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『遠のきCross Place 「おれの話は、これでお終い。」』 ... ジャンル:リアル・現代 恋愛小説
作者:神夜
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あらすじ・作品紹介
ネット便所の掃き溜めのような匿名掲示板で出会ったアニキ分だったはずのあの人は、小学六年生の、――女の子だった。
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<黒須>さんがログインしました。
<黒須>さんから対話モードの要請がありました。
『2011.08.23/23:43 <トオノキ> : ……こんばんは』
『2011.08.23/23:43 <黒須> : おうチンカス。元気か』
『2011.08.23/23:43 <トオノキ> : ……いや、なんていうか、』
『2011.08.23/23:43 <黒須> : 辛気臭せえな、何だよ』
『2011.08.23/23:43 <黒須> : ていうか晩飯何食った? おれラーメンだった』
『2011.08.23/23:44 <トオノキ> : あんまり元気は、その、』
『2011.08.23/23:44 <トオノキ> : ぼくは、まだ食べてないです』
『2011.08.23/23:44 <黒須> : ウジウジしてんじゃねえよチンカス』
『2011.08.23/23:44 <黒須> : まだってもうすぐ日付変わるぞ。いつ食うんだよ』
『2011.08.23/23:44 <トオノキ> : あ、はい……すみません……』
『2011.08.23/23:44 <黒須> : 謝るなら最初から元気出せよゴミクズ』
『2011.08.23/23:44 <トオノキ> : ご飯はその、あんまり食欲が……』
『2011.08.23/23:44 <トオノキ> : あ、そうですね。。。』
『2011.08.23/23:45 <黒須> : 食欲ねえって何だよ。病気か?』
『2011.08.23/23:45 <トオノキ> : いえ、そういう訳ではないんですが……』
『2011.08.23/23:45 <黒須> : んだよウジウジしやがって。何かあったのかよ』
『2011.08.23/23:45 <トオノキ> : 何か、っていうか……』
『2011.08.23/23:45 <黒須> : あー。またいつのもあれかよ』
『2011.08.23/23:45 <黒須> : 毎度毎度面倒臭いんだよお前』
『2011.08.23/23:45 <トオノキ> : ……すいません』
『2011.08.23/23:50 <トオノキ> : ……? 黒須さん?』
『2011.08.23/23:53 <トオノキ> : あの、すみません。いませんか?』
『2011.08.23/23:55 <トオノキ> : 落ちちゃったみたいですね……』
『2011.08.23/23:55 <黒須> : わかった』
『2011.08.23/23:55 <トオノキ> : あれ。いたんですか』
『2011.08.23/23:56 <黒須> : おいお前ちょっと住所晒せ』
『2011.08.23/23:56 <トオノキ> : え? 何でですか?』
『2011.08.23/23:56 <黒須> : お前ん家行くために決まってんだろ』
『2011.08.23/23:56 <トオノキ> : ぼくの家に、って、黒須さんが?』
『2011.08.23/23:57 <黒須> : 他に誰がいんだよ。いいからとっとと晒せチンカス』
『2011.08.23/23:57 <トオノキ> : え、いや、あの、なんで来るんですか……?』
『2011.08.23/23:57 <黒須> : 決まってんだろ』
『2011.08.23/23:57 <黒須> : お前をぶん殴ってキアイ入れるためだよ』
◎
黒須さんと出会ったのは、単なる偶然からだった。
やることが何も無くなって、ただ目的も無くふらふらとネットを漂っていた時、ネット便所の掃き溜めのような匿名掲示板でふとした拍子にその中の一人と妙にウマが合って、その場のノリでメールアドレスを交換し、そこで専用IDを教え合い、そして本当に特に意味も無く、どちらからともなく時折1対1で対話などをするようになった。そんな関係が、もうかれこれすでに一年近く続いている。対話の頻度は不定期で、多いときは毎日のようにしたりするが、少ないときは一週間以上空くこともあった。
相手の顔は知らない。音声会話もしたことがない。ネット便所の掃き溜めのような場所で知り合った間柄で顔や性別、声や年齢がどうたらこうたらの云々なんて関係無かったし、そういうのは本当にどうでもいいとさえ思っていた。ネット便所の掃き溜めのような場所で、たまたま妙にウマの合った奴がいて、それがなぜか結構なアニキ分のような性格で、ぶっきら棒で言葉遣いは荒いが、こっちをちゃんと心配してくれているのだということは何となく判る、――そんなちょっとした偶然さえあれば、それでよかったのだ。
だからまさか、「会いに行くから住所を晒せ」なんてことを言うとは夢にも思っていなかった。
迫力に負けたというのが本音だった。
この一年間で判っていた。
このヒトは、やると言ったらたぶん、何があってもやり通すヒトだ。
お前ん家行くわ、と言えば何が何でも来るだろうし、一発ぶん殴るわ、と言えばこっちが泣き叫ぼうが失禁しようがお構い無しに殴り倒すだろう。恐くないと言えばこれ以上の嘘はない。いや、殴られるから恐い以前の問題である。大学を休学して引き篭もり生活を始めて早一年、誰かと最後にまともに会話したのがいつだったのかはもはや思い出せない。人と話すのは恐かったが、しかしかと言って、相手に対して嘘を教えたり拒否したりするだけの度胸は、それ以上にどこを探しても無かったのである。
驚いたことに、黒須さんの家とは、駅を三つ行った程度の距離しか離れていなかった。
約束の日はすぐに来た。
予定していた昼の十一時より、五分早かった。
インターフォンに呼ばれ、チェーンロックを外したドアを恐る恐る開け、外の様子を伺おうとして、
隙間に小さな手を突っ込まれ、一気にドアが開け放たれた。
随分と低い所に頭があった。
その低い所にある頭が少しだけ揺れ動き、小さな唇がニッと笑う。
「――よう。お前、トオノキか?」
黒須さんだった。口調も雰囲気も黒須さんだった。
ただ、
ただ、ネット便所の掃き溜めで出会ったウマの合ったアニキ分は、
――小学六年生の、女の子だった。
「遠のきCross Place」
「しっかしトオノキお前、おっさんだったのかよ」
黒須さんはそう言ってけたけたと笑った。
おっさん、と言われて違和感がない訳ではない。まだ二十二歳であるため、世間一般から見れば「お兄さん」のレベルだと思う。ただし小学生から見たら二十代なんていうのは紛れも無い「おっさん」なのかもしれない。別にそこに関して異を唱える気はないし、そもそも大学を中退して以来、年齢なんてさしたる問題ではなかった。だから別にそれは構わないのであるが、ただひとつだけ言うのであれば、自分はそんなに老けて見えるのだろうか。
こちらをおっさん呼ばわりしてけたけたと笑った黒須さんは今、引き篭もり生活を始める前に奮発して買った、この部屋でパソコンの次に高価でフカフカなデスクチェアーに両足を上げた格好で座り、遠心力を味方につけたまま「おー、すげーすげー、なにこれすげー」と言って声を上げながらくるくると回っている。
まさか童顔の合法ロリではあるまい。顔もそうだが、身体がそもそも子供である。身長はこちらの胸より低く、細い足にぴっちりとしたデニムの脛辺りまでのズボンを履き、キャミソールのような肩紐のある服を着ている。夏休みに活発な女の子が着る服そのものだと思う。さらさらの髪は後ろで一回ポニーテールのようにまとめられて腰の辺りまで伸びており、顔に化粧気は一切無く、純粋に若い肌であるような気がする。
未だにくるくる回り続ける黒須さんを、床に正座したまま見つめて考える。
よくよく考えてみれば、この状況は、ヤバイ気がする。ていうか絶対にヤバイ気がする。小学六年だ、と黒須さんは自分で言った。つまり十一歳か十二歳だと思う。対してこちらは二十二歳。年齢的、というより法律的に絶対にヤバイ気がする。もし仮にこの場に警察が踏み込んで来たら、まず間違いなく逮捕されると思う。何も悪いことなどしていないのに、たぶんこれは絶対に逮捕される。
どうしよう、と思う。
筋肉質でムキムキマッチョの三十代のおっさんが来ると予想していたため、この状況の対処方法がまるで思いつかない。打破すべき道がまったく見えてこず、このままチェアーで回ることに飽きた黒須さんが何事も無く「帰る」と言って帰ってくれないだろうかと本気で思う。さすがに何もしていないのに逮捕されることはご遠慮願いたい。
やがて回転が収まってきたチェアーの上で、黒須さんが小さな息を吐いた。
「頭ふらふらする」
あれだけ回ったらそれはそうなるでしょう、とこちらが言う間も無く、黒須さんは続けて、
「トオノキ、腹減った。何か食おうぜ」
「……え、あの、カップラーメンくらいしか、」
「いいよそれで。おれ醤油味なら何でもいい」
「あ、はい……。作ってきます……」
床から立ち上がって台所へトボトボと歩いて行く。食器棚の奥にある大量に買い置きしておいたカップラーメン群から、醤油味のカップラーメンを二つ適当に取り出して黙々と作る作業に入る。ポットのお湯は確か入ったままだったから問題は無いとして、ただ割箸がどこにあったのかがすぐには思い出せない。まさかいつも自分が使っている箸を黒須さんにまで使わせる訳にも行かないだろう。しかしいくら探しても見つからない、あれええっとどこだったっけ、
「トオノキー、PC点けていいかー?」
「え、あ……いい、ですけど……あの、」
「わかってるよ、HDDの中は見ないよ。今の状況で無修正ロリAVとか出て来たらさすがにおれでも引くわ。ちょっとネット見るだけ。……お気に入りとかにはそんなの入ってないよな?」
「はっ!、入ってないですよっ」
「冗談だよ、そんなに焦んなって」
そう言って黒須さんはまたけたけたと笑う。
少し前に買ったコンビニ弁当の袋の中から割箸を見つけた。ポットからカップラーメンにお湯を注いでそのまま持って行く。床に置いてあった四方三十センチ程度の小さなテーブルの上にカップラーメンを置き、正座をしながら黒須さんに視線を移す。黒須さんはチェアーの上に胡坐を掻いて座り込んだまま、立ち上がった真っ黒なデスクトップ画面をじっと見つめたまま動かない。
何をしているのだろう。そう思ったところでふと気づき、
「あ……。それ、真っ黒な壁紙なんです……、それに、あの、ぼく、アイコン非表示にしてるので、何も出て来ないです……。上にタスクバー隠してあるので、そこから、」
「そういうことは早く言えよっ!」
怒られたことに肩を竦めつつ、ブラウザを立ち上げて検索ウインドに何事かをキーボードで打ち込み始めた黒須さんの横顔を、改めて見つめる。
本当に子供である。子供ではあるが、ただ、可愛かった。可愛い小学生の画像を集めようぜ、という話になったら、そこでたぶん上の方に位置するのではないかと思う。ただし外見は可愛い小学生ではあるが、中身や雰囲気は、やはりあの黒須さんである。対話モードの時もそうだが、黒須さんはこっちが引くくらいの下ネタを平気で使う。「うんこ」「ちんこ」なんて言葉はまだ序の口で、「チンカス」だったり「インポ」だったりを平然と言う。だからまさか、そんな言葉を平然と吐く人が、小学六年生の女の子だとは本気で思っていなかった。
今まで年齢は愚か性別についてさえ触れたことは無かったのだが、さすがにこれは予想外である。別にどんな人が来ても、それがあの黒須さんであれば文句は無いと思っていたし、しっかりと受け入れようと考えていた。しかしまさか小学生の女の子が来るとは夢にも思っていなかった。自分が小学生だった頃の記憶を遡れば、たぶん夏休みは家でゲームをしているか、友達と遊び回っているかのどっちかだった。間違ってもパソコンで見ず知らずの人間とチャットなんてしていなかったし、そこで出会った見ず知らずの人間と会うなんてことも考えられなかった。時代の流れというヤツなのだろうか。イマドキの小学生は随分とませていると思う。
PCから何かの声が聞こえ始める。動画サイトに投稿されている、ゲームの実況動画だった。
「……あの、」
恐る恐る声を掛けると、黒須さんは画面を見たまま、
「なんだよ」
「カップラーメン、そろそろ……」
「お。マジか。持って来てくれ」
「あ、はい……」
カップラーメンと割箸を持って近づいて行く。
どうぞ、と手渡すと、黒須さんは「サンキュ」とだけ言って受け取る。そのまま割箸を咥えて片手で割り、カップラーメンの蓋を無造作に取り外して画面を見ながらずるずると麺を啜った。
正直な話をするのであれば、他人にPCを触られるのは好きではない。HDDの中身を勝手に見られるのもそうであるが、何よりも洗っていない手でマウスとかキーボードを触られるのが嫌だった。もちろん自分の手だってそうだ。PCを扱う際は、必ず洗面所に行って石鹸で手を洗ってから使う。軽い潔癖症なのだと思う。だからPCの前でご飯を、ましてやカップラーメンを食うなどとは言語道断である。汁がキーボードや画面に飛んだら大惨事になる。本当は物凄くやめて欲しいのだが、しかし黒須さんに対してそれを面と向かって言う勇気がない。言ったらたぶん怒られる。でもやめて欲しい。どうしよう。
立ち呆けていると、黒須さんが麺を啜りながら、
「? なんだよ?」
言うのであれば今しかない、と決断する。精一杯の勇気をお尻の方から振り絞り、
「あのっ、それっ、」
「あ、お前もこれ見たいの? いいよ、一緒に見ようぜ」
黒須さんはチェアーから小さいお尻を半分だけズラし、空いたスペースをポンポンと叩きながら、
「ほれ、座れ座れ。面白いよな、これ」
けたけたと笑いながら、黒須さんは再び画面に視線を移してしまった。
反論が出来なかった。勇気は密かに出たオナラと共に消え失せていた。もはや抗うだけの気力は尽きていた。言われるがまま、半分空けてもらったスペースにこじんまりと座り込んで、泣く泣くカップラーメンをPCの前で啜った。
見たことも聞いたこともないゲームの実況動画を前にしながら、汁が飛ばないよう、音を立てずに細心の注意を払ってカップラーメンを食う。しかし何かに集中すればするほど、自然とすぐ隣にいる黒須さんのことが気になってしまう。いくら片方が小学生とは言え、ひとつの椅子に二人が座っているせいで、図らずとも身体が密着してしまっている。くっついた二の腕から伝わる少し汗ばんだ感じとか、身体を動かす度に当たる小さな身体の柔らかさとか、カップラーメンの匂いに混じって僅かに漂うシャンプーの甘い香りとか、麺に息を吹き掛ける綺麗な唇の動
「トオノキ」
「ひっ!? あ、はっ!?、い……?」
思わず仰け反りそうなったこちらを黒須さんは驚いて振り返り、
「お、おいっ。なんだよ、びっくりするだろっ」
「えあ、い……す、すみません……っ」
黒須さんは実況動画に向き直りながら一言、
「お茶」
「え?」
「だからお茶」
「あ。はい……。ちょっと、待っててください」
