」
トムの言葉に短く答えたフレンオラーンさんはまっすぐ前を向いたまま走り続ける。
通路の出口──森の中の小さな洞窟から出た時、奥歯まで揺らす爆発音と周りの梢をざわめかせる衝撃波が襲ってきた。
「いまの爆発の方向って……」
ズーフの小屋があった方向から黒煙が天に向かって立ち上がっている。
「行くわよ。隠した荷物を回収してドゥンスゲルに帰るわよ」
黒煙で染まる空をきつい視線でにらんでいたフレンオラーンさんは、小箱を握りしめると歩きだした。
【8 スーデル少尉と兵隊ヤクシャ前編 −PRIVATES ON PARADE】
「みんな、おはよう。良い天気ね」
と言いながらフレンオラーンさんが入ってきた。
今日は髪を綺麗にまとめピシッとしたスーツを着てタイトスカートを穿いている。一流企業の秘書さんみたいな格好で大人の女性って感じだ。
「おっ、決まってますね姐御」
「ありがとう。今日はアオスタ候のところに行くでしょう。久しぶりのバヤンの町だから気合いを入れなきゃね」
フレンオラーンさんはカウンターのストールに腰掛けホムスにお茶を頼む。
「姐御が気合いを入れて行くのなら、俺も気合い入れた格好で行こうかな。魔女っ娘メイメイちゃんのシャツをお披露目するのも悪くねぇなぁ」
「お願いやめて。だ、だって、とっても貴重で価値のあるシャツなんでしょう。もし破れたり汚れたりしたら大変だわ」
「そ、そうッスよ。それにトムさんにはアロハシャツが似合っているからアロハシャツがいいッスよ」
「そうかぁ。あれは二度と手に入らねぇからな……んじゃアロハにするか」
助かったぁ。メイメイちゃんのシャツを着た人と一緒に歩くなんて拷問だよ。
フレンオラーンさんも同じ気持ちだったようで安堵の表情を浮かべている。僕と目が合った時、笑いを浮かべてきた。
よかった。フレンオラーンさんに笑顔が戻った。
ズーフのところから戻ってから二日間、フレンオラーンさんは暗い表情を浮かべていた。親しい人が死んだんだから当然だと思う。フレンオラーンさんは努めて平静を装っていたんだけど、それがかえって痛々しくて声をかけづらかった。でも昨日から、いつものフレンオラーンさんっぽくなっていたけど笑顔はなかったんだ。
「おまえら朝っぱらからなに騒いでいるんだ?」
ショートタンクトップとハーフパンツ姿のスーデルが呆れた顔をして突っ立っていた。髪の毛が四方八方にはねまくって、女らしさとか色気というものがすべて台無しになっている。ま、元々なかった気もするけど。
「今日アオスタ候のところに行くじゃないですか。どんな格好で行けばいいかみんなで話していたんです」
「そんなのいつもの格好でいいじゃねぇか」
ホムスの言葉にスーデルは興味なさげに素っ気なく答える。
「だめよ。アオスタ候の館には貴族がたくさんいるし、他の遊撃隊も来ているかもしれないわ。そんな場所にみっともない格好で行ったら笑われるわ」
「笑いたいヤツには笑わせておけばいいだろう。あたしたちの仕事は着飾ることじゃなくって戦うことだぜ。綺麗なおべべ着て戦えるかよ」
「そうね。たしかにスーデルの言う通りだわ。わたしたちのお仕事は戦うことですものね。でも、この前バヤンに行った時、ウネルティが『スーデルっていつも小汚いみすぼらしい格好をしてハイエルフの恥さらしだわ。あれは自分の部隊を上手に指揮できない証拠よね。優秀な指揮官は服を汚すことなんてないもの。それに稼ぎも悪いだろうから服を買いたくても買えないでしょうけどね』って言っていたわよ」
「なんだとぉ! あのクソ女がぁ!! てめぇの服が汚れないのは金にものを言わせて部下をたくさん雇っているからだろう。あたしだって一〇〇人も部下がいたら司令所でドレスを着て優雅にお茶をしながら指揮できるぜ。あたしの服がみすぼらしいだとぉ……くそぉ! いいかお前ら。今日は目いっぱい着飾って行くぞ! これは隊長命令だ!! 必ずだぞ!!!」
スーデルは顔を真っ赤にして僕ら一人一人を指さす。
「ねえホムス。ウネルティって誰なの?」