カップラーメンを手に持ったまま立ち上がって台所へ向かう。冷蔵庫から二リットルのお茶のペットボトルを取り出し、コップに注いで持って行く。コップを手渡すと、黒須さんはさっきのように「サンキュ」と小さく言って、遠慮無くお茶を飲んだ。半分くらい飲んだところで口を離し、「ん」と、こちらに視線をまるで向けずにコップを突き返して来た。
よく判らないけど受け取る。黒須さんは相変わらずラーメンを啜りながら動画を見ている。
受け取ったコップをまじまじと見つめながら、思う。なんだろう、これ。飲んでいいのだろうか。でもこれって、さっき黒須さんが飲んだものである。それでも飲んでいいのだろうか。いやそれはヤバイ気がする。ていうか絶対にヤバイ気がする。物理的な干渉は無いにせよ、これは下手をすると立派な間接キスになってしまう可能性があり、そうであれば犯罪なのではないだろうか。でも何か飲んでいいように渡されたし、でも飲んだら捕まるし、あれこれどうしよう、
おろおろしていると黒須さんがこちらを怪訝な顔で見上げ、
「何してんだよさっきから。いいから座れって。気になるだろ」
「あ……、はい……すみません」
先ほどのように椅子を半分ずつ分け合って座った。
二人揃ってカップラーメンを食べ終え、容器に汁が入ったままの状態で重ねてPCデスクの傍らにお茶が半分入ったコップと並べて置く。黒須さんはずっと動画を見ていて、時折実況者のコメントに笑ったり突っ込みを入れたりしている。しかしこっちは気が気ではなかった。カップラーメンの容器をこんな所に置いておきたくない。何かの拍子で倒れる可能性がある。汁がもし万が一にでもPC本体に掛かったら、もう二度と立ち直れないと思う。だけど今に席を立つと機嫌の良さそうな黒須さんの邪魔になって怒られそうだし、でもこのまま放っておくといつ倒れるかわからない。それでもなけなしの勇気を再度振り絞って声を出そうとしたまさにその瞬間、動画が終わった。
タイミングを逃したせいでどうすることもできず、ほとんど身動きもせずに座り呆けていると、横から黒須さんの小さな手が伸びて来てマウスを握り、そのままブラウザ上で矢印を動かし始める。
「やっぱりあの実況者面白いわ。トオノキもそう思うだろ?」
実況なんて鼻糞ほども頭に入ってはいなかったし、そもそもあのゲームも実況者もまったく知らないが、そんなことを言うと怒られそうなのでもちろん言わない。
「あ、はい……そうですね……」
「他なんか、お前のオススメの動画とかある?」
「え、いや……特には……」
「何かないのかよ」
「急に言われても……普段あんまり、その……」
「ノリ悪りぃなぁ。じゃあ漫画読んでいい?」
「え、あ……どうぞ……」
よいしょっ、と椅子から立ち上がった黒須さんが部屋を横切り、本棚の前で漫画を選び始める。視線を本棚に向けたまま「トオノキってすげえいっぱい漫画持ってんな。おー、これってスレで結構紹介されてるやつだろ。これ読も」とつぶやき、単行本を数巻手に取ってそれを胸に抱えたまま再び部屋を横切り、壁沿いに設置してあるベットの上にまったくもって遠慮なく座り込んで漫画を読み始める。何の断りも無くごく自然にベットに座り込んで漫画を読む辺り、本当に黒須さんらしいと思う。
ようやく立ち上がっても怒られない状況になったので、カップラーメンとコップを持って台所へ向かう。カップラーメンの汁を捨てて容器を洗い終わったところで、お茶が半分だけ入ったままのコップを手にして少しだけ悩む。今ならベットからはこっちが死角になっているから見えないはずである。もしこれを飲むなら今しかない。今しかないのだが、でもここで飲んだら何かが壊れてしまう気がする。どうしよう。どうすればいいんだろう。でも見えないところでコソコソするのって黒須さんが一番怒りそうなことではある気もする。怒られるくらいなら飲まない方がいいような気はする、気はするのだが、でもこれなんか非常に勿体無いような気も、
思考を捻じ切って捨てる。水道へお茶を流してコップを洗った。
大きなため息を吐き出しながら部屋へ戻ると、さっきまで座っていたはずの黒須さんはベットにうつ伏せに倒れ込んでいて、顎のところに枕を置いて漫画を読んでいる。伸ばした足が時折パタパタと動いているのは、たぶん無意識なんだろう。本当に自分の家のような寛ぎ方である。黒須さんがここへ来てまだ一時間も経っていないし、言葉も数えるくらいしか交わしていない。それなのにも関わらず、ここまで寛げるのは凄いと思う。図々しいという感情を通り越して、素直に感心してしまった。本当に、あの黒須さんらしい。
何となく黒須さんが上機嫌で漫画を読んでいるみたいだったので、とりあえず点けっ放しだったパソコンの前に座ってネットを閲覧することにする。
それは、不思議な光景だったと思う。知り合ったのは一年以上前の話である。だけどこうして顔を合わせたのは、ついさっきが初めての話。アニキ分だったはずの黒須さんは、小学六年生の女の子だった。こっちが十歳も年上だったのだ。外見的に物凄く違和感はあるが、この部屋にいるのはやっぱりあの黒須さんなのである。いつも愚痴を聞いてくれて、ぶっきら棒に励ましてくれた、あの黒須さん。そんな黒須さんが今、自分の部屋のベットに寝転がり、窓から射し込む光の下で漫画を読んでいる。それは、不思議な光景だった。
それからどれくらい経っただろう。ネットをしていると時間を忘れる。ふとタスクバーに表示された時計を見て、ネットを始めてからすでに二時間も経っていたことを知る。気になってベットの方へ視線を移すと、黒須さんがやっぱりうつ伏せに寝転がっている。ただ、うつ伏せに寝転がっているのは先ほどと変わらないのだが、漫画はすでに閉じられていて、両手を前に伸ばしたまま枕に顔を埋めてぴくりとも動かない。足もパタパタしていないところを見ると、どうやら眠ってしまっているらしい。いつの間に寝てしまったのか、全然気づかなかった。起こすのも忍びなかったので、そのままネットを続けることにする。
そこでふと、何の前触れも無く唐突に、そう言えば何か忘れているような気がする、と思い悩む。だけど何を忘れているのかが思い出せず、マウスを人差し指でコンコンと突く。何か非常に大事なことだった気がするのだが、どうしてか頭の中から出て来ない。なんだろう、なんだっけ。何か大きなことだった気がする、気がするのだが、なぜか思い出せない。そして思い出せないものはやはりどうしようもなく、そのうちに勝手に思い出すだろう、と実に能天気な結論でまとめ、悩むことをやめた。
さらにそこから四時間が経過する。窓の外にあった太陽はすでに傾き始め、射し込む光は弱くなっていた。ネット閲覧がひと段落着いたこともあり、そろそろ黒須さんを起こそうと思い立つ。このまま完全に暗くなるまで小学生を部屋に置いておくのは問題であろう。今のこの状況でも十分問題なのに、さすがにこれ以上に問題を増やすのはマズイと思う。
チェアーから立ち上がって背伸びをすると、背骨の辺りからポキポキと音が鳴った。
そしてその音に触発されたかのように、枕に顔を埋めていた黒須さんが急にぴくっと動き、しばらくもぞもぞと体勢を変えながらベットの上を彷徨った末、むくりと起き上がった。ぼーっとした寝顔でこちらを見つめ、やがて僅かに考えた後、ぽつりと唐突に「――やべえ」と言った。
言っている意味が判らず、
「何がですか?」
「いま何時?」
質問に質問が返って来た、
「ええっと。五時半前、……ですね」
「やっぱりか。やべえ、おれちょっと帰るわ」
「え、あ、……はい。お疲れ様でした」
ベットから出た黒須さんは、漫画をそのままに玄関の方へ歩き出し、しかしまたしても唐突に立ち止まって僅かに考え、こっちを振り返って無表情に手招きをする。
「トオノキ。ちょっと」
不思議に思って近づいて行く。
黒須さんの傍まで来て見下ろしていると、黒須さんは一回背伸びをしてからまた何かを考え、その後に小さく舌打ちをする。
「座れ」
「え? ……何でですか?」
「いいから座れ」
有無を言わせぬ迫力があった。
言われるままにしゃがみ込み、座り方について少しだけ悩んだ後に正座をする。
そのまま無言の五秒が過ぎて、目の前の黒須さんが大きく深呼吸するのが見えて、何をしているのかさっぱり判らずに首を傾げようとしたその瞬間、
渾身のグーパンチが飛んで来た。
目から星が出た。星が出たかと思った。
女の子らしい平手ではなく、力の限りのグーパンチだった。たまったものではなかった。いくら相手が小学六年生の女の子とは言え、まったくの無防備で頬にパンチを放り込まれたら効くに決まっていた。突然のことに呆気なく引っ繰り返り、床に這い蹲って事態の状況を把握しようと思考を回転させるが、あまりの出来事に混乱し過ぎてまともに脳みそが働かない。
何も言えないまま頬を押さえて呆然としていると、こちらを見下ろすように立っていた黒須さんがニッと笑った。
「約束忘れるとこだった。元気になっただろ?」
え、は? 約束? 約束って、
「じゃあおれ帰るわ。またなトオノキ」
それだけ言って、黒須さんは本当に帰って行った。
ぶん殴られた頬を押さえながら、呆然とさっきの言葉を反復する。
約束。約束と言った。ぶん殴られる約束なんてした憶えは、――あった。それと同時に、忘れていたことを全部思い出した。今日、黒須さんがここへ来る目的が、確かにあった。そもそもそれが理由だったはずである。ぶん殴ってキアイを入れる。そのために黒須さんは今日、ここに来たのだ。その目的を、すっかり忘れていた。
でも、これはさすがに、理不尽過ぎる。
状況を理解すると同時に、殴られた頬がジンジンと痛み出してきた。気を抜くと涙が出そうになるので、その場に座り直して膝を抱え、ただ痛みに耐えてじっとしていた。しかしふと違和感を覚えて鼻を擦ると、結構な量の鼻血が付着していた。そしてそれを見た瞬間、ついに押し殺すことができなくなり、何年かぶりに、普通に泣いた。
二十二歳にもなって小学生六年生の、おまけに女の子に泣かされた。
現実世界での黒須さんとの最初の出会いは、涙と鼻血の味がした。
◎
インターフォンが狂ったように鳴っている。
ついに壊れてしまったのか、あるいは誰かの悪戯か。いや、もしかしたらこの部屋には幽霊がいて、そのせいで独りでにインターフォンが鳴っているのだという可能性もある。しかしだとしたらこんな朝っぱらから幽霊も元気なものである。せめて幽霊の活動時間である夜にして欲しい。朝は苦手だった。それに昨日寝たのは、すでに空が明るくなり出してからである。まだ全然寝足りない。どうかこのまま眠ることに対して許して欲しい。そんなことを呆然と思いながらも、頑なに閉じた目を通しても感じるカーテンを突き抜けて窓から射す太陽の光に顔を顰める。
インターフォンは狂ったように鳴り続けている。
幽霊はどうやら相当にご立腹であるらしい。本当に勘弁して欲しい。そう思うのも束の間、インターフォンが鳴り止むと同時に、今度はドアをガンガン叩く音が聞こえた。ポルターガイストのオンパレードであった。時期に部屋の物が勝手に動き出すと思う。PC以外の物なら別に動き出しても壊れてもいいが、さすがにPCが動き出したら幽霊との全面戦争も辞さない覚悟である。
ドアはガンガン叩かれ続けている。いい加減に本気で煩わしくなり、布団を頭から被ってやり過ごそうとしたその瞬間、
「トオノキーっ!! おいコラっ、起きろトオノキーっ!!」
叫び声が聞こえた。どうやら声から察するに、扉を叩く幽霊は女の子らしい。今まで女の子との接点なんて黒須さんくらいしか無いこの自分に、幽霊とは言え女の子が連日遊びに来てくれることは少しだけ嬉しかった。これが俗に言うモテ期というやつなのかもしれない。しかし幽霊の女の子が自分のことをトオノキなんて呼ぶとは意外だった。自分のことをトオノキと呼ぶのなんて黒須さんくらいのものであ
飛び起きた。
慌てて状況を確認する。まだ朝の八時半だった。
「トォーオォーノォーキィーッ!!」
ガンガン叩きながら黒須さんが大声で叫んでいる。
なんで。昨日の今日である。なんでまた黒須さんがここに。昨日何か忘れものでもしたのだろうか。いやそんなはずはないだろう、そもそも黒須さんは手ぶらだった。忘れ物なんてするはずがない。今日にもう一回来るなんて約束もしていない。昨日黒須さんと別れた後、結局黒須さんはPCにログインしないままだったから連絡の取りようもなかった。ならばなぜ。何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。でも昨日の出来事をよくよく思い返せば、怒るべきはどちらかと言えばこっちなのでは
扉を叩くのが唐突に納まる。静寂が帰って来る。なぜだか知らないが心臓がバクバクする。
そのまま五秒が過ぎ、十秒が過ぎ、三十秒が過ぎ、一分が過ぎ、
突然に、ドアにある郵便用の小窓がパカッと開き、ビクッと身体を震わせたこちらを他所に、その奥から何かがポトッと落ちてきた。何だろう、と思って近づいて確認しようとしたその刹那、それが一気に動き出した。
蝉だった。
部屋の中で暴れ始めた。
たまったものではなかった。
恐怖から叫び声を上げたこちらにドアの向こうの黒須さんが気づき、小窓の奥から小さく、
「五秒以内にここを開けろトオノキ。さもなくば第二波、第三波が貴様を襲うだろう」
言われた通りにした。というより、部屋の中を飛び回る蝉が恐過ぎて一刻も早く脱出したかった。蝉の突進を悲鳴を上げながらかわし、ドアにすがりつくように飛びついて鍵を回そうとするが、焦り過ぎてなかなか上手くいかない。ただ捻るだけなのに汗で滑ってまともにドアを回せない、こんなことは今までに無かったのに、どうしてこんな時だけこんなことが、
小窓から声が聞こえた、
「残念だトオノキ。――五秒だ」
小窓から、二匹目の蝉が投入された。
正真正銘の悲鳴を上げた。
チェアーに胡坐を掻いて座り込み、お腹を抱えて涙目になりながらも黒須さんは大笑いしている。
部屋に投入された二匹の蝉は、黒須さんの迅速な捕獲により外へと逃がされたのだが、寝起きに対するあの仕打ちは酷過ぎると思う。
蝉が大嫌いだった。小学生の頃、友達に無理矢理捕獲を命じられ、恐る恐る手を伸ばした瞬間、盛大におしっこを掛けられて目に入り、混乱しまま走り出した際に川に落ちて足を擦り剥き、数日間にも及ぶ激痛を味わって以来、蝉はトラウマの対象だった。そのことを、黒須さんは知っているはずだった。昔にそんなことを話したはずである。なのにそれを部屋の中に放り込むなど、鬼畜の所業以外の何ものでもないと思う。心臓がまだバクバクと恐ろしいまでの鼓動を繰り返している。
「……それで、あの……今日は……?」
ベットに腰掛けながらそう尋ねると、ようやく笑いの納まった黒須さんは人差し指で目元を拭いながら肩をヒクヒクさせつつ、
「いや、暇だったから遊びに来たんだよ」
「それなら、その……連絡くらいは、」
遊びに来るのは百歩譲って構わないが、その度に奇襲されていたらたまったものではない。
「細かいこと言うなよ。朝起きたら何となく漫画の続き読みたくなったんだ。だから来ただけ。いいだろ?」
「いいですけど、その……」
「それにほら、お土産も持ってきた。まだ朝飯食べてないだろ?」
そう言いながらコンビニの袋を差し出して来た。中には菓子パンが三つ入っていた。しかし元来小食だし、よっぽどのことがない限り朝ご飯は食べない生活を送っている。生返事でお礼を言いながら、袋を机の上に置く。
「とりあえず漫画読む。お前は寝ててもいいよ」