「ウネルティさんはボクらと同じアオスタ候に雇われている遊撃隊の隊長さんです。ハイエルフで綺麗な人ですよ。それにスーデルさんと同じ町出身なんです。でもこの二人仲が悪いんですよ。ウネルティさんは大きな商家のお嬢さんで、スーデルさんはあまり裕福じゃない家庭出身ってことがあって何かと反目しているんです。それにスーデルさんは生活のために戦っているけど、ウネルティさんはお金には困ってなくて名声のために傭兵をやっているのが気に入らないみたいです」
小声で教えてくれた。
「みんな見違えったわよ」
着替える必要のなかったフレンオラーンさんが顔の前で小さく手を打ち合わせる。
「久しぶりに着たけどきつい。やべぇな太ったぜ」
トムは濃紺のアメリカ陸軍の礼服を着ていた。
体格のいいトムが着ると凄く似合う。いつもの格好だと中南米辺りの怪しい客引きみたいなのに、いまは歴とした軍人に見える。
「ねぇホムス。その服ってセーラー服?」
「セーラー服って何ですか? これはボクの一族の正装ですよ」
「そうなんだ。似合っているよ」
ホムスが着ているのは海軍の水兵服に似ている。色が薄い緑色と言うぐらいでセーラー服にそっくり。小柄で顔つきも童顔だから昔のヨーロッパの男の子のように見える。これでティディベアのヌイグルミを持っていたら完璧だよ。
「ユウキさんも似合ってますよ」
「ありがとう。でも制服があれば良かったんだけどね」
学生の正装は制服なんだけど、制服は破れたりすり切れたりしてボロボロ。とても人前に着ていける状態じゃない。しょうがないからゼルゲルデーで買った服の中から一番シックなものを選んだ。白いシャツと黒いスラックスだ。これなら学生服っぽく見えるだろう。
「ユウキ以外はしっかりオシャレしたな。これであのクソ女に難癖つけられることはないだろう」
スーデルがみんなの服装を確認してニンマリとする。
「スーデル。どうしてわたしが買った服を着てくれないの」
「こういう時こそ俺が選んだ服だろう」
「誰があんな服着るか!」
スーデルが着ていたのは僕が選んだデニムの上下だった。
僕の見立て通り似合っている。いつもは一つに纏めて垂らしている髪を今日はポニーテールにしているから、より活動的な女の子に見える。
「スーデルさんのスカート姿って初めて見ました」
ホムスが驚いている。
「あ、あたしだってスカートなんて穿きたくなかったけど……えっとぉ、そ、そう、ズボンを全部洗濯中で穿くものがなかったから、しかたなく着ただけだ」
「だったら、わたしが買った服でもいいでしょう」
「俺の選んだのもあるぜ」
「そ、それも洗濯中だ」
「まだ一度も着てないのに?」
「あ、あたしは洗濯が好きなんだよ」
ウソだぁ。いつも僕に洗濯させているじゃないか。
「さあ行くぞ」
「乗り合い馬車の時間にはまだあるわよ」
「う、うるさい! あたしが行くと言ったら行くんだ!」
* * *
馬車とトラックを乗り継いでバヤンに着いた。バヤンは以前はバガという小国の首都だったということで、小さいけど活気のある町だった。ゼルゲルデーのように雑多な種族が集まっている。文化レベルとか、住民の質だとバヤンの方が上かもしれない。立ち並ぶ店もゼルゲルデーよりおしゃれな感じがする。
この町の中央にアオスタ候の館はあった。館と言うから洋館のようなイメージを持っていたんだけど、目の前にあるのは城だった。石造りの立派な建物で尖塔が何本もそびえている。
「凄いッスね」
「そぉかぁ。領主の館の中じゃ小さい方だろう。アオスタのオヤジはケチだから建物に金を回さねぇんだ」
スーデルはそう言うけど、僕の感覚じゃ無条件で城だよ。これが小さいと言うことは、他の領主の館や城ってどれだけ大きいんだろう。日本の城には修学旅行で入ったことはあるけど、こういう西欧的な城は初め。なんだか観光に来た気分だ。衛兵の立つ入り口で用件を述べるとすんなりと館の中に入れた。
館の大広間かなんかでアオスタ候に謁見するのかなと思っていたら、僕たちが案内されたのは地下に通じる階段だった。
なんで地下? 地下に大広間があるの? なわけないよな。ふつうは地上階だよなぁ。いったいどこに行かせるつもり?