言うが早いか、黒須さんはチェアーから立ち上がり、昨日片付けたばかりの漫画をまた引っ張り出す。再びチェアーに座り直し、足を上げて砕けた体育座りのような格好をしながら漫画を読み始める。瞬間、慌てて目を逸らした。さっきまでとは違う意味で心臓がバクバクする。今日の黒須さんの格好は、ズボンではなかった。黒いミニスカートと白のTシャツ姿だった。足を上げたら見えるに決まっていた。意図的にやっているのか無意識にやっているのかは判らないが、非常に目のやり場に困る。そんなこっちの考えなど知ってか知らずか、黒須さんは相変わらずの無防備な格好で漫画を読み続ける。
ため息が出た。寝ててもいいと言われたのだから、本当に寝てしまおうと思う。このまま目のやり場を考えながらこの部屋で過ごすよりは、寝てしまった方が楽である。おまけに無理矢理叩き起こされたために頭がふらふらする。時計を逆算するとまだたぶん三時間も寝ていない。さすがにあと三時間は寝ていたい。
黒須さんの方から不自然なほど視線を外し、もぞもぞとベットの中へと潜り込んで行く。敢えて黒須さんに背を向けて目を閉じる。目を閉じるとさっき見た光景が意識せずとも頭に浮かんでしまう。白だった。思考を力の限りに捻じ切る。頭の中で素数と羊の数を数え始める。
次に目を覚ますと、時刻はすでに昼過ぎだった。
ベットの上でのそのそと体勢を変え、寝転がったまま部屋の中を見回す。本棚に綺麗に並べられていたはずの単行本は床やチェアーの上に散乱していて、机の上に置いてあったはずのコンビニの袋はすでに無く、代わりにどこから持ってきたのかペットボトルのジュースと、菓子パンの空袋が三つ置いてあるだけだった。
黒須さんの姿が無かった。どこに行ったのだろう。
そう思って起き上がろうとした時、ふと漫画のページを捲る音と、仄かに香るシャンプーの匂いに気づいた。視線を上の方に移して初めて、部屋全体に向けていた視界の、ちょうど死角になっていたそこに黒須さんがいることに気づいて思わず息を呑む。こちらに背を向け、ベットに凭れて床に座り込んでいる。まとめられた長い髪の一部がベットに広がっていて、本当に目と鼻の先にそれがあった。
思考が上手く回らない。今すぐにでも起き上がって離れた方が良いと思うのだが、ここで起き上がると漫画を読んでいる黒須さんの邪魔になるんじゃないかと少しだけ思い、
「トオノキ」
思わず返事が出来なかった。
身体が硬直したように動かず、思考回路だけがあわあわしていると、黒須さんはこちらに背を向けたままこう言った。
「腹減った。ラーメン」
菓子パン三つ食べたんじゃ、とは言えなかった。
結局、また醤油味のカップラーメンを作った。PCを触る時と同様に、漫画を読む時もそうなのだが、汚れた手で触るなんてことは論外だし、漫画を読んだままカップラーメンを啜るなぞ言語道断である。しかし黒須さんに面と向かってそう意見を言えるはずもなく、ただハラハラしながら漫画に汁が飛ばないかとチラチラ盗み見していたら、「気が散るだろ」と言って蹴られた。
今回は寝落ちせず、黒須さんはずっと漫画を読んでいた。だからこっちも気にせず、PCを点けて一人でネット閲覧をしていた。ずっと無防備な格好だった黒須さんの方は、理性の力で本気で見ないようにしていた。あまりにも見ないようにしていたせいで、トイレに行く際に机に足を引っ掛けてしまい、その音に対してびっくりした黒須さんに「静かにしろ」と言って怒られてまた蹴られてしまった。
そんなこんなで夕方が近づき、時計が五時を回った辺りで背後から単行本を閉じる音がして振り返る。立ち上がった黒須さんは「んーっ」と大きく背伸びをした後、「うん」と小さく頷いた。
「帰る。ありがとうトオノキ」
それからニッと笑い、
「明日も来る。まだ漫画が途中だ」
それは別に構わない。構わないのだが、
「……あの、……何時くらいですか……?」
その問いに対して、黒須さんは平然と、
「今日と一緒くらい」
困る。非常に困る。そんな時間に来られても起きていられる自信がない。
「いえ、あの、……もうちょっと遅く、」
「いやだ。今日と一緒くらいに来る。起きてなかったら蝉入れる」
その脅迫に「どうしよう」と少しだけ悩みはしたが、しかし黒須さんならいいか、と思わなくもない。間違っても変な使い方はしないだろうし、蝉を入れられるくらいならこっちの方がまだマシだ。それにどうせ持っていたところで使い道なんてないし、盗られて困るものはPCくらいしかない。もし万が一にでもPCを盗られたら、相手が黒須さんであろうと幽霊であろうと全面戦争を決行するだけである。
PC机の引き出しの一番上を開け、中から味気ない白のプレートの付いた鍵を取り出す。黒須さんに向き直って鍵を差し出しながら、
「一応、……合鍵です。蝉入れるくらいなら、これで、」
おっ、と黒須さんが嬉しそうに笑う、
「なんだ気が利くじゃんトオノキ」
お礼もそこそこに鍵を引っ手繰った黒須さんがその場でくるりと回り、
「じゃあトオノキ、おれからもやるよ」
「? な」
何をですか、と言う間も無くグーパンチが飛んで来た。
ひとたまりも無く椅子から転げ落ちて引っ繰り返った。
会心の一撃に再び笑った黒須さんが、嬉しそうに言う。
「どうだ、キアイ入っただろ?」
泣きそうになるのを必死に堪えながら、一応は何とか上手く笑えていたと思う。
だけどやっぱり痛いものは痛い。
黒須さんが帰って行った部屋の中、ちょっとだけ、ひとりで泣いた。
◎
大きい黒い影。
とてつもなく巨大な黒い影。
影から逃げることなど出来はしない。振り返ればいつもそこに影はあった。その影はすぐに大きさを増し、気づけば世界を覆い尽くすかのように巨大になる。逃げることは出来なかった。抗うことは無意味だった。逃げれば逃げるだけ影は大きさを増し、抗えば抗うほど痛みは増した。上を向くことが恐かった。影を直視することを身体が拒絶していた。
助けはなかった。助けてくれるはずだった光は、影に怯えていたのだ。
逃げることも出来ず、抗うことも出来ず、助けを求めることも出来ない。ならば、どうすればいいのか。答えは簡単だった。至極単純だった。耐えるしかないのだ。身体を捨て、心を殺し、ただじっと、耐える。影が満足するまで。影がこちらに飽きるまで。ただずっと、耐えるしかない。身体に傷を負う度、身体に痣が浮かぶ度、心がひとつずつ剥ぎ取られていくのを感じながらも、それでも耐える。取るに足らない人形のようなもの。影の遊び道具のようなもの。そう思い込むことで、影との距離を、愚かしくも上手く取れているのだと、そう、思っていた。
あの日。頭の中が真っ白になった、あの日までは、
ベットから飛び起きた。意識が瞬間的に覚醒し、驚くほど荒い呼吸を繰り返す。
真っ暗な部屋の中、自分の不定期な呼吸音だけが響き渡り、
汗が酷い、シャツがぐっしょりと濡れている、確かタオルが近くにあったはず、
そう思った刹那に、振り上げた椅子の重みと、それを振り下ろした際の衝撃が、鮮明に思い出された。そしてそれを思い出した瞬間、胃の奥から一気に逆流して来た。口元を押さえてベットから飛び出し、トイレに駆け込んですぐさますべてをぶちまけた。便座に身体を預け、何度も何度も、胃の中が空になるまで吐き続けた。それでも体調は一向に良くならず、何かを考えれば考えるほど、手に残っている重みと衝撃だけが思い返され、そうすればするほど、胃の奥から何もかもが逆流して来る悪循環。
身体の震えと、吐き気と、悪寒が止まらない。
どうしようも出来なくて、どうすることも出来なくて、ただ、泣いていた。
中学校に上がると同時に、母が再婚した。
本当の父親の顔は知らない。死んでいるのか生きているのかさえ知らない。そのことを母に尋ねると、決まって母は泣き出すだけで何も話そうとはしなかった。だからいつしか、そのことを尋ねることを止めていた。それに、学校で父親がいないことに対して陰口などを言われたことはあったが、それ自体が別に不幸だとは思わなかったし、逆に父親がいないからこそ母は女手ひとつでもちゃんと愛情を持って育ててくれていたのが子供ながらに判っていた。だから、そんな母が大好きだった。
中学に上がると同時に、急に母が再婚したいと言った。
最初は反発していたが、それでも大好きな母が好きになった人ならば納得は出来た。今にして思えば、好き嫌い以前の問題として経済的な話もあったのかもしれない。真相は今もまだ判らないけれど、それでも母は再婚し、中学生になって初めて、父親が出来た。しかし「父さん」と呼ぶことに最後まで抵抗があって、結局は今もまだ、あの人を「父さん」と呼んだことは一度もなかった。
なぜなら、
なぜなら新しい父親は、人の皮を被った、――影だった。
再婚して一ヶ月ほど経った辺りだったと思う。どのような理由があったのかは今となっては判らないし、判りたくもない。しかし影は突然にその本性を現して、一晩で世界をめちゃくちゃにしてしまった。逃げることも出来ず、抗うことも出来ず、助けを求めることも出来なかった。
それから高校三年生になるまでの約五年間、影の遊び道具として過ごした。
そして、あの日。高校三年生になった、春休みが終わって始業式のあった日のあの夜。
世界を覆い尽くした黒い影の中に、小さな白を見つけた気がした。極限まで精神を磨り減らしていたせいで見た幻覚か何かだったのかもしれない。たけどその幻覚のような白に対して、気づけばいつの間にか手を伸ばしていた。やがて手に触れたその小さな白は、一気に影の世界を塗り潰して支配した。
気づいた時には血塗れの影に向かって、再び椅子を振り上げていた。
それを理解したと同時に、今度は明確な意識の下、椅子を握る手に渾身の力を込めていた。
止まらなかった。止められなかった。
いや。止めるつもりなど、毛頭も無かった。
――殺してやる、と。その時は、本気で、そう、思った。
警察沙汰にはならなかった。
虐待が露見することを恐れたのだと思う。
ただ、家には居られなくなった。家から遠く離れた街にアパートを借り、そこでずっと暮らすこととなった。ただそこから何とか高校には通っていたし、そこを卒業して大学にも通った。しかしその途中でふと、ある日を境になぜか全部が唐突にどうでもよくなって、気づいたら大学には行かなくなっていて、そのせいで単位が足りなくなったこともあり、しかしどうしても辞める踏ん切りがつかなくて、宙ぶらりんのまま休学することになった。
進学費も、生活費も、家賃も、母が全部出してくれていた。母なりの罪滅ぼしだったのかもしれない。あの日以来、影は愚か、母とも会ってはいない。電話すらしていない。それでも毎月お金だけは振り込まれるし、ちゃんと元気にはやってくれているらしい。お金が振り込まれるということは、母が生きているということだった。それだけで良かった。大好きだった母の安否は気にはなるが、それでも、どうしてか会いたいとは、思えなくなっていた。
時折、何の前触れもなくあの日のことを思い出す。
あの日のことを思い出す度に、それを身体が拒絶するかのように吐いた。
吐いた後は、ただずっと、泣いていた。
恐かった。今もまだその姿を見せる影が。大好きだった母に対して会いたいと思えなくなっている感情が。そして、人を本気で殺そうと思って椅子を振り下ろしたあの時の自分が、何よりも、恐かった。恐い。恐い。恐い。恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い恐い。身体の震えと、吐き気と、悪寒が止まらない。涙は枯れない。明けない夜を待つかのような絶望の中、ただひたすらに、泣き続けた。
そんな時だった。
――ウジウジするんじゃねえよチンカス。
あの人は、そう言ってすべてを一蹴してしまった。
――てめえが死なずに相手を殺すくらいの度胸が、てめえにはあんだろうが。それはてめえが強いってことだろ。死ぬくれえなら相手ぶっ殺す。上等じゃねえか。それにな、逆にそんな下らないことでてめえが死んでたんなら、おれがてめえをぶっ殺してたわ。
初めて、人に背中を押された気がした。
初めて、あの日のことを「よくやった」と、褒めてもらった。
それだけで、どれだけ救われただろう。
それだけで、どれだけ感謝しただろう。
あの日受けたあの言葉は、今もまだ、鮮明に憶えている。
そして、
そして不思議なことに、黒須さんに殴れた日は、絶対に、あの日のことは思い出さなかった。
◎
目が醒めたら、基本的に黒須さんが部屋にいるようになった。
部屋にいる黒須さんは勝手にPCを点けてネットをやっているか、勝手に漫画を漁って読んでいるか、勝手にカップラーメンを作って食っているか、その時々にやっていることは違ったが、それでも朝方に寝て昼過ぎに起きると、部屋の中には黒須さんがいた。
寝惚けながらも「……おはようございます」と言うと、黒須さんはこちらに視線を向けずに何事かをしながらただ一言、「おう」と返してくる。それからは黒須さんがPCを見ているのであれば漫画を読むし、漫画を読んでいるのであればPCを見るし、カップラーメンを食っているのなら少しだけ分けてもらったりした。もはやこの部屋は黒須さんの「暇潰し部屋」そのもので、金の掛からない漫画喫茶みたいなものになっているのだと思う。
それが嫌かと言われれば、別に嫌ではない。ただ、唯一の不満を言っていいのであれば、PCや漫画を触る時は手を洗って欲しいし、PCや漫画を見ている時はカップラーメンを食べないで欲しいし、無防備な服装で無防備な格好をして座らないで欲しいし、あともし万が一に警察が踏み込んで来た時は、率先してこの身の潔白を証明して欲しい。
特出しての会話は特に無かった。あったとしても「トオノキ。飯」「あ、はい」「トオノキ。お茶」「あ、はい」「トオノキ。次の巻取って」「あ、どうぞ」「トオノキ。どっかにUSB転がってない?」「あ、どうぞ」のような事務的なものであった。前は頼れるアニキ分であったはずなのだが、いつの間にか黒須さんとの関係が「ご主人様と召使」になっている気もしなくはない。ただそのことに関して下克上を実行しようとするとたぶん蹴られると思うのでやらない。
黒須さんはいつも知らない内に来て、夕方の五時過ぎに帰って行く。いくら黒須さんと言えど小学生であるからして、きっと門限か何かがあるのであろう。だから別に質問などはしなかったのだが、帰り掛けに黒須さんは必ずこちらを渾身のグーパンチで殴って満足そうに笑って帰って行く。「暇つぶし部屋」兼「ストレス発散要員」の提供役として自分はいるのかもしれない。ただ黒須さんにメリットがあるように、こっちとしてもメリットがあるために一概に「やめてください」と言えないのが少し辛い。こちらにもメリットはあるにせよ、やはり痛いものは痛いのである。いつも黒須さんが帰った後は、ひとりで密かに泣いている。
そして今日もまた、起きると黒須さんが部屋にいた。寝惚け眼で辺りを見渡すと、黒須さんはチェアーの上で胡坐を掻いたまま座っていて、小さな音量で何かの動画を見ていた。音量を最低限に絞ってくれているのは、黒須さんなりの心遣いなのだと思う。まるで遠慮せずに部屋に入浸ってはいるが、こういうところの心遣いは素直に嬉しかったりする。
のっそりと起き上がり、黒須さんに「……おはようございます」と言うと、ディスプレイからは視線を外さずにいつも通り「おう」とだけ返って来た。壁に掛けられた時計で時刻を確認すると、すでに昼の二時だった。部屋の中からはどこからともなく醤油ラーメンの匂いが漂っていた。
ベットの上でボーっとしていると、ふと窓の外から子供の声が聞こえた。気になってカーテンを少しだけ開け、太陽の光に顔を顰めながらも窓の外の光景を見つめる。ランドセルを背負った小学生の男女が、何事かを話しながら歩いている。何か随分と懐かしい光景のような気がする。近頃は全然見なかったような気が、
ああそうか、とひとりで納得する。夏休みが終わったのだ。今日からたぶん、新学期なのだろう。だから小学生が、
……あれ?