でもスーデルもフレンオラーンさんも当たり前のように階段を下りていく。
何十段もある階段を下りた先には大きな空間が広がっていた。どんな仕組みかわからないけど天井から煌々と光が降り注いでいる。石造りのほぼ正方形の空間。壁も床も石むき出しで装飾もないし、物だって壁際にベンチが一つあるだけ。ベンチの上には二十代後半に見えるボサボサ頭で無精ひげを生やした男性が一人寝ているだけで、あとはなにもない場所だった。
「おいセトゲル起きろ!」
スーデルはベンチの脚を蹴っ飛ばす。
「んん……誰だよ。気持ちよく寝ていたのに」
「あたしだ。スーデルだ。今日はタタホするってアオスタのオヤジから連絡があったろう。寝てるんじゃねぇよ」
「ふぁぁぁあ。そうだったっけ?」
セトゲルと呼ばれた男は大きなあくびをしながら身体を起こす。
「スーデル君、タバコ一本くれよ」
「あ? あんたアオスタのオヤジから給料もらっているんだろう。自分で買えよ」
「買いに行くのが面倒なんだ。神様へのお布施だと思って一本恵んでくれよ」
「神様のくせに情けねぇな」
スーデルは渋い顔をしてタバコを渡す。
「トムさん、スーデル隊長が神様って呼んでるけど、あの人何者なんですか?」
「信じられないだろうし、俺も信じたくねぇが、あいつは正真正銘の神様だ。ま、神様と言っても低級神だがな」
「フリドリン・フォン・ゼンガー・ウント・リュットヴィッツ君、僕は低級神じゃないよ。『中級神』の下だよ。『中級神』の下だからね。間違わないでくれよ」
神様だというセトゲルは中級神と言うところに力を入れて連呼する。でも、中級の下って低級ってことじゃ……。
「武馬悠騎君。さっきから言っているだろう。僕は中級神の下! これ以上疑うのなら神罰を下すよ。中級神の下だけど神罰ぐらい下せるんだからね。僕の神罰は怖いよぉ。結膜炎と口内炎とイボ痔と水虫がいっぺんに襲ってくるんだからね」
うわぁ。命には直接関わらないかもしれないけど凄く嫌だ。
あれ? 僕、名乗っていないのに、なんで僕のフルネームを知っているの?
「そりゃあ僕は神様だからね」
えっ! 僕の考え読んだ? で、でも、アガールは相手の心が読めないんじゃないの。
「僕は神様だからね。ホムス君やフレンオラーン君みたいな普通の人は読めないよ。でも異世界から来たニンゲンの考えは読めるんだよ。不思議だねぇ。あ、それとスーデル君も読めるかな。スーデル君は単純だから表情や態度から読めるよ。今日のスーデルはお気に入りの服を着て浮かれて……」
セトゲルの言葉は最後まで発せられることはなかった。
「戯言はいい加減にしろ。さっさとタタホしないと神様といえども昇天させるぞ!」
顔を赤らめたスーデルが拳銃をセトゲルの額に押しつけている。
「わかったよ。昇天はごめんだ。まだ地上界で遊んでいたいからね。武馬悠騎君、広間の中央に行ってくれないかい」
銃口から逃れると、タバコを踏み消し立ち上がる。
「イスよあれ」
指をパチンと鳴らした。
広間の中央に立つと床がせり上がってきてイスのようになった。
な、なにこれ?
「いちおう神の奇跡ってことになるかな。僕は神様だからこのくらいは朝飯前なのさ。さあ、そこに座って、緊張しなくていいからね」
床は石造りのはずなのにイスになった床はソファーのように柔らかく座り心地が良い。
「それにしても武馬悠騎君もやるね。スーデル君は君が選んだ服が凄く気に入っているよ」
僕の前に立ったセトゲルがウインクする。
まあ残りの二つがあれだからなぁ。
「それじゃ始めようか。本当はいらないと思うけど、規則だからまずタタホの説明するから聞いてくれるかな。
タタホは君の住んでいた世界の物をこっちの世界に呼び寄せる魔法なんだ。生き物以外は何でも引き寄せられるけど、君がいままで触れたことがある物しか引き寄せられない。でも、一度でも触ったことがあるものなら過去に失ったものでも引き寄せられる。ただねぇ欲しい物を必ず引き寄せられるわけじゃない。引き寄せられる物はランダムなんだ。どんな物が出てくるかは神様の僕にもわからない。
で、引き寄せるにはもう一つ条件がある。それは君自身の魔力によって引き寄せられる物の大きさが決まるんだ。具体的に言うと魔法が発動すると君の目の前に穴が出現する。穴の大きさは人それぞれなんだ。その人の持つ魔力が大きければ穴は大きくなる、魔力が小さければ穴は小さい。穴は大きい方が有利なんだよ。大きければそれだけ大きな物まで引き寄せられるからね。
本当はもっと細かい条件があるけど、これ以上説明するのも面倒だから割愛するよ。それじゃいくよ。目をつぶって君がいた世界を思い出して」
セトゲルの唸るような声が聞こえてきた。呪文なんだろうか? 言われるままに目をつぶって自分の家や学校生活を思い出してみた。
「小っさ!」
「トムの時はあの五倍くらいの大きさがあったぜ」
トムやスーデルの声が聞こえる。
「武馬悠騎君。目を開けていいよ」
目の前に直径三〇センチぐらいの真っ黒い穴が浮かんでいた。
「ユウキ、期待はしてなかったけど本気で小さいな。はぁ……こんな穴じゃ出てくる物も期待できねぇな」
スーデルがため息をつく。
「やってみないとわからないよ。それじゃあ武馬悠騎君、穴に手を入れて何かを引っ張るイメージをして」
セトゲルに言われるまま穴に手を入れてみた。穴の中は熱くも冷たくもない。というかなにも手応えがない。
「引き抜いて」
「はい」
何の反応もない。
「床を見てごらん。出てきたよ」
床の上に午前の紅茶レモンティー五〇〇ミリペットボトルがあった。
「おっ、午前の紅茶じゃねぇか。懐かしいな。日本にいた時は毎日飲んでいたんだ。これ、俺がもらうぜ」
と言うと、トムはキャップを開け一気に飲み干す。
「簡単だろう。その調子でドンドン出してみてね」
たしかに簡単だ。僕は穴に手を入れる。引き抜くを繰り返した。
「この服カッコいいじゃん。サイズもちょうどいいし、あたしのもんだからな」
去年買った黒いパーカーをスーデルが嬉しそうに握りしめている。僕のお気に入りだったのに……。
「きゃぁぁぁぁぁぁあ! なにこれ。なにこれ。カワイイ!!」
すっ飛んできたフレンオラーンさんが床の上に現れた物を抱きしめる。
妹の由香がいらないと言って僕に押しつけてきた海産物シリーズのヌイグルミだった。デフォルメされ大きな目玉が付いたウニとフジツボとナマコの三体セット。お世辞にも可愛いとは思えないんだけどなぁ。
「これなんですか? 飲み物ですか? 変わった匂いがしますね……しょっぱい」
ホムスが醤油のペットボトルを持って首をかしげている。
「そいつはショーユだ。ユウキたちニホン人が使う調味料で、ニホン人はどんな料理にも使っていた」
「そうなんですか。だったらこれもらっていきましょう。こんどショーユを使って料理してみますね」
ホムスはどんな料理に合うだろうと言って考えこむ。
「ほら武馬悠騎君、時間がないんだから、よそ見していないでチャッチャとやろう」
「すみません」
手の出し入れという単純作業を繰り返した結果。
PSPのソフト、タオル、父さんの眼鏡、日本史の教科書、母さんの茶碗、群青色のクレヨン、猫じゃらし、ラノベ「亜法遣い田中太郎」シリーズの三巻目、由香の物と思われる靴下、ネジ、小学校の時に流行ったヨーヨー、おじいちゃんの家にあった健康サンダル、下敷き、中学校の時の学ラン、植木鉢、割り箸……。
「ストップ、武馬悠騎君。もうおしまいにしよう疲れたでしょう」
「へ?」
夢中でやっていたから感じなかったけど、風邪をひいた時みたいに全身が熱っぽくて怠い。でも辛いわけじゃない。