窓から視線を外して部屋の中に戻す。チェアーの上に胡坐のまま座り込んだ黒須さんをじっと見つめる。
突然に、
「――なんだよ」
視線すらこちらに向けず、言葉だけが返って来た。
言っていいのか判らないが、それでも気になってしまう。
「……あの。夏休みって、いつまでですか……?」
「昨日」
やっぱりそうだった。そうだったのだが、そうであればこれはヤバイ気がする。
「……学校、行かなくていいんですか……?」
ため息が聞こえた。本当に嫌そうなため息だった。
「義務教育舐めんなよ。行かなくても進級なんて出来るんだよ」
いや、そういう問題じゃない。そういう問題ではないのである。
そうじゃなくて、
「いや、あの……学校には、行った方が、」
「うるせえな。大学行ってねえニートが偉そうに命令すんじゃねえよ」
いつにも増して機嫌が悪い。どうやら地雷を踏んでしまったらしい。しかしここまで来たら後には引けなかった。別に学校になんて行っても行かなくても、こっちが偉そうに指図出来ることではないのは本当のことなので文句は無いが、学校をサボってまでここに来られるのは非常にヤバイ気がする。
「あの、……学校行って、帰りにここに寄れば、」
「うるせえっつってんだろっ!!」
提示した妥協案を、黒須さんはPC机に叩きつけた掌と同時に放った一喝で捻り潰した。
いきなりの怒鳴り声に驚いた。黒須さんが見たことのないような表情でこっちを睨んでいる。
どうやら最上級の地雷を無神経に踏み潰してしまったみたいだった。
たぶん、子供としての将来を心配するのであれば、ここで怒鳴り返してでも黒須さんを追い出すのが正解なんだと思う。しかし、それをするだけの資格が自分にあるとは到底思えない。それに今まで散々助けてもらっていた。おそらく黒須さんには黒須さんなりの「行けない理由」、あるいは「行きたくない理由」があるのだと思う。ならば無理矢理にそれを聞き出すこともしたくないし、それを無理矢理捻じ曲げることもしたくなかった。なぜなら今まで、黒須さんもこの自分に対して、そういう風に接してくれていたから。
だから、素直に頭を下げた。
「……すみません。無神経でした……」
黒須さんは何も言わず、視線を外してディスプレイを見直す。
ベットの上で座ったまま、俯いて小さくため息を吐く。どうしよう、と思う。たぶん黒須さんは怒っているのだろう。一応謝ったが、それだけで機嫌が直るとは思えない。もう一回ちゃんと謝ろうか、でも何て言って謝ればいいのか。どうしよう、どうしようか、とそわそわと悩んでいたその時、
「……トオノキ」
顔を上げる。黒須さんはやはりディスプレイを見たままだったが、それでも言葉を紡ぐ。
「……もう来るなって言うなら、もう来ないよ。鍵も返す。迷惑なら言ってくれていいから」
意外な台詞に目を丸くする。
あの黒須さんが、怒るどころか、逆に素直な台詞を言っている。なんだろうこれは。奇跡だ。
でも、正直な話、びっくりするくらい安心している自分がいた。
素直な台詞には、素直な台詞を返そうと思う。
「……いえ。来たい時に来てくれていいですよ。黒須さんといるの、ぼくも楽しいですから」
随分と間を置いた後、聞き取るのがやっとの声で、黒須さんが言った。
「………………ありがと」
素直な黒須さんというのもたまにはいいものだ。なんか可愛い。そう思いながら改めて黒須さんを見ると、どうしてか少し顔が赤い気もする。素直にお礼を言ったことに対して恥ずかしがっているのだろうか。――ん? 恥ずかしがる? チンカスとかインポとか平気で言う、あの黒須さんが? あれ、なんだこれ、なんかちょっと面白い、と思わず噴き出してしまった瞬間、しまったと思ったが後の祭りだった。
びっくりするくらいの速さで突っ込んで来た黒須さんからグーパンチを食らった。
黒須さんが勉強をしている。
黒須さんが勉強をしている。
黒須さんが勉強をしている。
黒須さんが勉きょ
「――何だその顔。おちょくってんのかてめえ、ぶっ飛ばすぞ」
いつも通りに夢の中からのっそりと起き上がると、PC机の上のキーボードを横に退け、空いたスペースに参考書を広げながら黒須さんが勉強をしていた。
びっくりした。夢かと思った。半ば放心状態で黒須さんを見つめていたら、「ぶっ飛ばすぞ」と言われた。黒須さんはやると言ったらやるヒトである。ぶっ飛ばされるのは本当に勘弁して欲しかったので、ベットの上で綺麗に土下座して「すみませんでした」としっかりと謝った。
土下座に対して不満そうに鼻を鳴らした黒須さんは、それまで通りに参考書に視線を落とし、ノートに向かって何かを静かに書き始める。気になったので近づいて行く。あくまで邪魔にならないよう、細心の注意を払いながら黒須さんの後ろに回り込み、小さく背伸びをしながら肩越しに手元を覗き込む。その間際、ワンピースタイプの服の隙間から見える白い肩に少しだけドキリとしたが、何とか理性で押し留める。
小学六年生の頃にどんな授業をやっていたのかはもはやまるで憶えていない。確かローマ字とか、そういうのをやっていたのではないかと思う。ただし黒須さんは不登校児みたいなものである。授業にはついていけていないであろう。であれば、もしかしたら未だに九九とかをやっているのかもしれない。黒須さんが一生懸命に九九を書き写している姿なんて、それはそれは随分と可愛らしい光景のような気が、
――?
なんだ、これ?
X? Y? π? √? ……公式? 方程式?
「……あの」
思わずそうつぶやくと、黒須さんはノートにさらさらと式と解を書きながら、
「なんだよ」
「……黒須さんって、中学生……?」
あぁ?、と黒須さんが怪訝な顔で振り返り、
「小学生だって言っただろ」
「いや、でも、これ……」
どう考えても小学生レベルの問題ではない。中学生レベル、下手をすれば高校生レベルだ。
おかしい。明らかにおかしい。
そんなこちらの雰囲気に気づいたのか、黒須さんは再び不服そうに視線を参考書に戻し、
「おれにもいろいろあるし、いろいろ考えてんだよ」
すぐそこに見える、仄かにシャンプーの香りがするポニーテールを見つめる。
なるほど。学校に行かないだけで、勉強自体は独学だけで恐ろしい速度で進んでいるのか。今に黒須さんがやっているものは「算数」ではなく、「数学」である。文字通りレベルが違う。学校に行って「いんいちがいちー、にいちがにー、」とかやっているのが馬鹿らしく思えるのも無理はないのかもしれない。
でも敢えて言うのであれば、学校は勉強だけをしに行く場所ではない。勉強だけではなく、みんなで遊んだり、みんなで給食を食べたり、みんなで泥団子を作って先生に投げつけたりする場所でもある。それは部屋に引篭っているだけでは絶対に体験できないことであり、そして、大人になってしまったら、もう二度と体験することが出来ないことでもある。それを黒須さんが知らないのは、あまりに勿体無いと思う。
だから。
「黒須さん」
「なんだよ」
「泥団子作りましょう」
「作らねえよチンカスぶっ飛ばすぞ」
振り返りながらのグーパンチを食らった。
激しい雨音に起こされた。
ベットから起き上がり、カーテンを少しだけ開けると、外は笑ってしまうくらいの大雨だった。通り雨的なものであろうが、本当にびっくりするくらいに降っている。雨が世界を打ちつける音しか聞こえない。こういう雨の日は、不思議となぜかテンションが上がった。風邪で学校を休んだ時や、台風が迫っている時の感覚に似ている気がする。不思議と悪い気はしない。ただ、テンションは上がるのだが、こんな雨の中を出歩くのは丁重にお断りする。
視線を窓から部屋の中へ移す。
違和感があった。どこを見てもいない。
時刻は九時半を少しだけ過ぎていた。
いつもならとっくの昔に黒須さんが部屋にいる時間である。にも関わらず、どこにもいなかった。どうしたのだろう、と一瞬だけ思ったが、耳に入ってくる雨音に納得する。さすがに黒須さんだって、こんな大雨の中を歩いてわざわざここまで来ないであろう。今日は来ないか、あるいは雨が上がってから来るかのどちらか。
しかし朝に起きて黒須さんがいないのは本当に久しぶりのような気がする。今までは自分以外は誰もいないこの部屋が日常だった。今までずっとそういう生活をしていた。それには、慣れていたはずだった。なのに、たった数週間で、黒須さんがこの部屋にいることがいつの間にか当たり前になってしまっていた。少しだけ寂しい気もするが、こういう日があるのは仕方のないことなのかもしれない。
とりあえず顔を洗おうと思った。
ベットから起き上がる。部屋を横切って洗面所まで歩いて行く。風呂とトイレは分かれているこのアパートであるが、洗面所と風呂はくっついている。そこだけがこの部屋の不満だったのだが、もうそれに対しての文句も言い飽きていた。小さな深呼吸をしながらトボトボ歩き、風呂場のドアノブに手を掛け、いつも通りに回して中へと入って行く。
先に弁明しておくと、ワザとじゃなかった。神に誓ってもいい。
激しい雨音のせいで気づかなかっただけです、と神に誓って言える。
寝起きのせいで脱衣籠に入れられていたずぶ濡れの服にさえ気づかなかったんです、とも神に誓って言える。
でもそんなモノが役に立つのはラッキースケベ満載の漫画の中の話だけで、現実世界でやってしまえばただの痴漢行為で最低な重犯罪ある。おまけに相手が悪かった。こんな現場を警察に抑えられたら刑務所と裁判所を通り越して即刻死刑にされても文句は言えないと思う。もし仮に見知らぬ誰かがそんなことをしたら、自分だって声高々に死刑を要求するはずである。
風呂場に立ち込める湯煙と同じように、頭が真っ白になった。
風呂場に入って行ってようやく、雨音を打ち消したシャワーの音が聞こえた。
気づけば目が合っていた。
シャワーから流れるお湯が、綺麗な白い肌を伝っている。
たぶん、自分でも驚くくらい素直に笑えたと思う。
これまでの人生で、この時ほど素直に笑顔になれた時もなかったと思う。
そんな笑顔を浮かべたまま、不思議と言葉はすぐに出た。
「おはようございます」
「……おう」
一言だけそう返した黒須さんは、こっちを無表情でじっと見つめたまま、さらに、
「――で?」
言い訳も糞も無かった。
笑顔は一発で引っ込み、涙目になりながら、
「……で、って……いうか、あの……、」
そして、黒須さんが笑った。
びっくりするくらい可愛い笑みだった。
思わず血の気が引くくらい可愛い笑みだった。
「トオノキ」
「……はい」
「とりあえず目、閉じろ」
「……はい」
「んで、歯、食い縛れ」
「……あの、」
「いいから。歯、食い縛れ」
「……はい」
精一杯に目を閉じて、頭が痛くなるくらいに歯を食い縛り、
完全無防備な鳩尾にグーパンチが食い込だ。あまりの衝撃に息が詰まり、声すら上げられずに吐きそうになった瞬間、見事なまでのワンツーで顎をどつき回された。
珍しく、夕方に帰って行った黒須さんから、日付が変更される直前くらいにPCの方へ対話モードの要請があった。
黒須さんと会ってから、PCを通して対話モードを行なうのはこれが初めてだった。なんだろう、と思って要請を受けると、ただ一文だけメッセージが送られて来て、すぐにログアウトしてしまった。
『2011.09.16/23:57 <黒須> : 風邪ひいた。しばらく行けない』
だいじょうぶですか、とか、お大事に、とか言う暇も無かった。一言だけ送ったと同時にログアウトされた。最初は「黒須さんが風邪引くなんて珍しいなぁ」とか「だいじょうぶかなぁ」とか「お見舞いとか行った方がいいのかなぁ」とか他人事のようにのん気に考えていたのだが、ある一瞬を境に唐突に考えが百八十度変わった。
もしかして、何か気に障ることをしてしまったのだろうか。
一言だけメッセージを送ってすぐにログアウト。これはつまるところ、怒っているからこその行動ではないのだろうか。いつの間にか黒須さんを知らずの内に怒らせてしまっていて、だからこそしばらく行かないと言って来たのではないか。一度そう思ってしまったら、もうそれ以外には考えられなくなってしまった。正直な話、心当たりはまったくないが、謝った方がいいような気もする。だけど「何で謝ってるか、判ってんのか?」と言われた時はどうしよう。そこで首を傾げてしまったら、たぶん火に油を注ぐだけである。どうしよう。本当にどうしよう。
それから二日、黒須さんからは一切連絡が無かった。
その二日間、気が気ではなく、ひたすらに部屋の中をうろうろしていた。
そして三日後、何事も無かったかのように、黒須さんが普通に家に来た。
朝の八時半過ぎに、玄関の鍵が回る音が響いて飛び起きた。普段ならば絶対に起きないくらいの音だったはずだが、神経を磨り減らしていたせいで眠りが浅かったのであろう、飛び起きると同時に玄関へ向かい、小さな声で「……じゃましまーす」と入って来た黒須さんに突撃するかのような勢いで詰め寄った。
突然の出来事に黒須さんは小さな身体をビクッと震わせて硬直し、そしてその小さな身体の足元に跪いて力の限りに土下座した。
「あのっ! な、なんて言っていいかわかっ、わからないんですけどっ! とっ、とりあえずっ、すみ、みすませんでしたっ!」
しばらくの間、無言の時間が過ぎ去った。
やがて上の方から小さなため息が聞こえたと思ったと同時に、
「トオノキ」
顔を上げることができず、ただ俯いたまま、
「……はい」
黒須さんは言った。
「意味が判らないんだけど、お前のそれは、何に対する謝罪だ?」
予想通りの問い掛け。この二日間、その答えをひたすらに考えていた。
しかし結局のところ、何が原因で、何に対して謝ればいいのかは、最後まで判らなかった。そうであればもう、正直に言うしかないと思った。怒っている原因は判らない。そして判らないのなら、聞けばいい。言ってくれないと判らないことだってあるはずだ。直接に黒須さんの口から原因を聞いて、それをちゃんと理解した上で、もう一度、しっかりと謝りたかった。
俯いたまま、言葉を紡ぐ、
「あの……、黒須さんが、なんで怒ってるのかは、正直、よくわかってないです……」
そう、だからこそ、
「……何に怒ってるのか、その……言ってくれませんか。言ってくれたら、それ……ちゃんと、謝って、直しますから……」
搾り出すようにそれだけ言うと、再び、頭の上からため息が聞こえる。
「トオノキ」
「……はい」
「とりあえず腹減った。ラーメン作れ」
「え? あ。……? ……は?」
「だから、ラーメン」
「え、あ、はい」
言われた通りにカップラーメンを作った。
チェアーのスペースを半分ずつ分け合って座り、二人揃ってカップラーメンを食べた。
結局、黒須さんはそれっきり、謝罪については何も言って来なかった。だけど隣の黒須さんはあくまでいつもと同じ黒須さんで、特に怒っているような雰囲気も無い。不思議に思ってチラチラと様子を伺っていたら、「何だよ大人しくしてろ」と肘で脇腹を強打された。それが結構痛くて、チェアーの上で悶絶しながら「やっぱり怒ってるんだ」と思っていたら、なぜか黒須さんがカップラーメンに入っていたメンマをひとつくれた。怒っているのか怒っていないのか、本当によく判らなかった。
ただ、その日の帰り掛けにもらったグーパンチは、どうしてかいつもより少し優しく感じた。
いつも通りに漫画を読んでいたら、PCを弄くっていた黒須さんから突然にこう聞かれた。
「トオノキ。お前の好きなもんって何?」
漫画から顔を上げて黒須さんの方へ視線を移す。
「何ですか急に」
「いいから。好きなもんって何だよ」
あくまでディスプレイを見つめたまま、黒須さんはそう言う。
好きなもの。急にそう言われても少し困る。声を上げて「これが好きだ」なんて言えるものは、正直何も無かった。趣味なんてものはなかったし、強いて言えばPCでのネット閲覧くらいである。ということはつまり、ネットが好き、ということだろうか。でもそれではあまりに曖昧過ぎる。敢えて答えるのなら、ネットを見るためのPCのような気がする。