「まだ大丈夫ですよ」
「いいや。君の魔力はここらが限界みたいだ。穴を見てごらん」
穴が小さくなっていた。三割、いや四割は小さくなっている。
「魔力が減ると穴は小さくなるんだよね。もうこれ以上小さくなったらなにも出せないよ。だからタタホは終わり。ああ疲れた」
セトゲルは首をコキコキ鳴らしながら伸びをする。
「にしても、使えねぇ物ばっかだな。トムの時はもっと良い物が出たぜ。そりゃあ目玉のデカイ変な人形なんかも出てきたけど、武器や弾薬も出てきたというのによ役に立たねぇなぁ」
スーデルは出てきた物の山の中からテニスボールを掘り出すと僕に向かって投げつけてきた。
「そうでもないよ。これなんか足の裏が刺激されていい感じ」
健康サンダルを履いたセトゲルが気持ちいいよと言いながら歩き回っている。
「トムが武器を出した時はアオスタのオヤジから六〇〇ムングの報奨金が出て、あたしたちの懐具合も温かくなったけど、こんなガラクタじゃ五〇ムングだって怪しいぜ」
「ここで言って何を言っていてもしょうがないわよ。財務係に査定してもらって報酬をもらいましょう。それまで詰所でお茶でもしましょう」
海産物シリーズを抱きしめたフレンオラーンさんはニコニコしながら言う。海産物シリーズが出てきて以来ずっと機嫌が良い。
スーデルにも異論がないようで、そうだなとつぶやいて地下広間を出て行く。
* * *
詰所なんて言うからビルの守衛室をイメージしていた。着いてみて驚いたのはその広さだ。体育館ぐらいある建物で食べ物や酒も出す店も入っていた。僕たちが着いた時には、この館に常駐する遊撃隊や他の地域からやってきた遊撃隊がいて混雑していた。なんとか五人が座れる席を確保したけど、ホムスはセトゲルと一緒に財務係に査定しに行ってしまったし、スーデルとフレンオラーンさんは他の遊撃隊に挨拶しに行ってしまった。残された僕とトムは紅茶のようなお茶を飲みながらタタホのことを話していた。
「今日はたいした物が出てこなかったけど、次は凄い物を出してバカにしたスーデルの鼻を明かしてやるんだ」
「それは難しいと思うぜ」
僕の決意はあっさりトムに水を差された。
「どうしてです。穴が小さいからですか? 小さくても役に立つ物だってありますよ」
「それはわかっている。そうじゃなくって、俺たちの魔力が溜まるのはやたらと時間がかかるようなんだ。個人差はあるみたいだけど、俺はこの世界に呼ばれてすぐタタホをしたが、それ以来タタホはしてねぇ。なんでも魔力がまだ全然足りてないんだとさ」
「トムさんがタタホをしたのはどのくらい前なんですか?」
「はっきりと覚えていないが地球の感覚で三年前かな」
「そうなんですか」
大きな穴を開けられるトムでさえ三年経ってもまだ魔力が溜まっていないのなら、僕なんて当分無理なんだろうなぁ。
「じゃあ、スーデルはタタホでどんな物を出したんです? 役に立つ物を出したんですか?」
出してなかったら思いっきりからかってやる。
「スーデルは何も出してない」
それなら物を出した僕の方が偉いじゃん。やったあ。これでスーデルに威張れる。
「と言うか、こっちのニンゲンもそれ以外の種族もタタホはできない。タタホができるのは召喚された俺たち異世界の人間だけ。だからヨス・ジョラムグイ王国なんかは血眼になって異世界の人間の召喚を始めたというわけだ。ユウキを召喚したのもたぶんヨス・ジョラムグイだ」
そうだったのか。
「この世界を見て技術の進み方がちぐはぐに感じるだろう?」
「ええ、なんとなく」
建物や物品が中世的な物もある反面、自動車があったり現代風の服が売っていたりしていて僕も違和感を感じていた。
「タタホがこの世界の技術に変革を与えているのさ。タタホで引き寄せた物品はこの世界ら見れば未来の技術だ。模倣できるものは模倣して流布し、模倣できない高度な技術が必要な物品はお宝として高価で売買される。タタホが行われる前は、この世界には自動車も汽車も銃も電気もなかったらしい。ちょっと前までは、中世のような世界だったらしいぜ」
「ということはタタホって新しい魔法ってことですか?」
「ホムスが言うには百年前ぐらいに開発された魔法なんだってよ。でもやたらと成功率の悪い魔法らしいがな。それ以前は偶然この世界に落ちてくる人間はいたようだぜ。その時も文化や技術レベルが上がったのかもしれねぇ」
スーデルが僕を探しに来たのも、お宝目当てだったからなのか。
「じゃあトムさんが……」
「テル! テルじゃない! 久しぶりね。何年ぶりかしら? いつこっちに戻ってきたの?」
突然割り込んできた女の子の声に会話が中断される。
長くウエーブした髪をふわっとなびかせて女の子が駆け寄ってきた。
「どうしたのテル? 私のこと忘れちゃったの? 私よ、ウネルティよ。よく見て」
女の子は僕の正面に立つと顔を近づけてきた。
誰? こんな美人さん知らないよ。というか顔近すぎ……。
「おいユウキ、このちっこい姉ちゃん知り合いか?」
「し、知りませんよ。今日初めて会った人です」
耳が長い。と言うことは、この人はエルフだ。
「ど、どちら様ですか?」
「やだ。それ、なんの冗談よ? まさか本当に忘れちゃったの?」
まさか! もし会っていたら絶対に忘れるわけない。だって凄く印象的なんだもん。
スーデルやフレンオラーンさんは美人だし、ドゥンスゲルやゼルゲルデーでもエルフを見たけどみんな美男美女だった。で、この女の子はエルフの美しさのなかでも抜きんでている。小柄でふわふわとした綺麗な服を身にまとい、まるで西洋人形。そう、精巧に作られた完璧を具現化した人形が動いているんじゃないかとさえ思った。
「テル? 目が虚ろよ。熱でもあるの?」
女の子の手が額に触れた。
生きている。僕の額に置いた手は温かかった。
「熱はないようね……あら、熱くなってきたわ」
女の人に額に触られるなんて、母さんが熱を測った時以来かも。うわぁ、き、緊張する。
「ユウキから手を離しやがれ! そいつはあたしの部下だぞ!!」
「ひっ!」
怒声とともに顔の真横をでっかい槍がかすめていった。
「なにしやがるんだ。俺の槍だぞぉ!」と、ワニの頭をした獣人が文句を言うのを無視して、真っ黒いオーラを纏わらせたスーデルが大股で近寄ってきた。
「あら、スーデルじゃない。久しぶりの再会だというのに、挨拶の代わりに槍を投げてくるなんて相変わらず野蛮ね。まあ、あなたにまともな挨拶ができるとは思わないけど」
「うるせぇ。あたしだって挨拶すべき相手にはちゃんと挨拶する。だが、あたしの部下に迫るような相手には槍で十分だ」
「迫るなんて、下品な人は本当に下品な発想しかできないのね。私は熱を測っていただけよ。でも下品なあなたには迫っているように見えるのね」
「う、うるさい! ユウキ、おまえもなにふやけた顔しているんだ。こんなムネもシリもねぇ年増幼女にだまされやがって。おまえはこんなマナ板ムネが趣味なのか」
僕は全力で首を振った。
「年増ってなによ! 私とあなたは同い歳でしょう!」
えっ! スーデルと同い歳? だって小学校の高学年ぐらいにしか見えないよ。
「どうだか……おいユウキ。このウネルティはな、ガキの頃から性悪で嫌な女なんだぜ。その行いのせいでチンチクリンのまま。因果応報ってヤツだ。ザマアミロ」
「お、お黙りなさい! わ、私が性悪なんて嘘はいいかげんにしなさい。テルだって私が品行方正のいい子で、バカで粗暴で意地汚くて正真正銘の性悪なのはスーデルの方だって覚えているわよね」
女の子は僕の手を握るとウルウルとした目で訴えてくる。
「だからユウキに迫るなって言っているだろう!」
「ユウキ、ユウキってなんですの。この人はテルでしょう……あら? 耳が短い……ニンゲン! テルはハイエルフよ。だったらこの人誰なの?」
女の子は僕の手を離すと数歩下がって睨みつけるように目を細める。
「ウイルチグレチ! 眼鏡をちょうだい」
「はい。お嬢様」
そばにいた大柄の女の人がうやうやしく女の子に眼鏡を差しだす。女の子は眼鏡をかけると、大きい目をさらに大きくして僕をじっと見る。
「テルじゃない。だけど似てるわね……よく見たら違うのだけど、顔のつくりとか雰囲気が似てるわ」
女の子は口に手を当て驚いている。ひょっとしたら呆れているのかもしれないけどさ。
「ウネルティじゃない。お久しぶりね」
「フレンオラーンお姉様。ご無沙汰してました」
戻ってきたフレンオラーンさんに声をかけられ、我に返った女の子は優雅にお辞儀する。
「ウネルティもバヤンに来ていたなんてこんな偶然があるのね」
「ええ、私もお姉様に会えるなんて思っていなかったから嬉しい驚きですわ」
女の子はさっきまでのスーデルとの口喧嘩の表情からは想像もつかないほど柔和で気品ある表情になって笑む。
この人がホムスが言っていたスーデルの天敵のウネルティさんなのか。