ぼんやりとした笑みを浮かべ、
「そうですね、PCですかね」
大きなため息が聞こえる、
「そうじゃねえよ。食い物の話だよ。好きな食べ物は何だ、って言ってんの」
ああそういうことか、と素直に納得しつつ、
「カルボナーラですね」
「はあ!?」
黒須さんが急にこっちを向いて声を荒げた。
予想外の反応にビクッと身体を震わせる。なんだろう、カルボナーラは駄目だったのだろうか、と心配になりながらも、おずおずと口を開く、
「え、いや……あの、すみません……。駄目ですか……?」
黒須さんは再び視線をディスプレイに戻し、本当に不機嫌そうな顔で、
「駄目だろ。どうやって作るんだよカルボナーラって」
いや、そんなことをいきなり言われてもこっちも困る。
でも作り方なんて、パスタ茹でて市販のカルボナーラのソースを掛ければいいだけなのではないだろうか。さすがに本格的なものを一から作る工程は知らないが、別にそこまでちゃんとしたカルボナーラが好きという訳でもない。正直、パスタ専門店で食おうがファミレスで食おうが家で食おうが、特に大きく味に変化は無いと思っているから拘りもなかった。とにかくカルボナーラなら何でも良かったのに。
しかし黒須さんが不機嫌そうなままなので、とりあえず別の物を挙げることにする。
「じゃあですね、ハンバーグとか」
「却下」
却下って、何が却下なんだろう、
「えっと……カツ丼?」
「それも却下」
「ならお寿司とかどうでしょう」
「無理」
「フカヒレスープ」
「お前。ちゃんと言えよマジでぶっ飛ばすぞ」
「……すみません」
さて困った。
カルボナーラもハンバーグもカツ丼もお寿司もフカヒレスープも全部駄目だった。ただ、フカヒレスープに関しては飲んだことがないのでよくわからないし冗談のつもりだったのだが、こちらを睨む黒須さんの眼が思いの他に本気だったので失言だったと反省する。だがここまで言って黒須さんが納得しないとなるとどうしたものだろう。黒須さんは一体、どういうつもりでこんな質問をしているのだろうか。求めている答えが判らない。判らないけど、少しだけ考えた後、子供の頃によく食べていた物を思い出した。
そこまで好きではないが、嫌いでないことは確かである。
だから、こう言った。
「じゃあ玉子焼き、とか」
少し半笑いでそう言ったこちらを他所に、それまで不機嫌そうだった黒須さんが突然にパッと明るくなった。その時に魅せた、本当に子供のように無邪気な笑みに思わずドキッとする。
黒須さんは嬉しそうにディスプレイに視線を直しながら、
「だよなっ、玉子焼き好きだよなっ。うんっ、判ったっ、玉子焼きっ」
物凄く誘導尋問をされたような気がする。気がするけど、黒須さんが上機嫌なので「まぁいいか」と思う。
小さく鼻歌を歌いながらPCを弄くる黒須さんをしばらく見ていたが、やがてこっちも先ほどのように漫画に視線を落として読み始める。
そして次の日、なぜ黒須さんがあんな誘導尋問紛いのことをしていたのかを知る。
いつもなら自然と起きるまで待ってくれている黒須さんだが、その日だけは違った。部屋に入って来るなりグーパンチで叩き起こされた。アパートが爆撃でもされたのかと思った。それほどまでの衝撃だった。ベットの上で転げ回るこちらにほとんど馬乗りの状態で覆い被さり、実に恐ろしい笑顔を浮かべ、手に持っていた無印の透明のタッパーを差し出して来た。
一瞬、爆発物でも差し出して来たのかと思ったが違った。
透明のタッパーの向こうに何か黄色い物が見えている。
寝起きの脳みそでも何とか判別できた。所々焦げてしまっているが、たぶんこれは、玉子焼き。
本当に嬉しそうに笑う黒須さんを下から眺めたまま、ようやく合点がいく。このためにあんなこと言ったのか、と思う。さすがにカルボナーラやハンバーグやカツ丼やお寿司やフカヒレスープなんて物はすぐには作れないであろう。だから却下されたのだ。それに、黒須さんとの間には主従関係みたいなものはあるにはあるが、その実、思い返せば黒須さんはやはり小学生なのである。作れるものには限界があるのだろう。だからこその、この玉子焼き。
そしてそれを、たぶんであるが、この自分のために作って来てくれた。
なぜ作ってくれたのかはよく判らないが、きっと普段のお礼か何かなのだろう。
そのことに関して、嬉しくないはずがなかった。
恐ろしいと思っていた黒須さんの笑顔は、よく見れば本当に可愛かった。
黒須さんはテンションがびっくりするくらいに上がっているらしく、何かを早口で言っているのだが、寝起きの脳みそでは半分も理解できない。気持ちは嬉しいのだが、まずは少し落ち着いて話がしたい。そう伝えようと思って口を開いた瞬間、タッパーから取り出した玉子焼きを喉の奥まで突っ込まれた。いや、食べる、食べるから、無理矢理に口に捻じ込むのはやめて欲しい、いやていうかちょっと本当に待って欲しい、寝起きにそれは無理っていうかちょ、
咽た。
口に入っていた玉子焼きが台無しになった。
涙目の黒須さんに殺されるんじゃないかと思うくらいボッコボコにされた。
「明日用事あるから、もしかしたら来れないかもしれない」
昨日の帰り掛け、グーパンチを放った黒須さんが振り返りざまにそう言った。そう言った通り、昼過ぎに起きてから部屋を見渡しても黒須さんの姿は無かった。一応の確認としてトイレと風呂場にノックをしながら入ってみたがやっぱりいなかった。
黒須さんも黒須さんなりに何かあるのだろう、と勝手に納得する。自分のように毎日が暇人という訳ではあるまい。
しかし、目が醒めて黒須さんがいないと何だか少しだけ寂しかった。そして、前なら当たり前だったそのことに関して、寂しいと素直に感じている自分が前よりも大きくなっていることが、少し意外でもあった。が、たぶん明日になれば来るだろうし、こんな日くらいは久々に一人でのんびりするのも、たまには悪くないのかもしれない。
顔を洗って歯を磨き、ようやく眠気を忘れつつある脳みそでPCを立ち上げる。
ブラウザを開いて恒例のネット閲覧でもやろうと思って初めて、お気に入りのところにいつの間にか見慣れないフォルダが出来ていることに気づいた。今まで散々使っていたはずなのに、どうしてこの時まで気づかなかったのだろうとすら思う。しかし考えてみればお気に入りに登録しているサイトなんて七割くらいはどうでもいいやつだし、いつも選択するもの以外は特に気にも止めないから無理はないのかもしれない。
見慣れないフォルダを見つめて考える。
フォルダには『見たらぶっ飛ばす』と名前が付けてあった。
――例えば。例えば、自分はいつの間にか見知らぬ部屋にいる。その部屋は真っ白で、家具どころか扉さえも無い。しかし部屋の中央には、それがある。それだけがある。腰くらいまでの高さの台座が中央に鎮座していて、その上には赤いスイッチがひとつだけ乗っている。そのスイッチの上には『押したらぶっ飛ばす』と書いてある。ぶっ飛ばされるのは嫌なので押さないことにする。だけど時間が経つにつれ、部屋の中を探索して何もないことを知るにつれ、次第に興味はそのスイッチに向いていく。そして一度考えてしまえば最後、それ以降、スイッチ以外のことは考えらなくなっていく。誰もいない。誰も見ていない。悪魔が囁く。押しちまえよ。押したとしても、押してないと言い張ればいい。だいじょうぶ、バレやしない。なぜって。決まってるだろ。今のこの光景を、誰も、見てないからだよ。
好奇心に完全に負けていた。
心の中で肩身の狭くなっている良心に精一杯に謝りつつも、カーソルを『見たらぶっ飛ばす』フォルダに合わせる。
小さく深呼吸した後、クリックした。
フォルダ内に登録されているお気に入りの一覧が表示された。びっくりするくらいの量だった。ざっと見ただけで三十件くらい登録されている気がする。それを上から順に眺めていく。黒須さんがよく見る動画サイトの登録が多かったが、その他にも幾つかある。女の子特有のお洒落な服のサイトとか香水やシャンプーのサイト、高校生レベルの勉強の解説が書いてあるサイトとかその他諸々。その中で最近追加したと思わしきサイトの名前が、『美味しい玉子焼きの作り方』だった。その文字を見た瞬間、何とも言えない気恥ずかしさのようなものが込み上げて来て、思わず情けない笑みを浮かべそうになった時、その下に『人体急所−撲殺術』という文字を見つけて一気に現実に引き戻された。
何事も無かったかのようにフォルダを閉じた。
流れる冷汗を意識の下に押し込めて、誰も見ていないくせに下手糞な口笛をぴーひゃら吹いた。
何も見てない。何も気づいていない。うん、そうだ、そうに決まっている。
自分自身にそう言い聞かせ、すべてを忘れてネット閲覧に入った。
それから三時間ほど、ただひたすらにネット閲覧をしていた。時間を思い出す切っ掛けをくれたのは、腹の虫だった。腹から響いた音によってようやく時間の流れが戻って来て、PCから視線を外しながら背伸びをし、何か食おう、と思った。しかし今から買いに行くのは面倒であったため、いつも通りカップラーメンでいいか、とチェアーから立ち上がって台所へ向かう。
食器棚の奥からカップラーメンを漁り、二つ手に取って身を起こし、部屋の方へ視線を投げながら、
「黒須さん。黒須さんも食べますか?」
ほとんど無意識に、誰も居ない部屋に向かってそう言っていた。
部屋の中には誰も居ないのだということを思い出した時、唐突にぼやけた笑みが浮かび上がって来た。そしてやがて、ぼやけた笑みは「何をしているんだろう」と苦笑に変わる。黒須さんは今はいないのに。でも。この部屋に黒須さんがいることが、いつの間にか当たり前過ぎて、この行動自体が、すっかり当たり前になってしまっていた。
この部屋には今、自分ひとりしかいない。
そのことを再び理解した時、何だか胸にぽっかりと穴が空いてしまったかのような気持ちになった。
苦笑を消してため息を吐き出し、カップラーメンをひとつ食器棚に返す。手に持ったままだったカップラーメンの封を切り、蓋を開けて加薬を入れる。ポットの前に立ってロックを外し、お湯を入れようと
カップラーメンを持っているはずの手の感触が、まったくの別のものを握っている感触にすり替わった。
細く、硬く、冷く、無機質な、モノ、
記憶がフラッシュバックする、
血、血塗れの、声、叫び声、悲鳴、息、荒い息、歯、食い縛った歯、痛い、痛い身体、手、握る手、込める、力を込める、力を込める、力を、込める、明確な、明確な意識の下、力を、込め、
殺し、
すべての記憶が一直線に繋がった刹那、胃の中の物が一気に逆流する。
カップラーメンを床に取り落とし、台所の流しへすべてぶちまけた。何度も何度も吐いた。そうすることでこの記憶すら一緒に吐き出せるのであれば、どれほどまでに楽なことか。吐いても吐いても震えが、吐き気が、悪寒が止まらない。手に残る感触が消えない。消えてくれない。まだ脳裏に焼きつく影の姿が、大好きだった母に会いたいと思えなくなっている感情が、明確な殺意を持っていたあの時の自分が、恐い。ただ純粋に、恐い。
流し台に凭れるように倒れ、床に座り込んで、ただひたすらに、泣いた。
ここ数週間の内に抑え込まれていたモノが一気に噴き出しているかのよう。忘れていた。あんまりに楽しかったから、忘れていた。自分ではどうしようもない。自分ではどうすることも出来はしない。忘れることなんて、本当は出来やしない。この記憶から逃げることなんて、絶対に出来やしないんだ。あの日の記憶がある限り、この手に残る感触がある限り、自分は、
呼吸が上手く出来ない、涙が溢れ出してくる、もういっそこのまま、
いっそ、このまま、死ねたら、楽に、
「――トオノキッ!!」
朦朧とする意識の中、叫び声と共に身体を掴まれ、
視界が影に支配される、一気に思考が弾け飛ぶ、
影が来た。影が来た。影が来た。影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が来た影が、握る感触、明確は意識、振り下ろした衝撃、――影は、殺
「しっかりしろっ!!」
頬に力の限りのグーパンチを叩き込まれた。
弾け飛んだ思考が一発で返って来た。
荒い呼吸と涙を流したまま、目の前の光景を見つめる。
黒須さんだった。前に見た怒った顔より、さらに怒っている顔をしていた。
突然、再びのグーパンチと一緒に怒号が飛んで来る、
「お前っ!! お前いまっ!! 何しようとしてたっ!!」
そう言われて初めて、自分の右手が包丁を握っていたことに気づいた。
そう言われて初めて、自分の左手首にうっすらと血が滲んでいることに気づいた。
それを理解した瞬間、それまでとは違う、真っ黒な恐ろしいまでの恐怖心が浮かび上がって来た。本当に自分は今、一体、何をしようとしていたのか。包丁を持って、左手首を傷つけて、一体、どうしようと思っていたのか。あの日。あの日の明確な意識が、今度は自分自身に牙を向いていたのか。あの日に現れたもう一人の自分が、今ここに、いたのか。
また、あの日と同じことを、
牙を、自分だけじゃなく、もしかして、黒須さんにまで、
身体の震えが止まらなかった。
声を上げて泣いた。
そんな中、唐突に黒須さんに抱き締められた。
「……安心しろ。いるから。おれがちゃんと、ここにいるから」
包み込むようなその声に、それまで溜まっていたものが一気に流れ出す。
黒須さんの小さな身体に抱き締められたまま、ただ、泣いた。
落ち着くまで、黒須さんはずっと抱き締めてくれていた。
ずっと、傍にいてくれた。
やがて嗚咽が治まり始めた頃、静かな世界の中、黒須さんが小さくつぶやく。
「……なぁトオノキ。例えばさ」
黒須さんに抱え込むように抱き締められたまま、その言葉を聞いていた。
「……例えば、今ここで世界が滅びたら、……おれたちは、このままずっと、一緒にいられるのかな」
震えるような声で、黒須さんは、そう言った。
どうしてかその時は、その言葉の意味を尋ねることが、最後まで出来なかった。
そして、
そしてその言葉の意味を知るのは、それから四日後の事だった。
◎
買い置きしてあったカップラーメンが底を尽きそうだった。
今日、いつものように黒須さんとカップラーメンを食べようとした時に気づいた。
ここ一ヶ月ほど、二日に一回はカップラーメンを食べている気がする。最初はほとんど毎日のように食べていたのだが、これではさすがに身体に悪いだろう、ということで、途中からコンビニ弁当だったりスーパーの惣菜だったり宅配ピザだったりを食べていたのだが、それでも二日に一回は黒須さんは「カップラーメンが食べたい」と言った。そうであれば買い置きなんて結構な頻度で無くなるのはまあ当然のことで、その度に買出しに出掛けることになる。
今日は珍しく黒須さんが「用事あるから帰る」と言って三時過ぎに帰って行ったため、買出しに行くにはちょうど良かった。散らかった部屋の片づけを終わらせた後、グーパンチされた頬の痛みが引き始めたのを確認してから、長袖の上着を羽織って外へ出た。天気は快晴であったが、何だか少しだけ肌寒かった。
黒須さんが初めて家に来たのは夏だった。あれからすでに一ヶ月近く経っていた。あと数日もすれば十月に入る。九月下旬ともなれば夏はほとんど終わっていて、太陽の光はすでに弱く、吹き抜ける風には秋の匂いがする。
アパートから離れて歩いて行く。
近くのコンビニでまとめ買いをすると割高になるため、少し遠目の駅前にあるデパートまで行こうと思った。生憎として車なんて格好いいものは持っておらず、それどころか免許すら取得していない。自転車ならあるにはあるが、カゴに乗せられる量なんて高が知れているし、買う量を制限されるくらいであれば、歩いて行った方がまだマシである。それに距離もそれなりにあるし、駅前のデパートであるなら歩きと電車で行った方が何かと便利だ。
駅までをトボトボ歩きながら、どうせなら途中まで黒須さんと一緒に行けばよかったかな、と少しだけ思ったその時、ふと、今になって気づいたことがあった。
よくよく考えてみれば、黒須さんがどういう経路でここまで来ているのかは知らなかった。黒須さんの家はここから駅を三つほど行った程度の距離、だということは知っているのだが、それが果たして上りの方へなのか下りの方へなのかは未だに知らないし、正確な住所については聞いたこともなかった。それを皮切りにさらに思い返していくと、住んでいる場所は愚か、そもそも自分は黒須さんの本名すら知らないことに今さらに気づいた。
黒須さんの本名さえも知らなかったことに今さらに気づいて、自分でも今さらに驚いた。
いや、それ以前にむしろ本名どころか、自分は黒須さんについて、ほとんど何も知らないのだということを、今さらに気づいた。
今まで対話にて行なったほとんどの会話は正直、取るに足らないものばかりだったのだが、時には本気で相談したり愚痴を言ったりしていた。自分の家庭環境や抱えている精神的な問題などを、時折黒須さんに話してはぶっきら棒に励まされていた。それが本当に有難かったし、それだけで身体が楽になるような気がしていた。
それが、黒須さんと自分の「関係」だと、いつの間にか思い込んでいた。
相談や愚痴を言っていたのは、いつも決まって自分だった。
そう。いつも決まって、自分『だけ』だった。
黒須さんがこちらに対して相談を持ち掛けて来たことは、今までに、ただの一度も無かった。だから、自分は黒須さんについて何も知らない。家庭環境や抱えている問題、どこに住んでいて普段は何をしているのか、そして本当の名前さえも、何も知らない。この一ヶ月間、ほとんど毎日、黒須さんと一緒に過ごしていた。にも関わらず、その相手について、自分は本当に、何も知らない。何も知らないのだということを、今になってようやく思い知った。
愕然とした。
しかし、こちらから無闇に詮索をしようとはどうしても思えなかった。もしそれを聞けば、黒須さんは何でも無いことのように教えてくれるような気もするし、絶対に教えてくれないような気もする。でもそれを聞いてしまえば、なぜか今のこの関係が壊れてしまうような気がした。そして仮にそれを聞いたところで、どうなるという訳でもあるまい。知ってどうするつもりかと問われれば言葉に詰まる。それに自分が相談する時、愚痴を言う時、黒須さんは絶対に、こちらに対して詮索はしなかった。こちらから話すのを必ず待ってくれた。だから詮索はしたくない、したくないのだが、ただ。
ただ、何だか少しだけ、寂しい気持ちになった。
一番近くにいてくれていると思っていた黒須さんは、実は一番遠くにいたのかもしれない。
駅に辿り着き、ほとんど無意識の内に切符を買った。ちょうどプラットホームに入り込んで来た電車に乗り込み、空いている席を見つけて座り込む。気だるそうなアナウンスと共にドアが閉まり、車輪の軋む音を響かせて走り出した電車の窓から外を見つめ、ぼんやりと意識を思考の中へと落として行く。
あれから、三日が経っていた。
あの日。錯乱していた自分を黒須さんが助けてくれたあの日から、三日。
あの日以来、二人の見た目的な関係はほとんど変わっていない。いつものように昼過ぎに起きれば黒須さんはいるし、夕方の五時過ぎになれば帰って行く。それまでと何ひとつ変わらない関係。それまでと何の変化も無い日常。しかしそれは、あくまで「表面的」なものであった。
起きて最初に黒須さんと視線が合った時の空気。チェアーに並んで座ってゲーム実況動画を見ている時の距離感。帰り掛けにグーパンチをした後にこっちを見上げる時の黒須さんの表情。表面的には、いつもと変わらないはずだった。はずだったのに、そこには、確かな違和感があった。
互いに何かを遠慮しているかのような空気、肌が触れ合うくらいの距離にいるのに大きな壁があるかのような距離感、悪戯に笑っている表情の向こうに漂う心配そうな気配。いくら馬鹿な自分でも判った。気づかないでおこうと思っても無理だった。まるで精密な機械の歯車が、ほんの少しだけズレているような感じ。ズレているだけで壊れてはいない。ちゃんと動いている。動いているのだが、それは正常ではなかった。
こうなることを望んだ訳ではなかった。当たり前だ。誰が好き好んでこんな関係を望むものか。だけど、どうすれば関係が元通りになるのかが、まったく判らなかった。切っ掛けが無い。この三日間、あの日のことには一切触れていない。切り出す勇気が無かったし、どう切り出していいのかも判らなかった。
左の手首には、今もまだ、うっすらと切り傷が残っている。
――……今ここで世界が滅びたら、……おれたちは、このままずっと、一緒にいられるのかな。
黒須さんはあの日、震える声でそう言った。
その言葉の意味もまだ、尋ねることが出来ていない。
電車が目的の駅に辿り着く。人の波に流されるようにプラットホームに出た。そのまま階段を下って迷路のような通路を経て改札を抜け、人がごった返す駅前に足を踏み出す。人が多い。今日が何曜日なのかは思い出すことが出来ないが、休日ではないことは確かだ。にも関わらず、どこにでも人がいる。この駅前は、この辺りでも一番大きな繁華街だった。
ゆらゆらと夢遊病のような足取りで歩いて行く。行き交う人の二割くらいがこっちを不思議そうな顔で見て通り過ぎるのが判る。自分は今、そんなに変な顔でもしているのだろうかと少しだけ心配になるが、表情を取り繕うだけの空元気すら湧き上がって来ない。この三日間、黒須さんが帰って行ってしまってからは、大体いつもこんな感じだった。
胸がモヤモヤする。思考がまったくまとまらない。
大きなため息を吐き出しながら、目的のデパートまで向かって歩いて行き、
唐突にクラクションを鳴らされた。
本当にすぐ近くで鳴らされたせいで思わず息が詰まりそうになった。
慌てて状況を確認すると、目の前には黒塗りの高級車が居て、どうやら自分はその車の国道からの右折の進行を妨げてしまったらしい。ぼーっとし過ぎていてまったく気づかなかった。小さく頭を下げつつもすぐさま道を引き返して道を譲る。運転席に座っていたスーツを着た三十代か四十代の男性が小さく手を上げてくれたので、それにもう一度だけ頭を下げた。
高級車は静かなエンジン音を響かせながらゆっくりと目の前を横切って行く。
無意識の内に、視線がその後を追っていた。
高級車が入って行ったのは、この繁華街で一番大きいホテルだった。そこはいわゆる「高級ホテル」と呼ばれるヤツで、普通に生きている身分の人間では、絶対に足を踏み入れるような機会も無いような場所である。実際、今までにこの前を何度も通ったことはあるが、泊まったことは愚か、ロビーに入ったことすらなかった。一晩泊まっただけでもウン十万も請求される、というのがもっぱらの噂のホテルであった。
意識していた訳では無かった。何かを感じ取った訳でも無かった。
ただ何となく、ゆっくりとホテルの前に停まった黒塗りの高級車を、なぜだか無意識に見つめていた。
このまま生きていれば、きっと乗ることなんて未来永劫無いような高級車である。ほとんどフルスモークで、埃のひとつもついていない。ホテルのエントランスの明かりにメタリックブラックの車体が綺麗に反射している。やがてその車の運転席から、先ほどこちらに手を上げてくれた男性が降りて来て、そのまま数歩だけ移動した後、後部座席のドアを外から開けた。よくドラマとかである役回りだ。あの人はつまるところ、中に入っている要人をエスコートする運転手とかドアマンとかそういう類の役割の
後部座席から、僅かに光を反射する綺麗な黒いドレスを来た一人の女の子が降りて来た。
人形のような女の子だった。真っ黒なドレスと、真っ直ぐに下ろした髪。遠巻きから映画のワンシーンを見ているかのよう。スーツの男性が僅かに頭を下げながらその女の子をエスコートする。女の子がゆっくりと車から降りて行く。本当に、人形のようだった。雰囲気や外見もそうであるのだが、何よりもその表情がまったくの無表情で、精巧に作られた人形のような、
凍りついた。
何も考えられなかった。
周囲の雑音が遠くに引いていく。
見覚えがあった。いつもの活発そうな女の子らしい無防備な服装を着ておらず、トレードマークのようなポニーテールを下ろしてはいるが、間違いなかった。間違えるはずもなかった。
この一ヶ月、毎日のように見ていた女の子が、そこにいた。
黒須さんだった。
遠巻きにその光景を、まるで別世界のように見ていた時、
黒須さんが、こちらの視線に気づいた。
その瞬間、黒須さんは一瞬だけ驚いて、そして状況を理解すると同時に泣き出しそうな顔になって、しかし気づいた時にはまったくの無表情に戻っていた。本当に瞬きをしたら終わってしまうような時間の中、黒須さんは確かに、そんな表情をした。
色のない瞳と見つめ合ったまま、数秒が経った。
黒須さんの脇に立っていたスーツの男性が少しだけ首を傾げ、
「どうされました?」
視線が外れ、黒須さんは前に向き直る。
「――いいえ。何でもありません」
黒須さんが車を離れ、スーツの男性と共に、ホテルへと足を踏み入れて行く。
その光景を、ただ呆然と、見ていることだけしか出来なかった。
黒須さんの見せた表情が、いつまでも脳裏に焼きついて離れなかった。
◎
走馬灯のように夢を見た。
一緒に過ごしたこの一ヶ月のことを、まるで幻だったかのように夢に見た。
考えてみれば、随分と久しぶりだった気がする。あんなに自然に一緒にいて、あんなに自然に喋って、あんなに自然に笑ったのは、本当に久しぶりだった気がする。母が再婚して世界がめちゃくちゃになったあの日以来、誰かと一緒にいて、誰かと喋って、誰かと笑い合ったことは、記憶に無かった。そうするだけの余裕も勇気も無かった。そしてあの決定的な日以降、それをするだけの資格が、自分からは完全に欠落してしまっていた。なぜなら、自分の中にはもう一人の自分がいて、そいつがいつ、その「誰か」に向かって牙を剥くか判らなかったから。いつまた、もう一人の自分があの時と同じことを繰り返すか判らなかったから。
だから、誰かと関わることを止めた。だから、一人でいようと思った。どれだけ吐こうとも、どれだけ泣こうとも、それでも誰にも頼らず、それでも誰にも寄り添わず、一人でいようと、そう思っていた。そうすることで、見知らぬ「誰か」のみならず、自分さえも守っているのだと思っていた。殻に閉じ篭ることで誰も傷つけず、誰にも傷つけられないよう、一人でいようと、決めた。
だけど、そんな時だった。
あの人は、真っ向からそれを一蹴してしまった。
殻を何の遠慮も無くぶっ飛ばして、手を差し伸べてくれた。
初めて、人に背中を押された気がした。初めて、あの日のことを「よくやった」と褒めてもらった。それだけで、どれだけ救われただろう。それだけで、どれだけ感謝しただろう。先の見えない暗闇の中でもがく自分に、あの人は手を差し伸べてくれた。そして掴んだ手をしっかりと握り締めて、引っ張り上げてくれた。暗闇はいつしか、本当の光に照らされて、見えなくなっていた。
錯乱したあの日。一瞬の隙を突いて影がその姿を再び見せたあの日。
あの人は、ただずっと、一緒にいてくれた。
縋って泣くこの自分を、抱き締めてくれた。
でもそれが、たぶんすべての原因。あの日を境に、全部が変わってしまった。
空気、距離感、気配。痛いくらいに判る、隔たり。
そして、初めて垣間見た、あの人の「現実」。
あの時、どうして貴女はあんな表情をしていたんですか。
あの日、どうして貴女はあんなことを言ったんですか。
一番近くにいると思っていたあの人は、実は一番遠い存在だった。
でも、
玄関の鍵が回る音に気づいて目を開けた。時刻は朝の八時半を六分だけ過ぎていた。
ドアがゆっくりと開き、微かな物音に混じって「……じゃまします」という聞き慣れた声がした。足音が近づいて来る。それに合わせるかのようにベットの上で身を起こし、視界に入って来るのをじっと待つ。やがて気配が近づいて来て、見慣れたその姿が視界に入った。英語で何かが書いてある長袖の白のシャツとデニムのミニスカート、さらさらの髪は後ろでまとめられたポニーテール。いつもの無防備な格好の黒須さんが、そこにはいた。
視界に黒須さんが入ると同時に、起きているこちらに気づいて動きが止まる。
無言の一秒が過ぎた後、笑った。自然に笑えていたと思う。
「――おはようございます、黒須さん」
また一秒の間があった後、黒須さんは視線を外してぶっきら棒に一言だけ返事をする。
「……おう」
そのまま歩いて行って、チェアーの上に座り込んで胡坐を掻き、PCの電源を立ち上げる。
ベットから歩み出る。台所の方へ歩きつつ、
「黒須さん。朝御飯に食パンを食べませんか。昨日食べたくなって買ってみたんですけど」
「……おー、マジか。珍しいなお前が朝飯なんて」
「たまには食べますよ。どうしますか?」
「じゃあ食べる。でも、なんかモーニングに合う飲み物とかあんの?」
「え。麦茶じゃ駄目なんですか?」
「お前ふざけんなよ。モーニングに麦茶とか舐めてんのか」
「えー……。あ、じゃあ椎茸茶とか、」
「ぶっ飛ばすぞ。それもお茶だろ」
「……じゃあ、えーっと……あ。牛乳ならありますよ」
「牛乳……まぁ、それでいいか」
「牛乳は身体にいいんですよ。黒須さんが飲んだら大きくなりますし」
「おい。ひとつだけ聞くぞ。それはおれの身長の話してんのか、それとも違うところの話してんのかどっちだ」
「……」
「いい度胸だ。お前あとでちょっと来い。本気でぶっ飛ばす」
昨日買ったデパートの袋の中に置きっぱなしにされていた食パンをオーブンへ入れてスイッチを回す。その間に冷蔵庫から牛乳を取り出し、一応賞味期限を確認してから二つのコップに注ぐ。そこでふと、
「そう言えば、パンには何を塗りますか?」
「何があんの?」
「バターだけですよ」
「じゃあ聞くなよ」
「すみません」
焼き上がった食パンにバターを塗り、小さなトレーに牛乳と一緒に載せて持って行く。床にあるテーブルの上にトレーを載せて一息着き、いつものようにPCを弄くっている黒須さんに声を掛ける。
「出来ました」
「サンキュ」
チェアーから降りた黒須さんがこっちへ来て、テーブルの向かいに腰掛ける。
二人揃って「いただきます」と言ってからバターの塗られた食パンを食べる。
「久々に食べましたけど、いいものですね」
「ちゃんとした食生活をしろよ」
「ニートなんで……すみません」
「身体壊しても知らねーぞ」
「看病してくれないんですか」
「何でおれがお前の看病するんだよ面倒臭え」
「でも黒須さんなら何だかんだ言ってしてくれそうですよね」
「しねえよチンカス。ぶっ飛ばすぞ」
「あ。モーニングと言えば玉子焼きってのもありですよね」
「……もうちょっと早く言えよ。そしたら、」
「また作ってくれるんですか?」
「咽たチンカスには絶対に作らない。死んでも作らない」
「あれはすみません……。でも、美味しかったですよ、あの玉子焼き」
「…………ありがと」
「いえ。こちらこそありがとうございます」
「トオノキ」
「はい」
「――なんで何も聞かないの?」
「――ぼくからは何も聞かないですよ」
「…………なんでだよ」
「だって、黒須さんがそうだったじゃないですか」
まるでこちらを怯えるかのように見つめて来る黒須さんを、真っ直ぐに見据え返す。