「驚きと言ったら、なんだかとても驚いていたようだったけど、なにがあったの?」
「たいしたことではありませんわ。こちらのニンゲンの方が知り合いにとても似ていたものですからちょっと驚いてしまいました」
「そうなの。そんなに驚いたということは、昔好きだった人にそっくりだったりしたのかしら」
フレンオラーンさんはいたずらっぽい表情を浮かべる。
「いいえ。好きだったのは私ではなくスーデルですわ。といっても一方的に恋い焦がれて玉砕したんですけれどね」
横目でスーデルを見たウネルティさんはにやりと笑みをつくる。獲物をいたぶるネコのような感じの笑みだよ。怖い。
「てめぇ、ホラ吹いているんじゃねぇ!」
顔を真っ赤にしすぎてどす黒くすら見えるスーデルがテーブルを叩く。
「おお怖い。本当のことを言われたからって怒ることないじゃない。あなたがバローン村の八百屋のテルに片思いしていたのは事実でしょう」
「バローン村の八百屋のテルなんてヤツ知らねぇよ!」
「そういえば、あなたの前じゃヘレフ共和国軍特務部隊に雇われた傭兵のノゴーニー中尉って名乗っていたわね。私たちの町に野菜を売りに来たくせに、秘密任務で来ているなんてウソついてさ。テルが町に来るたびにあなたはいつもテルの周りにいたのに、そのウソに最後まで気がつかなかったわね」
「そんな事実はねぇ! ノゴーニーって誰だよ。ヘレフ共和国軍特務部隊のノゴーニー中尉…………ノゴーニー中尉!」
スーデルは「あっ」と声を漏らすと、口を大きく開いたまま固まってしまった。
「ひょっとして思い出したかしら。あなたがテルにラブレターを渡してふられたことを。あの後、テルがあなたのラブレターを見せてくれたのよ。あれは後世に残すべき傑作だわ。あれほど愉快な手紙は見たことがないわよ。いま思い出しても笑ってしまうわ」
ウネルティさんは側にあったイスの上に立つと舞台俳優のように両手を広げる。
「『背景。変おしいノゴーニーさま。トールジムスの花もさいて厚くなってきました。いかがおすごしですか。あたしは元機です。凶は思いきってつたえます。あたしはあんたが鋤だ。あたしは町でいちばん美人で阿玉がよくって強いんだ。あたしも平体になるから一しょに多々かってやる。だから血コンしろ。血コンしてくれなきゃイチゾクみな殺しにしてやるからな』。どこが頭がいいのかしら。もう誤字というレベルじゃないわよ。最初は暗号かと思ったわ。『血コン』なんて、最初に読んだ時は呪いの言葉と思ったわよ。それにラブレターで相手を脅してどうするのよ。これじゃ呪詛か脅迫よ。これを真剣に書いたと思うと笑いが止まらないわよ」
ウネルティさんは口に手を当て上品に、同時に嫌みたらしく笑う。
けど、その笑いは長く続かなかった。「うわぁぁぁ」とも「がぁぁぁぁぁ」ともつかない獣じみた叫び声と銃声が詰所を支配した。
つづく
2011/11/29(Tue)23:18:08 公開 /
甘木
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甘木さん
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■作者からのメッセージ
先月末の演奏会が終わってから気が抜けてダメ人間になっていた甘木です。
プロじゃないからスランプと言うのはおかしいかもしれませんが、PCに向かっても書けないって状態が続いていたんです。
1ヶ月かけてやっと少し復活しました。本当にキツイ1ヶ月でした。
長い作品ですが、ここで急いで進めるとグタグタになりそうなのでまだまだ物語は続きます。そろそろ読む人もいなくなるかもしれないけど、この作品自体は気に入っているのでノンビリと更新させてもらいます。
お時間がある方が暇つぶしに読んでいただける作品になるよう頑張ります。
9/6 1〜2話投稿
9/11 3話更新
9/16 4〜5話更新
9/25 6話更新
10/9 7話更新
11/29 8話更新
作品の感想については、
登竜門:通常版(横書き)
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等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で
42文字折り返し
の『文庫本的読書モード』。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。