決めていた。知りたいこと、聞きたいことは山ほどあった。でも、それをこっちから聞くことは、絶対にしない。今までそうだった。黒須さんは絶対に、こっちに対して詮索はしなかった。なぜなら詮索することに、意味など無いからだ。自分から言って初めて、その言葉には意味が宿る。自分から言って初めて、それは本当の言葉となる。詮索しないと言って来ないのであれば、それは言うに足りないことか、あるいは、相手を信頼していないからこそ言わないことである。
今ならはっきりと言える。
自分は、黒須さんを信頼していた。誰よりも、何よりも。目の前のこの人を、ただ、信頼していた。
だから今度は、黒須さんに、こっちを信頼して欲しかった。
そう思うからこそ、こっちからは絶対に詮索しないと決めた。
怯えた瞳を真っ直ぐに見つめたまま、ただ時間だけが過ぎて行く。
そんな中で唐突に、黒須さんがため息を吐いた。食べかけの食パンをテーブルに戻して立ち上がり、チェアーに座り込んで胡坐を掻く。マウスを握ってカーソルを移動させ、ブラウザを開きながら、何の前触れも無く、黒須さんが言った。
「長くなるぞ」
「はい」
「ものすっごく、長くなるぞ」
「はい」
「お前を、傷つけるかもしれないぞ」
「はい」
そして再びのため息の後、僅かに間を置いて、唐突に、
「――おれさ、結婚すんだって」
まるで他人事のように、黒須さんはそう言った。
「ついでに簡単に言うと、おれって実は大企業の社長令嬢ってやつなんだよ」
すげーだろ、と。
本当に、まるで他人事のように、黒須さんはディスプレイを見つめたまま言葉を吐いた。
「大企業ってあれだぜ、お前みたいな社会出たことのないニートでも知ってる、超一流の超大手の超大企業。んで、相手もそんな感じの大企業の跡取りのボンボン。聞いて驚けよ、相手の男、三十超えてんだぜ? 十一歳と三十四歳ってなんだよ、お前よりおっさんなんだぞ。お前と一緒だよ、ロリコンだよロリコン。あー、なんだっけ、あれだよ、政略結婚?、だっけ? とりあえず会社をもう一回大きくするために、おれとそのおっさんが結婚すんだって。ただほれ、おれってまだ十一だろ? 法律的に結婚できないじゃん? だからとりあえずは許婚なんだってさ。お前信じられるか? このご時世に許婚だぜ、いーなずけ。笑っちゃうよな」
笑いながら黒須さんは言葉を吐き続ける。
笑いながら、黒須さんは、言葉を吐き続ける。
「そんな話は前から聞いてたんだけどさ、実際マジだと思わないじゃん? だからおれもそうなんだー、すごいねー、みたいに構えてたらさ、ほれ、あの日だよ。お前が泣いていたあの日。用事あるっつって、おれ来たの夕方くらいだったろ。あのちょっと前にさ、いきなりその話が本格的に決定したらしくてさ、あの日呼び出されてて、こっちと向こうの偉い人いっぱいの中で初めてご対面したわけ。そらもうおっさんだよおっさん。びっくりするくらいおっさん。普通なら未来永劫、おれが関わらないであろうおっさん。んでまぁ、相手おっさんなのにトントン拍子で物事が進むわけよ。ほれ、おれって家では超絶に良い子ちゃんじゃん? 口答えとか一切しないじゃん? だからまぁおれが何も言うことなく全部決まったわけ。面白いくらいにさっくり決まったわけ。んで決まったはいいけどさ、おれは別に良いよとも嫌だとも言ってないじゃん? なんでそんな簡単に決まるのか訳わかんなくなってさ、適当に嘘ついてお爺様にお願いして逃げてここに来たらさ、お前包丁持って泣いてんじゃん? そんなお前を見るとさ、あー、こいつはやっぱりおれが傍にいないと駄目なんだって思うわけよ。あー、おれはやっぱりこいつの力になってやりたいって思うわけよ。んで、そう思っちゃうとさ、あー、やっぱり好きでもねえおっさんと結婚なんてしたくねーなー、とかも思っちゃったりしてさ。お前抱き締めながら考えてたらふとアイディアが出たわけよ。閃きだよ閃き。そうじゃん、じゃあもういっそ世界滅べばいいんじゃね、って。そうしたらおれは結婚しないでいいし、なんかこのままずっと一緒にいられるような気がしたわけ。でもそんな簡単に世界が滅びたら今まで何回この世界滅びてんだよって話でさ、やっぱり滅び無いわけよ、世界って。んで昨日だよ昨日。再度ご対面の時間だったんだけどさ、そこでびっくりしたことがあったわけ。もう予想すらしてないことがあったわけ。なんでお前があそこにいんだよチンカス。お前みたいな庶民が来るとこじゃねえだろあそこ。なんでお前いんだよ。びっくりし過ぎて泣きそうだったわ。ふざけんなよお前マジで。危うくお前に縋って泣くとこだったわ。もうちょっとでおれの良い子ちゃん擬態が壊れるかと思ったわ。マジぶっ飛ばすぞチンカス」
黒須さんは笑って言葉を吐き続けていた。
震える手でマウスを握り、ただ笑って、虚空を見つめる瞳で、言葉を吐き続けていた。
「ところでさ、話は変わるんだけどネットってすごいよな。初めてネットしたのって確か小四くらいだったと思うんだけど、勉強でわかんないところを調べようと思って初めて触ったわけよ。んで勉強のためにしばらくネット使ってたんだけどさ、ある日偶然に、お前と初めて会ったあそこに飛んだんだよ。したらすげえのなんのって。もうみんな死ねとか殺すとか平気で言ってんじゃん? 当時のおれって超絶に良い子ちゃんだったじゃん? だからなんか子供ながらの正義感ってあるじゃん? だから言ったんだよ。そんなこと言っちゃ駄目だよって。そしたら袋叩きにされた。1対10とかそんな可愛いもんじゃなくて、1対100、200とかそんなレベルの袋叩き。泣いたよ。本気で泣いた。一週間くらいずっと寝込んでた。でもさ、なんかこう、腹立つじゃん? このまま見過ごせないって。やられたままで終わってたまるかってムキになるじゃん。そこから小さな子供の戦いが開始されたわけ。見えない100人200人、下手すりゃ1000人以上を相手に戦争を申し込んだわけ。でもさ、そうこうしてるとさ、いつの間にかいろいろ判ってくるじゃん? ああ、ここはそういう場所なんだって。ああ、ここは言いたいことを言っていい場所なんだって。んで、気づいたらいつの間にか、ムカついてたはずの連中にすっかり馴染んでた。いつの間にかおれもその中の一人になって、そんなこと言ったら駄目なんだよとか言う馬鹿を叩いてた。でもそんなある日、鉄壁の良い子ちゃん擬態を装備してたおれは、気づいちゃいけないことに気づいちゃったわけよ」
「おれさ、自分の口で死ねとか殺すとかそんな悪い台詞、それまで言ったことなかったんだよね。言ったらたぶん叱られるとかそんなレベルの話じゃなくなるの判ってたから。でもさ、ネットの中でのおれは平気で死ねとか殺すとか言えるわけ。普段なら絶対に言えないような台詞を、ものすごく自然に言えるわけ。そうするとさ、もうそれが楽しくて楽しくて仕方が無いわけ。そんな状態が続くとさ、もう混乱してくるんだよ。どっちが本当の自分なのか、全然判んなくなるの。言いたいことも言えずにただ頷いて敬語で話すのが本当の自分なのか、言いたいことを言って笑いながらタメ口で話すのが本当の自分なのか、もう判らなくなってくんの。頭の中はもうぐっちゃぐっちゃでさ、でもどうしてもやめられなくて、そうこうしてる間にもネット世界での自分がどんどん大きくなってくんだよ。いつの間にか生まれたもう一人の自分が、いつの間にか本当の自分になるような勢いで大きくなってくんだよ。もうどっちが本当の自分だったのか判らなくなって混乱してる時にさ、なんか偶然に、変なヤツに会ったんだよ」
「なんかおれとは正反対のヤツでさ、なんかぼーっとしててネットのくせに敬語で話す変なヤツ。本当のこと言うと、おれそいつ大っ嫌いだったんだよ。ウジウジしててなんかみみっちくて、本当に大嫌いだった。でもさ、だからちょっとからかってやろうと思ったわけ。なんか面白い話聞き出して、それネタにコテンパンに叩いてやろうと思ったわけ。そのためにやりたくもねー対話とかしてさ、暇潰しを謳歌してたわけ。でもさ、そんな内に気づいちゃったんだよね。ぼーっとしてて敬語で話してウジウジしてるチンカスみてえなヤツだったんだけど、そいつさ、おれに出来ないことやってたんだよ。おれが生まれ変わっても出来ないようなことを、やってたんだよ。そいつさ、自分の敵を、自分でやっつけてたんだよ。自分の力だけで、やっつけてたんだよ」
「正直な話、すごいと思った。おれには絶対に出来ないことを、こいつはやったんだって。そう思ったら急になんか憧れみたいなもんが出て来てさ。もうネタとかそんなの抜きにして、もっとこいつと喋ってみたいと思うようになった。そしたらなんか急に親近感みたいのが湧いて来てさ、急にすげえ楽しくなって来た。でもそいつ、自分で敵をやっつけた時になんか大きな傷負ったみたいでさ、それで苦しんでんの。そういうの聞いちゃうとさ、おれはやっぱり根は良い子ちゃんだから助けたいって思うじゃん。何とか力になりたりって思うじゃん。だから頑張った。そいつが元気になれるよう、頑張った。憧れてるそいつが元気になれば、おれも嬉しかったから、頑張った」
「でも困ったこともあってさ。おれはそいつに憧れてるのに、なんかそいつもおれに憧れてんの。おれなんもしてないのに、なんかそいつはおれに憧れてる。意味わかんねえだろ? でもさ、なんかそれを否定しちゃうと関係壊れちゃいそうだったから、おれはおれなりに、そいつの憧れを精一杯演じたわけ。子供ながらに精一杯頑張ったわけ。涙ぐましく頑張ってたわけ。でもそれが嫌だったわけじゃない。そいつと喋ってるの楽しかったし、そいつと喋ってるとさ、曖昧な感じで出来てたネット世界のおれが、どんどんちゃんとした形になってく。もうそれが本当のおれみたいに、いつの間にかしっかりとした自分が、そこにはいたんだよ」
「でもどれだけ経っても、そいつの傷はなかなか癒えないわけ。頑張っても頑張っても無理なわけ。だったらもう最終手段しかないじゃん。直接会って治すしかないじゃん。でもおれ超然良い子ちゃんだからさ、ネットで知り合った見ず知らずの人間と会うなんて言えないじゃん? だから父さんと母さんには言わないで、お爺様に言ったんだよ。ほれ、おれって大のお爺様っ子じゃん? だからお爺様に正直に全部言って、助けてもらった。お爺様はやっぱりお爺様だから、あの家で一番偉いわけ。誰も逆らえないわけ。そんなお爺様がおれは大好きだから頼んだわけ。でもあれなんだぜ、お爺様って超恐いの。もうびっくりするくらい恐いの。おれが駄目なことした時とかさ、父さん母さんは怒鳴ったりするんだけど、お爺様は違うの。無言でこっち来てビンタ。おれが吹っ飛んで大泣きするくらいのビンタ。んで、それだけ。ビンタだけして、何も言わない。それからも何も言って来ない。ビンタされると一週間くらいずっと痛くてずっと泣いてた。最初は恐いのもあるんだけどさ、でもだんだん腹立ってくるの。腹立ってくるんだけどさ、よく考えると悪いのはどう考えてもおれなわけ。どう考えても悪いのはいつもおれなわけ。だから勇気を出してお爺様に謝りに行く。泣きながらお爺様に謝りに行く。ごめんなさいって。するとお爺様もさ、なんか急に泣くわけ。泣きながらごめんな、って。叩いてごめんな、って。謝ってくるわけ。二人で泣いた後はいっつも、美味しいデザートをご馳走してくれた。そんなお爺様が大好きだった。だからお爺様に正直に全部言って、助けてもらった。憧れてるヤツ助けるために、協力してもらった」
「わざわざ車で一時間も掛かるとこまで送ってもらってさ、おれは遥々そいつに会いに行った。でもさ、そいつがどんなヤツかまったく知らないわけじゃん。性別も歳も顔も何も知らないわけじゃん。それに知っての通りおれって極度の人見知りじゃん? だからアパートの前に着いた時なんか足がくがく震えてた。恐いヤツだったらどうしようとか、本気で思ってた。でもやっぱり会いたいじゃん。力になりたいじゃん。だから勇気出して一歩を踏み出したわけ。頑張ってそいつが憧れるおれを演じながら、一歩を踏み出したわけ」
「したら出て来たの、なんかもうびっくりするくらい想像通りのヤツでさ。弱そうなウジウジしてそうな、それでもなんか優しそうなヤツでさ。でもやっぱり警戒はするじゃん。でも警戒しながらも何とか頑張るわけよ。カップラーメンとか実は初めて食べたんだよ。割箸なんて使ったこともなかった。でも頑張った。カップラーメンは美味しかったけど。で、ずーっと頑張ってたせいか、ベットに寝転がった時になんかほっとしちゃってさ。そいつのことちらちら見てたんだけど、気づいたらいつの間にか寝てて、迎えの時間五時なのに完璧寝過ごしてお爺様に怒られた。人を殴ったのも初めてだった。殴るの本気で恐かった。でも手加減したら駄目だと思ったから、本気で殴った。足震えてるの気づかれてないかドキドキした」
「帰りの車の中でさ、景色眺めてたらなんかふと思ったんだよ。なんか居心地良かったなー、って。なんつーのかな、なんかこう、落ち着ける場所だったんだよ、そこ。いろんなことが初めて尽くしだったけどさ、でも何しても怒られなかったし、なんか初めて自然にいろんなことが出来る場所だったんだ。おれの中で生まれたもう一人のおれが、本当に自然といられる場所だったんだよ。だから次の日また行きたいなー、って思った。それをお爺様に話したら行って来いって言われた。だから行くことにした。それからほとんど毎日、そこに行ってた。自分でちゃんと勉強するなら、学校もしばらくは行かないでいいってお爺様が言ってくれたから、学校行かないでそこにばっかり行ってた。今にして思えばさ、お爺様はこうなること最初から判ってたから、おれの我侭を聞いてくれてたのかもしれない」
「でも、それでも、――楽しかった。いろんなことが、初めてするいろんなことが全部、本当に、本当に、楽しかった。でもさ、いろんなことが楽しいんだけど、その楽しいにはちゃんとした理由があったんだよね。弱そうでウジウジしててチンカスみたいなヤツだったんだけどさ、でもすごく優しくて。そんなヤツだったけどさ、やっぱりおれはそいつといることが、いちばん、楽しかった。……いちばん、楽しかったんだよ」
「で、そんな時に結婚の話ですよ。もう世界滅べばいいって思うわけですよ。何とかいろいろ頑張ろうとしたんだけどさ、やっぱり駄目だった。おれだけじゃ敵は倒せなかった。お爺様にお願いしても無理だった。お爺様にすまないって泣きながら謝られた。じゃあもうおれに出来ること何もないじゃん。もうゲームオーバーじゃん。五年後に結婚して、おれはゲームオーバーじゃん。世界滅ぶ前に、おれだけが勝手に滅んでんじゃん」
「だからこれで最後。今日で、そいつと会うのは最後なわけ。これ以上会うと、たぶんもうおれが壊れちゃうから最後なわけ。これ以上はもう、おれがそいつを好きなんだって気持ちが隠し通せなくなるから最後なわけ」
「おれの話は、これでお終い。」
「だからトオノキ。」
「ごめん。」
長く、長く、言葉を吐き続けていた黒須さんが、そう言って、泣いた。
小さな手でマウスを握り締め、細い肩を震わせて、俯いたまま、ただ静かに、泣いた。
そんな黒須さんを見つめたまま、自分の手を強く握り締めた。
強い人だと思っていた。あの時、ネット便所の掃き溜めのような場所で出会った黒須さんは、強い人だと思っていた。自分の世界を一蹴してしまった黒須さんは、誰よりも何よりも強い人だと、そう思っていた。――いつからだろう。それが『そう』なのだと信じて疑わなかったのは。黒須さんは絶対的なアニキ分で、自分が唯一頼れる人なのだと思い込んでいたのは。
黒須さんにとって、自分にそう思われることは、それは嬉しいことであると同時に、たぶん、何よりも重い重圧だったのかもしれない。黒須さんを一番苦しめているのは、果たして何だったのか。果たして誰であったのか。そんなこと、今まで考えもしなかった。手を差し伸べて引っ張り上げてくれた黒須さんは、いつまでもそこに揺るがないでいてくれているのだと、そう、愚かしくもどこかで思っていた。
暗闇の中を彷徨っていたのは、同じだった。
黒須さんもまた、暗い世界の中に閉じ込められていた。
そのことに今、ようやく、気づいた。
――なら。なら、今度は。
立ち上がる。俯いて泣く黒須さんの傍まで歩いて行く。
すぐそこに、小さな身体がある。この小さな身体で、この人は一体、これまでにどれだけのものを背負って来たのだろう。
黒須さんはあの時、ただ、抱き締めてくれた。だから、今度は。
震える肩に手を添えて、そっと抱き寄せる。立ったまま、チェアーに座った黒須さんを精一杯優しく抱き締めた。俯いた頭が胸に当たる。そこから震える身体の感覚がこっちにまで伝わってくる。
いつも励ましてくれていた。それが例えどのような形であれ、自分はそれに救われた。感謝してもし足りないものを、ずっとずっと、貰っていた。過程がどうだとかは関係ない。あるのは黒須さんに励ましてもらったからこそ、今の自分がここにいるという結果。それだけでいい。それだけが、真実。
だから。
嗚咽に混じって、黒須さんがつぶやく。
「……、っ、トオ、ノキっ……」
搾り出すように、黒須さんは言う、
「……けっ、こん、っ、なんて……っ、したく、っ、したくないっ、よ……っ」
本音。知り合って初めて聞く、黒須さんの、本音。
それは、信頼の、証。
「……ねえ、っ……トオノっ、キ……」
そして言葉にする、相談。
「……おれ、はっ……どうっ……すれ、ばっ、……いいっ……?」
それはきっと、今までずっと言わなかった相談。
そうだった。同じだった。
自分達は、親にとって、ただの玩具だった。ただの人形だった。殴られるためにそこにいた自分。会社を大きくするためだけにそこにいた黒須さん。拒否権なんて無かった。拒否することは出来なかった。周りはいつの間にか暗闇になっていた。とてつもなく巨大な黒い影が世界をしていた。その影が支配する世界に対して、助けてくれるはずの光は、ついにその手を差し伸べることをやめてしまった。
母さんもそうだった。黒須さんのお爺様もそうだった。
責めているんじゃない。今でも母は大好きだ。黒須さんだってそうだろう。でも、だからこそ、辛い。最初から暗闇だったらよかったのだ。最初から光なんて知らなければ良かったのだ。光を知っているからこそ求めてしまう。光を知っているからこそ希望を見出してしまう。そうであれば最初から光なんか知らなければ良かったのだ。光なんかを知っているからこそ、どうすればいいのか、暗闇の中で考えてしまう。
もがいた。先の見えない暗闇の中、ただひたすらに、もがいた。
そして、『トオノキ』は『黒須』に出会った。
そして、『黒須』は『トオノキ』に出会った。
小さい光だ。互いに、本当に消えてしまいそうなほど小さい光だ。
でも、それは暗闇の中ではあまりに眩しくて。思わず縋ってしまうほど眩しくて。
偶然にも出会ったこの暗闇の中で、いつしか二つの光は大きくなり、世界を照らそうとしていた。
いつしか光は、互いを求めるようになっていた。
あと少しで、二人はこの影の世界を、抜け出せるはずだった。
自分にとって、黒須さんがいてくれれば影の世界が壊れるように。
黒須さんにとっても、自分がいれば影の世界が壊れるように。
かつて黒須さんが手を差し伸べてくれたように、今度は、こっちから手を差し伸べよう。
「黒須さん」
泣き続ける黒須さんの頭に手を添え、そっと髪を撫でた。
さらさらの髪だった。そこから仄かに香るシャンプーの匂い。
それは、黒須さんの匂いだった。
「……五年だけ、待っててくれませんか」
たったそれだけで辿り着ける保障なんてどこにもない。辿り着けない可能性の方が遥かに高い。でも、今はきっと、それしかない。今の自分では、黒須さんを暗闇から引っ張り出すことは出来やしない。黒須さんの影の世界を壊すことなんて出来やしない。この手を引いて連れ出すことは簡単だ。どこまでも黒須さんの手を引いて歩いて行くことは可能だ。でもそれでは駄目だった。それでは黒須さんを覆い尽くす影の世界は壊れはしない。それではいつまでも、黒須さんは影の世界に囚われたままだ。それでは、黒須さんとの距離は、いつまでも近づきはしない。
一番近くにいると思っていた黒須さんは、本当は一番遠く離れた場所にいた。
だったら、そこへ行こうと思う。黒須さんのいる場所まで、歩んで行こうと思う。
「五年以内に、貴女の周りが納得するような人間になって、ぼくが黒須さんを迎えに行きます」
今は偶然にも交わった二人だった。
ここが偶然にも交わった二人だけの場所だった。
だから今度は偶然じゃなく、ちゃんと歩んだその先で。
遠く離れたこの先で、二人が再び交わるその場所で。
「ぼくは貴女を幸せに出来るかどうかは判りません。でも、ぼくは貴女といると幸せです」
だから、
「だから、迎えに行ったその時は、――ぼくと、ずっと一緒にいてくれませんか」
世界が滅んでも滅ばなくても。
ずっと一緒にいられるのだということを、証明したかった。
どこかで聞いたような台詞だった。それでも、精一杯の告白であった。
結婚してください、とは、今はまだ、さすがに言えなかった。
それから、黒須さんは何も言わず、ただ静かに、泣いていた。
やがて泣き声が小さくなった頃、ぽつりと、黒須さんが俯いたまま、こうつぶやいた。
「………………ロリコン」
胸に抱いた小さな身体を見つめながら、思わず苦笑してしまう。
「そうじゃないですよ。ぼくが好きになったのが、たまたま十一歳の女の子だった。ただ、それだけです」
鼻を啜る音がする、
「……約束破ったら、ぶっ飛ばす……」
「はい」
「本当に、本当に、ぶっ飛ばすからな……」
「はい」
「…………トオノキ」
「はい」
「…………キスして」
「はい。…………え?」
◎ ◎ ◎ ◎
腕時計で時刻を確認する。
針は十六時十二分を指していた。
もうそろそろだとは思う。たぶん。
すでに下校は開始されているらしく、何人もの学生が校門を出て、迎えに来ていたびっくりするくらいの高級車に乗ってそれぞれが帰路に着いて行く。さすがに場違いであるのは判っているのだが、ここまで来たら今さら後には引けない。さっきからずっと学生と校門に立っている警備員の視線が痛いが何とか我慢する。それを耐えるくらいの精神力は培ってきたつもりである。でもそれでもやっぱり限界はあるもので、とりあえず早く来て欲しいと願い続ける。
夏も終わりとは言え、さすがにスーツ姿では暑い。
襟元を少しだけ弛める。小さく息を吐く。
見上げたそこには、漫画の世界のような校舎がある。校舎と言っていいのかは正直よく判らないが、高校生が授業を受ける場所なんだから校舎なのだと思う。ただ自分が知っている限り、こんなに綺麗でこんなに大きくてこんなに恐ろしいまでに送迎の高級車が駐車場に並ぶ高校は見たことが無い。まるで別世界である。そんな別世界の中で、ひ弱そうなスーツ姿の男が校門の前でガードレールに凭れ込んでぼーっとしていたら浮くに決まっていた。通報されても文句は言えないと思う。通報されたら物凄く困るけど、文句は言えないと思う。
やがて、見上げるほど大きい立派な校門を潜って来る学生の中に、ようやく目的の人を見つけた。
さすがに五年も経てば随分と変わってしまっているが、それでも一目で判った。この五年間、一日足りとも忘れたことはなかった。服装は高校の制服だし、髪もポニーテールではないが、見間違えるはずもない。
じっと見ていると、向こうがその視線に気づいた。
何の表情の変化も見せないまま、歩いていた方向を少しだけ変え、彼女がこっちへ歩いて来る。ガードレールから身体を離して、すぐ目の前まで来た彼女と向かい合った。
あの約束をした日から、ちょうど五年ぶりの再会だった。あの日の出来事が、本当に遥か昔に思える。遥か昔に思えるくらい、あれからいろいろなことがあった。言いたいことや聞いて欲しいことは山ほどあった。しかし今は、それらを押し退けてでも言わなければならないことがある。どうしても、これだけは、言わないといけない。
見つめ合ったまま、笑った。上手く笑えていたと思う。
「制服、似合ってますね」
彼女は何も言わず、いつかに見たような無表情でこちらを見つめている。
笑うことをやめた。
そして、頭を下げた。
「――すみません。間に合いませんでした」
頭を下げながら、そう言った。
「大学にも行き直して、資格も出来得る限り取って、社会に出て大声を出しても恥ずかしくないくらいの会社にも入りました。でも、社会に出て初めて、貴女のいる場所がどんなに高いのか、どんなに遠いのか、ようやく思い知りました。貴女の場所までは、ぼくじゃたぶん、死んでも辿り着けないと思います。五年なんて無責任なことを言って、本当にすみませんでした」
社会に出て初めて知ったこと。
あの頃、自然と笑い合っていたあの女の子は、想像以上に高く遠い場所にいた。
でも。それでも。
顔を上げる。無表情な彼女を見つめ、言い切った。
「それでも、ぼくと一緒にいてくれませんか」
彼女は無表情のままこっちを見つめ続け、やがて、あの頃のように、その名前を呼んだ。
「――トオノキ」
「は」
はい、と言う間も無く渾身のグーパンチが飛んで来た。
五年ぶりのグーパンチだった。あの頃とは、破壊力が桁違いだった。ガードレールに背中から突っ込んだ際に、近場にいた全員が振り返るくらいの音が鳴った。周りでは小さな悲鳴まで上がる中、ぶっ飛ばされた頬が痛みを通り越してただジンジンしている。それでも何とか体勢を立て直して立ち上がろうとすると、足が言うことを聞かずにその場に尻餅を着いた。
頭がふらふらする。目がチカチカする。
目前に立った彼女は、そしてこう言った。
「……約束した時間を、もう五時間も過ぎてる」
「え……? あ、いや、……五時間って、」
「あの日、約束破ったらぶっ飛ばすって言った」
「あ……はい……。それは、憶えて、ます……、でも、」
「でもそれは、わたしも――、……いや、違う。でもそれは、おれも同じ」
「……? どういう、意味ですか……?」
泥酔状態のような足取りで立ち上がりつつそう尋ねると、唐突に、彼女は笑った。
あの頃に見た彼女と、同じ笑顔だった。
「結婚の話、流れた」
一瞬だけその言葉が飲み込めず、
「……え? な、なんでですか……っ!?」
「ぶっ飛ばした」
彼女はさらっと、本当にそう言った。
「え?」
「だから、ぶっ飛ばした」
「……? 何をですか……?」
「おっさん」
「おっさんって……、っ!? まさか許婚にグーパンチしたんですかっ!?」
「うん」
「うんって……っ!?」
「だってお前いつまでも来なかったじゃねえか。なんかそれでムカついてあったまきたから爆発した。結婚の正式契約の場で大暴れしてやった。おっさんぶっ飛ばしたら一発で気絶してた。みんなびっくりしてたけど、むしろおれがびっくりしたくらいだわ。だって弱いの何のって、おれの敵じゃなかったわあのおっさん。あんなに弱いならもっと早くやっとけばよかったって後悔したくらい。でもさ、そしたら父さんと母さんには勘当されちゃった。それで危うく路頭に迷うところを、お爺様に拾ってもらったの。だから今はおれ、あの家の人間じゃなくて、お爺様の隠し子みたいな感じになってる」
意味が判らない。状況がまったく理解出来ない。だけど、
だけど逆に、意味が判らなさ過ぎて、状況が理解出来なさ過ぎて、思わず笑ってしまった。
その時、胸に向かってあの頃より少しだけ大きくなったグーパンチが、とんっ、と置かれた。
視線を向ける。握った手をこちらに預けたまま、彼女が俯いている。
「……でも、どっかのチンカスみてえなヤツがいなかったら、たぶん出来なかったと思う。そいつとの約束がなかったら、たぶんおれは本当に、ゲームオーバーになってたと思う。……約束があったから、頑張れた。本当は、恐かった。すごく、すごく、恐かった。でも、頑張った。頑張って、おれはおれの敵を、ちゃんとやっつけれた。……そいつが、迎えに来てくれるって、……信じてたから」
胸に置かれたグーパンチが、小さく震えている、
「…………来ないのかと思った。もう、…………来てくれないのかと、思ってた……っ」
そして、
「――……今度は、約束……ちゃんと、守れよ……っ」
震える小さな声が、そう言った。
グーパンチを胸に置いたまま、未だにまだ小さく思えるその身体を、ゆっくりと抱き締める。
「……はい。この約束だけは、必ず、守ります」
俯いたまま、静かに泣く彼女を抱き締めながら、ようやく、思った。
遠い昔の約束。
かつて二人のいた遠く離れた場所が、やっと、交わった気がした。
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2011/09/16(Fri)21:15:27 公開 / 神夜
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■作者からのメッセージ
初めましての方は初めまして、お久しぶりの方はお久しぶり、いつも付き合ってくれている方はどうもどうも、「邪道だと思ったか!? 王道だよ!」でお馴染みの神夜です。
そんなこんなで、「遠のきCross Place 「おれの話は、これでお終い。」」です。つまり後編です。何となく題名をこうした方がいい感じに思えそうだったから書いてみた。特に深い意味は無いです。
さて。……いや。いやいやいや。いーや。言いたいことは判っている。判っているんだ。違うんだ。いや違わないけど。いろいろ、本当にいろいろ自分としては葛藤があった訳です。そらもう珍しく。書き上げた後に何回も何回もちょこちょこと修正するとか、神夜には信じられない行動もしている。それほどまでに苦悩溢れる後編なんだ……。
書き上げ後「まぁこんなもんだろ」、一回目読み直し「あれ……やべえ面白くなくね?」、二回目読み直し「あれ……よく見たら普通に面白くね?」、三回目読み直し「あれ、……普通かこれ?」、四回目読み直し「……うん。所詮自分はこんなもんだ。これ以外やりようねえもん」、以下無限ループ。そんなことをしているせいで更新が遅くなり、「4日以内更新を保つ」という、神夜ルールをも破ってしまっている訳です、すみません。
もう膨大な量のあの語りの場面とかさ。本当は黒須視点で物語書こうとも思ってたんだけどさ……それ「ローディ」と一緒やん、とか思ってさ、それやるくらいならもう一気にドバーっとやりゃいいじゃんもうとか思ってさ、あの時はそれが正解だとか思ってさ、そう書いちゃうともうそれ以外考えられなくなってさ、そうこうしている内に物語書き終わっちゃってさ、いろいろ中途半端にして終わっていることとか実は結構あるんだけどさ、でも結局の話さ、この物語で「何がしたかったの?」って言われたらそりゃおめえひとつだろ、美少女小学生とイチャイチャハァハァ出来りゃそれでいいんだよ、うん。
さて。変化球なんて自分の投球にはありません。いつも直球です。ただし序盤から全力投球してるせいで、後半まで保つスタミナは未だにありません。チンカス神夜です。ゴミクズ神夜です。
しかしそれでも、やはり誰か一人でも楽しんで頂ければそれだけで本望と願いながら、神夜でした。
作品の感想については、登竜門:通常版(横書き)をご利用ください。
等幅フォント『ヒラギノ明朝体4等幅』かMS Office系『HGS明朝E』、Winデフォ『MS 明朝』で42文字折り返しの『文庫本的読書モード』。
CSS3により、MSIEとWebKit/Blink(Google Chrome系)ブラウザに対応(2013/11/25)。
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2020/03/28:Androidスマホにも対応。Noto Serif JPで表示します。